あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

菅波三郎 『 懸河の熱弁 』

2021年12月05日 14時23分33秒 | 菅波三郎

「 閣下、今時そんなことを言っておる時期ではありません。
 この事態に直面して、いかにしたならば、この日本を救うことが出来るか、
と言うことに、軍は全能力を傾注すべきでありますぞ 」
菅波中尉は、
滔々と懸河の熱弁を振るった。

「 今夜の衝撃によって、軍は腰砕けになってはいけない。
 もし軍の腰が砕けて、一歩でも 後退するようなことがあれば、
それは日本の屋台骨に救い難い大きなキズが出来るのみだ。
そのキズが出来た時、
ソ満国境をロシアが窺わないと、誰が保証することが出来るか。
自重すると言う美名にかくれて躊躇することはいけない。
この際自重することは停滞することだ。
停滞は後退と同列だ。
軍はただ前進あるのみ、
前進してすでに投げられた捨て石の戦果を拡大する一手あるのみ
私達は繰り返し主張した 」
・・・菅波三郎 ・ 懸河の熱弁

案内されて大広間に来ると、
省部の佐官連中が綺羅星のように並んでいる。
「 オッ、菅波こっちへ来い 」
永田大佐は広い大広間の片隅に、菅波を誘って対座した。
永田が、この夜は開口一番、
「 今日の事件は、 お前がそそのかしてやらしたのだろう 」
と、菅波に鋭くつめよった。
「 自分も全く寝耳に水で驚いています。
上海から帰還以来、復員業務に忙殺されて、
士官候補生たちに会う機会がなかったのです。
常日頃から自重するよう、やかましく訓戒してきましたが、
今日起つとは夢にも思っておりませんでした 」
菅波は永田の両眼を見すえたまま静かな口調で答えた。
そこへ向うの席から好奇心をもったらしい東条英機大佐
( 当時、参謀本部の編制動員課長 ) が、ゆっくりと近づいてきた。
「 君はあっちへ行ってろ 」
永田の一喝で、東条は苦笑しながらひき返した。
一期違いだけれど、東条は永田には頭があがらない。
一目も二目もおいていたといわれる。
三十分あまり対談したのち、菅波は大広間を出ようとすると、
始終同席していた東京警備司令部の参謀、樋口季一郎中佐が寄ってきて、
「 お前たちの気持はよくわかっているよ 」
と、肩をたたいてくれた。
・・・菅波三郎 ・ 「 今日の事件は、お前がそそのかしてやらしたのだろう 」


菅波三郎  スガナミ サブロウ
『 懸河の熱弁 』

目次
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・ 昭和維新 ・菅波三郎大尉

・ 井上日召 ・ 郷詩会の会合 前後

・ 末松太平 ・ 十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合
・ 末松太平 ・ 十月事件の体験 (2) 桜会に参加 「 成功したら、二階級昇進させる 」
・ 末松太平 ・ 十月事件の体験 (3) 「 それじゃあ空からボラを落として貰おうか 」
末松太平 ・ 十月事件の体験 (4) 「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」

菅波中尉は東京の中心に呼ばれて来たのである。
一聯隊長の意志のみでない事は勿論である。
少しは事情を知る青年将校が、その間の動きに気づかぬ訳はない。
菅波中尉をめぐって、今迄何回か集会が行われたのもそのためである。
今夜の集まりには、将校寄宿舎のものばかりでなく、
兵営内に起居している見習士官までも集められた。
菅波中尉は、社会革命家に見るような、激越な風は少しもなかった。
語るところも淡々として、人を煽動するような点もない。
誰かの質問にこたえて話題を見出して行くというような、話しぶりをする人である。
との 澄ましてはいないが、貴公子然たる人、これが最も適切な中尉の形容であろう。
だから今夜の会合も、
誰かが質問して菅波中尉が答えるといった具合で進められた。
新聞や雑誌に出る報道以外、何も知らぬ見習士官や若い少尉は、
ただ黙って聞くだけで、
質問をする知識すらなかった。
直接行動という言葉も出たが、
それが所謂西洋のクーデターを意味することわわかったが、
さて実際行動の場合どうするのか、具体的な内容は何も知らなかった。
国際情勢の危機 とくに満洲の険悪なる雲行き、
それに引きかえ政党の腐敗堕落と農村の疲弊、
これをそのままに放置する訳にはゆかぬが、
さりとて何故直接行動をとらねばならぬのであろう。
今まで部屋の一隅に黙っていた見習士官が、突如として口を開いた。
「 直接行動を何故とらなけりゃならんのですか 」
「 ああそうですか 」
菅波中尉は後輩の見習士官に答えるにも、言葉は非情に丁寧である。
「 医者が腫物を手術する場合に、いかに立派な名医でも、
 膿だけ出して血は一滴も流さぬということは不可能でしょう。
国家の場合においてもそれと同じです。
勿論直接行動は、無暗矢鱈に為すべきものではありません。
これをしなれば、国家が滅びるという時こそ、
われらは起たねばならぬと思うのです 」
「 でも、軍隊を勝手に動かしてよいものですか 」
見習士官は他の先輩の思惑など、考慮している遑はなかった。
「 勿論わたくしどもは、命令によって動くのが望ましいのです。
 しかし戦闘要領には、
独断専行ということが許されていて、いや鼓吹されておるでしょう。
命令を待たずして行っても、
それが上官の意図、天皇陛下の御意図に合すれば、よいのです。
とくにかかる行動は、偉くなるとその責任が重いので、
ともすれば上官は事勿れ主義になり易いのです。
自分でよしんばしたいと思っても、
命令を下すほど奇骨のある人は、そうありますまい。
口火を切るのは、われわれ青年将校を措いて他にない、と 思うのです 」
「 わかりました。わたくしはその国家的判断はできません。
 その判断は菅波さんにおまかせしますから、
起つべき時には起てと一言仰言って下さい 」
・・・
歩兵第三聯隊の将校寄宿舎 

打てば響く鐘の音のように 

・ 五 ・一五事件 ・ 「 士官候補生を抑えろ 」
・ 五 ・一五事件と士官候補生 (一)
五 ・一五事件と士官候補生 (二)

紫の袱紗包み 「 明後日参内して、陛下にさし上げよう 」

・ 反駁 ・ 菅波三郎 「 昭和皇政維新法案は澁川が書いたのです 」 
菅波三郎 「 回想 ・ 西田税 」
  
・ 菅波三郎の革新思想 

やっと菅波中尉が現れた。
私はいきなり菅波中尉に欝憤をぶちまけた。
「あんたは在京部隊の将校を利で誘いましたね。
道理で沢山集まっていますよ。
大岸中尉は同志十人あれば天下の事は成る、といったが、
十人どころか大変な人数ですよ。
私なんかもう出る幕じゃないから引込みますよ。」
菅波中尉は眼鏡の底で目をきらりと光らせると、
「なんということをいうんだ。どうしたんだ。」
といった。
私はつづけていった。
「クーデターが成功したら鉄血章をくれるそうじゃないですか。
野田中尉がだまって聞いていたところをみると、あんたも知っているんでしょう。」
「なにッ、鉄血章、誰がいった。」
「天野中尉がいいましたよ。」
「よしッ、おれにまかして置け。」
菅波中尉はぐっと口を真一文字にむすんで広間にはいっていった。
私もそのあとにつづいた。
広間の床の間を背にして参謀懸章を吊った軍服姿の橋本中佐らが坐っていた。

部隊将校や諸学校の将校は、申し合わせたように着物に襟をつけていた。
広間はぎっしりつまっていた。
芸者にまじって酒を注いでまわる将校もいた。
遅れて座についた私は注がれるままに、ただ盃を干した。
参謀本部の将校も起って酒を注いで廻った。
「 君かね、抜刀隊長は・・・・・」 と 私に酒を注ぐものもいた。
酒が廻るにつれ、にぎやかになり座は乱れかかった。
その時 片岡少尉が気色ばんで、それでも声は落としていった。

「 ちょっと来てください。 菅波中尉が小原大尉と組み打ちをやっている。」
私が片岡少尉のあとにつづいてはいった部屋は、広間につづく小部屋だった。
組み打ちは終わっていた。
やっと仲裁者によって引き分けられたところだった。
小原大尉も菅波中尉もまだ息をはずませて、にらみ合っていた。
仲裁をしたらしい数人の青年将校が、これもみな顔面を紅潮さして、壁にくっついて坐っていた。
鉄血章が原因で口論になり、その果ての組み打ちだったことはきくまでもなかった。
・・・末松太平 ・ 十月事件の体験 (4) 「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」


菅波三郎 ・ 「 今日の事件は、お前がそそのかしてやらしたのだろう 」

2018年02月22日 22時17分25秒 | 菅波三郎

菅波三郎
5.15当日の菅波三郎中尉
菅波三郎が、
西田の遭難を知ったのは、十五日の午後八時頃であった。
二、三日前から郷里の父親が裁判のことで上京しており、
長兄一郎もカナダの駐在武官から帰国直後で、
菅波も上海から凱旋して復員業務を終わったところであった。
この日の夕方、三人は青山の下宿でおちあい、
父は前の聯隊長山下奉文の家に挨拶に行きたいという。
山下はこの年の四月陸軍軍事課長に栄転していた。
三人そろって山下のジタク行ったが、おり悪く不在であった。
夫人に挨拶して辞去しようとしたら、菅波に電話がかかってきた。
「 どうして僕がここに居るのがわかったか実に不思議だった。
歩一の栗原からで、
西田さんが血盟団の川崎に撃たれて重体だというのだ。
そりゃ大変だというので、
父や兄に別れて大急ぎでタクシーを拾い、西田さんの家に馳せつけた。
ところが、はからずもそのタクシーの中で今日の事件を知ったというわけだ 」
菅波は、運転手の口から今日の午後、
犬養首相が海軍の青年将校と陸軍士官候補生たちに襲撃されて重体だと聞かされる。

西田の家についたら、入院のため車に乗せる所であった。
菅波は居合せた栗原と共に聯隊に急いだ。
歩兵三聯隊では非常呼集があるかも知れないと思ったが、
平静であったので十時すぎ順天堂病院へ駈けつけた。
同志将校のほとんどは顔をそろえていた。
いろいろと討議の末、
陸軍大臣に会って吾等の要望を聞いてもらおうというので、
タクシーに分乗して陸相官邸に向った。
陸相官邸についたのはもう十一時をすぎていた。荒木陸相は不在であった。
「 俺が話を聞こう 」
と、参謀本部次長の眞崎甚三郎中将が顔を出した。
菅波たちは、
この事件を契機に国家革新の実現を強く推進していただきたい、
と熱誠こめて力説した。
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・・・挿入・・・

ここで断っておくが青年将校たちのいう国家革新とは、
党利党略にのみ狂奔する政党政治に猛省を促し、
窮乏の極に呻吟する一般国民を救済する一大革新政治の実現である。
真に国民一人一人に父母の仁愛を以て望まれる天皇政治の実現であり、
上下一体となって国利民福の実行をあげることである。
最近よく言われるように、軍部の独裁や侵略戦争の遂行では断じてない。
二・二六事件以後、
軍部の独走体制が確立し
無謀な大東亜戦争をひき起こして敗北したから、よく誤解されるが、
国家革新を叫ぶ青年将校たちは
一人として軍部独裁や侵略戦争などを主張してはいない。
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眞崎は青年将校の持論をじっと聞いていたが、
「 わかった、君たちの気持を充分に大臣に伝えよう 」
と、約束してくれた。
会談は三十分あまりで終わった。
まもなく官邸の用人が
「 こちらへ来て戴きたい 」
と、菅波を大広間へ案内した。
途中廊下で小畑敏四郎大佐に出会った。
「 残念な事をしてくれたなあ 」
と 言って嘆いた。
菅波も同感の意を述べた。
・・・菅波三郎 ・ 懸河の熱弁

 永田鉄山
案内されて大広間に来ると、
省部の佐官連中が綺羅星のように並んでいる。
「 オッ、菅波こっちへ来い 」
永田大佐は広い大広間の片隅に、菅波を誘って対座した。
永田鉄山とはこれで二度目の対面である。
昨年の十月、安藤輝三が是非にと、菅波をさそって陸軍省の軍事課長室に鉄山を訪ねた。
安藤は永田に大変目をかけられていた。
菅波は永田と革新論について語りあったが、菅波は承服しなかった。
永田のくれた印刷物をみて
「 ハハア統制経済をやる考えだな 」
と、とっさに感じたと、語っている。
陸士、陸大とも優等で通して
「 鉄山の前に鉄山なく、鉄山の後に鉄山なし 」
と、もてはやされた秀才である。
「 秀才ではあったであろうが、肝っ玉の小さい人であった 」
と 菅波は評する。
その永田が、この夜は開口一番、
「 今日の事件は、お前がそそのかしてやらしたのだろう 」
と、菅波に鋭くつめよった。
「 自分も全く寝耳に水で驚いています。
上海から帰還以来、復員業務に忙殺されて、士官候補生たちに会う機会がなかったのです。
常日頃から自重するよう、やかましく訓戒してきましたが、今日起つとは夢にも思っておりませんでした 」
菅波は永田の両眼を見すえたまま静かな口調で答えた。
そこへ向うの席から好奇心をもったらしい東条英機大佐
( 当時、参謀本部の編制動員課長 ) が、ゆっくりと近づいてきた。
「 君はあっちへ行ってろ」
永田の一喝で、東条は苦笑しながらひき返した。
一期違いだけれど、東条は永田には頭があがらない。
一目も二目もおいていたといわれる。

三十分あまり対談したのち、菅波は大広間わ出ようとすると、
始終同席していた東京警備司令部の参謀、樋口季一郎中佐が寄ってきて、
「 お前たちの気持はよくわかっているよ 」
と、肩をたたいてくれた。
 樋口季一郎
樋口は菅波に同情的で理解者の一人であった。
大蔵や安藤たちは もう帰っており、
菅波はひとりタクシーをひろって北青山の下宿に帰った。

西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄 著から


菅波三郎 ・ 懸河の熱弁

2018年02月21日 04時08分05秒 | 菅波三郎

菅波三郎
・・・いろいろ討議の結果、
午後十一時頃西田の手術の結果をみまもるいとまもなく、
後ろ髪をひかれる思いで、
菅波、村中、朝山、栗原の各中尉及び私の五人は、
自動車を飛ばして陸相官邸に乗りつけた。
 
眞崎甚三郎    小畑敏四郎
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

荒木陸相は、閣議に出席して不在。
眞崎中将がかわって面接した。
約三十分にわたって開陳した、私達の意見に対して、
眞崎は善処する決心を披瀝しつつ、私達に十分自重するよう要望した。
終わって私達は、奥の一室に導かれた。
そこには、小畑敏四郎少将と黒木親慶とが待っていた。
黒木は、小畑少将とは同期生の間柄でかつてシベリヤ出兵に際して、
少佐参謀として従軍し、白系ロシアのセミョーノフ将軍を援けて軍職を退き、
今日に至っておる。
その縦横の奇略と底知れぬ放胆さは、当時日本の一逸材で、
陸軍大学校幹事の職にある小畑少将と共に、
荒木陸相の懐刀的存在であった。
「今夜の事件は残念至極だ。
もっといい方法で、革新の実を挙げるよう、
政友会の森恪らと共に着々準備を進めていたんだ。
すべては水泡に帰した」
と、小畑少将はいかにも残念そうだ。

閣下、今時そんなことを言っておる時期ではありません。
この事態に直面して、いかにしたならば、この日本を救うことが出来るか、
と言うことに、軍は全能力を傾注すべきでありますぞ

菅波中尉は、
滔々と懸河の熱弁を振るった。

今夜の衝撃によって、軍は腰砕けになってはいけない。
もし軍の腰が砕けて、一歩でも 後退するようなことがあれば、
それは日本の屋台骨に救い難い大きなキズが出来るのみだ。
そのキズが出来た時、
ソ満国境をロシアが窺わないと、誰が保証することが出来るか。
自重すると言う美名にかくれて躊躇することはいけない。
この際自重することは停滞することだ。
停滞は後退と同列だ。
軍はただ前進あるのみ、
前進してすでに投げられた捨て石の戦果を拡大する一手あるのみ
私達は繰り返し主張した。

いろいろ意見を交わし、
議論を闘わせつつ、まだ結論を出せず到らず、
これからだという時、
各部隊長から呼び戻しの命令が来て、
残念ながら私達はそれぞれ部隊長の許に引致された。
時に午前四時を少し過ぎていた。・・・


大蔵栄一 著 

五・一五事件 西田税暗殺未遂の真相  より


菅波三郎の革新思想

2017年12月10日 11時59分15秒 | 菅波三郎


菅波三郎

政治には思想、哲学がなければならない。

国体の進化に対する正確な認識が欠けてくると、
政治制度や経済組織が時代の進運にそわなくなり、
その欠陥が失政となって、国民生活を脅かし貧窮する。
社会不安はいろいろな主義思想が入り乱れて、抗争と混乱が生れてくる。
このような国情に対して、当時の日本陸軍には三大潮流ができて対立していた。
一つは現状維持派であり、
次が対外拡張派であり、最後が国内革新派である。
現状維持派とは長老 ( 将官級 ) の一部であり、
国家改造とか、社会革命をタブーとし、
軍人はただ上官の命令に服従し、軍務に精励せよ、と軍人の本分を説き、
そのくせ自分たちは派閥の中に生き、派閥のために憂き身をやつすやからである。
対外拡張派は、軍人の中堅 ( 佐官級 ) の一部で、
陸軍省、参謀本部、関東軍などの出先機関の中枢に属し、
ひそかに謀議を以て武力進出対外発展を企図し、
軍備の拡張、軍事費の獲得、さらにこれらを容易にする軍政府の樹立をはかる一群であり、
青年将校はこれを幕僚ファッショと呼んだ。
最後の国内革新派が、
国家の内部に潛む矛盾、社会の底辺に喘あえぐ国民の貧窮問題を解決する、
国内政治の出現を最大の急務とした尉官級隊付青年将校の一群である。