あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 時に大蔵さん、今日本で一番悪い奴はだれですか 」

2018年05月05日 05時55分56秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

しばらくでした。いつこられたんですか。
二時間前に着いたばかりですよ
大蔵さん、さっき明治神宮にお参りしましたが、お月様が出ましてね
月がですか
ちょうど参拝し終わったとき、雲の切れ目からきれいな月がのぞいたんですよ
いつまで滞在の予定ですか
明日、お世話になった方々に転任の挨拶をしたいと思っています
それが終わり次第、な るべく早く赴任する予定です
じゃ、これでもう会えないかも知れませんね
時に大蔵さん、今日本で一番悪い奴はだれですか
永田鉄山ですよ
やっぱりそうでしょうなァ
台湾に行かれたら、生きのいいバナナをたくさん送って下さい
承知しました うんと送りますから、みなで食べて下さい
なるべく早く内地に帰るようにして下さい じゃ、これで失礼します
あなたの家に、深ゴムの靴が一足預けてありましたね
明日の朝早く、奥さんに持ってきて頂くよう頼んで下さい
そんな靴があったんですか
奥さんが知っています
承知しました
いい靴があるじゃありませんか
いや、あの深ゴムの方が足にピッタリ合って、しまりがいいんですよ
わかりました お休みなさい

相澤三郎    大蔵栄一 
昭和10年8月11日午後11時
西田税 宅に於て
相澤三郎 中佐 と 大蔵栄一 大尉の会話である
大蔵栄一 筆 二・二六事件の挽歌より 
翌日、相澤中佐は 陸軍省軍務局長 永田鉄山少将に天誅を下す
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当時はいわゆる統制派の連中が軍の中枢を占めていた。
皇道派の中心的存在とされていた真崎甚三郎が教育総監のポストを追われて
皇道派はまったく軍中枢から排斥されてしまった。
その統制派の首領格が永田鉄山軍務局長であったわけですが、相澤中佐が永田を斬った。
青年将校がなぜ永田を頂点とする統制派の思想や行動を問題にしたかといえば、
永田らが官僚や財閥、あるいは宮廷グループと手を組んで 国家総力戦体制にもっていこうとしていたからですよ。
その永田が手を結んでいた人たちこそ、農村の窮乏から目をそらし、
陛下にも農村の現状をお伝えせず、根本的改革には無関心だったのです。
いや、それ以上に農地改革を含む国家の改造が必要だという主張に反対する最大の勢力を作っていたのです。
農村の惨憺たる困窮を招いている国家体制の改革こそが急務であったあの時期に、
永田は朝飯会などと称して、木戸幸一など当時の権力者と気脈を通じていたんです。
最初は真崎閣下と永田は仲がよかったんです。
しかし、権力者と結託して日本を総力戦体制にもっていこうとするのと、
今の国家の体制をまず改革しなければいけないという考え方との差は大きかったわけです。
当然改革派は木戸などからけむたがられる。
「 真崎は邪魔だから追っ払え 」 とか、はっきりそう言ったかどうか知りませんが、
意見を交わしていくうちに権力者側のそういう意向というものはわかってくるから、
彼らの協力を得て総力戦体制を敷こうとしている永田らが結束して、
真崎教育総監を罷免する方向にもっていったというのが真相でしょう。
つまり、天皇陛下が統帥されている軍隊の重要な人事が、
軍以外の者の意向によって動かされていたわけです。
これは明らかに、統帥権干犯ではないかという主張につながるわけです。
あれが、純粋な法律問題として統帥権干犯であるかどうかは、難しい問題だと思います。
しかし、干犯したのではないかという疑いは十分持てる。
しかもそれは、農村改革を初めとする国家改造を頑強に阻もうとする勢力と一体ではないか。
そういう意味あいで彼らを討つことによって、
国家改造への第一歩としようという発想はごく自然に生まれたのではないか、
そう思っています。
・・・池田俊彦・リンク→生き残りし者 ・ 我々はなぜ蹶起したのか 2 


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相澤中佐が、西田、大蔵ら二人の同志にも語らなかった、

あるいは緘黙かんもくしていた事実があった。

篠田上等兵はそれについて語る。
八月のある夕刻すぎ、私は教官 ( 栗原中尉 ) から呼び出されて、外出のお伴を命じられた。
仕度を終えて教官と営門を出た。
そして、歩三の近くにある喫茶店のようなナントカ軒 ( 竜土軒と思われる )  の前にくると、
教官は私を待たせて中に入っていった。
やがて教官は、ひとりの中佐と出て来た。
二人はそこで待合せたのは明らかだった。
肩を並べて歩く二人の後から、どこへ行くのかもわからず 私はついていった。
しばらくして明治神宮に行くのだと察しがついた。
神宮橋を渡ると、二人はそこで立ちどまって長いこと話しあっていた。
私は偉い人たちから離れて、じっと待っていた。
やがて二人は話を終えると、威儀を正して大鳥居の下で、明治神宮を参拝した。
あの日、雨があがって、とても大きな きれいな月が出ていたのが、いまでも印象に残っている。
明治神宮の参拝をすませると、その中佐は原宿の駅前でタクシーに乗った。
二人で中佐を見送ったあと、教官は歩きながら、
その中佐、相澤中佐が明日、軍務局長の永田鉄山を斬るのだ、ということや、
福山から上京してきた相澤中佐が、
今日、大阪での人事異動を終えて帰京する永田鉄山と同じ列車であったことなど、
いろいろと話してくれた。
・・・二・二六と下級兵士  東海林吉郎 著から


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