あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

井上日召 ・ 郷詩會の會合 前後

2018年02月03日 18時56分55秒 | 井上日召

右翼思想犯罪事件の綜合的研究 ( 司法省刑事局 )
---血盟団事件より二 ・二六事件まで---
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、
東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である

井上日召の活動を記してある
現代史資料4 国家主義運動 1 から

第二部  血盟團、五 ・ 一五、神兵隊事件
第一章  血團事件
第一節  日召事井上昭と其の同志
(一)  生立ちと放浪時代・・・略
(二)  修養時代・・・略
(三)  護國堂時代・・・略
(四)  井上と海軍側との提携成る・・・略
(五)  上京・・・略

第二節  計畫熟し民間側第一陣を引受く
(一)  陸軍側其の他との提携に務む
井上日召は 昭和五年十月
藤井齊の依頼に應じ海軍同志の聯絡機關として活躍するため、
護國堂を去り上京したのであった。
護國堂時代 井上を盟主と仰ぐに至った靑年や海軍將校聯は 同志檜山誠次方二階於て井上の送別會を催した。
海軍側の藤井齊、鈴木四郎、伊東亀城、大庭春雄、大洗靑年組古内栄司、小沼正、菱沼五郎、黒沢大二、
以下數名が出席した。
井上は此の時自分の意中を述べて、東京では革命革命と口では云って居るが、
皆 命を惜んで自分の國家のため捨石にならうとする者がない。
國家に對して眞の大慈悲心を懐く者が始めて革命の捨石になる事が出來ると語って居り、
一同は無言の裡に革命のため井上と生死を共にすることを堅く誓ったとの事である。
井上は初めは気の長い宗教的方法に依る国家改造を考へて居ったのであるが
ロンドン條約以後改造運動者は一九三六年前に改造を成就せねばならないと云ふ聲が高くなり、
井上も藤井と交はるに至り 之に同感し次第に急速な手段を考究するに至り、
上京せんとするこの頃に至ってはテロ手段に依って革新の烽火を擧げ、
支配階級に生命の危險を感ぜしめて 其の自覺を促し
一方陸海軍民間側の革新分子が彼等の後を繼いで革新實を擧げることを期待して居ったのである。
彼が暗殺手段を採用した理由として
第一、同志が少ない
第二、資金が皆無だ
第三、武器兵力が無い
第四、言論機關が改造派の敵である
第五、國家の現狀は一日も早く烽火を擧げねばならない
等を數へて居る。
斯くして井上は宗教的熱意を以て改造を志す數名の靑年を率い、
同じく國家改造に燃える海軍士官一派と握手して 愈々中央に乗出して來た。
井上は直ちに金鶏會館に止宿した。
筑波旅行によって有力たる闘士として望をかけて居った金鶏寮止宿の上杉門下七生社同人四元義隆、池袋正釟郎と接触し、
之を同志に獲得した。
一方 井上は大學寮以來藤井海軍側同志が親しくして居った西田税に近附き、
中央に於ける改造運動の情報を探り、又 北一輝、満川亀太郎、大川周明にも面會し北、大川の大同團結を計らうとした。
改造陣営の要所要所に手を延ばし情報を探り、藤井齊地方にある海軍同志に之を通報して居た。
同年十二月 大村航空隊に在った藤井齊より九州に於ける革新分子の會合があるから來いとの通信があり、
井上は四元義隆と共に西下した。
昭和五年 十二月二十七日午後より翌日にかけて福岡県香椎温泉に於て
海軍側  藤井齊  三上卓  村上功  鈴木四郎  太田武  古賀忠一  古賀清志  村山格之
陸軍側  菅波三郎
民間側  大久保政夫 ( 九大生 )  上村章 ( 福高生 )  山口半之丞 (福岡県社會課)  井上富雄 ( 天草郡小學校訓導 )
             井上昭  四元義隆
の會合に出席した。
その内容は之より組織を持たうと云ふ程度に過ぎず井上は頗る失望したが、
海軍側三上卓、陸軍側菅波三郎等有力なる人々と親しくなった。
更に四元と共に同人の郷里鹿児島に行き、菅波中尉と懇談を遂げ親密の關系となった。
又 大村に於て藤井の紹介により陸軍士官東少尉外數名と會った。
其 歸途 呉鎭守府、横須賀鎭守府に立寄り藤井の統制下にある海軍士官多數と面會し、
其の同志たるべき者を探し求め、相當の収穫を得て 翌年六年二月歸京した。
當時井上の観察する処では陸軍側革新分子は九州に於ては菅波中尉 東少尉が中心であり
而も運動は相當古くよりのものであり、
東北に於ては仙台の教導學校より靑森聯隊に轉じた大岸頼好中尉が
海軍側に於ける藤井齊の如き立場に居る有力なる中心人物であった。
而も之等 陸軍側三名は孰れも藤井齊と聯絡を有して居り、
菅波中尉 東少尉とは九州旅行により井上は懇親となり、
大岸中尉とは其以前金鶏会館に於て藤井齊の紹介により相識の間柄となって居った。
斯くの如くにして井上は藤井との聯絡によって
陸軍側の靑年將校の中心人物 菅波、東、大岸等と相知ったのであったが、
未だ同志として心より提携するには至らなかった。
井上が九州旅行により歸ると間もなく同年三、四月頃
陸軍側上層部に所謂三月事件なるクーデターに依る國家改造の計畫があった事が風説として一般に傳へられた。
これは一般民間側改造運動者にも相當の刺戟となった。
井上は上京後 早々から西田税に近付いて彼の処に集まる情報を聞いて居ったが
三月事件の情勢を西田其他より聞いて愈々改造に着手せねばならぬと考へた。
彼は藤井よりの依頼もあったので民間側の巨頭である 北一輝、大川周明との仲直りを策した。
井上はこの以前 北一輝の 『 日本改造法案大綱  』 を讀み、
北の非凡な頭脳の所有者であるを知り、前田虎雄と共に訪ね、
自分等も國家改造のため盡力し度きを持つ意思を持つ者である事を傳へた。
北は井上等に満川亀太郎を紹介し、満川は更に井上等に大川周明を紹介した事があり、
井上は北、満川、大川とも面識があったのでその大同團結を計らうとしたが、
西田税が北の幕下であり大川を口を極めて非難したので、
井上は此の様な情勢にては北、大川の提携は不可能であることを知った。
即ち この兩者は相對立する關係にあるので 北、西田と結べば大川と提携し得ず、
大川と結べば北、西田とは對立することを知った。
井上は同志として握手している藤井齊一統が西田と親しい間柄であるので、
大川と結べば遂には藤井等をも質に至るであらうことを顧慮し、
西田と提携し西田を擁して國家改造に進むことを決意した。
そして井上は西田に近附き提携して改造に進むに至った。
當時 西田は日本國民黨より脱退を餘儀なくされ、
一方陸軍側菅波、大岸等とも天劔党事件以來往復をして居らず、寧ろ不遇の狀態であった。
民間側改造運動者 津久井一派の如きは西田を大いに非難して居る有様であったが、
井上は西田が大學寮以來改造運動に從事すること十余年、其の間彼が盡した貢献は大なるものがある。
自己の生活の資を得る途のない彼が有資産者、俸給生活者の如く公然たる収入に拠らずして生活したのは寧ろ當然であり
之を非難するのは酷であると主張して大いに西田の立場を認め、
西田を擁して改造運動を遂行しようとしたのであった。

(二)  日本靑年會館に於ける全國的 海 ・陸 ・ 民間同志の會合  昭和六年八月二十六日
一方海軍側同志は三月事件以來益々急進的となり、
昭和六年四月  伊東亀城、山岸宏 等が上京して金鶏會館に集り、
當時群馬県に歸省して居た井上及び四元を呼び寄せ、池袋も加はって會合を開き、井上等に決行を促した。
井上は同年八月支配階級の巨頭連が避暑地に集った際 五人の同志を以て暗殺し様と提案し
其軍資金 及 武器として拳銃の調達方を海軍側に求めた。
井上の眞意は海軍側同志の決意の程度を試すことにあったのでこの計畫は實行されなかった。
同年七月末頃
陸軍の一部に於て満洲に事を起し同時に國内改造を行ふためクーデターを企てゝ居ると云ふ情報が入って來た。
井上は此の計画は眞の日本的のものに非ずして 政權奪取をもくろむ覇道的のものであると観察し、
西田に向って此の計畫は一命を賭しても打破る意志であることを告げた。
西田は驚き 北一輝にも相談して見るから待てと云って之を押し止め、
結局西田が、井上 及 西田一派の革新勢力を代表し、十月事件の首脳者である橋本中佐等と交渉することとなった。
井上は十月事件の計畫に同志と共に飛込んで、暗殺其の他の役割を分担することに依って發言權を獲得し、
軍部側の計畫をリードして、その指導精神を眞の日本精神に基くものになさうと畫策した。
そこで、西田と相談の結果、兩者の統制下な在る革新分子を會合せしめて結束を固くし、
十月事件の計畫に對処する爲、同年八月二十六日 靑山の日本靑年會館に於て
郷詩社の名目を以て會合を催した。
當日參會した者は 三、四十名と云はれて居るが 其の中には
陸軍側  菅波三郎  大岸頼好  東昇  若松満則  野田又男  對馬勝雄
海軍側  藤井齊  鈴木四郎  三上卓  古賀清志  村上功  村山格之  伊東亀城  太田武
民間側  西田税
            井上昭  古内栄司  小沼正  菱沼五郎  黒澤大二  堀川秀雄  黒澤金吾  四元義隆
            橘孝三郎  後藤圀彦
等が居り  井上等の知らない西田一派の者も居った。
其會合に於ては西田が司會者となり
「 愈々 時期も切迫して來たから我々の運動も今後はしっかりした統制を必要とする 」
と 申し 中央本部を決定し 更に各地方毎に同志が集り 責任者を定め發表した。
それによると
1 中央本部を西田方に置き 西田と井上其他中央に居る菅波等が協議の上
  外部に關する聯絡情報の蒐集、對策の決定をなし、地方責任者との聯絡を執ること
2 海軍側に於ては
 全般及九州責任者  藤井齊
 横須賀地方  山岸宏
 第一艦隊  村上功
 第二艦隊  古賀清志
陸軍側に於ては
 関東地方  菅波三郎
 東北地方  大岸頼好
 九州地方  東昇
 四国地方  小川三郎
 朝鮮地方  片岡太郎
民間側に於ては
 愛郷塾責任者  橘孝三郎
 大洗責任者  古内栄司
を 各地方責任者と決定し
3  地方組織に付ては陸海軍部が中心となり民間との聯絡及中央との聯絡を執ること等を決定した。
此の會合は全國會議であって此の會議の準備として各地の革新同志の會合が催され、
夫々必要事項を協議し、代表者を出した模様である。
九州方面に於ては七月下旬藤井齊より 八月下旬艦隊が横須賀入港を期して、
東京に於て陸海民間同志の全國會合を開催する餘定であるから、
その準備として九州に於ける陸海軍同志の意嚮を決定する必要があると同志に通知を發し、
八月八日 福岡市西方寺前町料亭氣儘館に於て會合を行って居る。
その時の出席者は
海軍側  藤井齊  鈴木四郎  林正義  三上卓
陸軍側  菅波三郎  小川三郎  若松満則  江崎  栗原 (鹿児島)  竹中英雄  樽木茂  東昇  片岡太郎  小河原清衛
等で、各地の情勢、同志獲得の情況、民間同志との聯絡等に付 報告があり
次に各地方責任者、全九州責任者、各地方に於ける組織運動の促進、聯絡、
中央進出の準備に付 協議決定する処があった。
陸軍側  全九州責任者  若松満則
            地方責任者  佐賀地方--江崎  鹿児島地方--西原  福岡地方--小河原  
                              四国地方--小川  朝鮮地方--片岡  長崎地方--東
海軍側  全九州責任者  藤井齊
以上の如くにして日本靑年會館に於て行はれた全國會議は組織統制等を決定したのみで簡單に終了した。
一度軍艦に乗組めば數ヶ月間航海生活を送り、同志一同が顔を揃える機會の少ない海軍側同志は、
陸軍側と異なり單刀直入、急速に決行することを希望して居たので此の會合に不平不満が多かった。
井上は海軍側同志のこの不平を察知し、同夜 新宿宝亭に於て宴會を開き彼等の不平不満を慰撫し、
其後連日の如く、井上の妻名義で借受けて居った本郷區西片町の家等に於て海軍側と會合した。
尚この全國會議に上京した三上卓は
上京直前佐世保にて藤井齊より同人が四月 (八月) 初旬 大連に飛行した際
笠木良明の煎入りで同地の證人から買入れたと云ふ拳銃八挺、彈丸約八百發を東京に運搬方を依頼せられ、
之を持參して上京し 井上昭に渡したのであった。
又 井上が同年一月頃九州旅行の際 東昇陸軍少尉より拳銃一挺、實包若干を入手して居り、
其後 四月頃 伊東亀城が大連に巡航した際
同地の鐵砲商より購入したブローニング拳銃一挺実包百發が井上の手に渡っており、
八月当時既に井上の手には拳銃十挺 實包多數が集められ、
井上一統 及 海軍側は唯好機の到来するのを待つのみであった。
末松太平 ・ 十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合

・ 
末松太平 ・ 十月事件の体験 (2) 桜会に参加 「 成功したら、二階級昇進させる 」
・ 
末松太平 ・ 十月事件の体験 (3) 「 それじゃあ空からボラを落として貰おうか 」
末松太平 ・ 十月事件の体験 (4) 「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」


(三)  十月事件に參加し、一擧に革新の實を擧げんとす
八月二十六日の全國會議後、海軍同志は一年に一、二回しか顔を揃へる事が出来ないので
この
好機に一擧革新の烽火を擧げ 革新の緒に就くべく、
連日の如く井上を中心として會合し、情報を求め、各方面の情勢を探って居った。
當時は既に陸軍の一部に於て満洲問題と關連して國内改造を計畫中である
との情報は頻品として井上等の耳に入って居たので 同月三十一日 井上は藤井齊に一策を授け、
同人を大學寮以来親しい間柄であった大川周明の許に行かしめ、
西田等と無關係を装ひ、十月事件の計畫に參加を申込ませ、計畫を探知せしめた。
藤井の報告は藤井が同志として海軍同志全部と共に大川一派に加盟する約束をしたところ
大川は其の畫策している計畫を話した。
それによると
「 十月頃満洲に於て事を起し 日支關係を惡化せしめ、對支貿易を阻害し 經濟界を逼迫せしめ、
之を契機として内地の民衆を煽動し、東京、大阪に暴動を起さしめ
次で 翌年二月國民大會を東京に於て開き 議會襲撃を決行し クーデターを行ふ豫定である 」
との事であったが、井上はこれを聞きその計畫が出鱈目である點を指摘し、
傍で藤井の報告を聞いていた海軍同志 及 小沼、四元等に自己の信念を吐露し、
自分のやらうとする革命は仕事でなくて道である。
政權を奪取するのではない。
革命のために動亂を起し無事の人間を殺す如きは言語道斷であると云って之を非難した。
同年 昭和六年九月十八日 満州事變勃發し、
續いて陸軍の一派がクーデターを計畫中であることが明瞭に井上等の情報網に入った。
北京駐在の長勇少佐が脱走して上京し活躍して居り、橋本中佐一派が主脳者となって、
露骨に活動して居ることが井上、西田に接近して居る靑年將校により筒抜けに漏れて來た。
井上の観察した所に依れば
「 十月事件は橋本欣五郎中佐が首脳者になって居るが、一中佐であれ丈露骨な活動は出來ない。
必ず陸軍の一大潮流が事件の背景をなしている。
大川周明一派が橋本と親しく、この事件に關与しているが、
橋本中佐の考へでは 必ずしも民間側の勢力を大川一派のみに限って居る譯ではない。
大川周明は牧野伸顕と古くより關係を有して居り、十月事件に付ても牧野と何等かの關係を付けて居て、
上部工作を牧野によって期待して居る。
從って大川等の計畫案には牧野伸顕を襲撃目標中に加へて居らない 」
と云ふのであった。

 小沼正談
・・・リンク→ 藤井中尉、血盟団 小沼正、国家改造を誓う


井上は西田を表面に立て、橋本中佐と聯絡せしむる一方、
藤井其他 肝胆相照した同志を諸方面に動かして情報を取り活動した。
陸軍の靑年士官が皆血判をして満洲事變の徹底的解決を要求し、
自分等の要求が容れられねば一致結束して立つと云った風の決議文を總理大臣、陸軍大臣、
參謀總長に提出したとの情報が入った。
又 何個中隊出動することになった。某々將校も參加した等の情報が盛に入る様になり、
陸軍の改造潮流は何人を以ても制止出來ない様な狀況となって来た。
井上は自身その中に飛入って、是を正しい方向に導かうと考へ、
西田を通じ、其の計畫の一部を分担するに至った。
初め十月事件の計畫は大部隊の出動を豫定して居らなかったものの如くで、
井上一党は遊撃隊として目標人物の暗殺を引受け、井上側に於て其の目標の選定をなすこととした。
井上は、
1  田中邦雄、田倉利之に西園寺公を
2  四元義隆、久木田祐弘に牧野伸顕を
3  池袋正釟郎、小沼正に一木喜徳郎を
4  古内栄司に鈴木貫太郎を
各担当せしめ、
田中、田倉兩名には拳銃各一挺を交付して京都滞在中の西園寺公を暗殺さすため同地に赴かしめた。
古内は計畫が進んだ十月五日 小學校訓導を辭職して上京し井上の許に參じた。
井上の許に橋本中佐より五百圓が資金として來たが 勿論之丈では不足で井上は資金に窮していた爲
學生組の田中を西田税方の食客兼玄關番に住込ましめ、その下宿料を古内の生活費に流用せしめた。
當時海軍側同志にも井上より通知が發せられ一同待機の狀態にあり、
山岸宏の二名は上京し、古賀は井上の許にあり、山岸は上京に際し乗艦より拳銃十一挺、
彈丸二百發、軍刀日本刀各一本を携帯し、
井上の通知により菅波三郎中尉の止宿するアパートに至って決行を待って居た。
然るに計畫は其の後變更せられ、大部分の出動による一齊襲撃を採ることとなり、
個人的暗殺は實行せられないこととなった。
井上等の観察する処によれば
牧野に依って上部工作を期待し、暗殺目標より同人を除いて居った大川が、
井上、西田側に於て牧野を目標人物に入れ、大川自身の計畫を齟齬する案に變更したため、
大いに苦慮し、更に案の變更をなしたもの と云ふのである。
菅波一派の靑年將校は橋本中佐派と提携し共に決行することとなって居った。
併し 次第に大川、橋本等の行動に批判的となって行き、
神楽坂の梅林に於て菅波が橋本に喰って掛り
橋本一派の小原重厚大尉のため首締に逢ふ椿事以後は気拙い仲となって行った。
・・・リンク→「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」
菅波は十月事件の前にあった靑山日本靑年會館の會合の少し前迄は西田税とは意見の相違から交際を絶って居った。
大岸頼好は寧ろ大川周明と近かったので、
十月事件直前迄は是等菅波、大岸の一派は西田と近いものではなかったのである。
藤井齊の關係により井上と親しくなり更に井上の斡旋により以前の關係が復活し
西田、菅波、大岸等が親しい關係となったのである。
而して、十月事件により菅波一統の隊付靑年將校は橋本一派の幕僚將校と間隙を生じ、
又 菅波一統に近い西田と、橋本一派に近い大川とが非常に不仲となったので、
菅波一統と西田とは加速度を以て近付いた。
十月十七日早暁 十月首脳者は憲兵隊に檢擧せられ計畫は挫折に終わった。

西田一統は、井上の観察の如く、大川が牧野と通じて居り暗殺目標より除去されて居た牧野が
西田、井上一派の主張により目標人物に加へられたのに困惑し、牧野の手により弾圧せしめたと宣伝し、
大川一派は西田等を計の畫の一部に參加せしめたのは表面的で眞の同志としてではなく
計畫遂行後は西田は處刑を免れないこととなって居たので、
西田税は之を察知して、北一輝と謀り 宮内省方面に賣込んだのであると主張した。

以上の如くにして十月二十四日決行を期して居った十月事件は十七日朝首脳者の總檢束により挫折し、
橋本中佐一派は暫く活動不能の狀態になった。

(四) 十月事件挫折後、西田、菅波一統陸軍側同志俄に態度を改む
併し、十月事件は闇から闇へ葬られ、
首脳者となって大活躍をした橋本中佐以下十數名が
重謹慎處分の名儀で最高二十日間各地の憲兵分隊長官舎に分宿せしめられ、
其後地方に轉勤を命ぜられたに止まり、其の他の關係者に對しては何の處分もなされなかった。
從って十月事件當時總ての準備を終り一命を抛なげうって事に當らうと待機して居った井上一統、
海軍側同志 及 西田、菅波一統に於ては十月事件の挫折により何等打撃を受けなかった。
彼等は孰れも古くより國家改造を計畫し その貫徹に進んで來たのであるが、
十月事件當時は偶々陸軍の大勢力が動く形勢にあったため、之に便乗しようとしたに過ぎず、
その挫折に依って古くよりの決心に何等動揺を來さず、
却って其の後は十月事件の如き他の計畫に便乗するに非ずして、
彼等が主導的立場に於て事を擧ぐべき順序となったのである。
井上一統 及 海軍側に依って行はれた血盟團事件、五 ・ 一五事件はこの流れを其儘延長せしめたものであるが、
西田、菅波一統の陸軍側は其後俄に態度を變化し、
從來提携し来った井上一統 及 海軍側の勧誘に應ぜず、
満洲事變により國際情勢緊迫の際 國内改造を計るは時期に非ずと稱して蹶起を肯ぜざるに至った。
その結果、井上一統 及 海軍側同志は斯く陸軍側の豹變したのは西田の指導に依るものであり、
西田は慢性革命家、革命ブローカーであると非難し、遂に川崎長光が西田を狙撃する事件さへも生じた。

右の如き經過のみを以てすれば、
血團被告等が西田を非難する如く西田、北等は革命ブローカーに過ぎずして、
眞に革命に殪たおれる覺悟なきものと推斷し得るものであるが、
其後 西田、菅波一統の革新の激流は救國埼玉挺身隊事件、十一月事件、永田軍務局長殺害事件に
其の物凄き片鱗を示し、遂に二 ・ 二六事件の大爆發となって自ら殪れて行ったのである。
これより観れば北、西田等を以て眞の革命精神なきブローカー輩と斷ずる事は出來ない。
然らば如何なる原因が十月事件直後 西田、菅波一統をして從來急進的であった態度を俄に漸進的にせしめ
一歩退却せしめたのであらうか。
満洲事變により國際關係の惡化を顧慮した點もあらう、
西田等は革命は一生に一度しか行ひ得ざるものであることを固く年頭に置いた點も事實であらう。
併し 俄かに陸軍側の態度を變じたのは十月事件後 間もなく内閣更迭により
荒木陸相の出現した事が最も大きな原因と考へざるを得ない。
武力を有する陸軍の一部が國内の政治機構を一擧に變革せんとした十月事件の影響は國家の各方面に大なる刺戟となった。
當時内務大臣の職に在り國内治安の責に任じて居った足立謙蔵は十一月九日大演習のため西下する車中で
次の如き時局談を語った。
「 世界的に共通な財界の不況に加へて満洲事變の突発があり、
眞に未曾有の重大時局に際會したのであるから 政友會と聯立内閣を組織して強力一致
この國家の難局に処すべしとする所謂 聯立内閣組織運動がある事は聞いて居る。
政党が國内的政爭を中止して一國難に當ることは、
現下の如き眞に息詰まる様な重大時局に當面している際には考へられる事で、
我輩もこの考へ方に反對するものではない。」 ( 東朝十一月十日 )
ここに強力内閣問題が表面化し
政友會 久原房之助、民政党 富田幸次郎を中心とする政友民政の一派により
聯立内閣の組織が策動されたが、
若槻首相の周囲 竝 現狀維持の各閣僚は之に反對し
十二月十一日 若槻内閣の總辭職となり
翌十二日 政友會總裁犬養毅に後継内閣組織の大命が降下し 犬養内閣の出現となった。
陸軍大臣は南次郎より荒木貞夫となり、海軍大臣は安保清種より大角岑生となった。
荒木新陸相は古くより行はれて居た軍内粛正---閥打倒---の運動の一有力者であり
又 三月事件 十月事件以來急速に激化しつつある國家改造運動の理解者であったので
彼は殆ど全軍の与望を担って現れた。

荒木陸相は熊本第六師團長當時より皇道精神の發揮を力説し
閥族の跋扈ばっこする軍内の實情を憂ひて 一切の私を去り皇軍本來の精神に歸り
各自の生活を道義化すべき事を主張した。
又 好んで若い靑年將校を引見し 心よく談笑したので、
革新的意識を持つ靑年將校は荒木將軍に心服して居た。
殊に靑年將校の中心人物 菅波三郎は元來鹿児島歩兵第四十五聯隊に居り、
當時 熊本第六師團長であった荒木將軍より 優秀なる靑年將校として知遇を受けて居った。
又 荒木が敎育總監本部長として中央に乗出すや間も無く、
荒木は菅波の如き隊務に精勤し優秀なる靑年將校を陸大に入學せしめ度い意向にて
昭和六年八月 麻布歩兵第三聯隊に轉隊せしめたる ( 菅波談 ) 因縁もあり、
荒木新陸相の出現は靑年將校一派にとって時局到來を感ぜしめずには置かなかったであらう。

革新的靑年將校の一團は荒木陸相の出現を契機として自己革命を遂行し、
彼等の所謂肅軍を行ひ部内全般を一貫した革新大勢力たらしめ、
然る後 國家改造に向はんとしたものと見られる。
三月事件、十月事件は靑年將校に一種の下克上的風潮を植え付け
上層部必ずしも頼むに足らずとなすに至ったし、
又 兩事件の失敗は靑年將校り見れば指導精神の問題にあった。
茲に於て 彼等は眞の國體原理より發したる革新思想を以て 先づ部内の肅正を遂げねばならぬとし、
又 彼等の心服する新陸相に依ってこれを成し遂げようとしたものと見られる。
而してここに始めて彼等が俄に國内改造に向って一歩後退の狀況を呈し部内革命に突進し
遂に陸軍部内に暗流が激成され
永田軍務局長暗殺事件、二 ・二六事件を生むに至った根源を理解し得るものである。



井上一派は十月事件に依り各自部署に付いて暗殺を担當し、
革命の爲め一命を捨てる覺悟をしたので、十月事件の挫折によってもその決意は解消せしめられず
西田、菅波一派と共同し陸海民間の聯合軍を組織して蹶起しようとして居った。
同年 昭和六年 十二月二十八日、
當時井上は十月初頃より、當時の東京府豊多摩郡代々幡町代々木上原百八十六番地
成卿事 権藤太郎方附近の同人管理する所謂 権藤空家に居ったのであるが
冬の休暇で上京して居た海軍側同志や在京の陸軍菅波一派と権藤方に於て忘年會を開いた。
出席者は
海軍側  村上功  澤田邲  古賀清志  伊東亀城  浜勇治  中村義雄
陸軍側  菅波三郎  栗原安秀  大蔵榮一  佐藤 某
民間側  井上昭  古内栄司  池袋正釟郎  四元義隆  田中邦雄  久木田祐弘
            西田税  権藤成卿
等で單純なる顔合せに過ぎなかった。
然るに其の直後同月三十一日 西田税の發議で陸海民間の同志のみで會合をすることとなり、
府下高井戸料亭松仙閣に於て會合が行はれた。
出席者は前記の外 陸軍側に
大岸頼好 ( 青森 )  東昇 ( 大村 )  小川三郎 ( 丸亀 )  香田淸貞  村中孝次
等が出席した。
大岸、東、小川 等は其の三日前行はれた権藤方の忘年會には出席せず
其直後揃って上京し 而も從來の關係よりすれば必ず立寄るべきである井上の許には立寄らず
何の挨拶もなかった。
井上はこの事情から、西田、菅波等が井上に秘して何事か畫策して居る。
即ち西田、菅波が自分より離れて了ったことを直感したと稱している。
その上 宴會に於ても西田、菅波、大岸、東 等は大岸等の上京の理由を井上に明さず、
井上を除いて何事か策動して居る事が感受力の強い井上の頭に強く響いた。
其夜 井上は泥酔した。
正月になり 菅波から古内等に
井上は酔払って革命の事を他人に口外する様では困る
等と排斥的な注意があった。
そして西田、菅波等の態度は俄かに井上等と行動を共にせざる風が見えて來た。
井上は非常に苦しみ、同志に對しこれ迄指導的立場に在って、今斯様な狀態となり
革命遂行に最も力とする陸軍側と離れつつあるのを自己の責任であると感じ 悲痛な感に打たれた。
井上を盟主と頼み、中心と信頼する靑年達海軍側同志は陸軍側の離れつつあるのを
偏へに西田の所爲となして西田に對し強い反感を抱いた。

(五)  海軍、民間側のみにて蹶起することとし、民間側第一線を引き受く
昭和七年一月九日 所謂權藤空家の井上の根城に
海軍側  古賀清志  中村義雄  大庭春雄  伊東亀城
民間側  井上昭  古内栄司  四元義隆  池袋正釟郎  久木田祐弘
等が集った。
彼等の心境は著しく動いて來た。
中にも古賀清志海軍中尉、田中邦雄、四元義隆等は急進派の代表であった。
その席上一回の気持は急に高まり
「 吾々はかかる大業が一擧にして成就するものだ等とは思って居ない。
自分等は起爆薬であり、改造の烽火であるのだ。
偶々十月事件に際会したので出來る事なら一擧に成就したいと云ふ心が動いた迄で、
今日菅波一統の陸軍側が傍観的態度になったからとて、吾々の精神竝に行動に何等の影響がある筈がない。
吾々は飽迄初一念を貫かう 」
との意見に一致して古賀清志の作成した計畫案に基き協議し
一、井上一派民間同志と海軍側同志と合同し 二月十一日紀元節を期し政界財界特權階級の巨頭を暗殺すること
二、藤井其他地方に在る海軍同志にこれを傳へる爲め 四元を派遣すること
を決定し、着々其準備を進めた。
然るに 同月二十八日上海事變勃發し 海軍側同志は藤井以下續いて出征した、
又 二十日頃迄に歸京の豫定であった四元が二十五日を過ぎても歸來せぬのみか、
出發後何の消息もなく、四元の行動を憲兵が尾行し捜査して居ると云ふ情報が井上の許に入った。
それ等の理由から井上等は四元の歸京を待たないで急速に決行することとなった。

同年 昭和七年 一月三十一日 權藤空家に
民間側  井上  古内  池袋  田中  須田
海軍側  古賀清志中尉  中村義雄中尉  大庭春雄少尉
等が集った。
この会合に於て井上は先づ、二つの案を提議した。
第一案  失敗を期し一切の事情理論を超越して直ちに實行する
第二案  陸海軍の凱旋を俟って陸海民間聯合軍を組織して實行する
出席同志全部第一案に賛成し決定を見た。
其処で井上は海軍側と民間側の行動を二分し
先づ 民間側が直ちに實行に移り 一人一殺主義の暗殺を引受る。
海軍側は第二陣として同志の凱旋を俟って陸海聯合軍を作って第二次破壊戰を行ふことを提案した。
此の時 古賀、中村両中尉 大庭少尉は熱心に民間側の實行に參加を希望したが、
井上は之を承認せず、井上の意見に依って民間側は第一陣を、海軍側は第二陣を引受けることに決定した。
井上の理由は
一、武器として拳銃十挺ある
二、行動する民間同志が役十人ある
三、以上の条件で目標二十名の中 五名位 殪たおすことが出來るならば
或は支配階級を反省せしむることが出來るかも知れぬ
併し 一人や二人殪した丈では同志が全滅する丈で改造等は計り得ない。
即ち第一陣は失敗を期して烽火を擧げるのであるから海軍を保留し、
やがて凱旋して帰る陸軍海軍の聯合軍を組織して第二期戰に移るが策を得たものと云ふのであった。
そこで計畫の細目を協定し
一、井上は第一陣の計畫實行の指揮統制に當り、他の同志に於て暗殺實行を担當し、
井上は第二陣の海陸聯合軍の組織に當ると
二、暗殺は機會を見て一人一殺主義をとること
三、直ちに實行に着手し決行は同年二月七日以後とすること
等を決定し、暗殺の目標人物を
政友会  犬養毅 床次竹二郎  鈴木喜三郎
民政党  若槻礼次郎  井上準之助  幣原喜重郎
三井系  池田成彬  檀琢磨
三菱系  木村久寿弥太
特權階級  西園寺公望  牧野伸顕  伊東巳代治  徳川家達
等を選定し、尚 井上し同志に向って、各自の間に於てもその相當人物は語り合はないこと、
目標人物に付ては精密な探索を行ひ充分の確信を得たる後、
井上より拳銃の交付を受けること等 周到な注意を与へ、別室に一人宛呼んで相當する目標人物を指示した。
謀議が終って直ちに僅かの酒や鯣するめを求めて來て、心許りの決別の宴を張った。
この酒宴中西下した四元が帰宅し 之に加り 翌朝計畫を聞き參加した。
尚 同夜參加しなかった小沼正、菱沼五郎、黒沢大二、田倉利之、森憲二、星子毅 等に付いては
古内栄司、久木田祐弘 等が通知を發し、井上の許に呼んで井上より之を傳へた。
一同欣然 之に參加し、直ちに各部署に付いて目標人物の暗殺準備に取り掛った。
同年二月九日 小沼正に依って第一彈が放たれ、前蔵相井上準之助が殪たおされた。
井上、四元は直ちに権藤空家にあった拳銃を大庭少尉に依頼した浜大尉の許に運搬せしめ
翌朝 同人等は同家を去って、井上は頭山満の家に居った本間憲一郎を頼って行き、
頭山満邸に隣接する三男頭山秀三の經營する天行會道場 二階に潜伏した。
其他の同志 古内、四元等も何れも同志の陸海軍の家等に潜伏した。
同年三月五日 菱沼五郎に依って第二彈が發射され、團琢磨が殪たおされた。
官憲の捜査網は次第に井上等の近くに迫り、
同志は相次いで檢擧せられ、關係者は多數取調を受け 頭山宅を警視廳員が包囲するに至り
第二陣の組織と云ふ重大任務を以て潜伏して居った井上も後事を本間憲一郎、天野辰雄弁護士に依頼して
三月十一日 警視廳

第三節  犯罪事実の概要  ・・・略
第四節  公判竝に判決 ・・・略

第二章  五 ・ 一五事件 ・・・に 続く
・・・リンク→ 井上日召 ・ 五、一五事件 前後 


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