あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

相澤三郎 『 年寄りから先ですよ 』

2022年09月16日 15時42分18秒 | 相澤三郎

五・一五事件のとき 相澤中佐は、
そのまえに麻布三聯隊の安藤大尉の部屋で、
中村義雄海軍中尉らが、陸軍の蹶起をうながしているところに、
たまたま 安藤大尉をたずねてきて、でくわし、
「 神武不殺 」、日本は血をみずして建て直しのできる国だといって、
中村中尉らをいさめ、
「 若し やるときがくるとしても、年寄りから先ですよ 」
ともいって、散りをいそぐ若い人たちの命を愛惜した。
「 年寄りから先ですよ 」
は 前から相澤中佐の口癖であり信念だった。
私が満洲事変から帰って東京にでたとき、
相澤中佐は中耳炎で慶応病院に入院していたのが全快して退院するところだった。
澁川善助に案内されて私が病室をたずねたときは、
相澤中佐は後片付けも終わり、病院をでようとして、羽織袴姿になったところだったが、
そばにいた夫人が澁川に
「 いろいろとお世話に・・・・」 と 礼をいいかけると
「 そんな礼などいっても仕方ないよ。口の先きでいくらいっても追っつくことじゃない 」
と、むしろ苦りきって、夫人の口を抑えた。
相澤中佐は九死に一生の命を、東京の同志の献身によって助かったと思いこんだ。
これからの自分の命は、若い人たちからの預りものだと思いこんだ。
たしかに澁川などは 特に献身したであろうが、
このとき以来、
いよいよ 「 年寄りから  先ですよ  」
が 相澤中佐の堅い信念になった。

「 年寄りから  先ですよ  」 は 「 若いものは先立った年寄りにつづけ 」
ということではなかった。
「 神武不殺 」 とはいえ、
革新への突破孔を開くために、
どうしても犠牲が必要とすれば、
自分がそれになって、
愛すべき若い人々の散ろうとするのを防ごうとすることだった。
・・・ 「年寄りから、先ですよ」 ・・末松太平

相澤三郎
陸軍歩兵中佐 
陸士22期生
歩兵第41聯隊付
昭和10年8月12日 永田鉄山軍務局長に天誅を下す 「相澤事件」
明治22年9月9日生
昭和11年7月3日午前5時4分 銃殺

一ノ関中学校第二学年から仙台陸軍幼年学校に入学
明治41年5月30日幼年学校卒業
同年5月31日、士官候補生として歩兵第29聯隊へ入営
明治43年5月28日陸軍士官学校歩兵科教育課程卒業(95/509)
新義州守備隊で任官、同年、原隊仙台歩兵第29聯隊に帰還
中尉時代に約2年間台湾歩兵第1聯隊附となり、宜蘭守備隊に勤務
大正10年大尉に進級し、原隊歩兵第29聯隊に帰隊、大隊副官を務める
同年暮、戸山学校剣術教官として転出
大正15年、熊本歩兵13聯隊中隊長
昭和2年、東京歩兵第1聯隊附となり、日本体育会体操学校服務
昭和5年、陸軍士官学校剣術教官
昭和6年、少佐に進級、青森歩兵第5聯隊大隊長
昭和7年、秋田歩兵17聯隊大隊長
昭和8年、中佐に進級、福山歩兵第41聯隊附
昭和10年8月、台湾歩兵第一聯隊附に転補


相澤三郎  アイザワ サブロウ
『 年寄りから先ですよ 』

目次

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・ 昭和維新 ・相澤三郎中佐

・ 
「 赤ん坊といえども陛下の赤子です 」 
・ 
「 大蔵さん、あなたは何ということをいわれますか 」 
・ 相澤中佐の中耳炎さわぎ 

・ 國體明徴と相澤中佐事件 
今日本で一番惡い奴はだれですか 
相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )
 ・ 國體明徴と相澤中佐事件
 ・ 永田軍務局長刺殺事件
 ・ 訊問調書 ・ 事件への道程 ( みちのり )
 ・ 憲兵訊問調書 「 天誅を加へたり 」
 ・ 永田伏誅ノ眞相
 ・ 「 永田鐵山のことですか 」
 ・ 「 時に大蔵さん、今日本で一番惡い奴はだれですか 」
 ・ 「 年寄りから、先ですよ 」
 ・ 昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 1
 ・ 昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 2
 ・ 軍務局長室 (1) 相澤三郎中佐 「 逆賊永田に天誅を加へて來ました 」
 ・ 軍務局長室 (2) 山田長三郎大佐 「 軍事課長が來ないので、円卓の傍を通って軍事課長室へ入る 」
 ・ 軍務局長室 (3) 新見英夫大佐 「 抜刀を大上段に構へ局長へと向ひ合っていた 」
 ・ 軍務局長室 (4) 橋本群大佐 「 扉を一寸開けて局長室を覗くと、軍刀の閃きが見えた 」
 ・ 軍務局長室 (5) 森田範正大佐 「 局長室で椅子を動かす様な音がした 」
 ・ 軍務局長室 (6) 池田純久中佐 「 局長室が だいじ (大事) だ 」
 ・ 軍務局長室 (7) 軍属 金子伊八 「 片倉衷少佐が帽子を持って居りました 」
 ・ 相澤さんが永田少將をやったよ 
 ・ 行動記 ・ 第一 「 ヨオシ俺が軍閥を倒してやる 」
 ・ 佐々木二郎大尉の相澤中佐事件
 ・ 相澤三郎 發 西田税
 ・ 満井佐吉中佐 ・ 特別辯護人に至る經緯
 ・ 第一回公判 ・ 満井佐吉中佐の爆彈發言
 ・ 所謂 神懸かり問答 「 大悟徹底の境地に達したのであります 」
 ・ 相澤三郎 ・ 上告趣意書 1
 ・ 相澤三郎 ・ 上告趣意書 2
 ・ 大御心 「 陸軍に如此珍事ありしは 誠に遺憾なり 」
 ・ 判決 『 被告人を死刑に處す 』
 ・ 本朝のこと寸毫も罪惡なし

あを雲の涯 (二十) 相澤三郎 
相澤三郎 『 仕えはたして今かへるわれ 』 (一)
相澤三郎 『 仕へはたして今かへるわれ 』 (二) 
昭和11年7月3日 (二十) 相澤三郎中佐 

・ 相澤三郎考科表抄 
・ 相澤中佐片影 

剛毅朴訥 仁に近し
剛毅朴訥 にして、決行敢爲の風あり
十の想いを一言で述べる
・・如何にも、相澤中佐に相応しい

相澤三郎中佐の追悼録
相澤三郎の爲人
私が中佐にお目にかかったのは二度です
昭和八年一月五日

山海関西関に於きまして戦死した兄幸道の遺骨を懐いて白石に帰着致しましたのが、
同年二月十日午前八時半で、九時から親族を交えて極く内輪の慰霊祭を行ひました
他人としては当町分会長長谷川大尉、小学校長五十嵐氏が入って居ました
神主の祭文中、ふと目を動かした時、
一人の軍人----巨大な身体、襟章は十七、じっと下を凝視してゐるのが私の目に入りました
式が終わるまで誰だらう、十七と云えば秋田だが誰だらう、とのみ考へてゐました
私には今でもはっきり其の姿が見えます
膝をしっかり合わせて、拳をしっかり握って、下を凝視して居られた姿が
その方が相澤少佐殿でした
後に聞いたのですが遺骨の着く前八時頃には停車場に居られ、
遺骨を迎へに出た人々は何か用があるのだらうかと思ったさうです
愈々汽車の到着間近になるとプラットホームに入り他の人々と離れて独りブリッジに
倚りかかって居られたさうです
遺骨がつくと、皆のあとから又構外に出て自動車が動き出すと
一番最後の自動車に「乗せて下さい」と云はれて来られたのださうです
式が終わっても、しばらくは霊前に座して依然として同じ態度を持して居られました
久しうして始めて私達に挨拶されましたが、多くのことはおっしゃいませんでした
唯一言
「遠藤さんはまだまだ死なし度はなかった。今死んでは遠藤さんは死んでも死に切れはしない」
とポツリポツリおっしゃいました
それから白石町分会長長谷川大尉と話し出されました
大体こんな内容でした
遠藤さんはすばらしく偉い人だ
こんな偉い人を出したのは白石町の名誉だ
と 力をこめておっしゃいました
分会長は仕方なく相槌を打って居たやうでした
話はたまたま多聞師団長の事に移りました
(其の頃は第二師団が凱旋したばかりで、
白石町では近日中に多聞師団長を招待し、胸像を贈呈する予定になって居ました)
すると中佐殿は之を聞いて非常に立腹されたかのやうで、
「多聞師団長に胸像をやるよりりも、遠藤さんの記念碑でも建てるべきだ」
と口を極めて申されました
それから私に 「遠藤さんの骨を持たせて写真をとらせてくれ」 と申されました
私は喜んで承知しました
中佐殿はゴムの長靴をはかれ、縁側の外へ立たれました
私が骨をお手に渡そうとした刹那、中佐殿は大きな声を上げて泣き出されました
私は、愕然としました
いまでもあのお声は耳の底にこびりついてゐます
しばらく続きました
私も泣いて了ひました
居られること二時間ばかりで多額の香料を供えられ、「お葬式の時には参ります」
と 申されてお帰りになりました
之が最初にお目にかかった時の印象でございます
葬式の時は、現地戦術で参れないと言ふ御懇篤な御書面がありました
同年六月、
青森の歩兵第五聯隊の陸軍墓地に満洲事変戦歿者の記念塔が建立されましたので
其の除幕式に参列し、奥羽戦で帰ります途中、
ふと中佐殿にお目にかかり度くなって秋田に下車し直ちに聯隊に中佐殿を訪問しました
中佐は非常にお喜びになり、
(其の喜び方は想像以上でした。私は下車するまでは、やめやうかとも再三思ったのでした)
丁度会議の最中だからとおっしゃって三十分許り待たせ、
すぐにお宅に案内下され、奥様や御子様方に紹介して下さいました
汽車時間まで一時間余りビールの御馳走になり乍らお話しました
そのときこんなことをおっしゃいました
「あの白石に向ったとき、私は八日に東京まで遠藤さんを御出迎えへしたのです。
そして遠藤さんとゆっくりお話しましたのでした。
それから用を達して十日に白石でお出迎へしたのでした」
「遠藤さんはほんとうに偉い人だった。死なれて残念でたまらない。
しかし遠藤さんの精神は私達同志が受け継いでゐる
遠藤さんのお考へは実に立派なものだった。今其の内容を話すことは出来ない。
十年待ってください。話します。今に遠藤さんの為めに同志が記念碑を建てます」 と
お別れの間近に中佐殿は
「どれ、遠藤さんに報告しやうかな」 と言はれて奥に入られたので私も後から参りますと
立派な厨子を床の間に安置し、兄の写真がかざってありました
私も拝みましたが私は泣いて了ひました
私は今かうして書いて居ましても目頭が熱くなって来てたまりません
それから御子様三人を連れられて無理に送って下さいました
発車致しました
挨拶致しました
しばらく経って窓から顔を出すと中佐殿は未だ立って居られます
又敬礼されました
私はびっくりして頭を下げました
胸は一杯でした
しばらくは泣いてゐました
これが二度目でした
八月に進級御礼の挨拶を戴きました
私は中佐殿にお目にかかったのは僅か二度ですが、どうしても忘れることが出来ません
兄の写真を見る度に中佐殿が思ひ浮べられます
新聞を見る度に中佐殿のお姿が髣髴と致します
中佐殿が私の如き一面識もない人間に接せられるあの御態度、私はなんと申してよいかわかりません
私は中佐殿を維新の志士の如く方と思って居りました
熱烈なる御精神
あの温容
私のこの手紙がもしお役に立ちますならば私は兄と等しく喜びに堪へません
この手紙は一日兄の霊前に供へました
何卒国家の為に中佐殿御決行の精神を社会に明かにして下さるやうに
兄と共に神かけて御祈り申し上げます
二度お目にかかった時の感想、私の心持はとても申し上げることは出来ません
表現するに適当な言葉がありません
只如何としても忘れることの出来ないありがたいお方としか申すことが出来ません
・・・遠藤美樹 ( 満州事変で戦死の遠藤中尉の弟 ) ・・・澤中佐片影

純真素朴で剛毅 ・・・有末精三

朴訥で生一本 ・・・大蔵栄一

信義を重んじる点では相澤中佐は小児のようだった、
小児は冗談でも本気にする。
信義を重んじる相澤中佐に、はったりや冗談は禁物だった。
もちろん小児の如く幼稚ではない。
巧言令色の徒の言には、いささかも耳をかさなかったであろう。
小児の如く信じるのは、信頼する同志の一言一句である ・・末松太平

資性純情朴直にして感激性に富み ・・公訴事実

口は重いというより非常な訥弁で、
面と向かって話しても、調子というものが全然合わなかった。
十の思いを一言で述べるといった具合で、
聞き手の方がよほど想像力を逞しくしないと、
何を言っているのかわからないくらいだった ・・・新井勲

日本という国は不思議な国だ。
まさに神国だ。

こんなに腐りきり、混乱した時世になると、神の使いのような人物が現れる。
相澤さんなぞはその尤ゆうなる人だ。
神の使いのように心に一点の曇りもない。
至純、至誠の人というのは相澤さんのような人を言うのであろう。
・・・西田税、末弟に語る

最も純粋な国体に対する信仰的な信念を有し、
その意味に於て日本臣民たることに非常な感謝の念を抱いている人であり、
かつ 剣 禅 一如 の 修業をされた悟道の風格を備へた人 ・・・西田税

戸山学校剣術教官時代、
天覧に供するため、
木刀で気合もろとも 三六本の棒を一気に倒すという離れ技を披露したことがあった
これも 剣禅一如の極意とされる
神人合一の境地にまで進み得た人 ・・・大蔵栄一

全く我等は神様と崇拝している ・・・小川三郎

山科の浮きさんは 昨日も今日も一力通ひ
女の色香酒の味 敵討ちなど野暮なこと
アア 酔ふた酔ふた 盃の酒までが 
ひよいと見えたよ血の色に
アア酔ふた酔ふた ・・・大石良雄の山科遊び

何時も愉快な源蔵が今日は泣き上戸になって
手酌でクビリクビリと一ツづつのみながら
他出して居ない兄者の羽織にすがって訣れを惜しむ
雪はサラサラ降っている ・・・赤垣源蔵徳利の訣れの小唄
此れ、相澤中佐の好んだ歌である。


相澤三郎 『 仕へはたして今かへるわれ 』 (一)

2017年09月15日 13時38分30秒 | 相澤三郎


相澤三郎

昭和十一年六月三十日

接見人
弁護士 角岡知良
同  菅原 裕
角岡
本日は誠に御気の毒な御報告を致さねばなりません。
残念乍ら上告は理由なしとして棄却されました。
私達も相当に人事を尽してやつた積りですが、学問の足らざる為か、
貴殿の御考へ通り充分に行かなかつたかもしれませんが悪しからず。
被告
色々と有難う御座いました。
私は両先生の御力に依りまして上告致し、
此の間に凡てをやらして戴きましたことは誠に何とも言ふ事の出来ぬ喜びを感じて居ります。
之は私が長い間 両先生に御世話になりました御礼の意味で申上げますが、
それは色々と考へたことで、今後御国を良くする案で御座います。
一、人生の意義を確立すること。
二、人生の目的統一と言ふこと。
三、尊皇絶対が人生生活の根源なること。
四、尊皇学の設定と之れが徹底を図ること。
五、日本の真の御先祖様は天の御中主大神なり、之を昭和大神宮とおたてすること。
六、官制を世界的に確立すること。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和十一年六月三十日
接見人  妻 相澤米子
被告
石原様に最後の手紙を出した。
又 此際告発は取下げる方が良いと思つて取下した。

そうですか。
此処で不要の物は皆 返して下さい。
書いたものや手紙等を。
被告
明日でも返すやうにするかなあ。

今日でも其準備をしたなら如何ですか。
被告
今日はやれない。

荒木閣下には手紙など出さない方が良いでせう。
今迄の事で大概 分つて居るでせうから。
被告
菅波でも外に居れば、荒木様と連絡を取れるがそれも不可なり。
最後にお前に言ふて置くが、
書いたもの 四、五冊ある。
其内私物に書いたものは持つていけるが、御上のものに書いた日記は持つて行かれぬ。
昭和維新の事に就て書いたものもある。

今日書いたものを返して呉れたら如何ですか。
被告
私の書いたものは百年でも二百年でも他人に見せてはいけないよ。
日本の神髄、人生の目的、昭和の大事業等世界を統一するに昭和維新が必要だ。
子供に今日半日掛つて手紙を書いた。
又寺には早晩お別れをせねばならぬ。
法名を頼む。
今度は極簡単 ( 葬儀意 ) にする故、来なくてもよいと手紙を出した。
明日来るとき 実印を持つて来い。
それから遺訓は書いてあるよ。

それは私に下さればよいのです。
それから遺言状は人の扱ひ様に依つては変るものですから、
あの人 ( 義弟を意味す ) は神様のやうな人とは思ひますが、
色々の事情でどうなるか解らないと思ひます。
被告
私はあの時 ( 事件当時か? 、第一審終結時か?) にと 思つたが、
やつぱり命の長き方が良かつた。

それは無論 長い方が良いでせう。
それから貴方の書いたものを見れば大変参考になると思ひますから取纏めて置いて下さい。
被告
遺言状は簡単に書くことにする。

私が勝手にやる様に書いて下さい。
被告
勝手でない。一任するのだ。

あの人 ( 義弟 ) 一人ならまだ良いのですが、近親者が相当付いて居るのですから。
被告
お前の思った通りにやればよいのだ。

明日 子供を連れて来させて下さい。
小四郎も一緒ではいけないですか。
被告
一緒でも良い。

小四郎様は貴方が何も頼まないと言ふて居ます。
被告
そうか 今度は何か頼んでやらうかな。

頼まないと言ふのは子供の事でも言ふのか解りませんよ。
十年位経つたなら子供を見てやると言つて居ますが、そんな事なら御断りします。
真に誠意があるなら今の内に見て呉れる筈です。
被告
家の事は面倒だなあ。

子供達はお父さんは呑気だと言つて居ます。
被告
私は万事お前に任せる故、何とも思つて居ないよ。
然し お前の苦労は大変だよ。

私より貴方の方が余程幸福です。
被告
俺は幸福だよ。
さあ何日になるか解らないが、子供達を連れて来た方が良い。

他人を相手にせず 一人でどしどしやる積りです。
他人から指図されるのが一番嫌です。
被告
もう時間だから帰れ。

子供丈は確つかり育てます。
それでは。
以上
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

遺言
一、第十二代 相澤三郎は、
第十三代を三郎長男正彦に御譲り致します。
父三郎は、
身命を達し、今茲に
陛下の御使として
神の御側に参ります。
御使の後は矢張り、陛下の赤子として、忠魂となりて万世相沢家にあつて、
陛下の御側に御仕へするのであります。
篤と御承知下さい。
二、正彦は予てより 父の訓に従ひ、臣節を全ふして下さい。
和以は三郎と一体であります。
御前の考へ通り凡てを処理奉仕せよ。
宣子、静子、道子も皆 正彦と同様父の訓を守り、忠義の臣として全して下さい。
和以とは米子のことなり。
昭和十一年七月二日
相澤三郎 ( 拇印 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和十一年七月二日
午後十時半、総てを了へました。
今から御前と話をします。
夫婦は二世と言ふが、お前とは万世だ。
これは神様の御仕になつて出来ました。
お前と私は最大の幸福ですよ。
私は明日は此の世の中の束縛から脱しまして、 「 ぢき 」 に お前のところに参りますよ。
お前の情に抱かれて此の度は一層の勇猛心を以てお前と一所に子供をそだてるばかりでなく、
立派に一層忠義を御尽し得ますよ。
早く帰りたい。
決して離れないから。
お前の信仰は誠にうれしい。
過去を考へるとおかしいねー。
そこで趾始末等は お前はやるもよいが、十分睡眠を例の通りやつて身体を元気にしないといけないよ。
勿論私の持つて居るはちきれ相な精神は、皆 お前に譲るから、
明日からは お前の大事な心臓は今度は非常に丈夫になるよ。
信仰よ、ほんとうだよ。
笑ふ顔が見えるねー。
そつき歌とか言はれたが、書きよーがないが、さー、なにか書こーか。
  まもるらし 此の三郎の魂は
  まもるそなたと千代よろづよに
  まごゝろによりて そうたるかえあつて
  仕へ果して 今かへるなり
もう午後十一時になりますよ。
  かぎりなき 思はそちの情にて
  たのしかるべき末の末まで
中々歌はむづかしいね。  木曜日。    三郎
和以様御許江
寝ますよ。
午前四時再読訂正しましたよ。
いまから墨をすつて又書きますよ。
三郎
 なつかしき
 和以様
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昨晩は御馳走でありました。
有難く頂戴致しました。
どうぞ尊い善助様と一体となる奥様に、しつかり御仕へ下されと申上候。
さようなら
三日朝  三郎
渋川さんの奥様
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昨晩は御馳走様でした。
有難く頂きました。しつかり御仕へして下さい。
三日朝  三郎
村中さんの奥様御許へ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三日朝
只今から御使して参ります。
相澤三郎
菅原先生
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
御使してすぐ還つて参ります。
三郎
相澤正彦様
母上、姉上、妹によろしく。
午前四時半

二・二六事件秘録 (一)
死刑相澤三郎中佐に関する記録  から


相澤三郎 『 仕へはたして今かへるわれ 』 (二)

2017年09月14日 13時32分16秒 | 相澤三郎


相澤三郎

六月二十五日 ( 封書 )
宛名  参謀本部  石原莞爾

冠省。私考左に申上度御座候。
一、人生意義の確立 神を信仰。
二、人生目的の統一神への奉仕。
三、尊皇絶対が人生活動の根源。
四、尊皇学の無窮向上の創造確立、宗教、哲学、倫理、道徳、其他化学進化の根底、確立と実践。
五、天御中主大神を祭り奉る昭和大神宮を御造営遊ばさること。
六、御完成大祭と同時に、世界人類に宣布せらるる如き大詔御渙発を仰ぎ奉りたきこと。
七、世界人類に活動の根底を明に御示し下さるべき憲法、法律の御発動を仰ぎ奉りたきこと。
昭和の大業御完成に、世界人類のあらゆる叡智を絞つて翼賛し奉る如く、
殊に輔弼の重責にあらるる御方は、高邁こうまい絶大なる努力を捧ささげらるゝ如く、
即時強力決心なされ度く御進言をなし下され度く存候。
勿論一私見に過ぎざるものに御座候も、奉公の微衷のみに御座候間、御了承被下度奉悃願候。
拝具

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
渋川令夫人様へ
相澤三郎
六月三十日認む
誰にも見せないで下さい
一、
昨日二十九日、皆々様の写されました御姿によつて初めて御会ひ致すことが出来ました。
二、
大君の御為とは申しながら、渋川善助様の御事を想像し、
且つ 現に貴女様の御心境を思へ浮べる時は、実に残念であります。
実に悲しくあります。
唯々胸一ぱいな物があります。
三、
善助尊兄様には、拙生生前無二の親しき友でありました。
否私の此の世の中で第一尊敬し、なつかしい。
将来に希望を抱いて、
大君の御為め日夜念じて来たのでありまして、考ふれば唯涙であります。
挫折の悲惨は極であります。
偉大にして誠忠無二なる善助尊兄様を、最後まで、
尚死しても罪は転た一日も早く明くならるゝことを祈つて居ります。
四、
貴女様の今後の御方針には、一言も申し上げ兼ねます。
唯拙生の遺族は、子供等が成人する迄は現在の所に居られますから、
若し御郷里を常任とせられましても永久に姉妹として下さい。
五、
私は茲に最後をとげるのは勿体ないのでありますが、
霊魂は鷺の宮にありて一家を守り、
永久に大君の御為め、
善助尊兄と力を合せ、
皆様と一所になつて御奉公致します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
六月三十日    相澤三郎
村中孝次尊兄様の奥様へ
一、
何の為めかわかりませんが、
賊と認められて茲に最後を遂げるに当りまして、
拙生、生前殊の外御世話になりました奥様に一言申上げます。
二、
今後 孝次様と同じ所に離れて居ります。
同じく大君の御為と志しましたが、
遂に私は一足先に自由脱落の身となつてしまいます。
然し私は鷺の宮にありて家を護り、悠久に大君の御為め御奉公致します。
三、
孝次様の御子様は、御伺ひすることが出来ませんが、
再び明い日が到来して喜々として、
大君の御為め御尽し遊ばさるゝ様になることを祈願致します。
四、
希は、奥様や御嬢様御一同御落胆なさるゝことなく、最後まで元気を出して、
御健康に御尊家を御護り遊ばさるゝ様御祈り申上げます。
五、
拙生の遺族は、事の外御世話になります。
子供等の成長する迄は今の処に住んで居ります。
どうか、悠久に姉妹としてやつて下さい。

二・二六事件秘録 (一)
死刑相澤三郎中佐に関する記録  から


「年寄りから、先ですよ」

2017年09月13日 09時57分17秒 | 相澤三郎


相澤三郎
« 「 年寄りから  先ですよ 」・・末松大尉の話 »

五 ・一五事件のとき相澤中佐は、
そのまえに麻布三聯隊の安藤大尉の部屋で、
中村義雄海軍中尉らが、陸軍の蹶起をうながしているところに、
たまたま安藤大尉をたずねてきて、でくわし、
「 神武不殺 」、日本は血をみずして建て直しのできる国だといって、中村中尉らをいさめ、
「 若し やるときがくるとしても、年寄りから先ですよ 」
ともいって、散りをいそぐ若い人たちの命を愛惜した。

「 年寄りから先ですよ 」 は 前から相澤中佐の口癖であり信念だった。
私が満洲事変から帰って東京にでたとき、
相澤中佐は中耳炎で慶応病院に入院していたのが全快して退院するところだった。
澁川善助に案内されて私が病室をたずねたときは、
相澤中佐は後片付けも終わり、病院をでようとして、羽織袴姿になったところだったが、
そばにいた夫人が澁川に
「 いろいろとお世話に・・・・」 と 礼をいいかけると
「 そんな礼などいっても仕方ないよ。口の先きでいくらいっても追っつくことじゃない 」
と、むしろ苦りきって、夫人の口を抑えた
・・・リンク→相澤中佐の中耳炎さわぎ

相澤中佐は九死に一生の命を、東京の同志の献身によって助かったと思いこんだ。
これからの自分の命は、若い人たちからの預りものだと思いこんだ。
たしかに渋川などは 特に献身したであろうが、
このとき以来、
いよいよ 「 年寄りから  先ですよ  」
が 相澤中佐の堅い信念になった。

「 年寄りから  先ですよ  」
は 「 若いものは先立った年寄りにつづけ 」
ということではなかった。
「 神武不殺 」 とはいえ、
革新への突破孔を開くために、
どうしても犠牲が必要とすれば、
自分がそれになって、
愛すべき若い人々の散ろうとするのを防ごうとすることだった。


末松太平 著
私の昭和史 から


相澤中佐の中耳炎さわぎ

2017年09月12日 14時21分47秒 | 相澤三郎


相澤三郎

相澤中佐の中耳炎さわぎ
昭和八年十二月の異動で、相澤少佐は進級して、
秋田の十七聯隊から福山の四十一聯隊に転任していた。
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相澤中佐が上京して中耳炎にかかり、慶応病院に入院手術したのは、
ちょうど私が極東オリンピックの問題でいそがしく飛び回ってた三月ごろであった。
手術の結果は良好で、ときどき見舞に立ち寄ると、元気な顔で喜んでくれた。
満洲の荒野で転戦して幾多の偉勲をたてた末松太平中尉が二年数か月ぶりに凱旋して上京し、
相澤中佐を病床に見舞ってから間もなく、
相澤中佐は退院した。 ・・・リンク→ 「年寄りから、先ですよ」
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退院しても通院治療の必要があったので、
慶応病院に近かった私の千駄ヶ谷の家に転居することになった。
退院したとはいえ、まだ通院するくらいが関の山で、無理のできる体ではなかった。
相澤は毎日私が学校から帰って、その日の出来事を話すのを楽しみに待っていた。
だが、そんなある日、
わたしが学校から帰ってみると、相沢はいなかった。
「 相澤さんはどこに行ったんだ 」
「 午後三時ごろ行先をいわずに出て行かれました 」
「なぜ行先をきかなかった 」
「 ちょっとそこまで、といったもんですから散歩だろうと思って・・・・」
妻は大して気にかけていない様子であったが、私はいささか心配であった。
夕方から降り出した雨が、だいぶ大ぶりになった。
何回か玄関まで出てみたが、相沢の帰ってくる気配はなかった。
午後八時になっても帰ってこない。
私は帰ってきたらいっしょにと思って待った夕食を一人ですました。
ちょうどそのとき玄関で人の気配がした。
私が飛び出してみると、
ビッショリ濡れた相沢が、真っ青な顔をして ガタガタふるえながら、ぼんやり玄関に立っていた。
「 どうしたんですか、いまどき・・・・」
「・・・・」
相澤は、うつろな眼をして黙って立っているのみであった。
私は、これはいかんと思った。
妻に床を敷くよう命じて、私は相澤をかつぐようにして二階に運んだ。
体温を計ってみると、四十一度を上回る高熱であった。
私は、さっそく慶応病院に電話して再入院の手続きをし、澁川善助に応援を頼んだ。
帰ってきたら ウンと叱ってやろうと思っていたのに、もうそれどころではなかった。
相澤は気息奄々として前後不覚に陥っていた。
知らせに応じて、西田が不在であったため夫人がすぐきてくれた。
応急の処置としてはただ頭を水で冷やすだけで、どうすることもできなかった。
澁川がきて、二人で病院にかつぎ込んだのは午後十一時少し前であった。
さいわいなことに、そのころ雨はやんでいた。
病院では準備万端ととのえて待っていたので、病室に運び込んでさっそく治療にとりかかった。

病院に着いたころから、相澤は正常ではなかった。
大きな声で うわごとがはじまった。
『 天皇陛下万歳 』 と 叫ぶかと思うと
『 君が代 』 が 音痴な声で歌われるという始末であった。
医師は中耳炎の手術あとが丹毒におかされていると診断した。
そういわれてみると、左耳のうしろが真っ赤になっている。
さっそく太陽灯を看護婦があてはじめた。
相澤はその太陽灯を右手でつかんで、
部屋の隅に向かって投げつけてこわしてしまった。
医師が薬を飲ませようとしても、
「 こんな西洋医学では駄目だ 」
といって、散薬を吹きとばして飲もうとしない。
「 相澤さん 駄目ですよ、薬は飲んで下さいよ 」
私は相澤の耳に口を寄せて、大きな声で叫んだ。
相澤はかすかに眼を開けた。
「 大蔵さんか、薬は飲まなきゃいかんか 」
「 いかんですよ、飲んで早く癒って下さい 」
「 そうか、やっぱり飲んだ方がいいか」
相澤は、しぶしぶではあったが素直に飲んだ。
たまには正気にかえることもあったが、相澤のうわごとは一晩中つづいた。
あまりにそのうわごとの声が大きかったので、
近くの病室の危篤の患者がいて、静かにならんだろうかという文句が出て、
私と澁川はお詫びに回るという始末であった。

朝になっても相澤は、全然医師のいうことをきかなかった。
それでも澁川か私がいうと素直にきいてくれた。
「 大蔵さん、私らではだめですから、お勤めはあると思いますが、なんとかしてついて看病してくれませんか 」
「 承知しました 」
私は学校に電話して事情を話し、二、三日学校を休むことにした。
急をきいて、相澤夫人が福山から上京してきた。

三日目になると、私のいうことも渋川のいうことも全くきかなくなった。
薬も受け付けず 手当もできず、もちろん食餌もとらなかったので、
相澤のからだはみるみるうちに衰弱して、ついには危篤状態にはいった。
正午ごろ、
浜之上俊秋少佐( 陸士二十四期 ) が 相澤の急変を心配してかけつけてきた。
浜之上は相澤と奥さん兄弟で、浜之上夫人は相澤夫人の妹という間柄である。
そのころは早稲田大学の配属将校であった。
「 大蔵君、君は石田霊光という男を知らんかね 」
浜之上少佐がいった。
「 さァ・・・・きいたような気もしますが 」
私は、小首をかしげた。
「 すぐれた祈祷師ということだが・・・・」
「 あ、あ、思い出しました。 千葉の歩兵学校で有名だった兵隊さんでしょう 」
「 そうなんだ、どうだお願いしてみようか 」
「 そうですな、やってみましょう 」
ワラでもつかみたい気持ちでいた私は、二つ返事で同意した。

石田は、
かつて大阪の八聯隊から歩兵学校の教導隊に派遣されていた上等兵であった。
子供のころから霊的能力が豊かであったのに、
修練を重ねてそのころは相当な霊力をそなえるに至っていた。
歩兵学校に派遣されてからは、その能力をひたかくしにかくしていた。
ある日、演習から帰って解散するとき、
石田が特務曹長に近づいていった。
「 特務曹長殿、すぐお宅にお帰り下さい。坊ちゃんが大けがをしています 」
「 ふざけるでないよ、縁起でもない 」
特務曹長は最初冗談と思い、次に悪ふざけとみて怒ったけれど、
石田上等兵の態度があまりに真剣だったので、
一度は怒ったものの少々薄気味悪くなって、いそいで家に帰った。
帰ってみると、果して石田上等兵のいった通りであった。
そのことがあって、石田の 『 ものあて 』 は 一躍有名になった。
こんな話もある。
ある若い参謀が石田の霊力の話をきいて、
ひやかし半分に石田の属する班内を訪れた。
「 この班内に よくものを当てる兵がいるときいたが、どいつだ 」
参謀は傲慢であった。
他の兵に教えられて、その参謀は石田のところへいった。
「 おまえか、よく当てるというのは、ほんとうに当るか・・・・? 」
石田はしばらく黙っていたが、はっきりいい放った。
「 参謀殿は昨夜、軍人として、はずべき行為をしています。
よろしかったらいまここで公表いたしましょうか 」
若い参謀は一瞬青くなった。
そしてコソコソと帰っていった。

霊験あらたか、元上等兵の祈祷
石田は満期除隊後、
東京麻布の霊南坂上のある屋敷の庭内に庵いおりを結んで、
世のため 人のため 祈りの生活にはいっていた。
浜之上少佐と私が、その庵に石田霊光をたずねたのは午後二時ごろであった。
門をはいって庵まで足を運ぶとき、八重桜がきれいに咲き誇っていたのが、
いまでも鮮烈な印象として残っているので、
多分四月の終りか 五月の初めごろであったであろう。
玄関にはいると、たたきに女ものの下駄、ぞうりが三、四足ぬいであった。
中にはいると果して、きれいどころが三、四人先客として順番を待っていた。
浜之上も私も軍服であったので、なんとなしに妙なコントラストであった。
彼女らは恋の占いか、うせものの透視か、私の脳裡をチラッとかすめるものがあった。
私はワラをもつかむ気持ちでくるにはきたものの、
夜の街頭のくらがりに背をまるめた大道易者のうらぶれた姿と石田の姿とが重り合って、
相澤中佐に申しわけない気持ちになっていた。
やがて順番が回ってきて、私らの招じ入れられた部屋は八畳ぐらいの簡素な部屋であった。
まん中に大きな白木の机がおいてあった。
待つ間もなく 一人の男がはいってきた。
石田霊光であった。
額の広い、見るからに凛々しい美丈夫であった。
相澤中佐に申しわけないと思った気持はいっぺんにふつとんだ。
「 おたずねしたい方のお名前と生年月日を書いて下さい 」
彼は正面にすわると、すぐにたずねた。
あいさつをするひまもあったものではなかった。
私は机の上においてあった紙きれに、相澤の姓名と生年月日を書いて黙って渡した。
彼はその紙を受取ると、間髪をいれずに左手を左の耳のうしろにあてたまま、
何のよどみもなくベラベラとしゃべり出した。
「 この方は非常に気性の強い方ですね。 しかもご立派な方です。
 数年まえお子様をなくしました。そのときに受けた心の痛手で、その方はここの迷走神経を侵されています。
 ( 彼は左耳のうしろにあてていた左手を一、二度軽くたたいた。 相澤中佐の侵された中耳炎は左の耳であった )
その侵された迷走神経の悪影響がいま何かのために出てきて、とても重症となっています。
いままでこの方のおられた家の東南方に穴が掘ってあります。その穴をよく清めてやって下さい 」
「 相澤さんのおられた部屋は私の家ですが、東南の方角には掘られた穴はありません 」
私は、ここで抗議的発言をした。
「 そうですか。それなら結構です。もしあったら清めて下さい 」
「 わかりました 」
「 この方の写真はお持ちではないでしょうか 」
私はそういうことがあるのを予想していたので、相澤の写真を持参していた。
「 お預かりしてよろしいでしょうか 」
「 けっこうです 」
「 私は今晩から 『 念 』 を通じようと思います。
もし 効果があるとすれば、午前一時ごろに何らかの変化が起こるでしょう。
何も変化が起こらなかったら、明晩の午前一時ごろを注意して下さい。
今晩も明晩も変化がなかったらあきらめて下さい。
このかたの場合はなかなかの重症ですから、あるいは効果が現れないかも知れません 」
いい終ると彼は、写真を持ってサッサと部屋を出て行った。
石田霊光の霊力に万が一の期待をかけながら病院に帰ったのは、
午後四時ごろであった。
病院での愁眉しゅうびはいよいよ濃くなっていた。
医師は手のほどこしようがないといって、全くサジを投げた。
「 近しい方々に電報を打って下さい 」
と、いいのこして医師は去って行った。
連日連夜の疲れが一度にどっと出て来た私は、しばなくの仮眠をとるために家に帰ることにした。
家に帰った私は、二階に床を敷くことを命じ、廊下に出て大きく背伸びをした。
この部屋は三日前まで相澤中佐の寝起きしていた部屋である。
私は、大きく背伸びしながら見るともなく左の方を見た。
そこには鳩森神社の境内があった。
ひょっと気がつくと境内の一隅に、一間四方の大きさの穴が掘ってあって、沢山なごみが捨ててあった。
方向をはかってみると正に東南方だ。
私は台所に跳び込んで、一握りの塩をつかんで、下駄をつっかけて走った。
「 はらえたまえきよえたまえ 」
口の中でとなえながら、私は塩を穴の中にばらまいた。
このことがあって私は、今晩の午前一時に現われるという霊光の念力に、大きな希望をつないだ。
目がさめたときはすでに七時ごろで、夕やみのせまるころであった。
感嘆に夕食をすまして病院にかけつけた。
相澤の病状は依然として悪かった。
私と澁川と夫人は相澤の病床で病状を見守りながら、午前一時が待ち遠しかった。
「 奥さん、だれかお呼びする人はありませんか 」
私は、沈み勝ちの空気が耐えられなかった。
「 別に東京では・・・・」
相澤夫人は、ないというそぶりをした。
「眞崎大将にきてもらいましょうか 」
「 もしできましたら・・・・、相澤も喜ぶでしょう 」
午後十時少しまえであったが、私は思い切って真崎大将に電話した。
「 よし、すぐいく 」
と、眞崎は承知してくれた。
大将の軍服姿が病室に現われたのは、夜の十時半ごろであった。
眞崎大将が相澤に声をかけたが、無意識状態をつづけている相澤には、なんの反響もなかった。
「 あとをよろしく頼んだぞ 」
と、悲痛な顔で眞崎が帰って行ったのは十一時少し前であった。

待ちに待った午前一時がきた。
だが、相澤にはなんの変化も現れなかった。
私達は今夜はだめだ、
万が一の期待は明夜にかけなければならないだろうと話し合っているときであった。
相澤がかすかに目を開いた。
午前一時を五分すぎていた。
「 西瓜がたべたい 」
小さな声であったが、相澤の訴える声を私はききのがさなかった。
「 西瓜はすぐ買ってきますから待って下さい。
その前に食餌と薬をのんで下さい 」
私が頼んでみたら相沢はうなずいた。
私と澁川は、あとを夫人にたのんで病院を飛び出した。
円タクをひろって まず新宿の 『 高野 』 を叩いた。
すでに店をしめていたけれども、すぐに起きてくれた。
「 西瓜はありませんか 」
「 西瓜ですか、ありませんね 」
温泉栽培の発達した今日と違って、時期はずれの五月に、当時西瓜のあろうはずはなかった。
しかし私達はあきらめなかった。
「 銀座の千疋屋だ 」
再び円タクをひろって銀座に向かった。
千疋屋もすでに店をしめていたが、無駄とは思いながら起きてもらった。
西瓜はないがメロンならあるという。
メロンを持って病院に帰ったときは午前三時を過ぎていた。
奥さんがすばやく切ってさし出すメロンを、
相澤は、 「 うまい、うまい 」 と 喜んで食べた。
薬も お粥も少々ではあるが口に入れたそうだ。
私の両眼には涙がにじみ出ていた。
だが夜のあけるころから、相澤の病状は再びもとにかえって、薬も食餌もとろうとはしなかった。
私たちは、メロンも食餌も薬もすべてを準備して、
次の日の午前一時を待った。
次の日の午前一時になると、相澤はまた昨夜と同じように喜んで薬ものみ、お粥をすすり、
メロンを食べた。
こうして相澤の病気は、薄紙をはぐように快方に向かった。
・・・大蔵栄一 著 二・二六事件への挽歌 から


「 赤ん坊といえども陛下の赤子です 」

2017年09月11日 12時53分39秒 | 相澤三郎


相澤三郎

にわか雨に会った私は、

北一輝の家にかけこんだ。
大久保の駅に近かった北の家は、雨やどりするにはかっこうのものであった。
それは六月 ( 昭和八年 ) も 半ばを過ぎた或る日のことであった。
応接間では北と相沢少佐とが酒盛りの最中で、
相澤はすでにだいぶごきげんであった。
それは私が相澤を秋田に訪ねてからいくばくも経っていないころであった。
「 相澤さんに酒がはいって―山科の由良さんがアーコリャコリャ酒のきげんで・・・・、
と 歌い出したときは、いちばんごきげんのいいときですよ 」
と かつて、大岸に聞いたことがあったが、
その歌を相澤が音痴もいいとこ、大きな声で歌っているところであった。
それにしても いまごろ相澤少佐の上京とは、何のためか私には想像がつかなかった。
「 少佐殿、しばらくでした。その節は有難うございました 」
私は、先日の秋田訪問のお礼を申し上げた。
「 きょうはまた何で・・・・・」
私が この質問をしたとき、
相澤は今までの愉快そうな態度から、一瞬厳しい形相に変わって、急いで脱ぎ捨ててあった軍服を着て、
ソファーから滑り落ちるようにジュウタンの上にすわった。
「 まことに申しわけないことをしました。
このたびの私のいたらなさから、赤ん坊を殺しました。
赤ん坊といえども陛下の赤子です。
なんともお詫びの申し上げようもありません。
どうかお許し下さい。
これからは、赤ん坊と二人分働きます 」
相澤は、両手をジュウタンの上についた。
私は、ただ茫然とするのみであった。
「 そのお骨を仙台の墓所に納めに行く途中で、東京に下車したわけです。
 大蔵さんに会えてよかった 」。
相澤はいい終わると上衣を脱ぎ、ソファーに腰を掛けて、またもとの愉快な表情に返った。
いまのいままで、
あの厳しい形相であった相澤の姿の中には、もはやその片鱗すらなかった。


大蔵栄一  著
二・二六事件への挽歌  から


「 大蔵さん、あなたは何ということをいわれますか 」

2017年09月10日 13時02分17秒 | 相澤三郎


相澤三郎

ある夜、
私が西田の家に行ってみると、ちょうど相澤中佐が来合わせていた。
村中も栗原もいっしょであった。
その夜はだいぶ暑かったので、冷たいものを飲みながら雑談にふけっていた。

雑談はいつか宮中における天皇周辺の人物論が話題になっていた。
明治天皇時代、西郷隆盛や山岡鉄舟などの得難き諍臣 そうしんによって王道が堅持されたのに比べて、
いまの佞臣だけが跋扈ばっこして暗澹たる妖雲となっている。
日本の不幸はすべてここに起因しているといわねばならぬ、
というような話が熱をおびていたときであった。

「 相澤さんみたような人が侍従武官にならんとどうにもならんな 」
と、私がいった。
とたんに相澤中佐の目がひかり、威儀が正された。
「 大蔵さん、 あなたは何ということをいわれますか、慎みなさい。 そんなことを私議すべきではありません。
 二度と口にすべきではありません」

一座はしーんとなった。
私はこのときのような相澤中佐のはげしい怒りのまなざしをまだ見たことがなかった。
私が相澤中佐にたしなめられたのは、あとにもさきにもこれが初めてで終わりであった。
相澤中佐は私の言葉を冗談ととったらしいが、私としてはあくまで本気でいったので、 決して悪いこととは思わなかった。
しかし私は相澤中佐のその一喝にふるえ上がった。


大蔵栄一  著 
二・二六事件への挽歌 から


相澤三郎考科表抄

2017年09月01日 06時10分29秒 | 相澤三郎


相澤三郎

相澤三郎考科表抄
考科表とは陸軍の定期異動 ( 進級、退職も含む ) の月たる八月、
それに異動のある三月、十二月の人事異動の参考に資すべく、
直属上官が作成する部下の成績表である。
官衙 ( 陸軍省、参謀本部、教育総監部など ) や諸学校においても、
もちろん局長、部長、課長、校長などにより考科表は作成されるが、
聯隊に勤務する将校 ( 中佐以下の隊付将校 ) はいずれも聯隊長がつくる。
聯隊長の考科表は師団長が作り、
少将、中将の階級にある軍人の人事は、人事局長、陸軍次官、参謀次長、
教育総監本部長、参謀総長、教育総監でほぼ決せられ、
最後の決定は官制により人事権を持つ陸軍大臣によりなされるのである。
この考科表により青年将校時代の相澤の成績は判明するし、
また後年 相澤事件を起す精神的萌芽が既にいくつかの箇所にあらわれていることは、
読まれるごとくである
・・・現代史資料23  国家主義運動3  資料解説  から

一、性質
 朴直にして活気あり、志操堅確にして高尚、
気概頗る新取の気象に富み 難局に当り不屈不撓 之を遂行せざれば止まざる風あり。
体格強壮。
ニ、出身前の経歴及出身時の景況
 明治四十一年五月三十日 陸軍中央幼年学校卒業
同月三十一日 士官候補生として 〔 福島若松 〕 歩兵第二十九聯隊へ入営、
同四十三年五月二十八日 陸軍士官学校歩兵科生徒五百九名の内九十五番を以て同校教育課程卒業。
三、勤務
 頗る熱心にして躬行率先の微風に富み、著意周到毫も労苦を厭はざるを以て実務の成績も亦良好なり。
四、学術及特有の技能
 軍事学は典令教範 其他に於て理解記憶共に良好にして其応用も概して要領を得、
外国語は仏語にして普通の会話に支障なし。
実兵指揮は号令活潑、指揮厳正にして其応用も亦概して適切なり。
体操は其技術最も長ずる所なり。
五、義務心及品行
 奉公の念厚く品行端正。
六、家政、家計
 家政は父之を掌り一家五人、相団欒し動、不動産合せて約四千五百円余を有し、
本人は勤倹質素なり。
将来将校として品位を貶おとすることなし。
七、交際の景況
 上下に対し礼儀正しく 同僚間の厚誼敦厚なり。
八、既往現時の変易及将来の見込
 気概品性共に向上の傾きあり。
亦 職務に忠実にして著意可なるを以て将来益々発達の望みあり。
・・・明治四十三年十二月  日  歩兵第二十九聯隊長  森 知之

一、本年二月 戸山学校を終へて帰隊せり。
 其の修業成績左の如し。
総員百五名中第三位    歩兵科総員七十四名中第三位
戸山学校より帰隊後体操術大いに発達し、頗る熱心にして其教育方法も亦適切なり、
将来発達の見込あり。
・・・大正二年十一月  日      歩兵第二十九聯隊長  寺西秀武

一、終始一貫誠実且熱心、其職務に勉励し其成績良好。
又 剣術に長じ志気常に旺盛なり。
将来大に発達の見込あり。
・・・大正四年三月  日    歩兵第二十九聯隊長  村岡長太郎

一、朴直にして謹厳気概に富み古武士の風あるも稍単純なり。
責任観念旺盛にして毫も労苦を厭はず常に引率力行し、範を生徒に示して指導しつつあり。
唯 思想稍単純なるを以て時に常軌を脱する嫌なきにあらざるも、
本人として誠心誠意の発露にして、従て生徒の信望は相当之れを受けつゝ在り。
要するに本人は配属将校として正確に稍欠くも、
軍隊指揮官としては性格上適切にして相当の真価を発揮し得べきものと認む。
・・・昭和四年十二月三十一日  歩兵第一聯隊長  東條英機

一、其後の服務情態を鑑察するに、熱心精励毫も変易なく成績漸次向上しつゝあり。
 又本年聯隊剣術寒稽古に当りて愛子の病中にも不拘、一日の欠席なく早暁出場し
専ら下士官兵卒の指導を補助し、其の熱心と義務心に厚きは衆人の認むる処なり。
・・・昭和五年十二月三十日    歩兵第一聯隊長  東條英機

一、性格
 純情にして木彊所謂一本調子にして感激性強く思想稍単純なるも古武士的気魄に富む。
一、服務
 大隊長として未だ成績の見るべきものなきも熱心にして率先力行範を垂れつゝあり。
一、学術技能
 久しく隊を離れありし関係上充分ならざる点あるも、素質良好にして研究真摯なるを以て進歩の見込あり。
一、統御其他
 率先垂範情味に富むを以て部下次第に心服す。
本年処分せられたるは時事に憤慨悲憤の余り、同志と相結び企画実行する所あらんとして
未発に終りし事件に因するものにして、爾来謹慎軽挙を反省するに至れり。
一、将来の見込
 思想単純 時に思慮の周密を欠き常軌を逸するの行動に出づることあるも、
一面正純なる思想を有し、尊信すべき人物なるを以て指導宜しきを得ば、好箇の隊付将校たらん。
・・・昭和六年十二月三十一日    歩兵第五聯隊長  平田重三

一、本年四月聯隊主力渡満後、留守隊大隊長として時々夜間にも出勤巡視するなど
 率先垂範 熱心其職務に精励せり。
又 部下を愛護する情味を有し部下又心服しあり。
然も其行動時に常軌を逸し、又過度に部下を愛護するの風あるを以て将来此点に注意指導せば
隊付将校として見るべきものあり。
五月十五日事件突発直後上京せんとせしも、元来其性 率直単純なるを以て爾来謹慎反省せり。
・・・昭和七年八月八日    歩兵第五聯隊長  谷 儀一

一、性朴直純情にして古武士の風あり。
 上を敬ひ下を慈む。
真に模範的武人なりと雖も、世相の変遷に伴ひ中佐の心境に一大変化を生じ、
国家改造の外 又他に興味なきが如し。
然れども世相にして一進化を遂げ得、又本人の心境一転化を來さんか、
本来の優良なる 「 彼 」 を復活するならん。
・・・昭和八年十二月二十八日    歩兵四十一聯隊長  樋口季一郎

一、本夏季 中耳炎治療して帰隊して以来別人の如く隊務に精励し、
 経理委員首座として綿密事を処理し傍ら 特務曹長、曹長に対する諸教育を担任し其成績可なり。
此状態を以て変化なからんか、独立守備隊長等に用ひ得べし。
・・・昭和九年十二月二十五日    歩兵四十一聯隊長  樋口季一郎

現代史資料23  国家主義運動3 から