あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

あを雲の涯 (二十一) 西田税

2021年07月03日 05時42分02秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)

 
殺身成仁鐵血群
概世淋漓天劔寒
士林莊外風蕭々
壯士一去皆不還
同盟叛兮吾可殉
同盟誅兮吾可殉
幽囚未死秋欲暮
染血原頭落陽寒 

十五名の死刑執行後、
昭和十一年十二月四日、監房訪問の際、

半紙に書いた左の漢詩を示して
「 署長殿いかがでしょう、これはものになっていますかね 」
 と出した。
私は漢詩はよく分からないがと受け取った。

天有愁兮地有難  涙潜々兮地紛々
醒一笑兮夢一痕  人間三十六春秋
また、
同盟叛兮吾可殉
同盟誅兮吾可殉
囚未死秋欲
染血原頭落陽寒

この詩は刑死八カ月前の作である
・・・遺書


西田税  ニシダ ミツギ
元陸軍騎兵少尉
明治34年10月3日生 昭和12年8月19日銃殺
陸士34期生 秩父宮殿下と同期
北一輝門下
 


  処刑前  妻 はつ に送った手紙
小生 今日の事只これ時運なり 人縁
何をか言はむや。 萬々御了解賜度候。
人生夫婦となること宿世の深縁とは申せ、十有二年、
万死愁酸の間に真に好個の半身として 信頼の力たり愛戀の光たり給ひしことは
誠に小生至極の法悦に候、
然して 死別は人間の常業と雖も今日のこと何ばう悲しく候ぞ。
殊に頼りなき身を残らるゝ御心中思ひやり候。
申訳無之候
只 いよいよ心を澄して人生を悟りつゝ 静かに ゆたかに そして自主的につゝましく
おゝしく 少しづゝにても幸福への路をえらみ歩みて 余生を御暮しなされ度候
然らば如何ならむ業なりとも可と存候ものを御信仰なされ度 又幾重にも御自愛なされ
半生病などに心身を痛むることなきやう申進じ候
親族主なる友人等はよく消息して不慮の間違等なきやう存上候
小生はこれより永遠不朽の生命として御身をお守り申すべく 将来御身が現世を終えて
御出での時を御待ち申候
感慨雲の如し十二年而して三十六年
恍として夢に似たり
万々到底筆舌に堪えず候
泣血々々
昭和十二年八月十六日    税
初子殿

最後によめる歌八首
限りある命たむけて人の世の 幸を祈らむ吾がこころかも

あはれ如何に身は滅ぶとも丈夫の 魂は照らさむ万代までも

國つ内國つ外みな日頃吾が 指させし如となりつつあるはや

ははそばの母が心は腸はらわたを 斷つ子の思ひなほ如かめやも

ちちのみの父らまち給ふ風きよき 勝田ケ丘のおくつき所

うからはらか世の人々の涙もて 送らるる吾は幸児なりけり

君と吾と身は二つなりしけれども 魂は一つのものにぞありける

吾妹子よ涙払ひてゆけよかし 君が心に吾はすむものを

八月十七日、処刑の前々日に
「 残れる紙片に書きつけ贈る 」
 と 書かれた遺詠に、
限りある命たむけて人と世の
  幸を祈らむ吾がこゝろかも
君と吾と身は二つなりしかれども
  魂は一つのものにぞありける
吾妹子よ涙払ひてゆけよかし
  君が心に吾はすむものを
と ございます。
西田は 「 さよなら 」 と 言いながら、
別れられないいのちをわたくしに託したのでございましょうか。
・・・
死刑の判決は昭和十二年八月十四日、十九日には執行でした
判決のあとは毎日面会に参りました。
十八日に面会に参りましたとき、
「 男としてやりたいことをやって来たから、思い残すことはないが、お前には申訳ない 」
そう 西田は申しました。
「 これからどんなに辛いことがあっても、決してあなたを怨みません 」
「 そうか。ありがとう。心おきなく死ねるよ 」
白いちぢみの着物を着て、うちわを手にして面会室のドアの向うへ去るとき
さよなら 」 
と 立ちどまった西田の姿が、今でも眼の底に焼きついて離れません。
・・・西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯

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