あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

村中孝次 「 カイジョウロウカク みたいなものだ 」

2018年03月03日 06時00分41秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

< 昭和九年 >
十月二十八日であった。
午後三時頃私が西田をたずねると、
大ぜいの先客があって応接間はにぎやかであった。
西田は二、三名の士官候補生と磯部と交えて、深刻そうに話していた。
士官候補生の中に、新顔が一人肩をいからしているのが目にうつった。
私は廊下のすみに陣どった安藤らのグループの中にはいった。
「大蔵さん、野中大尉です」
安藤が紹介した。
安藤に紹介されるまでもなく、
野中は一期先輩の三十六期生であるから、私はもちろん顔見知りである。
だが、いままで一度も話し合ったことはなかった。
「 野中さんがここに顔を出すとは珍しいことですね 」
野中大尉は元来おとなしい人で、会合と名のつくものにはほとんど顔を出したことはなかった。
それがこともあろうに軍当局から最も危険視されている西田税の家に、
のこのこ顔を出すとはびっくりしない方が無理だ。
それほど野中の出現は珍しかった。
野中が西田の家に顔を出したのはこのときが初めてで、また最後であった。
野中と安藤と私の三人で話し込んでいるとき、
西田と新顔の士官候補生との対話が私の耳に飛び込んできた。
「 西田さんはこの堂々たる邸宅を構えて、豪奢な生活をしているようですが、
その費用はどこから出ていますか 」
私は、生意気な候補生だと思った。
だが同時に気概のありそうな奴だとも思って、好奇心をもって眺めた。
「 あの士官候補生は何者だ? 」
私は、安藤にきいた。
「 私もさっききいたばかりですが、佐藤という候補生だそうです。
武藤の話によると青島戦争のときの有名な軍神、佐藤聯隊長のわすれがたみだそうです 」
「 なるほどそうか・・・・」
私は、彼の生意気な態度にむしろ好感が持てた。
佐藤の直情径行的なぶつかり方な、西田は少々もてあましぎみであった。
話のころあいを見はからって、私は佐藤に近づいた。
「 佐藤候補生といったね。オレは大蔵大尉だ。おとうさんに負けんようがんばるんだなァ 」
「 これをやりますか 」
佐藤は、いきなり拳銃を撃つまねをしていった。

 
群馬、栃木、埼玉 特別大演習

秋季特別大演習が終わって東京に帰ったのは、十一月のなかばごろてあった。

東京に帰ると、私は第一聯隊隊付から再び戸山学校の勤務に復帰した。
だがこの間、
近衛師団を除いて在京部隊の大半が大演習参加のため東京を留守にしていたとき、
東京では大変なことが起きかかっていたのである。 
  村中孝次 
東京に帰って間もなく、私は村中大尉を訪ねた。
留守中の状況の変化について話し合いたかったためである。
「 大して変化はないが、ちょっと気にかかることがあるんだ・・・・・・」
と、村中は考え込んだ。
「 貴様らが大演習に出たあと、武藤与一候補生が佐藤勝郎という士官候補生をつれて日曜ごとにやってきた。
青年将校が蹶起しなければ、士官候補生だけででも起つというんだ 」
「 それで、貴様、何と答えたんだ ? 」
「 やる時期がくればわれわれが起つから、おまえらは心配せんでもいい、
と いっても佐藤はなかなかきかないんだ 」
「 それでどうしたんだ 」
「 だれだれがどこどこを襲撃するという風に、きわめて常識的なことを並べて説明したんだ。
まあいわば カイジョウロウカクみたいなものだ 」
「 なんだそのカイジョウロウカクとは 」
村中は、火ばしをとって火鉢の中の灰に字を書きながら、
「 灰の上の楼閣という意味だ。
佐藤はオレがこうやって灰の上に字を書きながら説明するのを熱心にきいていたんだ 」
「 佐藤は一回オレも会ったが、よさそうな候補生じゃないか 」

私いま村中の話をききながら、
西田の応接間で一回会ったことのある佐藤候補生の異常な態度を思い出していた。
「 貴様が会って知っているように、一見覇気があってよさそうに見えるが、
どうも武藤や他の士官候補生と違って、時期や襲撃計画や参加将校の氏名を、
しつこくききすぎるんだ。だから少々心配になっているところだ 」
「 そう気にやまんでもいいんじゃないか、それにしても留守中大変だったなあ 」
私は留守中の村中の気苦労を謝して別れた。

たまたま四国から小川三郎大尉、江藤五郎中尉、
金沢から市川芳男少尉も上京していたので、
これを機会に大演習の慰労の意味もかねて、新宿宝亭 で一夕の宴を催すことになった。
それは、十一月十七日ごろであったと記憶している。
この席には千葉の歩兵学校の学生も参加することになって、総勢三十名にふくれ上がった。
先輩では早淵四郎中佐、冨永良男中佐、満井佐吉中佐などが顔を出した。
宴会のはじまるまえであった。数カ所のグループに分かれて雑談にふけっていたとき、
「われわれの頭上に岡田啓介輩の書が掲げてあるとはけしからん」
栗原中尉が、欄間を見上げてどなった。
見るとなるほど、四字の草書に啓介と署名入りの横領が、金箔の表装で掲げてあった。
「 うまい字だよ 」 と、いうものもあった。
「 いや、けしからん 」
栗原中尉は、騎虎の勢い、立ち上がったかと思うと、額を欄間から引きずり下して廊下にほうり出した。
女中が周章てて、
大事なものを破られては大変と、廊下に持ち去って注進に及んだ。
これはあとからわかったことであるが、女中が注進に及んだとき、
たまたまそこに憲兵が居合せていて、いち早くこの慰労宴のことが誇大に報告された。
それにもう一つ、
佐藤候補生のスパイによる辻政信大尉への報告とがからみ合った結果が、
十一月二十日事件という許し難い茶番劇、
そしてある意味では悲劇となった事件のでっち上げられるきっかけとなったのである。

十一月二十日は火曜日であった。
私はいつもの通り学校に行き、いつもの通り学生教育をして、何の変哲もなく一日の勤務を終えて帰宅した。
夜八時ごろ、私は西田の家に行って、
この日村中大尉、磯部一等主計大尉、士官学校予科区隊長片岡太郎中尉
及び士官候補生の佐々木貞雄、荒川、次木、武藤、佐藤の五名が検挙されたのを初めて知った。
西田もどういう理由で検挙されたのかわかっていなかったし、全く五里霧中であった。
しかしその後の調査によって、遂次事件の内容が明らかになっていった。
当時士官学校本科の中隊長であった辻政信大尉が、
教え子である佐藤勝郎候補生をこともあろうにスパイに使って、われわれ青年将校の動向を探らしめて、
弾圧覆滅せんとした陰謀であることを知るに及んで、われわれの怒りは頂点に達した。


大蔵栄一 
二・二六事件への挽歌 から


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