あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

君側 2 「 日本を支配したは宮廷の人々 」

2021年11月17日 09時41分01秒 | 其の他

前頁 君側 1 『 大命に抗したる逆賊なり 』 の 続き

陛下
日本は天皇の独裁国であつてはなりません、
重臣元老貴族の独裁国であるも断じて許せません、
明治以後の日本は、
天皇を政治的中心とした一君と万民との一体的立憲国であります、
もつと ワカリ易く申上げると、
天皇を政治的中心とせる近代的民主国であります、
左様であらねばならない国体でありますから、何人の独裁をも許しません、
然るに、今の日本は何と云ふざまでありませうか、
天皇を政治的中心とせる元老、重臣、貴族、軍閥、政党、財閥の独裁国ではありませぬか、
いやいや、よくよく観察すると、
この特権階級の独裁政治は、天皇をさへないがしろにしてゐるのでありますぞ、
天皇をローマ法王にしておりますぞ、
ロボツトにし奉つて彼等が自恣専断(ジシセンダン)を思ふままに続けておりますぞ
日本国の山々津々の民どもは、
この独裁政治の下にあえいでゐるのでありますぞ
・・・磯部浅一  獄中日記 (三)  

二十六日の朝に、
・天皇は叛乱を絶対に認めてはいけません、
・そして 叛乱をすぐ弾圧しなければなりません、
・弾圧内に新しい内閣を組織することは絶対に許してはいけません
 と 決定しました。・・・木戸幸一日記から
木戸は 湯浅宮内大臣と広幡侍従次長を通して、
天皇に強い影響を与た。
・・・リンク→ 天皇は叛乱を認めてはいけません・・・ 
・・・リンク→ ・・・こんなことをしてどうするのか

 
 
西園寺公望                 木戸幸一           原田熊雄

宮廷の人々
此処では西園寺、木戸、原田、侍従長、内大臣、宮内大臣 等を謂う
前頁 君側 1 『 大命に抗したる逆賊なり 』 
の 続き

問題の、軍部大臣は現役将官に限るという寺内陸相の提案に対し、
原田は四月二十日、広田首相を訪ね
「 どうせ陸軍大臣の言うことをきかなければならないのなら、
なるべくあっさりきいてしまった方がいいじゃないか
と、西園寺の言を伝えている。
いわゆる 『 原田日記 』 『 木戸日記 』 『 本庄日記 』 『 近衛手記 』 等々を読むと、
敗戦に至るまで、昭和の政治の実権は西園寺を中心とする華族の一派の手中に在ったようだ。
そして便宜上一部の官僚を利用した。
即ち宮内省、内大臣府、侍従職等の要点にこれ等華族を配置して側近を固め、
反対勢力の侵入を断固として抑えた。
明治維新に使われた 「 宝 」 を手にしたのだ。
只一人の元老西園寺を中心とする宮廷派の動きを大観すると、
一口にいえば軍人いじめであると私は考える。
ロンドン条約が問題になれば条約派に肩入れし、
陸軍が強いとみれば海軍を支援して対抗せしめるという方策をとった。
このため、海軍部内の分裂を深め、陸海の対立を激化せしめ、
敗戦に至るまでその亀裂は塞がらなかった。
・・・リンク→
ロンドン条約問題の頃 1 『 民間団体の反対運動 』 
この方策は、何百年という長い間、武家政権に対抗した無力無責任の公家のやり方であり、
身分意識からくる武家軍人に対する蔑視、反感からではなかろうか。
西園寺個人としては、首相時代、増師問題による陸軍の倒閣に対する反感もあったであろう。
しかしこのやり方は、天皇のもつ機能の反対の方向である。
ロンドン条約で海軍部内が二つに割れたのは、
比率問題以上の打撃であり、米国を喜ばせたであろう。
この頃私は中尉であったが、師団より中少尉に対し、軍縮問題を論ずる課題作業があった。
在職二十年間、この様な事はただ一度だけであった。
昭和動乱の根源ともいうべきロンドン条約を、冷静にもっと広く深く研究して、
当局者は対処すべきであったと思う。
斎藤内閣から岡田内閣にかけて国体明徴運動が起きた。
一面は精神的であるが他面では政治問題として取り扱われた。
当時、国内政治の革新が叫ばれ、
現実の社会と、政治の動向との間にある矛盾を克服する運動として起きたのだ。
したがってこの運動は、政治、社会の各方向に大きな影響を与えた。
その一つに美濃部博士のいわゆる天皇機関説問題がある。
・・・リンク→国体明徴と天皇機関説問題 
軍は、その精神的影響をおそれ、
三長官協議の上、
真崎教育総監の名をもって、国体明徴の訓示を全軍隊に行った。
・・・リンク→『 国体明徴 』 天皇機関説に関する真崎教育総監の訓示 
政治問題として取り扱われると、直接的には岡田内閣の倒閣、間接には重臣層の勢力の紛争にあった。
国体明徴運動の政界における中心は平沼騏一郎にあったという。
岡田は海軍の条約派で宮廷派に親近し、平沼は西園寺の最も嫌いな人物。
それでなくとも荒木、真崎と皇道派の領袖として、宮廷グループより嫌われていたのが、
この一件にて真崎敵視は決定的になったと思われる。
・・・リンク→「 武官長はどうも真崎の肩を持つようだね 」 
宮廷派は当然、北の改造法案を読んだのであろう。
最も彼らが嫌ったのは、「 国民ノ天皇 」 の項であろう。
そこには華族制度廃止がうたわれ、皇室財産の国家下附が書かれている。
彼らが二・二六事件の将校や、これと重ね合わせて真崎を敵視した理由はよくわかる。
衆議院で多数を獲得した政党の総裁が首相になるのではなく、
西園寺がこれが適任と推薦したものがなる。
「 強力内閣 」 「 挙国 」 「 挙国一致内閣 」 等の空名を掲げるが、既記の如く、
分割統治の上に成立するのであるから、
基礎薄弱で、国家国民のために何等なすところなくして終るのである。
首班指名という、最も強大な権力を握っているから西園寺詣でが行なわれ、原田、木戸らの勢威は高まる。
したがって宮中における自己勢力の維持には、周到な準備と配慮が行なわれているようだ。
昭和七年三月二十七日 『 木戸日記 』 に、
原田熊雄の 西園寺の言 として次のように記している。
「 老公の御考として、近衛公をなるべく早く議長とし、・・・・必要を生じたる場合には
 出て組閣せしむるも可ならずやとの御話あり。
又、余を矢張り早き機会に侍従次長あたりの位置に就かしめ、
将来は側近にて働かする様になすを可とせしむとの話なりし由。
老公の御胸中を推察するに、
本邦の現状は既に革命の過程に踏込みつつある様に考へ居らるるものの如く、
元老の重責を荷はれて御心労察するに余りあり 」
爾後の進展を見ると、大体その通りに配置している。
ただ革命の過程に入ったと見ながら、その対応策がなかった。
勝海舟がいなかったわけである。

昭和十年十二月二十一日の 『 木戸日記 』に、
「 反対陣営の内閣の手にて内大臣の更迭を行はるるは極力避けたきを以て
 此際是非決行したき旨を希望す。宮内大臣も大体同感なりき 」
とある。
そして二十六日牧野の代りに斎藤実が内大臣となり、運命の日を迎えることになる。

二 ・二六事件直後の四月十日の 『 木戸日記 』 は次のように記している。
「 左の如き家族制度改革の骨子を示し高橋敏雄爵位課長に其研究を求む。
 華族制度改革要旨
適度に新陳代謝を行ひ華族の数をある程度に調整すると共に、
清新の気を加ふること
一、永代世襲の制を廃す
一、左の代数を経たる後は平民に復す
 公爵九代  侯爵八代  伯爵七代  子爵六代  男爵五代
一、特殊の家柄に就ては勅旨を以て代数の延長 又は永続を認むること 」
さらに六月二十五日の日記には、
「 高橋課長に家族制度改革の別案として、
一、既得権には変更を与へず
二、今後の華族を男爵三代  子爵四代  伯爵五代  侯爵六代  公爵七代とする案を研究以来 」
している。
今からみれば馬鹿げた考えだが、木戸ですらこの程度である。
当時の生活環境のためといえばそれまでだが、革新の困難さをよくあらわしている。

戦前世界一といわれた皇室財産。
その収支は明らかにされていない。
天皇家や皇族の家系的支出、災害等の救恤金、学習院や帝室博物館の経営等は知られているが、
いわゆる機密費、特定の人に対する給付が行なわれたようだ。
大臣経験者などに 「 前官礼遇 」 という待遇が与えられた。
これは在官当時の俸給相当額を、退職後も皇室財産から与えたことである。
戦後、『 華族 』 という本の中で木戸は、
「 明治天皇は、大変公卿というものに御関心が深く、
 これを守り立てて、・・・・堂上華族のための資金をおつくりになって、
・・・中略・・・
僕が宗秩寮総裁をしていた昭和八年ごろから十年ごろ、公爵で年間六千円の配分があった。
六千円というと当時の大臣の俸給。爵位によって金額がちがっているのです。
それくらいの配分ができる程資金が貯っていた 」
と 述べている。
また後継内閣をつくるため、重臣を集める考えの案の時、
重臣--前総理大臣で、
「 はじめは前総理大臣では多過ぎるから、総理大臣の前官礼遇を受けたものということで考えた。
 おかしなことに、海軍出身者はみな前官礼遇をもっているのに陸軍出身はいない。
カーキ色をツンボ桟敷なおいて内閣をつくったら、これは大さわぎになる。
仕方なく前総理ということになった 」
と 金沢誠氏らに答えている。

・・・挿入・・・
天皇財産の国家下附
天皇は自ら範を示して
皇室所有の土地山林株券等を国家に下附す。
皇室費を年約三千万円とし、国庫より支出せしむ。
但し、時勢の必要に応じ議会の協賛を経て増額すめことを得。
註。
現時の皇室財産は徳川氏の其れを継承せることに始まりて、
天皇の原義に照すも斯かる中性的財政をとるは矛盾なり。
国民の天皇は其の経済亦悉く国家の負担たるは自明の理也。
・・・リンク→日本改造法案大綱 (5) 巻一 国民の天皇 

天皇家の財政が明らかになれば、昭和史も、否、明治以降敗戦に至る歴史も
一段と明らかになると思う。
政治的の機密費として相当なものが流れていて、宮廷グループは、権力---奥ノ院の---と共に、
物質的なものに左右していたと想像される。
彼らの掌中に軍部も政党も財界も、極端にいえば踊らされていたのではないか。

『 華族 』 という本の中で木戸は、
大正十一年十一月十一日に始めたので十一会といった会名の説明をして、
会員は近衛、原田、阿部長景、外務政務次官浅田信恒、逓信省の局長広幡、
有馬頼寧、貴族院の副議長佐々木行忠など十二、三名で、
はじめは主として華族出身で役人になった連中の集りで終戦まで続いたと、いっている。
この十一会の連中--もちろん、こればかりではないが-- の情報、話し合いの結果が西園寺を動かし、
首相を決定し、側近の重臣、枢密院の議長副議長を決定したと見て大過ないであろう。
そう考えると、敗戦までは、表面はともかく、実際は宮廷政治---貴族政治ではなかったか。
しかりすると 「 一君万民 」 の標語の意味する万民平等への志向は、彼らにとっては好ましくなかった。
守りを固めたのは当然である。
北、西田に親しい磯部は、このような貴族の動きは摑んでいたと思われる。
「 陛下、日本は天皇の独裁国ではあってはなりません。
 重臣元老貴族の独裁国であるも断じて許しません。
明治以後の日本は、天皇を政治的中心とした一君万民との一体的立憲国であります。
もっとワカリ易く申上げると、天皇を政治的中心とする近代的民主国であります 」
と言い切っている。

敗戦によって家族廃止。
貴族院も当然なくなり、皇室財産も、その主要な御料林等も国有に帰した。
農地解放等も行われた。
これらの多くは、
磯部が信奉する 「
日本改造法案大綱
」 の中にあるもので磯部の実行したく思った事だ。
これらの改革は戦争による数百万流血の上に行われたものであり、
決して無血革命ではない。
問題は、今の日本人はこれ程の血を流さねば、改革が行われない国であり人であるのかということだ。
江藤淳著 『 もう一つの戦後史 』 の農地改革の成功の項に興味ある記事がある。
戦前の農林官僚の中に、地主的土地所有の矛盾を痛感し、なんとかしなければ 「 農民がかわいそうだ 」
と 考えた多くのすぐれた官僚かいた。
中心人物は大正九年当時の農政課長の石黒忠篤である。
現実に農地制度の病根にメスを入れるような立法措置が行なわれるのは、
日華事変が勃発し、統制経済を強化する戦時立法が行なわれるようになってからだ。
昭和十三年の内調整法、次いで小作料統制令等、戦局の激化と共に進んで昭和二十年六月、
戦時緊急措置法が成立すると、この緊急立法を利用して、一挙に小作料の金納化を中心とする制度改革を、
農林省は行わんとした。
石黒農林大臣はさすがにこれにはおどろいて、「 もう少し慎重にやり給え 」 と指示して
勅令案から小作料金納化の規定を落とし、
「 国内戦場化に伴う食糧対策 」 に切り替えさせたという。
このように戦前からの準備が積み重なって戦後の農地改革は成功したということだ。
右の記事で、戦時になって初めて病根にメスを入れたことと、
小作料金納化は最後まで踏み切れなかったことは考えさせられることだ。

宮廷派は秩父宮を如何に見ていただろう。
秩父宮は歩三で安藤が士官候補生時代からの関係で、
安藤に対する信頼が深く、刑死する時安藤は、天皇陛下万歳に続いて秩父宮万歳を唱えている。
まあ 自分なんかがいなくなってから後のことだろうけれど、
木戸や近衛 ( 時の首相 ) にも注意しておいてもらいたいが、よほど皇室のことは大事である。
まさか、陛下の御兄弟にかれこれということはあるまいけれど、
しかし 取巻の如何によっては、日本の歴史にときどき繰返されるように、
弟が兄を殺して帝位につくというような場面が相当に数多く見えている。
かくの如き不吉なことは無論ないと思うけれども、また、今の秩父宮とか高松宮とかいう方々に、
かれこれいうことはないけれども、或は皇族の中に変な者に担がれて、
何をしでかすか判らないような分子が出てくる情勢にも、
平素から相当に注意して見ていてもらわないと、事すこぶる重大だから、
皇室のために、また 日本のために、この点くれぐれも考えておいてもらわなければならん
 」

・・・『 西園寺公と政局 』
昭和七年六月二十一日の 『 木戸日記 』 によると
「 六月二一日宮内大臣官邸にて夕食、近衛公、原田男
 秩父宮の最近の時局に対する御考が稍々もすれば軍国的になれる点等につき意見を交換す 」
秩父宮はスポーツを御愛好になり、庶民的で、妃殿下も今までの例を破って皇族や公卿ではなく
会津の松平家より来られ、皇太后陛下は秩父宮を大変可愛がられたといわれる。
それから、これは他のことだけれど、
皇太后様を非常に偉い方のように思って、あんまり信じ過ぎて・・・・というか、
賢い方と思い過ぎておるというか、
賢い方だろうが、とにかくやはり婦人のことであるから、
よほどその点は考えて接しないと、陛下との間で或は憂慮するようなことが起こりはせんか。
自分は心配している
 」 ・・・『 西園寺公と政局 』
宮内省に永らく務めた小川晴信の口述手記 「 三代宮廷秘録 」 ・・・「 文藝春秋 」 昭和二十五年十一月号
によると、

西園寺公望の子 八郎は、ある時、天皇陛下のゴルフのお相手をしていたが、
休憩の時、八郎はねころんで、頬杖ついて陛下と話をしていた。
陛下はゴルフ棒をもって立ってお話しをしていらっしゃる。
そこへ秩父宮がお見えになって、
「 西園寺 」 と、大声で呼ばれ、
「 いかに御運動中とはいえ、陛下の御前ではないか、貴様の無作法は何事か 」
と、お叱りになった。
西園寺は平気な顔で立ち上がったが、恐縮の態には見えなかった。
と。
側近の、天皇観の一端が判る。

昭和八年四月十日の発令で西園寺八郎は職を去る。
ただしこの事のためか否かは不明だが 『 木戸日記 』 で見ると事件の性質を官紀問題としている。
西園寺八郎の進退問題は大分前から近衛、甘露寺らと相談し、
三月十五日、湯浅宮内大臣と一時間半に亙って相談。
西園寺の性格から、他人を交えず大臣が本人に説示し辞任せしむること、
まず内大臣、侍従長と十分意見の交換を希望し、
元老に及ぼす影響を十分考慮せられたし と木戸は言っている。
西園寺八郎は毛利家から西園寺の養嗣子になったもの。
木戸も湯浅も長州出身である。
もしも西園寺八郎の官紀問題が前記の秩父宮の叱責事件も含まれているのであるならば、
宮廷グループに与えた影響は無視できぬものがありそうだ。
二 ・二六事件における天皇の激怒の中に、
宮廷グループから、前まえから、秩父宮に関しての話が陛下にあったのではないか。

佐々木二郎 著  一革新将校の半生と磯部浅一 
宮廷グループの動き  から


櫻田門事件 「 陛下にはお恙もあらせられず、神色自若として云々 」

2021年11月16日 18時49分17秒 | 其の他

昭和七年一月八日、櫻田門事件 が起きた。
恒例の陸軍始めの観兵式を終えて、帰還の途につかれた天皇陛下一行の馬車に、
李奉昌という朝鮮人が爆弾を投げつけた事件である。
陛下は幸い御安泰であった。

犬養内閣は、陛下より
「 時局重大の時故に留任せよ 」
とのお言葉を賜ったという理由で留任した。
野党の民政党は 
「 さきの虎ノ門事件では、
 関東大震災直後の重大事局下にあつて、留任の優諚を拝したが山本内閣は総辞職した。
 当時閣僚であった犬養は 『 責任は絶対だ 』 と強硬に辞職を主張した。
 しかるに今回は全く同じ状況にありながら優諚に名をかりて留任するとは、
 政治道徳上許し難き行為である 」
と、強く非難した。
このように内閣が留任したため、
警衛責任者に対する処分も寛大で、
長警視総監が懲戒免職となった外は、いずれも減棒処分以下ですんだ。
これは虎ノ門事件と日垣してみると明瞭に軽い処分である。

この事件に際し
一木 宮相が
「 陛下には お恙もあらせられず、神色自若として云々 」
という
「 謹話 」 を発表したことを捉え、

今泉定助 ( 皇漢学者として重きをなしていた )
は これを問題にした。
矢次一夫の 『 昭和動乱私史 』 に拠れば、
「 これは表面こそ出なかったが当時の政界裏面にて大紛議を惹き起し、
 前内務省社会局長官で協調会常務理事だった吉田茂 ( 戦後首相となった吉田茂とは別人 )
が調停に動き、
遂に翌八年一月、
一木宮相が辞任するまでに騒ぎを発展させた。
今泉が問題にしたのは、
不祥事件とのみ見るのは間違いで、
神国日本として、これは八百万の神々の意志と見るべしというのである。
しかるに宮相は
『 お恙もあらせられなかったこと 』
のみが、あたかも
『 神の意志 』
であるかのように喜んでいるのは 神国日本の本質を解せざるもの。
さらに
『 神色自若云々 』
というにいたっては、言語道断、
歴代の天皇は、
民にして一人着ざるものあり、食せざる者あれば、

『 これ皆朕の責任 』
と仰せられている

しかるに
着ないとか、喰わぬどころの問題ではなく、
国民の一人から ( 朝鮮人でも当時は国民 )
爆弾を投げつけられたのに、
『 神色自若 』 というのでは、もはや 天皇というべき存在ではない。
これは 『 化物 』 か 『 馬鹿者 』 と申すべきであると、
いうのだ。
仄聞そくぶんしたところによると、
一木は、さすがにこの一語には憤激したということで、
化物とは、陛下に無礼であろう、
と一喝したそうだ。
そして陛下に責任をとれ、ということか
と鋭く訊したところ、
今泉は、
もちろん
と答え、
但し、陛下が責任を負われるのは、国民に対してではなく、
歴代皇祖皇宗の神霊に対して負われねばならぬ
神皇連綿として三千年、しかるに図らずも朕の代にいたり、前古未曾有の不祥事を見る。
朕まことに不徳の極まるところ、
とし伊勢大神宮をはじめ、歴朝の神前に身を投げうち、
泣いて万謝せらるべく、
そして日本に皇室のあらん限り、再び不祥事を起こさないために、
神前に固く誓願せらるることこそ当然、
と切言したのである。
そして仲介者の吉田に、
ことは国体の本義にかかわる大問題ですぞ、
この本義を守り、貫く為には生命をかけています。
貴下の得意とする労働争議の調停のようなつもりで、動き回られるのは困る、
といったそうだから、当時としては、相当な人物である 」
と。
今泉の
側近一木宮相に呈した苦言は、次のように要約できると思う。
即ち、
天皇は国民全員の生活に関し無限の責任を歴代の神霊に負うている。
この根本義から輔佐する人々の言動は発せねばならぬ。
この義を守るためには、私としては生命をかけている、
と。

・・・挿入・・・
天皇陛下
何と云ふ御失政でありますか、
何と云ふザマです、
皇祖皇宗に御あゆまりなされませ
・・・磯部浅一獄中日記  』

この事件の責任者に対する懲戒に関し、
内大臣秘書官長の木戸は、一月十三日の日記に次のように記している。
「 内大臣より今回の不祥事件に責任の地位にありしものの懲戒に関し、
其処分決定前に何等かの方法にて陛下より御優諚を賜りては如何との議あり。
 ・・・中略・・・
苟も行政組織上之等の事件を判定する夫々の機関の存する以上、
其の決定を左右するが如き御言葉等のあるは面白からずと思考す。
行政官として懲戒委員会に附議さるべき事態を惹起したる以上、
其の判定を待つの外方法なきは当然なねべし。
彼の幸徳事件の際の如きも、其の大赦は裁判の判決後に於て初めて行はれたものなり、
決して事前に陛下の御動きのあるは不可なりと述べ置きたり 」
この木戸の見解は至当である。
幸徳事件の大赦とは、
幸徳秋水以下二十四名が死刑の判決を受けたが、
明治天皇の特赦により、十二名が無期徒刑に減刑されたことである。
わが身に危害を加えんとした国民の罪すら、わが身の責として祖宗の神霊に拝謝する態度
---普通の人間に出来ぬこと---は、国民の無限の業を自ら負われることである。
このことは必然的に国民の感謝と敬仰の念を生み、その誠心まごころは天皇に集中連繋する。
ここに神が生ずるのである。
ただ普通のありきたりの人間、字が上手であったり、一つの学問に秀れたりしておるということは、
天皇の本質ではない。
それだけならば他に秀れた人物はいくらでもいる。
千年余に亘る長い伝統のうちに つちかわれたるものはそんなものではない。
一億の民のまごころの集まる身、世襲の皇位でなければならぬ。
そこには対立抗争を超越し、至公至平、寛恕かんじょにして綜合統一に向わしむるものがある。
今泉はこの義を守るためには生命をかけているという。
天皇側近にありて輔佐する人々、当然この義を守るために生命をかけるべきである。

天皇の機能は何か、
私は次のように考えていた。
第一は、
綜合統一の機能である。
分裂せるもの、対立抗争するものを克服して統一に向わしめる機能である。
明治維新の混乱動揺を、最も損害少なく短期間に収拾し得たのは、
天皇のもつこの社会的機能のおかげである。
第二は、
権力者がともすればおちいりやすい権力行使の行き過ぎを、調節抑止する機能である。
幸徳事件における明治天皇による大赦がその一例である。
第三は、
日本民族が長い年月をかけて体系化されるうちに、血の通った同胞感が生れ育つ。
一君万民の平等感を内心に味わうからである。
この平等感は前二項の基底に流れているが、変革期になると変革論の拠りどころにもなる。

昭和七年夏、磯部は主計転科のため上京、桜田門事件の動揺未だ収まらざる時である。
北、西田との接触が始まる。
政界裏面の事情に通ずる北は、また矢次一夫とは熟知の間柄である。
当然前記の今泉の話は北、西田より聞いたであろう。

佐々木二郎 著 
一革新将校の半生と磯部浅一
桜田門事件  から


櫻田門事件 『 陛下のロボを亂す惡漢 』

2021年11月16日 01時12分51秒 | 其の他

非常時日本の驚愕
昭和七年は風雲の年であった。
昭和六年の満洲事変が上海にのびて、海軍の陸戦隊が支那軍と衝突したのが一月二十九日、
満洲国の建国が三月一日、
血盟団の一人一殺で井上準之助と団琢磨がやられたのが二月と三月で、
五月十五日には天下を衝撃した五 ・ 一五事件があった。
共産党は共産党で、戦争の近づく気配に乗じて、戦争を日本の敗戦に導いて一気に革命を勝ち取るという訳で
党の充実を企て資金蒐集の悪あがきを始めた。
川崎第百銀行大森支店のギャング事件が十月六日、
熱海の伊藤屋別館の全国代表会議が急襲されて、ピストル防弾チョッキで渡り合った熱海検挙が十月三十日であった。

政権を執る政党の疑獄続出の満身創痍で、明にも断にも非常時の国家を率いる力は到底ない。
ここにおいて革新の火の手は、下剋上の噴煙に包まれて燃え上がらん形勢を見せた年 昭和七年、
そのへき頭に突発したのが 『 櫻田門事件 』 である。
新玉の年が明けて ( 昭和七年 ) 一月八日、
恒例の陸軍始観兵式は代々木の練兵場で挙行された。
これに臨まれた天皇の鹵簿ろぼが、還幸の御道筋を皇居近く桜田門に差向かった時、
全く不意に炸裂した爆弾であった。
そもそも非常時とは、挙国団結という事の替え言葉であった。
その挙国団結とは、一君万民、天皇絶対という事に外ならない。
それが風雲昭和七年の指導理念であったのである。
さういう時に恐れ気もなく 天皇の馬車に爆弾を投ずる者があるという事は、
正に狼狽以上、革新勢力に対し冷水三斗であったといえる。

鹵簿 ろぼ
河野は余に
磯部さん、私は小学校の時、
陛下の行幸に際し、父からこんな事を教へられました。
今日陛下の行幸をお迎へに御前達はゆくのだが、
若し陛下の ロボ を乱す悪漢がお前達のそばからとび出したら如何するか。
私も兄も、父の問に答へなかったら、
父が厳然として、
とびついて行って殺せ
と 云ひました
私は理屈は知りません、
しいて私の理屈を云へば、父が子供の時教へて呉れた、
賊にとびついて行って殺せと言ふ、
たった一つがあるのです。
・・・第磯部浅一  行動記  第八 


この日 行幸の鹵簿ろぼは第三公式で、天皇の馬車は先頭から三番目であった。
先頭馬車には式部次長松平慶民、二番目には宮内大臣一木喜徳郎が搭乗していた。

午後一時四十五分、
あたかも二番目の馬車が桜田門の停留所の安全地帯に差し向かった時、
轟然たる響きである。
その附近の軌道上で爆弾が炸裂して、宮内大臣の馬車は底部を損傷し、
馬は驚いて棒立ちになり、後続した儀仗の近衛騎兵の乗馬や、天皇旗棒持の近衛士官 館義治の乗馬も、
一様に足並を乱して跳ね上がり、爆片で馬脚を若干負傷したのもあった。
場所は警視庁の玄関先で、万に一つも警備に遺漏のあるべき場所ではないのに、
そもそも何者の不逞に為らされた爆弾ぞと警察官、憲兵の面上に殺気が走って、
皆帯剣の鯉口をくつろげて走り寄って来た。
だが、幸いにして爆弾は後続なく、宮内大臣も馭者ぎょしゃ松山三次郎も無事であり、
炸裂箇所から十八間の後方にあった御料車も、何の障りもなく 恙つつがなく宮城に入らせられた。
検事亀山慎一、予審判事秋山高彦は、時を移さず現場検証に出張して来たが、
炸裂の箇所は、虎の門方面行安全地帯の南端から三尺九寸の軌道内と報ぜられた。

警視庁玄関前の兇漢を逮捕
この混乱の時、炸裂の現場から西北約十間警視庁玄関前の歩道で、
軌道の方に向って何か投げようとしていた男があったのを、警備の警察官が認めて引捕られた。
年の頃は三十歳位、黒の詰襟服を着て不適の面魂をしている。
投げようとしていたものは手榴弾であった。
この手榴弾は、後に歩兵中佐宇治田昇造、歩兵少佐相馬登八郎が鑑定した所によると、
構造幼稚で おそらく支那製品、もしくはそれを真似て作った素人製品であろうとの事であったが、
相当の爆発力を持つものであった。
犯人はすぐに警視庁に引立てられた。
朝鮮京城府錦町百十八番地 李奉昌 三十二歳と名乗り、
朝鮮の独立の為に、祖国を奪った日本の天皇を弑逆しぎゃくすると悪びれずに申し立てる。
彼は先頭の馬車が御料車であると誤信したものだから、躊躇なくこれを狙ったが、
まさに投げんとして車中の人をよく見ると、ちがう。
日本の天皇とは明らかに別人である。
続く第二馬車を見ると、これは立派な黒塗りで、窓に金色の房で縁どった赤地の掛け物をかけ、
その中央には燦さんたる菊の紋章がある。
すぐ後から儀仗兵もついて来る。
これこそ天皇に違いないと思ったから、之に向かって投げた。
爆弾は軌道に落ちて炸裂したが、馬車の中にはさしたる事もなかった様子なので、
続いて第二弾を投げようとしていた所を捕らえられたものであった。

人物往来社 昭和31年3月
小泉輝三朗 ( 元検事 ) 著  桜田門大事件  から


虎ノ門事件 「 少なくともここしばらくはなりませぬ 」

2021年11月15日 14時26分26秒 | 其の他

大正十二年十二月二十七日、
摂政宮 ( 昭和天皇 ) 殿下が議会開院式ヘ行啓のため、
虎ノ門外御通過中を、難波大輔が仕込杖銃をもって襲った事件である。
宮内省は、兇変と殿下の安泰を発表したが、
犯人の名前を発表せず、新聞も事件の概要を伝えたのみで、
一切の記事は翌年の九月まで差し止めとなった。

難波大助は山口県選出の代議士難波作之進の四男である。
明示の末年に幸徳秋水事件があり、今、また生命をかけて皇室を狙う日本人がある。
しかも左派の波高き折柄である。 このショックは大きかった。
ことに同じ山口県出身の磯部、山田は深刻であったと思う。
・・・中略・・・
事件の事後処理を、池田進、本山幸彦編の 『 大正の教育 』 に拠れば概要次の通りである。
(1)  逮捕された大助は、同日午後十一時、大審院予審に付される。
(2)  同日午後五時、山本内閣総辞職を表明。
(3)  十二月二十八日、大助の父 難波作之進、衆議院議員を辞職、自宅に蟄居。
(4)  大正十三年一月六日より五日間、大助の出生地山口県周防村は全村謹慎。
(5)  一月七日、清浦内閣成立。
  警視総監湯浅倉平、刑務部長正力松太郎、愛宕警察署長弘田久寿治の三名 懲戒免官。
  内務省警保局長ほか警視庁幹部四名が罰俸、内務次官が譴責の処分 ( 文官高等懲戒委員会の発表 )
  警備直接担当者の処分は、警視庁懲戒委員会によって一月八日発表、
  愛宕署の巡査部長、巡査ら四名が懲戒免職、署幹部三名が罰俸に処せられた。
(6)  二月一九日、大助予審終結、起訴。
(7)  二月二十~二十一日、清浦内閣、思想善導のため各宗教、教化団体代表を招集。
(8)  四月四日、文部省、国民精神作興に関する諮問機関設立を発表、五月七日、文政審議会官制公布。
(9)  十月一日、大助の公判開始、十一月十三日、死刑判決、十五日死刑執行。
(10)  大正十五年六月四日、大森山口県知事と謹慎中の難波家当主正太郎と会見 (神本熊毛郡長同行 )
   爾後 大森知事の主導の形で、難波家の謹慎、村八分の解除の方向に動き、
   さらに難波家の廃家にまで進展する。
   大森知事の談話によれば、難波家絶家のことは、六月四日の会見の際、難波正太郎が申し出たという。

(5)  の処分発表三週間後の一月二十六日には、
皇太子の結婚を機として、「 懲戒懲罰免除勅令 」 が公布され、
湯浅、正力らに対する処分は取り消されている。
さらに湯浅は六月十一日 加藤高明内閣の内務大臣次官に就任する。
大助の出生地の周防村では、村長および小学校長が引責辞職している。
校長は大助の小学校時代の担任であり、
かつて難波家に寄寓して大助を訓陶監督 していただけに
非常に責任を感じたといわれている。
また 九月二十八日、同村では村寄合を開いて
「 今度の事件に対する態度その他を決定 」 判決時の十一月十三日を 「 反省日 」 とし、
周防村を含む熊毛郡全町村において 「 詔書奉読式 」 を挙行するなど、
厳しい責任追及が何ら関係なき人々にまで及んでいる。
この跳ね返りが難波一家に及んだことは想像に難くない。
右の如き事件処理を見ると、
国民全部に責任を負わしめ、支配層の人々には軽くという風に思われる。
大助の弁護人 今村力三郎 ( 幸徳秋水事件の弁護も担当 ) は、
湯浅の内務次官就任を
「 恩命に籍口して自家を回護するが如きは、初より自責の念なきものなり 」
と 批判している。
湯浅はニ ・ニ六事件直後に、内大臣に就任する。

小島襄著 『 天皇 』 第一巻に拠ると、

親王 ( 昭和天皇 )
忠良なる臣民の中に皇室打倒の思想をもっている者がいたことには強いショックをうけたとみえ、
珍田東宮大夫、入江侍従長の二人に、
「 自分は日本においては、陛下と臣下との関係は、
 義においては君臣であるけれども、
 情においては親子であると考えている。
 しかるに今日の出来事をみ、遺憾にたえない。
 自分のこの考えは、何卒徹底するようにしてもらいたい 」
と 述べている。
 
そして珍田大夫からこの報告を耳にした奈良武官長は、
「 少なくともここしばらくはなりませぬ 」
と 即座に、親王のお言葉発表に異議を申したてた。
「 奈良武官長は、
 親王のお言葉は、きわめて遺憾の意を表明されている以上、
 少なくとも国民の社会主義者、共産主義者に対する怒りを激化させる可能性がある
 と判断した。
 ・・・中略・・・
 おそらく内閣の瓦解はさけられないであろうし、さらに国内の興奮と動揺もつづくであろう。
 そのさいに、もし裕仁親王のお言葉が、主義者対策 にたいする 公許 とみなされ、
 はねあがり政策がとられるとするならば、
 政情と世情の不安をさらにかきたてることにもなりかねない 」

この奈良武官長の判断と輔佐の仕方はなかなか立派なものである。

この事件の反響や対処の仕方
特に同じ山口県出身の磯部、山田は、郷里における反応はよく知っていた。
また、公表されなかったが、
大助は最後まで自己の行動の正しきを主張して志を変えなかったことを、
うすうす洩れ聞いてわれわれは知っていた。
事件発生の原因は何か、
共産党は皇室打倒を目指しているのではないか、
貧窮に苦しむ国民が増える現状では、左翼は増加する一方ではないか、
われわれはこれに如何に対処すべきか、
外国の指導する勢力によらず、国を愛する日本人自身の手にて改革すべきではないか、
等々が三人の議論の種であった。

大助に対する死刑は已むを得ぬことで、
また ある程度の父親の謹慎も判るが、
家族に対する村八分や、
村長、小学校の先生までの追及は酷に失するのではないかなどの話が出た。
今村弁護人によれば、幸徳事件の折は、村八分はなかったという。
私が男の仕事として 「 戦争か革命か 」 と言ったのに対し
「 俺は革命にゆく 」 と、磯部が叫んだのはこのような状況下である。


佐々木二郎 著 
一革新将校の半生と磯部浅一
虎ノ門事件  から


國士・中岡艮一

2021年11月14日 05時27分22秒 | 其の他


大正十年 ( 1921年 ) 十一月四日
原敬首相刺殺さる
下手人は十九歳の少年 『 中岡艮一 』


中岡艮一が書いたと謂われる斬奸状

斬奸狀
内閣總理大臣原敬就任

以來政道を掌どるに私慾を
かさみ己の利す處に万民の愁
苦を顧みず列國の笑侮を
悟らずに其の罪数奇
若し唾手以て之を誅
せずんば何時の日か天日を
迎えん
憂國士
中岡良一

 
中岡艮一
なかおかこんいち


---中岡艮一が原首相を東京駅頭に刺殺した当時、
自習室の黒板に誰が書いたか
「 吉良首相 東京駅頭に暗殺さる 犯人中岡良一十九歳 」
と ありしを、
犯人の二字を刺客に改書して 多数の友と論争し
「 苟いやしくも一國の首相を刺殺せんとする動機は、
彼が社會主義者や反國家思想者でない限り 
國家を思ふこと深甚なる國士的勇者に外ならぬ。
其の刺殺を決心したる心事は げに悲壯の極みである。
況や 原首相は一國政治の重任に當りて 
無理想の白紙主義を表明したる日和見的才子であり
華盛頓會議に國威を失墜せし人であり、
政友會の首領として所謂党弊の責任者である
犯人とは苟も 國士を遇する道でない。」
と 叫んで、
狂人の如く思ひなされし半歳以前のことを思ひ浮べつゝ。
然して暗殺の二字よりして、
曾つて宮中重大事件の時、
一切を長崎氏から聽取したる同人が校内に集合して執るべき道を協議せし際、
福永が余に短刀を示して
「 夜陰校を抜けて小田原に潜行し大奸山県を刺さん 」
と 憤叫して止まざりしに、
慰撫苦心せし一年前のことを思ひ浮べつゝ。
・・・西田税 ・・・リンク→戦雲を麾く 5 「 青年亜細亜同盟 」 


倫敦海軍條約 竝ニ 教育總監更迭ニ於ケル 統帥權干犯、
至尊兵馬大權ノ僣窃ヲ圖リタル 三月事件 或ハ 学匪共匪大逆教團等
利害相結デ陰謀至ラザルナキ等ハ最モ著シキ事例ニシテ、
ソノ滔天ノ罪惡ハ流血憤怒眞ニ譬ヘ難キ所ナリ
中岡、佐郷屋、血盟團ノ先駆捨者、
五 ・一五事件ノ噴騰、相澤中佐ノ閃發トナル 寔ニ故ナキニ非ズ
而モ 幾度カ頸血ヲ濺ギ來ツテ 今尚些カモ懺悔反省ナク、
然モ 依然トシテ 私權自慾ニ居ツテ苟且偸安ヲ事トセリ
露支英米トノ間一触即發シテ
祖宗遺垂ノ此ノ神洲ヲ 一擲破滅ニ堕ラシムルハ 火ヲ睹ルヨリモ明カナリ
内外眞ニ重大危急、
今ニシテ國體破壊ノ不義不臣ヲ誅戮シテ
稜威ヲ遮リ 御維新ヲ阻止シ來レル奸賊ヲ 芟序除スルニ非ズンバ皇謨ヲ一空セン
・・・ニ ・二六事件 蹶起趣意書 


政党政治の時代
大正七年 ( 一九一八 ) 九月に成立した原敬はらたかし内閣は、
戦前の日本における最初の本格的な政党内閣として有名である。
しかし、明治十年代の自由民権運動、大正初年の第一次憲政擁護運動などを見聞
もしくは経験してきた同時代の自由主義者にとっては、
国内政治における原内閣は、保守主義と金権政治の典型であって、
彼らの長年の期待を裏切るものであった。
第一次大戦後の世界的な民主化の時代には、その保守性は特にきわだって見えた。
それにもかかわらず、
民主主義者 吉野作造や社会主義者 山川均が、原内閣の成立を一応は歓迎したのは、
その前の寺内正毅まさたけの超然内閣と比較しての話であった。
国内政治における原内閣の保守性は、
大正九年 ( 一九二〇 ) 二月の 「 普通選挙 」 で誰の眼にも明らかになった。
ヨーロッパ諸国では男子普通選挙制は第一次世界大戦前、遅くとも大戦中は実現しており、
大戦後の民主化の課題は、政治的民主化ではなく社会的民主化であった。
そのような時に、
日本で最初の本格的な政党内閣は
男子普通選を尚早として衆議院を解散し、
民意を問うたのである。
陸軍の宇垣一成ですら、
制限選挙下の三百万人の有権者に残り九百万人に選挙権を与えるかどうかを問うのは
「 軍人の一団に軍隊の用不用を聞くが如きもの 」
と 嘲笑していた。
しかし総選挙で全議席の約六十パーセント ( 二百七十八議席 ) を獲得すると、
政友会は、
「 此選挙の結果に依て、
 普通選挙を即時断行することは非なりと云ふ決定を見て居る。
 是は国民の宣言である 」 
と断言したのである。
これ以後政友会はこの 「 国民の宣言 」 を楯にとって、
大正十年にも 十一年にも 十二年にも、普通選挙に反対しつづけたのである。

国内の政治的民主化には極端に保守的であった政友会は、
しかし、対外政策に関しては帝国主義的色彩がかなり弱かった。
これは政友会の伝統的体質といってもいいものであった。
日露戦争前には日露協商を唱えて戦争の回避を望み、
戦争の末期には無賠償でも早期講和を主張した。
また一九一一年末の中国辛亥革命に際しても、
陸軍の満洲出兵要求を海軍の強力をえて抑えた。
原敬と高橋是清の政友会内閣の対外政策は、
この伝統的な政策を一層推し進めたものであった。
一九一九年 ( 大正八年 ) のパリ平和会議では満蒙権益だけではなく、
大戦中にドイツから奪った山東権益の大半を確保して中国の五 ・四運動の非難を浴びたが、
それでも将来における返還は原則的には認めていた。
また 一九二一年から二二年のワシントン会議では、
海軍軍縮、九カ国条約、四カ国条約の締結に応じただけではなく、
会議の場を利用して負い米両国代表の仲介の下に、山東権益を全面的に中国に返還した。
中国では一九二三年 ( 大正十二年 ) にも二十一カ条廃棄の反日運動が起こったが、
二十一カ条中この時代に残っていたのは主として満蒙権益だけであった。
対英米強調と中国内政不干渉という日本のワシントン体制への適応は、
原内閣の手によって切り開かれたのである
・・・


『 南大將の自殺 』

2016年12月17日 05時18分23秒 | 其の他


南次郎

南關東軍司令官は本年五月
軍直属部隊及各兵團高級幕僚を召集して訓示をした。
その一節に曰く
特に謂ふべきの必要を認むるは
最近に於ける青年將校の所謂右翼系運動に關与するものあるの件なり、
由來我が隷下團隊の將校は
第一線に立ちて國防及治安の重責に任ずる緊張の心境に在るの關係ならんか
此種の傾向を有するもの極めて稀なりしも
最近に至りては點々越軌不穏當の言動をなすものあるやの報に接するは
本職の大に遺憾とする處なり、
進歩革新の嚮上心に燃え感傷的の観察に陥り易き青年將校が
同志相求め同憂気脈を通じ遂に軍律に背くの策動をも敢て爲すに至るは
世相の險惡なるに從ひ起り易き事象なるべしと雖も
其の熱意純情愛すべしとして之を寛恕ゆるすするは本職の採らざる所
就中部外者と窃ひそかに聯絡を保ちて不當の言動を爲すものゝ如きは
断じて之を容認すること能はず、
抑々將校は貴重の天職を有す 而して平素の職責を顧み自己の大成を期せんと欲せば
本務の精励と自鑚研究に忙がはしくして寸時と雖も他を顧みる頭脳の餘裕なき理なり、
若夫れ本務を放擲ほうてきし 又は將校たるの職量を増強するの途に進むことなく
徒らに國家改造社會改造の運動に關与するものあらば
本職は其の心情掬きくすべき一面ありとするも
帝國將校として之を容るゝを欲せず 況や部外に於ける爲めにするを目的とする
所謂策士の利用下に在るを認識せずして狂奔するの徒や
と。

之を南大將の自殺と言ふ
以下少しく説明を加へる。

大將の言を借りるならば
『 抑々將校は貴重の天職を有す 而して平素の職責を顧み
 又自己の大成を期せんと欲せば本務の精励と自鑚研究に忙がはしくして
寸時と雖も他を顧みる頭脳の餘裕なき理 』
であるに拘らず不純なる政治的策謀と賤劣なる利權漁あさりに没頭し
「 部外者と窃に聯絡を保ちて不當の言動を爲し 」
「 部外に於ける爲にするを目的とする所謂策士の利用下に在りて狂奔する 」
現役陸軍將校中第一の札付は實に南次郎その人ではないか。
斯道に於ける大將の令名?は世上
「 宇垣  南 」
と竝稱喧傳されて居る程著名であることは此処に言ふ迄もない。
二三の例をあげて見やう。
一、小泉策太郎と言ふ既成政界の策士の元締を以て任ずる男が居る。
 その鎌倉の別荘は南大將私宅の近所にある。
從來政界軍部を中心として宇垣内閣が陰謀され策動されたのは何時も此の別荘が一方の根拠地であり
小泉 南 等のなす所であることは已に一般消息通は承知濟みであるが
或人 小泉は南は來るかと尋ねた。
小泉曰く 「 家も近いし よく來るよ 政治陰謀の好きな男でね 」 と。
大將は昨年宇垣擁立運動が何度目かの芽をふき出さうとした頃、
此処の陰謀組の一人として或日の席上
「 陸軍の反對は大したことはない、荒木を始め二十人位の將官級を馘つて終へば問題ぢやない 」
と暴言を吐き
「 民間反對派を押へるのに幾何の金と如何なる方法とが必要だろう 」
「 反對派の中心は誰だ 」
などと抑せられたことはよもや御忘れではあるまい。
一、大將は其後關東軍司令官に就任した。
宇垣に代つて總理になりたい野望の生長し始めていた大將が最初大いに躊躇したことは識者の知る處である。
結局後日を期し在満中に組閣の準備工作をするの有利なることに氣づいて就任したが、
其際自ら選んで長岡隆一郎氏を抜擢し吉田寛氏を秘書官に採つた。
長岡氏は人も知る一木樞府議長格別の腹心である。
吉田氏は牧野内府の愛婿吉田茂
( ロンドン條約問題當時の外務次官で牧野幣原の下で賣國的暗躍に狂奔した男である )
の甥である。
此の人達は來るべき南内閣の重要な伏線であると言はれて居る。
一、着任早々
 「 自分の所信實行に背く内閣は何度でも倒してやる 」
 と不穏當極まる聲明をした。
そして腹心で政治的策動のウルサ型である例の小野寺主計總監を満鐵総裁たらしめんとして蹉跌さてつした。
大將は目下満洲日報などを配下の座間勝平 御手洗辰雄 高野清八郎 等に占領させようと暗躍中である。
高野は昨年軍部攪亂出版法違反で憲兵隊に引致され裁判所に廻つて罪をうけた人物であるが
大將の渡満當時 「 自分は南全權の嘱託となる月給は二百圓だ 」 と宣傳して居た。
一、大將は次のことを思ひ出す必要がある。
 昭和七年の秋頃例の医者を看板にして政治や利權をサジに盛る有名なブローカーであると同時に
妻君がフランス人である關係から國際的にもブローカーな先生で
久原房之助 秋田清 など政界の札付とも惡緣の深い医学博士山内保を正座に据えて
ブローカー子爵で有名な瀧脇宏光 小野寺總監 永田鐵山少將 ( 當時參某本部第二部長で今や反動權勢双びなき現軍務局長 )
其他で之を取り巻き柳橋の待合 「 やなぎ 」 或は 柳光亭 等の密室に度々謀議して居ただろう。
南、小野寺、永田、客れも政治資金が入用である。
國際投資による新興満洲國經濟開發借款奔走に名を借り
運動費手數料の數百万圓を稼ぐべく山内フランス夫人を使つて不純な利權漁りに浮身をやつして居たのである。
そして村井長庵もどきの山内先生の惡亊から火がついて一切が暴露し
當局の取調となり新聞に書き立てられた。
小野寺總監の陳述によれば遊興費會合毎に 三、四百圓迄は山内先生に支払はせて居ると言ふチャッカリさである。
試みに其の或る日の柳光亭謀議遊興の席順を図示しやう。

大将は新聞が事件を暴露するや東京憲兵隊に
「 何故新聞に書かせたか 」
と筋違ひのことを真赤になつて怒鳴り込んで宿直の下士に蹴られたと言ふ醜態まで演じたのである。

先輩の行ふ所 後輩之を倣ふ。
南が宇垣に取って代る時代には後輩永田も柳橋で毒食つただけに
今や出監の譽あらんとするするものもあり。
最近の御時世柄でもあらうが新官僚と結び就中 唐澤警保局長と提携し
政界の陰謀策士 伊澤多喜男に款を通じ---此の三名は同郷人である---南が渡満するや
其姪婿の片倉少佐を部下の満蒙班に入れ 伊澤の愛婿で調査班員たる山県大尉を近づけて居る。
そして財閥と接近した左翼崩れのダラ幹などを手なづけて國家革新派に對する反動彈壓に狂奔して居る。
宇垣内閣又は南内閣の陸相を以て自任して居る松井大將の如きも
毎日の様に大アジア協會に入浸つて 中谷武世 ( 高野清八郎と共に軍部攪亂の出版法違反で罰を受けだ人物 )
などを手先にして部外と如何はしい政治的策謀に没頭し
識者の顰蹙ひんしゅくを買つて居るのは著名なる事實である。
何と言つても南大將の惡影響は大であり責任は重い。
( 尤も 乃公は宇垣先輩を真似て居るに過ぎない一番惡いのは宇垣だと言はれるならばそれ迄ではあるが )
今や國家内外の憂慮すべき現狀は何人も異議のない所である。
大將の言ふ
「 進歩革新の嚮上心に燃えて青年將校が同志相求め同憂氣脈を通ずる 」
は人一倍忠君愛國の情操信念を有する青年將校としてやむにやまれずして
おもむくべき自然の道で 寧ろ慶賀すべきことである。
其の中には 「 感傷的 」 になるものもあるであろう。
畏敬すべき先輩たる南 其他の人々にして斯くの如き不純賤劣の越軌不穏当の言動ありとすれば
裏切られたる悲嘆感傷の起ることも止むを得ない。
「 世相の險惡なるに從ひ起り易き事象なるべし 」
と言ふが大將等の是くの如き背信堕落の言動こそが青年將校にとつては
「 危險なる世相 」 の重要なる一部をなして居る事を反省される必要がある。
從つて是等の將軍達が大聲叱呼する軍律や統制に對して心から信頼出來ぬ憤りを持つが故に
純情血性の青年將校が是等反動不純の軍閥者流を蹴破つて
一擧に大元帥陛下の 御聖旨に直參しやうとすることは
人情の自然であり國家革新上必然の道であろう。
大將は言ふ
「 由來我が隷下團隊の將校は第一線に立ちて國防及治安の重責に任ずる緊張の心境に在るの
 関係ならんか此種の傾向を有するもの極めて稀なりしも
再評に至りては點々越軌不穏當の言動をなすものあるやの報に接するは本職の大に遺憾するを所なり 」
と。
第一線に立ち日夜生命を賭して國防及治安の重責に任じて居るからこそ、
國家の内外の現狀に對して押へ得べからざる憂憤が湧くのである。
緊張せるが故に尚更激化するのである。
部下將兵の眞情に理解なきこと大將の如きは正に將器ではない。
然して満洲事變を指導して今日あらしめたるは固より天祐と稜威とであるが、
一般國民、軍部特に關東軍の將兵が克く内外の狀態を認識し
粉骨砕心したるに因ること甚大なる當時陸相たりし大將が最もよく知つて居る筈ではないか。
之を呼應して起つた十月事件は同時に大將の大臣時代であつたではないか。
非常時の宣傳が陸軍が中心となつて開始されたのも大將の大臣時代ではなかつたか。
國家革新の氣運が公々然と動き出して所謂青年將校が出現したのも實に此時からである。
今日益々擴大進展しつつある 「 此種の傾向 」 は前述の如く
南大將等の不穏当な言動が大いに拍車をかけて居ると共に
「 大に遺憾とする處 」 であるならば其責任の過半は當初當時の陸相たりし
南その人が負ふべきではないか。
宇垣時代の三月事件、南時代の十月事件が公正妥當に處置されなかつたことの餘殃よおう
如何に其後の軍統制と革新運動のある部分とに惡影響して居るかは、
夫子自身最もよく御承知でなければならぬ。
四年前前陸相時代に蒔き且つ放任した種が大いに生長し 繁茂して居るのを
新京に赴任して此度見たに過ぎない。
斷じて言ふ。
この革新氣運は如何なる障碍彈壓に遭遇しても益々擴大進展して
必ず目的を貫徹せずんば止まざるものである。
唯々その南大將を信頼せざるは南自身がよくないと言ふ反證である。
本職は本職從來の言動を大に遺憾とすべき 」 である。
要之、大將の
帝國將校として之を容るるを欲せず
斷じて之を容認すること能はず
と言ふのは、以上によつて大將自ら斷乎たる處置を我れと我が地位、
我が首に對して執られる自殺の宣言であると確信する次第である
古語に曰く 「 魂より始めよ 」 と。
昭和十年六月

美濃紙判半紙プリント四枚袋トジ。謄冩版刷。封筒差出人は 「 大阪市北区堂ビル裏近畿軍友會 」 とある。
現代史資料5
国家主義運動2 より


「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」

2016年12月09日 09時21分04秒 | 其の他

「 右翼思想犯罪事件の綜合的研究 」  ----血盟団事件より二・二六事件まで

これは
「 思想研究資料特輯とくしゅう第五十三号 」 ( 昭和十四年二月、司法省刑事局 )の全文である。
昭和十三年度思想特別研究員としての、東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告であり、
本書の表紙は極秘として取扱注意 No.361 の番号が押印されている。
A
5判九ポイント組三七七ベージにわたる。
本報告の立場は、著者のはしがきの一部の、
「 俗に右翼事件と呼ばれる此等諸事件は、現下の歴史的転換期に直面する日本の推進力をなす日本精神の発露であった 」
という文章が明瞭に示している。
したがって、右翼思想犯罪を叙述する筆者に一貫して流れる執筆態度は、
国家権力の代弁者としての思想係検事の立場と国家主義運動のイデオローグとが、
ほぼ完全に一致していることを、ここに示している。
この意味において、この研究報告自体が、またひとつの副次的資料の性格を有している。
・・・・
現代史資料4  国家主義運動1 から

 

 

 

 


秩父宮関連下書

2016年11月15日 16時03分12秒 | 其の他

原田日記
十三年三月二十七日
これは 年をとったので言うのかもしれないし、どうせ、自分の死んだ後のことだろうが、
こんなような今日の空気が永く続けば、一体どうなるか分らない。
日本の歴史にも、随分いまわしい事実がある。
たとえば、神武天皇の後をうけられた綏靖天皇は、実はその兄弟を殺されて自分が帝位につかれた。
それはほんの一つの例で、そえいう事実は日本の歴史にも支那の歴史にもまだ たくさんある。
勿論、今後ともそういうことが、御自身からの御発意であるようなことは、断じてないだろうけれど、
しかし 周囲がそういう所に持ってゆくようなことになると、これはまことに判らない。
まさか 今日の皇族にそういう方々が、どうこうというようなことは無論あろう筈はないが、
しかし こういうことは、よほど今日から注意しておかねばならん、
ということを沈痛な面持で言って居られた。
十三年四月二十七日
まあ 自分なんかがいなくなってから後のことだろうけれど、
木戸や近衛 ( 時の首相 ) にも注意しておいてもらいたいが、よほど皇室のことは大事である。
まさか、陛下の御兄弟にかれこれということはあるまいけれど、
しかし 取巻の如何によっては、日本の歴史にときどき繰返されるように、
弟が兄を殺して帝位につくというような場面が相当に数多く見えている。
かくの如き不吉なことは無論ないと思うけれども、また、今の秩父宮とか高松宮とかいう方々に、
かれこれいうことはないけれども、或は皇族の中に変な者に担がれて、
何をしでかすか判らないような分子が出てくる情勢にも、
平素から相当に注意して見ていてもらわないと、事すこぶる重大だから、
皇室のために、また 日本のために、この点くれぐれも考えておいてもらわなければならん、
と いうようなことを真剣に心配した。
十一年七月一日
それから、これは他のことだけれど、
皇太后様を非常に偉い方のように思って、あんまり信じ過ぎて・・・・というか、
賢い方と思い過ぎておるというか、
賢い方だろうが、とにかくやはり婦人のことであるから、
よほどその点は考えて接しないと、陛下との間で或は憂慮するようなことが起こりはせんか。
自分は心配している。

秩父宮と天皇
満洲国側と、日本の軍部首脳との間には、秩父宮の日程を協議しておったが、
宮は、一切の決定を無視して独自に動かれた。
かつて、海軍の特別大演習の時に、
天皇の詔勅の席におつきになるように、私が秩父宮に申しあげた時、
「 今 茶をのみ始めたとこである 」
と 云われて、中々御動きにならず、閑院宮外、十余の宮様を困らせたのみならず、
天皇も困惑なさったことであった。
「 何事も閣僚まかせの昭和天皇と、一切独自に動き、他の言を容れない秩父さんとのお二人が、
兄弟であるということは、天道様のいたずらとしても、あまりひどすぎる 」
秩父さんは、お目にかかる度毎に、兄貴の悪口を云っておられた。
天皇とか陛下というお言葉は一度もきいていない。
二・二六事件は、かつての秩父宮の部下が、天皇の廃止を考えたのだと云う人があるが、
真に近くはないであろうか。
「 秩父宮が天皇であったなら、大東亜戦争で国を失うような事は無かったであろうと思われる。
万一、事情止むなく、戦争になったとしたら、敗れた時に 「 自決 」 されたであろう 」
・・・海軍少将藤森良高


陸軍パンフレット 「 我等は徹底的に陸軍當局の信念方針を支持す 」

2016年11月15日 05時15分17秒 | 其の他

陸軍パンフレット問題
(一) 概要
一、昭和九年一月二十三日
 陸軍大臣荒木貞夫に代って教育總監たりし林銑十郎大將が陸相に任ぜられ
眞崎甚三郎大將が教育總監に任ぜられた。
間もなく同年三月五日
軍政樞要の職であり大臣の輔佐役である陸軍省軍務局長に永田鐵山少將が任ぜられた。
斯くして陸軍は荒木陸相時代の急進的態度より漸進穏健的態度に變化し
林陸相により部内の統制が鞏化されつつあると観察された。

昭和九年十月一日
所謂 陸軍パンフレット 「 國防の本義と其強化の提唱 」 が陸軍省新聞班より公表され、
軍部の政治に對する積極的意見の開陳として各方面に衝撃を与へた。
其の要點は次の如くである。
「 
國防の本義と其強化の提唱 」の概要
一、國防観念の再檢討
 たゝかひは創造の父、文化の母である。
試練の個人に於ける、競爭の國家に於ける、齊とく夫々の生命の生成發展、
文化創造の動機であり刺戟である。
 國防なる観念は往昔の軍備なる思想より 今日の新國防観念に至る間に三種の段階を經ている。
即ち
(一)  世界大戰以前に於ては武力戰を對象とする狭義の軍備
(二)  世界大戰後 盛んとなつた武力戰を基調とする國家總動員なる思想
(三)  輓近ばんきん世界的經濟不況 竝に 國際關係の亂脈は
 遂に政治、經濟的に國家的ブロック的對立關係を生じ
平時に於て深刻なる經濟戰思想戰等が展開せらるゝに至り、
平時状態に於て對外的に國家の全活力を綜合統制して對抗するに非ずんば、
武力戰は愚か 國際競争其物の落伍者たるの外なき事態となりつゝある。
從って從來の武力本位の観念より脱却し新なる思想に發足せねばならなくなつた。
二、國防力構成の要素
(一)  人的要素
 最重要である。然らば如何にして培養するか。
1  建國の理想--皇國の使命に対する確乎たる信念を保持すること
2  盡忠報國の精神に徹底し--國家の生成發展の爲め、自己滅却の精神を涵養すること。
 國家を無視する國際主義、個人主義、自由主義思想を芟除し、眞に擧國一致の精神に統一すること
3  健全なる身體--國民保健政策
4  國民生活の安定--執中勤勞民の生活保障、農村漁村の疲弊の救濟
 人口及民族問題
  人口問題    全國にて九千二百萬の同胞を有し  有利
  民族問題    戰時に敵國内の民族を相反目せしめ、獨立運動を支援し 母國の崩壊を企圖するは
                   近代戰爭に於ける思想戰の重大なることに想到れば輕視得ず
(二)  自然要素
 領土--航空の發達により海上よりは航空母艦、
陸上よりは浦塩、上海、フィリピン、カムチャッカ、アリューシャン
の各方面に對し國土上空を暴露するに至つた。
 資源--
(三)  混合要素
1  經濟--最新の観念に於ける國防は平時の生存競爭たる戰爭をも含むものであり、
 其の主體は殆んど經濟戰なりと見ることが出來る。
 從って經濟が國防の極めて重要なる部門を占むることは明か。
 對外的には現下のブロック對立時代に應ずる對策
 對内的には武力戰其他の國防を維持培養する任務を有し頗る重要なる役割を演ず
 其の第一眼目は国民生活を維持高上せしめつゝ
 眞に必要なる國防力を充實せんが爲めには厖大ぼうだいなる經費を要するので、
 此の負担に耐へ得る如き經濟機構の整備
2  技術--無統制の現況より一歩を進めて合理的能率的な科學的研究の統制
3  武力--國防の基幹
4  通信、情報、宣傳--思想宣傳戰は刃に血塗らずして相手を壓倒し、
    國家を崩壊し、敵軍を撲滅せしむる戰爭方式
三、現下の國際情勢と我が國防
 世界的不安と日本、一九三五--六年の危機、海軍會議と米國、支那の態度、
聯盟脱退と委任統治、蘇聯邦と極東政策
之を要するに現下の非常時局は鞏調的外交工作のみによつて解消せしめ得る如き派生的事態ではなく、
大戰後世界各國の絶大なる努力に拘らず、運命的に出現した世界的非常時であり、
又満州事變と聯盟脱退を契機として、皇國に向つて与へられた光榮ある試練の非常時である。
吾人は揄安姑息の回避解消策により一時を糊塗するが如き態度は須らく之を嚴戒し、
与へられた運命を甘受して此機會に於て國家百年の大計を樹立するの決意とがなくてはならぬ。
四、國防國策強化の提唱
 將來の國際的抗爭は智能と智能との競爭であり、組織と組織との爭闘である。
國防國策とは國家の有する國防要素をば國防目的の爲めに組織運營する政策である。
國防と國内問題
 1  國民生活の安定
 2  農村漁村の更生
 3  創意發明の組織
國防と思想
 1  國民教化の振興--極端なる國際主義利己主義個人主義思想の芟除
 2  思想體系の整備
國防と武力--消極的軍備積極的軍備、蘇聯軍と我が軍備、航空力擴張の急務、
國防と經濟
 1  經濟の整備--現機構は個人主義を基調とし、其の半面に於て動もすれば經濟活動が、
 個人の利益と恣意とに放任せられんとする傾向があり、
從って國家國民全般の利益と一致しないことがある。
自由競爭激化の結果、階級對立観念を醸成するの虞がある。
富の偏在、國民大衆の貧困、失業、中小産業者農民等の凋落等を來し
國民生活の安定を庶幾し得ない憾がある。
現機構は國家的統制力小なる爲め資源開發、産業振興、貿易促進等に禅能力を動員して
一元的運用を爲すに便ならず
又 國家豫算に甚しき制限を受け國防上絶對に必要とする施設すら之を實現し得ざる狀態に在る。
現經濟機構の是正の方策。國防上の見地よりして次の事項が擧げられて居る。
・ 建國の理想に基き、道義的經濟観念に立脚し 國家の發展と國民全部の慶福とを増進するものなること
・ 國民全部の活動を促進し勤勞に應ずる所得を得しめ國民大衆の生活安定を齎もたらすものなること
・ 資源開發、産業振興、貿易の促進、國防施設の充備に遺憾なからしむる如く金融の諸制度
 竝に産業の運營を改善すること
・ 國家の要求に反せざる限り、古人の創意と企業慾とを満足せしめ益々勤勞心を振興せしむること
 2  戰時經濟の確立--經濟戰は既に平時状態に於ても開始せられつゝあるが、
 戰時狀態に於て武力戰と併起する場合その激甚性は最高度に達する。
其の場合の經濟統制を如何に實施するかは國防上重要な問題である。
其の準備すべき要點としては、戰時不足資源関係企業の奨励、不足資源の貯蔵、
代用品の研究、戰時海外資源の取得計畫、平時之を利用する國防産業の實行促進、
過剰生産品の輸出對策、戰時財政金融對策、貿易對策、勞働對策等相當廣範囲に亙り、
豫め研究準備を遂げ、開戰の暁に於て些の遅滞なく統制ある戰時經濟の運用に移らなければならない。
(二)  各方面の意嚮
當時の新聞紙上に表れた各方面のこれに對する意嚮は次の如くである。
民政党幹部會--
 一體陸軍が社會政策或は經濟政策に關する指導的意見を國民に發表したことは誠に遺憾千萬で
唯々啞然たらざるを得ない。
秩序ある國家にはかゝることは有り得べからざることである。
政友會総務會--
一、陸軍のパンフレットが近代國防を論じ其の本義を明にしたのはよい。
 然れども現在の經濟機構の變革を期して
總て國防統制の一元に歸せんとするが如きに至っては遽すみやかに同意し難い。
一、 陸軍が斯の如き重大意見を發表せんとするならば當然閣議に諮つて後になすべきで
 單獨にこれを發表したことは輕率である。 岡田首相は之に對して責任を感ぜざるか。
一、豫算編成期であり且 臨時議會準備中の今日に於て陸軍が突如この如きパンフレットを發表せることは
 其の眞意が那辺にあるか、何れにしても世人をして陸軍が所管以外の問題に關与し
他の機關を壓迫するが如き感を起さしめたことは遺憾である。
日本文化同盟--
東都大學少壯教授より成る日本文化同盟では十一日神田万崎ビルで陸軍のパンフレット問題に付
批判會を開いた結果
 道家一郎 (専)    松下正寿 (立)
 村上堅固 (帝)    八木沢善治 (中)
 藤江利雄 (明)    藤井新一 (法)
の 諸教授外六十名ばかり出席、パンフレットの内容を檢討の結果、
各項を全面的に支持することを申し合わせた。  

右翼思想犯罪事件の綜合研究 ( 司法省刑事局 )

現代史資料4  国家主義運動1 から


昭和九年10月6 日 の新聞班

『 國防の本義と其強化の提唱 』

陸軍省新聞班の名で発表されたが、
執筆者は池田純久少佐それに清水盛明少佐が筆を入れたもの。 ・・田中清談
新聞班長は根本博中佐。
 池田純久   根本博
アドバルン的意圖で世間に公表したもの。
陸軍がこのパンフレットの放った効果の
國民や學者、政党人、財界人、評論家に
及ぼした反應を知ることが發行の一つの目的であった。

「 陸軍省新聞班の發表した 『 國防の本義と其強化の提唱 』 は、
あらゆる方面に強い刺戟を与へたように見える。

 これだけの刺戟を与へることが出來れば軍部としては提唱した趣意の一部を達したとしているであらうが、
軍部としてはさらに之れに対する率直な批判、討議の益々おこらんことを待望しているといふ事である。」
・・鈴木茂三郎論文 「 軍部パンフレットを批判す 」

「 ・・・然るに軍部が小冊子を出したことは、何故あれだけのセンセーションを惹起したか。
 そは軍部が言ひ出したら何をやるだらうと世間が之に注目したからである。
固より其の注目は、恐怖と期待との兩面からかけられて居る。
支配階級の或る方面では、又始まつたと當惑顔である。
地方農村では平民がやつたら忽ち彈壓と檢束とに見舞はるべき程度の言論が
皇軍の中樞に於て發表せらるゝを見て、小躍りして喜ばざるを得なかった。
唯一つのパンフレットが、農村各地方に及ぼした影響の大なることは、
實に豫想外だと報じられている。 」

‥中野正剛

「 第一にパンフレット案は農村の救濟に主點を置くやうであるが、
 これは從來の政友會、民政党とは正反對な立場に立つものだ。
政党はその構成から、また選擧費捻出の上からも、必然的に大地主的乃至は中地主的立場に立つ。
故に現在の機構には絶對に触れずに、豫算の分取りによる拠出を以て、農村を救濟しようとしている。
從つて仮りに政党の主張する政策が總べて貫徹しても、
その利益をうるものは 重に金融家であり、大農であり、上層階級である。
況んや從來の經過では、それすらも不可能であつて、
農村その他における政党不信の聲はこゝに原因するところが多い。
しかるにパンフレット案は問題を根本から見ようとしている。
經濟機構そのものにまで触れて、農民貧困の原因にさかのぼつている。
總べての右翼人の案がさうであるやうに、それは恐ろしく左翼主義的公論であつて
どれだけ實効的であるかは問題であるが、
しかし今までの政党の農村救濟案では救はれなかつた農村の多數と、
今一つは 軍部の發案でさへあれば、それに絶對的価値ありとする少なからざる數の群衆に、
強い刺戟と同感を呼び起すであらうことは疑へない。」

・・清沢洌
現代史資料5  国家主義運動2 から

 村中孝次
國防の本義と其強化の提唱に就て
陸軍が其總意を以て公式に 經濟機構變革を宣明したるは建國未曾有のこと
昭和維新の氣運は劃期的進展を見たりと謂うべし。
( 水戸藩主が天下の副將軍を以て尊皇を唱えたるよりも島津侯が公武合體を捨て
尊皇統幕を宣言したるよりも大なる維新氣勢の確信なり )
陸軍は終に維新のルビコンを渡れるシーザーなり。
内容に抽象的不完全の點なきに非ずと雖も具體的充實化は今後の努力にあり。
我等は徹底的に陸軍當局の信念方針を支持し擴大し強化するを要す
之が方策の一、二例左の如し。
イ、
該冊子を有効に頒布し十分活用すること、將校下士官兵有志、在郷下士官兵有志、
郷軍有志、民間有志竝農民關係其他所在の改造勢力方面
ロ、
國防國策研究 (本冊子をテキストとして) の集會を盛に行うこと
ハ、
各種の方法を以て當局に對し本冊子に對する絶賛の意を表すると共に
活行突破要請を具申建白すること
ニ、
農民其他一般に民間方面の當局に對する陳情具申等を陸軍に集中せしむること

一般情勢判斷に就て
イ、
陸海軍軍事豫算竝國民救濟豫算 ( 臨時議會提出及十年度分 ) を手呈的に支援し
要求貫徹を計ること
ロ、
在満機關紙海軍軍縮廢棄通告の實現を促進すること
ハ、
所在同憂同志諸士を正算結集し非常時におうずる準備を着々整うること
ニ、
可能なる限り在京同志と密度なる聯絡をとること
ホ、
冷鐵の判斷行動と焦魂の熱意努力とを以て日夜兼行り奔走を敢行すること

「 一息の間斷なく一刻の急忙なきは即ち是れ天地の気象 」
とは吾曹同志の採って以て日常の軌道とすべきなり。
降魔斬鬼救世濟人の菩薩が湧出すべき大地震裂の時は恐らく遠からずと想望され候
日夜不撓爲すべきを爲し、盡くすべきを盡くし以て維新奉公の赤心に活くべく
お互いに精遊驀往可仕候
十月五日  村中孝次


國防の本義と其強化の提唱

2016年11月14日 20時59分35秒 | 其の他

我等は徹底的に陸軍當局の信念方針を支持し擴大し強化するを要す
之が方策の一、二例左の如し。
イ、該冊子を有効に頒布し十分活用すること、將校下士官兵有志、在郷下士官兵有志、
 郷軍有志、民間有志竝農民關係其他所在の改造勢力方面
ロ、國防國策研究 (本冊子をテキストとして) の集会を盛に行うこと
ハ、各種の方法を以て當局に對し本冊子に對する絶賛の意を表すると共に
 活行突破要請を具申建白すること
ニ、農民其他一般に民間方面の當局に對する陳情具申等を陸軍に集中せしむること

・・・「 我等は徹底的に陸軍当局の信念方針を支持す 」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



國防の本義と其強化の提唱
陸軍省新聞班

本篇は 「 躍進の日本と列強の重圧 」 の姉妹篇として、
國防の本義を明かにし其強化を提唱し、
以て非常局に對する覺悟を促さんが爲配布するものである。

目次
クリック して頁を
読む 

一、
國防観念の再檢討 
二、國防力構成の要素 
 其一  人的要素
 其二  自然要素
 其三  混合要素
三、
現下の國際情勢と我が國防 
四、國防國策強化の提唱 
 其一  國防の組織
 其二  國防と國内問題
 其三  國防と思想
 其四  國防と武力
 其五  國防と經濟
五、國民の覺悟
  ( 附表省略 )

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日青年將校の多くが改造運動に對して熱意をもつて來たのは、
陸軍省發行の改造パンフレットや切迫せる對外關係等からであります。
・・・磯部浅一  獄中手記 (三) 


國防の本義と其強化の提唱 1 『 國防観念の再檢討 』

2016年11月14日 05時55分27秒 | 其の他

 
國防の本義と其強化の提唱
陸軍省新聞班

本篇は 「 躍進の日本と列強の重圧 」 の姉妹篇として、
國防の本義を明かにし其強化を提唱し、
以て非常局に對する覺悟を促さんが爲配布するものである。

目次
一、國防観念の再檢討
二、國防力構成の要素
 其一  人的要素
 其二  自然要素
 其三  混合要素
三、現下の國際情勢と我が國防
四、國防國策強化の提唱
 其一  國防の組織
 其二  國防と國内問題
 其三  國防と思想
 其四  國防と武力
 其五  國防と經濟
五、國民の覺悟
  ( 附表省略 )

一、國防観念の再檢討
 たたかひの意義
たたかひは創造の父、文化の母である。
試練の個人に於ける、競爭の國家に於ける、齊しく夫々の生命の生成發展、
文化創造の動機であり刺戟である。
玆に謂ふ たたかひは人々相剋し、國々相食む、容赦なき兇兵乃至暴殄の謂ではない。
此の意味のたたかひは覇道、野望に伴ふ必然の歸結であり、
萬有に生命を認め、其の限りなき生成化育に參じ、
其の發展嚮上に与ることを天与の使命と確信する我が民族、我が國家の斷じて取らぬ所である。
此の正義の追求、創造の努力を妨げんとする野望、覇道の障碍を駕御、馴致して
遂に柔和忍辱の和魂に化成し、蕩々坦々の皇道に合體せしむることが、
皇國に与へられた使命であり皇軍の負担すべき重責である。
たたかひをして此の域にまで導かしむるもの、これ即ち我が國防の使命である。
××××
 國防の意義
「 國防 」 は國家生成發展の基本的活力の作用である。
從つて國家の全活力を最大限度に發揚せしむる如く、
國家及社會を組織し、運營する事が、國防國策の目でなければならぬ。
××××
 国防観念の變遷
右は近代國防の観點より観たる國防の意義である。
抑々國防なる観念は、往昔の國防観念即ち軍備なる思想より、
今日の新國防観念に至る間に三種の段階を經て居る。
即ち
 軍事的國防観
一、世界大戰以前に於ては、國防専ら軍備を主體とし、武力戰を對象とする極めて狭義のものであつた。
 從つて戰爭は軍隊の専任する所であり、國民は之に對し所謂銃後の後援を与ふるといふ意味に於て、
國防に參与するに過ぎなかつたのである。
 國家總動員的國防観
、然るに學芸技術の異常なる發達と、國際關係の複雑化とは、必然的に戰爭の規模を擴大せしめ、
 武力戰は單獨に行はるゝことなく、外交、經濟、思想戰等の部門と同時に
又は前後して併行的に展開されることゝなつた。
從つて右の要素を戰爭目的の爲め統制し、平時より戰爭指導體系を準備することが、
戰勝の爲め不可欠の問題たるに至つた。
大戰後盛に唱導せられた所謂武力戰を基調とする國家總動員なる思想がこれに属する。
これによつて國民と軍隊とは、一體となつて武力戰に參与することゝなつたのである。
最近漸く皇國識者間に認められつゝある國防観は此種類に属する。
 近代的國防観
三、然るに右の國防観念は更に再檢討を必要とするに至つた。
輓近ばんきん、世界大戰の結果として生じた世界的經濟不況
竝に 國際關係の亂脈は遂に政治、經濟的に國家間のブロック的對立關係を生じ、
今や國際生存競爭は白熱狀態を現出しつゝある。
深刻なる經濟戰、思想戰等は、平時情態に於て、既に随所に展開せられ、
對外的には國家の全活力を綜合統制するにあらずんば、
武力戰は愚か遂に國際競爭其物の落伍者たるの外なき事態となりつゝある。
從つて國防観念にも大なる變革を來し、
從來の武力戰爭本位の観念から脱却して新なる思想に發足せねばならなくなつた。
××××
 國家生活の二面
凡そ國家生活は之を二個の観點より考へることが出來る。
即ち
一、國家の平和的生活
二、國家の競爭的生活
國家生活を斯く見る場合、國防との關係は如何に考察すればよいか。
之を了解し易からしめんが爲め個人生活と比較して見よう。
個人生活に於ても國家の場合と同様に平和的一面と競爭的一面とがある。
而して近代國家内に於ける個人の平和的生活は、
道徳及法律の規範性と制裁力とによつて或程度には調和維持されて居る。
之に反し其競爭的生活は右の如く他力本願で保障することは出來ない。
自らの運命は開拓せねばならぬ。
即ち各個人の體力、氣力、智力の綜合的發顕によつて遂行し保障することになるのである。
右は個人生活の兩面に就て述べたのであるが、國家の場合は如何であるか。
國家の平和的生活に於ても、國際道徳といふものが存在して居るが、
然し個人の場合の如く嚴格でない。
又國際法規はあるが、之を鞏制すべき超國家的勢力はない。
即ち國家の平和的生活を保障すべき機關に至つては、遺憾乍ら皆無であつて、
自らの生存は自ら保障する外ないのである。
世界大戰後、國際聯盟は右の目的を達成すべく創設せられたのであるが、
漸次其の無力を暴露し、
斯かる方法による國際平和の維持が一の迷夢に過ぎない事が萬人に認められるゝに至つた。
右の如く國家の平和的生活すら他力によつて保障せらるゝを得ない。
況や、其の競爭的生活たる國際的生存競爭に於てをやである。
即ち個人の場合は體力、氣力、智力の綜合的實力を必要とした如く、
國家の競爭的生活遂行の爲めには、綜合的國力の發動を必要とする。
即ち國家生活の眞實、善美、的確、旺盛なる創造發展を庶幾する爲めには、
之が推進力たり原動力たる基本的活力、即ち國防力の發現に持たねばならぬ右の如く國防は、
單に國家競爭の結果生することある可き武力戰のみを對象とするものでなく、
國家生活の活力たり原動力である。
即ち劈頭に掲げた如く、國防とはこっかの生成發展の基本的活力の作用であるという考へ方が、
國際的生活に処するに上に於て極めて必要である。
就中最近に於ける國際競爭の白熱化、即ち國際的覇権時代に処し、
一方皇國の理想を紹述し、他方激甚なる競爭の優者たらんが爲め、
國防の必要は絶對的第一義的である。
××××
 國際絶對性、相對性
抑々國防には、絶對性と相對性とがあり、
相對性に關する限りに於ては、外囲の情勢に適合するの必要を生ずべく、
絶對性に至つては更改の餘地なきや勿論である。
言ふ迄もなく皇國を饒る現下の一般情勢は、列強の重壓下に異常の躍進を必要とするものであり、
國防組織強化の喫緊なること有史以來今日の如く大なるはない。
皇國の國防的に有する潜勢が、克く非常時局を克服するに足るべきは、
列強が皇國將來の飛躍に對し、如何に大なる脅威を感じつゝあるかに徴するも明瞭である。
問題は右の潜勢を組織の力によつて如何に現勢として發揮せしむるかに存する。
現在の如き機構を以て窮乏せる大衆を救濟し、
國民生活の向上を庶幾しつゝ非常時局打開に必要なる各般の緊急施設を爲し、
皇國の前途を保障せんことは至難事に属するであらう。
須らく國家全機構を、國家競爭の見地より再檢討し、財政に經濟に、外交に政略に、
將た國民教化に根本的の樹て直しを斷行し、
皇國の有する偉大なる精神的、物質的潜勢を國防目的の爲め組織統制して、
之を一元的に運営營し、最大限の現勢たらしむる如く努力せねばならぬ。
これが同時に皇國の直面せる非常時局克服の對策となるものである。
最近に至り現時の國際的對立を不可避的にあらずと爲し、
外交手段のみに依つて好轉せしめ得べしと樂観する向もあるが、
凡そ國際事情に通暁せざる者の言と謂ふべく、國民は斯る迷想に惑はされぬことが必要である。
××××
 國防力發動の形式
凡そ國防力には二個の發動形式がある。
即ち
一、靜的發動 ( 消極的發動 )
二、動的發動 ( 積極的發動 )
 靜的發動
一は國家其者の嚴然たる威容により、消極的に其の目的を達せんとするもの、
即ち孫氏の所謂 「 不戰而屈人之兵善之善者也 」 である。
満州事變當初に於て皇國の綜合國防力の威容が遂に、五年計畫建設に忙殺せられありし蘇國をして、
遂に爲すなからしめ、又 我が國力就中我が海軍の嚴然たる存在により、
スチムソンの恫喝をして竜頭蛇尾に終らしめたことを想起すれば、
所謂靜的國防の何たるかは容易に理解されるだろう。
國防力の靜的發動は 「 威力の睨み 」 なるが故に、其の基礎たり實體たるものは、
陸海空の軍備でなければならぬ。
斯くの如く観じ來れば、何故に米が日本に優越せる海軍力の獲得保持を熱望し、
蘇が世界一の陸軍を完成せんと焦慮するかゞ肯定されるであらう。
即ち、米の大海軍保持の要望は、自身のモンロー主義
竝に 支那に於ける門戸開放、機會均等主義を支持主張せんが爲めである。
就中極東問題の外交的發言權を獲得せんが爲めには、
皇國海軍を壓迫するに足る海軍力が彼に取つて絶對に必要であつて、
我が立場からすれば東亜平和の招來維持の大任を全うせんが爲めには、
之を阻止せんとする何者をも破摧するに足る海軍力を絶對に必要とする。
蘇國が厖大なる赤軍を有することは、彼の世界赤化政策遂行の支援の爲めである。
而も最近に於て其國防對象が我が日本に在る以上、
皇國としては、彼の極東政策と赤化政策とを
抑壓破摧するに足る國防力充實の必要なるは呶説を待たない所である。
 動的發動 
次に國防力の動的發動とは實力行使の謂ひである。
國防力が其靜的狀態に於て、目的を達成せざる場合、
即ち國防力の嚴然たる存在其物により其目的を達せず、
先方より挑戰し來る場合には必然的に其動的狀態 即ち戰爭を將來する。
戰爭とし謂へば直ちに武力戰を想起する。
勿論武力戰は戰爭の骨幹である。
然し乍ら、既に述べた通り近代戰爭は、
武力單獨戰を以て終始し得る如き單純なるものではなく、
敵國を徹底的に壓伏粉砕せむが爲めには、之が全生活力を中斷するを要する。
是に於てか戰爭手段としての經濟戰、攻略戰、思想戰は
武力戰に匹敵すべき重大なる役割を演ずべきである。
獨逸國は何が故に敗北したか、勿論武力戰に於ても最後には敗れて居る。
が然し 観方によつては武力戰に關する限り、彼は最後迄戰捷者の地位に在つたとも謂へる。
五年の久しきに亙り、聯合側をして一歩も國内に入らしめず、
自力獨往、前線健闘を續け来來つた點は、眞に驚嘆に値するものであつたではないか。
彼の没落は畢竟ひっきょう列強の經濟封鎖に堪へ得ず、
國民は榮養不足に陥り、抗爭力戰の氣力衰へ、
加ふるに思想戰による國民の戰意喪失、革命思想の檯頭だいとう等となれることに由來し、
かくて遂に内部的に自壊作用を起して、急遽和を乞ふの已むなきに至つたのである。
此の如く國防の動的威力の全幅的發揮の爲には、
國防の全要素を不可分の一體として組織統制することが絶對に必要である。
それは列國の夙に著眼し之が準備完成に焦慮努力しつつある所である。
斯るが故に將來戰の勝敗は一に繋つて國防の爲めの組織如何に在ると謂ふべく
更に要約切言すれば、近代戰爭は組織能力の抗爭だといふことにもなる。
××××
 國防の自主
國防の目的、本質は右の如くである。
之を一言にして掩おおへば、國家生成發展の基本的活力である。
從つて國の大小、貧富によつて、絶對的國防の規模、内容に差等を附することを鞏要し、
又 教養せらるゝことの不當なるは云ふ迄もない。
即ち國防驗の自主獨立は動かすべからざる天下の公理である
而して從來國際條約等によつて軍備を制限乃至禁止せんとせしが如きは、
平和主義に名を借りて、強國が自國の國防の優越を贏得せんが爲めの策謀に外ならざることは、
史実の明證する所であつて、如何なる國際主義者と雖も、此の事實を否定することは出來まい。
前述の如く國防の靜的目的は戰爭を未然に防止するに在る。
法の極致は法なき狀態を導くに在る如く、兵の極致は兵を用いざるに在る
即ち國防をして其靜動的發動に止まらしむるを得れば、上の上なるものである。
世界に於ける最終の戰爭なりと思惟し、又庶幾せし世界大戰後、
如何に多くの戰爭が勃発發したか。
又 最近の墺國動亂が一歩を過てば、直ちに第二の世界大戰となるの素因と可能性とを包蔵する如き、
欧州新國境の不合理性、殖民地領有の偏頗不當、人種的偏見、經濟財政破綻、
貿易乃至關税戰等の事實を擧げ來れば、戰爭の可避、不可避の問題の如きは論議の餘地のない所である。
現下の世界の情勢と我國際的立場とは、今や國防は観念遊戯の域を脱し、
國民の全關心全努力の傾注さるべき、焦眉喫緊の作業たる事を要求して居る。

次頁 
国防の本義と其強化の提唱 2 『 国防力構成の要素 』 に 続く
現代史資料5  国家主義運動2  から


国防の本義と其強化の提唱 2 『 國防力構成の要素 』

2016年11月13日 20時14分41秒 | 其の他

 
國防の本義と其強化の提唱
陸軍省新聞班

本篇は 「 躍進の日本と列強の重圧 」 の姉妹篇として、
國防の本義を明かにし其強化を提唱し、
以て非常局に對する覺悟を促さんが爲配布するものである。

目次
一、國防観念の再檢討
二、國防力構成の要素
 其一  人的要素
 其二  自然要素
 其三  混合要素
三、現下の國際情勢と我が國防
四、國防國策強化の提唱
 其一  國防の組織
 其二  國防と國内問題
 其三  國防と思想
 其四  國防と武力
 其五  國防と経済
五、國民の覺悟
  ( 附表省略 )

一、國防観念の再檢討 の 續き
二、國防力構成の要素
國防の要素は、凡そ國家を構成する凡ての要素を包含する。
而して便宜上之を分類し人的要素、自然要素及び混合要素の三者とする。
 其一、人的要素
人的要素は國防力構成要素中第一義的重要性を有するものである。
而して人的要素が精神力と體力との合成せるものなることは玆に説明する迄もないことである。
而して、國際生存競爭場裡に於ては、正義の維持遂行に對する熱烈なる意識と、
必勝の信念とか人的要素の主體を爲すべきである。
「 勝利は正しき者と、勝たんと意志する者にのみ与へらる 」
とは、凡そ兵を語るものゝ信條とする所、國家間の競爭に於ても此の原則の適用せらる可きは勿論である。
 人的要素の培養 
 一然らば、右の要素は如何にして培養するか。
1、建國の理想、皇國の使命に對する確乎たる信念を保持すること。
 誤まれる人生観、國家観乃至は哲學、宗教、芸術等に基く現時の世界苦を除き、
更生の光を与ふべき、皇國現下の重責に目醒め、之が徹底的、把握實現を庶幾せんとするの心を養ふこと。
2、盡忠報國の精神に徹底し、國家の生成發展の爲め、自己滅却を涵養すること。
 國家を無視する國際主義、個人主義、自由主義を芟除し、眞に擧國一致の精神に統一すること。
玆に一般の注意を喚起せんと欲するは、列強は今や宣傳工作の秘術を盡して、
前述の如き非國家的思想を普及瀰漫びまんせしめ、或は國體の改變を企圖し、
軍民離間を策し、祖國敗戰を謀る等の方法により國際競爭を忌避し、戰意を抛棄ほうきせしめ、
以て最後の勝利を求めんとする思想戰的謀略を常用しつゝあることである。
從つて後に述べんとする、國防目的の爲めの國家組織の改善と共に、
國民の精神統制 即ち思想戰體系の整備は、國防上一刻も猶餘遅滞を許さぬ重要な政策なのである。
3、健全なる精神は健康なる身體に宿る。
 就中武力戰の主體を爲す兵員を補充すべき國民の體育を重視することは言を俟たぬ所である。
又 深刻なる國際文化競爭の闘士として内外に活躍せんが爲めにも、
戰時遭遇することある可き長期の經濟封鎖に堪へ得んが爲めにも、
國民保健政策に於て些の遺漏あることを許さぬのである。
萬一物質文化の余弊により、國民體格の低下を來す様なことあらば、
そは國防上看過し得ざる重大問題である。
4、次に國民が國際競爭の闘士として、自己を没却して君國の爲め奮闘せんが爲めには、
 其生活の安定を必要とし、兵士をして後顧の憂なく戰場に立たしめんが爲めには、
銃後に不安あらしめてはならぬ。
玆に國防と一般國策との不可分の關係を見るのである。
既刊の 「 近代國防より見たる蘇聯邦 」 に述べた如く、
蘇國の近代國防観念に立脚する國防組織の規模の廣大なる、
又 其の著々として實現する實行力に至つては、眞に驚嘆に値するものがあるが、
惜しい哉 共産主義自體の有する欠陥と國政の適正ならざる爲め生じた國民生活の不安定と、
國民の窮乏とは國民的気力を殺ぎ、不平不満は擧國一致的精神を喪失せしめ、
延て必勝の信念涵養の上に大なる禍となりつゝある。
輓近ばんきん、皇軍の軍紀、國民精神等を中傷し、或は大和魂恐る可らず等の宣傳によつて、
志氣の振作に努力しつゝあるは上述の消息を遺憾なく物語りつゝあるものである。
玆に於て結論し得ることは、國民の必勝信念と國家主義精神の培養の爲めには、
國民生活の安定を圖るを要し、
就中、勤勞民の生活保障、農村漁村の疲弊の救濟は最も重要なる政策であると謂ふことである。
 二、人口及民族問題
 人口問題
精神要素に就ては既に述べた。
次に考慮すべきは人的要素としての人口及民族の問題である。
人口は今や日本内地にのみで六千五百萬、全國で九千二百萬、満州國と共同防衛の場合を考ふれば
一億二千萬に達し、米蘇に匹敵する堂々たる世界の大國である。
人的要素に關する限りに於ては有利なる狀態に在りと謂ふべきである。
 民族問題
次は民族の問題である。
蘇國の如きは百八十有余の種族よりなり民族間の反目甚しく、
殊に三千萬の人口を擁するウクライナ人の如きは機會だにあらば獨立せんとの希望に燃えて居る。
独國が同化せざる獅子身中の虫たる猶太人に、如何に禍せられたるかはヒツトラーの、
猶太人排斥の徹底せる政策に見るも明瞭である。
米國亦各種の民族の混合國家であり、就中一千二百萬の黒奴を有する事は彼の永久の悩みである。
國家内の民族を相反目せしめ、獨立運動を支援し、母國の崩壊を企圖するは、
近代戰爭に於ける思想戰の重大戰略であることに想到すれば、
民族問題は國防國策上輕視すべからざるものである。
本件に関しては左記事項に留意を要する。
 イ、民族心理を十分研究し、統治上錯誤なきを要す。
 ロ、皇道精神を徹底せしめ、國家意識の鞏化を圖る。
 ハ、敵側の民族的分壊策謀に乗ぜられざる思想的對策を講ずること。

 其二、自然要素
 一、領土
領土の廣狭、地勢、可耕面積の廣狭、海岸線の延長、國境、隣邦との關係等は國防上重大なる關係を持つ。
就中、領土の地理的位置は武力戰は勿論經濟的戰爭に於て極めて重要なる価値を持つものである。
皇國が東亜の外郭とも稱すべき位置に在ることが、戰略的には勿論、
後略的に東亜の平和の守護者たるの天賦の使命を有するに至らしめた一つの素因である。
世界全人口の半を越ゆる十一億の人口を抱擁する地方に位置し、
世界の宝庫の稱ある支那、印度、南洋を指呼の間に見、
之を連絡するに交通自在の海洋を以てせることが、
如何に皇國將來の經濟發展を有利ならしめあるか。
皇國が海洋に囲繞せられあることは、國防上極めて重要なる利點なると共に、
他面一國の運命を制海權の得喪に託するの危険性をも包含するものである。
蘇満國境を介して、強大なる軍備を有する蘇國と對し、
太平洋を隔てゝ世界最大を誇る米國海軍の存在することは、
皇國軍備の上に重大なる關係を持つ。
殊に輓近 航空の發達と共に行動半径千五百粁以上に及ぶ優秀なる爆撃機出現するに及び、
海洋よりは航空母艦に對し、
又陸上よりは浦塩、上海、フイリッピン、カムチャッカ、アリューシャン等の各方面に對し、
國土上空を暴露するに至つた。
強力なる航空兵力を速に整備するの必要もそこから生まれて來る。
 二、資源
武力戰の場合の戰用資源の充實と補給の施設とを考慮すると共に、
經濟戰對策としての資源の獲得、經濟封鎖に應ずる諸準備に於て遺憾なきを期するを要する。
資源に就て考慮すべき件は
 イ、資源の調査
 ロ、戰用資源の貯蓄
 ハ、資源の培養
 ニ、資源の開發
等であらう。

 其三、混合要素
 一、經濟
戰爭の要素としての經濟、
否 戰爭方式としての經濟戰が、重要なる役割を演ずるに至つたのは、
主として世界大戰以來のことに属する。
況や本篇に説く所の國防は、平時の生存競爭たる戰爭をも包含せしめんとするものであり、
其の主體は殆ど經濟戰であると見ることも出來る位である。
從つて經濟が國防の極めて重要なる部門を占むるの點に就ては論議の餘地はあるまい。
經濟戰略に就ては専門家に譲ることゝし 玆に詳述を避ける。
原則として對外的には自由貿易による可きではあるが、
現下の如くブロック對立の時代であり、列国競うて保護貿易を採用し來れる場合には
之に應酬するの對策を講ずるは止むを得ない処である。
之が爲め相互的に輸出入統制を行ひ、価格及數量に或種の制限を附し、
對手國に於て無法なる關税政策或は輸入割當制の如き方法を採るに於ては
我亦報復手段を採用するの已むなきに至るであらう。
全世界の大部分を占むる消費者階級たる大衆の利益の爲めには、
優良品を廉価に提供するを善しとする。
此見地に於て生活程度比較的低き我が國の如き新興國家は、大なる便宜を有するに反し、
英國、和蘭の如き老成國は甚しく不利になる條件下に置かれる。
彼等は英人、蘭人の如き少數支配民族の利益の爲め、
世界大衆たる植民地の有色人種に、高価なる物品を購買せしめんとするもので、
明かに道義に背馳して居る。
之に反し皇國の立場は世界大衆の利益に一致するものであり、
道義的見地よりするも最後の勝利を得べきことは疑を容れない。
萬一彼等が飽迄不正競爭を繼續するに於ては、
皇國としては、場合に依ては破邪顯正の手段として武力に訴ふることあるも 亦已む得ない所であらう。
經濟を對内的見地に於て見る場合は、武力に訴ふることもあるも亦已む得ない所であらう。
經濟を對内的見地に於て見る場合は、武力戰其他の國防力を維持培養するの任務を有して居る。
此見地よりして精神要素と共に頗る重要の役割を演ずべきものである。
國民生活を維持向上せしめつゝ、眞に必要なる國防力を充實せんが爲めには、
尨大なる經費を要し、右の負担に堪へ得る如き經濟機構の整備は、
現在の如き非常時局に於ては當然第一に考慮せらる可き問題である。
日満提携により今や資源に於ては優に如何なる國際競爭にも堪へ得るの情態に在る。
人的要素に於ては日本のみにて九千萬、日満合すれば一億二千萬に達し、
勤勉世界に比類なき活力を擁して居るのである。
此の人力と資源とを組織し運營し、最大限度の効果を發揮し、
以て來る可き經濟戰に備へんとするのが經濟國防の主眼でなくてはならぬ。
 二、技術
科学の進歩は國家を近接せしめ、
往時交戰不可能と考へられた國家間に於てすら戰争を可能ならしむるに至つた。
又 戰場と内地との區別を撤廢せしめ、開戰劈頭より國民の頭上に爆彈が落下する世の中となつたのである。
將來戰は國民全部の戰爭であり、兩國民の智能の戰爭である。
開戦戰當初の新式兵器は直ちに旧式兵器となる。
創造力の大なる國民は將來戰の勝者たり得る國民である。
欧州戰當初誰れか、タンクや毒瓦斯の出現を信じたらう。
無線操縦、殺人光線等は今や夢想の時代を過ぎて實用の時代に入りつつあるであるではないか。
以上の武力戰に就て述べたが、經濟戰に於ても然り。
日本商品の海外飛躍の原因は、圓価安にも因るが技術の優秀も与つて力がある。
武力戰に於ける如く經濟方面に於ても一層の技術の發達、創意、工風の行はれんことを希望する。
此の見地よりして、科學的研究に於ても、無統制の現況より一歩を進め、
合理的、能率的に研究の統制を企圖することが、國防の見地よりして望ましいことである。
更に發明の國家的奨励を鞏化し、資金の供給、研究機關の利用、特許制度の改善 等
緊急焦眉の問題は枚挙擧に遑いとまなき程である。
 三、武力
武力が國防の基幹を爲すことは謂ふ迄もない。
而して本書劈頭に述べたる國防目的達成の爲めには、
海軍に於ては速に華府、倫敦兩條約の不利なる拘束より脱し、
自主的國防權を獲得し、眞に國家の積極的發展を支援し得るに足る兵力を必要とする。
陸軍に於ては、蘇國の駸駸しんしん乎たる軍備擴張に鑑み、
皇國の生命線を確保するに足る兵力を更に充足すると共に、
速かに航空兵力の大擴張を即行し諸方の脅威を除去する必要がある。
民間航空は軍事航空の第二線兵力たるの価値を有するものであり、
其消長は直ちに國軍空中勢力の消長に影響を持つ。
從つて民間航空の發達は武力戰の見地よりして極めて重要なる意義を持つものである。
最後に一言し度きは國防の基幹たる可き我武力は、
皇道の大義を世界に宣布せんとする、破邪顯正の大乗劍であり、
利己的覇道を基調とし、優勝劣敗をのみ念として動く、他國の小乗劍に比す可きものではないという點である。
 四、通信、情報、宣傳
通信は武力戰たると 文化戰たるとを問はず、極めて重要なる要素である。
就中宣傳戰に於ては其の國の全世界に有する通信、宣傳組織如何が直ちに戰爭の勝敗に重大なる影響を持つ。
情報、宣傳勤務が戰爭に如何なる役割を演ずるかは、
彼の世界大戰於て、獨國の宣傳が英仏側の宣傳に壓倒せられ、
遂には帝國主義的侵略國なりと折紙を付けられ、全世界の反感と憎惡とを買ひ、
敗戰の重大なる原因を爲したることを想起すれば分る。
又 近くは満洲事變に於て我が宣傳の拙劣なりし爲め、我正義の主張を十分全世界に徹底せしむるを得ず、
遂に聯盟脱退の餘儀なきに至つた苦き經驗がある。
思想宣傳戰は刃に血塗らずして相手を壓倒し、國家を崩壊し、敵軍を遺滅せしむる戰爭方式である。
識者にして今尚ほ玆に着眼する者少きことは眞に慨しい次第である。
宣傳の要素たる可きものは、新聞雑誌、通信、パンフレット、講演等の言論 及 報道機關、
ラヂオ、映画其他の娯楽機關、展覧會、博覧會等多々あるが、
平時より是等機關の國家的統制を實行し、
平時より展開せられある思想戰對策に遺憾なからしめるひつようがあるのではないか。
××××
( 附言 )
國防要素としては、以上列擧した以外に、尚ほ擧ぐべき事項が多々あるが、
以下本書に述べんとする内容と直接關係なき要素に就ては、記述を省略することにする。

次頁 
国防の本義と其強化の提唱 3 『 現下の国際情勢と我が国防 』 に 続く
現代史資料5  国家主義運動2  から


國防の本義と其強化の提唱 3 『 現下の國際情勢と我が國防 』

2016年11月13日 05時33分31秒 | 其の他

 
國防の本義と其強化の提唱
陸軍省新聞班

本篇は 「 躍進の日本と列強の重圧 」 の姉妹篇として、
國防の本義を明かにし其強化を提唱し、
以て非常局に對する覺悟を促さんが爲配布するものである。

目次
一、國防観念の再檢討
二、國防力構成の要素
 其一  人的要素
 其二  自然要素
 其三  混合要素
三、現下の國際情勢と我が國防
四、國防國策強化の提唱
 其一  國防の組織
 其二  國防と國内問題
 其三  國防と思想
 其四  國防と武力
 其五  國防と經濟
五、國民の覺悟
  ( 附表省略 )

二、國防力構成の要素 の 續き
三、現下の國際情勢と我が國防
 世界的不安と日本
世界大戰における經濟的浪費の決濟難と、ヴエルサイユ條約の非合理的処理とに起因して、
未曾有の政治、經濟的の不均衡、不安定を招來した。
大戰に參加せし國も爲らざる國も、等しく直接間接に此の影響を蒙り、
今や世界を擧げて、不況不安に呻吟するに至つた。
此の世界的の苦難より免れんと焦慮する列國は、競うて理想主義的国際協調を棄て、
現實に即する國家主義に趨り、爲めに大戰後暫く世界を支配せし平和機構の破綻となり、
世界を擧げて政治及び經濟的の泥仕合を現出し、
主要列強を中心として利害を同じうする國々を以て結成するブロックの樹立とはなつたのである。
此間皇國亦其の渦中に巻込まれたのであるが、却つて之によつて不良なる企業を清算し、
産業の合理化を行ふ等、將來への飛躍を準備しつゝあつたのである。
偶々極東の風雲急を告げ、満洲事變突發し、支那の排日貨の爲め、
新市場獲得の必要に迫られたのと、圓価暴落に起因し、
皇國商品は支那を除く全世界の市場に怒濤の如く流出するに至り、
皇國未曾有の貿易時代を現出した。
一方満洲國の出現と共に、皇國の東亜に於ける地位確立し、
日満提携の結果は両國の前途に洋々たる希望を輝かしむることゝなつたのである。
これが爲め經濟不況に呻吟し、國際政局不安に懊悩する列強は、
等しく皇國貿易の進展を嫉視し、その政治的勢力の檯頭に不安を抱くに至り、
各種の手段により我が政治的經濟的の躍進に對し壓迫を加へ來つたのである。
現在の情勢を以て推移せんか、經濟的には遂に皇國の商品は到る処の市場より駆逐せられ、
皇國移民は到る処 締め出しを喰ひ、政治的には遂に孤立無援となり、
第二の獨國運命に陥るの虞無しといひ得ざるに情勢に在る。

 一九三五--六年の危機
皇國は更に上述の危機の前哨戦とも稱すべき 所謂一九三五--六年の危機に直面しつゝある。
 海軍會議と米國
明年開催せらる可き海軍會議に於ては、皇國は如何なる犠牲を拂ふとも絶對に國防自主權を獲得するを要し、
斷じて從來の如き比率主義の條約を甘受することは出來ない。
既に述べたる如く、國防は國家生成發展の基本的活力作用であり、
從つて絶對的のものであつて、斷じて他國の干渉を許すものでない。
比率を鞏要せらるゝ如きは獨立國の面目上よりするも斷じて許容し得べからざるものである。
更に我が海軍力の消長は、所謂太平洋問題の解決 及 對支政策の成敗を意味する。
其理由は玆に縷説るせつするの遑いとまを有しないが、約言すれば、
米國が皇國に對し絶對優勢の海軍を保持せんとするは、
皇國海軍を撃滅し得べき可能性ある實力を備へ、
之によつて米國の對支政策を支援し鞏行せんが爲めである。
右は臆説でも何でもない。
エベリー提督は左の如く公言して居るのである。
「 モンロー主義擁護の爲めには、防勢海軍で足りるが、
 支那の門戸開放主義遂行の爲めには攻勢的海軍を必要とす 」

 支那の態度
支那亦傳統的以夷制夷の策を棄てず、又皇國の極東平和に貢献せんとする眞意を解せず、
常に列強の力を借り 皇國を排撃せんとするの政策をとり來つている。
其最なるものは聯盟に哀訴して満洲事變を解決せんとしたことである。
今や聯盟の無力は全世界の定評であり、支那亦其頼むに足らぬことを自覺し、
列強の利用は結局に於て支那分割又は國際管理への道程に外ならぬと云ふことが、
漸く一部に了解せられ、眞に日支提携を希望するの識者も現はれつゝある。
誠に極東平和の爲め慶賀すべきことである。
が、然し、一方依然所謂欧米派なるものありて、
皇國の所謂一九三五--六年の危機に乗じ、
満洲の奪回を企圖し、
或は皇國の東亜に於ける政治的地位の轉落を策謀すると傳へられて居る。
此の如き策動は
究局に於て支那の前途を誤り、極東を混亂に導くものであつて、
皇國の斷じて容認せざる処、
而して右の如き策動は、皇國の海軍力が米海軍力に壓倒せらるゝか否かによつて、
或は鞏く主張せられ、或は然らざることは、過去の海軍軍縮會議に於て、
皇國が英米の威壓を蒙れる都度、支那に排日運動起り、
其都度出兵を餘儀なくせられあるに鑑みるも明瞭である。
從つて今回の海軍會議に於ける皇國の主張が貫徹するか否かは、
延て支那今後の對日動向決定の爲の指針となるべく、
極東平和の確立するか否かは一に懸つて會議の成果如何に在りと謂ふべきである

 聯盟脱退と委任統治
明年三月を以て愈々皇國の聯盟脱退は効力を發生する。
満洲事變干与によつて鼎かなえの輕重を問はれたる聯盟は、今や本問題に深入りする事を欲せず、
從つて支那側が恒例によつて策動するとしても、大なる反響なからんと観察せられるが、
本件に關聯して、委任統治問題の上程を見ることがないとは保障されない。
抑々委任統治は平和會議の際 旧聯合國側大國會議に於て決定したものであつて、
聯盟から委任せられたものではない。
從つて脱退するとも皇國は之を永久に保有すべき法律的根拠があり、
萬一之が奪還を圖するものあるも實質、皇國に決意ある限り何等懸念の要なきものと考へられる。

 蘇聯邦と極東政策
次は蘇國との關係に就て一言する。
蘇國の近情と皇國との關係に就ては
既に 「 近代國防より見たる蘇聯邦 」 に詳述して置いたから玆には再説しない。
要するに一九三七年を以て其の第二次五年計畫が完成する。
又皇國及び支那を除く近隣諸邦とは悉く不侵略又は侵略國定義條約を締結し、
世界の視聽を集めた聯盟加入は遂に實現を見、又昨今東欧ロカルノ條約の締結を策して居る。
斯くして愈々西方に対する彼の不安は輕減し、
今や全力を擧げて、極東政策遂行に向つて邁進し來らんとしつゝあるのである。
既に世人周知の如く、彼は一億六千万の人口に對し、
七十六個師團百三十萬の兵力と三千機の飛行機を装備している。
我は満洲國を合し人口一億二千萬人なるに對し、
國防兵力は満洲國軍を合すめも僅か三十萬人、飛行機千機内外に過ぎない。
而して赤軍は更に一九三七年迄には如何なる陣容を整ふるか逆賭し難いものがある。
又極東には既に二十萬の兵員、五百機の飛行機、一千台の戰車 ( 装甲自動車を含む ) と
二十隻内外の潜水艦とを集中し、
國境には一聯の近代的永久築城を設備し鋭意戰備の充實を圖りつゝある。
最近頻々として蘇國國境に不法事件發生し、
更に我特務機關襲撃、鐵道破壊の陰謀を企圖する等傍若無人の態度に出で、
一方蘇國民に對しては皇軍の無力を宣傳し、必勝の信念の附与に努むる等、
彼等の眞意那辺に存するかを窮はしむるに足るものがある。
皇國は今にして、此の強大なる赤軍に對應するの兵力装備、就中空軍の力を充實するにあらずんば、
他日噬脺の悔を胎す虞なきを保し難い。
就中在満兵力の充實を必要とする事は論議の餘地なき所である。

 非常時克服の對策
皇國を繞る國際情勢は、一九三五年の海軍會議に於て、英米と正面衝突となる可能性あり、
或は會議の決裂となつて異常の緊張を示すかも知れないが、
此の難関こそ實に皇國將來の浮沈と極東平和の成否とを決定する分岐点なるを以て、
國防安全感を満足せしむ可き海軍側の自主的國防の要求に對しては、
如何なる犠牲を拂つても之を充實し、以て來らんとする國際危機に應ずべき決意を必要とする。

次に蘇國が全力を擧げ極東經營に邁進し來ることは、
我が對満政策に重大なる影響を及ぼすべく、
事態によつては何時自衛上必要なる手段を要する事態發生するやも知れない。
右は極力回避すべきであるが、
彼にして挑戰し來るに於ては、斷乎之を排撃するの用意が必要である。
之が爲め、陸軍装備の充實 竝に空軍の擴充は喫緊であり、
海軍問題と共に國防上絶對不可欠の要求である。

次は英國其他にたいする貿易戰である。
ブロック經濟政策は今後愈々深刻化すべく、
欧米に於ける經濟上の行詰りを極東に於て解決せんとして、
列強が支那市場に殺到し來る事も豫想せねばならぬ。
玆に於てか吾人は 全く個人の利害を超越し、
眞の擧国一致を以て經濟及貿易統制政策を斷行し、
併せて新市場の獲得、支那に於ける旧市場の回復を圖り
以て危機を突破する可き對策を講ぜねばならぬ。
之を要するに、現下の非常時局は、協調外交工作のみによつて解消せしめ得る如き、
派生的の事態ではなく、大戰後世界各國の絶大なる努力にも拘らず、
運命的に出現した世界的非常時であり、又満洲事變と聯盟脱退とを契機として、
皇國に向つて与へられた光榮ある試練の非常時である。
吾人は姑息偸案の回避解消策により一時を糊塗するが如き態度は須らく之を嚴戒し、
与へられた運命を甘受して、此機会に國家百年の大計を樹立するの決意と勇氣とがなくてはならぬ

次頁 
国防の本義と其強化の提唱 4 『 国防国策強化の提唱 』  に 続く
現代史資料5  国家主義運動2  から


国防の本義と其強化の提唱 4 『 國防國策強化の提唱 』

2016年11月12日 20時27分01秒 | 其の他

 
國防の本義と其強化の提唱
陸軍省新聞班

本篇は 「 躍進の日本と列強の重壓 」 の姉妹篇として、
國防の本義を明かにし其強化を提唱し、
以て非常局に對する覺悟を促さんが爲配布するものである。

目次
一、國防観念の再檢討
二、國防力構成の要素
 其一  人的要素
 其二  自然要素
 其三  混合要素
三、現下の國際情勢と我が國防
四、國防國策強化の提唱
 其一  國防の組織
 其二  國防と國内問題
 其三  國防と思想
 其四  國防と武力
 其五  國防と經濟
五、國民の覺悟
  ( 附表省略 )

三、現下の國際情勢と我が國防の続き
四、國防國策強化の提唱
 其一、國防の組織

輓近學芸の進歩發達の結果、國際生存競爭としての戰爭の方式は、
極めて科學的、組織的となりつゝある。
就中、思想戰、經濟戰、武力戰に於て然りである。
之を端的に表現すれば、將來の國際的抗爭は智能と智能の競爭であり、
組織と組織の爭闘であると謂ひ得る。
從つて、勝利の榮冠は對手方に優る創意と組織とを有する者に与へられるとも言ひ得るのであらう
玆に於てか、國防國策とは
國家の有する國防要素をば國防目的の爲めに組織運營する政策であると約言し得るのである
而して國防要素に就ては既に述べた通りであるが、
之が運營上よりすれば、政略、思想、武力、經濟の諸部門に分類することが出來る。
國防要素の組織運營に就ては、世上諸説紛々たるものがあるが、
其最も妥當なりと考へらるゝものを左に掲げることにする。

 一、國民生活の安定
人的要素を充實培養し、擧國一致の實を擧げんが爲めには、
國民全部をして齊しく慶福を享有せしめねばならぬ。
國民の一部のみが經濟上の利益 特に不勞所得を享有し、
國民の大部が塗炭の苦しみを嘗め、延ては階級的對立を生ずる如き事實ありとせば、
一般國策上は勿論國防上の見地よりして看過し得ざる問題である。
之が爲め國民が等しく利己的個人主義經濟観念より脱却し、
道義に基く全體的經濟観念に覺醒し、
速に皇國の理想實現に適應する如き、經濟機構の樹立に邁進することが望ましい。
從つて苟いやしくも志あるの士は、
其學者たると實業家たると、將又朝に在ると野に在るとは問はず、
擧國一致其對策を攻究し、之が實現を企圖せねばならぬ。

國民生活に對し原価最大の問題は農村漁村の匡救である。
 二、農村漁村の更生
現在農村窮迫の原因は世上種々述べられて居るが、今其主なるものを列擧すれば
1、農産物価格の不當 竝に不安定
2、生産品配給制度の不備
3、農業經營法の欠陥と過剰勞力利用の不適切
4、小作問題
5、公租公課等農村負担の過重と負債の増加
6、肥料の不廉
7、農村金融の不備 ( 資本の都市集中 )
8、繭、絹糸価格の暴落
9、旱ひでり、水、風、雪、虫害等自然的災害
10、農村に於ける誤れる卑農思想と中堅人物の欠乏
11、限度ある耕地と人口の過剰等
以上のごとき諸原因は、彼此交錯して、現時の如き農村の急迫を來して居るのであるが、
此等の原因の大半は都市と農村との對立に歸納せられる。
斯るが故に、窮迫せる農村を救濟せんが爲めには、社會政策的對策は、固より緊要であるが、
都市と農村との相互依存と國民共存共榮の全大観とに基き經濟機構の改善、
人口問題の解決等根本的の對策を講ずることが必要であり、
農村自身の自律的なる勤勞心と創造力の強化發展と相俟つて、
農村が眞底より更生するに至らんこを希望して已まない。

 三、創意、發明の組織
本件は國策上重要なること勿論であるが、
國防上の見地よりして、經濟的にも軍事的にも、
極めて重要なる意義を有することは、既に述べた如く、
將來戰が創意と智能との爭闘たることによつて明瞭であると思ふ。
之が爲め 創意、發明に關する國家の全能力を動員し、
之を科學的に組織し其最大能率を發揮せしむることが望ましい。
之が爲め
1、科學的研究機關を統制し、合理化し其能率を嚮上し、經費を節納し、利用に便ならしむ。
2、發明を奨励し、資金供給、研究機關の利用の道を拓き特許制度に改善を加ふ。
等の施設が必要であらう。

 其三、國防と思想
思想戰が國防上如何に重要なる役を演ずべきかは既に述べた通りである。
而して之が基礎たる可きものは、人的要素即ち精神力體力の充實である。
之が爲め 學校 及 社會教育に於て、其の陶治を行ふと共に、
一方社會上の欠陥是正、經濟組織の整調と相俟つて、國民生活の安定、農村更生救濟等を圖り、
民力の培養を策することが必要である。
國防上の見地より思想戰對策として考慮すべき要件を掲げれば左の如くである。
 一、國民教化の振興
1、肇國の理想、皇國の使命に關する深き認識と確乎たる信念とを把持せしめ、
 皇國内外に瀰漫びまんせる不穏、過激なる如何なる思想に對しても、寸毫も動揺することなき、
堅確なる國家観念と道義観念とを確立せしむること。
2、國家 及 全體の爲め、自己滅却の崇高なる犠牲的精神を涵養し、
 國家を無視し、國家の必要とする統制を忌避し、國家の利益に反する如き行動に出でんとする
極端なる國際主義、利己主義、個人主義的思想を芟除すること。
3、質實剛健の氣風を養成し、頽廃的たいはいてき氣分を一掃すること。
4、世界の現狀、國際情勢に通暁し、日本の世界的地位を十分認識せしむること。
5、民族特有の文化を顯揚し、泰西文物の無批判的吸収を防止すること。
6、智育偏重の教育を改め訓育を重視し 且つ 實務的、實際的教育を主とすること。
7、國民體育の嚮上を圖ること。
 二、思想戰體系の整備
思想、宣傳戰の中樞機關として、宣傳省又は情報局の如き國家機關が、
平時より必要なることは縷説るせつする迄もない。
此種機關の實例を見るに、世界大戰に於ては、
相當大規模な工作を以て、所謂プロパガンダ ( 宣傳 ) の名に於て、
近代的一戰爭手段たる思想戰が出現した。
此のプロパガンダ戰線の勇將は、英國のノースクリツフ卿、獨逸ルーデンドルフ將軍、
米國に於ては大統領ウイルソン自らであつた。
戰爭の中期より末期にかけて、恐るべきプロパガンダ戰の力は、
敵國戰線の後方は固より、其の國内の主要都市、國民の台所に迄猛威を揮つて 遂に獨逸側は、
この威力の前に崩壊するに至つた。
それが武力戰 及び 經濟封鎖戰と相關聯して行はれたことは勿論であるが、
プロパガンダ戰夫れ自體として、獨自の立場に立つて、活力を發揮したことは見遁すべからざることである。

 英国 は 世界大戦勃発直後、一九一四年八月、平時からあつた宣傳事業を拡張して新聞局を設置し、
一九一七年一月には別に情報局が設けられ、宣傳事業を一括して活動を開始するに至つた。
次でノースクリツフ卿外三名を以て成る顧問委員が組織せられ、
ノースクリツフは自ら宣傳 及 政略関係の使命を帯びて米國に渡り、
大いに活動するところがあつたが、一九一八年の二月に至り、情報省が設置せられ、
ビーバーブルツク氏が情報大臣の椅子を占め、ノースクリツフ卿は敵國宣傳部長の職に就いた。
其後曲折を經て、ノースクリツフ卿が宣傳政策委員会の全指導を行うことになつた。
 米国 は 一九一七年四月世界大戰に參加後、大統領ウイルソンにより廣報委員會を組織した。
この組織は、國務長官、陸軍大臣、海軍大臣 竝に ジヨージ・クリール氏を以て編成せられ、
クリールが右広報委員會の議長となつて、對内、對外宣傳事業の一切を統括した。
 佛国 では 外務、陸軍、海軍の各省が夫々宣傳機關を持つて、互に鞏調しつゝ宣傳を實施した。
 獨逸側 に在つては、
大戰間の宣傳は最初、不統制のまゝ、一の宣傳用機關誌を利用するに過ぎなかつたが、
軍事當局と各省間に幾多の抗爭曲折が繰り返された後、
ルーデンドルフの提唱に依り一九一八年八月に至つて、漸く宣傳組織を設置することが出來たけれども、
時既に遅く、聯合國側の猛烈なる宣傳に因り、遂に一敗地に塗るの已むなきに立ち至つた


然るに我國に於ける識者中思想戰観念の認識十分ならざるもの多きは頗る遺憾とする所である。
蘇聯邦の組織ある赤化宣傳工作の爲め如何に我國上下を擧げて苦悩せしか。
又満洲事變を通じて宣傳機關の不備の爲め如何に惨但たる苦杯を嘗めたるか。
又現下の貿易經濟戰に於て列國の宣傳戰の爲め皇國が如何に不利なる立場に置かれて居るか。
是等を考ふるとき平戰兩時を通じての思想戰體系整備の急務なることは論議の餘地はない。
要は速に之が實現を圖るに在る。

 其四、國防と武力
 消極的軍備、積極的軍備
武力戰の主體は軍備である。
抑々軍備には消極的に國防目的を達成するに必要なる最少限度の武力と、
積極的に目的を達成せんが爲め要すべき武力とに分れる。
而して前者は國策、領土の廣狭、地理的位置等の關係より、自主的に決定し得べきものであり、
後者は國際情勢に應じて變化すべきものである。
現在我が陸軍の保有する軍備は上述の消極的國防に必要なる最少限度のものであり、
大戰直後、蘇國の軍備薄弱なりし時代に於ては、之を以て東亜平和維持の靜的目的を達成し得たのであるが、
満洲事變に伴ふ 國防第一線の擴大により皇国に三倍する領域の治安維持を負担することゝなり、
消極的國防の見地に於てすら既に軍備の不十分を感ずるに至つた。
加ふるに蘇國の所謂五か年計畫實施の結果、世界最大の軍備を保有するに至り、
特に著々として極東に軍備を充實しつゝあること、
蘇満國境の絶えざる紛爭、更に両者間に蟠わだかまれる幾多の案件は、
最近募り來れる蘇國の挑戰的態度と常習的不信なる態度と相俟つて日蘇關係の今後の推移は逆賭し難き情勢に在る。
從つて如何なる情勢の變化に遭遇するも支障なからしむべき兵力、装備の充實は、
時局對策として最も重要なるのゝ一つであらねばならぬ。
此の兵力装備の具體的數字を掲ぐる自由を持たないが、
主要列強の軍備と比較し、國際情勢の急迫せる狀態
を考察せば、
皇國兵力装備の十分ならざることは十分了解し得ると信ずる。
近代軍備に於て航空機の有する価値の絶大なることは今更述べる迄もない。
( 後掲の主要列強陸軍兵力一覧表竝附録第一の列國軍備の表参照 )
思ふて玆に至れば慄然たらざるを得ない。
最近民間航空大拡張の企圖あるかに仄聞そくぶんする。
誠に慶賀の至りに堪へない。
こいねがはくは、一刻も速に空中國防の欠陥を充足し、國防上些の遺憾なからしめんことを。
又重要都市防空の爲め施設の必要があるが、飛行機に対する絶對の防禦は飛行機を以て、
敵機を撃墜し或は本拠地を覆滅するに在る。
此意味よりしても空中勢力の充実を企圖することが急務である。

 
其五、國防と經濟

 一、經濟の調整
 現機構の不備
現經濟機構が、我が國の經濟的發展に、大なる貢献をなしたることは認めねばならぬ。
然し國家的全體観、特に國防の観點より見て、左の如き改善調整の餘地ありと言はれて居る。
1、現機構は個人主義を基調として發達したものであるが、其半面に於て動もすれば、
 經濟活動が、個人の利益と恣意とに放任せられんとする傾があり、
從つて必ずしも國家國民全般の利益と一致しないことがある。
2、自由競爭激化の結果、排他的思想を醸成し、階級對立観念を醸成する虞がある。
3、富の偏在を來し、國民大衆の貧困、失業、中小産業者農民等の凋落等を來し、
 國民生活の安定を庶幾し得ない憾がある。
4、現機構は、國家的統制力小なる爲め、資源開發、産業振興、貿易促進等に全能力を動員して、
 一元的運用を爲すに便ならず、又國家豫算に甚しき制限を受け、
國防上絶對に必要とする施設すら之を實現し得ざる狀態に在る。

 新經濟機構に具備すべき要件
現經濟機構の變改是正の法案に對しては、種々の意見があるが、
國防上の見地よりして左の如き事項が擧げられて居る。
1、建國の理想に基き、道義的經濟観念に立脚し、國家の發展と國民全部の慶福を増進するものなること。
2、國民全部の活動を促進し、勤勞に應ずる所得を得しめ、國民大衆の生活安定を齎もたらすものなること。
3、資源開發、産業振興、貿易の促進、國防施設の充備に遺憾なからしむる如く、
 金融の諸制度 竝に 産業の運營を改善すること。
4、國家の要求に反せざる限り、個人の創意と企業慾とを満足せしめ、益々勤勞心を振興せしむること。
5、公租公課を真に更生ならしむる如く税制の整理。

 二、戰争經濟の確立
經濟戰は既に平時情態に於ても開始せられつゝあることは既に述べた通りである。
戰時状態に於て武力戰と併記する場合、其激甚性は最高度に達すること勿論である。
其場合の經濟統制を如何に実施するやは、國防上重要なる問題である。
二十世紀初頭迄の間に於ける各戰爭を観察するに。
國を擧げて交戰の事に従つた場合に於ても、比較的光線兵力、軍需品の需要が寡少であつて、
國民經濟の全般に亙り特別の變動を与ふることはなかつた。
然るに、世界大戰は全く從來と其の趣を異にして居る。
即ち軍需品の需要が未曾有の膨張をなした。
一面交戰國は外部との通商交通は、著しく阻害せられ、甚しき場合には全く封鎖狀態に陥るを以て、
軍需品は勿論 國民生活必需品に至る迄、海外よりの資源の輸入は途絶せらるのみでなく、
時刻輸出産業の販路も、全く閉塞され、平常時に於ける世界經濟の紐帯は全く切斷せらるゝ事となつた。
故に戰時不足すべき資源を適時充足する如く平時に於て準備を整ふると共に、
一旦緩急の暁には、國家は莫大なる軍需品の需要を満すと共に、
國民の經濟生活維持の爲 經濟の全般就中 國防産業運輸通信 及 國民經濟生活に對しては、
相當徹底して続制を行ふの必要がある。
其の結果 經濟組織に對しても尠すくなからざる臨時變更を生ずることとなる。
之を世界大戰の實例に徴するに、列強より封鎖せられたる獨逸が、
食糧軍需資源の輸入途絶に依り著しき困難を嘗めたるは勿論、
過剰生産品の輸出販路を失ひ、爲に國家經濟が窮地に陥つた事は周知の事實である。
又獨逸の潜水艦封鎖の脅威を受け乍らも兎に角 世界經濟との關聯を保持せし英國に於てすら
砂糖、小麦、肉類等の不足を生じ、又綿花輸入困難の結果はランカシヤ綿業廢止を餘儀なくせらるゝ等、
國民經濟に致命的影響を蒙つたことは枚擧に遑いとまがない。
されば交戰諸國は資源、食糧の不足を補う爲め、其の生産 及 輸入に對して強度の保護奨励策を取るは勿論、
中には國家自ら其一部を經營するものすらあつた。
極端なる自由主義を標榜せし英國に於てすら農地の鞏制耕作、製粉工場の政府管理、
小麦、砂糖 及 肉類の輸入 及 配給事業の政府直營等を實施し、
又 ランカシヤ綿業の危機を救はんが爲め、政府は在荷綿花の公平なる分配、操業の調整、
失業救濟等に對し 積極的統制を實施している。
又交戰時は殆んど例外なく國民の消費にまで干渉し、或はパン、肉、砂糖 等の食料品を始めとし
各種燃料 及 衣服に対しても標準消費量 又は日量を定め切符制度に依り之が配給をも實施している。
又一方國家は戰爭の爲 打撃を蒙れる一般國民 竝に特殊産業の資本家 及 勞働者に對して救濟策を講じ、
又戰禍の爲 生業を失へる者に對する對策を必要とするに至つて居る。
此の如き世界大戰の經驗は、將來戦に於て戰時經濟を如何に準備すべきや暗示するものである。
而して此等の準備なき國家は、多大の困難を感ずるのみならず、
往々 之が爲 敗戰を招來するやも測り難い。
故に平時より官民力を戮せ之が準備を完成するの必要がある。
而して其の準備すべき要點としては、戰時不足資源関係の企業の奨励、
不足資源の貯蔵、代用品の研究、戰時海外資源の取得計畫、平時之を利用する國防産業の實行促進、
過剰生産品の輸出對策、戰時財政金融對策、貿易對策、勞働對策等 相當廣範囲に亙り
豫め研究準備を遂げ開戰の暁に於て些の遅滞なく、
統制ある戰時經濟の運用に移らなければならない。

 五、國民の覺悟
以上は
國防國策として速に實現を要すと一般に考へられある事項の若干を掲げたに過ぎない。
素より國防は國家の生成發展に關する限り
國策の全般に亙るが故に本書に述べた以外に考慮すべき要件は多々あることは勿論である。
皇國は今や駸々しんしん乎たる躍進を遂げつゝある、一方列強の重圧は刻々と過重しつゝある。
此の有史以來の國難--然しそれは皇國が永遠に繁榮するや否やの光榮ある國家試練である--
を 突破し光輝ある三千年の歴史に一般の光彩を添ふることは、
昭和聖代に生を禀けた國民の責務であり、喜悦である、
冀はくは、全國民が國防の何物たるかを了解し、
新なる國防本位の各種機構を創造運營し、
美事に危局を克服し、
日本精神の高調擴充と世界恒久平和の確立とに向つて邁進せんことを。

目次頁 
国防の本義と其強化の提唱 に 戻る
現代史資料5  国家主義運動2  から


歩一、歩三の将校団 下書

2016年11月12日 04時39分09秒 | 其の他

歩兵第一聯隊将校団




歩兵第三聯隊将校団  昭和11年2月26日の時点
聯隊長  渋谷三郎 大佐  陸士20期
 副官  大橋健三 少佐  陸士31期
 聯隊付  宮沢斉四郎 中佐  陸士24期
 聯隊本部  石川 少佐
 教育掛  天野武輔 少佐  陸士29期
 連隊旗手  高橋太郎 少尉 陸士46期
第一大隊長  本江政一 少佐  陸士27期
 副官  坂井直 中尉  陸士44期
 第一中隊長  矢野正俊 大尉  陸士37期
  中隊付  麦屋清済 少尉  特可志願
 第二中隊長  梶山健 大尉  陸士38期 ・・・習志野学校派遣中
  中隊付  小杉留五郎 中尉  少候
  中隊付  渡辺進 中尉  陸士45期
 第三中隊長  森田利八 大尉  陸士36期
  中隊付  清原康平 少尉  陸士47期
第二大隊長  伊集院兼信 少佐  陸士25期
  副官  今井秋三郎中尉  少候
 第五中隊長
  中隊長代理  小林美文 中尉  陸士40期
  中隊付  春田孝一 中尉  少候
 第六中隊長  安藤輝三 大尉  陸士38期
  中隊付  菱山栄 少尉  少候
 第七中隊長  野中四郎 大尉  陸士36期
  中隊付  常盤稔 少尉  陸士47期
第三大隊長  野津敏 少佐  陸士25期
 副官  江上新 中尉  少候
 第九中隊長  了戒次男 大尉  陸士38期 ・・・全員天津派遣中
  中隊付  冷泉隆 中尉  陸士44期
  中隊付  佐藤秀彦 中尉  陸士45期
 第十中隊長  島田信平 大尉  陸士36期 ・・・歩兵学校派遣中

  中隊付  新井勲 中尉  陸士43期
  中隊付  鈴木金次郎 少尉  陸士47期
 第十一中隊長  浅尾時正 大尉  陸士33期
  中隊付  赤石清 少尉  特別志願
  中隊付  谷ケ崎鉦正 少尉  特別志願
 機関銃隊長  内堀次郎 大尉  陸士39期 ・・・豊橋歩兵第十八聯隊へ出張中
  隊付  柳下良二 中尉  陸士45期
  隊付  小林三郎 中尉  少候
  隊付  高橋丑太郎 中尉
 歩兵砲隊長  宇田川富蔵 大尉  陸士32期


三箇大隊三箇中隊編成の為、四、八、一二中隊は欠番

第一師団
師団長  堀丈夫 中将
 副官  与古田洋 大尉 ( 36期 )
参謀長  舞伝男 大佐
第一旅団長  佐藤正三郎 少将
第二旅団長  工藤義雄少将