あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

西田騎兵少尉

2017年08月09日 11時16分16秒 | 西田税

昭和五十四年五月二十一日、
羅南騎兵第二十七聯隊全国大会が開かれ、
大正十二年兵で、西田教官に教育をうけた第二中隊の十八名は、
西田の想い出話を開く。


西田税 

一人が開口一番、
「 なんと言っても、あの社会主義の話はみんな忘れんじゃろう 」
と、口をきる、みんなそうだそうだと相槌を打つ。
話はこうである。
大正十二年九月の関東大震災のどさくさにまぎれて、
無政府主義者大杉栄と伊藤野枝、甥の宗一が、憲兵隊の甘粕大尉の手の者に殺害された。
このニュースは入隊前の事なので、誰もが知っていた。
ある夜、第二中隊の教育隊長西田少尉が精神訓話の時間に、
「 お前たちは 社会主義というものはどんなものか知っているか 」
と、問うた。
皆、黙っていると、西田は、
「 大杉などは本当の社会主義者ではない。
真の社会主義者は世界に唯一人、日本の明治大帝である。
明治大帝こそ社会主義の親玉である 」
聞いた一同、ひっくり返るほど驚いた、
社会主義とは何か不穏な危険思想、
日本に害を及ぼす思想のように受け取っている純朴な若者たちに、
事もあろうに 明治の聖天子と仰がれた明治天皇が 「 社会主義の親玉 」 だという。
半世紀の記憶がまだ鮮明に残っているほどびっくりした、と、人々は口々に言う。
その理由を西田のことだから、整然と説明して聞かせただろうが、それは皆の記憶にはない。

聯隊内に私的制裁 ( ビンタ ) があった。
ただ第二中隊だけはやらなかった、ビンタの時間になると、西田教官が巡回してくる。
整列している初年兵に 「 なぜそんな所に立っている 」
もじもじしていると 「 早く寝ろ 」 と、寝台に入るのを見届けてから帰る。
二年兵はビンタを張りたくてもできなくなった。

初年兵はもう成人だから煙草を吸っても良い年齢である。
しかし、軍隊では一人前でないという理由で、二年兵が吸わせない。
喫煙者にとってはまるで地獄だ、吸いたくてたまらない。
たまらなくなって二年兵の目を盗んでは便所の中や物干場、物置の陰で大急ぎで吸う。
ところが西田教官はそれを知っていた。
初年兵を演習につれて出ると、激しい教練のあと、必ず長い休息をとらせた、
そして自分の雑嚢から煙草を十個あまりもとり出して、
「 みんな思い切って吸え、便所や物置では味がないだろう、
それに火災の起こる危険がある、充分堪能するほど吸え 」 と言われる。
煙草を吸いながらポロポロ涙が出たね。
西田教官の命令なら、たとえ火の中水の中でも、と決心した、俺ばかりじゃない。
皆がそう思ったものだ。
西田教官の教練は厳しかった、と 口々に語る。
しかし、教練が終わると真の兄か親のように優しく、将校とはいえ同年齢の人とは思えなかったという。

温暖の岐阜の山奥から、極寒骨を刺す真冬の羅南に来た我々は、
毎日が死ぬ苦しさの連続であった。
しかも西田教官の教育は陸士出だけあって厳しさには定評がありまさに辛苦の連続で、
こんな事くらいならいっそ死んでやろうかと、幾度思ったかも知れない。
忘れもしない大正十三年二月中旬の夜間行軍の時であった。
厳冬の羅南の夜は零下十度以下に下がる。
寒いというものじゃない。
痛いのだ。寒風で耳が千切れるように痛い。
すると西田教官から 「 耳袋をかけよ 」 と指示が出る、やれ嬉しやと一同は耳袋をかける。
しばらくして西田教官を見ると耳袋をしていない。
私は愕然とした。胸にジーンと西田教官の思いやりが沁みこんでくるのを感じた。
こうした一見何でもないような小さなしぐさの中に、西田教官の人柄がにじみ出ていた。
よし この人のためなら死んでも悔いはないと思った。
それから西田教官の教訓を胸にたたきこんだ。
これが私の生涯の指針となった
と、回想する

大正十二年、徴兵検査に合格、羅南の騎兵連隊第二中隊に入隊したのはその年の十二月十日であった。
西田少尉の教練は厳しく、全く息つく暇もない毎日であった。
大正十三年の春のことであった。右足裏に底豆が出来て歩くことが出来ないようになった。
医務室で切ってもらい、中隊で休んでいると西田少尉が来られ、
教練の時とはうって変わった優しい態度で激励された、
それから毎日のように見舞いに来られ、心のこもった言葉で慰めていただいた。
あの感激は今も忘れない
と、これが勝又が西田に抱いた敬慕のはじまりであった。
二ヶ月あまりの後、将校の現地戦術演習があり、西田少尉から指名されて当番兵として随行した。
驚いたことに新米少尉のくせに、聯隊本部の佐野少佐の地図をみて、
陣地設定はここが間違いですと訂正される。
また 中隊長の高島大尉も地図を出してちょっと見てくれと若い少尉に意見を聞かれる。
まあ西田少尉に一目をおいている態度がよくわかった。
あとで聯隊長の講評になって、聯隊長が西田少尉の戦術は誤っていると批評すると、
西田さんは奮然と立ち上がって抗議され、二人は例証をあげて議論されたが、
他の将校は見ているだけで口出ししない。
最後に聯隊長は 「 黙れ 」 と一喝して西田少尉を屈伏させたが、一部始終を見ていて驚いた。
とにかく信念をもっていかなる権威にもびくともしない毅然さに若い私は感動した。
あれが男惚れというものであろう。
全く惚れぼれした。
私もまた西田さんに劣らないような生き方をしようと決心した。
と、勝又は語った。

親泊朝省と西田税少尉
大正十二年三月 陸軍士官学校予科を卒業した親泊は、
四月上旬羅南騎兵第二十七聯隊第二中隊に士官候補生として入隊した。
ここには新品少尉として三期先輩の西田税がいる。
この日から六ケ月、親泊は西田の薫陶をうけるのである。

「 四月の終りの日曜日だったと思う。親泊が目を輝かしてやって来た。
『 うちの隊の西田少尉はすごい人だ。
股ぐらの腫れものを小刀で自分が切って膿を出しているんだ。 豪胆な人だねえ 』
と いうのだ。
おそらく西田さんは軟性下疳になっていたんじゃないかと思う。俗に横痃ねという奴だ。
また別の日、西田さんの講義を聞いたといって、受売りするんだ。
内容は忘れたが、とにかく人間が純粋で熱血漢、その憂国の至誠は幕末の志士を思わせると言う。
大分 西田さんに傾倒していたな、これがぼくが西田さんの名を聞いた最初であった 」
と、隣の歩兵第七十三聯隊に入隊していた同期の大蔵栄一は生前語っている。
菅波三郎はその頃、
鹿児島の歩兵第四十五聯隊に入隊し、
聯隊の満洲駐箚ちゅうさつとともに、南満州の遼陽にいたが、
ある日来た親泊からの手紙に、
「 羅南にはすばらしい先輩がいる。是非君に会わせたい人だ 」
と、西田税の名がしるされてあった。
菅波が西田の名を聞いた最初であった。

「 親泊さんは沖縄の貴族ということであったが、将校によくある威張った所は少しもなく、
純情、清潔な人柄であった。
第二中隊に来られると一見して西田さんに傾倒してしまった。
惚れ込むと言った方が適当かな、とにかく暇さえあれば西田さんの部屋に行っていた。
ある日、こんなことがあった。
所用があって西田さんの部屋に入ると、西田さんは涙を流しながら論じている。
親泊さんはその前に頭をうなだれて、これも涙をふいているんだ。
まあ異様な雰囲気であったが、恐らく国家の現状を論じて西田さんが憤慨し、
昂奮のあまり二人で泣いていたのではないかと思う
・・その頃第二中隊の伍長であった阿部政太郎の追憶談
西田は恐らくこの純情可憐な後輩に、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制、
その中に組みこまれた日本の立場、アジアの現状などを語り、
大アジア主義から国家改造論まで、恐らく思想教育、革命教育もやったと思われる。
羅南時代 西田は部下にこう語っている。
「 日本の軍隊は天皇陛下の軍隊である、故に皇軍という。
御稜威みいつの下、至仁至慈 つねに正義を行う軍隊である。
従って不正不義はいささかも許されない 」
として、軍人勅諭を引用し、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の項目を述べ、
これはひとり軍人のみならず
すべて日本人の宝、心の宝として守るべき道であると諭すのが常であった。
「 軍人勅諭には進んで外国と戦えとは一言も仰せられていない。
皇軍は国土、国民の独立と安全を守るのが使命である。
帝国の独立が侵されんとした時は、起って外敵を撃退し、
国家国民を保護するのが使命であると仰せられている。
利欲や殖民地獲得のため、他国を侵略するような欧米の軍隊とは、
根本的に異なるのが我国の軍隊である 」
「 文句は幾分違うかも知れないが、大体の訓示の内容はこのようであった 」
「 故に軍隊は上下一致して王事に勤労する聖なる集団であるから、
古兵が新兵を殴ったり、将校が兵を私用にこき使うことは許されないことだ 」
として、兵とおなじように営舎内ではスリッパを履いていた。
・・勝又代作談

西田のこれらの言動が、親泊の生涯にどれだけかかわりをもったかわからない。
しかし純真な少年時代に受けた強烈な印象は、生涯頭の中から離れないものである。
ましてや純情で生一本な親泊が、
その士官候補生時代に受けた西田の異色な教育ぶりは、
心中何の痕跡も止めなかったとは思われない。

二・二六事件 青春群像 須山幸雄 著
生きていた西田教育 から


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