あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 今夜、秩父宮もご帰京になる。弘前、青森の部隊も来ることになっている」

2019年07月16日 14時20分17秒 | 安藤部隊


単身、蹶起部隊に乗り込む

(27日)  ・・・正午過ぎに「電通 」を徒歩で出かけた。
・・・冷たい雪の道をすべりながら、私は議事堂の方向に向って急いだ。

「止まれ! だれか?」
鋭い誰何の声と共に、白だすきの歩哨兵が銃剣を擬して寄ってくる。
「 香港から帰った宇多中尉だ。安藤大尉にいってくれ ! 」
私は恐るる色もなく答えた。
私の態度に圧せられたものか、歩哨は ハッ! と道を開いてくれた。
こうして二度、三度、私は内務省 ( いまの人事院ビル ) の坂を上って議事堂に近づいた。
そのころまだ建築中の国会議事堂は板べい囲いで、
その板べいの上から青竹につるした 「 尊皇討奸 」 の 白いノボリが一旒ぶら下がっていた。
中では何やら訓示の声がする。
いまの参議院西通用門の口にまわってのぞいて見ると、
安藤輝三大尉が出来かけの石段の上に立って
部下中隊に訓示と命令を達しているところであった。
時刻はたしか (27日) 午後三時ごろであった。
「 小藤大佐の指揮下に入り、中隊は今より赤坂幸楽に宿営せんとす・・・・」
よくとおる安藤の声がハッキリ聞こえてくる。

後から知ったことであるが、
これよりさき二十六日午後三時、
香椎東京警備司令官の戦時警備令下令で、
蹶起部隊はこの時警備部隊に編入されて、第一師団歩兵第一聯隊長小藤大佐の命令を受けていたのである。
私は安藤が命令下達を終わるまでと思って、門の外にたたずんでいた。
やがて安藤中隊長を先頭に、彼の中隊はラッパを吹きながら外に出て来た。
私が進み寄ろうとすると、
「 きさま! だれだ、さっきからウロウロして胡散な奴だッ ! 」
声と共に一丈五尺もある青竹が私の頭に飛んできた。
安藤中隊の若い曹長が、私をウロンな奴と睨んで追い払いにかかったのである。
真青な顔をして眼を吊り上げている。
部下の手前もあろう。
気の立っているこの下士官を相手に、ここで話をするよりも後でと思って
なぐられた頭を撫でながら私は温和しく隊列から遠ざかった。
安藤中隊は粛々として首相官邸の坂を山王下へ下って行った。

安藤大尉と会う
・・・赤坂幸楽の門に入って行った。
門の両側には軽機を据えて雪の中に二等兵が伏射ちの姿勢で構えていた。
私はツカツカと進むと、
「 安藤中隊長の同期生宇多中尉が、けさ香港から帰ったと伝えてくれ 」
と申し出た。
しばらく待たされる間もなく伍長が迎えに出てきた。
どうしたことか、そのとき二等兵の一人が門内で泣いていたことを今でも思い出す。
幸楽の中は大変だった。
だがそれは暗い恐怖にみちたなうなものではなく、
秋季演習か大演習の後で我々がかつて大料亭に宿営したときのような混雑であった。
前垂れがけの女中が大勢、牛肉の大皿を持って右往左往しているという風景であった。
私は玄関右わきの応接室に通されて、何ともいえぬ感慨でそれを見やっていると、
「 よお、帰ったか?」
と 安藤が軍装のままでヌッと入って来た。
軍刀は脱しているが、双眼鏡、拳銃をつけて昨暁事件遂行時のそのままの服装である。
ものおだやかな安藤の眼が、さすがに少し興奮の色を浮べて、赤銅ブチのメガネの中から私を見つめた。
そしてイスにかけた。
「 どうしたんだ 」
われながらかすれた声で私が尋ねると、
「 いや、とうとうやった。仕方がなかったんんだ・・・・・・」
沈痛な語調で安藤はボソリといった。
「 それで、どうするんだ?貴様らの今後は ? 」
「 どうもこうもあるもんか。おれたちは満州の守備に行く。後はチャンとなるだろう ・・・」
安藤大尉のことばには、嘘、いつわりも誇張もミジンも感じられなかった。
彼は自分たちの行動が、大御心にそい得ていることを確信している風で、
熟慮断行の後の落着きをもって、
「 こん夜、秩父宮もご帰京になる。弘前、青森の部隊も来ることになっている・・・・」
と、ことば少なに模様を語るのであった。
秩父少佐宮殿下は、
当時弘前連隊の大隊長で歩三の時代にはいわば安藤らの教官にもなられ、
かねて安藤大尉がもっとも敬慕し、かつ信頼をいだいている直宮さまであった。
私も安藤も、多く語り得なかったが、
私は安藤大尉のことばの奥から、事は五・一五の比でなく、もっと、もっと大きなものであることを感じとった。
そこへ、どやどやと一団の背広姿の会社員風の人たちが門内を入って来た。
見ると棒に通した四斗だるの菰かぶりをしかも二本まで担いでいる。
安藤大尉が教えた幹部候補生の連中が慰労のため担ぎこんだというのである。

私は安藤大尉と別れて山王下のまちへ出た。
日はトップリと暮れて、電車も自動車も通っていない。
町のある角では四斗だるの鏡が抜かれ、民衆が蹶起部隊の下士官兵を慰労していた。
白だすきを十文字に綾どった下士官が、たるの上に上がって演説をぶつと、
民衆は一斉に拍手かっさいした。
革命と
はこんなものか。
割り切れなぬ気持ちで私は蹶起部隊占拠地域を、あちこちとさまよった。

 

 
歯ぎしりする村中

この後の二時間近くを、私はどこでどう過したかを今となっては覚えていない。
二十七日の夜九時ごろ、
鉄道大臣官舎 ( 伊藤公の銅像のある西方約百メートル ) の 前で、バッタリ村中孝次に会った。
彼は既に免官になっていたのだが、歩兵大尉の軍服を着て小柄な身体をマントに包んでいた。
兵隊を一人連れていたが巡察の途中だという。
あいさつもぬきにして、村中が私を見るなり、
「 おい、牧野 ( 伸顕伯 ) は どうした?生きたか死んだか ? 」
と 問いかけて来た。
牧野が無事脱出したことは、昼間見た社の情景で知ってはいたが
村中のこの決死の形相を見て私は事実を告げるわけにも行かなくなった。
といって、嘘もつけない。
モゴモゴ口籠っている私を見ると、
鋭敏な彼は早くも事の失敗を察知して、歯がみをして口惜しがった。
小さな体を震わして、
「 牧野を逃がしたのかウーム・・・・・失敗か 」
東北弁で歯ぎしりしながら語る村中のことばはよく聞きとれなかったが、
こうしている間ももどかしいという風に、
私の手をグッと握ると後はもう何もいわず、
鉄道大臣官舎の門の中へ消えて行った。
後ろ姿は妙に寂しかった。
伊藤公の銅像の横を通って、陸相官邸の前に出たが、
ここの歩哨はガンとして私を通さない。
あきらめて、とにかく社へ帰ろうと私はまた外務省横の坂道を日比谷公園に向かって下って行った。
すると、どうだろう、
公園の広場には、すでに警備部隊の十五榴野重の陣地ができて、
しかもその砲口は首相官邸に向けられている。
何が何だかわからない
・・・やっぱり蹶起部隊を叛徒と見て鎮圧するのか。
そうなれば皇軍相撃 同じ市ヶ谷台の士官学校に外敵と戦うことを教えられて育った者が、
しかも同じく陛下の軍隊をひきつれて血を流し、殺し合わねばならぬ事態が起こる。
これは一体どうしたことだ。
理非曲直よりも、同じ軍人であった私にはそのことばかりか゜重大に思われて、
考えはただこの一点に如何にして皇軍相撃を未然に防止すべきかに凝集してしまった。
もはや私は観客を旨とする冷静なる新聞記者ではなかった。
といってこのオレに何ができるというのだ?
私は独り涙を流しながら歩いた。
そこ、ここの歩哨線で私はとがめられた。
それをどうしてくぐり抜けたかも、もう覚えていない。
社に帰ったのは午前一時ごろであったろう。

目撃者が語る昭和史  第4巻  2.26事件  
新人物往来者昭和31(1956年)年1月
第五章 記者たちの見た二・二六事件
「二・二六反乱将校と涙の決別」  当時電通記者 宇多武次 著
昭和32年(1957年)1月


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