あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和維新に殉じた人達

2023年02月20日 23時06分42秒 | 昭和維新に殉じた人達

人生は出逢い
昭和49年 (1974年)
19歳の私は、
二・二六事件を知り、昭和維新なるものを知った。
そして、 昭和維新に殉じた人達と出逢った。
その感動たるや、
「 勇躍する、歓喜する、感慨 たとへんにものなしだ 」


ニ・ニ六事件慰霊像
1974年.8月7日


時は滔々と流れ、

時代は進化した 令和元年 (2019年) 而今、
65歳の私は、斯の人達との出逢いを忘れないでいる。
それは 生涯 忘れることはない
茲に、吾心懐に存する斯の人達 への 吾想いを印す。


西田税              北一輝            相澤三郎中佐
 
野中四郎大尉    香田淸貞大尉      村中孝次           磯部淺一       安藤輝三大尉    澁川善助      河野壽大尉
 
竹嶌継夫中尉        栗原安秀中尉    對馬勝雄中尉     中橋基明中尉     丹生誠忠 中尉      坂井直中尉        田中勝中尉
 
高橋太郎少尉  安田優少尉    中島莞爾少尉  林八郎少尉        水上源一

昭和維新に殉じた人達
目次
クリック して頁を読む

一、  昭和維新に殉じた人達 1 ・ 先覺者 
 くさわけ・西田税
・ 明治武士 ・ 相澤三郎中佐
・ カリスマ ・ 北一輝

・ 青年將校運動のリーダー
 菅波三郎 大尉
 大蔵栄一 大尉
 末松太平 大尉   
 大岸頼好 大尉

別格 ・ 上部工作に奔走した人達
 山口一太郎 大尉
 満井佐吉 中佐

二、
昭和維新に殉じた人達 2 ・ 蹶起した人達
十九烈士
 野中四郎 大尉
 香田淸貞 大尉
 村中孝次 
 磯部淺一
 安藤輝三 大尉
 澁川善助
 河野壽 大尉
 竹嶌繼夫 中尉
 栗原安秀 中尉
 對馬勝雄 中尉
 中橋基明 中尉
 丹生誠忠 中尉
 坂井直 中尉
 田中勝 中尉
 高橋太郎 少尉
 安田優 少尉 
 中島莞爾 少尉
 林八郎 少尉
 水上源一

 参加将校

 山本又予備少尉
 池田俊彦少尉  
 常盤稔少尉 
 清原康平少尉  
 鈴木金次郎少尉
 麥屋清濟少尉 
 今泉義道少尉

下士官兵

江藤五郎中尉の死


昭和維新に殉じた人達 1 ・ 先覺者

2021年04月30日 20時54分15秒 | 昭和維新に殉じた人達

昭和維新に殉じた人達
先覺者
目次
クリック して頁を読む


くさわけ・
西田税 
吾心懐の中心は西田税
西田税の想いは、昭和49年 (1974年)、19歳の私に届いた
そして私は 此を祖父の遺言として、かならずや継承しようと誓ったのである。
昭和維新・西田税 (一) 戰雲を麾く、無眼私論、天劔党  
昭和維新・西田税 (二) 天皇に奉呈する建白書 ・・天皇と秩父宮
昭和維新・西田税 (三) 赤子の微衷  「 私は諸君との今迄の關係上、自己一身の事は捨てます 」
昭和維新・西田税 (四) あを雲の涯  「 私はこのように亂れた世の中に、二度と生れ變りたくはありません 」

西田ニ對シ、
「 君ハ何ウスルノカ 」
ト尋ネルト、西田ハ悲痛ナ顔色ヲシテ、
「 今度ハ私ヲ止メナイデ下サイ 」
ト申シマシタ。
五 ・一五事件ノ時、
其ノ一ケ月半程度前ニ私ガ西田ニ忠告シテ、彼等ノ仲間カラ手ヲ引ク様ニシタ爲、
西田ハ遂ニ裏切者ト見ラレテ川崎長光カラ狙撃セラレ、重傷ヲ受ケタノデアリマス。
爾來西田ハ、同志カラハ官憲ノ 「 スパイ 」 ノ如ク見ラレ、
此事ヲ非常ニ心苦シク感ジテ居ツタ様デアリマシタ。
其ノ後ハ、西田が起タヌカラ靑年將校ガ蹶起シナイノデアル、
西田サヘ倒セバ靑年將校ハ蹶起スルト云フ風ニ同志カラ一般ニ思ハレテ居ツタ様デアリ、
西田ハ妙ナ立場ニ置カレテ苦シンデ居リマシタ事ハ、私モ承知シテ居リマシタノデ、
西田ハ右ノ如ク 「 今度ハ止メナイデクレ 」 ト悲壯ナ言ヲ發シタ時、
私ハ胸ヲ打タレタ様ニ感慨無量トナリ、非常ニ可愛サウナ氣持ニナリマシタ。
此氣持ハ 西田ト私トノ關係ヲヨク知ツテ居ル者デナケレバ、諒解の出來難イ點デアリマス。
私ハ 只 「 サウカ 」 ト言ツテ彼ノ申出ヲ承認セザルヲ得ナカツタノデアリマス。
ソシテ 西田ハ遂ニ靑年將校ノ大勢ニ動カサレテ、
彼等ト合流シテ行カザルヲ得ナイコトニナツタカト考ヘ、
斯様ニナツタ上ハ、私モ只西田ノ行動ニ從ツテ、
唯々諾々トシテ西田ニ從ツテ行ツテヤルヨリ外ナシト覺悟ヲキメタノデアリマス。



カリスマ・
北一輝 
「 死は二つありません 」
・・と、平然として死地に赴いた。
誰か心動かさずに居られよか、此が北一輝と謂う人物なのである。
昭和維新・北一輝  「 これで維新は成ったなァ―。君、ボクのお經は必要ないよ 」


明治武士・
相澤三郎 
無口の訥弁、「 十の想ひを 一言でのべる 」 そう謂う爲人と称された相澤三郎中佐、
私の想う 日本人、明治武士の典型として、その意味では最も好きな人物である。
「愚直なまでに」  私の好きな詞である。
進化した社会に於いては、「利巧」 こそ 社会のリズム
「愚直」 は 社会のリズムを崩す 故に要らない・・とな、そんなものくそっくらえ である。

「 愚直 」 を、体現して憚らぬ 相澤三郎という爲人に私は、たまらなく愛着を感じる。
昭和維新・相澤三郎中佐  「 大悟徹底の境地に達したのであります 」

青年將校運動のリーダー
彼等は、青年将校運動のリーダー達である
併し 彼等がその中心として活動したのは、十月事件、五 ・一五事件頃迄であって、
昭和9年11月の陸軍士官学校事件 を 境に
時代は、彼等を中心から退場せしめ、村中、磯部の新たなリーダーを登場させた
彼等は時代に、置きざりにされて仕舞ったのである
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本改造法案ヲ信奉セル同志ニ對シテハ、
北ヤ私等ハ其ノ思想的中心デアルト申ス事ガ出來ルト思ヒマスガ、
改造法案ヲ熟讀玩味シ、其ノ根本理論ヲ體得シタ同志ハ多クナイト思ヒマス。
殊ニ靑年將校等ハ、熱心ニ研究シテクレル者ハ尠ナイノデアリマス。
ヨク勉強シテ改造法案ノ根本理論ヲ研究理解シテ居ル者ハ、
和歌山ノ大岸頼好 位ノモノデアルト私ハ思ツテ居リマシタ。

革新運動ニ對スル態度ハ、自重的デアル點ニ於テハ私ト同様デアリマス。
今回ノ事件ニ參加シタ行動將校等ヨリモ最モ崇敬セラレ、人望ノアルノハ、菅波三郎 デアルト思ヒマス。
大蔵大尉ハ、自分ノ身體ヲ合法的ニ動カシテ行クト云フ質ノ人デアリマス。
大岸大尉ハ、若イ時ハイ意見ヲ持ツテ居リマシタガ、最近ハ自重的トナリ、
大蔵ト反對ニ總テヲ戰略的ニ動カシ、漸次維新ノ空氣を醸成シテ行ク事ニ努力シテ居ル人デアリマス。
全國ノ靑年將校同志、就中若イ大尉カラ中少尉マデノ同志ノ中心的立場ニ居リ、
絶大ノ信頼ヲ受ケテ居ル人ハ、大岸大尉/菅波大尉 ノ兩名デアルト思ヒマス。

・・・西田税 


菅波三郎大尉  大蔵栄一大尉  末松太平大尉
昭和維新・菅波三郎大尉  「 なにッ、鉄血章、誰がいった 」
昭和維新・大蔵榮一大尉  「 時に大蔵さん、今日本で一番惡い奴はだれですか  永田鐵山ですよ 」
昭和維新・末松太平大尉  あんたは在京部隊の將校を利で誘いましたね 」


大岸頼好大尉
昭和維新・大岸頼好大尉  「 將軍たちがえらく  『 改造方案 』 を きらうんでね 」

別格 ・ 上部工作に奔走した人達
昭和維新を希志て、
彼らも亦、
渦卷く濁流の中に自ら飛込だのである。

山口一太郎大尉  満井佐吉中佐
昭和維新・山口一太郎大尉  赤子の微衷  「 行動將校ト一緒ニナッテモヨイト思ヒマシタ 」
昭和維新・満井佐吉中佐   赤子の微衷  「 帝國ホテルの會合 」


昭和維新に殉じた人達 2 ・ 蹶起した人達

2021年04月29日 20時20分38秒 | 昭和維新に殉じた人達

澁川善助から、 この秋に東京はいよいよ蹶起するときいた末松は、
二度と帰らない覚悟で、身の廻りの整理をして青森を発った
そして、千葉の歩兵学校にきている青年将校二十人ばかり結集して、
東京の蹶起にそなえたのである
しかし、いつまでたっても 東京は蹶起する気配がない
村中大尉に問いただすと 「 何かの間違いだろう 」 と いった
腹立ちまぎれに 「 東京は、どうせ起つ気はないんでしょう 」 と いった末松に、
温厚な村中大尉もおこって 「 起つときがくれば起つさ 」 と 叱りつけた
村中に叱られて、腹の虫のおさまらない末松は、
「 東京の連中はだらしないですよ 」 と、その尻を西田税にもっていく・・・
・・・
悲哀の浪人革命家 ・ 西田税  
末松が 西田に八つ当たりまでして言った 『 東京の連中 』 こそ、
時代が、新たに登場せしめたものであり、二・二六事件は その彼等が起したものである
そして、『 東京の連中 』 の、リーダーは、 村中 磯部 であった

「 やがて西田の心が、燃えさかるような炎から
じっくり志を育て実らせる地熱へ変って参りましたあとへ、
青年時代の西田そのままの磯部さんが登場し、
代って座を占めたという実感を、すぐ傍に居りましたわたくしはもっております 」・・・西田はつ


西田税              北一輝            相澤三郎中佐
 
野中四郎大尉     香田淸貞大尉     村中孝次          磯部淺一        安藤輝三大尉     澁川善助       河野寿大尉
 
竹嶌継夫中尉        栗原安秀中尉     對馬勝雄中尉   中橋基明中尉     丹生誠忠中尉        坂井直中尉       田中勝中尉
 
高橋太郎少尉  安田優少尉     中島莞爾少尉   林八郎少尉         水上源一


昭和維新に殉じた人達
蹶起した人達

目次
クリック して頁を読む

十九烈士

昭和維新・野中四郎大尉 赤子の微衷  「我れ狂か愚か知らず 一路遂に奔騰するのみ」
昭和維新・香田淸貞大尉 赤子の微衷  「國家の一大事でありますぞ」
昭和維新・村中孝次 (一) 粛軍に関する意見書  陸軍士官學校事件 「やるときがくれば やるさ」
昭和維新・村中孝次 (二) 赤子の微衷 勝つ方策はあったが、 あえてこれをなさざりし
昭和維新・村中孝次 (三) 丹心録 「前衛ハ全滅セリ」
昭和維新・磯部淺一 (一) 赤子の微衷 男子にしかできないのは 戰爭と革命だ、俺は革命の方をやる」
昭和維新・磯部淺一 (二) 行動記  「ヤッタカ ! !  と 問へば、 ヤッタ、ヤッタ と 答へる。」
昭和維新・磯部淺一 (三) 獄中手記  「天皇陛下は青年將校を殺せと仰せられたりや」
昭和維新・磯部淺一 (四) 獄中手記、獄中からの通信  「北、西田兩氏を助けてあげて下さい」
昭和維新・磯部淺一 (五) 獄中日記  「何にヲッー、殺されてたまるか、死ぬものか」
昭和維新・安藤輝三大尉  赤子の微衷  「磯部安心してくれ、俺はヤル、ほんとうに安心してくれ」
昭和維新・澁川善助  赤子の微衷  「兵隊が可哀想ですって、全國の農民が、可哀想ではないんですか」
昭和維新・河野壽大尉  赤子の微衷  「とびついて行って 殺せ」
昭和維新・竹嶌繼夫中尉  赤子の微衷  「吾れ誤てり、噫、我れ誤てり」
昭和維新・栗原安秀中尉 
赤子の微衷  「お前は自分の兵器を手入れすればよい」
昭和維新・對馬勝雄中尉  赤子の微衷  「今日菅原軍曹と一緒に討入りをするのだ」
昭和維新・中橋基明中尉 赤子の微衷  「みなさん! 必要なのは粛軍! それゆえ我々は蹶起したのです!」
昭和維新・丹生誠忠中尉  赤子の微衷  「手錠までかけなくても よいではないか」
昭和維新・坂井直中尉 赤子の微衷  「蹶起の際は 一中隊を引率して迎へに來い」
昭和維新・田中勝中尉  赤子の微衷  「面白いぞ」
昭和維新・高橋太郎少尉  赤子の微衷  「姉は・・・・」
昭和維新・安田優少尉   赤子の微衷  「軍は自ら墓穴を掘れり 」
昭和維新・中島莞爾少尉  赤子の微衷  「不義を知って打たざるは不忠なりと信じて奸臣を斬ったのであります」
昭和維新・林八郎少尉  赤子の微衷  「やった者でなければ分からない」
昭和維新・水上源一   赤子の微衷  「私の信念は尊皇絶對です」

参加将校
   
山本又予備少尉  池田俊彦少尉       常盤稔少尉   清原康平少尉  鈴木金次郎少尉 麦屋清済少尉  今泉義道少尉

昭和維新・山本又豫備少尉  赤子の微衷  「革命は血なくしては成らず」
昭和維新・池田俊彦少尉  赤子の微衷  「私も參加します」
昭和維新・常盤稔少尉  赤子の微衷  「グズグズいうな、それならお前から斬る
昭和維新・清原康平少尉  赤子の微衷  「我々は一戰を交えても勅命を遵奉するがそれでもよいか」
昭和維新・鈴木金次郎少尉   赤子の微衷  「全將校はこれから議事堂に集合してハラキリだ」
昭和維新・麥屋清濟少尉   赤子の微衷  「大佐殿、ここを通らないで軍人會館に行って下さい」
昭和維新・今泉義道少尉  赤子の微衷  「よし決心だ! 余は行動を倶にせんとす」


昭和維新・北一輝

2021年04月28日 16時44分53秒 | 昭和維新に殉じた人達

判決は有罪であろうが無罪であろうが、
そんなことは考えていません
ただ私の著書 日本改造法案大綱  を愛讀信棒したのが遠因で、
靑年將校等が蹶起したとしたら
私は責任上當然彼等に殉ずる覺悟でいました
私に對する判決などどうでもよいのです
死は二つありません


國家改造法案は不逞思想ではない
やがていつかは日本が行きづまった時、私の所説が必要になってくるだろう。
私の改造論を実現しようとして、靑年將校たちが蹶起したとは思わないが、
彼らはもう既に處刑されている
私も彼らに殉じて喜んで死刑になる気持ちでいる

北一輝 

先ず事件前の事と致しましては
私は西田一人のみから聞知した事であります
最初第一に私が西田から聞きましたのは 本年二月十五日前後と思ひますが、
西田は當時相澤公判に全力を傾注して居りまして 多く相澤公判に關する話をして居りましたが、
此時 西田が申しますには
「 公判廷に於て弁護人側より申請する證人を裁判長が却下する場合には
 靑年將校は或は蹶起するかも知れぬ様な風に見える 」
と 一言申しました
其後 二月二十日頃と思ひますが西田が參りまして
「 愈々靑年將校は蹶起する 」
と 申して、其の急に蹶起する理由として、
一師團が愈々満洲に派遣される事になったので二年間も東京に居なくなる
自分等 ( 靑年將校 ) が居なくなると重臣ブロック其他の惡い勢力が再び勢を盛返して來る
自分等 ( 靑年將校 ) も満洲に行って一命を捨てるのだが せめて君側の奸臣等を一掃して
昭和維新の捨石になり度いと云ふ気持ちであると云ふ事を話ました
それで西田が云ふには
「 是はもう大勢である 今迄の様に吾々の一人二人の力で押へることも何うする事も出來るものではない 」
と云ふ意味の事を私に申し聞かせました
其時私は尤もの事であるから或は蹶起するであらうかとも思ひ、
又は さうならないのではないかとも考へ、半信半疑の様な心持で聞いて居りました
次に二月二十二・三日頃と思ひます 西田が參りまして
「 愈々決行することになった、
 襲撃目標は 岡田総理 齋藤内府 高橋蔵相 渡邊教育總監 鈴木侍従長 牧野伸顕 西園寺公
を殺ると靑年將校の方で決定しました
西園寺公は豊橋の聯隊で殺る事になって居ります 」
と 云ふ事を話しました
尚話が續きまして
「 皆は池田成彬を殺ると云って居りますが自分 ( 西田 ) としての考へは三井の主人公、
 三菱の主人公を殺る方が至當と思って居るが、
主人公等は今邸内に居るかどうか又邸内の様子も探っていないので今色々と考へて居る 」
と 申しました
「 伊澤多喜男、後藤文夫等も色々と考へて居る 」 との話しでした
( 考へて居ると云ふのは未だ決定はして居ないが人選中と云ふ様な意味に私は解釋しました )
其処で私は申しました
「 靑年將校で既に決定した事は自分は何も言はないが、
井澤多喜男の如きは齋藤、牧野 等と云ふ大木によって生きて居る寄生木に過ぎないと思ふ
夫れ等 大木の重臣を倒して仕まへば寄生木のあれ等は もう惡い事をする力も無くなるのであらう
殊に後藤文夫の様な二、三流の者迄も殺すには及ばんではないか 」
と 申し、私は
「 已むを得ざる者以外は成る可く多くの人を殺さないと云ふ方針を以てしないといけませんよ 」
と 申しました
西田は返事をしませんでしたが非常に考へ深い顔をして私の申す事を聞いて居りました
確か其の翌日と記憶してをります、
西田が參りまして決行する事に就て話がありましたが多く雑談的に話しました
其内に記憶して居りますことは、
山口大尉 ( 山口一太郎 「 本庄侍従武官長の女婿 」 ) が週番となって居るので、
聯隊長代理をやるので、出動部隊の行動を妨害されないであらう、 と 云ふ様な話もありましたし、
又 栗原中尉 安藤大尉 香田大尉等 私の知って居る人の出動することも話しましたし、
又 村中君、磯部君等の參加出動する事も話しました、
又 牧野が湯河原温泉な居る事が瞭かになつた事を話し、
夫れには東京の部隊から出動して行く事も話しました
又 何中隊、何中隊が出ると云ふ様な事も話しましたが、
私は軍事上の知識がありませんので 私は只 大部隊の出動すると云ふことと、
前記の將校等が出動すると云ふ事だけを記憶してをります
其時西田は 眞崎内閣、柳川陸相 と云ふ様な処が皆も希望しているし、
自分 ( 西田 ) も夫れが良いと思って居ると私に申しました
私は
「 眞崎、荒木は矢張一體にならんといけないんではないか 」
と 問ふて見ました
西田は
「 荒木は前の時 ( 陸相の時 ) に 軍内の粛正も出來ず、
只言論許りで最早試験濟みと云ふ様に皆は考へて居る様です
荒木は関東軍司令官になるのが、荒木の 「ロシア」 知識、其他人物から見て
一番荒木の爲にも、國家の爲にも良かろうと考へて居る 」
と 申しました
又 事件勃發と同時に山口大尉から本庄武官長に知らせる事になって居る
と 云ふ事も私は聞かされました
・・・ 其後二十五日夜八、九時頃と思ひます、西田が參りまして、
・・・ ・・・其時西田は、明朝決行する事を私に話し
又 「 豊橋部隊の都合上西園寺は止めにしました 」 と 申し
「 又 龜川君から千五百圓丈け都合して貰った 」 と 申し、
「 如何に金がいらんと言っても矢張り少しはいるのだから」
と申しました 其時も前日來の事を繰返して
「 貴方は私から何も聞かない事になつて居るのですから其積りで居て下さい 」
と 固く申して行きました
西田から私に話された事は此れだけであります
尚 村中が二月二十二、三日頃と思ひますが 村中がやって來ました
「 吾々は愈々決行します 」 と 只一言申しました
私は西田から聞いて居ましたので何も村中に質問も致しませず、
村中も西田を押し除けて私に色々云ふ様な事がありませんので 外の話をしてすぐ歸りました
以上が事件前の全部であります

・・・
北一輝 1 「 是はもう大勢である 押へることも何うする事も出来ない 」 

「やあ暫らく、愈々やりましたね、
就いては君等は昨日臺灣の柳川を總理に希望してゐると云ふ事を
軍事參議官の方々に申したさうだが、東京と臺灣では余り話しが遠すぎるではないか、
何事も第一善を求めると云ふ事はかういふ場合に考ふ可きではありません
眞崎でよいではないか、
眞崎に時局を収拾して貰ふ事に先づ君等青年將校全部の意見を一致させなさい
さうして君等の意見一致として軍事參議官の方々も、
亦軍事參議官全部の意見一致として眞崎を推薦する事にすれば、
即ち陸軍上下一致と云ふ事になる
君等は軍事參議官の意見一致と同時に眞崎に一任して一切の要求は致さない事にしなさい
そして呉れ呉も大權私議にならない様に軍事參議官に御願ひする様にしなさい」
更に私は念を押して、
「 良く私の云ふ意味が判りますか、 意味を間違へない様に他の諸君と相談して意見を一致させなさい 」
電話の要旨し以上の通りで、午前十時過ぎと思ひます
尚 西田と村中との電話で話して居るのを機會に私が電話に出まして
村中に向っても、栗原に申したと同一の言葉を以つて青年將校の意見一致を 急速にする様に説き勧めました
此時、栗原も、村中も
「皆と相談して直ちに其様に致します」
と 云ふ返事でありました
・・・
北一輝 2 「 仕舞った 」 

社會に對する認識及國内改造に關する方針
一言にして申しますれば、
現在の日本は其の内容は經済的封建制度とも申すべきものであります
三井、三菱、住友等を往年の御三家に例へるならば、 日本は其の經済活動に於て、
黄金大名等の三百諸侯に依って支配されて居るとも見られます
随って政府の局に當る者が、政党にせよ、官僚にせよ、又は軍閥にせよ、
夫等の表面とは別に、内容は經濟的大名等、
即ち財閥の支持に依て存立するのでありますから、
總て悉く金權政治になって居るのであります
金權政治は、如何なる國の歴史も示す通りに政界の上層部は勿論、
細末の部分に亘りても、悉く腐敗堕落を曝露する事は改めて申す迄もありません
最近暗殺其他、部隊的の不穏な行動が發生しましたが、
其時は即ち金權政治依る支配階級が、其の腐敗堕落の一端を曝露し始めて、
幾多の大官、巨頭等に關する犯罪事件が續出して、
殆んど兩者併行して表はれて居る事を御覧下されば御判りになります
一方日本の對外的立場を見ます時
又 欧州に於ける世界大二大戰の氣運が醸成されて居るのを見ます時、
日本は遠からざる内に對外戰争を免かれざるものと覺悟しなければなりません
此時戰争中又は戰争末期に於て、
前例、ロシヤ帝國、獨逸帝國の如く國内の内部崩壊を來す様なことがありましては、
三千年の光榮ある獨立も一空に歸する事となります
此点は四、五年來漸く世の先覺者の方々が認識して深く憂慮して居る処であります
其処で私は、最近深く考へまするには、
日本の對外戰爭を決行する以前に於て
先ず合理的に國内の改造を仕遂げて置き度いと云ふ事であります
國内の改造方針としては、金權政治を一掃する事、
即ち御三家初め三百諸侯の所有して居る冨を國家に所有を移して、國家の經営となし、
其の利益を國家に歸属せしむる事を第一と致します
右は極めて簡單な事で、之等諸侯財閥の富は地上何人も見得る処に存在して居りますので、
單に夫れ等の所有を國家の所有に名義変更をなすだけで濟みます
又 其従業員即ち重役から勞働者に至る迄、
直ちに國家の役人として任命する事に依りて極めて簡單に片付きます
私は人性自然の自由を要求する根本点に立脚して、
私有財産制度の欠く可からざる必要を主張とて居ります
即ち 共産主義とは全然思想の根本を異にして、
私有財産に限度を設け、
限度内の私有財産は國家の保護助長する処のものとして法律の保護を受くべきものと考へて居ります
私は約二十年前、資産限度は壱百萬圓位で良からうと考へましたが、
之は日本の國冨如何に依る事でありまして、
二百萬圓を可とし、三百圓を可とすると云ふ様な實際上の議論は共に成立つ事と存じます
只根本原理として皇室に雁行するが如き冨を有し、
其冨を以て國家の政治を壇に支配するが如きは、
國家生存の目的からしても許す可からざるものであり、
同時に共産國の如く國民に一銭の私有をも許さぬと云ふ如きは、
國民の自由が國家に依って保護さるべきものなりと云ふ、自由の根本原理を無視したものとして、
私の主張とは根本より相違するものであります
故に私の抱懐する改造意見としては日本現在に存する、
一、二百萬圓以上の私有財産を ( 随って其の生産機關を ) 國家の所有に移す事だけでありまして、
中産者以下には一點の動揺も与へないのを眼目として居ります
若し此點だけが實現出來たとすれば、
現在の日本の要する歳出に對しては
直ちに是等の収益だけを以て充分以上に足りて餘りあると信じます
即ち 今の租税の如きは其の徴収の必要を認めなくなります
此事は根本精神に於いて國民の自由と平等が ( 即ち當然國民の生活の安定が )
國家の力に依って保護助長せらるべきものなりと云ふ事を表はして居るのであります
従って維新革命の時に已むを得ざる方便として存在せしめて居る今の華族制度は
封建時代の屍骸として全廢する事の如きは言ふ迄もありません
日本の國體は一天子を中心として萬民一律に平等差別であるべきものです
夫れでは如何して此の改造を實現すべきかの手段を申上げます
此の改造意見は日本に於いてのみ行はれ得るものであります
即ち 聖天子が改造を御斷行遊ばすべき大御心の御決定を致しますれば
即時出來る事であります
之に反して 大御心が改造を必要なしと御認めになれば、
百年の年月を持っても理想を實現することが出來ません
此點は革命を以て社會革命をなして來た諸外國とは全然相違するので、
此點は私の最も重大視して居る処であります 私は皇室財産の事を考へました
皇室財産の歴史は歸する処徳川氏時代の思想的遺物に加へて
欧州王室等の中世的遺物を直譯輸入したものであります
日本皇室は言ふ迄もなく 國民の大神であり、國民は大神の氏子であります
大神の神徳に依りて國民が其の生活を享楽出來るものである以上、
当然皇室の御經費は國民の租税の奉納を以てすべきものでありまして、
皇室が別に私有財産を持たれて別途に収入を計らるゝ事は
國體の原理上甚だ矛盾する処と信じて居ります
一方、 共産党の或者の如きは皇室に不敬を考へる時、
日本の皇室は日本最大の 「 ブルジョア 」 なり
と 云ふ如き誤れる認識を持つ者を見るに就きましても、
皇室財産と云ふ國體の原理に矛盾するものは是正する必要ありと思ひます
私は皇室費として数千萬又は一億圓を毎年國民の租税より、
又は國庫の収入より奉納して御費用に充て、皇室財産は國家に下附すべきものと考へて居ります
此の皇室財産の國家下附と云ふ事が私の改造意見實行の基点を爲すものであります
聖天子が其御財産を國家に下附する模範を示して、
國民悉く 陛下の大御心に従ふべしと仰せらるゝ時、
如何なる財閥も一疑なく 大御心に從ふべきは、火を賭るより瞭かなりと信じます
即ち 諸外國に於ける如き流血の革命惨事なくして、
極めて平和に滑らかに改造の根本を建設することが出來ると信じます
私は十八年前(大正八年) 「
日本改造法案大綱  」 を 執筆しました
其時は五ケ年間の世界大戰が平和になりまして日本の上下も戰爭景気で、
唯 ロシア風の革命論等を騒ぎ廻り 又 ウィルソンが世界の人気男であったが爲に、
其の所謂以て非なる自由主義等を傳唱し、
殆んど帝國の存在を忘れて居る様な狀態でありました
從って何人も稱へざる世界第二大戰の來る事を私が其の書物の中に力説しても、
亦私が日本が大戰に直面したる時 獨逸帝國及びロシヤ帝國の如く
國内の内部崩壊を來す憂なきや如何等を力説しても、
多く世の注意を引きませんでした
然るに、四、五年前から漸く世界は
第二次大戰を捲き起こすのではないかと云ふ形勢が 何人の眼にもはっきりと映って參りましたし、
一方國内は支配階級の腐敗堕落と農民の疲弊困窮、中産者以下の生活苦勞等が
又 現實の問題として何時内部崩壊の國難を起すかも知れないと云ふ事が
又、識者の間に認識せられ憂慮せられ參りました
私は私の貧しき著述が 此四、五年來社會の注意を引く問題の時に
其一部分の材料とせらるゝのを見て、 是は時勢の進歩なりと考へ、
又 國内が大轉換期に迫りつつある事を感ずるのであります
従って國防の任に直接当って居る青年將校、
又は上層の或る少數者が、外戰と内部崩壊との観點から、
私の改造意見を重要な慘考とするのだとも考へらるるのであります
又私は 當然其の實現のために輔弼の重責に當る者が大體に於て此の意見、
又は此の意見に近きものを理想として所有して居る人物を希望し、
其 人物への大命降下を以て國家改造の第一歩としたいと考へて居たのであります
勿論世の中の大きな動きでありますから、他の當面の重大な問題 例へば 統帥權問題の如き、
又は大官巨頭等の疑獄事件の如き派生して、
或は血生臭い事件等が捲き起こったりして、
實現の工程はなかなか人間の智見を以ては豫め豫測する事は出來ません
從って豫測すべからざる事から吾々が犠牲になったり、 獨立者側が犠牲になったり、
総て運命の致す処と考へるより外何等具體的に私としては計畫を持っては居りません
只私は 日本は結局改造法案の根本原則を實現するに到るものである事を確信して
如何なる失望落胆の時も、此確信以て今日迄生き來て居りました
即ち 私と同意見の人々が追追増加して參りまして一つの大きな力となり、
之を阻害する勢力を排除して進む事を將來に期待して居りました
兩勢力が相對立しまして改造の道程を塞いで如何とも致し難い時は、
改造的新勢力が障害的勢力を打破して、
目的を遂行する事は又、當然私の希望し期待する処であります
但し 今日迄私自身は無力にして未だ斯の場面に直面しなかったのであります
私の社會認識及國内改造方針等は以上の通りであります

・・・
北一輝 3 「 大御心が改造を必要なしと御認めになれば、 百年の年月を持っても理想を実現することが出来ません」 

北輝次郎、西田税は
昭和十一年二月二十六日事件に參加した
香田清貞、安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部淺一等の叛亂行為に教導荷担し、
北輝次郎、西田税は叛亂の主動者として行動したるものなり。
以上の如く
北輝次郎、西田税の兩名は我國現下の情勢を目し、
建國の精神に悖り 惡弊累積せるものとなし、
痛く國家 並に皇軍の前途を憂慮するに至りたるはこれを諒とすべきものありと雖も、
苟も皇軍を利用して國家革新の具に供せんことを企圖し、
密に一部青年將校等に接近し、
急進矯激なる思想を注入宣傳し、
終に統帥大繼を破壊するの結果を招來するに至らしめたるは、
その罪重且大なりと認むべくによって、前記の如く處斷せり。
・・・北一輝、西田税 判決 ・首魁 死刑 


・・・
あを雲の涯 (二十二) 北一輝 


昭和維新・西田税 (一) 戰雲を麾く、無眼私論、天劔党

2021年04月27日 16時02分37秒 | 昭和維新に殉じた人達


西田税 
戰雲を麾く
人生は永遠の戰ひである。
げに、ともすれば侵略し鞏梁ならんとする
彼の醜陋卑劣なる我慾 利己 放縦安逸淫蕩驕恣などの邪惡を折伏すること、
又 正善を確立具現することは、一個不可分なるべき魂の戰ひである。
然して、そは自ら正しく行はんがために、思索討究實践である。
吾が魂の衷に於て、又 魂の外に於て、---自ら正善の確立具現者たると共に、
余の人々の正善への指導者たることを要する。
嗚呼、吾等は戰はねばならぬ。
然して、一切に克たねばならぬ。
吾等の心願は、内外一貫して眞なるもの善なるもの美
かくして吾が戰ひの生に二十四年は暮れた。
此の一篇は
「 戰闘的人生 」 と 共に、
吾人生を語るべき永遠の 「 かたみ 」 である。
大正十三年十二月朔ついたち    西田  税
・・・
戦雲を麾く 1 「 救うてやる 」 

台賜の光榮は余何等報ずる所なかりしを以て知る人なしと豫測せしに、
豈計らんや、數日前 吾故郷の新紙は余の冩眞を掲げて告ぐる所あつたといふ。
遭難と光榮とを併せ挨拶せられしとき、余は答ふるに言葉なかつた。
---将来の志願は余自身のみ之れを知る。
余の從來の學績を知る者凡てが余に期待する所は、功利榮達の將來である。
双親亦児に欣喜の情を賜はるにつけて、堪へられぬ心の辛さに獨り飲泣した。
今も尚、天才---立身榮達の世評と期待とは余の故郷に於ける人々の所有である。
嗚呼、何たる寂しさぞ。
唯々余は、兄を失ひて哀愁尚新たなる双親を喜ばしめし一事を、
儚はかなくも孝の一端と自ら心を慰めた。
在京の友より、
「 君 中央本科に入校の上は第二皇子 淳宮殿下の御學友に決定せり折自重 」
の 報を得て、
宿年の希望に一縷いちるの光明を画きつゝ故山の風光に心身を養うた。

・・・
戦雲を麾く 3 「 淳宮殿下の御学友に決定せり 」 
  宮本が或日、満川氏と会見の一事を語つて猶存社を話した。
そは宮本 福永 平野 の三人が満川氏に招かれて、
一切の猶存社の内容と經歴てを示され、赤心を吐露せられしことであつた。
そして彼は猶存社に北氏と会見せしことを併せ語り
「 眞に恃たのむべきは猶存社でなからうか 」 と 告げ、
満川氏より借りたる北氏著 「 支那革命外史 」 一巻を置いて歸つた。
  満川亀太郎
猶存社---余は時宛かも病床のつれづれに他の患者から借りし
月後れの雑誌 「 寸鐵 」 紙上に 「 猶存社の解剖 」 なる
望月茂氏の筆になれるものを讀み、概要を知つて居た。
そして、そが鹿子木氏 満川氏 等の本塁なることに深甚の望みを寄せて居た。
曾つて川島浪速氏から寄贈されし 「 告日本國 」 の譯者にして
日印協會脱退の悲壯なる宣言の筆者なる大川周明氏の名も見た。
北一輝氏の名は、これを聞くこと始めであつたが、單なる數頁の文章中に閃めく或ものを見た。
人知れず思ひを寄せて居た同社のことを、然もそれとの交渉を宮本に聞いたとき、
余は 「 何たる奇遇ぞ 」 と 思つた。
其日、余は宮本に告ぐるに此事を以てし、然して是く言つた。
---「 余不幸にして病床に在り。君等労を厭えんふ所なくんば、願ふ。」
かくして其日は別れた。
余は直ちに病床に筆を把つて満川氏に宛て一書を認め、
先日寄せられし見舞状の礼と併びに宮本より委細承りしことを告げ、
宣敷依頼する旨を附加して郵送した。
爾來一週目、余は魅入らるる如く北氏の書を讀んだ。
眼界が殊に明るくなる如く覺えた。
然して是れこそげに天下第一の書なりと思つた。
・・・
戦雲を麾く 6 「 是れこそげに天下第一の書なり 」 

幾年の心願---そは秩父宮殿下に接近の大業である。
然も至嚴なる側近侍臣の警戒を突破して、革命日本建設を論諍し奉る決死的壯擧である。
さり乍ら、何故に此壯擧を企圖するのか。
---これ實に世の社會運動者と道を異にする所以である。
余が多年思索の結果なる哲學的信仰は、その具現を天皇に見得た。
二十四年の歩める道を顧るとき、
天皇の國---大日本國の一人として出世の本道を眞直ぐに
( 些いささかも横に歩むことなく ) 歩み來りし至幸を、降天籠の恩遇と萬謝せざるを得ぬのである。
余は余の戰闘的精神---最高我を、日本國に於て 天皇に求め得た。
然もそは日本の外なる一切の人類が通ずべくある。
日本の躍進によりて初めて個々の躍進が完全である。
然も今之れを見るに、日本は條理を逸せる混亂の有様である。
今こそ日本の衷なる最高我の發動して日本が生の飛躍をなすべき秋である。

余はこの故に 世の衷なる最高我を以て、
日本の衷なる最高我の合一の道を選んだのだ。
秩父宮に接近とは單なる宮への接近ではない。
實に宮を透して---宮の最高我を透して、
日本の最高我、---天皇への接近である。

げに、革命といひ改造といふも、そは決して最高我の變更でない。
そは良心の變更とも言ふべき妄想なるが故だ。
又國家を否む者等は人生に戰闘的精神を見出し得ず、
理想を設定することに余りに無帽低劣なる浅薄者共だ。
げに國家とは戰闘的精神に生くる人類の最上なる力である。
然して日本に於けるそが主宰は天皇である。 至極の大願を遂げる日は來た。
そが最初なる日は來た。
大正十一年七月二十一日の夕べ、
夕陽已に武蔵野の西に沈んで
ほの暗い老樟くすのきの葉陰に 蜩ひぐらしが泣く市ヶ谷臺上に始まったのである。
實に其日、余は補欠現地戰術のため早朝八王子附近に向け出發した。
炎暑の中に病後の蠃軀らたいをあへぎあへぎ、日野臺を東西南北して、
午後四時前再び列車の人となつた。
校門を入りしとき已に午後六時をすぐる 正に五分。
夕食早くも終りて校庭に三々五々逍遙しょうようして居る。
ト、宮本が疾駆して來た。
「 時期が來たぞ。今から殿下が秘密にお会ひになるそうだから、早く來て呉れ。兜松の附近だ。」
斯う言つた彼に、秘献すべき書の携行を依頼して余は食堂に急いだ。
さまざまに思ひ巡らしつゝ食事もそこそこに、
余は腰ななる軍力と圖囊とを自習室の机に投げ出して長靴のまゝ去つた。
薄暗き老樟の下陰、兜松の踞うずもれる傍らに四五名の人影が見ゆる。
宮本 福永 平野 潮の諸友が宮を中央にし、宮本が何事か申上げて居た。
あたりに人影はない。
余は其処に行つた。
「 西田、代わつて申上げて呉れ 」
こう言つて宮本は話を斷つた。
余は玆に於て、 同志團結の經過、 猶存社との提携、
日本國内外の形勢、 亜細亜の現狀 等を論述し、
特に國内の思想、運動等を一々立證進言した。
そして 日本は速やかに改造を斷行せずんば 遠からず内崩すべきこと、
日本は單に自己の安全の爲めのみならず 實に全世界の奴隷民族のために
---亜細亜復興のために選ばれたる戰士なることを力説した。

日はくれた。 此日は福永の淨冩せる 改造法案 竝 支那革命外史
第十一時 日本文明史 奪はれたる亜細亜 等數篇を捧呈して別れた。

二十二日も宮を擁して論諍を敢てした。
此日は午後六時半から大食堂で自然色活動冩眞が催さるゝ筈だつた。
殿下の御來場がなければ始められないので、開始時刻が近づくに宮の御姿が見えず、
御付武官や四五の御學友は血眼になつて校内を尋ね歩いたといふ。
げに一分後るれば、 非常の事を惹き起すべき形勢にあつた。
余等は心ならずも五分前に話を中止してわかれわかれに大食堂に向つて歩を移した。

「 日本の無産階級は果して如何なる思想狀態にあるか 」
とは 宮が余に質ねられし一句である。
余は奉答した。
「 我國の所謂 無産労働階級は、
極度に虐げられて其生活已に死線を越ゆる奴隷の位置にあり。
そは国民の大多數なると共に、彼等は一部少數の特權階級資本家等のために
天皇の御恩澤に浴し得ざる窮狀に沈淪せり。
彼等正に恐るべき者とは佐倉宗吾を解せざるも甚しき者。
明かに見る、同盟罷業ひぎょうや普選運動が常に失敗に歸する如き。
然もそれ等は皆な、一部の主義者策士共の利の爲めにする煽動によりて
妄言濫動らんどうを敢てすることに原因せり。
・・・・げに、日本改造すべくんば天皇の一令によらざるべからず。
・・・・更に是の明白なるを見る、天皇は國際的無産勞働階級たる日本の首領にあらずや。
國民の大多數を占むる無産勞働階級と天皇とは離るべからざる霊肉の關係にあるもの。
そが敵は日本を毒する外國と國内に巣くへる特權階級資本家等どもなり。・・・・」
「 余は境遇止むを得ず、漸次下層階級の事情に疎遠を來すに至る。
必ず卿等きみらは屡々報ぜよ。」
宮は斯く宣うた。 余は捧呈文を必要なしと認めて、其夜寸斷した。

ちりぢりに散りゆく運命の日が明日に迫れる二十七日、
数年或は数月相伴はれて一つの道を歩み來れる余等一團の者は、
又なく寂寞じゃくばくに襲はれて居た。
卒業---來るべき任官、恐らく人々の心は希望に燃へ、愉快に充ちて居るであらう。
さり乍ら、余等の魂を焦がすものは、任官や卒業のそれでない。
純正日本建設の日の國民の喜びである。 然も同志ちりぢりの別れは寂しい。
二十七日の夜、
明日は卒業歸隊と多くの者等が東奔西走の騒々しさを他所にして、
余等は月暗き寂寞じゃくばくの雄健祠前の森蔭に集つた。 宮本の居ぬのに誰も気付かなかつた。
余は今迄共に歩み來りし因縁を謝し、
永遠に斯道を精進して理想の光明を見ねばならぬと告げ、
分散後は特に聯絡を希望すると附言した。
一堂は此処に種々なる思ひを交はして居た。
此時、宮本が息せき切って來た。 彼は余に宮の御言づけを語つて、斯く言つた。
此日の夕食後、突然宮が自習室にお越しになり、宮本を招いて校庭人なき処に伴はれ
「 同志諸君と今一度泌々話したいが多忙なるが故か見へぬから、
黄みり宜しく伝へて呉れ給へ 」
と 宣うて、 自ら皇族たる位置に於て體験せらるゝ不義潜上なる臣僚のこと、
皇族の間に渦巻く非常の痛心事等を一々指示遊ばされ、
日本國の前途に至心の憂悶を明かし給ふた。
そして同志諸君の鐵心石腸に恃たのむ所 深甚なるものがあると告げ給ひ、
「 君等への消息は斯人宛に郵送せよ 」 とて 一葉の紙片を賜つたのである。

拭ひ難き憂心と悲痛とに、宮の御双眼は暗にも光る露の御涙を拝して、
腸寸斷の思ひに泣いたと彼は語つて、彼の紙片を示した。
此御紹介の忠士こそ、實に今は余と刎頸ふんけいの契りある宮附の曾根田泰治其人であつた。
然も彼は近侍中最も下級なる半任文官であつた。
余は、宮の御心事を察し奉りて限りなき感慨に捉とらはるると共に、
粛然襟を正さざるを得ぬ精神の緊張を覺えた。
眞に一切を決すべき思ひがした。
そして、何知らず眼先が曇つて、瞼の熱くなるのを感じた。
一同に向ひ 余は此の顚末を語り、更に余が知れる限り宮中の弊事を指摘した。
「 必ず---日本國を救ふのだ 」 一同は互ひに手を握り合うた。
雄健祠前に打揃ふて額いた後、余等は分れた。
其後、遂にまんじりともせず臺上最後の夜を明してしまつた。

二十八日正午稍ようやく過ぎ---
「 永らく御厄介になりました。どうぞ一しょに國家の爲め盡しませう。」
との 宮の御告別を、さまざまに胸に画きつゝ 宮を校門に御送りした。
もう終生あのお姿を拝し得ぬかも・・・・余は師友に別れを告げ、
午後一時半 一枚の卒業證書を手にして學校のダラダラ坂を下りた。
かくして前後七年の戰ひの一幕を終へて、余は遂に次なる大戰の巷に出たのである。
あゝ、市ヶ谷臺上の甍の色よ。 翠みどりの松よ。
四ツ谷の坂に立停つて振り顧つたとき、
台上の武學舎は無言のままに眞夏の青い空に聳そびへ立つて居た。
---一切を秘めて、さながら巨人の如くに。
・・・
戦雲を麾く 7  「 必ず卿等は屡々報ぜよ」 

無眼私論 
眞日本を再建すべき時節はまさに到來せんとす。
友よ、哲理を表現すべき眞日本を建設せよ。
國家を清新して眞正の哲理に則るにはいかにせば可なるか。
われわれは不法にして背理の施設はこれをことごとく破壊せねばならぬ
 ----そしてその上に新しい理想の國家を建てねばならぬ。
「五十年」、この間におけるわが不合理的國家社會の改革
----しかもそれがすこぶる根強く深く食込んでいるこの弊害----は、
 尋常一様な温和な方法では到底不可能である。
でき得ない。
いわんやその全般を棄てゝ一部玓改造のごときはそれこそけだしいけない。
成就はするかもしれない、しかも決して眞理を見出すことはできないのである。
今においてはも早直接破壊のために劍でなければならぬ。
劍である、そして血でなければならぬ。
われらは劍をとって起ち血をもって濺がねばこの破壊はできない、建設はでき得ない。
神聖なる血をもってこの汚れたる國家を洗い、
しかしてその上に新に眞日本を建設しなければならぬ。
しかして 「天皇の民族である、國民の天皇である」 
この理想を實現しなければならぬ。
われらはこの革命の神聖なる初めの犠牲者をもって任ずるものである。
時代は移った。
明治維新の理想は再びこれをさらに大にし新たにして、
今日大正維新に渇仰せねばならなくなったのだ。
「天皇は國民の天皇であり民族は天皇の民族である」
正義を四海に宣布する以前にわれらはまずみずからを清めねばならぬ。
眞理の道程を進まねばならぬ。
そして天皇が享有せらるる霊光を一様に國民に欲せしめねばならぬ。
國家改革 ! ! 革命の大旆を押立てて進め ! !
大權の發動による憲法の停止 ! !
「 クーデッタ 」 ! ! 
不淨を清めよ ! !
青年日本の建設 ! ! 
大日本主義の確立 ! !
しかしてさらにこれを宇内人類に宣布して彼らを匡救せよ。
ああ、時は來れり、時は來れり。
君見ずや、革命第一彈はすでに投ぜられたり。
大正維新である。
余はこの不淨を清めんがためにまずみずからこの血をこれに濺ぎかけんと希うものである。
・・・
無眼私論 2 「クーデッタ、不浄を清めよ 」 

われらはここにおいて決然として叫ばんとす、
「 日本は亡國たらんとす、今日にして覺醒せずんばついに永久に滅亡のみ 」 と。
そしてわれらはこの醜陋なる現實より日本を匡救して眞日本を建設せんがために
「 メス 」 を把って起つものである。
「 メス 」 である。
すべての腐敗せる汚物を掃除するために手術を決行しなければならない。
身體を清淨にせねばならない。
ああ ! ! 今や 「 メス 」 あるのみ。
「 メス 」 とは何ぞや ?
爆彈と劍と、この清淨神聖な血とである。
やがて曇りは晴れて清天に円滋な哲理を含んだ、
そして一様にわれらを照らす天朝の誠光を拝むことができるのだ。
亡滅に瀕する祖國を直視しつつ無韻の心弦に熱涙を濺ぎかけつつ、
ひとり悲壮慷慨の曲を奏でるのである。
非調にわれ知らず眉をも黒髪をも濡らしつつ。
ああ ! ! ・・・・・
・・・
無眼私論 3 「 日本は亡国たらんとす 」 

 西田税
天劔党規約

天劔党中央本部
目次
一、諸友同志ニ告グ
   ――附 消息誌「天劔」發刊
一、天劔党大綱
一、天劔党戰闘指導綱領
第一章 総則
第二章 統制、連絡
第三章 戰闘
第一節 要則
第二節 戰闘指導細則

諸友同志ニ告グ
満天ノ暗雲、満地ノ醜怪―滔々タル時運ノ大濤ハ日本ヲ亡國ノ斷崖ニ奔瀑ノ勢ヲ以テ流落シ去ラントス、
嗚呼 誰カ此ノ危胎ヲ更生的飛躍――革命ニ導カントスル者ゾ 吾等ハ 幾年泣血悲憤ノ中ニ
義相協フガ故ノ一事ヲ以テ暗ニ聚合シテ亡滅ヲ悲運ニ轉回センコトヲ熱禱シ來レリ、
然モ此ノ眼前幾尺ニ迫レル斷崖ノ危機ニ對シテ猶ホ 從前ノ暗聚ヲ以テ不可ナシトスルハ己ニ迂愚ノ沙汰ナリトスベシ、
單ナル魂と魂トノ結合ハ疇昔ノコト、今ニ至ツテハ眞個手ト手トノ結合ヲ要ス、
是レ即チ不肖ガ僭越ヲ顧ミズ玆ニ満腹ノ決意ヲ以テ同志ノ鞏固ナル團結ヲ發議シ、
企畫シ、實現シテ所信ノ遂行貫徹ニ努力センコトヲ期スル所以ナリ。
冥合暗聚ノ諸友同志ニ告グ――此ノ暗雲醜怪ヲ直視正察シテ直チニ決意戰線ニ起ツベシ、
國歩艱難ヲ悲憤シ亡運ヲ痛哭スルモノガ當爲ノ責務、固ヨリ諸友ニ於テ異論アルベキニ非ザルヲ確信ス、
不肖ハ自ラ撥ラズ先駆シテ白道ヲ行カンノミ

天劔党ハ不肖ガ曾テ一部ノ軍隊有志ト共ニ盟約セシ結社ナリ、
存スルガ如ク滅セルガ如キ儘ニ匇々四年ヲ經過シタリ、
孤塁ニ拠リテノ當年 吾等ガ天劔ハ時運ノ奔流ト共ニ今ヤ尤モ近ク鮮血ノ決戰場ヲ望ンデ鏘々掌中ニ鳴ル
――降天ノ神劔カ鳴躍スル果シテ何ノ啓示ゾ、
蹶起シテ鐘楼ニ警急ヲ激打シ、散在セル鐵血同志ノ雲聚前進ヲナスヘシト
戰線ヘ! 戰線ヘ!
嗚呼全國ノ同志、要ムル所ハ吾等ガ劔光ヲ流ルル鮮血ヲ以テ浄メ吾等ガ骨ヲ以テ礎石トセル革命的大帝國、
佛神ノ照覧加護ハ吾等ガ上ニアリ、庶幾ハ諸友同志直チニ吾等ト契盟蹶起シ前進健闘セムコトヲ
――天劔党大綱ハ吾等ガ旗幟ナルト共ニ軍律ナリ
戰闘指導綱領ハ前進戰闘ノタメノ訓令ナリ
之ヲ明示シ得ルノ時期到來シタルコトヲ衷心ノ歓喜トス
昭和二年七月  於天劔党中央本部
西田税

天劔党大綱
一、天劔党ハ日本ノ對世界的使命ヲ全國ニ理解セシメ 以テ日本ノ合理的改造ヲ斷行スル根源的勢力タルヲ目的トス、
 各員言動ノ目的ハ常ニ大日本國ト七千萬同胞ノ広義正道ニ在ルヘシ
一、天劔党ハ奴隷的日本ノ旧思想ヲ排斥ス 同時ニ模倣反響ヲ事トスル欧米ノ旧思想的革命を排斥ス
一、天劔党ハ軍人ヲ根基トシテ普ク指導的戰士ノ結合ヲ計リ 以テ全國ニ號令スルノ日ヲ努力ス
一、天劔党ハ日常ノ小事非常ノ大事ニ際シテ原始的武人ノ典型タルヘシ、剛健素朴簡易雄大正義ヲ全生活ニ體現スヘシ
一、天劔党ハ天下何物モ怖レス、只正義ノ審判最モ峻厳ナルコトヲ誓盟ス

天劔党戰闘指導綱領
第一章 総則
一、天劔党ハ軍人ヲ根基トシテ普ク全國ノ戰闘的同志ヲ連絡結盟スル國家改造ノ秘密結社ニシテ
 『日本改造法案大綱 』 ヲ經典トセル實行ノ劔ナリトス
古今東西凡テノ革命ノ成否カ其國軍人軍隊ノ向背ニ存スルコトヲ知ラハ、
眞ニ近ク到來スベキ日本ノ革命 ( 改造トハ國家組織ニツキテ之ヲ使用シ、革命トハ組織上ノ精神的根本的ノモノニツキテ使用ス )
ニ於ケル帝國軍隊ノ使命が如何ニ重大ナルカハ考察ニ余リアリト云フヘシ、
然シテ 革命指導者ノ中堅的戰士ガ其ノ大部ヲ擧ゲテ軍隊ノ中ニ潜在協力シ
軍隊外ノ同志ト秘盟聯絡シテ革命ノ根源的勢力、軍人部隊――劔ヲ國家其者ヨリ奪取スルコト
( 云ヒ得ベクバ國家權力ノ實體トモ云フベキ軍隊ヲ破壊シ革命スルコト )
カ不可欠ノ条件タルコトヲ悟得セサルヘカラス、國家ノ革命ニ軍隊ノ革命ヲ以テ最大トシ最終トス。
二、革命トハ各種ノ原因ヨリ亡滅ノ悲運ニ直面セル國家ノ更生的飛躍ナリ、
 現下ノ日本ガ存亡ノ危機ニ臨メルコトハ今更云フノ要ナシ
國家ハ一、二私人ノ私有ニ非ス、一部階級者ノ支配スヘキモノニ非ス、實ニ全國民ノ國家ナリ
―-現在及將來永遠ニ亙リテ徴兵制度ニ拠ル所ノ日本軍隊カ國家國民ノ軍隊ニシテ
眞個國家及全國民ノ安榮幸福ノ擁護増進ノタメノ擧國的存在ナル時、
日本國七千萬國民ト其榮辱ヲ一ニスヘキ此軍隊カ亡國ヲ導キ賊民ヲ犯サントスル者等ノ
支配下ニ行動シテ其ノ臣從的位置ニ在ル能ハサルハ論ナシ
軍隊ハ國家權力ノ實體ナリ、
故ニ一面之ヲ論スルハ國家ヲ分裂セシメント欲セハ軍隊ヲ分裂セシムヘク國家ヲ奪ハント欲セハ
軍隊ヲ奪ふへき理、軍隊ノ革命カ國家其ノ者ノ革命ナリトカ此ノ謂ナリ、
我軍隊ガ將ニ亡國ヲ導カントスル支配階級ノ權力下ニ動クナラハ日本ハ滅亡ナリ
――共産主義、無政府主義ニヨルトキ亦然リ、
實ニ吾党正義ノ指導ニ動ク時日本始メテ更生的飛躍ノ運命ヲ見ン吾党同志ハ
其ノ軍隊ニ在ルト否トヲ問ハス軍隊ノ吾党化ニ死力ヲ竭クスヘク又同時に
軍隊外ニ於ケル十全ノ努力ヲ以テ國民ノ吾党化ヲ期スヘシ、
是ノ如クニシテ天劔党ハ
一般国民及軍隊ノ吾党化共同團結を以テ日本國ノ更生飛躍ヲ指揮シ全國ニ號令セムコトヲ期ス
三、天劔党ハ降天ノ神劔ナリ、吾等存スルカ故ニ日本國永遠ニ滅ヒスト云フ
 ――日本國民ノ更生ハ吾等ノ天劔ニヨリテ指揮セラレ破壊セラレ建設セラルヘシ。
「 シカシテ吾党究竟ノ目的ハ日本國ノ合理的改革ナルト共ニ此ノ革命日本を以テ
不議非道ニ蔽ハレタル世界全人類ノ革命的旋風ノ渦心トナスニアリ 」
人類ノ徹底セル眞個ノ要望ハ其神性的飛躍ニヨル天國其者ナリ、
人類ノ神性人的躍進ハ世界革命ニアリ、世界革命ハ日本ノ革命ニアリ、
此ノ三位一體的天業ノ指導者タルヘキ吾党不朽ノ光榮ヲ悟得スヘシ人生五十夢幻ノ如シ、
敬天愛人ノ道念ニ灼熱シ公義正義ニ殉スルノ聖戰ヲ戰ハントスルモノハ
夢幻五十年ノ生命ヲ二十年三十年ニ代ヘテ不朽的生命把握ノ聖願ニ參セヨ、
玆ニ於テ死生復タ何ソ論スルニ足ルアランヤ
四、革命トハ亡中興ノ險道ナリ、
 即チ瀬亡ノ國家ニ於テ亡國ノ悲運ヲ痛哭悲憤セル俠魂義魂ノ炎々天ニ沖スル熱血ヲ以テ
纔カニ希求シ得ヘキ國家再建ノ唯一方便ナリ、
國家を擧ケテ道ニ殉スルノ決意ヲ以テ國民大衆ノ先頭ニ立チテ指導シ先駆シ支戰すへし
『日本改造法案大綱 』 巻頭 ( 削除セラレタル〇〇部分 ) ニアル
「 天皇ハ國家改造ノ根基ヲ定メンガ爲ニ天皇大權ノ發動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ
 兩院ヲ解散シ全國ニ戒厳令ヲ布ク 」
云々ノ文字其儘を以テ皮相ニ解釋シ
――及ヒ同志ノ中心的一部カ天子近親ノ某殿下ト秘約アリト云フカ如キヲ根拠トシテ
天皇ノ自發的大權發動 大命降下等ヲ夢想スルハ昏迷甚シキ沙汰ナリトス、
現代日本ノ實情ハ
天子ガ全國民ト共ニ確保行使スヘキ國家權力ガ一部ノ特權階級閥族共ニヨリテ壟斷セラレ
檀使セレルルカ故ノ亡國的狀態ナリ
吾党ノ目的ハ
上 天子ヨリ統治ノ大權ヲ盗奪シ
下 全國民ノ上ニ不義驕恣ヲ働ク此ノ亡國的一群ヨリ國家ヲ奪還スルコト、
敵中ニ因虜ノ屈辱ヲ受クル天子皇室ヨリ國家改革ノ錦旗節刀ヲ賜フト考フルカ如キハ妄想ナリ
要ハ吾党革命精神ヲ以テ國民ヲ誘導指揮シテ
実ニ超法規的運動ヲ以テ國家ト國民トヲ彼等ヨリ解放シ
――彼等ガ私用妄使スル憲法ヲ停止セシメ、
議会ヲ解散セシメ吾党化シタル軍隊ヲ以テ全國ヲ戒嚴シ、
何人ニモ寸毫ノ抵抗背反ヲ容ササル吾党ノ正義専制ノ下ニ新國家ヲ建設スルニアリ、
吾党同志ハ徒ニ坐シテ大命ノ降下ヲ待ツ如キ迷蒙ニ墜ツヘカラス
五、現代日本ニ於テ全國民ノ上ニ驕恣不義ヲ働ク亡國的特權階級閥族共ハ
 徳川將軍ヲ仆シタル維新革命ノ反動者ナリ
現代ノ將軍老中等カ政友會出身ナルト憲政會出身ナルト將又
所謂貴族ナルト長閥薩派乃至ハ軍閥財閥ナルトヲ問ハス要スルニ其ノ悉クヲアケテ
曾テノ御三家譜代旗本等ノ私和私爭ニ等シク國民ニ何等ノ關係ナク
大衆ハ専横ナル彼等ノ交互ナル惡治暴政下ニ於テ
一貫不變ナル劣弱者、被壓迫者、奴隷階級ナリ
――( 所謂欧米カブレノ社會主義者共カ常套熟語タル資本主義
・・・・搾取等ノ難解不適ナルモノヲ擧クルノ要ナク
何人ト雖モ直チニ明白ニ此ノ不義非道ヲ理解シ得ヘシ) 
國民塗炭ノ惨害ノ上ニ和爭亂舞セル政閥、財閥、軍閥、學閥ノ他ノ現狀ヲ正規理解スヘシ、
亡國ノ禍根實ニ此処ニアリ
國家ノ滅亡崩壊ヲ直接ニ原因スルモノハ其經濟的破綻ナリ、
經濟的破綻ハ各種ノ積弊推惡ノ結果ニシテ日本ハ己ニ之ヲ暴露シタリ、
狼狽セル支配階級ノ救濟ナルモノハ表面一時的ノ弥縫ニ過キス
亡國を救フモノカ革命ナル意味ニ於テ眞個之カ救濟者ハ革命ナリ
六、吾党同志ハ己ニ其ノ正體ヲ現ハシタル亡國ノ悪魔ト其ノ所業トヲ諦視スルト共ニ
 革命ノ必要ト夫カ實行ノ秋ノ切迫セルトヲ悟得シ汲々乎トシテ其ノ準備ニ怠ル所ナナルヘシ、
然シテ 非常ノ大決意ヲトルノ時ハ今日遂ニ到來シタリ
革命ハ古來青年ノ業、然モ正ヲ踏ミ義ニ死スルノ年少志士ガ纔カニ其ノ頸血ヲ渺キ、
生命ヲ賭シテノミ贖ヒ得ヘシ、吾党同志ハ死シテ悔イサル鐵心石腹ナルヘシ
七、亡滅ノ悲運ニ沈淪セル國家ニ充ツルモノハ國家ノ精神的興廢ナリ、
 此ノ道義的焦土ニ立ツテ新國家ノ建設ニ從ハントスルモノハ一擧一投足ニモ細心ノ注意ヲ以テスヘク、
人ヲ観人ヲ導キ人ヲ用フルニ周到ノ用意ヲ必要トス
吾党同志ハ各々其ノ言動ニ關シ外部ニ対スル一切ノ責任ハ自ラ之ヲ負フト共ニ妄リニ他ノ同志ヲ犠牲ニ供シ
不利ナル影響ヲ他ノ一部若クハ全党ニ及ホス等ノ不慮過失ヲ深ク戒メサルヘカラス
八、「 革命ノ機運動キ風雲起ラハ奮躍蹶起セン 」 ト云フカ如キ待機的氣分ヲ根本的ニ掃蕩スヘシ、
 要ハ此ノ機運ヲ促進進展シ風雲ヲ捲クタメニアラユル方法ヲ以テ戰闘ヲ敢行スルニアリ、
然リ、吾党信條ノ實現ヲ妨クル何者モ之ヲ破墔撃壌シ一切ノ方策、
全身全霊ヲ竭シテ戰線ヲ有利ニ拡大展開スルト共ニ
常ニ實力ノ補充増大ニ努力シ亡國階級ノ本拠ニ肉薄シテ之ヲ掩撃殲滅スルニアリ、
拱手晏坐シテ革命ヲ希待スルハ百年ノ河淸待望、
木ニ緑リテ魚ヲ求ムルノ昏愚痴蒙ナリト知ルヘシ、
此ノ故ニ啓蒙指導契盟聯絡統一ハ吾党戰線ノ内部ニ於テナサルヘク、
敵ニ對シテハ随時随所ニ暴動擾亂暗殺罷業破壊占領糾彈宣傳等ノ戰闘、
不斷ニ繼續セラルヘシ、
革命トハ斯ノ如キ戰闘時代ヲ主體トセルモノ
――斯クシテ 始メテ克ク一世ヲシテ革命的旋風ノ中ニ投セシメ、
風雲ヲ煽リ、機運ノ促進、
熟成セシムルヲ得ヘク、目的ノ貫徹遂行ノ時ヲ招來スルヲ得ベシ、
然シテ 此ノ指導中心カ信條ニ於テ、努力ニ於テ、
人ニ於テ尤モ正当優越強力ナルモノカ新國家ノ建設者タリ得ヘシ、
吾党同志ハ克ク計リ、克ク働キ、克ク戰ヒ名實背クコトナキ革命日本ヘノ破壊者タリ建設者タルヲ期セサルヘカラス
吾党同志ハ一般ニ熱心慧敏沈着勇敢豪胆ナルヘク、細心ナルヘシ、
自尊自任スルモ増上慢ヲ徹底シテ排斥自警スヘシ
九、吾等同志ノ言動ヲ一貫スルモノハ透徹セル理解ト無限ナル義憤ナルヘシ、
 鮮血ノ聖戰玆ニ生命ト歓喜ト光榮トアリ皇天ノ加護、佛神ノ照覧、冥々ノ梩ニ吾党同志ノ上ニ在ルヘシ
・・・ 天劔党事件 (2) 天劔党規約


昭和維新・西田税 (二) 天皇に奉呈する建白書

2021年04月26日 15時54分15秒 | 昭和維新に殉じた人達

先般、不幸にして勃發いたしました陸海軍將校の、首相暗殺事件につき、
聖上陛下にはいかに誤宸念遊ばされましたことか、
洵に恐懼の至りに堪えぬところでございます。
しかし乍ら今回の事件は偶發的に起こったものでなく、
その根底には國家の現狀と將來を深憂する
多數の皇軍將校と、愛國靑年群が存在いたします。
政党政治は國家百年の大計を捨てて、目前の党利党略に抗爭を事とし、
財界は皇恩を忘れて私利私慾の追求に餘念がありません。
近年の經濟不況によって、
一億國民の大多數は塗炭の苦境に呻吟いたしております。
洵に餓民天下に満つと申しても過言ではありません。
天下萬民の仁父慈母に存します聖上陛下におかせられましては、
この國民の困窮を救うため、速やかに昭和維新の大詔を渙發あらせられ、
内は百僚有司の襟を正さしめ、財界の猛省を促し、
上下一體となって國利民福の實をあげ、
外に向っては國交の親善を増進して、大いに皇威を發揚し、
以て帝國興隆の基を築かれんことを、
草莽の微臣、闕下にひれ伏して、謹んで奏上仕ります。

・・・
紫の袱紗包み 「 明後日参内して、陛下にさし上げよう 」


西田税 
一夕、墨痕琳漓、
大きな奉書の紙に認めたものを、私に托した。
天皇に奉呈する建白書である。
これを秩父宮にお願いして呉れと言う、私は反対した。
そんなものを天皇が受けとるはずがない。
また、秩父宮が承知されるか、どうか。
・・・・・ だが。 西田の意志は固かった。
死線を越えた彼の言うことだ。 一応、聞き届けなくちゃならない。
そこで、隊に帰って安藤に相談した。
「 よかろう、やってみよう  」と 言う。
翌日二人で秩父宮にお目にかかって申上げた。
意外、宮は即座に承知された。
「 明後日、陛下に会えるから、その折に差上げよう 」
と 申され
「 西田は元気になったか 」
と お尋ねになった。

あとで聞くところによると、 宮中では、
天皇と皇弟秩父宮との間に激論が交わされたという。
この事に関係あったのかどうか分らないが、たぶんこの時のことだろう。
・・・菅波三郎 「 回想 ・ 西田税 」
・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
當時は満洲事變勃發に伴ひ、國内の空氣自然殺氣を帯び、
十月事件の發生を見る等 特に軍部靑年將校の意氣熱調を呈し來れる折柄、
或日、 秩父宮殿下參内 陛下に御對談遊ばされ、
切りに 陛下の御親政の必要を説かれ、
要すれば憲法の停止も亦止むを得ずと激せられ、
陛下との間に相當の激論あらせられし趣なるが、
後にて 陛下は、侍從長に、
祖宗の威徳を傷つくるが如きことは自分の到底同意し得ざる処、
親政と云ふも自分は憲法の命ずる処に拠り、 現に大綱を把持して大政を總攬せり。
之れ以上何を爲すべき。
又 憲法の停止の如きは 明治大帝の創成せられたる処のものを破壊するものにして、
斷じて不可なりと信ずる 
と 漏らされたりと。
・・・ 昭和天皇と秩父宮 2 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鬼頭春樹 氏が、
その著書 『 禁断 二・二六事件 』 で、

恰も再現ドラマの如く物語る

・・・ 
昭和天皇と秩父宮 1 


昭和維新・西田税 (三) 赤子の微衷

2021年04月25日 05時58分41秒 | 昭和維新に殉じた人達

私の客観情勢に對する認識 及び御維新實現に關する方針
私は現代日本に於て國民の國體信念が堕落混亂し、
之と併行して國家の組織制度が行詰りを來たし、
又國際關係に於ても建國精神に示された様になって居らず、
要するに日本の現狀が今日 及び 明日に処する日本として相應しからぬものである事を確信します
故に國勢の革新は絶對必要のものと信じて居ります
又日本の一切は 上御一人を中心とし奉って國體の本義を現實に宣明する事が根本であって、
國勢の革新も其の軌道の上からは外れてはならないと思って居ります
人類社會は不斷に進歩し永久に進歩するものである
日本は此の人類進歩の原則の上に之と一致した國體の本義を軌道として今日迄進歩し、
此の次は今日を足場として次の段階に進んで行くべきものと考へます
故に今日國家内外の矛盾も一面から見れば進歩する爲の一つの過程であります
右申上げた様な原則に因って、 私は日本の現狀打破、
云ひ換れば昭和維新を考へておるのであります
是は一個半個の勝れた指導的分子の先駆的啓蒙的実践も欠くべからざる要求と思ひますが、
他のより強力なる力は 社會の進歩を表徴する国家上下社會大衆其のものの革新的大勢であると思ひます
或時代を形成する思想及び組織は
必ずしも或一派の思想によってのみ出來上がるものではなくて
總ての總和である そして革新なるものは
決して一朝一夕に實現されるものではなく 相當永い年月を要するものであります
私は歴史的、地理的見地からも観、 世界大勢からも観、 總て又日本の建國精神から観て、
明日の日本は必ず全世界の人類に對して指導的役割を持たねばならぬと思って居ります
國民として指導的な國民ではなくてはならぬと思って居ります
大体體右の様な見地から私の昭和維新に對する方針は、
日本は日本の立場、日本國民の行詰った現狀に對する認識、
明日の日本が ある可き理論等を速かに全國各方面が夫々自主的に革新に進む如くありたい
そして革新的な躍動の總和が全體として 日本そのものの革新に落着く事を理想として居ります
だから 或一党一派的な力に依って 一擧に革新を敢行すると云ふ様な事は、
上御一人の大命であれば別ですが、
吾々臣下として考へられる事ではないと思って居ります
此の方針を最近の狀勢に照らし合せて見ますと、
總體に國體の本義は漸次進歩的に宣明せられ ( 國體明徴問題は其の一例 )
國家内外の政治的、經濟的狀勢も行詰りの中に或新しい前進を發見したかの様に考へられます
只 是等の革新的躍動は未だ全國的でもなく、局部的而も根本に於て歸一する処がなく
謂はばバラバラで夫れ等の努力も極めて不經濟な結果に落ちて居ると思ひます
各種勢力の自己反省竝に合同提携協力論が起って來て居るのも
狀勢の進みつつある徴候でありますが、
一面から見れば未だ出來てゐない證拠であります
元來革新は内憂外患が之を促進するものでありますが、
現在日本の對外關係は一面甚だしく切迫してゐると共に ( 例へば對露關係 )
他方欧州其のものが混亂して居りますので之に牽制されて或點減殺されて居ます
結局革新的な大勢は尚熟せず、對外關係は遣り方に依っては未だ餘裕もありますので、
吾々として此の時機を一面對外的關係の打開 ( 例へば對支政策 )
對内關係に於ては諸方面諸勢力の結合を急ぎ、
御維新準備を完成する事にあると思ひます
對露關係は相當緊張して居りますが、對支、對米方針を是正する事によって、
尠く共暫定的な緩和は期待し得ると思ひます
斯ふ云ふ時機に相澤事件がおこり、其の公判が開廷されたのであります
相澤様の決行は信念的に見れば國體に則った理由でありますが、
是を軍部内外の狀勢、社會狀勢から考察しますと、
永田さんの立場關係は
是迄申した私共の信念方針と背馳する中樞的なものであったと思ひます
之を契機として之を生かす爲には
現に公判に見る様な合法的に軍部内外の清掃は相當出來ると共に、
そう云ふ方面の革新的反省も可能であったと思ひます
彼の五 ・一五事件海軍公判が 如何に海軍の旧弊を合法的に一新し得たかを考ふるとき
理解出來ると思ひます
準備時代に於ては 成る可く犠牲を少なくして
各國家的要點、社會的勢力の重點を革新する事が大切と思ひます
今度の相澤公判は陸軍を中心とした 第二の五 ・一五海軍公判とも見るべきものであります
私の見た処では 今回事件を起した東京に於ける人達が嚴然として公判を監視し、
正しき態度で各方面に對して公判に對する努力をして居ればこそ
公判の進行があの様に進展したのであると思ひます
同時に此の人達を中堅として革新の大勢が遂次に擴大し鞏化されて、
是れからも發展するものと思って居りました
言ひ換れば 私の考へて居た大勢進展の貴重なる力であったと思ひます
私は相澤中佐の公判相澤公判を通じて
そして広く御維新の準備大勢結成のため 此の人達の存在を特に重視し乍ら
其の人達の努力と相俟って公判を有利に進め、
相澤中佐の志を出來る丈達せしむる様に考へて來たのであります
夫れが相澤中佐の先駆に續いて 同一性質の途に出る事に片寄った事は 私としては
前申した情誼關係に於て 己を得ないと云ふ理解は充分に致しますが、
私の本來の氣持から申しますと 誠に残念だと思ふ処があります
大體社會狀勢に對する私の認識 及 御維新實現に關する方針は大略以上の様なものであり、
私としては 若し事件を起して貰ふなら
今回起った以外の者に出て貰ひ度かった位であります
処が 私の最も大切に考へて居る方達が
斯様な事件を起す事になって仕舞ひましたので、
私としては不本意乍ら今回の様な立場となったのであります
・・・ 西田税 3 「 私の客観情勢に対する認識 及び御維新実現に関する方針 」

ある夜 西田宅で私と彼と二人だけの懇談のときであった。
「 君は武力行使をどう思っているのか 」
と、彼が突然質問を発した。
「 無暴に行使すべきではないと思います 」
「 だが、何れはやらねばこの日本はどうにもなりますまい 」
「 僕の理想は武力行使はやらずに維新が断行されることにある 」
「 それは出来ない相談ではないと思っている 」
「 蹶起すべき時には断乎として蹶起出来るだけの、協力な同志的結合の下にある武力、
 その武力をその時々に応じてただ閃かすことによってのみ、
悪を匡正しつつ維新を完成してゆく。 つまり無血の維新成就というのが理想だ 」
「 軍刀をガチャつかせるだけですね 」
「 そうなんだ。ガチャつかせることは単なる、こけおどしではいけない。
 最後の決意を秘めてのガチャつかせでなければならぬことは、もちろんだがね 」
・・・軍刀をガチャつかせるだけですね


西田税 

・・西田が、青年将校たちの態度がおかしいと感じ出したのは 二月の十日すぎであった。
二月十日  西田は四年前の五・一五事件の当日撃たれた時、
着ていたセルの着物を、東京控訴院から呼び出しをうけて受け取ってきた。
川崎長光に撃たれた弾痕の穴が数ヶ所もあり、 流れ出た血でどす黒くこわばっていた。
翌十一日昼ごろ、 磯部がたずねてきた。
西田が証拠品の着物が帰ってきた話しをすると、
磯部はその着物を拡げながら
「 血が帰るというのは、縁起が良いことですよ、今年は良い事がありますよ 」 とさりげなくいう。
西田は 「はてな」 と思った。
しかし、磯部の例の調子だ、 大したことはあるまいと思いかえした。
磯部はこの時、 同志の状況について話そうと思ったが止めた、 と 獄中記に書いている。
話せば反対されるに決まっていると思ったのであろう
その夜、磯部は相澤中佐の写真の前で 「 近く決行します 」 と誓っている。
獄中の相澤にも、彼等の激しい雰囲気が伝わったのか、
二月十四日  相澤から西田に会いたいという電話がかかってきた。
西田が陸軍刑務所に出向くと、 相沢は家事のことや公判の打ち合わせなどをしたあと、
「 若い大切な人達がこの際軽挙妄動することのないように、
殊にお国が最も大事な時に臨んでいる際だから、
くれぐれも自重するように貴方から言って下さい 」 と、頼まれている。
西田は、 「 間違いはありますまいが、この上とも気をつけますから御心配なさらないで下さい 」
と、答えている。
この時、西田は大したことはあるまいと 安心している。
一、 二日して、相沢公判の打ち合わせにきた村中が、
公判についていろいろ話し合った末、こんなことを口ばしった。
「 部隊側の青年将校の一部に、 公判の進行とは別に、維新の運動を進めなければいかん。
第一師団も近いうちに満州へ行かねばならぬ、
そうなれば当分そういう機会はない と 相当決意が高まっている 」
と、公判に熱中している自分に遠慮している風があるので、
気の弱いおとなしい自分はふみこんで行けないと苦衷をもらした。
西田も、相沢中佐からもその話しがあった、 自分もなんとか考えて見よう、と答えている。
同じ日に、 西田は山口一太郎大尉の私邸に行くと、山口からも青年将校の動きが伝えられた。
「 栗原が盛んに飛び巡っている。
 近く何かやりかねないというそぶりが見える、それでいいのか 」 と いう。
西田は、
「 栗原君はいつもそんな癖があるので、 真意は判らぬが、取り返しのつかぬ様な事になっては困る。
私から一度よく話してみよう。 私の家にくるよう話して下さらんか 」
と、言って別れた。
翌日、栗原を待ったが来ない。 その翌日というから十八日だろう。
午後山口大尉から電話があって
「 栗原に言ったけど、行く必要はないと言っている。
自分ではどうにもならんから、もう知らんぞ 」 と いう。
驚いた西田は、栗原を電話口によび出し
「 とにかく話があるから、家へ来てくれ 」 と 言うと
「 行く必要はありません、別に話はありません 」
と、いつになく栗原の強い語調に、西田は内心驚いた。
「 君になくても、私の方にあるのだ、とにかく来てくれ 」
と、叱りつけるように言うと、 ようやく来ることを承諾した。
午後六時すぎ、栗原がやってきた。
「 貴方には貴方の役割があるし、自分には自分の役目がある。
別に貴方には迷惑かけない積りだから、話す必要はない 」
と、いつにない強い態度である。
西田は言葉を尽して考え直すように迫ったが、栗原は承服しない。
結局、今はその時期ではない、 今事を起こせば、何もかも駄目になってしまう、
という西田に対して、 栗原は、
「 貴方からそういう様な事を言われるのは、一番困る、まあ考えて見ましょう 」
と、言って帰った。
西田は彼等の切迫した空気を、その語調の激しさから感じた。

翌十九日、 磯部が尋ねてきて大体の計画をうちあけた。
これは村中と相談の上である。
西田は鎮痛な顔色で聞いていた。
先日の栗原の言動から、大よそのことは察しがついていた。
磯部や村中が決意しているようではもう止めようがない。
磯部は、失敗したら累が西田に及ぶのは必至だから、その心配を言うと、
「 僕自身は五・一五の時、既に死んだのだからアキラメもある。
僕に対する君等の同情はまあいいとしても惜しいなあ 」
と、西田は歎息した。
しかし、磯部や村中には部下がいない、 栗原は部下がいるけれど、大勢を動かす力がない。
西田は安藤の向背が気になった。 安藤の決意如何では大事件に発展する。
西田は安藤に会いたいと、磯部に伝言した。

翌二十日の夕方、安藤が来た。
「 私の方でも、貴方に会いたかった 」 と、いう。
西田は
「青年将校の間で、最近しきりに決行するといっているそうだが、
 状況はそこまで果していっているのか、君はどう思っているのか」
という問いに、 安藤は、
「 此の間も四、五人の連中に、是非君も起ってくれとつめよられた。
しかし、自分はやれないと断った。
この事は週番中の野中大尉に話したら 『 何故断ったか 』 と叱り、
自分たちが起って国家の為に犠牲にならなければ、
かえって我々に天誅が下るだろう。
自分は今週番中である。
今週中にでもやろうではないか、と言われ、自分は恥かしく思いました」 と いう。
西田はあの生真面目でおとなしい野中すら起つ決心をしているのか、
事態は容易ならぬところまで来ていると、感じた。
その野中は、 この時は既に遺書もしたためて決死の覚悟で起つ決意でいた。
我れ狂か愚か知らず 一路遂に奔騰するのみ
昭和十一年二月十九日 於週番司令室
陸軍歩兵大尉野中四郎
・・・
と、結んでいる。 温厚で、思慮深い野中でさえ、この決意である。
安藤が語りたかったのは、 このような青年将校たちの猛りたった切迫した気持ちである。
「 今まで我々と貴方との関係をふりかえると、
 我々が事を起こそうとすると最後は貴方の力で押えてきました。
しかし、今日の状態は違います。 もし貴方が押えでもすると、必ず反撥します。
失礼な言い分ですが、 貴方を撃ってでも前進するという様に、ならんとも計りがたい。
それで一度貴方の御意見を聞きたかったのです 」
と、鎮痛な表情で安藤は語った。

いつもの穏やかな思慮深い安藤ではない。 苦悩に満ちた安藤である。
・・・
西田は現在の社会情勢と、自分の考えている維新運動のなりゆきからみて、
今起つことには賛成できないが、
しかし、君たちの立場を考えれば止むを得ないという気持ちもある、 と言った。
「春には第一師団は満州に行く、
最近の満州の状況から対露関係がしだいに険悪になっているから、
恐らく生きては帰れぬであろう。
今まで国家改造で苦心してきた君たちの心情として、
このまま満州へは行けないというのも無理はない。
私は元来どこにいても御維新の奉公はできると思っているし、
満州に出征するからその前に必ずやるというのは正しい考え方ではないと思う。
しかし、それは理屈であって人情は別だ」
と、西田は四年前の、盟友藤井海軍少佐 (戦死後昇進) とのやりとりを語った。
藤井は昭和七年一月の中旬、
上海出征前に事を起こしたいと、 西田に打ちあけたが、西田は絶対反対の返事をした。
藤井は非常に失望して出征し、二月五日上海の上空で散華した。
藤井の戦死はむしろ憤死ではなかったかと思う、 と 語り
「 結局、諸君がそれ程まで決心しているというなら、 私としては何も言い様がない。
とにかく、どちらがお国のために役立つかということを考えて、 最善の道を選んでもらいたい。
私も諸君との関係上、生命を捨てます。 人にはそれぞれ運命というものがある。
いくら知恵をしぼっても、それ以上は運賦、転賦に委せるよりしょうがない。 とにかく良く考えて下さい。」
という西田の言葉に、

瞑目して聞いていた安藤は 「 良くわかりました。自分も充分考えてみます」 と、言って辞去した。
磯部の「獄中記」によれば、 十八日の栗原中尉の家では安藤は蹶起に反対であった。
「今はやれない、時期尚早だ」と言って反対している。
四日たった二十二日の早朝、 訪れた磯部に対して
安藤は 「 磯部安心してくれ、俺はヤル、ほんとうに安心してくれ 」 と、起つ決意を語っている。
わずか四日の間に客観情勢が変わるものではない。
安藤の決意の裏には、西田の暗黙の内諾が大きく左右していると思われる。
この安藤の決意によって、 蹶起の規模が大きく変わって近代史上最大の事件に発展するのである。
西田税が二十六日早朝の蹶起を知ったのは二十三日の夕方である。
・・・
西田税 1 「 私は諸君と今迄の関係上自己一身の事は捨てます 」 

わたくしはあの事件の起きますことを、二月二十三日に知ったのでございます。
西田の留守に磯部さんが見えまして、
「 奥さん、いよいよ二十六日にやります。
西田さんが反対なさったらお命を頂戴してもやるつもりです。とめないで下さい 」
と おっしゃったのです。
その夜、西田が帰って参りましてから磯部さんの伝言をつたえました。
「 あなたの立場はどうなのですか 」
「 今まではとめてきたけれど、今度はとめられない。黙認する 」
西田はかつて見ないきびしい表情をしておりました。
言葉が途切れて音の絶えた部屋で夫とふたり、
緊張して、じんじん耳鳴りの聞こえてくるようなひとときでございました。
・・・
西田はつ 回顧 西田税 2 二・二六事件 「 あなたの立場はどうなのですか 」



二月二十七日 
朝新聞に依って岡田首相以下五名許りがやられた事、
戒厳令が布かれ内閣が辞職した事を知り、
確か午前中に首相官邸に電話を掛け栗原君に
「 内閣の辞職した話や戒厳令が布かれたが何うなつたか 」
と云ひました。
又戒厳令が布かれ戒厳部隊に編入された様な話でありましたから私は
「 夫れでは其処を退去するのか 」
と聞きますと 同君は
「 此処に居て良い様な諒解が得てある 」
と云ふ様な話で、食料も聯隊から運んで居ると云ふ事でした。
其処で私は冗談に
「 夫れではまるで官軍の様なものではないか 」
と云ひました。又
「 被害者に就ての発表があつた事実は何うなつてゐるのか 」
と聞きますと 同君は
「 岡田、高橋、齋藤、渡邊等は完全にやつた 」
と云ふ話でした。
私が 「牧野はどうなつたか」 と聞きますと 同君は
「 良く判らんがやつた筈だ。
然し牧野の処へ行った者が帰って来ないので数も少なかったし 苦心したろうと思ひます 」
と云ふ事でした。
私は
「 消息が不明なら軍当局の方へ頼んで
其の人人は何うなつてゐるか速く調べて貰った方が良いではないか 」
と云ひますと 同君は
「 夫れは何か調べて居る様である 」
との事でした。又
「 軍事参議官全部と会って希望を出したが何うも上の方の人々は話が良く判らない 」
との話でしたから 私は
「 君が行ったのか 」
と聞きますと 同君は
「 外の方が行ったので自分は行かなかった 」
と云ふ事でした。
其処で私は
「 事態を早く収拾する為めに真崎大将辺りに上下共に万事を一任する様に
 皆で相談されたら何うか 」
と云ひますと 同君は
「 考へて見る 」
とか言ってゐました。
更に私は 「 村中君は居るか 」
と聞きますと 同君は
「 陸相官邸の方に居るのではないですか 」
との話でした。
同君との話は之位で切り
今度は陸相官邸やら陸軍省其他へも電話を掛け村中君を探しまして、
何処であつたか記憶しませんがやつと発見する事が出来 電話に出て貰ひました。
そして私から前申した真崎大将辺りに一任して速く事態を収拾したら何うかと云ふ事を話ました。
すると村中君は 
「 軍隊側の方の将校の意見は非常に強硬でなかなか仲間で纏らない 」
と云ふ話でした。又
「 上の方との話は皆で相談します 」
との事でした。
私から
「 部隊の方は何うなつたか 」
と聞きますと 同君は
「 今迄居った処を大部分引揚げて集結しつつある 」
との話でした。又
「 戒厳部隊に編入されて今の位置に居っても良いとの諒解を得ました。
然し兵隊の休養もさせねばならず今泊る処を探して居る 」
と云ふ事でした。
「 一方では強硬な人達が非常な決心で頑張ってゐる状態です 」
と云ふので 私は
「 それは誰か 」
と聞きますと 同君は
「 安藤君辺りである 」
との事でした。私は
「 良く皆の人と連絡を取られて意見の食違ひの起らぬ様にした方がよかろう 」
と話しました。同君は
「 仲々むつかしいと思ひますがやつて見ませう 」
との話で電話を切つたのでありました。
・・・西田税 2 「 僕は行き度くない 」 

結果に對する所感
一口には言へないが、
萬感交々で私としては思ひ切って止めさせた方が良かったと思ひます。
私のみならず、皆を犠牲にしてしまひました。
尚、岡田さんが後になってのこのこ出て來たと云ふ事は、
此度の事件を如實に物語る證拠でありまして、
國家大局から見て、此度の事件は維新の爲めにも駄目だと思ひました。
そして、歴史と云ふものはこんな事かと思ひました。
丁度、蛤御門の戰爭のような氣がします。
陸軍の上の方が、維新に於ける薩摩藩の態度を執り、
長州藩が君側の奸を除かんとして宮闕に發砲した爲め、
遂に朝敵になったと同じような感じであります。
こう云ふ點を色々考へさせられました。
現在の心境としては、どうにも致し方がありません。
一時は自決しやうと思ひましたが、どうにも出來ず、捕まりました。
自分の修養の足りない點もあり、不明の至す點だと思ひます。
私は若い者がやれば、
今迄の關係から必ず引摺られなければならぬ事情にありましたので、
これも運命だと思って居ります。
・・・ 西田税 (二) 「万感交々で私としては思ひ切って止めさせた方が良かったと思ひます  」 


昭和維新・西田税 (四) あを雲の涯

2021年04月23日 15時50分18秒 | 昭和維新に殉じた人達

(昭和十一年)十月二十二日、
死刑の求刑に対して北は、こう述べている。
「 裁判長閣下、青年将校等既に刑を受けて居ります事故、
私が三年、五年と今の苦痛を味う事は出来ません。
総てを運命と感じております。
私と西田に対しては情状酌量せられまして、
何卒求刑の儘たる死刑を判決せられん事を御願ひ申上げます 」
西田も同じように
「 二度と私は現世に生れ苦痛をいたしたくはありません。
狭い刑務所であります故、
七月十二日に十五名の青年将校及び民間同志が叛乱逆徒の汚名を着た儘、
君が代を唱へ聖寿万歳を連呼しつつ他界した事は、
私の片身を取られたと同様でありました」
と 陳述している。
死を覚悟している北や西田のことだ、もっと痛烈な皮肉や批判の言をはなったことだろうが、
これは 公式な記録だから記録として残していないと思われる。
「 あるいはこの日であったかも知れないが、
私の記憶では翌くる年の十二年七月の中旬ではなかったかと思う。
北、西田の最後の陳述を傍聴した。
その情景は今でも忘れられない 」 と、川辺はこう語った。
その日、北、西田の最後の陳述があるというので、川辺も第五法廷に入って傍聴した。
はじめに起った 北一輝は、国家改造方案は不逞思想ではない。
やがていつかは日本が行きづまった時、私の所説が必要になってくるだろう。
私の改造論を実現しようとして、青年将校たちが蹶起したとは思わないが、
彼らはもう既に処刑されている。
私も彼らに殉じて喜んで死刑になる気持ちでいる、
と淡々とした語り口で述べたのち、 最後にこう言った。
「 私はこれで喜んで極楽へ行けます。 お先に行って、皆様のおいでを待っております 」
と、笑みを含んだ顔で、深々と頭を下げた。
川辺は思わず涙ぐんだ。
こう淡々として死が迎えられるものだろうか、
話に聞く高僧の心境というのはこういう境地をさすのか、 と 心から感動した。
とたん、判士の一人が
「 馬鹿奴、貴様のような奴が極楽へ行けるか。貴様は地獄だ 」
と、憎々しげに吐き捨てるように言った。
「 心性高潔な被告と、品性下劣な裁判官とを象徴する言葉で、
巧妙なコントラストを見る思いであった 」
と、 続いて西田が起ち、北と同じような所懐を述べたのち
「 昔から七生報国という言葉がありますが、
私はこのように乱れた世の中に、二度と生れ変りたくはありません 」
と、結んだ。
退廷する時、西田は川辺の顔をみて、微笑んだ。
「 おお、川辺か、よく来てくれた 」 と、声をかけてきた。
川辺は笑って答えようとしたが胸が迫って声が出ない。
黙って深く頭を下げたが、涙がホロリとこぼれた。
これが西田を見た最後であった。
しかし、川辺は西田のさっきの言葉が気になった。
「 せめて勇ましく七生報国、 七度生れて国に報いんと言ってくれるかと思ったが、
案に相違した西田の言葉は、なんとしても不満だ。 その夜、師の御坊の所へ聞きに行った 」
と、いう。
川辺は陸士に在学中、父親に死に別れ、
自身も死生の間をさまようような大病を病んで死生の問題を深く考えるようになった。
西田たちが国家改造論議に熱をあげているのを尻目に、 川辺は宗教書や哲学書を枕読していた。
しかし、どうしても疑問が解けない。
大正十三年砲工学校に派遣されていた時、 顕本法華宗の大僧正 本多日生の講演を聞いた。
その話のなかに
「 人格実在論、霊魂不滅論の哲学的論証は、法華経以外では解決することはできぬ 」
と いう言葉があった。
これだと直感して、宿所の目黒の常楽寺を訪ねて、教えを乞うた。
本多日生は
「 今の君は 言ってみれば小学生程度だ。 小学生は算術は解けても 微積分はわかるまい。
微積分が理解できるまで修業することだ 」
と 言って、良い師僧を紹介してくれた。
妙満寺派の綜合宗㈻林の学頭、本村日法という権大僧正であった。
その頃、早稲田の正法寺に座っていた。
川辺は週に三回 ここに通い、本村日法の教えを受けることになった。
川辺の言う師の御坊とは、この人であった。
日法は川辺の不満らしい口吻を、静かに抑えて
「 いやいや、そうではない、
恐らくこんな言葉を吐ける人は万人に一人といないであろう。
死生を達観した達人、高僧の心境である 」
と、教えてくれた。
「 あの頃、西田も私も今流で言えば三十五か六、血気盛んな壮年だ。
こんな若い年で、こうした心境に到達した西田という奴は大した奴だ。
と 今さらのように感服したことを覚えている 」 と、川辺は語っている。
・・・
西田税 「 このように乱れた世の中に、二度と生れ変わりたくない 」 

 
西田税 


西田は逮捕されてから、銃殺されるまで約一年半、
陸軍衛戍刑務所に収容されていたが、その間、多くの詠草を残している。
  秋深きかの山かげにきのこなど  尋ねし頃のなつかしきかな
  母思ひはらから思ひ妹思へば  秋の夕べに風なきわたる
これは死刑を求刑された十月二十二日の日付がある。
越えて十一月十九日の手記には俳句や和歌を書きつけている。
  むさし野に雁ないてゆくねざめかな
  愚かなるわれ故辛き起伏の  妹を思へばいとしかりけり  
悲しみの使徒の如くに老いのこる  母は悲しもひたにおろがむ これも同じ頃の歌であろう、
母を思い、妻を思う切々たる真情を吐露している。
  故郷の母は如何にと恋ひわぶる  ひとやの窓に秋の風吹く
  蹌踉そうろうと別れてゆける妻添ひの  母の面影忘れえぬかも
  秋風や幸うすきわが妹子が  よれる窓辺の思はゆるかも
  妻子らをなげきの淵に沈めても  行くべき道と思はざりしを
この年の十二月四日、監房訪問の際、所長手渡すと付記された紙片に、
次の三首の和歌が書きつけてある。
  たはやめのいもが世わたる船路には  うきなみ風のたたずあれかし
  ふる里の加茂の川べのかはやなぎ  まさをに萌えむあさげこひしも
  神風の伊勢の大宮に朝な朝な  ぬかづけるとふ母をおろがむ
西田は能書家として知られている。
  世を慨き人を愁ふる二十年  いま落魄の窓の秋風
     天心猛生
西田は遺墨の署名は たいてい 「 天心 」 と 号しているが、
まれに 「 西伯処士 」 とも署名している。
郷里の南東部に広がる平野と、そこに悠大な裾野を広げて聳そびえる山陰一の鐘状火山、
大山 (一七一三メートル ) が指呼のうちにのぞまれる。
その地域一帯が西伯郡である。
朝夕大山をのぞんで育った西田は、懐旧の情を托してこの名を号としたものであろう。

翌十二年八月十日、
東京の弟正尚から、 いよいよ近い内に判決が下るという知らせで、博は内密に上京した。
六十八だというのに、事件以来めっきり衰えのめだってきた母に、
兄の死刑の判決が近いことを知らせるに忍びなかった。
しかし、気配でそれを悟った つね は、 店の仕事を嫁の愛にまかせて
十五日の汽車に乗り、
十六日には陸軍衛戍刑務所の面会所に現われて、みんなを驚かせた。
税は急に衰えのめだった母に気をつかい、
「 お母さん、泣けるだけ泣いて下さい。 汽車の別れでさえつらいものですのに、
いよいよ お母さんとは幽明境を異にするわけです。どうか泣けるだけ泣いて下さい 」
と 言って自分の袂からハンカチをとり出して、母の手に渡した。
しかし、つね は 泣かなかった。
昔の武士の母のように端然として、
言葉少なに返事しながら、眸ひとみは食い入るようにわが子の顔をみつめていた。
「 十五日から十八日まで、母を先頭に初子、姉弟 それに同志の人々は、 毎日 面会に通いました。
しかし、すでに生きながら、涅槃の境に這入っていた弟から、
かえって面会にきた私たちが慰められ、激励されて泣くことが多かったのです 」
「 十八日面会に行ったら、兄はきれいな頭を剃っていた。
それを見た瞬間、死刑は明朝だと知った。
スーと頭から血がひくように感じた。 涙がとめどなく出て止まらない。
兄が慰めるように 『 正尚、こんな句はどうだ。夏草や四十年の夢の跡 』 と言った。
『 兄さん、それは 』 と、言ったまま絶句した。
芭蕉の焼き直しですよとは言えなかった。
泣いている弟をいたわる死んで行く兄の最後のユーモアだったとは、ずっと後に気がついた 」
と、これは末弟正尚の追想である。
また 家にいる博には、米子弁まるだしで、
「 昔から七生報国と いうけれど、わしゃもう人間に生れて来ようとは思わんわい。
こんな苦労の多い正義の通らん人生はいやだわい 」
と、しみじみ語った。
この頃は、もう一ケ月も前から日支事変が起きており、
いよいよ戦火が拡大してゆく様相を示していた。
獄中の西田もこれをよく知っていた。
「 軍閥が政権をにぎったから、もう駄目だ。
奴らはこんな大きな戦争を起して、後始末に困るだろう。
自分で始めたんだから自分の手で始末をつけねばならん。
それが奴らのような下積みの庶民の心を踏みにじる奴にはようできんだろう。
元も子もなくしてしまう馬鹿な奴らだ 」
と 吐きすてるように話していた。
その後の経過は彼の予見どおり、ついに日本を滅ぼす破目になってしまった。
初子や博に自分の形見分けの品物をさしずしたあと、
涙をうかべている肉親の顔を脳裏に深く刻みこむように、
一人一人、じっと見つめながら
「 こんなに多くの肉親を泣かしてまで、こういう道に進んだのも、
多くの国民がかわいかったからなのだ。 彼らを救いたかったからだ 」
と 言って、金網越しに暖かい自分の手を一人一人に握らせ、握りかえしていた。

・・・
西田税 「 家族との今生の別れに 」 


西田税の歌である
青雲の涯にいったのかどうかはわからない
ただ
「 天皇陛下万歳 」
の 叫びを私の心に刻みつけて
再び会うことも 話し合うこともできない、
それだけに どこか遥かな遠い涯にいったことだけは事実である
・・末松太平


昭和十一年七月十二日、
青年将校たち十五名が
天皇陛下万歳を叫び、
「 みんな撃たれたらすぐ陛下の前に集まろう 」
と 元気よく話しながら、無残に銃殺された日、
少し離れてはいても、
そのかすかな声やざわめきは西田の監房にも響いてきたのであろう。
彼はやるせない思いをこの歌に托した。
終日 法華経を誦していたといわれる。
・・・
あを雲の涯 (二十一) 西田税  


八月十九日の早朝、
二千坪はある庭の松の木に、
みたこともない鳥がいっぱい群がって
異様な雰囲気でございました。
西田の遺体は白い着物姿で、顔に一筋の血が流れておりました。
拭おうと思うのですが、女の軀はけがれているように気臆れして、とうとう手を触れられませんでした。
気持が死者との因縁にとらえられているためでしょうか。
刑務所から火葬場へ向かうとき、
秋でもないのに一枚の木の葉が喪服の肩へ落ちたのを、
西田がさしのべた手のように感じました。

・・・西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯 

昭和十二年八月十九日、
午前五時三十分、
西田税は
東京代々木の陸軍衛戍刑務所内に特設された執行場において銃殺された。
行年三十七歳。
北一輝、村中孝次、磯部浅一 といっしょである。
同日朝、 死刑執行を言い渡した塚本刑務所長に対して、静かにこう言っている。
「 大変お世話になりました。
ことに病気のため、非常に御迷惑をかけました。
入院中、所長殿には夜となく、昼となく忙しい間を御見舞
に 来て下さりまして、感謝に外ありません。
現下陰悪なる情勢の中の御勤務で、お骨折りですが、
折角気を付けて御自愛を祈ります。皆様によろしく 」
いよいよ刑架前にすわると、
看守に対し
「 死体の処置をよろしくお願いします 」
と、落ちついた態度で撃たれたのである。
・・・
昭和12年8月19日 (二十一) 西田税


昭和維新・村中孝次 (一) 肅軍に関する意見書

2021年04月21日 13時33分00秒 | 昭和維新に殉じた人達

肅軍ニ關スル意見
謹ミテ卑見ヲ具申ス
現下帝國内外ノ情勢ハ 「 眞ニ稀有ノ危局ニ直面セルヲ想ハシムルモノ 」 アルハ、
さき
ニ師團長會同席上陸軍大臣ノ口演セラレシ所ノ如ク深憂危惧一日モ晏如タリ難ク
「 時艱匡救ノ柱軸タリ國運打開ノ權威タラサルヘカラサル皇軍 」ノ重責ハ愈々倍加セラレタリト謂フヘシ。
此秋ニ臨ミ 「 擧軍ノ結束鐡ヨリモ堅ク一糸紊レサル統制ノ下ニ其ノ使命ニ邁進スルハ
現下ノ重大時局ニ鑑ミ其ノ要特ニ切実 」 ナルハ固ヨリ多言ヲ要セサル所ナリ。
然ルニ現大臣就任以來軍統ニ關スル廔次ろうじノ訓示、要望アリシニ拘ラス
「 各般ノ事象ニ徴スルニ遺憾乍ラ更ニ一段ノ戒愼ヲ要ス 」
ト云フヨリモ寧ロ 軍ノ統制亂レテ麻ノ如ク蓬乱流離
殆ト収拾スヘカラサル状態ニ在ルハジツ長嘆痛慨ニ堪ヘサル所ナリトス。
固ヨリ社會ノ亂離混沌ハ變革期ニ於ケル歴史的必然ノ現象ニシテ、
軍部軍人ト雖モ此ノ大原則ヨリ除外セラレルヘキモノニ非ラス。
亦是レ社會進化當然ノ過程ナルハ達観スヘシト雖モ 是レヲ自然トシテ放任シ
皇天ニ一任シテ
拱手傍観スルハトラサル所、
飽ク迄モ人事ノ最善ヲ盡シテ而シテ後天命ノ決スル所ヲ俟タスンハアルヘカラス、
是レヲ以テ逐年訓示シ口演シ處罸處分シ 或ハ放逐シ 投獄スルト雖モ愈々非統制狀
鄕黨的或ハ兵科的ニ對峙シ天保無天ニ暗爭ヲ継続セル後
最近ハ之レニ國家革新ノ信念方針ノ異同ヲ加ヘ來ツテ
「 黨同異伐朋黨比周 」 シ 甚シキハ満洲事變、十月事件、五 ・一五事件等ヲ
惹起セル時代ノ潮流ニ躍リ  國民ノ愛國的戦時的興奮ノ頭上ニ野郎自大的ニ不謹愼ヲ敢ヘテシ
國家改造ハ自家獨占ノ事業ト誇負シテフ介入協力ヲ許サス、
或ハ清軍ト自稱シテ異伐排擠ニ寧日ナキ徒アリ、
或ハ統制ノ美名ヲ亂用シ私情ヲ公務ニ装ヒテ公權ヲ檀斷シ
上ハ下ニ臨ムニ 「 感傷的妄動ノ徒 」 ヲ以テシ、下ハ上ヲ視ルニ政治的策謀ノ疑ヲ以テス。
左右信和ヲ缺キ上下相尅ヲ事トス 實ニ危機巖頭ニ立ツ顧ミテ慄然タラサルヲ得サル所ナリ。
噫、皇軍ノ現狀斯クノ如クニシテ何ニヨリテ 「 時艱匡救ノ柱軸タリ國運打開ノ權威 」 タルヲ得ヘキ、
窃ニ思フ、此ノ難局打開ノ途ハ他ナシ、
本年度参謀長會同席上ニ於ケル軍務局長所説ノ如ク
「 信賞必罸、懲罸ノ適正 」 ヲ期シ軍紀を粛正スルニ在ルノミト。
實ニ皇軍最近ノ亂脈ハ所謂三月事件、十月事件ナル逆臣行動ヲ僞瞞陰蔽セルヲ動因トシテ軍内外ノ攪亂其ノ極ニ逹セリ。
而モ其ノ思想ニ於テ其ノ行動ニ於テ一點過斟酌
しんしゃくヲ許スヘカラザル
大逆不逞ノモノナリシハ世間周知ノ事實
ニシテ
附録第五  「 〇〇少佐ノ手記 」 ニヨリテ其ノ大體ヲ察シ得ヘシ。

而シテ 上ハ時ノ陸軍大臣ヲ首班トシ中央部幕僚群ヲ網羅セル此ノ二大陰謀事件ヲ
皇軍ノ威信保持ニ籍口シ掩覆不問ニ附スルハ其ノ事自體、
上軍御親率ノ 至尊ヲ欺瞞シ奉ル大不忠ニシテ
建軍五十年未曾有ノ
此ノ二大不祥事件ヲ公正嚴粛ニ処置スルコトヲ敢ヘテセサリシハ、
まことニ大権ノ無視 「 天皇機関説 」 ノ現實ト謂フヘク、斷シテ臣子ノ道股肱ノ分ヲ踏ミ行ヘルモノニ非ス。
軍内攪亂ノ因ハ正ニ三月、十月ノ兩事件ニアリ、
而シテ兩大逆事件ノ陰蔽糊塗ハ実ニ今日伏魔殿視サルヽ軍不統制ノ果ヲ結ヘルモノト謂ハサルヘカラス。
之レヲ剔抉處斷シ以テ懲罸ノ適正ヲ期スルハ軍粛清ノ爲メ採ルヘキ第一ノ策ナリト信ス。
爾餘ノ些事ハ是レヲ省略ス。
昨冬以來問題トナリシ所謂十一月廿日事件ニ對スル措置ニ至ツテハ最モ公正ヲ欠クモノト謂ハサルヘカラス、
最近ニ於ケル訓示、論告ハソウ青年將校ノ妄動ニ歸スト雖モ統帥破壊ノ本源ハ實ニ自ラ別個ニ存在セリ、
以下十一月事件ニ關シ歪曲セラレ陰蔽セラレアル經緯ヲ明カニシ 以テ御高鑑ニ資セントス。
別紙添付セル左記附録ニ就キ眞相御究明を冀望ス。
一、附錄第一 陸軍大臣及第一師団軍法會議長官宛上申書
二、附錄第二 片倉少佐、辻大尉ニ關スル告訴状中告訴理由
三、附録第三 片倉少佐、辻大尉ニ對スル告訴追加 ( 以上村中大尉 )
四、附録第四 告訴狀竝陳述要旨 ( 磯部主計 )
以上ヲ以テ事件推移ノ眞相梗概ヲ明ラカニシ得ヘシ。
實ニ十一月廿日事件ニ關缺スル限リ 軍司法權ノ運用ニ於テ 懲罸ノ適用ニ於テ
共ニ公明適正ヲ缺キ 將又公的地位ヲ擁シテ檀權自恣じしノ策謀妄動スルモノトアリ
軍内攪亂ノ本源ハ實ニ中央部内軍當局者ノ間ニ伏在スルモノト斷言スルモノ敢テ過言ニアラサルヲ信ス。
切言ス、 皇軍現下ノ紛亂ハ三月、十月事件ノ剔快處斷ト兩事件ノ思想行動ヲ
今ニ改悛自悔スルコトナクシテ陰謀ヲ是レ事トスル徒ノ芟除トヲ斷行スルニ非スンハ
遂ニ底止収拾スル所を知ラサルヘシ。
不肖カ一身ノ毀誉褒貶ヲ顧ミス告訴ヲ提起セル所以ノモノハ
實ニ叙上ノ英斷決行ニヨリ
粛軍ノ目的ヲ達スヘキ機會ヲ呈供セントスル大乘的意圖ニ立チシカ故ナリ、
今ヤ國體問題朝野ニ論議セラレ講壇ニ著書ニ三十年論説セラレ信奉セラレ來リシ
反逆亡國的邪説ト是レニ基キ施設サレ運榮レラレ来リシ制度機構ナルモノカ
「 國體明徴 」 ノ國民的信仰ノ前ニ雲散霧消ヲ嚴命セラレ
「國體明徴」 ヨリ 「 國體顕現 」 へ 「 國體ニ關スル國民的信仰ノ恢復、
「 國體覺醒 」 ヨリ 「 擧國維新ノ聖業翼賛 」 ヘト必然的過程ヲ踏マントスルトキ
「 時艱匡救ノ柱軸タリ國運打開ノ權威タラサルヘカラサル皇軍 」 ノミ獨リ依然タル
「 天皇機關説、大元帥機關論 」 的思想ト内容トノ残滓ヲ包ンテ恥ナキヲ得ルヤ、
「 陸軍ハ維新阻止ノ反動中樞 」 ナリトスル國民的非難ニ永ク耳ヲ掩フハ

救フヘカラサル危殆ヲ誘引スルモノ今ヤ斷乎トシテ猛省英斷ヲ要スル秋ニ際會セリ。
不肖衷々トシテ玆ニ憂フルカ故ニ避難貶黜へんちゅつノ一身ニ集ルヘキヲ顧ミス 
敢ヘテ暴言蕪辭ヲ連ネテ私見ヲ具申スルモノナリ。
黜陟ハ伏シテ是レヲ待ツ。
唯々冀クハ國家ト皇軍ノ爲明察英斷アランコトヲ
頓首再拝
・・・ 粛軍に関する意見書 (1) 粛軍に関する意見

 上申書
陸軍歩兵大尉 村中孝次
告訴事件審理ノ件上申
昭和十年五月十一日
陸軍歩兵大尉 村中孝次
陸軍大臣殿
第一師團軍法會議長官殿

私儀
過般片倉少佐、辻大尉カ 私等ヲシテ刑事處分ヲ受ケシムル目的ヲ以テ虚僞ノ申告ヲナシタル件ニ關シ
二月七日附ヲ以テ第一師團軍法會議検察官宛告訴ヲ提起シ軍司法當局ノ至平至公ナル御裁断ヲ待チ居リ候
然ルニ迅速峻嚴ハ軍法会議ノ特性ナルヲ信シ
且ツ又 所謂十一月二十日事件ハ
告發アルヤ直チニ將校及士官候補生八名ヲ拘束シテ峻嚴ニ審理ヲ開始シタルニ拘ラス、
本誣告ノ告訴ニ關シテハ既ニ三ヶ月ヲ経過スルモ
未タニ當局ノ積極自發的捜査ノ開始セラレサルハ
實ニ不審ニ堪ヘサル所ニ候
別紙縷術スル所ヲ御参照ノ上 本告訴事件審理ニ關シ特ニ検察當局ヲ御鞭撻下サレ度
玆ニ謹ンテ及上申候也
・・・ 粛軍に関する意見書 (2) ( 附錄第一 )上申書 

告訴理由
其一 総論
小官 儀曩ぎどう
佐々木、荒川、次木、武藤、佐藤ノ五士官候補生 指導上ノ一時的方便トシテ
小官等陸軍青年將校一部ノ中ニ如何ニモ
乾坤一擲いってき一大擧ヲ企圖シ居ルカ如キコトヲ口ニセルコトニ端ヲ發シテ
検察處分ヲ受ケ身柄ヲ拘束セラレテ以來心中夜思フコトハ
小官外七名ノ此行ニヨツテ 陸軍部内ニ鬱屈停滞セル暗明對流ノ正邪曲直ハ自ラ識者ノ辯別スル所トナリ、
且 當初小官等ヲ一掃シ 延イテハ林、眞崎、荒木三大將 及 是レニ親近セル諸將軍ヲ小官等ト關聯アルモノト爲シテ
共ニ排陷センコトヲ企圖セル者 及 是等ニ誘引躍動セシメラレシ人士ノ中ニモ
内心期セスシテ忸怩
タルモノアリテ反省一番スルニ至ルヘク
混濁セル我皇軍内ニ一抹ノ清涼剤ヲ點下スルノ好結果ヲ招來シ得ルニアラスヤト期待シ自ラ慰ムル所アリシナリ。
然ルニ 事一度司直ノ手ニ委セラレ黒白是非盡ク至公至平ノ明鑑ノ斷スル所ヲ待ツテ決定スヘキニ
尚且ツ策動陰謀ヲ止メス中傷誹謗ヲ事トシテ已ムコトナキ風評ヲ耳ニシ
實ニ国家竝皇軍ノ爲ニ憂憤禁スル能ハス
斯カル徒輩ヲ斷然トシテ芟除スルコトナクンハ
皇軍内ニ於ケル現下ノ紛亂ハ永ク終結スルコトナク
皇國ノ將來ニ大害ヲ醸スヘキハ必然ニシテ危惧憂慮ニ堪ヘサル所ナリ。
由来陸軍ハ陰謀ノ府トシテ世人ノ忌憚スル所
又 策謀多キノ故ヲ以テ叡慮ヲ患ハせ給フト漏レ承ハル、
上ハ 宸襟ヲ悩マシ奉リ下ハ國民ノ信ヲ失フ。
斯クノ如クンハ一旦非常ノ秋擧國一致ノ総動員ヲ必要トスル近代國防ニ於テ何ニヨリ武威ヲ伸ヘ皇輝ヲ振ハンヤ、
邪陰無反省ノ徒ヲ掃除一洗シテ公明正大ナル紀綱ヲ確立スルハ
現下皇軍ノ内部事情ニ鑑ミ一日ノ急ヲ要スル喫緊事ナリト信ス。
小官等數ヶ月ノ幽居ノ結果カ明ラカナルニ従ヒ
彼等邪謀ノ徒モ自ラ反省歸カエル日アルヲ所期シ小官ハ靜カニ豫審ノ終結ヲ待タント欲セリ。
然ルニ此徒輩ノ暗躍日ニ加ハリ、疾呼喧傳シテ皇軍内部ヲ撹亂シテ恥ツルコトナキヲ知ルニ及イテハ
黙止セントシテ黙止スル能ハス、玆ニ前記兩名を告訴スルニ決セリ、
冀クハ微衷ヲ諒察セラレテ皇軍淸粛ノタメ明斷ヲ垂レ給ハンコトヲ。
片倉衷、辻正信ノ兩名カ小官等ヲ排擠し、延イテハ林、荒木、眞崎三大將及其餘ノ諸將軍ヲ一掃セント欲シ
士官候補生佐藤勝郎ヲ小官等同志ノ内部ニスパイトシテ潜入セシメ
同人ノ探知セル事項ヲ以テ奇貨措クヘシトナシ 是レヲ基礎トシテ歪曲捏造セルモノヲ以テ一大陰謀カ目前ニ迫リツヽアリト
當局を誑感シ小官等ヲ行政処分ニヨリテ陸軍ヨリ一掃セシメントシ
其結果司直ノ發動トナリシハ明瞭ナル實證アリ。
以下項ヲ分チテコレヲ論述ス。
・・・ 粛軍に関する意見書 (3) ( 附錄第二 ) 片倉少佐、辻大尉に對する告訴狀中告訴理由1  


村中孝次

粛軍に関する意見書
・ 
粛軍に関する意見書 (4) ( 附錄第二 ) 片倉少佐、辻大尉に對する告訴狀中告訴理由2 
粛軍に関する意見書 (5) ( 附錄第二 ) 片倉少佐、辻大尉に對する告訴状中告訴理由3
粛軍に関する意見書 (6) ( 附錄第三 ) 片倉少佐、辻大尉に對する告訴追加1 
粛軍に関する意見書 (7) ( 附錄第三 ) 片倉少佐、辻大尉に對する告訴追加2 
粛軍に関する意見書 (8) ( 附錄第三 ) 片倉少佐、辻大尉に對する告訴追加3 

粛敬
内外危急多端の秋 愈々以て御清祥奉賀候陳者
不肖所謂十一月廿日事件の眞相に關し永く口を緘して語る事を避け来り候ひしも、
今や其の闡明せんめいを必要とし妥当とする時機に到達せるを以て、
三長官に呈出せし意見書の冩を敬呈仕候間之れに就き 五究明の程奉願候
昭和維新の唱導既に數歳を閲し申候
所謂 「 國家改造 」 とは國民物質的生活の外包的部分に就て言ふ、
其の根基たり終局たるは國民精神の神的革命による國體的覚醒、
道義的飛躍ならざる可らず、
然るに単に 「 制度機構の改造 」 にのみ寠ろう身するが故に、獨裁主義、
國家社会主義、共産主義乃至幕僚中心主義的黒体國體背反の中世思想に堕し、
或ひは三月事件と謂ひ十月事件と言ふ反逆的暴擧を企圖し將
又自我私利私欲隠謀の非道義を恥ぢざる所のものあり、
純正維新開展の過度的現象として或ひは見るべしと言ふと雖も
皇國皇軍の本義に於て寛如是認を許さざるものもあり、
天佑なる哉 「 天皇機関説 」 問題の起るありて
「 機関説排撃 」 「 國体明徴 」 の囂々きょうきょうたる輿論よろんは激端に奔騰飛方に
是れ 「 天皇の原義 」 を確認し國政私配の中間存在を一掃し
國家の根柱國民の中心生命たる天皇に対し奉り、
挙民直參輔翼の國魂に覚醒すべき秋、
而して全國民の此の國體的道義的人格覚醒を基盤として百世貫徹、
万國首導の大乗道義國家たる政治的經済的機構を確立すべきなり、
皇軍現下の紛淆ふんこうを斷離して擧軍不動の統一を具現するの途は
一は 「 維新 」 の神髄を把握して
興國的潮流の源頭に立つことに據ってのみ期待し得べし、
これを是れ 「 維新的擧軍一体 」 と可申候
建軍の根本使命に立ち 「 維新 」 の大旆だいはいを樹つべく
斷じて低徊願望を許す可らず候
降暑酷烈の砌乍みぎりながら邦家の為め切に御奮の程祈上候
拝具
昭和十年七月
陸軍歩兵大尉 村中孝次
玉鞍下
・・・粛軍に関する意見書 (13) 書簡 ・ 村中孝次
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
< 註 >  『 粛軍に関する意見書 』 を送付する時に添えた書簡である


昭和維新・村中孝次 (二) 赤子の微衷

2021年04月20日 13時46分14秒 | 昭和維新に殉じた人達


村中孝次  

二月二十五日、
夫は菅波三郎の家へ行くと言い 「しばらく留守にするからね」 と言いおいて出かけて行った。
いつもの小旅行と同じさりげない様子であった。
しかしその二、三日前、夫人に貯金通帳と生命保険の証書を出させ、黙って見ていた。
この日、出かける支度が整ってから、村中は座敷に坐り込み、立ちがたい風情で、
「僕は陛下のお光を妨げる者を芟除するのがつとめと考える。
自分としてはそうしか生きようがない・・・・」 と 呟いた。
日頃夫がよく口にする言葉であったのと、汽車に乗るものとばかり思って
夫の外出仕度を急いだ妻は
「あなた、時間大丈夫ですか」 と 思わず言葉をはさんだ。
夫はこのあとに何を言うつもりであったのだろうか。
聞きそびれてしまった。
村中は立ちながら、数え年四歳の娘に 「お土産はなにがいいの?」 と 聞いた。
子供は無邪気に 「ハンモック」 と 答えた。
目立つといけないから見送るなと言われて、母娘は台所の桟越しに手を振って送った。
振返って眼でうなずいた夫は、そのまま足早に立去った。
村中が提げた鞄には、軍服一揃いと長靴がしまわれていた。
陸軍を逐われた男には着る機会のないはずの軍服である。

蹶起前日二月二十五日夕刻以降、
部隊外の同志は夫々歩一、歩三の営内に集合しましたが、
私は午後一時頃、家内には九州方面に旅行すると称して、
「 トランク 」 には軍服類を入れて自宅を出て、
中島少尉の下宿に行き、明朝決行に決定した旨を伝へ、
附近にて理髪を為したる後、
歩兵第一聯隊の機関銃隊の栗原中尉の下に行き、
軍装を整へ自分の執筆せる蹶起趣意書を山本少尉に印刷して貰ひ、
静かに時間の経過を待ちつつ
第十一中隊に行き丹生中尉と会談し、
二十六日
午前四時二十分頃から私は丹生部隊と行動を共にした


二十六日
午前四時三十分
歩兵第一聯隊の各参加部隊は、
栗原中尉の機関銃隊を先頭に、丹生部隊之に続き、
歩三の野中部隊の後方に続行して粛然として聯隊を離れ、
各々受持の部署に向ひ出発、
丹生部隊は午前五時頃首相官邸に到着、
裏門から栗原部隊の一部が突入し、更に表門り其の主力を以て突入し、
数発拳銃を発射しているのを右側に見ながら私共一行は陸相官邸に行きました。
陸相官邸に到着しましたのは午前五時頃であります。
陸相官邸に於ては、何等憲兵の抵抗を受けず、
玄関に到り 私服憲兵に、香田大尉の名刺を通じて陸軍大臣に面会を求めたのであります。
玄関に面会を求めましたのは、香田大尉、磯部、私の三人で、
数名の下士官兵の護衛を受け、
管陸相の御出を待ち、
此の間 丹生中尉、山本少尉は
陸相官邸及陸軍省参謀本部の外囲警備に当って居りました。
約一時間半待つて、
午前六時三十分頃 小松秘書官が来ましたので 事情を説明し陸相に面会を求め、
それを伝へて貰ひ同四十分頃漸く陸軍大臣閣下に面接することが出来ました。
待つて居る間に他の襲撃隊より逐次報告を受け、
首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、斎藤内大臣、渡辺大将に天誅を下した事を知りました。

陸相に面会する事が出来ましたので、
香田大尉は決起の趣旨、計画の大要、現在迄知り得たる情報を報告し、
事態収拾の為善処せられ度き旨を述べました処、
陸相閣下より 「 君等の希望を云ひ給へ 」 と 申されましたので、
香田大尉り次の項目に就き理由を具して説明したのであります。
一、事態の収拾を急速に行ふと共に、本事態を維新回天の方向に導くこと。
二、皇軍相撃つことをさける為急速の処置を執ること。
三、兵馬の大権干犯者であり、皇軍私兵化の元兇である南大将、小磯中将、建川中将、
   宇垣総督を即時逮捕すること。
四、軍権を私し、種々の策動を以て皇軍破壊の因を為して来た者の中、其中心的人物と
   思はれる根本大佐、武藤中佐、片倉少佐等を即時罷免すること。
五、露威圧の為、荒木大将を関東軍司令官たらしむること。
六、全国に散在して居る同志中、主要人物を東京に採用して、此等の意見をも聴取して
   事態収拾に当らしむること。
七、右諸項が実現する迄、我々部隊は暫く現在位置附近の警備に任ぜしめられたきこと。
・・・「 只今から我々の要望事項を申上げます 」 
その中に古莊次官、真崎大将、小藤歩兵第一聯隊長、山口大尉等が次々に見えられ、
大臣閣下は参内上奏する事になりました。
同日午前九時頃から陸軍省参謀本部の人々が続々出勤して来た為、
門を警備して居た者と小競合を起し、遂に官邸表玄関に於て、
磯部が陸軍省の片倉少佐を撃つ結果に立ち至り、
古莊次官と石原大佐の計ひで、
陸軍省、参謀本部の勤務者は夫々偕行社、在郷軍人会館に行くこととなり、
事態の悪化するのを防止することが出来たのであります。

陸相参内後は一寸平静となり、私共は陸相の帰られるのを待ち、
其結果を聞いた上で我々の今後の方策を決定し様と思って居りましたが、
何時迄待つても大臣は帰って来られず、
事態の急速なる解決を念願して居りました我々として、非常に焦慮したのであります。
同日夕刻前であつたと思ひますが、私は古莊閣下に此儘経過する時は、
事態は益々悪化するのみであるから、速かに事態収拾の方策を決定する様希望し、
今朝、陸相に対し香田大尉り進言した蹶起趣旨幷に希望を述べ、
特に本決行が義軍としての行動であるか、賊軍としての汚名を負ふべきものであるか、
吾々の行動が義軍であることを認めらるるか否かは、
一に懸って昭和維新に邁進するか否かになるものと思ひます。
我々は趣意書に書きました通り、御一新翼賛の絶対臣道を尽す為に、
我々軍人にのみ出来る天与の使命を果したのであつて、
此の行動を是認することに依って維新に直入することが出来るのであつて、
精神のみを是認して行動を否認する様な従来通りの国法に縛られた観念では、
維新には入り得ない。
維新とは従来の一切を否認するものであり、
相澤中佐が統帥権干犯を怒り、皇軍の私兵化を防止する為
他に方策なく臣子としての 道を尽す為に決行せられたあの永田事件の行動を、
精神は良いが直接行動はよくないと云ふ従来通りの法治思想であつては、
未だ維新を知らぬ者の考へである。
今度の行動は、我々には絶対正義と思って居る。
下士官兵もそれを信じで一死殉国を期して奮ひ立ったのでありますから、
此を義軍と認め此の決行を起点として、御維新に這入って貰ひたい。
特に部隊将校としては、宸襟を悩まし奉りし事は恐懼を禁じ得ません事であり、
其責は当然負ふべきであるが、
部下の考へて居る正義観を生かしてやりたいと云ふ念願 からも、
此の決行の同志集団を義軍として認めて戴きたしと強調しましたが、
古莊閣下は、此の私共の意見に基いて自ら宮中に参内せんとせられました時、
山下奉文少将が宮中から帰って来られまして、陸相の御意図として軍事参議官一同と相談した処、
蹶起の趣意を認め善処する事に意見が一致しありとの意味の事を伝言せられましたが、
結局抽象的内容である為、何とも我等の行動を決する事が出来ず、
更に古莊閣下に参内して貰ひ、改めて大臣に御相談を願ふことにしました。
夜間に入って各部隊は愈々殺気立って来ましたので、
何とか急速に目鼻をつけたいと思ひまして、
山下少将を促し、満井中佐、馬奈木中佐と共に香田、磯部、私の三名の者が同行して
宮中に軍首脳部の人を迎へに参りました処、
山下少将以外は阻止されて参内は出来ず帰りました。

其後、宮殿下を除く全軍事参議官が陸相官邸に来られ、
香田、磯部、栗原、対馬、私の五人で山下少将、鈴木大佐、小藤大佐、山口大尉等
立会にて御眼に掛り、色々意見を開陳致しましたが、
結局は抽象的議論に終り、何等具体化されたものはありませんでした。

二十六日深更に至って、戒厳令が宣布された事を知りましたが、
時刻ははつきり判りませんが一先づ陸軍省附近は撤去しやうと思ひ、
種々其実施に就て 考案して居りましたが、数日来の疲労で朝に入り其儘寐り、
・・・挿入・・・
満井は車を陸相官邸にやり 村中をよんできた。
村中を説得して引きあげさせようとしたのだ。
亀川はこの村中説得の事情をつぎのように述べている。
「 そこで満井と私は村中を別室に呼び、
まず私から目的を達したかと聞きますと村中は達しましたという返事なので、
私はそれでは早く引きあげればよいではないか、といいますと、
村中は、事態をどうするか決まらないのに引きあげるわけにはいかない、との返事でした。
私は引きあげさえすれば事態は自然に収拾されるのだ、といいました。
この時、満井は、
≪ 部隊を戒厳司令官の指揮に入れ警備区域は現場のままとする ≫
という条件を持ち出し、早く引きあげた方がよいと話したので、
村中は
引きあげるということは重大だから 外の者にもいわなくてはならん、
そして西田にも相談しなくてはならん。
と いいました。
この時私から 西田の方は私が引き受けるから、
若い人たちの方は君が引き受けて早速引きあげてくれ、と話ました。
すると村中は
帰りましたら早速引きあげにとりかかりましょう。
ということで
わずかな時間で話がまとまって村中は帰って行きました」
・・・帝国ホテルの会合

翌二十七日午前六時頃に到るも状況は余り進展の可能性がないので、
私は歩兵第一聯隊の兵営内迄部下を撤去しやうと主張しました処が、
昨夜以来集って居た若い将校達の非常な憤激を買ひ、
皇軍相撃つも辞せずとする強硬論強く、
非常に険悪化したので 一先づ陸軍省、参謀本部及警視庁を撤退して、
新議事堂附近に集結して其の警戒を緩和し、
交通を遮断せざる様にすることに決し、夫々配備の変更に著手しました。
香田大尉と私とは第一線に行き、必要の指示を行はん為警視庁に行く途中、
戸山学校の柴大尉が自動車にて来て、今朝の状況を戒厳司令部に説明して置いたが、
君達から直接話をした方が善いとの話がありましたので、
其自動車に乗り軍人会館内戒厳司令部に行きました。

戒厳司令官香椎中将と参謀長安井少将に対し、
私から蹶起の趣意及香田大尉が二十六日朝陸相に対して希望した項目を説明し、
各部隊の意気強く此れ以上迄占拠して居る位置を動かすことは不可能で、
それを強行すれば必ずや皇軍相撃つの不祥事を惹起する虞れがありますから 考慮せられたいことを力説し、
最後に突出部隊は昨日小藤大佐の指揮下に入ることを命ぜられて以来、
其の小藤大佐の命令に従って行動する心算で居りますから、
戒厳司令官の小藤部隊として第一師団長の隷下に属せしめられたしと希望を述べましたが、
此の最後の希望は司令官幷に参謀長から是認せられて辞去し、
其帰途三宅坂に居たる安藤部隊の許に立寄り、
安藤大尉と話し合って居りました時、
坂井部隊が平河町の方から行軍して来て桜田門の方へ行かうとして居るのを見て吃驚し、
先づ停止を命じて坂井中尉に聞きますと、
宮城に行き参拝するとの事でありますから、
今宮城前は近衛の部隊が厳重に警備して居るので必ず衝突する結果となるから、
元の位置に引き返す様に勧告しました。
次に首相官邸の栗原中尉の処に行きますと、磯部も来て居りました。
其処で外部の状勢は有利に動いて居る様である、
内閣は総辞職をしたと云ふ情報を得て一旦陸相官邸に帰りましたが、
此所でも軍事参議官が打揃って各方面に奔走し、
努力して居ることを聞きましたので、
此際軍事参議官の行動を活潑にして時局収拾を迅速に導く為、
其中心を確定する必要があると思ひ、
「 万事真崎大将に一任 」 と 云ふ考が私の頭に閃きましたので、
首相官邸に香田大尉と共に行き 先づ磯部に相談し同意を得、
栗原中尉も賛成の様でありましたから陸相官邸に帰り、
全参議官と可成多数の蹶起将校と会合して其の意見を開陳しやうと
夫々手配をしました。

一方小藤支隊の臨時副官の格となつて居た歩兵第一聯隊山口大尉が、
其夜の傘下部隊の配宿を偵察計画中でありましたから、
同人に意見を述べ、大体、 大蔵大臣、文部大臣、鉄道大臣官邸に
栗原、中橋、田中部隊、 幸楽に安藤、坂井部隊、
山王ホテルに丹生部隊が泊ることに決定を見て、
山口大尉に命令を出して貰ひました。
それから私共の希望に応じて真崎、阿部、西の三大将が官邸に来られましたので、
各部隊からも出来るだけ多くの将校を集合して貰ひ、
約十七、八名が一同を代表して、
事態収拾を真崎大将に一任願ひ度き事。
各軍事参議官は同大将を中心に結束して善処せられたき事。
尚此の事件は軍事参議官一同と蹶起将校全員との一致せる意見となるを
上聞に達せられたき事
の三件を希望し、之に対し
阿部、西両大将は個人的に同意を表し、
真崎大将は
厚意は有難きも蹶起部隊が原位置を撤去するに非れば収拾の途なきを説かれました。
斯くして夕刻に近く各部隊は夫々宿営につき、
戒厳司令官から特に本夜はよく休養する様にとの注意がありましたので
直接警戒以外の者はなるべく廃して休泊しました。
私は四、五名の者と官邸で夕食を食べた上、
幸楽に居る安藤大尉の休宿状態を一巡した後、
本部の位置と決定された鉄道大臣官邸に行き、
稍々前途に曙光を見出した様な気になり安心して寝についたのであります。

・・・
村中孝次の四日間 1

・・・挿入・・・
二十七日朝七時頃、亀川哲也が参りまして、時局の収拾に就いて心配して居りました。
そして、真崎大将に会った話や鵜沢博士が西園寺公を訪問した話を聞きました。
又、帝国ホテルで 橋本大佐、石原大佐、満井中佐、小林長次郎等が策動して居る話しを聞きました。

同日夜、亀川に電話をかけて、来て貰ひました。
そして、 「 今日もとうとう暮れて二日も延びてしまった。貴下の方はどうですか 」
と申しますと、
亀川が 「 山本内閣にしようじゃないか 」 と申しましたので、
わたしが、
「 今度は陸軍がやった騒ぎだから、若い者を押える事が出来る様な人を陸軍から出さねばならぬ。
真崎に一任せよと云ふ者もあるから、真崎に一任しよう  」
と申しました。
其処へ村中が来ましたので、私はびっくりして感慨無量の態でありました。
そこで、私と北、亀川、村中の四人が集って、
村中から 「 戒厳部隊に編入された事、指令書が出た事 」
戒厳司令官に面接したら 「 現地に居って良いと云ふ了解を得たと云ふ事 」
「 今朝、陸軍省、参謀本部等に兵力を集結して、
 幕僚に襲撃を加へんとする意見を有する者があったが、自分 ( 村中 ) はそれを止めた事 」
「 二十六日朝、陸軍大臣を起して面接した状況 」
「 先輩同僚が多数来て激励して呉れるので、心強く思って居ること 」
等の話を致しましたので、
私から、
「 万平ホテル、山王ホテルに居るのはどちらの軍隊か 」
「 現地に居る事を許されて居るのか 」
「 給養はどうか 」
と 尋ねますと、村中は、
「 万平ホテル、山王ホテルに居るのは、自分達の軍隊だ 」
「 議会附近に集結することは、地形偵察の結果不可であるので、
 戒厳司令官に現地に其儘居っても良いかと尋ねたら、
戒厳司令官から其儘でゆっくり給養して良いと云はれた事 」
「 給養は部隊から受けて居る 」
と申しましたので、
私は
「 それではまるで官軍の様ではないか 」
と申し、又、村中が大臣の告示(五箇条)が出て居ると申しましたので、私は、
「 それじゃあ君達は賞められて居るのだ 」
「 討伐云々の噂があり、奉勅命令云々の事が出て居るかどうか 」
と尋ねますと、村中は、「 そんな事は無いと思ふ 」と申しました。
其時亀川哲也からも、
「 奉勅命令と謂ふが、そんな機関説の様なことを云ふな。
 それは袠竜の袖にかくれて大御心を私にせんとするものである 」
と謂ふ様な事を申しましたので、
私は亀川氏は理論的に強い人だと感じました。
其時、北からも、
「 早く軍首脳部の意見を纏めて、収拾に努力する様に 」
と申して居りました。
村中から、兵の教育上の参考資料はありませんかと尋ねましたので、
無いと申しますと、村中は帰って行きました。
・・・西田税 (七) 道程 2 

二十七日の夜九時ごろ、
鉄道大臣官舎 ( 伊藤公の銅像のある西方約百メートル ) の 前で、バッタリ村中孝次に会った。
彼は既に免官になっていたのだが、歩兵大尉の軍服を着て小柄な身体をマントに包んでいた。
兵隊を一人連れていたが巡察の途中だという。
あいさつもぬきにして、村中が私を見るなり、
「 おい、牧野 ( 伸顕伯 ) は どうした?生きたか死んだか ? 」
と 問いかけて来た。
牧野が無事脱出したことは、昼間見た社の情景で知ってはいたが
村中のこの決死の形相を見て私は事実を告げるわけにも行かなくなった。
といって、嘘もつけない。
モゴモゴ口籠っている私を見ると、
鋭敏な彼は早くも事の失敗を察知して、歯がみをして口惜しがった。
小さな体を震わして、
「 牧野を逃がしたのかウーム・・・・・失敗か 」
東北弁で歯ぎしりしながら語る村中のことばはよく聞きとれなかったが、
こうしている間ももどかしいという風に、
私の手をグッと握ると後はもう何もいわず、
鉄道大臣官舎の門の中へ消えて行った。
後ろ姿は妙に寂しかった。
・・・
「 今夜、秩父宮もご帰京になる。弘前、青森の部隊も来ることになっている」

二月二十八日早朝、
本日の行動を考へ、 戒厳司令官に会ひ、
我小藤支隊をなるべく長く原位置に止り得る様工作し、
又 軍事参議官に会見し、
昨日の提言の結果を確め鞭撻を加へ様と思ひ、
先づ別紙の様な意見具申を自分で書き、
順序を経て提出しやうと思ひ執筆しましたが、
書き終った頃 栗原中尉が飛んで来て、
近歩三の中橋中尉に、
「 勅令に依り中橋中尉の部隊は小藤大佐の指揮下に入り、原位置を撤退し、
歩兵第一聯隊に到るべし 」
と 云ふ命令が来たと云ふて非常に憤慨して居りました。
私は昨日 戒厳司令官に面会して、
司令官幷に参謀長から行動隊は戒厳の間 小藤大佐の指揮下に置くことに同意を得て居り、
又 山口大尉は
司令官の花押のある同様の命令文を貰ったと云って私に示して呉れましたので、
そんな筈はない、間違ひなりと思ひ、直ぐ陸相官邸に行き小藤大佐に会ひ、
「 此の命令は間違ひと思ふから修正する様交渉を願ひ度ひ 」 と 申しますと、
小藤大佐は稍や当惑の色をして後刻話をするからと云ふ事でありました。
小藤大佐の許を出ますと 別室に居た満井中佐、柴大尉等が私を呼び
柴大尉から状況急変して奉勅命令が出そうな形勢にあり、
山口大尉が今朝二時間に亘って戒厳司令官を説き、
軍事参議官を説いて涙声共に下ると云ふ位に努力したが、
其結果どうなることか不明であるとの話があり、 私も愕然とした訳であります。
満井中佐が涙をたたへながら、
私に対して奉勅命令が出た場合には、
奉勅命令に從って撤退する様にと懇願されましたが、
私は各部隊将校以下兵に至る迄、悲壮なる意気であり殺気充満して居る現状に於て、
現在地より移動する事は必ずや各個の突出となり、
如何なる事態をまき起すか図り知れないので、
暫く現在地に置く様に上部工作を願ひますと、
前述の意見具申の理由と概ね同様の事を述べ、
且 本蹶起を契機として御維新に転入し得るか否かは
一にこの小藤部隊を現位置にあらしむるか否かの如何に存し、
下士官兵の奮ひ立つた志に報ゆる為、
何とか此の願望は出来ないでしようかと切願しました。

満井中佐は成否は請合ひ兼ぬるが、努力して見やうとの事で、
別に柴大尉と同行して鉄道大臣官邸に帰り、
柴大尉に前述の意見具申を托して戒厳司令官に伝達して貰ふ事にしました。
尚私は小藤大佐に意見を述べやうと思ひ、陸相官邸に参りますと、
香田、対馬、竹島も来合せて居り、山口大尉も居て、
山口大尉より
「 済まなかった。及ばなかった。
今早朝に柴大尉から状勢が急変悪化したのを聞いて 種々努力したが如何とも致し方も無い」
と 申しますから、
私は未だ小藤大佐を通じて師団長を説く方法があると述べ、
直に小藤大佐に右の意見を具申し、
香田、対馬、竹島中尉と共に第一師団司令部に赴きました。
第一師団に於ては 奉勅命令は受けて居ない事を知り、
又 暫くして戒厳司令部から第一師団に、
「 奉勅命令は今之を実施するの時期に非ず 」 と 云ふ通報を得た事を知り、
今朝以来の努力漸く報ひられた事を喜び合つて陸相官邸に引揚げました。

午後一、二時頃、 逐次栗原中尉が、野中大尉、磯部等が集り、
山下少将、鈴木大佐、山口大尉、柴大尉等にも集って貰ひ、
種々現状打開につき懇談しましたが、 最後に栗原中尉が一度統帥系統に従って
「 私共は陛下の御命令に従ひます 」 と 奏上して戴きたい。
若しそれで撤退せよとの御命令であれば潔く撤退し、
又 死を賜はると云ふ事であれば、
勅使の御差遣を願って将校だけ自刃しやうじやありませんか 」
と 提言し、
一同暗涙をのみ山下少将、鈴木大佐も感激して別れました。
・・・挿入・・・
村中がもぬけの殻の部屋に茫然とつっ立っていると、そこへ電話を知らせたものがある。
早速、彼が電話室にとび込むと、
「 自決するという話があるが決して早まってはいけない 」
と、いつもの北のおだやかな声だった。
村中はすがりつくように、
「 奉勅命令が出てわれわれを討伐するということですが、
 その真偽がはっきりしなくて困っています 」
「 奉勅命令は多分おどかしでしょう。なぜなら、
 いやしくも戒厳部隊に編入された部隊に対し討伐ということはあり得ないことです。
多分おどかしの手だから君らはそれにのせられないで、
一旦蹶起した以上はその目的達成のために、あくまで上部工作をやりなさい。
また自決云々のことも、もし、君らが死ぬようなことがあったら、
私たちとて晏如あんじょとして生きてはおれんのだから、
これらの処理をよくわきまえて、あくまで目的貫徹に進みなさい 」
と北は じゅんじゅんと説いた。
「 わかりました。皆にもよく伝えます 」
 ・
北が彼らの自決を知っていたのは、既に栗原が知らせていたものだった。
これより、やや前、栗原は山下、鈴木らの勧告によって
将校は責をおって自決のやむない状況に至ったことを電話したのである。
北はこの朝、読経中、
神仏集い、賞讃々々、おおい、嬉しさの余り涙こみあげた、我軍、勝って兜の緒を締めよ
との霊告を得て、快報の至るのを待ちうけていたのに、
その形勢の逆なのに驚いて、
「 自決するなんて弱気ではいけない、 昨日の軍事参議官の回答を待つべきだ。
 自決は最後の手段、いまはまだ最後の時ではない、決して早まってはいけない 」
と栗原に教えたのであった。
このようにして、一旦きまったかに見えた自決論は逆転して再び流血必死の情勢となった。
・・・「自決は最後の手段、今は未だ最後の時ではない 」

其後第一師団長、小藤大佐が来られ、
一師団長から 「 先程 自分は簡単に考へてお答へして置いたが、
事実重大問題で如何とも致し難い事である 」 と 申されましたので、
栗原中尉から前述の意見を開陳して貰ひました。
夫れで全将校を集めて此決心を説明し、
同意を得やうと思って居りましたが、中々集りませんので、
幸楽の安藤大尉の許に行きますと、
同中隊が出撃しやうとする形勢があれましたので、
待つ様に押し留め、陸相官邸に帰って見ますと、
栗原中尉の意嚮も、真に奉勅命令であるか否か不明であり、
又我等の真情を無視されて居るので、
今一度統帥系統を踏み小藤大佐、堀師団長を経て大御心を判然と御伺した上で
御命令に従ひ度いと考へていると云ひ、
我々は未だ嘗て一回も奉勅命令が出たと云ふ話を聞かず、又其内容は全然不明である。
「 出たらどうするか 」 とか 「 出そうな形勢にある 」 とかで脅かされて、
結局真相不明の奉勅命令を盾に我々を鎮圧しやうとする意嚮極めて明瞭でありますから、
愈々奉勅命令が下される迄は現位置に踏み留まらう。
我々から皇軍相撃つことを避ける為、絶対に射撃せぬが、
若し他の軍隊が第一師団長の隷下にある此の小藤部隊を攻撃すると云ふならば、
潔く一戦を交へやう、
只真に攻撃され射撃される待ては我々は絶対に射撃したりすることは止めやう、
と云ふ相談が一決し防禦の配置につきました。

私は夜間に入り野中部隊と共に鉄道大臣官邸に居りますと、
山下少将及歩兵第三聯隊長及森田大尉等が来られまして、
森田大尉から秩父宮殿下に拝謁して御言葉を賜り、
令旨と云ふ訳ではないが懇談的に御話を賜りましたから、
それに就て述べますとて殿下の御言葉を伝達されましたが、
その内容は本事件は非常に遺憾に思召されて居られる様に拝察しましたが、
私共の真情を未だ充分に御酌み遊ばされて居ない様に直感しましたので、
森田大尉に私共の真情を申上げて戴き度いと御願しました。
・・・
村中孝次の四日間 2

二月二十九日 は午前一、二時頃、
外囲の部隊が愈々攻撃態勢を採り出したことを知って、
之を各部隊に伝へ、 夜襲に備へて接戦格闘の覚悟を決めました。
其後攻撃開始は払暁以降になると云ふ情報を得ましたので、
野中部隊は、 予備隊として最後の負郭として新議事堂を占領しやうと、
午前三時三十分か四時頃から同所に移り、
新議事堂内を占領して家屋防禦の配備を採りました。
当時全般の配備としては、 幸楽に居た安藤部隊は山王ホテルの丹生部隊に合し、之に立籠り、
栗原部隊は首相官邸、 坂井部隊、清原部隊は参謀本部、陸軍省の一廓、
常盤部隊は平河町附近を固守する 最後の負郭を新議事堂にする考で死戦する覚悟でありました。
然るに夜中から外囲にある歩一、歩三の将校が しきりに 第一線に在る歩哨等を口説き落し、
逆賊と云ふ名分と武力とで威圧して連れ帰り、 或は 「 ラヂオ 」 で 宣伝し、
或は飛行機から 「 ビラ 」 を 撒布する等、
我々の無抵抗に乗じて各種の手段を尽して下士官兵の説得に努め、
多少は動揺もあつた様でありましたが、
一旦ラジオにより奉勅命令が下った事が明確になつた以上、
之に抗して長く踏み止まることは勿論絶対的に不可でありますから、
奉勅命令に従ひ、改めて小藤大佐の区処を仰ぎて我々の行動を律しやう、
御上の宸襟を悩まし奉りたる事は懼れ多い次第であるが、
我々の信念と現在迄の行動につき
些かも尽忠報国の大義から踏み外して居ない確信の上に立つて、
自ら決すると云ふが如き事無く、飽く迄陛下の御命令通り動かう、
と 云ふ大部の者の意見が一致しましたので 其の行動に移ったのであります。
然るに 小藤大佐の区処に依って動くことも出来ず、
部隊は武装を解除せられ、逆に逆賊としての審判を受けるに至りましたことは、
蹶起の同志一同としても死するとも忘るることの出来ない恨事であり、
国家の為遺憾の極みであります。

(奉勅命令は) 我々臣民として絶対服従であります。
前述の通り奉勅命令の伝達は全くありませんので、其内容等も知りません。
唯二月二十九日早朝 「 ラヂオ 」 にて奉勅命令が下ったと云ふ事を聴いたのみであります。

私共は前述した如く、 兵馬大権干犯に対して無限の怒りを感じ、
斯くの如き御稜威を遮り侵す者の存在が
我が日本の躍々たる生命の伸張発展を阻害しつつあるのであることを知って、
皇軍の本質たる大元帥陛下御親率の軍隊である点を、
曲げ歪め来つた不純なる君側の奸臣を討たうとして立ち上ったのであります。
従って此一挙に依って皇軍の本質を最も端的に闡明せんめいし、
御稜威の尊厳を知らしめ得るものと信じたのであります。
従って此一挙に対する爾後の指導利用に当を得たならば、
昭和維新に直ちに入ることが出来ましたでしようし、而も陸軍を中心に之れが行はれ、
軍の本質を闡明にした上、其威信も一段と高めたことと思ひます。
然るに事志と違ひ、 尊皇の為、維新の為の義軍であるべきものに賊名を冠して
討伐するの逆転した方策を軍当局が取った為に、
この関係は全く一転して
軍自体がこの決行に関連する責任を負はざるを得ない結果となり、
軍の威信は全く地に墜ち、
今後軍の進むべき道は非常に荊棘険難なものとならざるを得ません。

次に私共の行動を目して統帥権干犯を討つに、
統帥権干犯を自ら敢てしたのではないかと云ふ疑問で、
これを以て私共の行動を非難し、不義化し、逆賊化させやうとするでありませう。
私共今回の行動は、決して統帥権を私して下士官兵を強制的に引率して出たのではなく、
何れの日にか今日があらうと思ひ、
二、三年来、此の君側の奸臣を討滅することの必要なる所以 及 昭和維新翼賛の為、
軍人の任務として為すべきことは実に今回の挙にあることを徹底して教育して来て、
重臣閥に対する憤激は一般の常識化する所まで進み、
下士官兵の中にも多数の同志を獲るに至って居りました。
今次の決行は之等同志と同志の部下の生死を共にする考へに至らして来た者が、
一団となつて同時に蹶起したのであります。
精神に於て一人一殺主義であり、 その一人一殺の同志を集団して行ったのであつて、
決して最初から統帥権を私にお借りしたのではありません。
この景況を事実に即して申しますと、
歩一第十一中隊で二十六日午前一、二時頃
下士官兵を集めて丹生中尉が蹶起の決意を示しますと、
全員非常な意気込みでありました。
それで之れに参画し得なかった他隊の某下士官、見習医官が丹生中尉の下に来て、
是非共、同行させて戴きたいと云ふ様な有様で、
これで此間の事情の一端を知る事が出来ます。
尚二十九日朝最後迄戦ふ決心で来た安藤部隊の攸へ私が行き、
磯部、香田等と共に安藤の決心を翻す事に努力し、幸いにして其目的を達したとき
安藤大尉が自決しやうとして、漸く之を押止めて居りますと、
中隊の下士官が安藤大尉と共に自害すると言ひ出し、
終りには一下士官が安藤大尉に、若し自決されるなら中隊の前に来て下さい、
士官兵全員御供する用意をして居ますと云ふ 悲痛な場面がありました。
これで私共の同志将校が統帥権を私にお借をしたのではなく、
下士官兵に至る迄が同志であつて
同志の集団が今回の決行をしたのであることは理解し得るものと思ひます。
只部隊に依っては、夫れ程迄に同志的訓練教育が出来て居なかつた所もありませうが、
精神に於て決して兵を無理強いに率ひて行ったのではありません。
最後の日に、同志将校の許を離れ去った兵が多少ありましたが、
奉勅命令を楯にして説破された時、これに従ふのは当然でありまして、
同志的関係が無かったからと云ふ訳ではありません。
天下の不義に怒れる同志的義憤なしに、
あの様な行動を共にすることは出来るものではありません。
中には私共より一層熾烈しれつな鞏固な決意を持つて居るものが多々ありまして、
あの行動間、如実にそれを見せられて非常に有難く心強く感じた次第であります。
・・・村中孝次の四日間 2


昭和維新・村中孝次 (三) 丹心録

2021年04月18日 13時49分11秒 | 昭和維新に殉じた人達

 
村中孝次  
丹心録
人は 「 クーデター 」 を 企図するものに非ず、
武力を以って政権を奪取せんとする野心私慾に基いて此挙を為せるものに非ず、
吾人の念願する所は一に昭和維新招来の為に大義を宣明するに在り。
昭和維新の端緒を開かんとせしにあり。
従来企図せられたる三月事件、十月事件、十月ファッショ事件、神兵隊事件、大本教事件等は
悉く自ら政権を掌握して改新を断行せんとせしに非ざるはなし。
吾曹盡く是を非とし来れり。
抑々維新とは国民の精神覚醒を基本とする組織機構の改廃ならざるべからず。
然るに多くは制度機構のみの改新を云為する結果、
自ら理想とする建設案を以って是れを世に行はんとして、
遂に武力を擁して権を専らにせんと企図するに至る。
而して 斯の如くして成立せる国家の改造は、
其輪奐の美瑤瓊なりと雖も遂に是れ砂上の楼閣に過ぎず、国民を頣使し、
国民を抑圧して築きたるものは国民自身の城廓なりと思惟する能はず、
民心の微妙なる意の変を激成し高楼空しく潰へんのみ。

・・・
丹心録 「 吾人はクーデターを企図するものに非ず 」

七月十一日夕刻前、
我愛弟安田優、新井法務官に呼ばれ煙草を喫するを得て喜ぶこと甚し、
時に新井法務官曰く
「北、西田は今度の事件には関係ないんだね、然し殺すんだ、
死刑は既定の方針だから已むを得ない」 と。
又、一同志が某法務官より聞きたる所によれば
「今度の事件終了後は多くの法務官は自発的に辞めると言ってゐる、
こんな莫迦な無茶苦茶なことはない、皆法務官をしてゐることが嫌になった」 と。
又、一法務官は磯部氏に
「村中君とか君の話を聞けば聞く程、君等の正しいことが解って来た、
今の陸軍には一人も人材が居ない、軍人といふ奴は訳の解らない連中許りだ」
と 言って慨嘆せりといふ。
渋川氏は一として謀議したる事実なきに謀議せるものとして死刑せられ、
水上氏は湯河原部隊に在りて部隊の指揮をとりしことなく、
河野大尉が受傷後も最後まで指揮を全うせるにも拘らず、
河野大尉受傷後、水上氏が指揮者となりたりとして死刑に処したり。
噫 昭和聖代に於ける暗黒裁判の状斯くの如し、是れを聖代と云ふべきか。
本事件は在京軍隊同志を中心とし、
最小限度の犠牲を以て、国体破壊の国賊を誅戮せんとせしものなり。
故に 北、西田氏にも何等関係なく
(勿論事前に某程度察知したるべく、且不肖より若干事実を語りしことあり、
又事件中、電話にて連絡し北氏宅に参上せしことあるも相談等のためにあらず)、
東京、豊橋以外は青年将校の同志といえども何等の連絡をなさず
(菅波大尉、北村大尉宛手紙を托送せるも入手せるや否や不明、
而もその内容は事件発生をほのめかし自重を乞ひしものなり)
然るに是等多くの同志に臨む極刑を以てせんとしつつあり。
暗黒政治、暗黒裁判も言語に絶するものあり、
不肖断じてこれを黙過する能はず、
即ち刑死後直ちに、 至尊に咫尺し奉りて、
聖徳を汚すなからんことを歎願し奉らんとするものなり。

・・・
続丹心録 「 死刑は既定の方針だから 」

話によれば、
陸軍は本事件を利用して
昭和十五年度迄の尨大軍事予算を成立せしめたりと、
而して 不肖等に好意を有する一参謀将校の言ふに
「 君等は勝った、君等の精神は生きた 」 と。

不肖等は軍事費の為に剣を執りしにあらず、
陸軍の立場をよくせんが為に戦ひしにあらず、
農民の為なり、 庶民の為なり、 救世護国の為の戦ひなり、
而して 其根本問題たる国体の大義を明かにし、
稜威を下万民に遍照せらるる体勢を仰ぎ見んと欲して、
特権階級の中枢を討ちしなり。

不肖等は国防の危殆に就て深憂を抱きしものなり、
兵力資材の充実一日も急を要する事を痛感しあるものなり、
然れども 尨大なる軍事予算を火事泥棒式に強奪編成して他を省みざるは、
国家を愈々危きに導き、 国防を益々不安ならしむるものなり、
軍幕僚のなす所斯くの如し。

不肖は階級打破を言ふものにあらず、
階級を利用し地位を擁して不義を働く者の一切を排除し、
之れに代ふるに 地蔵菩薩的真の国家人を以てせば、
輔弼を謬るなく国政正しく運営せられ、民至福を得、国家盤石の安きを得ん。
之が為政党、財閥に代わりて暴威を逞ふしつつある軍閥官僚を一洗清浄して、
真に尊皇忠臣にして 民の至幸至福を念願する英傑を草莽の間より蹶起せしめざるべからず、
今の此政、 今の不義に憤激蹶起することなき卑屈精神的堕落ならば破滅衰亡に赴く民族にして、
何等招来に期待すべからず。

 然れども日本民族魂は断じて然らざるべし、
大和民族の生成発展は今後に期待さるべきもの、必ずや窮極まって通ずること邇からん。
唯々天の震怒を全国民の憤激に移し、
一斉総決起、妖雲を排して至誠九重に通ずる慨あるを要す。
・・・
続丹心録 「 この十年は昼食、教科書官給の十年なり、 貧困家庭の子弟と雖も学び得る十年なり 」

「日本改造法案大綱」は頃日愛読して思想的に啓発せられし所大なりと謂はざる得ず、
然れども今回の挙に於いては 同書に掲げたる国家機構を一の建設案として、
こらが現出を企図せりと言ふが如き事実なし、
吾人が平素一の建設理想を有するといふことを以て、
直ちに今回その実現を企図せりと為すは、論理の飛躍なり。
吾人は、理想社会現出の為には、
その前提として国体破壊の元凶を誅して皇権恢復、 国体護持を期せると、
然り而して これによる国民精神の覚醒とを目的として蹶起せるものなり、
これ実に維新の基調たり端緒なること全論の如し、
皇権恢復 と 之れに伴ふ国民の国体信仰復活興起に次で、
制度機構の改造は初めて着手せられるべきは理勢自ら明かなり。
吾人は皇権恢復を吾人の任とせるもの、
其後に来るべき維新の大業に翼賛し得るや否やは、
一に天命の有ると無きとに関す、吾人の予期し思考し得る範囲ならんや。
人言ふ
「建設計画なき破壊は無暴なり」 と、
何をか建設と言ひ何をか破壊といふか、
吾人の挙は一に破邪顕正を以て表現すべし、破邪は即顕正なり、
破邪顕正は常に不二一体にして事物の表裏なく、
国体破壊の元凶を誅戮して大義自ら明らかに、
大義確立して民心漸く正に帰す、是れをこれ維新といふべく、
少なくも維新の第一歩にして且其の根本なり、討奸と維新と豈二ならんや。

・・・
続丹心録 ・ 第一 「 敢て順逆不二の法門をくぐりしものなり 」

小藤部隊を撤退せしむべき奉勅命令は、二月二十八日早朝、戒厳司令官に下令せられ、
小藤大佐は之れに基く命令を第一師団より受領せしが、 同朝、余等の激昂しあるを見て、
同命令を下達するの危険なるを慮りて下達するに至らず、
更に山下少将と会見時、栗原中尉が代表して 「大命に服従し奉る」 と述べたるに力を得て、
この機を逸せず奉勅命令を下達せんと欲して、全将校の集合を命じてるに、
全員集まらざるに四散して遂に下達する機会を逸したるも、
其の後各部隊に至り実質的に命令を下達せりと陳述したるが如し。
小藤大佐の、実質的に奉勅命令を下達せりとは 如何なる意味なるか極めて不明瞭にして、
これに関しては何等具体的陳述なし、
これを蹶起将校の側より見れば、
二月二十九日早朝、小藤大佐は山王ホテルに来り、
香田大尉に対し兵員の集合を命ぜしを以て、
これに応じて下士官兵を集合せしめたるに、
同大佐は一同に対し、「余に従って呉れ」 と論し、
香田大尉も亦 再三、聯隊長に随従すべきを勧告せるも応ずるものなかりきと云ふ。
而して 右は下士官兵に告諭したるに留り、将校以下に対する命令と感ずる言動は、
其他の機会を通じ一切なかりしなり。
又、同大佐は首相官邸に至り、林少尉其他に対し
「此の兵を率ひて満洲の野に戦へば殊勲を奏せん」 等と感慨を漏したるのみにして、
何等奉勅命令乃至撤退のことに触れず、
以上の外 何等命令を下したりと認められる可き事実存せず。
小藤大佐の立場に就ては、言辞を盡すに謝する能はざるものあり、
然れども正式に命令を下達せられざるは勿論、
小藤大佐の言ふが如く 「実質的に命令を下達せり」 と認められるべきもの更になし。

二月二十八日夜、
小藤大佐は到底指揮の行はれざるを悟り、指揮を放棄して警備地区を去り、
師団長に其旨を復命し、其指揮権は解除せられたり。
然れども之れに関し、蹶起部隊は何等の命令を受くることなく、
最後迄小藤部隊長の指揮下にありと信じありしも、 指揮全く行はれざるのみか、
外周部隊が攻撃し来ること愈々顕著となりし為、
去就に迷ひつつ二十九日になり最後の場面に到りしものなり。

・・・
続丹心録 ・ 第二 「 奉勅命令は未だに下達されず 」

二月二十九日、
拡声器並にビラによる宣伝の結果、
将校の手裡を脱して所属部隊に復帰せるものありしが如きも、
これは多くは歩哨其他独立任務に服しあるものに就て、
所属部隊の将校が来りて或は懇論し、或は強制的に連れ帰りしものにして、
「逆賊」 の汚名より一意逃れんとして、是等上官に服せること蓋し股肱の臣として当然なるべし。
又、予審訊問等に於て、下士官兵の大部は 「将校に欺かれたり」 と称しあるが如し。
事の結果欺くの如くなるに至り、且示すに「逆賊」「国賊」を以てすれば、
日本国民たるもの何人かこの汚名を避けざらんとするものにあらんや。
右の如き二、三事を以て、
吾人の行動は将校下士官兵を一貫して
奸賊を討滅して君国に報ぜんとする決意の同志を中心とする一つの集団が、
将校の独断による軍事行動の形式を以て行はれたるものなることを否定すべからざるなり。
 ・
下士官兵の決意を証す可き二、三の事例を挙げ、以て上下一体観に結ばれありしを例証せん。
イ、
二月二十五日夜、歩一、歩三の各部隊は安藤中隊以外の殆ど全部に於て、
発起前蹶起趣意書を下士官兵に告示したるに、
一同勇躍して活潑に積極的に着々決行の準備をなせり。
余と行動を共にせる第一、丹生部隊・第十一中隊の如きは、
丹生中尉が最近に於て決意せしを以て、事前に充分の教育啓蒙を為す能はざりしも、
下士官に決行の事を告ぐるや、欣々然として同行を決意し、
元気極めて旺盛にして一見習医官及歩四九より派遣の一軍曹が之を伝へ聞き、
同行の許可を仰ぐべく丹生中尉に懇願せるを見たり。
ロ、
第一日の行動間、第一線の警備に就きし哨兵の士気極めて盛んに、且殺気充満しありて、
歩哨線を通過するは同志将校と雖も容易ならざりき。
ハ、
二月二十八日、歩三将校間に於て、安藤大尉を刺殺すべしと決議し、
この報安藤中隊に伝るや、部下の下士官兵は安藤大尉を擁して、
他の者のを一切近づかしめず、為に余も安藤大尉に接近し得ざりしこと前述の如くなりき。
翌二十九日安藤大尉が自刃せんとするや、当番兵は其腕にすがりつき泣いてこれを抑止し、
又一下士官来って
「中隊長殿、兵の所へ来て下さい、皆一緒に御供しやうと言って集合してゐます」 と告ぐ。
上下一人格に融合一体化せる状、見るべきなり。
ニ、
二月二十九日朝、丹生部隊の兵は、聯隊長小藤大佐より懇論せられたるも、
敢て中隊長の許を離るるねのなかりしは前述の如し。
ホ、
同朝首相官邸に在りし栗原部隊に於て、将校一名も在らざりし時、
討伐部隊と相対するに至りしが、下士官兵一同少しも屈せず、
門内には一歩も入れざらんとして危く衝突を惹起せんとする状態なりしが、
栗原中尉来りて、事なきを得たり。
ヘ、
同朝新議事堂に於て、野中大尉が集会を命ずるや、一下士官来り其理由を問ふ、
余傍らより 「奉勅命令の下達せられたること今や疑ひなし、大命に従ひ奉らん」
と言ふや、床を踏み涙を流し、「残念だ」と連呼して容易に承服する色なかりき。
ト、
栗原部隊の一下士官が二月二十九日朝形勢の非なるを見て栗原中尉に対し、
「我々を救けやうとして弱い心を起こしてはいけません」
と忠告せりと言ふ。
・・・
続丹心録 ・ 第三 「 我々を救けやうとして弱い心を起こしてはいけません 」 

第四
今回の挙は民主革命を企図せるものなりとの流説大なるが如し。
その依って起る処を察するに、蹶起将校中の中心人物は「日本改造法案大綱」を信奉しありて、
その実現を計画せるものにして、該書の内容は凶悪過激なる社会民主主義にして、
彼等はこれを巧みに国体明徴なる語を以てカムフラージュしつつ、今回の挙を決行し、
以て民主革命に導かんとせるものなりとなすが如し。
第五
右の如く、襲撃の経過を尋ぬるに、同志将校は常に先頭に在りて弾雨を衝いて進み
( 首相官邸、渡辺大将邸、湯河原伊藤屋別館 ) 勇戦せり、
国軍将校の士気決して衰へあらざるを知るべし。
第六
事件中幸楽に於て多数将校が不謹慎にも酒宴せりといふ風評あるが如し、
何者かの為にする捏造なるべし。

二月二十七日、八日(確実なる時日は不詳)、幸楽に於て安藤部隊一部の者が、
演芸会の如きことを実施したる事実あるが如きも、これ下士官兵の稚心深く譴むべき程の事にもあらざる如し。
将校が一同に会し酒宴したるが如き事実は全くなきのみならず、
余の如き前後約四日間、殆んど食事もなしあらざる程なりき。
奈何ぞ斯くの如き余裕あらんや。

・・・
続丹心録 ・ 第四、五、六 「 吾人が戦ひ来りしものは 国体本然の真姿顕現にあり 」 


同志に告ぐ
相沢中佐殿以下 不肖等 二十勇魂ハ断ジテ滅スルコトナシ
同志一体魂ノ中ニ生キ 維新達成ノタメニ精進セント欲ス
翼クバ幽明相倶ニ維新完成ノタメニ驀進セン

前衛ハ全滅セリ
然レドモ敵全軍ヲ引受ケテ要点奪取ノ任務ハ完全ニ遂行シ得タリ
支配階級ノ頽勢必至ナルヲ信ズ
本隊ノ戦斗加入ニヨリ前衛ノ戦果ヲ拡大シ
最後ノ戦捷ヲ克チ得ラルヽコトヲ万望ス
前衛ハ全滅セリ
而シテ 敵全軍ハ動揺困乱シアリコノ戦況ニ於テ自ラ施スベキ方策アラン
言志録ニ 「一息ノ間断ナク一刻ノ急忙ナキハコレ天地ノ気象」 トアリ
最後ノ大勝利を目標ニ進軍アランコトヲ 

全同志ノタメ悲惨ナル苦斗時代ガ一、二年 或ハ数年現前スルヲ予期セザルベカラズ
凡ユル難苦ニ堪ヘテ最後ノ勝利、 終局ノ目的達成ニ向ヒ焦ラズ撓マズ直進サレタシ

・・・
村中孝次 ・ 同志に告ぐ 「 前衛は全滅せり 」


昭和維新・磯部淺一 (一) 赤子の微衷

2021年04月16日 13時02分16秒 | 昭和維新に殉じた人達

蹶起の眞精神は
大權を犯し國體をみだる君側の重臣を討って大權を守り、
國體を守らんとしたのです。

藤田東湖の
「大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん」
これが維新の眞精神でありまして、 青年将校蹶起の眞精神であるのです。
維新とは具体案でもなく、 建設計画でもなく、
又、案と計畫を實現すること、そのことでもありません。

・・・
「大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん」 


磯部淺一 
「 僕は僕の天命に向って最善をつくす、唯誓っておく、
磯部は弱い男ですが、
君がやる時には何人が反対しても私だけは君と共にやる。
私は元来松陰の云った所の、
賊を討つのには時機が早いの、晩いのと云ふ事は功利感だ。
悪を斬るのに時機はない、朝でも晩でも何時でもいい。
悪は見つけ次第に討つべきだ
との考へが青年将校の中心の考へでなければいけない。
志士が若い内から老成して政治運動をしてゐるのは見られたものではない。
だから私は今後刺客専門の修養をするつもりだ。
大きな事を云って居ても、いざとなると人を斬るのはむつかしいよ。
お互いに修養しよう、他人がどうのかうのと云ふのは止めよう、
君と二人だけでやるつもりで準備しよう、
村中、大蔵、香田等にも私の考へや君の考へを話し、
又 むかふの心中もよくきいてみよう 」
と 語り合ったのである。
・・・
『 栗原中尉の決意 』 


二十五日の午後七時三十分頃、
歩兵第一聯隊に勤務して居ります機関銃隊の栗原中尉の処へ山本少尉と共に参りました。
山本は当日軍服の儘夕方の五時頃私の宅に訪れて来たので、
私から決意を述べたら即座に同意し、私と共に行動したのであります。
歩一機関銃隊将校室に行った時には、林少尉、栗原中尉が同室して居たと思ふ。
十時頃迄機関銃隊に居り、そりから第十一中隊将校室に参りました。
其の時には香田大尉、丹生中尉、村中が同室して居りました。
此間、蹶起趣意書印刷は山本少尉が担当し、
村中、磯部、香田が要望事項の意見開陳案を練り、 香田が通信紙に認めて居ました。
河野大尉が午後十一時歩一機関銃隊へ来て十二時過ぎ出発したので
一寸機関銃隊へ行きました。
それから歩三の状況を見るため、野中大尉の処へ連絡し、直ぐ歩一へ帰りました。
歩三へ行くとき 對馬、竹嶌中尉が自動車で来たので歩三前電車路で会ひましたので、
歩一へ行く様に示して置きました。

二月二十六日の午前四時三十分頃、
歩一の営門を出発しましたが、
栗原中尉の指揮する機関銃隊及び第十一中隊と行動を共にし、
赤坂山王下に出でて栗原部隊の首相官邸へ行くのを見つつ 第十一中隊と共に陸相官邸に向ひました。
私は丹生中隊の後尾を行きましたが、中隊人員は分りません。
中隊の指揮は丹生中尉が致して、中隊の先頭には村中、香田、丹生の三名が居たと思ひます。
私は陸相官邸の門が開いて居りましたから、直ちに中に這入りました処、
香田大尉村中が憲兵及官邸家人と大臣面会に就て折衝中でありました。
丹生中尉は兵を区処して陸相官邸に配置しました。
私共が陸相官邸に赴きました理由は、陸軍大臣閣下に事件の内容を申あげまして、
時局の重大なる事に対する重大決意を得ようと思ったからであります。

村中、香田、余等の参加する丹生部隊は、
午前四時二十分出発して、
栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。
其の時俄然、 官邸内に数発の銃声をきく。
いよいよ始まった。
秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。
勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。
同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。
とに角云ふに云へぬ程面白い。
一度やって見るといい。
余はもう一度やりたい。
あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。
・・・
行動記 ・ 第十三 「 いよいよ始まった 」 

午前五時半頃、
陸相官邸に参りまして色々と御願いしやうと思ひましたが、
面会出来ませんので 約一〇回位各種の方法を講じ、
決して危害を加ふるの意志なき事、
及び 会見の理由を小松秘書官を通じて大臣に話して貰ひ、
到着後約一時間半後に御面会いたしました・・・香田清貞大尉 「 国家の一大事でありますゾ ! 」 
大臣との会見には香田大尉、村中と私が面会し、小松秘書官が立会して居りました。
香田大尉から蹶起趣意書 ( 印刷した者 ) を 口頭にて申上げ、
次に要望事項に関する意見 及び 本朝来の行動の大要を申上げました。
要望事項の意見とは、
一、此際断固たる大臣の決意の要請、
二、林大将、橋本中将、小磯、建川、南、宇垣諸将軍の逮捕、
三、襲撃部隊を其他一帯に位置せしめられたき事、
四、同志将校の数名の青年将校を東京に招致せられたき事、
   数名は、大岸、菅波、大蔵、朝山、小川、若松、末松(青森)、江藤(歩一二)、佐々木(歩七三)、
五、不純幕僚分子に対し処置を乞ふ、其人名は武藤章中佐、片倉少佐でありました。
以上の要望を通信紙三、四枚に書いてある。
多分香田大尉が持って居ると思ひます。
大臣閣下との会見時間等はよく解りません。
私は連絡をしたり、他の事をして居りました。
会見途中、陸軍次官が御出でになり、
次官から電話にて真崎将軍、山下少将、満井中佐を御召きになりましたので
続いて官邸に来られました。
私は其後、陸相官邸、警視庁、参謀本部を行動して居り、
亦 陸相官邸正門にて連絡に任じ、
二十六日の第一日には 陸軍首脳部の態度は殆んど解らぬ儘 経過しました。
殺害を加へた者に対し知った其の順序、
1、高橋蔵相を完全にやつたこと、
2、斎藤内府を完全にやつたこと、
3、岡田総理をやつたこと、 4、鈴木貫太郎をやつたこと、 5、渡辺総監をやつたこと、
等でありますが、
二十六日午後になつて牧野内府をやつたと云ふ噂を聞きました。

二十六日午前午前十時頃
陸軍大臣官邸玄関にて片倉少佐を射ちました。
其の状況は私は正門前にて連絡の為出て居りましたら 将校が五、六名やつて来られたので、
正門前に居た二、三名の将校が之を入らない様にすすめたが、
片倉少佐が不服相でありました。
私は片倉少佐は殆んど面識がなく、
「 片倉 」 だと云ったので片倉少佐だと思ったが、殺す気になれぬ。
一旦玄関の方へ引返しました。
そしたら田中中尉が片倉少佐が来て居ると言ったので、
又何とかせねばならぬと考へたが、 殺意がピンと来ないので正門前まで歩いて行った。
暫らくして憲兵控所の前で、片倉少佐が何か言って居るのを現認したが引返し、
熟考したが殺意を生ぜず、 それから玄関に来た時、大勢の将校が玄関前に来り居り、
山下少将、石原大佐が将校に帰れ、軍人会館の方へ行けと、命じて居られたが、
其時 片倉少佐が話たい事があると、語気荒く憤懣の状ありしを現認したので、
此将校が居たのでは我々の威信も滅茶苦茶になると思ったので、
所持の拳銃を以て片倉少佐の頭部左側面より一発発射し、
更に軍刀を抜いて構まへましたが、 片倉少佐は話せば分ると云ひつつ、
玄関外の砂利敷の所に逃げたので、
私も敢て追及せんとせず、刀を収めました。

第一日の午後は、
各々現在地を警備せしめられたいと言ふことを
山下少将、鈴木貞一大佐、西村大佐、満井中佐に御願ひをしたので、尽力すると言ひ、
西村大佐が警備司令部に折衝に行かれたのであります。
小藤大佐、山口大尉は午前中に陸相官邸に来られた様に思ふ。
私は第一日は、大体、陸相官邸に居り 夜は官邸に泊りました。
第一日夜、満井中佐、馬奈木中佐が来られ
「 これに依り御維新に入らねばならぬ 」 ことを 御話ししたが、
両官は極力尽力しやうとの事にて、
今、宮中に参謀総長、陸相が行って居られるから一緒に連れて行かうと云ふ事になり、
山下少将、満井中佐、馬奈木中佐、香田、村中、磯部のものが
自動車にて宮中に行かんとして御門 ( 夜間の為判明せず ) に 行きました。
目的は陸相閣下が宮中に於ては種々維新反対の人達に取囲まれて、
本情勢を誤認してはいけないと言ふ訳で、
満井中佐、馬奈木中佐、山下閣下の御発意を青年将校を同道して、
青年将校の心情を陸相閣下に申上げて、
陛下の御維新発程の議を奏上して頂く様に御願する為であつた。
而し 此事は、山下閣下から勧められ、
其代り 軍事参議官を陸相官邸に集って貰ふからと言ふのであつたが、
不安であつたので一緒に行きましたが、
御門の処に山下閣下丈け入門を許可され、吾々は入れなかつたのであります。

当夜一時頃、(二十七日)
官邸で村中、香田、磯部、野中、栗原、対馬、竹島、が 参議官の集って居られる処へ出席して、
主として香田大尉が今朝陸軍大臣に申上げたと同様の事を申上げ、
各人も一口宛程申上げました。
第二日の二十七日の夕方、
両面罫紙に 二十六日朝来行動せる将校は現在の位置にありて小藤部隊として、
其地区の警備を行ふべき旨の警備司令官命令 ( 香椎中将の靑の鉛筆を以てする華押あり )
を見て、大いに安心し、農相官邸に宿営しました。
此命令の出た事に就て、村中が二十六日夜、 香椎中将閣下に司令部で御会ひして
我々が此の一帯の台上を占領することは維新発程の原動力であるから、
是非此位置に頑張り度い旨を具申し、 其許可があつたものと考へて居ります。
同日夜、農相官邸に泊りましたのは田中勝中尉と山本少尉と私の三人でありました。

二十八日の朝、
憲兵隊の神谷少佐が自分を訪れて来ました。
それは同日朝山本少尉が警備司令部を訪問し、司令官参謀長に会ひ、
此時神谷少佐が立会し、後、神谷少佐と山本少尉が私を訪れて来たので、
私は警備司令官に御会ひしたいと云ふたので、神谷少佐が案内して呉れました。
軍人会館に行ったが司令官に会ふ事が出来ず、石原大佐と満井中佐に会ひました。
大佐殿は奉勅命令が出たら、どうするかと申されたから、
其時は 命令に従はねばならぬと答へ、
兎に角吾々は現在の位置に置いて頂く様にならぬものだらうかと申しあげましたら、
大佐が意見具申に行かれ、 その間に満井中佐が来られたので、
私は 「台上に居る私共に解散さすことは軍が維新翼賛する事にならぬ。
即ち 私共があの台上に居る事によつて国を挙げての維新断行の機でもあり、
下っても実に宮中不臣の徒の策謀に依って、
陛下の大御心を蔽い奉った奉勅命令だとしか考へられませんでしたから、
此際 吾々は部隊を解さんされたならば、
断乎各自の決意に於て残したる不臣の徒に対して、
天誅を加へねばならぬ」 旨を申しました。
他の者の意見は 奉勅命令が下れば命の儘に動かねばならぬ
と言ふことが大体纏り掛けて居ったが、
更に相談することとなり、
其結果、全員奉勅命令に従ひ大命の儘に行動する と云ふことになつた。
そこで第一線部隊を引上げ、
将校を官邸に集合せしむるべく 香田、村中が第一線部隊に連絡にゆきました。
第一線部隊の一部の将校 ( 安藤、外に歩の三部隊 ) 
が 最後迄やるのだと言ふことを主張したので、
私共も之に同意し、最後迄やる決心をとつた訳であります。
同日午後第一線の安藤から電話にて、
兎に角、相手方はすつかり包囲して攻撃態勢をとつて居る。
吾々に徹底的に賊名を着せて了せようとしておる との邪念がありました。
斯くて私は大いに苦悩しましたが、機関説信者が聖明を蔽ふて居るのであるから、
仮令賊名を着ても最後迄現位置に残る、
解散されれば私一個としても不信の徒を、機関説思想を、洗ひ清め
不純勢力を退却せしむる事が出来、斯くて皇国の維新に前進することが出来ると思ふ。
然るに軍の首脳部には、吾々を解散させる処置のみ汲々として、
維新に入ると言ふ事を考へて居ないのではないかと話し、
司令官、石原大佐に申上げて頂きたいと御願しました。
暫らくしてから石原大佐、満井中佐が入座し、両人で私の手を取り、
石原大佐は司令官に具申したが採用されず、
奉勅命令は一度出したら之は実行しない訳には行かぬ、
御上を欺くことになると言ふ司令官の断乎たる決心であるから、とても動かせない、
男と男の腹であるから維新に入るから暫く引け、と言ふ事でありました。
私共の同志は、私が指揮者でもありませんので、
私が言っても聞かないものがあるかも知れない、
然し 私は私の出来る丈けの事は御尽しする、 それから解散されたならば、
私は一人でも未だ残って居る国体反逆者、不臣の徒に対して突入する決心である、
軍部に於て林大将閣下の居らるる事は御国の為に忍ぶ事能はざる事である、
と 答へ、解りました。 それから陸相官邸に帰りました。

官邸に香田、村中、栗原、野中等、山下閣下、鈴木大佐殿が居られました。
私は奉勅命令斬らうと考へて居ます。 其夜は鉄相官邸に泊りました。

私は二十九日の夜明に、ラジオで奉勅命令を聞きました。
其時は鉄道大臣の官邸の所を歩いている時でありました。
そこで首相官邸に参り、栗原中に対し、
「 君は如何に考へるか 」と 申したら、
栗原は兵を残すことによつて維新が出来るのであり、
中には可愛そうな兵も居るから此儘殺す事も忍びないと云ひました。
それで私も其決心を採る、君は第一線に連絡して呉れ、
僕も連絡するからとて別れました。
それから官邸の方へ帰る途中、坂井中尉等に会ひました。
坂井は奉勅命令には従ひ、部隊を解散する。
私は其決心を採ったのであるから、他の所はどうであらうと私はそうすると申しました。
それからも安藤の処へ行かうとして、其途中(農林大臣官邸附近)栗原に会ひましたら、
栗原は野中、香田、村中、坂井、渋川は 奉勅命令に従ひ行動する事に決まったと言ひましたので、
私は栗原と共に山王ホテルの安藤の処に説きに行きました。
安藤の処で、奉勅命令があつた以上撤退すべきである旨を説きたるも、
安藤は 「 貴様は始めの決心が変っている 」 とて叱られました。
然し安藤に対し懇々申上げて射る内に、安藤も少し考へさせて呉れと暫らく休んで居った。
其後暫らくして、
「 俺は負ける事は嫌だ、奉勅命令に遵ふから包囲を解け、
それでなければ賊名を着せられる丈だ 」
との意味の事を申しました。 
それで石原大佐の処に誰かが連絡したものと見ゆる。
歩兵少佐参謀が石原大佐の代理と称し来り、
「 今となつては、脱出するか、自決するか、二つに一つだ 」
と言ひました。
安藤は之を聞き、愈々賊名を着せられたと思ったのであらう。

私、村中、田中とは陸相官邸に行ってから直ちに小室に入れられました。
室の外で機関銃の音がした様に感じました。
私は安藤は最後の決戦をして居るのではないかと思った。
愈々維新を真に願って居る同志の将校の気持ちを解かず、
安藤の如き純一無垢の人をば、
大御心を蔽ひ奉る幕僚の群衆が群り来て殺すのかと思ひ、
皇国維新の為に涙を禁ずることが出来ませんでした。
又陸相官邸内でピストルの音が聞えた様に感じました。
誰か同志が自決か銃殺されたのではないかと思ひました。
こんな事では皇国の維新は汝の日に来るのかと思ひ、 胸が避ける様でありました。

夕刻になり刑務所に送られました。
自動車の中で、安田少尉から 誰か自決をせまられて非常に叱られておつたと聞、
更に更に幕僚に対する義憤に燃えました。

・・・
磯部浅一の四日間 1 


「 我等義勇軍は今迄包囲されているので外に出られない、
しかし包囲している外に全国民という味方が見守っている。
若し包囲軍が我等を攻撃すれば国民はデモを各所で起すに決まっている。
だから我々は必ず勝つのだ 」
大尉の話は悲壮感がこもっていた。
・・・28日夕方、文相官邸で、
機関銃隊、十一、
歩三の一部を集めて涙ながらの演説


2月28日午後11時5分の記録には、
追い詰められた事件の首謀者の1人、磯部浅一が
天皇を守る近衛師団の幹部と面会して、
「 何故(なぜ)ニ貴官ノ方ノ軍隊ハ出動せんヤ 」 と問い、
天皇の真意を確かめるかのような行動をしていたことも詳しく書き留められていた。

攻撃準備を進める陸軍に、決起部隊から思いがけない連絡が入る。
「 本日午後九時頃 決起部隊の磯部主計より面会したき申込あり 」
「 近衛四連隊山下大尉 以前より面識あり 」
決起部隊の首謀者の一人、磯部浅一が、陸軍・近衛師団の山下誠一大尉との面会を求めてきたのだ。

磯部の2期先輩 ( 36期 ) で、親しい間柄だった山下。
山下が所属する近衛師団は、天皇を警護する陸軍の部隊だった。
追い詰められた決起部隊の磯部は、天皇の本心を知りたいと、山下に手がかりを求めてきたのだ。
磯部  「 何故に貴官の軍隊は出動したのか 」
山下  「 命令により出動した 」
山下  「 貴官に攻撃命令が下りた時はどうするのか 」
磯部  「 空中に向けて射撃するつもりだ 」
山下  「 我々が攻撃した場合は貴官はどうするのか 」
磯部  「 断じて反撃する決心だ 」
天皇を守る近衛師団に銃口を向けることはできないと答えた磯部。
しかし、磯部は、鎮圧するというなら反撃せざるを得ないと考えていた。
山下は説得を続けるものの、二人の溝は次第に深まっていく。
山下  「 我々からの撤退命令に対し、何故このような状態を続けているのか 」
磯部  「 本計画は、十年来熟考してきたもので、なんと言われようとも、昭和維新を確立するまでは断じて撤退せず 」
もはやこれまでと悟った山下。
ともに天皇を重んじていた二人が、再び会うことはなかった。
・・・私の想い、二 ・二六事件 『 昭和維新は大御心に副はず 』 

廿九日 午前三、四時頃、
鈴木少尉が奉勅命令が下ったらしいと伝へる。
室外に出てラジオを聞く。
明瞭に聴きとる事が出来ぬ。
この頃 斥候らしい者が出没するとの報告を受けたが、
攻撃を受け、戦闘に なりはしないだらふとたかをくくる。
理由は余の正面は、近四、山下大尉だ。
大尉は昨夜来訪し、決して射撃はしない、
皇軍同志が射ち合ひすることは 如何に上官から命令があつても出来ない、
との旨を述べて去った。
余と山下大尉とは近四時代親しくしていたから、
誠実一徹の大尉の人格を熟知し、その言を信じていたのだ。
夜の明け放たれんとする頃、
いよいよ奉勅命令が下って攻撃をするらしいとの報告を下士、兵から受ける。
各所、戦車の轟音猛烈、下士官、兵の間に甚だしく動揺の色がある。

・・・
行動記 ・ 第二十三 「 もう一度、勇を振るって呉れ 」 

電話の借用を申し込むと、私はわななく手で農林大臣官邸を呼び出した。
兵隊が出てすぐ磯部に代わった。
受話器の中には悲壮な軍歌がきこえて来る。
「 磯部!宇多だ 」
あれもいおう、これもいおうと思いながら不覚にも、私はまた涙声になってしまった。
磯部の太い男らしい声が応じた。
「 宇多 !  きさまどうする?」
簡単な一語だが、意味はすぐわかった。
私に来るか、来ないかということである。
来いといったって行けるはずがないじゃないか。
蹶起の趣旨は十分にも百分にもわかるが、オレはこの直接行動には賛成じゃないんだ。
声にならぬ声を押しつぶすように私は、
「 勅令が下ったんだ。すでに討伐行動は開始されている。
貴様死んでくれ、断じて撃つな!皇軍相撃を避けてくれ、死んでくれ!」
と必死の思いを一気に告げた。
磯部は、
「 オレの方からは撃たん、だが、撃って来たら撃つぞ!
貴様も防長征伐の歴史は知っちょるじゃろうが?」
きりこむような声で怒鳴り返して来た。
そして奉勅命令は自分らにはまだ示されていない。
お上の聖明をおおい奉った幕僚どもの策動だ、
と  私に一語をさしはさむ余地も与えずに防長征伐の歴史をとうとうと説きだした。
ずいぶん長い時間に感ぜられた。
やがて磯部は声を落として、いく分冷静な口調になり、
「貴様のいうことはわかった。ところでオレの方から頼みがある。
オレの隷下にはいま七個中隊いる。 勝っても負けても今晩が最後だ。
どうせ金は陸軍省が払うんだ。
この七個中隊に今晩最後の四斗だるを一本あてやりたいんだ。
きさま輜重兵じゃないか、持って来てくれ・・・」
と いやおういわさぬ調子で申し込んで来た。
そのころ私はもう不思議に冷静な気持ちになっていた。
頭の中をしきりに "小節の信義" という勅諭のくだりが往来する。
・・・おぼろげなることを、かりそめにうべないで由なき関係を結び・・・
というあの一章である。
理性はハッキリ磯部の申し込みを断れと命ずるのである。
だが、私の頭脳感情は反対に働いた。
いそがしく財布の中を調べてみた。
ある、四斗だる七本分くらいの金は、香港から返ったばかりでまだ持っている。
「 よし、持って行こう 」
私は成敗を度外視して持って行く決心をきめた。
そして官邸で磯部に会い、 もう一度皇軍相撃を諫止しよう。
オレも死ぬんだと思い定めた。
磯部は私の返事をきくと、
「 ありがたいぞ、しかし今となってはダメかも知れんナ
・・・・宇多、きさまと握手がしたいのう・・・」
と 涙声になって電話を切った。
後はもう書きたくない。
私は挙動不審で憲兵に捕らえられ、ついに磯部の依頼を果たし得なかった。
二月二十九日のあけがたのことである。
磯部、安藤!このオレを嗤ってくれ。

・・・
磯部浅一 「 宇多! きさまどうする?」  


昭和維新・磯部淺一 (二) 行動記

2021年04月15日 12時54分32秒 | 昭和維新に殉じた人達

安藤は 部下中隊の先頭に立ちて颯爽として來る。
ヤッタカ ! !  と 問へば、
ヤッタ、ヤッタ と 答へる
 
部淺一

磯部淺一 ・ 行動記 
昭和十年八月十二日、
余は数日苦しみたる腹痛の病床より起き出でて窓外をながめてゐたら、西田氏が来訪した。
余の住所、新宿ハウスの三階にて 氏は
「 昨日相澤さんがやって来た、今朝出て行ったが何だかあやしいフシがある、
陸軍省へ行って永田に会ふと云って出た 」
余は病後の事とて元気がなく、氏の話が、ピンとこなかった。
実は昨夜 村中貞次氏より来電あり、本日午前上野に着くとの事であったので、
村中は仙台に旅行中で不在だったから、小生が出迎へに行く事にしてゐたので、
病後の重いからだを振って上野へ自動車をとばした。
自動車の中でふと考へついたのは、 今朝の西田氏の言だ。
そして相澤中佐が決行なさるかも知れないぞとの連想をした。
さうすると急に何だか相澤さんがやりさうな気がして堪らなくなり、
上野で村中氏に会はなかったのを幸ひに、 自動車を飛ばして陸軍省に行った。

来て見ると大変だ。 省前は自動車で一杯、 軍人があわただしく右往左往してゐる。
たしかに惨劇のあった事を物語るらしいすべての様子。
余の自動車は省前の道路でしばらく立往生になったので、
よくよく軍人の挙動を見る事が出来た。
往来の軍人が悉くあわててゐる。
どれもこれも平素の威張り散らす風、気、が今はどこへやら行ってしまってゐる。
余はつくづくと歎感した。
これが名にし負ふ日本の陸軍省か、
これが皇軍中央部将校連か、
今直ちに省内に二、三人の同志将校が突入したら 陸軍省は完全に占領出来るがなあ、
俺が一人で侵入しても相當のドロホウは出来るなあ、
情けない軍中央部だ、幕僚の先は見えた、軍閥の終えんだ、
今にして上下維新されずんば國家の前路を如何せん
と いふ普通の感慨を起すと共に、
ヨオッシ俺が軍閥を倒してやる、
既成軍部は軍閥だ、俺がたほしてやると云ふ決意に燃えた。
振ひ立つ様な感慨をおぼえて 直ちに瀬尾氏を訪ね、金三百円? を受領して帰途につく。
戸山学校の大蔵大尉を訪ねたのは十二時前であったが、
この日丁度、 新教育總監渡邊錠太郎が学校に来てゐた。
正門で大尉に面会を求めると、そばに憲兵が居てウサンくささうにしてゐた。
これは後に聞いた話だが この時憲兵は、
余が渡邊を殺しに来たらしいと報告をしたとの事である。
陸軍の上下が此の如くあわてふためいてゐるのであるから、
面白いやらをかしいやらで物も云へぬ次第だった。
・・・ 第一 「 ヨオシ俺が軍閥を倒してやる 」 

第二 「 栗原中尉の決意 」 
 第三 「 アア 何か起った方が早いよ 」 
・ 
第四 「 昭和十一年の新春を迎へて世は新玉をことほぐ 」 
・ 
第五 「 何事か起るのなら、何も云って呉れるな 」 
・ 
第六 「 牧野は何処に 」 
・ 
第七 「 ヤルトカ、ヤラヌトカ云ふ議論を戦わしてはいけない 」 
第八 「 飛びついて行って殺せ 」 
・ 
第九 「 安藤がヤレナイという 」

二十二日の早朝、
再び安藤を訪ねて決心を促したら、
磯部安心して呉れ、 俺はヤル、 ほんとに安心して呉れ
と 例の如くに簡単に返事をして呉れた。
本日の午後四時には、 野中大尉の宅で村中と余と三人会ふ事になってゐるので、
定刻に四谷の野中宅に行く。
村中は既に来てゐた。
野中大尉は自筆の決意書を示して呉れた。
立派なものだ。
大丈夫の意気、筆端に燃える様だ。
この文章を示しながら 野中大尉曰く、
「今吾々が不義を打たなかったならば、吾々に天誅が下ります」 と。
嗚呼 何たる崇厳な決意ぞ。
村中も余と同感らしかった。
野中大尉の決意書は村中が之を骨子として、所謂 蹶起趣意書 を作ったのだ。
原文は野中氏の人格、個性がハッキリとした所の大文章であった。
野中氏は十五日より二十二日の午前仲迄、週番司令として服務し、
自分の週番中に決行すると云って安藤を叱った程であったから、
其の決意も実に牢固としてゐた。
・・・第十 「 戒厳令を布いて斬るのだなあ 」 


河野が出発した後、西田氏を訪ねた。
西田氏は、今回の決行に何等かの不安を有してゐる事を余は知ってゐるので、
安心をさせるために、予定通りに着々と進んでゐる旨を知らすためであった。
西田氏の不安といふのは、 察するに失敗したら大変になるぞ、
取りかえしがつかぬ、有為な同志が惜しいと云ふ心配であった様だ。
余は所期には西田氏にも村中にも何事も語らないで、
自力で所信に邁進しようとしてゐたので、
昨年末以来、西田氏に対してヤルとかヤラヌとか云ふ話は少しもしなかったのだ。
所が 二月中旬になって、 在京同志全部で決行する様な風になったので、
一応 西田氏に打ち明けるの必要を考へ、
村中と相談の上、 十八、九日頃になって打ち明けた。
氏は沈思してゐた。
その表情は沈痛でさへあった。 そして余に語った。
僕としては未だ色々としておかねばならぬ事があるけれども、
君等がやると云へば、今度は無理にとめる事も出来ぬ。
海軍の藤井が、革命のために國内で死にたい、
是非一度國奸討伐がしてみたいと云っていたのに上海にやられた。
彼の死は悶死であったかもしれぬ。 第一師団が渡満するのだから、
渡満前に決行すると云って思ひつめてゐた青年将校をとめる事は出来ぬのでなあ
と 云って、
何か良好な方法はないかと苦心している風だった。 余は若し失敗した場合、
西田氏に迷惑のかかる事は、氏の十年間の苦闘を水泡に帰してしまふので相すまぬし、
又、革命日本の非常なる損失と考へたので、 一寸その意をもらしたら、 氏は、
僕自身は五 ・一五の時、既に死んだのだからアキラメもある、
僕に對する君等の同情はまあいいとしても、おしいなあ
と 云った。
余はこの言をきいて、 何とも云へぬ気になった。
どこのどいつが何と悪口を云っても、 氏は偉大な存在だ、革命日本の柱石だ。
我等在京同志の死はおしくないが、氏のそれはおしみても余りある事だ、
どうしても氏に迷惑をかけてはならぬと考えた。
・・・第十一 「 僕は五一五の時既に死んだのだから諦めもある 」 

 第十二 「 計画ズサンなりと云ふな 」 

村中、香田、余等の参加する丹生部隊は、
午前四時二十分出発して、 栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。
其の時俄然、 官邸内に数発の銃声をきく。 いよいよ始まった。
秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。
勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。
( 同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。
 とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい。
余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。)
余が首相官邸の前正門を過ぎるときは早、官邸は完全に同志軍隊によって占領されていた。
五時五、六分頃、陸相官邸に着く。
・・・ 第十三 「 いよいよ始まった 」 


第十四 「 ヤッタカ !! ヤッタ、ヤッタ 」 

歩哨の停止命令をきかずして一台の自動車がスベリ込んだ。
余が近づいてみると眞崎将軍だ。
「 閣下統帥権干犯の賊類を討つために蹶起しました、情況を御存知でありますか 」
 と いふ。
「 とうとうやったか、お前達の心はヨヲッわかっとる、ヨヲッーわかっとる 」
と 答へる。
「 どうか善処していたゞきたい 」 と つげる。
 大将はうなづきながら邸内に入る。
門前の同志と共に事態の有利に進展せんことを祈る。
この間にも 丹生は、登庁の将校を退去させることに大いにつとめる。
余は邸内広間に入りて齋藤少将に、
「 問題は簡単です、 我々のした事が義軍の行為であると云ふ事を認めさへすればいいのです、
 閣下からその事を大臣、次官に充分に申上げて下さい 」
と 頼むと、
「 さうだ義軍だ、義軍の義挙だ、ヨシ俺がやる 」
と 引受ける。

石原莞爾が広間の椅子にゴウ然と坐している。
栗原が前に行って
「 大佐殿の考へと私共の考へは根本的にちがふ様に思ふが、維新に対して如何なる考へをお持ちですか 」
と つめよれば、
大佐は
「 僕はよくわからん、僕のは軍備を充実すれば昭和維新になると云ふのだ 」
と 答へる。
栗原は余等に向って
「 どうしませうか 」
と 云って、ピストルを握っている。
余が黙っていたら何事も起さず栗原は引きさがって来る。
邸内、邸前、そこ、玆、誠に険悪な空気がみなぎってゐる。
・・・第十五 「 お前達の心は ヨーわかっとる 」 


幕僚の一群はその時、
ガヤガヤと不平を鳴らしつつ門内に入り来って、丹生の制止をきかうとしない。
此処で余は一人位ひ殺さねば、 幕僚どもの始末がつかぬと思ひ、片倉を確認した。 その頃、広間では、
陸軍省の者は偕行社、参謀本部は軍人会館に集合との命令を議案中であったので、
成るべくなら早く命令を下達してもらって、
血の惨劇をさけようと考へたので、又、広間に引きかへした。
丁度、集合位置に関する命令案が出来て下達しようとする所であった。
その時 丹生が来て、 とても静止することが出来ません、射ちますよと、云ふ。
余が石原、山下、その他の同志と共に玄関に出た時には、
幕僚はドヤドヤと玄関に押しかけて不平をならしてゐる。
山下少将が命令を下し、 石原が何か一言云った様だ。
成るべく惨劇を演じたくないといふチュウチョする気持ちがあった時、
命令が下達されたので、余はホットして軽い安心をおぼえた。
時に突然、片倉が石原に向って、
「課長殿、話があります」
と 云って詰問するかの如き態度を表したので、
「エイッ此の野郎、ウルサイ奴だ、まだグヅグヅと文句を云ふか ! 」
と 云ふ気になって、 イキナリ、ピストルを握って彼の右セツジュ部に銃口をアテテ射撃した。
彼が四、五歩転身するのと、余が軍刀を抜くのと同時だった。
余は刀を右手に下げて、残心の型で彼の斃れるのを待った。
血が顔面にたれて、悪魔相の彼が
「射たんでもわかる」
と 云ひながら、傍らの大尉に支えられている。
やがて彼は大尉に附添はれて、
ヤルナラ天皇陛下の命令デヤレ、
と怒号しつつ去った。
・・・ 第十六 「 射たんでもわかる 」 


午前十時頃か、陸軍大臣参内、 続いて真崎将軍も出て行ってしまった。
官邸には次官が残る。 満井中佐、鈴木大佐 来邸する。
午後二時頃か、 山下少将が空中より退下し来り、集合を求める。
香、村、対馬、余、野中の五人が
次官、鈴木大佐、西村大佐、満井中佐、山口大尉等立会ひの下に、
山下少将より大臣告示の朗読呈示を受ける。
「 諸子の至情は國體の眞姿顯現に基くものと認む。 この事は上聞に達しあり。
 國體の眞姿顯現については、各軍事参議官も恐懼に堪へざるものがある。
各閣僚も一層ヒキョウの誠を至す。
これ以上は一つに大御心に待つべきである 」
大體に於て以上の主旨である。
對馬は、吾々の行動を認めるのですか、否やと突込む。
余は吾々の行動が義軍の義挙であると云ふことを認めるのですか、否やと詰問する。
山下少将は口答の確答をさけて、
質問に対し、三度告示を朗読して答へに代へる。
次官立会の諸官は大いにシュウビを聞きたる様子がみえる。
次官は欣然とした態度になって参内し、陸軍大臣と連絡し、
吾等行動部隊を現地に止める様 盡力する旨を示す。
西村大佐は香椎中将に連絡し、同様の処置をなすべく官邸を出る。
将に日は暮れんとする。
雪は頻り。
兵士の休養を考へたのだが、
軍首脳部の態度の不明なる限り警戒をとくわけにもゆかぬ。
・・・ 第十七 「 吾々の行動を認めるか 否か 」 


馬奈木敬信中佐が吾々の集っている広間へ来て、
「 吾々もやる、君等は一體如何なる考へを持ってゐるのか 」 と問ふ。
維新内閣の出現を希望すると答える。
中佐は参謀本部では皇族内閣説があるが、君等は如何に考へるかと言ふ。
余が皇族内閣の断じて可ならざるを力説すると、氏も同調する。
この時 満井中佐がドアの所より 磯部一寸来い と呼ぶ。
中佐はイキナリ 「 馬奈木からきいたか 」 と
「 ハア、皇族内閣ですか、石原案ですか、ソレナラ断じて許しませんよ 」 と答へる。
中佐も同感なる旨を告げる。
「 コノママブラブラしてゐるといけない、宮中へ行こう、参議官に直接会って話してみよう 」
と 云ふ意見を中佐が出す。
村中、香田、余の三名は山下少将について、
満井、馬奈木 両氏と共に参内せんとして自動車を準備する。
出発せんとした時、
山下は 「 官邸にて待て、俺が参議官を同行する 」 と 云ひたるも、
余はどんな事があるかもしれんから、 兎に角 宮中に行かうと主張して少将の車を追ふ。
日比谷、大手町あたり市中の雑踏は物すごい。
御成門( 坂下門) に到り 少将は参入を許されたるも、満井、馬奈木中佐、余等共に許されぬ。
止むなく官邸に帰り参議官の到来を待つ。
・・・ 第十八 「 軍事参議官と会見 」 

戒厳命令は第一師戒命として、
「 二十六日以来行動せる将校以下を、
小藤大佐の指揮に属し、永田町・・・・の間の警備を命ず 」
と 云ふものである。
余等はこの事を知って百万の力を得た。
然し、何だか変な空気がどこともなくただよっているらしい事には、
しきりに吾が隊の撤退を勧告する事だ。
満井中佐や山下少将、鈴木貞一大佐迄が、撤退をすすめるのである。
満井中佐は、
維新大詔渙発と同時に大赦令が下る様になるだらふから一応退れ と云ふし、
鈴木大佐 又、一応退らねばいけないではないか、と云ふ意向を示す。
余は不審にたへないので、
陸相官邸に於て鈴木大佐に対し、
「一體吾々の行動を認めたのですか、どうですか」
と 問ふ。大佐は、
「それは明瞭ではないか、戒厳令下の軍隊に入ったと云ふだけで明かだ」
と 答へる。
行動を認めて戒厳軍隊に編入する位であるのに、
一応退去せよと云ふ理屈がわからなくなる。
か様な次第で、 不審な点も多少あったが、概して戦勝気分になって、
退去勧告などは受けつけようとしなかった。

・・・第十九 「 国家人なし、勇将真崎あり 」 

午後十一時頃、
首相官邸を本夜夜襲して武装解除をすると云ふ風説ありとの通報を受ける。
余はこの風説は単なる風説ではないと感じたので、
或は吾々の方より偕行社、又は軍人会館を襲撃して、
反對勢力を撃破せねばならぬのではないかと考へ、
栗原に出撃の時機方法を考究しようとの旨を連絡した所、
林八郎がやって来て
「 吾々は戒厳令下なあるから戒厳軍隊を攻撃すると云ふ様なことはあるまい 」
と云ひて、出撃問題は立ち消えとなる。
( 当夜は、各隊ともに安心して休宿した事を後になって知った )
・・・
 第二十 「 君等は 奉勅命令が下ったらどうするか 」 


・ 第二十一 「 統帥系統を通じてもう一度御上に御伺い申上げよう 」 

全同志を陸相官邸に集合させようとして連絡をとったが、 なかなか集合しない。
安藤、坂井は強硬論をとって動じない。
村中は安藤に連絡のため幸楽へ走る。
暫くすると村中が飛び込んで来て、
「 オイ磯部やらふかッ、安藤は引かぬと云ふ、幸楽附近は今にも攻撃を受けそうな情況だ 」
 と 斬込む様な口調で云ふ。
余は一語、 「 ヤロウッ 」 と 答へ、走って官邸を出る。

陸相官邸で自決論が起きたのを耳にした清原が、
アワテテ安藤に之を連絡した所が、安藤は非情に憤ったのだ。
今更自決なんて言ふ理屈はない。
一體 首脳部 ( 同志の ) は何をしているのだ、と云ふ感じを持った。
そこへ村中が連絡に行ったわけだ。
余は奉勅命令を下達もしない前から既に攻撃をとってゐることに関し、
非常な憤激をおぼえ、断乎決戦する覚悟をした。
・・・ 第二十二 「 断乎 決戦の覚悟をする 」 

余は平素、栗原等の実力 (歩一、歩三、近三部隊の實力) を信じていた。
然るにその實力部隊の中心人物が、情況止むなく戦闘を断念すると云ふのだから、
今更余の如き部隊を有せざるものが、
無闇矢鱈に強硬意見を持してみた所で致し方がないと考へた。
栗原は第一線部隊将校の意見をまとめに行く。
余は一人になって考へたが、どうしても降伏する気になれぬので、
部隊将校が勇を振るって一戦する決心をとって呉れることを念願した。
その頃、飛行機が宣伝ビラを撒布して飛び去る。
下士官兵にそれが拾い取られて、
手より手に、口より耳に伝へられて、忽ちあたりのフン意気を悪化してゆく。
「下士官兵に告ぐ、御前等の父兄は泣いている、今帰れば許される、帰らぬと国賊になるぞ」
と 云った宣伝だ。
「もうこれで駄目かな」 と 直感したが、
もう一度部隊の勇を鼓舞してみようと考へ、
文相官邸に引返す。
嗚呼、何たる痛恨事ぞ、
官邸前には既に戦車が進入し、敵の将兵が来てゐる。
しかも我が部隊は戦意なく、唯ボウ然として居るではないか。
・・・ 第二十三 「 もう一度、勇を振るって呉れ 」 

第二十四 「 安藤部隊の最期 」 
・ 
第二十五 「 二十九日の日はトップリと暮れてしまふ 」 


昭和維新・磯部淺一 (三) 獄中手記

2021年04月14日 12時42分20秒 | 昭和維新に殉じた人達


磯部淺一

磯部淺一獄中手記
七月十二日朝
同志十五名は 従容或は 憤激或は 激怒様々な心 を もつて刑についた
余と村兄とは何の理由か全く不明のまゝ あとに残されて十五名の次々に赴くのを
銃声によつてきゝつゝ 血涙をのまねばならぬ不幸をみた  1、
死刑の判決うけた七月五日から
同志十七名一棟の拘禁舎に集められた
刑の執行前十一日迄は吾々は大内山の御光を願った
そして必ず正義が勝つ
吾々をムザムザ殺すと云ふ様な事は 或は ないだらふと 信じようとつとめた
そして毎日猛烈な祈りをした、 誰も彼も死ぬものか、
2、
死んでたまるものか、 殺されてたまるものか 千発玉を受けても断じて死なぬ
等々と激烈な言葉によつてヒシヒシとせまる死魔に対抗した、
刑の執行迄の数日間はそれはそれは血をしぼる様な苦しいフンイキであつた
国の為どうしても吾々の正義を貫かねばならぬ
吾々が殺されると云ふことは 吾々の正義が殺されると云ふことだと
皆な沖天の憤激を以て神をシカリ 仏をうらんだのであつた
面会に来て呉れる父母兄弟の顔を見 言葉に接する 益々生きなければならなくなつた
それは 親兄弟が大変に圧迫をされていると云ふことがわかつたからだ
国の為にも親兄弟の為にも
どうしても生きのびて 出所して 吾々の正義を明かにせねばならぬと考へ出したのだ
同志の中にはもうスッカリアキラメテ静かに死期を待ってゐる者もあつたが
余、安、香、等は断じて死なぬ 必ず勝つと云って他の同志を激励した
そして吾々に残ってゐることは祈りである
祈りによつて国を救ふことがまだ残ってゐるから
十七名の同志の心を一つにして
天地の神に祈りをしようと云って 朝 昼 晩 ひまさえあれば祈りをさゝげた
その至誠が天に通したのか十日の朝から天気がよくなつて来た
十一日も青天であつた 益益猛烈な祈りを捧げた
一方悪魔タイ散のノロヒもした 十一日の午後になつて入浴をさせられ
新しいゴク衣を着せられいよいよ明日の死を知った
私と村兄は十一日午後
理由も云はれず他の獄舎にうつされて同志とはなれてしまつた、

十二日朝は君が代を同志がうたつた
万才をとなへた
必ず仇をとるぞと云ってはげましあつてゐた、
暑いから湯河原へ一週間程行って出直して来ようと云ふものもあつた
いやいや殺されたらすぐ 宮城にかけつけよう
陛下の御側へ集って一切の事情を明白に申上よう等云ってゐるのをきいた
最後の瞬間迄同志は元気、正義、頑張り を貫きとほした、
看守諸君も同志の偉さ 美しさをたゝへてくれた
      ○
余は神様の力を信じている
この手記が神様の力によつて正義の士の手に渡ることを信じてゐる
だから吾々が蹶起して以来 処刑される日迄の事のアラマシを思ひのまゝに記しておく
一言断っておくのは
何しろ明日銃殺されるかも知れぬ命だ
だから此の手記は順序立てゝ系統をつけて記するわけにゆかぬ
一日一日が序論であり 結論でなければならぬはめにおかれてゐると云ふことである
読者に於て判読して下さることを願ふ
一、
世間では二、二六事件と呼んでいるが
これは決して吾人のつけた事件名ではない
又 吾人が満足している名称でもない
五、一五とか二、二六とか云ふと何だか共産党の事件の様であるので
余は甚だしく二、二六の名称をいむものだ
名称から享ける印象も決してばかにならぬから
余は予審に於てもそれ以前の憲兵の取調べに於ても
二、二六事件とは誰がつけたか知らぬが余等の用ひざる所なる旨を取調べ官に強調しておいた
然らは余等は如何なる名称を欲するか と 云へは義軍事件と云ふ名称を欲する
否欲するではない
事件そのものが義軍の義挙なる故に義軍事件の名称が最もフサワシイのだ
余は予審公判に於ても常に義軍の名称を以て対した、
そもそも義軍の名称は事件発起前
二月二十二日栗原宅に於て同志の間の話題にのぼつた事だ
私はその会合の席に於て云った
「 吾人は維新の義軍であるから普通戦用語の合言葉では物足らぬ
四十七士の山川では物足らぬ
どうしても同志のモットウを合言葉として下士官兵に迄徹底させる必要がある 」
と そしたら村兄が尊皇絶対はどうだと云ふから
私は
「 それなら尊皇討奸にしよう そしたら尊王の為の義挙なる意味がハッキリする 」
と 云ったら
一同大いにサンセイして即座に合言葉が出来た
この合言葉は事件そのものも意味すること勿論である
従って二月事件はその蹶起の真精神から云って尊王義軍事件と云ふを最も適当とする
略して義軍事件でもいゝ
おもしろい事には 二月二十七日北さんの霊感に国家正義軍云々と云ふのが現れた
私はこの電ワをきいた時は思はす
「 不思ギですね 吾々は昨日来尊王義軍と云っています 正義軍と現われましたか 不思議ですね 」
と 云って密かに自ら正義の軍 尊皇の義軍なることをほこり
神様も正義と云はれるなら何おか、はばからん 吾人は国家の義軍なりと云ふ信念が強くなつた
吾々同志が鉄の如き結束をして軍の威武にも奉勅命令にもタイ然として対し
正義大義を唱へつづけ得たのは国家の正義軍なりとの信念が強かったからだ
然るに ワケノワカラヌ憲兵や法ム官等が 二、二六事件等変てコな名をつけた事は如何にも残念だ
事件当時 義軍の将兵は尊皇討奸の合言葉を以て天下に呼号した
実に尊王討奸の語を知らぬものは
現役大将たりとも国務総理たりとも占領台上の出入は出来なかったのだ
兵卒が自動車上の将軍を剣をギして止め合言葉を要求している、
将軍、尊王討奸を知ず百方弁解すれども
兵は頑として通過を不許さる状態は実に此コカシコに現出し厳粛な場面であつた、
この如き歩哨線へ同志が行って尊王と呼ぶど兵が討奸と答へる 
そして兵が
「 大尉殿 シツカリナリマセウ、何ツ 此処は大将でも中将でも入れるものですか
上官が何ダ 文句を云ったら討ち殺シマス 」
等 云って堂々たる態度で この歩哨卒等は義軍なる事を信し
国家の為尊皇の為めなる強い固い信念にもえていた
富貴も淫する能ず威武も屈する不能ず 唯義の為めに義を持してゆづらないのであつた、
余は日本人は弱いと思つた
特に将校、上級将校はよわいと思った
尊王義軍兵の銃剣の前にビクビクしてゐるのを見てコレデハ日本がくさる筈だと思った
こんな弱い将校上級将校だから必ず 富貴に淫し 威武に屈して
正義を守ることを忘れ不義にダラクしてしまふのだとツクツク感じた
然し日本人は正義を体感すると その日暮らしの水呑み百姓でも非常につよくなる
大義を知るとムヤミヤタラに強くなるのが日本人だと痛感した、
然り義の上に立つ者は最強也 吾々同志将兵が強かったのは義の上に立つたからだ
大義を身に体して行動したからだ
この意味から云って余は二、二六事件と云ふ名称を甚だしく忌む
吾々は二、二六と云ふ年月の為に蹶起せるには非す
大義の為めに蹶起せるものだ 天下正論の士 宜しく解セラレヨ。

二、
義軍事件を裁く鍵は大臣告示、と 戒厳軍隊に入ッタ事と 奉勅命令との 三ツで足りる

イ、
奉勅命令について
(事件を解くには第一番に奉勅命令は如何なるものであつたかを明かにせねばならぬ)

十一年三月一日 宮内省の発令で大命に抗したりとの理由により同志将校は免官になつた、
吾人は大命に抗したりや、吾人は断じて大命に抗していない
大体、命令に抗するとは命令が下達されることを前提とする
下達されない命令に抗する筈はない
奉勅命令は絶対に下達されなかつた、従って吾人は大命に抗していない
奉勅命令が下達されそうだと云ふことは二月廿八日になつて明かになつた
それで二十八日午後陸相官邸に集まった
村、香、栗等諸君はもう一度統帥系統を通して 陛下の大御心を御たづね申上げよう
どうも奉勅命令は天皇機関説命令らしい
下つているのかどうかすこぶるあやしい と云ふことを議したのだ
余は二十七日夜半農相官邸にとまり
場合によつては 九段坂の偕行社 軍人会館をおそつて
不純幕僚を焼き殺してやらふと考へてゐたので 相当に反対派の策動に注意していたら
清浦の参内を一木湯浅がそ止した事 林、寺内、植の三将軍が香椎を二十七日夜半訪ね
その結果 余等を弾圧する事になつた旨 を 知ったので
怒り心頭に発して 戒厳司令官と一騎打のつもりで司令部へ 二十八日朝行った
所がどうしても会見させない
午前中待ったが会わせない
石原、満井に会ひ両氏より兵を引いてくれと交々たのまれ
両氏共声涙共に発して余を説いた
特に石氏は
戒厳司令官は奉勅命令を実施せぬわけにはゆかぬと云ふ断乎たる決心だから兵を引いてくれ
男と男の腹ではないかと云って 涙して余の手を握ってたのまれた
余は
「 それは何とも云へぬ 同志の軍は余が指キ官にはあらず
然し余は余に出来るだけの努力はする 唯余個人は断じて引かぬ 一人になりても賊をたほす 」
と 云ひて辞し
陸相官邸に来りて見れば 前記三氏 ( 栗、村、香 ) 等は 鈴木、山下、にとかれている
余は此処にて 断じて引いてはいけないことを提唱した、
それで前記の栗君の も一度大御心を御伺ひしたいといふ意見が出たのだ
若し陛下が死せよと云はれるなら自決しようと云ふ意見であつた
彼レ是れしている間に堀第一D長が来て勅命は下る状況にある 兵を引いてくれと切願した、
為めに大体兵を引かふ 吾人は自決しようと云ふことに定つた、
余は自決なんぞ馬鹿な事があるかと云ひて反対し
唯陛下の大御心を伺ふと云ふことはこの場の方法として可なりと云ふ意見を持した
自決ときいた清原があわてゝ安ドの所へ相談に行ったら安は非常にいかり
引かない 戦ふ、今にも敵は攻撃して来そうになつてゐるのに引けるかと云ふて応じない
村兄、安の所へゆき敵状を見てビックリし とびかへり、
余に 磯部やらふ と云ふので余は ヤロウ と答へ
戦闘準ビをすべく農相邸へかへる
右の様な次第なる故
遂に奉勅命令は下達されず未だに奉勅命令が如何なるものかつまびらかにしない
此くして二月廿九日朝迄吾等は頑張った
吾人があんまり頑張ったので むかふも腹を立てゝ目がくらみ 処チを失ひ
奉勅命令を下達することも忘れ 唯包囲を固くすることのみをやつたのだ
日本一の大切な勅命が行エ不明になつたのだ
戒厳司令部では下達したと云ひ 吾等は下達を受けずと云ふ故に。
二十八日夜
安の所へ第一D参謀桜井少佐が奉勅命令を持参したるも歩哨にサエギラレて安は見ず
山本又君 少佐を安の所へ案内せんとしたるも出来ず
山本君のみは奉勅命令を見たりと云ふ
二十九日朝ラジヲにて奉勅命令の下達されたるを知りたるが最初なり、
それ迄は決して命の下達されたるを知らず

要するに吾等は
二十七日朝戒厳軍隊として守備を命ぜられたるものデアルカラ 奉勅命令を下すならば
一D長一R長を経て下すべきであるのに
ワケもワカラヌ有造無造がヤレ勅命だ やれさがれと色々様々な事を云ふので
トウトウワケがワカラなくなつたのだ

小藤に云はすと
「 アイツ等は正規の軍隊ではない反軍だ、ダカラ命令下達も系統を経てヤル等の必要はない 」
と 云ふだらふ
否 彼は左様に云ってゐる だが何と云ったとて駄目だ
戒厳部隊に入ってゐるのだから

奉勅命令については色々のコマカイ イキサツがあると思ふが 如何なるイキサツがあるにせよ
下達すべきをしなかつたことだけは動かせぬことだ
下達されざる勅命に抗するも何もない、吾人は断じて抗してゐない
したがつて 三月一日の大命に抗し云云の免官理由は意味をなさぬ
又二月廿九日飛行キによつて散布シタ国賊云云の宣伝文は不届キ至極である
吾人は既に蹶起の主旨に於て義軍であり ( このことは大臣告示に於ても明かに認めている )
大臣告示戒厳群編入によつて義軍なることは軍上層さえ認めてゐる、
勅命には抗してゐない
だから決して賊軍などと云はる可き理由はない。

以上で賊軍でないことは明々白々になつた筈だ
賊軍でないならば本来の義軍である筈ではないか

ロ、 大臣告示について
( 大臣告示は蹶起後半日を経過せる二十六日午后陸相官邸に於て発表シタルモノダ )

二十六日午后 山下少将宮中より退下
官邸に来り吾等を集め大臣告示をロウ読シタ いまソノ大意を記する
1、諸子の蹶起の真意は国体の真姿顕現なることを認メル
2、天聴に達した
3、国体明徴については参ギ官一同恐クにタエヌ
4、各閣僚も一層ヒキョウの誠を致す 5、コレ以上は大御心にマツ

この席上 同志は 村、香、対、磯、野中、
軍中央部側 次官古莊、山下、鈴木、西村、満井、であつた。

この告示をきいて余は
行動を認メタルヤ否ヤ につき疑問を生じたので
山下氏に対し
義軍の義挙を認メタルモノなりや、義軍なることを認めたるものなりや
と質問せり
対馬君、行動を認メタルナリヤトノ質問をしたり 山下氏確答をせざりしも
行動を認めたるものなりとの体度アリアリと見えたり、
又行動は認めずと云ふ断定は山下氏はしなかつた
この告示をきいて次官以下居並ぶ中央幕僚将校はシュウビを開いた
一同ホットした安心の態がアリアリと見えた
そこで西村大佐は直ちに警備司令部にゆき
行動部隊は現地に置く可く交渉をすることを快諾し
次官は宮中に至り 大臣にその旨を連絡することになつた、
大臣告示によりこの場に居た十数名の将校が等しく受けた感じは
ホットした安心の気と ヨシソレデヨシ事がウマク運ブゾ と 云った感じであつて
決して重苦しい悪感ではなかつた
又 決して後になつて云ふ如き
大臣告示によつて青年将校を説得すると云ふ様な気で山下氏は告示をロウ読せず
又 吾々同志は断じて説得とは思はなかつた
説得と思ったらその場でケンカになつてゐる
行動を認めるのかなど変な、やさしい質問はしない
そんな事はいゝとしてあの告示の文面をみてみるかいゝ

どこに一語でも説得の文句があるか
吾々をよく云って居る所ばかりではないか
参議官一同は恐クし、各閣僚も今後ヒキョウの誠を致すと云ってゐるではないか
吾々は明かに大臣によつて認められた、
而も吾々の要求した所の行動を認めるか否かと云ふ点については
明かに行動を認めると云ふ印刷物が部隊の将校の方へ配布された、
吾人が義軍であることは真に明々白々の事実となつた、
二十六日から二十七日にかけて吾々は実にユカイであつた
戦時警備令下の軍隊に入り続いて戒厳部隊に入り 戒厳命令を受け
いよいよ吾々の尊皇討奸の義挙を認め
維新に入ることが明かになつたので皆な大いに安心をし
これからは維新戒厳軍隊の一将校として動くのだと称して
一同非常にゆかいに安心してゐた 所が大臣告示が変化した、
吾々が二十九日収容されると同時に変化し出した、
先づ最初に告示は陸軍として出したものではないと云ふことを云ひだした、
そして曰く、 あれは陸軍大臣個人として出したのだとつけ加へた、
そんな馬鹿な話があるか
大臣告示と銘打って出したものが 陸軍として出したものでないとか
川島個人のものだとか云ふ理クツがどこにあるか
予審廷でサンザン同志によつて突込まれたあげくの果て
弱って今度は大臣告示は軍事参議官の説得案だと云ひ出した、
どこ迄も逃げをはるのだ そんな馬鹿な話しがあるか
あの文面のどこに説得の意があるか
行動を認むとさへ記した印刷物を配布した位ひではないか
行動を認める説得と云ふものがあるか 吾人は放火殺人をしてゐるのだ
その行動を認めると云ふのだ
祖の行動を認めて尚どこを説得すると云ふのだ
行動を認めると云ふことは全部を認めると云ふことではないか
全部を認めたらどこにも説得の部分は残らぬではないか
宮中に於て行動を認めると云ふ文句の行動を真意に訂正したと云ふのだ
ところが訂正しない前に香椎司令官は狂喜して電ワをしたと云ふ
此処か面白い所だ 即ち、
最初はたしかに全参議官が行動を認めたので吾人はそれだけでいゝのだ
あとで如何に訂正しようとそんな事は問題にならん、
吾人の放火、殺人、の行動を第一番に、最初に軍の長老が認めたのだ、
吾人の行動直後に於て認めたのだ
第一印象は常に正しい
軍の長老連の第一印象は吾人の行動を正義と認めた、それだけでいゝではないか
軍事参議官が先頭第一にチュウチョせずに認めたと云ふ事実はもうどうにも動かせぬではないか
も少し突込んで云ってやらふか、
此処に絶世の美人がある
この美人に認められたらもうしめたものだと思ふ殺人犯の男が平素ねらつていた
或夜 戸を破って侵入し美人を説いてとうとうウンと云はせた
美人はその男の行動を認めた、
所があとになつて矢かましい問題になつたら
美人は色々と理由をつけてアノ時はいやだつたのだとか 何とか云ひ出したがもう追つかない
女は男の種をやどしてゐた、
これでやめておかふか、もつと云ってやらふか、後世の馬鹿にはまだ判然しないだらふ、
陸軍及陸軍大臣、及軍事参議官等が何と云ひのがれをしても駄目だ
ちや(ん)と国賊? 反軍の種を宿しているではないか
[ 註、吾人は反徒でも国賊でもないが若し彼等の云ふが如くならば ]・・・欄外記入
その罪の子が生れ出るのがコワイので

軍首脳部はヨツテタカツテ ダタイをしようとして色々のインチキな薬をつかつたのだ
説得案と云ふインチキ薬が奉勅命令と云ふ薬の次のダタイ薬に過ぎぬのだ
大臣告示は断じて説得案にあらず
然し軍は大臣告示を説得案にしなければ自分の身がたまらなかつた事は事実だと云へる
大臣告示は吾人の行動を認めたる告達文にして説得案にあらずと云ふことを明かにする為めに
もう一言云っておかふ、
[ 吾人の行為か若し国賊反徒の行為ならば ]・・・欄外記入
その行動は最初から第一番に、直ちに叱らねばならぬ 認めてはならぬものだ

吾人を打ち殺さねばならぬものだ
直ちに大臣は全軍に告示して全軍の力により吾人を皆殺しすべきだ、
大臣は陛下に上奏して討伐命令をうける可きではないか
間髪を入れず討つ可きではないか
然るにかゝわらず 却って 先頭第一に行動を認めてゐるではないか
直ちに討つ可きを討たざるのみかその行動を認めたと云ふことは
吾人を説得する所か反対に吾人の行為にサンセイし、
吾人の行為をよろこんだとしか考へられないではないか、
断じて云ふ 大臣告示は説得案にあらず 大臣告示は二種ある
その一は 諸子の行動は国体ノ真姿顕現なることを認む と云ふもの
他の一は 諸子蹶起の真意は国体の真姿顕現なることを認む と云ふのだ
而して行動の句を用ひたるものは最初に出来たものだ
真意と直したのは 植田ケン吉の意見により訂正したものだ、
行動を蹶起の真意と訂正して見た所で 「 認む 」 と 云ふことがある以上
吾人は認められたのだ 吾人の行動を認められたのだ
蹶起の真意を認められたのだ
蹶起の真意を認めると云ふことは直ちに行動を認めると云ふことではないか
全軍事参議官が認めたので警備司令官たる香椎は狂喜したのだ
ヨウシ来タ と思って直ちに部下に電命して大臣告示を印刷した、
香椎は正直な男だ その時の狂喜振りを告白している、
二月廿六日宮中に於て軍事参ギ官会同席上の様子をよく知っている香椎であるから
二十六日夜戦時警備令下の軍隊に何等のチュウチョなく義軍を編入したのだ
二十六日宮中於て参ギ官が吾人の行為を認めず説得すべしと云ふ意見であつたならば、
如何に香椎一人が吾人に同情してゐても決して戦時警備令下の軍隊に編入することはしない筈だ

ハ、 戒厳軍隊に編入されたること
( 戒厳軍に入った事によつて、吾人は完全にその行動を認められたのだ )
・・・ 命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戦時警備部隊トシテ警備に任ず 」

二月廿七日 吾人は戒厳軍隊に編入され

午前中早くも第一師戒命によつて 麹町警備隊となり 小藤大佐の指揮下に入った
戒厳は 天皇の宣告されるものだ その軍隊に編入されたと云ふことは
御上が義軍の義挙を許された 御認めになつたと云ふことだ、それは明伯だ
鈴木貞一大佐も二十七日 余に対して次の如く云った、
「 戒厳軍隊に入ったと云ふことは君等の行動を認めると云ふ最大唯一の証ではないか 」 と
所が軍の不逞幕僚は
「 戒厳軍隊に入ったのは行動を認めたから入れたのではない、
あれは謀略命令だ 即ち反軍を静まらせる為めに入れたのだ 」
と云ふのだ
行動を認めないで入れたと云ふのだ
反軍であることを知りつゝ入れたと云ふのだ
反軍を陛下の軍隊の中に入れて警備を命ずるとはそも如何なる理由か、
又 反軍を誰が戒厳軍の中に入れたのだ
軍首脳部が入れたと云ふのか 幕僚が入れたと云ふのか
反軍なることを知りつゝ勝手に陛下の軍隊の中に之を入れたらそれこそ
統帥権の干犯ではないか 軍首脳部軍幕僚は挙って統帥権を干犯した国賊ではないか
臣下か勝手に反軍を天皇宣告の戒厳軍の中に入れると云こと程
重大な国体問題があるか 統帥権問題があるか、
彼等は謀略命令だと云ふ、
これをきく時吾人は怒り、怒り、激怒にたえぬ どこ迄彼等は 天皇をバカにしてゐるのだ
戒厳命令だぞ 天皇宣告の戒厳だぞ 一体 命令に謀略と云ふことがあるか
若し命令に謀略があるならば軍隊は破カイスル
友軍を謀るために命令を下す
反軍は命令によつてだまし討ちをされるのだ
命令は寸分のカケヒキのない所がいゝのだ
カケヒキがないから之が励行をドコ迄もせまる事が出来、
之れに背反した時には断乎刑罰することも出来るので 命令は森厳峻厳だ
決してカケヒキ、謀略のある可きではない、
若し戒厳命令 統帥命令 にカケヒキがありとせば、
陛下はカケヒキある命令を下し国民をだまし討ち遊ばされる事になるのだ
軍部上下の不逞漢どもよ、汝等はどこ迄陛下をないがしろにすればいゝのだ
汝等は謀略命令でもすむだらふが陛下はどうなるのだ
汝等が謀略命令と称する時陛下はどうなるのだ
余は怒りの情を表す方法を知らぬ程に汝等を怒るものだ、
汝等が勝手な事を云ふ為めに
天皇陛下は全くの機関、
否、ロボットとしての御存在にすぎなくなつてしまつてゐるではないか。

吾人は奉勅命令に抗してはゐない
故に賊と云はゝる筈なし
吾人の行動精神は 蹶起直後 陸軍首脳部によつて認められ大臣告示を得た、
続いて戒厳軍隊に編入されて戒厳命令により警備に任じた
以上の事を考へみたならは吾人が反軍でない事は明かである
反乱罪にとはるゝ筈はないのだ 然るに軍部は気が狂ったのか
大臣告示は説得案と云ひ
戒厳軍隊に入れて警備命令を発し警備をさせた事は謀略だと云って
無二無三に吾々を反乱罪にかけてしまつた
・・・獄中手記 (1) 「 義軍の義挙と認めたるや 」
 獄中手記 (2) 「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 
・ 獄中手記 (3) 磯部菱誌 七月廿五日 「 天皇陛下は青年将校を殺せと仰せられたりや 」


昭和維新・磯部淺一 (四) 獄中手記、獄中からの通信

2021年04月13日 12時37分38秒 | 昭和維新に殉じた人達

 
磯部淺一 

極秘 ( 用心に用心して下さい )
千駄ヶ谷の奥さん(西田税夫人)から、北昤吉先生、

サツマ(薩摩雄次)先生、岩田富美夫先生の御目
に入る様にして下さい。
万々一 ばれた時には
不明の人が留守中に部屋に入れてゐた
と云って  云ひのがれるのだよ。(読後焼却)


一体何故、北、西田両氏を殺す様な次第になつたかを探究してみませう。
寺内が重臣とケツ托して極刑方針で進んでゐるからであることは表面の現象です
二月事件を極刑主義で裁かねばならなくなつた最大の理由は、
三月一日発表の 「 大命に抗したり 」 と 云ふ一件です。
青年将校は奉勅命令に抗した、而して青年将校をかくさせたのは、北、西田だ、
北等が首相官邸へ電ワをかけて 「最後迄やれ」と煽動したのだ、と云ふのが軍部の遁辞(トンジ)です
青年将校と北と西田等が、奉勅命令に服従しなかったと云ふことにして之を殺さねば
軍部自体が大変な失態をおかしたことになるのです
即ち、 アワテ切った軍部は二月二十九日朝、青年将校は国賊なりの宣伝をはじめ、
更に三月一日大アワテにアワテて「大命に抗したり」の発表をしました。
所がよくよくしらべてみると、奉勅命令は下達されてゐない。
下達しない命令に抗すると云ふことはない。
さァ事が面倒になつた。 今更宮内省発表の取消しも出来ず、
それかと云って刑務所に収容してしまった青年将校に、奉勅命令を下達するわけにもゆかず、
加之、大臣告示では行動を認め、戒厳命令では警備を命じてゐるので
どうにも、 かうにもならなくなった。
軍部は困り抜いたあげくのはて、
①大臣告示は説得案にして行動を認めたるものに非ず、
②戒厳命令は謀略なり、 との申合せをして、
㋑奉勅命令は下達した。と云ふことにして奉勅命令の方を活かし、
㋺大命に抗したりと云ふ宮内省の発表を活かして、
一切合財の責任を青年将校と北、西田になすりつけたのです。
・・・
 獄中手記 (一) 「 一切合財の責任を北、西田になすりつけたのであります 」 

北、西田両氏を助けてあげて下さい
決してアキラメてはなりません、
私は、
神仏冥々の加護が北、西田両氏の上に
(アキラカ)としてかかってゐることを確信して居ります。
両氏を見殺しにする様な日本国でも神々でもないと信ずるのです。
この確信のもとに、いささかの意見を陳べます。
これを参考として、
皆様の御交際方面の国士有士を総動員して、
御活動の上、両氏を御助け下さることを祈ります。
イ、
北、西田両氏は二月事件には直接の関係はちつともありません。
この事は青年将校一同も、その予審及び公判に於て極力主張しましたので、
殆んど全部の法務官が之を認めてゐるのです。
一部の法務官は北、西田の立場は最も同情すべき立場だと云って、
少なからぬ同情をさへしてゐたのです。
然るに両氏に死刑を求刑する様な事になつたのは、
軍の幕僚どもが権力のかげにかくれて、
どさくさまぎれに殺してしまえと行って、横車を押してゐるからです。
或る法務官は私に、北、西田が事件に直接の関係のない事は明かだが、
軍は既定の方針にしたがって両氏を殺すのだと云ふ意をもらしました。
まるで無茶です。
神聖公平なる可き陛下の裁判権を軍がサン奪して、
軍の独断独裁によつて陛下の赤子を無実のつみで殺してしまふのです。
こんなわけですから、 何とかしてこの軍の横暴を公表バク露して、天下の正義に訴へて、
北、西田両氏を救ふ方法をとつていただきたいのです。
軍の横暴をバク露することは、今の軍部の最もいたみとする所です。
ロ、
右の言論戦と同時に、隠密に、或は公然にする所の政治的工作によつて、
上御一人の上聞に達する様に御盡力下さる事が最も肝要な事と存じます。
今となっては、上御一人に直接に御すがりするより他に道はないと思ひます。
( 既に充分に手を御つくしになつて居られる事と信じますから、くどくど敷く申上げません )
ハ、
第三に申上げることは、反問苦肉の策であるかもしれませんが、一つの方法と信じます。
それは、川島前陸相、香椎中将、(事件当時の戒厳司令官)、堀中将(事件当時の第一師団長)
山下少将(事件当時の陸軍調査部長)、村上大佐(事件当時の軍事課長)、
小藤大佐(第一聯隊長)、真崎大将、の七氏を叛乱幇助罪で告発することです。
この告発がゆうりょくな政治家によつてなされた場合には、
寺内軍政権は非常なる動揺を生じます。
私は既に去る六月、前記の諸官及他の数氏合せて、十五名を告発して居ます。
私の告発によって、軍がどれ程窮地に立ってゐるか不明ですが、
二、三方面から、私に告発取り下げを勧告した所をみると、相当に軍はこまってゐると思ひます。
私の告発理由は同志、特に北、西田両氏を救ふにあつたのです。
多くの青年将校を、死刑にせねばならない様な羽目に落し入れたのは、
寺内は勿論ですが、筆頭に揚ぐ可き人物は、川島陸相外前記の人です。
これ等の人が軍の当局者として、
三月一日発表した所の 「 青年将校大命に抗したり 」 の 一事が、
爾後に生ずるすべての問題の解決のかぎになつてしまつたのです。
即ち、明らかに青年将校の行動を認めたる大臣告示を説得案なりと変化させ、
又 青年将校の行動を認めた上で下達した戒厳令を、
謀略命令なりと遁辞(トンジ)を設けさせる、に至らしめたのは、
すべて川島を頭にする軍幕僚が宮内省方面と結託してなしたる所の
「 大命に抗したり 」 の 発表に因を発してゐます。
既に青年将校 大命に抗したりと云ふ発表をした以上は、
大臣告示と戒厳命令は共に、青年将校の行動を認めたるものに非ずとせねば、
軍全体が青年将校と共に国賊にならねばならぬ羽目になつてしまつたのです。
これはたまらんと気のついた軍部はアワテ、フタメイテ遁げ始めました。
川島も、荒木も、山下も香椎も堀も小藤も村上も、 アワテ切って遁げてしまつて、
つみを青年将校と改造法案と北、西田両氏になすりつけてしまつたのです。
実際、前記諸氏の証人としての証言をみますと、全くひどいですよ。
スッカリ青年将校になすりつけてゐます。
比較的硬骨な真崎すら、弱音をはいてしまつてゐるのです。
これでは青年将校は勿論、北、西田両氏迄殺される様になると推察致しました私は、
私共の求刑前に於て川島、真崎、香椎等の十五名を告発し、
これによつて寺内軍政権を恐喝したわけです。
寺内軍政権は、初めは真崎等個人をにくむのに賤しい(イヤシイ)私情によつて、
勢ひ込んで真崎を収容しましたが、
真崎を起訴するとあまりに事の重大化するのをおそれて、今や非常に困ってゐると考へます。
真崎を起訴すれば川島、香椎、堀、山下等の将星にルイを及ぼし、
軍そのものが国賊になるので、真崎の起訴を遷延しておいて、
その間にスッカリ罪を北、西田になすりつけてしまつて処刑し、
軍は国賊の汚名からのがれ、一切の責をまぬかれようとしてゐるのです。
軍部の腹の底は北、西田、青年将校を先づ処刑してしまつて、
誰も文句を云ふものがなくなつた時、真崎を不起訴にし、
川島、香椎等々の将軍 否 軍全部を国賊の汚名からのがれさせようとしてゐるのです。
この軍部の裏をかいて 「 川島、香椎、堀、山下、村上等は青年将校と同罪なり、
大臣告示及戒厳命令に関係ある全軍事参議官も亦同様ならざるべからず 」
と 攻めたて、軍部そのものを国賊にしてしまふことが絶対に必要です。
之が為に先づ、川島等を告発しそれと同時に天下の正論に訴へてゆくと、
此処に必ずや北、西田両氏を救ふ事の出来る新生面が生ずるを信じます。
国家の為めに軍のインチキをバク露打破して、両氏を御救ひ下さい。
一寸考へると川島、山下、香椎、真崎等を告発によつて、
結局困って来るのは寺内等現軍首脳部です。
一度び告発問題がやかましくなったら、
必ずや寺内軍政権はたほれねばならなくなると確信します。
寺内の倒れることは、湯浅等重臣の足場がぐらつく事ともなりませう。
こくはつの方法時期その後の作戦等は考究を要しませうが、
勝勢村中を証人とし、証拠書類は大臣告示、戒厳命令、奉勅命令だけで充分です。
私は今 真崎に対し、
川島、香椎、山下、堀、小藤、村上及び事件当時の戒厳参謀長を告発せよと云ふことを、
シキリにすすめてゐるのです。
真崎はまだ決心がつきませんが、何とかして真崎に決心してもらいたいと努力してゐます。
私としては北、西田両氏を助ける為には、どんな事でもしますけれども、
刑ム所内でしてゐることは一向に表面化されないで、暗かに暗に葬られてしまひます。
それで、川島等の告発問題にしましても、
どうしても外部のどなたかに重複してやつてもらはねば効果がないのです。
こんなわけですから、
小生の意中を御くみとりの上、何とかして両氏を悪魔の毒牙からうばひかへしてあげて下さい。
私はこの数ヶ月、北、西田両氏初め多くの同志の事を思って毎夜苦んでゐます。
北、西田両氏さへ助かれば、少しなりとも笑って死ねるのです。
どうぞどうぞ、 たのみます、 たのみます。

・・・獄中手記 (二) ・ 北、西田両氏を助けてあげて下さい 

獄中手記 (三) の一 ・ 北、西田両氏の思想
獄中手記 (三) の二 ・ 北、西田両氏の功績


青年将校の改造思想は、その本源は改造法案や北、西田氏ではありません。
大正の思想国難時代に、
これではいけない、日本の姿を失ってしまふと云ふ憂国の情が、
忠君愛国の思想をたたき込まれてゐる
士官学校、兵学校、幼年学校の生徒の間に勃然(ボツゼン)として起こったのです。
そして此の憂国の武学生が、任官して兵教育にあたつてみると、
兵の家庭の情況は全く目もあてられない惨憺(サンタン)たるものがあつたのです。
何とかせねばならぬと真面目に考へ出して、
国家の状態を見ると、意外にひどい有様です。
政党、財閥、軍閥の限りなき狼藉の為めに、
国家はひどく喰ひ荒されてゐる。
これは大変だ、
国家を根本的に立て直ほさねば駄目だと気が付いて、
一心に求めている時、
日本改造法案と北、西田氏が在つたのです。
両氏の思想が、我が国体顕現を本義とする高い改造思想であって、
当時流行の左翼思想に対抗して毅然(キゼン)としてゐる所が、
愛国青年の求めるものとピッタリと一致したのであります。
左様な次第でありまして、
要するに、青年将校の改造思想は、
時世の刺激をうけて日本人本然の愛国魂が目をさました所から出て来ておるのであります。
・・・獄中手記 (三) の三 ・ 北、西田両氏と青年将校との関係 

青年将校をして奉勅命令に抗せしめたのは北、西田だと云ふのが、軍司令部の云ひ分です。
フザケタ事を云ふにも程があります。
奉勅命令は下達されません。
絶対に下達されてゐません。
私共は誰一人として、奉勅命令の内容を知っておりません。
下達しない命令に抗する道理はありません。
軍部は勅命を下達しなかった罪をかくす為に、下達したけれども、
北、西田が青年将校を煽てて奉勅命令に抗せしめたのだと云ふのです。
卑怯千万な遣り方です。
私共が、二月二十九日迄も三宅坂一帯の地区に頑張っていたのは、 戒厳命令を受けたからです。
三宅坂一帯の地区の警備を命ずと云ふ命令にもとづいて、現地にゐたのです。
戒厳命令の外に、大臣告示を告達して行動を認むさへ云って居るのではありませんか。
軍が自ら告示を下し、命令を与へて居ることはわすれて、
北、西田が奉勅命令に抗せしめたとは何ですか。
何たる卑怯な態度です。
此の不当に怒る正義の士が、軍部には一人も居ないのです。
よつてタカッテ、ウソをつくり上げて、無実の罪を民間の一浪人になすりつけて、
自分等は罪を逃れ様とする奴が、皇軍の上級将校として陛下の禄を盗んでゐます。
何ですか。陸軍大将、中、少将が何ですか。 中央部左官が何ですか。
・・・獄中手記 (三) の四 ・ 尊皇討奸事件 (二・二六) と 北、西田両氏との関係 

大臣告示が行動を認めたものであると云ふ証拠には、
二十七日早暁に戒厳軍隊として司令官の指揮下に入つたのです。
しかも警備の命令を受けておるではありませんか。
此の厳然たる事実すらも、彼等は曲言してしまつたのです。
曰く
「 戒厳命令は謀略命令なり、青年将校の行動を認めたものに非ず 」 と。
若し云ふ如く、命令に謀略があるとすれば、皇軍は全く崩れてしまひます。
命令は厳として絶対でなくてはなりません。
少しの懸引き(カケヒキ?)も偽りもないのが、命令の本質であらねばなりません。
彼等は云ふでせう。
「 叛乱軍に対しては敵軍に対するものと同じく謀略命令を用ふ 」 と。
よろしい、それほどに反乱軍なることが最初から明瞭なら、
何故二月二十六日午前直ちに賊軍征討の勅命を戴いて、 一気に攻撃しなかったのだ。
しかも彼等は、諄々として言つたではないか 「 皇軍相討つことはいけないから 」 と。
皇軍相討つとは、 青年将校の軍隊が皇軍の一方であることを意味するのではありませんか。
皇軍の一方たることを認めながら、
反乱軍として謀略命令を下したのだとは、自己矛盾ではありませんか。
戒厳命令を謀略命令などと云ふことは、断じて承服出来ません。
・・・獄中手記 (三) の五 ・ 大臣告示、戒厳命令と北、西田氏 

北、西田氏に対する公判は型式(ケイシキ)だけであつて
「 軍は既定の方針によつて殺す 」
と 云ふ方針通りに終了し、
今は最早、両氏は一言も正義の主張をすることは出来ません。
事ここに至っては、最早  天皇陛下の広大なる御仁慈に御すがりするより外には道がないのであります。
どうか閣下等の御力によつて、
事の真相を上聞に達していただき、
両氏の助命をしていただき度いので御座居ます。
頼みます。
頼みます。
意満ちて筆足らず、 申上げたい事の百分の一も云へません。
どうか御判読下さいます様願上げます。
付記 軍部が西田、北両氏を死刑にする理由は、実にわけのわからぬものです。
一、
北、西田が青年将校を煽動したりと云ふのです。
煽動したのは北、西田ではなく三月事件、十月事件であります。
二、
北、西田は青年将校に思想的指導をしたと云ふのですが、
思想的指導はムシロ、陸軍省発表のパンフレット等の方が大きな役目をしたのです。
死刑にする理由がないので、実にわからぬことをこぢつけてゐるのです。

・・・中手記 (三) の六 ・ 結語 「 軍は既定の方針によつて殺す 」

磯部浅一 ・ 獄中からの通信
獄中からの通信 (1) 歎願 「 絶対ニ直接的ナ関係ハ無イノデアリマス 」
獄中からの通信 (2) 宇垣一成等 ・ 告発致候間審理相成度候
・ 獄中からの通信 (3) 森伝宛 「 真に止むを得ず、先生を引き合ひに出しました 」
・ 獄中からの通信 (4) 森伝宛 「 大岸大尉を真崎将軍の顧問にすること」
・ 獄中からの通信 (5) 弁駁書 ( 獄中手記 (三) に依る )
獄中からの通信 (6) 「 一切合切の責任を北、西田になすりつけたのであります」
・ 獄中からの通信 (7) 「 北、西田両氏を助けてあげて下さい 」
 
・ 獄中からの通信 (8) 真崎大将宛 「同志を救うための苦肉の策でありました 」 
・ 獄中からの通信 (9) 森伝宛 「 正理正論の行われる世に非ず 」 
・ 獄中からの通信 (10) 森伝宛 「 朕は青年将校の行動を許すとの一言でもいい 」 
・ 獄中からの通信 (11) 真崎大将宛 「 どうか青年将校の魂を救ってやって下さい 」 
・ 獄中からの通信 (12) 森伝宛 「 吾人は霊の国家を有し、信念の天地を有す 」 
獄中からの通信 (13) 森伝宛 「 私は最後迄頑張りました 」

朕は青年将校の行動を許す
との 一言でもいゝのです。
維新の勅を賜はる事ならこの上の望みはありません。

去年七月十二日の朝まだき 血涙を呑んで逝った 義士等の魂を救ってやつて下さい。
成仏さしてやつて下さい。

今獄中にいる数十名の同志は苛酷な求刑に怒り、切歯しています。
何とかして彼等を救ふ道はないでせうか。
寺内が勝手にやつている出鱈目の裁判を真に陛下の大御心の及んだ
明るい 裁判にする事は出来ぬのでせうか。
一言御言(コト)わり申しておきますが、
「 磯部の奴、自分が助かりたいものだから、 色々んな策を用ひるのだ。放(ホ)つて置け置け 」
では一寸こまります。
私は何と思はれてもいゝのですが、
放つておかれては 多数青年将校が皆 寺内の独断苛酷な判決に服せねばなりません。
小生の真意を御汲みとり下さい。
・・・「 朕は青年将校の行動を許すとの一言でもいい 」 

森 殿
うれしくありました。
貴方は立派な方です。
此の一言で全てのこと御わかりですね。
私は決して死にません。
死ぬのではありません。
神になるのです。
天下一人と雖もその堵に安んぜる者がある間死にません。
維新の大詔が下り同志が立つて吾人の思想信念を具体化する迄は死にません。
私共の忠義心を上聞に達していたゞきたいのが唯一ツの念願です。
私は最期迄頑張りました。
決してヒキヨウな事や腰ぬけも妥協はして居りません。
新聞等の発表は殆ど全く私及私共の考へをまげていると考へます。
此の次はエンマの庁で一といくさ。
呵々。
・・・森伝宛 「 私は最後迄頑張りました 」


磯部浅一と妻 登美子
「 憲兵は看守長が 手記の持出しを 黙認した様に言って居るが、そうではないことを言ってくれ 」