あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

道程 ( みちのり )

2021年06月16日 06時30分16秒 | 道程 ( みちのり )


昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
 二月二十六日 ・大雪の朝 
 昭和維新の歌 」 を高唱しながら
三宅坂方面に向い行進する安藤隊


 
同志に告ぐ 
一、相澤中佐殿以下 不肖等 二十勇魂ハ斷ジテ滅スルコトナシ
同志一體魂ノ中ニ生キ 維新達成ノタメニ精進セント欲ス
翼クバ幽明相倶ニ維新完成ノタメニ驀進セン
一、前衛ハ全滅セリ
然レドモ敵全軍ヲ引受ケテ要点奪取ノ任務ハ完全ニ遂行シ得タリ
支配階級ノ頽勢必至ナルヲ信ズ
本隊ノ戰斗加入ニヨリ前衛ノ戰果ヲ擴大シ
最後ノ戰捷ヲ克チ得ラルヽコトヲ萬望ス
前衛ハ全滅セリ
而シテ 敵全軍ハ動揺困亂シアリ コノ戰況ニ於テ自ラ施スベキ方策アラン
言志録ニ 「一息ノ間斷ナク一刻ノ急忙ナキハコレ天地ノ気象」 トアリ
最後ノ大勝利を目標ニ進軍アランコトヲ
一、全同志ノタメ悲惨ナル苦斗時代ガ 一、二年
 或ハ數年現前スルヲ豫期セザルベカラズ
凡ユル難苦ニ堪ヘテ最後ノ勝利、
終局ノ目的達成ニ向ヒ焦ラズ撓マズ直進サレタシ


道程 ( みちのり )
目次
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   一、
みちのり ( 大正十五年迄 ) 
   二、みちのり ( 昭和元年~昭和 7年 ) 
   三、みちのり ( 昭和8年、9年 ) 
   四、みちのり ( 昭和10年 )
   五、前夜 ( 昭和11年1月1日~2月25日 ) 
   六、部隊編成 ( 出撃時 ) ・・・未完 中途 
   七、蹶起部隊 ( 26日、午前 ) 
   八、
蹶起部隊 ( 26日、午後 ) 
   九、蹶起部隊 ( 27日 )
   十、叛乱部隊 ( 28日 )
十一、叛乱部隊 ( 29日 )
十二、
昭和維新 ( 昭和11年3月1日~12月31日 )
十三、昭和維新 ( 昭和12年1月1日~8月19日 )

昭和27年7月12日  「 二十二士之墓 」 開眼供養法要 
昭和40年2月26日  二・二六事件慰霊像 除幕式 
昭和46年11月16日  
二・二六事件の収拾処置は自分が命令した 

 
「 ああ ・・あった 」
一人 声無き歓声を上げた私
「 神達と逢いたい 」
・・・との、
夢が現実のものと成りし瞬間である。

やっと、辿り着きし
二・二六事件慰霊像
神達の処刑跡地に建立されし、慰霊像
昭和49年 ( 1974年 ) 8月7日
二十歳の私
昭和維新の神達 と、初めて、直接接点を持ったのである
言い替えらば
歴史 との、記念すべき感動の 出逢い であった。 
・・・
歴史との出逢い


道程 ( みちのり ) 1 みちのり ( 大正十五年迄 )

2021年06月15日 12時26分24秒 | 道程 ( みちのり )


道程 ( みちのり ) 1
みちのり ( 大正十五年
迄 )

明治15年
( 1882年 )
1月5日  軍人勅諭 下賜

明治22年 
( 1889年 )

2月11日  
大日本帝国憲法
発布
9月9日  相澤三郎生誕  ・・仙台市  裁判所書記 相澤兵之助の長男
明治23年 ( 1890年 )

10月30日  教育勅語 渙発
明治34年  ( 1901年 )
10月3日  
西田税生誕  ・・鳥取県米子市  仏具商西田久米造の次男
明治36年 ( 1903年 )
2月18日 
大岸頼好 生誕
9月4日  
香田清貞生誕  ・・佐賀県小城郡三日月村
10月3日  
村中孝次生誕  ・・北海道旭川市五条  
10月27日  
野中四郎生誕  ・・青森県弘前市  陸軍少将野中勝明の四男
明治37年 ( 1904年 )
1月17日  
菅波三郎 生誕 ・・宮崎県宮崎市
2月6日  日露戦争勃発
8月3日  藤井斉 生誕 ・・長崎県平戸
9月11日 
大蔵栄一 
 生誕  

明治38年 ( 1905年 )

1月5日  乃木希典、帥私営の会見 ・・・リンク →偉い人 日露戦争・乃木大将
2月25日  
安藤輝三生誕  ・・東京市  慶応大学普通部の教職にあった安藤栄次郎の三男
4月1日  
磯部浅一生誕  ・・山口県大津郡菱海村 ( 現長門市 ) 農業兼佐官 磯部仁三郎の三男
6月19日  西田はつ 生誕
9月5日  日露戦争 戦勝
9月11日  
 末松太平 生誕 
12月9日  澁川善助 生誕  ・・福島県会津若松市  澁川利吉の長男
明治40年 ( 1907年 )
3月27日  
河野壽生誕  ・・長崎県佐世保市  海軍少将河野左金太の三男
5月26日  
竹嶌継夫生誕  ・・東京市  陸軍少将竹嶌藤次郎の長男
9月25日  
中橋基明生誕  陸軍少将垂井明平の次男
明治41年 ( 1908年 )
9月28日 
水上源一生誕  ・・北海道空知郡  農家の長男
10月15日  
丹生誠忠生誕  ・・鹿児島市  海軍大佐丹生猛彦の長男
11月15日  
對馬勝雄生誕  ・・青森市  海産物商對馬嘉七の長男
11月17日  
栗原安秀生誕  ・・島根県松江市  陸軍大佐栗原勇の長男
明治43年 ( 1910年 )
8月13日  
坂井直生誕  ・・三重県  陸軍少将坂井平吉の長男
明治44年 ( 1911年 )
1月16日  
田中勝生誕  ・・下関市  田中富作の長男
明治45年/大正元年 ( 1912年 )
2月1日  
安田優生誕  ・・熊本県天草郡  農業安田清五郎の次男
10月9日  
中島莞爾生誕  ・・佐賀県  陸軍中尉中島荒次郎の次男

7月30日  明治天皇崩御
大正2年 ( 1913年 )
1月1日  
高橋太郎生誕  ・・金沢市  会社員高橋重吾の長男
大正3年 ( 1914年 )
9月5日  
林八郎生誕  ・・山形県鶴岡市 陸軍少将林大八の次男 
大正6年 ( 1917年 )  十月のロシア革命、
大正7年 ( 1918年 )  8月の米騒動、11月の第一次世界大戦の終結
大正8年 ( 1919年 )
8月8日  北一輝、上海に於て 『 
日本改造法案大綱』 稿
大正10年 ( 1921年 )
9月3日  朝日平吾、『 死の叫び声 』 ・・・ 超国家主義 『吾人は人間であると共に、真正の日本人たるを臨む』 
9月5 日  日光田母沢御用邸で
9月28日  朝日平吾、安田財閥創始者 安田善次郎を暗殺、自決す
11月4日  中岡艮一、原敬首相刺殺 ・・・
国士・中岡艮一
大正11年  ( 1922年 )
3月11日  西田税、『
無眼私論 
7月21、22日  西田税、陸軍士官学校兜松で秩父宮と秘密の会見 ・・・戦雲を麾く 7  「 必ず卿等は屡々報ぜよ 」

7月28日  西田税、陸軍士官学校
卒業 ( 三十四期 )
西田税、年末  朝鮮騎兵第二十七聯隊で騎兵少尉に任官す
大正12年  ( 1923年 )
3月  菅波三郎、陸軍士官学校予科を卒業 ・・士官候補生として鹿児島歩兵第四十五聯隊に
 聯隊騎手、西田税 少尉 ・・・リンク → 西田騎兵少尉
5月18日  朝鮮騎兵第二十七聯隊軍紀祭


9月15日  関東大震災
9月18日  西田税、北一輝からの手紙受取る
「 大地震裂して、湧出せんとする地涌菩薩等の群に、難なきは論なし。
 同志一人と雖も、其の一々の同志の所縁公私を問はず、悉くを挙げて万死に落ちし者と雖も、生を全ふ致し候。
旧日本の死、而して新日本、誕生の屋床を浄むるに此の血、此の火を以てせむか。
九月十日      敬白      一輝 」
10月1日  菅波三郎、陸軍士官学校本科に入校す
12月27日  虎ノ門事件 ・・・
虎ノ門事件 「 少なくともここしばらくはなりませぬ 」 

大正13年
( 1924年 )  
春  西田騎兵少尉
西田税、広島の騎兵第五聯隊に転ず
12月朔日  西田税、『 
西田税 ・戦雲を麾く 』  稿

大正14年 ( 1925年 )  大岸頼好  『 兵農分離亡国論』 稿
2月16日  秩父宮、山陰路巡行
3月6日  午後10時~11時30分頃  西田税、松江の皆美館で秩父宮と懇談 ・・・
「 殿下、ここが、有名な安来節の本場でございます 」 
3月7日  午前8時~9時  米子~松江の車中  西田税、秩父宮と懇談
3月  
澁川善助 ・ 御前講演 「 日露戦役の世界的影響 」 
4月11日  西田税、大学寮へ ・・・ 西田税と大学寮 1 『 大学寮 』  西田税と大学寮 2 『 青年将校運動発祥の地 』 
5月  菅波三郎、北一輝著 「 日本改造法案大綱  」 と出合う
6月初め  西田税、予備役編入
7月  藤井斉、海軍兵学校を卒業す・・西田税を大学寮に訪問す
7月  村中孝次、大蔵栄一、香田清貞、陸軍士官学校卒業 ( 37期 )
7月19日 (日)  菅波三郎、北一輝を邸に初訪問す・・・菅波三郎 「 回想 ・ 西田税 」 
10月  村中孝次、大蔵栄一、香田清貞、少尉任官  村中、歩兵第二十七聯隊附に  香田、歩兵第一聯隊附に
10月  末松太平、西田税を大学寮に訪問す
12月暮  菅波三郎、西田税を大学寮に訪問す・・伴って北一輝邸へ・・行地社を脱退

大正15年 ( 1926年 )
1月3日  北一輝、行地社から出版予定の 『  日本改造法案大綱 』 を 西田税に与える・・・日本改造法案大綱 (2) 第三回の公刊頒布に際して 
2月  『 日本改造法案大綱 』 第三刊を発行 ・・・日本改造法案大綱 (14) 普及版の刊行に際して 
2月  西田税、代々木山谷に独立す
5月  西田税、宮内省怪文書事件起す
7月  磯部浅一、安藤輝三、陸軍士官学校卒業 ( 38期 )
8月  西田税、宮内省怪文書事件で入監す
10月  磯部浅一、安藤輝三、歩兵少尉に任官  磯部、歩兵第八十聯隊附に  安藤、歩兵第三聯隊附に

11月  磯部、少尉任官記念・・大邱で

12月25日  大正天皇崩御
次頁 みちのり ( 昭和元年~昭和 7年 ) に 続く


道程 ( みちのり ) 2 みちのり ( 昭和元年~昭和7年 )

2021年06月14日 06時21分43秒 | 道程 ( みちのり )


道程 ( みちのり ) 2
みちのり ( 昭和元年~昭和7年 )

前頁 みちのり ( 大正十五年迄 ) の続き

昭和2年 ( 1927年 )
村中孝次、中尉進級 
2月15日  西田税、宮内省怪文書事件で出所す
2月  西田税、『 士林荘 』 構る
7月  西田税、『 天劔党規約 』 を配布す・・・ 天劔党事件 (2) 天劔党規約 
9月中旬  西田税、天剣党事件 ・・・ 天劔党事件 (1) 概要  
11月5日  西田税、釈明の書簡発送す・・・ 天劔党事件 (3) 事件直後に発した書簡  
天劔党事件 (4) 末松太平の回顧録 

昭和3年 ( 1928年 )
2月中旬  藤井斉、海軍青年将校を糾合し王師会を結成 ・・・ 藤井斉 ・王帥会 
村中孝次、 陸軍士官学校予科区隊長 ( 第一中隊第区隊 ) に
  4月20日  磯部浅一、歩兵第八十聯隊軍旗際

昭和4年
( 1929年 )
 都会人 昭和4年6月 モガ 女性

昭和5年 
( 1930年 )
ロンドン条約問題 『 統帥権干犯 』 
      
左から
ロンドン会議前、首相官邸に於て懇談  浜口首相と海軍将星 昭和4年11月6 日
ロンドン会議 開会式で挨拶する 若槻全権  昭和5年1月21 日
ロンドン海軍軍縮会議 全権とその随員 
谷口軍令部長    加藤前軍令部長    東郷元帥
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1月22日  藤井斉 ・・・  藤井斉の同志に宛てた書簡 (1) 
4月3日  藤井斉 
『 憂国概言 』 
4月7日  藤井斉、西田を訪問す ・・・ロンドン条約問題の頃 3 『 藤井斉の同志に宛てた書簡 (2) (3) 』
4月29日  大岸頼好、兵火事件 ・・・西田税と青年将校運動 2 「 青年将校運動 」
10月1日  桜会誕生 ・・・桜会 ( 国家改造の目論見 ) 

11月14日  佐郷谷留雄、浜口雄幸首相襲撃
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後顧の憂い 


ルンペン ・・・貧困のどん底   東北農民 

都会と農村  ・・・
「 騒動を起したる小作農民に、何で銃口を向けられよう 」 
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昭和6年 ( 1931年 )
3月18日 三月事件 
7月  對馬少尉 『 現下日本の國狀に對する観察 』 ノート、著
7月13日  小桜会結集

7月末  齋藤瀏宅へ  栗原、中橋、對馬、丹生、坂井 ・・・
「 芋のつると麦こがすで飢えをすのいでおったです 」 
8月1日  定期異動  菅波中尉、鹿児島歩兵第45聯隊から歩兵第三聯隊へ転隊
  末松太平、戸山学校に入校す
  菅波三郎、安藤輝三と出逢う ・・・打てば響く鐘の音のように 
8月26日  青山の青年会館で郷詩会の会合
十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合 
井上日召 ・ 郷詩会の会合 前後 
藤井齊 『 昭和6年8月26日の日記 』 
9月1日  大岸頼好 『 皇政維新法案大綱 』 
9月10日  菅波三郎、歩三の青年将校に昭和維新を語る ・・・歩兵第三聯隊の将校寄宿舎 
9月中頃  歩三将校寄宿舎での集会 ・・・
歩兵第三聯隊の将校寄宿舎 
9月18日  満洲事変勃発
10月10日頃  香田清貞、菅波三郎を神宮アパートに訪る
10月17日  十月事件
11月中旬  末松、對馬、遠藤幸道、菅原軍曹、満州に出征
11月28日  秩父宮、陸軍大学校を卒業す
11月30日  秩父宮、歩兵第三聯隊に出勤す・・・第六中隊長
12月20日過ぎ  菅波三郎、秩父宮と会談
12月30日  下高井戸の松仙閣で陸・海・民間の同志、忘年会を催す
  西田、井上日召、菅波、・・大岸、西田のみに会う
  
昭和7年 ( 1932年 )
1月8日  桜田門事件  ・・
桜田門事件 『 陛下のロボを乱す悪漢 』  ・・桜田門事件 「 陛下にはお恙もあらせられず、神色自若として云々 」
1月28日  第一次 上海事件勃発 ( ~3月3日迄 )
1月末  香田大尉、菅波大尉より西田税を紹介される
2月5日  藤井斉、上海で戦死す
  「 藤井齊海軍大尉戦死 ( 於上海 ) 深く英霊ヲ祈リ、我等ハ氏ノ志ヲツイデ故人ニ恥ザラントス 」 ・・對馬勝雄
2月9日  血盟団小沼正、井上準之助を暗殺
3月1日  満洲国建国宣言
3月5日  血盟団菱沼五郎、団琢磨を暗殺
3月8日  血盟団井上日召、自首
3月11日  血盟団古内栄司、大蔵栄一の私宅で逮捕される ・・井上日召、自首す ・・・井上日召 ・ 五、一五事件 前後 
3月23日  歩三安藤中隊長室で陸海及候補生の会合 
  相澤少佐、村中中尉、朝山小二郎中尉、安藤輝三中尉、大蔵中尉、坂元士官候補生、中村海軍中尉
「 五・一五事件のとき、相澤中佐は、そのまえに麻布三聯隊の安藤大尉の部屋で、
中村義雄海軍中尉らが、陸軍の蹶起をうながしているところに、たまたま安藤大尉をたずねてでくわし、
『 神武不殺 』 、日本は血をみずして建て直しのできる国だといって、
中村中尉らをいさめ、若しやるときがくるとしても、年寄りから先きですよ、ともいって、
散りいそぐ若い人たちの命を愛惜した 」 ・・・末松太平著 「 私の昭和史 」

5月15日 (日)  五・一五事件 

早朝  西田税宅へ集合・・・菅波、村中、朝山、大蔵  ・・・「 士官候補生を抑えろ 」 
午後11時頃  菅波、村中、朝山、大蔵、栗原、陸相官邸へ
菅波三郎 ・ 懸河の熱弁 
菅波三郎 ・ 「 今日の事件は、お前がそそのかしてやらしたのだろう 」 
山口一太郎大尉の奔走  ・・・五・一五事件と山口一太郎大尉 (1) ・・・五・一五事件と山口一太郎大尉 (2) 

  西田税 撃たれる 
『 右胸部、右肩胛、右上膊、右側胸部、右手掌、右下腹部、銃創、
 五 ・一五、午後七時二十分頃遭難、午後九時半頃、順天堂入院
 夜半時々腹痛を覚ゆ。十二時輸血、一八〇瓦 ( 杉田 )
十六日、六時半、体温三八 ・一、脈搏一二〇、呼吸三〇。
午後○時半より腹部切開、手術約一時間午後二時半輸血、二〇〇瓦 ( 薩摩 )
この夜危篤、明朝迄保テザルベキヲ宣告セラレ、六時半、静脈注射 』
5月16日  水上源一、愛國團體 救國學生同盟 を設立し、事務所を千駄ヶ谷に置く
5月17日 
安藤大尉、『 昭和維新 』を幹部候補生に訓示す 
6月  磯部中尉、東京経理学校へ入学
6月30日  西田税退院
7月   磯部、西田税を訪ねる
7月中旬から一ヶ月 西田税、湯河原へ転地療養
 湯河原で

7月3日頃  西田税、菅波三郎と会う
紫の袱紗包み 「 明後日参内して、陛下にさし上げよう 」 
本庄日記 ・ 大御心 「 陛下と秩父宮、天皇親政の是非を論す 」 
7月始めの日曜日  磯部浅一、青山五丁目の菅波のアパートに初めて顔を出す・・・夢見る昭和維新の星々 
7月11日  血盟団 古内栄司、大蔵中尉宅で逮捕される
12月  村中孝次中尉、歩兵第二十六聯隊附に 陸軍大学校に入学
12月  大蔵栄一中尉、和歌山に大岸大尉を訪ねる ・・・大蔵栄一・大岸頼好との出逢い 
………………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  
左  昭和7年10月                                            
凶作地帯の惨状視察から帰った後藤農相の報告と、
持帰った稲や大豆の作柄を見て、予想以上の不作に愕然とする斎藤首相
右  満洲事変の戦死者
………………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

次頁  ( 昭和8年、9年 ) に 続く


道程 ( みちのり ) 3 みちのり ( 昭和8年、9年 )

2021年06月13日 05時19分10秒 | 道程 ( みちのり )


道程 ( みちのり ) 3
みちのり ( 昭和8年、9年 )

前頁 ( 昭和元年~昭和 7年 )  の続き

昭和8年 ( 1933年 )
1月  竹嶌継夫中尉、満洲より帰還 松平大尉、植田大尉と共に皇道維新塾を造る・・・村中、磯部、澁川との出逢い
1月1日  山口大尉、陸軍省へ荒木貞夫大将を訪ねる ・・・昭和八年元旦 
1月30日  ヒトラー、政権をとる
2月10日  相澤中佐、同志遠藤幸道大尉の慰霊祭に参加す ・・・中佐の片影・其二 『 如何としても忘れることの出来ないありがたいお方 』 
2月24日  国際聯盟脱退
3月  磯部、陸軍経理学校を卒業 二等主計になり原隊の朝鮮大邱第八十聯隊に帰還
3月28日  佐藤正三、西田税を初訪問 ・・澁川善助、對馬勝雄が居合わす
4月16日  澁川善助、渡満す
5月  佐々木二郎中尉、歩兵学校へ派遣  北一輝と会う ・・・大佐殿は満州事変という糞をたれた 
この頃・・・澁川善助、菅波三郎、『 在満決行計畫大綱 』 作成す
6月半ば  相澤中佐、北一輝宅へ  大蔵栄一も ・・・「 赤ん坊といえども陛下の赤子です 」
7月10日  神兵隊事件摘発
盛夏頃  青山三丁目のアジトに 村中、香田、安藤、磯部、栗原、大蔵、集う ・・・もう待ちきれん 
8月  磯部、近衛歩兵第四聯隊附に
9月10日  荒木陸相、高橋蔵相に重大提言
11月6日  幕僚と青年将校、九段上の富士見荘での会合 ・・・「 軍中央部は我々の運動を弾圧するつもりか 」 
11月13日  救国埼玉埼玉挺身隊事件 ・・・栗原中尉 ・ 救國埼玉挺身隊事件 
11月16日  幕僚と青年将校、偕行社での会合 ・・・「 軍中央部は我々の運動を弾圧するつもりか 」 
 福井特別大演習
11月末頃  西田税、池田純久少佐と激論 ・・・統制派と青年将校 「革新が組織で動くと思うなら認識不足だ」 
12月  相澤中佐、福山歩兵第四十一聯隊へ転任
12月23日 皇太子誕生の号砲・・・磯部浅一、斎戒沐浴する ・・・« 青山三丁目のアジト »
12月27日  林正義元海軍中尉、和歌山の大岸頼好を訪る
12月31日  大岸頼好、東京青山の磯部宅へ ・・・大蔵、安藤、林正義、他 多数集合・・・蹶起を慰留す< 註1 >
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< 註1 >
昭和九年の正月、休暇を利用して、市川 ( 芳男 ) らに約束した通り上京した。
こうして明石 ( 賢二 )、市川と私 ( 黒崎貞明 ) の三人は在京の革新将校の自宅を訪問して、早期の蹶起を要請した。
しかし私たちの意見に賛同してくれたのは栗原中尉ただ一人で、
北一輝、西田税をはじめ、村中孝次、安藤輝三、大蔵栄一、香田清貞らの各大尉は、
いずれも 「 時期尚早、軽挙妄動するな 」 の一点張りでわれわれをなだめるという始末であった。
「 五 ・一五事件の二の舞いでは駄目だ。次にわれわれが何事かをやるとすれば、 それはわれわれの最後のものとなる。
 ただ死ねばよいというものではない。この理が分からなければもはや絶好する以外にはない 」 というのである。
こうなっては取りつくしまもなく、三人はただスゴスゴと原隊に帰る以外にはなかった。
・・・中略・・・
昭和九年の正月、早期決行をうながすため東京の各先輩同志を歴訪した時のことが浮かんでくる。
「 よし。やろう。 捨て石は多数いらぬ。今、革新の必要を叫んで死ぬことは、犬死にになるとは思わぬ」
 と、唯一人賛成してくれたのが栗原中尉。
「 天の時、地の利、時の勢いというものがある。犬死にをしてくれるな 」
 と、涙声とともに諫めてくれたのは安藤大尉。
「 少なくない同志が次々と捨て石になってバラバラになったら、われわれの希求する革新は、ただ狂人の夢となるばかりだ。
 なるほど、明治の維新も幾百幾千の狂人の屍の上に成り立ったことはみとめる。
しかしそれは討幕の旗印を京都から得たからだ。
現在の日本は曲がりなりにも聖明のもとに法治国として存在し、幕府はないのだ。
この時にわれわれの微忠を示すことは至難のことである。
険悪な国防情勢のなかで、一刻も速やかに皇国の真姿を顕現せんと願うわれわれの赤心は、貴公らに決してひけはとらぬ。
死ぬときは一緒だ。
俺は理屈に弱い。 が不退転の決意は誰にも劣らぬと思っている。今のところは、原隊にかえってよい兵を練成してくれ 」
と、抱きしめてくれた村中大尉。
人間の安藤、理論の村中といわれた この二人に説得された私たちは、遂に決行をあきらめた。
その夜は北さんの配慮で、大蔵さんに連れられて神楽坂の料亭で痛飲した。

そして翌日、市川や明石とともにスゴスゴ原隊に帰ったのだった。
・・・香田清貞大尉の奥さんの手料理のチキンライスはうまかった  ・・・黒崎貞明著  恋闕 から
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昭和9年 ( 1934年 )
正月休み  大岸大尉、上京 大蔵栄一大尉宅へ ・・・大岸頼好の統帥論 

1月11日  水上源一、日本靑年党ヲ設立す ・・十年八月郷軍同志會ヲ設立
1月22日  荒木陸相辞任、林陸相に ・・・林銑十郎陸軍大臣 「 皇道派の方が正しいと思っている 」
2月8日  大御心 ・・・「 農民亦自ら楽天地あり 」
2月18日  村中大尉、同期生に通信 ・・・村中孝次 ・ 同期生に宛てた通信 
3月  中橋中尉、豊橋歩兵第十八聯隊に転属、満洲派遣さる
3月  村中孝次、香田、大尉に進級  香田、歩兵第一聯隊第十一中隊長に
3月  相澤中佐、中耳炎で慶應病院入院手術 ・・・相澤中佐の中耳炎さわぎ 
3月  末松太平中尉、満洲より凱旋上京 ・・・「年寄りから、先ですよ」  ・・
改造方案は金科玉条なのか  
3月5日  永田鉄山軍務局長に就任
5月  永田軍務局長、林銑十郎陸軍大臣、朝鮮、満洲を旅行す
7月  長瀬一伍長と安藤中尉、富士裾野の出逢い ・・・長瀬一伍長 「 身を殺し以て仁を為す 」 
8月  磯部、一等主計 ( 大尉相当 ) に進級  野砲兵第一聯隊附に
10月  末松大尉、千葉の歩兵学校へ学生として派遣さる
 
10月1日  陸軍パンフレット 国防の本義と其強化の提唱 ・・・村中孝次 『 国防の本義と其教化の提唱について 』 
10月6日  林銑十郎陸相、パンフレット問題で釈明す
10月23日  片岡太郎区隊長、武藤与一他三名の候補生に方便
10月24日  辻正信中隊長、佐藤候補生にスパイを指示
10月28日  西田税宅へ 皆が寄る ・・・村中孝次 「 カイジョウロウカク みたいなものだ 」
11月3日 ( 明治節 )  佐藤、武藤、村中宅へ
11月11日 (日)  佐藤候補生、村中宅へ  方便
 群馬、栃木、埼玉 特別大演習
11月中頃  末松大尉、村中に蹶起の時期を訪ねる ・・・村中孝次 「 やるときがくればやるさ 」 
11月17日 (土)  新宿宝亭で宴会  ・・・村中孝次 「 カイジョウロウカク みたいなものだ 」 ・・・栗原中尉と十一月二十日事件 
11月18日 (日) 佐藤候補生、三人の候補生と共に村中宅へ
11月20日  十一月二十日事件 ( 陸軍士官学校事件 )  村中、磯部、片岡、逮捕さる
12月末頃  末松太平大尉、辻正信大尉と面会・・・辻正信大尉 
12月31日 相澤中佐、大岸大尉、末松大尉、仙台へ   ・・・「 永田鉄山のことですか 」 
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  娘身売り 10月                     欠食児童 岩手県笹村11月

左  9月14日岩手県  凶作民 『 六萬余の窮民に衣類足袋を配給 』
右  10月22日 山形娘身売り 1 『 賣られる最上娘 』 

  
左  娘身売り 11月  
娘身売り 2 『 娘を賣る 悲慘な二戸郡 』
右  12月1日   十四娘を賣つた金四十圓の家と化す
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次頁  ( 昭和10年 ) に 続く


道程 ( みちのり ) 4 みちのり ( 昭和10年 )

2021年06月12日 14時02分48秒 | 道程 ( みちのり )


道程 ( みちのり ) 4
みちのり ( 昭和10年 )

前頁 ( 昭和8年、9年 ) の続き

昭和10年 ( 1935年 )
1月1日  相澤中佐と末松大尉 仙台で正月を共にする  ・・・「 永田鉄山のことですか 」 
2月  村中孝次、『
全皇軍青年将校に檄す 』 発送
2月25日  美濃部達吉博士、一身上の弁明 ・・・ 国体明徴・天皇機関説問題 2 「 一身上の弁明 」 
3月27日  村中、磯部、不起訴 ・・・ 
法務官 島田朋三郎 「 不起訴処分の命令相成然と思料す 」 
4月2日  磯部、村中、証拠不十分で不起訴となり釈放さる  同時に停職処分さる
4月4日  陸軍省、十一月二十日事件に関する公式に談話を発表す
4月4日  眞崎教育總監、国体明徴訓示・・・ 『 国体明徴 』 天皇機関説に関する真崎教育総監の訓示
4月9日  大御心 ・・・昭和十年四月九日 「 真崎教育総監の機関説訓示は朕の同意を得たとの意味なりや 」
4月19日  大御心 ・・・ 昭和十年四月十九日 「 朕が聴糺さんとせしことを陸軍は妨げんとす 」
4月20日  澁川善助発西田税、手紙 ・・・
末松の慶事、万歳!! 
6月  磯部、羅南に佐々木二郎大尉を訪ねる  ・・・「 佐々木、芸妓にも料理を出せよ 」 
6月  香田大尉、天津より帰還 ・・途中、宇品港外似島検疫所で相澤中佐と会見
6月3日  ・・・大蔵栄一大尉、戸山学校長岡幹事と対決 ・・・
此処に頑是ない子供がいる 「 命令、殺して来い 」 
6月14日  磯部、下関に帰着・・久留米に行き同志と会う
6月15日  磯部、若松大尉と会う  竹中、志岐
6月16日  磯部下関の野北中尉宅に一泊
6月20日  磯部、東京へ帰着
6月23日  渋谷区千駄ヶ谷五丁目九〇番地の 「 新宿ハウス 」 に転居  村中孝次と同居す
7月11日  「 
粛軍に関する意見書 磯部、村中・・・同日付で印刷、配布
7月12日  三長官会議
7月13日  栗原中尉、齋藤瀏少将宅へ ・・・
栗原中尉と斎藤瀏少将 「 愈々 正面衝突になりました 」 
7月16日  眞崎教育總監更迭

7月16日  大御心 ・・・昭和十年七月十六日 「 真崎大将が総監の位置に在りては統制が困難なる 」
7月17日  相澤中佐上京、永田鉄山軍務局長と面会  辞職を勧告す
7月20日  大御心 ・・・昭和十年七月二十日 「 教育總監更迭・・ 在職中御苦労であった 」
 
7月25日  大眼目  西田税、軍閥重臣閥の大逆不逞   村中孝次、
 教育總監更迭事情要点   
8月2日 磯部、村中、免官となる
8月11日  相澤中佐、明治神宮参拝・祈願
「 もし、私の考えていることが正しいなら成功させて下さい。 悪かったならば不成功に終わらせて下さい 」 
其晩、西田税宅に一泊  西田宅を訪問した大蔵栄一大尉と会話す ・・
「 時に大蔵さん、今日本で一番悪い奴はだれですか 」 
8月12日  午前9時40分頃  相澤中佐、陸軍省裏門に到着す
8月12日  相澤中佐、
永田軍務局長刺殺 ・・・大御心 「 陸軍に如此珍事ありしは 誠に遺憾なり 」 
朝  大蔵栄一大尉、西田税宅へ駆けつける  西田税、磯部浅一宅へ・・・磯部、陸軍省哨戒 ・・・相澤中佐事件 
    
13日の新聞                                     軍務局長室 外観            表門

8月    日  永田鉄山の葬儀  磯部、相澤中佐にリンゴを差入す
8月26日  相澤中佐、憲兵隊で訊問 ・・・
訊問調書 ・ 事件への道程 ( みちのり )  

9月3日   相澤三郎 發 西田税 ・・・特別弁護人選定の件
9月5日   10月5日
9月5日  川島義之陸軍大臣輔任
9月19日  
村中孝次 発 ・ 川島義之 宛 
10月5日  山田長三郎大佐自決
10月31日  磯部、新宿ハウスを出 一戸を構える ( 千駄ヶ谷五丁目八九七番地 ) ・・村中と別居す

11月2日  相澤中佐、起訴さる
11月3日  西田宅へ大蔵、村中、澁川 集る 途中満井佐吉来る
 国分特別大演習  13日
11月13日  西田税、相澤中佐に接見
11月19日  澁川善助、相澤中佐に接見
11月21日  大蔵栄一、相澤中佐に接見
11月22日  西田税、相澤中佐に接見
11月26日  西田税、相澤中佐に接見
12月  香田清貞、歩兵第一旅団副官に
12月3日  大蔵栄一、相澤中佐に接見
12月23日  丸亀歩兵第12聯隊の小川三郎大尉上京・・単独で古荘陸軍次官を私邸に訪問
12月24日  小川、磯部 ・・
眞崎大将、山下少将を私邸に訪問

・新宿御座敷本郷での會合
十二月ニ入ツテ私ハ大臣ニ對シ、内閣倒壊スベシト云フ意見ヲ進言シテ居リマス。
ソレハ村上大佐ヲ オ訪ネシテ大臣ニ傳言を依頼シタノデアリマス。
當時私ハ靑年將校ガ蹶起スル事ハ既定ノ事實デアルガ、
コレガ早發スルト失敗ニ終ル虞レアリ、
少シデモ合法的ニ行ケル丈ケハ行ッテオカナケレバナラヌ爲、
之ニハ倒閣ニ如カスト考ヘテオリマシタノデ、私ハ村上大佐ヲ通シ、大臣ニ進言シタノデアリマシタ。
ソレカラ十二月ノ二十四、五日頃ノ
新宿御座敷 本郷ノ會合ハ實質的 相澤公判ノ準備デアリマスガ、
コレハ私ト村中ノ相談ノ上デ 内閣倒壊ノ爲メノ一氣勢ヲ擧ゲタコトニアリマス。
即チ 此事ハ森木五郎少佐ヲ通シ
村中ガ山下少將カラ頼マレテ ( 幾分ノ金モ出テ居ルト思ヒマス )
當時議會ノ開院式當日 國體明徴ニ就イテ不信任案ヲ政友會ガ提出スル、
之ニ對シ 内閣ガ解散ヲセネバナラヌガ、之レニ對シ 陸軍大臣ガ署名ヲ拒否スル、
茲ニ内閣ハ倒レルト云フ事ニナルト云フ筋書デアッテ、
コノ大臣ガ署名ヲ拒否スル爲メニハ、
靑年將校ガ一中隊デ率イテ大臣ヲ罐詰ニスレバヨイト云フ計畫デアリマシタ。
ソレデ私ト村中トデ
外ニタイシテハ之レガ靑年將校ノ氣勢ヲアゲルト云フ外形的ナ名目デ、
而モ實質的ニハ相澤公判準備ト云フ事デ集マッタノデアリマス。
コノ事ハ私ト村中トノ外 他ノ同志モ知ラナイト思ツテオリマス。
コノ事ハ政友會ノ議ガ纏ラナカッタノデ中止ニナリマシタ。
・・・磯部淺一、憲兵聴取書 2 ・ 事前工作と西園寺襲撃中止 

栗原は 「 無為無策の岡田内閣をつぶしてくれたら思いとどまる 」 といった。
山口は同志将校と糾合、政友会の久原房之介と図って帝国議会開会式当日の十二月二十六日、
一種の無欠クーデターを起こし、内閣総辞職に追い込もうとした。
結果は久原の断念で失敗、以後、栗原らは山口の説得に耳をかさなくなった。
・・・山口一太郎大尉 「バウンダリー ・コンディシン」

12月25日  小川、村中・・古荘陸軍次官を私邸に訪問
・・・「 眞崎大将は辞表を出してはいない 」
・・・磯部浅一 「 統帥権干犯の事実あり 」
・・
『 栗原中尉の決意 』 
・・
河野壽 ・ 父の訓育 「 飛びついて殺せ 」 
12月27日  澁川善助、相澤中佐に接見
12月28日  香田清貞 ・ 眞崎大将を訪問 「 乃公は絶対に同意はしていない 」
12月30日  秩父宮、代々木陸軍衛戍刑務所巡視
12月31日  中村義明宅で志士集う
・・・
昭和十年大晦日 『 志士達の宴 』 
・・・
西田税 ・ 金屏風への落書 

次頁  前夜 ( 昭和11年1月1日~2月25日 ) に 続く


道程 ( みちのり ) 5 前夜 ( 昭和11年1月1日~2月25日 )

2021年06月10日 13時58分50秒 | 道程 ( みちのり )


道程 ( みちのり ) 5
前夜 ( 昭和11年1月1日~2月25日 )

前頁 みちのり ( 昭和 9年、10年 ) の 続き

昭和11年

1月1日  末松大尉、澁川善助西田宅へ ・・・昭和十年大晦日 『 志士達の宴 』 

  安藤、坂井、新井、高橋少尉他歩三将校十数名が皇居遙拝後 各皇族邸 首相官邸を廻り年賀の挨拶をする
1月3日  栗原中尉、仲間と共に齋藤瀏宅へ ・・・
昭和十一年正月
正月休み 對馬中尉 郷里青森に帰省
1月4日 澁川善助、相澤中佐に接見
1月7日  大眼目、渡邊教育總監に呈する公開質問状 掲載
1月8日  中橋中尉、豊橋で對馬中尉と会談

1月10日  山口一太郎大尉 ・ 壮丁父兄に訓示
1月10日  中橋中尉、満洲より帰還、近衛歩兵第三聯隊付となる
1月15日 夜  磯部、安藤と共に山下少将を訪う ・・・行動記 第十 「 戒厳令を布いて斬るのだなあ 」 
1月17日  常盤少尉、警視廳 突撃演習 ・・・昭和維新・常盤稔少尉

1月17日  大眼目、
渡邊教育總監に呈する公開状  
1月23日  磯部、森伝と共に陸相官邸で川島陸相と面会 ・・・行動記 第四 「 昭和十一年の新春を迎へて世は新玉をことほぐ 」
1月25日  西田税、相澤中佐に接見
1月27日  夜  相澤公判に備え亀川哲也宅に集う  満井佐吉中佐、西田税、村中、磯部、山口、香田、安藤
1月28日  第一回相澤公判
 
・ 
所謂 神懸かり問答 「 大悟徹底の境地に達したのであります 」 
第一回公判 ・ 満井佐吉中佐の爆弾発言 
 昼  磯部は早朝世田谷の真崎宅へ・・・行動記 第五 「 何事か起るのなら、何も云って呉れるな 」
 夜  龍土軒で会合 香田、山口、栗原、磯部、村中、安藤、澁川善助、亀川哲也  歩一、歩三の青年将校12、3名

1月30日  第二回相澤公判

2月1日  第三
回相澤公判
2月4日  第四回相澤公判
 同夜 龍土軒での公判報告会  報告は村中と澁川が担当す
 村中、磯部、栗原、丹生、林、池田、野中、安藤、坂井、高橋、清原、鈴木、常盤
 内堀大尉 小林美文中尉、中橋、河野、澁川
2月6日  第五回相澤公判
月8日  龍土軒の会合、磯部、香田、村中、澁川等の少人数
2月9日 
歩三週番指令室で安藤、栗原、中橋、磯部が会合
   午後5時過  十一中隊の某兵、帰営時間に間に合わず ・・・
「 おい、早くあの兵を連れ戻せ 」 
2月10日  西田税  五 ・一五事件で撃たれた時のセルの着物、控訴院から返却される
 村中孝次、相澤中佐に接見
 仝夜  歩三週番指令室で安藤、栗原、中橋、河野、磯部が初会合
2月11日  磯部浅一、西田税を訪る
 「 血が帰るというのは、縁起が良いことですよ、今年は良い事がありますよ 」
 その夜、磯部は相澤中佐の遺影に誓う  「 近く決行します 」
2月12日  第六回相澤公判 
 午後6時から竜土軒で公判報告会  磯部、村中、野中、香田、安藤、栗原、丹生
 高橋、常盤、新井中尉 歩一伊藤常男少尉47期
2月13日  西田税、相澤中佐に接見
「 若い大切な人達が輕擧妄動する様な事の無い様に 殊に御國が最も大事な時に臨んで居るから
 特に呉々も自重する様に貴方からも言って貰ひ度い 」

2月14日  第七回相澤公判 
 西田税、衛戍刑務所の相澤中佐から会いたいとの電話で出向く
2月15日  河野壽大尉、磯部宅へ来る
 野中四郎大尉週番指令に  安藤、磯部 山下奉文少将宅を訪問
2月16日  村中孝次  西田税を訪る
 夜   西田税、山口一太郎の私邸を尋ねる  「 栗原が飛び巡っている 」
2月17日  第八回相澤公判 
 公開禁止となり林前陸相の訊問が行われた

2月18日  山口大尉から西田税に電話・・・西田、栗原中尉を呼付ける
 午後六時過  栗原中尉、西田税を訪る ・・「 貴方には関係ない 」 ・・・私は諸君と今迄の関係上自己一身の事は捨てます
 夜  目黒区駒場の栗原宅に安藤、村中、磯部、 河野が集合・・二回目の謀議
2月19日  磯部浅一、西田税を訪る・・・大体の計画を打明ける ・・・行動記 第十一 「 僕は五一五の時既に死んだのだから諦めもある 」 
 午前10時  磯部、豊橋の對馬中尉宅へ
 夜  栗原宅で会合  磯部、村中、安藤、栗原
2月20日  夕方  安藤大尉、西田税を訪る
「 最近何かやろうと云ふ空気になつて居て、自分(安藤) はやるとなれば重鎮であるが、
後の事がよいか悪いか判断がつかぬと申しまして、一週間位前に将校が集って相談し、
其時、野中大尉に話をしました処、叱られました。
そこで一応断りました。村中にも話しましたが、同じ様に叱られました。
それで従来の例から、今度は全般の空気が治まらなくなつたと申して居りました。
尚、のつぴきならないから、若し貴方が反対すれば命も取らなければならないと申しておりました。
私は安藤に、僕の意見としては直接行動はやつて貰ひたくない。
場合によつてはやるべきだが、現在は時機ではないと申しますと、
安藤は大体私の意見を聞いた様でした。
今回の原因は、一つは満洲へ行く為でしたから、私は一般の人は実際に感心しないだろうし、
諸君がやれば僕も一緒にやられてしまふ。
どうしてもやるなら押へても押へ切れない時にやるべきだと申しまして、
藤井 (藤井斉海軍大尉) が上海で戦死した話をして、
私は自分の以前の体験からして、永年情誼の人がやる事であるから、之を理解さして、
やる事を留めなければ私の一生も棒に振って仕舞ふと申しまして、
諸君が是非やるなら私は留めないが、間違ひない様に僕は覚悟して居ると申しました 」・・・西田税憲兵調書原文のまま
私は諸君と今迄の関係上自己一身の事は捨てます
行動記 ・ 第十一 「 僕は五一五の時既に死んだのだから諦めもある 」 

2月21日  西田税、山口大尉宅を訪る

 磯部と村中、歩一の山口大尉を訪ねる
 夕刻  豊橋部隊会合、對馬中尉、竹嶌中尉、鈴木一等主計、塩田中尉、井上中尉 ・・・斯くて 興津の西園寺公望襲撃は中止された 
 午後11時頃  磯部、村中、澁川 は世田谷上馬の安藤宅へ
2月22日   第九回相澤公判 
 早朝  磯部浅一、安藤大尉私邸を訪ねる

 「 磯部 安心してくれ、俺はヤル、本当に安心してくれ 」・・・安藤大尉の決意
 安藤大尉、聯隊に到着し坂井中尉に参加の旨告げる
 正午前  第一師団の満州派遣が師団命令により聯隊将兵に通達せらる
 正午  安藤大尉週番指令に  野中大尉、安藤大尉より参加の決意を知らさる
 昼食後  坂井中尉、将校集会所で高橋少尉に蹶起の時期切迫を告げる
 午後4時  磯部、村中、四谷の野中大尉宅へ・・・「 野中大尉の決意書 」・・・『 
蹶起趣意書  ・・・※24日
 夕刻  高橋少尉、中隊将校室で坂井中尉と会合・・遺書を認 したた める
 夜  駒場の栗原中尉宅で栗原、中橋、河野、村中と磯部が集合・・・三回目の謀議
     ・・・『 尊皇討奸 の合言葉 』 決める ・・・
2月23日(日)   夕方  西田税、26早朝の蹶起を知る
 西田税、北一輝邸へ
 磯部浅一、西田税を訪ねる  ・・西田不在・・妻初子に26日早朝の蹶起を伝言を依頼
  ・・・
西田はつ 回顧 西田税 2 二・二六事件 「 あなたの立場はどうなのですか 」 
 朝まだき  林少尉、池田少尉を訪ねる ・・・池田俊彦少尉 「 私も参加します 」 
 午前中  栗原中尉、豊橋駅前の旅館 「 つぼや 」 で竹嶌、對馬と会合・・・栗原、深夜帰京
 午前中、磯部、田中中尉に 「 本日午後四時磯部宅に来れ 」 の電報を打つ
 午前11時  村中、香田大尉宅へ 
・・・香田清貞大尉の参加 
 午後3時前  澁川善助、小石川道場を出る。
 午後4時  田中中尉、磯部宅へ・・磯部、田中に決行の日時と計画内容を告げる
 夜  歩三週番指令室で安藤、野中、香田、坂井、村中、磯部が打合せ
 午後5時  澁川善助、湯河原駅に到着  ・・・
渋川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」 
 午後7時  歩三の週番指令室に安藤、香田、村中、野中、集合す・・・四回目の謀議
  ・・・合言葉 「 尊皇討奸 」 「 三銭切手 」 を決める・・・
午後5過  渡辺鉄五郎一等兵、帰営時間に間に合わず ・・・「 中隊長のために死のうと思っただけです 」 
2月24日  朝  歩一に出勤した栗原中尉、林少尉に蹶起計画を告ぐ
 朝食後  澁川、伊東屋別館を視察す
 午後  磯部、千駄ヶ谷の西田税宅へ・・西田税不在
 午後3時頃  常盤少尉、鈴木 清原少尉とともに野中大尉に呼ばれ蹶起の任務分隊を命ぜらる
 午後7時半  西田税、歩一週番司令室の山口大尉を訪問 ・・「 実に弱ったことになった 」
 午後9時頃  高橋少尉、麦屋少尉と共に斎藤内府私邸を偵察す
 午後10時過  西田税、岩崎豊晴私邸を訪ねる  ・・・
「 貴様が止めなくて一体誰が止めるんだ 」 
 午前0時半頃  西田税、帰宅  磯部の置手紙 ・・「 二月二十六日の朝だと都合が良いと云つてます 」 
歩一週番指令室で野中、香田、山口、村中、磯部 打合せ・・・五回目の謀議
※ 24日、北一輝宅の二階で村中孝次が、野中大尉の原文に筆を入れてできた。
事件前夜、歩兵第一聯隊で謄写印刷した。・・・河野司著 二・二六事件獄中手記遺書


2月25日  第十回相澤公判   眞崎大将出廷
 早朝  澁川、絹子夫人に西田税への手紙を託す
 午前8時30分頃  竹嶌、對馬、井上、板垣中尉と打合せ・・對馬と板垣が対立す ・・・
斯くて 興津の西園寺公望襲撃は中止された 
 西園寺公望襲撃中止、對馬、竹嶌は上京
 午前10時頃  澁川夫人、西田税宅へ・・西田書簡を開く・・磯部、村中共に・・牧野 伊藤屋別館に滞在中の報
 午後1時  村中、中野区鷺宮の自宅を出る ・・戸山町の中島少尉の下宿に寄る
 午後2時  安田少尉、中島少尉宅で村中、中島と三人で打合せす
 午後6時頃  香田大尉、帰宅す
 午後6時  山本又少尉、磯部宅へ到着
 午後6時頃  林少尉、池田少尉に蹶起を知らせる
 午後6時30分頃  香田大尉、歩一丹生中尉の処へ

 午後7時  磯部、山本、自宅を出る 歩一へタクシーで向かう
 午後7時頃  村中、安田、中島、タクシーで歩一の栗原中尉の許へ
 午後8時  山本少尉、磯部と共に歩一栗原中尉の許へ、 ・・・11中隊将校室の丹生中尉の許へ、村中、香田が既に居た
 午後7時頃  香田大尉、歩一の栗原中尉の部屋で野中、村中と会同 -- 丹生中尉の参加を確認す
 午後9時  村中、
蹶起趣意書を携えて丹生中尉の許に到り、
   山本又少尉 「 決起趣意書 」 印刷す ・・2時間かかる  ・・・ 山本又 『 我等絶體臣道ヲ行ク遺族ヲシテ餓ニ泣カシム勿レ 』
 村中、磯部、香田、要望事項の意見開陳案を練る、香田が通信紙に認める
 午後9時  栗原中尉、湯河原までの車二台予約す
 午後9時30分  7中隊下士官、10中隊下士官全員 ( 新井軍曹を除く )  第七中隊長室に集合す ・・・野中大尉 「 同志として参加してもらいたい 」
 午後10時頃  栗原中尉、聯隊本部の兵器掛 石堂軍曹を威し弾薬庫を開ける
 午後10時頃  鈴木少尉、10中隊の下士官を連れて野中大尉の許へ・・指揮下に入る

 午後10時過ぎ  水上ら湯河原襲撃組の民間人、栗原中尉に面会すべく歩一に入る
 午後11時  高橋少尉、常盤少尉、日本橋の末広亭での夕食を済ませ帰隊す
  河野大尉、機関銃隊に到着

午後11時  西田税、千坂海軍中将の通夜に行く

午後11時55分頃  安藤大尉、週番司令として柳下中尉に命令下達 ・・・・ 命令 「 柳下中尉は週番司令の代理となり 営内の指揮に任ずべし 」 

次頁 蹶起部隊 ( 26日、午前 ) に 続く


道程 ( みちのり ) 6 部隊編成 ( 出撃時 ) ・・・未完 中途

2021年06月09日 13時56分17秒 | 道程 ( みちのり )


昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花

道程 ( みちのり ) 6
部隊編成 ( 出撃時 )

陸相官邸 ・・ 川島陸相をして昭和維新を推進せしめる

香田清貞大尉  竹嶌継夫中尉  村中孝次  磯部浅一  山本又予備少尉
  香田、村中、磯部 の身辺護衛 ・・11中隊 ・ 横川元次郎軍曹、兵力4名

丹生部隊 ・・ 陸相官邸、及び陸軍省、参謀本部並びその周辺を警備
指揮官  丹生誠忠中尉  歩兵第一聯隊 第11中隊 ・ 中隊長代理  下士官兵164名
指揮機関
見習医官  板橋三郎
曹長  神谷 光
軍曹  豊岡久男
軍曹  前田仲吉  上等兵  根岸茜次郎  第一小隊第二分隊長 兵力8名  田中善一郎二等兵
伍長  水沢  益 第一小隊 ・ 第一分隊   黒米武次二等兵 ・参謀本部陸地測量部に直行し歩哨に立つ、27日参謀本部の警戒、28日山王ホテルで警戒

軍曹  中村伊三郎
班を以て編成
伍長  河内札雄
軍曹  高橋  元
伍長  坂本  静
伍長  青木典保  分隊  山形修次二等兵 ・ 陸相官邸の表門に立哨 ( 片倉少佐が玄関前で撃たれたのを目撃・・夕刻満井中佐の護衛として憲兵司令部へ )  引間忠雄二等兵
伍長  青木  武 第六分隊  堀口真助二等兵 ・ 陸相官邸内で歩哨に立つ
町田文平上等兵 機関銃隊第八分隊長として部下8名

第二小隊第三分隊 寺田宗次一等兵・・・26日は陸軍省、参謀本部の警備27日は新国会議事堂  幹部候補生田中孝司  鎌田  柏村  笈川原

六班 大田木春治  林勉  三班 伊藤春夫  ⑨宮川俊雄  ⑨浜中伍長  一班 林勤
鹿倉貞助二等兵  第三分隊 吉田徳治二等兵   武藤卯一二等兵



構内の庭に集合した吾々は、ここで丹生中尉から天聴に達せられたことや現在までの状況を聞かされた。
それによると
我々は今後、戒厳司令官の指揮下に入り、警備部隊として引続き現在地の警備に任ずることになったのであるが、
これは今日 一五・三〇布告された陸軍大臣告示によるものであった。
丹生中尉の話が済んでから議事堂に入ったが、未完成でとても宿営などできないので、
一時間後 山王ホテルに移った。
すると間もなく連隊から食事と小夜食が届いた。
ここにおいて我々は、初めて今朝からの行動が正当なものであることを認識したのである。
・・・・軍曹 横川元次郎

首相官邸 ・・ 岡田首相襲撃
對馬勝雄中尉

栗原部隊
指揮官 栗原安秀中尉  歩兵第一聯隊機関銃隊付  下士官兵288名
指揮機関
見習医官  羽生田  進
見習医官  船山市郎
第一小隊  機関銃隊 ・ 栗原安秀中尉
第一教練班
第一班
伍長  栗田良作  第一分隊 吉野初太郎一等兵
第二班
伍長  伊藤尚平
第三班
伍長  中川千代八  第三分隊 大畑常吉二等兵
班を以て編成
第二小隊  第一中隊 ・ 池田俊彦少尉
第二教練班
第四班
伍長  倉光達雄  篠田喬栄上等兵
第五班
伍長  三五 恒治       内野嘉重上等兵  小高脩平二等兵
第六班
軍曹  新井長三郎  新井分隊指揮班  藤原実二等兵  金子良雄二等兵
第三小隊  機関銃隊 ・ 林八郎少尉
第三教練班
第七班
軍曹  三沢万吉 小銃第七分隊  山崎太三二等兵  小野沢定一一等兵  森田耕太郎二等兵 
第八班
伍長  新井崇治
機関銃隊小隊  機関銃隊 ・ 尾島健次郎曹長 
9箇分隊
  倉持分隊 倉持善一一等兵  中村嘉一郎二等兵  平野栄一二等兵
尾島健次郎は栗原部隊の給与掛として参加 
本部附 山田曹長

春山安雄伍長勤務上等兵  第二小隊第三軽機分隊 村田万寿一等兵・・・28日栗原中尉の街頭演説溜池虎の門方面で護衛 
第二小隊重機第四分隊 分隊長石川新次郎上等兵  同内田松太郎二等兵
倉友上等兵と同じ班の村田宗晴二等兵 
  高橋義正二等兵
横道記武二等兵  国森四郎二等兵  小菅晴三郎二等兵  粕谷金平二等兵

志村義一  九班 宮川俊雄 九班 浜中伍長

鈴木侍従長官邸 ・・ 侍従長襲撃
中隊旗を先頭に機関銃隊、指揮班、門脇分隊、渡辺分隊 ( 軽機 )、奥山分隊、中村分隊の順に出発
安藤部隊
安藤輝三大尉  歩兵第三聯隊 第6中隊 中隊長  以下159名 +機関銃隊1箇分隊
歩兵第三聯隊  第六中隊
指揮官  中隊長 歩兵大尉 安藤輝三
指揮機関
給養掛 予備隊隊長  軍曹  渡辺春吉  軽機隊 平野正一二等兵
第一小隊長  曹長 永田 露
 第一分隊長  軍曹  中村 靖
 第二分隊長  伍長  大木作蔵  小林好雄上等兵
  父母様作蔵は尊皇討奸軍に分隊長として奮闘いたして居ります
   死は覚悟の上 御多幸を祈る

 第三分隊長  軍曹  奥山粂治  塩原政夫一等兵
第四分隊長  欠    小内温二等兵  谷川明
 第五分隊長  伍長  山田正男
       伍長  山岸憲二郎
第二小隊長  曹長 堂込喜市
 第一分隊長  軍曹  門脇信夫  斎藤正治二等兵  遠井康次二等兵
 小銃分隊長  伍長  相沢治索  大谷留五郎二等兵
   血書にて  生還ヲ期セス
 第三分隊長  軍曹  小河正義  相上国之進二等兵
機関銃分隊  軍曹  上村盛満    伍長  稲葉熊雄  山田徳一郎一等兵  長谷川常次郎二等兵 
上村小隊清水三造伍長勤務上等兵分隊 都築彰二等兵  飯塚嘉一二等兵   
上村盛満
父母様
自分は天皇陛下のために今日帝都に於て○○軍と交戦致しました
自分のことは心配されずに下さい
若し戦死致しましても永久に自分は護国の神となりますから父上様御一同大事に御働き下さい
尚保険証は自分の下士官室の本箱にあります御使用ください
自分は討奸軍の加入者です  尚帝都の最後を想ふ
理由は後で判る
昭和十一年二月二十八日 午後五時十五分

稲葉熊雄
正義に戦ひ戦死するのです  御安心下さい 
兄上  母上をお願ひ致します 
弟は軍人です 
皆様熊雄は此れで最後であります 
幸楽出発前  さようなら  

歩三機関銃隊の兵
分隊長として部下7名と機関銃田沼文保
小川分隊の後上銀次郎二等兵  歩三機関銃隊四班 大貫忠之助6
鈴木清伍長勤務上等兵  田沼留三郎伍長勤務上等兵  畑 和二等兵  川辺光三二等兵  山崎勢一二等兵
吉沢周作二等兵  斎藤弥一二等兵  吉野庫之二等兵  高野銀蔵二等兵  長谷川常次郎3:30出発

トホル  高野勇  高橋智宥  浜次  大貫安之助  四班水野幸太郎  四班石原常司  四班島村慎三  坂巻  丑之保
清水三造  坂東光雄  石岡晃武

六中隊の兵  後田清上等兵  安藤大尉の当番兵
ア 赤木育造  青鹿浜次  青鹿敬次  青井利之  疋野豊太郎  新井栄次郎  荒井一男  池田丑蔵    井去田孝次  井古田  石津邦雄
   市川善平  市瀬操一  石出功雄  市川善平  岩崎英作二等兵  臼井久蔵  氏江正一  海老崎厳  遠藤静
   一班 大谷武雄二等兵   大橋泰治  大熊栄吉二等兵  小川広吉  小川清広   四班奥幸雄  尾曾浜利一   小沢太助  大巻
カ 金子一男  金子武四郎  久保島豊作  木下岩吉  一班 木村長司  木村寿雄  来島史郎  黒岩清広   来島史郎
   小池トホル  小林好雄  鹿島重信  小室光一
サ 酒井光司二等兵  酒井美次郎   餐庭英三  佐原貴一  佐原貞一   佐原真一  塩谷政夫  清水章造  篠田武蔵
   島村慎三  一班 須藤居吉   鈴木覚道  鈴木清市  五班 酒井正雄  清水  佐藤洋四郎  進藤潔  坂巻喜一 

タ 平三郎  高橋直  高橋亘  高橋浜次  田辺正金  谷川明  田島春三  宝田喜市  田沼金一  寺沢一衛  戸田青昌  戸沢芳郎
ナ 一班 長島治平 名倉居男  永田縫造  長塚政雄  西川雅雄  根岸政吉  根岸秋次郎  沼田留治

ハ 林誠夫  尾藤敬信  林誠夫  早川善二郎   樋口栄一郎  平野正一 深野義男  古沢光五郎  堀恵雄
   本間六蔵  平田嶋敏

マ 町田蝶司  増田喬一等兵  松平利正  松本利正   三上武男  水野幸一  峰村憲二郎  森田忠太郎
   森田正治  森満喜治    

ヤ 横山次郎  吉田忠次郎  吉野音吉  山崎勢一  山根実蔵
ワ 若谷雅雄  渡辺金之助   渡辺鉄五郎一等兵
ン 政吉    信夫  保太郎
前島清伍長勤務上等兵

警視庁
野中部隊
野中四郎 大尉  歩兵第三聯隊 第7中隊 中隊長
歩三第7中隊 常盤稔 少尉  以下156名 + 機関銃隊   立石利三郎曹長が先任 16個分隊を編成、各中隊に分属する
歩三第3中隊 清原康平 少尉  以下152名 + 機関銃隊
歩三第10中隊 鈴木金次郎 少尉  以下142名 + 機関銃隊

7中隊、機関銃隊、10中隊、3中隊 の順で行進す
歩兵第三聯隊  第七中隊  第三中隊  第十中隊
野中中隊
指揮官  中隊長 歩兵大尉 野中四郎
野中大尉の伝令 小林泰四郎一等兵
指揮機関
曹長  田島粂次  河田三郎一等兵
給養掛
軍曹  安川良三
第一小隊  歩兵少尉 常盤 稔
軍曹  堀口秀暉  分隊長  兵力10名  ・・滝島淳二等兵
 只今より乱筆を振ひます  御許し下さい 
早や新聞等にて御覧のことと存じますが
昭和維新の光を国中に普くなびかせるため蹶起せし青年将校の一隊に自分も同志として加はり
行動しました
只今帝都は言語に絶せし大混乱を呈して居ります
而し義軍の自己聯隊に復帰と共に一段落をつげつつあります
廿六日午前四時聯隊を出発以来只今帰って参りました ( 二十九日午後一時四十分 )
これより下士官以下参加者全員何処に参ります
では御健康にて
歩三の七  堀口軍曹発  北平駐屯歩兵第一中隊  佐藤中尉宛
軍曹  薗田長太郎
軍曹  関根安司
第二小隊  特務曹長 桑原雄三郎 
軍曹  富田正三
伍長  木藤昌訓
軍曹  遠藤孟雄
伍長勤務上等兵  石川喜代吉 第一分隊長 兵力8名
第三小隊  曹長 堀宗一  六個分隊 ( 小銃隊四個分隊、軽機関銃二箇分隊 ) 兵力約50名
伍長  斎藤太郎
伍長  吉原 誠
機関銃隊 指揮 曹長  立石利三郎 
伍長  池田寿長  峯岸善吉一等兵
伍長  長島武雄  第一小隊長島分隊  西山隆之二等兵  野辺好文二等兵  天野正三二等兵
伍長  加藤義吉 第二分隊  中村正雄二等兵
兵 
第二分隊長斎田繁蔵上等兵
石川喜代吉伍長勤務上等兵    飯塚朝善上等兵  小野沢元次郎一等兵
金子平蔵二等兵  高野常二二等兵  滝島淳二等兵  須藤力市二等兵

キヨシ  五班 榎本勝次  五班 町田成   五班 石井  四班 鈴木善治  四班 山口三郎  四班 奈良兵吉  黒田光繁  石井 
五班 松本和吉  町田成  川上磯吉  政吉  山本千里  河上泉二

四班根岸昇  小室光一  進藤潔  尾藤敬信  渡辺金之助

第三中隊  歩兵少尉 清原康平
指揮機関
軍曹  藤倉勘市
軍曹  山本清安  須賀長市上等兵
第一小隊  藤倉軍曹
伍長  関根武雄  第一分隊  設楽善太郎二等兵  茂木菊之助二等兵
第二小隊  山本軍曹
伍長  宍倉正太郎
伍長  平林源一郎
第三小隊  神田軍曹
伍長  野村常吉  第三分隊  小川春之助二等兵
伍長  村上寅之助
第四小隊長  伍長 山崎精治
機関銃小隊  伍長 小座間三雄  野中啓助二等兵
機関銃分隊  渡辺正三分隊 庄乾之助二等兵  榎本仁二等兵
第一小隊第二分隊小池伍長分隊の浅見実二等兵

軍曹  神田 稔
兵  有川上等兵  増田上等兵
中津川章一伍長勤務上等兵  吉野新太郎伍長勤務上等兵  関小平衛生上等兵  志村正夫二等兵 
第一小隊第四分隊 新井治雄二等兵  第三小隊第四分隊長坂巻信一一等兵
軽機分隊長 沢田安久太郎上等兵  同分隊 角田四郎二等兵
田口守作一等兵  福田守次上等兵  山田光男二等兵  正田三代治二等兵  臼井政之助

五班 飯田芳男  横瀬英雄英男  四班内田正雄  山浦英之助  看護兵横山英男

第十中隊  歩兵少尉 鈴木金次郎・・・午前六時三十五分頃、内務大臣官邸
指揮機関
曹長  福原若男  第一小隊第一分隊  山田廣典二等兵
軍曹  伊沢正治  第一小隊第二分隊  橋本邦雄二等兵
給養掛
軍曹  伊高花吉
第一小隊
軍曹  新井維平  第四分隊  関口房明二等兵
軍曹  大森丑蔵
軍曹  井戸川冨次  第一分隊  茂木静雄伍長勤務上等兵
伍長  福島理本  福島分隊 島村一等兵射手、 富沢二等兵、岩井二等兵、岩田二等兵、加藤二等兵、遊馬二等兵、時女二等兵、坂元二等兵
 第五分隊長加庭勝治伍長勤務上等兵、荒木、吉岡、川島、平野、福島、大島、、秋本、坂本、高橋二等兵
伍長  松本佐太郎
伍長  宇田川銀次郎
  井沢
第四班下記の者
  宮崎上等兵・・5班の射手に、山口、千崎、新井、中山・・・一等兵三名は井戸川軍曹配下に

機関銃分隊
伍長  石橋精一  増田初一二等兵

第二小隊第三分隊佐藤上等兵  同分隊蓜島幸助二等兵
  同分隊荒木半平二等兵
斎藤修一上等兵   上松上等兵  島崎新八二等兵  二班 森雄蔵二等兵  細谷伊勢吉二等兵
星野宗市二等兵

佐原真一  森雄蔵

斎藤内大臣邸 ‥渡辺教育総監邸
坂井部隊
坂井直 中尉  歩兵第三聯隊 第1中隊  以下155名 +機関銃隊
歩三第1中隊 高橋太郎少尉
歩三第1中隊 麦屋清済少尉
砲口学校 安田優少尉
歩三第2中隊  長瀬伍長以下18名

部隊長  第一中隊 中尉 坂井直
将校  第一中隊附 少尉 高橋太郎
将校  第一中隊附 少尉 麦屋清済
将校  野砲第七聯隊 ( 砲工学校在学中 ) 少尉 安田優
曹長  第二中隊 渡辺清作
軍曹  機関銃隊 鳥羽徹雄  鳥羽分隊 柳下政治郎二等兵
軍曹  第一中隊 新正雄
軍曹  第一中隊 窪川保雄  軽機分隊長  中島与平衛上等兵  持田金三郎二等兵
軍曹  第二中隊 蛭田正夫
軍曹  第二中隊 小原竹次郎
伍長  第二中隊 北島弘
伍長  第二中隊 長瀬一
伍長  第一中隊 林武
伍長  第一中隊 梶間増治  小島久作二等兵   中野包房二等兵
伍長  第一中隊 木部正義  第一小隊第一分隊 羽島喜平上等兵  田中正蔵上等兵  第二分隊 江川太郎左衛門一等兵
伍長  第一中隊 内田一郎
伍長  第一中隊 丸岩雄
伍長  第一中隊 高岡庄之助
氏名不詳伍長一
兵  百九十一名
以上 将校四名、下士官十五名、兵百九十一名、合計二百十名

砲工学校 安田優少尉 以下総勢30名
歩三第1中隊 高橋太郎少尉 以下軽機2箇分隊、小銃2箇分隊
歩三第2中隊  蛭田軍曹、藤城軍曹、長瀬伍長 +兵5名
野重第七聯隊 自動車2輌

野砲七聯隊 砲兵少尉 安田 優

指揮機関
曹長  渡辺清作
給養掛
軍曹  新 正雄
第一小隊 歩兵少尉高橋太郎
軍曹  青木銀次
伍長  内田一郎
伍長  木田島弘
伍長  林 武
伍長  高岡庄之助
伍長  丸 岩雄  軽機分隊長
第二小隊 特志少尉 麦屋清済
軍曹  蛭田正夫
軍曹  青木銀次
機関銃分隊
軍曹  賭場徹雄
伍長  荒木直太朗
第一中隊の兵
第一小隊第三分隊長 小山市一伍長勤務上等兵
網倉清二  大八木泰蔵二等兵  岡田銀次郎  四班 岡田梅吉
笹井香  金森晴雄  小池一雄  小林善次 
坂巻喜一  佐藤洋四郎  酒井  鈴木正三
田沼金一  
一班 橋元勝蔵  藤田勝治  平田嶋敏  芳賀茂  水野幸一
第二中隊の兵
内笠井香一等兵  石沢生  中川正信上等兵    田島

午前五時五分頃
一隊は周囲を包囲 一隊は警察官に銃剣を擬して監視し 一隊は機関銃を持して屋内に侵入し
二階十畳の間 大臣寝室に闖入
→ 渡辺教育総監私邸 午前六時頃

高橋是清邸
中橋部隊
中橋基明 中尉  近衛歩兵第三聯隊 第7中隊  以下138名
近歩三第7中隊 今泉義道 少尉
砲工学校 中島莞爾 少尉
近衛歩兵第三聯隊 第七中隊  兵員約100
鉄道第二聯隊 工兵少尉 中島莞爾
中橋中隊
指揮官  歩兵中尉 中橋基明
長野峯吉一等兵 
歩兵少尉 今泉義道
近衛師団司令部付 曹長 大江昭雄
指揮機関
特務曹長  斎藤一郎
第一小隊  第一小隊  高橋蔵相邸襲撃
軍曹  箕輪三郎
第一班  第四班  第五班
第二小隊  第二小隊  宮城赴援隊として坂下門警戒
軍曹  宗形 安
第二班  第三班
兵 
近歩三第一中隊 金森晴雄
松本芳雄二等兵  茂木福重二等兵  龍前新也二等兵


一隊は軽機関銃二基を電車通り付近におきて交通を遮断し、
一隊は邸を包囲し、一隊は警戒中の警察官に銃剣を擬して監視し、
他は二階十畳の間に闖入

湯河原 --牧野伸顕 
河野部隊  総員8
所沢飛行学校 河野壽大尉 以下 8名
指揮官 航空兵大尉 河野 壽
指揮機関
歩兵第一聯隊 第六中隊 軍曹 宇治野時参
予備曹長 宮田 晃   栗原中尉が戦車第二聯隊時代の下士官
予備曹長 中島清治   栗原中尉が戦車第二聯隊時代の下士官
水上源一  栗原とは埼玉挺身隊事件以来の同志
予備上等兵 黒田昶  栗原が第五中隊付の当番兵
予備一等兵 黒沢鶴一  歩一出身
綿引正三  水上が連れて来た者


道程 ( みちのり ) 7 蹶起部隊 ( 26日 、午前 )

2021年06月07日 13時52分54秒 | 道程 ( みちのり )


昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
「 昭和維新の歌 」 を高唱しながら
三宅坂方面に向い行進する安藤隊

蹶起部隊出動経路 ・ 26日


道程 ( みちのり ) 7
蹶起部隊

前頁  前夜 ( 昭和11年1月1日~2月25日 ) の 続き

昭和11年 ( 1936年 ) 2月
26日 午前
午前0時30分頃  安藤大尉、柳下中尉に部隊の出動を通達す ・・・
命令 「 柳下中尉は週番司令の代理となり 営内の指揮に任ずべし 」 
午前0時30分頃  河野大尉の牧野伸顕襲撃隊、歩一を出発す
 磯部、河野壽大尉出発後、→ 歩三野中大尉と打合せ ・・・
下士官の赤誠 1 「私は賛成します 」 
 → 歩一 → 西田税宅へ  ・・・行動記 ・ 第十一  
午前2時30分頃  對馬、竹嶌中尉、歩一に到着
午前3時頃  歩一11中隊の下士官を起し、丹生中尉より蹶起趣意書を説明す
午前3時過  磯部、村中、香田、歩一11中隊の下士官室に赴く  丹生中尉、下士官全員に紹介す
午前3時30分  安藤部隊 ( 歩三第6中隊 )、出発す
午前4時頃  澁川善助、営門を出た安藤部隊 安藤大尉と歩一の前で会う
午前4時過  河野隊、湯河原到着
午前4時10分  坂井部隊 ( 歩三第1中隊 )、出発す
午前4時25分  野中部隊 ( 歩三第3、第7、10中隊 ) 出発す
午前4時30分頃  栗原部隊 ( 歩一機関銃隊 )、丹生部隊 ( 歩一第11中隊 )  表門から出発、歩一裏門で待つ野中隊と合流す
 丹生部隊、栗原部隊の後尾より首相官邸の坂道を上る ・・ 村中、香田、丹生 先頭、磯部、山本、後尾に付く
午前4時30分頃  亀川哲也、眞崎邸へ蹶起を知らせる
午前4時50分  中橋部隊 (近歩三第7中隊 )、出発す
午前4時50分頃  安藤部隊、鈴木侍従長邸に到着
午前5時前  栗原部隊、首相官邸に到着
午前5時  丹生部隊、陸相官邸に到着

午前5時 同時蹶起
栗原部隊、首相官邸襲撃開始 ・・・
行動記 ・ 第十三 「 いよいよ始まった 」 
安藤部隊、鈴木侍従長襲撃開始
坂井部隊、斎藤内府襲撃開始
中橋部隊、高橋蔵相襲撃開始
河野部隊、襲撃開始 ・・・
「 デンポウ ! デンポウ ! 」 
野中部隊、警視庁占拠開始
香田、村中、丹生隊と共に陸相官邸に突入 ・・・
香田清貞大尉 「 国家の一大事でありますゾ ! 」 

丹生部隊、陸相官邸を包囲、赤坂見附~三宅坂附近 ・ 参謀本部正門付近、陸軍省表門付近を警戒
山本予備少尉、丹生部隊と共に陸相官邸表門出入者を監視す
野中部隊、鈴木少尉 ( 歩三第10中隊 )、新撰組を急襲 ・・・
新撰組を急襲 「 起きろ! 」 

午前5時10分  中橋襲撃隊63名、蔵相門前に集合 → 中島少尉が引率して首相官邸へ向かう
中橋中尉、2箇小隊75名を引率 赴援隊として宮城半蔵門へ向かう  ・・・
「 近歩三第七中隊、赴援隊として到着、開門!」 

川島陸相、面会を渋る間、磯部浅一、正門、其他の部隊配置を巡回する  竹嶌中尉は首相官邸へ

午前5時25分  田中隊 ( 野重砲第七 )、陸相官邸へ来る  「 面白いぞ 」
中島少尉、陸相官邸へ報告に来る  「 高橋蔵相をヤッタ 」 → 首相官邸へ向かう ・・午前5時40分  首相官邸到着、その後は単独で陸相官邸、鉄相官邸、を往復する
午前5時40分  「 朕ガ首ヲ真綿デシメルヨウナモノダ 」  ・・・
「 俺の回りの者に関し、こんなことをしてどうするのか 」 
午前5時53分  中橋赴援隊62名半蔵門から宮城に入る

午前6時頃  安藤部隊、侍従長邸正門前で隊列を組み三宅坂方面に向かう  「 昭和維新の歌 」 を高唱しながら行進、
 安藤大尉、東京警備司令部の参謀福島久作少佐と接見す ・・・安藤大尉「 私どもは昭和維新の勤皇の先駆をやりました 」 
 午前6時頃  清原少尉 ( 歩三第3中隊 )、警視庁屋上占拠 ・・軽機2箇分隊、小銃2箇分隊 40名
午前6時頃  林少尉 ( 歩一機関銃隊 )、襲撃を終え首相官邸表玄関に集結す
午前6時頃  中橋襲撃隊、大江曹長以下60名首相官邸を包囲配備す
 野中部隊、 虎ノ門 日比谷 三宅坂に歩哨
 野中部隊 鈴木少尉 ( 歩三第10中隊 ) 二箇小隊を指揮して内相官邸を占拠、一箇小隊を残置し午前9時頃迄内務省附近を警戒
 坂井部隊 高橋少尉 ( 歩三第1中隊 )、陸相官邸に到着、参謀本部前を午前10時頃まで警備
坂井部隊 麦屋少尉 ( 歩三第1中隊 )、陸相官邸に報告に来る  「 斎藤内府をヤッタ 」
午前6時30分頃  安藤大尉、陸相官邸報告に来る  「 鈴木侍従長をヤッタ 」 ・・・
「 ヤッタカ !! ヤッタ、ヤッタ 」 
 野中部隊 常盤少尉、安藤大尉に状況報告す。・・・「 愈々 昭和維新が達成するか 」 ・・報告を受けた安藤大尉、感無量といった姿で天を仰ぐ
 安藤部隊全員、陸相官邸前に整列  安藤大尉から蹶起趣意書を読み聞かされる
午前6時15分  安藤大尉、東京警備司令部の参謀新井匡夫中佐と接見す
午前6時15分  中橋赴援隊、守衛隊司令官門間少佐の許へ到着
午前6時25分  中橋赴援隊、坂下門の非常警備配置に就く
午前6時30分頃  小藤大佐、山口大尉、首相官邸へ到着
午前6時30分過  小松陸相秘書官、陸相官邸へ到着
午前6時40分  安藤大尉、東京警備司令部安井藤治参謀長と接見・・接見後、兵数名を率い陸軍省裏門附近に亘る
午前6時40分過  香田、村中、磯部、漸く 川島陸相との面会に進展
午前6時45分  中橋中尉、午砲臺へ立つ
午前6時50分  田中自動車隊、首相官邸へ集結
午前7時頃  安田、高橋少尉 兵力30 渡邊教育總監私邸に到着襲撃開始
午前7時頃  磯部、村中、香田 川島陸相と面会
蹶起趣意書 」 「 川島義之陸軍大臣への要望書 」  朗読す
「 只今から我々の要望事項を申上げます 」 


陸相官邸 二月二十六日 
川島義之陸軍大臣 二月二十六日 
上部工作 「 蹶起すれば軍を引摺り得る 」 
私の想い ・ 二・二六事件 「 昭和維新は大御心に副はず 」
斎藤瀏少将 

午前7時過  斎藤少将、首相官邸に着く
午前7時20分頃  斎藤少将、栗原中尉に案内されて車で陸相官邸へ
 陸相官邸に着いた栗原中尉は折り返し朝日新聞社襲撃の準備す
午前7時30分  中橋赴援隊、坂下門を警備
午前7時30分~8時  坂井部隊 麦屋少尉、三宅坂道路上の警戒 ・・・
「 チエックリストにある人物が現れたら即時射殺せよ 」 
午前7時50分  警備司令部、第一師団に兵力撤収を命ず、近衛師団に出動を命ず
午前7時55分  中橋中尉、単独宮城を出る
午前8時頃  陸相官邸に眞崎大将到着 ・・・
行動記 ・ 第十五 「 お前達の心は ヨーわかっとる 」  ・・・川島義之陸軍大臣 憲兵調書 
眞崎大将が陸相官邸に到着との伝令に、安藤大尉、陸相官邸へ 並 野中大尉も陸相官邸へ
午前8時30分頃  香椎東京警備司令官、警備司令部に当庁
午前8時40分頃  栗原中尉、朝日新聞社襲撃に首相官邸を出る
 警視庁--参謀本部の路上で中橋中尉と遭遇  中橋中尉、そのまま襲撃に加わる
 午前8時55分頃  栗原隊、東京
朝日新聞社襲撃 
→ 日本電報通信社 午前・・頃 → 報知新聞社 午前9時30分
 → 東京日日新聞社 午前9時35分 → 国民新聞社 午前9時40分 → 時事新聞社 午前9時50分
・・・
朝日新聞社襲撃 『 国賊 朝日新聞を叩き壊すのだ 』  

安田優、渡邊教育總監襲撃の報告に来る・・前田病院に入院す
坂井部隊 高橋少尉、陸相官邸に到着 参謀本部前を午前10時頃まで警備

午前9時頃  古荘次官、石原大佐、山下少将、満井中佐、鈴木貞一大佐、陸相官邸に到着
午前9時30分頃  磯部浅一、陸相官邸の玄関で片倉少佐を射つ

・ 
「 エイッこの野郎、まだグズグズ文句を言うか 」 
午前9時頃  川島陸相 参内上奏する為 宮城へ向かう
 村中、磯部、香田 と 満井中佐、馬奈木中佐、山下少将と共に宮城へ向かう も、 参内は山下少将のみ
・ 川島義之陸軍大臣参内  
軍事参議官 宮中に集う 
午前9時30分  川島陸相、天皇に事件を奏上し、蹶起趣意書を読上げる
・ なにゆえにそのようなものを読みきかせるのか 

午前10時頃  眞崎大将、伏見宮邸に入る → 伏見宮上奏 ・・・伏見宮 「 大詔渙発により事態を収拾するようにしていただきたい・・」 
午前10時頃  西田税、小笠原海軍中将に事態収拾を電話で依頼す
安藤大尉「 私どもは昭和維新の勤皇の先駆をやりました 」 
午前10時  安藤部隊、三宅坂三叉路に陣地、・・27日正午まで桜田門の手前、半蔵門、隼町に歩哨警戒に当る
 坂井中尉、麦屋少尉と共に部隊を引率して赤坂見附から平川町に至り、
 市電停留所を中心に三宅坂、永田町、麹町四丁目、赤坂見附に歩哨  ・・・
歩哨線 「 止まれ !」 
午前11時前頃  村上大佐、三宅坂の安藤大尉に会う
午前11時頃  小藤大佐、山口大尉、陸相官邸に来る  ・・・
香田清貞大尉 「 陸相官邸の部隊にも給与して下さい 」 
午前11時頃  香椎警備司令官、山下少将と参内、川島陸相、真崎、荒木大将と会談す

西田税、首相官邸の栗原中尉に電話す ・・・西田税 (警調書2) 『 僕は行き度くない 』

正午  陸軍軍事参議官が正午までに全員参内す


次頁 蹶起部隊 ( 26日、午後 ) に 続く


道程 ( みちのり ) 8 蹶起部隊 ( 26日 、午後 )

2021年06月06日 14時22分52秒 | 道程 ( みちのり )


昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
「 昭和維新の歌 」 を高唱しながら
三宅坂方面に向い行進する安藤隊


昭和十一年二月二十六 午前九時半の蹶起部隊

道程 ( みちのり ) 8
蹶起部隊

前頁  蹶起部隊 ( 26日、午前 )の 続き

昭和11年 ( 1936年 ) 2月
26日 午後

正午  陸軍軍事参議官が正午までに全員参内す
昭和維新情報 第ニ報  正午現在・・・澁川善助、福井 幸、加藤春海、宮本誠三 ・・全国の同志に直送す
歩三聯隊より 野中隊に昼食届く ・・夕食も

午後  蹶起部隊、古荘次官を通じ、宮中の陸相に 「 蹶起部隊を義軍に認めるや否や 」 の決意を求める
午後1時頃  軍事参議官会議 ・・・
大臣告示の成立経過 
午後1時頃  栗原部隊 林少尉、陸相官邸へ・・・午後3時頃 首相官邸へ戻る
午後2時  山下少将、陸相官邸に於て 『 大臣告示 』 を朗読呈示
 香田、村中、磯部、野中、對馬の五人  古荘次官、鈴木大佐、西村陸軍省兵務局長、小藤大佐、山口大尉
・ 
大臣告示 「 諸子ノ行動ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム 」 
・ 「 軍当局は、吾々の行動を認めたのですか 」 
・ 
山口一太郎大尉の四日間 1 「 大臣告示 」 

午後2時30分  宮中で臨時政府会議が開催さる
二十六日の午後二時半、宮中では臨時政府会議が西溜りの間で開催された。
この会議の出席者の一人 内田鉄相のメモがそれである。
この場で川島義之陸相は、一木枢密院議長と閣僚たちを前に、早朝から状況報告を行なった。
そこで述べられた
「 蹶起軍の陸相への要望事項 」 とは
一、昭和維新を断行すること
二、之がためには先づ軍自らが革新の實を挙げ、
      宇垣朝鮮総督、南大将、小磯中将、建川中将を罷免すること
三、すみやかに国体明徴の上に立つ政府を樹立すること
四、即時戒厳令を布くこと
五、陸相は直ちに 用意の近衛兵に守られて参内し、我々の意思を天聴に達すること 
・・・
内田メモ 
・ 戒厳参謀長 安井藤治 記 『 二・二六事件の顛末 』 

午後3時  東京警備司令部より第一師団管区に戦時警備令  ( 「 軍隊に対する告示 」 ) が下令、 蹶起部隊、警備部隊に編入さる
 村上啓作大佐が 「 維新大詔 」 の草案を川島陸相に一部をみせる  ・・・
維新大詔  
午後3時  東京警備司令部、 「 軍隊に対する告示 」

午後3時頃  満井中佐、陸相官邸へ ・・・
満井佐吉中佐の四日間 
 
午後3時20分  「 陸軍大臣ヨリ 」 告示さる

午後3時30分  「 陸軍大臣ヨリ 」 蹶起将校らに伝達さる
午後4時  閣議開催さる
午後4時  一師戦警第一号
命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戦時警備部隊トシテ警備に任ず 」 
蹶起部隊、歩三渋谷聯隊長の指揮下に入り現在地警備の任務に就く
午後4時頃  小藤大佐、第一師団司令部招致せられ
 陸軍大臣告示 ( 諸子の行動とある分 )、
 軍隊に対する告示 ( 二月二十六日午後三時東京警備司令部 )
 第一師団命令 ( 二月二十六日午後四時於東京 )
を 受領す
午後5時30分  小藤大佐、歩一聯隊長室で 陸軍大臣告示、軍隊に対する告示、第一師団命令を下達す
・ 大臣告示の成立経過 
・ 
大臣告示 「 諸子ノ行動ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム 」

午後六時   澁川善助、
新宿宝亭で有時大尉と松平紹光と會う

昭和維新情報 第一報  午後7時現在・・・澁川善助、福井 幸、加藤春海、宮本誠三 ・・全国の同志に直送す

午後7時東京に警備令が発令のラジオ放送
午後7時30分頃  小藤大佐、
一師団司令部に招致せられ ・・一師戦警第二号、第一師団命令を下達
歩一警命第四号
歩兵第一聯隊命令  二月二十六日  於屯営
一、師団は昭和十年度戦時警備計画書に基き、担任警備地域の警戒に任じ、治安の維持を確保す。
二、予は本朝来行動しある部下部隊及歩三、野重七の部隊を指揮し、
 概ね 桜田門、公園西北角、議事堂、虎の門、溜池、赤坂見附、平河町、麹町四丁目、半蔵門を連ねる線内の警備に任ぜんとす。
歩兵第三聯隊長の指揮する部隊は其他の担任警備地区の警備に任ずる筈。
三、聯隊主力は古閑中佐の指揮を以て待機の姿勢に任ずべし。
聯隊長  小藤大佐
下達法  命令受領者を集め、口達筆記せしむ。

昭和維新情報 第三報  午後8時現在・・・澁川善助、福井 幸、加藤春海、宮本誠三 ・・全国の同志に直送す


午後8時15分  陸軍省公式発表
午後9時  内閣総辞職  「 速やかに暴徒を鎮圧せよ 」

午後9時頃  三宅坂の安藤大尉の許へ、柴有時大尉、松平紹光大尉、來訪 ・・二人共陸相官邸へ
午後10時頃  軍事参議官と会談、村中、磯部、對馬、栗原、山下少将、小藤大佐、鈴木大佐、山口大尉、立会う
・ 
行動記 ・ 第十八 「 軍事参議官と会見 」 
・ 山口一太郎大尉の四日間 2 「 総軍事参議官と会見 」 
・ 
軍事参議官との会見 「 理屈はモウ沢山です 」 
夜  磯部、村中、香田、陸相官邸に宿泊

次頁 蹶起部隊 ( 27日 ) に 続く


道程 ( みちのり ) 9 蹶起部隊 ( 27日 )

2021年06月05日 09時00分23秒 | 道程 ( みちのり )


昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花

蹶起部隊占拠地域

道程 ( みちのり ) 9
蹶起部隊

前頁 蹶起部隊 ( 26日、午後 ) の 続き

昭和11年 ( 1936年 ) 2月

27日

午前2時頃  陸相官邸に於て軍事参議会と会談、結論出ない侭終了 ・・ 村中、香田、磯部、野中、栗原、對馬、竹嶌
午前2時頃  石原大佐、橋本大佐、満井中佐、亀川哲也 帝国ホテルで会談
午前2時20分  戒厳を宣告
午前2時40分  枢密院が戒厳令の施行を決定す
午前3時頃  村中、亀川哲也、満井佐吉中佐、帝国ホテルへ  ・・・
帝国ホテルの会合 
 村中、陸相官邸で撤退を協議、野中、香田、安藤、磯部、栗原  ・・・「 国家人無し、勇将真崎あり 」 
午前3時50分  東京市に戒厳令公布
午前4時40分  戒厳司令部より 「 戒作令第一号 」が下令さる
戒作命第一號  
命令  ( 二月二十七日午前四時四十分 於 三宅坂戒嚴司令部 )

一、今般昭和十一年 勅令第十八、第十九號ヲ以テ
 東京市ニ戒嚴令第九、第十四條ノ規定ヲ適用セラルルト同時ニ、
 予ハ 戒嚴司令官ヲ命ゼラレ 從來ノ東京警備司令官指揮部隊ヲ指揮セシメラル

二、予ハ 戒嚴地域ヲ警備スルト共ニ、地方行政事務及司法事務ノ軍事ニ關係アルモノヲ管掌セントス、
 適用スベキ戒嚴令ノ規定ハ第九條及第十四條第一、第三、第四ト定ム
三、近衛、第一師團ハ夫々概ネ現在ノ態勢ヲ以テ警備ニ任ズベシ
四、歩兵第二、第五十九聯隊ノ各一大隊及工兵十四大隊ノ一中隊
 竝陸軍自動車學校ノ自動車部隊ハ、依然現在地ニ在リテ後命ヲ待ツベシ

五、憲兵ハ前任務ヲ續行スルノ外、特ニ警察官ト協力シ戒嚴令第十四條第一、第三、第四の實施に任ズベシ
六、戒嚴司令部ハ本二十七日午前六時九段軍人會館ニ移ル
戒厳司令官  香椎 浩平
下達法  命令受領者ヲ集メ印刷セルモノヲ交付ス

軍隊區分
麹町地區警備隊
  長 歩兵第一聯隊長 小藤大佐
  二十六日朝來出動セル部隊

 
蹶起部隊、麹町地区警備隊に編入せられ、戒厳令下での治安維持任務に就く

午前5時頃  三宅坂の安藤大尉の許へ、柴有時大尉来訪す


午前6時  戒厳司令部が九段の軍人会館に移る

午前7時  田中隊、陸相官邸から首相官邸へ移動
午前8時  丹生部隊、歩哨を残し主力は新国会議事堂 (  新議事堂附近に集結待機 ) に移る 
午前8時15分  「戒作令第一号 」 が発表さる
午前8時20分  昭和天皇 奉勅命令を裁可 ( 発令は28日午前5時8分 )


主力を新議事堂附近に集結
午前9時頃  警視庁附近警戒の野中部隊 鈴木少尉 ( 歩三第10中隊 )、新国会議事堂に集合
午前9時頃  西田税、首相官邸の磯部に電話 ・・北一輝の 「 霊告 」 を伝える  ・・・「 国家人無し、勇将真崎あり 」 
午前10時頃  丹生部隊、山王ホテルへ
午前中  香田大尉、村中、戒厳司令官を訪問  皇軍相撃つことなき様意見上申

午前10時30分  野中部隊 清原少尉 ( 歩三第3中隊 )、1箇小隊を率い華族会館を襲撃
 栗原中尉来て蹶起趣意書を朗読す ・・・
華族会館襲撃  
午後0時10分  安藤部隊・・・新議事堂へ移動
正午  坂井部隊・・・陸軍省東北角配備 → 新議事堂附近に集結
正午  香田、村中・・・戒厳司令部へ ・・香椎、参謀長、石原大佐、柴大尉と面接 → 首相官邸へ 栗原、磯部と会う
午後  大御心、
 「 彼等は朕が股肱の老臣を殺戮したではないか 」  



午後1時頃  安藤部隊 新国会議事堂附近に集結
井出宣時大佐、安藤大尉と面会 ・・・小川軍曹がいきなり大佐を射殺すると言い出し大尉に止められる一幕あり

午後1時頃  坂井部隊 高橋小隊、新国会議事堂裏の広場に集結す
午後1時27分  岡田啓介首相、官邸より脱出す
午後2時頃  野中部隊 鈴木少尉以下10中隊、警視庁に戻る

主力を新議事堂附近に集結
午後2時  野中部隊 3中隊、7中隊、10中隊、新国会議事堂へ向かうも途中で引返す
午後3時頃  安藤部隊、幸楽へ向かう
いまの参議院西通用門の口にまわってのぞいて見ると、
安藤輝三大尉が出来かけの石段の上に立って部下中隊に訓示と命令を達しているところであった。

時刻はたしか (27日) 午後三時ごろであった。
「 小藤大佐の指揮下に入り、中隊は今より赤坂幸楽に宿営せんとす・・・・」
よくとおる安藤の声がハッキリ聞こえてくる。 
・・・「 今夜、秩父宮もご帰京になる。弘前、青森の部隊も来ることになっている」
 同期生宇田武次 、幸楽で安藤大尉と会う
午後4時  鈴木少尉以下10中隊、新国会議事堂中に集合
 常盤少尉 ( 歩三第6中隊 )、一箇小隊を率い新国会議事堂へ

午後4時  東京台場に戦艦長門他40隻の艦隊が集結し砲口を永田町一帯に向ける

午後4時30分  将校全員陸相官邸に集合、山口大尉より宿舎命令を受ける
 鈴木少尉以下10中隊は鉄相官邸、清原少尉以下3中隊は文相官邸、
 其の後、野中大尉以下7中隊、香田大尉は鉄相官邸、蹶起部隊本部を鉄相官邸に置く
 10中隊は文部大臣官邸、栗原・中橋隊は首相官邸、

午後4時59分  秩父宮、上野駅に到着す

午後5時頃  陸相官邸へ集合命令・・17、8名が集合
 真崎、西、阿部の三大将と蹶起将校 陸相官邸で会見、 真崎大将に時局収拾を一任す
・・・
行動記 ・ 第十九 「 国家人なし、勇将真崎あり 」 
・・・山口一太郎大尉の四日間 3 「 総てを真崎大将に一任します 」 


午後6時頃  陸相官邸へ将校全員集合
午後6時  丹生部隊、山王ホテルへ  ( ・・・午後8時山王ホテルへ )

午後6時30分  丹生中尉、山王ホテルへ・・・歩一11中隊は山王ホテルに宿営
午後6時30分  安藤部隊、坂井部隊、幸楽へ向かう
午後6時半  坂井部隊・・・幸楽へ入る
午後6時半頃  安藤部隊、尊皇討奸の旗を先頭に幸楽へ入る 
 今晩秩父宮様が弘前を御出発上京の情報、中隊長以下各幹部 涙にむせぶ。 ・・・「 今夜、秩父宮もご帰京になる。弘前、青森の部隊も来ることになっている」
午後7時  戒作命第九号 発令
戒作命第九號 
( 近衛師團長ニ与フルモノ )
命令  二月廿八日午前七時  於九段戒嚴司令部
一、貴官ハ半蔵門附近ニ自動貨車積載部隊若干ヲ準備シ情況ニ應シ機ヲ失セス 陸軍省參謀本部ヲ確保スヘシ
 但シ目下平穏裡ニ占據部隊ヲ撤去セシメ得ルノ見込大ナルモノアルニ鑑ミ
之ヲ刺戟シ不測ノ事端ヲ醸成セサル事ニ關シ留意ヲ要ス
戒厳嚴司令官    香椎浩平
下達法  電話ニ依ル

午後7時頃  澁川、加藤、佐藤らと留守の西田税宅に集る・・佐藤、青森の末松大尉の許へ向かう
午後7時頃  清原小隊、華族会館を出  午後7時半頃 大蔵大臣官邸へ、
田中隊 ・磯部、山本又少尉は農林大臣官邸  歩三第10中隊は文相官邸
坂井部隊、幸楽へ

澁川善助、皇道維新聯盟へ ・・・柴有時大尉と共に鐡相官邸へ

午後7時  栗原中尉、幸楽で演説

午後8時頃  村中、北一輝邸を訪問  北、西田、亀川と会合 ・・・北一輝 (警調書2) 『 仕舞った 』

午後10時  新井中尉、幸楽の安藤大尉に面会、続いて 山王ホテルの丹生中尉に面会 ・・・
地区隊から占拠部隊へ 

午後11時頃  磯部、首相官邸を夜襲して武装解除するとの風説の報告を受ける

終日  陸相官邸に在したる者、柴大尉、山口大尉、小藤大佐、鈴木大佐

次頁 叛乱部隊 ( 28日 ) に 続く


道程 ( みちのり ) 10 叛乱部隊 ( 28日 )

2021年06月04日 13時49分53秒 | 道程 ( みちのり )


昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花


道程 ( みちのり ) 10
叛乱部隊

前頁 蹶起部隊 ( 27日 ) の 続き

昭和11年 ( 1936年 ) 2月
28日

午前3時  小藤大佐、鈴木大佐、山口大尉、柴大尉、戒厳司令部に於て戒厳司令官と会見
、意見具申す
 山口大尉、午前6時迄戒厳司令部に留まる
 ・・・彼らは朕が股肱の老臣を殺戮したではないか 
・・・
山口一太郎大尉の四日間 4 「 奉勅命令が遂に出た 」 

午前5時8分  
奉勅命令  が発令さる


早朝  西田税宅へ原宿署の特高が押掛ける・・澁川追い返す→ 澁川、幸楽へ向かう
うちに 原宿署の特高が来たのです。
そしていきなり玄関に上がり込んだのです。
「 西田さんいますか 」
「 おりません 」 と言いましたら
「 家宅捜索をする 」 と言って、それで私と押し問答しましたときに澁川さんが出てきたのです。
令状を持ってないのに土足で踏み込むとは何ごとか、家宅侵入罪で訴えてやる、
そんなもの出ているはずがないから、いま首相官邸に電話をかけて聞くから待っておれ、
と言ったら、原宿署の特高が逃げて帰っちゃったんです。
半信半疑で来たんですね。原田警部という方でしたが、逃げて帰ったんです。
それから澁川さんが様子が変だというので出られたのです。 ・・・西田はつ 

午前6時頃  村中、香田大尉、陸相官邸に小藤大佐に会う

朝  磯部浅一、憲兵隊神谷少佐と戒厳司令部へ行く ( 農相官邸 → 軍人会館 )
 磯部浅一、香椎司令官に面談叶わず、石原大佐、満井中佐と会談 ・・・
行動記 ・ 第二十 「 君等は 奉勅命令が下ったらどうするか 」 
朝  香田大尉、村中、對馬中尉、外1名、第一師団司令部で佐藤正三郎少将と会う
  
午前6時頃  第5中隊小林美文中尉、 幸楽の安藤大尉に面会 ・・・
小林美文中尉 「 それなら、私の正面に来て下さい。弾丸は一発も射ちません 」 
午前6時45分  山本又少尉、単身戒厳司令部を訪れる
午前7時頃  山口大尉、偕行社に真崎、荒木に会う
午前7時10分頃  山本又少尉、新国会議事堂へ至り蹶起将校を集める

午前7時30分頃  満井中佐、香椎司令官の斡旋で川島陸相、杉山参謀次長に会見を申入れる ・・・
満井佐吉中佐の四日間 

午前8時頃  戒厳司令部で満井中佐と川島陸相、古荘陸軍次官、今井清軍務局長、
 杉山参謀次長、香椎戒厳司令官、安井戒厳参謀長、林銑十郎大将、荒木大将ら軍首脳が協議
 昭和維新断行か否かの上奏案が読上げられるが、杉山参謀次長の強硬な反対で却下さる ・・・
撤回せる上奏案 
午前8時頃  小藤大佐、奉勅命令の原本と第一師団命令 ( 一師戒令第三号 二月廿八日午前六時三十分発令 ) 受領す
午前8時45分  磯部、神谷憲兵少佐と同行し戒厳司令部へ・・大臣に面会希望・・許されず
 
午前9時頃  陸相官邸に蹶起将校集合  野中、香田、山口、對馬、清原、鈴木、他多数
午前9時20分頃  神谷憲兵少佐に案内され磯部、戒厳司令部に赴く

午前9時20分頃  幸楽へ集合の呼びかけ  
鈴木少尉、村中と共に自動車で幸楽へ
 「 部隊を離れてはいかん 」 と、安藤大尉に叱られ村中の自動車で文相官邸に戻る

午前  村中、香田、對馬、第一師団司令部へ赴く ・・・リンク→行動記・第二十一 統帥系統を通じてもう一度御上に御伺い申上げよう

午前10時頃  澁川善助、幸楽に到着・・坂井部隊と行動を共にする

午前10時頃  村中孝次、安藤大尉に吉報を持ってくる。
 「 闘いは勝った。われらに詔勅が下るぞ、全員一層の闘志をもって頑張れ 」

午前10時10分頃  戒厳司令官 ・ 香椎浩平 
「 私の決心は 変更いたします。討伐を断行します 」

午前10時40分頃  第一師団長堀丈夫中将、戒厳司令部に招致せらる
 其の後、香椎司令官の承諾を得て皇軍相撃を避ける為に陸相官邸に向かう

午前11時頃  杉山参謀次長
参内、本庄侍従武官長に反乱部隊の武力討伐方針が決定した旨を報告
午前11時頃  田中中尉、車輌隊を指揮して首相官邸へ
正午 清原少尉、陸相官邸に集合・・・幸楽の安藤大尉の許へ・・・蔵相官邸へ戻る、夜三宅坂の警備
正午過  戒厳司令部に反乱将校は自決し、下士官兵は原隊復帰するとの報告が入る
正午頃  村上大佐、幸楽の安藤大尉を訪ね 「 維新大詔 」 の原稿を見せ撤退を諭す

午後1時~2時頃  陸相官邸で 栗原、野中、磯部、山下少将、鈴木大佐、山口大尉、柴大尉、現状打開に付懇談す
「 勅使の誤差遣を願ふ 」 ・・・行動記 ・ 第二十一 「 統帥系統を通じてもう一度御上に御伺い申上げよう 」 
川島陸相、山下少将、本庄侍従武官長を訪問し、蹶起将校が自刃するための勅使派遣を要請する
大御心 ・・「 自殺するなら勝手に自殺するがよかろう 

午後1時頃  村中孝次、安藤大尉に 「 今までの形勢はすっかり逆転した。もう自決する以外道はなくなった 」 と告げる

午後1時頃  安藤部隊、白襷をして戦闘準備す
  村中、新国会議事堂南角路上で堀第一師団長の自動車と遭遇す

午後2時頃 文相官邸の鈴木少尉の処へ清原少尉来る →  清原少尉に促されて鈴木少尉、円タクで警戒区域を巡回す
午後2時頃  磯部、田中隊と栗原部隊の一部を率いて閑院宮邸附近を警戒
・・・
行動記 ・ 第二十二 「 断乎 決戦の覚悟をする 」 

午後2時40分頃  秩父宮邸で森田大尉が現状報告す
秩父宮殿下ノ歩兵第三聯隊ニ賜リシ御言葉
一、今度ノ事件ノ首謀者ハ自決セネバナラヌ。
二、遷延スレバスル程、皇軍、国家ノ威信ヲ失墜シ、遺憾ナリ。
三、部下ナキ指揮官 ( 村中、磯部 ) アルハ遺憾千万ナリ。
四、縦令軍旗ガ動カズトスルモ、聯隊ノ責任故、今後如何ナルコトアルモミツトモナイコトヲスルナ。
      聯隊ノ建直シニ将校団一同尽瘁セヨ。

午後3時頃  安藤部隊、下士官兵遺書を書く
午後4時 (2時) 頃  坂井部隊、幸楽を出て参謀本部へ
参謀本部を占領敵わず、陸軍省、参謀本部を配備 ・・坂井中尉、澁川善助は陸相官邸へ

午後 
蹶起部隊本部から行動部隊下士官兵に檄文を配布 

午後4時  戒厳司令部に蹶起将校、下士官兵は帰順せずとの報告が入る

午後4時30分頃  西田税、首相官邸の栗原中尉に電話す
午後4時30分頃  安藤大尉、府立一中を視察す

夕方  栗原中尉、西田税宅へ電話する 
首相官邸から電話がかかってきまして
「 いろいろ長い間お世話になりましたけれども、奥さん、これが最後です 」
 ・・・西田はつ 回顧 西田税 2 二・二六事件 

午後5時30分  第一師団参謀長 舞伝男大佐、歩三聯隊長渋谷大佐、森田大尉、
 農相 ( 文相 ) 官邸に野中大尉 ( 傍に村中 )、幸楽の安藤大尉を訪ね帰順を説得
・・・
「 私は千早城にたてこもった楠正成になります 」 

午後6時  香田大尉、陸相官邸に小藤大佐を訪問情況を聞く → 香田大尉、第一師団司令部に於て師団長に面接
午後6時  陸軍大臣通達
陸密一三三号
事件に関する件 ( 二月二十八日午後六時 )
昭和十一年二月二十八日
陸軍大臣    川島義之
第一師団長殿
今次三宅坂占拠部隊幹部行動ノ動機ハ、
国体ノ真姿顕現ヲ目的トスル昭和維新ノ断行ニアルト思考スルモ
其行動ハ軍紀を紊リ国法ヲ侵犯セルモノタルハ論議ノ余地ナシ、
当局ハ輦轂れんこくノ下、同胞相撃ツノ不祥事ヲ可也避ケ、
為シ得レバ流血ノ惨ヲ見ズシテ事件ヲ解決セントシ、
万般ノ措置ヲ講ジタルモ未ダ其目的ヲ達セズ
痛ク宸襟ヲ悩シ奉リタルハ寔ニ恐悚恐懼ノ至リニ堪エズ、
本職ノ責任極メテ重且大ナルヲ痛感シアリ
陛下ハ遂ニ戒厳司令官ニ対シ最後ノ措置ヲ勅命セラレ
戒厳司令官ハ此勅令ニ反スルモノニ対シテハ仮令流血ノ惨ヲ見ルモ断乎タル処置ヲ執ルニ決心セリ
事此処ニ至ル、順逆ハ自ラ明瞭ナリ、
各師団長ハ此際一刻モ猶予スルコトナク所要ノ者ニ対シ、
要スレバ適時断乎タル処置を講ジ後害を胎サザルニ違算ナキヲ期セラレ度

夜になって  磯部、常盤、鈴木隊と行動を共にす
坂井 ・清原隊が陸軍省、参謀本部附近、磯部が陸相官邸附近、野中部隊は新議事堂に配備す

宵  磯部、同期生宇田に電話す・・・ 「 しかし 今となっては駄目かもしれんな

午後7時20分頃  山本又少尉、戒厳司令部へ


夜  幸楽での演説  ・・・栗原中尉、安藤大尉、中橋中尉、6中隊下士官
・・・
幸楽での演説 「 できるぞ! やらなきゃダメだ、モットやる 」 
・・・中橋中尉 ・ 幸楽での演説 「 明朝決戦 やむなし ! 」 
・・・
下士官の演説 ・ 群集の声 「 諸君の今回の働きは国民は感謝しているよ 」 

午後8時  香椎戒厳司令官、29日午前5時以降に攻撃できるように準備せよとの命令

午後8頃  北一輝、憲兵隊に逮捕さる

午後9時頃  近歩四の山下大尉、磯部と会見
・・・
私の想い ・ 二・二六事件 「 昭和維新は大御心に副はず 」 
・・・
行動記 ・ 第二十三 「 もう一度、勇を振るって呉れ 」 

丹生隊  終日 山王ホテル ・・・村中孝次 「 奉勅命令が下されたことは疑いがない。大命に従わねばならん 」 
夜半  香田大尉、山王ホテルへ →村中、對馬、山口と共に安藤大尉の幸楽に集合
澁川善助 「
全国の農民が可哀想ではないんですか 

夜  磯部浅一、山本又少尉、村中、鈴木隊と共に鉄相官邸に宿泊、 常盤少尉は文相官邸

午後10時  堀第一師団長、小藤大佐に対して蹶起部隊への指揮を外すと命令
 ・・・「 小藤大佐ハ爾後占拠部隊ノ将校以下を指揮スルニ及バズ 」 
午後10時頃  常盤少尉、酒肴を持って文相官邸の鈴木少尉の室へ

午後11時  戒厳司令部 「 戒作命第14号 」 を発令
 「 29日午前5時までに準備完了し、住民を避難させたあと午前9時を期して叛乱部隊を攻撃と命令す 」

次頁 叛乱部隊 ( 29日 )  続く


道程 ( みちのり ) 11 叛乱部隊 ( 29日 )

2021年06月03日 16時07分24秒 | 道程 ( みちのり )


昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花


道程 ( みちのり ) 11
叛乱部隊

前頁 叛乱部隊 ( 28日 ) の 続き

昭和11年 ( 1936年 ) 2月
29日
午前2時頃   安藤部隊、幸楽~山王ホテルへ移動
 清原少尉、對馬中尉より包囲部隊が攻撃してくると聞き文相官邸の西側地区を警戒
午前2時頃  中橋部隊、1箇分隊を残し帰営す
午前2時30分  鈴木少尉、近衛聯隊から攻撃すると告げられる

午前3時過ぎ  陸軍省新聞班の大久保弘一少佐が偕行社を訪れ、
 軍事参議官らに下士官兵らへ向けた帰順勧告文の作成と配付を提案、攻撃開始の延期を要請す

午前3時頃  農相官邸で仮眠の磯部、鈴木少尉に起される・・「 奉勅命令が下ったらしいです 」
・・・村中孝次 「 奉勅命令が下されたことは疑いがない。大命に従わねばならん 」 
・・・
「 あの温厚な村中が起ったのだ 」 
・・・
兵に告ぐ 「 今からでも決して遅くない 」 


午前3時30分~4時頃  野中部隊、新国会議事堂へ
 清原3中隊は参謀本部、陸軍省
 常盤隊は平河町附近を警備

午前5時頃  鈴木少尉、 ラジオで奉勅命令を聞く
午後5時30分  戒厳司令部、戒厳区域の一切の交通を停止す
午前6時頃  小藤大佐、山王ホテルへ来る ・・・
「 声をそろえて 帰りたくない、中隊長達と死にます 」 

午前6時20分  武力鎮圧の旨ラヂオ発表さる ・・・兵に告ぐ 「 今からでも決して遅くない 」 
磯部、夜明  ラジオで奉勅命令を聞く
午前6時25分  戒厳司令部、武力鎮圧の告諭を発す
『 反乱部隊は奉勅命令に抗する叛乱部隊 』 ・・・「 断乎、反徒の鎮圧を期す 」 

 午前7時10分  戒厳司令部、麹町区、千代田区の一部住民に対して避難命令を出す

午前7時30分頃  田中隊、一酸化炭素中毒に・・・10時頃蘇生す

午前8時  「 下士官兵ニ告グ 」 のビラを三宅坂上空で撒く

午前8時頃  栗原中尉、陸相官邸へ

午前8時頃  安藤大尉、山王ホテル前の都電軌道上で伊集院少佐と対決す ・・・丹生部隊の最期
午前8時頃  山王ホテル前に戦車来て投降勧告、上空よりビラ撒き ・・・
丹生誠忠中尉 「 昭和維新は失敗におわった。 まことに残念である 」 
午前8時30分  坂井部隊、帰順・・・坂井、高橋、麦屋、陸相官邸に

午前8時55分  「 兵に告ぐ 」 を繰返しラジオで放送す ・・・・兵に告ぐ 「 今からでも決して遅くない 」 

午前9時頃  坂井、高橋、麦屋、 野中、常盤、鈴木、清原他、陸相官邸へ 
午前9時  小藤大佐、首相官邸へ来る

午前9時30分頃  警視庁方面の反乱部隊の一部が帰順、以後、各方面での基準が相次ぐ
午前9時30分  丹生部隊帰順決定

午前10時頃   香田大尉、安藤大尉と協議、帰順する丹生部隊を呼び戻す ・・・「 声をそろえて 帰りたくない、中隊長達と死にます 」 
 磯部浅一、鉄道大臣官邸~首相官邸へ  栗原中尉と会う
 磯部浅一、首相官邸~陸相官邸へ戻る  途中農相官邸附近で坂井中尉と会う

午前10時  中橋部隊の残余1箇分隊、帰営 ・・中橋中尉は陸相官邸へ
午前11頃  歩三第7中隊 常盤少尉、中隊全員に別離の訓示 ・・・常盤稔少尉、兵との別れ 「 自分たちは教官殿と一心同体であります 」
午前11時頃  栗原、村中、磯部 丹生、竹嶌、對馬、田中、山本、山王ホテルへ集まる
 栗原、磯部、安藤に会し協議、  協議の結果部隊は原隊復帰とす 香田は陸相官邸へ
 林少尉、池田少尉、陸相官邸へ・・・丹生中尉 「 手錠までかけなくても良いではないか 」 

正午近い頃  清原少尉、第三中隊を引率し歩兵第三聯隊に帰営 ・・・帰順 ・ 沿道の群集 「万歳! 蹶起部隊万歳!」 
正午頃  栗原中尉、兵に解散命令下す・・・一人陸相官邸へ
正午  安藤大尉以外の全将校、陸相官邸に集合 ・・・
「 お前たちの精神は、この山下が必ず実現して見せる 」 
 山本又、腹痛甚だしく鉄相官邸にて休養後安藤大尉を山王ホテルに訪ふ、爾後山王神社に到り其の裏林に明す、
 磯部、村中、田中 陸相官邸へ戻ったところ拘束さる

午後0時30分  安藤大尉、自決せんとす ・・・行動記 ・ 第二十四 「 安藤部隊の最期 」 

午後0時50分  叛乱部隊将校、免官
午後1時頃  丹生部隊 (
歩一第十一中隊 ) 神谷曹長引率で帰営 ・・・丹生部隊の最期 

丹生中尉は陸相官邸に到る・・・丹生中尉 「 手錠までかけなくても良いではないか 」 

午後1時30分  野中部隊 ( 歩三第七中隊 )  帰営の途に就く ・・・野中部隊の最期 「 中隊長殿に敬礼、頭ーッ右ーッ 」 

午後2時過  陸相官邸で野中大尉自決 ・・・野中四郎大尉の最期 『 天壌無窮 』 
午後2時30分頃  安藤大尉のもとに野中大尉自決の報が入る ・・・リンク→叛徒の名を蒙った儘、兵を帰せない

午後3時頃  安藤大尉自決
・・・
「 中隊長殿、死なないで下さい ! 」 
・・・「 何をいうか、この野郎、中隊長を殺したのは貴様らだぞ!」 
・・・ 『 農村もとうとう救えなかった 』 2 


午後3時  戒厳司令官事件の集結を宣言す
午後3時頃  田中中尉、安田少尉、陸相官邸に

午後5時  安藤部隊、帰営
午後5時  陸相官邸、石原大佐 「 君等は自首したのか 」
午後6時  将校以下全員 衛戍刑務所に収容さる

同志将校は
各々下士官兵と劇的な訣別を終わり、
陸相官邸に集合する。
余が村中、田中 と 共に官邸に向ひたる時は、
永田町台上一体は既に包囲軍隊が進入し、勝ち誇ったかの如く、喧騒極めている。
陸相官邸は憲兵、歩哨、参謀将校等が飛ぶ如くに往来している。
余等は広間に入り、
此処でピストルその他の装具を取り上げられ、軍刀だけの携帯を許される。
山下少将、岡村寧次少将が立会って居た。
彼我共に黙して語らず。
余等三人は林立せる警戒憲兵の間を僅かに通過して小室にカン禁さる。
同志との打合せ、連絡等すべて不可能、余はまさかこんな事にされるとは予想しなかった。
少なくも軍首脳部の士が、
吾等一同を集めて最後の意見なり、希望を陳べさして呉れると考へてゐた。
然るに血も涙も一滴だになく、自決せよと言はぬばかりの態度だ。
山下少将が入り来て 「覚悟は」 と 問ふ。
村中 「天裁を受けます」 と 簡単に答へる。
連日連夜の疲労がどっと押し寄せて性気を失ひて眠る。
夕景迫る頃、
憲兵大尉 岡村通弘(同期生)の指揮にて、数名の下士官が捕縄をかける。
刑務所に送られる途中、
青山のあたりで 昭和十一年二月二十九日の日はトップリと暮れてしまふ。

・・・
行動記 ・ 第二十五 「 二十九日の日はトップリと暮れてしまふ 」 


「 これからが御奉公ですぞ。しっかり頑張ろう 」 

次頁 昭和維新 ( 昭和11年3月1日~12月31日 ) に 続く


道程 ( みちのり ) 12 昭和維新 ( 昭和11年3月1日~12月31日 )

2021年06月02日 13時44分39秒 | 道程 ( みちのり )


道程 ( みちのり ) 12
昭和維新
前頁 叛乱部隊 ( 29日 ) の 続き

昭和11年

事件直後  大御心、
陸軍はこの機会に厳にその禍根をいっそうせよ 
3月2日  軍法会議に事件送致、予審開始
3月3日  午後3時5分  山本又、東京憲兵隊に出頭
3月4日  西田税逮捕さる
3月5日  午後3時30分頃  河野大尉自決
3月8日  「 私は諸君と今迄の関係上自己一身の事は捨てます 」 ・・西田税、警察での陳述
3月20日  磯部、冨美子を入籍す
4月28日  公判始まる
5月1日  第二回公判  村中孝次
5月2日  第三回公判  村中孝次
5月3日  帝国議会開院式  勅語 「「 今次東京ニ起レル事件ハ、朕ガ憾ミトスル所ナリ 」 
5月4日  第四回公判  村中孝次、對馬勝雄、渋川善助、磯部浅一
5月5日  第五回公判  磯部浅一
5月6日  第六回公判  磯部浅一、香田清貞
5月7日  第七回公判  香田清貞、丹生誠忠
5月7日  相澤中佐 ・ 判決 『 被告人を死刑に処す 』
5月8日  相澤中佐、上告 ・・・相澤三郎 ・上告趣意書 1 相澤三郎 ・上告趣意書 2 
 5月10日の報道
5月10日  第八回公判  丹生誠忠、栗原安秀
5月11日  第九回公判  林八郎、池田俊彦
5月12日  第十回公判  對馬勝雄、竹嶌継夫
5月13日  第十一回公判 
中橋基明、中島莞爾
5月15日  第十二回公判 
安藤輝三、坂井直
5月16日  第十三回公判 
坂井直
5月18日  第十四回公判 
麦屋清済、高橋太郎
5月19日  第十五回公判 
安田優
5月20日  第十六回公判 
常盤稔、清原康平
5月21日  第十七回公判 
清原康平、鈴木金次郎、田中勝
5月23日  第十八回公判 
山本又
5月25日  第十九回公判 
渋川善助、村中孝次
5月26日  第二十回公判 
今泉義道
5月30日  第二十一回公判 
憲兵報告
6月1日  第二十二回公判 
磯部浅一
6月4日  第二十三回公判 
『 論告求刑、香田清貞以下二十三名』  ・ 最期の陳述 
6月5日  求刑
6月28日 ( 日 )  朝来雨降ル
6月29日 ( 月 )  降雨
6月30日 ( 火 )  雨、午後降リ止メド梅雨模様ナリ。
7月1日   ( 水 )  日中ハ降ラズ、夜ニ入リテ雨
7月2日   ( 木 )  終日雨降ル
7月3日   ( 金 )  相澤中佐の死刑執行 ・・・昭和11年7月3日 (二十) 相澤三郎中佐 
  朝来雨模様ナリシガ、午後久シブリニテ日光ヲ仰グ
  夜  荒木大将、弔問す
  『 新井勲 』  公判
7月4日   ( 土 )  薄日、午後曇   
『 柳下良二 』 公判
7月5日   ( 日 )  朝来曇天、公判ノ頃暫時日照ス氣  二・二六事件 『 判決 』
  第二十四回公判  『 判決、香田清貞以下二十三名 』  
  眞崎大将、相澤中佐を弔問す
7月6日   ( 日 )  朝細雨、本降リトナリ終日止マズ
  丹心録 「 吾人はクーデターを企図するものに非ず 」 ・・・村中孝次 ・ 丹心録 

 判決報道、7日
7月7日   
( 火 )  晴  
7月8日   ( 水 )  晴
7月9日   ( 木 )  晴、午頃ヨリ急ニ雨トナル
7月10日 ( 金 )  曇雨、夕ヨリ晴ル  山口一太郎 公判
 磯部、公判廷で真崎大将と対決す
 大谷憲兵大尉、村
中に面会す ・・・白兎 「古ヨリ 狡兎死而走狗烹 吾人ハ即走狗歟 」 
7月11日  山口一太郎 公判


7月11日 ( 土 )  最後の宴 
天皇陛下万歳

7月12日 (日 )  朝、晴  15烈士死刑執行
午前7時  香田清貞、安藤輝三、竹嶌継夫、對馬勝雄、栗原安秀
午前7時54分  丹生誠忠、坂井 直、中橋基明、田中 勝、中島莞爾
午前8時30分  安田 優、高橋太郎、林八郎、澁川善助、水上源一

これで維新は成ったなァ―。
君、お経はいらないよ、
すべての神仏がお迎えにきておられるから、
ボクのお経は必要ないよ

・・・
長恨のわかれ 貴様らのまいた種は実るぞ! 

7月13日 
山口一太郎、新井勲、柳下良二 公判
7月16日  
『 論告求刑、山口一太郎、新井勲、柳下良二 』

7月29日  山口一太郎、新井勲、柳下良二、判決

「 おおい、ひどいやね。おれと村中さんを残しやがった 」 
磯部浅一 ・ 行動記 
・ 
磯部浅一 ・ 獄中手記 
・ 
磯部浅一 ・ 獄中日記
磯部浅一 ・ 獄中からの通信 
8月1日  獄中日記 (一) 八月一日 「 何にヲッー! 殺されてたまるか 、死ぬものか 」 
8月6日  獄中日記 (二) 八月六日 「 天皇陛下の側近は国民を圧する漢奸で一杯でありますゾ 」 
8月28日  獄中日記 (五) 八月廿八日 「 天皇陛下何と云ふザマです 」 

10月1日  
第一回公判  北一輝、西田税、亀川哲也  
10月2日  第二回公判  西田税 
10月3日  第三回公判  西田税
10月5日  第四回公判  北一輝
10月6日  第五回公判  北一輝
10月13日  末松太平、志村陸城、杉野良任、公判
10月15日  第九回公判  北一輝、西田税、亀川哲也
10月19日  第十回公判  北一輝、西田税
10月20日  第十一回公判  北輝次郎、西田税、亀川哲也
10月22日  第十二回公判  『 論告求刑・判決、北一輝、西田税、亀川哲也 』
10月22日  北、西田、死刑の求刑  
西田税 「 このように乱れた世の中に、二度と生れ変わりたくない 」 
12月21日  菅波三郎、公判 ・・・
反駁 ・ 菅波三郎 「 昭和皇政維新法案は澁川が書いたのです 」 

次頁 昭和維新 ( 昭和12年1月1日~12年8月19日 ) に 続く


道程 ( みちのり ) 13 昭和維新 ( 昭和12年1月1日~8月19日 )

2021年06月02日 05時33分59秒 | 道程 ( みちのり )


道程 ( みちのり ) 13
昭和維新
前頁 ( 昭和11年3月1日~12月31日 )  の 続き


昭和12年


1月18日  斎藤瀏少将、満井佐吉中佐、菅波三郎大尉、判決  



2月20日   
磯部浅一と妻 登美子
「 憲兵は看守長が 手記の持出しを 黙認した様に言って居るが、そうではないことを言ってくれ 」

7月7日  盧溝橋事件、日中軍事衝突~支那事変へ
獄中の西田もこれをよく知っていた。
「 軍閥が政権をにぎったから、もう駄目だ。
奴らはこんな大きな戦争を起して、後始末に困るだろう。
自分で始めたんだから自分の手で始末をつけねばならん。
それが奴らのような下積みの庶民の心を踏みにじる奴にはようできんだろう。
元も子もなくしてしまう馬鹿な奴らだ 」 ・・・
西田税 「 家族との今生の別れに 」 


8月14日  
北一輝、西田税 判決 ・首魁 死刑 

8月16日 
家族との最後の面会
西田税 ・ 家族との最後の面会 
西田税 ・ 妻 初子との最後の面会 
村中孝次 ・妻 静子との最後の面会 
磯部浅一 ・ 妻 登美子との最後の面会 
北一輝 ・ 妻 鈴子との最後の面会 


8月19日  北、西田、村中、磯部の死刑執行
・ 昭和12年8月19日 (三) 村中孝次 
・ 
昭和12年8月19日 (四) 磯部浅一 
・ 昭和12年8月19日 (二十一) 西田税 

陸軍省は午前十一時五十分
「 曩さきに東京陸軍軍法会議に於て死刑の言渡を受けたる
村中孝次  磯部浅一  北輝次郎 ( 一輝 )  及 西田税の四名は
本十九日 その刑を執行せられたり 」
と 発表した。

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純真なる天皇観なるがゆえに

2021年06月01日 13時37分08秒 | 道程 ( みちのり )


二 ・ニ六事件はなぜ挫折したのか、
これを戦術的にいえば、彼らが維新革命に徹しきれなかったことにあるともいえる。
あれだけの武力を動員しながら、彼らはみずからが革命の母体となることを避け、
まず陸軍をして革新に進ましめ、その陸軍をもって天皇に維新発動を要請せしめようと企てた。
これがため陸軍首脳の説得に全力をつくしたが、遺憾ながらそれは空ぶりにおわった。

「 吾人は維新の前衛戦を戦いしなり、獨斷前衛戰を慣行せるものなり。
 もし本隊たる陸軍当局がこの獨斷行動を是認するか、
 もしくはこの戰闘に加入するかにより陸軍は明らかに維新に入る。
 これに従って國民がこれに賛同せば、これ國民自身の維新なり。
 しかして至尊大御心の御發動ありて維新を宣せらるとき 日本國は始めて維新の緒につきしものなり。
 余はこれを翼願し これを目標とし 蹶起後において専念 この工作に盡力せり ・・村中孝次 『 続丹心録 

だが、なぜに彼らは他力をたのみ、みずから革命の主体たることを忌避したのだろうか。
それは、兵力をもって大權の發動を強要し奉ることは、彼らにとっては國體の破壊であるとしていたからである。

「 いやしくも兵力を用いて大權の發動を鞏要し奉るがごとき結果を将來せば
 至尊の尊嚴國體の権權威を如何せん 」

「 軍政府樹立、しかして戒嚴宣布これ正に武家政治への逆進なり。
 國體観念上 吾人の到底同意し能わざるところなり 」 ・・村中孝次 『 丹心録 

みずから革命の主體となり革命を進めることは、
この國では天皇への鞏要を意味し それは國體破壊だというのである。
いわば、彼らのもつ國體観、天皇観がこれを許さなかったのである。
では、その國體観、天皇観とは何か。

「 我國體は上は万世一系連綿不変の天皇を奉戴し、
 万世一神の天皇を中心とせる全國民の生命的結合なることにおいて
 万邦無比といわざるべからず。 我國體の真髄は實にここに存す 」 ・・村中孝次 『 続丹心録

すなわち、
我國體は天子を中心とする全國民の揮一的生命体であり
天皇と國民とは直通一體たるべく、
したがって、
天皇と國民とを分断する一切は排除せられ、
國民は天皇の赤子として奉公翼賛にあたるべきもの。
たしかにそれは天皇制國家の理想像であった。
一方、日本國體における天皇は 「 神聖ニシテ侵スベカラズ 」 であったが、
軍人のとらえる天皇は、大元帥としての天皇であった。
軍統帥権者としての天皇は、その統帥に服する軍人にとっては、「 絶對 」 の天皇であった。
「 天皇 」 という一言で将兵一同粛然と姿勢を正すといった軍隊社会では、
もはや天皇は現世における絶對の權威であった。
これが現人神であったのだ。
このことは革新に燃える青年将校といえどもその例外ではない。
否 むしろ 天皇信仰の第一人者であった。
したがって、
この一擧においても 天皇の意思
即ち 大御心  は青年将校の憶測予断を許せざるものであった。
ただ、陸軍首脳を鞭撻し
その首脳者の天皇輔翼によってのみ、維新への道を開こうとしたにすぎない。
ここでは必然にこのクーデターに限界があった。
彼らの天皇信仰から發したこの維新革命も、その天皇信仰の故に、たどりつくべき宿命的障壁をもっていたのだ。
そして事は敗れたが、
その敗戦は彼らのいう殺戮の不徹底でもなければ、また、鳥羽伏見の戦が蛤御門の戦であったわけでもない。

実にその敗因は彼らの天皇観とその信仰にあったといえよう。
天皇の御爲めと、その純眞なる天皇観に支えられて 蹶起したが、
天皇の名による裁判によって処刑された彼らこそ、その忠誠心が至純なだけに、歴史の悲劇と斷ぜざるを得ない。

ここに安藤大尉の遺書
「 國體を護らんとして逆徒となる 万斛の恨み涙も涸れるああ天は 」
が 悲痛なひびきをもって、われわれに迫ってくるものがある。

・・大谷敬二郎著  『 二 ・ニ六事件 』 あとがき から