「 閣下、今時そんなことを言っておる時期ではありません。
この事態に直面して、いかにしたならば、この日本を救うことが出来るか、
と言うことに、軍は全能力を傾注すべきでありますぞ 」
菅波中尉は、
滔々と懸河の熱弁を振るった。
「 今夜の衝撃によって、軍は腰砕けになってはいけない。
もし軍の腰が砕けて、一歩でも 後退するようなことがあれば、
それは日本の屋台骨に救い難い大きなキズが出来るのみだ。
そのキズが出来た時、
ソ満国境をロシアが窺わないと、誰が保証することが出来るか。
自重すると言う美名にかくれて躊躇することはいけない。
この際自重することは停滞することだ。
停滞は後退と同列だ。
軍はただ前進あるのみ、
前進してすでに投げられた捨て石の戦果を拡大する一手あるのみ
私達は繰り返し主張した 」
・・・菅波三郎 ・ 懸河の熱弁
案内されて大広間に来ると、
省部の佐官連中が綺羅星のように並んでいる。
「 オッ、菅波こっちへ来い 」
永田大佐は広い大広間の片隅に、菅波を誘って対座した。
永田が、この夜は開口一番、
「 今日の事件は、 お前がそそのかしてやらしたのだろう 」
と、菅波に鋭くつめよった。
「 自分も全く寝耳に水で驚いています。
上海から帰還以来、復員業務に忙殺されて、
士官候補生たちに会う機会がなかったのです。
常日頃から自重するよう、やかましく訓戒してきましたが、
今日起つとは夢にも思っておりませんでした 」
菅波は永田の両眼を見すえたまま静かな口調で答えた。
そこへ向うの席から好奇心をもったらしい東条英機大佐
( 当時、参謀本部の編制動員課長 ) が、ゆっくりと近づいてきた。
「 君はあっちへ行ってろ 」
永田の一喝で、東条は苦笑しながらひき返した。
一期違いだけれど、東条は永田には頭があがらない。
一目も二目もおいていたといわれる。
三十分あまり対談したのち、菅波は大広間を出ようとすると、
始終同席していた東京警備司令部の参謀、樋口季一郎中佐が寄ってきて、
「 お前たちの気持はよくわかっているよ 」
と、肩をたたいてくれた。
・・・菅波三郎 ・ 「 今日の事件は、お前がそそのかしてやらしたのだろう 」
菅波三郎 スガナミ サブロウ
『 懸河の熱弁 』
目次
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・ 昭和維新 ・菅波三郎大尉
・ 井上日召 ・ 郷詩会の会合 前後
・ 末松太平 ・ 十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合
・ 末松太平 ・ 十月事件の体験 (2) 桜会に参加 「 成功したら、二階級昇進させる 」
・ 末松太平 ・ 十月事件の体験 (3) 「 それじゃあ空からボラを落として貰おうか 」
・ 末松太平 ・ 十月事件の体験 (4) 「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」
菅波中尉は東京の中心に呼ばれて来たのである。
一聯隊長の意志のみでない事は勿論である。
少しは事情を知る青年将校が、その間の動きに気づかぬ訳はない。
菅波中尉をめぐって、今迄何回か集会が行われたのもそのためである。
今夜の集まりには、将校寄宿舎のものばかりでなく、
兵営内に起居している見習士官までも集められた。
菅波中尉は、社会革命家に見るような、激越な風は少しもなかった。
語るところも淡々として、人を煽動するような点もない。
誰かの質問にこたえて話題を見出して行くというような、話しぶりをする人である。
との 澄ましてはいないが、貴公子然たる人、これが最も適切な中尉の形容であろう。
だから今夜の会合も、
誰かが質問して菅波中尉が答えるといった具合で進められた。
新聞や雑誌に出る報道以外、何も知らぬ見習士官や若い少尉は、
ただ黙って聞くだけで、質問をする知識すらなかった。
直接行動という言葉も出たが、
それが所謂西洋のクーデターを意味することわわかったが、
さて実際行動の場合どうするのか、具体的な内容は何も知らなかった。
国際情勢の危機 とくに満洲の険悪なる雲行き、
それに引きかえ政党の腐敗堕落と農村の疲弊、
これをそのままに放置する訳にはゆかぬが、
さりとて何故直接行動をとらねばならぬのであろう。
今まで部屋の一隅に黙っていた見習士官が、突如として口を開いた。
「 直接行動を何故とらなけりゃならんのですか 」
「 ああそうですか 」
菅波中尉は後輩の見習士官に答えるにも、言葉は非情に丁寧である。
「 医者が腫物を手術する場合に、いかに立派な名医でも、
膿だけ出して血は一滴も流さぬということは不可能でしょう。
国家の場合においてもそれと同じです。
勿論直接行動は、無暗矢鱈に為すべきものではありません。
これをしなれば、国家が滅びるという時こそ、
われらは起たねばならぬと思うのです 」
「 でも、軍隊を勝手に動かしてよいものですか 」
見習士官は他の先輩の思惑など、考慮している遑はなかった。
「 勿論わたくしどもは、命令によって動くのが望ましいのです。
しかし戦闘要領には、
独断専行ということが許されていて、いや鼓吹されておるでしょう。
命令を待たずして行っても、
それが上官の意図、天皇陛下の御意図に合すれば、よいのです。
とくにかかる行動は、偉くなるとその責任が重いので、
ともすれば上官は事勿れ主義になり易いのです。
自分でよしんばしたいと思っても、
命令を下すほど奇骨のある人は、そうありますまい。
口火を切るのは、われわれ青年将校を措いて他にない、と 思うのです 」
「 わかりました。わたくしはその国家的判断はできません。
その判断は菅波さんにおまかせしますから、
起つべき時には起てと一言仰言って下さい 」
・・・歩兵第三聯隊の将校寄宿舎
・ 打てば響く鐘の音のように
・ 五 ・一五事件 ・ 「 士官候補生を抑えろ 」
・ 五 ・一五事件と士官候補生 (一)
・ 五 ・一五事件と士官候補生 (二)
・ 紫の袱紗包み 「 明後日参内して、陛下にさし上げよう 」
・ 反駁 ・ 菅波三郎 「 昭和皇政維新法案は澁川が書いたのです 」
・ 菅波三郎 「 回想 ・ 西田税 」
・ 菅波三郎の革新思想
やっと菅波中尉が現れた。
私はいきなり菅波中尉に欝憤をぶちまけた。
「あんたは在京部隊の将校を利で誘いましたね。
道理で沢山集まっていますよ。
大岸中尉は同志十人あれば天下の事は成る、といったが、
十人どころか大変な人数ですよ。
私なんかもう出る幕じゃないから引込みますよ。」
菅波中尉は眼鏡の底で目をきらりと光らせると、
「なんということをいうんだ。どうしたんだ。」
といった。
私はつづけていった。
「クーデターが成功したら鉄血章をくれるそうじゃないですか。
野田中尉がだまって聞いていたところをみると、あんたも知っているんでしょう。」
「なにッ、鉄血章、誰がいった。」
「天野中尉がいいましたよ。」
「よしッ、おれにまかして置け。」
菅波中尉はぐっと口を真一文字にむすんで広間にはいっていった。
私もそのあとにつづいた。
広間の床の間を背にして参謀懸章を吊った軍服姿の橋本中佐らが坐っていた。
部隊将校や諸学校の将校は、申し合わせたように着物に襟をつけていた。
広間はぎっしりつまっていた。
芸者にまじって酒を注いでまわる将校もいた。
遅れて座についた私は注がれるままに、ただ盃を干した。
参謀本部の将校も起って酒を注いで廻った。
「 君かね、抜刀隊長は・・・・・」 と 私に酒を注ぐものもいた。
酒が廻るにつれ、にぎやかになり座は乱れかかった。
その時 片岡少尉が気色ばんで、それでも声は落としていった。
「 ちょっと来てください。 菅波中尉が小原大尉と組み打ちをやっている。」
私が片岡少尉のあとにつづいてはいった部屋は、広間につづく小部屋だった。
組み打ちは終わっていた。
やっと仲裁者によって引き分けられたところだった。
小原大尉も菅波中尉もまだ息をはずませて、にらみ合っていた。
仲裁をしたらしい数人の青年将校が、これもみな顔面を紅潮さして、壁にくっついて坐っていた。
鉄血章が原因で口論になり、その果ての組み打ちだったことはきくまでもなかった。
・・・末松太平 ・ 十月事件の体験 (4) 「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」