文字による表現には限界がある。表わそうとするものが複雑であればあるほど、また抽象的であればあるほど、どれだけ多くの文字を使っても表現しきれるものではない。説明文を読むより、対象を目で見たほうが一発で分かることもある。画像データがテキスト・データよりも遥かに多くのメモリを食うのは、それだけ画像に多くの情報量が詰め込まれているからである。百聞は一見に如かずというが、それはまさしく情報量のことを指しているといっても過言ではない。
別のパターンでも文字表現の限界を感じる時がある。それは書いた人と会った時である。実際に会うまで書き手については書かれた文字でしか判断できないし、それしか情報はない。ところが会えば文字以外の情報、すなわち書き手の容貌や性格、話し方とその内容などを入手することができる。すると、その書き手には文字から得られる情報以外の魅力があることがわかったりして面白い。
もっとも、逆のケースがないわけじゃない。文章はユニークで面白いのだが、実際の人物は文章から期待していたほどでなかったりすることもある。見かけや話し方はフツーなのに、なぜ文字を書かせると面白いのか。もしかするとその人の相対している時の「フツーさ」はポーズなのか?一体どちらが本当なんだろうか。そんな人もいる。
いずれにしても、文字から得られる情報なんて大した量じゃない。だから例えば綿密に調査された作曲家の評伝ですら、その作曲家の真実のほんの一部しか表現していない。いや、それしか表現できないのだ。
そうなると、当の本人は意外に思っていることだろう。「おい!オレはもっと面白い奴だったぜ!」とか「そんな大それたことをするつもりはなかったんだけどなぁ」とかね。もっとも、当人はすでに鬼籍に入っているから文句すら言えないのだが。
ここから導かれるのは、他人によって表現される自分というのはほんの一部であり、すべてが伝えられているわけじゃないということ。所詮は文字による情報である。すべてを表現できるはずがない。だからいくら詳細な評伝などという宣伝文句があっても決してそれを鵜呑みにしてはいけない。本当は全く説明されていないのだから。
そんなことを書きながら、ふと思う。そういえばワシは文字を書くのが商売だったな…と。うーん、なんだか複雑な気分。
別のパターンでも文字表現の限界を感じる時がある。それは書いた人と会った時である。実際に会うまで書き手については書かれた文字でしか判断できないし、それしか情報はない。ところが会えば文字以外の情報、すなわち書き手の容貌や性格、話し方とその内容などを入手することができる。すると、その書き手には文字から得られる情報以外の魅力があることがわかったりして面白い。
もっとも、逆のケースがないわけじゃない。文章はユニークで面白いのだが、実際の人物は文章から期待していたほどでなかったりすることもある。見かけや話し方はフツーなのに、なぜ文字を書かせると面白いのか。もしかするとその人の相対している時の「フツーさ」はポーズなのか?一体どちらが本当なんだろうか。そんな人もいる。
いずれにしても、文字から得られる情報なんて大した量じゃない。だから例えば綿密に調査された作曲家の評伝ですら、その作曲家の真実のほんの一部しか表現していない。いや、それしか表現できないのだ。
そうなると、当の本人は意外に思っていることだろう。「おい!オレはもっと面白い奴だったぜ!」とか「そんな大それたことをするつもりはなかったんだけどなぁ」とかね。もっとも、当人はすでに鬼籍に入っているから文句すら言えないのだが。
ここから導かれるのは、他人によって表現される自分というのはほんの一部であり、すべてが伝えられているわけじゃないということ。所詮は文字による情報である。すべてを表現できるはずがない。だからいくら詳細な評伝などという宣伝文句があっても決してそれを鵜呑みにしてはいけない。本当は全く説明されていないのだから。
そんなことを書きながら、ふと思う。そういえばワシは文字を書くのが商売だったな…と。うーん、なんだか複雑な気分。