あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

敎育總監更迭事情要點・村中孝次

2018年04月05日 04時36分49秒 | 眞崎敎育總監更迭


敎育總監更迭事情要點

一、七月十六日夕刊に依って 「陸軍大異動斷行」に先づ敎育總監更迭し、
『 陸相部内統制の勇斷 』 を 『 突如けふ異例の發令 』 として報ぜられた。
眞崎大將を目して  『 人事異動全般に眞向から反對 』 し、
『 部内に於て朋党比周 』 して軍の統制を攪亂する巨魁であると宣傳する一方
『 空前の英斷 』 『 部内外頗る好評 』 等々盛んに宣傳謀略を以て自画自讃に努めてゐる。
一、此の更迭は如何なる經緯を辿って行はれたか、以下概要を略述する。
七月十日、從來の慣例を破り何等の下交渉的準備なしに突如陸相から敎育總監に對して、高級人事に關する折衝が開始された。
そして眞崎大將始め某々將軍等の勇退を迫ったのである。
陸相は云ふ。
『 眞崎大將は軍内に於ける或種派閥の中心人物として軍の統制を紊すを以て勇退せしむるを可とするといふ軍内の輿論である 』 と。
眞崎大將は之を反駁したるに陸相は苦しまぎれに
『 之は南大將と永田局長との策謀で、南大将は自分に火中の栗を拾はせようとしてゐる。 満洲から歸ってから此の策謀は激しくなった 』 ・・< 註 >
といひ、
眞崎大將は高級人事を事務上の都合に籍口して輕率に即決するを不可となし、
書類準備の爲め二、三日の余裕を得たき旨を告げて此の日は相別れたのである。
然るに、翌十一日、
閑院宮殿下の御召なりとて總監を招致し、直に三長官會議を開始せんとせしも、總監は準備整はざる故を以て延期を求めた。
十二日は總監から會議は延期し大臣、總監の二人で熟議の上で大體の決定案を作成したる後
三長官會議を開くことの至當なる所以を力説せるも、採用されず此の日第一次の三長官會議は開かれた。
眞崎大将は
一、總監部門に北九州ありと云ふも斯くの如きものなし、派閥の中心といふが如き事なし。
二、統制々々といふも如何なる統制原理を有するや。
 單に當局に盲従せよといふことを以て統制し得るものに非ず。
國體原理に基く軍人精神の確立によって統制を期すべし。
三、輿論といひ軍の總意と云ふは何ぞや。
 輿論により事を決するは軍内に下剋上の風を作り、建軍の本義を破壊するものなり。
四、敎育總監は大元帥陛下に直隷する親補職にして大御心によつて自ら処決すべきもの、
 軍隊敎育といふ重大統帥事項を輔翼し奉る要職にあるものが軍の輿論に依って辭める梩なし。
五、今次の異動については部外よりの干渉り。
 統帥權に對する此の容喙ようけいに膝を屈することは敎育總監の地位を穢けがすもの、
且又將來に亘り重大なる禍根を貽すものなり、一眞崎の進退問題に非ず。
六、三長官會議の上決定すべきものを陸相單獨決裁の例を開かば延いては參謀總長の地位も動揺し、
 軍の人事は全く紊亂するに至るべし。

七、所謂十一月事件は陸軍省を中心とする陰謀僞作といはれ永田少將が其中心人物なること明瞭にして、
 三月事件又永田中心に畫策せられ ( 永田將自筆の同事件計畫書を呈出 )

近くは新官僚と通謀して各種の政治策動をなしつゝある永田少將を先づ處斷するを要す。
等々と峻烈に陸相を駁論した。
陸相は是れに答ふる術を失ひ遂に決裂の状態を以て次回に譲ることになったのである。
七月十五日 眞崎大將は前述の論を繰返へして力説し、
部外の策動に乗ぜられ或は御裁可事項に背反することの不可なる所以を切言したのであるが、
陸相は、總長宮殿下の御威光を頼んで是れに耳を化籍さず、總監の辭職不承諾の儘
決裂狀態を以て第二次三長官會議の終幕となった。
斯くて即日御裁可を仰ぎ十六日眞に突如、最後まで峻拒してゐた眞崎大將は林陸相の
人事異動を妨害阻止すると云ふ惡名を着せられて葬り去られたのである。

一 總監更迭の裡に潛む事情
昭和八年高橋現藏相を中心に牧野内府を始め重臣、政財界巨頭等が集って軍部抑壓の密議を凝らしたことがある。
その理由は軍部鞏硬派の嚴存は維新機運を促進し、現状維持派から見て對外國策の遂行に委ねず
且国内不安が永く除かれざるを以て速やかに之を抑壓するを要すると云ふに在る。
而して此の目的達成の使命は齋藤内閣に負はされた。
齋藤内閣は使命を果さず倒れ、當然の結果として軍部抑壓は重臣ブロックの第二次傀儡たる岡田内閣によって踏襲された、
その手先となつて策謀し畫策したものに南、永田がゐる。
過去一年余に亘って荒木、眞崎一派の陸軍鞏硬派打倒の準備工作は重臣ブロックにより
財閥により、然り而して南、永田等に依って進められて來た。
林陸相は此事情を知るや知らずや 『 軍の總意 』 といふ掛聲につれて躍り踊って來たのである。
この趨勢すうせいに拍車をかけたものは 『 天皇機關説問題 』 に關する敎育總監の訓示とそれの上奏とである。
『 機關説 』 排撃の巨火から免れんが爲め、宮中府中を始め各方面共に陸軍正義派の制壓は焦眉の急となつたのである。
斯くて牧野、高橋、齋藤、岡田、鈴木(貫)、宇垣、永田、南と云ふ傀儡師の操る糸のまゝに林陸相の人事強行突破となったのである。
事は一、眞崎大将の更迭、二、三将軍の勇退による陸軍正義派の壓狀と云ふ問題でない、
統帥事項中重要なる人事が重臣、財閥等部外者によつて干渉され左右されたと云ふ
重大問題の發生である事に留意せねばならない。
而して更に考察するを要する事がある。
大正二年將官の人事は三長官に於て協定の上で上奏するといふ内規が出來て御裁可を經てゐる。
今次の總監更迭は總監の事理を盡した峻拒にも拘はらず、
即ち三長官の協定が成立しないのを無視して上奏御裁可を仰いだのである。
正しく大正二年の御裁可事項に反する違勅と謂はねばならない。
軍の統制をモットーとし來つた陸相が部外者に踊らせられ 『 軍の總意 』 に操られて、
違勅を敢てしてまでも強行突破を計畫的に實行したのは、自ら統制を破壊し後患を永く貽すものと云はざるを得ぬ。
一、是れを要するに統帥權に對する容喙ようけいと云ひ違勅と云ひ看過し得ざる重大事件、
 陸軍史に印せるロンドン條約汚点と云はなければならない。
一、而して之に維新的観察を加へるならば、
 軍内外の機關説思想の旧勢力が軍内國體思想的新興維新勢力に反撃を加へ來つたもの、
軍内維新、非維新の兩勢力は物の見事に分裂對峙して戰端を開始したのである。
斥候戰は今や尖兵前衛の戰闘開始となつた。
維新の天機は刻々に着々と動いてゐる。
維新の同志よ、文久三年八月の非常政變に次いで來つた大和、生野の義擧、禁門戰争の無用なる犠牲に痛心する勿れ
吾人はひたぶるに維新の翼賛に直參すれば足る。
維新のこと今日を以て愈々本格的に進展飛躍して來た。
深く皇天の寵恩に謝して勇奮誠に禁じ得ぬものがある、天下の事これより愈々多事。
切に同志諸兄の健闘を祈る。
七月十六日
村中孝次  

二伸
本書は同志以外に手交せざる様願ひ度、然れども宣傳戰に致されざる様積極的工作を
願ひ上候東京同志一同結束、牢固たる決意にあり。

平野少將から次の様な事を聽きました。
昨年(昭和十年)八月の人事異動の事前に眞崎大將は
林陸相から相談を受けなかったばかりでなく、陸相は眞崎大將の勇退を迫られました。
反り理由は、
「 眞崎は佐賀閥を作り、軍の統制を阻害してをるから、軍部全體の輿論として、眞崎大將の勇退を望んでおる 」
と云ふのである。
之に對し、眞崎大將は陸相に、
「 閥など作ったことはないし、軍の統制も紊しはせぬ。
 軍の輿論であるから敎育總監を辭めよとのことは、即、下剋上の思想に基くにより、辭めない 」
と 申されて、林陸相に反對された。
「 寧ろ軍の統制を紊しておるのは永田である 」
「 私は其資料をもつて来るから、あと二、三日してからも一度會見しやう 」
――
眞崎さんは申されたが、翌々日三長官會議が突然開かれ、席上前と同じ様な議論が反復された。

林陸相は形勢が不利となると、
「 宮殿下の御意圖である 」
と押しつけた。
眞崎大將は事態重大と考へたから、永田を其儘許せないと信じ、第二回の長官會議に大將は、
「 永田を辭めさせよ 」
と主張し、眞崎さんは最後迄自分が辭職することに反對しました。
三長官が陸軍將官の人事を決定すべき規定なるに不拘、第二回の三長官會議後、
直ちに陸相は上奏裁可を仰ぎ、大將を罷免しました。
之は平野少將が、眞崎大將から直接聽かれた事實であります。
 
< 註 >
昭和十年八月一日夜、
陸軍省整備局長の山岡重厚中將が林銑十郎陸軍大臣と會談し、
「 眞崎大將はなぜに免ぜられたるや ?」
という山岡の質問に對し、
林大臣は
「 南、永田の工作にして その他 稲垣次郎中將 ( 閑院宮別當 )、鈴木荘六大將 ( 前參謀總長 )、
 植田謙吉、林弥之吉中將らより總長宮に申し上げ、
殿下は眞崎の現役を免ぜよとの御意なりしも、總監を免ずるだけとせり 」 
と返答した。・・・菅原祐 『 相澤中佐事件の真相 』


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