香田淸貞
香田大尉がこの事件蹶起を知らされたのは 二月二十三日であった。
しかしその時は二月十八日以来同志間ですでに計画の大綱ができ上がっており 彼はこれを承認したにすぎない。
当時、香田は旅団副官として忙しい毎日を送っていた。
十二月に旅団副官になってからは、
一月に現地演習の地理実査、それから現地演習の指導などで出張することが多く、
二十二日に帰宅して
二十三日は一日家庭でくつろいでいるところ、
村中の訪問をうけて蹶起を知ったのである。
・
その日 ( 二十三日 ) 午前十一時頃
村中が吉祥寺の自宅に彼を訪ね その計画の大要を伝え参加を求めた。
彼は、部隊の実力および決意が十分かどうかを確めたところ、
村中は部隊の方は、非常に強固なものがあるというので、彼は即座にこの決行に同意し 参加に決心したのである。
自重派と見られていた彼のこの即断は西田税のいうように 一見不可解のようだが、
実は彼はその頃にはいつでも蹶起する心の準備ができていたのである。
・
香田は昭和十年六月
天津より部隊とともに帰還したが、
その途中 宇品港外似島検疫所で相澤三郎中佐に会った。
相澤は検疫所に勤務中だった。
ここで国内情勢を聞いた。
七月になると、真崎教育総監更迭問題がおこり 統帥権干犯が云々されたが、
検討の結果 そこには統帥権干犯ありと確信した。
ついで 八月 ( 十二日 )
相澤の永田殺害事件が起こった。
このときには、心から相澤中佐にすまないと思い、
かつ 自分の臆病であったことを恥じ、
それ以来 精神修養に努めるとともに、万一の場合の決心に影響されてはならないと思い、
ひそかに家庭の整理をし終えたという。
それから相澤事件で事態は好転するかと思っていたが、
例の渡辺教育総監の天皇機関説問題がおこり 軍内にも何等の反省はなく、
かえって反対の方向に事が進むように判断せられ、
十二月頃には
これではいかぬ、もはやなんとかせねば収まらぬと思いつめていた。
こうした心境にあった彼は、村中の要請に即座に同意したのであった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・首脳部 ・ 陸軍大臣官邸
蹶起後、彼はもっばら上部工作に従事したが、
彼がもっとも心配していたことは、この蹶起が大御心に副うや否やにあったという。
「 本件決行ニツキ 自分ノ一番シンパイシタコトハ、
コノ大キナ獨斷ガ大御心ニ合スルヤ否ヤノ點ニアリマシタ。
モットモ ワタシ自身ハ大御心ニ合スルモノト確信シテイマシタガ、
神ナラヌ身ノ考エデスカラ、コノ不安ヲモツテイタ次第デス。
コレガタメ今回ノ擧ガ天聽ニ達シ 御下問ガアル場合、
ワレワレノ氣持ヲ正シク奉答シ得ル人ニオ願イシテワレワレノ精神ヲ正シク聖斷ニ訴エテ頂クコトガ、
一番大切ダト考エ 陸軍大臣各軍事參議官ニオ願イシタ次第デス 」
・・( 公判陳述要旨 )
みずからは大御心に合するものとの確信をもっていたと告白していることは、
一体どういう判断に基くものであったろうか。
今上天皇即位ノミギリ朝見式ニオイテ賜ツタ勅語ノご要旨ハ、
「 維新 」 ヲ要望セラレアルコトヲ發見シタ。
コノゴ勅語ノ聖旨實現ニ努力シタノダ。・・といい、
そしてまた
ココカラ 「 大權 」 ノ擁護、顯現ノ至誠ヲツクスコトガ軍人ノ責務ト信ジ、
大權干犯者ヲ討ツコトニ心ヲ砕イタ ・・と述べていた。
だが、これはあまりに抽象的で具体性を欠くが、
彼らの同志間にあっては ひそかに 「 天皇の悩み 」 とて いろいろ取り沙汰されていたようで、
こうしたことから、この一擧が 聖旨に副うもの との確信にたどりついていたのかも知れない。
・・・大谷啓二郎著 二 ・二六事件 から