あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

暗黒裁判 ・ 幕僚の謀略 1 西田税と北一輝 『 はじめから死刑に決めていた 』

2022年11月21日 05時13分50秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略1 西田税と北一輝

陸軍首脳部は蹶起将校等が、
蹶起目的の本義を統帥権者である天皇に帷幄上奏を企てた事、
さらには皇族を巻き込んだ上部工作が進められた事、
これらを陸軍首脳が隠蔽しようとしている真実を
軍事法廷で国民に向けてアピールする事を危惧した。
相澤事件公判がそうであったように、公判闘争が繰り広げられたなら、軍は国民の信頼を失い、国民皆兵の土台さえ揺るがしかねない。
だから、こうした危惧を払拭するために
筋書を拵えたのである。
拵えられた筋書
・事件は憂国の念に駆られた将校達が起こした。
・あくまで計画性はない。
・要求項目にも 畏れ多くも陛下の大権私議を侵すものはなかった。
・純粋な将校達は、ひたすら昭和維新の捨石になろうとした。
・事件の収拾過程で北一輝や西田税に引きずられたに過ぎない。
・悪いのは陸軍ではない。無為無策な政治家と仮面を被った社会主義者だ。
・・・鬼頭春樹 著  『 禁断 二・二六事件 』 から


「 血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した 」
という形で世に公表された。
・・・幕僚の筋書き 「 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 」


両人は極刑にすべきである。
両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である。
 ・・・寺内陸相
二・二六事件を引き起こした青年将校は 荒木とか眞崎といった一部の将軍と結びつき、
それを 北一輝とか磯部とかが煽動したんです。・・・片倉衷

陸軍当局は、事件勃発直後から北一輝と西田税をその黒幕と断じ、電話盗聴その他の内定を怠らなかった。
二月二八日午後、憲兵の一隊が北邸を襲い、北を検束した。
西田は間一髪逃れたが、三月四日早朝警視庁係官によって検挙された。
陸軍が、司法当局の反対を押し切って東京陸軍軍法会議の管轄権を民間人にまで及ぼした最大の狙いは、
北 ・西田の断罪と抹殺にあったと推測される。
三月一日付の陸軍大臣通達
( 陸密第一四〇号 「 事件関係者ノ摘発捜査ニ関スル件 」 )
は、次のように述べる。
この通達が、予審も始まっていない段階のものであることに注目する必要がある。
北 ・西田を張本人とする路線は、最初から敷かれていたのである。
「 叛乱軍幹部及其一味ノ思想系統ハ、
 過激ナル赤色的國體変革陰謀ヲ機関説ニ基ク君主制ヲ以テ儀装シタル北一輝ノ社會改造法案、
順逆不二ノ法門等ニ基クモノニシテ、我ガ國體ト全然相容レザル不逞思想ナリトス 」
検察官は、このシナリオに則って、
論告の中で、事件の動機 ・目的として次のように述べる。
「 本叛乱首謀者ハ、日本改造法案大綱ヲ信奉シ、之ニ基キ国家改造ヲ爲スヲ以テ其ノ理想トスルモノニシテ、
 其企図スルトコロハ民主的革命ニアリ・・・・集団的武力ニ依リ 現支配階級ヲ打倒シ、
帝都を擾乱化シ、且帝都枢要地域ヲ占拠シ、戒厳令下ニ導キ 軍事内閣ヲ樹立シ、
以テ日本改造法案大綱ノ方針ニ則リ政治経済等各般ノ機構ニ一大変革ヲ加ヘ、
民主的革命ノ遂行ヲ期シタルモノナリ 」 ・・・ニ ・二六事件行動隊裁判研究 (ニ)  松本一郎

東京陸軍軍法会議
「 法律ニ定メタル裁判官 」 によることなく、非公開、かつ、弁護人抜きで行われた本裁判は、
少なくとも北一輝などの民間人に関する限り、
明治憲法の保障する 「 臣民の権利 」を蹂躙した違法のものであったということ、
本裁判には、通常の裁判では考えられないような、訴訟手続規定を無視した違法が数多く存在したということ、
北一輝 ・西田税を反乱の首魁として極刑に処した判決は、証拠によらないでっち上げであった
・・・松本一郎
陸軍軍法会議が 非常に滅茶苦茶な裁判であったこと、結論的に言うと、指揮権発動 もされている。
北一輝、西田税に矛先が向け られている。
北については、叛乱幇助罪で3年くらいのところ、また、西田については、もっと軽くてよいところ、
強引に寺内陸軍大臣が指揮権発動して死刑にするような裁判の構造を作ってしまった。
これは歴史的事実である。 これは匂坂資料の中にも出てくる。
・・・中田整
一  ( 元 NHK プロデューサー) 講演  『 二・二六事件・・・71年目の真実 』  ・・・拵えられた憲兵調書 


暗黒裁判
幕僚の謀略 1  西田税と北一輝
『 はじめから死刑に決めていた 
目次
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・ 暗黒裁判 ・幕僚の謀略 3 磯部淺一の闘爭  『北、西田両氏を助けてあげて下さい』
・ 西田税、北一輝 ・ 捜査経過
西田税、事件後ノ心境ヲ語ル
・ 暗黒裁判と大御心 
はじめから死刑に決めていた 
暗黒裁判 ・ 既定の方針 『 北一輝と西田税は死刑 』
・ 
暗黒裁判 (五) 西田税 「 その行為は首魁幇助の利敵行為でしかない 」
拵えられた裁判記録 
・  北一輝、西田税 論告 求刑 
・ 北一輝、西田税 判決 ・首魁 死刑


私モ結論ハ北ト同様、死ノ宣告ヲ御願ヒ致シマス。
私ノ事件ニ對スル關係ハ、
單ニ蹶起シタ彼等ノ人情ニ引カレ、彼等ヲ助ケルベク行動シタノデアツテ、
或型ニ入レテ彼等ヲ引イタノデモ、指導シタノデモアリマセヌガ、
私等ガ全部ノ責任ヲ負ハネバナラヌノハ時勢デ、致方ナク、之ハ運命デアリマス。
私ハ、世ノ中ハ既ニ動イテ居ルノデ、新シイ時代ニ入ツタモノト観察シテ居リマス。
今後ト雖、起ツテハナラナヌコトガ起ルト思ハレマスノデ、
此度今回ノ事件ハ私等ノ指導方針ト違フ、自分等ノ主義方針ハ斯々デアルト
天下ニ宣明シテ置キ度イト念願シテ居リマシタガ、此特設軍法会議デハ夫レモ叶ヒマセヌ。
若シ今回ノ事件ガ私ノ指導方針ニ合致シテ居ルモノナラバ、
最初ヨリ抑止スル筈ナク、北ト相談ノ上実際指導致シマスガ、
方針ガ異レバコソ之ヲ抑止シタノデアリマシテ、
之ヨリ観テモ私ガ主宰的地位ニ在ツテ行動シタモノデナイコトハ明瞭ダト思ヒマスケレド、
何事モ勢デアリ、勢ノ前ニハ小サイ運命ノ如キ何ノ力モアリマセヌ。
私ハ検察官ノ 言ハレタ不逞の思想、行動ノ如何ナルモノカ存ジマセヌガ、
蹶起シタ青年将校ハ 去七月十二日君ケ代ヲ合唱シ、天皇陛下万歳ヲ三唱シテ死ニ就キマシタ。
私ハ彼等ノ此聲ヲ聞キ、半身ヲモギ取ラレタ様ニ感ジマシタ。
私ハ彼等ト別ナ途ヲ辿リ度クモナク、此様ナ苦シイ人生ハ續ケ度クアリマセヌ。
七生報国ト云フ言葉ガアリマスガ、私ハ再ビ此世ニ生レテ來タイトハ思ヒマセヌ。
顧レバ、實ニ苦シイ一生デアリマシタ。懲役ニシテ頂イテモ、此身体ガ續キマセヌ。
茲ニ、謹ンデ死刑ノ御論告ヲ御請ケ致シマス。
・・・西田税の最終陳述

次項暗黒裁判 ・ 幕僚の謀略 2 『 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 』 に 続く


暗黒裁判 ・ 幕僚の謀略 2 『 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 』

2022年11月20日 14時45分46秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達

昭和十年十二月頃、
ある青年将校は山口大尉に

「 我々第一師団は来年の三月には北満へ派遣されるんです。
防波堤の我々が東京を空にしたら、侵略派の連中が何を仕出かすか知れたものじゃありません。
内閣がこう弱体では統制派の思う壷にまた戦争です。我々は今戦争しちゃ駄目だ 」
と  述べている。
青年将校は主に東京衛戍の第一師団歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊
および近衛師団近衛歩兵第三聯隊に属していたが、
第一師団の満洲への派遣が内定したことから、彼らはこれを 「 昭和維新 」 を 妨げる意向と受け取った。
まず相澤事件の公判を有利に展開させて重臣、政界、財界、官界、軍閥の腐敗、醜状を天下に暴露し、
これによって維新断行の機運を醸成すべきで、決行はそれからでも遅くはないという慎重論もあったが、
第一師団が渡満する前に蹶起することになり、実行は昭和十一年二月二十六日の未明と決められた。
西田等は時期尚早であるとしたが、それら慎重論を唱える者を置き去りにするかたちで事件は起こされた。

二月二十八日、決起部隊の討伐を命ずる奉勅命令を受け取った戒厳司令官の香椎浩平中将も、
蹶起将校たちに同情的で、何とか彼らの望んでいる昭和維新をやり遂げさせたいと考えており、
すぐには実力行使に出なかった。
本庄侍従武官長は何度も蹶起将校の心情を上奏した。
このように、日本軍の上層部も含めて 「 昭和維新 」 を助けようとする動きは多くあった。
しかしながら、これらは全て昭和天皇の強い意志により拒絶され、蹶起は鎮圧された。
蹶起将校の思惑は外れたのである。


昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が    胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
「 昭和維新の歌 」 を高唱しながら 三宅坂方面に向い行進する安藤隊

( 二・二六事件後 ) 岳父の本庄大将に宛てて
「 三年ばかり前に私はある勧誘を受けました。
 それは万一、皇道派の青年将校が蹶起したら、これを機会に、青年将校および老将軍連中を一網打尽に討伐して
軍権政権を一手に掌握しようという大策謀であります。計画者は、武藤章、片倉衷、それから 内務省警保局の菅太郎であります 」
という文章を書き送った。
 ・・・山口一太郎  ・・・福本亀次 『 兵に告ぐ 』  ・・・眞崎談話 『 今回の黒幕は他にある事は俺には判って居る 』

幕僚の謀略

「 政治的非常時變勃發に處する對策要綱 」

序文

帝国内外の情勢に鑑み・・・国内諸般の動向は政治的非常事変勃発の虞 おそれ 少なしとせず。
事変勃発せんか、究極軍部は革新の原動力となりて時局収拾の重責を負うに至るべきは必然の帰趨 きすう にして、
此場合 政府 並 国民を指導鞭撻し禍を転じて福となすは緊契 ママ の事たるのみならず、
革新の結果は克く国力を充実し国策遂行を容易ならしめ来るべき対外危機を克服し得るに至るものとす。
即ち 爰 ここ に軍人関与の政治的非常事変勃発に対する対策要綱を考究し、万一に処するの準備に遺憾なからしむる。
「 対策要綱 」 の実施案

(一) 事変勃発するや直ちに左の処置を講ず

イ、後継内閣組閣に必要なる空気の醸成
口、事変と共に革新断行要望の輿論惹起並尽忠の志より資本逃避防止に関する輿論作成
ハ、軍隊の事変に関係なき旨の声明
但社会の腐敗老朽が事変勃発に至らしめたるを明にし一部軍人の関与せるを遺憾とす
(二) 戒厳宣告 ( 治安用兵 ) の場合には軍部は所要の布告を発す
(三) 後継内閣組閣せらるるや左の処置を講ず
イ、新聞、ラジオを通じ政府の施政要綱並総理論告等の普及
ロ、企業家労働者の自制を促し恐慌防止、産業の停頓防遏、交通保全等に資する言論等に指導
ハ、必要なる弾圧
( 検閲、新聞電報通信取締、流言輩語防止其他保安に関する事項 )
(四) 内閣直属の情報機関を設定し輿論指導取締りを適切ならしむ 
・・・片倉衷・『 片倉参謀の証言 叛乱と鎮圧 』

予測される青年将校が蹶起に際し、その鎮圧過程を逆手にとり、

自分達の側がより強力な政治権力を確立するための好機として利用しようという
構想 をまとめたもので、
昭和九年に片倉衷等が作っていたもの。

この 「 要綱 」 は、国内において軍人による事変が勃発することを予見しつつ、
併せて、国力充実のため、国家体制の革新が求められているとの基本認識 に立って、
こうした事変勃発を逆に利用して軍部自らは直接手を汚すことなく、
しかも結果的に 『 革新の原動力 』 たらんとする意思を明確に打ち出したもの。
それは、青年将校等の国家改造案とは異なり、
緻密な計画性と戦略をもった、統制派の省部幕僚による反クーデター計画案であった。
統制派幕僚は、いつ青年将校が蹶起しても素早く対応できるよう、既に万全の体制を整えていた。
「 彼等が非合法的な何かをやるのではないか
逆にそれを利用して新しい世界に導くこともできるのではないかと考えたのです。
昭和九年一月四日に『 政治的非常事態勃発に処する対策要綱 』 をまとめた。
これが二・二六事件のとき、暴徒鎮圧に役立った。
二・二六事件の時の戒厳令は、私が中心になって作った対策要綱が原案になって居るんです 」
・・・片倉衷

死刑は既定の方針


 
武藤章中佐             片倉衷少佐
二・二六事件の時、武藤章は軍事課の高級幕僚ですね。そして我々を真向からつぶした。
当時の軍事課長は村上啓作大佐で、村上さんは何かと蹶起将校のメンツが立つようにしてやろうと思っていた。
しかし、部下の武藤が徹底的にぶっつぶそうとして、結局勝ったわけですね。
・・・池田俊彦

二月二十八日、陸軍省軍務局軍務課の武藤章らは厳罰主義により速やかに処断するために、
緊急勅令による特設軍法会議の設置を決定し、
直ちに緊急勅令案を起草し、閣議、枢密院審査委員会、同院本会議を経て、
三月四日に東京陸軍軍法会議を設置した。
法定の特設軍法会議は合囲地境遇戒厳下でないと設置できず、
容疑者が所属先の異なる多数であり、管轄権などの問題もあったからでもあった。
特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、
裁判官の忌避はできず、一審制で非公開、かつ弁護人なしという過酷で特異なものであった。
向坂春平陸軍法務官らとともに、緊急勅令案を起草した大山文雄 陸軍省法務局長は
「陸軍省には普通の裁判をしたくないという意向があった」 と 述懐する。
事件後、東条英機ら統制派は軍法会議によって皇道派の勢力を一掃し、
結果としては統制派の政治的発言力が強くなった。
東京陸軍軍法会議の設置は、皇道派一掃の為の、統制派による謀略であった。
そして
迅速な裁判は、天皇自身の強い意向でもあった
特設軍法会議の開設は、枢密院の審理を経て上奏され、
天皇の裁可を経て三月四日に公布されたものである。
この日、天皇は本庄繁
侍従武官長に対して、裁判は迅速にやるべきことを述べた。
「 軍法會議の構成も定まりたることなるが、
相澤中佐に對する裁判の如く、優柔の態度は、却って累を多くす。

此度の軍法會議の裁判長、及び判士には、正しく強き將校を任ずるを要す 」
裁判は非公開の特設軍法会議の場で迅速に行われた。
その方法は、審理の内容を徹底して 「 反乱の四日間 」 に絞り込み、
その動機についての審理を行わないことであった
これは先の相澤事件の軍法会議が通常の公開の軍法会議の形で行われた結果、
軍法会議が被告人らの思想を世論へ訴える場となって報道も過熱し、
被告人らの思想に同情が集まるような事態になっていたことへの反省もあると思われる。
二・二六事件の審理では非公開で、動機の審理もしないこととした結果、
蹶起した青年将校らは 「 昭和維新の精神 」 を 訴える機会を封じられてしまった
事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して、匂坂春平陸軍法務官  ( 軍法会議首席検察官 ) 等がこれに当る。


「 血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した 」
という形で世に公表された。
・・・軍の責任転嫁 「 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 」

陸軍首脳部は蹶起将校等が、
蹶起目的の本義を統帥権者である天皇に帷幄上奏を企てた事、
さらには皇族を巻き込んだ上部工作が進められた事、
これらを陸軍首脳が隠蔽しようとしている真実を
軍事法廷で国民に向けてアピールする事を危惧した。
相澤事件公判がそうであったように、公判闘争が繰り広げられたなら、
軍は国民の信頼を失い、国民皆兵の土台さえ揺るがしかねない。
だから、こうした危惧を払拭するために
筋書を拵えたのである。

拵えられた筋書
・事件は憂国の念に駆られた将校達が起こした。
・あくまで計画性はない。
・要求項目にも 畏れ多くも陛下の大権私議を侵すものはなかった。
・純粋な将校達は、ひたすら昭和維新の捨石になろうとした。
・事件の収拾過程で北一輝や西田税に引きずられたに過ぎない。
・悪いのは陸軍ではない。無為無策な政治家と仮面を被った社会主義者だ。
岩淵辰雄は、( 近衛文麿のブレーンとして知られ新聞記者を経て戦後は政治評論家として活躍した  ) 
戦時中、昭和二十年四月の憲兵隊係官との会話を戦後になって次の様に記す。
「 二 ・二六事件をどう思うか 」
と云うから 知らないといったら、
「 それは判らないだろう、世間に発表したのは、
 あれは拵
こしらえたものだから、
ほんとうの真相を知っている者はないはずだ 」
これは恐らく不用意に云ったことだろうが、このちょっとした断片によって窺知きちし得らるるように、
二 ・二六事件としてこれまで世間に公にされたことが、実は 陸軍の首脳と憲兵隊とで捏造され、
歪曲されたもので、ほんとうの真相ではなかったのである。・・・岩淵辰雄 『 敗るゝ日まで 』
ここには軍事法廷で、
軍権力の手で組織的に真実が捏造され、歪曲され、隠蔽封印されたことが、
憲兵隊の口から仄めかされている。
そうした 拵えたシナリオを具体化する場として 暗黒裁判 が要請されるのだ。
三月四日に天皇臨席のもと 枢密院で、
緊急勅令 「 東京陸軍軍法会議に関する件 」 が可決成立、即時交付施行される。
こうして東京陸軍軍法会議が二・二六事件の軍法会議として成立する。
これは陸軍軍法会議法が定める 「 特設軍法会議 」 にあたった。
本来、この規定が適用されるのは戦時中や戒厳令が布かれている地域など、
あくまで応急で臨時の法廷を想定した特別措置にすぎなかった。
その形式を借りて二・二六事件は裁かれる。
こうしてドサクサに紛れて 暗黒裁判 を行う基盤が整ったのだった。
その意図は明白だ。
「 その行為たるや憲法に違ひ、明治天皇の御勅諭に悖り、國體を汚し、
その明徴を傷つくるものにして、深くこれを憂慮す 」

という、天皇の意志を背景に、全てを闇に葬り去ろうとしたのだ。
特設軍法会議では弁護人もなく非公開、一審のみで公訴上告はおろか裁判官の忌避も認められない。
「 軍法会議は暗いものだった。そこには軍司法の権威はなかった。歪曲された軍に屈従する軍法の醜態であった 」
 
ある判士によれば、心構えとして こう指示された。
「 一つだけ記憶に残っているのは、判士は予審調書をシッカリ読め ということでした 」

判士たちは旅館に籠り、倉庫の山積みになっていた調書を読むことに没頭したという。
つまり 軍首脳陣が 拵えたシナリオ によって予審調書がすでに作成されており、
その指し示す方向性に従って判士たちが行動することが要請されたと云えよう。
・・・鬼頭春樹 著  『 禁断 二・二六事件 』 から

暗黒裁判
幕僚の謀略 2  
『 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 』
目次
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・ 
拵えられた裁判記録 
・ 君側 1 『 大命に抗したる逆賊なり 』 
・ 奇怪至極の軍法會議 ・・・橋本徹馬
・ 暗黒裁判と大御心  
・・・大蔵榮一
暗黒裁判 (一) 「 陸軍はこの機會に嚴にその禍根を一掃せよ 」
・ 
暗黒裁判 (二) 「 將校は根こそぎ厳罰に処す 」
・ 
暗黒裁判 (三) 「 死刑は既定の方針 」
・ 暗黒裁判 (四) 「 裁判は捕虜の訊問 」
・ 暗黒裁判 (五) 西田税 「 その行爲は首魁幇助の利敵行爲でしかない 」
・ 
暗黒裁判 ・ 反駁 1
・ 
暗黒裁判 ・ 反駁 2
・ 叛乱に非ず、叛乱罪に非ず  『 大命に抗したる逆賊に非ず』
最期の陳述
・ 二・二六事件 『 判決 』

小川関治郎陸軍法務官を含む軍法会議に於て公判が行われ、青年将校・民間人らの大半に有罪判決が下る。


匂坂春平は後に 「 私は生涯のうちに一つの重大な誤りを犯した。その結果、有為の青年を多数死なせてしまった、それは二・二六事件の将校たちである。
検察官としての良心から、私の犯した罪は大きい。死なせた当人たちはもとより、その遺族の人々にお詫びのしようもない 」
と 話したという。  そして ひたすら謹慎と贖罪の晩年を送った。

「 二・二六事件の原因動機に付きまして、寺内 ( 前 ) 陸相は叛乱行動迄に至れる彼等の指導精神の根底には、
我が国体と絶対に相容れざる 極めて矯激なる一部部外者の抱懐する
国家革命的思想が横たはつて居ることを見逃す能はざるは 特に遺憾であると、
特別議会で御報告になつたのでありますが、
苟も陸軍幼年学校、士官学校、大学校等に於て 陸軍独自の教育を受けた者、
殊に国体観念に於ては 一般の国民よりも一層徹底した信念を持つて居らなければならぬ帝国の軍人たる者が、
寺内 ( 前 ) 陸相の御話のやうに一部の浪人とも看做みなされるやうな者の、
国体と相容れない思想に動かされ指導されたと言ふやうなことは 吾々は断じてあり得べからざることと確信して居る者であります。
随つて当時、私は寺内陸軍大臣の所謂国体と絶対に相容れない思想とは如何なるものであるか
と言ふことを質問致したのでありますが、之に対しては御答弁がありませんでした。
・・・
第七十回帝国議会の議場で政友会の今井新造代議士の質問 

「 古ヨリ 狡兎死而走狗烹 吾人ハ即走狗歟 」

いろいろと娑婆からここに来るまで戦ってきましたが、今日になって過去一切を静かに反省して考えて見ますと、
結局、私達は陸軍というよりも軍の一部の人々におどらされてきたことでした。
彼等の道具に、ていよく使われてきたというのが正しいのかも知れません。
もちろん、私達個々の意思では、あくまでも維新運動に挺身してきたのでしたが、
この私達の純真な維新運動が、上手に此等一部の軍人に利用されていました。
今度の事件もまたその例外ではありません。
彼等はわれわれの蹶起に対して死の極刑を以て臨みながら、しかも他面、事態を自己の野望のために利用しています。
私達はとうとう最後まで完全に彼等からしてやられていました。
私達は粛軍のために闘ってきました。
陸軍を維新化するためにはどうしても軍における不純分子を一掃して、挙軍一体の維新態勢にもって来なくてはなりません。
われわれの努力はこれに集中されました。
粛軍に関する意見書のごときも全くこの意図に出たものでしたが、ただ、返ってきたものはわれわれへの弾圧だけでした。
そこで私達は立ち上がりました。 維新は先ず陸軍から断行させるべきであったからです。
幕僚ファッショの覆滅こそわれわれ必死の念願でした。
だが、この幕僚ファッショに、今度もまた、してやられてしまいました。
これを思うとこの憤りは われわれは死んでも消えないでしょう。
われわれは必ず殺されるでしょう。 いや、いさぎよく死んで行きます。
ただ、心残りなのは、われわれが、彼等幕僚達、いやその首脳部も含めて、
それらの人々に利用され、彼等の政治上の道具に使われていたことです。
彼等こそ陸軍を破壊し国を滅ぼすものであることを信じて疑いません。
・・・村中孝次

私達は間違っておりました
聖明を蔽う重臣閣僚を仆
す事によつて
昭和維新が断行される事だと思って居りました処
国家を独するものは重臣閣僚の中に在るのではなく
幕僚軍閥にある事を知りました
吾々は重臣閣僚を仆す前に
軍閥を仆さなければならなかったのです 
・・・山王ホテルでの安藤大尉の絶叫である