あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

行動記 ・ 第十 「 戒嚴令を布いて斬るのだなあ 」

2017年06月16日 07時49分07秒 | 磯部淺一 ・ 行動記


磯部浅一 
第十
同じく二月二十一日の夜、
森氏を訪ね、先日以來の牧野の居場所をたずねると、
湯河原の伊藤屋旅館にいるとの事だ。
余は平然をよそほっていたが、内心飛び立つ程にうれしかった。
この夜十一時頃、
安藤を訪ねて、この數日間の情況について語って、
不安なく決行して呉れる様に話した。
山口大尉の決心処置、眞崎、本庄、清浦等の工作
竝びに豊橋部隊の情況等がその主なるものだ。
二十二日の早朝、
再び安藤を訪ねて決心を促したら、
磯部安心して呉れ、
俺はヤル、
ほんとに安心して呉れ

と 例の如くに簡單に返事をして呉れた。
本日の午後四時には、
野中大尉の宅で村中と余と三人會ふ事になってゐるので、
定刻に四谷の野中宅に行く。
村中は既に來てゐた。
野中大尉は自筆の決意書を示して呉れた。
立派なものだ。
大丈夫の意気、筆端に燃える様だ。
この文章を示しながら 野中大尉曰く、
「今吾々が不義を打たなかったならば、吾々に天誅が下ります」 と。
嗚呼 何たる崇嚴な決意ぞ。
村中も余と同感らしかった。
野中大尉の決意書は村中が之を骨子として、所謂 蹶起趣意書 を作ったのだ。
原文は野中氏の人格、個性がハッキリとした所の大文章であった。
野中氏は十五日より二十二日の午前仲迄、週番司令として服務し、
自分の週番中に決行すると云って安藤を叱った程であったから、
其の決意も實に牢固としてゐた。

これより先、
十五日、夜、
安藤と共に山下奉文を訪ねた。
歩三の靑年將校は
山下から、
統帥權干犯者は
「戒嚴令を布いて斬るのだなあ」
と の話をきき、
非常に元氣づいてゐた。
野中大尉の部下たる常盤少尉の如きは十六、七日頃、
警視廳襲撃の豫行演習をやった事があって、
歩三は警視廳から仁義をきられた様なうわさもあった。
野中、安藤、栗原、河野、中橋、村中等、同志の決心はシッカリとキマッタので、
二十二日の夜は
栗原宅に河野、中橋、栗、村、余の五人が會合して、
襲撃の目標、決行日時、兵力部署等を決定した。
襲撃目標は五 ・一五以來、
同志の間に常識化してゐたから大した問題にならず、簡單に決定した。
唯 世間のわけを知らぬ者共から見て、
渡邊と高橋は問題になると思ふから、理由を記しておく。
高橋は
五 ・一五以來、維新反對勢力として上層財界人の人気を受けてゐた。
その上、彼は參謀本部廢止論なぞを唱へ、
昨冬豫算問題の時には、軍部に對して反對的言辭をさえ發している。
又、重臣、元老なき後の重臣でもある。
渡邊は
同志將校を彈壓したばかりでなく、
三長官の一人として、吾人の行動に反對して彈壓しさうな人物の筆頭だ。
天皇機關説の軍部に於ける本尊だ。
玆に 特に附記せねばならぬ事は、
林銑十郎を何故やらなかったかである。
それは第二次的にやると云ふことと、
林はすでに永田事件でみそをつけていて一般の人氣もないし、
單なる軍事參議官にすぎぬから
大して問題にせぬでもよからふ位ひに極くカンタンに考へてしまったからだ。
名分の上から言ふと、
統帥權干犯の首カイたる林は、
どうしても討たねばならぬのであった。


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