ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

女神様、おねげぇしますだ!…思川頭首工

2022-01-14 07:01:11 | 滋賀(ダム/堰堤)
連日、最高気温が氷点下! だってここは寒冷地だもの。(ワシを)

相田先生、すみません。パクりました。

どーも、ワシです。今回は滋賀県湖南市岩根(こなんしいわね)にある淀川水系の思川(おもいがわ)頭首工を訪れます。アクセスは湖南市立岩根小学校 と、思川の右岸に面したかたおか動物病院の中間くらいのところにあります。

【思川…名称の由来】
ここの思川は野洲川(やすがわ)に合流する比較的小さな川ですが、調べてみると同名の川は全国に複数あります。山形県上山市(かみのやまし)、山形県西置賜郡白鷹町(にしおきたまぐんしらたかまち)、栃木県南部、東京都台東区、新潟県十日町市(とおかまちし)、鹿児島県鹿児島市・姶良市(あいらし)。

で、思川の名称の由来なんですが、どうやら『日本書紀』巻一に出てくる田心姫命(たごりひめのみこと)のことらしい。田心姫命は天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の誓約によって誕生した女神で、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)とともに「宗像三女神(むなかたさんじょしん)」と呼ばれます。これら三女神は八幡宮や水にまつわる神社の祭神として祀られています。(参考

ちなみに田心姫命は『古事記』では多紀理毘売命(たきりびめのみこと)と表記されます。さらに言及すると「多」は接頭語、「紀理」は霧の意味なので多紀理毘売命を文字通り解釈すると「霧の女神」となります。うーん、でも人間にとってはあんまり需要がないような気がしますけどね。霧を司られてもねぇ…。前が見えないだけだし。

ま、いずれにしても、稲の豊作を願う村人からすれば田んぼの近くを流れる川が枯れちゃあ困りますからね。そこで水の神様である田心姫命の最初の二文字「田」と「心」を合体させて「思」とし、神様が住む川として思川という名称にすれば水の神様が守ってくれて水不足になることはないだろうと考えたのかもしれません。それにしても「田」と「心」を合体させて「思」という字にしちゃうという発想はスゴイと思いませんか? なかなかのセンスです。

そんなこんなで頭首工の右岸に到着。ん?なんだか通常の頭首工と違いますね。



頭首工の横から見るとこんな感じ。どうやらここはゴム堰(ゴム引布製起伏堰)のようです。(参考



ゴム堰のすぐ上流側のここが取水口になっているんですね。



下流側の景色です。取水口から分水した水は川の横の水路へ流れてゆきます。



上流側はこんな感じ。



右岸の道を挟んだところにあるこの建物は詰所か何かかな?



その壁には水利使用標識が貼られています。



思川頭首工がいつ築造されたのかはわかりませんでした。でもあくまで推測ですが、思川が合流する野洲川(やすがわ)に関する国営野洲川農業水利事業が1947年から1955年に行われた後、1974年から1978年にかけて国営造成土地改良施設整備事業により関連する水路などが改修・整備されたようなので、同頭首工はこの頃に完成したと考えられます。(参考
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上流の「施設」の水に感動!…十九道ダム

2022-01-13 07:12:43 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は滋賀県栗東市荒張(りっとうしあらはり)にある淀川水系の十九道(じゅうくどう)ダムを訪れます。ダム名の由来はそこへ至る道の名称と思われますが、「十九道」の由来はわかりません。アクセスは県道113号沿いにあるアクアクララびわこ近くの交差点を龍王山(りゅうおうざん)方面へ進んで行くと当該ダムはその途中にあります。

あとで確認すると「ご尊顔」を拝める道があったようですが、その時には分からず。ただ、ダムへ向かう道があったので下ってみました。するとその道はなんと貯水湖のすぐ近くまで続いていてビックリ。そこから見たダムはこんな感じ。綺麗でしょ?



ズームするとこんな感じです。築造物の高さは不明なのでダムなのか堰堤なのかは判別できません。ただ、形状からするとこれは砂防ダム(堰堤)ですね。



そこから右を見ると砂防堰堤らしきものが…。



堰堤本体には「岩山施設」と記されたプレートが貼られています。でも、実際のところ、よく読めません。



その「施設」の上に登れそうだったので行ってみました。いわゆるダム横から見るとこんな感じ。



その中央まで来ました。落水部分です。



中央から貯水側を撮影。いや、もうエメラルドグリーン!!!



一方、「施設」の下はこんな感じ。



中央から右岸を見るとこんな感じです。



「施設」の右岸、貯水側から見るとこんな感じ。なんか、異世界に来たかのよう…。



十九道ダムに来たのに「主役」がすっかり霞んでしまいました。それも無理はありません。左岸から最も見える場所でもこの程度なんですから。



ちなみにダムへ向かう道の入口のところには金勝山(こんぜやま)の案内地図があります。



改めて振り返ると、つくづく十九道ダムの正面を見ればよかったと悔やまれます。機会があればチャレンジしてみようと思います。それにしても、あの「施設」の水の美しさには感動しました!
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グーグル先生、しっかりせい!…細川砂防ダム(堰堤)

2022-01-12 06:53:47 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回目指すのは滋賀県栗東市荒張(りっとうしあらはり)にある淀川水系の十九道(じゅうくどう)ダムなんですが、向かう途中、思わぬものが見えてきました。それがこれ。おー、なんと立派な築造物!



よく見ると、その本体には「細川砂防ダム」とあります。完成は平成12年(2000年)9月。でも高さは9.5mなので定義上は砂防堰堤になりますね。



堰堤の下の副堰堤には透過型の砂防設備が置かれています。



その下流側はこんな景色。…といっても、なんだこりゃ?な景色ですけどねー。



いわゆるダム上は堰堤脇の道路と高さが同じなので、そこからはこんな風に見えます。



残念ながら堰堤の上を歩くことはできません。でも、この看板に注目。「ダム」の文字がスプレーで消されています。犯人は「これはダムじゃない! 堰堤だ! だから消してやる!」と思ったのでしょうか…。言うまでもありませんが、犯人はワシじゃないよ。



この場所の説明が難しいので国土地理院の地図の写真を載せておきます。写真中央のちょっと上にあるカーソルの部分が今回の細川砂防堰堤で、その下方にあるのが当初目指していた十九道ダムです。



もちろん、この細川砂防堰堤はグーグル先生の地図に載っていません。堰堤名はここを流れる細川に由来するものと思われますが、グーグル先生の地図ではその下流から枝分かれして広徳寺や善福寺へ遡って行く川を細川と記しています。これは誤記載。広徳寺近くのストリートビューを見るとその川が「走井川」と確認できるからです。でも、なんて読むんでしょうか。ご存知の方がおられましたら教えてください。

次回はいよいよ十九道ダムを目指します。
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なぜこの名称なのか?…平谷川砂防ダム

2022-01-11 06:50:28 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は滋賀県栗東市観音寺(りっとうしかんおんじ)にある淀川水系の平谷川(ひらたにがわ)砂防ダムを目指します。アクセスは県道113号沿いにある「マツノオート」、もしくは「とろりん」の看板のある交差点を曲がり、「こんぜの里 バンガロー村」を目指して行くと目的のダムはその途中にあります。

到着しました。これですね。なかなか立派な「勇姿」です。



ダム横に行くため登って行くと、そこには「平谷川砂防ダム 昭和59年(1984年)10月竣工 滋賀県」と記されたものと、「定礎」の石碑が。



ところが、ダム上に行きたくてもご覧の通りフェンスがあって行けず。おまけに木々に覆われていて、その様子もロクに見ることができませんでした。



築造物の長さや高さを示す諸元が不明なので何とも言えないのですが、一番上の写真から推測するに高さは目測で15m以上ありそうなのでダムの定義上からすると「砂防ダム」で間違いないと思われます。

ただ、不思議なのはグーグル先生の地図を見ると、この砂防ダムは金勝川(こんぜがわ)を堰き止めて築造されているように見えます。なのに砂防ダムの名称は「平谷川」…。なぬ? どういうこと? なぜ「金勝川砂防ダム」じゃないのでしょうか。

色々調べてみると、どうやらグーグル先生、またしても「やらかして」いるようです。つまりこの砂防ダムの下流からが金勝川のようで、ダムの上流は平谷川と呼ばれているらしい。だからこの砂防ダムの名称は「平谷川砂防ダム」と命名されたのでしょうね。それならば辻褄があう。なのに先生の地図ではその上流も金勝川と書かれています。この「誤表記」が誤解を招く原因なのかもしれません。(参考

何事もそうですが、示されているものを鵜呑みにしてはいけません。念のため確認してみないと。もちろん当ブログだって例外じゃありません。記載内容に間違いがあるかもしれせんよ。もっとも、ワシはそうならないように常々気をつけてはいるんですがね。
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改修後の石部頭首工

2022-01-10 06:57:49 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は滋賀県湖南市菩提寺にある淀川水系の石部(いしべ)頭首工を訪れます。アクセスは西宮線と国道1号の間にあり、頭首工の近くにはワンストップゴルフスクール湖南校があるのでそれを目印にすると良いでしょう。ちなみに頭首工の名称はそれが設置されている野洲川の左岸の地名によるものと思われます。

到着しました。野洲川の右岸を走る県道27号側から見るとこんな感じ。



上の写真は正確に記すと県道27号沿いにある「石部頭首工管理所」の敷地内から撮ったものです。





写真中央に見えるのが取水路の水門。左岸にもそれがあるのかは未確認。



上流側の様子。逆光で暗くなってますが、実際には明るいんですけどね。



管理事務所の西側には改修後の石部頭首工の案内板があります。参考までに石部頭首工の建設の経緯を記しておきます。頭首工建設のきっかけは第二次世界大戦に敗れて以後、国内の産業の立て直しが急務とされました。そして国家からの食糧増産の要請に応えるべく1947年1月に県営事業としての野洲川農業水利事業が再開されます(同事業は実は1939年に野洲川ダムの建設着手とともに始まっていましたが、開戦とともに工事は中止されています)。

同年7月から国営事業へ移管し、野洲川ダムの建設は一気に加速。そして1951年7月に同ダムが完成すると、続いて1952年7月に石部頭首工の建設が始まり、1954年9月に完成します。その後、社会環境の変化と頭首工の老朽化から1999年にその下流100mのところに新しい頭首工(現在の頭首工)の建設が決まり、着工。2006年に完成しました。(参考



では、もうちょっと頭首工に近づいてみましょう。これが管理橋ですが、ご覧の通り一般の人は立ち入ることができません。



仕方がないので、右岸、下流側からの様子を撮ってみます。写真では見えていませんが、管理橋の下の洪水吐は案内板にも書かれているように高さが可変可能なゴム堰になっているそうな。



さらに魚道も三種類設置されているとのこと。そのほか、改修により様々な工夫がされているようです。それらを実際に確認したかったのですが、管理所の職員がジロジロ見ているので退散!

怪しくないっての!(いや、怪しいように見えたんでしょうね)
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県営なのに載らず…名神日野川頭首工

2022-01-09 07:02:19 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、ワシがドライヴする際グーグル先生の地図を基本的に利用するのですが、それに載っていない施設もたまにあるんです。それが今回のケース。滋賀県内を走っていて、県道13号と日野川が交差する日野川橋を渡っていた時のこと。ふと日野川に目をやると頭首工らしきものが…。



おー、なんだ、なんだ、なんなんだ? こりゃ確かめてみなけりゃ気が済みません。そこで、橋を渡って日野川の左岸に行ってみます。すると日野川の下流方向に淀川水系の名神日野川頭首工というのがあるのを見つけました。住所は滋賀県東近江市葛巻町(ひがしおうみしかずらまきちょう)。概要が書かれた案内板がこれ。



左岸から頭首工へ延びている連絡橋。でも施錠されていて行くことはできません。



仕方ないので左岸の下流側から頭首工を撮影します。



左岸側にあるこのクリーム色の建物は「名神日野川頭首工管理室」。





建物の壁には水利使用標識が貼られています。これによればこの頭首工は灌漑のために作られたんですね。



管理室の敷地の前には「名神日野川頭首工」と刻まれた石碑。



その裏側には1979年12月に着工し、1982年3月に完了と記されています。



この名神日野川頭首工から日野川を遡ると以前訪れた蒲生頭首工があり、それはグーグル先生の地図に載っています。でもなぜか今回の頭首工は載っていない…。どうしてなんでしょうねえ。
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稲作と蛋白源に!…宮溜調整池

2022-01-08 06:52:16 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は滋賀県東近江市柴原南町(ひがしおうみししばはらみなみちょう)にある淀川水系の宮溜(みやだまり)調整池を訪れます。場所は「名神八日市カントリー倶楽部」と「布引グリーンスタジアム」の間で、名神高速道路に接しているところにあります。

到着しました。あたり一面の田畑がある中に当該調整池は少し高い場所にあります。



いわゆるダム横に相当する場所にはあずまやが置かれています。



そこからダム上を見るとこんな感じ。



早速、ダム上を歩いてみましょう。その中央付近から貯水側を見るとこんな景色。逆光で夕方のように見えますが、実際には眩しいくらいの明るさです。



一方、下流側に目を転じてみるとこんな感じ。雪の後の爽やかな晴天って感じでしょ? とはいえ寒いんですが。



ダム上から対岸(左岸)を見ると、写真中央に見えるあの部分が洪水吐のようです。



対岸に来ました。振り返るとこんな感じです。手前に見えるガードレールのところの下が洪水吐の水路。



そのガードレールのところから洪水吐を見るとこんな感じ。逆光でうまく撮れていませんね。



洪水吐にもっと近づいてみます。写真ではわかりにくいですが越流式の構造になっています。



増水時になると、溢れ出た水は先ほどのガードレール下の水路を通り、あちらのほうへ流れてゆきます。



先ほどのあずまやの下には案内板があります。これを読むとこのため池(調整池)は縄文時代末期にはすでに存在したようです。その水源は遠く鈴鹿の山々で降った雨であり、それが伏流水となってここに湧き上がってきているらしい。ため池を見つけた人々はこの地に集まり、農耕生活を開始します。

中世になると水田開発が進み、ため池は稲作の水源地となります。そして近くの玉緒神社の宮溜と命名されます。さらにため池を利用して魚の養殖も始まりました。それは稲作のための水が不要となる8月に行われます。池の水を抜いてオオギと呼ばれる竹製の筒で作られた漁具を用いて鯉やフナを生け捕るのです。当時はそれが人々の貴重な蛋白源になっていたそうな。オオギ漁は今日では伝統行事になっているようです。



ほぉ〜、勉強になりました。
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雪化粧の金屋頭首工

2022-01-07 07:02:40 | 滋賀(ダム/堰堤)
suumo、ワシです…。あ、違った。住みません、不動産サイトだけに…。(スベッとるやないかい!)

えー、改めまして、どーも、ワシです。今回は滋賀県犬上郡多賀町富之尾(いぬかみぐんたがちょうとみのお)にある淀川水系の金屋(かなや)頭首工を訪れます。位置としては名神高速道路の多賀サービスエリアの南側になります。アクセスは県道226号(右岸側)沿いにある小林製材所が目印。目的地はその前です。

到着しました。訪れた日は曇っていましたが、数時間前まで雪が降っていたようです。まずは犬上川右岸の下流側から見た頭首工の「ご尊顔」をご覧ください。



ゲートの落水部分をズームすると、まるで氷柱のように見えますが別に凍っているわけじゃありません。こういう仕様なんですね。



右岸側には魚道がありますね。



右岸の頭首工の横から見るとこんな感じ。



その傍にある看板。なるほど、今の時期なら魚を獲ってもいいんですね。獲りませんけど。



右岸、頭首工の上流側から撮ってみました。写真左側にちょっとだけ見えているのが取水口です。ここから分水した水は左岸側にある田畑に供給されるのでしょう。



上の看板にも出ていますが、頭首工のすぐ下流側に架かっている橋が金屋橋で、そこから犬上川の下流方面を見るとこんな感じ。この先に琵琶湖があるんですね。逆に川をずっと遡っていけば、以前訪れた犬上川ダムになるわけです。



左岸にあるこの建物は「金屋頭首工管理事務所」。その横にある「和合の郷」と刻まれた石碑の下には「雲行雨施 旱天慈雨」と記されています。「雲行雨施(うんこううし)」とは「雲が流れて雨が降り、万物に恵みを施す」の意。ひいては天下泰平の意味にもなります。出典は『易経』の中にある乾卦彖伝(けんかたんでん)から。彖伝とは解説の意味で、乾卦彖伝というのは64ある卦のうちのひとつである「乾」の文言についての解説といった意味です。一方、「旱天慈雨(かんてんじう)」とは「日照り続きの時に降る恵みの雨」の意なんですが、その出典については不明です。ご存知の方がおられましたら教えてくださいね。





先入観なんですが、滋賀県なんて雪が降らんもんだと思ってました。いや〜、降るんですねぇ。全く予想していませんでしたよ〜。
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透過型かな?…猪谷(安楽谷)砂防ダム

2021-12-18 07:15:08 | 滋賀(ダム/堰堤)
いや〜、どーも、ワシです。今回は滋賀県甲賀市土山町山女原(こうかしつちやまちょうあけびはら)にある淀川水系の猪谷(安楽谷)砂防ダムを訪れます。アクセスは県道187号を行くと笹路川近くに三子(みつこ)神社があるので、その近くの「山女原」方面へ向かう道を進んでいくとあるようです。

それにしても「山女原」というのは珍しい地名ですね。確かに「あけび」を変換すると「山女」と出てくるんですが、「山女」と書けば、まず魚の「ヤマメ」を連想しますよね?だから山女原はてっきり「やまめばら」だと思い込んでいました。場所的にもヤマメが生息していても不思議じゃないし。でも正しくは「あけびはら」。その由来が気になったので調べてみるとこの地名は戦国時代にはすでにあったようです。どうやらこの地名はこの一帯がアケビの産地だったことから付けられたらしい(参考)。

で、安楽峠に向かうその道を注意しながら進んで行くと…ありました! これですね。



ところが撮れたのはこれのみ。この上流側にも下流側にも道路沿いに木が生い茂っていて撮れなかったんです。もちろんダム上へは鍵が掛かっていて行けませんでした。よく見るとダムの中央に鉄骨らしきものが確認できるので、これはどうやら透過型の砂防ダムのようですね。

でも、このダムがいつ築造されたのかは確認できませんでした。そもそもここが「猪谷(安楽谷)砂防ダム」だという看板すらないんですからね。たまたまグーグル先生の地図に出ていたのを見て行っただけのこと。ちなみにこのダムの北東方向に「猪谷砂防ダム」というのがあるようですが、そこへ行く道はゲートで閉ざされていたので行けませんでした。

ただ、この資料から判断すると「猪谷砂防ダム」は2000年に着工して2003年頃に完成したようです。なぜそう判断したのかというと、その資料に「湛水」の文字があるから。透過型のダムだったら水を溜めることができないでしょ? とすれば猪谷通常砂防事業として築造されたのは「猪谷砂防ダム」のほうではないかと考えたわけです。

まあ、見てもいないダムのことをあーだこーだ書いても仕方ないので、今回はこれにて終了!
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圧巻の洪水吐!…青土ダム

2021-12-17 07:03:56 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー今回は滋賀県甲賀市土山町青土(こうかしつちやまちょうおおづち)にある淀川水系の青土ダムを訪れます。アクセスは県道9号をずーっと行けば到着します。

見えてきました。あれですね。



おっと、近くに「青土ダム ウォーキングマップ」の案内板があります。それを見ると、どうやらこのダムの洪水吐は独特らしい。楽しみです。





左岸側にある取水塔の管理橋近くには「水利使用許可標識」。管理用水力発電が目的とあります。



その近くには青土ダムの概要を記した案内板。これによれば、当該ダムは滋賀県初の多目的ダムで、洪水調節、流水の正常な機能維持、上水道用水の確保、工業用水の補給を目的として1963年に調査を開始し、1981年からダム本体の建設に着工、そして1988年3月に完成したとあります。







これが左岸側にある独特な形状の洪水吐。写真右側の2つが常用洪水吐で、左側の高い位置にあるのが非常用洪水吐です。常用洪水吐はまるで蟻地獄のよう。ちょっと不気味でもあります。



左岸のダム横にあるこの建物が「青土ダム管理事務所」。





「定礎」の石碑。通常、この類のものは何の個性もなく作られるのですが、ちょっとオシャレなデザイン。1984年11月と記されています。



では、左岸から右岸に向かって歩いていきます。ダム上から見た非常用洪水吐。その向こうに常用洪水吐があります。いずれにしても増水時になると水はここから溢れ出て、



あちらへ流れてゆきます。



ダム上は2つの道が並行しています。ひとつは上流側にある歩道、もうひとつは県道9号です。歩道には3体のキジの絵が嵌め込まれています。一体これは何を意味するのでしょうか。

左岸側のキジ


中央のキジ


右岸側のキジ


調べてみました。ダム建設当時、ここの地名は滋賀県甲賀郡土山町(こうかぐんつちやまちょう)でした。同町は1916年4月1日に発足し、2004年9月30日まで存続。翌10月1日からは水口町、甲賀町、甲南町、信楽町と合併し甲賀市となって現在に至ります。で、ダム上の歩道にキジがあるのは当時の甲賀郡土山町の町の鳥がキジだったのでそれに由来すると思われます。

ダム上、中央から見た貯水湖の様子。



一方、下流側の景色です。



対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じです。左側の茶色の道が歩道、右側が県道です。



右岸、貯水側からダムを見るとこんな感じ。



この近くにあるのが別の案内板。



そして、どっしりとした巨岩に刻まれた「青土ダム」の文字。



その横には建立の趣旨がよくわからない碑。



ついでにダム下へ行ってみました。中央から左岸方面を見るとこんな感じ。



洪水吐の水路を下から見るとこんな感じです。なかなかの迫力!



先にも書きましたが、青土ダムの見所は何と言っても独特な形状の洪水吐。一見の価値ありです! 実際に見ると不思議な感覚になりますよ。
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地味だぁ…鯎川砂防ダム

2021-12-14 07:09:57 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は滋賀県甲賀市土山町鮎河(こうかしつちやまちょうあゆかわ)にある淀川水系の鯎川(うぐいがわ)砂防ダムを目指します。アクセスは県道9号から「見性庵」の看板のあるところをうぐい川の右岸の道を進んで行きます。

ところが、クルマで行けるのはここまで。ここからは歩いて目的地へ向かいます。



200〜300mくらい歩くと目的地へ到着。たぶんここが鯎川砂防ダムと思われます。断定できないのはそれを示す看板などがないから。



ダムの上流側の景色。



上流側からダムを見るとこんな感じです。



ダム横から見るとこんな感じ。



ダム上を歩いて中央まで行くと…。



嗚呼、なんと地味な絵面でしょうね。どこにでもありそうな景色です。まあ、でも実際に行って見なけりゃわからんわけで、行ってみれば「ああ、こういうところなんだ」と納得できます。周囲は静かで、水も綺麗なので気持ちとしては落ち着ける場所だなあという印象。

うぐい川はむしろ千本桜や蛍の名所として知られているようです。(参考1)(参考2
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アクセスは良いのに…野洲川ダム

2021-12-13 07:06:14 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は滋賀県甲賀市土山町大河原(こうかしつちやまちょうおおかわら)にある淀川水系の野洲川(やすがわ)ダムを訪れます。アクセスは国道477号沿いにあるのでわかりやすいと思います。

見えてきました。あれですね。越流式の洪水吐のようです。



左岸のダム横近くまで来ました。なかなか格好よろしい。



駐車スペースは左岸のダム横の上流側にあります。そこには野洲川ダムの案内板。これによると当該ダムは下流にある甲賀市、湖南市、栗東市、守山市、野洲市にある3,120haの水田へ供給するための用水を貯水するためのもので、昭和14年(1939年)に滋賀県の県営事業として着手、昭和19年(1944年)に工事を一旦中断しますが、食糧増産が緊急課題となり昭和22年(1947年)から工事再開。その後国営事業となり昭和26年(1951年)7月に野洲川ダムは完成します。そして平成22年(2010年)には災害防止のための改修工事を行なったとあります。



この案内板付近からダムを見るとこんな感じ。



ダム横には「平成22年(2010年)3月竣工」と記されたプレート。これは改修後に作られたものですね。



その横には「野洲川堰堤竣功記念碑」と刻まれた石碑。こちらは最初に完成した時のものでしょう。当初は野洲川堰堤という名称だったようです。



で、改修後の名称は野洲川ダム。農林水産省の管轄なんですね。



いよいよダム上に行こうとしたら…なんと、立入禁止とな!うむむ。



仕方ないので左岸のダム横から貯水側を眺めるとこんな感じ。



一方、下流側の景色です。



国道をちょっと下流側へ行ったところにこんなものが。慰霊碑かな? いえいえ、違いました。国道(鈴鹿スカイライン)開設と四日市土山線改良整備完工を記念し、交通安全を祈念する聖観音像でした。昭和47年(1972年)11月建立。





貯水ダムのためか知りませんが、管理所は見当たりませんでした。ならばダム上も開放して欲しいなあ。

てなわけで、今回はこれでおしまい!
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滋賀県の蔵王ダム

2021-12-12 07:09:13 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は滋賀県蒲生郡日野町蔵王(がもうぐんひのちょうざおう)にある淀川水系の蔵王ダムを訪れます。アクセスは琵琶湖側から行くと国道477号の途中にある「蔵王隧道」を抜けてすぐ蔵王ダムの入口があります。

その道を進むとダムの左岸に到着します。堂々たる立派なダムですね。



近くには蔵王ダムの案内板。でも、その内容はあと数年で消えそう。消えたら意味ないがな!なんとかせんと。



それでも、近寄って見るとなんとか読むことができました。国営日野川農業水利事業の基幹施設として1993年3月に完成したロックフィルダムだそうです。





ダムの左岸側に造られているのが横自由越流型側水路方式による洪水吐。



「定礎」と刻まれた石碑。1990年11月30日とあります。



先ほど見た案内板とほぼ同じ内容の案内板…ってぇ〜ことはあの案内板はそのまま朽ち果てていくんでしょうか。



左岸のダム横近くにあるこの建物が「蔵王ダム管理所」。撮影時は逆光だったためダム上から撮りました。





「豊暁之源」と記された石碑。その台座には蔵王ダムと書かれています。でも気になるのは「豊暁」。どういう意味なんでしょうね。ちょっと調べてもこの単語は出てきません。ヒットするのは競馬情報のみ(参考)。えーっと、もしかして「豊饒」の間違い? そうだとしたらめちゃくちゃ恥ずかしいなあ。制作した際に誰も気づかなかったんでしょうか。



その付近からダムを見るとこんな感じ。



これがダム上です。歩いてみましょう。



先にも書いたように左岸側に洪水吐があります。増水時になると水はここから溢れ出て、



この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



洪水吐のところにあった何かが書かれた案内板。地形図のようですが、ほとんど読めません。これも朽ちて行くのかなぁ。いと、あわれ。



ダム上の欄干には「日野曳山(ひきやま)」と「しゃくなげ」がデザインされたものが嵌め込まれています。日野曳山とは毎年5月2日から3日にかけて行われる馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)の例祭の象徴ともいえるもの。例祭はなんと850年も前から続いているとか(参考)。



一方、なぜ「しゃくなげ」なんでしょうね。疑問に思ったので管理所の職員に聞いてみると「日野町はしゃくなげの群生地なんです」との回答。あとで調べてみると日野町の町の花は「ホンシャクナゲ」であることを知りました。なるほど、納得です。



ダム上、中央から見た貯水湖の様子。



パノラマで撮ってみるとこんな感じ。



ダムの下流側の景色です。写真中央に見える道路は国道477号。



対岸(右岸)まで来ました。振り返るとこんな感じ。



右岸、貯水側から見たダムの様子。



同、下流側から見るとこんな感じです。



同名のダムは山形県山形市にもありますが、以前訪れようとした際、そこへ行くまでの道が通行止めでした。来年あたり行ってみようかなと考えています。
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ちんまりと…原頭首工

2021-12-11 06:51:10 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は滋賀県蒲生郡日野町原(がもうぐんひのちょうはら)にある淀川水系の原頭首工を訪れます。アクセスは県道188号(わたむきグリーンロード)をずっと行き、二股になる道を左方面へ進んでいくと到着します。

これです。写真中央に見える小さな建物が「原頭首工管理棟」。





頭首工はその隣を流れる佐久良川(さくらがわ)に作られています。



まずは佐久良川の右岸に行ってみます。写真中央の部分から取水されるようですね。



右岸、下流側から見るとこんな感じ。写真左側には魚道のようなものがありますが、水量が少ないのでほとんど機能していないように見えます。



取水部分を拡大します。細い鉄パイプが並べられていますね。水はこれで漉されるのでしょう。



次に左岸に行ってみます。写真中央のブルーの取水口のところから分かれた水は写真手前の沈砂池に流れ込み、



あちらへ流れていくようです。



そうそう、先ほど「二股になる道を左方面へ」と書きましたが、その道を進んで行くとまたまた道が二股に分かれます。原頭首工へは写真にあるように「野釜林道」方面へ行ってください。



小さな頭首工ですが、この佐久良川のずっと下流に以前訪れた蓮花寺頭首工があるんですね。

そう、川は繋がっているのだ…。

ふふ、決まったな(笑)
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歴史も学べます!…日野川ダム

2021-12-09 07:18:49 | 滋賀(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は滋賀県蒲生郡日野町村井にある淀川水系の日野川ダムを訪れます。アクセスは国道477号から日野城跡(中野城跡)を目指すと道幅もまあまあ広くわかりやすいかもしれません。しかし昨日記事にした小井口頭首工が当該ダムのすぐ下流にあったことからワシはそこからダムの左岸に向かいます。

日野川の左岸にある新興住宅地の間を登って行くと当該ダムの左岸に行くことができます。ただし、道が細いので要注意。まず目にするのはゲート式の洪水吐。



向こうにダムがあるのがわかりますね。



洪水吐に架かる橋から見た貯水湖の様子。



増水時になるとゲートが開いて水はこの水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



洪水吐に架かる橋を渡って(車両通行可)、洪水吐を下流側から見るとこんな感じ。



そこから坂を登ったところにあるこの建物が日野川ダム管理事務所です。





ダムへ向かいます。坂を下るとダム上になります。そこには日野川ダムのウォーキング・マップがあります。ダムを一周すると2.6kmだそうで。もちろん回りませんでしたけど。



で、これがダム上。



ダム上、中央から貯水湖を見るとこんな感じ。



左岸には先ほど見た洪水吐が見えます。



ダム上、中央から見た下流側の様子。



そのまま右岸方向へ行くと「日野川ダム」と刻まれたコンクリート塊が。昭和40年(1965年)12月竣工とあります。



その近くには日野川ダムの案内板。説明によれば、日野川流域の山間部は局地性豪雨地帯で、度々洪水が発生していたそうな。そこで昭和28年(1953年)に防災ダムとして建設を開始。その後、昭和36年(1961年)に灌漑用水補給も兼ねるダムとして再検討され、建設継続。翌年までに右岸のアースダムが完成。昭和38年(1963年)から洪水吐と、ロック材に河床の堆積砂礫を用いたグラベルフィルダムの建設に着手し、昭和40年(1965年)12月には上にもあるようにダム本体と洪水吐が完成。翌年3月までにすべての工事が終了したとあります。





国道側からダムへ来たとすると左側に中野城跡の案内板があります。説明によると城の名称は日野谷の中野という地に築城されたのでそう呼ばれたようです。案内板では城の築年は文亀4年(1504年)、大永4年(1524年)、そして天文年間(1532-1555)と諸説あると書かれていますが、それぞれの根拠は記されていません。しかし築城の経緯を考えると天文年間が妥当のように思われます。

というのも、蒲生家の分家筋である蒲生定秀(さだひで:1508-1579)は1522年に蒲生家本家16代の蒲生秀紀(がもうひでのり:?-1525)が住んでいた音羽城を攻撃し、翌年秀紀を降伏させるとともに音羽城を破壊します。そして1525年には鍵掛城に避難していた秀紀を毒殺。秀紀には子がなかったことから蒲生家は分家筋が本流となり栄えてゆきます。

で、本題の中野城の築城年についてですが、音羽城を破壊したからといってすぐに代わりの城は建ちません。築城には少なくとも数年はかかるからです。そう考えると中野城の築年は天文年間の最初の頃というのが真実味を帯びてくるわけです。いずれにしても中野城はその後、定秀、賢秀(かたひで:1534-1584)、氏郷(うじさと:1556-1595)の三代にわたる居城となっていきます。

賢秀・氏郷の時代の1582年、本能寺の変で織田信長が自刃すると氏郷は安土城にいた信長の妻子と女房衆を中野城へ退避させて保護します。それは蒲生氏が当時織田の家臣であったというだけでなく、織田氏と姻戚関係にあったからです(信長の次女である冬姫が1569年に氏郷と結婚した)。

中野城はその後天正12年(1584年)に氏郷が松ヶ島(現在の三重県松坂市)へ加増・転封となり(同時に秀吉から「羽柴」の名字を与えられる)、文字通り主のいない状態となったため慶長年間(1596-1615)に廃城になったそうな。現在ではお堀の一部などが残存するのみで当時の姿ではもちろんありません。まあ、そんなことが書いてあります。



そして、案内板の近くには氏郷と冬姫の年譜が。



なんだか今回はダム巡りというより歴史巡りみたいになっちゃいましたね。でも勉強になりました。


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