あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

2023年02月06日 06時02分35秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

しばらくでした。いつこられたんですか。
二時間前に着いたばかりですよ
大蔵さん、さっき明治神宮にお参りしましたが、お月様が出ましてね
月がですか
ちょうど参拝し終わったとき、雲の切れ目からきれいな月がのぞいたんですよ
いつまで滞在の予定ですか
明日、お世話になった方々に転任の挨拶をしたいと思っています
それが終わり次第、な るべく早く赴任する予定です
じゃ、これでもう会えないかも知れませんね
時に大蔵さん、今日本で一番悪い奴はだれですか
永田鉄山ですよ
やっぱりそうでしょうなァ
台湾に行かれたら、生きのいいバナナをたくさん送って下さい
承知しました うんと送りますから、みなで食べて下さい
なるべく早く内地に帰るようにして下さい じゃ、これで失礼します
あなたの家に、深ゴムの靴が一足預けてありましたね
明日の朝早く、奥さんに持ってきて頂くよう頼んで下さい
そんな靴があったんですか
奥さんが知っています
承知しました
いい靴があるじゃありませんか
いや、あの深ゴムの方が足にピッタリ合って、しまりがいいんですよ
わかりました お休みなさい
・・・今日本で一番悪い奴はだれですか 

事件ノ前夜 (十一日)
私方ニ泊ツタ際、
相澤中佐ハ
「 東京ハ何ウデスカ 」
ト尋ネマスカラ、
「 別ニ變リハアリマセヌ 」
ト答ヘマシタ。

処ガ此一言ノ返事ガ、
相澤中佐ヲシテ永田少将ヲ殺サシメル
一ツノ動機トナツタ様デアリマス。
・・・西田税


相澤三郎 
( 永田軍務局長刺殺事件 )
相澤中佐事件

目次

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「 永田鐵山のことですか 」 
・ 「 時に大蔵さん、今日本で一番惡い奴はだれですか 」 
・ 
「 年寄りから、先ですよ 」 
 
・ 
昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 1 
・ 
昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 2 

・ 國體明徴と相澤中佐事件 
・ 永田軍務局長刺殺事件 
・ 
永田伏誅ノ眞相 

・ 軍務局長室 (1) 相澤三郎中佐 「 逆賊永田に天誅を加へて來ました 」 
・ 軍務局長室 (2) 山田長三郎大佐 「 軍事課長が來ないので、円卓の傍を通って軍事課長室に入る 」 
・ 軍務局長室 (3) 新見英夫大佐 「 抜刀を大上段に構へ局長と向ひ合っていた 」 
・ 軍務局長室 (4) 橋本群大佐 「 扉を一寸開けて局長室を覗くと、軍刀の閃きが見えた 」 
・ 軍務局長室 (5) 森田範正大佐 「 局長室で椅子を動かす様な音がした 」 
・ 軍務局長室 (6) 池田純久中佐 「 局長室が だいじ(大事) だ 」 
・ 
軍務局長室 (7) 軍属 金子伊八 「 片倉衷少佐が帽子を持って居りました 」 

 大御心 「 陸軍に如此珍事ありしは 誠に遺憾なり 」

・ 犯人は某中佐 
「 相澤さんが永田少将をやったよ 」
・ 
行動記 ・ 第一 「 ヨオシ俺が軍閥を倒してやる 」 
・ 佐々木二郎大尉の相澤中佐事件 

・ 相澤三郎中佐の追悼錄 

 
  相澤三郎 發 西田税

法務官訊問 『 被告人ガ入手シタ如何ナル物ガ殺害決意ニ刺戟ヲ与ヘタルカ 』 
・ 憲兵訊問調書 「 天誅を加へたり 」 

相澤中佐公判 ・ 西田税、澁川善助の戰略 
・ 満井佐吉中佐 ・ 特別弁護人に至る經緯 

・ 所謂 神懸かり問答 「 大悟徹底の境地に達したのであります 」 
・ 第一回公判 ・ 満井佐吉中佐の爆弾發言 
・ 
新聞報道 ・ 第一回公判開廷 『至尊絶對』 
・ 新聞報道 ・ 第三回公判 『永田鐵山は惡魔の總司令部 』
・ 『 相澤中佐公判廷に於ける陳述要旨 』
・・眞崎甚三郎大将
満井特別辯護人ノ證人申請

・ 
相澤三郎 ・上告趣意書 1
・ 相澤三郎 ・上告趣意書 2

・ 
判決 『 被告人を死刑に處す 』 

本朝のこと寸毫も罪惡なし 

「 ・・・・陸軍省における相澤中佐事件は、皇軍未曾有の不祥事であります。
本事件を單に殺人暴行という角度から見るのは、皮相の讒そしりをまぬかれません。
日本國民の使命に忠実に、ことに軍教育を受けた者のここに到達した事件でありまして、
遠く建國以來の歴史に、關聯を有する問題といわなければなりません。
したがつて、統帥の本義をはじめとして、
政治、經濟、民族の發展に關する根本問題にも触れるものがありまして、
實にその深刻にして眞摯なること、裁判史上空前の重大事件と申すべきであります・・・(下略) 」
・・・ 
注目すべき鵜沢博士の所論

絶對の境地
相澤中佐が 昭和一〇年正月に天誅を決意した頃のメモに、
『 かくすれば  かくなるものと  知りながら  已むに已まれぬ  大和魂 』
と 書き付けてあった
『 かくすれば  かくなるものと  知りながら 』
と 云ふことは、
理智から出た処の頭のよさを示すもので、
この俗智の境を越境した時に、
『 やむにやまれぬ大和魂  』
即ち まつろはぬ者 を討つ心、
天に代りて不義を討つ心 が生れてくるのである
この 境地に進むには俗智の人では出來ぬ
よほど透徹した 頭のよい人でないと出來ないのである
俗智小智でなく、
小我小欲を離れた大智大我の人でなくては 達成せらぬのである
・・相澤事件の真相 ( 菅原裕  著 )

まつろひ
祭る  祀る  に 由來し、
『 神を祭り、祖先を祀るときの心境であり、祖先をお祀りの所の心境を
私もなく、邪念もなく、全く之なし 』 の 無私の精神のこと  ・・皇魂から


判決 『 被告人を死刑に處す 』

2018年05月31日 09時02分10秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


相澤三郎中佐判決全文

陸軍省發表
( 昭和十一年五月九日 午後十一時三十分 )
相澤中佐の永田中将殺害事件は豫て第一師團軍法會議に於て審理中のところ、
今次の叛亂事件に關聯し一部判士の更迭を要するに至りたる結果、
審理を更新し 四月二十二日以來五回に亙り 公判を開廷せり。
しかして裁判長は本弁論は現下の情勢上安寧秩序を害し、
且事実上の利益を害する虞ありと認め、
公開を停めて審理し 五月七日判決を宣告せり。
なお 本判決に對し相澤中佐は五月八日陸軍高等軍法會議に上告を爲したり。
判決
宮城県仙台市東六番丁一番地  士族戸主
臺灣歩兵第一聯隊 ( 原所属 )
豫備役陸軍歩兵中佐  從五位勲四等
相澤三郎
明治二十二年九月九日生
右の者にたいする用兵器上官暴行殺人傷害被告事件に附、
當軍法會議は檢察官陸軍法務官島田朋三郎与審理を遂げ判決すること左の如し。
主文
被告人を死刑に處す
押収に係る軍刀一振は之を没収す
理由の要旨
被告人は明治三十六年九月仙台陸軍幼年學校に入校し、
逐次 陸軍中央幼年學校、陸軍士官學校の過程を終え、
同四十三年十二月 陸軍歩兵少尉に任ぜられ、
爾來各地に勤務し累進して
昭和八年八月 陸軍歩兵中佐に進級と同時に歩兵第四十一聯隊附に、
越えて同十年八月一日 臺灣歩兵第一聯隊附に補せられ、
未だ赴任するに至らずして同月二十三日待命仰附られ、
次で同年十月十一日豫備役仰付られたるが、
豫てより尊皇の念厚きものなるところ、
昭和四、五年頃よりわが國内外の情勢に關心を有し、當時の常態をもって思想混亂し、
政治經濟外交等万般の制度機構孰れも惡弊甚しく 皇國の前途憂慮すべきものありとし、
之が革正刷新、いわゆる昭和維新の要ありとし、
爾來同志として大岸頼好、大蔵榮一、西田税、村中孝次、磯部淺一等と相識るに及び、益々その信念を強め

同八年頃より昭和維新達成には先ず皇軍が國體原理に透徹し、
擧軍一体愈々皇運を扶翼し奉ることに邁進せざるべからざるに拘らず、
陸軍の情勢はこれに背戻するものありとしてその革正を斷行せざるべからずと思惟するに至りたるが、
同九年三月、當時陸軍少將永田鐵山の陸軍省軍務局長に就任後、前記同志の言説等により、
同局長をもってその職務上の地位を利用し、名を軍の統制に藉り、
昭和維新の運動を阻止するものと看做しいたる折柄、
同年十一月
當時陸軍歩兵大尉村中孝次 及び陸軍一等主計磯部淺一等が
叛亂陰謀の嫌疑に因り軍法會議において取調を受け、
次で 同十年四月停職處分に附せられるに及び、
同志の言説その頃入手せる、いわゆる怪文書の記事等により、
右は永田局長が同志將校等を陥害せんしする奸策に外ならずとなし、深くこれを憤慨し、
更に 同年七月十六日
任地福山氏において敎育總監真崎大將更迭の新聞記事を見るや、
平素崇拝敬慕せる同大將が敎育總監の地位を去るに至りては、
これまた永田局長の策動に基くものと推斷し、總監更迭の事情その他 陸軍の情勢を確めんと欲し
同月十八日上京し、
翌十九日に至り一応永田局長に面會して辭職勧告を試みることとし、
同日午後三時過ぎ頃 陸軍省軍務局長室において同局長に面接し、
近時 陸軍大臣の處置誤れるもの多く、
軍務局長は大臣の補佐官なれば責任を感じ辭職せられたき旨を求めたるが、
その辭職の意なきを察知し、
斯くて 同夜東京市渋谷区千駄ヶ谷における前記西田税方に宿泊し、
同人 及び 大蔵榮一等により 敎育總監更迭の經緯を聞き、
且 同月二十一日福山市に立ち歸りたる後、入手したる
前記村中孝次送附の敎育總監更迭事情要點と題する文章     リンク→教育総監更迭事情要点 ・村中孝次 
及び作成者發想者不明の軍閥重臣閥の大逆不逞と題する     リンク→軍閥重臣閥の大逆不逞 
いわゆる怪文書の記事を閲讀するに及び、                           リンク→ 昭和の安政大獄 
敎育總監真崎大將の更迭をもって永田局長等の策動により、
同大將の意思に反し敢行せられたるものにして、
本質においても亦手續き上においても、統帥權干犯なりとし
痛くこれを憤激するに至りたるところ、
偶々 同年八月一日 臺灣歩兵第一聯隊附に轉補せられ、
翌二日 前記村中孝次、磯部淺一 兩人の作成に係る
肅軍に關する意見書と題する文章を入手閲讀し、     リンク→粛軍に関する意見書 < 配布版 > 
一途に永田局長をもって元老、財閥、新官僚等と欵かんを通じ、
昭和維新の氣運を彈壓阻止し、皇軍を蠧とつ害するものなりと思惟し、
このまま臺灣に赴任するに忍び難く、
この際自己の執るべき途は永田局長を殪たおすの一あるのみと信じ、
遂に同局長を殺害せんことを決意するに至り、
同月十日 福山市を出發し翌十一日東京に到着したるも、
なお永田局長の更迭等情勢の變化に一縷の望みを嘱
しくし、
同夜前記西田税方に投宿し、同人及び來合せたる大蔵榮一大尉と會談したる末、    リンク→今日本で一番悪い奴はだれですか 
自己の期待するが如き情勢の變化なきことを知り、
茲に愈々 永田局長殺害の最後の決意をかため、
翌十二日朝 西田方を立ち出で
同日午前九時三十分頃陸軍省に至り、同省整備局長室に立寄り、
かつて自己が士官學校に在勤當時 同校生徒隊長たりし同局長山岡中將に面會し
對談中、給仕を遣わして永田局長の在室を確めたる上、
同九時四十五分頃同省軍務局長室に到り、
直ちに佩おびいたる自己所有の軍刀を抜き、同室中央の事務用机を隔て
來訪中の東京憲兵隊長陸軍憲兵大佐新見英夫と相對し居たる
永田局長の左側身邊に急遽無言のまま肉薄したるところ、
同局長がこれに氣附き、新見大佐の傍に避けたるより、
同局長の背後に第一刀を加え、同部に斬付け、
次で同局長が隣室に通ずる扉まで遁れたるを追躡じょうし、
その背後を軍刀にて突き刺し、
さらに同局長が應接用円机の側に到り 倒るゝや、
その頭部に斬付、
因って
局長の背後に 長さ九・五センチ深さ一センチ 及び長さ六センチ、深さ十三センチ、
左側頸部に長さ十四、五センチ、深さ四、五センチ
の 切創外 數個の創傷を負わしめ、
右刀創による脱血により
同局長を 同日午前十一時三十分死亡するに至らしめ、
もって殺害の目的を達し、
なお 前記の如く永田局長の背部に第一刀を加えんとしたる際、
前示新見大佐がこれを阻止せんとし、被告人の腰部に抱き付かんとしたるにより、
右第一刀を以て永田局長の背部を斬ると同時に
新見大佐の上官たることを認識せずして 同大佐の左上膊部に斬付け、
因って
同部に長さ約十五センチ、幅約四センチ、深さ骨に達する切創を負わしめたるものなり。

法律に照すに、
被告人の判示所爲中、
永田少將に對し兵器を用いて暴行を爲したる點は
陸軍刑法第六十二條第二號に、
同人を殺したる點は刑法第百九十九條に、
新見大佐の上官たることを認識せずして同人の身體を傷害したる點は
同法第二百四條に各該當するところ、
右、用兵器上官暴行殺人 及び傷害は一箇の行爲にして數箇の罪名に触るゝものなるを以て、
同法第五十四條第一項前段第十條により その最も重き殺人罪の刑に從い、
その所定刑中死刑を選擇して處斷すべく、
押収に掛る軍刀一振は本件犯行に供したる物にして、被告人以外の者に屬せざるを以て
同法第十九條第一項第二號第二項により これを没収すべきものとす。
よって 主文の如く判決す。


相澤三郎 ・ 上告趣意書 1

2018年05月30日 09時20分05秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

相澤事件についての陸軍省の第一回公式發表 ( 昭和十年八月十二日午後四時三十分 )
には
「 凶行の動機は未だ審らかならざるも、
 永田中將に關する誤れる巷説を妄信したる結果なるが如し 」

と 述べられたこと、・・・リンク→
新聞報道・犯人は相澤中佐 
また相澤は斬殺後新任地臺灣に赴任する豫定だったこと、
さらに
「 今回の行賞の方は未だ不明であります 」
という 第一回の取調での應答などからして、
當時から相澤の精神狀態に疑問を持つ人がかなりいた。
それに加えて裁判で弁護人の一部に
相澤の精神の正常ならざることを理由に無罪とする法廷戰術が唱えられたりして、
愈々この疑問は流布された。
しかし 『 陸軍省發表 』 の執筆者が當時の軍事課高級課員武藤章中佐であること、
臺灣へ赴任することも、・・・
「 今回の行賞 」 とは満洲事變 ( 相澤は満洲には出征しんかったが、彼の所屬していた第八師團は出征した )
の恩賞を言っているのだと、・・・色々と問題があるが、
これらの諸説、批判に相澤自ら答えているのが、
この遺書ともいうべき 『 上告趣意書 』 である。
・・・現代史資料23 国家主義運動3 資料解説 から


相澤三郎

上告書
豫備役陸軍歩兵中佐 相澤三郎
(昭和十一年五月三十日) 

上告の目的
建國精神を明徴し臣節を全くせんとするにあり

上告趣意書
私は宗教も哲学も其の他の学問も甚だ淺薄であることを自覺するのであります
然し人生観、宇宙観、社會観等漸次實父より受けました倫理観、
殊に 天皇信仰に關しては思を深くし、
幼年、靑年、壯年、老年期と進みつつも一貫蓄積したる思想と之に基く活動とは
次第に白熱化するものがありました
而して 白熱に至る情態、環境程度等は大體に於て世評に委ねますが、
兎に角最近は神に捧げて然も孤獨なる楽みに云ふべからざる感謝の涙をしぼったものでありました
彼の福山在勤中毎朝の如く大勝に跨って蘆田川の中州堤防上を疾駆し、
其の突端にて乗馬大勝に秣飼ひつつ靜かに淸澄たる氣分に祈りしものは果して何でありましたか、
決して 「吾思ふ故に吾あり」 では物足りませんで 「神を信ずる故に吾あり」 否もっと切實に
「神の御側に吾あり」 の祈りでありました
私の昼夜通して人知れず祈りました露はれは、唱歌となって發しました
此の唱歌が私の何を發露して居るかは私の家族共のみが獨り少しづつ感じたことと思ひます
而して 此の境涯に明らかに進みましたのは
昭和九年春、中耳炎より疽毒を併發して重態になりました時分から、
或る時暗示のもとに人知れず心の中に潜めて來たものであります
私の切なる祈りに堪へかねてでありましょう、
私の妻に時々 「あなたは初めから獨りで居ったらよかった」 と繰り返されました
此の可憐な愛情に胸を張り裂く懊を抑へつつ之を押し切って唯々邁進し、
毎朝の如くに蘆田川中州突堤端に立ったのでありました
福山聯隊將校集會所にて昭和十年春西郷重徳閣下と井上淸純閣下とが御出で下さいまして、
吾等は 明治天皇の御聖徳を拝聽したことがありました
此の時は思わず両閣下と共に感迫って泣いたことも心の中に潜めつつあった一事の発發露でありました
然し 思想に隔りある將校團員には何の態度が御解りにならなかったと思ひます
將校團にては神を信ずる故に吾ありの叫に關して全く無關心の將校のみの様でありましたから、
不思議位に思はれしものと恥かしくありました
私は時には鬱積したる赤誠を以て徹底的に將校團員に職務上或は修養上に關し警告を廔々重ねましたが、
奇狂赤坊等の辭を冠せられ歯牙にさへかけて呉れませんでした一笑に葬り去らるゝのみならず、
却って危險視せられまして、靑年訓練簡閲點呼等には其の職務は一回も担ふたことを得ませんでした
私は南洲の天を相手にせよと申されました遺訓も能く解するばかりでなく、
靑年將校時代から常に此の眞意を心に修めやしなひつつありましたが、
生物の生存慾に妨げられつつありまして、
吾を顧みるとき一日として神に完全に答へ兼ね相濟まざるの苛責を持續しつつあった者であります
勿論人間と雖生物の一種でありまして、
其の本能たる生存感がつき纏ふなやみは享有するものなることは否定することは出來ませんが、
生存慾にとどまり玆に重點を置けば社會のことが律せらるゝこととなりますと、
現在の如く人類は行き詰まると思われます
即ち 人生の目的はどこまでも道徳倫理的に無窮に活動嚮上することに目標を明確にしなければなりませぬ
然るにややもすれば此の確乎不抜なるものがあることを忘れがちなことは、
誠に情けない現在までの人類吾等であると思ひます
私は此の人生の目的を確認する時に於て
吾等臣民は常に悠久に進歩發展し來った種族であることを有難く思ひます
而して 多民族の如く生存慾の爲めにあらゆる方便に浮身をやつして萍泛常なく、
絶へず爭闘を續けつつあるものより速かに雷同せらるることなく迷ふことなく、
浸々として一歩一歩過去より現在に、現在より未來に淸淨化し
以て神の課題を一歩一歩解決しつつ行くことを希ひてやみません
神の課題に進む原動力は正義感であります
此の正義感は人間行動の準縄でありまして、玆に 天皇信仰の益々確乎たるものを把握するに至りました
即ち 建國精神、萬世一系皇統無窮等凡てに於て昭々たる歴史と尊き御實相とは
現下地球上に於ける人類の等しく欽迎するところでありまして、
益々吾等臣民は世界萬民の大神の御身代たる 陛下の大御心に洽く潤ふことが
神より受けし課題の解決の第一前提だと思はれます
私は此の奉公守護の念願をなしつつ昭和二年八月少佐に進級の光榮を坦ひ、
體操學校服務として東京に在住することとなりました
而して 此の頃より社會の實相殊に農民の窮乏等を目撃するに至りましては、
嘗て幼年學校漢文教課中に教はりました菅公の君冨春秋臣漸老恩無涯報猶遅の詩に
云ふべからざる臣情を袖に絞ったのでありました
尚時には頼三樹等の獄中の詩等を誦し、
荒涼たる沙漠を狂人となって一物も身に纏ふことなく眞理を求めつつ、
神を求めつつ力走せざればやまざる如き感慨を起したことも再々でありまして、
早晩身を挺して大君の御爲め盡さなければならない時が到來するのではないかとの
暗示を胸間な把握する様になりました
是れ昭和維新運動と全く無關係の時既に吾獨りの懊みでありました
私の昭和維新とは理論の究明と社會の實相とによって理性に重點準拠したものでありません
勿論是等客観的の智識は皆無ではありませんでしたが、
其の源は 天皇信仰の主観が遂に從來一意専心軍務につとめつつありし私が、
我等同胞内に物質精神界を通して大御心に浴し得ざる不幸の者が漸次増加するに反し、
數ならぬ身を以て安住することが、
どーしても相濟まない様な懊みが漸次真劔化して來たのでありました
私は両親の訓めのみならず、佛道により殊の外殺生を嫌ひし者であります
而して 人と議論口論等は殆んどやったことはない者であります
而して 身を挺すると云ふことは決してクーデターとか云ふ殺伐なことを意味したものでありません
勿論 昭和六年十月には某宮殿下の令旨と某元帥の指令とあった由は、
明かに天意のある實證と解し誤りたることもありましたが
(決して、某中佐の一本の電報にて出京したものであると檢察官殿は論告の際述べられましたが、違ひます)
彼の昭和七年三月私記中に於て檢察官殿は、
歩兵學校召集佐官中無斷靑森に歸国して満洲に出征することを願ひ出でたるにあらずやと
思ふて居られましたが、 是は決してそーではありませんで、
召集佐官中三月、十月事件の眞相を知るに及んで且つ又軍民一體に關し甚だ憂慮に堪へざるものありましたので、
從來心に潜め養ひつつあった思想が遂に思案の結果、
軍職を返上して僧侶となり諸國を行脚して懺悔善導せんと堅き決心をなした爲めでありました
斯くの如き私は心に常に恥かしい話で恐懼な考へかもしれませんが絶えず 
御側に御仕へしある如き観念を以て軍職に及ばずながら努めて參りましたもので、
此の時代に至っては相濟まない、申譯ない、
と自己の良心に益々呵責が募って 至上の御事を考へ奉る時に此の事で一杯になるのでありました
私の精神は他人の筆舌に於て申上げ得ざる程微細に動いたのであります
故に若い友人と交を結ぶ様になりましても、自ら議論は勿論意見さへ述べることは欲しませんでした
又若い友人の内には純情に徹底しない人もありましたかも知れませんが、
それよりも、もっともっと到底私の及ばない、純眞の人もありまして、
私は此等の純情に接するは別に維新の方法とか或は理論とか云ふ研究修養等の敎化的でなく、
前記の通り沙漠を焼きつく想を胸に抑へつつ
裸體で泣きながら神を求めつつ走る眞情のもだえの驛場上の同じ旅人でありました
即ち信仰の交はりでありました
それは 天皇信仰でありました
斯くの如くにして信仰上私は実實に絶大なる責任を自然に深く感ずる様になりまして
其の進路上に横はる障碍は何物をも突破する様々な、せなければならない様な白熱化が生じました
而して 其の障碍が偶々本事件だったのでありました
即ち本件が統帥權干犯なりと信じました時は、是に身を挺身するのが拙者相澤の神より授かりし職分と思ひました
それでありますから此の事を解決せずして赴任することは良心の苛責に堪へません、
神の御前に卑怯の極印を与へらるゝのでありまして、
今迄幼少の時より實父の敎訓を遵守して參りました拙者相澤が安佚生存慾のため樂な職務に天命を排して、
それを看過して此の有難過ぎる命 即ち 物質上豊かならんと考へらるゝ職務に此儘就くは、
恰も進で艱難にあたりつつ來りし尊きものを一切放棄し、玆に信仰の活動より生存慾の餓鬼道に陥るものにして、
自刃する以上の罪惡なりと深刻なる思索を經、且つ又過去に於て幾度か戰場に屍を晒すべく望みましたが、
武運つたなく未だ一回も満洲の地さへ踏んだことのないのは、
今日を神が御与へ下さる爲めであると信じ此の事が拙者相澤の天職なりと確信しました
然も陸軍上層部の各種の姑息掩蔽妥協等の事實、殊に政治的野心のための幕僚の運動、
軍隊の實情の低下等あらゆる點を想起し、
玆に多年御側に御仕へしある観念は遂に結局此の統帥權干犯は恰も絶大なる魔力に擁せられて、
永田將軍が猛虎の勢力に乗じ、狂態以て其の先頭に禁闕に迫らんとされし此の重大時期に際し、
辱くも 拙者相澤が御守衛の任に當たり居る光榮を担ひありしを以て
勇躍して魔力の中心を一刀の下に潰滅せしめんとするの境涯なのでありました
決して若い友人、其の他の文章に深く共鳴したので實行したのではありません
決行は勿論客観的には以上のことが加味して決行の動機を起したことは是認しますが、
拙者相澤の主観と申しますか思想と申しますか信念と申しますか、
夫は他人の批判に委ねますが、
其の根底には生來より蓄積して來ました 天皇信仰より來りたるものでありまして、
殊に最近は漸次 「神を信ずるが故に吾あり」
との境涯が昭和九年春大病後より深刻に不抜のものが心底に白熱化し來りましたためと自分で思ひますが、
決して其の間の消息は十分他人に説明できません
永田將軍を殺害して臺灣に赴任すると思ふとは一兵卒と雖考へざることなりと檢察官殿は申されましたが、
私は此の事を決行しないで赴任不可能でありまして、
此の事決行後に於て始めて赴任することは神の御前に於ても耻ぢざるに至ったのでありまして、
この一點に於ても一般の人は勿論、檢察官でさへ御了解下さることを得ませんでありますから、
御判斷を御願ひ申すのが無理だと思ひます
然し決してそーでないのでありますから、
故意に頑張るのでありませんから本心を屈て諾々たることは出來ません
前に申上げました通り私は、 殺伐な人間でないのでありますが、
全く世人の夢にも考へないことを決行しました心境 は 幾ら説明申上げても
御了解なさるる人は唯私の尊敬する友人
----------------等が私の眞情を了解して下された位かとも思われます
陛下の御爲めに賊を亡ぼす以上の道徳はありません
而して 大賊は常にあるものではありません
之を退治する境涯な置かれたる人生の活動は無上の光榮であります
陛下の御使命を亡ぼすものは外にありません、御側に近き者に偶々あります、
宦官は獅子心中の虫であります、
外敵は防ぎ易く、御側に近い賊は斷ちがたくあると思ひます
どーして此の様な全く性格に反したことを平氣で決行したかと申しますれば、
夫は信仰が導て呉れたのであります
最近徹底して天地創造の大神の御身代は 陛下にあらせらるゝこと確乎把握しました
其の根底を聊か申上げます
扨 此の地球の生成中に吾等人類は餘程遅れて生存の神命を授かったものと思われます
而して 史上に人跡を止めましてから僅かに六七千年位にしかならない様であります
其の優良人種は中央亜細亜附近に發育して夫れが東西に進んだ様に思はれます
即ち 天孫民族は多民族と異なり生存慾のみに滞ることなく神の課題を把握しつつ
孜々として道徳的進化發展に精進しつつ遂に萬里の東進、
玆に東海を開拓されました偉業は神意に適ひ、
今玆に尊き御實體を拝することを得まして正に神國と唯々申上ぐるの外はないのであります
神國とは神様の御國と云ふのでは意味は不十分だと思ひます
即ち 神の御命のまにまに進化發展し參りました、神意に適ふ御國と云ふことに思ひます
恭しく惟みまするに皇國の成立、建國の精神、萬世一系、
君臣の分定まり、君臣父子の情、四海同胞大御心は神勅、
而して 臣民は及ばずながら生存慾のみに滞ることなく、
養生以て奉仕向上し來りました眞に神格を有する皇國一體は、
現下世界を擧げて自他共に地球上唯一絶對と信ずるに立ち至りつつありますこしは、
深く深く心に相互に刻みたいのは實に私の切望であります
今尚又暫く 世界人類發達の過去竝に現在を靜観しますれば、
其の大勢は殊に文化に誇る欧米人種に於ては生存慾に滞ること多く、
其の文化は従って生存競爭の具に専ら供せらるゝが如き悽惨狀を呈し、
遂に此の傾向は世界を風靡し最近は地上、地中、海上、海中は勿論空中を利用征服し、
瓦斯、毒瓦斯のみならず、光線を殺人にさえ試みるに至りましたことは是れ決して神の課題にありませんで、
正に是れ人類發展途上の一脱線なりと斷言致します
又一方生存慾の一現象として冨を貪り享樂を欲する關係上、
貧富の差の現象に各種の間隙を生じまして、
玆に經濟の逼迫を招來し、
爲に生存慾の強烈なる爭闘は遂に共産共存せんとする妥協點を志して其の牙城、
正に世界人類の脅威となるに至りつつありまして、
全く欧米先進民族と稱する各人種の現狀は
人類末期近き爛熟時代に到達したるものにあれずやと一應思はせられます
然し 人間はさの様なくだらないものとして神は生命を人生に課題せられませんと確くと信じます
玆に於て建國の御精神と幾多の難關を突破して今日に至りました命脈、
神業守護の遺跡を昭々斷乎把握顯彰することが 私共の最も緊要なる責務と信じます
抑々前述の把握顯彰は文武官共に思想の根底をなすものでありますから、
何れの担當すべき領域に屬すると限定すべきものでありません
然し 一國文教の中樞たる文部は甚大なる責任を世界
否 宇宙に負ふべきものと信じますが、何の有様でしょう
柳澤正樹著皇道345に於て左のことが記されてあります
「大學は國家の須要なる學術の理論及び應用を享受し竝に其蘊億を研究するを以て目的とし、
兼て人格の陶治及國家思想の涵養に留意すべきものとす」 とは大學令第一條の示すところである
然るに今やこの大学は殆んど赤化運動の源となりつつあり、
清浄なるべき学界を騒がすこと再三ならず、これを聞くに至っては慨然たらざるを得ない
世にも稀なる国士的典型なりし九州帝国大学教授河村幹雄博士は遂に其の志業を遂げずして逝いた
博士は 「新尊皇攘夷論」 の中に次ぎの如く語って居る、
「設備完全、経費潤沢、学生に教授に一国の人材を網羅して居る大学・・・・・・
実に一国文教の中心であるべき筈の最高学府から
国体を破壊し国家の基礎を覆さんと企図する様な不埒なる者が続出して来ると云ふ奇怪なる事実は
一体どーしたのであります・・・・・・・の極端なる実行、
共産党と手を聯ね実行運動に関して捕はるる者は百人中一人位の少数でありますが、
然しそー云ふ連中と同じ思想を持って居るものはざらにあります
そーゆふ連中が帝国大学から出て、行政官になり司法官になり教育者にもなって行くのであります
私が確実に知った範囲でも帝国大学から出て多年帝国政府の官吏として服務してゐる人にして
共産党の人達と思想の全く同じ人が沢山あります」
昨年起りました美濃部博士問題、
或は統帥権干犯問題等が上層部此等には何等の衝動をも与ふることなく、
益々安寧秩序或は統制の美名の下に却って其の牙城を鞏固になさんとする傾向あるは、
其の根底を矢張り生存慾の滞る為めの活動と存じます
是れ世界を風靡する魔力によって我吾天孫民族の一部も亦侵されつつあることを否定することは出来ません
斯くの如くして天孫民族も今や上層階級の一部が強烈なる皇国破壊に努力しつつあるものと悲しまざるを得ません
此の魔力の根底は勿論思想にあります
而して たとひ皇室を否定せんとする思想を持つものであっても口に緘して語らず
唯漸次名実共に天皇機関説をなして憚らないで、
陰然勢力を扶植しつつある有様は決して皇国進展の常態ではありません
一時的現象になって終末をつけることを祈ります
之が為め我等天孫民族は緊褌一番建国精神を服膺し、祖先の偉業を継承し、人類の課題達成に向ひ、
中途挫折放棄潰滅することなきを祈願して止まざる次第であります
尚 頁を分ちて要点を詳述します
第一 統制に就て
統帥権を確立せずして統制を専らせんとさるることは、皇軍を破壊することと思ひます
即ち統制とは方法でありますから、方法は目的を明らかにしなければ方法は確立致しません
目的を確立する為めには、目的を生じる原理本源に立脚しなければなりませんと思はれます
此の際は是非国体原理に基き其の実の上に統制せらるるべきものであります
方法を先に帰納せんとすることは不可能であります
砂上の楼閣であります
若し私の信ずる如く本事件が統帥権干犯でありましたならば、
夫を不問に付して幾ら統制し、軍を形の上に於て整ひても何かの機械に誠に脆いものと思はれます
何故夫に非常に恐れるかと申しますと、
神国は神の課題によって無窮に道徳的に発展するのでありますから、悠久に大義名分を立てます
従って大義名分を不問に付し然も之に悖って皇国が進展すると云ふことは、天人共に承知しません
何時か必ず大義に立脚して復古せられます
故に若し本事件に於て名分上不可なることがあって復古する様な時期が来ましたらば、
之は皇軍のみならず皇国の為め実に由々しき問題を招来するものと思はれてなりません
外国は此の事を不問にします、即ち目的精神が常に生存慾に止まるからであります
其の結果は国は亡びて、代は変っても人民は生存に都合よくあれば問題にしませんからであります
呉れぐれも此の点を御照鑑下さいまして誠に恐懼でありますが凡ての私情を滅却せられて、
唯々 陛下の御為め神に誓って神聖なる如くなし下され、皇国に御尽し下さらんことを願ひます
尚 統制に関聯して横の連絡は不可なりと申さるる方がありますが、
縦と云横と云ひみな目的達成の手段に過ぎませんから、其目的によって十様と思はれます
例へば統帥の大綱の如きは縦の大道でありまして、此の大道中に軍は戦闘を以て帰順となすと云ふところで、
縦横十文字少しも間隙なき如く一致協力するため、個人と云はず、部隊と云はず、心身戦闘法等を自力、
他力、あらゆる手段方法によって精練せられなければならないと思ひます
而して 其の真情を究明することなくして禁止することは、劃一主義の弊に陥り、
他国が其の国体に基きて軍隊を養ひつつある精神に同化せらるることとなり、
遂には皇軍の精神教育に甚大なる矛盾を来すことになりはせぬかと考へられます
一時の状勢に眩惑して或る方便を無造作に用ひらるることは、
将来のっぴきならぬ場面に到達しはせぬかとも考へられます
大正二年の勅裁を経たる陸軍省部規定の如き、
或は外国と不平等条約撤廃の目的を以て国体を無視して急遽作製せられました現行法律等が、
今や国基を覆さんとする場面に到着したるも、依然として唯々識者の焦心に止まり、
蕩々として外国人の踏み来りし魔力の轍に身を投ぜんとするに等しき直面にすら、
どなたも、どーすることもできないことは誠に誠に陛下に申訳ないことと悲痛の極みであります
尚附言致します
夫は某は上の人は「ロボット」であると歎ぜられます
又他の某は縦の条うより通ぜよと申されます
全く其の通りで、上の方が 「ロボット」 の時もありましょーし、そーでない時もありましょーが、
是は人間だから当然のことと思ひます
故に歴代の 天皇が鐘を懸けて民訴を求められたり、直言を求められたり、
直諫を求められたりする御話は再々であります
而して 欽定憲法に於ても明かに其の通り御示し下さってあります
是れ人情の弱点等で縦のみに行かないことがあります
丁度戦場に於ては独断、専行の様なものと同じことと思ひます
手段方法と云ふものは縦横十文字だと思ひます
此のことは吾等臣民は道徳的に活動するのでありますから不思議でも不法でもなく、
君臣一体の有難き大御心に溶合すれば問題にすることさへ何等かの滞りでないかと思はれます
漸次其の如き障壁をとり除くのは現在吾等臣民の道徳的進歩上の一つの問題でないかと思はれます
第二
明治維新は二十年の歳月を要したり
又幾多の犠牲を要したり
未だ時機にあらず、時機到来せば恰も 「オデキ」 の破るる如く容易に顕現せらるるものなりと申されます
此事について申上げます
三百年の徳川幕府の基礎は一朝にして動かないことは能く承知してゐます
又現下の社会機構が余程根強ひものがありまして、
到底徳川幕府の末期夫れ以上強固なものがあることも頷かれますから、
億兆一人と雖も、所を得るに至るまで整ふには二十年以上かも知れません
然し玆に考へなければならないことは、
世界の大勢は日本国内に於ても相当欧米流に上下の軋轢は深刻となりました
是は生存慾に基くものと、全く信仰より来るもの等各種の思想に於て、
革新維新等の渇望は国外の事情に拍車づけられて急速に熾烈化しつつあります
此の社会情勢の推移する根源は、
第一に欧米人の逼迫せる経済活路を東洋に求めんとする彼等の野心が日本を亡ぼさんとする策謀と、
神を無視し生存慾に徹底せんとする赤化主義にして、我が建国精神を亡ぼさんとする策動であります
第二には全く自動的たる建国精神に基く信仰の勃興にして、
第一の他動的に比例して反撥するのみならず、絶大なるものあらん
然し赤化は生存慾にとどまるのでありますが、
其の極点を理想としてゐるものでありますから、之に乗ぜられない様に深甚の注意を必要とします
決して自己陶酔だけの観念では不可だと信じます
扨 昭和維新とは具体的のものを築きあげることに考へたならば、少々誤りと思はれます
尤も明治維新は政権返上でありましたから、其の準備に二十年かかりましたろーが、
大御心のまにまに正しく活動すると云ふのでありまして、
決して物を改めるのでなく、自らを改めるのでありますから、何の時間も空間もないのであります
此の本を改めて始めて色々な事業が順序を追ひ改められて行くのが、其後の活動であります
此の自らを改めることと、自らを改めた後ある目標に到達することとを混同して、
玆に時間を以て凡て客観的に見ることは甚だ危険だと思ひます
自分を能く赤裸々に見て鏡に照し得る精進心のない人には、真の社会の実相は不可解と存じます
誠に残念なことと毎度申し上げましたが、
統帥権干犯なりや否やの基になる省部規定を軍事機密なるの理由を以て不問にし、
其の結果国本を紊しますことは千載の遺痕を皇軍に刻するものでありまして、痛心に堪へません
いちど勅裁を経たるものを此儘消滅にでも致しましたならば、
完全に皇軍は外国思想によって成長し来った学界、官界、財閥等に蹂躙せらるることとなります
神を信仰しない人には斯の如き窮地に於て迷はれます、実に遺憾千万であります
若し此の事が今日の如く深入りせざる本件の当初、根本大佐の如く何物か懺悔せられ、
夫れが陸軍首脳部に及ぼしたのでありましたら、
実によく何等わだかまりも事故もなく首脳部の懺悔によって従来皇軍首脳部に於て行はれし大罪等も、
大赦の恩命を拝受し明朗なる皇軍の実体を顕現することを得たことと思はれます
誠に残念であります
勿論色々懺悔に困難なる理由もありましたろーが
陛下の御事を考へたならば潔ぎよく懺悔が出来たことだったと思ひます
返すがえすも私の祈願念願を無にされたのは残念でありました
惨たる現下皇軍の有様を見ては、無限の涙を絞るものであります
夢にも考へなかった斯の如き実に悲惨な結果とは、夢にも考へませんでしたが、
果して之れが神の使命として御使として拙者相沢の奉仕でありましたろーか
否神の使命を使したる拙者相沢の奉仕を妨げる悪魔の仕業であると信じます
永田将軍の英霊は千載の後まで悪魔になやまされます
此の悪魔は何でありましょうか、其の悪魔に躍るものは、--権力だと思ひます
感じ来りますと実に皇国の惨状目もあてられません、誰も 陛下の御共に泣かないのでしようか、
実に申訳ない次第であります
第三 我国は神国なれば混乱に陥ることなしと
勿論我国は神国でありますが、その神様は日本のみの神様でなくて天地創造の神であります
即ち天地創造の神様は人類は勿論、生物無生物に至るまで皆それぞれ使命を御授け下さいまして、
之に向ひ皆己を全くせんと活動しつつあります
唯人類には万物に長じたる使命をも御授け下さいまして
普通の生物に有し得ざる無窮に向上発展すべき理想をも御与へ下されました
此の理想の目標は決して生存慾を満たすことなく、無窮に活動して道徳的向上の完成にあります
尚言を換へて申せば、神を信じ漸次生物の慾求を脱却して神の子となりきるのであります
抑々神は人類の中に甲乙差別せられません
差ありと考ふるは吾思ふ故に吾あるからでありまして、此の自我を極め神を信ずる故に吾あり、
となるが、此の地球上人類の目標であります
所で神の子になりきると云ふのは、皆聖人になれと云ふのかと申しますと、
それは決してそーではありません
生死のみに屈托せず生存慾を脱却して正しく活動することに専らなることであります
各個、各個が自ら神を信じ自から以て他に及ぼすと云ふことであります
此の神の子となりきって自己の拡大を無窮に向上しますのは
世界に唯一なる我が 皇室の御側に完全に奉仕しました真粋の大和民族であります
何となれば我が 皇室は万世一系であらせらるることは千載に規定の事実でありまして、
養正世界宣布を建国の精神となされ、 君臣の分定まり、君は慈父の情を垂れ給ひ、
四海同胞として一視同仁、正に神の御前には何等差別ないものであるとの御意であります
即ち神の課題と申すのは別に不可思議なことがあるのではありません、
ちゃんと神代より 天皇が御示して下さいましたことが、天地創造の神の課題であります
故に吾等は正しきを養ひ常に 陛下の御前に奉仕しあるものと思ひ 陛下の勅の通り学び行ひ、
世界人類までも兄弟姉妹となし皆神の子となって
天皇陛下を親と崇め世界人類が一大家族の如くなるのが、目標であります
右の如くでありますから、全く我国は神の国即ち神様の御身代りの直接御指導下さる国と云ふのであります
然し決して外国は全く神の御国でないとは考へません
矢張り神様の国でありますが、日本とは異なった方面に任務を授かり、
物質、唯心両方面の文化を逐次我が国に輸出し、我が国の源を養ひ発展するに絶大の貢献したのであります
殊に近代欧州文明は実に世界の文化に貢献しました
云はば此の地球を一家に帰納すべく接近せしめた偉大なる功績は、
結局儼然として存せらるる我が 大君を中心家長として
万民等しく神の子となるに一致するべく努力したものであると思はれます
そーでありますから決して我国は神国であるから混乱に陥らないと云ふのではなく、
我国は神様が基礎を御定めになった国で、
欧米も神の国ではありますが、基礎に課題を完成する為めに種々貢献すべき国と云ふことであります
以上をよく考へれば、
今迄で敵であったと思ふて居たのは案外絶対無二の兄弟であることを覚える時はあると信じます
外国人已にそーであります
況や 陛下の御側に御仕へする吾等でありますから、速かに神を信じて尊皇絶対になって頂きたくあります
そーして生存慾より一歩前進し神の国に安じて御仕え下されたい、之が所謂自力更生であります
世界人類が此の更生期であります
若し日本人にして更生し得ざる時は世界人類は凡て更生し得ざるかも知れません
そーすると人類は最早地球上の末期ではないかと思はれます
決して人間には予言、予知することの機能を神は御与へになって居りませんから、不明であります
斯の如くにして神の御意に適ふ様に勤めなかったならば、其の先は全く不明であります
不明の先を勤めずして、希ふことは無理と思はれます
従って神の御国だから決して混乱にならぬと考ふるは一寸冒険だと思はれます
殊に生存慾に拘泥して利己主義に陥り他を願みることさへ不可能となりましたならば、
目下欧米の悪戦苦闘の努力に対し何物かを神に御与へになるかも知れません
神は至正公平であられます

相澤三郎 ・上申書 2 へ続く
現代史資料23 国家主義運動3 から


相澤三郎 ・上告趣意書 2

2018年05月29日 09時16分48秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

 相澤三郎
相澤三郎 ・上告趣意書 1 の続き

第四  信仰に就て
口は調法なものであります
縦ひ道鏡に問ひましても自分のは國體信念には他に一歩も譲らない者であると云うでありましょう
扨 信仰とは神を信じ之を心から其の信じた誠心に基て行ふことであります
神を信ずると云ひますことは天地自然の生成運行と人生の目的を明らかにし、
天地創造の原理に溶合し其の本源たる神を信じ、
正しく人生の目的に向って孜々として悠久に活動することが、神を信仰すると云ふのでありまして、
一歩一歩、生物の本能より進み歩み、神の御意と信じたことを踏み行ひ、
神の子として神の御側に御仕へすることであります
然し此の言は決して考の全般が現し得ません
信仰には絶對のものを明かに認めなければ信仰に入りません
殊に人間には終世生存慾が、つき纏ひますから、他力のみでは入れません
自ら絶對の前に立つだけの、勇気と純眞でなければなりません
是の信仰はだれにもあるもので、又誰にも消滅するものであります
生存慾がつき纏ふからであります
此の生存慾は神の命によって人生を得ました尊き絶對に發起を同じくしてありまして、
全く信仰と生存慾とは表と裏の様なものとも思はれます
結局口で申せば妙なものになりますが、生存慾の極が信仰になり、信仰が大無窮に何物かを念願します
信仰に進むに従って現實に於て此の生命を非常に大切にすることは生存慾に止まる人以上なものがあります
例へば一滴の血を流すことも親不孝どころでありません
尚夫れ以上相濟まざること眞剱に考へます
然し此の事が神の命なりと信じますれば、所謂大義親を滅する程のことも易々として決行します
此の決行は唯神を信じ神の敎を受けたことによって成立するものでありまして、人を相手にして居りませんから、
他人は想像する位で、到底其の境涯は不可解だと思はれます
説明は不可能であります
楠公、松陰、乃木將軍等殉死せられた境涯は想像する人によって皆異なると思ひます
前にも申しました様に信仰は絶對に始まります
從って自らは完全と思ふ人には信仰は起りません
而して 絶對に直面し得る人には必ず懺悔を伴ひます
即ち懺悔なき信仰は信仰の如何なるものか不明であります
誠にあはれな、あやしいものと思はれます
私は懺悔の極が永田将軍を一刀にしたのであります
神の御前に明かに直立し得ましたから決行したのであります
信仰は現在の如き末世狀態には抜くべからざる活動をなすものと思うはれます
玆に誤解せられがちなことがありますから申上げます
右の活動は唯々神の守護でありまして決して微塵も投機的な考に發するのでありません
玆に歴史を繙き見ますと色々英雄豪傑が其の時代を風靡し其の偉業は後世萬人の敬慕するところでありまして、
又後世之にあこがれ、之を夢にみる人のあることは慾望であります
其の慾望は私心の慾望か、或はそーでないと云ふ人がありましょーが、
非凡な力が其の人を左右し縦横に活動させます
此の活動は決して信仰に基きなされたるものでなく、
自ら頼み遂には神をも頼んで希望を満さんとするのであります
玆に於て信仰に基く活動と英傑の偉業とは其の間に一部符號することを認めますが、
明瞭に其の出發點を異にします
私は英傑の偉業は決して蔑視しませんばかりでなく尊敬致しますが、
決して私の決行は微塵も英雄的の思想に出發はないのであります
平凡なる相沢が何時までも平凡で唯々神の子として正しく一歩一歩前進し、
其の途上に於て辱くも此の大任を受けたのでありまして、
決行後は平凡に臺灣に赴任し一意専心軍務に奨励すると云ふのは、
此の間のことを御了解願ひたいのであります
而して 八月十二日の朝床の中で書いた私記にある通り、
若し私を罪人として御調べになるならば三月事件の調査をなされ、
其の調査が全く無根でありましたならば、御調べを願ひたいと書いてありますのは、
尚一歩退りぞいて私の意中を現して置たのでありましたが、
此の心境については最初より檢察官殿は勿論、豫審官殿も裁判長閣下も御尋ねになられませんでした
全く私の心境は相澤一人知るのみでありますから中々御了解を下さることは無理と思はれます
従って此度は此の皇軍の重大禍根は法廷に於てお裁きを受けよーと思ふて居ります
飽くまで大義の爲めに臣節を全くしようと思って及ばずながら勤めて居ります
若し皇國の眞面目顯現に徒に人がないとか云ふことは卑屈であります
非凡な人をのみ渇仰し、玆に偶々ヒットラー的の人が現はれて名分を無視して偉業を行ふに對し
易々として承認することがありましたなせば、とりかへしのつかない國體にしらずしらず變革せられます
非常に心配であります
尚玆に自らを弁解する一事はあります
夫れは一月二十五日齋藤内大臣閣下に手紙を差し上げんとしましたことであります
此の事は私はあの時は現在に於て皇國の眞面目を現前するには
此のことより他にないと思案の末であります
即ち陸軍部内に於て到底負ひきれぬ狀態を色々の方面に於て明かに至しまして、
遂に國内狀態推移の一大要點たる齋藤内大臣閣下の現下の下情を御認識して下さることが、
何より急務肝要と信じましたからであります
今になって考へて見ますれば、益々あの時に齋藤閣下に少しでも下情を御了承下されたならば、
此の様な悲惨事は起らなかったことと考へられまして實に殘念であります
希は下情を能く大臣閣下のみならず、至尊に御通し下されたいのであります
次に宗教と信仰について申上げます
宗教に信仰はつきものの様に考へる人がありますが、過去に於ては、そーでありましたろー
然し宗教は、天皇信仰に至るまでの過程であります
今玆に世界の二大宗教たる耶蘇教と佛敎とを見ましても各々哲學或は倫理等に重點を置て居りますが、
其の思想の根底には生死問題を中心としました個人完成であります
私は個人完成には別に不同意を唱へませんが個人完成の目的は何でありますか、
其の點に滞りがあったと思ひます
佛教、耶蘇教を信仰したと云ふ民族について其の活動の跡を見ますれば明かでありまして、
縦ひ全體の爲めと云ふことがありましても、其の目的の根底には自己の擴大性があることを認めます
唯独り我國 皇國の精神に於てのみ、
人類全體の完成に悠久無窮の御理想が昭々としてありまして、
玆に於て 尊皇絶對なるものが明かにあるのであります
よく宗教には國境なしと云うて我田引水をやる様でありますが、唯 天皇信仰にのみ國境はないのであります
人類には過去の闘爭より一歩確然として世界の凡てが仰ぐ神の御前に信仰を捧げて始めて
玆に平和なる世界一大家族將來の發端根底を生じます
尚神道でありますが、 尊皇絶對の内に溶合せらるゝものでありまして申上ぐることもありませんが、
唯從來御仁慈にあまへ 神人同各論をなすのが少し脱線しまして現下神道に幾つかの派があります
是れ神の子たることを忘れ自ら神たる思想であります
我國の神社は其の人を崇ふあまり神として祭りますが、幾ら崇い人でも矢張り臣下であります
悠久に臣下は臣下であります
よく死して後護國の神とならん、など考へる人は言葉が誤って居ります
然し是等のことは余り穿鑿するは不可であります
凡てが發達史上の過程でありまして、決して破壊するものではありません
釋迦もキリストも皆吾人現在の尊き恩人、師でありますから尊敬し一切を破壊することなく、凡て此等の上に、 
天皇信仰の世界を宣布せらるることが肝要と存じます
建國精神には破壊はありません
悠久に日一日と懺悔進化發展であります
其の御精神を實行するのであります
又人類の現實に於て中心がなければなりませんから、若し神の御身代を不用と考ふる者が外國にありましても、
昭々たる 天皇陛下によってのみ實現することを深く銘肝し、
我等臣民は此の有難き奉仕に關しては過去の罪惡は懺悔一掃し以て唯々信仰の誠を捧げなければなりませぬ
第五、自力更生に就て
先年東北地方の窮乏が社會の問題となるや當時の首相は自力更生の訓示をされました
此の自力更生に一言します
東北の窮乏に對し自力更生を望むことは名實共に自滅かと思はれます
或る統計によると明治三十年の農民の活動力は昭和八年には
米産に於て二倍、蚕業に於て五倍、其他副業に於て著しき活動をなして居ります
結果に於て負債は約三十倍に増加し、
反對に資本家は資本金に於て約三十倍に増加したることは何を意味しますか
御親政の御名の下に輔弼の責任を負はるゝ人の言としては尚一層切實なるものが必要と思はれます
天皇守護奉仕の責任は閣僚のみならず日本臣民凡ての負ふ所でありまして、
農民は農民で開拓し、其の他の者は之を援け、
殊に爲政者は正義の力を遺憾なく發揚運行しなければなりませぬ
各々が其の職に自力更生しなければなりません
幾度となく申しました様に、
信仰に基く活動は人生の目的でありまして此の間「おれが」を捄んでは零であります
ところが「おれが」を大抵發揮するものでありますから、明徳をけがし、
美擧は忽ち汚れ、一歩も進まないのみならず、
絶へず上下の爭の種を殘し、醸成されず、
目下自力更生は各方面に擡頭して参りましたが一層精進し決して客観的にのみ社会を見ることなく、
生存安住方便に滞ることなく、且つ又は神にもたよることなく、
どこまでも神を守護し奉ると云ふ所に不抜の根底を置かなければなりませぬ
次に天佑を保有すると云ふことを申上げます
是は神の御加護によって遂行せんとする時に可能であるのは、
決して自分の爲めの時に拝受することでありません
常に神の御前に奉仕せられ其の赤誠を以て統帥なされました東郷元帥ら於て、
始めて天佑を保有なされ 陛下に答へ奉ることを得るのであります
人徃徃安々と天佑を保有し得ると考へるは誤りで、建國精神を十分了解し得ざる爲め、
神様は日本のみを守り下さる位に考へるからだろーと思はれます
それでは迷信でありまして、眞の自力更生になりませぬ
第六 懺悔に就て
我等日本人は建國精神に基き邁進するのであります
天皇信仰であります
故に常々神前に懺悔を必要とします
若し建國以來此の精神を擧って實踐致しましたならば、此の世界はとーに一大團欒家族となったと思はれます
然るに過去に於ても現在に於ても大逆は絶へません
例へば南北朝時代は實に大逆と云ひますか、自己を満足せしむる上に於て徳川が表面をつくろい、
どれだけ 天皇を悩まし奉ったかは歴史によって明瞭であります
唯人智が其間に奸策を弄せしめて糊塗したに過ぎません
殊に最近は徳川が江戸にあって京都を苦しめ奉ったのとは違ひまして、御側に於て權力が資本家と通じ、
殊に赤誠を而も 陛下の御名の下に亡ぼさんとするは何たることでしょー
然も武人の大逆なりし三月事件等の如き皆知っても何等究明せらるゝことなく、
國家の凡ての人が其の重職を辱ふするを是認する、
此の現況、然も専ら軍の威信等に掩蔽、姑息、暴逆、遂に統帥權干犯事項を惹起しても、
遂に尚も體面を固守して臣民を圧壓迫することは、
全く建國以來曾て見ざる有様なり、玆に衷心懺悔の必要を絶叫致します
然るに人多くは 皇國日本を以て一部の尊き奉仕なされし古人を尊ぶあまり、
日本臣民の實情を忘れ、吾を忘れ、
或は悪思想の輸入となして外國人を呪ひ少しも自ら不可なりしことを
陛下の御前に懺悔することを知らざるは全く無耻漢としか思うはれません
何時かは後悔する時があろーと思ひます
後悔と懺悔とは違ひます
懺悔し信仰の上に行ふところに後悔はありません
吾等は一層此の危機を思被、自ら省みて人生目的の根底を深くし、人格を養はなければなりませぬ
現在吾等の人格程度では到底世界に 尊皇絶對を宣布すべき偉大なる任務を全し得ません
故に一日も空々ためことなく、滞ることなく、飜然懺悔信仰以て神の子にならなければなりませぬ
陛下に對し奉り全く申譯無のが現在吾等臣民だと思ひます
第七 昭和維新に就て
昭和維新とは昭和の御代に更生せよとの暗示を我等臣民が受けたことであります
昭和の更生は日本人のみでありません
世界人類凡ての更生であります
昭和維新は人類の向上發展上、生存慾に起因する數千年の歴史を有する人類の進化途上にある一段階に過ぎません
若し此の更生を肯ぜずして此の階段に留まれば、人類は行き詰り爛熟期にも末期にも撞著するからであります
其の撞著は第二世界大戰の惹起であります
扨 此階段は人生の進化途上の如何なる階段かと申せば、人生演繹の時代と申したくあります
宗教は大體そーであります
演繹と歸納とは陰陽の様なものであることも考へられます
即ち悠久臣下の過程より見ますれば、陰より陽に入る様なもので決して不可思議なことはないのであります
此の陽は次に踏むべき階段、是れ帰納であります
歸納とは纏まることで即ち一體となることであります
此の一體となることは決して方便でありません
今までの人類進化の跡を見ますれば、世界人類の殆んど總てが闘爭の繼續でありまして、
和睦は闘爭の一休みでありまして、
其の間に抜くべからざる自己發展が根柢をなして居りますから、つまり自らを他に及ぼし、
自らを中心として統一せんとしたのであります
歸納とは其の根柢を決して生存慾より生ずる自己擴大に置くのでありません
大宇宙の情態を從前よりは一層明かに正視し、
今迄は人生問題に於て「吾思ふ故に吾あり」と考へましたことを一段昇りまして、
「神を信ずる故に吾あり」との進化に立脚するのが此の次の階段であります
即ち森羅万象神の命によって存し、神の御下に人類は一大家族たらんとするものであります
凡てが神の子として活動するものであります
此の信念を人生の進化向上に置くこと夫れ即ち信仰の世界でありまして、
我々は、ここに一體になろーと云ふのが歸納と申したことがあります
我等は建國の精神を實踐することが信仰の世界になのであります
陛下の世界に君臨なさらなければならないのは、此の爲めであります
決して現在の撞著したる階段上に於て世界に君臨なさるることを観念するのは不可でありまして、
天皇の眞姿を誤り考へることはいけません
是は大事なことと思ひます
かりそめにも「我國 陛下が世界を統一するとか征服なさる」などの考を起すのは御徳を潰すものであります
現在の社會にのみ溺惑し天孫民族たることを忘れたる人には、
拙者相澤の擧を以て
「 苟も上官を殺害して臺灣に赴任するは現在の世の中に於て不可能ではないか、それは誤りでないか 」
と念を押されますが、
私の考へます眞の日本國の姿に於ては、之を行はずして赴任は不可能だと申上げるのも、
玆に根柢があるのであります
此の現在の社會主義の御方には到底御理解は不可能と思はれますが、
建國の御精神を、ほんとーに信仰なさるゝ方にはよく御了解が出来るものと思ひます
次ぎに、よく国家改造とか云ふ大胆の考の下に色々論議工夫せらるゝ人がありますが、
夫れは生存慾に立脚するものが多い様であります
つまり現在の窮乏行き詰りに一案を提げて腕を振はんとする様でありますから、
戰國ゝ時代の群雄のよーなもので、英雄思想が多分に含まれて居ります
即ち見よーによっては、私心があるとか云ふ非難が他方より生ずるのは當然でありまして、
此の範囲でありましたならば、勝てば官軍、敗るれば賊と云ふた、
明治維新の惨狀を現代に無意味に繰り返す如きものであると思ひます
某師團長閣下は部下上長官に、靑年將校の指導は理論と観念との究明を要すと訓められましたが、
閣下の思想程度も現代のある紛域より一歩も出て居られませんから、
到底大御心を部下に徹底せしむることは困難と思はれました
即ち理論観念を究明し、
尚進で 天皇信仰によってのみ始めて靑年將校の指導が可能であると喝破せられなかったことは、
心窃かに殘念でありました
其後同僚で然も陸軍大學出身の内々嗜の深い人と思って居った大隊長に意見を申しましたが、
到底了解せしむる譯に行きませんでした
私は此の次の階段は、 
天皇陛下を中心として世界人類の一大家族となり、
世界人類は四海同胞の實をあぐるであると申すのが此度の一階段であります
現下の社會状勢は客観的には大部其の必要を認めたよーですが、
現實までの關係は此の階級昇登には非常に難事と考へられるゝ傾もあります
是れ人間の弱点として利害關係から結果を先に考へ、活動が生命なることを忘るゝからであります
此の點に滞って遂に現在に安住するは誠に遺憾なことであります
殊に有識者に一層其の感を深くするのであります
其の一例でありますが、私の知人で秀才、殊に数學に非凡な頭脳を持った某大佐に一昨々年夏、
偶々其の所を訪ね隔意なき意見を交換しましたが、友人は現代の社會を能く能く承知して居りまして、
其の承知したる現代を基礎として生命を全くせんとする個人主義であります
其の牙城に不抜のものもあります
從て徹底したる社會主義とでも申したいのであります
優秀で國家の養殖に居る人に此の類の人が多數あることを想像せられます
天皇機關説を提げて社會に警鐘を亂打せられましても、
微塵も建國精神復興更生には彼等の間には何等の影響を及ぼさないのでありまして、
豈美濃部博士のみではないと思ひます
そこで社會機構の改革の如きことを案出し、社會に覺醒を促しても、
一方に賛成する人あれば反對に非常に脅威を感ずる人がありまして、
結局は池中で盥を廻す様なもので、幾らか、人生の進化途上に貢献することと思ひますが、
此の尊き神より授かりし、人生を其の方に使用活動するだけではすまないと思ひます
そこで、私は餘り其の方法等に深入りを致しませんでした
一應目を通すことがありましても、新聞を見る位なもので餘り心を止めません
唯々社會の實相を了得すること、尊い人によって眞理を究めることには甚大の努力を拂ひました
其の中には非凡なる英雄思想の人や、純真の人や、偉大な人や、智の人や、
畧の人や、色々の人に會し、
殊に將來國家の重要なる關係にある人等に接して自らを練りました
決して自己擴大の思想によったのではありません
人によっては私の或る一部分を捉へて、相澤には覇気があったと申さるゝ人があるかも知れませんが、
それは全部を御覧下されないための誤解であります

即ち方法等に關しては成るべく具體案に触れずにをりました
具體案に滞れば、迷に入り根本を失する恐あるからであります
故に若い友人に交はめにしましても、其の純情に心から尊敬し、自らを励ましたのみであります
悠久に活動するものに或る具體的のことをきめつけると云ふ思想は、
どーしても何かの滞りでないかと云ふ観念は、一貫して居るのであります

信仰の活動上に自然に現下文化途上にある人類吾等には必ず適時適當なる、
よい方法はあみ出せる様になると思ひます

私は信仰に入らざる人類に向っては、幾何の良策も亦一願の価値をなさざることは、
現實の社會の相であると思ひます

どーしても昭和の維新と云ふのは自力によって更生し「神を信ずる故に吾あり」の信仰に邁進し、
玆に暗より漸次にほのぼのと明け行くごとき、

境涯に於て、人生は悠久に進歩活動するものでありまして、
其の明け行く境涯は既に導かれたる神の仕業によって、

自力によって神の御意に適ふ如く厚生活動するにあると確信します
自然に明け行く空を見て人生も必ず自然に天佑を保有すること云ふは、
自己に留まった精神力を考へる迷信でありまして、

自然と云ふ眞意には無窮の活動を不問に附するは誤りと思ひます
尚言を換へて申せば、物質文化の行き詰りより、精神文化に更生することでありまして、
精神文化の目標は信仰であります

信仰の時代に世界人類の貢献すべき活動が人生進化途上現下に於て直面したこと、
それが昭和維新と申し上げたいのであります

精神文化と云ふても何も変わったことでありません
一歩一歩正しく實行するところに一歩一歩信仰を深くし、少しづつ神の御側に近づくのであります
其の間に現在科學を以て推し計るべからざるエネルギーが次第に養成せられます
其の極点は太陽の如く白熱化して無窮とも申したきものがあります
つまり熱を覚へない所には信仰は燃へません
無窮に燃へんとするのが昭和維新の發端だと思ひます
各々持場持場にあって何を燃しても 陛下の御爲めになります
至誠であります
縦ひ全く世間を知らなくとも正しく淸く生命を全せば足ります
豈爲政者のみに止まりません
随時に神の存在を認識し、到る所に神の存在を認識し、
到る所に神を信仰するによって一歩一歩全體に進みます

希くば此の天理を妨ぐることない様になりたいと思ひます
尚私の昭和維新に關する希望を申上げます
一、
神と人類との間には信仰上何人の介在もないのでありますから、
神の御身代の 陛下と吾等臣民との間には
尠くとも速やかに大御心を完全に拝受することを願ひたくあります

大御心を拝受すると云ふのは、
決して現下の情態に於て一人と雖、所を得ようと云ふ具體的のことでありません

一寸誤れば下剋上的の思想と混じまして名分を濁しますから、言及しません
玆に其の要諦であります
即ち實狀下状をよく御照鑑を垂れ給ふて頂くことであります
陛下の御目にとまりましたなら、どなたと雖も、どんな苦しいことでも、
不平どころか死しても 陛下の萬歳を唱へ喜んで生を終へます

恰かも戰場の最後はそれであります
其の心境は即ち 天皇信仰でありまして、平常そこに行く唯一の手段であります
陛下は神の御身代りであらせられますからであります
故に更生に第一の要件は、 陛下が實情を御知り下さることであります
二、
次には、陛下を神として崇拝するのあまり、色々申し上げにくいことを内々にすることはいけません
是は人情ではありますが、玆が懺悔のしどころでありまして、一歩誤ると、 天皇の御徳を瀆すこととなります
御身代りを辱かしめ奉ることになります
陛下が加味の御身代であらせらるゝ爲には、
神の如く何でも大事なことは御照鑑を垂れ給ふのでありますが、
人格をもたせらるゝ 陛下であられますから、
臣下は神の御身代りとして御照鑑を必要となさるゝことは、必ず臣下のより言上しなければなりません

此の事を欠いては、 陛下は機關となります
信仰を破壊します
即ち、 天皇陛下を機關視しまして築きあげることは總て砂上の楼閣であります
築き上げることは、そー急がなくとも心配はありません
徳明なれば自然に現在の進化途上にある吾等は、大御心によって活動の目標は適時明かとなります
信仰を破壊しません
建國精神を宣布することに翼賛し奉ることを得ます
何とかして現在先づ第一に大義名分を明かにしたてものと思ひます
三、
次に今少し奉仕について具體的に申上げますれば、
先づ第一に人格より神格に
陛下になって戴くことに仕へ奉ることであります

養育扶育、補育、輔弼翼賛等の言葉其儘を奉仕奉ることが肝要であります
玆に九千萬凡てが、 陛下の御前に於て活動奉仕することになります
此の奉仕に吾等九千萬が凡て一致することになります
そー申しますと相澤は、こしゃくだ、そんなことはとーに上で、
誰も皆考へて居ると云ふ人がありましょーが、其の自我が大賊であります

例を擧げますれば、永田將軍は誠心誠意大臣閣下を補佐し、若し御採用にならなかったら、
あとはしかたがない、と云はれましたが、

玆が最も大事なことでありまして、永田將軍でさい其の行けんは皆通るものではありません
是が神に萬里隔つる人間だからであります 
仕方がないでなく(玆に下剋上と、永田閣下に御諫め申したところであります)一歩進んで踏み込んで、
懺悔なさるところであります

聡明なる智を以て、自ら足りなかったことを明かに見出し、
大臣閣下との間に眞に一體のものを體得することが、建國精神で國體信念であります

玆に人類は神の前に一體観を實現する所以であります
玆に至るのが信仰であります
全く一例に過ぎませんが御了解を願ひたくあります
どーぞ 陛下を信仰して更生して頂きたいのであります
四、
次には 陛下を英雄観に基て信仰なさることは全く不可であります
勿論人格にして神格を御供へ遊ばす 陛下におかせられましては、人格的差はありましょー、
そこで 明治明治天皇を頌へらるゝ迄はよくありますが、
歴代の 天皇の神格に於て毫末と雖、差別観を有することは大なる誤りで、

此の誤りは建國精神を了解しない爲めであります
私はもっと徹底的に日本人は現御神であらせらるゝ、
陛下を信仰崇拝し尊皇絶對でなければならないと堅く信じます

明治神宮を參拝するのは即ち歴代の 天皇の御靈を參拝するのであります
是れはつまり 陛下を參拝することであります
陛下を尊ぶの餘り、若し事實を明かにせず、體面論に滞り、
奉仕の眞髄を没却して勝手な私心に基く裁判等は絶對によくありません

神徳を潰し奉ります
權力で、御名に於て行はるゝ政事、軍事總ては昭和自力更生の職分を
放擲したるもので大逆族になると存じます

五、
尚現在の國内の情態を一部見た考へを述べさして頂きます
現下の戒嚴狀態現出には、臣民吾等殊に皇國陸軍將校が惡しくありました
從って此結末には皇國陸軍將校の懺悔を必要とします
何となれば皇軍將校は總て三月事件、十月事件を承知しあるに拘らず、
不問に附し來りたるは天人共に斷じて許さざるところであります

此の懺悔を契機として、始めて昭々たる大御心を仰ぎ奉ることを得ると堅信します
皇國陸軍を眞面目顯現の爲めには此の際凡てを懺悔するの外決して他にありません
本件決行を神がかりの狀態でやった、と云ふ人もありますが、
夫は神人同格の思想に基いたのだと思はれます

人間は幾ら尊くあった人でも、世界に唯御一人 陛下の外は皆臣であります
陛下の赤子であります
萬物總て陛下のものであります
私は信仰の白熱化によって愈々大義名分を明かにし、
神聖なる高等軍法會議によって裁判を仰ぐことが、臣節を全くする所と信じ玆に上告致しました

此の統帥權干犯を明かにすることが、神國に最も大切であります
辱くも相澤は其の爲めに神命を 陛下に奉る無上の光榮を担ふたに過ぎません
有難き極みであります
唯此の神命は皇國陸軍將校が懺悔せらることに於てのみ達成せらるると堅く信ずるに至りましたから、
別に三月事件及び十月事件を告發して神聖なる裁判を至急仰ぎます

限りなきめぐみの庭に使へして
今たちかえる神の御側に

昭和十一年五月三十日
相澤三郎拇印
陸軍高等軍法會議裁判長殿

現代史資料23 国家主義運動3 から


相澤中佐片影

2018年05月28日 09時43分04秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

相澤三郎
 一
私が中佐にお目にかかったのは二度です
昭和八年一月五日
山海関西関に於きまして戦死した兄幸道の遺骨を懐いて白石に帰着致しましたのが、
同年二月十日午前八時半で、九時から親族を交えて極く内輪の慰霊祭を行ひました
他人としては当町分会長長谷川大尉、小学校長五十嵐氏が入って居ました
神主の祭文中、ふと目を動かした時、
一人の軍人----巨大な身体、襟章は十七、じっと下を凝視してゐるのが私の目に入りました
式が終わるまで誰だらう、十七と云えば秋田だが誰だらう、とのみ考へてゐました
私には今でもはっきり其の姿が見えます
膝をしっかり合わせて、拳をしっかり握って、下を凝視して居られた姿が
その方が相澤少佐殿でした
後に聞いたのですが遺骨の着く前八時頃には停車場に居られ、
遺骨を迎へに出た人々は何か用があるのだらうかと思ったさうです
愈々汽車の到着間近になるとプラットホームに入り他の人々と離れて独りブリッジに
倚りかかって居られたさうです
遺骨がつくと、皆のあとから又構外に出て自動車が動き出すと
一番最後の自動車に「乗せて下さい」と云はれて来られたのださうです
式が終わっても、しばらくは霊前に座して依然として同じ態度を持して居られました
久しうして始めて私達に挨拶されましたが、多くのことはおっしゃいませんでした
唯一言
「遠藤さんはまだまだ死なし度はなかった。今死んでは遠藤さんは死んでも死に切れはしない」
とポツリポツリおっしゃいました
それから白石町分会長長谷川大尉と話し出されました
大体こんな内容でした
遠藤さんはすばらしく偉い人だ
こんな偉い人を出したのは白石町の名誉だ
と 力をこめておっしゃいました
分会長は仕方なく相槌を打って居たやうでした
話はたまたま多聞師団長の事に移りました
(其の頃は第二師団が凱旋したばかりで、
白石町では近日中に多聞師団長を招待し、胸像を贈呈する予定になって居ました)
すると中佐殿は之を聞いて非常に立腹されたかのやうで、
「多聞師団長に胸像をやるよりりも、遠藤さんの記念碑でも建てるべきだ」
と口を極めて申されました
それから私に 「遠藤さんの骨を持たせて写真をとらせてくれ」 と申されました
私は喜んで承知しました
中佐殿はゴムの長靴をはかれ、縁側の外へ立たれました
私が骨をお手に渡そうとした刹那、中佐殿は大きな声を上げて泣き出されました
私は、愕然としました
いまでもあのお声は耳の底にこびりついてゐます
しばらく続きました
私も泣いて了ひました
居られること二時間ばかりで多額の香料を供えられ、「お葬式の時には参ります」
と 申されてお帰りになりました
之が最初にお目にかかった時の印象でございます
葬式の時は、現地戦術で参れないと言ふ御懇篤な御書面がありました
同年六月、
青森の歩兵第五聯隊の陸軍墓地に満洲事変戦歿者の記念塔が建立されましたので
其の除幕式に参列し、奥羽戦で帰ります途中、
ふと中佐殿にお目にかかり度くなって秋田に下車し直ちに聯隊に中佐殿を訪問しました
中佐は非常にお喜びになり、
(其の喜び方は想像以上でした。私は下車するまでは、やめやうかとも再三思ったのでした)
丁度会議の最中だからとおっしゃって三十分許り待たせ、
すぐにお宅に案内下され、奥様や御子様方に紹介して下さいました
汽車時間まで一時間余りビールの御馳走になり乍らお話しました
そのときこんなことをおっしゃいました
「あの白石に向ったとき、私は八日に東京まで遠藤さんを御出迎えへしたのです。
そして遠藤さんとゆっくりお話しましたのでした。
それから用を達して十日に白石でお出迎へしたのでした」
「遠藤さんはほんとうに偉い人だった。死なれて残念でたまらない。
しかし遠藤さんの精神は私達同志が受け継いでゐる
遠藤さんのお考へは実に立派なものだった。今其の内容を話すことは出来ない。
十年待ってください。話します。今に遠藤さんの為めに同志が記念碑を建てます」 と
お別れの間近に中佐殿は
「どれ、遠藤さんに報告しやうかな」 と言はれて奥に入られたので私も後から参りますと
立派な厨子を床の間に安置し、兄の写真がかざってありました
私も拝みましたが私は泣いて了ひました
私は今かうして書いて居ましても目頭が熱くなって来てたまりません
それから御子様三人を連れられて無理に送って下さいました
発車致しました
挨拶致しました
しばらく経って窓から顔を出すと中佐殿は未だ立って居られます
又敬礼されました
私はびっくりして頭を下げました
胸は一杯でした
しばらくは泣いてゐました
これが二度目でした
八月に進級御礼の挨拶を戴きました
私は中佐殿にお目にかかったのは僅か二度ですが、どうしても忘れることが出来ません
兄の写真を見る度に中佐殿が思ひ浮べられます
新聞を見る度に中佐殿のお姿が髣髴と致します
中佐殿が私の如き一面識もない人間に接せられるあの御態度、私はなんと申してよいかわかりません
私は中佐殿を維新の志士の如く方と思って居りました
熱烈なる御精神
あの温容
私のこの手紙がもしお役に立ちますならば私は兄と等しく喜びに堪へません
この手紙は一日兄の霊前に供へました
何卒国家の為に中佐殿御決行の精神を社会に明かにして下さるやうに
兄と共に神かけて御祈り申し上げます
二度お目にかかった時の感想、私の心持はとても申し上げることは出来ません
表現するに適当な言葉がありません
只如何としても忘れることの出来ないありがたいお方としか申すことが出来ません
・・・遠藤美樹(満州事変で戦死の遠藤中尉の弟)

相澤中佐殿の件に就きて生等も甚だ吃驚罷在候
如何なればああした直接行動に出でられ候や判断に苦しむものに御座候
嘗て弟戦死壮候節、
最初に秋田より片道二時間余の行程を大吹雪を冒してお訪ね被下しは相澤中佐殿に候ひき
物静かなる中にドッシリとした真の武士とも申上ぐべき方と拝し候が、
果して後に新聞にて拝見仕るに武道の練達者との御事成程とうなづかれ申候
相澤中佐殿と拙家何等の縁故も御座なく候に、他の何人も未だ来らざる前、
大吹雪をついて二時間半の遠路をわざわざと軍務御多望の折柄御来訪被下
し御芳志に感謝申上げ候に、「自分の時間が六時間近くありましたから」
「エライ方の御霊を拝し度くて」 と御言葉僅かに申されて、何んの御接待を致す暇もなく御出発被遊候
後小生聯隊に御礼言上に参上せし時も極く物静かにして礼を厚くして御迎へ被下、
 いたく恐縮仕候事御座候ひき
其の後も一度、弟の墓地新築せるを聞かせられ、又わざわざ墓参に御光来被下、
武人の温情に小生等一同感激仕り、
郷党人も亦 「日本の軍人は、否日本軍は是れだから強いのだぞ」
と、郷軍分会員と共に称し申候ひし程に御座候
かかる物静かな真の武人とも申上ぐべき中佐殿が、何故ああした行動に出でられしか・・・・中略・・・・
真に事此処に至り見るに中佐殿としても決して無謀なること
(事実無謀なるもその信念に於て)とは考へられず、生等の関知し得ぬ処の何事かに義憤を感ぜられて、
為すべからざる行動を敢えて為されねばならざりしか、
その真情到底普通人の考へ及ぶ処に非ずと存ぜられ候
出来申せしことは如何とも致方御座なく候も、
あの風格をお慕ひ申上ぐる生等として出来うべくんば否是非是非寛大の御処置を望むものら御座候
・・・小田島 皓橘(戦死者の兄)

相澤様のやうなお方にお側近くお仕へ出来ましたことはほんたうに嬉しく、一生の光栄であり、
又今後の力でもあると存じて居ります
御病床にあらせられながら、辱けなき事には存じますが、大君のため、
御国のための御事より他にあらせられなかった相澤様が只今の御心の内、御察し申上げられます
よく御重態でいらせられし頃、
「今泉、私はベッドの上で死にたくない。戦地で死ぬのだから、お前もその気でしっかりやってくれ」
と仰せになりました
私も不束乍ら神に祈誓をなし、どうしても御恢復あらせられる様にと御仕へ致しました
御食事を遊ばすにも決して神に御挨拶なくしては召あがられしことなく、君の為めに御働きになる
 武勇の士であり乍ら、数にも入らぬ私共への御やさしき御言葉、誠に誠に今にも
頂きし御言葉は生活の力でございます
かかる義勇の御方なればこそ、神様が相澤様を御選びになられましたのかも存じませんが、
世上の風評を御あび遊ばさるる御心中如何ばかりで居らせらるるかを御推察申上げます
唯々この上は神に祈り居る私で御座ゐます
・・・今泉 富与(慶応大学看護婦)

あのやうな温厚な人がどうしてあんな重大なことを決行されたか
これは私達青年にとりて重大な問題であります
熱烈な皇魂の保持者、天子様への忠誠をもつて終生の念願とせられて居た中佐殿が今回の義挙は、
余程重大な意義があるやうに思ひます
否、断言します
重大なものが確にある
重大なものがなくてあの温厚な人がどうして起たれやうか
私達は三思三省すべき秋です
「天子様の御地位は安全ですか」
「お国は発展してゐますか」
「皇民は安心して生活してゐますか」
私は相澤中佐殿が私に語られた言葉の二、三を発表します
「私が日夜憂へてゐるのはお国の事です」
「尊皇心程重大なものはない。尊皇心なきものは日本人ではない」
「永田さんは立派な現在の政府の官吏であるかも知れないが、大御心の解らない人だ」
「若い人は決して無謀な事をやってはいけない。前途ある青年は、皇国を守る為、
 天子様の御為めに生命を大切にして下さい」
「全世界の人々は皆天子様の赤子です。赤子お互ひに争ふことはまちがいです」
「軍人の中に尊皇心の欠けてゐる人が居る。
 又軍人精神の真義の解らない人々が居るのが残念でたまらない」
「私達の行動は、皇道精神の命ずる処に従って動くのです。大御心を奉じて行けばよいのです。
唯天子様への御奉公あるのみです。全身全霊を以て天子様に忠誠を尽くすのです」
・・・一青年(福山市)

「オーイ」
えらい大きな声で手を上げてタクシーを呼んだ
然しタクシーは通り過ぎた
東北第一の都会仙台市の目抜きの場所でのことである
一九三五年を気取ったつもりの男女や、世間体を考へること磁針のやうな人々が振り向くことさへ
沽券にかかはると言はぬばかりに変な横目を軍服の中佐につかっている
何処を風が吹くか
成程中佐にとっては世の中は濶い

「まだいけない。一ッチ二、一ッチ二」
闇夜でも懐中電灯で照らされながら「候補生は膕が伸びなくてはいけない」と速歩行進をやらされた
又ある日曜日に訪問すると被せてあった半紙を取って饅頭を山盛にした大きな皿をだして
「食べよ」と言はれる
遠慮してしばらく手を出さない
此教官は黙って又紙を被せて皿をもとの位置にしまった
・・・士官候補生の時、軍事教官としての中佐に薫陶された某大尉から聞いた話

タクシーの話
饅頭の話
人の思惑も詰らぬ見栄も微塵だに意になく、タクシーを止めることのみ一念になりうる
純一無雑の心
これこそ禅の極致とも言ふべきではあるまいか
黙って饅頭をしまふ
何んと言ふ無言の教訓であらうか
・・・○○大尉

所謂永田事件
今此処に此の事件の真相を明かにせんとするものでもなく、
相澤中佐の行動の是非を論ずるものでもない
行動の是非は、神国に於ては只神のみ之を裁断する
浅薄低劣なる俗評と一知半解の編者の如きものの能くする所ではない
平素の相澤中佐
三千年の古、涯しなき葦の原と地平線に連る蒼空を指して八紘一宇と言ひ放った
大八州の民族の国魂を其の儘に見る人格
玲瓏、明快、清浄、神鏡の国魂を其の儘に具現されたかの如き人格
仏のやうな慈悲溢るる人間味
或る先輩は歎息した
「日本人にああ言う人が居るかと思ふと、否ああ言ふ人が日本民族のほんとうの姿かと思ふと、
日本人に生れたのが嬉しくなる」と
ああ此の相澤中佐
今や空前の不祥事の惹起者として、皇軍軍紀の紊乱者として喧々囂々の非難の中に立って居る
相澤中佐は典型的大和民族である
傑人偉人と言ふよりは大和国魂のそのままを昭和の御代に見る魂の人であった
総ての判断、総ての批評はここより発すべきである
然らずんば天神地祗に怒るであらう
・・・R生

未見の知己、真に相澤中佐を物語るものと言ひ得やうか
皇国の政治は「祭事」と心得申候
「親が子に臨むが如し」 と解して居り候
然るに大正以来の政治は、「駈引」、「政略」を以て終始し居り候事は、
小生体験を以て之を承知罷在候
殊に昭和と成りては政府は娼婦にも劣る白々しき詐欺虚言を吐いて平然たるに
至りては何と申様も無之
皇国として刺客の起るは当然の儀と存候
相澤中佐殿が国賊永田を誅されし理由を、陸軍省公然の発表として新聞に発表せられし処を
読むに曰く、「謬まれる巷間の浮説を盲信し云々」と
嗚呼、吾相沢中佐は単に世間の噂を盲信して軽挙妄動するが如きオッチョコチョイ、
三文奴に無之候
歩兵第四十一聯隊の将兵が心より悟る処に聞け
曰く
「隊中の将兵は中佐を高山彦九郎と呼べり」
「隊中の将兵一人として中佐を悪く言ふものなく、皆其の謹厳にして温厚なるに心服せり」
「中佐は不言実行の人なり」

而して小生が玆に軽挙妄動に非ざる証拠として特筆仕り度きは、中佐が国賊を誅すべく上京さるる時、
小生指導下にあり常に中佐に私淑しありし一青年
(中学を卒業し、目下青年団長を勤めをる)が岡山まで同車せしが、中佐は同青年に訓へて曰く、
「此際青年として勤むべきは皇魂の宣布である。腕力に訴ふるが如き暴挙は慎んでなすな」と
自己は今君側の奸を除かんとして行途にありつつ、農村青年団長に向っては、
団員に皇魂の扶植を訓論し、青年の熱して為す易き軽挙妄動を訓戒せらるる如きは、
之果して「巷間の浮説」に心を狂はすが如き者の為す可き行為に御座候や
永田鉄山なる匹夫が自己の奸才を弄して皇国を蠧毒しつつありし事は、
十目の視る処、十指の指す処に御座候
殊に今回の人事に就き、鉄山が中心になって大いに力をつくしたる事は新聞にすら戴り居り候処
然るに陸軍当局は自ら欺き、而して人を欺き以て其の威信を保ち統制を図らんと策せるも是れ却って
陛下の皇軍を冒瀆し奉り、世人より侮蔑さるるの基と成り、益々統制を乱す者に外ならず候
長上の命令に服従するは啻に陸軍の規定たるのみならず実に人道に御座候
然れども荀も皇国の御為めに成らざる事を看過し自己一身保安の為め荏苒日を送るは、
本当の----口頭だけでなく----日本精神を有する者の肯んぜざる処に候
故に陸軍の幹部にして真に統制を欲するものならば権力を以て部下を威圧するの妄念を去り、
真に部下軍人をして心服さすに足るの行を執らんことを敢えて忠告致度候

・・・在福山市の一老人からの書信

昭和七年頃、私が中佐殿に初めてお会ひした時いたく感動したことはその大自然的な、
そして雄偉なことであった
初対面の時笑ひ乍ら申された言心録の一章「身に老少ありて心老少なし。
気に老少ありて裡に老少なし。
能く老少なきの心を執って以て老少なきの裡を体すべし」は其の後私の生活の帰順になった

昭和九年二月頃、中佐殿が中耳炎を病んで慶応病院に入院しておられた頃、
私は友人と二人私共が病室に這入って直感したことは病状の只ならぬことであった
患部を繃帯して寝台の上に呻吟して居られる姿は痛々しい限りであった
「中佐殿如何で御座いますか」と申上げると、
中佐殿は苦痛を噛みしめて奥様を呼ばれ無理に寝台の上に起き、
「ハイ、相澤の病気はいいです。君はいけない。部屋に入った時の敬礼がいけない。
君は少しいい。
然し君は礼儀を知らぬ。上官の部屋に入って外套もぬがぬ様な将校はいけないのだ」
といきなり注意を受けた
私共が冷寒をおぼえて恥入って威儀を正すと、
 「それでいいそれでいい」と申されて満悦至極の態であった
その時中佐殿はこんなことも言はれた
「私は今は病気を治すことだけにする。
若い偉い人が居られるから御維新の事はその方々にたのむ」と
私共がやがて病室を辞し去り、靖国神社に参拝の途次二人はつくづく中佐殿の偉さを語った

中佐殿は退院して間もなく私の宅をお訪ね下さった
木綿絣にセルの袴をつけ、日本手拭を腰にはさんだ例の通りの質素な服装で
「やあ---さん、入院中お見舞の節は大変𠮟ったそうですネ。ハッハハッハ---」
と割れるやうな大声で笑はれた。
雑談してゐる中ヒョイと私の落書した高杉晋作の「真個浮世価三銭」の句を床の間に見つけて
いきなり剥ぎ取って、「これはいいこれはいいこれ下さい」と言ふなり懐にねぢ込んでトントンと階段を降り、
さよならと言葉を残して帰って行かれた
私は友人と中佐殿の人生観の深奥所を交々語り合ったが遂に語り尽せなかった

相澤中佐殿は何故切腹しなかつたか
俗人は自刃して自分のしたことを正義化しやうとしたり、世間に悪く思われまいとしたり、
或は懺悔と絶望の中から逃避したりしやうとする
然しこれ等の心境は決して最上のものとは言ひ得ぬ
即ち自己の行動を死に依って正義化しやうとする所に未だ未だ真に正義を体得し
切って居らぬ一面を見出し得る
世間に悪く思われまいとする心情の中に俗世間に阿ねる所がある
又懺悔と絶望を死に依って逃れやうとする心の中に透徹し切れぬ人間の弱さを曝露してゐる
中佐殿はその行動を死に依って正義化せずとも、既に正義の十分を体得してゐた
また俗世間に阿諛して自分のしたことを美化しやうとか世間の人気を呼ばうとか言った
風の俗臭粉々たる人物ではなかった
尚又懺悔と絶望とを透過せられた正しい強い人であった
そして非合法が悪いとか、合法がいいとか言ふやうな世間並の人物ではなくて、
常に合法と非合法の上に居て神様と共に居ての立場から正邪を裁いてゐた人である
斯くの如き中佐殿に向って、「相澤は何故切腹しなかったか」
と言ふ世間の詰問に対して私は笑ひを禁じ得ぬものである

相澤中佐は無思想であったか
禅の不立文字とは、文字にも口舌にも現はし得ぬ所の高い悟道の境地を言ふたものである
一切の思想、一切の智慧を超越した所に悟道の真諦がある
中佐殿は俗思想、俗智を超越して不立文字の理念を把握して居られた

相澤中佐は脳を病んでゐたので大それたことをしたのか
「相澤中佐は中耳炎を患って以来脳を冒されてゐた」 と言ふ風評を耳にしたが、
私はその然らざることを断言する
中佐殿は止むに止まれぬ義憤から発したものである
松陰の辞世の
かくすれば かくなるものと知りながら
止むに止まれぬ大和魂
と言ふ歌の真意を探ると、中佐殿の高い心境の一端を窺い知ることが出来る
「かくすればかくなる」と云ふ判断を下すのは頭脳のよさを示すものであって、
中佐殿が大事を決行するまでに智慧をしぼり、一切の手段を尽し乍ら、
如何に心志を用ひたかは知る人ぞ知るである
一切の智慧をしぼり、手段をつくして最後には、
「かくすればかくなる」と言ふ理窟めいた所から飛躍して一段高い心持に進んで、
「かくすればかくなる」と言ふ事すら考へない心境、無我の境に入った
そして唯「止むに止まれぬ」心持で「天に代って不義を討つ」心境にまで到達せられたのであらう
かかる高い心境には脳を病んでゐる病人や俗智、小智、邪知の人は到底達し得ない
唯大智の人、透澄清明なる頭脳の人のみが達し得る
要するに中佐殿は俗人に理解する事の出来ない高い精神世界に居て、
革命的道念を体現した人である
そして吾々にとっては軍隊の上官であったと共に維新運動の上官であった
・・・
中佐の一辱知であり、後輩である編者の一友人の寄せた文

軍務局長天誅の号外が飛ぶ
やったな 誰だろう
某中佐
見るもの唖然
青年の奮起かと思ひの外 分別盛りの中佐だ
「相澤中佐殿」 だ
此の号外を見た時相澤中佐に面識のある人凡てが其の御人格を想起して叫泣したにちがひない
相澤中佐と既知の間なるを知る某少佐問ふて曰く
問 「昨日の号外は相沢中佐殿だろう」
答 「知りません」
「知らんふりするなよ中佐級には相澤中佐殿より外にあんな事が出来る人はないよ
然し あの人のやった事には絶対に私心はない 立派な御方だ」
絶対指針なきは中佐に面識ある人総ての観察だ
我々は全く神様だと尊崇するのだ
相澤中佐との初対面は中佐と青年将校三、四名との会談中だった
其の御言葉は東北弁で一向にききとれなかったが、
ただ何となく立派な御人格に頭が自然に垂れた
中佐の部下思ひには誠に敬服する
福山聯隊で経理委員の頭をやって居られた時、
其の監督下の工場で働く兵が夜間作業をせねばならぬ様になった其の時は、
夜能々工場にいって兵の苦労をねぎらはれた
兵は夜に至るまで働くのに自分は家に居られない
兵と労苦を共にして御奉公せねばならないとの尊い御心持だったのだ
・・・×××尉


法務官訊問 『 被告人ガ入手シタ如何ナル物ガ殺害決意ニ刺戟ヲ与ヘタルカ 』

2018年05月27日 19時00分06秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


相澤三郎

六回被告人尋問調書
被告人  相澤三郎
右ノ者ニ對スル殺人持兇器上官暴行傷害被告事件ニ附
昭和十年八月二十六日東京衛戍刑務所ニ於テ豫審官陸軍法務官岡田痴一ハ
陸軍録事勝井國太郎立會ノ上前回ニ引續キ右被告人ニ對シ訊問ヲ爲スコト左ノ如シ
一、 氏名ハ
相澤三郎デアリマス。

二、 被告人ガ國家革新運動ニ關係シ始メタノハ何時頃カラカ
昭和六年八月頃カラ青森ニ在勤時代カラデアリマす。

三、 如何ナル動機カラ國家革新運動ニ從事シタカ
私ハ豫テ皇室中心主義ノ思想ヲ懐イテ居リマシタ処、
青森ニハ自分ト同思想ノ大岸大尉 ( 當時中尉 ) 亀井英男大尉 ( 當時中尉 )
故遠藤幸道大尉 ( 當時少尉 ) 等ガ居リマシタノデ、之等ノ同志ノ者ト時事問題ヲ檢討シ、
當時ノ世相ガ社會組織ニ於テモ經濟組織ニ於テモ欠陥ガ多ク人心浮薄ニ傾キ、
赤化ノ思想瀰浸シ居ルモノト認メ、
之ヲ革新シテ我日本國民ヲシテ皇室中心主義ヲ徹底セシメン事ヲ目的トシテ、
前述ノ同志ノ者竝將校中有志ノ者ト共ニ國家革新ニ對スル研究等ヲ開キ同志ヲ獲得スルコトニ努メマシタ。

四、 當時國家革新ニ對スル具體的方法ヲ研究シタカ
具體的方法トシテハ十分ナル研究ハ遂ゲテ居マセンデシタガ、
合法的ノ漸進主義デハ到底革新ヲ遂ゲル事ハ難シイカラ、
場合ニ依テハ直接行動ニ出ナケレバナラヌト云フ考ヲ持ツテ居リマシタ。

五、 何カ具體的計畫ヲヤッタカ
我々青森同志間ニ於テハ何等ノ計畫モ致シマセヌデシタガ、同年十月十八日ト思ヒマスガ、
十月事件ノ時私ハ東京カラ上京セヨトノ電報ヲ受ケテ上京致シマシタガ、
何等ノ會合ニモ出席セズシテ同日正午頃歸青ノ途ニ就キマシタ事ガアリマス。

六、 其後ノ狀況ハ
同年十二月末カラ翌七年三月末迄歩兵學校ニ召集サレテ千葉ニ來マシタガ、
其間ニ千葉ノ下宿カラ度々上京シマシテ、
西田、大蔵、村中、佐藤、香田、安藤、菅波、海軍側ノ古賀、中村等ト相知リ
國家革新運動ニ附テ相語ラヒ研究致シマシタ。

七、 右期間中ニ何カ具體的ナ計畫ヲシタカ
何モ具體的計畫ハ致シマセヌ。

八、 被告人ハ昭和七年五月十五日ノ事件ニ附テ之ヲ豫知シテ居ッタカ
海軍側ノ將校ガ何カ具體的計畫ヲ實現スルノデハナイカト云フ豫想ハ少シアリマシタガ、
陸軍ノ將校ガ之ニ參加スル事ハ全然ナイト思ツテ居リマシタ。

九、 五、一五事件ヲ知ツテ如何ナル行動ニ出タカ
青森デ右事件ヲ ラヂオデ知ツテ上京ヲ志シ隊長ノ許可ヲ得マシタガ、
上京途中盛岡ニ於テ留守隊司令官ノ命令ニ依リ抑止セラレ其儘歸隊致シマシタ。

一〇、 其時上京セントシタ目的ハ
折角海軍側ガ事ヲ起シ、
純眞ナル士官候補生ガ之ニ參加シテ斯様ナ革新ノ端緒ヲ作ツタノデアルカラ、
此ノ機會ニ乗ジ軍政ヲ布イテ國家革新ノ第一歩ヲ進メル事ニ微力ヲ盡ソウト思ヒ、
同志ト畫策スル心算デ上京セントシタノデアリマスガ、
前述ノ如ク中途カラ歸隊ノ已ムナキニ至ツタノデアリマス。

一一、 デハ青森ニ歸隊シテ何カ計畫シタカ
在京ノ同志ニ手紙位デ前述ノ自分ノ意思ヲ傳ヘマシタガ、
同志ノ者カラハ何レモ此際自重スベキモノダト云フテ來マシタノデ
私ハ何事モ計畫シマセヌデシタ。

一二、 昭和七年八月秋田ニ轉任シテカラ革新運動ニ附テナンカ計畫シタカ
秋田在勤中ハ私ハ敎育主任デ隊務ガ非常ニ多忙デアツタ爲、
餘暇ガ無ク且當時留守隊デアツテ所謂私ト志ヲ同フスル様ナ友達モ居ナカツタノデ何等ノ計畫モシマセヌデシタ。

一三、 秋田勤務時代ニ度々上京シテ同志ト語ッタカ
二、三回上京シタト思ヒマスガ、何レモ仙台ノ母ヲ訪ネタ序デアリマシテ、
同志ノ者ト會ヒマシタガ別ニ之ト云フ具體的ナ計畫ヲシタ事ハアリマセヌ。

一四、 昭和八年八月福山ニ轉任シテ以後二年間ニ何回位上京シタト記憶シテ居ルカ
六、七回上京シタト思ヒマス。

一五、 上京ハ被告人ノ發意ニ依ルノカ、或ハ在京ノ同志カラノ勧誘ニ依ルノカ
何レモ自分ノ發意デ、在京ノ者カラ勧誘ヲ受ケタ事ハ一度モアリマセヌ。

一六、 福山ヘ轉任シテ以後 被告人ノ國家革新運動ニ對スル見解範囲ニ多少ノ變化ガ生ジタノデハナイカ
國家革新ノ目的ニ附テハ變化ハアリマセヌガ、
最近ニ至リマシテハ國家革新ヲ遂ゲルニハ
先ヅ第一ニ皇軍ガ國體原理ニ基キ一致結束シテ行かネバナラヌノニ、
現時ノ皇軍 ( 陸軍 ) ノ狀勢ヲ見ルニ
甚シク其ノ皇基ヲ恢弘スル本分ヲ没却シテ根柢ノナイ形式ノ下ニ 陸軍ヲ骨抜キニスル様ナ狀態デアルカラ、
之ヲ根本ヨリ立直サナケレバナラヌト考ヘルニ至ツタノデアリマス。

一七、 被告人ハ先ニ福山ヨリ六、七回上京しタト云フガ其ノ時期如何
福山カラ上京シタノハ
第一回ハ昭和八年十二月暮カラ上京シマシテ翌九年正月初メニ歸ル心算デアリマシタガ、
中耳炎ニ罹リ慶応病院ニ入院シ、同年五月退院歸福シマシタ。
第二回ハ同年六月七日仙台ノ母ガ死亡シタノデ歸郷シ、確カ同月十九日歸福シタト思ヒマスガ、
其際東京ニ立寄リ一泊シタト思ヒマス。
第三回ハ同年十一月初頃 ( 十日頃 ) 父ノ命日デ法事ヤ墓參スル爲仙台ニ歸リマシテ、
歸途東京ニ立寄リ一泊シタカト思ヒマス。
第四回ハ同年ノ暮年末年始ノ休暇デ仙台ノ土地ノ整理ト墓參ノ爲歸リ、
確カ翌十年一月五日頃歸福シタト思ひマスガ、途中東京ニ立寄リ一泊シタ様ニ思ヒマス。
第五回ハ本年三月中旬頃家族同伴ノ上墓參ノ爲仙台ニ
行キ、同月下旬歸福シマシタガ、
途中東京ニ立寄リ 二泊位シタト思ヒマス。
第六回ハ本年四月頃ト思ヒマスガ土地ノ整理デ歸仙シマシタ時、東京ニ立寄リ一泊シタト思ヒマス。
第七回ハ本年六月初母命日デ佛事ノ爲歸仙シタ際、東京デ一泊シマシタ。
第八回ハ本年七月十七日上京シ同月二十一日歸福シマシタ。
此事ハ前回ニ申述ベタ通リデアリマス。
其次ハ今回ノ上京デアリマス。

一八、 上京ノ際ハ何処デ泊ッタカ
本年七月上京ノ際ハ偕行社デ泊リマシタガ、其他ハ西田宅カ大蔵宅デ泊リマシタガ、
泊ツタ日時ハ記憶シテ居リマセヌ。

一九、 被告人ハ轉任ヲ知ツテ後、臺灣ヘ挨拶狀ヲ出シタリ門司ノ宿屋ヘ宿泊依頼ノ手紙ヲ出シタリシタ事ガアルカ
出シマシタ。

二〇、 夫レ等ノ手紙ヲ出シタノハ何日頃カ
八月六、七日頃ト記憶シマス

二一、 其頃ハ既ニ上京シ永田局長ヲ殺害ノ考ヲ有シテ居タ時デハナイカ
左様デアリマス。

二二、 上京シテ殺害行爲ヲスレバ、臺灣ヘノ赴任ハ出来ナイ譯デ、挨拶狀ヤ宿泊依頼ノ手紙ヲ出ス必要ナイ様ニ思ハレルガ、
  當時被告人ノ心理狀態ハ如何ナリシヤ
私ノ決意ヲ外部カラ察知セラレルノヲ恐レテ荷物ヲ發送シ挨拶狀ヲ出シ宿泊依頼シタリシタノデハナクテ、
梱包發送等ハ轉任ニ伴フ事項デアツテ、
聯隊ヨリ出發期日、乗船日、荷物發送日等夫々要求ガアリマシタノデ當然準備シナケレバナラヌ事デアリ、
又挨拶狀等を出シタノハ、當時既ニ私ガ上京殺害ノ目的ヲ遂ゲ得ザル場合ニハ、
已ム無ク期日内ニ渡臺シナケレバナラヌ事ニモナリマスカラ、轉任ニ伴フ普通ノ行事ヲ終リマシタ譯デ、
之等ノ事ヲ爲シタ後ニ私ノ殺害意思ガ當時不確定デアツタト云フ證明ニハナリマセヌ。

二三、 被告人ガ入手シタ文章 ( 所謂怪文書 ) 中、如何ナル物ガ今回被告人ノ殺害決意ニ對シテ刺戟ヲ与ヘタモノカ
軍閥重臣閥の大逆不逞  ト 題スルモノ、
村中、磯部ノ書イタ  敎育總監更迭事情 ト題スルモノ、
及同人等ノ書イタ 粛軍ニ關スル意見書 ノ三文書ガ、
私ノ
今回ノ殺害決意ニ對シテ相當ノ刺戟ヲ与ヘタモノデアリマス。

二四、 被告人ガ前述スル処ニ依レバ、軍務局長室ニ於テ永田局長以外ニ 二人ノ軍人
( 軍服着用 ) ヲ認メタトノ事デアルガ、室内ノ何レノ地點カラ之ヲ認メタルヤ
私ガ局長室ニ
入ルヤ直グニ、室ノ眞中邊リニ立テテ在ツタ薄布張ノ衝立ノ布ヲ通シテ、
局長ト之ニ面シテ机ノ左方部ニ腰掛ケテ居ル二人ノ軍人ヲ認メマシタ。

二五、 被告人ノ前述スル処ニ依レバ、
永田局長ガ被告人ノ刃ヲ遁レル爲他ノ二人ノ軍人ノ処ニ行ツテ 
三人一緒ニナッタ様ニ思ッタトノ事デアルガ、
此點ニ附テノ認識ハ誤リナキヤ

確ニ永田ガ二人ノ処ニ逃ゲテ、机ノ左側デ三人一緒ニナツタ様ニ記憶シテ居リマス。

二六、 同室ニ在リシ一人ガ被告人ノ暴行ヲ抑止スル爲、局長使用机ノ左側附近デ被告人ノ腰部ヲ左背後ヨリ抱止メタルモ、
被告人ノ爲ニ振払ハレテ倒レ直ニ起上ラントシタルニ 左腕ニ負傷シ居ルコトヲ知ッタトノ事デアルガ、被告人ハ當時此事ヲ記憶スルヤ
當時ハ私ノ脳裡ハ永田局長殺害ノ一念デ満チテ居リマシタノデ、
左様ナ事ハ覺ヘアリマセヌガ、
同室ニ居ツタ人ガ負傷シタトスレバ當然私ガ傷附ケタモノト思ヒマス。

二七、 被告人ノ前述スル処ニ依レバ軍刀ヲ抜イテ永田局長ノ部屋ニ入ッタトノ事デアルガ間違ナイカ
其點ハ違ツテ居リマス。
部屋ニ入ルト同時ニ抜いタノデアリマス。

二八、 被告人ハ局長室ニ 二人ノ軍人ガ居ル事ヲ認メテ居ッタトスレバ、
例ヘバ局長ヲ目標トシテ居タトスルモ、

同室内デ抜刀ヲ以テ暴レル限リ局長以外ノ他ノ軍人ニモ 危害ヲ加ヘル事アルヤモ知レヌト云フ豫想ハ抱イテ居ッタカ
入ツテ行ツタ當時ハ一刀兩斷ノ下ニ局長ヲ殺害シ得ルモノト思ツテ居リマシテ、
彼ノ様ニ永田ヲ追詰メル様ナ場面ヲ生ズルトハ思ツテ居リマセヌデシタカラ、
他ノ人ニ危害ヲ加ヘル事ニナルナドト云フ事ハ當時思ヒマセヌデシタガ、
今カラ考ヘマスト、
若シ私ノ目的ヲ邪魔スル者アレバ當然其者ヲ斬ツテモ目的ヲ達スル事ニ努メタト思ヒマスカラ、
當然同室ノ一軍人ガ私ヲ抑止シタ事ガ事實ナレバ、私ガ其ノ邪魔ヲ除ク爲ニ斬拂ツタモノト思ヒマス。

二九、 其際左腕ヲ負傷シタ軍人ガ東京憲兵隊長新見英夫大佐デアッタ事ヲ知ラナイカ
八月十二日麹町憲兵分隊ニ於テ、
分隊長ヨリ新見大佐ガ負傷シテ居ルト云フ事ヲ聞イテ私ガ斬ツタモノト思ヒマシタ。

三〇、 被告人ガ局長室ニ入ッテカラ局長ニ迫っタ順路ハ如何
私ハ部屋ニ入ツテ衝立 ( 布張ノ ) ノ左ヲ通リ、
二人ノ軍人ノ背後ヲ通ツテ右ニ行キ、机ノ右側ニ行ツタ頃、局長ハ立上ガツテ私ノ方ヲ見マシタ。
其処デ私ハ局長ニ迫リマシタ処、
前述ノ如ク局長ハ机ノ左側ヘ逃ゲテ同室ノ二人ノ軍人ト三人一緒ニナッタノデ、
私ハ背部ヨリ局長ニ一刀ヲ浴セ、以後ハ前回ニ述ベタ通リデアリマス。

三一、 被告人ガ局長ノ机ノ右側ニ行ッタ頃ニ、他ノ二人ノ軍人ハ尚元ノ席ニ居タト記憶シテ居ルカ
居タ様ニ思ヒマスガ、其後二人ノ軍人ハ如何ニナッタか覺ヘマセヌ。

三二、 二人ノ軍人ガ何人ナリシヤ、又ハ階級ガ如何ナリシヤ
當時何人ナリシヤ判リマセヌデシタ。
階級ニ附テハ二人居ル事ヲ認メタ時ニ自分ヨリ上級者デアル様ニ感ジマシタ。

相澤三郎
右讀聞ケタル処相違無キ旨ヲ述べ
署名拇印シタリ
昭和十年八月二十六日
第一師団軍法会議
陸軍録事  勝井国太郎
予審官陸軍法務官  岡田痴一 


新聞報道 ・ 第三回公判 『永田鐵山は惡魔の總司令部 』

2018年05月27日 07時28分31秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


第三回軍法會議公判  昭和十一年二月一日 

相澤中佐は皇道派靑年將校及西田税、古賀、中村 兩海軍中尉 ( 五 ・一五事件被告 ) との交友關係は
「 永田局長は重臣、財閥等の現状維持的勢力に迎合して靑年将將校の維新運動を彈壓された 」
として、
十一月事件、眞崎敎育總監更迭の事情等を例證として擧げ、
「 永田局長閣下は惡魔の總司令部であると思ひ、
 大逆の樞軸を殲滅せんめつして昭和維新の大業を翼賛し奉らうと思ったのであります 」
と 決行動機に關する激烈なる陳述をなした。


本朝のこと寸毫も罪悪なし

2018年05月26日 18時26分52秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


相澤三郎 中佐  (少佐時代 )

「 偕行社で買物をして赴任する。」
永田軍務局長を刺殺したあと、相澤中佐はこういった。
決行の前夜、
西田税のうちに来合わせた大蔵大尉が 「 明日の予定は・・・・」
と、きいたときもこういったし、
決行直後山岡重厚中将から 「 これからどうするか 」 と きかれたときもこういった。
・・・・
私もこのことばをはじめて聞いたときは奇怪に思った。
禅的な表現かとも思った。
禅的な表現には禅に通じない私などからみれば、飛躍があって、思念の追随しかねる場合がある。
が、相澤中佐の公判で述べたことのあとをたどれば、
奇怪であると思った ことばの意味が、おぼろげながら私にも理解できそうである。

先ず相澤中佐自身が
「 認識不足 」
という 当時の流行語によって
「 偕行社で買物をして赴任する 」
を 否定している。
偕行社で買物をして赴任しようなどと考えたことが、
認識不足だったことに、決行後すぐ気づいたと、述懐しているのである。
八月十二日、
すなわち決行の日の朝、西田のうちを出るまえに、
ひそかに書きしるした手記のなかに
「 皇恩海より深し。然れども本朝のこと寸毫も罪悪なし 」
の 句がある。
十一月二十日事件のあとの 昭和九年の年末から、十年の年頭にかけてのころ、
はじめて相沢中佐は永田軍務局長を斃す決意を抱いた。
十一月二十日事件は結局、
青年将校を弾圧しようとする永田軍務局長の策謀の一つの現れで、
辻政信の如きは、そのお先棒をつとめたにすぎないというのが相沢中佐の判断であった。
が 最初の決意は大岸大尉の反対にあって、一応おさめた形になっていた。
その後
天皇機関説問題をめぐる真崎教育総監の更迭があり、
そのいきさつに統帥権干犯事実があることに憤慨、
七月の上京となり、
その途中むかしの箱根越えに該当する丹那トンネルにさしかかった際、
頼三樹の詩を吟ずるうち、
ふと 永田少将一刀両断の決意を再燃させたが、これは自らの反省によって思いとどまった。
が、八月になって
磯部、村中が不穏文書配布を理由に免官となり、自分自身は台湾に転任ときまった。
ひとたび雲煙万里台湾に渡ってしまえば、内地の土を踏むことは容易でない。
このまま台湾に渡ることは、
相澤中佐の 「 尊皇絶対 」 の 信念がゆるさなかった。
思えば半歳以上にわたって考えぬいたすえの決行だった。
そのときの境地が
「 本朝のこと寸毫も罪悪なし 」
であり、
したがって
「 偕行社で買物をして赴任する 」
だった。
悩みぬき、考えぬきして越えてきた山坂道、
その末にひらけたものは、意外にも坦々とした道だったのだろう。
それらが
「 本朝のこと寸毫も罪悪なし 」
の 決意だったのだろう。

この決行が契機となって、
これまで横道に迷いこんでいたものを正道にかえる出路を見出し、
あいともに 一つの道を一つの方向に進むにちがいないと思ったのだろう。
それが挙軍一体一致して御奉公にはげむことであり、
そこにおのずから維新の端緒がひらけるというのが、
相澤中佐の祈念であり祈願だったのだろう。

が、それは決行前後のしばしのあいだの安心だった。
決行後まもなく、それがたちまち峻険の難路と変じた。
それに気づいたことが
「 認識不足 」 の 自覚であり、嘆きだった。
決行後、麹町憲兵隊に収容された相沢中佐は、
そこで直ちに底意地の悪い憲兵曹長の取調べをうけなければならなかった。
それが 「 認識不足 」 を 自覚させられた最初だった。
が、それは同時に自分の無力に対する嘆きだった。
自分の力が足りないから人々を正道へ導くことができなかった、
自分がもっと偉大であったら、それができたであろうにという・・・。
「 偕行社で買物をして赴任する 」 は、狂愚のことばでなく、
決行前後のひととき、ようやくたどりついた安心の境地から発したことばだった。
それが意外に執拗強靭な抵抗の前に、
はかなく崩れて 「 認識不足 」 の 自覚を強いられることとなったのである。

たとえ かすかであっても、光明さしいれる一つの破壊孔を打通すれば、
闇を闇と さとらぬものも、さし込む光明に闇をさとり、
ひとたび打通された破壊孔を力あわして、
さらに拡大し、もっと光をさし入れる努力をすべきはずだった。

が 闇に慣れたものはそうはしなかった。
闇に慣れた習性から突然の光明に、かえって目がくらむのか、
それとも闇に適合さした自分の姿を光明にさらすのを恐れるのか、
わずかながら打通された折角の破壊孔を、再びふさぐことに懸命になるのだった。
そこに 「 認識不足 」 が あった。
偕行社で買物をすることもできず、台湾に赴任することもできず、
相澤中佐は代々木の衛戌刑務所の狭い官房に大きな体を収容された。
そこは相澤中佐が、天誅成就を祈願した明治神宮とは、
あいだに代々木練兵場をはさむだけのすぐちかくだった。
・・・・
相澤中佐の決行は、
平素から中佐が抱懐する 「 尊皇絶対 」 の 信念が、時に遭って閃発したものだった。
相澤中佐における 「 尊皇絶対 」 は、中佐自身が公判廷でも述べているように、
同時に 「 国民も絶対 」 と いうことだった。
君主主義は同時に民主主義でなければならないということである。

日夜 民安かれとのみ祈る天皇の主観、
すなわち
大御心における民主主義国日本は
同時に
大君の御為には、わが身ありとは思わぬ、
国民主観における 君主主義国日本でなければならないということである
ひたすらに民安かれと祈る大御心は
「 天下億兆一人も其処を得ざる時は皆朕が罪なれば」
の御宸念となる。

・・・・挿入・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天皇ノ御主観ニ於ケル民本國
臣子ノ主観ニ於ケル君主國
即チ上ハ下ヲ、下ハ上ニ相互信倚、相互求引シテ萬代不易ノ皇國日本ヲ構成護持ス。
外來ノ所謂民主國ニアラズ、所謂君主國ニアラズ、實ニ君民即親子ノ世界無比ナル哲理國家、家族體皇國日本ナリ。
・・・
第四章  皇國日本ノ國家哲理 / 第一編    維新皇國ノ原理 / 『 極秘 皇國維新法案 前編 』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

とすれば一人どころか、

おびただしい貧窮に泣く農村青年を部下に持つ青年将校が、
抽象的に軍人勅諭の忠節を信奉し、それを部下に向かって説くだけで、
わがことおわれりと、澄ましておられるかどうか。
尽忠報告の義務のみあって、その国に拠って生活する権利を保障されていない兵。
その兵に代表される庶民にかわって、腐敗堕落の財界、政界、軍閥権力層に、
革新の鉾先を向け反省を促することは、軍人勅諭の忠節の具体的実践であるはず。
ただそこに権力層が、とってもって己の安泰のためのとりでにしている法があった。
如実に自己権力の擁護のためには、
その源泉である私有財産と国体との抱き合わせを法に規定することも憚らなかった。
しかし法は法である。
それは必ずしも権力層の利益のためのみとは限らない。
その法を超越するところに青年将校の苦悩があった。
相澤中佐 半歳の苦悩もそれだった。
が 苦悩の果てに開かれたものが
「 本朝のこと寸毫も罪悪なし 」 の 「 尊皇絶対 」 の 安心の境地だった。
法を犯した相沢中佐は 法によって裁かれればよかった。
しかし 「 尊皇絶対 」 は 如何に裁かれようとするのか。
まずくすれば尊皇絶対、国民絶対の維新があきらめられて、
あとに、国民絶対、尊皇排斥の革命のみが残る憂いがある。
・・・・

末松太平  著
私の昭和史  蹶起の前後  から

今回の行動に出でたる原因如何。
宇宙の進化、日本国体の進化は、悠久の昔より永遠の将来に向つて不断に進化発展するものであります。
所謂、急激の変化と同じ漸進的改革とか称することは、人間の別妄想であります。
絶対必然の進化なのでありまして、恰も水の流れの如きものであります。
今度の事でも、其遠因近因とか言って分けて考へるべきものではありません。
斯くの如く分けて考へるのは、第三者たる歴史家の態度でありまして、
当時者たる私には説明の出来ないものであります。
相澤中佐が永田中将を刺殺して後、台湾に行くと云ったのは全くこれと同じで
絶対の境地であります。
之を不思議に思ったり、刑事上の責任を知らない等と 言ふのは、凡夫の自己流の考へ方であります。
又 之を以て相澤中佐の境地に当嵌あてはめるのは間違ひであります。
今回の事件は、多少大きい事件でありますから問題にされる様でありますが、
私の気持ちでは当然の事と思って居ります。
・・・ 渋川善助の四日間 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『 絶対の
地 』
伊勢の大神が相澤の身体を一時かりて、天誅を下し給うたので俺の責任ではない。
俺は一日も早く台湾に赴任しなければならない。
皇軍全体を救うためには、永田一人ぐらいは物の数ではない。
法律は国民全体の利益を計るためにできている。
それを害する者を制裁する、
私が決行に到達するまでには、熟慮に熟慮を重ね、
絶対の境地に立って決行したものである。
絶対の境地、即ち神示である。
俺の行動は明治大帝の御遺訓に添い奉り 皇軍軍旗の振作にあるのだ。
永田を倒さねば天皇の軍隊は一体どうなる
正義に基く行動は法律に超越するのだ。
・・・東京憲兵隊麹町分隊での取調

『 確信による行動 』
私の心の中の覚悟としましては、
すべて確信による行動であるから、事の成ると成らざるとを問わず、

行動をおわれば、そのまま任地台湾に赴く考えでありました。
永田閣下を刺したその場で割腹するなどの責任云々による行動でもなければ、
昭和維新の捨石として名を残すというような考えも全然なかったのであります。
しからば、なぜ、永田閣下を殺したかと申せば、
軍にとって重要なる軍務局長としての仕事を永田局長が十分につくしていない
その故、軍は危機に臨んでいると信じたのであります。
・・・軍法会議予審

『 大悟徹底の境地 』
被告は国法の大切なことは知ってゐるが、今回の決行はそれよりも大切なことだと信じたのか
「 そうであります 大悟徹底の境地に達したのであります 」
決行後台湾に赴任しようと思ったのは、まだ、国法を考えなかったのか
「 何度も聞かれるが、はっきり説明します。
わたしは憲兵隊で二三時間話をすれば憲兵司令官には、
私の精神がわかってもらえて、
お前は謹んで台湾に赴任しておれ、追って処分を沙汰するといわれるものと思いました。
これは幕僚あたりが自分の精神を理解し、ざんげしていたならば、そうなるものと思っていたのに、
この期待が外れたので認識不足であったというのです」

被告はそうなると思っていたのか
「 いい条件の場合はそうであると思っていました 」
悪い場合は
「 憲兵隊で殺されると思っていました 」
その認識不足は憲兵隊でしったか
「 憲兵曹長の取調で知りました 」
・・・公判に於いての杉原法務官の問に
・・・大谷敬二郎著 「昭和憲兵史」から

『 神様に依る天誅 』
森健太郎分隊長立会いのもとに小坂慶助曹長が訊問にあたる

只今から、今朝陸軍省の軍務局長室に於いて、
永田少将を殺害した、殺人事件に関し、現行犯として訊問を行います、尋問中敬称は用いません
「永田の如き者を、俺は殺しはせん」
殺さんと云うが、その手の傷と、この軍刀の血潮、局長室に残した貴官の軍帽が、何よりの証拠ではないか
「 伊勢神宮の神示に依って、天誅が降ったのだ。俺の知った事ではない 」
例え伊勢神宮の神示であっても、直接手を下したのは貴官です。それを聞いているのです
「 伊勢の大神が、相澤の身体を一時借りて、天誅を下し給うたので、俺の責任ではない。
俺は一日も早く台湾に赴任しなければならない 」
事情の判っきりしない内は、此処から帰す事は出来ません。
人を殺せば法律と云うものがあります、その責任は取って貰わなければなりません
「 曹長は、法律と云うが、
その法律を勝手に造る人達が、御上の袖に隠れ、
法律を超越した行為があった場合、一体誰が之を罰っするのだ。
神様に依る天誅以外に道がないではないか 」
・・・小坂曹長、戦後の回顧
・・・実録 相澤事件 鬼頭春樹 著から


所謂 神懸かり問答 「 大悟徹底の境地に達したのであります 」

2018年05月25日 19時36分07秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


中央に立つ相澤三郎中佐
昭和11年1月28日、第一回軍法会議公判廷の様子

杉原法務官は
判士長にかわって被告に対し訊問を開始した。
「 さきほどの檢察官の申し述べた公訴事實は認めるか 」
「 だいたい認めますが----永田閣下に刃をむけたのはそのとおりでありますが、
 根本にわたることについては、腑におちない點があります。
原因については詳細お取り調べを願います」
それから、
位階學歴、家庭健康、趣味信仰などについて訊問がつづけられたが、
その訊問が國家革新の思想に及ぶと、中佐は聲を一段とはりあげ、
「 相澤の申し上げることに、革新などという言葉をあてはめられるのは、全く誤りであります。
 天子様のまします國に 國家革新などということがありえよう筈はありません。
まずこの點をはっきりきめてかかります 」
とて、
政党、財閥の積弊を痛感し、
ついで
靑年將校運動の本質は、

上下一致の精神的合一をなんとかつくり上げたい、
それのみを念願するものだ
といい、
「 靑年將校が國家革新のためには、直接行動もあえて辭せぬ、
 などと簡單に申されるのには、全く心外のいたりであります。
靑年將校の日夜切磋琢磨する實情を見れば、日本の國民として涙にむせぶものがありましょうか 」
と 叫ぶように述べたてた。
なお、この第一日において注目をひいたことは、
彼が趣味を問われて參禅修養と答えたことから、
禅について問いただされ、
「 自分は東久邇宮のお伴をして仙台の松島瑞巖寺に行ったとき、
 殿下は中隊附將校に、
「 禅は國家のためにやるべきものだ 」
と 仰せられましたので、れに感じて禅をやるようになりました。
自分は仙台市で有名な輪王寺の無外和尚の門を叩いたところ、
とうてい辛抱できるものではないから、と斷られました、
が、志を曲げず、和尚にたのみこんで輪王寺に止宿し、
約三年間、軍務の余暇をさいて參禅して自己を解脱し
一心御奉公の修養をつづけたのであります 」
と、修行の固さのほどを明らかにした。

最後に裁判長が、
「 仙台の和尚とは、いまなお交渉があるのか 」
と たずねると、
相澤は急に顔を伏せて泣き出した。
そして涙声で、
「 決行後、二回、面会に來られました 」
「 一番、心に殘った教えはなにか 」
相澤は、きっとなって、
「 尊皇絶對であります。
 あらゆるものは尊皇絶對でなければなりません。
軍人は今こそ幾分なりともざんげして天皇の赤子にかえれ 」
と、大聲をあげた。

公判第一日、
この事件に異常の關心をもってつめかけた傍聴のひとびとは、
相澤の人となりを目のあたりにみ、かつ、この裁判の前途の重大さをひしひしと感じ、
あらためて、陸軍部内の見えざる暗流、葛藤の實在を信じ、ひとしく眉をひそめ、軍のために痛嘆した。

神がかり問答
相澤公判は二日か三日おきぐらいに行われた。
その第三回目の二月一日だった。
鵜沢弁護人は、佐藤裁判長に師團司令部にもたされた血書二通を提出した。
佐藤少將がいちおう 眼を通してから、相澤中佐に示すと、彼は深く頭をたれて涙をふいていた。
やがて、頭をあげると、軍隊や陸士敎育の欠陥を論じ、
「----私慾のために、ほらが峠をきめこんで、いつも利口に立ちまわっているようなものは、
  あくまでも一刀両斷にすべきであります」
と、結んだ。

第四回目の二月四日は、
前三回にくらべ、相澤の態度はずっと落ちついていた。
もういうべきことは言ってしまった、という安堵感があったのであろう。
劈頭、裁判長が  「 何か話したいことがあるか 」 と たずねたのに対し、
相澤は、
「 この尊い法廷において、相澤の信念を吐露させていただいたことは、無上の光榮と思います。
また、鵜沢先生のような尊敬すべき方から弁護をうけることは、なによりもありがたいことであります。
自分は、さきに三長官會議にふれて、輔弼の責任云々といって、
參謀總長宮殿下に言葉をおよぼしましたが、これは考えるだに畏れ多いことであります。
最後に齋藤内府が、今朝の陸軍定期異動について、
「 この異動は大御心に副ったものである 」
と いったが、その點全く同感でありまして、
今後側近にあって、ますます重責を果たされることをねがってやみません 」
いかにも最後の挨拶のような陳述をしたが、裁判長は、なお、審理上必要があるので、いま少したずねたい。
重複をかえりみずに答えるよう と、さとした。
これから審理はつづけられ 相澤の決行と國法との関係、決行の決意、決行後の臺灣赴任などの神がかり問答が行われた
「 被告は今回の決行と國法との關係を、どういうふうに考えたか 」
「 決行を決意するにいたりましたのは、絶對の境地においてであります。
 主観と申しますか、絶對の境地になったときは、尊い気持ちが支配しておりますから、
ほかのことは考えなかたのであります」

「 原因動機をきけば、決して發作的でなく、熟慮を重ねたのちの決行で、 決行前に法的關係を考えなかったのか。
 人を殺害すること、ことに上官を殺害することは、軍人としては重大にことだ 上官を殺害すればどうなるか、その点を考えなかったのか 」
「 それは、しじゅう考えていましたが、いま申し上げましたような心境になったので、
  決行は正しいから、法はかえりみる必要はないと思っていたのであります 」

「 國法をかえりみないというのは、國法を尊重しなくてもよいというのか 」
「 敎育勅語に國憲を重んじ、國法に遵い、とあります。自分はこの勅語を重んじ、從うものであります 」
「 それでは、被告は國法の大切なことは知っているが、今回の決行はそれよりも大切なことだと信じたのか 」
「 そうであります。大悟徹底の境地に達したのであります 」
さらに、この決意にいたるまでの事實認識について、
「 なにをもって、かかる事實を信じたのか 」
「 前、述べたような私の眞劍な感じと、實際見聞した點からであります 」
「 永田局長に辭職勧告の日、西田方における會合の模様はどうか 」
「 大蔵大尉以外には會わず、翌朝歸福し、村中からの文章を受けとったのであります 」
「 それを真實と思ったのか 」
「 そうであります 」
「 そのとき、せっかく事情をたしかめるために上京したのだから、なぜ、もう少しほかの方面で確かめなかったのか 」
「 そのときの氣分は、ちょうど軍人が戰場において、刃の下で向かい合っているような鋭い氣分で、
 いま、この法廷で考えられるような呑氣なものではありません 」

訊問はここでも、相澤精神の不可認知論につきあたった。
「 では、要するに、その間の事情が、永田局長の術策によるものと信じたのかね 」
「 南、林閣下らが、元老、重臣、官僚、財閥たちとともに、背後にいて、
 永田閣下にやらせていた、と かたく信じていました 」

「 その意見が、どういう根拠から出たかということを、いま少し、考える餘地はなかったか 」
「 わたしはどこまでもご奉公する、と いう氣分で、他に考えはありませんでした 」

このようにして、相澤の神がかり問答は、
決行後の臺灣赴任におよび、彼のいう認識不足の問題、
すなわち、うまくいけば無罪放免、惡くいけば殺されるということ
----しかし、彼のやったことは、うまくいかなかった。
そこに認識の不足があったと述べたことから、
杉原法務官との間に、この「認識不足」の問題をめぐって、二、三の押問答がくりかえされた。
すると、鵜沢弁護人が立って、
「 被告は、決行した行爲自體が認識不足と思ったのか、
決行後、目的の維新に達しなかったのが、認識不足というのか、
はっきりしないものがある。この點をはっきりしていたたきたい 」
と 發言したので、杉原法務官が相澤に問いただすと、
「 決行することに認識不足はありません。よいことだと思っています。
  決行後のことが認識不足であったのであります 」

「 それでは、維新が來るという、それができなかったと解釋してよろしいか」
と鵜沢博士が念を押すと、
「 そのとおりであります 」
と 相澤は、はっきり答えた。

・・・
大谷敬二郎 著 
二・二六事件 相澤公判から
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鵜沢聡明


昭和十一年二月七日 ( 二・二六事件に先立つ二十日以前 )
當時相澤事件の弁護人であつた鵜沢総明博士が、
新聞記者に發表して世間を驚かしめた聲明文がある。
その一節にいう、
「 ・・・・陸軍省における相澤中佐事件は、皇軍未曾有の不祥事であります。
本事件を單に殺人暴行という角度から見るのは、皮相の讒そしりをまぬかれません。
日本國民の使命に忠實に、ことに軍敎育を受けた者のここに到達した事件でありまして、
遠く建國以來の歴史に、關連を有する問題といわなければなりません。
したがつて、統帥の本義をはじめとして、
政治、經濟、民族の發展に關する根本問題にも触れるものがありまして、
實にその深刻にして眞摯なること、裁判史上空前の重大事件と申すべきであります・・・(下略) 」
右の文中において鵜沢博士が、
「 日本國民の使命に忠實に、ことに軍敎育を受けたる者のここに到達した事件でありまして、
遠く建國以來の歴史に関連を有する云々 」
と いつておられる點が最も重要であるが、これは具體的には何を意味するかといえば、
相澤中佐事件は、
わが建國以來の歴史や、軍人への勅諭、敎育勅語、大日本帝國憲法等によつて、
眞面目に敎育を受けた軍人が敢行した事件である という意味である。
したがつて、そこに相澤事件の重大性があるというのが、鵜沢博士の意見である。
・・・リンク→ 注目すべき鵜沢博士の所論 


相澤三郎 發 西田税

2018年05月24日 20時00分59秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )



昨日浜ノ上氏來駕本三日
同氏に左記要旨の返事
書置き候要旨 「 弁護
人の事は未た全々考へ
居らざる事は申述候通

りにして從つて其人選に関
しても何の所存無之候も
拙生と心を同する人例
は西田大岸菅波村中大蔵
磯部等の意志を本として
御世話被下度貴意を願    
度奉悃候  
先日は磯部兄の差入難
有拝受  御蔭にて壮健
讀書も初め居り候
皆様の御健勝を御祈
申上候  敬具
九月三日    相澤三郎
西田税様
・・・何の所存無之候も・・・ハ
・・・「 今のところ何の所存無之候も 」 との意に
御推察置被下度


相澤中佐公判 ・ 西田税、澁川善助の戦略

2018年05月24日 13時26分15秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


永田中將刺殺の相澤中佐 けふ 起訴
公判は來月上旬か

前軍務局長永田鉄山中将殺害事件は去る八月十二日事件直後から加害者相澤三郎中佐を
第一師団軍法会議豫審官が二ヶ月間にわたり厳重取調べた結果、
既報の如く豫審終結し島田朋三郎検察官の手許で起訴状作成中のところいよいよ完成したので
二日第一師団軍法会議長官柳川平助中将の決裁を經、同中将はこれを川島陸相に報告をなすとともに
別項の如く相澤中佐を陸軍刑法の 「 用兵器上官暴行罪 」 をもつて正式起訴した
かくて本件は第一師団軍法会議公判に付せられ 近く判士長 ( 少将 ) 以下判士三人 ( 大佐二人、中佐一人 )
法務官一人、計五人を裁判官として任命することになつたが法務官は今回の事件のため特に先般第十師団より着任した
新井朋重法務官が當り島田検察官がこれを立會ふことに決定している。
公判の開廷期日は判士任命後記録の謄冩、閣議その他の公判準備に約一ケ月を要するため
大體十二月初旬と見られ 事実審理ならびに辯論に十数日を要する関係上
特別の支障なきかぎり十二月二十三、四日ごろまでに結審のうへ 判決言渡しは明春に持越すと陸軍當局では観測している
・・・大阪朝日新聞  昭和10 年 11 月 3 日
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

相澤中佐は十月十一日豫備役に編入せられたが、
其の審理は第一師團軍法會議岡田豫審官によって續行せられ、
十一月二日豫審終了し、用兵器暴行、殺人及傷害事件として同日公訴を提起せられた。
而して其の後、歩兵第一旅團長佐藤正三郎少將以下が夫々 判士長、判士に任命せられ、
辯護人は鵜澤聡明博士、特別弁護人として陸軍大學教官満井佐吉中佐と決定した。
一方、本事件發生の當初より一部に於ては所謂怪文書の頒布によりて、相澤中佐の行爲を激賞し
單なる私憤私慾に發したるものにあらず。
眞に天誅とも稱すべき事件にして已むに已まれぬ大和魂の流露である。
等と稱しつつあつたが、
公判期日の切迫と共に、西田税 及直心道場の一派にあつては愈々其の立場を明かにして
「 國體明徴--肅軍--維新革命 」 は
正しく三位一體にして、相澤中佐蹶起の眞因亦茲にあり。
從って 「 超法律的の團體、超法律的維新に殉ずるものの受くる所、又同様超法律的でなければならぬ 」
と強調するに至り、左記文章等によつて他の革新團體に飛檄し、
公判公開の要請及減刑運動を慫慂し、以て昭和維新達成の機運醸成に努めた。

左記
國體明徴と肅軍と維新とは三位一體なり。
國體明徴が單なる學説竝學説信奉者の排撃に止まるべからず、
諸制百般に歪曲埋没せられたる國體實相の開顯、
而して此の維新せられたる皇國態勢を以てする全世界への皇道宣布ならざるべからざる以上、
國内に於て反國體の現狀を維持せんとする勢力 ( 機關説擁護=資本主義維持=法律至上主義=個人主義自由主義 )
が現に政治的權力を掌握しあり、
又内外勢力の切迫より檯頭だいとうせる所謂金權ファッショ勢力 ( 權力主義者と金權との結託せる資本主義修正、
 統制万能主義勢力=官僚ファッショ は此の一部 ? ) が政權を窺窬きゆしつつある今日に於て、
まつろはぬ者を討平げ、皇基を恢弘すべき實力の中堅たる皇軍の維新的肅正は、
國體明徴、維新聖戰に不可欠の要件焦眉の急務なり。
一、
國體明徴運動進展途上に於ける陸軍首脳部の態度は、新陸相に於て全權ファッショ的野望を抱きながら、
郷軍の彈壓と永田の伏誅に餘儀なくせられて表面を糊塗したる欺瞞的妄たり。
現陸相に於て國體護持、建軍本義に恥ずべき右顧左眄たり。
對政府妥協たるは何ぞ、
是れ皇軍内部に巣食ふ反國體勢力への内通者、
ファッショ勢力乃至自由主義明哲保身者流の國體に對する無信念、
皇軍の本義に対する無自覺に禍せられたるによらずんばあらず。
國民は皇軍の現狀に深甚なる疑惑と憂慮とを抱かざるを得ず。
一、
永田事件直後に於ける陸軍當局の發表は、相澤中佐を以て
「 誤れる巷説を妄信したる者 」 とせる、
眞相隠蔽、事實歪曲たり。
次で師團長軍司令官會議に於て發したる陸相訓示は全く皇軍の本義を解せず、
時世の推移に鑑みざる形式的 「 軍紀粛正 」 「 團結強化 」 の鞏調にて
其の結果は忠誠眞摯なる將士の處罰たり。
此の方針を踏襲せる現陸相は其の就任當初の國體明徴主張を空文として政府と妥協したるのみか、
至純なる郷軍運動を抑壓するの妄擧に出で來る、國民の憤激は誘發せられざるを得ず。
一、
現役のみが軍人に非ず、國民皆兵軍民一體なり。
全國民は皇軍の維新的肅正に對し十全の要望督促をなさざるべからず。
一、
今や皇軍身中の毒虫を誅討する相澤中佐の豫審終結し、近く公判開始せられんとす。
國民は眞個軍民一體の皇運の扶翼を可能ならしむべく、皇軍の維新的肅正を希求し、
此の公判を機會として軍内反國體分子の掃蕩を要求すべし。

⑴  公判は公開せざるへからず。
一部首脳者の姑息なる秘密主義は國民をして益々皇軍の實情に疑惑を深めしめ軍民一體を毀損し、
大元帥陛下の御親率の國民皆兵の本義に背反するものなり。
⑵  三月事件、十月事件の眞相、總監更迭に絡る統帥權干犯嫌疑事實を闡明せんめいならしめ責任者を公正に處斷して
上下の疑惑を一掃し軍の威信を恢復すべし。

肅軍は單に軍部内に於ける國體明徴なるのみの意義に非ず、
肅軍の徹底は破邪顯正の中堅的實力の整備を意味す。
反國體現狀維持勢力が政權を壟断し、國民至誠の運動を蔑視しつつある今日、
言論決議勧告のみにして實力の充實、威力の完備なき糾弾は政府の痛痒を感ずる所に非ず。
實に肅軍は國體明徴の現實的第一歩にして維新聖戰當面の急務なりとす。
以上
 
更に直心道場は皇道派民間團體の牙城として
西田税の指導下に雑誌 「 核心 」 「 皇魂 」 及新聞紙 「 大眼目 」 等を總動員して相澤公判の好轉、
維新運動の推進のため宣傳煽動に努めつつあったが、
就中 「 大眼目 」 は
西田税、村中孝次、磯部淺一、澁川善助、杉田省吾、福井幸 等を同人として、
宛然怪文書と異る所なき筆致を以て 「 重臣ブロック政党財閥官僚軍閥等の不當存在の芟除 」 を力説し、
「 革命の先駆的同志は異端者不逞の輩等のデマ中傷に顧慮する所なく不退轉の意氣を以て維新革命に邁進すべき 」
ことを煽動し、之を軍内外に廣汎に頒布する等 暗流の策源地たるの観を呈して居つた。
同年 ( 昭和十年 ) 十二月末の岩佐憲兵司令官の報告通牒に依れば
一、相澤中佐を支持するものとして
 北一輝  西田税一派    勤皇維新同盟    直心道場    大日本生産党    愛國者
建國會    黒竜會    國粋大衆党    鶴鳴荘    國體擁護聯合會    三六社    愛國靑年聯盟
二、靜観的態度を持するものとしては
 明倫會    皇道會    國民協會    愛國政治同盟の大部
三、反相澤の態度を持するものとしては
 大亜細亜協會及民間浪人高野清八郎    山科敏    社會大衆党    大日本國家社會党    新日本國民同盟の大部
として居る。

現代史資料4  国家主義運動1
「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 
(五) 相澤中佐公判を繞る策動   から


憲兵訊問調書 「 天誅を加へたり 」

2018年05月24日 06時22分54秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


相澤三郎
相澤事件關係訊問調書

被告人尋問調書
被告人 陸軍歩兵中佐相澤三郎
右ノ者ニ對スル殺人持兇器上官暴行傷害事件ニ附
昭和十年八月十二日麹町憲兵分隊ニ於テ

本職ハ右被告人ニ對シ訊問ヲ爲スコト左ノ如シ

氏名年齢所属部隊官等級族称本籍地出生地住所は如何
氏名は 相澤三郎
年齢は 四十七年
所属部隊は 台湾歩兵第一聯隊附台湾総督府 台北高等商業学校服務
官等級は 陸軍歩兵中佐
族称は 士族
本籍地は 宮城県仙台市東六番町一番地
出生地  福島県白河町以下不詳
住所は  広島県福山市御門町千五百三十七番地
位記勲章記章年金恩給を有セザルヤ
從五位勲五等瑞宝章ヲ持ツテ居リマスガ、今回ノ行賞ノ方ハ未ダ不明デアリマス
記章ハ大正御大礼記念章、昭和御大礼記念章、日韓併合記念章ヲ持ツテ居リマス
刑罰ニ処セラレタルコトアリヤ
判キリ記憶ハ有リマセンガ、懲罰ハ二三回アリマス
昭和六年十月事件ノ際大隊長トシテ無断上京シ重謹愼ニ処セラレタコトガアリマス
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   

今回上京セラレ永田軍務局長ヲ殺害セラレタル經過ヲ問フ
私ガ異動ノ内命ヲ受ケマシタノハ八月一日ノ暮方、
臺灣ノ歩兵一聯隊カラ赴任家族携行ノ電報ガアリマシテ、
初メテ今度臺灣ニ赴任スルトイフコトヲ知リマシタ。
私ガ實際ニ知リマシタノハ八月三日ノ官報デ異動ヲ知ッタノデアリマス。
別ニ之ト云フ感ジモ有リマセンデシタ
上京ト云フコトハ種々ノ意味デ上京シマシタ。
特ニ臺灣ニ赴任スルカラト言フ様ナ意味デハ有リマセン。

一、最近下痢ヲ致シマシテ養生ヲ致シテ居リマシタノデ、
 早ク荷物ヲ纏メ終ツテカラ上京シ様ト思ツテ居リマシタ。

一、永田軍務局長殺害ノ目的デ上京シマシタガ、
 此ノ考ヘヲ判ツキリ持ツタ事ハ大分前カラデアリマシテ、
此ノ事ハ家族ニモ部隊ノモノニモ言フタコトハ有リマセン。

一、福山ヲ出發シタノハ八月十日午前八時十八分發ノ二等列車デ、軍服ノ儘上京シマシタ。
 殺害ノ兇器ハ自分ノ佩用シテ居ル軍刀デヤル決心デシタ。
午后一時大阪驛ニテ途中下車シ、第四師團長官舎ニ自動車デ參リマシタ。
[ 東久邇宮稔彦王 ] 師團長殿下ニ轉任ノ御挨拶ヲ致シマシタ。
夫レカラ直ニ引返シ自動車デ梅田驛ニ着イタノハ二時一寸過ギデアリマシタ。
師團長宮殿下ハ二十九聯隊ノ中隊長當時部下ニアリマシタノデ時々御拝謁ニハ伺ツテ居リマス。

一、午後四時四分大阪發拓殖行列車ニ乗車シ亀山ニテ乗換ヘ午后九時山田驛着、
 同夜山田驛前ノ旅館ニ一泊シ 翌朝十一日午前五時三十分神宮ニ參拝シ、
午前八時三分山田驛發列車ニテ途中名古屋ニテ乗換ヘ午後九時十九分品川驛ニ着、
省線電車ニ乗換ヘ原宿驛ニ下車シ明治神宮ノ第一鳥居ノ前ニ參拝シ 圓タクニ乗リ
渋谷區千駄ヶ谷 西田税ノ所ヘ參リマシテ
約ク一時間ニ亙リ西田ト共ニ雑談シ、
午後十一時頃同家ニ一泊致シマシタ。

一、八月十二日午前七時頃起床シ
 同八時西田サント奥サント三人デ朝食ヲ喫シ、

 同九時頃同家ヲ辭シ、
圓タクニ乗リ陸軍省裏門カラ乗リ入レテ受附ニ參リマシタ。

受附ニ山岡閣下ハ何処ニ居ラレルカト聞イタ処、偶然通リカカリノ給仕ガ直グ案内シテ呉レマシタノデ、
整備局長ノ外ノ廊下ニ持ツテ居ルト、ソノ給仕ガ直ニ案内シテ閣下ノ室ニ入リマシタ。
ソノ時マント、トランクヲ入口ノ処ニ置キマシタ。

一、山岡閣下ニ御進級ノ挨拶ヲ致シマスト、ソレニカケ給ヘト言ヒマシタカラ腰ヲ卸シ、
 永田閣下ニ會ヒタイト言ヒマスト、何ノ用件カト言ヒマシタカラ
「 別ニ申上ゲル程度ノ事デハナイ 」 ト言ヒマシタ。
閣下ハ給仕ニオ茶を持ツテ來ル様ニ命ジ給仕ガ茶ヲ持ツテ來タ時ニソノ給仕ニ對シ、
私ハ 「 永田閣下ガ部屋ニオ出ニナルカ見テ來テ呉レ 」
ト言ヒマスト給仕ハ直ニ參リマシタ。
ソノ間ニ私ハ閣下ニ對シ國家ノ爲オ盡シニナルコトヲ申上ゲマスト、
閣下ハ平常ノ癖デ盡さナイト言ヒ、機嫌ヲ損ゼラレタノデ
「 私ハ只今ヨリ永田閣下ニ御會ヒシテ參リマス 」
ト申上ゲタ処、
閣下ハ
「 下手ナコトヲ言フト眞崎閣下ニ御迷惑ヲカケルカラ注意セヨ 」
ト言ハレマシタ。
給仕ガ永田閣下ガ室ニ居ラレルコトヲ知ラセテ來タノデ、
閣下ニ對シ挨拶ヲシテ整備局長室ヲ出マシテ軍務局長室ニ向ヒマシタ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
局長室ニ入ルト同時ニ佩用ニ軍刀ヲ抜イテ無言デ局長ノ机ノ処ヘ走ツテ行キマシタ。
當時局長ノ机ノ前ニ二名ノ將校ガ居リマシタガ、直チニ永田閣下ニ斬付ケマシタ処、
永田閣下ハ机ヲ離レテ之ヲ避ケラレタ爲、
第一刀ハ傷ヲ負ヒマシタカドウカ不明デスガ、
永田閣下永田閣下ハ軍事課長ノ室ノ方ヘ走ラレマシタノデ之ヲ追ヒ、
扉ノ処デ第二刀ハ永田閣下ノ背後ヨリ刺シマシタ。
コノ時私ハ軍刀ノ柄ヲ右手ニ握リ左手デ刀身ヲ握リ力一杯刺シタル処、
永田閣下ハ倒レラレ直チニ起キ上ガリ
軍務局長室ノ應接テーブルノ処ニ走ラレ仰向ケニ倒レラレマシタノデ
更ニ左耳上部ニ斬付ケマシタ。
當時在室ノ將校二名ニ負傷セシメタカ否カ、其ノ將校ガ如何ナル動作ヲシタカハ不明デスガ、
此ノ時隣室ガ喧シクナッタノデ入口カラ廊下ニ出テ刀ヲ鞘ニ納メ、整備局長室ニ行キ
山岡閣下ニ對シ

「 皇軍ガ現時幕府ノ軍ノ如クナリツツアルニ對シテ天誅ヲ加ヘタリ 」
トテ永田閣下ヲ殺害シタコトヲ述ベマシタ処ヘ、雇員及歩兵大尉 ( 氏名不詳 ) ガ來テ、
之ニ附添ハレテ負傷シタ左指ノ手當ノ爲陸軍省内ノ衛生局衛生課デ繃帯中、
憲兵ガ來マシテ直チニ自動車ニ乗セラレ麹町憲兵分隊ニ運バレマシタ。

永田軍務局長ト貴官トノ關係如何
部下ニナツタ事ハアリマセンガ、
私ガ昭和二年春熊本歩兵第十三聯隊中隊長ノ時
永田閣下ガ陸軍省カラ動員檢査ニ來ラレタ時、將校集會所デ御話サレマシタ。
其ノ時始メテ面識致シマシタ。
直接話ヲ交シマシタノハ本年七月十八日上京シ、同日ハ偕行社ニ泊シ翌十九日陸軍省ニ至リ、
午後三時頃陸軍省軍務局長室デ午後五時頃迄意見ノ交換致シマシタ。
私ハ現在ノ時局ニ鑑ミテ軍務局長ノ位置ニ至ルハ不可ナリトテ辭職ヲ勧告シマシタガ、
永田閣下ハ此ノ事ニ就テハ一言モ述ベラレマセンデシタ。
最後ニ十一月事件ノ責任ヲ問ヒマシタ処、永田閣下ハ全ク關係ナキヲ以テ責任ナシト答ヘラレ、
今日ハ時間モ無イカラ機會ヲ捉ヘテ話スト述ベラレマシタ。
私ハ之デ永田閣下ノ人物ニ對シ認識シ陸軍省ヲ辭シ
十九日夜ハ 千駄ヶ谷 西田税方 ニ宿泊シ、
翌二十日午前八時五十五分頃臨時特急デ趣キ
二十日夕刻大阪デ下車シ前以テ電報シテ置キマシタ、
和歌山歩兵第六十一聯隊附 歩兵大尉 大岸頼好 ニ出迎ヘラレ共ニ旅館ニ參リマシタ。
大岸大尉ハ私が青森歩兵五聯隊大隊長當時の中隊附將校デアリマス。
種々快談ノ上翌二十一日ハ師團長宮邸ニ伺候、昼頃一路福山ニ歸リマシタ。

永田閣下ニ對スル考ヘを述ベヨ
現時皇軍ガ私兵化セルハ國家ノ危機ニシテ、
此ノ事ハ全軍將校ノ責任ト考フルモ、
尚三月事件、十月事件等軍ノ不統制ガ社會ニ暴露セラレタルコトノ
最大ノ責任者ハ永田軍務局長ニアルト信ジ、
此ノ國家重大ノ秋何トカシテ皇軍ヲ正道ニ復歸セシムルコトニ日夜煩悶心身ヲ勞シテ居リマシタ。
最近村中、磯部ノ意見書ガ一般ニ配布セラレアル今日、
靑年將校ノ妄動トナリ又軍ノ威信ヲ失墜シ、之ガ爲責任者タル陸相、軍務局長等ガ軍人以外ノ者ニ葬ラレルコトアレバ、
皇軍ノ威信ハ益々失墜スベシ、此ニ於テ皇軍ヲ正道ニ復歸セシムル爲ニハ一刻モ速カニ機會ヲ作リ、
天聽ニ達セシメント日夜苦心ノ結果、
永田閣下ヲ殺害スルノ決意ヲシタモノデアリマシテ、永田閣下個人ニ對シテハ何ノ恨ミモアリマセン。
唯皇軍正道化ノ機ヲ作ル爲ニ犠牲トシタモノデアリマス。
今日ノ社會ハ腐敗堕落ノ極ニ達シ此ノ儘ニ進マンカ、我ガ皇國日本ハ蒙古ノ二ノ舞ヲ演ジ、
遂ニハ瓦解ノ運命ヲ辿ルヲ恐レタカラデアリマス。

山岡整備局長トノ關係如何
私ガ大正十四年ヨリ大正十五年ノ間陸軍士官學校附トシテ同校劍道助敎ノ監督ヲ致シマシタ當時、
山岡閣下ハ生徒隊長トシテ居ラレマシタ。
閣下ハ正直ナ閣下デ、尊キ方トシテ心服シテ居リマス。
爾來儀礼的ナ文通ハ今迄書イタコトハアリマセン。

永田閣下殺害後如何ニスル考ヘナリシヤ
私ハ生命ノアラン限リ皇國ニ盡サザルベカラズトノ信念ヲ有スルヲ以テ、
天ニ代リ永田閣下ヲ殺害シタノデアリマシテ、
相澤個人トシテハ臺灣ニ赴任シ
与ヘラレタ職務ヲ完フシナケレバナラナイト信ジテオリマシタ。


永田閣下殺害之件ニ關シ誰カニ相談し、或ハ洩ラシタルコトナキヤ
誰ニモ相談又ハ洩シタコトハアリマセン。
他ニ洩シタリ、或ハ相談セバ党ヲ結ブコトニナリ、
皇軍將校トシテ党ヲ結ブコト夫レ自體ガ私兵化スルコトデ、私ノ信念ト反スルコトニナリマス。
随ツテ本擧ニ關シテハ妻子ハ勿論、西田ニモ斷ジテ洩シテアリマセン。

永田閣下ヲ殺害シタルトキ使用シタルハ此ノ軍刀ナリヤ
此ノ時証第一號トシテ押収セル被告人本件使用ノ軍刀ヲ示ス
此ノ軍刀ニ相違アリマセン。
本刀ハ私ガ陸軍士官學校卒業ノ際亡父ヨリ貰ヒマシタモノデ、河内守藤原國定・・ノ銘ガアリマス。

本件ニ付陳述スベキコトアリヤ
ナシ

相澤三郎

右讀聞ケタル処相違無キ旨申立ツルニ附署名拇印セシム
昭和十年八月十二日
麹町憲兵分隊
陸軍司法警察官
陸軍少佐 森健太郎


新聞報道 ・ 第一回公判開廷 『至尊絶對』

2018年05月23日 08時58分58秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


廿八日の永田事件、相澤中佐の公判は
午前十時五十五分再開後
身許調査、賞罰、經歴、家庭の事情、健康状態、趣味等につき尋問があって、
次に相澤の思想、信念を訊く
法  『 被告の日頃の感慨は・・・・ 』
相澤中佐は一段と聲に力を入れ 直立不動の姿勢で
相  『 私は小さい時から賢父に次のことを教へられました、
私の父は明治維新の際 大義名分を誤り、賊となつた事を残念に思ひ
「 お前が大きくなつたら陛下の御爲めに盡さなくてはいけない、今一つは世の中には自分のものは一つもない、
總て天子様からお預かりしているもので、恩返ししなくてはならない 」
と 教へられました。
かうして私は大きくなりました恭しく思ひまするのに、天皇陛下は天照皇大神と共に天地創造の神であります
大君 は古今東西、過去現在將來を通して絶對であらせられます、
吾々がこの世に生れた眞の意義は顕官や富豪になるといふやうな生物的慾望であつてはならない、
東西を通じて人間の眞の使命は道徳の完成と眞理の究明に向つて進むべきにある、
日本人は大神の広大無邊の懐に包まれて生まれているのであつて、
日本の使命は天の大岩戸を開いて廣く全世界に御稜威を輝かすにあります、
私の信念は以上述べました處によつて私利私慾の根源をなくするため明治維新の版籍奉還則り、
この總ての財を陛下に奉還するにあると思ひます 』
引き續き思想的、人格的に
影響 を受けたについては
相  『 かつて東久邇宮殿下が瑞巌寺に威らせられた時
「 禅は國家のため學ぶべきものだ 」
との御言葉を拝し、知人の紹介で仙臺の輪王寺に至り、無外和尚に禅の指導を受け、
更に修養を積むため時の東北帝大總長北条先生の許に弟子入りして種々思想的にも、
人格的にも多大の指導を受けた 

この時裁判長
裁  『 無外和尚さんは まだ御無事か、そうして交際を續けているのか 』
との質問に相澤中佐は
相  『 結婚した後 二三度お目にかかりました 』
と感涙にむせびながら
師恩 の有難さを るる 述べ
更に
裁  『 被告の信念は・・・・ 』
との質問に對し
相  『 至尊絶對 ! 』
と結んで 午前十一時四十分 公判を打切る


第一回公判廷の相澤中佐

  
       
佐藤判士長         杉原法務官       島田検察官      鵜沢弁護人         満井特別弁護人

昭和十一年一月二十八日、第一師団軍法会議法廷に於て
佐藤少将判士長、小藤、木谷、木村 各大佐  岩村中佐の各判士

杉村主理法務官、島田検察官、鵜沢弁護人、満井特別弁護人 等関与の下に第一回公判が開廷せられ、
其の後二月二十五日、二・二六事件突発前日迄 十回開廷せられた。


第一回公判 ・ 満井佐吉中佐の爆弾發言

2018年05月23日 06時06分57秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

相澤公判
第一師團軍法會議
罪名  陸軍刑法による 用兵器上官暴行罪、一般刑法の殺人罪および傷害罪
長官  師團長柳川平助中將
判士  歩兵第一旅團長佐藤正三少將、歩兵第一聯隊長小藤恵大佐、
判士  野砲兵第一聯隊長木谷資俊大佐、戰車第二聯隊長木村民蔵大佐、
判士  本郷連隊區司令部付若松平治中佐
判士  杉原法務官
裁判長  佐藤少将
檢察官  第一師團法務部長  島田朋三郎法務官
特別辯護人  陸軍大学兵學教官満井佐吉中佐
辯護人  法曹界の重鎭 鵜沢總明博士

法廷の周辺には憲兵が武装いかめしく立ちならび、
その警戒の嚴重さは、一種のものものしい雰囲氣が流れていた。
新聞社は司令部の構内にテントを張り、電話をひきこんで取材に大わらわになっていた。
法廷内特別傍聽人席には、
小栗警視總監、安倍特高部長などの民間がわをはじめ、
相澤の同期生代表參謀本部庶務課長牟田口大佐などの將校たちがぎっしりつまり、
東京警備司令官香椎浩平中將、山下奉文軍事調査部長、大山法務局長などは、
一段高い法務官席のうしろの椅子にずらりと竝んでいた。


« 相澤公判 »
第一回公判
昭和11年1月28日、午前10時 開廷
この前日
特別辯護人満井中佐は、公判をまえにして、
「 私は 獄中の相澤中佐とたびたび面會し、意見をかわした結果、
中佐の心情はよくわかりました。
豫審調書でみると、犯行の動機が怪文書に刺激されたようになっていて、
中佐の意志があいまいになっているようです。
もし、公判がわれわれの辯護を制壓するようなことがあれば、
私は中佐にかわって國家革新の大目的のため、全力をつくして戰う覺悟です。
場合によっては職を賭すようなことになるかもしれません 」
と 語り、その決意のほどを誇示していた。

満井佐吉 

満井の爆弾發言
定刻十時、判士長は開廷を宣し、かたのごとく相澤に対し人定訊問を行った。
相澤は陸軍中佐の軍服を着用していた。
この訊問が終ると、判士長は島田檢察官に起訴狀の朗讀を促した。
そのとき突如、満井中佐が立ち上って、
「 判士長! 」
と 大聲で發言を求め、本公判の進行に關し特別辯護人として重大提言があるという。
判士長がこれを許可すると、満井中佐は三つの爆彈動議を出した。
豫審のやり直しをせよ、というのである。
「 第一、
本被告事件の豫審調書、公訴狀は甚だ不明瞭なものである。
皇軍の本質にもとづいて公人的行爲と私的行爲とは、
これを區別しなければならぬにもかかわらず、事件は公人の資格で行ったのか、
私人の資格でやったものであるのか、
犯行の主體たる被告を審理していないので、この點甚だ不明瞭である。
第二、
本件の行動に關する被告の審理はできているが、その原因動機たる社會的事實、
すなわち軍の統帥が元老、重臣、財閥、官僚等によって攪亂せられたる事實については、
なんらの審理もしていない。
第三、
被害者たる永田中將の卒去の時刻が不明瞭である。
すなわち、當日陸軍省の公表によれば 午後四時半卒去せりとある。
軍医の檢案にもとづく島田檢察官の報告によれば、數刻を出でずして卒去せりとある。
はたして陸軍省の發表通りとせば被告は重傷を負わし その後に死に到らしめたことになり、
檢察官の報告によれば殺傷したことになっている。
この點に重大な疑義を有するもので、誤りは陸軍大臣にあるか、島田檢察官にあるか、
軍医は確實に診察したであろうから、おそらくは檢察官のいうところがほんとうであろう。
時の陸軍大臣、首相、宮相が永田中將卒去後にもかかわらず、
僞って陛下を欺き奉って位階の奏請をなしたものと考える。
---以上 この重大事件をめぐって、
陸相、宮相の處置と島田檢察官との間に重大なる くい違いがあることは、
影響するところ大であるから、判士長は十分に考慮されたい。
したがって この間の眞實を究明するまで、この公判は中止されるのが至當である 」

佐藤判士長は 直ちにこの動議を脚下したが、
しかし そこには、この裁判の前途の多難とその重大さを思わせるものがあり、
人々の心を暗くしていた。
いうまでもなく、この裁判は維新か、非維新かの法廷闘爭であった。
相澤事件を通じて、軍を中心とする現狀維持勢力を徹底的にあばくこと、
すなわち、それは相澤犯行の原因動機が、果して巷説を盲信したものであったのか、
あるいは、眞に眞崎敎育總監の罷免に、統帥大權の干犯があえてなされたものか、
この事實を明らかにすることによって、
元老、重臣、財閥、新官僚と これにつながる軍の統制派
---南大將、林大將、永田少將らを中心とする幕僚群のみにくさを天下に暴露し、
その不逞を根底において叩くことになるからである。
もはや、そこでは、相澤の量刑を輕減することではなくて、
相澤を押し立てて、彼らのいう維新の戰いを展開するものであったのだ。

このあと
島田檢察官は立って公訴狀を讀上げ、
杉原法務官は判士長にかわって被告に對し尋問を開始した。
「 さきほどの檢察官の申し述べた公訴事實は認めるか 」
「 だいたい認めますが---永田閣下に刃を向けたのはそのとおりでありますが、
 根本にわたることについては、腑に落ちない點があります。
原因については詳細お取り調べを願います 」
それから、位階學歴、家庭健康、趣味信仰などについて訊問がつづけられたが、
その訊問が國家革新の思想に及ぶと、
中佐は聲を一段と張り上げ、
「 相澤の申し上げることに、革新などという言葉をあてはめられるのは、全く誤りであります。
 天子様のまします國に國家革新などということがありえよう筈はありません。
まず この點をはっきりきめてかかります 」
とて、政黨、財閥の積弊を痛嘆し、
ついで 靑年將校運動の本質は、上下一致の精神的合一をなんとかつくり上げたい、
それのみを念願するものだといい、
「 靑年將校が國家革新のためには、直接行動もあえて辭せぬ、
 などと 簡單に申されるのには、全く心外のいたりであります。
靑年將校の日夜切磋琢磨する實情を見れば、日本の國民として涙にむせばぬものがありましょうか 」
と 叫ぶように述べたてた。
なお、この第一日において注目をひいたことは、
彼が趣味を問われて 參禅修養と答えたことから、禅について問いただされ、
「 自分は東久邇宮のお伴をして仙台の松島瑞巌寺に行ったとき、
 殿下は中隊附將校に、
『 禅は國家のためにやるべきものだ 』 と 仰せられましたので、
これに感じて禅をやるようになりました。
自分は仙台市で有名な輪王寺の無外和尚の門を叩いたところ、
とうてい辛抱できるものではないから、と 斷られました、が、志を曲げず、
和尚にたのみこんで 輪王寺に止宿し、
約三年間、軍務の余暇をさいて參禅して自己を解脱し、一心御奉公の修養をつづけたのであります 」
と、修業の固さのほどを明かにした。
最後に、裁判長が、
「 仙台の和尚とは、いまなお交渉があるのか 」
と たずねると、
相澤は急に顔を伏せて泣きだした。
そして 涙聲で、
「 決行後、二回、面會に來られました 」
「 一番、心に殘った敎えはなにか 」
相澤は、キッとなって、
「 尊皇絶對であります。
 あらゆるものは尊皇絶對でなければなりません。
軍人は今こそ幾分なりとも懺悔して、天皇の赤子にかえれ 」
と、大聲をあげた。
公判第一日、
この事件に異常の關心をもってつめかけた傍聴のひとびとは、
相澤の人となりを目の当たりにみ、且つ、この裁判の前途の重大さをひしひしと感じ、
あらためて、陸軍部内の見えざる暗流、葛藤の實在を信じ、
ひとしく眉をひそめ、軍のために痛嘆した。

二・二六事件  大谷敬二郎  から


新聞報道・犯人は相澤中佐

2018年05月23日 04時20分37秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


東京朝日新聞 昭和十年八月十五日付夕刊

陸軍省では十三日午後一時四十分永田局長危害事件につき左の如く發表した
陸軍省發表
軍務局長永田中將に危害を加えたる犯人は陸軍歩兵中佐相澤三郎にして、
第一師團軍法會議の豫審に附せらるゝ事となり、
十二日午後十一時五十四分東京衛戍刑務所に収容せられたり。
兇行の動機は未だ審らかならざるも
永田中將に關する誤れる巷説を妄信したる結果なるが如し
同中佐は本月一日の異動において歩兵第四十一聯隊附より台灣歩兵第一聯隊附に轉じ
台灣総督府台北高等商業學校服務を命ぜられたるものなるが
その赴任準備を終り 十一日夜上京したものなり
【 寫眞は相澤中佐 】