ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

減点法の音楽

2006-06-01 15:35:25 | 音楽あれこれ
このところ演奏会や原稿の締め切り、それに講義が続き、ブログどころではなかった。先ほど、ひとまず落ち着いたので書くことにする。

ここ一週間ほどの間に聴いた演奏会で気づいたのは、キレイなだけの演奏は何の面白味もないということ。キレイな演奏というのは、いうなればミスがなく破綻しない演奏をいう。もちろん演奏中に音を外しまくったり、どうにも収拾がつかなくなってしまうのも困りものだ。でも、ソツなくキレイに演奏すれば感動を呼ぶのかといえば、そうでもない。「お上手だねえ」という程度の印象しか残らないものだ。

こうした優等生的な演奏はコンクールではきわめて有利である。彼らはミスはしないし、グチャグチャな演奏になることもないからである。基本的にコンクールってのは減点法で審査されるから減点対象が少なければ少ないほど高得点になる仕組みなのだ。コンクールの上位入賞者がとりあえずみんなお上手に聴こえるのはそういうわけなのである。

では減点法による採点は何を意味するのか。極論してしまうなら芸術性なんて二の次ということ。感動させる演奏ができなくてもソツのない演奏をきちんとすればよいということでもある。いうなれば音楽を数値化して判断出来ればいいんだもんね。ただし、優勝者がみな退屈な演奏をするのかというと必ずしもそうではない。なかには技量はもとより音楽性においても優れたアーティストはいる。そんなに数は多くないけれど。

だから○○コンクールで優勝したという記述があったとしてもその優勝者のレヴェルは必ずしも同一とは限らない。ある者はキズの少ない演奏だったゆえに優勝したのかもしれないし、別のある者は文句のつけようもないほど優れた演奏で優勝したかもしれないのだから。

それにしても、ソツなくキレイに演奏する人の音楽は本当に退屈だ。音を外すような基本的なミスはないからその点でイライラさせられることはない。しかし特別音色に気を配るわけでもなく淡々と演奏するのを聴いていると、一体この人には感情があるのかしらと思ってしまう。別にこの人が演奏しなくても精密な機械仕掛けの楽器でも使って「再生」させればいいではないかなどと意地悪なことを考えてみたり…。

そんなツマラナイ演奏の仕方を教える教師にも問題はある。その「総本山」について、ここで悪口を書いても仕方がないので言及はしない。それに、迂闊に書いたら世界中に散在する「信者たち」から総攻撃を食らう可能性もあるだろうし…(ないない)

ま、冗談は半分にして、とにかく音楽教師がすべき最も重要なことは学生に音楽の素晴らしさを伝え、それをどのように表現したらよいかを教えることである。音を外さないように練習しろなんてのは、はっきりいってどうでもよいこと。そんなのは練習によってどうにでも克服可能なことだからだ。

教師は学生の感受性にさらに磨きをかけるような指導をすべきなのではないか。もしそれができないのなら、そういう人は教えるべきではない。また教師自身に演奏家としての能力があるのなら、具体的に教えられなくても自ら演奏することで手本を示せば良いのだ。そうでないと、学生には豊かな感受性があるのにダメ教師によってその才能はことごとくつぶされてしまうことにもなりかねない。

「総本山」を出てきた者たちが一様に平板な演奏をするのがまさにその例だと思う。もっとも、学ぶほうも途中でその「教義」の怪しいところに気づかないのもどうかと思うけどね。あぁ、まるで宗教だな(苦笑)
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