あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

暗黒裁判 ・ 幕僚の謀略 3 磯部淺一の闘爭 『 北、西田両氏を助けてあげて下さい 』

2020年11月28日 20時20分03秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略3 磯部淺一の闘争


極秘 用心に用心して下さい。 )
千駄ヶ谷の奥さん(西田税夫人)から、北昤吉先生、サツマ(薩摩雄次)先生、
岩田富美夫先生の御目に入る様にして下さい。
万万一、ばれた時には 不明の人が留守中に部屋に入れてゐたと云って云ひのがれるのだよ。
(讀後焼却) ・・・獄中手記 (二) ・ 北、西田両氏を助けてあげて下さい

磯部浅一と 妻 登美子の面会 「 憲兵は看守長が 手記の持出しを 黙認した様に言って居るが、そうではないことを言ってくれ 」 


暗黒裁判
幕僚の謀略 3
磯部淺一の闘爭
『 北、西田両氏を助けてあげて下さい 』

目次
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・ 
獄中手記 (1) 「 義軍の義挙と認めたるや 」
・ 獄中手記 (2) 「 軍は自ら墓穴を掘れり 」
・ 獄中手記 (3) 磯部菱誌 七月廿五日 「 天皇陛下は青年将校を殺せと仰せられたりや 」 

・ 
獄中手記 (一) 「 一切合財の責任を北、西田になすりつけたのであります 」
・ 獄中手記 (二) ・ 北、西田両氏を助けてあげて下さい
・ 獄中手記 (三) の五 ・ 大臣告示、戒厳命令と北、西田氏
・ 
獄中手記 (三) の六 ・ 結語 「 軍は既定の方針によつて殺す 」 

・ 
はじめから死刑に決めていた 
暗黒裁判 ・ 既定の方針 『 北一輝と西田税は死刑 』

二月事件を極刑主義で裁かねばならなくなつた最大の理由は、
三月一日発表の 「 大命に抗したり 」 と 云ふ一件です。
青年将校は奉勅命令に抗した、而して青年将校をかくさせたのは、北、西田だ、
北等が首相官邸へ電ワをかけて
「最後迄やれ」と煽動したのだ、と云ふのが軍部の遁辞(トンジ)です
青年将校と北と西田等が、奉勅命令に服従しなかったと云ふことにして之を殺さねば
軍部自体が大変な失態をおかしたことになるのです
即ち
アワテ切った軍部は二月二十九日朝、青年将校は国賊なりの宣伝をはじめ、
更に三月一日大アワテにアワテて「大命に抗したり」の発表をしました。
所がよくよくしらべてみると、奉勅命令は下達されてゐない。
下達しない命令に抗すると云ふことはない。
さァ事が面倒になつた。
今更宮内省発表の取消しも出来ず、
それかと云って刑務所に収容してしまった青年将校に、奉勅命令を下達するわけにもゆかず、
加之、大臣告示では行動を認め、戒厳命令では警備を命じてゐるのでどうにも、
かうにもならなくなった。
軍部は困り抜いたあげくのはて、
① 大臣告示は説得案にして行動を認めたるものに非ず、
② 戒厳命令は謀略なり、
との申合せをして、
㋑ 奉勅命令は下達した。と云ふことにして奉勅命令の方を活かし、
㋺ 大命に抗したりと云ふ宮内省の発表を活かして、
一切合財いっさいがっさいの責任を青年将校と北、西田になすりつけたのです。

 東京軍法会議判士候補者人名簿 
・ 間野利夫判士 手記 1 「 その真意は諒とするも・・・・ 」 
・ 間野利夫判士 手記 2 東京軍法会議 ・ 補註


・ 
法廷 


暗黒裁判・幕僚の謀略 4 皇道派の追放

2020年11月26日 14時13分06秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略4 皇道派の追放

最近反亂軍に參加せし者の論告内容が洩れ、種々の批評を加へ居る向きあり。
殊に論告が過重なると稱す。
東京第二弁護士會長、國本社の元理事 竹内賀久治 ( 平沼騏一郎氏の乾分 ) は、
平沼氏より樞府に於ける特別軍法會議決定當時の内容を聞き 次の如く云ふ。
特設軍法會議を決定する時に、
陸相は事急を要し、短時間に審判処理するの要あるを以て特設軍法會議にあらざるべからずと言はれ、
平沼騏一郎は之に賛成せるも、其後の捜査審判を見ると、四ヶ月を經過せし今日 未だ完了せざる如く。
今日の客観的狀勢に鑑る時は、特設軍法會議としたのは被告に對シ 人權蹂躙の大なるものなり。
大逆事件たる難波大助でも辯護士を附したるに、今回の如き崇高なる精神に基く事件に對シ、
之を附するひとなく罪に審判せられ居る。
事件發生以後の檢擧を見ると、陸相は武藤章中佐外一部少壮將校の言を容れ、
極端なる捜査を爲し 甚だしきは何等の確證なく、容疑本位にて眞崎、加藤、本庄等の大官を憲兵が取調中なるも、
之等大官の地位と現狀とに鑑み 極めて愼重に且 嚴秘を要するに拘らず、翌日には既に一般に流布せられあり。
之れ 人權蹂躙職権亂用の甚だしきものなり。
若し 犯罪が成立せざる場合には、之等大官の名誉威信を如何にするや。 眞に戰慄に堪へず。
吾人は事件審理の結果、若し檢察當局にして人權蹂躙乃至は職權亂用の事實ある場合には、
全國法曹界に呼びかけ斷乎として糾彈する積りなり。


眞崎大將の事件関与
事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して匂坂春平陸軍法務官らがこれに當たった。
黒幕と疑われた眞崎甚三郎大將 は、
昭和十一年三月十日日に眞崎大將は豫備役に編入され、
東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らに取調べを受ける。
昭和十一年十二月月二十一日
、匂坂法務官は、眞崎大將に關する意見書、起訴案と不起訴案の二案を出した。
昭和十二年一月二十五日に反亂幇助で軍法會議に起訴されたが否認した。

   小川関治郎              湯浅倉平
   陸軍法務官              内務大臣

小川関治郎法務官は湯浅倉平内大臣らの意向を受けて、
眞崎を有罪にしたら法務局長を約束されたため、極力故意に罪に陥れるべく訊問したこと、
小川が磯村年裁判長 ( 寺内寿一陸軍大臣が転出したあと裁判長に就任 ) に對して、
眞崎を有罪にすれば得することを不用意に口走り、
磯村は大いに怒り 裁判長を辞すと申し出たため、陸軍省が狼狽し、
杉山元 ( 寺内寿一の後継陸相 ) の仲裁で、要領の得ない判決文で折合うことになった。
論告求刑は反亂者を利する罪で禁錮13年であったが、昭和十二年九月二十五日に無罪判決が下る。
磯村年大将は、
「 眞崎は徹底的に調べたが、何も惡いところはなかった。だから當然無罪にした 」
と 戦後に證言している。


暗黒裁判
幕僚の謀略 4
皇道派の追放
目次
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眞崎甚三郎大將判決全文 (九月二十五日陸軍省公表) 
・ 「 被告人眞崎甚三郎ハ無罪 」 
・ 拵えられた憲兵調書 「 眞崎黒幕説は勝手な想像 」
・ 
眞崎談話
『 今回の黒幕は他にある事は俺には判って居る 』 
・ 拵えられた憲兵調書 「 眞崎黒幕説は勝手な想像 」

川島義之陸軍大臣 憲兵調書 
・ 
戒嚴司令官 香椎浩平 「 不起訴處分 」


「 被告人眞崎甚三郎は無罪 」

2020年11月25日 04時52分55秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略4 皇道派の追放


前頁 眞崎談話 『 今回の黒幕は他にある事は俺には判って居る 』 の続き

< 眞崎大將の事件關与 >
事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して匂坂春平陸軍法務官らがこれに當たった。
黒幕と疑われた眞崎甚三郎大將 は、
1936年3月10日に眞崎大將は豫備役に編入され、
東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らに取調べを受ける。
1936年 ( 昭和11年 ) 12月21日、匂坂法務官は、
眞崎大將に關する意見書、起訴案と不起訴案の二案を出した。
1937年 ( 昭和12年 ) 1月25日に反亂幇助で軍法會議に起訴されたが否認した
 
   小川關治郎              湯淺倉平
   陸軍法務官              内務大臣

小川關治郎法務官は湯淺倉平内大臣らの意向を受けて、
眞崎を有罪にしたら法務局長を約束されたため、極力故意に罪に陥れるべく訊問したこと、
小川が磯村年裁判長 ( 寺内寿一陸軍大臣が轉出したあと裁判長に就任 ) に對して、
眞崎を有罪にすれば得することを不用意に口走り、
磯村は大いに怒り 裁判長を辭すと申し出たため、陸軍省が狼狽し、
杉山元 ( 寺内寿一の後經陸相 ) の仲裁で、要領の得ない判決文で折合うことになった。
論告求刑は反亂者を利する罪で禁錮13年であったが、
1937年 ( 昭和12年 ) 9月25日に無罪判決が下る。
磯村年大將は、
「 眞崎は徹底的に調べたが、何も惡いところはなかった。だから當然無罪にした 」
戰後に證言している

・ 
拵えられた憲兵調書 「 眞崎黒幕説は勝手な想像 」 

 報道
眞崎甚三郎大将判決全文 (九月二十五日陸軍省公表) 

< 眞崎大將に對する判決 >

昭和十二年九月二十五日言渡
眞崎甚三郎判決原稿 ( 無罪 )
判決
本籍、  佐賀県神埼郡境野村大字境原千百六十五番地戸主平民
住所、  東京府東京市世田谷區世田谷一丁目百六十八番地ノ三
豫備役陸軍大將 正三位 勲一等 功四級  眞崎甚三郎
明治九年十一月二十七日生

右ノ者に對スル反亂幇助被告事件ニ附 軍法會議ハ檢察官 陸軍法務官 竹澤卯一 干与審理ヲ遂ゲ
判決ヲ爲スコト左ノ如シ
主文
被告人眞崎甚三郎ハ無罪
理由
< 一、眞崎ノ閲歴及主義、信念竝ニ愛國心 >
被告人ハ明治三十一年六月二十七日 陸軍歩兵少尉ニ任ゼラレ、
爾來累進シテ昭和八年六月十九日 陸軍大將ニ親任セラレ、
同十一年三月六日待命、同月十日豫備役仰附ケラレタルモノナルガ、
其ノ間 陸軍省軍務局軍事課長、陸軍士官學校本科長、同學校長、第八師團長、第一師團長、
臺灣軍司令官、參謀次長、敎育總監及軍事參議官ノ要職ニ歴任シ、
右士官學校在職中或ハ國體精神及皇室観念ノ涵養ニ努メ、或ハ我意放縦ノ弊風ヲ戒メムガ爲、
學術併進等ヲ主旨トスル實行主義ヲ指導方針ノ根本義ト爲ス等、
専ラ生徒ノ訓育ニ盡瘁シ、一面夙ニ我國内外ノ情勢ヲ按ジ、文武官民上下互ニ相對立シテ統制ヲ欠キ、
而モ戰備國防ノ欠陥ハ外交上ノ支持ニ影響ヲ及ボスノ虞アリ、之ガ匡救ノ一途ハ、
國策遂行ノ爲ニ必要ナル氣魄實力ヲ具備セル所謂強力内閣ノ實現ニアリトシ、
若シ此ノ際 誤テ軟弱不斷ノ者 其ノ局ニ當リ、苟いやしくモ外交ニ懦弱ノ態度ヲ暴露セムガ、
獨リ軍部ニ止マラズ、民間ノ士 亦 加ハリテ反噬はんぜいシ、遂ニ大小流血ノ惨ヲ見ルコト無キヲ保セズ、
國家ノ前途深憂ニ堪ヘズト斷ジ居タルモノナル処、

< 二、眞崎ノ靑年將校トノ接触交渉 >
豫テ被告人ト思想一脈相通ジ 且 被告人ヲ深ク欽慕崇敬セルイチブ靑年將校ノ間ニ、
所謂特權階級ヲ打倒シ、國家ノ革新ヲ目的トスル昭和維新ノ運動漸次濃厚ト爲リ、
就中、陸軍歩兵大尉香田淸貞、同村中孝次、陸軍一等主計磯部淺一、陸軍歩兵中尉栗原安秀等ハ、
北輝次郎、西田税等ヨリ矯激ナル思想ノ感化ヲ受ケ、
所謂昭和維新斷行ノ爲ニハ非合法的手段 亦 敢テ辞スベキニ非ズト爲シ、
茲ニ同志相結束シテ聯絡會合ヲ重ネ、又 同志ノ獲得指導ニ努メ、陰ニ維新斷行ノ氣運促進ヲ圖リ居タル折柄、
昭和十年七月被告人ガ敎育總監ヲ免ジ、軍事參議官ニ専補セラレタルヤ、
村中孝次、磯部淺一等ハ此ノ更迭ニ附、頻ニ當局非難ノ氣勢ヲ擧グルニ至リ、
被告人ハ此等ノ情勢ヲ推知シナガラ、
其ノ頃 屡々被告人ノ許ニ出入セル陸軍少將平野助九郎等ニ總監更迭ノ内情ヲ洩シ ( 語リ )
且 痛ク憤懣ノ情ヲ表ハスト同時ニ、其ノ手續上、當局ニ不當ノ処置アリトシテ、
或ハ 統帥權干犯ナリト唱エ、或ハ 軍令ニ違反セリト力説シ、
之ニ依リ 村中孝次、磯部淺一ガ當局非難ノ敎育總監更迭事情等ニ關スル不穏文書ヲ頒布シ、
爲ニ靑年將校同志ノ該運動、一層尖鋭化スルニ至レリ。

< 三、靑年將校ノ革新運動 >
又 同年八月、陸軍歩兵中佐相澤三郎ノ陸軍省軍務局長永田鐵山殺害事件勃發スルヤ、
一部靑年將校等ハ深ク此ノ擧ニ感奮スルト共ニ、敎育總監更迭ニ關シ、
統帥權干犯ノ背後ニ一部重臣、財閥等ノ陰謀策動アリト爲シ、愈々此等特權階級ヲ打倒シ、
昭和維新ヲ實現セムコトヲ企圖シ、而モ重臣等ハ超法的存在ニシテ合法的ノ手段不可能ナリトシ、
國法ヲ超越シ、直接行動ヲ以テ之ヲ打倒シ、
一部軍上層部ヲ推進シテ國家ヲ革新セムトスルノ運動、日ニ熾烈ヲ加ヘタリ。

< 四、眞崎ノ靑年將校蹶起ノ情勢察知 >
斯クテ昭和十年十二月頃ヨリ 村中孝次、磯部淺一、香田清貞、栗原安秀、及 澁川善助 等ガ
第一師團將兵ノ渡満前、主トシテ在京同志ニ依リ速ニ事ヲ擧グルノ洋リト爲シ、其ノ準備ニ着手シ、
相澤中佐ノ公判ヲ機會ニ蹶起氣運ヲ促進セムトシ、
特權階級ニ極度ノ非難攻撃ヲ加ヘ、又 相澤中佐ノ行動精神ヲ宣傳シ、以テ同志蹶起ノ決意ヲ促サントスルヤ、
被告人ハ彼等ノ間ニ瀰漫びまんセル不穏ノ情勢ヲ察知シナガラ、

< 五、眞崎ノ靑年將校ト屡々會見其ノ行動促進ノ氣勢助長 >
イ、昭和十年十二月、陸軍歩兵中尉對馬勝雄ノ來訪ヲ受ケタル際、
  同人ニ對シ、敎育總監更迭ニ依ル統帥權干犯問題ニ附テハ、盡クスベキ所盡クシタルノミナラズ、
同更迭ニハ妥協的態度ニ出デズ、最後迄鞏硬ニ反對セリ。
尚 自分ハ近來其ノ筋ヨリ非常ノ壓迫ヲ受ケ居ルガ、機關説問題ニ附テハ眞面目ニ考慮スルノ必要アル旨ヲ説キ、

ロ、同月二十四日頃、磯部淺一 及 陸軍歩兵大尉小川三郎ト自宅ニ於テ面接シ、
  興奮セシ態度ヲ以テ總監更迭ニ附、相澤中佐ハ命迄捧ゲタルガ自分ハ其処迄ハ行カザルモ、
最後迄鞏硬ニ反對セシ旨ヲ告ゲ、次デ小川三郎ガ國體明徴問題 及 相澤公判ヲ以テ巧ク運バズ、
其ノ儘 放置スルガ如キ場合ニハ、血ガ流レルコトアルヤモ知レザル旨ヲ述ブルヤ、
両名ニ對シ確ニ然リ、血ヲ見ルコトアルヤモ計ラレザレガ、
自分ハ斯ク言ヘバ靑年將校ヲ煽動スルガ如ク認メラルル故 甚ダ困ル次第ナリト語リ。

ハ、同月二十八日頃、
  香田淸貞ヨリ國體明徴問題 ( ニツキ聽取シ ) 及 維新運動ニ關スル靑年將校ノ活動狀況等ニ附
之ヲ聽取シテ同感ノ意ヲ示スト同時ニ、靑年將校ノ之ニ對スル努力未ダ足ラズト難ジ、
又 憤懣ノ態度ヲ以テ敎育總監更迭ニハ最後迄反對セリ、
若シ之ニ同意シタルガ如キコトアリトセバ、予ハ今日迄生存セザル筈ナリト ( セル旨ヲ ) 述ベ、
尚 相澤中佐ノ蹶起精神ヲ稱揚シ、同人ニ對シテハ心中何人ニモ劣ラザル程 心配シテ居ルト告ゲ、
深ク同情ノ意ヲ表シ、其ノ他 同中佐ノ公判ニハ統帥權干犯ノ事實ニ附、證人トシテ起ツベキ旨、
及 敎育總監陸軍大將渡邊錠太郎ガ其ノ位置ヲ退クコトニナレバ維新運動ハ都合好ク運ブ旨ヲ説キ、

二、同十一年一月、相澤中佐ノ辯護人陸軍歩兵中佐満井佐吉ヲ招キタル際ニ、
  敎育總監更迭ニハ最後迄反對セシ旨、其ノ他 同更迭ノ經緯等ニ附 之ヲ打明ケ、( 述ベ )
又 相澤ノ公判ニハ喜デ承認ト爲ル旨ヲ告ゲ、次デ翌二月同ジク満井佐吉ノ來訪ヲ受ケ、
現在軍ノ蟠わだかまリ、國家ノ行詰 等 甚シキ爲、靑年將校ノ運動激化セリトノ狀況ニ附 之ヲ聽取シ、

ホ、同年一月二十八日頃、磯部淺一ガ被告人ヲ其ノ自宅ニ訪ネ、
  敎育總監更迭ノ統帥權干犯問題ニ附テハ飽迄努力スル旨ヲ述ベ、
金千圓 又ハ五百圓ノ出資方ヲ請フヤ都合スル旨ヲ答ヘ、
其ノ翌日頃、磯部淺一ハ被告人ノ知人 森傳ナル者ヨリ金五百圓ノ交附ヲ受クルニ至レリ。
以テ靑年將校同志ヲシテ敎育總監更迭ニ依ル統帥權干犯ハ眞實ナリトノ確信ヲ抱カシメタルト共ニ、
被告人ノ意嚮ヲ打診シテ昭和維新斷行ノ可能性アリトシ、
決行ノ意思ヲ鞏固ナラシメテ其ノ行動促進ノ氣勢ヲ助長シ、而シテ前示金五百圓ハ、
之ヲ磯部淺一ニ於テ今次反亂事件ノ爲、蹶起ノ資金ニ充當スルニ至ラシメタリ。

爾來 靑年將校同志ハ、東京市内各所ニ會合ヲ重ネ、實行ニ關スル諸般ノ計畫 及 準備ヲ進メ、
一方 陸軍歩兵大尉 山口一太郎 及 民間同志 北輝次郎、西田税、亀川哲也 等ト聯絡ヲ執リ、
蹶起直後、山口一太郎ハ本庄繁 等 陸軍上層部ニ、西田税ハ小笠原長生 及 加藤寛治 等ニ、
龜川哲也ハ眞崎甚三郎 及 山本英輔 等ニ對シ、外部ニ在リテ ( 又 山口一太郎 及ビ 西田税ハ夫々要路ニ對シ )
蹶起ノ目的達成ノ爲 工作を爲スベキ手筈ヲ定メ、遂ニ昭和十一年二月二十六日払暁、
村中孝次、磯部淺一、香田淸貞、安藤輝三、對馬勝雄 及 栗原安秀 等ガ 近衛、第一両師團ノ一部將兵ト共ニ
兵器ヲ執リテ一齊ニ蹶起シ、内閣總理大臣官邸 其ノ他 重臣大官ノ官私邸ヲ襲撃シ、
内大臣齋藤實、大蔵大臣高橋是清、敎育總監渡邊錠太郎 等ヲ殺害シ、
侍從武官長鈴木貫太郎ニ重傷ヲ被ラシメタル上、
同月二十九日に至ル迄ノ間、陸軍省、參謀本部、警視廳等ノ地域ヲ占據シ、
陸軍首脳部ニ對シ昭和維新實現ヲ要望スル等、國權ニ反抗シ、反亂ヲ決行スルヤ其ノ間ニ於テ被告人ハ、

< 六、眞崎ノ犯行列條 >
一、昭和十一年二月二十六日午前午前四時三十分頃、
  自宅ニ於テ豫テニ、三回被告人ヲ訪ネ
靑年將校ノ不穏情勢ヲ傳ヘ居タル龜川哲也ノ來訪ヲ受ケ、
同人ヨリ今朝靑年將校等ガ部隊ヲ率イテ蹶起シ、
内閣總理大臣、内大臣等ヲ襲撃スルニ附、靑年將校等ノ爲 善処セラレ度ク、
又 彼等ハ被告人ニ於テ時局ヲ
収拾セラルル様希望シ居レバ、自重セラレ度キ旨懇請セラレ、
茲ニ皇軍未曾有ノ不祥事態發生シタルコトヲ察知し、之ニ對スル処置ニ附 熟慮シ居タル折柄、
陸軍大臣ノ反亂將校ト交渉ノ結果、彼等ノ被告人招請方要求ニ基ク ( よりの ) 電話招致ニ依リ、
同日午前八時頃陸軍大臣官邸ニ到リ、同官邸ニ於テ、
1  磯部淺一ヨリ蹶起ノ趣旨 及 行動ノ概要ニ附 報告ヲ受ケ、蹶起趣旨ノ貫徹方ヲ懇請セラルゝヤ
  「 君達ノ精神ハ能ク判ツテ居ル 」 ト 答ヘ、

2  陸軍大臣川島義之ト村中孝次、磯部淺一、香田淸貞 等 反亂幹部トノ會見席上ニ於テ、
  蹶起趣意書、要望事項 及 蹶起者ノ氏名表 等ヲ閲讀シ、
香田淸貞 等ヨリ襲撃目標 及 行動ノ概要等ニ附 報告ヲ受ケタル後、同人等ニ對シ、
「 諸君ノ精神ハ能ク判ツテ居ル、自分ハ之ヨリ其ノ前後処理ニ出掛ル 」
ト 告ゲ、次デ其ノ場ニ在リシ山口一太郎ガ、「 閣下御參内デスカ 」 ト 尋ネタルニ對シ、
  「 イヤ、自分ハ別ノ方ヲ骨折ツテ見様ト思ツテ居ルノダ 」 ト 考ヘ

3  又 大臣副室ニ於テ、陸軍大臣川島義之ニ對シ、
  反亂軍ノ精神ヲ汲ミ、其ノ要望ヲ促進セシムルノ必要アル旨ヲ進言シ、( テ官邸ヲ出テ、)

二、同日午前九時過頃、急遽軍令部總長伏見宮邸ニ伺候シ、海軍大將加藤寛治ニ伴ハレテ殿下ニ拝謁シ、
  反亂ニ附 見聞セル狀況ヲ言上シ、又 時代斯クナリシ上ハ、最早臣下ニテハ其ノ収拾不可能ニ附、
鞏力内閣ヲ組織シ、今次反亂事件等ノ關係者ニ對シ、恩典ニ浴セシムベキ主旨ヲ含ム大詔渙發ヲ仰ギ、
事態ヲ収拾セラルゝ様爲シ頂キ度ク、一刻モ猶豫ナリ難キ旨ヲ言上シ、

三、同日午前十時頃 伏見宮殿下ニ加藤大將ト共ニ随從シテ參内シタル際、
  侍從武官長室ニ於テ陸軍大臣川島義之ニ對シ、蹶起部隊ハ到底解散セザルベシ、
此ノ上ハ詔勅ノ渙發ヲ仰ぐノ外ナシト進言シ、又 其ノ席ニ居合ハセタル他ノ者ニ對シ、
同一趣旨ノ意見ヲ反復鞏調シ、

四、同日午後一時三十分頃、
  宮中ニ於テ陸軍ノ各軍事參議官、陸軍大臣、參謀次長 及 東京警備司令官 等 會同ノ席上ニ於テ、
陸軍大臣ヨリ事態収拾ニ附 意見ヲ徴セラルゝヤ、蹶起者ヲ反亂者ト認ムベカラズ、
討伐ハ不可ナリトノ意見ヲ開陳シ、

五、同日夜、陸軍大臣官邸ニ於テ前記満井中佐ニ對シ、
  宮中ニ參内シ種々努力セシモ中々思フ様ニ行カザルヲ以テ彼等ヲ宥なだめヨト告ゲ、

六、翌二十七日、反亂將校等ガ、
  北輝次郎、西田税ヨリ 「 人無シ 勇將眞崎アリ、正義軍一任セヨ 」 トノ 靈告アリトノ電話指示ニ依リ、
時局収拾ヲ眞崎大將一任ニ決シ、軍事參議官ニ會見ヲ求ムルヤ、
被告人ハ同日午後四時頃、陸軍大臣官邸ニ於テ軍事參議官 阿部信行、同 西義一 立會ノ上、
反亂將校十七、八名ト會見ノ際、同將校ヨリ事態収拾ヲ被告人ニ一任スル旨申出デ、
且 之ニ伴フ要望ヲ提出シタルニ對シ、
無条件ニテ一切一任セヨ、誠心誠意努力スル云々ノ旨ヲ答ヘタリ。
以テ今次反亂者ニ對シ好意的言動ニ依リ、其ノ反亂行爲遂行ノ爲ニ適宜ノ方策ニ出デ、
又ハ右 遂行ニ對スル障礙しょうがいノ除去ニ努メタリ。

< 無罪の理由 >
按ズルニ以上ノ事實ハ、被告人ニ於テ其ノ不利ナル黙ニ附 否認スル所アルモ、
他ノ證據ニ依リ之ヲ認ムルニ難カラズ、
然ルニ之ガ反亂者ヲ利セムトスルノ意思ヨリ出デタル行爲ナリト認定スベキ證據十分ナラズ、
結局本件ハ犯罪ノ證明ナキニ歸スルヲ以テ、
陸軍軍法會議法第四百三條ニ依リ 無罪ノ言渡ヲ爲スベキモノトス。
よりテ主文ノ如ク判決ス。
昭和十二年九月二十五日
東京陸軍軍法會議
裁判長判士陸軍大將 磯村 年
裁判官判士陸軍大將 松木直亮
裁判官陸軍法務官 小川關治郎


眞崎談話 『 今回の黒幕は他にある事は俺には判って居る 』

2020年11月24日 08時30分07秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略4 皇道派の追放



眞崎大将談 
( 三月二十六日 )

「 荒木が病気で帰って居ると云ふ事で 今日見舞って来た。
 荒木は色々のデマで非常に迷惑して居る。
叛乱将校を事件前に
鈴木侍従長や渡辺に紹介して模様を調べさせたと云ふ様な説もあるので、

今日荒木に会って
君は紹介状でも書いた事があるかと尋ねたが、荒木は絶対にそんな事はないと言って居た。

どうも怪からん事をする人である。何とかして俺や荒木を陥れ様と謀りをる人がある様だ。
大体判って居るが そう云ふ人達の心裡は誠に気の毒なものだ。
俺は今回の事件には全く関係ないばかりでなく、事件の起ると云ふ事も全く予想は出来なかった。
俺が軍法会議の証人に出る前日だと思ふ、
或る大佐が尋ねて来たので最近の軍部の動静は心配ないかと聞くと、
某大佐は絶対に心配ない 御安心下さいと言はれたので 俺も安心して居った。
然るに事件のあった朝 午前六時半頃 陸軍大臣から速刻出て呉れと電話があった、
何事だろうと思って居ると其処へ海軍の加藤から陸軍が重大事件を起したと電話で知らせて呉れた。
当時自分は下痢を持って居たが、すぐ本省へ駆けつけたが、
厳重な歩哨に阻止せられて中々這入る事が出来なかった。
漸く大臣から呼ばれて来たのだと言ったら通して呉れた。

陸軍省前に現役や予備の将校 ( 山本又 ) が居て決起趣意書を出して
是非之を上聞に達して呉れと、ワイワイ言って居た。
省内に這入っても何れも周章狼狽の状態で、大臣が何処に居るやら判らなかった。
漸く川島に会えた。
川島にどうして此事件を収拾すると聞いたが、川島にも何等の成算もないので、
陸軍の事は陸軍の手で納めなければならぬ。
 何時迄もグズグズ出来ないではないか、
すぐ君の権限で軍事参議官会議を招集しろ。

又 岡田がやられたならば 当然総辞職だらうから、
君が閣僚を招集して閣議を開かなければなるまい

と 注意すると、早速参議官一同を招集する事になった。
又 加藤から 伏見宮軍令部長殿下の御殿に居るから
陸軍の模様を君から御説明して呉れと電話があったので、

すぐさま 御殿に参り 自分の見た状況や今後の見透し等を言上して見た。
すると 殿下は直ちに参内して陛下に奏上すると言れて御出掛けになられたので、
途中が不安心であるから自分も殿下に従った参った。
程なく宮中で閣議が開かれると云ふ事を耳にしたので、
後継内閣其他の為に是非共軍部の意嚮を閣僚に通して置かなければならぬ、
又 時局収拾の為め 直ちに戒厳令を実施しなければならぬと云ふ参議官一同の意嚮であったので 川島に通し、
又 閣僚共直接話し合ったが、どうしても話が合わない。
後で判った事だが、参議官の方では総理が全くやられたものと信じて居た。
然るに 閣僚の方では総理の生きて居る事が当時から判って居たので話しが合はなかったのであろう。
川島が閣議で色々主張したらしいが、閣僚の大部分は今直ちに戒厳令を実施する事は、
軍政府でも樹立する魂胆が軍首脳部にあるやの如く誤解せられた。
どうしても自分の説を聞いて呉れないと言って 非常に悲憤して居った。
世間では叛乱部隊が色々の要求を提案した様に伝へられて居るが、
決起趣意書以外には何等の要求はなかった。
唯 蹶起の趣意を軍事参議官に対し上聞に達して呉れと云ふ要求があった。
参議官でも色々相談の結果、上聞に達し 次の様な事を回答した。
㈠  決起趣意書は上聞に達した
㈡  諸君の真意は諒とする
㈢  参議官一同は時局の収拾に付き最善の努力をする
と 云ふ事を警備司令官を通して蹶起部隊に回答したのが、
其処に飛んでもない手違を生じてしまった。

( 註、このあたり欄外に書き込みあり、真崎談話の末尾に挿入 ・・原註 )
手違いと云ふのは、阿部が警備司令部の副官に今話した三点を、電話で復唱迄させて話してやったのに
どう考へたか 警備司令部では 「 ガリ版 」 に刷って関係方面に配った

処が第二の真意は諒とすると云ふのを行動は諒とすると印刷してあったのだ。
当時 陸、海軍部内に非常なる問題となって、
参議官が蹶起部隊の行動を諒とするは不都合千万だと大騒ぎとなったが、
阿部が当時の原稿を所持して居たので、間違であった事が明瞭になり問題も落着した。

俺は蹶起部隊を鎮静せしむるには飽く迄も兵火を交へずに説得するより他に道はないと最初から考へて居た。
他の参議官にも計ったが何れも自分の説に賛成であった。

二十七日の午前中 警備司令官 ( 香椎浩平中将 ) が来て、
蹶起部隊は閣下の説得ならば応ずるらしと云ふ情報があるから、
是非共其の衝に当って貰ひたいと云はれたが、
俺は眞崎個人としては嫌だ、其れでなくとも色々と宣伝の材料に使はれる。
若し 君がどうしても僕に働いて呉れと云ふならば、
個人同士の話でなく参議官一同の居る所で話て呉れと云ふと、
其れでは一同の前にてお願ひすると言って、参議官一同の居る部屋で更に其事を言はれたが、
俺は前の様な意味で一応の断りをした処が、
他の参議官が今此の非常事変の真最中 自分一個の毀誉褒貶きよほうへんにこだわる場合ではない、
是非共引受けて呉れないか、自分等も共に努力すると進められたので、
それでは引受けしよう、
然し 単身では嫌だ、誰か立会をして呉れと云ふと、西、阿部の二人が立会って呉れる事になり、
反乱将校の集合して居る首相官邸に参ると、十八名の青年将校の他 一聯隊長も居った。
青年将校に会って見たが、自分の知って居るのは二、三名に過ぎなかった。
そうして将校一同に対して、自分は軍事参議官だ。
参議官は陛下の御諮問があって初めて行動すべきで 御諮問のない以上は何等の権限はない。
普段は全く風来坊同様の身だ。
別段 陛下の御命令がある訳ではないが、
今回の君等の出かした事件に関し 座視するに忍ず、自分から進んで此処に来たのだ。
君等の考へを聞かせて呉れ。
大勢でも話しが纏まらぬだろうから誰か代表者を選んで呉れと云ふと、
野中大尉と他二名は仮代表となられて此の事件の善処策を俺に一任したいと言はれた
俺はお前等に一任せらるると言っても お前等の大部分は一面識もない、
然るに俺に一任すると云ふ理由は、
お前達の中に俺の教育した者が二、三ある、其縁故でお前達から一任されたと思うが、
お前達は大義名分を没却してはいけない。
俺が士官学校当時西郷南洲の例を引いて、大義名分の事に関しては常に話して置いた筈だ。
日本帝国では如何なる理由の下にも大義名分に反する行為は成り立たない。
お前達の蹶起の理由は例へどうあらうとも
今迄は 或は警備司令官の指揮下に警備の任に任じたと解釈出来るかも知れないが、
之れからはそうは行かぬ、
既に戒厳も令せられ、戒厳司令官は奉勅命令に依って君等を討伐に任に当る。
若し 之れに従はざる者は即ち御旗に反する事になる。
例へば戒厳司令官が其の挙に出てないとしても 老いたりと雖も此の真崎が承知しない。
第一線に立って君等の討伐の任に当る。
君等が兵卒を動かした事は何としても申訳ない。
今が潮時だらう。
君等の率ひた兵卒き決して四十七士ではない。
腹が減る 眠くなる。
従って君等に反する事になる。
最後は君等は丈で取り残された反逆者になる。
真に解決を俺に一任するならば解決の途は唯一つだ。
お前達は直に所属隊長の命に従って軍旗の下に復すべきだ。
他に何等の方法がないと、
俺は全く声涙共に下るの思ひで諄々と説得に努めた。
代表者は一時撤去して他の将校と協議して再び来て、
閣下のお言葉は能く判りました。必ず言葉通りに致しますと云はれたのだ。
俺も非常に安心して直ぐ司令官にその旨を伝へた。
司令官も非常に喜んで早速 陛下に奏上された。

然るに どう云ふ事であったか
二十七日の深夜になって自分との約束がすっかり屑くずにされて仕舞った。
自分は残念で堪らなん。
当時其事情はどうしても判らなかったが、今では多少判りつつある。
内部からも外部からも入れ智慧をした者がある様だ。
其の為めに遂に叛乱軍討伐に迄至ってしまった事は返す返すも遺憾千万である。
俺は左様に 全く今回の事件に就ては 一身を犠牲にして国家の為のみ御尽しした算つもり。
又 其の間の事情は軍首脳では充分承知して居る筈だ。
然るに俺や荒木が如何にも今回の事件の黒幕であるかの如く宣伝せられて居るのは心外で堪らん。
実に怪しからんと思ふ。
俺の処にも色々の方面から警告する者がある。
此の間も或る人から、憲兵隊や警視庁を盛んに 俺や荒木の行動を内偵して居るから注意しろと言はれたが、
僕は真に結構だ、調べれば調べる程 俺の本当の事が判る。
然しながら俺等を中心と考へて調べを進めて居る事は全く空な事だと言って置いた。
若し 憲兵隊や警視庁でそうゆう考へで調べを進めて居るとすれば 的外れも甚だしい。
今回の黒幕は他にある事は俺には判って居る。
然し 此処では言へない。
内地と満洲との間を屡々往復して居った者に少し注意すれば すぐ判る筈だ。云々
原註
実状と相違す、香椎戒厳司令官は宮中より参謀長 ( 安井藤治 ) に電話せり。
参謀長は福島 ( 久作 ) 参謀を招致し電話を一句一句筆記せしめ、且 最後に之を司令官に復唱、
承認を得たるものにして、其際第二項には 「 行動 」 と確かに伝へられたり。
思ふに当時宮中に会合しありし者の中に或は作為者ありしにあらずや。

・・安井藤次少将・備忘録  から

次頁
「 被告人眞崎甚三郎ハ無罪 」 に  続く


眞崎甚三郎大將判決全文 (九月二十五日陸軍省公表)

2020年11月23日 05時37分48秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略4 皇道派の追放


眞崎甚三郎大將判決全文
昭和十二年九月二十六日当局談 ( 陸軍省正午発表 )

軍はニ ・ニ六事件の発生に鑑み禍根を将来に絶滅せんことを期し、
為に直接事件の関係者はもとより、いやしくも事件に関係ありと認められるもの、
或はこれに関し疑いありと認められるものは悉く検挙し、
その取調べの結果に応じ、これを東京陸軍軍法会議の審理に付した。
右軍法会議審理の結果についてはすでに数次に亘りその都度公表したところであるが、
いよいよ本日をもつて眞崎大将に対する判決言渡しを終り、
ここに東京陸軍軍法会議に於ける被告事件一切の処理を完了した次第である。

陸軍省發表
東京陸軍軍法会議においては かねてニ ・ニ六事件に関し
「 叛乱者を利す 」 被告事件として起訴せらりし真崎大将につき慎重審査中のところ、
本九月二十五日無罪判決言渡しありたり。
右判決の理由の要旨左の如し。
判決理由
公訴事実に基き審理の結果、
眞崎大将は 明治三十一年六月二十七日 陸軍歩兵少尉に任ぜられ、
爾来累進して昭和八年六月十九日陸軍大将に任ぜられ、
同十一年三月六日待命、同月十日予備役仰付られたるものなるが、
その間 各種の要職に歴任し その士官学校在職中においては、
国体精神 及び 皇室観念の涵養かんように努め、
学術併進等を主旨とする実行主義を指導方針の根本義となすほど、
鋭意生徒の訓育に盡瘁じんすいせるが
一面夙に我国内外の情勢を按じ、文武官民上下互に相対立して統制を欠き、
而も戦備国防の欠陥は外交上の支持に悪影響を及ぼすの虞おそれあるを憂い、
之が匡救の途は
一に国策遂行の為に必要なる気魄実力を具備せる 所謂協力内閣の実現に依るべしとなし、
若し此際誤つて軟弱不断の者 その局に当り、
いやしくも外交に懦弱なじゃくの態度を暴露せんか、
流血の惨を見ること無きを保せず、
国家の前途深憂に堪えずと断じたるものなる処、
予て本人を深く欽慕崇敬せる一部青年将校の間に、
所謂特権階級を打倒し、国家の革新を目的とする昭和維新の運動漸次濃厚と為り、
就中、陸軍歩兵大尉 香田清貞、同 村中孝次、陸軍一等主計 磯部浅一、
陸軍歩兵中尉 栗原安秀 等は 北輝次郎、西田税 等より 矯激なる思想の感化を受け、
所謂 昭和維新断行の為には非合法的手段 亦 敢て辞すべきに非ずとなし、
玆に同志 相結束して連絡会合を重ね、又 同志の獲得指導に努め、
陰に維新断行の機運促進を図り居たる折柄、
昭和十年七月本人が教育総監を免じ 軍事参議官に専補せらるるや、
村中孝次、磯部浅一等は此の更迭に付、頻に当局非難の気勢を挙ぐるに至り、
本人は之等の情勢を推知しながら其の頃屢々本人の許に出入せる陸軍少将 平野助九郎等に
總監更迭の内情を語り 且 痛く憤懣の情を表すと同時に、其の手続上、当局に不当の処置ありと力説し、
之に依り村中孝次、磯部浅一が当局を非難せる教育總監更迭事情等に関する不穏文書を頒布し、
為に青年将校同志の該運動、一層尖鋭化するに至れり。
次で同八月、陸軍歩兵中佐相澤三郎の陸軍省軍務局長永田鉄山殺害事件の勃発するや、
一部青年将校等は深く此の挙に感奮すると共に、教育總監更迭の背後に一部重臣、財閥等の陰謀策動ありと為し、
而も重臣等は超法的存在にして、合法的手段を以てしては目的の達成不可能なりとし、
国法を超越し直接行動を以て之を打倒し、
一部軍上層部を推進して国家を革新せんとするの運動、日に熾烈を加えたり。
斯くて昭和十年十二月頃より村中孝次、磯部浅一、香田清貞、栗原安秀 及び渋川善助等が
第一師団将兵の渡満前、主として在京同志に依り速かに事を挙ぐるの要ありと為し、
其の準備に着手し、相澤中佐の公判を機会に蹶起機運を促進せんとし、
特権階級に極度の非難攻撃を加え、又 相澤中佐の行動精神を宣伝し、
以て同志蹶起の決意を促さんとするや、
本人は同人等の間に瀰漫びまんせる不穏の情勢を察知しながら、
イ、昭和十年十二月、
 陸軍歩兵中尉 對馬勝雄の来訪を受けたる際、
 同人に対し、教育總監更迭問題に付ては尽すべき所を尽したるのみならず、
 同更迭には妥協的態度に出でず、最後迄強硬に反対せり。
 尚 自分は近来其の筋より非常の圧迫を受けて居るが、
機関説問題に付ては真面目に考慮するの必要ある旨を説き、
ロ、同月二十四日頃、磯部浅一 及び陸軍歩兵大尉 小川三郎と自宅に於て面接せし際、
 興奮せる態度を以て総監更迭に付、相澤中佐は命迄捧げたるが自分は其処迄は行かざるも、
 最後まで強硬に反対せし旨を告げ、
 次で小川三郎が国体明徴問題 及び相澤公判にして巧く運ばず、
 其の儘放置するが如き場合には血が流れるひともあるやも知れざる旨を述ぶるや、
 両名に対し確に然り、血を見ることもあるやも計らざるが、
 自分が斯く言えば青年将校を煽動するが如く認めらるる故 甚だ困る次第なりと語り、
ハ、同月二十八日頃、香田清貞より国体明徴問題等につき聴取し、
 青年将校の之に対する努力未だ足らずと難じ、
 又 憤懣の態度を以て教育総監更迭には最後迄反対せる旨を述べ、
 尚 相澤中佐の蹶起精神を称揚し深く道場の意を表し、
 同中佐の公判には統帥権問題に付証人として起つべき旨
 及 教育総監 陸軍大将 渡辺錠太郎が其位置を退くことになれば都合好く運ぶ旨を説き、
ニ、同十一年一月、相澤中佐の弁護人 陸軍歩兵中佐 満井佐吉に、
 教育總監更迭には最後迄反対せし旨 其の他 同更迭の経緯等につき述べ、
 又 当日の公判には喜んで証人と為る旨を告げ、
 次で翌二月同じ満井佐吉の来訪を受けたる際 同人より現在軍の蟠わだかまり、
 国家の行詰り等 甚しき為、青年将校の運動の激化する状況に付、之を聴取し、
ホ、同年一月二十八日頃、
 磯部浅一が本人を其の自宅に訪ね、
 教育總監更迭問題に付ては飽迄努力する旨を述べ、
 金千円 又は 五百円の資出を請うや都合する旨を答え、
 爾来 青年将校同志は、東京市内各所に会合を重ね
 実行に関する諸般の計画 及 準備を進める一方、
 陸軍歩兵大尉 山口一太郎 及び民間同志 北輝次郎、西田税、亀川哲也 等と連絡を執り、
 蹶起直後、亀川哲也は真崎 及び 山本英輔 等に対し、
 又 山口一太郎 及び西田税は夫々要路に対し蹶起の目的達成の為工作を為すべき手筈を定め、
 遂に昭和十一年二月二十六日払暁、
 村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、對馬勝雄 及び栗原安秀 等が
 近衛、第一師団の一部将兵と共に兵器を執りて一斉に蹶起し、
 叛乱を決行する間に於て本人は、
一、昭和十一年二月二十六日午前四時三十分頃
 自宅に於て、予て ニ、三回本人を訪ね、
 青年将校の不穏情勢を伝え居たる亀川哲也の来訪を受け、
 同人より今朝青年将校等が部隊を率いて蹶起し、内閣総理大臣、内大臣等を襲撃するに付、
 青年将校等の為 善処せられ度く、
 又 同人等は大将が時局を収拾せれるる様希望し居れば、
 自重せられ度き旨懇願せられ、
 玆に皇軍未曾有の不祥事態発生したることを諒知し、
 之に対する処置に付 熟慮し居たる折柄、
 陸軍大臣よりの電話招致に依り、同日午前八時頃 陸軍大臣官邸に到り、
 同鑑定に於て、
1  磯部浅一より蹶起の趣旨 及び 行動の概要に付報告を受け、
 決起趣旨の貫徹方を懇請せらるるや
 「 君達の精神は能く判つて居る 」
 と答え、
2  陸軍大臣川島義之と村中孝次、磯部浅一、香田清貞 等 叛乱幹部との会見席上に於て
 蹶起趣意書、要望事項 及び 蹶起者の氏名等を閲覧し、
 香田清貞より襲撃目標 及び 行動の概要等に付 報告を受けたる後、
 同人等に対し、
 「 諸君の精神は能く判つて居る、自分は之よりその善後処置に取掛る 」
 と告げて官邸を出て、
ニ、同日午前十時頃参内したる際、
 侍従武官長室に於て陸軍大臣 川島義之に対し、
 蹶起部隊は到底解散せざるべし、此の上は詔勅の渙発を仰ぐの外なしと進言し、
 又 其の席に居合わせたる他の者に対し、同一趣旨の意見を強調し、
 三、同日夜、陸軍大臣官邸に於て前記満井中佐に対し、
 宮中に参内し 種々努力せしも却々思う様に行かざるを以て彼らを宥なだめよと告げ、
 、翌二十七日、
 叛乱将校等が北輝次郎、西田税より
 「 人無し 勇将眞崎あり、正義軍一任せよ 」 との霊告ありとの電話提示に依り、
 時局収拾を眞崎大将一任に決し、軍事参議官に会見を求むるや、
 本人は同日午後四時頃、陸軍大臣官邸に於て軍事参議官阿部信行、同 西義一 立会の上、
 叛乱将校十七、八名と共に会見の際、
 同将校等より事態収拾を本人に一任する旨申出で、
 且 之に伴う要望を提出したるに対し、
 無条件にて一切一任せよ、誠心誠意努力する云々の旨を答えたり。

以上の事実は、本人に於て其の不利な点に付否認する所あるも、
他の証拠に依り之を認むるに難からず、
然るに之が叛乱者を利せんとするの意思より出でたる行為なりと認定すべき証憑しょうひょう十分ならず、
結局本件は犯罪の証明なきに帰するを以て、
陸軍軍法会議法第四百三条に依り 無罪の言渡しを為せり。

河野司編 ニ ・ニ六事件 獄中手記遺書 から


眞崎甚三郎 ・ 暗黒裁判 二・二六事件

2020年11月22日 04時58分46秒 | 後に殘りし者

本記録は昭和三十年五月八日録音せし原稿を写したるものである。
右原稿は録音の為真に自己の手覚として記せしものにて、他人は之を読下し難き程粗末なものであった。
仍て今回之を何人にも明瞭なる如く清書した。
此の際原稿の意味を変えずして字句を修正したる所もある。
本記録は十月十日より始め、同十九日に之を終った。
昭和三十年十月十九日 ( 花押 )
維時これとき昭和三十年五月八日午前十時 妻信千代、勝、工藤、木村、山家君等集まれるを機として
一談話を試み、以て世の蒙を啓ひらく資に供したいと思う。
 眞崎甚三郎・大将
序言
眞崎は何故に弾圧を受けたるか、其の原因及び事情は頗る複雑であって、
何人にも直に之を理解し得る様に物語り、若くは記述することは難事である。
之を為さば恐らくは厖大なる記録となるであろう。
今日では既に各種の事件に就いては夫々の記録が出来ては居るが、其の多くは宣伝を目的とし、
故意に捏造し、或は一部局に偏し、全般を知らず、過誤が甚だ多いから此の点 読者の注意を要すべきである。
併し岩淵辰雄君は陸軍通の権威者で、私共より却って確かである。
同君の陸軍或は各種事件に関する著書は最も信頼すべきものである。
また橋本徹馬君の 「 天皇と叛乱将校 」 と云う著書は、得難き参考書と信ずる。
・・・リンク→
天皇と叛乱將校 橋本徹馬 
私が如何なる工合に弾圧せられたるか、若くは取扱われたるか、其の方法は実に卑怯未練で、
江戸の敵を長崎で撃つ位ならば まだしものこと、
今日私が之を口にしても、泣き言の様に聞ゆるから 私は之を述べたくない。
所謂 日本精神は当時全く失われて居た。
私には常に尾行を附け、光栄ある席か、或は目立つ場所には出さざる如く、
又 何等発言の機会なき様に皮肉の策を弄して居たのである。
彼の杭州湾上陸の柳川将軍を覆面将軍としたよりもひどかった。

私が弾圧を受くるに至りしことは、もとり私の不徳の致す処でるが、又一方他にも数多の重大なる理由がある。
私の不徳にも種々あるであろうが、私が自覚しありしことは、私の性癖として他に威張ることと、
他より威張らるることが、極度に嫌であったことである。此が色々の弊害を生じた。
友人川島大将は、威張ることが稍好きの方であったが、常に私に向って謂うて居た。
自分は君の真似は出来ないと。
同君は寧ろ ほめて居たが、何れかと言えば嫌う人の方が多かった。
( 市ヶ谷裁判にて米国検事ロビンソン氏は、私を尋問の際 行きがかり上、私の此の性癖を陳べたる処、
リンカーン崇拝者たる此の検事は、机を叩き 「 ア、其はリンカーンと同じ思想じゃ 」
と、大いに喜び、之を動機として私と大いに心易くなった )

弾圧を受けし他の理由としては、思想、政治、経済、軍事等諸方面に亘り、極めて錯綜したる事情があり、
一々之を明確に分離して説明し難いので、此等の中の主たるものを述ぶることとする。
二・二六事件以来 諸方面の友人知己より真相を記録して置く様に切に勧められ、
一部は書き残しあるものもあるが、記述は私の余り好む処でないから之を放擲ほうてきして置いた。
最近に至り特別の友人より真崎弾圧の真相を知る者が少ないから是非是だけなりともと切に勧められ、
私も余命幾何もないと感じ、又 二・二六事件と私との関係を余りにも誤認しある者が多いから、
真相を書き残す気になった。
従って今日の話も遺言の積りで、私の声を残すのである。
嘘偽と過誤多き歴史に、少しでも真相を残さんと欲するものである。
真崎弾圧の真相は、其の手先となって弾圧に従事した幕僚達も、真の意義を知らずして、徒らに踊った者が多い。
此等の説明にあたり、持永君は真崎弾圧の証拠物件を沢山所持して居ると、私は信じて居る。
又 各種事件に就いては、岩淵君の如き特に信頼すべき人の記録がある故、
私は前に述べたる如く 真崎弾圧の行われたる理由中、私にあらざれば知らざることにつき、
単にヒントを与える考にて各種事件其の他を説明しようと思う。

満州事変
先ず満州事変に就いて説明する。
昭和の初頃より国際情勢は、日本を孤立に追いやりつつありて、軍幕僚の一部には、日本国家を改造して、
ナチス張りの国防国策を建設せんとする気運が盛り上がりつつあった。
然れども実現には見込みはなかった。
丁度当時は中国特に満洲に於て張作霖父子二代に亘りて、排日の気勢漲り、我が同胞は悲憤慷慨の極に達し、
満鉄の従業員だけにてでも蹶起せんとする勢に迫った。

関東軍の幕僚は中央部幕僚の一部と連絡し、此の気運を利用して所謂満洲事変を起した。
即ち 理想の国家を満洲に作り、伊り逆に日本に及ぼし、日本を改造せんと欲して起したものである。
当時政府は此の真意を知らず、只徒らに之を抑ゆることに苦心し、不拡大を声明した。
軍首脳部に於ても此の方針を奉じて処理したけれども、第一線に於ては遠慮なく拡大し政府を悩ました。
私は満州事変を収拾すべく昭和七年一月 参謀次長の職を拝命し、着任するや間もなく上海事件が起り、
次いで 熱河討伐となった。
当時関東軍には北京天津をも一挙に占領せんとする企図があった。
曾てハルピン郊外で、馬占山討伐中、石原莞爾が私に洩らしたことがあった。
故に数次の制止をも肯かず、関東軍は長城の線を超越せんとする勢であった。
当時陸軍の準備として北支に兵を入れるる余力もなく、又 中国軍に対し極め手と云うものがなかったので、
動もすれば深田に足踏み込んだ様になる恐れりて、私も拡大を避ける方針であった。
偶々海軍も拡大に反対であり、天皇陛下も拡大を好ませられず、
或時は奈良侍従武官長を参謀本部に遣わされ、関東軍が、軍司令官の命令通り行動せざることを非難し、
大いに私を叱責せられたことがあった。
私は武官長に対し、既に余力を尽し、あらゆる手段を以て長城の線に停まる如く処置してあるから、
私としては、今や他に手段もなく、如何に御叱責を受け、又は処罰せらるるとも、
有難く頂戴しますと、答えしこともあった。
或時は 日曜に宮中に召され、関東軍が長城の線を越ゆる恐れあることを指摘せられ、私を責められた。
私は前に述べた様に既にあらゆる手段を尽し、有力なる使者も派遣し、
又場合によりては軍司令官の更迭をも促す如き含蓄ある私信電報を二回も発送しあったので、
事茲に至れば、私は自ら長城の線に立って身を以て止まる外 余す手段はなかった。
夫れ故に当時小田原に居られたる閑院総長宮殿下に、宮中より直接に伺候して、
即刻満洲行の許可を乞うた。
殿下は御一考の後、其は最後の手段なる故、今一寸待てと仰せられた。
兎角して居る内に、武藤関東軍司令官の徳望により塘沽に於ける停戦協定が成立し、一同安堵することを得た。

此の如く上海方面に於ては種々の議論ありしも、軍事外交の事情よりして、
私は一兵も残さず引揚ぐることとし、又 満洲方面も大体都合よく終了することを得た。
而して昭和七年七月十五日に拝謁し、
満洲は独立せしむるにあらざれば、治まらざることを私が上奏したることに基いて独立し、
政治、外交、軍事、経済も整えらるる様になったのである。
斯の如く 満州事変の拡大を私が許さざりしことが、陰謀家幕僚連に私が嫌われる様になった。
従来の同僚までが私に反対する様になった。
小磯、板垣等は 死ぬ迄、私の不拡大を避難して居た。
此が真崎排撃の最初の動機である。
此の点特別の注意を要する。
往年満洲独立の記念祝賀会が新京にて行われたことがあるが、
其の時満州事変関係者の主なる者は悉く参列したが、只私のみが案内せられなかった。

二・二六事件
日本が今日の様な哀れな状態に陥ったことに就いては、勿論色々の原因や大きな理由があることは言うまでもない。
併し 古今東西国家興亡の歴史を繙いて見ると、何処の国にも所謂宮中府中の重臣や権臣達の権謀術策が、
国家の大局を過った如く、日本の崩壊にも此の点が見逃せないのである。
私をして言わしむるならば、我が宮中府中の重臣権臣達が、只徒らにデマや宣伝に踊って、
例えば満洲事変に就いても、其の真因を究めようとせず、
況してや三月事件、十月事件、十一月二十日事件の真相に就いても、
袖手傍観して却って巧妙極まる陰謀や術策に陥って、取り返しのつかぬ今日の状態を招いてしまったのである。
私は今此処に三月事件、十月事件、十一月二十日事件等に就いて、詳細を語る暇もなく、
又其の必要もないと思うが、三月事件、十月事件共、其の計画の首謀者こそ異なれども、
クーデターを以て政権を取らんとしたる一大陰謀であって、私共の大いに反抗した処であった。
夫故に、此等事件以来は、事件関係者等は、真崎の存在が非常に邪魔になり、
眞崎排除の為にあらゆる機会が利用され、或は特に機械を作る様に計画された。
十一月二十日事件の如きは、真崎の責任問題を無理に作り上げ、
之を排除せんとする目的にてけいかくせられたる純粋の陰謀であった。

従って二・二六事件の如きも、只一途にデマと宣伝せられ、其の背後に眞崎ありと見誤り、
或は故意に眞崎ありと看做して、眞崎排除に躍起になったのは当然である。
比が一種の大陰謀であったのである。
私は世間で想像する程 二・二六事件と関係もなければ、寧ろ事件が突発するまで、
斯る無謀の計画が企てられて居たことを全然知らなかっただけに、
私はあの朝の事件突発の報は、全く寝耳に水であった。
然るに実に手廻しく、事件突発するや、其の背後に眞崎ありと宣伝し、
世間はおろか、宮中迄も斯く信ぜしめられたのであった。
彼の一念三ヶ月に亘る軍法会議に於て、徹底的に調査せられても何事もない。
若し少しでも関係があったら、私は決して助からなかった。
今調査全部について述ぶる訳にも行かぬが、当時当局では、青年将校があれだけ眞崎をかついだのであるから、
かつがれた眞崎も何か多少手を出したのであろうと疑深く、其の調査に約半歳を費し、
世界の法制史上未曾有のことまでして、即ち死刑の確定しあるものを執行せず、之を証人として、
三人を長い間残し、眞崎に関する何物かを、甘言を以てつり出さんとしたけれども、
無い物はどうしても出て来なかった。
彼の蹶起将校中私が知れる者は二人で、他は全く未知である。
而して何れも検察官の訊問に応じ、彼等は
「 私共は何も知らぬ。只眞崎と云う人は、正義感強くうそをつかず、実行力があると云うことを聞いていたからかつぎました 」
と、異口同音に答えている。

私は当時検察当局に言うた。
当局の如く風が吹いたら桶屋が儲けたと云う如き論法を用うれば、日本人は皆 二・二六事件に関係があると。
彼の二月二十七日の夕方 阿部、西 両大将の立会の下に、私が蹶起将校を説得したる事実は、
事件に関係ある者のなし能わざる処で、若し私が二枚舌でも使ったならば、直に拳銃一発を受くる状態にあった。
西大将も之を認め、私が関係無きことを承知した。
其の他 次の五項目により、私に関係なく起りしものなることを証明し得るのである。
一、本事件は当時裁判中なりし相澤中佐に同情ある者のなすべき事でない。
何となれば斯ることをなさば相澤を益々不利の状態に陥るからである。
然るに事実は相澤の崇拝者ばかりである。
仍って彼等は斯くすることにより相澤を救い出し得ると云う錯覚に陥りしにあらずや? 事実此の疑は十分にあったのである。
二、前東京憲兵隊長たりし持永少将の言によれば、二・二六事件の計画構想は、十月事件の儘である。
仍って十月事件に関係せし幕僚が二・二六事件に関係しあるにあらざるかとの疑問自然に起るが、
事実乃があったのである。
三、十一月二十日事件、即ち士官学校事件と同様に、二十六日昼頃大阪附近、夕刻小倉附近には謄写版刷にて
背後に真崎ありとの宣伝文を撒布しつつありしと云う。
実に手廻しが早過ぎる。之は予めの準備しありし疑がある。
四、平沼男爵の秘書竹内氏が津雲国利氏より聞きし処によれば、西園寺元老は之を予知して居て、
二十五日夜は静岡県警察部長の官舎に避けありしと云う。
何人が之を洩らしたるものか?
五、昭和十一年七月十日、磯部と私は対決せしめらるることとなり、私は先に入廷し、
磯部を待って居たが、間もなく磯部も大いにやつれて入り来り、私にしばらくでしたと一礼するや
狂気の如く昂奮して、直に 「 彼等の術中に落ちました 」 と言うた。
私は直ちに頷けるものがあったけれども、故意に、徐々に彼を落ちつけて、
術中とは何かと問い返したれば、沢田法務官は壇上より下り来りて、「 其れは問題外なる故 触れて下さるな 」
と 私には言い、磯部には 「 君は国士なる故そんなに昂奮せざる様に 」 と 肩を撫でて室外に連れ出し、
これだけで対決を終った。
何のことかわからぬ。私は不思議でたまらなかった。之で私が第一項に述べたこともわかる。

以上の外、昭和十二年十一月十七日、沢田首席検察官が刑務所に来り、私に告げた。
「 今少し御待ち下さい。何もありませんから、あなたの終始不変の主張は非常に有利で、
私共は感情で仕事をせぬから御安心下さい。もうすぐですから・・・・」 と。
同二十五日には長男秀樹が来訪した。此は種々の事情で、当時の情報通であった。
此が申すのに
「 今御父さんが刑務所を出る出ないは問題でない。
何日に出るかと云うことと、寺内陸相が責任を取り、何時罷めるかが問題となって居る。
去る二十三日には御父さんが帰るとて、家の周囲は新聞社のカメラ班にて一ぱいであった。
正月は内でやらせるそうです 」 と 内報してくれた。
他に二三の看守も同様のことを洩らしてくれたので、私は大いに待って居たが、
結局何時迄待っても何とも申して来ず、結局御流れになった。
後で聞けば、陸軍大臣より電話にて、停止命令が来たそうである。
而して遂に公訴提起となった。出獄後岩淵君に聞けば、
此の頃私が娑婆に居ると、陸軍に非常に都合の悪しきことがあったそあである。
此に於いて私は腐敗したる人間と話を交ゆるのがいやになり、予ねて研究修養しつつありし法により、
断食を決行する気分も起ったのである。
私が二・二六事件に関係なかりしことは十分に証明材料が、又外にも沢山あれども、
私が今語らんと欲することは、私の無関係なりしことの証明にあらずして、
何故に真崎は弾圧を受けたるやの問題なる故、之を本筋に戻すこととする。

国体明徴問題
私に対する弾圧は、前にも述べたる通り、思想、政治、経済、軍事等 錯綜せる事情よりして、
根強く、執拗に行われたのである。
甚だしきは政党自身 或は個人間の争の余波まで弾圧に転化せられた。
政治的に行われたるは、国体明徴問題に起因することが、最も甚だしかった。
昭和九年か十年と記憶するが、当時日本憲法の解釈に於いて、天皇機関説なるものが盛んに論議せられた。
此の説は美濃部博士の唱うる処にして、詳細のことは、私は今日と雖も知らないが、
要するに国家は法人にして天皇も一巡査も国家統治の機関としては、同一なりと云う如き説なりしやに記憶する。
此の説に対して当時 先ず 右翼方面より反対運動起り、終に貴族院に於いて菊池男爵が弾劾する所となり、
喧々諤々停まる所を知らず、在郷軍人団が之を支持し、物情騒然たるものがあった。
此の為 政府は前に一度声明をしたるものを、更にやり直しの声明迄もして弁明した。
此の声明が如何なる意なりしや私は記憶せず、又 材料を有せざれども、何となく曖昧の部分あり、
明確を欠きし処ありしやに思う。
機関説を葬り、国体を明徴にせよとの叫びは漸次強くなり、終に現役軍隊に及んで来た。
当時柳川第一師団長の如きは、中央で何とか処置して戴かざれば、軍隊は治まらぬと再三要望して来た。
仍って私は三長官と協議をした。
協議の結果、陸軍大臣が訓示するのが当然で、且つ適切ではあるが、大臣訓示は此の場合閣議を経ねばならぬ。
又 政府は既に二回も声明を出して、此の問題の取扱いに非常に困惑して居るから時間を要し、
一方其の状況は急を要するものがあった。
現役軍隊だけに対してならば、教育總監の訓示にても応急策としては可なりとして、
三長官協議の上、教育總監が立案し、三官衙の責任者が協議決定した。
私の案は教育總監の職責に鑑み、政治的法律的には毫も触れざることに特に注意し、
精神教育上之を戒むるに止め、四月四日に出して、之を上奏したのであって、所謂教育總監の国体明徴の訓示であった。
此の訓示が出ると、現役軍隊の騒はぴったり治まった。
併し政府は頗る困惑した様であって、岡田内閣は終に眞崎弾圧を以て最高政策の一項とするに至った。
此の事は当時風評もあったが、内大臣斎藤實子爵が望月圭介氏に語り、望月氏は勝田主計氏に伝え、
勝田氏は私と親交のありし為、私に告げた。決して道途の風説ではない。
又 私は昭和十年四月十日甲府市旅館 談露館にて、曾て参謀本部にて私の配下に属し、
当時甲府聯隊の大隊長たりし事情通の今田新太郎少佐より同様の諷示を受けたことがある。
政府が何とかして私を圧えようとして、如何に権力、人力、金力を用いたるか、
当時私は法廷にて弁明し、今尚証拠物件の一部を所持して居る。
当時荒木と私には尾行を附けてあった。
此が近衛公の知る処となり、後藤内務大臣は公より詰問せられ、尾行を止めたことがある。
此の事は公の承認を得て、私は法廷で之を明らかにして置いた。
又 昭和十年の末 千葉県四街道に住居する河村圭三元少将は、一夕私を現住所に訪ね来り、
中島今朝吾少将 ( 後の中将、憲兵司令官 ) は河村君を示唆しさし、荒木、眞崎の暗殺を企てて居る。
同君は中島少将に大いに其の非を語り置いたが、尚警戒せよと言うて来たことがある。
此が為 私は斯る憲兵司令官の訊問を拒んだこともある。

当時当局の考えを知る材料として、尚一つの挿話を加えておく。
満洲事変後行賞が始まった。
私の為には現在所持して居る勲章の授与を陸軍大臣は申請し、松浦人事局長、赤柴恩賞課長は、
此が為 賞勲局へ御百度踏をした。
然れども、賞勲局総裁 下条康磨氏は、之をどうしても承知しない。
而して曰く、「 あの人は国体明徴の訓示を下しているから 」 とて受け付けなかった。
( 之は松浦中将の当時私への直話 )
其の頃私は勲章を欲しくなってもいなかったので、交渉を止めて貰ったが、
まるで三長官協議して軍を治める為にやった事を
犯罪として取扱い、弾圧に従事した者は、御褒美を頂いて居る始末である。
林陸相も其一人である。
政府の斯る態度が、眞崎弾圧に最も有効に作用をなしたと、私は考えている。
斯くの如く 政府が周到なる準備を以て無理なる弾圧を行いし為、相澤事件なども起こったものと考える。

軍人政治家の野心
次に弾圧に予って力ありし者は、軍人にして政治的野心に燃えし宇垣氏であった。
此の人には現役将校の中央部の幕僚を除き、反対していた者が多かったが、
宇垣氏は此等反対将校の背後には荒木、眞崎ありと邪推し、政界財界の巨頭に、折に触れて、
座談的に巧妙に眞崎の悪宣伝を為した。
その為に元老、重臣等にも、眞崎は弾圧して然るべきものと思わしめた。
此の事は近衛公より直接私に再三聞かされた。
公は 「 宇垣の宣伝は大きくなりましたなー 」 と 申された。
公の眞崎起用は、斯くして常に潰された。
私は元来不肖不徳の者であるが、此は全く宇垣氏の邪推で、私の友人には斯くの如く性の悪い者は、一人も居らぬ。
私は調査の際、常に法廷でも述べて居た。
私は悪人と言われても可なり、古より其の人を見んと欲すれば、先ず其の友を見よと云うてある。
私は兎も角 私の友人は一人残らず、内地でも戦地でもビカ一に光って居る者ばかりである。
之は私の大きな誇りである。
宇垣内閣流産の時は、私は刑務所に在ったが、私の同僚は宇垣氏に同情し、これを助けた。
同氏が之を聞いて居ったら、内閣は流産しなかった。
之を流産せしめたのは、宇垣氏の信頼ありし同僚ではなかったか?
汝に出でたる者は汝に帰る。

事件関係者の言動
次に眞崎弾圧に影響せしものは、所謂三月事件、十月事件に関係せし将校の言動である。
此等の事件は表面的には隠蔽せられた重大事件であった。
勿論両事件の関係者は、何れも南陸相によって処分せられて居た。
従って処分が寛大に過ぎるとの非難はあったが、
後任の荒木陸相としては、此等の関係者を改めて処分し直すわけには行かなかった。
殊に一方 満州事変が勃発して居ったから、荒木陸相は内部の醜態を暴露するを好まず、
改過遷善の方針を採り、地方に散在せしめある者を逐次中央に復帰せしむることとした。
併し 此の中央復帰が、宮中関係其の他色々の事情ありて、早急に運ばなかったのである。
然るに 之を待ちきれない小磯、建川等が、荒木、眞崎は派閥人事をやると言って不平を鳴らした。
林陸相の時代でも、困ることは悉く真崎の責に帰した。
建川の中央入りは、宮中は勿論 陸軍省各局長、参謀本部各部長の好まざりし処なりしに拘わらず、
眞崎が承知せぬと吹聴して居た。私は大分迷惑した。
此等一味の不平組を巧みに捕えた者が、例の軍人政治家で、眞崎排撃に大なる力を得た。

( 最近元東久邇宮の著書を見れば、宮は眞崎と仲違いとなり、眞崎の為に地方に追いやられたように書いてある。
見下げ果てたる浅間式しきことである。
私は宮が皇族は軍人を辞すべしとして、駄々をこねられた時、
誠意を以て之を諌止した外に争論など一度もしたことはない。
又 私ほど忠勤を擢ぬきんでて、宮の為に縁の下の力持ちとなりて働いた者はないと信ずる。
地方転出については、私は切に御止め申したけれども、自分が東京に居るのがいやで、
熱烈に地方転出を志望されたのである。然るに斯く思われては、長嘆息も及ばない。
結局これも何人かの宣伝にかかられたものである )

幕僚の陰謀
中央幕僚が真崎排撃の挙に出でたる動機に、見逃すべからざる有力なる事情が、尚一つ存在する。
其れは彼等首脳者の一部が、或陰謀を企みありしことである。
前にもちょっと之に触れたが、私は満洲事変以来、彼等の一部が、中国に於いて何事か始めんとする臭いがあることを感じて居た。
中央幕僚は何か始むる為には、中央三官衙に於ける要職の少なくも課長級以上を同じ穴の狢を以て占めねばならぬ。
一人二人にて大陰謀を実行することはむずかしい。
併し少し言い過ぎの様にもあるが、当時の首脳部には、思想の動向など分る者は少かったが、
少しく注意して居れば、其の気配が分るものである。
私の教育總監時代迄は、三官衙の課長級以上の職員人事は、三長官の協議を要することになって居た。
仍って私の人事異動の際に、之に注意しあると、其の企図が直ちに窺がわれた。
斯る時には、私は之に反対した。
そうすると、陰謀家達は眞崎は統制を妨ぐると、大宣伝をなし、閑院宮殿下迄も信ぜらるる様になった。
而して三長官会議の際に、陰謀家達の謀略に乗り踊って、或る時 満面朱を注いで、
「 教育總監は事務の進行を妨害するか 」 と、私を叱責せられた。
私は予め此の陰謀を知って居たから、決して驚かず、沈着に厳粛に礼儀を尽して言上した。
曰く、「 私は卑賤の身ながらも忠誠心を失って居りませぬ。何故に妨害など致す意がありましょうか、
私は皇族の御長老であらせられる殿下の御意に副い奉ること出来ざること、今此処に身の置き所に苦しんで居ります。
併し 私は天皇陛下の教育總監であります。教育總監輔弼の責に任じて居ります。
今建軍の大綱が断ち切られんとして居りますのに、教育總監として斯る案に同意出来ません 」
と、断固として言い放ち、陸相に統制の基礎、根本方針の誤れることに対し痛棒を加え、顔色なからしめたことがある。
三長官会議に関する複雑なる記事は別にある故、此処には詳細に触れざることとするが、
此れ以来 皇族中にも、真崎は頑固なりとの非難起り、眞崎は統制を妨ぐるとて、弾劾は一層強くなった。

以上述べたる処により、大体頭脳明晰ならざる者と雖も、直ちに諾かるることと思うが、
支那事変の如きも、世には何も知らずして、所謂皇道派の者が起こした様に信じて居る者がある。
眞崎弾圧と共に、所謂皇道派に属する者は、其の末輩に至る迄追放せられたる後 始めて支那事変が起った。
是も特別なる注意を要することである。
即ち 支那事変は、何人等が起したるや明らかである。
之を今日尚誤りある為 やること為すこと なかなか軌道に乗らないのである。
( 清書の際に附記す。
彼の有名なる佐々弘雄氏は、昭和二十年十一月二十日より二十三日に亘ってと記憶しているが、
東京放送局より放送して曰く、支那事変は二・二六事件のボロ隠しなり、予は何時でも証人になると )

派閥問題
次に陸軍の派閥と云う問題に就いて一言して置かねばならぬ。
私は陸軍に派閥は皆無なりしとは云わぬ。
陸軍には出身地、出身校即ち普通の中学校、或は幼年学校、或は陸軍大学出身者、或は兵科別等により、
大小強弱の種々の軋轢を生じありしことは事実である。
併し世に所謂皇道派、統制派などと云う派閥はなかった。
之は何時の間にかジャーナリストがつけた名で、それが逆に派閥見たようになってしまった。
多人数の内には、或は誤って派閥の争いに陥りし者もありしやも知らぬが、
本は思想の相異であり、前に述べし通り各種の事情より起りありしも、其の大根源の明治維新に遡らねばならぬ。
明治維新は薩長土肥の四雄藩にて行われたと云うも、主なる者は薩長二藩であった。
此の二藩が協力の結果維新が成立したけれども、其の後 此の二藩の軋轢競争も甚だしかった。
而して此の両藩に特に文武両方面に有為の士が輩出し、所謂薩の海軍、長の陸軍と云う工合になり、
私等明治二十八年士官候補生として入営せし頃迄は、薩長人にあらざれば、軍人にあらずと云う様な勢であった。
斯の如くた他府県出身者は、此の争いの中にありて、種々の因縁により薩閥に近く 或は長閥に親しむ者も生じ、
或は中立的に行動する者もあった。
私個人としては、長州に神佑り、又親族もありて何等変りたることはなけれども、
江藤新平以来先輩は薩土と特に親交ある者 自然に多くなり、知らず識らずの間に薩閥に近くなっていたのである。
従って反長閥と身らるるに至り、少将の階級以後常に首の座に据えられた。
上原元帥、武藤元帥逝去後は、私は反長閥の巨頭と目され、弾圧のと手が特に強く厳しくなって来た。
湯浅内府迄も 手伝ったとは、近衛公の直話であった。

結言
以上 極めて簡略に私に関するヒントのみを述べしも、私が太平洋戦争と如何なる関係にありしや極めて明白であり、
又 市ヶ谷裁判の厳正なる調査にても戦争に全く無関係と云うことが明かなりしに拘らず、
私は追放に関する法律が失効して、自然解除となる迄追放解除にならなかった。
如何に私に対する弾圧が、辛辣で且つ深刻であったかが想像出来ると思う。
此は主として私の不徳の致す所とも思わるる。
何故なれば、私は悪いことはして居らぬと確信して居たから、攻撃を受ければ受くる程、意気益々昂がり、
天下の大道を闊歩したからである。
私は一時は非常に憤慨に堪えざりし時もあった。
凡そ人間にして有形無形公私両方面に亘りて、私の如く台所の隅々まで洗い出されて、
疵の出なかった者は、余り多くはあるまいと、密かに矜りを持って居る。
私には二・二六事件程、深刻なる教訓を与えたものはない。
人生の表裏、人間の本性、真の姿を明示してくれた。
私は親鸞聖人の教えが真であり、如何に有難きものか、一層明らかに、より分った。
私は御蔭で今日極めて平静に楽しく余生を送って居る。
曾て苦難の大なりしこと程、今日は其が、大なる愉快なる思出の種となって居る。
既往を思えば思う程、無限の感慨湧き出で来り、思想、文化、社会、軍事、政治当に亘り述べたきことあれども、
今日は此にて止め置くこととする。
以上病中動かぬペンを駆りつつ、書く気分の生じたる時に記し、
昭和三十年四月十日より始め、四月十七日に終る。

「 いまこそ言う----主役のメモ 」 特集文藝春秋  昭和三十二年四月五日


拵えられた憲兵調書 「 眞崎黒幕説は勝手な想像 」

2020年11月20日 05時06分21秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略4 皇道派の追放


「 お前らの心はようッく分つとる 」
有名な、眞崎大将の
「 お前らの心はようッく分つとる 」 という文言は、磯部さんの行動記にある言葉だが、
「 行動記 」 そのもので、戦おうとした 囹圄の身の磯部さんの唯一の そして必死の戦術であったこと、
つまり、事件に直接、眞崎さんを引き込むことで、北、西田を救おうとした磯部さんの気迫である。
したがって嘘もあった。
この点は、後日、磯部さんは眞崎さんに申し訳ないと言っている。
小説家立野信之は 「 叛亂 」 の第9章のタイトルに、此の言葉を使った。
そして、この本で昭和28年、立野は第28回直木賞を手に入れた。
日本人は、それ以来、眞崎大将がそういったものと信じている。
実際はどうだったか。
眞崎大将の護衛のため、眞崎大将の自宅からの車に同乗し、
眞崎大将とともに陸軍省に入った陸軍憲兵伍長の金子桂さんによれば、
眞崎さんは相当怒っておられ、怒りをあらわに、青年将校たちに 「 馬鹿者!」 と いったとのことである。
金子さんはそれを書かれたし、私もそれを金子さんから直接聞いている。
・・・リンク→傍聴者 ・ 憲兵 金子桂伍長 

推理を込めた歴史書 1965年に発売された高橋正衛氏の中公新書 「 二・二六事件 」
の 「 彼らをつきうごかしたもの 」 のなかに 「 眞崎甚三郎 」 の野心があったと断定する。
黒幕は眞崎だというのである。
そして このことは、
膨大な証言資料を集めた松本清張を経て、
澤地久枝の 「 雪は汚れていた 」 を頂点に推理が進められた。
結論から言えば、何もなかった
しかし、一般の国民は、眞崎という黒幕がいたという印象を確信した。
澤地は大量の本を売り、NHKや文部省から表彰を受け、朝日新聞は一面で新事実と書きたてた。

しかし、事実は何もなかった
東京地検の地下に 「 公判資料 」 が あるらしいと報道されたころだった。
そんな中、澤地は、匂坂法務官が遺した資料が、
「 これが最後の資料で、他には存在しない 」
と 言い切って、
「 新事実も出なかった 『 雪は汚れていた 』 」 を 売り逃げしたのである。
二・二六事件の資料は他には存在しないと言い切った澤地は、
「 歴史学者でもない匂坂法務官の子息がそういった 」 ということを根拠に書いている。
物書きの文章は上手い。
 澤地久枝

そもそも、高橋正衛の眞崎黒幕論は、
1989年2月、末松太平氏の立会いのもと、
高橋は、「 眞崎甚三郎 」 研究家の山口富永に対し、
「 あれは私の勝手な想像 」 と 平然と言ったのである。
この黒幕を求めて、日本の黒い霧を書いた 「 松本清張 」 が 必死になるのは已むをえまい。
ただ副産物として、事件に関連する方たちのインタビューや、様々な資料の収集物は残った。
父のところまで、清張の事務所のひとが、インタビューに来たのを覚えている。

久野収を信奉する高橋という人の一言が生み出した25年間の 「 二・二六事件黒幕探し 」 は 今もかすかに脈動している。
末松建比古 1940年生 ( 末松太平 長男 )
ブログ  ◎末松太平事務所 ( 二・二六事件関係者の談話室 )
から
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< 眞崎大將の事件関与 >
事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して匂坂春平陸軍法務官らがこれに當たった。
黒幕と疑われた眞崎甚三郎大將 は、
昭和十一年三月十日日に眞崎大將は豫備役に編入され、
東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らに取調べを受ける。
昭和十一年十二月月二十一日
、匂坂法務官は、眞崎大將に關する意見書、起訴案と不起訴案の二案を出した。
昭和十二年一月二十五日に反亂幇助で軍法會議に起訴されたが否認した。

   小川関治郎              湯浅倉平
   陸軍法務官              内務大臣

小川関治郎法務官は湯浅倉平内大臣らの意向を受けて、
眞崎を有罪にしたら法務局長を約束されたため、極力故意に罪に陥れるべく訊問したこと、
小川が磯村年裁判長 ( 寺内寿一陸軍大臣が転出したあと裁判長に就任 ) に對して、
眞崎を有罪にすれば得することを不用意に口走り、
磯村は大いに怒り 裁判長を辞すと申し出たため、陸軍省が狼狽し、
杉山元 ( 寺内寿一の後継陸相 ) の仲裁で、要領の得ない判決文で折合うことになった。
論告求刑は反亂者を利する罪で禁錮13年であったが、昭和十二年九月二十五日に無罪判決が下る。
磯村年大将は、
「 眞崎は徹底的に調べたが、何も惡いところはなかった。だから當然無罪にした 」
と 戦後に證言している。

「 被告人眞崎甚三郎ハ無罪 」 

拵えられた 憲兵調書


村中孝次
二十七日午後 眞崎大将等ニ官邸ニ來テ頂イテ一任シタ事ノ經緯ヲ述ベヨ

私ハ軍事參議官ガ國體顯現ニ邁進セラレアルコトハ承知シテ居リマシタガ、
其中心點ガハツキリシナイト感ジ、
又 陸軍ガ大臣ヲ中心トシテ動イテ居ルカニ就テモ疑問ヲモチ、
更ニ又、此大臣ニ本時局ヲ切リ抜ケル事ガ出來ルカドウカモ疑問ヲ持ツテオリマシタカラ、
誰カ勇猛果敢ニテ時局ヲ担當シテ収拾シテ頂キタイト考ヘテ居リマシタ。
當日正午前後 私ガ首相官邸ニ行キマシタ時、
磯部カラ北ノ靈感ニ 「 眞崎ニ一任セヨ 」 トアツタト聞キ、
之ニ ヒントヲ得テ時局収拾ヲ眞崎大將ニ一任シヨウト考ヘ 皆トモ相談ノ結果、
軍事參議官全部ニ御集リヲ願ツテ全將校ノ意見トシテ オ頼ミスルコトニナリ、
ワタシガ此ノ旨ヲ小薗中佐ニオ願ヒシタノデスガ、
軍事參議官ハ三人丈ケオ出ニナリマシタニ過ギマセンデシタ。
其時 野中大尉ガ述ベマシタ事ハ次ノ三點ニ在リマシタ。
1、眞崎大將ニコノ時局収拾ヲ一任スルコト。
2、他ノ軍事參議官モ之ニ同意セラレタキコト。
3、コノ意見ハ蹶起將校ト軍事參議官全部トノ一致ノ意見デアルコト 天聽ニ達シテ頂き度キコト。

今度ノ靑年將校等ガ眞崎大將ニ對スル信頼甚ダ強キモノガアリ、
今度ノ事件ニ於テ二十六日眞崎大將ノ招致ヲ希望シ

又 二十七日ニハ時局収拾ヲ一任シテヲルガ、コノ眞崎熱ハ如何ニシテ起リタルヤ
私共ハ荒木、眞崎ノ兩大將ニハ、思想的ニモ人格的ニモ敬服シテオリマス。
兩將軍共其人物観ハ前ニ申述ベタ通リデアリマスガ、
眞崎大將ハ實行力アリ、決斷力アリト信ジテ居リマシタ。
更ニ又兩將軍共吾々ノ思想ヲヨク理解サレテ居ツタノデアリマス。
從テコノ時局ニ中ツテハ陸軍ノ誰カニ其収拾ヲヤツテ頂クトナレバ、
眞崎大將ヨリ外ニ人ヲ求メ得ナイト云フ事ニナルノデアリマス。
尚 眞崎サンハ平素軍部内ニ不平ガ多イカラ、
内閣ノ首班トカ陸相トカニナツテモ駄目カモ知レナイケレドモ、
時局ヲ収メルダケノ實行力ハ有シテイルト思ヒマシタ。
シカシ今申上ゲマシタ様ニ必ズシモ眞崎内閣ニトラハレル要ハナイノデスガ、
大將ハ陸軍ノ一致點ヲ見出スコトガ出來ルカラ、總理ニナレバ一番ヨイトモ思ヒマシタ。

眞崎大將ニ時局ヲ収拾シテ頂クト云フコトヲ具體的ニ述ベテミヨ
眞崎大將ヲ中心ニシテ、即三長官モ外ノ軍事參議官モ皆眞崎閣下ニ一任シテ、
蹶起部隊ノ行動 及 爾後ノ時局ヲ収拾シテ頂ク考ヘデアリマス。
大將ナラ我々ノ精神モヨク判テ下サルシ、蹶起部隊ヲサゲルニ附テモ政治工作ヲシテ、
アト我々ノ志ハ話して呉レタラウト漠然ト、ソウ考ヘタノデ、
大將ニ時局収拾ヲ一任シタイト申出タノデアリマス。
眞崎大將ノ御宅ニハ一昨年二回參リマシタ。
内一回ハ玄關丈デ歸リ、一回ハ一時間半許リ話シマシタ。
又 大將ハ敎育總監時代、國體明徴ニ關スル訓示ヲ出サレタノデ、之ヲ見タリ
又 間接ニ平野助九郎少將カラモ閣下 ( 眞崎大將 ) ノ人物ヲオ聽キ致シ、
我々ノ考ト同ジデアルト云フコトハ思想信念ニ關シテ同ジデアルト云フ意味デアリマス。
・・・村中孝次憲兵聴取書


磯部淺一
其ノ方ガ二月二十六日朝、陸相官邸前ニ於テ眞崎大將を迎ヘタル狀況ヲ述ベヨ
當日午前八時半ダト思ヒマスガ、官邸正門前ニ私ガ立ツテ居リマスト自動車ガ來マシタカラ、
私ガ行ツテミマスト、眞崎閣下デアリマシタ。
下車サレルト同時ニ私ハ 「 狀況ハ御存知デアリマスカ 」 ト 聞キマスト閣下ハ
「 うん 」 ト丈 申サレマシタノデ私ハ、知ツテ居ルノカ居ラナイノカ判ラヌノデ、
襲撃目標ノ事は云ウタ様ニ記憶シマス。
ソシテ私ハ、「 善処ヲ願ヒマス 」  ト 申シマスト閣下ハ、
「 お前達ノ精神ハヨウ分カツトル 」 ト云フ事ヲ二度三度續ケテ云ハレタ事ハ ハッキリ覺エテ居リマス。

其ノ時 其ノ方ガ大將ヲ案内シテ官邸内ニ入ッタノデハナイカ
ハッキリトシマセンガ案内シタラウト思ヒマス。

其ノ際 護衛憲兵ノ報告ニヨルト、「 落チツイテ落チツイテ 宜シイ様ニ取計フヨウ 」 ト 言ハレタト云フガ事實カ
ソウ言ウ様ナ事ハ云ツテ居ラレタト思ヒマスガ、
當時ノ事デスカラ ハッキリ記憶ニハ殘ツテ居リマセン。
タダ 「 落附キテ 落附キテ 」 ト 云ツテ居ラレタ事ハ事實デアリマス。

本事件ニ關聯シ眞崎大將ニ對スル其方ノ所見ヲ述ベヨ
私共ノ目指ス処ハ維新ノミデアリマス。
眞崎ガ統帥權干犯ニ憤慨シ靑年將校ヲ利用スベク接近シ、
或ハ靑年將校ト會見シ、或ハ金錢ヲ交附シ、
或ハ磯部、村中ノ身上ヲ元ニ還ス事等口走ル等、
私共靑年將校ニ働き掛ケテ來る事ハ明瞭ナル事實デアリマス。
・・・磯部淺一憲兵聴取書


香田清貞大尉
眞崎大將訪問ノ際ノ内容ニ就キ詳細ヲ述ベヨ
昨年十二月二十八日デアツタト思ヒマスガ、眞崎大將ヲ訪問シタ時ニ話ガアリマシタ。
眞崎 「 國體明徴ニ關シ如何ニ考ヘアリヤ 」
吾々ノ維新運動トハ國體明徴トハ一體不可分ノモノデアツテ、之ノ問題ガ世上ニハゲシクナツタ事ハ
維新運動ガ始メテ本筋ニ這入ツタモノデアル。
從テ私共ハ之ノ問題ヲ捕ヘテ マッシグラニ各方面ニ亘リ實現ニ努力スル考ヘデアリ、
又 努力シツツアリマス。
右ノコトヲ私が申シ上ゲマスト、眞崎大將ノ言ハ簡單デアリマシテ、
其ノ言葉ハ覺ヘテ居リマセヌガ、維新運動ノ事ニ關シテモ私ノ意見ニ同意セラレタ様デアリマス。
確カ 「 ソーダ 」 ト 云ツタ様ニ覺ヘテオリマス。

其ノ時ニ於ケル大將トノ會談内容ヲ述ベヨ ( 昭和十年十ニ月二十八日 )
「 靑年將校ノ活動ガ足ランノデハナイカ 」 ト 云フ事ヲ仰言イマシタ。
之ニ對シ私ハ、
「 國體明徴ノ問題ハ
 私共ノ考ヘテ居ル維新運動ガ本筋ニ入ツテ來タト云フ事ヲ感ジテ非常ニ喜ンデ居ルト共ニ、
益々活動ヲシテ居リマス、
靑年將校ハ眠ツテ居ル譯デハナク、上下左右十分ニ活動シテ居リマスガ、
至ル処 壓迫ヲ受ケテ進展ヲ見マセン 」
ト 申シマシタ。
此ニ對シ閣下ノ御言葉ハ ハッキリ今覺ヘテ居リマセンガ、
閣下ノ御言葉ハ
「 靑年將校ノ活動ガ足ラント云フ事、著眼ガ惡イ 」
ト 云フオ考ヘデアツタカト思ヒマスガ、
兎角活動ガ十分ナラズトシテ御不満ノ様デアリマシタ事ハ事實デアリマス。
ソレデ私ハ 「 今後益々努力致シマス 」 ト 答ヘマシタ。
尚 敎育總監更迭ノ狀況ヲオ話サレル時ハ大將ノ態度ハ非常ニ憤懣ノ
様デアリマシタ。

其ノ方ハ右ノ會見ニ於テ如何ナル印象ヲ受ケタルヤ
・靑年將校ノ活動ガ足ラナイト云フ強イ意見ヲ持ツテ居ラルルト云フコト。
・七月ノ統帥權干犯ニ就テ非常ニ怒リヲ感ジテ居ラレルコト。
・閣下ノ身邊ハ各種ノ勢力ニ依ツテ壓迫拘束セラレテ居ッテ、閣下御自身ノ活動ハ目下出來ナイ狀況ニアルコト。
・靑年將校ノ活動ガ甚ダ不活潑ノ様ニ感ジテ居ラレルコト。

右ノ會見ニ於テ其ノ方トシテハ、ドウイウ風ニ向ッテ今後行カネバナラヌトイウコトヲ感ジタカ
モウ一回努力シヨウ、
ソレデモ靑年將校ノ意見ガ通セズ、大權干犯ニ對シ國民ノ自覺ヲ喚起スル事ガ出來ナイ場合ハ、
國家内外ノ情況カラ判斷シテ、一刻モ猶豫ナラナイ大事デアルト感ジマシタ。

一刻モ猶豫ナラナイ大事デアルト感ジタトイウ事ハドウイウ事カ
ドウシテモイカナケレバ 劍ニ依ツテ解決スルヨリ外方法ナシト強ク感ズルニ至リマシタ。
・・・香田清貞憲兵聴取書


山口一太郎大尉
( 二十六日 ) 午前八時頃ニナリマスト、後ロノ方ガザワザワスルノデ振向クト眞崎大將ガ入ツテ來ラレマシタ。
若イ將校ハ一同不動ノ姿勢ヲトリ久シ振リデ歸ツテ來タ慈父ヲ迎ヘル様ナ態度ヲ以テ恭シク敬礼ヲシマシタ。
附近ニ居ラレタ齋藤瀏少將ハ 「 ヤア ヨク來ラレタ 」 ト 云フ聲ヲ掛ケラレルト 、
眞崎大將ハ 左の大臣ニ一寸目礼ヲシタ儘 直ニ齋藤少將ノ方ヘ進マレマシタ。
齋藤少將ハ例ノ大聲デ 「 今暁 靑年將校ガ軍隊ヲ率ヒテ、コレコレシカジカ ノ目標ヲ襲撃シタ 」
トテ大體ノ筋ヲ話シタ上、
「 此ノ行ヒ其ノモノハ不軍紀デモアり、皇軍ノ私兵化デモアルガ、
僕ハ彼等ノ精神ヲ酌シ
又 斯ノ如キ事件ガ起ルノハ國内其ノモノニ重大ナル欠陥ガアルカラダト考ヘ、
此際 靑年將校ノ方ヲドウコウスルト云フヨリモ、
モットモット
大切ノ事ハ國内ヲドウスルカト云フ事ダト云フ事デ、今大臣ニ進言シテ居ル所デス。
斯ノ如キ事態ヲ処置スルノニ閣議ダノ會議ダノ平時ニ於ケル下ラヌ手續キヲツテ居ツテハ間ニ合ハヌ。
非常時ハ非常時ラシク大英斷ヲ以テドシドシ定メナケレバナラヌと思ヒマス 」
ト 云フ様ナ意見ヲ陳ベラレマシタ。
其ノ間 眞崎大將亦大キナ声デ、
「 ソウダソウダ、成程行ヒ其ノモノハ惡イ、然シ社會ノ方ハ尚惡イ、
起ツタ事ハ仕方ガナイ、我々老人ニモ罪ガアツタノダカラ、之カラ大ニ働カナケレバナラヌ、
又 非常時ラシク、ドシドシヤラネバナラヌ事ニモ同感ダ 」
ト 云様ニ大變靑年將校ニ同情ノアル同意ノ仕方ヲサレマシタ。
次デ大臣トノ短イ言葉デ話ヲ交サレマシタ。
「 大體今齋藤君カラ御聞キノ通リダ 」
「 將校ノ顔ブレハドンナモノカ 」
「 此所ニ書イタモノガアル 」
ト云フテ紙片ヲ渡サレルト、眞崎大將ハ暫ク夫レヲ眺メ、
又 決起趣意書トカ靑年將校ノ要望事項ノ原稿トカ云フモノニモ頷キナガラ目ヲ通シテ居ラレマシタ。
ソレカラ
「 カウナッタラカラハ 仕方ガ無イジャナイカ 」
「 御尤モデス 」
「來ルベキモノガ來タンジャナイカ、大勢ダゼ 」
「 私モソウ思ヒマス 」
「 之デ行カウジャナイカ 」
「 夫レヨリ外 仕方アリマセヌ 」
「 君ハ何時參内スルカ 」
「 モウ少シ模様ヲ見テ 」
「 僕ハ參議官ノ方ヲ色々説イテ見ヤウ 」
ナドノ話デ、其ノ他 兩大將トモ靑年將校ニ對シ同情ノアル話振デアリマシタ。
眞崎大將ハ暫ク富士山ノ室 ( 陸相官邸 ) ニ居ラレ、九時カラ九時半頃ノ間ニ出テ行カレタ様デアリマス。
「 サア 出掛ケル 」 ト云ツテ椅子ヲ立タレタ時私ハ、
「 閣下 御參内デスカ 」 ト伺フト
「 イヤ 俺ハ別ノ方デ骨折ツテ見ヤウト思ツテ居ルノダ 」
トノ御返事デアリマシタカラ私ハ、之ハ大臣ノ別動隊トナツテ軍事參議官方面ヲ説イテ下サルノダト直感シマシタ。
其ノ時私ハ眞崎大將ニ
「 手段ハ兎モ角トシテ 精神ヲ生カシテヤラヌト カウ云フ事ハ何回デモ起コリマス、宜シク御願シマス 」
ト 早口ニ申シマスト、大將ハ 「 判ツトル、判ツトル 」 ト 云ハレマシた。

今回ノ事件ニ際シ 蹶起將校等ノ趣旨目的ヲ貫徹スル爲ニ努力シタ人名擧ゲヨ
將官級デハ 眞崎大將、齋藤少將、山下少將、此等ハ可ナリ積極的ニ昭和維新ノ爲活躍セラレタ様ニ思ヒマス。
・・・山口一太郎豫審調書


満井佐吉中佐
二月二十六日夜陸相官邸大臣副室ノ廊下ノ前ダツタト思ヒマスガ、
向フカラ眞崎大將ガ來ラレルノニ會ヒマシタ。
ソノ時大將ハ 「 副官ニ君を捜ガサシタガ居ラナカッタカ 」 ト 云ハレ、
「 僕モ宮中ヘ行ツテ見タガ、宮中ノ事ハ中々思フ様ニイカヌカラ 彼等ヲナダメテ貰ヒタイ 」
ト 云フ意味ノ話ガアリマシタ。
其ノ際 大將ノ御言葉ハ忘レマシタガ
何デモ 「 宮中デ努力ヲシテ見タガ思フ様ニ行カヌ 」
ト 云フ意味ノ言葉ガアリマシタ。
・・・満井佐吉歩兵中佐憲兵聴取書


川島義之大將
今回蹶起シタ靑年將校モ眞崎大將ノ教育総監更迭問題ニ憤慨シテ居リ、
又 相澤中佐ニ同情シテ居ル様デアルガ其點ニ於テ眞崎大將ハ青年将校ト同一傾向ヲ持ツテ居ルモノト思ハルルガ如何
其ノ様ナ傾向モアツタ様ニ思ハレマス。

二十六日朝、蹶起將校ガ眞崎大將ヲ招致シテ呉レト云ッタノハ何故カ
眞崎大將デモ來テ呉レタナラバ、有利ニ展開スルカノ様ニ思ツタ爲デハナカラウカト思ヒマス。

眞崎大將ガ來レバドウシテ有利ニ展開スルト思ハレタカ
コレモ私ノ判斷デアリマスガ、
眞崎大將ト彼等蹶起將校トノ間ニハ以前互ニ相通ズル點ガアツタ様ニ思レタカラデアリマス。

宮中ニ於テ眞崎大将ハ大詔渙發ヲ仰ギ維新ヲ促進シナケレバナラヌト云ッテ居ル様ダガ如何
大詔渙發ヲ仰ガネバナラヌト云フコトハ述ベラレタカモ知レマセンガ、只今其ノ記憶ハアリマセン。

本件ニ關シ他ニ參考トナル様ナコトハナイカ
眞崎大將ニ嫌疑ガアル様デアリマスガ、以前カラノ關係カラ見マスレバ、
同大將ト若イ一部ノモノトハ精神的ニ一部通ズル所ガアルカモ知レマセン。
・・・川島義之大將豫審調書


河合操大將
私ガ樞密院顧問官控所ニ行ツタノハ二十六日午前九時半頃デ、
其ノ時誰モ未ダ來テ居リマセヌデシタガ、其ノ内ニ、石塚顧問官ガ來リ、
次デ午前十時頃、平沼副議長ガ見エマシタ。
然シ何レモ狀況ガ判リマセヌノデ私ハ、侍從武官長ニ様子ヲ尋ネテ來ヤウト申シ、
平沼議長ヨリ、デハ左様ニ願フト云ハレマシタノデ侍從武官長室ニ參リマシタ所、
某所ニハ本庄武官長ハ居ラズ、眞崎大將一人ダケガ立ツテ居リマシタ。
間モナク川島陸相ガ同室ニ來リ 續テ本庄武官長ガ歸ツテ來テ川島ノ背後ニ立ツテ居リマシタ。
ソウシテ川島陸相ヨリ當日朝 四、五名ノ蹶起將校ト面會シタルコト、
近歩三、歩一、歩三 等ヨリ千四、五百名ノ軍隊ガ出動シテ目的ノ重臣顯官ヲ殺害シタルコト、
茲ニ彼等ヨリ皇軍相撃シナイ申出アリタルコト 等ニ關シ話ガアリ、
且 蹶起趣意書 及 行動計畫書等ノ書類ヲ見セラレマシタ。
其ノ時 眞崎大將ハ川島陸相ニ對シ、
「 蹶起部隊ハ到底解散ヲ肯キ入レヌダラウ、此ノ上ハ 詔勅ヲ渙發サレネバナラヌ  詔勅ヲ仰グヨリ外ニ途ハナイ 」
ト 申シ、
更ニ其ノ場デ誰ニ云フトハナク居合シタ者ニ對シ 同一趣旨ノ事ヲ繰返シ繰返シ鞏調シテ居リマシタ。
川島陸相ハ之ニハ答ヘズ 私ニ對シ、
「 事ニ依ルト戒嚴令ヲ布カネバナラヌカモ知レヌカラ、何レ閣議ニ諮リ御願ヒスル考デアル 」
ト言ヒマシタカラ 私ハ、
「 既ニ平沼副議長モ來テ居ラレルシ、他ノ顧問官モ追随來ラレタラウカラ、
サウ云フ事ナラ解散セズニ待ツテ居ルガ、何時頃ニナルカ 」
ト 聞キマスト 陸相ハ、
「 大臣モ集ル事ニナツテ居ルガ、今 川崎文相ト大角海相ノミデ他ノ閣僚ハ未ダ來テ居ラヌノデ、
何時ニナルカ判ラヌガ、顧問官ガ退下サレルト再度參集ハ中々困難デアルカラ、
夫レ迄 退下サレヌ様ニ御盡力サレタイ 」
ト 申シマシタノデ私ハ承知シテ置キマシタ。
此時 陸相ノ許ヘ 御上ノ御都合宜シキ旨申シテ來マシタノデ、
陸相ハ同室ヲ出ル様子ガ見ヘマシタノデ、私モ出マシタガ、
廊下デ奈良大將ニ會ヒマシタ、挨拶ダケデ別レ モノモ言ハズシテ顧問官ノ室ニ歸リ、
陸相ヨリノ話ヲ他ノ顧問官ニ告ゲタ上、引續キ宮中ニ在リテ戒嚴ニ關スル御諮詢ヲ待ツテ居リマシタ。
ソシテ午後十一時頃ニ至り樞密院會議ガ開カレル運ビニナリ、
同十二時前頃決定シタノデ其ノ布告後歸宅致シマシタ。
歸ツタノハ二十七日午前一時過頃デアリマシタ。

眞崎大将ノ言ハレタ詔勅ノ意義如何
ソレハ如何ナル意味ノモノデアルカ聞キマセヌデシタガ、
勿論彼等ノ希望シテ居ル様ナ意味ノ 詔勅デアリ、
又 其ノ様ナ事ハ彼ノ言ヒサウナ事デアルト思ヒマシタ。
・・・河合操枢密院顧問官陸軍大将 検察官聴取書


古荘幹郎中將
( 二月二十六日 ) 午前八時過頃 眞崎大將ガ來邸シ大臣ノ前ニ來テ
立ツタ儘 卓ノ上ノ蹶起趣意書ヤ希望事項等ヲ手ニ取ツテ讀ンデ居ラレマシタ。
スルト齋藤少將デアツタカ香田デアッタカヨク記憶シテ居リマセヌガ、
眞崎大將ニ向ヒ何カ言ヒ掛ケタ処 同大將ハ、夫レヲ手デ押ヘル様ニシテ、
「 諸君ノ精神ハヨク判ツテ居ル、俺ハ之カラ其ノ善後処置ニ出掛ケルカラ 」
ト言ツテ居リマシタ。
・・・古荘幹郎陸軍次官予審調書


村上啓作大佐
軍事參議官會議ノ開カレタノハ午後一時半前後カト思ヒマス。
先ヅ川島陸相カラ今朝來ノ狀況ニ附テ話ガアリ、
尚大臣ニ對スル彼等靑年將校ノ要望事項ニ附テ述ベラレ
御意見ヲ伺ヒタイ、ト云フ意味ノコトヲ申サレマシタ。
之ニ對シ 香椎警備司令官ガ意見ヲ述ベラレ、
其話ノ後 眞崎大將ハ
「 叛亂者ト認ムベカラズ、討伐ハ不可、但シ以上ハ御裁可ヲ必要トスル 」
旨ヲ述ベラレマシタ。
・・・村上啓作軍事課長檢察官聴取書


戒嚴司令官 香椎浩平 「 不起訴處分 」

2020年11月12日 05時25分11秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略4 皇道派の追放

法律一點張りの頭で萬事を律せんとして、
皇國本然の姿を忘れたる者共の仕業なり。
義乃君臣情父子
ぎはすなわちくんしんじょうはふし、
此が日本の國體の精華に於ける情緒である。
此無比の肇國ちょうこく精神に基きて、大御心を拝察し奉り、
以て夫の事件を処理したのである。
・・・香椎浩平

思い出すさえ忌々しい。
昭和十一年十月七日、
東京軍法會議 匂坂法務官の名を以て、出頭通知狀なるもの舞ひ込み來きたったのだ。
曰く
「 辱職被告事件につき相尋ね度儀有之候條、昭和十一年十月八日午前九時、
當軍法會議に出頭相成度候也 」
なるもの之也。速達にて郵送し來る。
予は實に心外千萬の感じを抱ひた。
引退前、已に告訴者あることは承知しありし故、あっさり聞取るのであろうと考へたし、
川島前陸相 及び 安井少將へも、電話にて打合せることもせなかった。
・・・告訴者・・・
特設軍法會議の豫審段階で被告の栗原安秀、磯部淺一、村中孝次の三名が香椎戒厳司令官
( 川島元陸相、荒木・眞崎大將、山下奉文少將等を含む ) を 叛乱幇助罪で告發した。
でも腑に落ちぬのは辱職の文字。
・・・辱職・・・
陸海軍刑法に於て、軍人の特別任務に違背する不名誉の行爲をした罪を辱職罪という
八日朝、寸時で歸って來ることを言ひ殘して、定刻出頭して見れば、
匂坂の態度は、派閥關係等を聞き、又 統帥關係に深く立入って聞く。
例へば、彈を撃たせぬことと、軍隊の戰備のことが喰い違って居るではないかとか、
第一師團がぐずぐずして居て何等戰備を整へて居なかったではないかなどと問ひ、
中にも
「 あなたは戒嚴司令官として何の手柄をもして居ないではないか。奉勅命令に由って事が収まったんだ 」
と 云ふに至って、甚だけしからぬ事と感じた余は、励声疾呼れいせいしっこした。
「 勿論、事態の一段落は御稜威の然らしむる処である。
東京市長の官舎の宴に招かれて、予は答辭にも、自分は之をはっきり言明した。
乍去、御稜威の下、具體的行動に由り事態に処するのが吾人の職務であり、
予は眞に國家を救ひ、陸軍を救ひ、徴兵令を救ったと確信する。
ゼネラル香椎の名は世界に傳へられたと、海外通信で承知して居る。
君等が法文の末に拘泥して予を罪せんとするならば、何をか云はんや、だ。
唯 予は快く服罪せぬまでのことだ 」
と、且つ 怒鳴り 且つ 睨み付けた。
こう云ふ場面の中、予を収容する積りならんと豫想よそうせざるを得なかった。
正午になった。
食事しよふと云ふ。
此処でか、と問へば、歸宅されても宜しと云ふ。
即ち、急ぎ歸宅して要點を物語り、本日は収容さるゝやも知れぬ。
就ては子供達は少しも臆する処なく通學せしめよ。
又 家は計畫通りに堂々と建築を進めよ。
予に一點の疚やましき事なし、と 云ひ聞かせ、匆々そうそう昼食を濟まして、再び軍法會議に出頭す。
午後は、法務官の態度一變、頗る物腰靜かに應待す。
予は之を以て、唯 手を代へて、予の心の油斷に乗じ彼の探索に便し
且つ 引き掛けんとするものか、とも考へた。
其中そのうち、彼云ふ。
閣下を前にして失礼ですが
「 人物を観察するんですな、腹を見るのです。どーも事件の正體がわからないで困って居ます 」
などと云へり。
而して雑談的に種々のことを問答しつつ、尚ほも予の罪をでっち上げんとするものの如し。
予は依然、収容を覺悟しありしに、夕刻打切りと聞ひて、意外の感を以て引取った。
一應の聞取りは、予に對しては當然と思ひあるに、余りの辛辣さに、此時以來予は、
當局のやり方に不快の感を深くせざるを得ない。
そうして次の様な考が起って來た。
㈠  元來、戰は勝つにあり、戰の方法が如何に合理的なればとて、負くれば罪死に値す。
㈡  勝ちて而して其の手段方法の巧拙善惡は、戰史として研究するは必要也。
  然れども、畢竟ひっきょう之れ戰史研究の範囲内に止まるべきもの也。
㈢  鎭定手段の、統帥事項に關し、其運用に關する事を、文官たる法務官が、本科將校の立會も無くして、
  微細の點に至るまで聞き糾ただすが如きは不都合千萬也。
㈣  若し統帥關係を、法文の末に亘って事後論難するが如き惡例を貽のこすならば、
  將來戰場に立向ふ軍人は、一切六法全書に從ひ行動せざるべからざるに至らん。
其結果、遂には負けても理屈が通れば可なりと云ふことになるやも知れぬ。
欧州人は、防御手段に遺憾なければ、要塞を開城しても、所謂力盡き矢折れたる不得已やむえざる事柄として、
勇士扱ひさえするなり。一歩でも如此かくのごとき風潮に染まば、皇軍の特色を如何せん。
㈤  予に對したる如き態度を依然改めずんば、將器將材は將來養成の道を絶たるゝに至る可し。
人間味ある指揮統帥は全く顧みられざるに至るであろう。
㈥  夫れ戰爭は錯誤の連續なり。之れ戰史の一般に認むる処とす。
  それにも拘はらず、否 萌り之を覺悟して、如何なる錯誤の蔟出にも拘はらず、一意終局の勝利を目指して、
不撓不屈、最後迄努力して好結果を獲得する如く、吾人は養成せられて居る筈だ。
予に對する取調べは全く之に反して居る。
・・・蔟出・・・群がり出るの意
㈦  狡兎盡良狗煮らぬ
  日本も愈々支那式になりつつあるのか、嗟呼ああ
法文の末に拘泥して取調べを不當に行ふことを、特定人に丈け行ふことは不公平の極なり。
前段の観方をするも、不得已やむをえずと云ふ可し。
・・・狡兎盡良狗煮らぬ・・・
悪賢い兎が死ねば猟ができなくなり 不用となった良い猟犬も煮て食われる、
敵が亡べば不用となった功臣も誅せられるという意。
史記、越世家 「 飛鳥盡良弓蔵、狡兎盡良狗煮
㈧  陸軍省、參謀本部を一時叛亂軍占領されたる醜態に關し、何とかして其責任でも戒嚴當事者に轉嫁せんとするのか。
㈨  予の身分の取扱上の不手際を糊せんとするにはあらざるか。
  嫉妬心も亦手傳へるならんとさへ考へざるを得ぬ。
事件鎭定直後、參謀長が、閣下の名聲は歴史上永遠に殘りますね、と云ひしことは、
恐らく安井少將一個人の考のみにありしを、多數の將校が之を思ひ、
中には嫉視するに至ることも亦、不得已やむおえざることならん乎

取調べは、兎も角 一段落ならんと思ひしに、何ぞ圖らん、
十月廿四日、匂坂 復また來たり、
此度は恭うやうやしき態度なりしも、予の事件中の手帳借用方を申込む。
予は此処は太っ腹に出づる時と考へ、言下に快諾したり。
彼は證文と引替へに持ち行けり。
越へて十一月十四日夜、又々 出頭を促し來る。
予は痛憤の情を抑へ、徐々に心構へを整へて、十五日定刻出頭す。
匂坂は、聞取書を作成すと称して、事件前に満井中佐に會はざりしやと問ひ、
斷じて其事なしと答ふけれども、中々承服せず、しつこく反問す。
又、事件を知りしは何時か、何故電話にて指揮命令せざりしや、
師團や警視廳に情況を更に確かむることをなさざりし理由如何、
出動迄の時間が長過ぎるにあらずや、其間何をして居たか、
午前八時頃より午後三時迄は何の命令も出さざりしは何の爲乎、
第一師團の態勢は不都合と思はぬか、
何故命令せぬか、
宮中に參内せしは何故か、
參内時間長きに失せずや、
山下少將と會見し何を語ったか、
參内の途中時間を費やすこと多きに失せずや、
大臣告示の文句が手帳に記入せられある処、其時間等が食違へる如し、後より書き直したるにあらずや、
叛軍を統帥系統に入れたるは不都合ならずや、
何故逮捕せざりしや、
荒木、眞崎大將の關係如何、
偕行社に眞崎大將を訪ふたるは何故か、
司令官は叛軍を初め庇護し、後 之へ彈壓を加へたる如く變身せしにあらずや、
との意味合ひを以てする訊問等、微に入り細を穿うがち、皮肉を極めて剔抉てっけつせんとするに似たり。
十六日も過ぎ、十七日の午前中を費やせり。
此の間 余りのクドクドしさに、予は堪忍袋の緒を切らして叱り付けた。
「 同じことに何で繰り返し繰り返し聞くのか。何の目的かわからぬではないか 」
すると匂坂は にやりと薄笑ひした如き口元にて
「 いや、目的は分らぬ方が宜しいです 」
と、あわてた様に云ふ。
要するに此度の聞取は、
㈠  予の指揮、怠慢ならざりしか
㈡  事件を豫知しあらざりしか
㈢  叛軍に通じあらざりしか
㈣  右 ㈡、㈢の爲め、作爲したることなきか
㈤  眞崎大將と通謀したるにあらざりや
が、主要の調査点なりしやの感ありき。

以上の狀勢に基き、予は収容せらるゝことあるやも知れずと、又々豫想せざるを得ざる立場に置かれたり。
由って予は、若し果して然る場合には、國軍の根本的立直しに乗り出す爲、
陸軍出身以來見聞し 體驗せる処を洗ひ洒し 陳述論難して 余力を殘ささらんことに臍ほぞを固め、
思ひを練って、爾後の時日を經過した。
乍去、心は悠々として少しも憂憤などのことなく、飽くまで剛健壯快に過ごし、
十一月末には伊勢大廟にも參拝し、正月も何のわだかまりなく迎へたり。
元氣は正義に立脚する、正義は實に強い。
昭和十二年一月十七日朝、書留郵便に依り、匂坂の名を以て、不起訴處分の件 通知を受く。
曰く
「 被通知人に係る辱職等被告事件は、昭和十二年一月十五日、不起訴處分
 ( 陸軍軍法會議法第三百十條告知 ) を爲したるに付 通知す 」
之なり。
或は曰ふ、
死刑囚たる磯部、村中に告訴せしめたるものなり、と。
軍法會議の内容、特に磯部等の告訴狀等が外聞に洩れ、書ものが政党首領等に手交されたりとか。
斯かる状態から考へれば、中央當局の内幕、愈々以て奇々怪々の感なくんばあらず。

香椎戒厳司令官
秘録二・二六事件事
から


第七十回帝國議會の議場で政友會の今井新造代議士の質問

2020年11月11日 18時27分44秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


帝国議会・イメージ

第一に御尋致したいことは
二 ・二六事件の原因動機に付きまして、
寺内 ( 前 ) 陸相は
叛乱行動迄に至れる彼等の指導精神の根底には、
我が国体と絶対に相容れざる 極めて矯激なる一部部外者の抱懐する
国家革命的思想が横はつて居ることを見逃す能はざるは 特に遺憾であると、
特別議会で御報告になつたのでありますが、
苟も陸軍幼年学校、士官学校、大学校等に於て
陸軍独自の教育を受けた者、
殊に国体観念に於ては
一般の国民よりも一層徹底した信念を持つて居らなければならぬ帝国の軍人たる者が、
寺内 ( 前 ) 陸相の御話のやうに一部の浪人とも看做みなされるやうな者の、
国体と相容れない思想に動かされ指導されたと言ふやうなことは
吾々は断じてあり得べからざることと確信して居る者であります。
随つて当時、私は寺内陸軍大臣の所謂国体と絶対に相容れない思想とは
如何なるものであるかと言ふことを質問致したのでありますが、
之に対しては御答弁がありませんでした。
なほ 寺内さんは あの事件に対して 前古未曾有と言ふやうな言葉を使はれまして、
殆ど我が尊厳なる国体の何たるも解せないやうな、
又 君臣の別を解せないやうな不謹慎極まる言葉を用ゐられて議会に報告なさつたから、
此の点に付ても 私は自己の所信を述べまして、
前古未曾有と言ふやうな言葉を用ゐることは不謹慎ではないか、
宜しく訂正するが宜しいと申し上げたのでありますが、それも遂に訂正する所がなかつたのであります。
此の点に付ては、此の議会に及びまして、北昤吉君が あなたに御尋ねしました所、
寺内前陸相がさう言ふ言葉を用ゐたのは、一つの修文である、
文を飾る言葉であつたと思ふと言ふやうな、あなたの御答弁であつたのでありますが、
形容詞と言ふものは、苟も君臣の別が分らないやうな、
国体の何たるかも弁ぜざるのであるかと誤解を抱かしむるような形容詞を
陸軍大臣たるものが用ゐると言ふことは、
奇怪千万であると私は今なほ固く信じて居るのであります。
しかも昨年の特別議会に於ける民政党の斎藤隆夫氏のなした演説と、
今回問題となつた政友会の浜田松国氏の演説とは、殆ど内容が同工異曲のものであるにも拘らず、
昨年は斎藤氏の演説に寺内 ( 前 ) 陸相は敬服同感の意を表され、
今年、浜田氏に対しては軍を侮辱する言葉があつたと思ふと言ふやうなことを述べられたのであるが、
かくの如きは洵に定見がないぢやないかと思ふ。
斯う言ふやうな人が現在陸軍の教育総監であることが、果して適任なりや否やと言ふことに付て
私共は多くの疑問を持つのであります。

あわし其の問題は姑しばらく措きまして、
二・二六事件の原因動機に対して、
杉山陸軍大臣は少なくとも二・二六事件の原因動機は政治の腐敗である、
斯う言ふやうに あなたは此の議会に於て述べられた。
然るに政治の腐敗が此の事件の主たる原因動機であつたと言ふあなたの言葉に対して、
予算総会に於て牧山氏でありましたか、斯る現説をなすことは不都合ではないか
と あなたに御尋ねになつた。
所があなたは 其の質問に対して、
それは自分が言ふたのではない、彼等青年将校がさう言ふことを言つて居るのだ
と 御返事になつた。
併し 是は青年将校の考へのみではない、
私共も政治の腐敗が二・二六事件の原因動機であつたと言ふことは、之を認めます、
併し 独り政治の腐敗のみでないと言ふことを既に能く知つて居るのであります。
叛乱将兵判決理由書の中にも、
彼等青年将校が国体の明徴を力説し、国体の明徴ならざるを憂へた点を強調致して、
其の次にはこんなやうなことが書かれてあります。
「 斯クテ前記ノ者ハ 此ノ非常時局ニ処シ
当局ノ措置徹底ヲ欠キ 内治外交共ニ萎靡いびシテ振ハズ、
政党ハ党利ニ堕シテ国家ノ危急ヲ顧ミズ、
財閥亦私欲ニ汲々トシテ国民ノ窮状ヲ思ハズ、
特ニ倫敦条約成立ノ経緯ニ於テ 統帥権干犯ノ所為アリト断ジ、
斯ノ如ニハ畢竟ひっきょう元老、重臣、官僚、軍閥、政党、財閥等
所謂特権階級ガ国体ノ本義ニ悖リ、
大権ノ尊厳ヲ軽ンズルノ致セル所ナリトシ、
一君万民タルベキ皇国本然ノ真姿ヲ顕現センガタメ、
速カニコレ等 所謂特権階級ヲ打倒シテ
急激ニ国家ヲ革新スルノ必要アルコトヲ痛感スルニ至レリ。」
斯のう言ふように彼等の志なるものが明瞭になつて居ります。
又、事件直後に於て、私共が知りました所謂彼等青年将校の趣意書にも斯う言ふことが書いてある。
なほ判決理由書の中には、彼等が事を起します直ぐ前の晩、
二月二十五日夜 歩兵一聯隊に会合致して、前記襲撃及び占拠後、
陸軍大臣に対して要望すべき事項を六箇条ばかり相談致したやうでありますが、
其の中には軍の統帥破壊の元兇を速かに逮捕すること、
軍閥的行動を為し来つたる中心人物を除くこと、斯う言ふような項目がある、
是は判決理由書の中にあるもので、既に公な刊行物として広く国民に知られて居るものでありますが、
之に依つて見ますと、少なくとも彼等があの事件を起こした原因動機と言ふものは、
軍の統制を破つた者、又は軍閥的行動を為した者に対する公憤から発したものと
私共には考へられるのであります。
苟も  光輝ある 天皇陛下の軍隊の中に・・・派閥が対立して抗争すると言ふようなことは
断じてあり得べからざることであると、私共は考へて居つたのであるが、
二・二六事件の原因動機が、主として斯様なことに出発して居るらしく思われますことは、
名誉あり光輝ある軍の為、甚だ遺憾に堪へざる所であります。
若し斯くの如く軍閥、派閥の対立抗争がありとするならば、
全力を挙げて、斯くの如きことを徹底的に一掃することが、蓋し粛軍の本旨ではなからうか、
眼目ではなからうかと、私共は考へますが、
此の点に付いて杉山陸軍大臣は如何様に御考へになられますか、
若し軍閥なるものありとするならば、派閥の抗争ありとするならば、
是等に対して今後どう言ふやうな御処置を執られますか、
此の点に付いて御明答を願ひたいと思ふのであります。

それから第二に御尋申上げたいのは、
奉勅命令の問題であります。
当時戒厳司令部の発表に於ても、彼等は遂に勅命に抗したりと言ふことになつて居ると記憶致します。
更に川島陸軍大臣も
「 昨二十八日早朝に至り 戒厳司令官は畏き勅命を拝したるを以て
聖旨を叛乱部隊幹部に伝へて 更に反復其の反省を促したるも 遂に其の効なく、
已むを得ず兵力を以て之を一掃して治安を確立するに決し 」 云々と言ふやうな声明を発せられて居ります。
斯様の次第で今日に至るまで、
叛乱将兵が勅命に抗したと言ふやうなことになつて居るのでありますが、
此の点に付いて政友会の宮脇君は、先日の本会議に於きまして、斯う言ふ演説を為さつて居ります。
「 国体を擁護せんが為に一身を犠牲にし、蹶起せりと呼号して居る者が直接命令を戴かずとも、
戒厳司令官に奉勅命令があつたことを承知致しますならば、
一人として直ちに帰順せぬ者がありませうか、恐らく命令の伝達が通じなかつた結果と思ひまするが、
果して然らば是は何人の責任でありませうか。
私は叛乱者の行為は洵に憎むべしと思ひまするが、
我国に生を享けた者に対し、勅命に抗したりとの罪だけは除いてやりたいと思ふ者であります。
是は叛乱者に対してのみならず、国民の思想上重大な影響があると思ふからであります 」
宮脇君も斯う言ふことを述べられて居りますが、
此の点に付いては私は徹頭徹尾同感であります。
而も 是は独り宮脇君が斯う言ふ御考へを持たれるだけではなく、
当時の情勢から申しまして、斯う言ふように一般が考へたのではなからうかと思います。
判決の理由書の中にも、
命令が彼等に伝達しなかつたのではなからうかと思はれるやうな点を発見するのであります。
其の理由書の中に
『 偶々小藤大佐ハ
戒厳司令官ニ対シテ下サレタル
占拠部隊ヲ速ニ原所属ニ復帰セシムベキ旨
ノ勅命ニ基ク第一師団命令ヲ受領シ、之ガ伝達ヲ企図セル時ナリシモ、
同人等ノ感情ノ激化甚ダシキニ由リ 姑ク之ヲ保留セリ 』
と あるのであります。
こんな具合に疑問が多々あるのでありますから、
此の点を願わくば斯う言ふ機会に明瞭に致して欲しいと思ふのであります。
それから あの事件の直後、
私共の手に謄写版で刷りました「----」 と言ふものが入つたのであります。
それは斯う言ふ内容であります。
【 速記中止 】

第七十回帝国議会の議場で政友会の今井新造代議士の質問である。
事件の核心を突いたものと言へやう。
この今井代議士の質問内容で 説明の難しい所、
軍の機密とも言うべき部分は 速記を中止されている。

池田俊彦 著  生きている二・二六 から


川島義之陸軍大臣 憲兵調書

2020年11月10日 17時34分32秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略4 皇道派の追放


川島義之陸軍大臣

憲兵調書
昭和十一年五月二日

« 二月二十六日朝、陸相官邸大臣室に於ける眞崎大將との會談内容 »
此時の會談は極簡單なものでありまして、
眞崎大將より
「 大變なことをやったね 」
と 挨拶があった後、眞崎大將より
「 君はどうするか 」
と 問はれたので、私は、
「 本庄武官長が、宮中に行って居ると云ふことであるから、
本庄にも相談もし、又、上奏の手續も依願し、上奏して時局の収拾にかからうと思ふ 」
と 答へました。
私は眞崎に 君はどうする心算かと聞きますと、
「 俺は今から伏見宮御殿の方へ行く 」
と 云ひました。
話の内容は大體右の如きものでありました。
« 眞崎大將の陳述に依ると、その際、大將は大臣に對し、
「 貴様が中心になって此処で閣議を開き、戒嚴でも布かねばなるまいと思ふ。若し 用があれば居るが、伏見宮御殿に行かねばならぬ 」
と 述べたと云はれて居るが、之を聞かれた記憶なきや。»
之れを聞いた記憶はありません。
« 大臣が宮中に參内し、武官長室にありし時、同室せる眞崎大將より、
「 蹶起部隊は到底解散を聽き入れぬから、奉勅渙發されねば駄目だ云々 」 と 云はれたる由なるが、之が眞相如何 »
或はそう云ふ話があったかも知れないが、
當時 私は上奏其他 時局収拾を考へつめて居ったので、右の様な話のあった記憶は全くありません。
« 二月二十六日朝、蹶起將校と会見中、大臣は真崎大將を召致せられたるか。
其召致を小松少佐に命ぜられ、之に関し小松少佐より如何なる復命を受けられたるや »
決起將校が希望事項を開陳中、半ば頃の時、眞崎大將、本庄大將を呼んで貰ひたいとの申出あり、
之に對し小松秘書官に電話するよう命じました。
それから暫くして談話室で小松から、
「 本庄大將は既に參内せられあり、眞崎大將は腹が惡くて休んで居るから、直ぐ行く 」
旨の復命を受けたと記憶します。
山下少將を召致した事に就ては記憶はありませんが、或はあったかも知れません。

二・二六事件秘録(二) から


間野利夫判士 手記 1 「 その眞意は諒とするも・・・・ 」

2020年11月08日 09時37分59秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達

間野利夫判士手記
この手記は昭和三十九年二月、友人藤田清君の勧めに従って
某週刊誌に投稿のために書いたものである。
しかし時期を逸したため掲載されず未発表のままに終わった。

その眞意は諒とするも・・・・
( 二・二六事件裁判の眞相 )
間野利夫
F君!
君の御慫慂しょうようにもかかわらず、書くことを拒んできた私ですが、
近頃のように、二・二六事件に関して多くの著書が現れ、
その裁判が云々せられるのを見ますと、
このあたりで一度裁判の真相を発表しておく必要も感ぜられ、資料皆無のため、
日時や順序など間違うかも分かりませんが、記憶をたぐり出しながら、短文をまとめてみます。
話の順序として、まず軍法会議について予備知識をもっていただかなければなりません。
元来、軍の裁判というものは、一般の裁判と大変違っているのです。
陸軍には陸軍刑法、海軍には海軍刑法があり、その裁判をすすめるための法律としては、
一般の場合の裁判構成法と刑事訴訟法の代りに、陸軍軍法会議、会議軍法会議があって、
各々その軍の構成及び行動に適合するように、法律が作られていました。
しかも平常の場合と、戦時事変の場合によって差異があり、
前者の場合には成るべく一般社会の裁判に近づけようとしていますが、
なお軍の性質上特異なところがあります。
後者の場合には随分と禁止的制限の緩和がありまして、裁判の様式も簡単となり、
一刀両断的な感じを受けます。
二・二六事件の裁判に際しては、緊急勅令によって、
事変に準じ、臨時に東京陸軍軍法会議が特設されたのです。
特設軍帽会議になりますと、弁護人は許されません。
公開、非公開は、一般の場合でも、勿論裁判長の権限ですが、
事件勃発の契機となった相沢事件の公判は経緯に鑑みても、あの環境では公開などしたら、
社会不安をいやが上にも増大したことでしょう。
軍法会議の構成は一般の場合、
判士と名づけられる兵科四名、法務官 ( 軍に於ける法律の専門家で陸軍文官です ) 一名
計五名が裁判官となります。
特設の場合、判士 ( 将校 ) 二名とすることが出来る規定になっていました。
公判には検察官が列席します。
この検察官である法務官と裁判官である法務官とは区別して置いて下さい。
これが混雑するものですから、間違った論議が出て来ることにもなるのです。
二・二六の場合、軍法会議は右の五名の構成をとっていましたが、
真崎大将の場合には大将二名が判士になりました。
軍の裁判のことですから、判士は被告より下級のものであってはならないのです。
そして被告の階級が兵であるとか、下士官であるとか、佐官、将官であるとかに従って、
佐官何名、尉官何名などと、判士の階級人員も規定されているのです。
軍紀がきびしく、上下の階級を重視する軍として必然のことです。
二・二六の場合、直接行動者は免官になっていましたが、なお大体右の規定を尊重していました。

さて、いよいよ本題に入りましょう。
最も恐れられた撃ち合いも起らず、下士官以下は原隊に引きあげて隔離収容せられ、
将校などは衛戍刑務所に拘禁されてから、早速取調べ開始され、
これが為めに全国の師団から法務官数十名が東京に集められました。
陸軍省の法務局が検察陣の本拠となって、尨大な調書が作成され、ガリ版やタイプで複写されていきます。
軍法会議によれば、軍では検察官の調べだけで、起訴不起訴の定まるものもあれば、
更に予審官が調べてから、それの決定するものもあり、この点一般の刑事訴訟法とは違うのです。
この間、前記の緊急勅令が発せられ、陸軍人事局では無色透明の判士の人選に苦心していたのです。
あとから聞いたことですが、中央部の人達は皆 激務がある上に、あとで論議の的にされることですから、
多くの人はしり込みしたようです。
当時私は兵器本廠に席だけおいて、二年前から聴講生として東大に通学していました。
私の任務は 「 軍の統率 」 に関する研究です。
私はそれを主として心理学、教育学、社会学的に究明し、法律的にもその裏付けをしようと企てていました。

事件の当日の二月二十六日は、雪を踏んで登校しましたが、予定の講義が休講になりましたので、
午前中できりあげ、途中どうも様子が変なのを訝いぶかりながら、西萩窪の自宅に帰りました。
夕刻、近所に住む軍人の友人から事件の概要をきいて驚き、
軍人の心得として、席だけでも置いている兵器本廠に電話しましたところ、
宿直将校の応答がチグハグで結局 「 出て来ても仕方がない 」 との返事でした。
あとで知ったのでしたが、陸軍省と道路を隔てた隣にある兵器本廠もまた占拠されていたのです。
翌日同じく聴講中の同僚と共に麹町にある研究上関係の深い邱育総監部まで行きましたが、
抗議中の私たちは全然用事はなく、大学の講義も大体終りだったので、
それから後は、友人から情報をきき、憂心をいだきながら自宅に籠って、
静かに事件の前後処置と関係の深い自分の研究に没頭していました。
ところが、三月二十六日頃だったでしょうか、陸軍省からの速達によって呼び出され、
四月二日 行ってみると、大会議室には、将校や法務官が大勢集まっていました。
そこで私たち二十数名ばかりの将校は判士に任命され、
数名の法務官と共にこの歴史的大事件の裁判に当たらされることになったのです。
事件当時の川島大将に代わった寺内陸軍大臣の訓示は、
要するに、
「 未曾有の大事件を起こした陸軍の責任を説き、
軍の将来を憂え、公正なる裁判によって軍の秩序の恢復をはかれ 」
と 云うな意味のものでした。
私は任命の瞬間、大津事件の裁判長・児島惟謙を想起して、ひそかに心に誓いました。
一同は直にくだんの軍人会館に運ばれ、そこで当局者から事件の概要を聴くことになりました。
その説明に当たった数人の中の一人は、陸軍省の課員少佐で、所謂統制派のチャキチャキでしたが、
その説明というものは、行動者に対する批判非難の言辞が多く
「 全員死刑だ、背後の北、西田こそ元凶だ 」
と 云うような激越な意見にまで脱線しましたので、私は決然立って
「 裁判官に対する説明は客観的事実のみにとどめるのが至当ではないか、
判決を示唆しさする如きことは慎んでもらいたい 」
という意味のことを述べて抗議しました。
「 若い大尉が生意気な!」
という 憎悪の視線を一部から受けているのを感じて、私は一層覚悟を固めた次第です。
説明会は夕刻に終りました。
裁判に関する係は陸軍省の兵務課が主任でしたが、その課員は
「 世間も昂奮しているし、裁判官に雑音が入っても悪いから、本日から軍人会館に宿泊して貰いたい 」
と云う。
「 いま急にそう言われても困る。本日は一応帰宅して宿泊の準備を整え、明日から 」
と 云うことになりました。
各地から呼び集められた法務官は、既に渋谷の衛戍刑務所近くの旅館に分宿していたのです。
裁判官たちの事務所としては、当時新築されたばかりの未使用の陸軍省医務室があてられました。
そうして日中はそこで研究し、夕方宿舎に帰りました。
私たちは、文部省の前を少し入ったところにある 「 霞ヶ関茶寮 」 とか云う静かな新築の旅館で、
罐詰生活を送ることになったのです。

最初 五ケ班が作られました。
当初の受持ちは、
第一班が直接行動部隊の将校及び部隊の中に入りこんだ関係者、
第二 第三班が下士官及び兵、
第四班が行動に加わった所謂常人、
第五班が直接行動隊外にあった稍々間接的と見られる軍人、及び常人だったと記憶しています。
私は第一班で、第一、第二班の判士たちが同宿でしたが、
私は気の合ったほぼ同年配の川辺、福山の両大尉と共に、毎夜深更まで原則的研究をしていました。
三人は真剣でした。
それは一方にはこの三人が自由な時間をもち得たからでもあります。
福山大尉も私より一年遅くれて東大に学んでいましたし、
川辺大尉は航空本部の本来の仕事は殆んど全部放擲ほうてきして裁判に専念出来るようにして貰えたのです。
他の判士達は調書などを研究していましたが、
大部分の人達は陸軍省や参謀本部の繁忙はんぼうな現職をもち、
裁判準備のみに没頭することが困難な事情にありました。
当時私たちの最大の関心事は軍の将来でした。
勿論、国家の現状、政治的な革新も、血気の私達にとっては内心の大問題でしたが、
軍人として、特に当面の裁判官としては、
軍の秩序団結の恢復こそ、与えられた任務に伴う最大の問題であったわけです。
その見地からすれば、問題は命令服従の関係に帰着します。
勝手に軍隊を使用したもの、その命令に従って行動した部隊を如何に処置すべきかです。
徴兵制度の下に義務兵役に服する一般の兵、志願して軍隊に留った下士官、
しかも大部分は中隊長や中隊幹部の命のままに動いたものです。
一部には日頃から相当革新的思想を有し、
或は出動に当っての訓示や激励によって積極的行動に出たものもありましたが、
その思想といっても、つまりは日常の教育指導によるものであってみれば、
大いに考えなければなりません。
軍に於て命令服従の関係に疑念が残ったならば、弾丸雨飛の間に於て ものの用に立ちません。
それ故に、
「 上官の命を承ること実は直に朕が命を承る義なりと心得よ 」
と、軍人の金科玉条とした勅諭に訓えられていますし、
教育内容そのものはまた、命令と同様の重みをもたせてあったのです。
私たちは陸軍刑法制定当時の審議の記録に遡り、
更に刑法大家の著述をあさって議論をかわし、一つの結論を得る毎に、それをガリ刷りにして、
他の全裁判関係者たちに配って共同研究の材料を提供しました。
この研究に当って、法務官たちの考えは大体に於て、
「 不正の命令は命令に非ず」 という傾きが強かったようです。
この点 実際に部下を教育し指導した判士たちの意見とは差があったようです。
判士たちの間に於ても、細部の点ではなかなか結論の出ないこともありました。
しかも事件は未曾有のことです。
悩み続けました。
私は下士官兵の裁判には直接関係しませんから、詳しく述べることは差し控えますが、
裁判の結果は起訴されたものの中 下士官四十数名、兵三名が有罪 ( 大部分執行猶予 )になりました。
塀の有罪者は直接殺人の弾丸発射したものの中、特別に積極的行動の顕著なものでした。
判決をした裁判官にも恐らくなお多分の胸、のしこりはあったでしょうが、
この判決は世人も大体納得したようでした。

準備研究も終り、検察側の控訴提起もあって公判を開いたのは四月下旬以降からであったと思います。
法廷は代々木練兵場の一隅、衛戍刑務所の高い煉瓦塀に近い所にバラック二棟を急造し、
一棟を各班の控室に、一棟を四室に仕切って法廷としました。
その周囲を有刺鉄線の高い塀で囲い、入口には衛兵所が出来ました。
更に開廷日には機関銃をもった部隊が、その周囲を警戒するという厳重さでした。
勿論刑務所内には収容直後から地方から憲兵が多数派遣されていました。
私の所属する第一班が公判を開いたのは比較的遅く、五月上旬であったかと思います。
本来ならば、一つの軍法会議が全被告を同時に裁判すべきでしょうが、
それでは裁判は何年続くか見当もつきません。
しかも各々のグループに分離することを、反って適当とする面もあり、このように処置せられたのですが、
私の直接関与した限りは、実際に当っても支障は無かったようです。
公判は型のように、一段高いところに裁判官が裁判長を中央にして着席し、
一端に検察官が、多端に録事 ( 裁判書記のこと ) が 列席していました。
被告席は代々木の原の上に白砂を敷いているのですから、文字通り 「白洲 」 であった訳です。
六尺腰掛を二列に並べて、それに三人ずつ着席することになっていました。
その後方に警査が二、三人立ち、外部は憲兵が警戒するという情景でした。

法廷の秩序の維持は裁判長の責任であり、またその権限に属することです。
余談ですが、
「 被告たちが昂奮の余り乱暴でもしないだろうか、
『 幕僚ファッショの裁判官 』 などと敷きつめた砂を投げ、
或は腰掛でもふりげはしないだろうか 」
これは警査を出す衛戍刑務所側の心配だったらしいです。
勿論のこのようなことは杞憂で、彼等が乱暴を働くなどと心配する方が間違っているのですが、
当時色々と、右翼や、行動将校に同調する青年将校が被告を奪回に来ると云うデマも飛んでいたようで、
そのような情勢なればこそ、前述のような法定外囲のものものしい警戒配置だったことと併せて、
如何に社会一般に不安の気が充満していたかが想像されましょう。

私達の前に直接行動の元将校たちが入廷して来ました。
免官された香田元大尉以下は平服から階級章などをとった姿で、大体従来の古参順に着席し、
村中、磯部など事件前早くも免官になっていた者はその後方に、
今泉少尉のみ軍服姿でした。
最古参の香田も私より二期若く、全員始めて見る顔でした。
最初顔を合した時は、一同蒼白で思いつめた顔をしていましたが、
独り 林元少尉のみは座席につくときビョンビョンと腰掛をとび越えるなど、
無邪気というか、豪胆というか、一瞬思わず一同の緊張を弛めました。
胸に勲章一箇をつけ、軍刀を帯び、第一装の軍服に威儀を正した私たちの顔もまた緊張のため硬直していたことでしょう。

先日九州の片田舎にも佐分利信の映画 「 叛乱 」 が 来ました。
いやなものではないかと思って、躊躇しましたが、見た人の話をきいて出かけました。
この法廷の場面が最初に出ましたが、俳優裁判官や被告の顔を見て、何だか変な気持ちになりました。
顔付がチグハグです。
しかし場面の進行につれ、彼等の性格が如実に演技されていて、場面に引き入れられ、思わず涙しました。
序に申しますが、立野信之著 「 叛乱 」 も よくかけていると思います。
「 歴史小説 」 といわれていますが、事件の遠因から経過に到るまで、大体よく事実を書いていると思います。
裁判関係の記録でも入手したのではないでしょうか。
内容について、多少異論はありますが。

弁論の指揮は裁判長の任ですが、細部の訊問は大体、裁判に慣れた法務官が代わってしました。
行為そのものについては、検察官の読み上げた控訴状の内容は大部分直ちに肯定されました。
しかしその動機、精神について それから数十回被告人の陳述が続いたのです。
私達は連日 或は 隔日位に代々木に通いました。

公判の様相について話を進めましょう。
大事件のあと、あの荒涼とした刑務所に独居して、自分たちの行動のあとを振り返ってみれば、
千々に心の乱れる時もあったことでしょう。
いよいよ法廷に立ったときは、
すっかり達観して死を待って居るかの如く至極簡単に淡々と陳述する者もありますし、
せめて裁判官にでも昭和維新の理念をたたきこんでやろうとするかの如く熱烈に陳述する者もあり、
神がかり的にその信念を縷々述べる者もありました。
又多少行き過ぎを自認した発言をする者も二、三ありました。
非公開なのは彼等の心残りであったでしょう。
法廷には時たま裁判事務に直接関係のある兵務課員の一、二人や
他の法廷を受けもつ裁判官の傍聴を許しましたが、
その他は許さず、憲兵隊の切なる希望も裁判長はこれを拒否しました。
段々と暑気を加えてくるバラックの法廷、窓硝子も閉めきったままで審理を続けました。
同じ調子で綿々と述べられるとき、ふと練兵場の遠くでする演習の空砲など耳に入ることもありましたが、
開廷中は、被告も裁判官も緊張しきっていました。
たしか第二次は裁判された新井が先年公刊した著書の中で
「 裁判官中ニヤニヤ冷笑して居る者があった 」
と 憤慨して書いて居たと記憶しますが、これは全くの誤解で川村少佐は顔面神経痛があり、
緊張すると一層甚だしくひきつるので、それが笑いに見えたのでしょう。
彼等は政財界、重臣の腐敗、幕僚ファッショを衝きます。
それを調べずして裁判は出来ないと主張します。
しかし私達第一班の裁判官は諸方面の秘密書類など調査はしましたが、
誰一人として、証人の喚問する必要を認めませんでした。
その必要あればわが軍法会議は何人の干与をも受けず、独自の見地で、その権限を行使した筈です。
軍隊の使用と殺人の行為は明白な事実です。
私は軍の裁判に於ては、主観主義をとらず、客観主義をとっていました。
当時の私の研究の一つの結論でもあったのです。
行為を起こした意志、動員は情状であり、それを軽視するのではありませんが、
軍成立の根本を揺るがす問題について、
客観的事実を重視することは間違っていないと、今でも確信しています。
私たちも暗黙の裡に、彼等の指摘する情勢については憂を同じくするところもありましたが、
軍法会議は指定された被告人につき、公訴事実に関して取り調べ、
陸軍刑法に照らして判決するのが任務ですから、そこに限界があり、
陸軍刑法の適用を判断するに必要とする以上の資料を集め
或はそれによって政治的効果を期待するようなことは、裁判官のなすべきことはありません。
彼等が勝手に部隊を引き連れて行動に移ったとき、現行の陸軍刑法を変えない限り、
その条文に照らして、既に 「 反乱 」 であったのです。
彼等は満州事変に於ける林朝鮮軍司令官の独断越境を引例して
「 陛下の御意図に副う独断用兵 」
で あったと、主張しました。
しかしこの度の場合 天皇は事実の示すように、この事件を絶対に御許しになっていませんでした。
よし独断と言い得たところで、独断は自らの責任に於てなすべきことが、軍の教典に教えるところでした。
私たちは、間違ったら、腹を切れと教え込まれていました。
責任者は潔く責任をとらねばなりません。
彼等もそれを否定していたのではありませんが、
事件の経過中そり行動を混迷に陥らしめたのは事件勃発後の陸軍の長老、
責任当局者のとった処置が甚しく適切を欠いたことに原因します。
最高責任者にその人を得なかったことが、最大の原因であることを否むことが出来ません。
平素指揮系統を重んじた軍でありながら、テンデバラバラの発言をなし、処置命令が一途に出ていないのです。
軍の外のことに対する問題ならば、命令一下、日頃の組織訓練にものを言わせて、
迅速適格な処置ができたでしょうが、自らの軍の中から未曾有の大事件が起きたのですから、
無理もなかったとも弁解しておきましょうか。
しかし、そこにはまた事件は事件として別に後に責任を問うとして、
この際革新的な前後措置をとられることを期待する気持ちが陸軍将校一般に強かったことが影響していないでしょうか。
何しろ実弾をもった一千余の部隊です。
一歩誤れば大変なことになる。
何んとしても、これは避けなければならない。
そこで、行動将校を刺戟しないことに最大の考慮を払ったために、
この間第二次裁判の被告となった山口の働きなどに部隊長が引きまわされ、
動かされて一時旧部隊長の指揮下に入れて糧秣を給与する等のことも起こりました。

ここで一言 「 奉勅命令 」 のことに触れなければなりません。
これは私たちから見れば、特別のことではないのですが、
世間では 「奉勅命令 」に反したから 「 反乱 」 になったのだと、今でも考えているように思われます。
それも無理はありますまい。
「 勅令下る。軍旗に手向ふな 」
という趣旨のビラが撒かれ、アドバルーンがあがる。
この時将校と下士官兵とを判然と分けて下士官兵を対手としたのでした。
「 兵に告ぐ 」
の アナウンサーはその後 有名になりましたが、
その内容の文句と、放送局のアナウンサーによってそれを告げたことに関しては、
私は当時、軍の統率の見地から、戒厳司令部に対して甚だしく失望を感じたことでした。
問題の 「 奉勅命令 」 とは、確かな文面は覚えていませんが、
要するに
「 選挙部隊を速やかに原位置を撤去して原隊に帰らしめよ 」
という意味のもので、
閑院宮参謀総長に代って杉山参謀次長が充裁を受け、戒厳司令官に命令したものです。
別の処置を願い、断乎たる処置を自己の責任に於てすることを躊躇していた戒厳司令官に
最後の決断を促す手段でもあったのです。
従って選挙部隊が平穏に撤去しない場合には
戒厳司令官はその周囲に配置した隷下の兵力を用い、
砲火銃剣をもってしてでも、撃ち退けよということになります。
今まで軍であったものを、軍が討伐しなければならなぬと云う重大事件ですから、
特に勅を仰いだのであって、重大な作戦用兵には常に奉勅命令が出ているのです。
しかし軍の命令は本質から言えば、平素の上官の命令と何等異るところはありません。
若しそうでないとしたら、軍紀の確立は到底出来るものではありません。
「 早く退らぬと いよいよ撃つことになるぞ、奉勅命令が出たのだから 」
と 最後の決心を促すために、危険を顧みず行動将校にを説きに廻った将校もいました。
或る者はそれを聴いて信じ、一部は偽りとし、
一部は拒否して聴いていないようです。
「 奉勅命令は正式に受けていない。よって反乱とは何事だ 」
というのですが、
彼等には直接勅命が発せられるわけのものでもなく時既に正式伝達を云々する部隊でもなかったのでした。
しかし 上述のような事態で、思うだに不びんな状態に陥られたのでした。
「 幕僚の謀略 」 と 悲憤するのは当たりませんが、若い彼等です、同情すべき点も多々ありました。
訊問も証拠調べも終って、いよいよ検察官の論告求刑がありました。
その内容は峻烈なものでした。
軍法会議は弁論を閉じる前、最後に被告に対し、陳述の機会を与えるべきことを規定しています。
裁判官は相談して、一人一人別々にこれを聴くことにしました。
休憩の後直ちに始めました。
昼食、夕食のための短時間を除いて、悲壮な彼等の最後の陳述を聴いたのでした。
電燈がつきました。
依然として続けました。
法廷内外の警戒の責任者は 「 責任がもてない 」 と 言って、中止を要請しましたが、
聴取を打ち切ったのは、夜も更けた十時頃でしたろうか。
彼等の言葉は救国の念願のみでした。  リンク→昭和維新・反駁
判決言渡しの時の彼等の眼差しとともに、今でも折にふれてその情景を想起して涙を催します。
その行動には くみすることは出来ません。
行動に移る過程にも落度はあります。
しかし、それは彼等のみの責任ではありません。
その救国の真意は汲まざるを得ません。
裁判官は鳩首評議しました。
判決理由書も何回書き改めたことでしょう。
一字一句もゆるがせにしなかった心算です。
そして最後に
「 慨世憂国の至情とその進退を決するに至れる諸般の事情とに付ては之を諒とすべきものありと雖も 」
云々と書き入れたのです。
量刑に関して、これに関係した一判士は先日新聞紙上にとんでもない談話を発表しました。
それが沈黙を続けてきた私の重い口を開かしめる重要な契機となったのです。
いやなことですが、これは触れざるを得ません。
「 どうせ死刑になるのなら潔く死なせてやろう。
その代わりに同じ将校でも、ひきょうな連中はせいぜい無期にして死刑にしてやるまい 」
と、いかにも大時代的な言葉です。
私はその行為を判定して、首魁、謀議参与、群集指揮、諸般の職務従事などを区分し、
情状を酌み、陸軍刑法の条文に照らして夫々量刑しました。
軽きをとったことは勿論ですが、奇妙な論理で、死刑を無期に、無期を死刑にしたなど、とんでもないことです。
いつもの豪傑流の脱線の方言であって欲しいと念願しています。
「 ひきょう者 」 とは 何人を指したのでしょうか。
一、二の者から行動の行き過ぎを反省した言葉が特に最後の陳述に述べられましたが、
それを卑怯者とは、余りにも過酷です。

七月五日に判決を下しました。
彼等は一言も発しませんでした。
ただその眼は輝いて 「 後を頼む 」 と 言っているように、私には思えました。
その日は久し振りに自宅に帰りました。
その夜八時頃でしたか、陸軍省の自動車が裁判長石本大佐の命令で私を迎えに来ました。
陸軍大臣はその日の午後判決を奏上した筈です。
裁判長は、或は 「 死一等を免ぜられる、というようなことでもあったら 」 と 思ったようですが、
夜は更けていくばかりでした。
当時の石本大佐は陸軍省の軍事課長 ( 註・正確には八月一日付 ) でしたから、
政治的な考慮から、万一の期待をもったのでしょう。
まことに公正な立派な方でした。
七月十二日 私たちが死刑の判決をした十五名の中、村中、磯部の両名は
後に行われる北、西田の裁判に必要ありとしてあとに残され、
あとの十三名は他の班で死刑を判決された渋川、水上の両名とともに刑務所内で刑を執行されました。
私たちの班の裁判官はその日の午前十一時頃でしたか、
刑務所傍の天幕に待つ遺族たちに気兼ねしながら門を入り、
寝棺に収められ、三段に重ねられた十五の亡骸に深く頭を下げました。
外に出ますと、広い代々木の原には、この時、演習の部隊もなく、妙に静まりかえっていました。
右の裁判集結と前後して、第二、三、四班の裁判も終って、その軍法会議は閉鎖され、
大部分の判士達は帰任しました。
検察陣は相かわらず向う側で、次の公訴提起を準備しています。

第一班も少し人員が入代って、間もなく第二次の裁判にとりかかりました。
それから第三次、第四次と、いつしか悪夢の昭和十一年を送って、新しい年を迎え、裁判は進行していました。
この間、一番末席の川辺大尉と私は、交互に補充裁判官となりましたが、相変わらず終始法廷に出ました。
北、西田の裁判は第五班が担当し、私は時々その公判を傍聴したに過ぎず、
勿論裁判官たち個々の意見、評議の模様は承知しませんので、
多くを書くことを差控えたいと思います。
この両名の裁判はまことに困難なものでした。
最近新聞や週刊誌に載った二・二六事件裁判に対する不信も主としてこの裁判に関する疑問から発して、
全般に推し及ぼしているところに問題があると思います。
結局この両名も昭和十二年八月中旬頃、先に判決を受けた村中、磯部の両名と同日に処刑されました。
裁判官たちは帰任して、残るは川辺大尉と私の二人になりました。
その頃は真崎大将の裁判が準備されていました。
この際は裁判官は最小限の構成で、大将二名と法務官一名の計三名でした。
現役の大将は何れも事件処理に関係があり、後備役の大将二名が臨時召集されて、
裁判にあたることになったのです。
そして私たち二人は助手兼副官の役目を仰せつかりました。
赤坂の第一師団司令部校内の小さい建物が空けられ、そこが裁判官の詰所になりました。
間もなく川辺大尉は伊太利留学の為め去り、私は独りぽっちになって、両大将の御用を務めました。
法廷は同じ司令部の常設法廷が使用されました。
事件の直接契機となった相沢公判の行われた法廷です。
多くの高官たちと共に証人に申請すべしとして、盛んに画策の的になった当の真崎大将は、
今や事件終末の裁判に、被告として同じ法廷に立たされたのです。
運命の人物です。
傍聴人も軍法会議法の規定によって、被告より下級の者の入廷は禁ずることが出来ることになっています。
私は勿論入廷しませんでした。
三人の裁判官の意見は対立しているようでした。
私は裁判長の自宅に度々呼ばれました。
この裁判が証拠不十分、無罪の判決をもって、終結したのは九月下旬だったでしょうか。
詰所のあと片付けまでやらされて、この苦しい役目から私が放免されたのは、
一年七ヶ月余を経た十月末のことでした。

以上で裁判の経緯は一応御話ししたことになります。
しかしこれで筆を擱くことは出来ません。
「 暗黒裁判 」 という問題に答えなければなりません。
たしかに厚いカーテンの彼方、厳秘の密室でなされた裁判です。
それを暗黒というなれば、まことに然りですが、こと裁判に関する場合、
それは、行政府の威力をもって法を枉げ、或は枉げさして行われたことを意味しましょう。
或はソ連のベリヤ裁判に於けるように、裁判それ自体政敵打倒のための形式に過ぎない場合が
「 暗黒裁判 」 の名に該当しましょう。
そうだとすると、一言なきを得ないのです。
ことに嘗ての一判士が検察陣の横暴を説き証人の喚問を妨げたと称し、
北、西田の裁判に際し、
素志にかかわらず
「 陸軍部内の圧力に勝てずに死刑を判決した 」
と 発表しているに於て殊に然りです。
最初に述べましたように、検察官は長官の決定によって公訴を提起するのです。
長官とはこの場合陸軍大臣です。
陸軍大臣の意図に副うて、検察陣の方針が定められることは当然のことです。
検察官は各人独立ではありません。
上長の指揮を受けるのは当然です。
公訴を提起したのは、検察陣が罪ありと認定した結果で、それが峻烈であったことは、
当時の軍当局として自明の成行きでした。
裁判官も陸軍大臣によって任命されました。
しかし一たび軍法会議を構成した以上、拠るべきは軍法会議法のみです。
裁判官は軍人として階級、新旧の上下はあり、裁判長には法廷の指揮など特別の権限はありますが、
評議の場合、階級の上下はその発言力に何等関係がありません。
ただ、軍法会議法は、各裁判官の意見発言の順序を規定しています。
第一は法務官、判士は下級者から順次に裁判長に到るのです。
何人も意見発表を拒み、その順序をあと廻しにすることは出来ません。
私たちの関する限り、最初の相違した意見をそのまま決をとって定めることはしませんでした。
回を重ねて論議をつくした後に始めて決定しました。
常に各人が大体同意し得る線に落付きました。
事実の認定については論議を重ねる間に自ら帰結点が見出されましたし、
理由書の一字、一句に数回の評議を重ねたこともあります。
量刑の場合、採決すれば事は明瞭ですが、妥当の線を出すには、神に祈念せざるを得ませんでした。
私たちの班では互の意見を十分傾聴し、それを玩味して裡れば、虚心坦懐それを容れ、
過誤なからんことを期しました。
一人の意見が最終に全員の意見となったことさえあります。
この点石本大佐と代わった若松中佐も正しい裁判長であったと、敬服しています。
----参謀本部の課員だったと思います。
裁判に際して、各班は相互に必要な資料を与え、意見を述べ合いましたが、
裁判官の評議の次第は相互に秘密を保っていましたので詳しくは知りませんが、
北、西田担当の裁判官たちの意見は甚だしく岐れていたように推測されました。
その裁判長であった吉田悳大佐----裁判進行中に少将に進級したと思っています----
が 陸軍次官、阿南兵務局長にあてた文章が先般某週刊誌で問題にされていました。
私は当時そのようなことがあったことを耳にしていましたし、発表された文章は真実のものと考えます。
その内容は大体
「 北、西田は裁判着手前には、事件背後の元兇であると考えていたが、
いざこれを裁判官として調べ、法に照らすということになると、外部で考えるようではない。
現在の自分の事実認定は軍当局の認定と相違する。
自分の意見を述べるから参考意見あらば提供して欲しい 」
ということです。
陸軍大臣が極刑を示唆したこともあったでしょう。
あったとしたならば、このことはもとより正しくありません。
このような事実が一応あったとして、最後の決定が意見不一致のまま、票決の形式をとって定められたか、
或は全員一致したかは問わず、一部の裁判官は納得しないまま自分の考えを抑えて、
遂に極刑の判決を成立するに至らしめたのでしょうか、
或は他の意見に聴いて、自己の判断を最終的に自ら決定して、あの判決を成立せしめたのでしょうか。
私は、後者であったと、先日まで推測していたのでしたが、前述の通り一判士はこの判決に関して
「 陸軍内部の圧力には勝たなかった 」
と 話しています。
若し記事の誤りでなければ、圧力に屈した人は、
一人で 「 暗黒裁判 」 の汚名を背負って貰わなければなりません。
四周の 「 雑音 」 を却け、自己の良心を貫徹した大部の裁判官の、
よく甘受し得るところではないのです。
大分長くなりました。
四周の雑音----私は敢て雑音と申します----について私の意見を述べて、
筆を擱くことにしましょう。

事件は軍隊の使用、中央官衛の占拠、現役大将を含む高官の殺人です。
あまつさえ、自分達の職場を若輩によって占拠せられ、
陸軍省の職員は偕行社に、参謀本部の者は軍人会館へと行かされた身にとって、
常日頃、彼等の行動に反対的であった将校は勿論のこと、中立無色の者も憤激を覚えたことは当然の成行です。
多少同情的であった者でも、部外者の参加、介入を知って、その焦燥をそれ等のものに怒として投げかけたことも、
あり得る人間の心理でしょう。
事件は事件として、この際政局の転換を期待するもの、その中にもそれを直接の目的とするものもあり、
中には事件の悪化を避けるための方便的に、それを口にする者もなきにしもあらずという状態です。
各人各種の事件観処理草案を疲労と焦燥によってかき乱されて、
異常な雰囲気を醸成していたことは容易に推察されることではありませんか。
天皇の御意志は常になく当初から明確に御示しになっていたようです。
この場合輔弼をまつまでもなかったようです。
変革の望みは消えて、あとは唯 平穏な収拾を所期するのみです。
陸軍は政府及び一般世論の冷い眼に囲まれました。
陸軍当局者の方針が、責任者の厳罰に決定したのは当然の成行きで、
それは検察陣の控訴状、更に論告に明瞭に示されています。
当局が裁判に関し合法的処理をなし、非難の余地なからしめようと配慮し、
裁判官の人選にも後くされのないようにと、一応の考慮を払ったことは或る程度認めてもよいでしょう。
しかし裁判長はもとより、多くの判士は陸軍省、参謀本部の課長や課員、部員でありましたから、
穏健、中正の人を選んだ心算とは言え、前述の部の雰囲気を体験した人であります。
そして繁忙な現職の処理、指示のため、屢々自席に帰れば、当然、裁判が周囲の話題になって、
所謂雑音が耳に入ってたことでしょう。
現職関係の上官から、判決を示唆する言辞があったと言うならば、
私は否定する資料をもちません。
次のようなこともありました。
たしかに兵務課からだったと思いますが、模造紙半截位に印刷し、
「 参考、事件関係背後一覧表 」 とか 題したものが配布されたことがあります。
兵務課は軍の軍紀関係事項、従って憲兵隊も管掌していましたから、
多分その方面で作成されたものでしょう。
私は 「 余計なことをする 」 と、例の潔癖から憤慨しましたところ、
石本裁判長から
「 なーに、そうむきになることはないよ。見るだけ見とけばいいじゃないか。
判断は我々自身でするのだから 」
と、たしなめられたことを想い出します。
裁判官たる法務官は、元来検察官と同僚です。
しかも、一般社会に於て検事、判事としているのに対し、法務官は検察官となり、予審官となり、
又 裁判官となるのについては、管轄する長官の命によるものです。
一般に、検察陣の見解に同調的であったとしても、
その経歴からする、ものの考え方の類型性を併せて考慮すれば、
これまた自然のことと謂わなければなりません。
以上のような次第で、或種の圧力があったことは前提してもよいでしょう。
但し大津事件に関して伝えられるような程度の、行政府の裁判官に対する策謀乃至圧迫が、
この際もあったとは、絶対に考えられません。
陸軍当局者は、世の非難に対し、又軍内部の禍根を残すことを虞れて、臆病だったようです。
私たちが慎重評議の結果作製した、第一次裁判の判決理由が、要点を削除して発表されたことは、
私たち裁判官の憤激したところですが、それも、この臆病というか、或は慎重というか、
そのような態度の致す結果であって、非公開のまま判決を申渡した軍法会議としては、
それ以後のことは、法律的に権限の及ぶことではなかったのです。
暗黒裁判か否かを決するのは、最後には、裁判そのものに於ける裁判官の態度一つにかかっていたのです。
「 裁判官は弁解せず 」 という教訓もあるそうです。
軍も崩壊し、軍法会議法も死滅した今日でも、各裁判官の発言、評議の内容などについて、
秘密を守ることは、道義上当然のことでしょう。
しかし裁判進行の様相、裁判官としての心構え、心境を述べることは、
この際元裁判官も認めて下さるだろうと思います。
厚いカーテンをおろしたままでは、揣摩憶測をはびこらせ、誤解不信を増すのみです。
私は、中味を変えていません。
可能な限りに於いて薄いカーテンにとり代えた心算なのです。

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間野利夫判士 手記 2 東京軍法会議 ・ 補註  に 続く
松本清張編
二・二六事件=研究資料Ⅰ
から


間野利夫判士 手記 2 東京軍法會議 ・ 補註

2020年11月06日 09時34分55秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達

補註
「 補註 」 は 週刊文春に前記手記が引用せられることになった際
執筆者の需めに応じてその時点において逐次記憶を辿って書き送り説明を加えたものである。

( 1 ) 裁判の評議
通常会議と言いますが--過半数によって決定します。
意見を述べるのは先ず法務官の裁判官から始まり、それからははん下級者から順序にしました。
当初の発言で一致する場合もあれば、別れる場合も多々ありました。
量刑についてばかりではありません。
理由の一句に至るまてです。
裁判官は裁判長を除いて四人ですから、二対二の場合もありました。
その際は、裁判長の意見によって決定すればよいのですが、私たちの班では、四人の間で熟慮・討議を求められ、
四人の意見が最終的に一致するまで待たれました。
この際、補充裁判官の意見も参考に述べさしました。
三対一の場合は既に一応決定したことになりますが、この際も慎重に右と同様の方法をとられました。
三対一の内容が最終的に一の方に合致したことさえあります。
誰も面子にこだわることなく、真剣に正しい判決に導くことは真剣に努力したものです。
そうして最後まで意見の一致しないままで決定されたことは一回もありません。
従って裁判長が自らの意見を述べて一同をリードすることはなく、
要点については詳細を求められるだけでした。
私は二、三回の場合において裁判長自身の意見に反する結論もあったのではないかと推察しています。
( 2 )
五・一五の時は普通の軍法会議でしたから、弁護人もありましたし、公開されていました。
特別弁護人として、たしか士官学校の現・元中隊長の二人が出たと思います。
その要旨が新聞に出たのを見て、 「 当時の一般の空気にあまえ、アマッチョロイことを述べている 」
と 憤りを覚え、「 是非を部分ごとに明らかにし、教育者の罪を謝し、弁護すべき点は弁護すべし。
こんなことで一体士官学校の教育をどうするか 」 と 憂慮し、上司に意見を申出ました。
当時私は教育総監部の精神教育班にいて軍隊用の精神教育資料の編集にあたっていましたので、
本然の任務に関したことでした。
右の弁護人は上司と十分打合せの上の筈です。
当時の士官学校長や幹事が誰であったか覚えていません。
事件そのものより、こういう流れが陸軍にあったことを浮彫りする材料にはならないかと思って・・・・、
二・二六事件裁判中にもこのことを考えました。
( 3 ) 「 統帥権干犯 」 ということについて
この言葉は昔からあり、軍の御旗ですが、
ロンドン条約締結、真崎大将の教育総監更迭を特に被告達は、「 統帥権干犯 」 として問題としたのです。
通常、統帥系統以外から 「 統帥権の独立 」 に介入することに用います。
統帥の根本を紊り、兵力を僣用したことは文字の意味からは、内からの統帥権干犯には違いありませんが、
慣用はしていません。
従って軍法会議は統帥権干犯と言わず、「 皇軍の僣用--私兵化 」 を用いました。
この点について、軍法会議は 「 皇軍の僣用 」 の表現にすべきか、他に適当な言葉があるかを論議したに過ぎません。
( 説明 )
①  小さいところでは 「 大阪のゴーストップ事件 」 で警察官が外出の兵を捕えたことを
「 統帥権干犯 」 として問題にしたこともあります。
②  内ゲバ的な用法はなかったようです。
( 4 ) 反乱の認定時期について
軍法会議は 「 いつからを反乱 」 と したかは大して論議するまでもなく 「 営門を出たときから 」 と判定しました。
( 次官通達にかかわりなく )
明らかに事件処理の過程において甚だしい矛盾撞着を見出します。
その件については勿論調査しましたが、
これは各当事者の行動の是非、当不当の問題であって、
それは別に責任を問うべく、
情状には関係があっても、軍法会議が進んで決定を下すべき範囲内ではありませんから、
必要な限りにおいて事実を記述したに過ぎません。
裁判では決行そのものが問題であって、その点の情状は判決文 に出ています。
これは裁判官にとって重大なことであったのです。
その後の状況はいささかも判決そのものには影響はありません。
----各裁判官とも心の奥底では 「 最後はかわいそうなことになった 」 という憐憫れんびんの情はあったでしょうが。
せめて軍人らしい最後をとげさしてやりたかった。----
一時はその気にもなったのに、上層部が腹中に毅然たる判断をもち得なかったために、
若い彼等の行動を迷わす結果となったことについて哀れを感じました。
しかし、彼等も自ら強調する統帥権の紊乱を、決行後自決によってお詫びする位の
もっと徹底した厳正な決意をしておくべきであった、と 彼等のために考えるのです。
多少の環境の違いはあっても河野壽のように、また、四囲の情勢は違いますが、終戦時の畑中のように。
( 説明 )
① 慨世憂国ノ至情ト一部被告人等カ其ノ進退ヲ決スルニ至レル諸般ノ事情トニ付テハ
     之ヲ諒トスヘキモノアリト雖モ・・・・
( 編集部註 )
尚、この点については、別のところで間野氏自身が真情を告白しておられる。
「 ・・・・中正を持したと自信する小生も --彼等の行動に全然無関係であり反対の観念をもつ小生も
世相革新の要に思いをいたすとき----殆んど総ての苟くもく血の気のある将校----判士も含めて----
も そうではなかったかと思います----彼等の総てを排撃することの出来ない心境にあったことを告白いたします。
そこで第一班判決の 「 ・・・・諒とすへきものあり・・・・」 という字句を入れたものです。
今にして思えば、もう少し別の表現をとった方がよかったと思いますが----この時は・・・・
全裁判官の脳裏に焼きついていたあの最後の陳述の情景が作用していたことを信じます 」
・・大谷啓二郎氏宛書書簡下書き
( 5 )
「 奉勅命令 」 は重大な条件について特に勅裁を仰ぐものです。
その命令の遂行----「 原隊に復帰せしめる 」 ためには、戦闘惹起の危険もあります。
犯罪性のない千数百名の兵----昨日までの友軍----を攻撃することになるのですし、
附近住民にも戦禍を及ぼす危険性があり、まことに重大なことです。
それがために勅裁を仰いだのです。
しかし、 「 奉勅命令 」 も一般の命令と本質的には何等異なるものではありません。
「 奉勅命令 」が出て、それに服従しなかった時から----伝達についても色々と問題がありますが----
始めて反乱軍になったとする方が、大臣告示や小藤大佐の指揮下に入れた命令などを説明し易いのですが、
このようなことにかかわることなく、事理上 上記の判決をしたのです。
この点をどう取扱うかについて論戦したことは記憶していますが、
藤井法務官を含めてわれわれ判士にとっては、事態は明らかで、ただ判決中の 「 罪となるべき事実の記述 」
において どう取扱うかを評議したに過ぎません。
要するに、陸軍大臣以下、司令官、隊長が未曾有の事件に遭遇して処置を誤った点があるのは多少はやむを得ないとしも、
どうも政治に慣れて、軍統率の根本精神が少しかげっていたのではないか?・・・・
この批判は当然甘受すべきです。
上層部のことは暫く措いても、例えば 「 兵に告ぐ 」 の文章のアマッチョロイサ ( 世間の好評は博しましたが )、
しかもそれをアナウンサーに放送させたことなど、如何に異常な事態とはいえ--
異常であれば一層毅然たる態度をとるべきであるにかかわらず、全く軍隊の統率を忘れたやり方です。
何故戒厳司令官自ら放送し諒々と説き聞かせなかったのか、全く軍人としておかしいことです。
( 説明 )
① 当局の混迷心は別として、世間の多くはこれを一種特別なものと取扱っているが、これは間違い。
( 6 ) 将校と兵士の 「 骨肉の情 」 について
そもそもが貧乏な兵の家庭に同情し、その原因を政治家資本家の私利私欲追究とし、
これ等を元兇としたのですから・・・・。
私をして言わしむれば、川辺、福山との共同研究において、
安藤を例にとって問題とし、この研究もガリして配布したと記憶していますが
----「 安藤は一応誠意のある立派な男 」 と 認めました。
しかし、その教育、統率には----指摘されたように----所謂親分乾分間のような面が顕著であった。
猛練習をしたあとで、私費をもってパンを買い、ウドンを運ばせて 「 オゴル 」 ことが度々であった。
--調書にも出ていました。
部下をかわいがる気持ちは理解できるが、これは真の軍隊教育の方法ではない--
私兵化するものであるとの見解です。
私も少尉の頃、枚方の火薬庫の衛兵として二十名位を率いて一週間勤務についたときなど、
粗悪な給食 ( 賄夫 ) にウンザリして、帰路二〇キロ余りの行軍中にパンなど買って共に空腹をみたしたことも時々あって、
気持ちはよく理解できるのですが、安藤の場合、度が過ぎていたようです。
そしてそれを兵をかわいがった一例と考えていたところに問題が存在すると思うのです。
( 7 ) 三人の共同研究について
私と川辺は将校班です。
それが下士官兵の服従の問題に手をつけたのは、一つには将校達の命令の責任問題ででもありますが、
狙いは命令服従については法務官をリードせよという意図を強くもって法務官の法理論に対抗すべく、
敢てドイツの陸軍刑法の原書まで引っぱり出し、陸軍刑法制定時の法律家の審議記録を読んで、
判士に任命された将校達の理論構成を助けよう、審理に当っての考慮すべき点を明らかにしようとしたものです。
勿論不徹底に終わっています。
それは私の皇軍における統率の研究がまだ完了していなかったことも因由します。
「 判士は法律の素人 」 は 事実ですから、法務官に押されることを心配したのです。
私は軍の統率の観点から東大聴講に際し、多少一般刑法理論などを勉強していたので、
「 法務官何するものぞ 」 という気概をもっていたのです。
片倉発言を遮った発言もこの知識からです。
『 昭和史発掘 』 では、「 法務官が裁判をリード 」 と 書かれましたが、
私は吾々判士がリードしたと自負しています。
私は今日でも吉田書簡のようには全部を具体的に発表する気はありませんが、
量刑についても然りです。
( 8 ) 判決について
苦悩の日夜を重ねて判決文の作成に参与した私は判決公判の際には静かな心境にあって被告達を見ていました。
裁判長が理由を読み、最後に主文を言渡した時には、
被告はじっと鋭く裁判長を見つめたまま一言も発することなく動揺もありませんでした。
ただ、死刑の求刑を受けながら それを免れた者の中の二、三には心なしか ほっとしたような表情を見たと覚えています。
私達将校班は構成メンバーが変わるたびに公判開始前に明治神宮に参拝し、
「 正しい裁判ができますよう、皇軍国家再出発の機縁となりますように 」
加護をお願いしました。
恐らく他の班も同様でしたことでしょう。
私たち将校班は第一次の公判において一七名の死刑判決をしました。
村中、磯部の両名はあとの北、西田の裁判を慮って執行が延期されたことは気の毒なことでした。
七月十二日--盆の前日--十五名の死刑が検察官立ち会いの下に執行されました。
場所は衛戍刑務所内の北端部です。
観音崎の要塞地帯内や色々の意見があったが、自己の発生を懸念して上記の場所に決定したと聞いています。
曹長から始まり一人が終ってから次の者が監房から呼び出されました。
銃殺刑ですから、後の順番の者の気持を考え、その銃声を紛らわすために隣接の代々木練兵場において
小銃隊による演習を行い空砲を発射した筈です。
全部の執行が終って、死体が納棺され遺族に引渡される前の時刻--十時頃でした--を見計って
私たち裁判官は、門外の天幕の中で引渡しを待っている遺族の前を通って中に入り、
三段に積み重ねられた十五の柩にお詣りしました。
誰が発案したかは忘れましたが、一同そうせぞるを得ない心境であったのです。
( 9 ) 週刊文春 「 昭和史発掘・裁判篇 」 の読後感
はからずも二・二六事件裁判に関する私の手記が昭和史発掘に引用せられることになって、
毎号関心をもって読みました。
その引用に伴なう解釈、批判については多少の不満がありますが、
一々それを反駁する必要もありますまい。
私の手記は事実を明らかにし、裁判は所管長官--陸軍大臣--の お膳立ての枠内ではあったが
「 良心に従って行った。陸軍省--幕僚達の意によって動いたものではない 」 ことを、
あくまで主張したいのです。
このことは随所に一応引用されているが、しかし当らない推測も見受けられます。
そのため、一、二の点に触れておきたいと思います。
一、山口一太郎の判決について
山口に対する法の適用量刑についての批判はたしかに尤もな点があります。
しかし 「 本庄大将の女婿ということを考慮したのか 」 は 全く不当な推測です。
関係裁判官の誰一人として本庄大将を意識していません。
最後に量刑の評議になった時、最初に発言することになっている法務官の裁判官は死刑、
私はこの裁判では正裁判官ではなかったが、発言を促されて、
無期 ( これは数には入らない ) 河辺判士は無期、あと二名の判士は死刑、
即ち三対一ですから、裁判長の意見にかかわらず、死刑が決定されたことになります。
記述のように、石本裁判長は一人でも異論がある場合には、自己の意見を言わず、
一般裁判官の間で時間をかけ、納得のいくまで再研究をさせられました。
河辺君と私は、なし得る限り罪は軽きをとることを信念としていました。
事前の関係、特に週番指令としての処置、態度は直接兵力僣用者よりも重い責任をとらしても決して不当ではないが、
しかし死刑にしなくても済むならばと考えたのです。
決して本庄大将の女婿を意識していません。
結局長時間の討論の末 無期と決定したのです。
不当の非難は甘受します。
ただ、それほど直接兵力使用を重視したのです。
二、北、西田の判決について
北、西田の判決に至る経緯は相当詳細に書かれていました。
吉田判士の研究と信念、反対意見の藤室判士もまた信念に従って行動した筈です。
たまたま、吉田氏の意見、行動は長官--幕僚達の意図に反したため事後は不遇であったのです。
石本裁判長も然りです。
三、真崎裁判について
判決直前の某日 磯村裁判長から電話で呼び寄せられてお宅に御伺いしましたところ、
真崎大将に対する法律の適用、量刑に関する意見を求められました。
私は考えるところを縷々申し上げたところ
「 同感だ。あとの二人との意見が違うが、もう一度説得してみよう 」
とのことでした。
それが判決公判の直前であっただけに、また理由は反対意見の法務官が起草済であって、
一部の修正はしたでしょうが、結局、執筆者が指摘されたようなチグハグなものになったのです。
以上限度を越えて敢て書きましたが、
これによって、二は長官の意図に副うた判決になったものの、その過程に種々の問題があり、
一、三の判決は完全に長官--幕僚達--の意図に反することになったことが明白となったと信じます。
これでもなお、世人は裁判官はロボットであったとされるでしょうか。
以上の記述によって 二・二六事件裁判の真相を理解して頂けたら幸いであります。
昭和四十六年六月二十四日
間野利夫 識

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松本清張編
二・二六事件=研究資料Ⅰ
から


東京軍法会議判士候補者人名簿

2020年11月04日 09時31分52秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達

東京軍法会議判士候補者人名簿
昭和十一年三月二十五日

陸軍省
陸軍騎兵大佐  吉田 悳
同    石本寅三
陸軍歩兵少佐  河村参郎
予備員  同    倉本敬次郎
参謀本部
陸軍歩兵中佐  若松只一
陸軍航空兵大尉  谷川一男
陸軍歩兵大尉  石井秋穂
予備員  陸軍歩兵中佐  河田槌太郎
同  同    宮崎繁三郎
同  陸軍砲兵大尉  寒川吉隘
同  陸軍歩兵大尉  杉田一次
陸軍大学校
陸軍歩兵中佐  藤室良輔
陸軍歩兵少佐  大橋熊雄
教育総監部
  東京陸軍幼年学校
陸軍歩兵大尉  浅沼吉太郎
  陸軍歩兵学校
陸軍歩兵中佐  人見秀三
陸軍歩兵大尉  三神  力
 熊本陸軍教導学校
陸軍歩兵少佐  村上宗治
 陸軍野戦砲兵学校
陸軍砲兵大尉  根岸主計
 陸軍騎兵学校
予備員  陸軍騎兵大尉  吉橋健児
陸軍航空本部
 下志津陸軍飛行学校
陸軍航空兵大尉  河辺忠三郎
陸軍兵器本廠
陸軍歩兵大尉  間野利夫
同  福山芳夫
第一師団
 戦車第二聯隊付
陸軍歩兵大尉  河合重雄
 横須賀重砲兵聯隊中隊長
陸軍砲兵大尉  高山信武
第五師団
 歩兵第十一聯隊
陸軍歩兵中佐  山崎三子次郎
第十師団
 歩兵第六十三聯隊中隊長
陸軍歩兵大尉  中尾金弥

松本清張編
二・二六事件=研究資料Ⅰ
から


法廷

2020年11月02日 09時28分51秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達

二・二六事件当時、私は、第十師団法務部長として姫路に在職していた。
事件終了後四日目の三月四日、私は陸軍省からの命令書を受け取った。
それは、緊急勅令により東京陸軍軍法会議を特設することになったので、至急上京、
右特設軍法会議法務官として事件処理の任務につけ、という趣旨のものである。
はじめ、地方から呼び集められた法務官は、私を含めて四人、他に東京在職の者を加えても僅か十名内外である。
陸軍省の方針では、それを一月半ほどで判決言い渡しまで、一気呵成に片付けたい腹であった。
とりあえず、法務官の数を二十数名に増員してもらい、まず予審の取調べにかかった。
代々木の陸軍刑務所の構内に、バラック造りの予審廷が設けられ、
各法務官は、予審官として 一人づつ被告人の取調べを進めた。
予審廷は、二十ほどの小部屋からなり、そこで、予審官は録事 ( 書紀 ) と同席し、
日曜祭日の休みもなく取調べを続け、
直接行動に参加した将校を全員と二、三 主要な下士官に対する予審を終ったのが四月中旬。
下士官と兵の大部分は、その所属部隊に留置されていたから、憲兵と検察官が手分けして各部隊に出向き、
一通りの捜査をしただけで、予審には回らなかった。
予審が終れば報告書に調書を添えて検察官に送る。
検察官は、予審抜きの捜査調書や予審経由の書類などを検討して起訴不起訴を決める。
常設軍法会議では、被告人が望めば、弁護人もつけられ、
又、法定刑一年以上の重罪犯には官選弁護人がつけられるし、
判決に不服があれば、上告することもできる。
だが、戦時又は事変に際し特設される軍法会議では、弁護人もつけられず上告も許されず、
又、一般傍聴も禁止することに定めてある。
私が予審で取調べたのは、
安藤、中橋、村中、磯部、北、西田 その他 約一年半の間に二十数名であった。
結局、向坂俊平首席検察官により、第一次に起訴されたのは、
直接行動に参加した将校以下百二十三名であった。
これは、とても一度にまとめて裁判できる数ではないし、
又 将校、下士官、兵、常人と それぞれ立場が違うので、
これを将校班一、下士官班二、兵の班一、常人班一の五組に分けることにし、
これらを裁く担任裁判官の組も五班に分けて編成された。
しかし、事実の認定、情状酌量などの点には 甚だしく差を生じてはいけない。
そこで五組の全裁判官が集まり、裁判に臨む心構えについて一貫する線を協議検討し、
統帥命令を紊乱した事実に焦点をあわせ、審理を進めることに決めた。
念の為に述べておんが、
これらの打ち合わせや、判決に対して、
軍の上層部やその他から 特別の干渉や指示を与えられたことは、一度もない。
すべて独立独歩の立場で裁判官の自主的な判断にまかせられていた。
それは、起訴された者のうち、下士官、兵の大部分が、
裁判の結果、無罪となり 又は 執行猶予の判決を受けたことによっても明らかにうなづけるだろう。
特設された東京陸軍軍法会議の法廷は、陸軍刑務所に隣接する代々木練兵所に、
法廷は五つ作られた。
各班一つの割合である。

法廷内の様子を図示すると上図のようになる。
審理期間中は、九時に、被告人たちが警査 ( 刑務所看守が兼務 ) に付き添われてに入廷、
昼食時に一時間の休廷があり、
午後四時か五時頃まで審理を続ける。
被告人は、多いところでは四十名も廷内にいる。
それに一人一人同じことを審問するのは時間的にも無駄である。
そこで、被告人たちの互選で代表者のみに応答させ、
異論のある場合のみ、挙手により、各被告人に発言させた。
あるいは、これでは被告人たちは、言うべきことも充分主張できぬことがあったと思う方があるかも知れない。
だが、彼等は軍人として教育された者であり、言うべきことは ズバズバ発言主張したし、
我々も充分に彼らの発言に耳を傾けたつもりである。
しかし、彼らの思想、信念はどうあれ、
事件が軍の命脈とする統帥の根本を破壊する軍規紊乱の最たるものであることは、覆うべくもなかった。
そして七月五日、十七名の死刑を含む第一次の判決が下された。
死刑判決を受けた者の中、村中、磯部の両名は、北、西田ら常人の審理と背後関係の追究のために、
処刑を延期し、なお審理を続けることにした。
これは、我々特に常人班担当裁判長 吉田悳少将などが、
事件の背後関係は軍上層部の一部にあると信じ、それを徹底糾明せんがためであった。
しかし結局 その試みは不得要領に終ったが・・・・。
七月十二日、第一次処刑が行われたが
その頃から、村中、磯部の両名は、蹶起の目的が失敗に帰したことを悔やみ始め、
特に磯部は、これまで深く信頼していた軍の上層部某々らが、平素の大言壮語を裏切り、
彼ら青年将校を見殺しにしたものと為し、いたく憤怒の念を抱き、屡々その意味の口吻を洩らしていたことを記憶する。
事件の背後関係が、不得要領に終ったといえば、こんなこともあった。
それは 蹶起部隊の最初の計画では、豊橋にあった部隊が、興津の西園寺公私邸を襲撃することに決まっていて、
万全の準備が進められていたが、事件の前夜、東京で亀川哲也が、相沢中佐の弁護人である鵜沢聡明氏を訪れ、
西園寺公の襲撃は中止になったから、蹶起後は、
「 青年将校らの最も信頼する、真崎甚三郎大将をもって後継内閣の首班に奏請し、事態を収拾するよう 」
 西園寺公に進言してくれと依頼した。
その使命を受け 鵜沢氏は、二十六日早朝五時頃、興津に到着したのだったが、
実際は、豊橋部隊の同志青年将校の一人が、襲撃のため軍を私兵化することを極力反対したため、
蹶起の直前に中止がきまっていたのである。
それなのに何故 西園寺公は いち早く退避したのだろうか。
これは事前に蹶起の秘密計画を知った者が、襲撃中止の事情を知らずに、
西園寺公に退避の進言をしたに違いないと判断され、背後関係糾弾のため取調べが進められた。
しかし、これもついに 裁判では的確な証拠を握ることができなかった。
人物往来/S・40・2
当時第十師団法務部長 伊藤章信 著
軍事法廷 なみだの判決 から