あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

法務官訊問 『 被告人ガ入手シタ如何ナル物ガ殺害決意ニ刺戟ヲ与ヘタルカ 』

2018年05月27日 19時00分06秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


相澤三郎

六回被告人尋問調書
被告人  相澤三郎
右ノ者ニ對スル殺人持兇器上官暴行傷害被告事件ニ附
昭和十年八月二十六日東京衛戍刑務所ニ於テ豫審官陸軍法務官岡田痴一ハ
陸軍録事勝井國太郎立會ノ上前回ニ引續キ右被告人ニ對シ訊問ヲ爲スコト左ノ如シ
一、 氏名ハ
相澤三郎デアリマス。

二、 被告人ガ國家革新運動ニ關係シ始メタノハ何時頃カラカ
昭和六年八月頃カラ青森ニ在勤時代カラデアリマす。

三、 如何ナル動機カラ國家革新運動ニ從事シタカ
私ハ豫テ皇室中心主義ノ思想ヲ懐イテ居リマシタ処、
青森ニハ自分ト同思想ノ大岸大尉 ( 當時中尉 ) 亀井英男大尉 ( 當時中尉 )
故遠藤幸道大尉 ( 當時少尉 ) 等ガ居リマシタノデ、之等ノ同志ノ者ト時事問題ヲ檢討シ、
當時ノ世相ガ社會組織ニ於テモ經濟組織ニ於テモ欠陥ガ多ク人心浮薄ニ傾キ、
赤化ノ思想瀰浸シ居ルモノト認メ、
之ヲ革新シテ我日本國民ヲシテ皇室中心主義ヲ徹底セシメン事ヲ目的トシテ、
前述ノ同志ノ者竝將校中有志ノ者ト共ニ國家革新ニ對スル研究等ヲ開キ同志ヲ獲得スルコトニ努メマシタ。

四、 當時國家革新ニ對スル具體的方法ヲ研究シタカ
具體的方法トシテハ十分ナル研究ハ遂ゲテ居マセンデシタガ、
合法的ノ漸進主義デハ到底革新ヲ遂ゲル事ハ難シイカラ、
場合ニ依テハ直接行動ニ出ナケレバナラヌト云フ考ヲ持ツテ居リマシタ。

五、 何カ具體的計畫ヲヤッタカ
我々青森同志間ニ於テハ何等ノ計畫モ致シマセヌデシタガ、同年十月十八日ト思ヒマスガ、
十月事件ノ時私ハ東京カラ上京セヨトノ電報ヲ受ケテ上京致シマシタガ、
何等ノ會合ニモ出席セズシテ同日正午頃歸青ノ途ニ就キマシタ事ガアリマス。

六、 其後ノ狀況ハ
同年十二月末カラ翌七年三月末迄歩兵學校ニ召集サレテ千葉ニ來マシタガ、
其間ニ千葉ノ下宿カラ度々上京シマシテ、
西田、大蔵、村中、佐藤、香田、安藤、菅波、海軍側ノ古賀、中村等ト相知リ
國家革新運動ニ附テ相語ラヒ研究致シマシタ。

七、 右期間中ニ何カ具體的ナ計畫ヲシタカ
何モ具體的計畫ハ致シマセヌ。

八、 被告人ハ昭和七年五月十五日ノ事件ニ附テ之ヲ豫知シテ居ッタカ
海軍側ノ將校ガ何カ具體的計畫ヲ實現スルノデハナイカト云フ豫想ハ少シアリマシタガ、
陸軍ノ將校ガ之ニ參加スル事ハ全然ナイト思ツテ居リマシタ。

九、 五、一五事件ヲ知ツテ如何ナル行動ニ出タカ
青森デ右事件ヲ ラヂオデ知ツテ上京ヲ志シ隊長ノ許可ヲ得マシタガ、
上京途中盛岡ニ於テ留守隊司令官ノ命令ニ依リ抑止セラレ其儘歸隊致シマシタ。

一〇、 其時上京セントシタ目的ハ
折角海軍側ガ事ヲ起シ、
純眞ナル士官候補生ガ之ニ參加シテ斯様ナ革新ノ端緒ヲ作ツタノデアルカラ、
此ノ機會ニ乗ジ軍政ヲ布イテ國家革新ノ第一歩ヲ進メル事ニ微力ヲ盡ソウト思ヒ、
同志ト畫策スル心算デ上京セントシタノデアリマスガ、
前述ノ如ク中途カラ歸隊ノ已ムナキニ至ツタノデアリマス。

一一、 デハ青森ニ歸隊シテ何カ計畫シタカ
在京ノ同志ニ手紙位デ前述ノ自分ノ意思ヲ傳ヘマシタガ、
同志ノ者カラハ何レモ此際自重スベキモノダト云フテ來マシタノデ
私ハ何事モ計畫シマセヌデシタ。

一二、 昭和七年八月秋田ニ轉任シテカラ革新運動ニ附テナンカ計畫シタカ
秋田在勤中ハ私ハ敎育主任デ隊務ガ非常ニ多忙デアツタ爲、
餘暇ガ無ク且當時留守隊デアツテ所謂私ト志ヲ同フスル様ナ友達モ居ナカツタノデ何等ノ計畫モシマセヌデシタ。

一三、 秋田勤務時代ニ度々上京シテ同志ト語ッタカ
二、三回上京シタト思ヒマスガ、何レモ仙台ノ母ヲ訪ネタ序デアリマシテ、
同志ノ者ト會ヒマシタガ別ニ之ト云フ具體的ナ計畫ヲシタ事ハアリマセヌ。

一四、 昭和八年八月福山ニ轉任シテ以後二年間ニ何回位上京シタト記憶シテ居ルカ
六、七回上京シタト思ヒマス。

一五、 上京ハ被告人ノ發意ニ依ルノカ、或ハ在京ノ同志カラノ勧誘ニ依ルノカ
何レモ自分ノ發意デ、在京ノ者カラ勧誘ヲ受ケタ事ハ一度モアリマセヌ。

一六、 福山ヘ轉任シテ以後 被告人ノ國家革新運動ニ對スル見解範囲ニ多少ノ變化ガ生ジタノデハナイカ
國家革新ノ目的ニ附テハ變化ハアリマセヌガ、
最近ニ至リマシテハ國家革新ヲ遂ゲルニハ
先ヅ第一ニ皇軍ガ國體原理ニ基キ一致結束シテ行かネバナラヌノニ、
現時ノ皇軍 ( 陸軍 ) ノ狀勢ヲ見ルニ
甚シク其ノ皇基ヲ恢弘スル本分ヲ没却シテ根柢ノナイ形式ノ下ニ 陸軍ヲ骨抜キニスル様ナ狀態デアルカラ、
之ヲ根本ヨリ立直サナケレバナラヌト考ヘルニ至ツタノデアリマス。

一七、 被告人ハ先ニ福山ヨリ六、七回上京しタト云フガ其ノ時期如何
福山カラ上京シタノハ
第一回ハ昭和八年十二月暮カラ上京シマシテ翌九年正月初メニ歸ル心算デアリマシタガ、
中耳炎ニ罹リ慶応病院ニ入院シ、同年五月退院歸福シマシタ。
第二回ハ同年六月七日仙台ノ母ガ死亡シタノデ歸郷シ、確カ同月十九日歸福シタト思ヒマスガ、
其際東京ニ立寄リ一泊シタト思ヒマス。
第三回ハ同年十一月初頃 ( 十日頃 ) 父ノ命日デ法事ヤ墓參スル爲仙台ニ歸リマシテ、
歸途東京ニ立寄リ一泊シタカト思ヒマス。
第四回ハ同年ノ暮年末年始ノ休暇デ仙台ノ土地ノ整理ト墓參ノ爲歸リ、
確カ翌十年一月五日頃歸福シタト思ひマスガ、途中東京ニ立寄リ一泊シタ様ニ思ヒマス。
第五回ハ本年三月中旬頃家族同伴ノ上墓參ノ爲仙台ニ
行キ、同月下旬歸福シマシタガ、
途中東京ニ立寄リ 二泊位シタト思ヒマス。
第六回ハ本年四月頃ト思ヒマスガ土地ノ整理デ歸仙シマシタ時、東京ニ立寄リ一泊シタト思ヒマス。
第七回ハ本年六月初母命日デ佛事ノ爲歸仙シタ際、東京デ一泊シマシタ。
第八回ハ本年七月十七日上京シ同月二十一日歸福シマシタ。
此事ハ前回ニ申述ベタ通リデアリマス。
其次ハ今回ノ上京デアリマス。

一八、 上京ノ際ハ何処デ泊ッタカ
本年七月上京ノ際ハ偕行社デ泊リマシタガ、其他ハ西田宅カ大蔵宅デ泊リマシタガ、
泊ツタ日時ハ記憶シテ居リマセヌ。

一九、 被告人ハ轉任ヲ知ツテ後、臺灣ヘ挨拶狀ヲ出シタリ門司ノ宿屋ヘ宿泊依頼ノ手紙ヲ出シタリシタ事ガアルカ
出シマシタ。

二〇、 夫レ等ノ手紙ヲ出シタノハ何日頃カ
八月六、七日頃ト記憶シマス

二一、 其頃ハ既ニ上京シ永田局長ヲ殺害ノ考ヲ有シテ居タ時デハナイカ
左様デアリマス。

二二、 上京シテ殺害行爲ヲスレバ、臺灣ヘノ赴任ハ出来ナイ譯デ、挨拶狀ヤ宿泊依頼ノ手紙ヲ出ス必要ナイ様ニ思ハレルガ、
  當時被告人ノ心理狀態ハ如何ナリシヤ
私ノ決意ヲ外部カラ察知セラレルノヲ恐レテ荷物ヲ發送シ挨拶狀ヲ出シ宿泊依頼シタリシタノデハナクテ、
梱包發送等ハ轉任ニ伴フ事項デアツテ、
聯隊ヨリ出發期日、乗船日、荷物發送日等夫々要求ガアリマシタノデ當然準備シナケレバナラヌ事デアリ、
又挨拶狀等を出シタノハ、當時既ニ私ガ上京殺害ノ目的ヲ遂ゲ得ザル場合ニハ、
已ム無ク期日内ニ渡臺シナケレバナラヌ事ニモナリマスカラ、轉任ニ伴フ普通ノ行事ヲ終リマシタ譯デ、
之等ノ事ヲ爲シタ後ニ私ノ殺害意思ガ當時不確定デアツタト云フ證明ニハナリマセヌ。

二三、 被告人ガ入手シタ文章 ( 所謂怪文書 ) 中、如何ナル物ガ今回被告人ノ殺害決意ニ對シテ刺戟ヲ与ヘタモノカ
軍閥重臣閥の大逆不逞  ト 題スルモノ、
村中、磯部ノ書イタ  敎育總監更迭事情 ト題スルモノ、
及同人等ノ書イタ 粛軍ニ關スル意見書 ノ三文書ガ、
私ノ
今回ノ殺害決意ニ對シテ相當ノ刺戟ヲ与ヘタモノデアリマス。

二四、 被告人ガ前述スル処ニ依レバ、軍務局長室ニ於テ永田局長以外ニ 二人ノ軍人
( 軍服着用 ) ヲ認メタトノ事デアルガ、室内ノ何レノ地點カラ之ヲ認メタルヤ
私ガ局長室ニ
入ルヤ直グニ、室ノ眞中邊リニ立テテ在ツタ薄布張ノ衝立ノ布ヲ通シテ、
局長ト之ニ面シテ机ノ左方部ニ腰掛ケテ居ル二人ノ軍人ヲ認メマシタ。

二五、 被告人ノ前述スル処ニ依レバ、
永田局長ガ被告人ノ刃ヲ遁レル爲他ノ二人ノ軍人ノ処ニ行ツテ 
三人一緒ニナッタ様ニ思ッタトノ事デアルガ、
此點ニ附テノ認識ハ誤リナキヤ

確ニ永田ガ二人ノ処ニ逃ゲテ、机ノ左側デ三人一緒ニナツタ様ニ記憶シテ居リマス。

二六、 同室ニ在リシ一人ガ被告人ノ暴行ヲ抑止スル爲、局長使用机ノ左側附近デ被告人ノ腰部ヲ左背後ヨリ抱止メタルモ、
被告人ノ爲ニ振払ハレテ倒レ直ニ起上ラントシタルニ 左腕ニ負傷シ居ルコトヲ知ッタトノ事デアルガ、被告人ハ當時此事ヲ記憶スルヤ
當時ハ私ノ脳裡ハ永田局長殺害ノ一念デ満チテ居リマシタノデ、
左様ナ事ハ覺ヘアリマセヌガ、
同室ニ居ツタ人ガ負傷シタトスレバ當然私ガ傷附ケタモノト思ヒマス。

二七、 被告人ノ前述スル処ニ依レバ軍刀ヲ抜イテ永田局長ノ部屋ニ入ッタトノ事デアルガ間違ナイカ
其點ハ違ツテ居リマス。
部屋ニ入ルト同時ニ抜いタノデアリマス。

二八、 被告人ハ局長室ニ 二人ノ軍人ガ居ル事ヲ認メテ居ッタトスレバ、
例ヘバ局長ヲ目標トシテ居タトスルモ、

同室内デ抜刀ヲ以テ暴レル限リ局長以外ノ他ノ軍人ニモ 危害ヲ加ヘル事アルヤモ知レヌト云フ豫想ハ抱イテ居ッタカ
入ツテ行ツタ當時ハ一刀兩斷ノ下ニ局長ヲ殺害シ得ルモノト思ツテ居リマシテ、
彼ノ様ニ永田ヲ追詰メル様ナ場面ヲ生ズルトハ思ツテ居リマセヌデシタカラ、
他ノ人ニ危害ヲ加ヘル事ニナルナドト云フ事ハ當時思ヒマセヌデシタガ、
今カラ考ヘマスト、
若シ私ノ目的ヲ邪魔スル者アレバ當然其者ヲ斬ツテモ目的ヲ達スル事ニ努メタト思ヒマスカラ、
當然同室ノ一軍人ガ私ヲ抑止シタ事ガ事實ナレバ、私ガ其ノ邪魔ヲ除ク爲ニ斬拂ツタモノト思ヒマス。

二九、 其際左腕ヲ負傷シタ軍人ガ東京憲兵隊長新見英夫大佐デアッタ事ヲ知ラナイカ
八月十二日麹町憲兵分隊ニ於テ、
分隊長ヨリ新見大佐ガ負傷シテ居ルト云フ事ヲ聞イテ私ガ斬ツタモノト思ヒマシタ。

三〇、 被告人ガ局長室ニ入ッテカラ局長ニ迫っタ順路ハ如何
私ハ部屋ニ入ツテ衝立 ( 布張ノ ) ノ左ヲ通リ、
二人ノ軍人ノ背後ヲ通ツテ右ニ行キ、机ノ右側ニ行ツタ頃、局長ハ立上ガツテ私ノ方ヲ見マシタ。
其処デ私ハ局長ニ迫リマシタ処、
前述ノ如ク局長ハ机ノ左側ヘ逃ゲテ同室ノ二人ノ軍人ト三人一緒ニナッタノデ、
私ハ背部ヨリ局長ニ一刀ヲ浴セ、以後ハ前回ニ述ベタ通リデアリマス。

三一、 被告人ガ局長ノ机ノ右側ニ行ッタ頃ニ、他ノ二人ノ軍人ハ尚元ノ席ニ居タト記憶シテ居ルカ
居タ様ニ思ヒマスガ、其後二人ノ軍人ハ如何ニナッタか覺ヘマセヌ。

三二、 二人ノ軍人ガ何人ナリシヤ、又ハ階級ガ如何ナリシヤ
當時何人ナリシヤ判リマセヌデシタ。
階級ニ附テハ二人居ル事ヲ認メタ時ニ自分ヨリ上級者デアル様ニ感ジマシタ。

相澤三郎
右讀聞ケタル処相違無キ旨ヲ述べ
署名拇印シタリ
昭和十年八月二十六日
第一師団軍法会議
陸軍録事  勝井国太郎
予審官陸軍法務官  岡田痴一 


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