無眼私論
西田 税
前頁 無眼私論 1 「 今仆れるのは 不忠、不孝である 」 の続き
窮天私記に補せむとて
詩と死と、
死は詩なり、
死は人生生存の終焉にして永遠に生存すべき發露なり。
-----人生の光彩は實にこの間に見るべし。
死は美し、
吾人は吾人の死をして眞に美しからざらしめるべからず。
余想う、死を美しからしむるは人生生存の眞意義なりと。
眞を見、善を表したる死は最も美し、
しかしてこは哲理に殉じて人生を行くときのみ來る。
吾人は眞に美しき死を冀わざるべからず。
眞に美しき人生の行路を辿のものは眞に美しき死を求め得べし、
要は自然の哲理に融歸するにあり。
余はかくのごとき人生を詩的人生という。
*La vie emue d'amour. La vie poetique.
sang pur-consacre.
詩とは何ぞや、
余をもってこれを言わしむれば宇宙唯一の表現は眞なるも、その眞の發する処ついに詩のみ。
しかして美しきものを詩という。
單なる感情を喜ばしむるのみならず、
實に正しき理性を喜ばしむるものにして初めて眞の美と稱するを得べし。
吾人は美しきを求めんがためにはすべてを犠牲にするの意氣なかるべからず。
然り美しき死は人生究竟の理想なればなり。
單なる----いわゆる生と死てふ問題のごときは末のみ、
短き生も美しき死によりて無窮の価値あり、長き生も醜き死によりてその価値を無ならしむ。
要は哲理に殉じて人生を行き、
美的死を求來する殉道者の生命は單にその年歯----霊肉倶在の----によりて短所にあらず、
すへての殉道者の生命は同一なり----永遠の未來に亙りて朽つることなきその存在は、
哲理の永却に不朽なると共に不朽なり。
何となれば哲理に融歸すればなり。
余が生存の永遠性を認むる、實にここにあり。
背天の人、悖理の人、
これらは可能なるその永遠性をみずから抛棄せるものにしてついに生き得ざるなり。
思え、宇宙の悠遠無窮に対する人生の至瞬なるを。
吾人はここにおいてか必ず活キ得べき久遠の哲理に触れざるべからず。
人生五十、これを換言すれば誠一瞬ならずや。
背天その全行程を行くとも、究竟の醜き死を招來し、
さらに生存の永遠性に触れ得ざれば五十また何するものぞ。
宇宙悠遠の哲理に對して無限の憧憬を有する吾人は
今やついに死生に何らの憂倶なく何らの疑義を抱かざるなり。
天に歸らむことを思い道に入らむことを希う。
生や死や論ずるに足らざるのみ----ついに殉天の意氣あり。
幾年漂泊の心に触れたる最終の音律はまことこれなりき、この美音なりき。
「聖賢の詩的道程」
今や吾人は熱烈の意氣に現實慷慨の紅涙を濺ぎかけつつ
双の手をふるわせながら昂然として幽玄なる曲を奏でつつあるのである。
世人ややもすれば、「生きむがために」 という。
汝らの 「生く」 とは何の意ぞ、果して久遠の生命を獲得せんの意にや。
パンといい食糧といい、金という。
汝らは生きむがためにこれらを要求すというの眞意にはあらざるか、
余つねにこの聲をきき疑なきあたわざるなり。
人生は死せむがための道程なり。
人間は永遠性を求むるを終局の理想とするも
人生行路は死せんがための道程に過ぎざるなり。
人生るときすでに死を有す----死に對って進みつつあるなり。
ゆえに死せんがために進むべき行路は
その終焉たる死をして最も意義あるごとく すなわち美しからしむるがごとく進むべきなり。
眞なるものひとり美し、
しかして眞は宇宙唯一の原理なり。
眞に發して善を見る、
しかしてこの二者は一者にして共に至上の美を思わしむ。
換言すれば----眞に美なるものは眞になりまた善なり。
これを要するに
眞は本體にして動くところ善となり、これを見るところ美となるのみ、ついに一者なるに過ぎず。
人界に眞を表現するものは誠なり。
人誠なれば天に歸せるなり、道に殉ぜるなり、
しかも生存の永遠性を獲得せしなり、
この人を聖人という。
(二五八二 皇紀 三、十七)
・
人類の現實を見よ
現實を思う、
しかも余輩はその双肩に掛れる責任の重かつ大なる思わざるを得ず。
シカシテ余輩は殉天の理を思う。
ああ平生學ぶところ果して何ごとぞや。
知行の一致を思い、心行の不二なるを思う余輩の眞意また察すべし。
聖光まさに滅せんとして擾々たる人類、
思う、聖光は新たに人類を證明せざるべからずと。
聖光、聖光、ついにその光炎たらむことを思う。
要は誠なり、平生腹を満たし來り虚にし來りし哲理の具現あり。
ああ我らは堕落せる人類を淨化せざるべからず。
天保の昔、大塩中齋は幾年蘊の學識をもって理想具現の道に過ぎずと道破して起ちたるなり。
當今蘊蓄をもって終れりとなし、理想を具現するの道を知らず、
ついに擾々たる混亂狀態を誘起せしのみ。
海東民生の醜態を君いかに見る。
西方は自吉、不義をもって立てり、論ずるに足らざるも、ようやく暁り來れるの道程にあるごとし。
伝統の活精神今いずこにかある、
同胞よ、冀くは意をここに致せ !!
(二五八二、三、一八)
・
大正維新
* 参考書
罵世録
我大日本主義
我大亜細亜主義
我等ノ使命
窮天私記
時代は漸次推移して行く。
そして各種の事象はこれに從って凝固して行く。
しかもその凝固たるや概して偏頗である。
われらはつねに創造当時の意氣と理想とを保有してこの偏流を矯正匡救せねばならないのである。
見よ、明治維新以來の祖國における事象の推移を。
當時の理想は恐らく今日その片鱗をも認めることができまい。
しかも當時の狀況は今日のそれとは多少異なっていなければならぬ。
今日はより一層重大である。
一朝にして幾百年の武斷政治----しかもそれは一天萬乗の至尊を蓋い奉った臣子の専擅であった
----が腐敗の極に達したとき、
「國民の天皇である。天皇の民族である」 という純眞赤子の眞率なるしかも勇敢なる雄叫びに、
幾多の志士は革命の大旆を掲げて起ったのであった。
天朝の霊妙なるそして円慈なる---實にては哲理の實現にほかならぬ
----明光を直ちに國民----民族の上に浴びたい、
否、浴びねばならぬ、これが實際の日本であるというのが、
當時専擅愚劣なる武斷政治を破壊して
太古の眞日本に歸ろうとする維新志士その他一般民族の素志であったのだ。
しかして社会顚覆----眞日本の建設は成就せられたのである。
眞理はここにその聖光を放つに至った。
理想の滅却、否、すくなくも理想の惡的轉移 (取り違いもあろう) は
浅間しい人間の群集の中では時の推移と共に生じやすい。
----これは止むを得ぬことかも知れない。
近代の日本もその例には漏れなかった。
余輩維新當時の聖的志士が建設したる眞日本を思い、現時の日本をさらに細かに正視したとき、
この感慨は我しらずひしひしと胸を襲うたのである。
民族は當年の理想を忘却している。
そして一度その光炎を発揮した眞理も正義もことごとく今やその光を隠してしまった。
眞理の聖光をわれわれは現時の國家民族の上に認め得ないのである。
民族國家の上に眞理の聖光を望み得るのは實にわが眞日本のみである。
外夷にこれを望まんと欲しても到底不可能である。
それは、外夷の辿り來った過去の道程を探り、現に進みつつあるところを正視すれば明瞭である。
余輩 「眞理の表現にあらざるものは滅ぶ」 ということを思いかつその實なることを知る。
そして外夷に無限の憎しみを寄せると共に無限の同情と哀涙を濺ぐ、
しかもこれを匡救せねばならぬという責任を感得するのである。
しかして唯一の民であるべき日本民族およびその國家が不正不義なる外夷に壓せられ、
またみずから眞理を棄てて滅亡を誘致せんとしつつある趨勢を見るにおいて、
余輩はここに大聲叱呼 「再び國家を改革して眞日本を建設せよ」 を絶叫せざるを得ないのである。
理想を忘れた民族の醜態を見よ。
粉々、また擾々、その頽廢の氣分でどこまで背理の道を進むかわからない。
亡滅乎、亡滅乎、
自覺せよ國民。
國家は滅亡し民族は滅亡せん、さらに眞理をも滅亡の淵に導かんはわれらの望むところにあらず。
いまや現實を直視するとき、一たび明治維新の革命において建設したる
「天皇の民族である、國民の天皇である」という理想を闡明し、
燦然たる眞理の聖光を宇内に宣揚したる至美の眞日本はすでにすでにその一端をも留め得ずして、
後人理想を誤り眞理を忘れ、至聖至美至親の天皇は民族國民より望み得ず、
兩者の中間には蒙眛愚劣不正不義なる疎隔群を生ずるに至ったのである。
爲に見よ、不逞、時を得て跋扈し、非望を抱くさえ生じたるにあらずや。
國家社會は險惡なる、しかも不安な狀態にあって内患に苦悩し、
さらに外憂に呻吟し、前途は暗澹として逆睹し難いものがあるのではないか。
いかに不明不賢、無知なものでもこれぐらいは氣が附かねばならぬ。
眞日本を再建すべき時節はまさに到來せんとす。
友よ、哲理を表現すべき眞日本を建設せよ。
國家を清新して眞正の哲理に則るにはいかにせば可なるか。
われわれは不法にして背理の施設はこれをことごとく破壊せねばならぬ
----そしてその上に新しい理想の國家を建てねばならぬ。
「五十年」、この間におけるわが不合理的國家社會の改革
----しかもそれがすこぶる根強く深く食込んでいるこの弊害----は、
尋常一様な温和な方法では到底不可能である。
でき得ない。
いわんやその全般を棄てて一部玓改造のごときはそれこそけだしいけない。
成就はするかもしれない、しかも決して眞理を見出すことはできないのである。
今においてはも早直接破壊のために劍でなければならぬ。
劍である、そして血でなければならぬ。
われらは劍をとって起ち血をもって濺がねばこの破壊はできない、建設はでき得ない。
神聖なる血をもってこの汚れたる國家を洗い、しかしてその上に新に眞日本を建設しなければならぬ。
しかして 「天皇の民族である、國民の天皇である」 この理想を實現しなければならぬ。
* Projectif
L'Epee
Sang sacre
ああ、
大權----神聖なる現人神の享有し給う眞理實現の本基たるべきの發動による國家の改造、
「クーデッタ」、
われらはこれを斷行しなければ無効だと信ずるのである、----爆彈である、劍である。
* Coup d'Etat
眞日本の理想に背馳するものはすべて斬らねばならぬ。
民族の理想に合わないものはすべて葬らねばならぬ。
しかして民族全體の心に堅く理想を植えねばならぬ。
これを見よ、
現時の趨勢を。
上は國政を議する廟堂の大臣より下は一卑僕に至るまで、この醜態は何だ。
主權を窺愈した元老があった。
大臣はことごとく醜陋の極をつくしている。
議會を見よ、これが眞面目な國政の審議者として批難のないものであるか。選良の名は當然か。
政黨政治----これが進歩せる立憲政治だそうだ----のざまは何だ。
教育家と稱し實業家と稱しさらに芸術家と稱する輩の心事を洞察せよ。
青年學生の風潮はどうか。
民衆の趨向はどうか。
國家の本質を思い使命を思い現實を直視しさらに周辺に眼を注いだとき、
「時局は重大である、捨てて置かれぬ」
という感じが強く余輩の心を衝く。
宰相原は十九歳の青年中岡良一に刺された。
富豪安田善次郎は朝日平吾に刺された。
さらに大正十一年三月十七日午後一時、
神聖たぐいなき皇城二重橋頭尊皇愛國の爆彈は破裂した。
清き血は流れた。至誠はついに英邁なる摂政殿下をも動かし奉ったのだ。
「輕擧かも知れぬがその純忠の精神を喜ぶ」
御辭はかくのごとく大臣ついに恐懼したのである。
上訴の願文は実に国家革新の大論文である。
殿下が御心事は決して空谷の跫音ではない、否、御眞意はここにあるのだ。
大正維新の國家改革、
革命の第一彈はすでに投ぜられた。
そして第二彈も今や投ぜられたのである。
眞理を把持し皇謨を翼賛し聖光をもって國家民族を抱擁せんとする志士は起つべきである。
志士は聖人でなければならぬ、古來の革命児はすべて聖人である。
----眞理の把持とその現實はまこと聖者でなければあたわざるところである。
そして青年----燃ゆるがごとき意氣と、眞理に対する不動の信念と、
不屈不撓なる理想實現の努力心とを有する青年が、
英邁なる青年摂政殿下を奉じて眞日本を建設すべきである。
しかる後、溢るるごとき愛國の精神をもってその遠心力に乗じ、
宇内人類に正義人道の眞髄を宣布して眞理に立脚する大日本主義に融化せしめねばならぬ。
----世界革命を敢行するのである。
ここにわが大アジア主義を認め得るのだ。
ああ、理想を實現すべき時機は來たのである。
日本の革命は世界の革命である。
これ日本が唯一の眞理表現の國であるからである。
しかも日本革命はすでにその第一彈を投じ去ったのである。
劍である、血である、そして 「クーデッタ」 である。
「明治維新に際して聖的志士がいかに活躍したか」、
われらは眞我を視、現實を視、
周囲を見、最後に劍と爆彈とを握って起ったとき考うることは實にこれである。
われらはこの革命の神聖なる初めの犠牲者をもって任ずるものである。
時代は移った。
明治維新の理想は再びこれをさらに大にし新たにして、
今日大正維新に渇仰せねばならなくなったのだ。
「天皇は國民の天皇であり民族は天皇の民族である」
正義を四海に宣布する以前にわれらはまずみずからを清めねばならぬ。
眞理の道程を進まねばならぬ。
そして天皇が享有せらるる霊光を一様に國民に欲せしめねばならぬ。
國家改革 ! !
革命の大旆を押立てて進め ! !
大權の發動による憲法の停止 ! !
「クーデッタ」!! 不淨を清めよ ! !
青年日本の建設 ! ! 大日本主義の確立 ! !
しかしてさらにこれを宇内人類に宣布して彼らを匡救せよ。
ああ、時は來れり、時は來れり。
君見ずや、革命第一彈はすでに投ぜられたり。
大正維新である。
余はこの不淨を清めんがためにまずみずからこの血をこれに濺ぎかけんと希うものである。
(二五八二、三、二〇)
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