大正十二年十二月二十七日、
摂政宮 ( 昭和天皇 ) 殿下が議会開院式ヘ行啓のため、
虎ノ門外御通過中を、難波大輔が仕込杖銃をもって襲った事件である。
宮内省は、兇変と殿下の安泰を発表したが、
犯人の名前を発表せず、新聞も事件の概要を伝えたのみで、
一切の記事は翌年の九月まで差し止めとなった。
難波大助は山口県選出の代議士難波作之進の四男である。
明示の末年に幸徳秋水事件があり、今、また生命をかけて皇室を狙う日本人がある。
しかも左派の波高き折柄である。 このショックは大きかった。
ことに同じ山口県出身の磯部、山田は深刻であったと思う。
・・・中略・・・
事件の事後処理を、池田進、本山幸彦編の 『 大正の教育 』 に拠れば概要次の通りである。
(1) 逮捕された大助は、同日午後十一時、大審院予審に付される。
(2) 同日午後五時、山本内閣総辞職を表明。
(3) 十二月二十八日、大助の父 難波作之進、衆議院議員を辞職、自宅に蟄居。
(4) 大正十三年一月六日より五日間、大助の出生地山口県周防村は全村謹慎。
(5) 一月七日、清浦内閣成立。
警視総監湯浅倉平、刑務部長正力松太郎、愛宕警察署長弘田久寿治の三名 懲戒免官。
内務省警保局長ほか警視庁幹部四名が罰俸、内務次官が譴責の処分 ( 文官高等懲戒委員会の発表 )
警備直接担当者の処分は、警視庁懲戒委員会によって一月八日発表、
愛宕署の巡査部長、巡査ら四名が懲戒免職、署幹部三名が罰俸に処せられた。
(6) 二月一九日、大助予審終結、起訴。
(7) 二月二十~二十一日、清浦内閣、思想善導のため各宗教、教化団体代表を招集。
(8) 四月四日、文部省、国民精神作興に関する諮問機関設立を発表、五月七日、文政審議会官制公布。
(9) 十月一日、大助の公判開始、十一月十三日、死刑判決、十五日死刑執行。
(10) 大正十五年六月四日、大森山口県知事と謹慎中の難波家当主正太郎と会見 (神本熊毛郡長同行 )
爾後 大森知事の主導の形で、難波家の謹慎、村八分の解除の方向に動き、
さらに難波家の廃家にまで進展する。
大森知事の談話によれば、難波家絶家のことは、六月四日の会見の際、難波正太郎が申し出たという。
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(5) の処分発表三週間後の一月二十六日には、
皇太子の結婚を機として、「 懲戒懲罰免除勅令 」 が公布され、
湯浅、正力らに対する処分は取り消されている。
さらに湯浅は六月十一日 加藤高明内閣の内務大臣次官に就任する。
大助の出生地の周防村では、村長および小学校長が引責辞職している。
校長は大助の小学校時代の担任であり、
かつて難波家に寄寓して大助を訓陶監督 していただけに
非常に責任を感じたといわれている。
また 九月二十八日、同村では村寄合を開いて
「 今度の事件に対する態度その他を決定 」 判決時の十一月十三日を 「 反省日 」 とし、
周防村を含む熊毛郡全町村において 「 詔書奉読式 」 を挙行するなど、
厳しい責任追及が何ら関係なき人々にまで及んでいる。
この跳ね返りが難波一家に及んだことは想像に難くない。
右の如き事件処理を見ると、
国民全部に責任を負わしめ、支配層の人々には軽くという風に思われる。
大助の弁護人 今村力三郎 ( 幸徳秋水事件の弁護も担当 ) は、
湯浅の内務次官就任を
「 恩命に籍口して自家を回護するが如きは、初より自責の念なきものなり 」
と 批判している。
湯浅はニ ・ニ六事件直後に、内大臣に就任する。
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小島襄著 『 天皇 』 第一巻に拠ると、
親王 ( 昭和天皇 ) は
忠良なる臣民の中に皇室打倒の思想をもっている者がいたことには強いショックをうけたとみえ、
珍田東宮大夫、入江侍従長の二人に、
「 自分は日本においては、陛下と臣下との関係は、
義においては君臣であるけれども、 情においては親子であると考えている。
しかるに今日の出来事をみ、遺憾にたえない。
自分のこの考えは、何卒徹底するようにしてもらいたい 」
と 述べている。
そして珍田大夫からこの報告を耳にした奈良武官長は、
「 少なくともここしばらくはなりませぬ 」
と 即座に、親王のお言葉発表に異議を申したてた。
「 奈良武官長は、
親王のお言葉は、きわめて遺憾の意を表明されている以上、
少なくとも国民の社会主義者、共産主義者に対する怒りを激化させる可能性がある、
と判断した。
・・・中略・・・
おそらく内閣の瓦解はさけられないであろうし、さらに国内の興奮と動揺もつづくであろう。
そのさいに、もし裕仁親王のお言葉が、主義者対策 にたいする 公許 とみなされ、
はねあがり政策がとられるとするならば、
政情と世情の不安をさらにかきたてることにもなりかねない 」
この奈良武官長の判断と輔佐の仕方はなかなか立派なものである。
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この事件の反響や対処の仕方
特に同じ山口県出身の磯部、山田は、郷里における反応はよく知っていた。
また、公表されなかったが、
大助は最後まで自己の行動の正しきを主張して志を変えなかったことを、
うすうす洩れ聞いてわれわれは知っていた。
事件発生の原因は何か、
共産党は皇室打倒を目指しているのではないか、
貧窮に苦しむ国民が増える現状では、左翼は増加する一方ではないか、
われわれはこれに如何に対処すべきか、
外国の指導する勢力によらず、国を愛する日本人自身の手にて改革すべきではないか、
等々が三人の議論の種であった。
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大助に対する死刑は已むを得ぬことで、
また ある程度の父親の謹慎も判るが、
家族に対する村八分や、
村長、小学校の先生までの追及は酷に失するのではないかなどの話が出た。
今村弁護人によれば、幸徳事件の折は、村八分はなかったという。
私が男の仕事として 「 戦争か革命か 」 と言ったのに対し
「 俺は革命にゆく 」 と、磯部が叫んだのはこのような状況下である。
佐々木二郎 著
一革新将校の半生と磯部浅一
虎ノ門事件 から