あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

丹生部隊

2019年04月18日 19時41分02秒 | 丹生部隊

第一歩哨 までくると車を止めて、助手台の田中弥が飛び降りた。
そして右手を高く上げて、「 尊皇 ! 」 と どなる。
そうするとすぐ歩哨が答えて、「 討奸 」っていうんだ。
尊皇、討奸が山と川との合言葉ってわけさ。
それで田中が
「 野戦重砲第二聯隊長橋本欣五郎大佐! 連絡ずみ ! 」
「 ようし、通ってよし ! 」
そこで田中が車で乗り込んで次へ行くと、第二哨 というのがある。

それも 同じように通って、大臣官邸までくると 下士哨 だ。
大かがり火を焚いて着剣の銃を構えたのが十五、六名いたが、すさまじい光景だったね。
なかなか厳重なもんだよ。
ここでも同じようなことをする と、
「 それは遠路御苦労でござる。容赦なうお通り召され ! 」
哨長は曹長だったが、芝居の台詞もどきで大時代のことを真顔でいったね。

まったく明治維新の志士気取りだ
陸相官邸の警戒線はこのように三重になっていた。
最後の内戦は下士官が見張っている。
決行部隊の司令部だけに厳重であった。
橋本は官邸の中に入る。
橋本は広間に行くと、
「 野戦重砲第二聯隊長橋本欣五郎大佐、ただいま参上した。
今回の壮挙まことに感激に堪えん!
このさい一挙に昭和維新断行の素志を貫徹するよう、
及ばずながら此の橋本欣五郎お手伝いに推参した 」
と よばった。

・・・
「 ようし、通ってよし ! 」

丹生部隊
目次
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・ 
陸相官邸 二月二十六日午前九時 
・ 丹生部隊陸軍官衙占拠 26日 「 兵隊さん、しっかりやってください 」 
・ 歩兵第一聯隊第十一中隊 幹部候補生 田中孝司 手記 
・ 初年兵 ・ 証言「 真相知らずに参加 」 
・ 「 声をそろえて 帰りたくない、中隊長達と死にます 」 
・ 丹生誠忠中尉 「 昭和維新は失敗におわった。 まことに残念である 」 
・ 
丹生部隊の最期 

香田大尉が軍服の上衣を脱ぎ
「 殺すなら殺してみろ」 
と 狂乱の如く絶叫しながら
我々の整列した近くから
鎮圧軍の包囲網をめがけて
単身、電車通りを突進していった。


丹生部隊の最期

2019年04月16日 13時27分33秒 | 丹生部隊


緊迫した一日が過ぎ、
中隊はその夜新築中の国会議事堂に移った。
張廻らされた塀の入口の所にくると、フト人声が聞こえた。
暗いので姿が判然としないが、民間人のようだ。
その男の人は我々に向って、
「この人たちは生神様です。この人たちは生神様です」
と お題目でも唱えるかのごとく口ずさんでいた。
我々の行為を感謝でこたえているらしい。

構内の庭に集合した我々は、
 ここで丹生中尉から我々の蹶起が天聴に達せられたことや現在までの状況を聞かされた。
それによると我々は今後、戒厳司令官の指揮下に入り、
 戒厳部隊として引続き 現在地の警備に任ずることになったのであるが、
これは今日一五・三〇布告された陸軍大臣告示によるものであった。
丹生中尉の話が済んでから議事堂に入ったが、
未完成でとても宿営などできないので、一時間後山王ホテルに移った。
すると間もなく聯隊から食事と小夜食が届いた。
ここにおいて我々は、初めて今朝からの行動が正当なものであることを認識したのである。
以降中隊はホテル外周の警備についていたが、
二十八日午後から事態が変化し、いつしか戒厳部隊から反乱軍となり、
鎮圧軍から討伐を受ける運命に追込まれていった。
全員夜になって白ダスキをかけた。
そして志気を鼓舞するため軍歌を歌った。
ラジオが何かを放送しているが、ガーガーとゆう雑音が多くて意味が皆目わからない。
いよいよ二十九日の早朝になった。
鎮圧軍が攻撃してくるとの情報を受けたので玄関前に配属されたMG二銃を配し、
小銃分隊はあかるくなってから各解の窓辺に散開させて戦闘に備えた。
しかし発砲は相手が撃ち出したら応射することになっていた。
この間 丹生中尉の所には部外者が交互にやってきては盛んに説得を行っていた。
時には同期の将校らしい者がきて泣きながら訴えていた。
「 帰ってくれ、とに角 帰隊してくれんか、頼む!」
二人の間には憎しみはなく、真に同期生らしい友情と友をかばう暖さが塧出していた。
側で見守る私にとってそれはあまりにも劇的なシーンとして目に映った。
しかし丹生中尉の決心は固く、あくまで初志貫徹の気持を崩さなかった。
中隊では前夜に引続き志気高揚を持続するため軍歌を高唱していたが、
鎮圧軍の包囲網がジリジリと狭められる中の軍歌は悲壮に満ちた。
相手はまだ発砲しない。
このようなとき若しいずれかで暴発が起きたらどんな事態になるだろうか。
丹生中尉は来訪者との話合いが終わるとすぐ席を立ちどこかへ行き、
又 戻ってくるという忙しさだったが、次第に激怒を高めていった。
「 奉勅命令が出ているそうだが、我々はそんなものみておらん、
 伝達せんでおきながら奴等はそれを楯にとり、我々を逆賊と決めつけ討伐するとは以ての外だ。
やるならやってみろ!」
この憤怒と燃える気持ちは恐らく蹶起将校全員 否!全将兵に共通する口惜しさであった。
これでは如何に説得しても応ずる筈はない。

八時頃私は一人で電車通りに出てみた。
別に目的はなく いわば状況偵察である。
すると
山王ホテル前の都電の軌道上で安藤大尉 ( 歩三、第六中隊長 ) がアグラをかき、
伊集院少佐 ( 歩三、第二大隊長 ) とやり合っているのが目にとまった。
( 安藤中隊もホテルに集結していた )
少佐は安藤大尉にこんこんと説得していたが、
どうしても応じないので業を煮やし、
やがて大声で、「 ブッタ斬るゾ ! ! 」 と 叫び軍刀を抜く構えをみせた。
すると安藤大尉はそのままの姿勢で腕を組みながら、
「 フム、斬るなら斬ってみろ 」 と 叫び、
その直後、
「 俺も只じゃー斬られねーえ 」 と いいながら立上った。
その時安藤大尉の部下五名 ( 下士官二、兵三 ) が にわかに拳銃と小銃を少佐につきつけ、
「 中隊長殿を斬るなら斬ってみろ ! 」
正に一触射殺の構えをとった。
次の伊集院少佐の言動如何では立ちどころに銃弾が飛出すかも知れない。
私は安藤中隊の団結の固さに思わず目を見張った。
すると同時にこの様子を見ていた鎮圧軍の中から兵隊が二名飛出してきて
少佐の腕をとり、引きずるようにしてつれていった。
ホッとしたあと今度は旅団長がやってきた。
「 安藤落ちつけ・・・・・落ちつけ・・・・・お前たちのいうことはよく解った 」
その時大尉は落ちる口惜し涙を拳で払いながら、
「 閣下、軍幕にはまだ斬らねばならん者が大勢おります 」
「 判っとる、判ったぞ安藤・・・・・」
両者の話はなお続いたであろうが、私はその場から引きかえしてホテルに戻った。

〇九・三〇頃、
それまで続けられていた説得によって
丹生中尉は遂に情勢を判断し中隊の原隊復帰を決定した。
我々は早速後片付けと整理を済ませてから軍装を整え指定された電車通りに整列した。
するとそこへ戦車がやってきて一名の将校が降り我々に近づき、
「みんな聴いてくれ、俺たちは討伐にきたのではない。俺の姿を見てくれ」
といって丸腰を示した。
「このとおり武装はしていない。
早く原隊に帰ってもらいたいことをいいにきたのだ。どうか判ってくれ」
その将校は泣いていた。
皇軍相撃を回避する配慮が如実に窺える。
鎮圧軍の方もつらい立場に立っているのだ。
我々はジッと様子を見ているとその将校は、
「 これを読んでくれ、そして一刻も早く原隊に帰ってもらいたい 」
といいながら目の前でビラを撒いた。
これが我々が初めて見た 「下士官兵に告ぐ」 のビラである。
早速拾って読んでみると、
「 下士官兵に告ぐ、
 帰る者は許す、抵抗する者は逆賊であるから射殺するゾ、
皆の父母兄弟姉妹は逆賊となるのを泣いているゾ 」
一字一句きびしい内容だったためか、私は今もこの文章が脳裡に焼付いている。
そこへ丹生中尉が戻ってきて ビラを捨てろと命令したので全員はすぐその場に投げ捨てた。
中尉の表情は何かを決したかのように冷静だった。
早速中尉から訓示が行われたが、
その内容は参加者に対する謝意と簡単な状況説明だったが、
言葉のすみずみに無念の感情を彷彿とさせるものがあった。
中尉もやはり血の通った人間であった。
この期に及んで冷静でいられる筈はなかったのである。
我々は自発的に武装を脱いだ。
小銃を大通りに一列に叉銃し、LG ( 軽機関銃 ) を一端に置き、あとの一切を鎮圧軍に委ねることにした。

この時、
香田大尉が軍服の上衣を脱ぎ
「 殺すなら殺してみろ」 
と 狂乱の如く絶叫しながら
我々の整列した近くから
鎮圧軍の包囲網をめがけて
単身、電車通りを突進していった。
その後どうなったかは不明だが
緊迫した雰囲気が私の眼前でアリアリと展開し
何か胸迫るものを覚えた。
かくして我々は
ここで丹生中尉と別れ
下士官兵は神谷曹長の指揮で原隊に帰った。

二・二六事件と郷土兵
蹶起将校の身辺護衛
歩兵第一聯隊十一中隊 軍曹 横川元二郎 著から 


丹生誠忠中尉 「 昭和維新は失敗におわった。 まことに残念である 」

2019年04月14日 13時17分34秒 | 丹生部隊

緊張の一夜が明け
二十九日朝を迎えたとき雪が降っていた。
八時過ぎ
戦車がやってきてスピーカーを使っての投稿勧告をはじめた。
ややあって上空に飛行機があらわれビラをまきちらした。
轟音とスピーカー音が混然一体となって我々の胸を刺し心がかき立てられる思いだ。
一体これからどうなるのであろうか。
我々は唯、固唾を飲みながら事態を見守り続けた。

Photo

 

 

 

 

 

 



やがて〇九・三〇頃
中隊集合がかかり急いで玄関前に整列すると
間もなく 丹生中尉が姿をあらわし、
状況説明と共に聯隊復帰を命令した。
「 昭和維新は失敗におわった。
 まことに残念である。
今は考えている余地はなく、奉勅命令に従うばかりである。
四日間にわたる各位の苦労を感謝する。
満州に行ったら充分働いてもらいたい、武運長久を祈る 」

丹生中尉の訓示は切々として我々の胸を打った。
これで中隊長とは永の別れになるかも知れぬと思うとまことに感無量であった。
中尉がさったあと
我々は電車通りで叉銃を行い、自発的に武装を解き丸腰で帰隊した。

二・二六事件と郷土兵
歩兵第一聯隊第十一中隊 二等兵・田中善一郎 「山王ホテルに陣地構築」 から


「 声をそろえて 帰りたくない、中隊長達と死にます 」

2019年04月12日 13時07分06秒 | 丹生部隊

< 2 9 日 >
午前一時
香田大尉殿より達し有り、
の者此処に聯隊長殿が来て居られ、
 皆を原隊に帰させると言ふが  帰りたい者は遠慮なく言出 」
と、
其の時の兵の気持
悲壮と言ふか
「 声をそろえて帰りたくない、中隊長達と死にます 」
と いった。

香田大尉も感激し
「 良く言ってくれた 」
と、
それから 各処々に陣をはりいつでも来いと応戦の用意、
営門出かけてより此の方、此の位緊張した気持ちはなかった。
亦 今日が自分達最後の日かと覚悟した。

十二時頃 十一中隊集合、
に 四階に居った自分達は何事かと下の広間に集ったら、
丹生中隊長は眼に一杯涙を浮かべて、
「 皆の者 今迄大変御苦労をかけてすまなかった、実は今日皆を帰すから  」
と 言ふので、
「 何で帰すのか 」 
と 皆でなじった、
「 中隊長は何事も言ふまい、自分だけ死ねば後の者は皆助かる 」 
と 言った、
何でだまってゐられやう、
「 中隊長死なせたからには自分達は生きては此のホテルから出ない 」 
と 言ひ合ひ皆泣いた。
中隊長も泣いたたが、時世には押され情なくも帰営するために前の電車路に整列した。

列が半町も行った時、                            ( 一町 = 1 0 9 m )
熱血将校香田大尉が皆を止め、
部所に付けと、
一同 亦も
喜び勇み立ち再度応戦のため各部所についた。
二度と再び出まいと言ひ合った
が、又も其の間 色々と敵の方より 「デマ」 が来、

吾等将校等 兵を助けんが為幾度か自殺を企てた。

歩一第十一中隊 一等兵 堀越晴之輔
現代史資料23 国家主義運動3


初年兵 ・ 証言「 真相知らずに参加 」

2019年04月10日 12時32分30秒 | 丹生部隊

木村武雄
昭和11年1月10日入隊 当時21歳
歩一第11中隊 小銃班
島崎豊照
昭和11年1月10日入隊 当時21歳
歩一第11中隊 軽機班

二・二六事件に参加させられた初年兵の多くは、入隊して約一か月半、
まだ兵器の扱いも満足でない状態であった。
そのうちのお二人に、当時の状況を語っていただきました。
一種の悪夢に襲われた気持ちです、
と 三十五年を前を思い出し、感慨深げに語ってくれました。

不審のまま営門を出発
事件の前日は どんな空気でしたか
島崎    前日夜あたり、あすの朝非常呼集があるという 噂は、二年兵あたりは感じていたようでした。
  今思い出せば 何か雰囲気のようなものがありましたね、
ですから土曜日でも下士官・将校の外泊を禁止してしまったという状態でした。
これは後でわかったんですが、
初年兵の教官の秋笹少尉・・・幹候あがりで新婚早々で子供さんが生まれたばかりでしたが・・・
秋笹さんだけは外泊が許されたんです。
うちの中隊の将校で参加しないのは秋笹さんだけです。
前夜の空気は、何か非常呼集がある、
へをすると このまま満洲持って行かれちゃうんじゃないかなど言っていましたよ。
島崎    僕の記憶では営門を出たのは四時です。
  首相官邸方面に行ったのはシニジラ夜明ですから、歩一からあそこまでは一時間かからないでしょう。
島崎さんの方も首相官邸ですか
島崎    でなくて、行ったのは参謀本部です。
お二人は丹生部隊で一緒ですか
木村    一緒です。だが 軽機班と小銃班で、部署がちがうね。あの時は班編成だったからね。
島崎    僕は軽機班で第六班、班長は前田軍曹。
はじめは演習ですか
島崎    演習です。溜池から首相官邸へ行く坂を上がって行った。
  あの時 出たのは機関銃が三個中隊の他、僕等の十一中隊しか参加していないんです、歩一では。
丹生隊は二百七十名ぐらいでしょう  軽機の数が非常に少ないですね
木村    二百七十名いないでしょう。完全編成で百八十名だから。
島崎    初年兵が百八名でしたか。そのほかに練兵休とか、衛兵に行ったものがいるでしょう。
  軽機は持って出たのは四挺ぐらいだったかも知れません。
丹生隊は実包一万発ぐらい持って出たというが、小銃の方ですね。小銃が百五十挺
島崎    弾は同じなんです。小銃も軽機も同じで、小銃手が前と後ろに百二十発持っていても、
  後の六十発は軽機にまわる率が多いんですね、戦地では。
木村    二装軍装でしょう。途中、これはと思ったね。実包六十発持たされたんで。

ただごとでない中隊長の訓示
弾を持たされたということによっておかしいと・・・・

島崎    ええ、そうなんです。ちょっとおかしい感じが。
木村    そこで出発する前に丹生中尉が訓示したでしょう。
  「 お前達の言うことを聞かないものは撃ってよろしい、突いてよろしい 」 というから、これはただごとではない。
それはどこでですか
木村    出発前、中隊前に整列した時です。
島崎    軽機に関してはそれはなかった。弾込めをしてはいけないという命令でした。
小銃の方は完全にそこでわかったわけですね
木村    結局、これはよほど内乱かなんかで、軍、われわれ自身が反乱を起こすというのでなく、
  何か反乱を起こしたのをやっつけに行くんだな、位の気持で行ったのです。
特に訓示もないわけですね。あとで憲兵に出合った時 初めてわかるという・・・
木村    いや、それでも目がさめないんですよ、まだ。
島崎    わからなかったね。おかしいということはウスウス。
  政治の中枢へ行って、中隊長が拳銃を撃って速駈けで行った先が参謀本部でしょう。
聯隊を出て、どう行かれたんですか
島崎    歩一を出て直ぐ裏通りへはいって溜池へ出て電車通りから首相官邸の方へ上がった。
  ところが、あそこを上がって行ったら 機関銃隊が先に来て居て、首相官邸の坂を上がって、
両側に首相官邸へ向けて機関銃を据えちゃったんですよ。
そしたら、十一中隊前進と言って参謀本部へ行ったんです。
ドイツ大使館前に交番がありまして、そこへ行った時、機関銃を撃ち始めまして、
ダダダダダダという音が実包なんですよ。
空包と実包とは音がちがいますからね。
そしたら丹生さんが拳銃を三発か四発 空似向けて撃ちましたね。
それは何ですか
島崎    それはみんなの注意をそらしたんでしょうね。
  それで前を向いたとたんに速駈けという命令で、ドイツ大使館のところからハウスにはいって参謀本部へ行ったわけですよ。
木村    結局、われわれはここで交通遮断した。着くと同時に九段の憲兵が上って来たんですよ。
われわれが着剱で行くと坂を上がって来るのとぶつかったわけですよ。
それで  「 お前ら待て 」
というと  「 貴様ら何だ 」 と言いながら、憲兵曹長が来る。
こっちは星一つですから  「 はい、演習でありますが、だめです 」
というと  「 ふざけるな 」 というわけです。
そしたらウチの高橋軍曹が追っかけて来て、
「 木村、絶対通しちゃだめだ。撃て、通ったら撃て 」
というわけなんです。
そこで憲兵は驚いて引いてくれたんです。
無理に通ったら一発二発 撃ったかも知れません。
私もホッとしました。
憲兵を追っ払って、その後は
木村    その後、今度は六尺棒を持った新撰組ですね。
  トラックに乗り込んで押しかけて来たのです。

これは一言で帰りました
二十六日はそこで釘づけですか
島崎    二十六日は、そこで釘づけではなくて、お昼はそこでたべましたが・・・
木村    いや、一晩明かした。そしてあくる日 議事堂へ行った。
島崎    議事堂へ行ったのはその晩なんだよ。なにしろ寒いんでね。
  フジゾウガンの門の下では寒いんで、隼町の角の青年団の幹事長をしている島津マサノブという人に、
寒くてしょうがないから青年団のテントを貸してくれと頼んで、それで永田青年団という天幕を張ったんですよ。
そのとき島崎が来たといううんで地元の青年団の人達がめずらしがって面会に来てくれたんですがね。
面会に来たのは何時頃ですか
島崎    お昼前から来て居ました。朝からなんですよ。
それでは、街の人達やお家の方にばれちゃいますね
島崎    そうなんですよ。すぐ六丁目で八百屋をしているウチに通知がいったんですよ。
新議事堂へ移ったのは、二十七日の未明になって居ますが
島崎    二十七日の未明になって居ますか。あそこで焚火をしたんですから、僕の記憶では二十六日の夕方と思う。
二十六日の夕方から二十七日にかけて移動したんでしょう。
木村    それは間違えて居る。あそこに小林という歩兵操典などを刷っていた印刷屋があるでしょう。
  あそこで酒を貰って飲んで、そこで一晩中交替に衛兵で三宅坂に立っていました。
残った者と行った者とがあるんでしょう
島崎    ああ、そうかも知れません。ウチの軽機分隊は中へはいって焚火をしましてね。
  あくる日 夜が明けてから山王ホテルへ。
木村    二十六日に来て、一日中歩哨に立って居ましたよ。
  その晩、その衛兵常呂、小林の所で酒を飲んだりして、そのあくる日の昼間、
二十七日、エビフライなどの折りを貰ってたべながら新議事堂へ行った覚えがあります。

二十六日から二十七日までの状況
二十六日の夕方から二十七日の朝にかけて、新議事堂へ移って、
二十七日の夕方、山王ホテルと幸楽に別れるわけですよね
木村    二十七日の夕方山王ホテルへ行ったんです。直接。
議事堂には寄らなかったのですか
木村    寄りました。ほんとはあそこに立てこもるわけだった。
  あの議事堂は未だできて居なかった。中にはいったのをおぼえて居ます。
紙を敷いたまま、ザアザア音がしましてね。
それで山王ホテルに行きました。
島崎さんの方は、早く行って何をして居ましたか。
島崎    焚火して、何ということはないんですね、全部終結して、ここへこもるんだ。
全部が議事堂へ立てこもるような話は流れて居ましたね。
それは、北一輝が電話をかけて来て そこへ集れと、そこで磯部が行けと電話をかけて・・・
島崎    それはわかりませんね。二十六日のお昼は聯隊から炊出しだった。
  その炊出しもバケツで来たもんですから、農林大臣官舎裏の村田さんという運転手の家から
茶碗や箸を借りて、そのまま返さず、借りができているんですがね。
木村    聯隊から外套が来たのは、二十六日の夕方だね。
全体的な情況から言いますと、二十六日は未だ 反乱軍ではないですね。
まだ、調子がよかった。
木村    よかった。それが二十八日までは何でもないんですよ。
島崎    いやいや、そうではないんです。
  二百七十名にはまわりの状況から、特に二年兵がおかしいと言い出したんです。
何か自分らのやって居ることが反乱的だというような。
いわゆる陸軍大臣告示が出たのは、二十六日の午後の時なんですね。
島崎    知りません。ただおかしいと思ったのは天幕を借りたり、皆面会に来たんですが、
  お昼過ぎになったら誰も来なくなっちゃった。
高橋蔵相が殺されたとか、そういうニュースは はいりませんでしたか
島村・木村    はいりません。最後まで知らなかった。
島崎    ウチの中隊は一発も撃って居ないんですよ。
  何があっても、反乱軍と言われてもピンと来ないんですよ最後まで、
二年兵なんか日曜を棒に戻って外出もふっとばしちゃったなんて文句を言い出したんですよ。
そしたら分隊長が中隊回報を出し、たしか二十六日の夕方だったと思いますが、
「 今、日本では騒じょうが起きた。それでわれわれ戒厳部隊は軍の中枢を警備して居る 」
と 言うんですよ。
だから 「 この戒厳が終わると、少なくともお前たちは日曜をつぶしたんだから外泊ぐらい出来る 」
と。
うまくすると勲章もんだということが二年兵あたりから流れて来ましたね。

奉勅命令と山王ホテル
山王ホテルでの状況はどうでしたか
木村    奉勅命令を持って来た。あれは閑院宮の代理かも知れないな。だからニセ者だ。
  帰せというわけなんですよ。将官クラスの人でしたよ。
その人は読み上げたでしょ
木村    お前たち よく聞け と。
集めたんですか
木村    通さないので歩哨だけで 他は出て来ないんですよ。
  通さないからそこで言ったんです。その時、自分と小泉が歩哨に立って居たんです。
なんじ頃ですか
木村    夜ですよ。七時から八時頃です。
二十七日ですか
木村    二十七日です。二十八日かな。
島崎    二十七日のウス暗くなってからねえ。聯隊長でしょう。 聯隊長が来たんだ。
木村    二十八日でしょう。
島崎    小藤さんが、「 お前たち 帰りたいものは帰れ、何も言わないから、帰りたいものは 俺についてこい 」
それでそのわきに香田さんが。
木村    副官が来て居るわけだ。
島崎    丹生さんと香田さんが軍刀をこうやって、へたなことを言うと たたっ斬るという態勢だったね。
  小藤さんが 「 帰りたいものは帰れ 」 というと、
丹生さんが 「 お前らはおれと一緒に死んでくれ 」 と言ったんですよ。
そうしたら一斉に天皇陛下万歳ですよ。
それはどこからですか
島崎    死んでくれと言ったとたんに、誰が言い出したかわからないが、天皇陛下万歳 。
木村    あれはウチの高橋さんだな。
小藤さんはすぐ還られたのですか
島崎    そのまま帰っちゃった。
そうすると誰も行かない
島崎    行かない。あの時、小藤さんが いきさつを説明すれば殺されたかも知れません。
   香田さんは、変なことを言えば、バッサリやっちったんじゃないですか。
木村    「 聯隊長命令だから復帰しろ 」 と 強い指示だったら或は帰ったかも知れない。
  結局、中隊長一人を死なせない。私らも切腹するというわけで。
島崎    思い残すことがあったら遺言状を書けということで、僕も三通書きましたね。
小藤さんが帰った後はどうでしたか。状況など全部わかりましたか
島崎    未だわかんなかったですね。
  それから あくる日二十八日になると例の放送です。
今で言うと百ワットぐらいですかね、屋上に居るのでガンガンと聞えるんですよ。
調書では聞かないことになって居ますが。
「 お前らは原隊へ帰れ 」 など放送を聞いてどうでしたか
島崎    それを聞いて動きはじめたわけです。 そうしたら中隊長がもう一回集合をかけましてね。
「 お前らは心配することはない。今、日本は大騒じょうが起きておる。
われわれは国の中枢部を警備して居る 」 というのです。
五七や四九の連中がまわりをとりかこんで居るんですが、連中は反乱軍だと言うんです。
「 だからわれわれの友軍は続々と上京中であるから、もえしばらくがんばれ。
こちらは戒厳部隊で連中は反乱軍だ 」 とね。

戒厳部隊の反乱工作
二十九日になって、ラジオ放送、ビラ、アドバルンとかで、どうなりましたか
木村    歩哨だけは頑張って居たが、中はメチャクチャだった。酒を飲んじまってね。
各班毎に情報を交換するとか、話し合いをするとか
木村    それは全然ない。余裕はないし、内緒話はできないし、軍隊はそういうところ はないんだ。
島崎    小藤さんが帰った後で、あれは反乱軍だわれわれは戒厳部隊という誇りがありました。
歩哨が拾って来たビラ、スピーカーの放送など みんな反乱軍のデマだと言うわけです。
二十九日の午前中には かなり強力にやったので、部隊にかなりの動揺が見られたということを聞きますが
島崎    二十九日の午前中、丹生さんは部下がかわいそうだというので、一旦 帰順し、山王ホテルを引き上げました。
  これから聯隊へ帰ると言って溜池の通りを幸楽の手前まで来ると、香田さんがとんで来て、
「 丹生、おれの命令が聞かれないのか 」 と 言った。
そうしたら丹生さんは何も言わず 回れ右です。 ・・・リンク→一兵卒の昭和維新 昭和維新は失敗におわった
それから 「 配置についてここを死守するから、危ないものは全部こわせ、
最後には手向かえるものは何でも手許に置け 」
と 言うので、山王ホテルのガラスを全部こわし、割ったガラスや落せるものは屋上や窓際の高い所に置きました。
外には二十台ぐらいの小型戦車が、はじめ着けていた 「 射撃せず 」 という旗を取っちゃって
ホテルを囲みました。
近歩三の屋上は、ホテルの屋上と同じ高さですが、ここに速射砲・機関銃をホテルへ向けて据付、
土嚢を積んで居るのが見えましたね、私はもうだめだと思いましたね。
そして最後に中隊は舎前集合という命令が出まして、叉銃。
それから叉銃の外へ出ろと言って中隊長が
「 お前たちには申し訳なかった。われわれ一部の錯誤からこういう結果になったけれど、
もし 心ある者は われわれの意志を継いでくれ 」 と。
僕はそこで丹生さんに腹を切ってもらいたかったね。
木村    香田さんが首をかき切ろうとしたね。 それを丹生さんが止めた。
  私は丹生さんにそれをやってもらいたかった。
島崎    それは神谷は引率、原隊に復帰しろ。 僕らは帯剱だけ、神谷さんは軍刀をつけて居た。

全体の
状況はわからなかったんですか
島崎    それは最後までわからなかった。
磯部などという人は
島崎    僕らは知らなかったですね。
  捕虜になって向うに着いたら、中隊の前に有刺鉄線でバリケードが張ってあって その中に整列させられ、
そこへ大隊長が来て 「 お前らはとんでもないことをしてくれた 」 と 言った。
そして中隊にはいり帯剱集め、糸・針・木銃まで全部引き上げられてしまいました。
木村    それから後は食っちゃ寝、食っちゃ寝 ですね。
島崎    便所へは着剱の兵がついて来る、開けておけとは言わないが長くなるとトントンとやられる、
  飯はよその兵隊が持って来るという状態が三日ぐらい。
それから近歩四に配置になって、一人一人憲兵に調べられた。

憲兵の取調べ状況
どういうことを聞くんですか
島崎    その行動、奉勅命令を聞いたか、などです。
  ところが近歩四へ行く前に、全部かん口令が布かれましてね。
放送もビラも知らない、奉勅命令も知らないと言うように。
調べの時間はどのくらいですか
島崎    十分か十五分でしょうね。 近歩四では、お前らは重謹慎だ、しゃべっちゃいかんと言われた。
  わらぶとんは寝台からおろして、ふんどしも手拭いも半分に切られ、飯は向うの兵隊がつける。
食べ終って片付けようとすると坐れと言う、夜があけるし舎外に水が汲んであって、顔を洗えという。
ホントに重謹慎です。
それで何もわからないが、高崎という先任上等兵が近歩四の第一中隊長の青島大尉に呼ばれたんです。
中隊長室でそこへ坐れと言われたわきに第一回の号外が措いてある。
高崎さんはそれをガメて来ましたが何も言われないうちに帰ってよいという。
わざと拾わせたんでしょう。
それで号外だというんで見たら、首相・蔵相がやられた、最後の反乱軍が山王ホテルで帰順したと書いてある。
その時はじめてわかったんですよ。
木村さんの方はどうですか
木村    一週間か十日ぐらい後で秋笹少尉が教えてくれました。
島崎    青島大尉は、お前らは命令でやったんだから心配するなと言ってくれました。
それからは調べられなかったのですか
木村    近歩四に一週間ぐらい居て、帰ってから大隊長に十五分ぐらい調べられました。
島崎    三月に給料をもらう時、
  「 お前らの給料は無いぞ。三日間は勅命に反してやったんだから、後の十日間は重謹慎、二十日間は軽謹慎 」
木村    給料は十日、十日ですが、十日分は一円八十五銭の半分で、九十五銭。
渡満は何日ですか
木村    五月十日
四月中は何をして居ましたか
木村  元の中隊で演習、演習で、ゆっくり話すひまなどなかった。

丹生中尉と事件の感想
中隊長の丹生という人はどういう人ですか
島崎    感じのいい人で人気もあった。 この人なら ついていける。
  毎週一回精神訓話がありましたが 相沢事件・十月事件のことなど話してくれました。
軍人勅諭五カ条を順に訓話をしていって最後の信義については、
特に強調したかったのか、よく考えて置けと宿題にしたままあの事件になりました。
木村    後で中隊長で来た西大尉が、丹生はかわいそうな男だ。引くに引けず はまり込んじゃったと言って居ました。
あれから三十五年になりますが、ふりかえってご感想は如何ですか
島崎    当時のことは悪い印象しか残って居ません。
  後に警視庁に二十四年勤めて居ましたが、一度も話に出したことはありません。
あの時、一発も撃たなかったことは ほんとうによかったですね。
まだ、当時の将校が生きて居るような気がするんですね。
その後、丹生さんの奥さんが世帯をたたんで いそいそと満洲へ行った。
丹生さんが特務機関なんかに居る などという噂が流れましたよ。
助かって欲しいという気持ちからでしょうか。
木村    私もそう思いましたね。
長い間どうもありがとうございました。

昭和46年5月26日  小学館
二・二六事件月報 No 2
座談会
真相知らずに参加・帰順
から
リンク→丹生隊(第十一中隊)の最期


歩兵第一聯隊第十一中隊 幹部候補生 田中孝司 手記

2019年04月08日 11時44分17秒 | 丹生部隊

二月二十六日
午前三時非常呼集あり、
其の直前班長より呼ばれ班長室に至り御手伝をなす、
帰りて二装衣服に着更へ 営内に整列、
中隊長より悲壮なる言語を以て
之より中隊は参謀本部陸軍省の警備に当たることを命令さる。
実包六十発を各自貰ひ受け舎前に整列し、
更に中隊長より話ありて絶対に中隊長に服従することを約束する。
我等は如何なる事を為すや否や不明なれ共、
平素中隊長の訓話を受けて居る故に略想像はつき居れども判然たる事は未だ予知し得ず、
機関銃隊舎前に赴き中隊の使命を果す為めに
今夜の暗号たる合言葉たる 「 尊皇討奸 」 「 尊皇斬奸 」 及び三銭切手の貼付ある者は同志なる事なる注意を受く。

営門を六本木停留所に向ひ我等は黙々として凍り付きたる雪の上を歩む、
首相官邸に至る頃に銃声しきりと暁の暗に響く、
此処より永田町独逸大使館屋敷前の派出所警官を驚かし駈歩を以て陸相官邸に至り、
中隊長は拳銃を以て門衛をして門を開かし 直に陸相官邸内に入る。
やや暫く後 再び中隊長は出で来り 直ちに自分等は部署に就く、
第二歩哨として自分は長となり鎌田、柏村、笈川原と共に陸軍省と陸相官邸の間の三叉路に位置す。
部署に就く戦友の物々しく走り行く様黙然として言葉無く四辺は物凄きひつそりとして其の間 犬の遠吠を聞く。
自分等が部署に就くや否や四、五名の憲兵隊らしき者来り、
首相官邸に行くものたるを告げ 通行を強要す、
我等は頑として応ぜず、
後方より中隊長来り 拳銃をつきつけて退けたり、又自動車等も皆後退せしめ歩哨として愉快なりき。
やがて夜の明けんとする時 交代になり朝食をとる。
中隊長より
「 悲壮なる決心を以て昭和維新を断行せんとす、
今や同志の者と岡田首相、斎藤内府、渡辺教育総監 及 鈴木侍従長を倒したり、
諸氏は中隊長の命令する儘に動いて居ればそれで安心だ、
此の勢いを以て今 陸相に我等の要求するが如きものを実現せしめんとしている故
諸子は今暫く待たれよ 」
と 言はる。

昼間亦歩哨として降雪の中に立つ、
陸軍の大官 皆 陸相官邸に集るの感あり、
来る自動車も来る自動車も皆 大将、中将等の高位高官なり。
午前中は将校の自動車は停車せしめず、陸軍省の者は偕行社へ、
参謀本部の者は軍人会館へ行く様命じ、
夜に入り警戒は一層厳重となり、
自分は独逸大使館前の三叉路に位置し通行を監視せり、
歩三部隊、機関銃部隊の警備の者と連絡し 物々しかりしが何等の異変もなし。

26日午前6時頃の蹶起部隊配備 と 丹生部隊の四日間の配備
 号外
二十七日
雪に明けた二十七日号外を拾ひて読む、
首相官邸岡田大将、教育総監渡辺錠太郎、斎藤内府は昨夜の事件にて即死せり、
鈴木侍従長、高橋蔵相、牧野前内府も負傷重傷の由を知る、
今更ながら事件の意外なるに驚くも 自分等は興奮の中に中隊長の訓話を受く。
「 我々は現下の情勢を憂へて天皇親率の下に軍の本義を達成せんがため、
 天皇側近の幕府の如きものを形成せる奸臣を除去せり、
今後更に警戒をなし 我等の要求せることの達成を見んために努力すべきだ、
我等は昭和維新を断行する前衛となり其の名誉も亦大なり、
日本全国より我等への後援を受くること又大なりと云はる、
此れより陸相官邸を引揚げ 国会議事堂に待機す。」


丹生誠忠中尉 歩兵第一聯隊第十一中隊 中隊長

夜に入り再び中隊長り話あり。
「 我等の事を起すや正義に立脚せり事
 陸相より天皇陛下の御耳に達し 有難き御言葉を賜りたること。

之より山王ホテルに引揚げ、
後継内閣成立の本部山王ホテルに移る故此処を厳重に警戒すべきだ 」
と云はる。
直にホテル前の歩哨となる、
夜中歩哨に立つこと三回 又 何等の異変なし。
  ホテル前の歩哨
二十八日
自分等は二日続きの警戒を了へ 休養をなす、
銃器の手入れをなしたる後 別館広間の奥に体を横たへて寝る。

二十九日
午前二時起床、
中隊長より又話あり、更に自分等の決心を問ふ、
最早茲に至つては我等の中隊長を中心とし初志の目的に向ひ 死を期して事に当るを約したり、
戦友皆涙を流し固き決意を表し 死は正に鴻毛の軽きに比して立つのだ、
香田大尉も決意を表して挨拶をなす。

小藤大佐
朝七時 聯隊長 来りて聯隊に帰る者は自分と共に来たれと云ふ、
されど最早自分達の進退はその善悪を考慮し得る余裕はなし、
唯々中隊長の行動と共にし中隊長の命に従ふ外なし、
夜の幕のとじるに伴ひホテル前は寂として住民は何時となく退却し
何か事起らん前の静寂の気陰惨の気が満ち満ちたり、
犬の吠える声を追ふ
彼方には鉄カブトを著したる敵兵が隠見し、
班長の話により、
如何なる事が起らうと山王ホテルを死守するのだ
の言葉と共に実に我等は死を期し 死前の酒盛をなし 此の世に別れを告げた。

中隊長の処へは聯隊の将校多数来り
帰順を奨め居れど 我等同志の者は皆一戦倒れて後止むの気勢を挙げ居りたり。
然れ共
中隊長は部下を犬死せしめること、
同じ皇軍を殺すことはとても耐へ得る事が出来ぬ事
及び 自分の主義主張との間に身を置き中々に決し難く見受けたり。

遂に兵器を解除し帰順を表し
敵の防禦地帯を聯隊に帰る事になつた。
嗚呼
二十六日より四日間一瞬時の間に 坤コン一テキ の大事業をなさんとし
遂に敗れたり、
自分等は只黙然として進む
世の人の
嘲笑を受けつつ。
されど 此の直前 憲兵隊の屯所に引揚げたる
香田大尉、中隊長の胸中や実に感慨無量のものがあるだらう。
中隊長の言
「 自分等は昭和維新の断乎のもとに此数日間努めて来た、
 然し 自分の不明のもとに事敗れ諸氏に迷惑をかけた、
此の責任は必ず自分が負ふ 」
と。

午後一時帰営せり、
隊内は戦時の如く雑々として物々しい警戒ぶりなり、
直に床に入りて寝りに就く。

三月一日
八時 舎前に整列す、
隊長の話
「 諸子は今後の行動を慎み更に此の上の間違ひをなす事をしない様に 」
を 聞き  西大尉の指揮の下に近歩四聯隊に移され第一中隊に収容されたり。
中隊長は青島一郎大尉、特務曹長真田恵治殿にして身廻物はすべて取挙げられたり、
自分等は罪人の如き待遇を受けて夜を明せり。

三月二日
午前六時起床 身分証明本籍地等の登録をなし、
相変らず上司の命令を受くる迄 中隊にて待つて居ります。
夜号外を見、
中隊長の免官  自分等は国賊として紙上に行動を期され居り 啞然たり。
 号外
月三日
近歩四 取調所にて憲兵大西軍曹に取調べられ、
二月二十六日以来の行動を逐一申立て 身がサッパリしたる感あり。
終りて直ちに歩一の中隊に帰り昼食す。

中隊長の命を受け昭和維新の断行に向つて行動をなしている事は、
自分等は事半ばにして自分の行動を意識せり、
然し 其の後の行動は其の善悪の批判をなす余裕もなく中隊長の命に従ひ行動をなした。
今や事終り 尚更事件の真相も明かにならざれば、
自分として何等の批判をも出来得ず、
唯々四日間の夢の如く、
而も此の間 大なる惨事 大なる事件を惹起せしめた一員であつたことに驚かざるを得ない。

現代史資料23  国家主義運動3  から


丹生部隊陸軍官衙占拠 26日 「 兵隊さん、しっかりやってください 」

2019年04月06日 11時22分46秒 | 丹生部隊


( 26日・・陸軍省 )

約三〇分行進すると隊列は陸軍省前にきた。
ここで我々第二分隊は正門の衛兵を命ぜられた。
丹生中尉はその時
「 これから各所で何かが起こるので その対応として別命あるまで陸軍省の正門警備に任ずる。
同志以外の者の通行を遮断せよ 」
と いうことをいった。
中隊主力は陸相官邸に進んでいった。
夜があけてしばらくすると高官たちが続々出勤してきた。
我々は門前に立哨し着剣した銃を構えて入門を拒んだ。
彼等は我々の物々しい姿にたじろぎながらも 何とか中に入れてくれと頼んだ。
ある少佐が、
「 我々はここに勤務している者だが入ってはいかんのか 」
と つめよった。
「 どんな理由があろうと立入禁止の命令が出ているので通行を認めるわけにはいきません。
入るなら容赦なく発砲します 」
彼等は事態の容易でないのを察知して皆 引上げていった。
立哨は二時間で次の分隊と交代し、夕方まで続けられた。
中隊本部は陸相官邸近くの大きな建物の中に陣取り 焚火をして寒さをしのいだ。
その日は寒い一日であった。
昼間から地方人がつめかけてきて、
「 兵隊さん、しっかりやってください 」
と 激励しながら 果物やお菓子などを沢山差入れてくれた。
私は朝から陸軍省の正門歩哨に立ち通行禁止の命令をそのまま実行しただけだが、
他の部隊は夫々の場所を襲撃し目的を遂げたということをだんだん耳にしたとき、
丹生中尉が日頃訓話された世直しが現在行われていることにようやく気がついた。
地方人がきて激励するのも彼等にかわって我々がやった事に対する感謝の気持ちであることが読みとれた。
こうしてその夜は建物の中で一夜をあかした。
・・歩兵第一聯隊第十一中隊 根岸酉次郎上等兵
    『 水筒に水をつめておけ 』  二・二六事件と郷土兵 から


「 ようし、通ってよし ! 」

2019年04月04日 11時13分18秒 | 丹生部隊


・・・リンク→  歩哨線 「 止まれ !」 
< 二十六日 >
參謀本部ガ憲兵隊ニ移ツテカラ、其ノ方ニ行ツテ、主ニ第二部關係者竝參謀本部聯絡者ノ詰所附近ニ居リマシタ。
其ノ間、殆ンド雑談ニ耽ツテ居リマシタ。
斯クシテ、此処ニ午後ノ四時頃迄居リマシテ、
次デ橋本欣五郎大佐ガ午後六時三十分頃品川着ノ列車ニテ上京サルルコトヲ、誰カラカ忘レマシタガ聞キマシタノデ、
其ノ時間ニ驛ニ迎ヘニ參リマシタ。
其ノ迎ヘニ行ク目的ハ、橋本欣五郎大佐ノ身邊ヲ気遣ツテ警戒スル爲ト、狀況ヲ早ク同大佐ニ知ラシメタイ爲デアリマス。

驛に行ク前ニ、參謀本部カラ陸大ニ立寄リ、電報ヲ打チマシタ。
宛名ハ、
岐阜歩兵第六十八聯隊  中島大尉
広島電信第二聯隊  常岡大尉
久留米市第十二師團司令部  鈴木大尉
ニ對シテハ、
「 帝都ニ於ケル決行ヲ援ケ、昭和維新ニ邁進スル方針ナリ    タナカ 」
ト云フモノデシタ。
次ニ宛名ハ、
新京軍司令部  長勇中佐
ニ對シ、
「 直ク歸レ  田中弥 」
ト打電シ、
又、奉天管區軍政部 武田大尉ニ、
「 帝都ニ於ケル決行ヲ援ケ、昭和維新ニ邁進スル方針ナリ    新京方面ニ至急オ傳ヘヲコフ  タナカ 」
ト打電シマシタ。
・・・中略・・・
橋本大佐ヲ迎ヘニハ、私一人デ品川マデ行キマシタ処、同時刻ニ副官ヲ從ヘテ橋本大佐到着セラレマシタ。
同大佐ノ來ラレタ本當ノ目的ハ私ニモ分リマセンガ、
私ノ想像スル処デハ同大佐ハ長中佐ト同ジク此ノ方面ノ事ガ詳シイカラ、
中央部ト聯絡サレテ、時局ヲ収拾スル爲デアツタロウト思ヒマス。

同大佐ト共ニ ( 副官共ニ ) 參謀本部ニ行キマシタ。
參謀本部中ニテハ橋本大佐ト別レテ、私ハ前ノ様ニ主ニ第二部ニ於テ雑談シテ居リマシタ。

ソレカラ橋本大佐ニツイテ、陸相官邸内ニ、満井中佐ノ処ニ面會ニ參リマシタ。
時刻概ネ 午後九時前後位デス。
此ノ時、占據區域ニ入ル爲メ、満井中佐ガ暗號ヲ敎ヘテ呉レ、且 名前ヲ云フト危險ダカラ名前ヲ言ハナイデ呉レ
ト申シマシタノデ、専用暗號竝ニ満井中佐ニ面會ト云フコトニ依ツテ、各占據線ヲ通過致シマシタ。
・・・田中弥  憲兵聴取書  ( 昭和11年4月26日 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第一歩哨
 までくると車を止めて、助手台の田中弥が飛び降りた。
そして右手を高く上げて、「 尊皇 ! 」 と どなる。
そうするとすぐ歩哨が答えて、「 討奸 」 っていうんだ。
尊皇、討奸が山と川との合言葉ってわけさ。
それで田中が
「 野戦重砲第二聯隊長橋本欣五郎大佐! 連絡ずみ ! 」
「 ようし、通ってよし ! 」
そこで田中が車で乗り込んで次へ行くと、第二哨 というのがある。
それも 同じように通って、大臣官邸までくると 下士哨 だ。

大かがり火を焚いて着剣の銃を構えたのが十五、六名いたが、すさまじい光景だったね。
なかなか厳重なもんだよ。
ここでも 同じようなことをする と、
「 それは遠路御苦労でござる。容赦なうお通り召され ! 」
哨長は曹長だったが、芝居の台詞もどきで大時代のことを真顔でいったね。
まったく明治維新の志士気取りだ
 橋本大佐
陸相官邸の警戒線はこのように三重になっていた。
最後の内戦は下士官が見張っている。
決行部隊の司令部だけに厳重であった。
橋本は官邸の中に入る。
橋本は広間に行くと、
「 野戦重砲第二聯隊長橋本欣五郎大佐、ただいま参上した。
今回の壮挙まことに感激に堪えん!
このさい一挙に昭和維新断行の素志を貫徹するよう、
及ばずながら此の橋本欣五郎お手伝いに推参した 」
と よばった。

昭和史発掘11 松本清張 著 から 


陸相官邸 二月二十六日午前九時

2019年04月02日 05時49分55秒 | 丹生部隊

時は昭和十一年二月、私は当時現役兵で、
東京赤坂歩兵第一聯隊重機関銃中隊の一兵士として勤務しておりました。
丁度一月十日に初年兵が入隊してきて、私は初年兵教育助手の上等兵でした。
若さにまかせ張り切って任務についておりました。
当時聯隊は、近く満洲に派遣される予定になっており教練も力を入れておりました。
私達の中隊長は陸軍歩兵大尉小澤政行殿 ( 35期 ) でありました。
中隊長はどっしりとした体格で士官学校出身で生粋の軍人であられ、
部下思いで中隊内の部下は皆 父の如くお慕い申しておりました。

歩一・機関銃隊

たまたま、昭和十一年二月二十六日 二時頃非常呼集が発令せられ武装した実弾が交付されました。

今まで非常呼集で実弾の渡された事はないのでおかしいと思い 変な予感が胸をよぎりました。
当時中隊長は営外の自宅に帰っておられて中隊長留守中の事でした。
指揮は中隊付将校が栗原安秀中尉、林八郎少尉、それと第一中隊より参加された池田俊彦少尉でありました。
約三百名位の中隊全員が営庭に整列しました。
隊員の半数は小銃の編成となり
重機関銃は第一から第九までの分隊となり、私は第八機関銃分隊長を命ぜられました。

栗原中尉は部隊の中央に立ち
「 皆は私の命のまま動いて貰いたい 」 と短い訓示をし

私達の見知らぬ将校下士官を数人紹介したのを覚えております。
そして小銃の隊から先に長い列となって営門を出て行きました。
 
蹶起後の歩兵第一聯隊正門

その日は一昨日降った大雪が三十センチも積って白一色の雪明りの中でした。

雪に足をとられないように注意しつつ北の方に向って進んで行きました。
私の分隊は長い列の後尾の方でしたが首相官邸の西側の高い塀の外まで進むと、
先頭の小銃部隊が既にこの官邸内に突入したらしく中から小銃と拳銃のはげしく撃ち合う音が聞こえて来ました。
ガラスや物などのしきりにこわれる音も聞こえて来ました。
私は初めて容易ならぬ事態となったことを知り、
かくなる上は好まずとも ただ上官の命ずるまま行動する以外はないと覚悟をきめざるを得ませんでした。
官邸の表門まで進んだ時 命令が来て 私の第八分隊と第九分隊 ( 分隊長小澤上等兵 ) のニケ分隊は
私の隊の後に続いて来た歩一第十一中隊 ( 指揮官 丹生誠忠中尉 ) の小銃中隊の指揮下に入ることになりました。
そして此の隊は そこを更に進んで陸軍大臣官邸を襲い、これを占拠したのであります。
当時の陸軍大臣は川島大将でありました。
私達の重機は官邸門前の道路に銃を据え 外部からの攻撃に備えて警戒に当りました。
又 雪が降り出し 寒さがひどくなりました。

   
磯部--片倉 状況図・・人の記憶は 種々
同日朝九時頃となり
此の官邸に平常勤務する将校、下士官、事務官等 二十名位がだんだんと集って来て、

歩哨線をこえて官邸の正門に入ろうとしました。
その時 占拠部隊の一将校が出て来て
「 只今非常事態が発生しております。中に入ると危険です。どうぞ今日はこのままお帰りいただき度い 」
と 丁重な口調で制止しましたが、
先頭に立った一少佐が威猛高に言いました。

「 貴様、何を言うか。吾々は天皇陛下の命により当官邸に勤務する者だ。
 陛下の御命令もなく此所へ入るを拒むとは何事だ。どけどけ 」
と 無理に入ろうとしましたその時です、
突然 バンバンバンと占拠将校の拳銃が火を噴きました。

弾丸が少佐に当り 少佐はバッタリ雪中に倒れ 顔面から血がふき出し雪を染めました。
少佐の部下達が驚いてかけ寄り 抱き起こし タオルを傷口に当て
「 早く 早く 」 と 車を呼び病院に行くのを目の当たりに見ました。

その後へ兵を満載した二台のトラックが入って来ました。
其の中の或る若い少尉 ( 安田少尉 )
血だらけのズボンをタオルで結んで 足を引きずるように下りて来ました。

何処か襲撃して負傷したらしいが
「 成功 成功 」 と悲壮な叫びをあげていました。


2.26事件の謎  新人物往来社
歩兵第一聯隊機関銃隊 上等兵  町田文平
『 中隊長留守中非常呼集 』 から