あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

二・二六事件 『 判決 』

2020年09月29日 09時21分06秒 | 暗黑裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


二・二六事件判決の全文

陸軍省發表 ( 昭和十一年七月七日 午前二時 )
去ル 二月二十六日東京ニ勃發シタル叛亂事件ニ附テハ、
其ノ後特設セラレタル東京陸軍軍法會議ニ於テ愼重審判中ノ處、
直接事件ニ參加シタル將校一名、元將校二十名 ( 内二名ハ事件後自決死亡ス )、
見習医官三名、下士官二名、元准士官下士官八十九名、兵千三百五十八名、常人十名中、
起訴セラレタル者ハ將校一名、元將校十八名、下士官二名、元准士官 下士官七十三名、常人十名
ニシテ 七月五日ソノ判決ヲ終了セリ。
右軍法會議ノ審判ニ基ク處刑 及ビ 判決理由 概ネ左ノ如シ。
處刑
將校
禁錮四年  陸軍歩兵少尉  今泉義道
元將校
死刑 ( 首魁 )  元陸軍歩兵大尉  香田淸貞
死刑 ( 首魁 )  元陸軍歩兵大尉  安藤輝三
死刑 ( 首魁 )  元陸軍歩兵中尉  栗原安秀
死刑 ( 謀議參与 又 群集指揮 )  元陸軍歩兵中尉  竹嶌繼雄
死刑 ( 謀議參与 又 群集指揮 )  元陸軍歩兵中尉  對馬勝雄
死刑 ( 謀議參与 又 群集指揮 )  元陸軍歩兵中尉  中橋基明
死刑 ( 謀議參与 又 群集指揮 )  元陸軍歩兵中尉  丹生誠忠
死刑 ( 謀議參与 又 群集指揮 )  元陸軍歩兵中尉  坂井  直
死刑 ( 謀議參与 又 群集指揮 )  元陸軍砲兵中尉  田中  勝
死刑 ( 謀議參与 又 群集指揮 )  元陸軍工兵少尉  中島莞爾
死刑 ( 謀議參与 又 群集指揮 )  元陸軍砲兵少尉  安田  優
死刑 ( 謀議參与 又 群集指揮 )  元陸軍歩兵少尉  高橋太郎
死刑 ( 謀議參与 又 群集指揮 )  元陸軍歩兵少尉  林  八郎
常人
死刑 ( 首魁 )  村中孝次
死刑 ( 首魁 )  磯部淺一
死刑 ( 謀議參与 又 群集指揮 )  澁川善助
死刑 ( 謀議參与 又 群集指揮 )  水上源一
元將校
無期禁錮 ( 謀議參与 又 群集指揮 )  元陸軍歩兵少尉  麥屋淸濟
無期禁錮 ( 謀議參与 又 群集指揮 )  元陸軍歩兵少尉  常盤  稔
無期禁錮 ( 謀議參与 又 群集指揮 )  元陸軍歩兵少尉  鈴木金次郎
無期禁錮 ( 謀議參与 又 群集指揮 )  元陸軍歩兵少尉  淸原康平
無期禁錮 ( 謀議參与 又 群集指揮 )  元陸軍歩兵少尉  池田俊彦
元准士官、元下士官
禁錮十五年  元陸軍歩兵軍曹  宇治野時參
禁錮十三年  元陸軍歩兵伍長  長瀬  一
禁錮八年  元陸軍歩兵曹長  渡辺清作
禁錮八年  元陸軍歩兵曹長  大江昭雄
禁錮七年  元陸軍歩兵曹長  尾島健次郎
禁錮七年  元陸軍歩兵軍曹  蛭田正夫
禁錮七年  元陸軍歩兵軍曹  青木銀次
禁錮五年  元陸軍歩兵軍曹  小原竹次郎
禁錮五年  元陸軍歩兵伍長  北島  弘
禁錮四年  元陸軍歩兵曹長  立石利三郎
禁錮三年  元陸軍歩兵特務曹長  齋藤一郎
禁錮三年  元陸軍歩兵曹長  前田仲吉
禁錮三年  元陸軍歩兵伍長  林  武
禁錮二年  元陸軍歩兵曹長  永田  露
禁錮二年  元陸軍歩兵曹長  堂込喜市
禁錮二年  元陸軍歩兵軍曹  新  正雄
禁錮二年  元陸軍歩兵軍曹  伊高花吉
禁錮二年 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵特務曹長  桑原雄三郎
禁錮二年 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵曹長  福原若男
禁錮二年 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵曹長  神谷  光
禁錮二年 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵軍曹  井沢正治
禁錮二年 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵軍曹  豊岡久男
禁錮二年 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵軍曹  新井長三郎
禁錮二年 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵軍曹  渡邊春吉
禁錮二年 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵軍曹  門脇信夫
禁錮二年 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵軍曹  中村  靖
禁錮二年 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵軍曹  奥山粂治
禁錮二年 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵軍曹  小河正義
禁錮二年 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵伍長  梶間治
禁錮二年 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵伍長  木部正義
禁錮二年 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵伍長  大木作蔵
禁錮二年 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵伍長  山田政男
禁錮一年六月 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵曹長  堀  宗一
禁錮一年六月 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵曹長  川島粂次
禁錮一年六月 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵軍曹  窪川保雄
禁錮一年六月 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵軍曹  藤倉勘市
禁錮一年六月 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵軍曹  山本清安
禁錮一年六月 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵軍曹  神田  稔
禁錮一年六月 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵軍曹  新井維平
禁錮一年六月 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵軍曹  大森丑蔵
禁錮一年六月 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵軍曹  井戸川富治
禁錮一年六月 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵伍長  内田一郎
禁錮一年六月 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵伍長  丸  岩雄
禁錮一年六月 ( 三年間刑執行猶豫 )  元陸軍歩兵伍長  福島理本

禁錮二年 ( 三年間刑執行猶豫 )  陸軍歩兵上等兵  中島与兵衛
禁錮二年 ( 三年間刑執行猶豫 )  陸軍歩兵一等兵  坪井啓治
禁錮一年六月 ( 三年間刑執行猶豫 )  陸軍歩兵上等兵  倉友音吉
常人
禁錮十五年  宮田晃
禁錮十五年  中島清治
禁錮十五年  黒田  昶
禁錮十五年  綿引正三
禁錮十五年  黒沢鶴一
禁錮十年  山本  又
罪狀
被告人中、將校、元將校 及 重要ナル常人等ガ、國家非常ノ時局ニ當面シテ激發セル慨世憂國ノ至情ト、
一部被告人等ガ其進退ヲ決スルニ至レル諸般ノ事情トニ就イテハ、
コレヲ諒トスベキモノナキニアラザルモ、ソノ行爲タルヤ聖論ニ悖リ 理非順逆ノ道ヲ誤リ、
國憲國法ヲ無視シ、而モ建軍ノ本義ヲ紊リ、苟モ、大命ナクシテ斷ジテ動カスベカラザル皇軍ヲ僣用シ、
下士官兵ヲ率イテ叛亂行爲ニ出デタルガ如キハ 其ノ罪 寔ニ重 且 大ナリト謂ウベシ、
仍テ 前記ノ如ク處斷セリ。
又 下士官、兵力中罪者一部ノ者ニ在リテハ、
兵器ヲ執リ、叛亂ヲ爲スニ當リ、進ンデ諸般ノ職務ニ從事シタルモノト認メ得ベシト雖モ、
ソノ他ノ者ニ在リテハ、自ラカ進ンデ、本行動ニ參加スル意志ナク、
平素ヨリ上官ノ命令ニ絶對ニ服從スルノ観念ヲ馴致セラレアリ、
猶 同僚ハジメ大部隊ノ出勤スル等、周囲ノ情況上之ヲ拒否シ難キ事情等ノ爲、
已ム無ク參加シ、其ノ後ニ於テモ 唯命令ニ基キ行動シタルモノニシテ、
今ヤ深クソノ非ヲ悔イ、改悛ノ情顕著ナルモノアルヲ以テ、之等ノ者ニ對シテ刑ノ執行ヲ猶豫シ、
爾餘ノ下士官兵ハ上官ノ命令ニ服從スルモノナリトノ確信ヲ以テ、
其ノ行動ニ出デタルモノト認メ、罪ヲ犯ス意ナキ行爲トシテ之ヲ無罪トセリ。
判決理由書
一、動機ト原因
( イ )  村中孝次、磯部淺一、香田淸貞、安藤輝三、栗原安秀、對馬勝雄、中橋基明ハ
 夙ニ世相ノ頽廢たいはい、 人心ノ輕佻ヲ慨シ、國家ノ前途ニ憂心ヲ覺エアリシガ、
就中 昭和五年ロンドン條約問題、昭和六年ノ満洲事變等ヲ契機トスル一部識者ノ警世的意見、
軍内ニ起レル満洲事變ノ根本的解決要望ノ機運等ニ刺戟セラレ、
逐次内外ノ情勢緊迫シ、我國ノ現狀ハ今ヤ黙視シ得ザルモノアリ、
マサニ國民精神ノ作興、國内軍備ノ充實、國民生活ノ安定等、
マサニ國運ノ一大飛躍的進展ヲ策セザルベカラザルノ秋ニ當面シアルモノト爲シ、
時艱じかんノ克服打開ニ、多大ノ熱意ヲ抱持スルニ至レリ。
猶 コノ間軍隊敎育ニ從事シ、兵ノ身上ヲ通ジ農山漁村ノ窮乏、
小商工業者ノ疲弊ヲ知得シテ深キ是等ニ同情シ、
就中 一死報國共に國防ノ第一線ニ立ツベキ兵ノ身上ニ、後顧ノ憂 多キモノト思惟セリ。
澁川善助 亦一時陸軍士官學校ニ學ビタル關係ヨリ、
同校退校後モ在學當時ノ知己タル右ノ者ノ大部ト相交ワルニ及ビ、是等ト意氣相投ズルニ至レリ。
斯クテ前記ノ者ハ、此ノ非常時局ニ処シ、當局ノ措置徹底ヲ欠キ内治外交等共ニ萎靡シテ振ワズ、
政黨ハ黨利ニ堕シテ國家ノ危急ヲ顧ミズ、財閥亦私慾ニ汲々トシテ國民ノ窮状ヲ思ワズ、
特ニ ロンドン條約成立ノ經緯ニ於テ統帥權干犯ノ所爲アリト斷ジ  ・・・ロンドン条約問題 『 統帥権干犯 』 
斯クノ如キハ畢竟ひっけょう元老、重臣、官僚、軍閥、政黨、財閥等 所謂特權階級ガ國體ノ本義ニ悖リ
大權ノ尊嚴ヲ輕ンズルノ致セル処ナリトナシ、
一君萬民タルベキ皇國本然ノ眞姿ヲ顯現センガ爲、速ヤカニコレラ所謂特權ヲ打倒シテ、
急激ニ國家ヲ革新スルノ必要アルヲ痛感スルニ至レリ。
而シテ其ノ急進矯激性ガ國軍一般將士ノ堅實中 正ナル思想ト相容レザリシニ由リ、
思想傾向相通ズル歩兵大尉 大蔵榮一
菅波三郎、同大岸頼好等ノ同志ト氣脈ヲ通ジ、
天皇親率ノ下 擧軍一體タルベキ皇軍内ニ、所謂同志観念ヲ以テ横斷的團結ヲ敢テシ、
又 此ノ前後ヨリ前記ノ者ノ大部ハ、北輝次郎 及ビ西田税 ノ關係交渉ヲ深メ、
ソノ思想ニ共鳴スルニ至リシガ、特ニ北輝次郎 著 「 日本改造法案大綱  」 タルヤ、
ソノ思想根柢ニオイテ絶對ニ我ガ國體ト相容レザルモノアルニ拘ワラズ
ソノ雄勁ゆうけいナル文章等ニ眩惑セラレ、タメニ素朴純忠ニ發セル研究思索モ漸次獨斷偏狭トナリ、
不知不識ノ間、正邪ノ辯別ヲ誤リ、國法ヲ蔑視スルニ至レリ。
而シテ此ノ間起シタル、昭和七年血盟團事件、及ビ 
五 ・一五事件 ニ於テ、
深ク同憂者等ノ蹶起ニ刺戟セラレ、益々國家革新ノ決意ヲ固メ、
右目的達成ノ爲ニハ、非合法手段モ亦敢テ辭スベキニ非ズト爲シ、終ニ統帥ノ根本ヲ紊リ、
兵力ノ一部ヲ僭用スルモ已ム無シトナス危險思想ヲ包蔵スルニ至レリ。
斯クテ昭和八年頃ヨリ、一般同志間ノ聯絡ヲ計リ、又ハ相互會合ヲ重ネ、種々意見ノ交換ヲ爲スト共ニ、
不穏文書ノ頒布等各種ノ措置ヲ講ジ、同志ノ獲得ニ努ムルノ外、
一部ノ者ニアリテハ軍隊敎育ニ當リ、其獨斷的思想信念ノ下ニ、下士官兵ニ革新的思想ヲ注入シテソノ指導ニ努メタリ。
次デ 昭和十年、村中孝次  磯部淺一 等ガ不穏ナル文章ヲ頒布セルニ原由シテ、・・・粛軍に関する意見書
昭和十年、官ヲ免ゼラルルヤ 著シク感情ヲ刺戟セラレ、
且 上司ヨリコノ種運動ヲ抑壓セラルルニ及ビテ、愈々反撥ノ念ヲ生ジ、ソノ運動頻しきりニ尖鋭ヲ加エ、
更ニ天皇機關説ヲ繞めぐリテ起レル國體明徴問題ノ進展ト共ニ、其ノ運動益々苛烈トナリ、・・・国体明徴と天皇機関説問題 
時恰モ敎育總監ノ更迭 アルヤ、之ニ關スル一部ノ言ヲ耳ニシ、輕々ナル推斷ノ下ニ、
一途ニ統帥權干犯ノ事實アリト爲シ、大ニ憤激セルガ、
會々 相澤中佐ノ永田中將殺害事件 ニ會シ、深ク此ノ擧ニ感動激發セラルルトコロリ、
遂ニ該統帥權干犯ノ背後ニハ一部ノ重臣、財閥ノ陰謀策動アリト爲スニ至リ、
就中此等重臣ハ、ロンドン條約以來、再度 兵馬大權ノ干犯ヲ敢テセル元兇ナルモ、
而モ 此等ハ國法ヲ超越スル存在ナリト臆斷シ、合法的ニ之ガ打倒ヲ企圖ストモ到底其ノ目的ヲ達シ得ザルニ由リ、
宜シク國法ヲ超越シ、軍ノ一部ヲ僭用シ、直接行動ヲ以テ此等ニ天誅ヲ加エザルベカラズ。
而モ 此ノ行動ハ、現下非常時ニ処スル獨斷的義擧ナリト斷ジ、
更ニ之ヲ契機トシテ國體ノ明徴、國防ノ充實、國民生活ノ安定ヲ庶幾シ、
軍上層部ヲ推進シテ、所謂昭和維新ノ實現ヲ齎もたラサシメムコトヲ企圖セルモノナリ。
( ロ )  竹嶌繼夫、丹生誠忠、坂井直、田中勝、中島莞爾、安田優、 高橋太郎、常盤稔、林八郎、池田俊彦 及ビ 山本又モ、
カネテヨリ、我國現時ノ狀態ヲ以テ國體ノ本義ニ反スルモノアリト爲シ、
特權階級ヲ排除シテ、所謂昭和維新ヲ促進スルノ必要ヲ痛感シツツアリシガ、
昭和八年前後ヨリ逐次 村中孝次等ノ思想信念ニ共鳴し、同志トシテコレ等ニ接触シ、遂ニ直接行動ヲモ是認スルニ至レリ。
二、計畫 及 準備
( イ )  昭和十年十二月、第一師團ガ近ク満洲ニ派遣セラルベキ旨ノ報 傳ワルヤ、
 村中孝次、磯部淺一、栗原安秀等ハ第一師團將士ノ渡満前、主トシテ在京同志ニ依リ速ニ事ヲ擧ゲルノ要アリト爲シ、
香田淸貞 及ビ 澁川善助ト共ニソノ準備ニ着手シ、相澤事件ノ公判ヲ利用シテ、
或ハ特權階級腐敗ノ事情、或ハ相澤中佐ノ蹶起ノ精神ヲ宣傳シ、以テ社會ノ注目ヲ集メ、 且 同志ノ決意ヲ促シツツアリシガ、
今ヤ諸情勢ハ正ニ維新斷行ノ機熟セルモノト看取シ、爾來各所ニ於テ同志ノ會合ヲ重ネ、
近ク決行スルコトヲ定メ、且 コレガ實行ニ關スル諸般ノ計畫 及ビ 準備ヲ畫策シ、
又 歩兵大尉山口一太郎、北輝次郎、西田税、龜川哲也等ト 処要ノ聯絡ヲ爲セリ。
( ロ )  之ガ具體案ヲ確定スル爲
 昭和十一年二月十八日頃夜 村中孝次、磯部淺一、栗原安秀、安藤輝三 及ビ亡元航空兵大尉河野壽ハ、
栗原安秀方ニ會合シ、襲撃ノ目標、方法 及ビ時期等ニ關シ謀議ノ上、
近衛歩兵第三聯隊、歩兵第一聯隊 及ビ 歩兵第三聯隊ノ各一部ノ兵力ヲ出動セシメテ、
在京一部ノ重臣ヲ襲撃殺碍シ、別ニ河野壽ノ指揮スル一隊ヲ以テ、伯爵牧野伸顕ヲ襲撃殺害シ、
又 豊橋市在住ノ同志ヲシテ興津別邸ノ公爵西園寺公望ヲ襲撃殺害セシムルコト、及ビ 決行ノ時期ヲ來週中トスル 等ヲ決定シ、
同月十九日 磯部淺一ハ豊橋市ニ赴キ、對馬勝雄ニ東京方面ノ情勢ヲ告ゲ、相謀リテ 公爵西園寺公望襲撃殺害ヲ確定セリ。
( ハ )  同月二十二日夜
 村中孝次、磯部淺一、栗原安秀、亡元航空兵大尉河野壽ハ、再ビ栗原安秀方ニ會合シ、
蹶起ノ日時 及ビ 襲撃部署等ニツキ謀議ヲ遂ゲ、
同月二十八日午前五時ヲ期シ、同志一齊ニ蹶起スル事ニ決シ、
且 ソレゾレ部署ヲ定メテ總理大臣岡田啓介、大蔵大臣高橋是淸、内大臣子爵齋藤實、
侍從長鈴木貫太郎、伯爵牧野伸顕、公爵西園寺公望ヲ殺碍スルコト、
成シ得レバ宮城坂下門ニ於テ奸臣ト目スル重臣ノ參内ヲ阻止スルコト、
及ビ 警視廳ヲ占據シテソノ機能發動ヲ阻止スルコト、竝ニ 陸軍省、參謀本部、陸軍大臣官邸ヲ占據シ、
村中孝次、磯部淺一、香田淸貞等ヨリ 陸軍大臣ニ對シ、事態収拾ニツキ善處ヲ要望スル事等ヲ謀議決定セリ。
( ニ )  同月二十三日、栗原安秀ハ豊橋市ニ赴キ對馬勝雄、竹嶌繼夫ニ右決定事項ヲ傳達シ、襲撃ニ關スル打合セヲ爲セリ。
同日頃、澁川善助ハ前記計畫ヲ知リ、村中孝次、磯部淺一等ト東京小石川水道端二丁目 直心道場ソノ他ニ於テ聯絡の結果、
自ラハ 神奈川県湯河原町ニ於ケル伯爵牧野伸顕ノ処在ヲ偵察スルコト、及ビ 同人ハ直接行動ニ加ワラズ、
専ラ外部ニ在リテ、被告人等ノ企圖達成ノタメ策動スルコト等ヲ謀議決定シ、
又 同日夜 村中孝次、磯部淺一、香田淸貞、安藤輝三 及ビ亡元歩兵大尉野中四郎等ハ 歩兵第三聯隊ニ會合シ、
内大臣子爵齋藤實私邸ヲ襲撃シタル後、更ニ敎育總監渡邊錠太郎ヲ襲撃シ、同人ヲ殺碍スルコト等ヲ謀議決定セリ。
( ホ )  同月二十四日夜、 村中孝次、磯部淺一、栗原安秀、香田淸貞、亡野中四郎等ハ 歩兵第一聯隊ニ會合シ、
蹶起後企圖達成ノタメ陸軍上層部ニ對スル折衝ハ 村中孝次、磯部淺一、香田淸貞等ニ於テ是ヲ担當スルコト、
及ビ 部外參加者ハ二十五日午後七時マデニ歩兵第一聯隊ニ集合スルコトヲ謀議決定セリ。
( ヘ )  以上 謀議決定シタル事項ハ極力コレガ秘密ヲ保持シツツ、
 同月二十五日夕マデニソノ全部 又ハ 処要ノ部分ヲ他ノ同志ニ通達セシガ、同志ハ何レモコレヲ快諾、若シクハコレニ同意セリ。
但シ 麥屋淸濟、鈴木金次郎、淸原康平ハ 未ダ兵力ヲ使用シ 直接行動ニ出ズルノ意思ヲ有セザリシモ、
前記計畫ノ示達ヲ受クルヤ、遂ニ小節ノ情誼ニ從イ、或ハ鞏制的勧誘ヲ排スルノ氣力ヲ欠キ、
麥屋ハ中隊附トシテ、又 鈴木 及ビ 淸原ハ 各所中隊下士官兵ヲ率イテコレニ參加ヲ決意スルニ至レルモノナリ。
( ト )  同月二十五日夕、 村中孝次ハ龜川哲也方ニ於テ西田税 及ビ 龜川哲也ト相會シ、
愈々明二十六日払暁ヲ期シ決行スベキコトヲ告ゲ、以テ同人等ト処要ノ聯絡ヲ遂ゲ、且 龜川哲也ヨリ蹶起資金若干ヲ受領セリ。
同日夜、村中孝次、磯部淺一、香田淸貞等ハ歩兵第一聯隊ニ會合シ、
前記襲撃 及ビ 占據後 陸軍大臣ニ對シ 要望スベキ事項トシテ、
一、陸軍大臣ノ斷乎タル決意ニ依リ、速カニ事態ヲ収拾シテ 維新ニ邁進スルコト
二、皇軍相撃ノ不祥事ヲ絶對ニ惹起セシメザルコト
三、軍ノ統帥破壊ノ元兇ヲ速カニ逮捕スルコト
四、軍閥的行動ヲ爲シ來リタル中心人物ヲ除クコト
五、主要ナル地方同志ヲ即時東京ニ招致シテ意見ヲ聽キ事態収拾ニ善處スルコト
六、前各號實行セラレ 事態ノ安定ヲ見ルマデ蹶起部隊ヲ現占據位置ヨリ絶對ニ移動セシメザルコト
等ヲ 謀議決定シ、且 村中孝次ノ起草シタル決起趣意書ナルモノヲ印刷交附セリ。
( チ )  コレヨリ先、對馬勝雄ハ
 同月十九日 豊橋自宅ニ於テ 磯部淺一ノ來訪ヲ受ケ、東京方面ノ情勢ヲ承知シ、
相謀リテ同時ニ豊橋市在住ノ同志ヲ以テ公爵西園寺公望ヲ襲撃殺碍スベキコトヲ決定シ、
同月二十日以後、竹嶌繼夫ト共ニ同志歩兵中尉井上辰雄、同塩田淑夫、同板垣徹 及ビ一等主計鈴木五郎ニ對シ
コレガ參加ヲ求メタルニ、板垣ハソノ賛否ヲ保留シ、他ノ三名ハ何レモコレヲ承諾シ、
同月二十三日 對馬勝雄、竹嶌繼夫 及ビ鈴木五郎ハ、
聯絡ノ爲來レル栗原安秀ヨリ 東京ニ於ケル襲撃計畫 及ビ決行日時等ニ關スル決定事項ノ通達ヲ受ケ、
静岡県興津町西園寺公望別邸ノ襲撃モ豊橋陸軍敎導學校ノ下士官兵約百二十名ヲ以テ
同月二十六日午前五時ヲ期シテ決行シ、同人ヲ殺碍スルコト 竝ニソノ實行計畫ノ概要ヲ謀議決定シ、
ソノ後 對馬勝雄、竹嶌繼夫等ハコレガ細部ニ關シ準備スル処アリシガ、
同月二十五日ニ至リ板垣徹ガ兵力使用ノ點ニツキ敢然反對シタル爲、遂ニ公爵西園寺公望襲撃ヲ中止シ、
對馬勝雄、竹嶌繼夫ハ急遽上京シテ同志ノ行動ニ參加スルニ至レリ。

三、行動ノ概要
斯クテ以上 同志ハ相團結ノ上、前記各決定事項ニ基キ左ノ如ク行動セリ。
1  栗原安秀、林八郎、池田俊彦、對馬勝雄ハ内閣總理大臣官邸ヲ襲撃シ、 總理大臣岡田啓介ヲ殺碍スル任務ヲ担當セルガ、
二月二十六日未明、所属歩兵第一聯隊機關銃隊下士官等ニ所要ノ件ヲ傳達シ、
次デ非常呼集ヲ行イ 機關銃隊全員ヲ舎前ニ整列セシメ、蹶起ノ趣旨ヲ告ゲ、ソノ一部ヲ丹生部隊ニ配備シ、
自ラ銃隊下士官兵約三百名ヲ指揮シ、同四時三十分頃兵營ヲ出發シ、同五時頃 内閣總總理大臣官邸ヲ襲撃シ、
同邸ヲ護衛スル警官村上嘉茂左衛門、土井淸松、淸水与四郎 及ビ小館喜代松ノ四名
竝ニ 總理大臣秘書官事務嘱託松尾傳蔵ヲ殺碍シタルモ、松尾傳蔵ヲ以テ岡田首相ト誤認シ、爲ニ同人ヲ殺碍スルニ至らズ。
2  中橋基明、中島莞爾ハ、大蔵大臣高橋是清私邸ヲ襲撃シテ同人ヲ殺碍スル任務ヲ担當シ、
 二月二十五日夜 近衛歩兵第三聯隊第七中隊下士官兵約百二十名ヲ守衛隊控兵ト突入隊トニ二分シ、
前者ハ歩兵少尉今泉義道ヲシテ コレヲ率イシメ、後者ヲ以テ同邸内ニ侵入シテ高橋蔵相ヲ殺碍スルコト等ヲ決定シ、
翌二十六日午前三時頃、中橋基明、中島莞爾ハ同中隊内居住室ニ在リシ今泉義道ノ許ニ至リ、
昭和維新斷行ノタメ 高橋蔵相ノ殺碍ニ赴ク旨ヲ告ゲ、且 行動ヲ共ニスベク勧告シタルモ諾否ヲ明ニセザルヲ以テ、
中橋基明ハ我々ト行動ヲ共ニスルト否トハ自由ニ委ス、但シ 蹶起後ハ當然守衛隊控兵ノ派遣アルベキヲ豫想セラルルガ故ニ、
控兵副指令タル貴官ハ唯控兵ヲ引率セヨト申渡シ 同室ヲ立去レリ。
今泉義道ハ事茲ニ至ル、既ニ已ムヲ得ズトナシ、中橋基明ノ意ニ從イ行動セント決意スルニ至レリ、
次デ同四時頃、中橋基明ハ非常呼集ヲ行イ、明治神宮參拝ト稱シテ下士官兵約百二十名ヲ指揮シ、
同四時三十分頃、兵營ヲ出發シ、自ラ突入隊ヲ率イ、同五時頃、大蔵大臣高橋是淸私邸ヲ襲撃シ同人ヲ殺害シ、
次デ一同 同邸ヲ退去シ、中島莞爾ハ中橋基明ノ指示ニヨリ突入隊ヲ指揮シテ内閣總理大臣官邸ニ到レリ。
一方 今泉義道ハ暹羅公使館附近ニ位置シ、中橋基明ノ高橋蔵相私邸襲撃間待機ノ姿勢ニ在リシガ、
中橋基明ト共ニ襲撃後、守衛隊控兵ヲ率イテ守衛隊司令官ノ許ニ至リ、
次イデ 命令ニ依リ坂下門ノ警戒ニ任ジタル後、同十一時頃 勤務ノ交代ヲ命ゼラレ所属聯隊ニ歸營セリ。
3  坂井直、高橋太郎、麥屋淸濟、安田優ハ、 内大臣子爵齋藤實私邸ヲ襲撃シテ同人ヲ殺碍シ、
更ニ高橋太郎、安田優ハ敎育總監渡邊錠太郎私邸ヲ襲撃シ 同人ヲ殺碍スル任務ヲ担當シ、下士官兵約二百名ヲ指揮シ
同四時二十分頃兵營ヲ出發、同五時頃子爵齋藤實私邸ヲ襲撃シテ同人ヲ殺害シ、
ソノ際 身ヲ以テ内府ノ危害ヲ防ガントシタル夫人春子ニ對シ、過ッテ銃創ヲ負ワシメタル上、
同五時十五分頃 一同 同邸ヲ退去シ、坂井直、麥屋淸濟ハ主力部隊ヲ率イテ陸軍省附近ニ到リ、
猶 高橋太郎、安田優ハ下士官以下約三十名ヲ指揮シ、豫テノ計畫ニ基キ赤坂離宮前ニ於テ、
田中勝ノ交附セル軍用自動貨車ニ搭乘シ、敎育總監渡邊錠太郎私邸ニ嚮イ、
同六時過頃 同邸ヲ襲撃シ、妻すず子ノ制止ヲ排シ 同人ヲ殺碍シ、
同六時三十分頃 一同 同邸ヲ退去シ 陸軍省附近ニ到リ、坂井部隊ノ主力ニ合セリ。
4  安藤輝三ハ侍從長官邸ヲ襲撃シ 侍從長鈴木貫太郎ヲ殺碍スル任務ヲ担當セルガ、
 二月二十六日午前三時頃、非常呼集ヲ行イ全員ヲ舎前ニ整列セシメ、
同三時三十分頃兵營出發、同四時五十分頃 侍從長官邸ヲ襲撃シ侍從長ニ數個ノ銃創ヲ負ワシメ、
次デ 安藤輝三ハ侍從長ニ 「 止メ 」 ヲ刺サントセシガ、夫人孝子ノ懇願ニヨリコレヲ止メ、遂ニ殺碍スルニ至ラズ、
同五時三十分頃 一同 同邸ヲ退去シ麹町区三宅坂附近ニ到レリ。
5  常盤稔、淸原康平、鈴木金次郎ハ亡野中四郎ノ指揮ノ下ニ警視廳ヲ占據スルノ任務ヲ担當シ、
 二月二十六日午前二時頃 所属中隊ノ非常呼集ヲ行イ、准士官以下約五百名ヲ指揮シ、
同四時三十分頃兵營ヲ出發、同五時頃警視廳ニ到着シ、
道庁司法省側 及ビ 桜田門側道路上數ヶ所ニ機關銃、輕機關銃、小銃若干分隊ヲ各配置シテ
同廳ノ各出入口を扼おさえシ、又 同廳屋上ニ輕機關銃、小銃若干分隊ヲ配置し、
更ニ電話交換室ニ一部を配置シテ一時外部ヘノ通信を妨碍セリ。
6  丹生誠忠ハ陸軍大臣官邸ヲ占據シ陸軍省、參謀本部周囲ノ交通ヲ遮斷シ、
 香田淸貞、村中孝次、磯部淺一等ノ陸軍上層部ニ對スル折衝ヲ容易ナラシムル任務ヲ担當シタルガ、
二月二十六日午前四時頃、非常呼集ヲ行イ下士官兵約百七十名ヲ指揮シ、
村中孝次、磯部淺一、香田淸貞、竹嶌繼夫、山本又等ト共ニ
同四時三十分頃兵營出發、同五時頃陸軍大臣官邸ニ到着シ
主力部隊ヲ以テ同官邸ノ表門ニ位置セシメ、以テ特定人以外ノ出入ヲ禁止セリ。
7  田中勝ハ所属野戰重砲兵第七聯隊ノ自動車ヲ以テスル輸送ノ任務ヲ担當シタルガ、
 二月二十六日午前二時三十分頃、下士官兵一三名ニ對シ 夜間自動車行軍ヲ兼ネ靖國神社參拝ヲ爲スト稱
聯隊備附ノ乘用自動車一輌、自動貨車三輌、側車附自動車一輌ニソレゾレ分乘セシメ、
コレヲ指揮シテ 午前三時十五分兵營出發、途中靖國神社ニ參拝シ 次デ宮城ヲ
拝シ、
同五時頃陸軍大臣官邸ニ到着シ、磯部淺一ノ指示ニヨリ 直チニ乘用自動車ニ搭乘シ、
且 兵二名ヲシテ自動貨車一輌ヲ運轉セシメ、共ニ赤坂離宮前附近ニ到リ、
折柄 齋藤内大臣私邸ノ襲撃ヲ終エ、更ニ渡邊錠太郎私邸襲撃ノタメ待合セ居リタル
高橋太郎、安田優ノ指揮スル部隊ニ右自動貨車ヲ交附シ、
次デ同九時頃 栗原安秀、池田俊彦、中橋基明、中島莞爾等ガ東京朝日新聞社ヲ襲撃スルニ當リ、
乘用自動車一輌、自動貨車二輌ヲ コレニ交附シテソノ部隊ノ輸送ニ充テ、
ソノ他 所属自動車或ハ首相官邸備附ノ乘用自動車ヲ使用シ、以テ聯絡輸送ニ任ジタリ。
8  栗原安秀、池田俊彦、中橋基明、中島莞爾ハ、
 同月二月二十六日午前九時頃 下士官兵約五十名ヲ指揮シ、
軍用自動車三輌ニ分乘シテ東京朝日新聞社ヲ襲イ、同社ヲシテ一時新聞發行ヲ不能ナラシメ、
次デ東京日日新聞社、時事新報社、國民新聞社、報知新聞社 及ビ 電報通信社等ノ各社ヲ廻リ、
決起趣意書ヲ配布シ、コレガ掲載ヲ要求シテ首相官邸ニ歸還セリ。
9  澁川善助ハ二月二十三日、 神奈川県湯河原町ニ赴キ、牧野伸顕ノ処在ヲ偵察シタル上 歸京シ、
事件勃發後ハ外部ニアリテ同志等ノ企圖ヲ達成セシメンガタメ、
同月二十七日夜、麹町区九段一丁目 中橋照夫ト相謀リ、
豫テ氣脈ヲ通ジ居タル山形県農民靑年同盟 長谷部淸十郎等ヲシテ相呼應シテ事ヲ擧ゲシムルコトニ決シ、
コレガ實行ノタメ前記中橋ニ拳銃及ビ同實包ヲ与エ、
更ニ栗原安秀ニ依頼シ 某鐵砲店ヨリ右拳銃用實包三百發ヲ入手セントシタルモ事發覺シテ目的ヲ遂ゲズ
同月二十六日以降 歩兵大尉松平紹光等ト聯絡シ、外部情報ノ蒐集ニ努メ コレヲ同志等ノ部隊ニ通報シ居タルガ、
二十八日 安藤輝三ノ部隊ニ投ジテ士官を鼓舞激励シ
同日夕 陸相官邸ニ到リ 諸般ノ助力ヲ爲シ、又 坂井直ト同官邸附近警戒線ヲ巡視シテ區處ヲ与エタリ。
10  亡 河野壽ハ神奈川県湯河原町伊藤屋旅館貸別荘ニ滞在中ノ牧野伸顕殺碍ノ任務ヲ担當シ、
二月二十五日夜 豫テ栗原安秀ノ招致ニヨリ 歩兵第一聯隊ニ集合セル
歩兵軍曹宇治野時參外兵一名 竝ニ民間同志宮田晃、中島淸治、黒田昶、水上源一 及ビ綿引正三ヲ指揮シ、
輕機關銃二銃 ソノ他ヲ携行シ、翌二十六日午前零時四十分頃自動車二輌ニ分乘出發シ、
同五時頃湯河原町ニ到着シ 伊藤屋旅館貸別荘ヲ襲撃シテ 牧野伸顕ヲ捜索シタルモ、
コレヲ發見シ得ザルニヨリ、同人ヲ焼殺セントシテ同別荘ニ放火シテコレヲ焼燬しょうきシ、
又 右襲撃ニ當リ 護衛巡査皆川義孝ヲ射殺シタル外、附添看護婦 森すず江ニ銃創ヲ、
折柄消火ノタメ驅附ケタル岩本龜三ニ銃創ヲ負ワシメタルモ、遂ニ牧野伸顕殺碍ノ目的ヲ遂グルニ至ラズ。
コノ間 水上源一ハ、亡河野壽ノ重傷ヲ負イ 再起シ難キヲ知ルヤ 爾餘ノ者ヲ指揮督励シ 率先抜刀シ屋内ニ闖入シ、
或ハ 牧野伸顕ヲ焼殺セントシテ家屋ニ火ヲ放チ、
或ハ 消火ノタメ驅附ケタル者ニ對シ刀ヲ振リカザシテ威嚇制止ニ勉ムル等ノ
行爲ヲ敢テセリ。
亡河野壽等ハ 右襲撃ノ際負傷シタルニ因リ、一同東京第一衛戍病院熱海分院ニ到リシガ、同所ニ於テ各縛ニツキタリ。
11  二月二十六日、東京方面ノ襲撃ヲ終エタル部隊ハ、 
豫メ計畫セル処ニ基キ 首相官邸、陸相官邸、陸軍省 及ビ警視廳ヲ占位シ、麹町區西南地區一帯ノ交通ヲ制限シ、
以テ 香田淸貞、村中孝次、磯部淺一等ノ陸軍首脳部ニ對スル折衝工作ヲ支援セリ。
前記 香田淸貞、村中孝次、磯部淺一等ハ丹生誠忠ノ指揮スル部隊ト共ニ、
二月二十六日午前五時頃 陸軍大臣官邸ニ到着、陸軍大臣川島大將ニ面接シ、
香田淸貞ハ一同ヲ代表シテ 決起趣意書ヲ朗讀スルト共ニ 各所襲撃ノ狀況ヲ説明シタル後、
維新斷行ノタメ善處ヲ要望シ、
又 眞崎大將、古莊陸軍次官、山下少將、満井歩兵中佐 ヲ承知シテ 事態収拾ニ善處セラレタキ旨 要請せリ。
コノ間、同日午前十時頃、磯部淺一ハ同邸表玄關前ニ於テ、
折柄來合セ居タル片倉歩兵少佐ニ對シ、拳銃ヲ以テ射撃シ、同人ニ銃創ヲ負ワシメタリ。 
次デ彼等ハ、折柄來訪シタル山下少將ヨリ、軍首脳部ニ於テ起案シタル説得文ヲ讀聽ケ 説示セラレタルモ
之ニ服セズ  ・・・大臣告示 
第一師管戰時警備ノ下令セラルルヤ・・・命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戦時警備部隊トシテ警備に任ず 」 
成ルベク コレ等部隊ハ流血ノ惨ヲ避ケ、説得ニヨリ歸隊セシメントスル警備司令官ノ方針ニ基キ、
同二十六日夕ヨリ 歩兵第一聯隊長 小藤大佐ノ指揮下ニ入ラシメラレ、
次デ 同二十七日早朝 戒嚴令ノ一部施行アリシ後モ、前日ト同一方針ノ下ニ 右序狀態ヲ持續セシメラレタルガ、
幹部ハ之ヲ以テ一般ノ情勢好轉セリト判斷シ、益々ソノ処信ヲ深メ、ソノ企圖ヲ斷行推進セント志スニ至レリ。
12  同月二十七日朝、村中孝次ハ満井中佐等ノ勧告ニヨリ陸軍省、參謀本部ノ執務ノ便宜ヲ考慮シ 同地ヲ開放シ、
寧ロコノ際 各所属部隊ニ引揚グベキ旨 同志ニ提議セルガ
一同ノ容ルル処トナラズ、結局首相官邸 及ビ 新議事堂附近ニ部隊ヲ集結スルコトニ一決シタルヲ以テ、
村中孝次、香田淸貞ハ戒嚴司令部ニ到リ 司令官香椎中將、參謀長安井少將等ニ對シ、
蹶起ノ趣意 竝ニ軍上層部ニ對スル要望ヲ述ベ、部隊ノ配備ヲ縮小セル件ヲ説明シ、
現警備狀態ヲ暫ク是認セラレタク、否ラザレバ軍隊相撃ノ危險アル旨ヲ力説シ、
次デ 村中孝次、磯部淺一等ハ北輝次郎ヨリ事態収拾ニ關スル電話ノ示敎ニ基キ、
香田淸貞、栗原安秀、亡野中四郎等ト協議シ、同日午後四時頃 陸相官邸ニ於テ 一部軍事參議官ト會見シ
事態収拾ニ關シ要請スル処アリシガ、却ッテ先ズ 小藤大佐ノ命ニ從イ原位置ヲ撤去イルノ必要ヲ説示セラレ、
一應ハコレヲ諒解セルモ撤去意思ヲ確定スルニ至ラズ、
而シテコレ等部隊ハ小藤大佐ノ指揮ニ基キ、同夜ヨリ 首相、蔵相、鐡相、農相、文相 各官邸、料理店幸樂 及ビ 山王ホテル等ニ宿營セリ。
13  二月二十八日朝、 村中孝次、香田淸貞等ハ近衛歩兵第三聯隊ヨリ 中橋基明ニ對スル聯隊命令トシテ、
「 戒嚴司令官ハ勅命ヲ奉じ 占據部隊ヲシテ速カニ歩兵第一聯隊兵營附近ニ集結セシメラルルニヨリ、
同中尉ハソノ指揮シアル部隊ヲ率イ、小藤大佐ノ指揮ニ入リ行動スベキ 」
旨ノ 電話通達アリタルヲ承知シ、小藤大佐ニ對シソノ措置ノ不當ヲ難ゼルガ、
會々 小藤大佐ハ、戒嚴司令官ニ對シ下サレタル ・・・ 奉勅命令
占據部隊ヲ速カニ現所属ニ復歸セシムルベキ旨ノ勅令ニ基ク第一師團命令ヲ受領シ
コレガ傳達ヲ企圖セル時ナリシモ、同人等ノ感情ノ激化甚ダシキニ由リ、シバラクコレヲ保留セリ。
コレニ前後シテ 村中孝次、香田淸貞、對馬勝雄等ハ
午前十時頃、第一師團司令部ニ到リ 師團長及ビ參謀長ニ對シ、勅命ノ下令ナキヨウ斡旋方ヲ陳述シ 陸相官邸ニ歸來セルニ、
山下少將來邸シ、コレ等首脳者ニ對シ 勅命ニ基ク行動ノ實施近キコト確實ナルヲ以テ善處スベキ旨通達スル処アリ、
ヨツテ首脳者一同會議ノ結果 自決ノ決心ヲ爲シ、偶々説得ニ來レル師團長 及ビ 小藤大佐ニ對シテモ、陛下の御命令ニ服從スベキ旨誓イタルモ、
北輝次郎、西田税等ノ電話激励ト一部幹部中、同朝來 四囲ノ情勢ノ急變ト各種情報ノ混亂錯綜トニ稽かんがエ、
復歸命令ハ眞ノ大御心ニ非ザルベシト主張スルモノアリ、
又 第一線ヲ指揮シアリタル者モ情況ノ不明ニ基因シ、或ハ流言ニ惑ワサレテ心境一變シ、
包囲部隊ガ彈壓ノ措置ニ出ズルニ於テハ 飽ク迄 現位置ヲ固守シテ抗戰セント決意シ、
同月二十八日夕ヨリ 首相官邸、新議事堂、陸軍省、山王ホテル等ニ位置シテ 戰闘準備ヲ爲スニ至レリ。
14  斯クテ戒嚴司令官香椎中將ハ、小藤大佐ニ對シコレ等部隊ノ指揮權ヲ解除シ、
 一般包囲部隊ニ對シ二十九日朝ヲ期シ 一齊ニ占據地區ノ掃蕩ヲ下令スルニ至リシガ、
叛亂幹部ノ大部ハ 二十九日早朝 ラジオ放送 竝ニ 撒布セラレタルビラ等ニヨリ、
勅命ニ基ク行動ノ既ニ開始セラレタルヲ確知シ、且 包囲部隊ノ逐次近迫セルヲ目撃シ 抵抗ヲ斷念シテ、
下士官兵ニ對シ 屯營ニ歸還ヲ命ジ、先ニ被告人等ノ手裡ヲ自ラ脱シテ歸營セル數十名ヲ併セテ、
同日午後二時頃マデニ下士官兵ノ全部歸順セルニ至レリ。
爾後 山本又ヲ除キ 幹部全員陸相官邸ニ集合シ、ソノ多クハ自決ヲ決意シタルモ、
一部ノ者ハソノ時機ニ非ラザルヲ主張シ、遂ニ亡野中四郎ヲ除ク外一同自決ヲ斷念シ、
同日夕 何レモ東京衛戍刑務所ニ鞏制収容セラレ、
山本又ハソノ宗敎心ヨリ同日正午頃逃レテ身延山ニ嚮イシガ、三月四日 東京憲兵隊ニ自首セリ。
15  大江昭雄 及ビ齋藤一郎ハ、 二月二十五日夜、中橋基明ヨリ明朝他部隊ト共ニ蹶起スベキ旨聽カサレタル処、
大江ハ豫テヨリ旧上官タル同人ヨリ昭和維新斷行ノ要ニツキ啓蒙ヲ受ケ、
同人等ノ企圖ノ一部ヲ知悉シ居タルヨリ、本属ノ指揮系統ヲ離レテコレニ參加センコトヲ決意シ、
齋藤一郎モ亦豫テヨリ中隊長代理タル同人ガ國家革新思想ヲ抱持シアルコトヲ知リ居タルヲ以テ、
同人ガ命令ニ仮託シテ犯罪ヲ鞏要スルモノナルヲ諒知シタルモ、
平素ノ情義上コレヲ拒ミ得ズシテ參加ヲ決意シ、
二十六日非常呼集ニヨリ中隊兵員ト共ニ中橋基明指揮ノ下ニ屯營ヲ出發シ、
同五時頃 高橋邸ニ至リ、齋藤一郎ハ同邸内屋内ニ闖入シ 蔵相ノ所在ヲ捜索シタル上、
同邸ヲ退去シ、次デ中橋基明ト共ニ守衛第二小隊長トシテ宮城内ノ警戒ニ任ジタリ。
大江昭雄ハ輕機二箇分隊ヲ率イ、前記高橋邸前方路上ニオイテ憲兵、警察官ニ對シ警戒シタル後、
部下ヲ率イテ首相官邸ニ赴キ 栗原部隊ニ合流シ、コレト共ニ行動シテ居タリ。
16  前田仲吉ハ、 二月二十五日夜、丹生誠忠ヨリ 明二十六日早朝ヲ期シ、昭和維新斷行ノタメ蹶起スル旨ヲ告ゲラレ、
次デ二十六日午前二時三十分頃 同人ニヨリ決起趣意書ト題スル檄文ヲ讀ミ聽カサレ、
且 コレガ配布ヲ受ケ、更ニ當中隊ノ任務等ヲ告ゲラルルヤ直チニ參加ヲ決意シ、
非常呼集ニヨリ中隊兵員ト共ニ丹生誠忠ノ指揮ノ下ニ
屯營出發、
午前五時頃陸軍大臣官邸ニ到着スルヤ、兵五名ヲ率イテ陸軍省通信所ニ至リ、電話等ニヨル通信機關ノ使用ヲ禁止シタリ。
17  尾島健次郎ハ、 二月二十六日午前三時頃、旧上官タル栗原安秀ヨリ昭和維新斷行ノ旨 告ゲラルルヤ、
豫テ同人ヨリ國家維新ノ思想ヲ注入セラレ、コレニ共鳴シ居タルトコロニヨリ
本属系統ヲ離レテ直チニコレニ參加ヲ承諾シ、同人ノ指揮ノ下ニ屯營出發、
機關銃小隊長トシテ 兵約六十名ヲ率イ總理大臣官邸裏門ニ到リ 各分隊ヲ部署シテ同邸外部ノ警戒ヲ爲サシメ、
且 自ラソノ警戒線ヲ巡視シ、爾後引續キ部下ヲ率イテ同官邸ニ位置セルモノナリ。
18  林武 及ビ 新正雄ハ、 二月二十五日夜、所属中隊週番士官タル坂井直ヨリ 蹶起ノ趣意ヲ告ゲラルルヤ、
自ラ進ンデ本行動ニ參加スル意思ナキモ上官ノ言辭ニ魅惑セラレ、
且 平素ノ命令服従關係ニ拘束セラレ、ソノ違法ナルコトヲ推知シツツモ 已ム無ク齋藤内大臣私邸襲撃ニ參加セリ。
猶 新正雄ハ、出發前、坂井直ノ指示ニヨリ 聯隊弾薬庫ヲ開扉シ、實包ヲ取出シ コレヲ各中隊弾薬受領者ニ交附シタル後、
指示ニ基キ 分隊長トシテ齋藤内大臣私邸襲撃ニ參加シ、同邸内ニ侵入シテ同家裏側ノ警戒ニ任ジタリ。
又 林武ハ 齋藤内大臣私邸襲撃ニ當リ、輕機關銃分隊長トシテ兵十四名ヲ率イ 同邸内ニ侵入シ、
坂井直ノ命ニヨリ 輕機關銃ヲ以テ女中部屋門戸ヲ破壊セシメ、
同所ヨリ屋内ニ入リ 齋藤實ノ所在ヲ捜索シテ 階上寝室ニ亂入シ、坂井直等ガ齋藤實ヲ射撃シタル際、拳銃六發ヲ發射セリ、
猶 林武ハ右襲撃後、渡邊錠太郎私邸襲撃ニ分隊長トシテ參加セリ。
19  永田露 及ビ 堂込喜市ハ、 二月二十五日夜、中隊長安藤輝三ヨリ 明朝蹶起シテ鈴木侍從長を襲撃スベキ旨ヲ告ゲラルルヤ、
同人ガ命令ノ鞏制下ニ參加セシメントスルモノナルヲ諒知シタルモ、平素ノ情誼上 コレヲ拒ミ得ズシテ出動ヲ決意シ、
小隊長ノ任ヲ帯ビ 安藤輝三指揮ノ下ニ屯営ヲ出發シ、
二十六日午前四時五十分頃、前記侍從長ノ長官邸附近ニ到リ、
永田露ハ 第一小隊長トシテ下士官兵約八十名ヲ率イ、同官邸裏門ヨリ邸内ニ侵入シ、
鈴木侍從長ニ對シ拳銃ヲ發射シ、又 堂込喜市ハ 第二小隊長トシテ 兵約八十名ヲ率イ、同官邸表門ヨリ邸内ニ侵イリシ、
鈴木侍從長ニ對シ拳銃ヲ發射シ、次デ 安藤輝三ニ随イ部下ヲ率イテ陸軍省、新議事堂、幸樂 及ビ 山王ホテル等ニ位置シタリ。
20  立石利三郎ハ、 第七中隊長タリシ 亡野中四郎ヨリ本行動ニ參加を求メラルルヤ、
所属隊週番士官ニ何等報告スル事無ク、統帥ヲ紊ルコトヲ承知シツツコレニ同意シ、
同機關銃隊下士官四名、兵約七十名ヲ指揮シ、機關銃八 及ビ同實包ヲ携行シテ野中部隊ノ警視廳襲撃ニ參加セリ。
21  伊高花吉ハ、 安藤輝三ノ思想ニヤヤ共鳴シアリシガ、
二月二十五日夜、所属中隊鈴木金次郎ニ伴ハレ、第七中隊長亡野中四郎ノ許ニ到リ
參加ノ決意ヲ促サルルヤコレニ同意シ、同機關銃隊下士官四名、併ク七十名ヲ指揮シ、
機關銃八 及ビ同實包ヲ携行シテ野中部隊ノ警視廳襲撃ニ參加セリ。
22  北島弘、渡邊清作、靑木銀次、長瀬一ハ、
 二月二十五日夜、所属中隊ニ非ラザル第一中隊週番士官 坂井直ヨリ蹶起ノ趣旨ヲ告ゲラルルヤ、
直チニ コレニ同意シ、次デ長瀬ハ蛭田正夫ニ、靑木ハ小原竹次郎ニ、ソノ旨ヲ傳エ、
且 何レモ所属中隊週番士官ニ何等報告スルコトナク、秘カニ 二等兵ノ一部ヲ率イテ坂井部隊ニ加ワリ、
内大臣齋藤實私邸ノ襲撃ニ參加セリ。
右襲撃後、更ニ蛭田 及ビ 長瀬ハ共ニ輕機關銃分隊長トシテ渡邊教育總監私邸ノ襲撃ニ參加セシガ、
特ニ長瀬一ハ 同邸外扉ヲ射撃破壊シ、或ハ自ラ進ンデ邸内ニ侵入シ、
安田優ニ續イテ寝室ニ殺到、既ニ斃レテイル總監ノ背部ニ對シ
拳銃ヲ發射セリ。
猶 長瀬一ハ入營前ヨリ 國體ノ研究ニ志シ、且 居常 明治維新志士ノ言行ヲ敬愛シアリシガ、
入營後安藤輝三ノ指導ト相俟ッテ、
國體顯現ノ爲ニハ一身ヲ犠牲トシ 直接行動ヲモ爲スモ敢テ辭セザルノ信念ヲ有スルニ至ラルモノナリ。
23  宇治野時參、宮田晃、中島淸治、黒田昶、黒沢鶴一、水上源一 及ビ綿引正三等ハ、 ツトニ 栗原安秀ノ思想信念ニ共鳴感激シ、
特ニ水上ハ、軍隊ヲ利用スルニ非ザレバ革命ハ成功シ得ズトノ信念ニ基ヅキ、
靑年將校中 多數ノ同志ニ進ンデ接近シ、自宅ソノ他ノ各所ニ於テ栗原ト會合ヲ重ネ、
直接行動ノ目標、實行方策 竝ビニソノ時期等ニ關シ、屡々意見ヲ交換シ、
且 同人ヨリ多額ノ資金ヲ受ケ、ヒタスラ蹶起ノ時期ヲ待望シ居タルモノナル処、
前記ノ者ハ二月二十五日 栗原安秀ノ招致ニヨリ、
同夜 宇治野時參、黒沢鶴一ハ擅ほしいままニソノ本属部隊ヲ離レ、仝隊機關銃隊栗原安秀ノ許ニ參集シ、
且 亡河野壽指揮ノ下ニ在湯河原伊藤屋旅館貸別莊 牧野伸顕襲撃暗殺ノ任務ヲ授ケラルルヤ、
孰レモ勇躍參加シタルモノニシテ、ソノ襲撃に方ニテハ 宮田晃ハ黒田昶ト共ニ 亡河野壽ニ從イ、
屋内ニ闖入シ巡査皆川義孝ヲ殪シタルモ、河野壽 及ビ 宮田モ共ニ重傷ヲ負イタリ。
黒田昶ハ 最初同別莊裏口ヨリ亂入シ拳銃ヲ亂射シ、次デ同別莊裏側道路ニ廻リ 牧野伸顕ノ脱出ヲ警戒中、
火焔ニ追ワレ裏庭湯殿附近ニ避難セル婦女子數名中同人ラシキ姿ヲ認メ、
直ニ「 天誅 」 ト叫ビ 拳銃三、四発發ヲ亂射セリ。
宇治野時參ハ日本刀ヲ携エ、最初水上源一 ニ從イ同別莊玄關ニ向イタルガ、
同人ノ放火後ハ同別莊西南側高地附近ニ於テ、牧野伸顕ノ脱出 及ビ 警戒隊ノ來襲ヲ警戒シ、次デ炎上中ノ屋内ニ輕機關銃ヲ亂射セリ。
綿引正三ハ 刑事巡査ラシキ寝巻姿ノ男三名ヲ發見スルヤ拳銃ヲ擬シテ威嚇撃退シ、
次デ水上源一ノ放火後ハ 同別莊東側石垣上ニ數名ノ婦女子ガ非難蹲踞シアルヲ認メ、
ソノ中ニ牧野伸顕ノ潜伏シアルベシト直感シ、コレニ向イ拳銃ヲ發射セリ。
中島淸治、黒沢鶴一ハ最初外部ノ警戒ニ任ジアリシガ、水上源一ノ區處ニヨリ輕機關銃亦ハ拳銃ヲ以テ附近ニ亂射シ威嚇セリ。
水上源一ノ行動ニ就キテハ行動概要ノ (10) ニ 述ベタルガ如シ。

<註>
陸軍刑法第二十五條ニヨル叛乱罪ノ處斷明文ハ次ノ通リデアル。
第二十五條
党ヲ結ビ 兵器ヲ執リ 叛乱ヲ爲シタル者ハ左ノ區分ニ從テ處斷ス
一、首魁ハ死刑ニ處ス
二、謀議ニ參与シ又ハ群集ノ指揮を爲シタル者ハ 死刑、無期 若ハ五年以上ノ懲役 又ハ禁錮ニ處シ、
      ソノ他諸般ノ職務ニ從事シタル者ハ 三年以上ノ有期ノ懲役 又ハ禁錮ニ處ス
三、附和随行シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス
以上
河野司著  二・二六事件 獄中手記遺書 から

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大谷敬二郎 著 二・二六事件 では
法務官が君らは大臣告示が出る前において叛乱だといったことである。
事件鎮定後の第六十九議会において、
寺内陸相は一議員の 『 何日から叛乱部隊であるのか 』 との質問に対して、
「 彼らが営門を出た時から叛乱である 」 と 答えている。
これからすれば彼らが不法に出動して
重臣を倒し中央要域を占領したことが叛乱行動であったわけであるが、

しかしそれは反乱であって叛乱ではなかった。
当時の陸軍刑法は反乱罪を規定して、

「 党ヲ結ビ兵器ヲ執リ 反亂ヲ爲シタル者 」 ( 陸法第二十五條 ) とあった。
つまり法律的には明らかに反乱であった。
現にこの事件は陸軍刑法第二十五条反乱の罪をもって処罰している。
この反乱行為をしたものに、わざわざ叛乱軍の名を与えたのはなぜか。

彼らが奉勅命令に従わなかったとし、それは天皇に反逆する行為と規定して、
叛乱軍と名づけたものと解するよりほかはない。
だが、事の実際はすでにみたように彼らを大命に抗した叛乱者としたことは、いちじるしい不当なことであった。
事実、この命令は伝達されていなかったし、
また、彼らには大命に反抗する意思はいささかもなかったからである。
・・・反乱に非ず、叛乱罪に非ず  『 大命に抗したる逆賊に非ず 』 


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