あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

野中四郎 『 天壌無窮 』

2021年12月09日 19時13分55秒 | 野中四郎

天壌無窮
遺書
迷夢昏々、万民赤子何の時か醒むべき。
一日の安を貧り滔々として情風に靡く。
維新回天の聖業遂に迎ふる事なくして、曠古の外患に直面せんとするか。
彼のロンドン会議に於て一度統帥権を干犯し奉り、又再び我陸軍に於て其不逞を敢てす。
民主僣上の兇逆徒輩、濫りに事大拝外、神命を懼れざるに至っては、怒髪天を衝かんとす。
我一介の武弁、所謂上層圏の機微を知る由なし。
只神命神威の大御前に阻止する兇逆不信の跳梁目に余るを感得せざるを得ず。
即ち法に隠れて私を営み、殊に畏くも至上を挾みて天下に号令せんとするもの比々皆然らざるなし。
皇軍遂に私兵化されんとするか。
嗚呼、遂に赤子後稜威を仰ぐ能はざるか。
久しく職を帝都の軍隊に奉じ、一意軍の健全を翹望して他念なかりしに、
其十全徹底は一意に大死一途に出づるものなきに決着せり。
我将来の軟骨、滔天の気に乏し。
然れども苟も一剣奉公の士、絶体絶命に及んでや玆に閃発せざるを得ず。
或は逆賊の名を冠せらるるとも、嗚呼、然れども遂に天壌無窮を確信して瞑せん。
我師団は日露征戦以来三十有余年、戦塵に塗れず、
其間他師管の将兵は幾度か其碧血を濺いで一君に捧げ奉れり。
近くは満洲、上海事変に於て、国内不臣の罪を鮮血を以て償へるもの我戦士なり。
我等荏苒年久しく帝都に屯して、彼等の英霊眠る地へ赴かんか。
英霊に答ふる辞なきなり。
我狂か愚か知らず  一路遂に奔騰するのみ
昭和十一年二月十九日
於週番指令室
陸軍歩兵大尉 野中四郎
・・・あを雲の涯 (一) 野中四郎



野中四郎  ノナカ シロウ
天壌無窮 
目次
クリック して頁を読む

野中大尉は自筆の決意書を示して呉れた。
立派なものだ。
大丈夫の意気、筆端に燃える様だ。
この文章を示しながら 野中大尉曰く、
「今吾々が不義を打たなかったならば、吾々に天誅が下ります」 と。
嗚呼 何たる崇厳な決意ぞ。
村中も余と同感らしかった。
蹶起趣意書
野中大尉の決意書は村中が之を骨子として、所謂 蹶起趣意書 を作ったのだ。
原文は野中氏の人格、個性がハッキリとした所の大文章であった。
・・・第十 「 戒厳令を布いて斬るのだなあ 」 

・ 昭和維新 ・野中四郎大尉

・ 歩兵第三聯隊の將校寄宿舎 

野中大尉 「 同志として參加してもらいたい 」
・ 下士官の赤誠 1 「私は賛成します 」
・ 「 グズグズいうな、それならお前から斬る ! 」 

 幸楽
紺の背広の渋川が熱狂的に叫んだ
「 幕僚が悪いんです。幕僚を殺るんです 」
一同は怒号の嵐に包まれた。
何時の間にか野中が帰って来た。
かれは蹶起将校の中の一番先輩で、一同を代表し軍首脳部と会見して来たのである。
「 野中さん、何うです 」
「 任せて帰ることにした 」

「 何うしてです 」
「 兵隊が可哀想だから 」
「 兵隊が可哀想ですって・・・・。全国の農民が、可哀想ではないんですか 」
「 そうか、俺が悪かった 」
野中は沈痛な顔をして呟くように云った。
・・・渋川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」

「 私は千早城にたてこもった楠正成になります 」 


村中は今朝 ( 29日 ) 未明 野中部隊と一緒に新議事堂に移っていた。
まだ夜は明けきっていないのに、遠くに拡声機をもって何事か放送しているのがわかる。
じっと耳をすまして聞くがよく聞き取れない。
しかし確か奉勅命令という言葉が二度ほど聞き取れた。
奉勅命令というところを見ると、一昨日の奉勅命令が下ったのではあるまいか、
すると軍はいよいよ奉勅命令をもって、われわれを討伐するのだろう。
彼の心のうちは悲憤に煮えくりかえって 思わず涙が頬を伝わってきた。
八時頃になると飛行機から 宣伝のビラがまかれ、議事堂附近にもヒラヒラと舞いおりる。
兵の拾ったものを見ると、
下士官兵ニ告グ
一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
二、抵抗スルモノハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
二月二十九日  戒厳司令部
それは明かに下士官兵に帰営をすすめているものだった。
村中は、野中と話合って 兵を返すことにした。
野中大尉は部隊の集合を命じた。
傍らにいた 一下士官は、
「 中隊長殿、兵隊を集合してどうするのですか、
我々を帰すのではないでしょうね 」
と 泣きながら訴えた。
「 奉勅命令が下されたことは疑いがない。大命に従わねばならん 」
村中は、よこから、こう諭した。
下士官は、
「 残念です。私は死んでもかえりません 」
と、その場に号泣した。
・・・村中孝次 「 奉勅命令が下されたことは疑いがない。大命に従わねばならん 」 

・ 野中部隊の最期 「 中隊長殿に敬礼、頭ーッ右ーッ 」 
昭和11年2月29日 (一) 野中四郎大尉 
・ 
野中四郎大尉の最期 『 天壌無窮 』 

あを雲の涯 (一) 野中四郎


このまま死んだら、自分たちの立ち上がった信念は、誰が訴えてくれますか。
一身を擲って皇国のため、陛下のために 蹶起した目的を、
どうして国民にわかってもらえますか。
蹶起以来の経過はよくご存知と思います。
陸軍大臣告示から小藤部隊への編入、
戒厳令下における麹町地区の警備命令を受けているのです。
その後、何の解除の命令もありません。
いつ自分たちは陛下に弓を引いた叛乱軍になったのですか。
まるでペテンです。
これでこのまま死ねるとお考えになりますか。
決して未練ではありません。
それよりも、自分たちが命を賭して立ち上がった日本の維新はどうなるのですか。
誰がやるのですか。農民は一体どうなりますか。

・・・野中四郎大尉の最期 


野中四郎大尉の最期 『 天壌無窮 』

2019年06月21日 21時16分01秒 | 野中四郎

野中大尉は、蹶起将校中、最古参であった。
事件では警視庁の襲撃を指揮した。
蹶起趣意書の代表者として署名した蹶起部隊の最高責任者である。
  野中四郎 
二十九日午後、
安藤部隊の原隊復帰を最後に、事件が集結を告げたあと、
将校全員は陸相官邸に集まり、憲兵隊の収容するところとなった。
しかし まだ武装を解除されたわけでなく、

ここでも再び多数将校の間に、自決の動きが高まっていた。
しかし、野中は自決論を抑制する先頭に立っていたという。
こうした慌しい動きのさ中に、元の聯隊長、井出宣時大佐が来邸し、
野中を呼び出して室外に出た。
そのまま野中は同志将校の所に帰ってこなかった。
「 野中は井出大佐に殺された 」 という推測がもっぱらだった。
銃声も聞こえた。
磯部はその獄中手記にもそのことを書いている。
野中大尉は井出聯隊長の最も信任の厚い部下だった。
野中だけではない、
井出が三ヵ月前まで歩三聯隊長として、
天塩にかけた多くの将校、兵士たちが、今度の事件の主軸となって参加している。
野中はその責任者であり、また叛乱将校の代表者でもある。
かつての上官として、その野中に最後の措置を誤らせてはならない。
井出は先に、二度にわたって陸相秘書を務めたことがある。官邸の中はよく知っている。
野中を呼び出した井出は、廊下を廻った図書室に入った。
このときの有様を井出の手記、談話にもとづいて記すとつぎのようであった。
 井出宣時大佐
冷え切った無人の部屋に、二人は相対し、
これからどうするのかと案ずる井出の言葉に、
野中し蹶起が挫折し、叛徒の汚名を受けたことを詫びた。
「 私たちは、自分のやった行動についていかに責任を取るべきかは、百も承知であります。
 当局の死んでくれという要望も知っています。
しかし私たちはこのままではどうしても死ねません 」
「 聯隊長殿 」

野中はこう呼んだ。
今でも元の聯隊長としての井出が慕しく、すがりつきたい思いだったのだろう。
「 このまま死んだら、自分たちの立ち上がった信念は、誰が訴えてくれますか。
一身を擲って皇国のため、陛下のために 蹶起した目的を、
どうして国民にわかってもらえますか。
蹶起以来の経過はよくご存知と思います。
陸軍大臣告示から小藤部隊への編入、
戒厳令下における麹町地区の警備命令を受けているのです。
その後、何の解除の命令もありません。
いつ自分たちは陛下に弓を引いた叛乱軍になったのですか。
まるでペテンです。
これでこのまま死ねるとお考えになりますか。
決して未練ではありません。
それよりも、自分たちが命を賭して立ち上がった日本の維新はどうなるのですか。
誰がやるのですか。農民は一体どうなりますか 」

野中は井出に迫った。
「 たとえ捕われの汚名をきても、今後、軍法会議で堂々と所信を天下に訴え、
 その後に法の定める所に従って、いかなる刑にも服します。
死刑、もとより覚悟の上です 」

野中の主張をじっと聞き終った井出は、静かに軍の現在の方針を説いた。
公判闘争など考えられる事態ではない。
五・一五事件や相沢事件の時とは、全く情勢は変ってしまっているのだ。
それを野中たちは知らない。
戒厳令下の軍法廷は、公開されることはないのだ。
最後に井出は言った。
「 君も知っているだろう。
 あの西郷隆盛は純忠至誠、憂国のあまり君側の奸を除かんとして兵を起こした。
しかし、事志と違い、逆に賊軍となって敗れ、城山において立派に自刃して果てた。
当時の賊将、西郷は、今では忠臣の鑑、武士道の精華として国民崇敬の的になっている。
もしあの時、西郷が捕えられて獄中で処刑されたら、
おそらく今の西郷にはならなかったであろう」
頭をうなだれて、静かに聞き入っていた野中に、
「 最後に、君は古参順からいって、首魁になっている。よく考えて最後の措置を誤らないように 」
きっと面を上げた野中の眼には、心なしか涙が浮かんで見えた。
「 よく判りました。書残したいことがありますのでしばらく時間をお与え下さい 」
野中は陸軍罫紙に認めた手記を井出に託して、深々と頭を下げた。
「 では、これで別れよう 」
最後の握手を交わして、井出は室外に去った。
井出としては今の時点では、これが残された唯一の武士の情であった。
野中が拳銃を口にふくんで、引金をひいたのはその後まもないことであった。
銃弾は脳を貫通して、天井に弾痕をしるした。
「 天壌無窮 」 と書いた絶筆が、テーブルの上に残されていた。
・・私の二・二六事件 河野司 著から

昭和十一年二月二十九日、
蹶起部隊は叛乱軍とされ、
将校は反逆者として武装解除された上 
陸軍大臣官邸に集合を命じられた。
野中大尉は先任将校 ( 陸士三十六期 ) として責任を感じていたらしい。
歩兵第三聯隊の前の聯隊長だった井出宣時大佐としばらく一室で話し合っていたが、
やがて井出大佐が出てきて、
「 野中は今自決する。硯と紙を持ってきてくれ 」 と 言った。
岡村は容易してあった硯と紙を持って行くと、野中は悲壮な顔をして瞑目していた。
岡村は隣室で待っていた。
しばらくして 「 ピシッ 」 というピストルの音がした。
入って見ると野中は前に倒れ、頭から血が吹き出していた。
・・岡村適三憲兵大尉の回想
    二・二六事件 青春群像 須山幸雄 著から

野中大尉 ・自決直前の遺書
實父勝明ニ對シ 何トモ申シ譯ナシ
老來益々御心痛相掛ケ罪 萬死に價あたい
養父類三郎、養母ツネ子ニ對シ嫡男トシテノ努メ果サス 不孝ノ罪重大ナリ
俯シテ拝謝ス
妻子ハ勝手乍ラ 宜シク御頼ミ致シマス
美保子 大変世話ニナリマシタ
◎ 貴女ハ過分無上ノ妻デシタ
然ルニ 此ノ仕末御怒り御尤モデス
何トモ申シ譯アリマセン
保子モ可愛想デス    カタミニ愛シテヤツテ下サイ
井出大佐殿ニ御願ヒシテ置キマシタ


「 同志として參加してもらいたい 」

2019年01月19日 13時24分10秒 | 野中四郎

 
野中四郎 
真面目一徹の性格は平素 「 野中型 」 といわれるほどの厳正さであったという。
もともと熱烈なる国体主義者であり 昭和六年頃以来 国家革新に志向したが、
矯激に走らず おおよそ実行派とはほど遠い存在であった。
だが、事件前においては同志 安藤を叱責して決意をせまるほどに、その蹶起の志をたぎらせていた。
二月十八日 栗原中尉宅の同志会合において安藤は時期尚早の故をもって反対した。
そのあと安藤は野中に会ったが、野中は、
「 なぜ、ことわった、今にして立たざれば天誅はわれに下る、今週中にでもやろうではないか 」
と 安藤を詰った。
安藤はこのとき自分がはずかしくなったと西田税に語っている。

野中の決意は固かった。
二月二十二日 午後四時頃 村中と磯部は四谷左門町あった野中宅を訪れた。
野中は十五日より二十二日午前中までの週番指令を務め、
後を安藤大尉に申し継ぎ 自宅へかえっていたのだ。
「 野中大尉は自筆の決意書を示してくれた。
立派なものだ、大丈夫の意気筆端に燃えるようだ。
この文章を示しながら野中大尉曰く、
今我々で不義を打たなかったならば、吾々に天誅が下りますよと、
ああ何たる崇厳なる決意だ、村中も余と同感らしかった 」
磯部の遺書 『 行動記 』 の一節である。
だが、野中がその穏健な性格、しかも自重派だった彼がかくも強硬な決意を示したことが不思議とされている。
同志の先覚たる西田税は その裁判中、
吉田裁判長から今次 蹶起の原動力はどこにあったかと問われ、
彼は青年将校らの個人的性格を承知しているだけに その点は非常に不可解であると、
こんな見解を述べていた。
「 栗原中尉は実行力はありませんが ただ強がりのみを申しますし、
また慎重派たる安藤大尉が参加せしこと、
および 野中大尉の思想を誰があれまでに指導したかという点、
香田大尉は栗原中尉をその御両親の依頼で監視していた慎重派とのみ考えておったのに参加したこと、
磯部は非常に過激な男でありますが軍人ではありませんので、
直接軍隊に対する指導力はないと存じますし、
村中は彼らの間において一番穏健派であると考えられます。
一体誰が今般の事件の導火線となったか不可解であります 」
この場合、彼は野中の行動への飛躍に驚いているのである。
だが、それは青年将校らの情勢急迫を自認する 「 熱気 」 であったのか、
それもあろう。
しかし 野中は二月二十五日夜 中隊下士官を集め維新状勢を説いているが、
このとき彼は、
今回の相澤事件は相澤中佐が維新の突破口を開いたもので、
これにつづく突撃部隊がなければ維新は成就しない。
この突破口から突撃するのが我々の任務だ、
と 教えている。
相澤事件とその公判闘争に対する彼独自の判断が敢然たる蹶起となったのであろう。
このはげしい蹶起の志をもつ彼は、しかしみずからがその行動の表面に立つことを避け
第一線部隊長として終始し、わずかに二十七日 午後 軍事参議官との会見に、
その代表として折衝に任じたにすぎなかった。

安藤、坂井、栗原、丹生など第一線部隊を指揮し出動した将校たちは、
部下を駆り出すのに中隊長の命令といい、
あるいは命令といわなければ中隊長が責任を負うから安心せよなどと、
下士官を一応納得させて参加せしめているが、
野中大尉だけは 「 命令 」 として連れ出していないのである。
二月二十五日夜九時頃 野中は中隊准士官下士官十名を中隊事務室に集め、
情勢を説明し自己の蹶起の決心を告げたあと、
それぞれに 「 同志 」 としての参加を求めている。
「 野中大尉は自分らに対し、中隊長は昭和維新断行の覚悟だが、
お前達は賛成してくれるかどうか、これは命令ではない、
是非同志となって参加してもらいたい、
といわれ、其々に向って 『 どうか 』 と 聞かれました 」 ( 中隊下士官の証言 )
・・・リンク→
下士官の赤誠 1 「私は賛成します 」 
この場合、かれは「 命令するものではない 」 といっている。
そこに心理的強制の事実はあろうが、
彼はその 「 不法出動 」 の故に軍統帥の発動を回避したのではあるまいか。
・・・大谷啓二郎著  二・二六事件  から