あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和・私の記憶 『 二・二六事件 』

2024年02月29日 17時17分09秒 | 昭和 ・ 私の記憶


昭和50年 ( 1975 年 ) 11月 22 日、昭和維新の 面影たずねて一人歩き
・・・・ 昭和十一年 ( 1936年 ) 二月二十六日 午前八時半、
桜田門を潜った中橋中尉の眼前には蹶起部隊の展開する 昭和維新の景色がパルラマの如く拡がった
『 尊皇--討奸 』 の合言葉 と 三銭切手を証し 歩哨線を 通過したる其時、嗚呼 中橋中尉の心懐や如何

始めに
昭和40年(1965年) のこと
テレビで 『 陸海流血史・五・一五から二・二六へ 』 と いう 映画に偶然に出遭った。 ・・・話せば分る・・問答無用  
しかし其は、十一歳の少年が期待した、「 勇ましいもの 」 に反し、「 暗い、重い、哀しい ・・もの 」 であった。
 イメージ
この時、私が感じ取った 「 暗い、重い、哀しい・・もの 」 その正体が、『 私の中に潜在しているもの 』であると いうこと、
たかが 11歳にして 気づくべくもなかったのである。
昭和49年 (1974年) 19
歳の私は、昭和維新に殉じた人達が存したことを知り、
果して、私の中に潜在している 斯の正体 を はっきりと認識するに至った。
昭和の聖代における、『
日本人の正義  』  というものを 体現し、昭和維新に殉じた人達。
私は此を 『 諒 』 とした。
私にとって 斯の人達は、英雄となり、憧れとなり、そして鑑となった。
私は、昭和維新に殉じた人達の 『 人 』 を 主題に 斯の人達を見つめ、
斯の人達の日々の行動言動を観ることで、その為人ひととなりを知り、
茲に 斯の人達の魂おもいを汲取ろうとした。

本書は、私の出遭し 先達の書物を、吾の欲するところ欲する儘に吟読し、
吾琴線に触れたるところを、玆に清書することにより、私の想いを表そうと試たものである。

本書の他に
私の想い、二 ・二六事件 『 昭和維新は大御心に副はず 』 
私の想い、二 ・二六事件 『 頼むべからざるものを頼みとして 』 
昭和維新に殉じた人達  
昭和 ・私の記憶 『 西田税との出逢い 』 
昭和 ・私の記憶 『 謀略、交信ヲ傍受セヨ 』 
昭和の聖代 ( ・・・番外編 / 昭和二十年八月十五日 を 主題としたもの )
も、同様の試みをしたものである。
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昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
「 昭和維新の歌 」 を高唱しながら 三宅坂方面に向い行進する安藤隊
『 昭和維新の春の空 』 青年将校達の正義は通らなかった 

昭和 ・私の記憶
『 二 ・ 二六事件 』

目次
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昭和維新 ・ 道程 ( みちのり ) 
下記頁を内包 (  ↑ クリック  )
・ 道程 ( みちのり ) 1 みちのり ( 大正十五年迄 )
道程 ( みちのり ) 2 みちのり ( 昭和元年~7年 )
道程 ( みちのり ) 3 みちのり ( 昭和8年、9年 )
道程 ( みちのり ) 4 みちのり ( 昭和10年 )
道程 ( みちのり ) 5 前夜 ( 昭和11年1月1日~2月25日 )
道程 ( みちのり ) 6 部隊編成 ( 出撃時 ) ・・・未完中途
道程 ( みちのり ) 7 蹶起部隊 ( 26日、午前 )
道程 ( みちのり ) 8 蹶起部隊 ( 26日、午後 )
道程 ( みちのり ) 9 蹶起部隊 ( 27日 )
道程 ( みちのり ) 10 叛亂部隊 ( 28日 )
道程 ( みちのり ) 11 叛亂部隊 ( 29日 )
道程 ( みちのり ) 12 昭和維新 ( 昭和11年3月1日~12月31日 )
・ 道程 (みちのり )  13 昭和維新 ( 昭和12年1月1日~
8月19日 )

1  導火線
・ 國家改造・昭和維新運動 
 靑年將校運動
後顧の憂い 
・ ロンドン條約問題 『 統帥權干犯 』 
・ 十月事件
・ 
五 ・一五事件 
・ 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 ) 
國體明徴と天皇機關説問題 
・ 眞崎敎育總監更迭 
・ 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

2  二 ・二六事件
前夜 (  ← クリック  )
今の諸君の立場に対しても私自身の立場からは理屈以外の色々な点を考へさせられます。
結局皆が夫れ程迄決心して居られると云ふなら私としては何共言ひ様がありません。
之以上は今一度諸君によく考へて貰ってどちらでも宜しいから、
御国の為になる様な最善の道を撰んで貰いたいと思ふ。
私は諸君との今までの関係上己一身の事は捨てます。
人間は或運命があると思ふので、
或程度以上の事は運賦天賦で時の流れに流れて行くより外に途はないと思ひます。
どちらでも良いから良く考へて頂き度い。
と云ふ意味の事を話し、安藤君は 「良く判りましたから考へて見る 」
と云って別れて帰ったのでありました。・・・西田税 ・・私は諸君と今迄の関係上自己一身の事は捨てます 

何事モ勢デアリ、
勢ノ前ニハ小サイ運命ノ如キ何ノ力モアリマセヌ。・・・西田税

蹶起
栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。
其の時俄然、官邸内に数発の銃声をきく。
いよいよ始まった。
秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。
勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。
同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。
とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい。
余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。
・・・磯部浅一 ・ 行動記 ・・いよいよ始まった

本日午前五時頃 一部靑年將校等は左記箇所を襲撃せり。
首相官邸、( 岡田首相即死 )。齋藤内大臣私邸、( 齋藤内府即死 )。
渡邊敎育總監私邸、( 敎育總監即死 )。
牧野前内大臣宿舎 ( 湯河原伊藤屋別館 ) 牧野伯爵不明。
鈴木侍從長邸、( 鈴木侍從長重傷 )。
高橋大蔵大臣私邸、( 大蔵大臣負傷 )。東京朝日新聞社。
これら將校等の蹶起せる目的はその趣意書によれば、
内外重大危急の際、元老、財閥、官僚、政黨等の國體破壊の元兇を芟除せんじょ
以て大義を正し 國體を擁護顯現せんとするにあり。
右に關し在京部隊に非常警戒の處置を講ぜしめたり。
つづいて東京警備司令部から第一師團官下に戰時警備が下令されたる旨、
およびこれに伴う司令官香椎中將の告諭が放送された。・・・ 二月二十六日 ・大雪の朝 

・ 昭和維新 ・ 蹶起の目的 
・ 蹶起趣意書
昭和維新情報 
蹶起部隊本部から行動部隊下士官兵に配布した檄文 
首脳部 ・ 陸軍大臣官邸 
・ 
丹生部隊 
・ 中橋部隊 
・ 野中部隊 
・ 安藤部隊 
・ 坂井部隊 
・ 栗原部隊 
・ 田中隊
牧野伸顕襲撃 河野隊 

・ 赤子の微衷 1 西田税と北一輝
赤子の微衷 2 蹶起した人達
赤子の微衷 3 渦中の人達 ・・・山口一太郎  満井佐吉  小藤恵
・ 赤子の微衷 4 後事を托された人達 ・・・大蔵栄一、末松太平

説得と鎭壓 (  ← クリック  )
二月二十六日午後三時三十分
東京警備司令部
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聽ニ達セラレアリ
二、諸子ノ行動ハ國體顯現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、國體ノ眞姿顯現(弊風ヲ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事參議官モ一致シテ右ノ趣旨ニ依リ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之レ以上ハ一ニ大御心ニ待ツ

・・・ 大臣告示 「 諸子ノ行動ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム 」

戰警第一號 「 第一師團命令 」 竝びに戒作命第一號 「 命令 」 は、
蹶起部隊を第一師團戰時警備隊としてその指揮下に入れ
更に戒嚴令施行後は、
歩兵第一聯隊長小藤大佐を長とした麹町地區警備隊とし、
さらに敵と見ず友軍として共に警備し、相撃を禁じ
二十七日は 配宿、給養を命じているのである。
靑年將校たちがこれらの軍の処置を、蹶起部隊を皇軍と認めたことと解釋し、
これに力を得て事後の行動を積極的に行った事は首肯できる。
しかし彼らは、
翌二十八日には叛亂部隊として討伐されている。

・・・ 命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戦時警備部隊トシテ警備に任ず 」 

朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ
3  大御心
・ 大御心 『 天皇親政とは、大御心とは 』 
・ 大御心 「 朕が憾みとするところなり 」 

我人を犠牲となし、我人を虐殺して、
しかも 我人の行へる結果を利用して、
軍部独裁 ファッショ 的改革を試みんとなしあり、
一石二鳥の名案なり、
逆賊の汚名の下に虐殺され 「 精神は生きる 」 とか
何とかごまかされては断じて死するに能はず、
昭和維新は我人の手による以外
断じて他の手に委して歪曲せしむる能はず
・・・安藤輝三
4  暗黒裁判
反駁 1 西田税と北一輝、蹶起した人達 
反駁 2 東京陸軍軍法會議公判状況 『 憲兵報告 』 
反駁 3 後事を托された人達
・ 
暗黒裁判 ・幕僚の謀略 1 西田税と北一輝 『はじめから死刑に決めていた』
暗黒裁判 ・幕僚の謀略 2 『純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた』  
・ 暗黒裁判 ・幕僚の謀略 3 磯部淺一の闘爭 『余は初めからケンカのつもりで出た』 
・ 暗黒裁判 ・幕僚の謀略 3 磯部淺一の闘爭 『北、西田両氏を助けてあげて下さい』
・ 暗黒裁判 ・幕僚の謀略 4 皇道派の追放 
5  処刑
・ 
天皇陛下萬歳 
・ あを雲の涯 
あを雲の涯 ・ 二十二烈士 

6  後

・ 
純眞なる天皇観なるがゆえに 
・ 後に残りし者 

しかし叛逆の徒とは!
叛亂とは!
國體を明かにせんための義軍をば、叛亂軍と呼ばせて死なしむる、
その大御心に御仁慈はつゆほどもなかりしか。
こは神としてのみ心ならず、
人として暴を憎みたまいしなり。
鳳輦に侍するはことごとく賢者にして  
道のべにひれ伏す愚かしき者の
血の叫びにこもる神への呼びかけは
ついに天聽に達することなく、
陛下は人として見捨ててたまえり、
かの暗澹たる広大なる貧困と
青年士官らの愚かなる赤心を。
わが古き神話のむかしより
大地の精の血の叫び声を凝り成したる
素戔鳴尊は容れられず、
聖域に馬の生皮を投げ込みしとき
神のみ怒りに触れて國を逐われき。
このいと醇乎たる荒魂より
人として陛下は面をそむけ玉いぬ。
などてすめろぎは人間となりたまいし
・・・などてすめろぎはひととなりたまいし


昭和・私の記憶 『 二・二六との出逢い 』

2023年02月24日 18時12分52秒 | 昭和 ・ 私の記憶

私の
二 ・二六
との出逢い

昭和49年1月21日(月)
会社の帰り、先輩に伴い大阪梅田の旭屋書店に、
先輩につられた訳ではないが、書棚に目を遣っていた。 
そして、居並ぶ書籍の中から、なにげなしに目にとまったのが
『 天皇制の歴史心理 』
それは、偶然の如くか それとも必然なりしか
私は 「 天皇 」 と 出遭ったのである。

「 天は、自分にこの本を読ませようとしている 」

『 天皇制の歴史心理 』  ・・1974年1月21日
『 天皇制 』  ・・1974年1月25日
『 我々にとって天皇とは何か 』  ・・1974年1月25日
『 内なる天皇制 』  ・・1974年2月2日

「天皇とは日本人の意志の統合である」
「大御心は一視同仁にあらせられ、名もなき民の赤心と通ずるもの」 
「赤心の赤子たる日本人」 
「日本人の赤心は必ずや天に通ずるもの」 
云々、と
「 天皇 」 から始まり
さらに 日本人とは如何 に展開して行く
そして、

昭和49年 ( 1974年 ) 2月12日
『 二 ・二六 』 との確かな出逢い
・・玆に始る
私、19歳 ( 1954年生まれ )

・・・ リンク → 男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (一)
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↓  出逢いの記録        『 書籍 』        著者         購入年月日
『 二 ・二六事件と下級兵士 』  東海林吉郎 ・・1974年2月12日
『 二 ・二六事件と下士官兵 』  山岡明 ・・1974年2月14日
『 二 ・二六事件への挽歌 』  大蔵栄一 ・・1974年2月25日    ★★★
『 花ざかりの森 ・憂国 』  三島由紀夫 ・・1974年2月28日
『 二 ・二六事件獄中手記 ・遺書 』  河野司 ・・1974年3月4日    ★★★
『 二 ・二六事件 』  高橋正衛 ・・1974年3月16日
『 日本国家主義運動史Ⅰ・Ⅱ 』  木下半治 ・・1974年4月2日
『 現代日本思想大系 超国家主義 』  橋川文三 ・・1974年4月2日   
『 二 ・二六事件の原点 』  芦澤紀之 ・・1974年6月4日
『 昭和史発掘 六~十三 』  松本清張 ・・1974年6月22日
『 二 ・二六と青年将校 』  松沢哲成 ・・1974年6月22日
『 英霊の聲 』  三島由紀夫 ・・1974年7月1日    ★★
『 妻たちの二 ・二六事件 』 澤地久枝 ・・1974年7月30日
『 奔馬 』  三島由紀夫 ・・1974年8月8日
『 秩父宮と  二 ・二六 』  芦澤紀之 ・・1974年8月19日
『 私の昭和史 』
  末松太平 ・・1974年9月7日    ★★★
『 天皇制の支配原理 』  ・・1974年9月29日
『 一億人の昭和50年史 』  毎日グラフ  ・・1974年11月30日
『 東京12チャンネル 私の昭和史 』  ・・1974年12月7日
『 順逆の昭和史 』  高宮太平 ・・1974年12月7日
『 軍閥 二 ・二六事件から敗戦まで 』  大谷敬二郎 ・・1974年12月7日
『 二 ・二六事件 』 大谷敬二郎 ・・1974年12月24日   


『 現代史資料 5  国家主義運動 2  』  今井清一 / 高橋正衛 ・・1975年2月9日    ★★
『 現代史資料 23  国家主義運動 3 』  今井清一 / 高橋正衛 ・・1975年2月9日    ★★
『 現代史資料 4  国家主義運動 1  』  今井清一 / 高橋正衛 ・・1975年2月23日    ★★
『 二 ・二六事件秘録 (一) 』  小学館 ・・1975年3月10日   
『 一億人の昭和史 2⃣ 二 ・二六事件と日中戦争 』  毎日新聞社 ・・1975年5月25日    
『 ドキュメント日本人3  反逆者 』 
 村上一郎 ・・1975年8月9日    
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『 私の二 ・二六事件 』  河野司 ・・1976年3月3日
『 二 ・二六事件秘録 (二) 』  小学館 ・・1976年3月19日   
『 二 ・二六事件秘録 (三) 』  小学館 ・・1976年3月19日   
『 二 ・二六事件秘録 (四) 』  小学館 ・・1976年6月26日   
『 現代のエスプリ ・二 ・二六事件 』  利根川裕 ・・1976年10月26日   
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『 香椎戒厳司令官秘録二 ・二六事件 』  香椎研一 ・・1980年3月6日
『 二 ・二
六事件秘話  』  河野司 ・・1983年3月23日
『 西田税  二 ・二六への軌跡 』  須山幸雄 ・・1992年   
↑  出逢いの記録        『 書籍 』        著者         購入年月日
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以降、記録 ( 年月日 ) 不明        『 書籍 』        著者         数値は発刊年
事件参加将兵の著書
『 生きている二 ・二六 』  池田俊彦  1982   
『 その後の二 ・二六 獄中交遊録 』  池田俊彦  1997
『 二 ・二六事件蹶起将校 最後の手記 』  山本又  2013
『 二 ・二六事件と郷土兵 』  埼玉県史刊行協力会  1981   
『 雪未だ降りやまず 』  埼玉県史刊行協力会  1982    
『 罪は刑にあらず ある下士官の二 ・二六事件 』  福本理本  1986

青年将校の著書
『 軍隊と戦後のなかで 』  末松太平  1980   
『 恋闕 』  黒崎貞明  1980   
『 一革新将校の半生と磯部浅一 』  佐々木二郎  1981   
『 同期の雪 』  小林友一  1981

参加将校の遺族/関係者の著書
『 二 ・二六事件 』  河野司  1957
『 湯河原襲撃 』  河野司  1965
『 遠景近景 』  斎藤史  1980
『 ある遺族の二 ・二六事件 』  河野司  1982
『 天皇と二 ・二六事件 』  河野司  1985
『 一青年将校 』  高橋治郎  1986
『 機関銃下の首相官邸 』  迫水久常  1986
『 本庄繁日記  本庄繁  1989
『 二 ・二六事件青年将校 安田優と兄 ・薫の遺稿 』  社会運動史研究会  2013

事件に関係する憲兵の著書
『 二 ・二六事件の謎 』  大谷敬二郎  1975
『 ある情報将校の記録 』  塚本誠  1979
『 昭和憲兵史 』  大谷敬二郎   1987
『 首相官邸の血しぶき 』  青柳利之  1987
『 ある憲兵の記録  朝日新聞山形支局   二・二六事件異聞 』

事件を扱った著書
『 天皇と叛乱将校 』  橋本徹馬  1954    
『 北一輝論 』  村上一郎  1970
『 暁の戒厳令 』  芦澤紀之  1975
『 二 ・二六事件 = 研究資料Ⅰ』  松本清張 / 藤井康栄  1976
『 天皇 』  児島襄  1981
『 二 ・二六事件青春群像 』  須山幸雄  1981
『 二 ・二六事件の兵隊 』  須賀長市  1983
『 二 ・二六事件の礎 安藤輝三  』  奥田鑛  1985
『 二 ・二六事件 = 研究資料 Ⅱ 』  松本清張 / 藤井康栄  1986
『 二 ・二六事件  全三巻 』  松本清張  1986
『 磯部浅一と二 ・二六事件 』  山崎國紀  1989
『 叛徒 』  平澤是曠  1992
『 盗聴 二 ・二六 』  中田整一  2010
『 ワレ皇居ヲ占拠セリ 』  仲乗匠  1995
『 昭和維新の朝 』  工藤美代子  2008
『 禁断 二・二六事件 』  鬼頭春樹  2012
『 実録 相沢事件  二 二六への導火線 』  鬼頭春樹  2013
『 昭和天皇に背いた伏見宮元帥 』  生出寿  2016

『 昭和史探索 ・3  われらが遺言 ・50年目の2 ・26事件 』  半藤一利 編  1986
『 目撃者が語る昭和史第4巻 二 ・二六事件 』  義井博編  1989
『 目撃者が語る昭和史第2巻 昭和恐慌 』  山崎博編  1989
『 NHK歴史への招待  二 ・二六事件 』  日本放送出版協会  1989
『 実録コミックス   ( 1991年3月10 日初版)  叛乱!  二 ・二六事件 ❶  雪の章  あとがき  山口一太郎大尉のこと 』  元東京日日新聞記者  石橋恒喜
『 実録コミックス   ( 1991年3月10 日初版)  叛乱!  二 ・二六事件 ❸  霧の章  あとがき  今、想う 二 ・二六事件への総括 』  元東京日日新聞記者  石橋恒喜

『 2 ・26事件の謎 』  新人物往来社編  1995
『 2 ・26事件と昭和維新  別冊歴史読本 』  1997
『 図説  2 ・26事件 』  太平洋戦争研究会編  平塚柾緒  2003

< 
註 
私にとって、「 受容れ難いもの 」、「 記憶に薄いもの 」、等々の書籍は掲載せず。

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タクシーはNHKホール前 交叉点に着いた
目の前に大勢の若者が居て、それは、祭りの如く賑やかであった
然し、肝心要の渋谷区役所が判らない
道路向にパラソルの露店をみつけた
斯の売り子に尋ねてみようと、わざわざ道路をわたったのである
「渋谷区役所は何処ですか」
「後ろですよ」
「後ろ ?」
なんと私は、渋谷区役所を背負っていたのである
私の脳裡には、目的の位置はしっかり焼付いている
渋谷区役所の隣りが渋谷公会堂、更に渋谷税務署と続く
渋谷公会堂での、コンサートに由り 大勢の若者が集まっていたのである
・・
目的地は直ぐそこ哉、気が逸る
そして

「ああ・・・あった」
一人 声無き歓声を上げた私
「神達と逢いたい」 との、夢が現実のものと成りし瞬間である
やっと、辿り着きし
二・二六事件慰霊像
神達の処刑場跡地に建立されし、慰霊像
昭和49年 (1974年 ) 8月7日(水)
二十歳の私 
昭和維新の神達と 初めて直接接点を持ったのである
言い替えらば
歴史との、記念すべき感動の 出逢いであった。


昭和・私の記憶 『 西田税との出逢い 』

2023年02月22日 04時39分31秒 | 昭和 ・ 私の記憶

   
出逢い
私の
二 ・二六事件との確かな出逢いは、
昭和49年 ( 1974年 )
2月12日、東海林吉郎著 『 
二 ・二六と下級兵士 』 
2月14日、山岡明著 『 二・二六事件と下士官兵 』  から始まり、
続いて、昭和49年 ( 1974年 ) 3月4日、
河野司編 『 
二 ・二六事件  獄中手記遺書 』 より、二十二士を知る。
 
西田税 
斯の写真との出遭いは衝撃であった
これぞ 日本人
私の理想とする、日本人の面構え
それは真まさに、『 国士 』
・・・と、
私は 斯の写真に
私のDNAの中に存する、
『 国士 』 への憧憬をみた
・・・一つの写真との出遭い 

さらに、昭和49年 ( 1974年 ) 4月2日、
『 現代日本思想体系 超国家主義 』 で
『 西田税  夢眼私論 』 と出逢った。
それは、衝撃的なものであった。

無眼私論
青年将校運動の指導者 西田税が、大正11年 ( 1922年 ) 春、

21歳の青年期、病床で記した感想録である。
「 西田税の乃公自作の真理 」 は、
52年後の 昭和49年 ( 1974年 )4月、
19歳の私に届いた。

「 吾意 得たり 」
これが、私の実感であった。
そして、19歳の私は
「 祖父の想い 」 として、これをを継承しようと誓った。
 ・・・リンク→ 祖父 の 遺伝子 

翌年の昭和50年 ( 1975年 ) 8月9日、
西田税自伝 『 戦雲を麾く 』 を知る。
茲で私は、西田税を
心懐の中心とし
たのである。
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先覚者 ・青年将校運動のリーダー達

それぞれの

西田税との出逢い



大蔵栄一
革新の気秘めて、桜会出席 
大正の末期から昭和の初頭にかけて、世の中は大動乱の胎動を始めていた。
経済的には政友会、民政党と政権が替わるごとに 金輸出禁止政策から金解禁政策へと、
ネコの目のように変わった。

大恐慌は国民に上に重くのしかかった。
かてて加えて 天候の異状は大冷害となって、東北地方の農民をいよいよ窮地に追い込んだ。
未曾有の農業恐慌が起こる。
政界では疑獄 ( 汚職 ) の続出で、貧官汚吏の高官どもが私欲をほしいままにした。
大正七年のロシア革命の成功は、日本にも もとより無縁ではなく、
この思想は不景気、恐慌の下にあえぐ国民の間にも浸透していく。
外交問題では 昭和五年のロンドン軍縮条約のごとく英米の圧迫によってわが海軍艦艇の保有量の制限を強いられ、
数量の削減、制限を受けざるを得なくなった。
国民は不安の声をあげ、怨嗟えんさの叫びは大きくウズを巻き始めた。
この海軍軍縮の条約締結は統帥権干犯の事実ありとして、
時の総理大臣浜口雄幸が東京駅頭で十九歳の青年佐郷屋留雄により襲撃されるという不祥事件をひき起すにいたる。
・・・・世の中は大きく揺れはじめていた。

私が初めて 『 桜会 』 ( 橋本欣五郎中佐らを中心とした軍内の革新団体 ) に出席したのは、
昭和六年五月ごろであった。
最初だれに誘われて行ったのか、今では全く記憶にない。
約五十名が偕行社に集まっていた。
参謀肩章を吊った佐官連中や、陸軍省あたりの中堅将校と思われる 『 天保銭 』 ( 陸大出 ) のお歴々が、
キラ星の如く並んだありさまは、私には偉観であった。
橋本欣五郎中佐 ( 陸士二十三期 ) 樋口季一郎中佐 ( 陸士二十一期 ) など数人によって、
内外時局の緊迫せる状況や、国内革新の必要であることなど、かわるがわる熱弁がふるわれた。
私が菅波三郎中尉に再会したのも、この日である。
菅波は熊本幼年学校の同期生で、このとき鹿児島の四十五聯隊から麻布の三聯隊に転任してきたばかり、
陸士卒業以来六年ぶりであった。
それからは、菅波と私はしげしげと会った。
菅波三郎中尉
北・西田・村中との出会い
この菅波に紹介されて会ったのが西田税 ( 陸士三十四期 ) である。
当時、西田は代々木山谷に居を構えていた。
大正十二年、私が士官候補生として羅南の七十三聯隊に飛ばされたころ、
西田は同じ羅南の騎兵二十七聯隊の新品少尉であった。
熊幼の同期生である親泊朝省 ( 終戦時、家族とともに自刃 ) が騎兵の士官候補生であったので、
私は親泊を通して、西田のことは時々聞いて知っていた。
一度たずねてみたいと思っていたが、士官候補生生活が一か月目には胸膜炎で入院、
その後自宅療養を命ぜられた郷里に返されたので、
ついに会う機会を得ないままこの日に至ったのであるが、菅波の紹介で初めて会ったというわけだ。
村中孝次中尉 
菅波の家で、私は同期生の村中孝次中尉とも会った。
村中とは陸士の本科では同中隊であったし、私が戸山学校で一般学生であったとき、彼は長期学生であった。
小男であるが からだはがっちりしていた。
剣術、体操ともに抜群であるとは、だれもが思えぬような静かなやさ男であった。
彼は旭川二十六聯隊から士官学校予科の区隊長に転任してきていた。
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・・・挿入・・・
観兵の予行と校長宮殿下の訓示と午前中あり。
午後、用弁外出。
直ちに井本、菅波等六名と共に日本改造の闘将北一輝を千駄ヶ谷に訪ねる。
彼の軍隊観を質さんが為
簡素な応接室の椅子の上に安座せし彼は隻眼の小丈夫。
『 日本の現在を如何に見ますか 』
と 反問を発したる後、
宗教、科学、哲学より悪に対する最後まで戦闘精神を説きて我等を酔はしむ。
其の熱と夫その力。
酒脱、豪放、識見、一々敬せざるを得ず。
『 諸君は我日本を改造進展せしむるに最も重大なる責任を有する位置に在ることを光栄とし、
今後大いに努力し給へ 』 。
・・村中孝次  大正十四年 (1925年) 七月二十二日の日記

『 国体論及純正社会主義 』 北一輝著
北は ここで  社会を日本の国体と合一させようとする論を試み
その諸言で  「 破邪は顕正に克つ 」 という日蓮的な言葉を使っている
「 吾人の挙は一に破邪顕正を以て表現すべし、
破邪は 即 顕正なり、
破邪顕正は常に不二一体にして事物の表裏なく、
国体破壊の元凶を誅戮して大義自ら明らかに、大義確立して、民心漸く正に帰す。
是れをこれ維新というべく、少なくとも維新の第一歩にして 且 其の根本なり、
討奸と維新と豈二ならんや 」 ・・・獄中手記 『 続丹心録 』
・・と、
元老、重臣らの中の天皇の大御心を妨げる元凶を取除くことが、
「 破邪顕正 」 で 昭和維新に通ずることである。
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北一輝
西田税につれられて、北一輝とも会った。
貴公子然とした風丰ふうぼうから感ぜられる威圧感に、彼独特のものがあった。
「 北さんと相対すると、いつも威圧されるんだ。死んだ方の目だけ睨みつけて話をすると大丈夫だ 」
と、あとで西田から教わったことがある。それほど北の威圧は強烈であった。
彼の左眼は義眼であった。
『 隻眼せきがんの反逆児 』 とか、『 独眼竜の魔王 』 とかいわれるゆえんである。
昭和初期の大衆作家 林不忘は、北が学んだ佐渡中学の校長の子息である。
北家をしばしば訪問しているうち、北のニヒリスト的魔性の一面にヒントを得て書き上げたのが、
『 丹下佐膳 』 であるといわれている。
そのころ北一輝は大久保百人町に住んでいた。
私も大久保に住んでいたので、日曜日にはよくたずねて、『 日本改造法案大綱  』 の疑問点を無遠慮にぶつけたものだ。
「 北さんはいつも法華経を上げているようですが、日蓮宗でしょうか 」
私の質問は子供じみていた。
「 日蓮は、オレの友達だよ 」
北の答えは、簡明直截ちょくせつであった。
私らがこんな答えをするとキザっぽく聞こえるが、北一輝の場合は、気宇壮大に思えるから不思議なのである。
北の言説と青年将校
また、北はいったことがある。
「 幸徳 ( 秋水 ) は、わたしの本 ( 『 国体論及び純正社会主義 』 ) を読み違えてあんなことをしでかしてしまった。
あのとき ( 大逆事件 ) 、私は死刑のグループに入れられていた。
だが明治天皇は、多すぎると仰せられて、お許しにならなかった、
次々に死刑の人数が削られていって、わたしは何回目かに死刑からはずされていた。
それからわたしは、仏間に明治天皇の肖像画を掲げて毎日拝んでいる 」
そういえば、北の仏間には西郷隆盛と明治天皇の大きな額が掲げられてあって、私は何回か拝んだことがある。
 北一輝の祭壇
そのころは北一輝の 『 国体論及び純正社会主義 』 という本は、どこを探しても見当たらない幻の本であった。
もちろん北の家にも、西田の家にもなかった。
ただ西田の家に筆写した大部のものが一時おいてあったのみで、
私は、大いそぎで走り読みすることができた程度で、熟読玩味がんみするわけにはいかなかった。
したがって大半の青年将校は、この 『 国体論及び純正社会主義 』 には眼を通したことも、手に持ったこともなかったはずだ。
大体、北一輝の思想を青年将校たちは深く掘り下げて研究しておらず、
したがって充分咀嚼そしゃくしていなかった---と 指摘する論者 ( 例えば 『 北一輝 』 の著者 長谷川義記 ) がいるが、
私も全くその通りだと思っている。
『 国体論及び純正社会主義 』 を私が読んで得た知識は、皇室に対して不敬の言辞の多いことと、
北のとなえる国体論は天皇機関説には違いないが、西洋流天皇機関説ではなく、
天皇中心の有機体的天皇機関説であることを理解する程度であった。
「 あのころは若くて、すべてがけんか腰だったからなァ-- 」
この言葉は、皇室に対する不敬の言辞と思われる点をあげて、私がつめよったときの北の返答であった。
北が 『 国体論及び純正社会主義 』 を書いた二十三歳のころと、
私がつめよった四十七、八歳のころとでは、北一輝の思想は基本的には変化はなかったけれども、
天皇に対する信仰の度合いは濃度を大きく増していたのだろう、と私は信じていた。
・・・大蔵栄一著 二 ・二六事件への挽歌 から ・・・( 昭和49年 ( 1974年 ) 2月25 日・・・大蔵栄一と  私の出逢い )

 
末松太平
天剣党以来
西田税とのつきあいは、大学寮に彼を訪ねたときからである。
大正十四年の十月に、
青森の五聯隊での六ヵ月の隊付を終えると、私は士官学校本科に入校するため、また東京に舞戻ってきた。
そのとき、まだ少尉だった大岸頼好が、東京に行ったらこんな人を訪ねてはどうか、
と 筆をとって巻紙のはしに、さらさらと書き流してくれた人名のなかに、西田や北一輝があった。
しかし入校早々、すぐにも訪ねなければ、とまでは思っていなかった。
が、入校後間もない土曜日の夕食後、
青森で別れたばかりの亀居見習士官がひょっこり学校にやってきたのがきっかけで、
まず西田税訪問が急に実現することになった。
亀居見習士官は士官学校本科を卒業する前に航空兵科を志願していたので、
そのための身体検査に出願するよう通知をうけ、検査地の所沢に行くついでに立ち寄ったのである。
「五十二が廃止になり、知らぬ五聯隊にやられて面白くないので航空を志願しておいたが、
大岸さんや貴様らと過ごしているうち考えが変った。身体検査は合格するにきまっているが、志願はとり消しだ。」
こういった亀居見習士官にとっては、いまはむしろ所沢に行くほうがついでで、
目的は私らを誘って西田税を訪ねるほうだった。
大岸頼好 
「 大岸さんが貴様らを誘って西田さんを訪問してはどうかといっていたが、明日は別に予定はないだろう。」
明日は日曜で外出ができる。別に予定などあるはずはない。
どうせいつかは訪ねてみようと思っていたことである。
こういった亀居見習士官の誘いは私にとっては、いいついでであった。
翌日、約束の場所で落合って西田税を訪問した。
同じ聯隊からきていた同期生の草地候補生も一緒だった。
訪ねた場所はその頃西田税が寝起きしていた大学寮である。
健康上の理由で朝鮮羅南の騎兵聯隊から 広島の騎兵五聯隊に転任した西田は、
結局は健康上軍務に耐えられぬという口実で少尉で予備になり、大学寮にきていたのである。
・・・中略・・・
案内を乞うと、声に応じて長身の西田税が和服の着流しで姿を現した。
「大岸は元気ですか。」
招じいられた部屋での西田の第一声はこれで、変哲もなかったが、
つづいての、

「 このままでは日本は亡びますよ。」
は、このときの私たちには、いささか奇矯だった。
天壌無窮の皇運のみをたたきこまれているだけに、このままでは----の前提条件はあるにしても、
日本が亡びるということには不穏のひびきを感じないわけにはいかなかった。
当時の世間一般の風潮からいえば必ずしも奇矯なことではなく、
私たちと同年輩のもののなかには、もっと過激なことをいうものもいたにちがいないが、
武窓にとじこめられた教育をうけている私たちには刺激の強いものだった。
こう受取られる傾向が、その後、北、西田の思想が国体に背反している危険なものと軍当局ににらまれ、
二・二六事件で難くせつけられることにもなるわけである。
そういった私たちの反応を、同じ軍人であっただけに内幕は知りすぎているから、
はじめから計算にいれているかのように西田は、亡国に瀕しているという日本の現状を語りつづけた。

この最初の訪問のあと、私はもう一度 「 日本亡国論 」 をききたいと思ったので、
次の日曜日にまた大学寮に行った。
この時は草地が気乗りしないふうだったので、予科以来の親友森本赳夫を
「 面白い男がいるよ 」 と いって連れて行った。
が 同じ鳥取県人というせいもあるまいが、森本のほうが私より西田に熱をあげた。
その後間もなく 西田税に連れられて森本と一緒に北一輝を訪問したが、
こんども北一輝に
「 君は孫逸仙に似ている 」
といわれたせいもあったのか、また 森本のほうが北一輝に熱をあげた。
このはじめての北一輝訪問の際は、
朴烈・文子事件の最中で、この事件の中心人物、馬場園という人も同席していた。
北一輝は、
「警視庁がいま躍起になって探している馬場園君です。
大変な猛者のように思っているらしいが、このとおりの優男の紳士ですよ。」
と 私たちに紹介した。
そのあとで、
「 軍人が軍人勅諭を読み誤って、政治に没交渉だったのがかえってよかった。
 おかげで腐敗した政治に染まらなかった。 
いまの日本を救いうるものは、まだ腐敗していないこの軍人だけです。しかも若いあなたがたです。」
と、キラリと隻眼を光らしていった。
それは意外なことばだった。
いまの自衛隊そっくりに無用の長物視されていた軍人が、
日本を救う唯一の存在であり、特に若いわれわれがその最適格者だといわれたからである。
・・・末松太平著  私の昭和史  天剣党以来 から
末松太平著  私の昭和史・・・( 昭和49年 ( 1974年 ) 9月7日・・・末松太平 と 私の 出逢い )

 
菅波三郎
永遠の同志 西田税  菅波三郎

西田税の名を初めて聞いたのは、大正十二年の晩春。
私が、東京・牛込の市ヶ谷台上、陸軍士官学校予科二年を卒業して、
士官候補生の隊付勤務に就いた時のことである。
私は、鹿児島歩兵第四十五連隊付、当時満州駐剳で遼陽に在り。
同期の親友、親泊朝省は騎兵第二十七聯隊附として、北鮮の羅南に在った。
或日、彼より来信に、
「 貴様に是非紹介したい人物がいる。同じ将校団の西田税という新品少尉。
中々の優れた革新の士だ 」 と書いてあった。
それから、時が流れた。
隊付半年の勤務を終えて、大正十二年十月一日 ( 関東大震災直後 ) 陸士本科に入り、
再び市ヶ谷台上の人となった。
大正十四年五月初夏、
ふとしたことから私は、北一輝著 「 日本改造法案大綱  」 を入手して、
爾来 不退転の革新運動に身を投じたのであるが、
同年七月二十日頃、日曜日、著者北一輝氏を訪ねて初対面、親しく謦咳に接した。
三日後に陸士本科卒業、鹿児島に帰隊して、十月、陸軍少尉に任官。
その年 ( 大正十四年 )の暮、
年末休暇を利用して単身上京、大学寮 に初めて西田税を訪う。
西田は既に現役を辞して大学寮の学監であった。
・・・リンク
西田税と大学寮 1 『 大学寮 』 
 西田税と大学寮 2 『 青年将校運動発祥の地 』 

西田さんに初めて会った時は、丁度大学寮が閉鎖になる間際だった。一寸険悪な空気だった。
満川亀太郎さんが現れて 「 今後どうするか 」 と 西田さんに問う。
愛煙家の西田さんは大机の抽出を開いて、バットの箱が一杯つまっている中から新しいのを一個つまみ出し、
一服して、
「 決心は前に申した通り。とにかく私はここを去る 」
と 吐きすてるように言った。
間もなく、長居は無用と思ったか 「 出よう 」 と ぶっきらぼうに私を促がして、トットと歩き出す。
導かれた神田の喫茶店はケチな薄暗い店、カレーライスとコーヒーの一杯をおごって貰って、
めざすは千駄谷九〇二番地の北一輝邸。
こんもりと庭樹に囲まれた、物静かなたたずまい。
中古の二階建の洋館で、あとで満川さんに聞いた話だが、
当時 「 虎大尽 」 ( 南洋で虎狩りをしたとかで ) と 異名を取った山本雄三郎の別邸を
「 北一輝氏は国宝的人物だから 」
 と いう
永井柳太郎 ( 当時の民政党の代議士。元文相永井道雄の実父 )
 
の 口ききでタダで借りた家だったんだそうな。
招じられた応接間にカーテンは無く、ソファは上質だが、ガランとしている。
貧乏暮し。 だが、悠々たる雰囲気だった。
その日、三人 ( 北 四十二歳、西田 二十四歳、そして私 二十一歳 ) で 会談した数時間は、まことに貴重なものであった。
帰り際に
「 私を頼るな。私は、いつ斃れるかも分らない。 私は君の魂に火を点ずる役割を持ったのかも知れぬ。
 しかし一度火が点いたら、ひとりで燃えなくちゃ・・・・」
北氏 西田さんと北邸を辞したのは、夜十時に近かったろうか。
大正十四年の年の暮。師走の空は寒い。
・・・須山幸雄著  西田税 二 ・二六への軌跡 ・・・( 昭和57年 ( 1992年 )  ・・・この本 と 私の出逢い )


昭和・私の記憶 『 謀略、交信ヲ傍受セヨ 』

2023年02月18日 05時12分48秒 | 昭和 ・ 私の記憶

二月二十六日からの推移、
すべてがうまく行っているかの情報がわたくしの耳にも届きます。

信じられなくて、身を抓るような気持ちでございました。
西田は有利な収拾へ事を運ぶのが自分の役割と考え、
北夫人におりた霊告を青年将校たちへ電話で伝え、
軍長老へ斡旋の依頼を試みたようでございます。

この電話が憲兵隊によってすべて盗聴されていたのでした。
実力行使の成果を実らせ刈取るために、北先生も西田も、相談に乗り、意見を伝えました。
それが死刑に該当するかどうかは別のことで、事件と全く無関係とは申しません。
・・・リンク→西田はつ 回顧 西田税 2 二・二六事件 「 あなたの立場はどうなのですか 」 


昭和54年 ( 1979年 ) 2月26日
NHKで
『 戒厳指令  交信ヲ傍受セヨ 二 ・二六事件秘録 』
が、放送された。

NHKが 『 二 ・二六事件 』 を 如何にみているのか、
そして、全国民に何を如何 伝えるのかそこが肝心
・・と、期待を以て視たのである。


私が 放映画像を撮影したもの
当日の吾日記  ( 日付カレンダーは翌月 3月 )

2、26事件43年
未 認知されない悲劇
栗原さん、安藤さんの声をテレビで聴く
43年前の声が今 吾にとどく
神達が日本人でありし日の声が吾にとどく
北一輝の声も 西田夫人の声も亦 42日目
・・・1979.2.26の 吾日記

録音テープ
( 親友 ・長野に依頼した )

しかし
「 やっぱり、
正しく 評価が為されていない 」
私の期待は、はずれてしまつた。

昭和11年2月28日
幸楽に於いて安藤大尉は謂った
私は楠正成に成る
蹶起した心懐は、70年も、80年も経たねば分って貰えないだろう 
・・と


事件から43年経つても猶ほ
安藤大尉の魂は、
暗雲漂う大東京の空を彷徨う ・・・・


NHK
戒厳指令
『 交信ヲ傍受セヨ 』  
二 ・二六事件秘録

 西田税
栗原君が首相官邸に居ると云ふので栗原君に電話を掛け、
先づ私から 
「 何うした 」
と云ひますと栗原君は
「 今官邸に居ますが元気である。岡田はやつたが自分の処は非常に苦心した 」
と云ふ様な話があり、 
私は
「 雪も降って寒いし、皆食べ物は如何してゐるか、夫れが心配だ 」
と云ひますと栗原君は
「 食物は聯隊の方から持つて来て呉れるから心配はない。
一遍見に来ませんか。 
そうすればちゃんと中に這入れる様にします。
溜池の方から来れば言ひ付けて置く 」
との事でした。
私は
「 僕は行き度くない 」
と話して電話を切ったと思ひます。

・・・リンク→西田税 2 「 僕は行き度くない 」 

栗原中尉 -- 西田はつ

    
「 もしもし栗原です。どうでございますか 」
「 はあ 」
「 何んでございますか ・・・・ 」

「 うふふ。ちよっと、電話では はばかりますが・・・」
「 スガナミさん、来とるんですか。何処へ・・・・」

「 はあ、さっきお電話があったんですけどね 」

「 ふうん、それは僕が迎えに行ってもいいです 」
「 遠くへですか・・・・」
「 ええ 」

「 あ、もし ×××× 」
「 あちらへは・・・・」

「 もし連絡がありましたらね、首相官邸を目標に来て下さい 」
「 そうでございますか 」

「 ええ、そしてね、合言葉はね、尊皇斬奸 」
「 はア・・・・」
「 尊皇斬奸 」
「 ああ、そうでございますか 」
「 それでね、クリハラ中尉に面会といえば大丈夫です 」
「 ああ、そうですか 」
「 首相官邸に来られて 」
「 ああ、そうでございますか 」
 
「 すく案内しますから、お一人でいらっしゃいますか・・・・」
「 はあ、そうです 」
「 はあ 」
「 承知しました 」
「 はあ、御願します 」
---ガチャーン
「 日にちはどうもハッキリしませんが、『 菅波の妻何ですが 』 って女の方から お電話をいただきました。
私その時、『 菅波三郎さんですか 』 ってことをね、電話の盗聴ということも考えられますから、
三朗さんって言葉は出しませんで、ただ 『 御主人と御一緒にですか 』 ってことを私は申し上げたんです。
女の方が、『 はあ、そうですが 』 っておっしゃったもんですから、私は上京なすったとばかり思って、連絡しました。
そうしましたら、そうではなかったらしゅうございますね 」 ・・・西田はつ
「 家内です。上京した家内が東京駅から・・・・。私も上京したかったんですが、御存知のとおり憲兵に貼りつかれていてね 」 ・・・菅波三郎 



« 安藤大尉の演説 »
・・・・昨夜来から幸楽前に押しかけた群衆は益々その数を増し、
夜になっても帰る様子がなく、安藤大尉の話を望む声が強まってきた。
そこで大尉が玄関前に姿を現すと 一斉に群衆が万歳を叫んだ。
まさに天地が亀裂せんばかりの響きである。
大尉は静かに話し始めた。

諸氏も知っているとおり、
さきの満州事変、上海事変等で死んだ兵士は気の毒だがみな犬死だった
これは軍閥や財閥の野望の犠牲であったからである
これらの悪者は一刻も早く倒さねばならない
その目的で我々は皆さんにかわって実施したまでである
今からお願いしたいことは、
我々の心を受けて大いに後押ししてもらいたい
以上おわり
大尉が姿を消すと
衆はやっと承知したかのように万歳を叫び徐々に帰りはじめた。
・・・リンク→幸楽での演説 「 できるぞ! やらなきゃダメだ、モットやる 」 

北一輝 -- 安藤大尉
電話は2月28日午後11時50分にかけられている

-- 
見ていただいたビデオでは、はっきり聞こえませんが、
料亭幸楽は赤坂の昔のホテルニュージャパンがあったところ、
そこの周囲を28,000人くらいの軍隊、8,000人ほどの警察官、
東京の消防団などが取り囲んでおり、
そういう中での電話です。
また、ゴーっという音も聞こえるのです。
後で分かったのですが、これは 戦車の音です。
よく聞こえないと安藤が言っているのはそんな中の電話ということ です。

「 もしもし 」
「 はい 」

「 どなたですか・・・・」
「 キタ 」
「 えッ・・・・」

「 キタ 」
---雑音---
「 はあ 」
---雑音---
「 えッ・・・・」
「 ××だいじょうぶですか・・・・」

「 はたが騒がしすぎて、聞こえないんですがね 」
「 ×××××× 」

「 えッ・・・・」
---雑音---
「 もしもし 」
「 ×××××× 」
「 ええ、ちょっとまわりがやかましすぎて、聞こえないんですがねがね 」
 
「×××× 」
「 ××をですか・・・・ 」
「 ええ 」

「 ××ほぼ順調に行っております 」
・・・・・・・
「 えッ・・・・」

「 ほぼ順調にやって
おります」
「 ×××× 」
「 えッ・・・・」
・・・・・・
「 ×××× 」
「 カネ、カネ 」

「 ×××ですか・・・・」
「 カネ、カネ 」
「 えッ・・・・」

「 マル、マル、カネはいらんかね・・・・」
「 なに・・・・」
「 カネ 」
「 カネですか・・・・」
「 ええ

 
「 ええ、まだだいじょうぶです 」
「 だいじょうぶ。あのね 」

「 ええ 」
「 心配ないね 」
「 ええ 」
「 じゃあ 」

---ガチャーン

北一輝、西田税の強引な裁判の有力な証拠にさせられたのが電話で ある。
北一輝の判決文を読んでも十数か所に電話による激励という ことが出てくる。
青年将校たちの処刑が発表された昭和11年7月 5日の新聞には、
戒厳令下ですから軍が書かせたものですが、電 話による激励という大見出しが出ている。
電話は徹底的にマークされた。
・・・
北を取り調べた憲兵は当時の東京憲兵隊の特高課長の福本亀次という男です。
この人は中野学校を作った男です。
彼が北を調べて彼の 尋問調書が残っている。
それによると、その方は2月27日午後、
安藤に金はあるか、給与はよいかと電話をかけたことはないか
とい う一問一答の調書が残っている。
何故2月27日が出てきたのだろ う、
2月27日ならばすべて辻褄は合う、北が逮捕される前ですから。
これは明らかにでっち上げの調書だと思った。
北はこれに対し て、そんな電話は勿論かけたことがないし、
金はあるかとか給与は どうかとか、そんなことは全く知りませんと述べている。
そういう 疑問点が出てきて非常に辻褄が合わない。
その電話は2月28日の 午後11時50分にかけられている。
北はその前に逮捕されている。
福本の調書では、2月27日午後に北が安藤に電話したことになっ ている。
憲兵隊としてはそれで辻褄は合う。
・・・
2月28日午後11時50分、
憲兵司令部から 北を騙 かたって安藤に電話してきた男は
ほぼ、100%とはいえないが、98% くらいは 金子憲兵 に間違いないと思っています。
北をいかにして罪に陥れるかいろんな謀略がなされた証拠だろうと思います。
北を裁 いた裁判官に聞いても、
精々叛乱幇助罪で禁固3年くらいというの が妥当といい、北の裁判は1年延びた。
5人の裁判官の意見が割れ、また、北を死刑にすることに裁判長が反対したからである。

・・・リンク→
拵えられた憲兵調書 

亀川哲也 -- 栗原中尉
  -- 

亀川哲也は、
同月二十七日午前三時頃、
陸軍歩兵中佐満井佐吉より、電話により帝国ホテルに来訪を求められ直ちに同所に赴き、
同中佐により村中孝次に対し撤退勧告を依頼せられ、
間もなく同ホテルに来着したる村中孝次と会見し、蹶起部隊がこれ以上占拠を持続するときは
却つて不利なる結果を招くべしと説明し、その撤退を勧告したる際、
同人より蹶起部隊を戒厳部隊に編入し、原位置を警備する様取計われ度旨要望せらるるや、
満井中佐と共にその実現に努力する旨約束し、
次で同日午前八時頃、北輝次郎方に西田税を訪ねて、
帝国ホテルの会合、西園寺公に対する軍部内閣の進言 及び真崎大将訪問等、
二十六日以彼が活動の結果得たる諸情報を伝へたるが、( ・・・リンク→帝国ホテルの会合 )
同月二十八日に至り、俄然情勢の変化に伴ひ身辺の危険を察知するや、
各種の証拠湮手段を講じたる上、同日午後十時頃従来の親交をたどり 東京市芝区白金今里町十八番地
久原房之助方に潜入し爾来同人の庇護の下に同家に隠避しいたるが ・・・軍法会議判決文から


「もしもし栗原ですが 」
「 あのね 」
「 うん 」

「 もしかする
とね 」
「 うん 」
「 今払暁
ふつぎょう ね 」
「 うん 」
「 攻撃してくるかもしれませんよ 」
「 はあ 」

「 それでね、大活動おこそうと思ってね 」
「 はあ 」
「 連絡とろうと思ったけど、連絡とれなかったんだ 」
「 はあ 」
「 とにかく、内閣はね 」
「 はあ 」

「 いったい誰・・・・、真崎でなけゃ、どうしてもいかんのかい 」

「 とにかくね---略---もうあれですな、妥協の余地はないようですね 」
「 うん 」

「 向こうもとにんく奉勅命令で来るんでしょうから 」
「 うん 」
「 そういう状況でいか・・・・」
「 うん、そうだ 」
「 はあ 」
「 それでね 」
「 はあ 」

「 君のほうの希望はだな 」
「 はあ 」
「 いったい誰だい・・・・」
「 さあ×××× 」
「 総理大臣はマザキの他に誰かあるのかい・・・・」
「 今んところありませんね 」
「 ほう 」
「 はあ 」
「 それで、まだなんとかやるけどね 」
「 マザキを代えることができないくらいなら他の者もできないですよ 」
「 うん 」
「 はあ 」
「 例えばカワイとかね 」
「 は、は、は、」
「 ヤナガワとか 」
「 ヤナガワならいいですけどね 」
「 うん 」
「 あとは駄目 」
「 そいでね 」
「 はあ 」
「 実はその、それがわかったらだな 」
「 はあ 」
「 すぐサイオンジ公もね 」
「 はあ 」
「 トクガワもね 」
「 はあ 」
「 みんな活動をはじめてね 」
「 はあ、サイオンジも来てるんですか・・・・」
「 サイオンジのところへとんで行くことになったんだ 」
「 はあ 」
「 うん 」
「 間に合わんでしょうね 」
「 うん、間に合わないと思う 」
「 もし、そういうこと××××××徹底的でしょうから 」
「 うん 」
「×××××× 」
「 うん 」
「 ま、これでお別れですな 」
「 うん、それでね 」
「 はあ 」
「 何とか、まだやるけどね 」
「 はあ 」
「 うん 」
「 ま、お達者で 」
「 うん 」
「 これが最後でござい×× 」
「 うん 」
「 それでは、皆さんによろしく言って下さい 」
「 うんうん、じゃ 」
「 それでは 」
「 はい 」
---ガチャーン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

二月二十八日の夕方でしたかしら、
私は栗原さんと最後のお別れを言ったのですよ。
首相官邸から電話がかかってきまして
「 いろいろ長い間お世話になりましたけれども、奥さん、これが最後です 」
と おっしゃってね。
それですぐに主人にそれを話しましたら、
もう一度電話をかけてみろと言いまして、
首相官邸に電話をしましたが、もう出ませんでした。

・・・西田はつ 

  徳川義親侯
二十八日夜、
( 栗原中尉から ) 決別の電話が来ました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
『 栗原です。・・・・長い間お世話になり御迷惑をかけましたが、これでお訣れ致します。
 ・・・・おばさま、史子さんにもよろしく 』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

彼等の心情のあわれさに動こうとした人もございました。
同日、夜半過ぎ、徳川義親侯からの電話でした。
内容の重なところは
「 ---身分一際を捨てて強行参内をしようと思う。
決起将校の代表一名を同行したい。代表者もまた自決の覚悟をねがう。
至急私の所へよこされたい--- 」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
『 徳川三百年、皇威を蔑らし奉つた、その罪の深きに関らず、わが徳川一族は、寵遇を辱くし、
 国民の最高位にあるは、私の恐懼措かざる処、この際一行に代り、参内し、罪を閣下に謝さんと思ふ。
 蹶起将校代表者一名を同行したし。素より私は、爵位勲等を奉還する。
 代表者も亦豫め自決の覚悟を願ふ。至急右代表者を私の許によこされたし・・・』 ・・・徳川義親侯爵
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しばらくの後、栗原に話が通じ、さらに協議ののちに来た答を、父が電話の前でくり返すのを聞きました。
あるいは父の書いたものよりは、彼の口調に近いかも知れません。
「 状勢は刻々に非です。お心は一同涙の出るほど有難く思いますが、
もはや事茲に至っては、如何とも出来ないと思います。
これ以上は多くの方に御迷惑をかけたくないので、
おじさんから、よろしく御ことわりをして下さい。御厚意を感謝します 」
電話については、これよりだいぶん前に、彼の方から、
「 盗聴されているかも知れません---」
と 連絡されて居り、
わたくしたちは、何処がそれをしているのか、警視庁ででもあるのか
・・と 思っていましたが、
交信を傍受し、
しかも 録音を取っていたのは戒厳司令部であったと知ったのは
昭和五十四年二月二十六日放送の NHKの番組によってでございました
・・・リンク→ 齋藤史の二・二六事件 2 「 二・二六事件 」 

 濁流だ濁流だと叫び 流れゆく末は
 泥土か夜明けか知らぬ  ・・齋藤史
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

令和四年 ( 2022年 ) の而今
NHK  『 戒厳指令  交信ヲ傍受セヨ 二 ・二六事件秘録 』
は YouTube で視ることができる。
昭和11年 ( 1936年 ) 、事件から43年、
昭和54年 ( 1979年 ) から、更に43年経った令和四年 ( 2022年 )
事件から86年経つ。
「 70年も、80年も経たねば分って貰えないだろう 」
との、安藤大尉の想いは虚し。

二月二十六日北方ノ電話ニ故障ガ起キタ時、不思議ニ思ハナカツタカ
先方ヨリ掛ケテ來ルノハ話ガ出來テ、私ノ方ヨリ掛ケルノガ先方ニ通ジナイノデ、
不思議ダトハ思ヒマシタガ、
豈然盗マレテ居ルト迄ハ考ヘマセヌデシタ。
・・・西田税、第三回公判


私の想い、二・二六事件 『 昭和維新は大御心に副はず 』

2023年02月16日 14時56分58秒 | 昭和 ・ 私の記憶


令和元年 ( 2019年 ) 八月十五日 ( 木 )

NHKは、
全貌二・二六事件  ~最高機密文書で迫る~
と、銘打って  二・二六事件について放送した。
『 私達が知っていたのは、「真相の一断面 に過ぎなかった 」、
「 海軍の極秘文書を発掘した、そこには、数々の新事実が・・・・』
・・と。
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・・・・・・極秘文書には、
事件初日にその後の行方を左右するある密約が交わされていたことが記されていた。
事態の収拾にあたる川島義之陸軍大臣に、
決起部隊がクーデターの趣旨を訴えたときの記録には、
これまで明らかではなかった陸軍大臣の回答が記されていた。
 川島陸相
陸相の態度、軟弱を詰問したるに
陸相は威儀を正し、
決起の主旨に賛同し昭和維新の断行を約す


川島は、決起部隊から 「 軟弱だ 」 と 詰め寄られ、

彼らの目的を支持すると、約束していたのだ。
「これは随分重要な発言だと思います。
決起直後に大臣が、直接決起部隊の幹部に対して、
“昭和維新の断行を約す”
と、約束している。
言葉として。
これを聞いたら、決起部隊は大臣の承認を得たと思うのは当然で、
それ以降の決起部隊の本当の力になってしまった。
 眞崎大将
この直後、
川島は、決起部隊が軍事政権のトップに担ごうとしていた皇道派の幹部 ・眞崎甚三郎大将に接触。
「謀議の結果、決起部隊の要求をいれ、軍政府樹立を決意」

 昭和天皇と鈴木貫太郎
しかし天皇は、勝手に軍隊を動かし、
側近たちを殺害した決起部隊に、厳しい姿勢で臨もうとしていた。
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・・・挿入・・・
川島陸相の上奏要領
一、叛亂軍の希望事項は概略のみを上聞する。
二、午前五時頃 齋藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍從長、渡邊教育総監、牧野伯を襲撃したこと。
三、蹶起趣意書は御前で朗讀上聞する。
四、不徳のいたすところ、かくのごとき重大事を惹起し まことに恐懼に堪えないことを上聞する。
五、陛下の赤子たる同胞相撃つの惨事を招來せず、出來るだけ銃火をまじえずして事態を収拾いたしたき旨言上。
陛下は この事態収拾の方針に關しては 「 宜 し 」 と 仰せ給う

事件勃發當初は蹶起部隊を叛亂軍とは考えず。

その理由は下士官以下は演習と稱して連出されたのものにして、叛亂の意思に出でたるものにあらずして
ただ將校が下士官以下を騙して連出し人殺しをなしたるものと考えいたり。
したがって蹶起部隊全體をもって叛亂軍とは考えず。
またこれを討伐するは同胞相撃となり、兵役關係は勿論、對地方關係等 今後に非常なる惡影響をもたらすものと考えたり。
また 蹶起部隊は命令に服從せざるに至りたるときは叛徒なるも、
蹶起當時においては いまだ叛亂軍と目すべきものにあらずと 今日においても考えあり
・・川島陸相訊問調書

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2日目、2月27日の午後6時半の記録には、
陸軍の幹部が青年将校らについて
「 彼らの言い分にも理あり 」 と 理解を示し、
「 暴徒としては取り扱い居らず 」 と 発言をしたことが記され、
陸軍の対応に一貫性がなく状況が複雑化していることに対し、海軍が警戒していた様子がうかがえる。
さらに事件が収束する前日の2月28日午後11時5分の記録には、
追い詰められた事件の首謀者の1人、磯部浅一が
天皇を守る近衛師団の幹部と面会して、
「 何故(なぜ)に貴官の軍隊は出動したのか 」 と問い、
天皇の真意を確かめるかのような行動をしていたことも詳しく書き留められていた。

攻撃準備を進める陸軍に、決起部隊から思いがけない連絡が入る。
「 本日午後九時頃 決起部隊の磯部主計より面会したき申込あり 」
「 近衛四連隊山下大尉 以前より面識あり 」
決起部隊の首謀者の一人、磯部浅一が、陸軍・近衛師団の山下誠一大尉との面会を求めてきたのだ。

磯部の2期先輩 ( 36期 ) で、親しい間柄だった山下。
山下が所属する近衛師団は、天皇を警護する陸軍の部隊だった。
追い詰められた決起部隊の磯部は、天皇の本心を知りたいと、山下に手がかりを求めてきたのだ。
磯部  「 何故に貴官の軍隊は出動したのか 」
山下  「 命令により出動した 」
山下  「 貴官に攻撃命令が下りた時はどうするのか 」
磯部  「 空中に向けて射撃するつもりだ 」
山下  「 我々が攻撃した場合は貴官はどうするのか 」
磯部  「 断じて反撃する決心だ 」
天皇を守る近衛師団に銃口を向けることはできないと答えた磯部。
しかし、磯部は、鎮圧するというなら反撃せざるを得ないと考えていた。
山下は説得を続けるものの、二人の溝は次第に深まっていく。
山下  「 我々からの撤退命令に対し、何故このような状態を続けているのか 」
磯部  「 本計画は、十年来熟考してきたもので、なんと言われようとも、昭和維新を確立するまでは断じて撤退せず 」
もはやこれまでと悟った山下。
ともに天皇を重んじていた二人が、再び会うことはなかった。 ・・> 
昭和維新の断行を約束しながら、
青年将校らに責任を押し付けて生き残った陸軍。
事件の裏側を知り、決起部隊とも繫がりながら、
事件とのかかわりを表にすることはなかった海軍。
極秘文書から浮かび上がったのは二・二六事件の全貌。
そして、不都合な事実を隠し、自らを守ろうとした組織の姿だった。
・・・以上 放送内容の中から関心部分を ネットから引用
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> 
磯部浅一、獄中手記
 ・・・
行動記 ・ 第二十三 「 もう一度、勇を振るって呉れ 」 ・・参照 
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私の想いを記す
「 私達が知っていたのは、真相の一断面 に過ぎなかった、

海軍の極秘文書を発掘した、そこには、数々の新事実が記されていた、
そして、これにより 全貌が明らかになった 」・・と 云う。
NHKが 此をどのような意図を持って拵えたかは分からない。
なにも、新しい事実の発見が、必ずや真相の解明に繫がるとは限るまい。
海軍の極秘文書によって発掘された新事実が、
これまで囁かれていたものを裏付ける材料とはなりても、
公式記録だから 正しいもの、真実のもの、と、そのまま丸呑みは出来ない。
あくまで海軍が海軍の立場に基いて記した 記録もの なのである。
それは、海軍の都合で記されたるもので、やっぱり これも亦陸軍のものと同様 拵えたもの、
二・二六事件の一断面に過ぎないのである。
だからと云って、私は之を否定などしない。事実として ちゃんと受容れる。
いつも はがゆく想うは、斯の時代の日本人 ( 何も軍人である蹶起将校だけとは限らない )
の 精神の検証がなされないこと、
これなくして、如何して真実に辿り着けようか。
斯の時代の日本精神を知らぬ私も亦同様である。


「 昭和維新は大御心に副はず 」
大御心は正義を體現する
而して、赤誠の正義は大御心に副う  のである
しかし、己が行動は必ずや大御心に副うものと信じ 蹶起した靑年將校に、
大御心は正義を體現することはなかった
否  正義を體現する大御心は 存在しなかったのだ
靑年將校の正義は、大御心に副う  べくもなかったのである

昔から七生報國というけれど、
わしゃもう人間に生れて來ようとは思わんわい。
こんな苦勞の多い正義の通らん人生はいやだわい ・・・西田税

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「 ニ ・ニ六事件って何でしようか 」
「 正義の味方だ 」
「 なぜ人を殺したのですか 」
「 それは立場だ 」
平成二年 ( 1990年 )
今泉章利氏 ( 今泉義道少尉の御子息 ) の問に、
末松太平はそう答えた ・・・と謂う


大御心
・ 二・二六事件の収拾処置は自分が命令した 
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・ 
天皇は叛乱を絶対に認めてはいけません、 そして 叛乱をすぐ弾圧しなければなりません

伏見宮 「 大詔渙発により事態を収拾するようにしていただきたい・・」

《 眞崎大将は 》
川島陸相に会うと、
テーブルに置かれた 蹶起趣意書 と 要望事項 の紙片 を押さえて云った。

「 こうなったら仕方ないだろう・・・これでいこうじゃないか 」
川島陸相は頷き、天皇に拝謁すると、
事件の経過を報告すると 共に 蹶起趣意書  を 読みあげた。
天皇の表情は、陸相の朗読がすすむにつれて嶮けわしさを増し、
陸相の言葉が終わると、
なにゆえに そのようなものを読みきかせるのか
と 語気鋭く下問した。
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《 川島陸相が 》
「 蹶起部隊の行為は
 明かに天皇の名においてのみ行動すべき統帥の本義にもとり、

亦 大官殺害も不祥事ではあるが、
陛下ならびに国家につくす至情に基いている、

彼らのその心情を理解いただきたいため ・・・」
と 答えると
今回のことは精神の如何を問はず甚だ不本意なり
国体の精華を傷つくるものと認む

天皇はきっぱりと断言され、
思わず陸相が はっと頭を下げると
その首筋をさらに鋭く天皇の言葉が痛打した。
朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス
斯ノ如キ兇暴ノ将校等、其精神ニ於テモ恕ゆるスベキモノアリヤ
天皇は
一刻も早く、事件を鎮定せよ
と 川島陸相に命じ、
陸相が恐懼して さらに拝礼するのをみると、

速やかに暴徒を鎮圧せよ
と、 はっきり蹶起部隊を 暴徒 と断定する意向をしめした。
・・・なにゆえにそのようなものを読みきかせるのか

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川島は、午前九時に参内し、天皇のまえに進みでた。
ここで事件の概容を伝え、あまつさえ 「 蹶起趣意書 」 を 読んだ。
そしてこうなったら強力内閣をつくらなければならないと述べた。
この陸相は、事件を鎮圧するのでなはなく、
この流れに沿って、新たな内閣の性格まで口にしている。

つまり 蹶起将校や眞崎の使者となっていたのである。
「 陸軍大臣はそんなことまで言わなくていい。
 それより 反乱軍を速やかに鎮圧するほうが先決ではないか 」

天皇のことばに、
川島は自らどうしていいかわからないほど 混乱して退出していった。
・・・俺の回りの者に関し、こんなことをしてどうするのか
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
26日
午後四時頃から閣議が開かれ
陸相から事件報告がなされた。

川島陸相は ここでも協力内閣の必要を強調したが、
閣僚の誰一人として耳を傾けるまのはなかった。
これは、この日の午後、蹶起将校から
「 われわれを義軍と認めよ 」
「 眞崎内閣をつくれ 」
などの要求がなされ、
大臣も強力内閣をつくることに意が動いたが、
統帥部の反対で立ち消えとなった。

するとさらに蹶起将校側から
「 それでは内閣をして国政の大改革を断行することを声明せしめよ 」

との 代案が持ち出され、これをとり上げて大臣が閣僚に要求したのだということであった。
・・・速やかに暴徒を鎮圧せよ


私の想い、二・二六事件 『 頼むべからざるものを頼みとして 』

2023年02月14日 15時15分05秒 | 昭和 ・ 私の記憶

内外眞ニ重大危急、
今ニシテ國體破壊ノ不義不臣ヲ誅戮シテ
稜威ヲ遮リ 御維新ヲ阻止シ來レル奸賊ヲ 芟除スルニ非ズンバ皇謨ヲ一空セン
恰モ 第一師團出動ノ大命渙發セラレ、
年來御維新翼賛ヲ誓ヒ殉國捨身ノ奉公ヲ期シ來リシ
帝都衛戍ノ我等同志ハ、
將ニ萬里征途ニ上ラントシテ 而モ願ミテ内ノ世狀ニ憂心轉々禁ズル能ハズ
君側ノ奸臣軍賊ヲ斬除シテ、彼ノ中樞ヲ粉砕スルハ我等ノ任トシテ能ク爲スベシ
臣子タリ 股肱タルノ絶對道ヲ 今ニシテ盡サザレバ破滅沈淪ヲ翻ヘスニ由ナシ
茲ニ 同憂同志機ヲ一ニシテ蹶起シ、
奸賊ヲ誅滅シテ 大義ヲ正シ、國體ノ擁護開顯ニ肝脳ヲ竭シ、
以テ神洲赤子ノ微衷ヲ献ゼントス ・・・蹶起趣意書


昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
「 昭和維新の歌 」 を高唱しながら
三宅坂方面に向い行進する安藤隊

「 自分たちが起って國家の爲に犠牲にならなければ、
 かえって我々に天誅が下るだろう 」・・・野中四郎

「 我々は國家の現狀を憂いて、ただ大君の爲に起ったまでです。
 一寸の私心もありません 」
「 いつか前島に  『 農家の現狀を中隊長殿は知っていますか 』
 と 叱られたことがあったが、今でも忘れないよ。
かし お前の心配していた農村もとうとう救うことができなくなった 」・・・安藤輝三


昭和の聖代
正義が常に正義として通用する 此 眞の聖代と謂う
正義とは大御心を謂う  
・・・大御心そのものが正義
而して、大御心は正義を體現するもの
玆に、赤誠の正義はきつと大御心に副うのである

「 
なに、陛下だって御不満さ ・・・村中孝次
・・・彼等は
頼むべからざるものを頼みとして
蹶起したのである。

日本の國體は
一天子を中心として 萬民一律に平等差別であるべきものです。

聖天子が 改造を御斷行遊ばすべき 大御心の御決定を致しますれば
即時出來る事であります。
之に反して
大御心が改造を必要なしと御認めになれば、
百年の年月を持っても理想を實現することが出來ません。  ・・・北一輝

昔から七生報國というけれど、
わしゃもう人間に生れて來ようとは思わんわい。

こんな苦勞の多い正義の通らん人生はいやだわい。 ・・・西田税
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
< 註 >
「 なに、陛下だって御不満さ 」 
山口一太郎大尉より聞く所に依れば、
陛下は現在の御境遇に関し、
述ぶるに忍びざる内容の嘆きの御言葉を洩らされたる趣拝承す ・・・村中孝次
陛下朝見式に於て賜はりたる勅語の聖旨を実現せんとしたる ・・・香田清貞
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・・・・ ノート  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二 ・二六事件 = 昭和維新

昭和維新とは
「 大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん 」 
・・・藤田東湖
・・・大義とは國體  國體明徴
「 天子ハ文武ノ大權ヲ掌握スル 」
蹶起の眞精神は、
「 大權を犯し國體を紊る君側の奸を討って大權を守り、國體を守らんとす 」
・・・天皇の御爲に大權を守り、大權干犯したるものを誅陸す
「 天皇の御爲 」 = 臣下の正義、日本人の正義   
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陸軍大臣告示
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聽ニ達セラレアリ
二、諸子ノ行動ハ國體顯現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、國體ノ眞姿顯現(弊風ヲ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ 
・・・國體明徴=國體の 眞姿顯現
國體とは、
一天子を中心として萬民一律に平等無差別であり、
それは天皇と國民の精神的結合を示すものである ・・・村中孝次
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一君萬民、國民一體の境地、
大君と共に喜び大君と共に悲しみ、
日本の國民がほんとうに
天皇の下に一體となり
建國の理想に向って前進することである
・・・青年将校
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一君萬民、君民一體の政治とは何か
青年將校が天皇とともに喜びともに悲しむという一體観、
そこでは一君を中心とした國民の結集であり、
そこに君と国國民との間には、なにものをの介在を許さないもので、
國民は無差別、平等に天皇に直參するものであることを表現して
天皇に一切をささげる國民が、
天皇の御聲のままに、翼賛する政治の體制を、理想とする
どうすれば、このような理想形態に導きうるのか
現支配機構を否定するのではなくて、
現支配機構を支える惡者をとりのぞき、                   ・・・君側の奸
これに代って人徳髙い補翼者を天皇の側近におきかえ
同時に全國民に維新への感動を激發すれば ことはなる
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「 我國體は上は萬世一系連綿不變の天皇を奉戴し、
萬世一神の天皇を中心とせる全國民の生命結合なることにゆいて
萬邦無比といわざるべからず。 我國體の眞髄は實にここに存す 」
すなわち、我が國體は天子を中心とする全國民の渾一的生命體であり
天皇と國民とは直通一體たるべく、
したがって、天皇と國民とを分斷する一切は排除せられ、    ・・・君側の奸
國民は天皇の赤子として奉公翼賛にあたるべきもの。


「 なに、陛下だって御不満さ 」

2021年11月22日 17時29分30秒 | 昭和 ・ 私の記憶

「 なに、陛下だって御不満さ 」・・村中孝次
・・・彼等は
頼むべからざるものを頼みとして
蹶起したのである。

・・・・天皇のために蹶起した人間が、天皇の名のもとに鎮圧され、裁かれますね。
「 朕がもっとも信頼せる老臣をことごとく倒すは、真綿にて朕が首を絞むるに等しい行為なり 」 とか、
「 これから鎮撫に出かけるから、ただちに乗馬の用意をせよ 」 と天皇は激怒されたと聞きますが、
末松  その天皇の御言葉によって全ては、つぶされてしまうんですよ。
  この天皇の御意思がわかったから、皆将軍連中も手の平を返した。
二 ・二六をぶっつぶしたのは天皇ですよ。そのウラミは私にもありますよ。
・・・末松太平 『 二 ・二六をぶっつぶしたのは天皇ですよ 』
リンク ↓
・ 
速やかに暴徒を鎮圧せよ

俺の回りの者に関し、こんなことをしてどうするのか
・ 天皇は叛乱を絶対に認めてはいけません、 そして 叛乱をすぐ弾圧しなければなりません 
・ 伏見宮 「 大詔渙発により事態を収拾するようにしていただきたい・・」 
・ なにゆえにそのようなものを読みきかせるのか 
・ 自殺するなら勝手に自殺するがよかろう
・ 陸軍はこの機会に厳にその禍根をいっそうせよ 
・ 本庄日記 ・ 帝都大不祥事 第四 陸相への御言葉 
・ 本庄日記 ・ 帝都大不祥事件 第一  騒乱の四日間

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事件の問題点
蹶起将校たちの天皇に対する信頼、尊崇の念は絶大ものであり、
「 君側の奸 」さえ取除けば、天皇の力によって理想的な政治体制が作られるものと信じていた。
大蔵栄一大尉は
「 権力強奪的私心が微塵もあってはいけないことを、お互いの心に誓い合っていたのだ。
 国家の悪に対して身を挺することによって、その悪を排除し、日本古来の真姿顕現に向って直往すれば、
その真心は必ず天地神明にはもちろん、天皇さまにもご嘉納していただけることを念願しての一挙であった 」
と述べている。・・・大蔵栄一 『 二 ・二六事件への挽歌 』 294頁 ( ・・・リンク → 身を挺した一挙は必ずや天皇様に御嘉納いただける  )
しかし、そこに大きな誤算があった。
蹶起将校たちが 「 至高絶対 」 であると信じ、
そのために献身しようとした 「 現実の天皇 」 は、彼らが理想とした 「 理想的な天皇 」 ではなく、
親政がそれを取巻く 「 君側の奸 」 によって曇らされていたのではなく、
「 現実の天皇 」 が実は 「 君側の奸 」 の統領そのものだったのである。

蹶起将校らの直接行動によって
従来天皇を囲繞いじょうし親政を妨げていた奸臣たちが取り払われ、
蹶起将校たちの蹶起の真意を 「 天皇 」 が聞かれれば、
天皇はこれに嘉納し、直ちに適切な処置がとられる
ということを蹶起将校等は信じていた二違いない。
ところが、本庄侍従武官長が
「 決起将校等は、その精神においては、君国を思って行動したものなので、必ずしも咎めるべきではない 」
と述べたところ、
「 天皇 」 は、その将校等の真意を全く知ろうともせず、
一顧も与えずに、
「 じぶんとしては、最も信頼せる股肱たる重臣及び大将を殺害し、
 自分を真綿にて首を締むるがごとく苦悩せしむるものにして、はなはだ遺憾に堪えず、
お前達が朕の命令を躊躇するなら、朕自ら近衛師団を率いて討伐する 」
として、激怒、鎮圧を命じた。

天皇自身は、事件発生を聞いた時は呆然自失だったが、
木戸幸一内大臣秘書官、湯浅倉平宮内大臣、広幡忠隆侍従次長、一木喜徳郎枢密院議長等の
いわゆる宮中グループが先手を取り、事件発生後すぐに進言したことによって、
天皇は強硬な態度を決めたのだとも言われる。
湯浅宮内大臣、一木議長は磯部等が考えていた第二次襲撃目標に入ってはいたが、実行されず、
宮中グループ対策を軽視したことが、失敗に連なったといえよう。
村中は蹶起後に
「 陸軍の方針を迅速に決定しないと、
 宮中にある一木枢府議長や湯浅宮相、其の他閣僚等現状維持派が策動し、
 軍の意向を左右する様なことがあってはならぬ 」
と述べていたが、宮中グループはいち早く天皇を捕捉し、
現状維持 ・鎮圧の方向に天皇の意思をみちびいたのだった。・・・栗原も公判で 「 一木、湯浅により撃退されたものと確信して居ります 」 ( 公判調書 ) と述べている。
昭和天皇には、本来、ノブレス ・オブリージュ というような資質が欠けていたと言わざるをえない。・・・身分の高い者はそれに応じて果さねばならぬ社会的責任と義務を負う
加賀乙彦氏は 「 北一輝と青年将校たち 」 という小文の中で
「 青年将校たちは、天皇をとことんまで信じ、
 つまりは自分たちの思っているとおりに天皇が行動すると信じたが故に天皇に裏切られた。
もっと言えば、青年将校たちの想い画き理想化した天皇は、実際の天皇とかけへだってしまったために、
実際の天皇はかえって彼らの行動を理解出来ず、むしろ敵視する事態が生じたのである。
二 ・二六事件において多くの国民は蹶起部隊に対して同情的で、
青年将校たちを英雄視する風潮さえあったのに、
この英雄たちをもっとも激しく憎んだのは皮肉なことに青年将校が信じた当の天皇であった 」
と述べている。・・・現代史資料月報道 『 国家主義運動 (三) 付録 』( みすず書房 ・1974年 ) 3頁
・・
蹶起行動が挫折し、失敗がほぼあきらかになってからであるが、
二七日になり 「 本庄日記 」 によれば
「 此の日一時 川島陸相及び山下奉文少将が武官府に来て、
 行動将校一同は大臣官邸で自刃して罪を謝し、下士官以下は原隊に復帰させる。
就ては勅旨を賜り死出の光栄を与えられたい、
これ以外解決の手段は無いと述べ、
第一師団長も、部下の兵を討つに堪えないと言っていたと告げる。
本庄が天皇にその旨述べたところ、
天皇は非常な不満で、
自殺するならば勝手にしたらいい、そのようなものに勅使など以ての外だ
と 述べられ。
従来にない気色で厳責され、
直ちに鎮定するよう厳達せよ との命令を受けた 」
というのである。
また、天皇は、三月四日東京陸軍軍法会議設置に関する緊急勅令裁可後、本庄侍従武官長に
「 軍法会議の構成も決まったが、
 相澤中佐に対する裁判のように優柔な態度はかえって累を多くする。
この度の軍法会議の裁判長と判士には、正しい強い将校を任命しなければならぬ
と追打ちを掛けている。…本庄繁 『 本庄日記 』 ( 原書房 ・1967年 ) 283頁  松本一郎 『 二 ・二六事件裁判の研究 』 ( 緑蔭書房 ・1999年 )
当時、国民のおおくである農民、小商工業者たちが、極度の貧困困窮情態にあり、
それを招いた原因が、天皇を主とする政府の失政乃至無策にあった。
その困窮国民を救い日本国家を救わんとして蹶起した将校等の真情を全く理解せず
「 自殺するならば勝手にしたらいい、そのようなものに勅使など以ての外だ 」
と切り捨て、さらに軍法会議での重罰を示威したのだ。
蹶起将校たちは、逮捕後も法廷において自分たちの主張を訴え、国民に決起の真意を伝えようとした。
しかし密室裁判として進められた軍法会議の模様内容は、外からは、全くうかがうことが出来なかった。
そのためもあり、この事件を報じた外電が、表面的現象だけを伝えて核心に触れなかった中で、
ドイツの 『 フランクフルター。ツァイトゥング 』 が、比較的踏み込んだ報道をしている。
その中で
「 逮捕された反乱将校は、蜂起の後も、闘争継続の意志を明確にした。
 彼等は、運動を炊きつけ、それを深く国民に持ち込むため、宣伝の場とした法廷で裁かれることを欲した。
日本の深刻な危機が重要性を持つのは、
一四〇〇人の現役兵士が三日間にわたって反乱を貫徹したという事実によってのみでは無い。
それよりはるかに重要なのは、広範な国民各層と軍の大部分が、蜂起という手段はさておき、
その一般目的についてはこれを支持している、ということである
日本陸軍内における事態の展開についてはいくつもの理由を挙げることは出来るであろうが、
そのうちで最も重要なものの一つは、
ここ数年の間に日本を襲った社会的不安定である。
日本の工業と金融経済が予想外の好況を呈していた同じ時期に、日本の農業は最も深刻な危機を経験した。
日本国民の四八%は今日においてもなお農業で生活している
したがって農業危機は国民全体に、とりわけ農民と密接に結びついた軍に波及する。
しかし都市の労働者と多くの小ブルジョア層にしても産業界の好況から利益を得ているわけではない。
日本の国民大衆は非常に貧しい状態で狭い領域に押し込められている。
それに対し一握りの人間が日本の経済発展と対外膨張から物質的な利益を得ているに過ぎない
とした。 ( 一九三六年四月九日附 ) ・・・田嶋信夫訳 ( 『 二 ・二六事件とは何だったのか 』 ) 55頁

東京陸軍軍法会議裁判の不公正
東京陸軍軍法会議がおこなった裁判については、その公正さについて数々の疑問が投げかけられている。
緊急勅令による特設軍法会議の設置そのものが不自然であった。
二月二九日には自決者と山本又予備少尉以外の蹶起将校全員が逮捕され、
兵士たちは混乱なく原隊に復帰し叛乱は完全に鎮圧され治安は回復されていたのであるから、
前記のように審理を公開し弁護人や上告も認められる常設の第一師団軍法会議によって審理することも可能だったし、
特設軍法会議を設置するとしても、わずか二カ月後に開会された第六九回帝国議会まで待てないはずは無かったのである。
裁判一般についての不公平さについて、大谷啓次郎氏は
「 この裁判の苛酷さはすでに裁判官たちにも十分に自覚されていた
・・・陸軍大臣を長官としたこの軍法会議では、
 陸軍省の幕僚機関の圧力は無視することはできないことだった。
ここにも、この裁判には、たえざる黒い影の触手がつきまとっていた。
・・・たしかに、この裁判は暗黒裁判といわれるだけのものはあった。
組織から運営、さらにその結果としての処罰も含めて峻厳苛酷だった。
だから私もこの裁判を暗黒裁判ということにいささかも躊躇するものではない 」 とする。・・・大谷敬二郎 『 二 ・二六事件の謎 』 (柏書房 ・1967年 ) 264頁

北、西田の処刑については、
それは 「 政治的裁判 」であったとして、多くの人が疑問を投げかけている。
二 ・二六事件は客観的に見れば、
歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊の一部青年将校たちを中心に計画、蹶起したもので、
北や西田とは無関係であった。
西田はむしろそれを止めようとして栗原中尉や安藤大尉を説得したが、
その決意が固いのを知って企図実現に助力したもので、
謀議の中心でも行動を主動したものでもない。
北の場合は、西田から連絡を受けて事件勃発を知り、許可を与えたとか証人したというものではなく、
電話によって連絡を取ったに過ぎない。
村中孝次は
「 本事件は在京軍隊同志を中心として最小限の犠牲を以て国体破壊の国賊を誅殺せんとせしものなり。
 故に北 ・西田両氏にも何等關係なく
( 勿論、事前に某程度察知シタルベク且不肖より若干事実を語りしことあり、
 又電話にて連絡し北氏宅に参上せしことあるも、相談等のためにあらず ) 」 ( 「 続丹心録 ) とのべ、
安藤輝三も 「軍当局は北 ・西田を罪に陥れんがために無理に今回の行動に密接な関係をつけ、
両人を民主主義者となし極刑にせんと策しあり 」 ( 遺書 ) としている。
昭和一一年七月一一日に新井法務官が安田優に
「 北、西田は今度の事件には關係ないんだね。
 しかし殺すんだ。死刑は既定の方針だから已むを得ない 」 とのべたという。
・・・安部源基氏も 「 北 ・西田を首魁にして死刑にしたのは不当である 」としている 『 昭和動乱の真相 』 ( 中公文庫 ・2006年 ) 279頁

北輝次郎、西田税らの民間人を軍法会議で裁くのには基本的に問題があった。
本来なら、冒頭に記した陸軍刑法の罪以外の罪については、
民間人は一般の通常裁判所で裁判すべきものであった。
それを覆して軍法会議での裁判を可能にしたのは、東京陸軍軍法会議
を設置した緊急勅令第二一号の第五条であった。
北、西田の裁判での裁判長だった吉田悳氏が、判士を勤めた藤室良輔大佐にあてた書簡の中で
「 事件前の被告の思想問題はどんなに矯激なものであって、事件に影響があったとしても、
 それはつもるところ情状に属するものである。基本刑決定の要素にはならない。
その上、三月事件、十月事件は不問に附している。
その両事件関係者も現存している状態に於ては、特に軍法会議が常人を審理する場合、
この情状は大局上利害を軽量して不問に附するのがよいと認める。
それゆえ彼等 ( 北、西田 ) の事件関係行為のみをとらえ、犯罪の軽重を観察するを要する。
したがってその行為は首魁の利敵行為である。
それはすなわち普通刑法の従犯の立場である利敵であり、
したがって刑は普通の見解では、主犯よりも軽減さるべきである 」
と述べていた。
吉田悳裁判長は、日記に
「 八月十一日、北、西田に対する最期の合議。
 過去半歳に亘る努力も空しく、大勢遂に目的を達するに至らず。
無念至極なるも今や如何ともするなし。
それも天意とすれば致し方なし 」
と書いた。・・・大谷敬二郎 『 二 ・二六事件の謎 』 (柏書房 ・1967年 )

加賀乙彦氏は
「 時期尚早をとなえて、血気にはやる青年将校たちと対立していた北一輝が、
 ひとたび彼らが蹶起すると、それを肯定し、軍事法廷においても弁解一つ言わなかった態度には、
人の師となる人物の深い用意が認められる。
自分を信じて立った若者たちに冷たい拒絶しか与えられぬ天皇とちがい、
北には思想の帝王となるべき度量がある 」
と述べている。

蹶起将校に資金を出し、その行動に賛同する姿勢を示し、
蹶起将校たちからも最も嘱望された巨頭的存在であり、
事件が起こって蹶起将校側が有利と見られた時期には、それを支援するかのような態度をとりながら、
天皇が弾圧の態度だと知るや、豹変したように冷淡な態度をとった真崎甚三郎大将に対する無罪判決は、
北、西田両氏に対する死刑判決と真に対照的である。
二月二六日、眞﨑は陸相官邸を出て宮城に入る間に伏見宮邸を訪れたが、
彼に同行した加藤寛治大将は、( 真崎が )今朝来の事件の概要を申上げたのち
「 事ここに至りましては、最早、彼等の志をいかして昭和維新の御断行を仰ぐより外に途はありませぬ。
 速やかに強力なる内閣を組織し事態の収拾をはかると共に、庶政を一新しなければなりませぬ 」
とはっきりのべていたと証言している。・・・加藤寛治聞取書  大谷敬二郎 『 二 ・二六事件の謎 』 (柏書房 ・1967年 )  291頁

事件後の推移
蹶起将校たちが 「 天皇陛下万歳 」 を唱えて刑場の露と消えたあと、
軍の統制派は
皇道派と見られる人々を軍の中枢から排除し、軍の実権を掌握し、
二 ・二六事件を背景にして軍の権力を拡大していった。
それは蹶起将校たちが願っていた方向とは異なるものだった。
それなのに、
二 ・二六事件を起した将校たちが
軍の権限拡大のために立ち上がったかのように思われ、
そう書かれていることは心外に違いない。
村中孝次は、七月一五日の 「 続丹心録 」 の冒頭に
「 話によれば、
 陸軍は本事件を利用して昭和一五年度迄の厖大軍事予算を成立せしめたりと。
而して不肖に好意を有する一参謀将校の言ふに
『 君等は勝った。君等の精神は生きた 』 と。
不肖等は軍事費の爲に剣を執りしにあらず。
陸軍の立場をよくせんが為に戦ひしにあらず。
農民の為なり。庶民のためなり。救世護国に為に戦ひしなり 」
と書いている。・・・河野司編 『 二 ・二六事件 獄中手記遺書 』 190頁

「 天皇 」 を理想的存在として規定した大日本帝国憲法を起草した伊藤博文をはじめ、
明治維新を戦った志士 ・元勲たちは、実感として現実の天皇が微力であり、
無力であることを熟知していたに相違ない。
しかし、あたらしく日本を統一し強力な国家としていくためには日本国民の意思を統合する存在が必要であり、
その象徴として 「 理想的な天皇 」 を据える必要を感じた。
その為に憲法にそのように規定し、国民がそれを信ずるように指導教育し、
「 現実の天皇 」 を「 理想的な天皇 」 に近づけるために、「 現実の天皇 」 の周囲に、
天皇を輔弼という形で指導する元老重臣を、正式の議会、内閣とは別に設置した。
明治の元勲が生きている間はそれが機能したが、その人々が去り、時がたつに従って、
制度だけが一人歩きし、「 現実の天皇 」 が、あたかもそのまま 「 理想的な天皇 」 であるかのように錯覚され、
「 現実の天皇 」 を 「理想的な天皇 」 に導くべき元老 ・重臣が堕落し、惰性的環境に馴れ、
天皇自体もみずから当然 「 理想的な天皇 」 であるかのように錯覚し、
周囲にもそれに阿る体制が出来上がった。
明治、大正、昭和の時期を通じ、貨幣を中心とした市場経済の導入による近代化により、
商工業は発達したが、反面、農村は貧しくなり、農民が貧困化した。
政府がそれに対する適切な政策 ・措置をとらなかったために、社会の格差が増大し、社会の矛盾が深刻化した。
昭和一一年当時の日本の現実は、
貴族制による身分的格差、極端な被差別部落の存在、巨大財閥の経済独占による著しい経済的格差、
農村の疲弊、女工哀史ニ見られる極端な搾取労働、人身売買による売春制度、
など改革を要する問題が山積みされていたにも拘わらず、特権階級はその特権の座ら愉悦の日を過し、
「 合法的にこのような逆境を変革しようとしても、到底その目的を果しえない 」 という状態にあった。
法の頂点に 「 現実の天皇 」 は位置していたのであった。
蹶起将校たちは、法律を超えた法の要請に従って行動したと言えるかもしれない。
「 昭和維新の歌 」 は、いみじくも 「 正義に結ぶますらおが、胸裡百万兵足りて 」 と、歌っている正義とは、
まさに、法律を超えた法にほかならない。
或いは、「 それは、甘い考えで、部下の下士官兵までも巻き添えにして軍紀を紊った行為はやはり許されない 」
と考える人も少なくはあるまい。
しかし、そういう人たちは、日頃の生活に若干の不満はあっても、まずまずの平穏に生活出来ている人たち、
つまり二 ・二六事件当時の特権階級に近い生活環境が保証された状態にある人たちであろう。
しかし、自分は勿論子どもたちの明日の食事にも困り、
一粒の米も麦もなく、飢えに直面し、愛児を人買いの手に委ねなければならぬほどになり、
生活保護の制度も、救済 ・苦情申立ての方法もなく、
通常の合法的な方法によっては事態の改善が全く不可能な困窮情態に久しく置かれていたら、
貴方は黙ってその状態を甘受し続けるだろうか。
忠誠なら、それは農民一揆という形で現れただろうが、法律制度、警察制度が整備された下で、
もし、そのような極端な困窮情態が放置され、為政者がその改善施策を怠るならば、
国民は決して黙ってはいないだろう。
世界人権宣言は、その前文で、
人権の無視および軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし、
 言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望と宣言された 」
「 人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、
 法の支配下によって人権を保護することが肝要である 」
としている。

私は、
この二 ・二六事件の判決と資料、
処刑された青年将校たちの手記 ・遺書を読み、
蹶起の前の底知れぬ苦悩、
処刑された時に彼等が唱えた 「 天皇陛下万歳 」 の声、
そして他方、
「 自殺するならば勝手にしたらいい 」
「 軍法会議の裁判長と判士には強い将校を任命せよ 」
との冷厳な言葉を思う時、
冥い悲しみと深い憤怒の思いを禁じえない。
人々が、「 昭和維新の歌 」 が言う永劫の眠り、呪縛から醒める日は、何時なのだろうか。
この小稿を、二 ・二六事件で亡くなった全ての人々の霊に捧げる。
・・・宮崎繁樹
論説
大日本帝国憲法下における叛乱 ( 二 ・二六事件 )
-法律の仮面を被った不法と法律を超える法-       ・・・から