あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 殿下、ここが、有名な安来節の本場でございます 」

2017年08月06日 13時18分06秒 | 西田税

西田税 
山陰路の秩父宮
年が明けて大正十四年の新春を迎えた。
昨秋から鬱屈した思いの西田を、狂喜させる一通の手紙が舞いこんだ。
東京の曾根田泰治からで、
今度 秩父宮が九州から、山陰路の御旅行をなさる。
二月十六日東京を御出発、三月六日松江市の皆美館でお泊りの予定だ。
殿下は是非会いたいと仰せられている、
との 手紙である。

大正十四年二月十六日、
秩父宮は 厳島神社をふりだしに、旅行の途につかれた。
北九州、阿蘇山、鹿児島、宮崎、と 巡り
帰路は山陰・島根県の出雲大社、
そして 三月六日、島根県知事別府総太郎の先導によって美保神社を参拝され、
その夜松江の皆美館に宿泊された。
この夜は町中はお祭りのような賑わいであった。
市内の男女中等学校生徒は提灯行列をするし、
夕食の時間には皆美館前の宍道湖上に屋形船を浮べ、
三味線、太鼓の伴奏でにぎやかに安来節をお聞かせする趣向であった。
九時四十分に食膳に向われ、終ったのが十時二十分であった。
夕食後、西田税は陸軍騎兵少尉の軍装でお目にかかっている。
十一時半頃まで大体一時間ほどお話ししたようだ。
「 お夕食後、米子の西田少尉という士官学校の同級の方が訪問され、
永らくお話になっていました。
西田少尉が帰られてから殿下は隣の部屋に並べてあったスキーの道具をとられ、
二荒さんを相手に楽しそうにスキーのお手入れをなさっていらっしゃいました。
お休みになられたのは午前一時頃だったと思います 」
と、皆美与蔵はその夜の秩父宮の動静を、新聞記者に語っている。 ( 三月七日付松陽新報所戴)
翌七日は天候が一変した。
雪まじりの氷雨が降り、風も強い。
秩父宮は女中たちが感激したほど丁重に挨拶され、午前八時松江駅発の汽車で米子に向われた。
西田もおそらく前晩お願いして、車中でいろいろと意見を言上したいと申し上げていたものであろう。
米子までの五十分の間、随員たちを遠ざけて秩父宮と二人だけ対座している。
何を申し上げたかは、およそ推測できる。
それは
「 祖国の空を蔽へる暗雲、愈々濃かにして、同志の運動亦漸次自然化し来り、
大事決裂の日、甚だ遠からざることを予感せるによりて、日本の最高我が、
更生的大飛躍を決意せらるべき、機到来せしを進言する所のものである 」
と、自伝に書いているように、
わが国が当面している諸問題を分析し、
このまま放置したならば、題辞が起きるかも知れぬと国家改造運動の動静を述べ、
自ら進んで軍籍を退き、この運動に挺身したいと言上したものであろう。
これに対して秩父宮も、よく西田の真意を理解されたと思われる。
「 私も殿下の斯くの如き程の御信任に対して、一身も鴻モウり軽き程の決心をいたしています 」
と、西田は義兄への手紙に書いているところをみると、
秩父宮も
「 皇族としていろいろな制約があって、自分の思い通り行かない所はあるが、
できるだけ力になってやろう 」
ぐらいな事をおっしゃったかも知れない。
安来駅のところで、西田が
「 殿下、ここが、有名な安来節の本場でございます 」
と 申し上げると、
「 それ位のことは知っているよ 」
と 秩父宮がおっしゃったぐらいだから、
同期という気安さで、かなり突っこんだ話をしたと思われる。
この汽車は 松江まで お出迎えした鳥取県知事白上祐吉、西伯郡長真野庄太郎、
米子町長西尾常彦らが同乗していた。
西尾常彦は稀に見る町長と言われ、その後昭和二年に市制を布き初代市長となった名望家である。
「 西田が秩父宮様と汽車で御同車して談笑していたことは、
出迎えの西尾町長がびっくりして帰って役場で話し、町中の大評判になったものだ。
今とちがって、天子さまの第二皇子といえば、それこそ雲の上の人、
町長も署長でも緊張してコチコチに固くなっていたものだ。
それを町の名もない仏具屋の子倅にすぎない西田が、殿下とさしで話していたというのだから、
町の評判にならぬ筈がない。
西田の奴、大したもんだ。
陸軍大将間違いなしだというので同級生は、わが事のように喜んだのを記憶している。
それが間もなく軍人を止めたという噂に、またまた びっくりしたものだ 」
と、これは西田と米子中学で同級だった福島哲の回想である。 ( 元県立高等学校校長、境港市在住 )
「 弟の弼ただしも町の人にまじって、駅前にお出迎えに行っていたようです。
郡長さんが見つけて 『 君の兄さんはどうして殿下にあんなに親しいのか 』 と聞かれたと、
あとで話していました。
弼がどう答えたか忘れましたが別の日、西尾町長が母に、
殿下と税が車中で親しくお話ししていたありさまを話し
『 勤王家の親父が生きていたら感泣しただろうに 』 と 言われたそうです 」  ( 村田茂子)
秩父宮は米子駅で下車され、ここから自動車で郊外の安養寺に向われた。

五時十分以西小学校に帰られた秩父宮は、再び軍服をお召しになり車で赤崎駅に向われた。
西田税が船上山頂までお伴したかどうか明らかではないが、
赤崎駅でお見送りの中にいたことはたしかである。
米子から随行してきた地元の人々は、ここでお別れする。
西田もここでお別れのご挨拶を申し上げた。
秩父宮は一人一人に丁寧にお礼を述べられ、
西田には
「 くれぐれも身体には気をつけ給え 」
と、声をかけられた。  ( 角田安福)
午後六時七分 汽車は鳥取に向って動き出した。
しだいに速度を増して去る汽車に向って、
西田はしばらくの間、じっと頭を垂れ、
敬虔けいけんな態度でお見送りをしていた。

大正十四年三月十三日
当時 福山駅に勤めていた
次姉村田茂子の夫、秀善に宛てた西田の手紙

「・・・・
なれども今度は軍人以外なる大事業に専念のため、
又 陸軍も私の健康に心配した結果、
恐らく五月と思ひますが、
退職の上、浪人の群に這入るやうに手続が終わりました。
先日 秩父宮御来陰の節も、
東京御出発の際の御召きにて、六日夜、松江御旅舎に伺候しました。
そして七日は赤崎まで御送りいたしまして、
松江米子間の列車では一切の侍官随員を退けて、
二人御召車内にて重大なる秘密事項を協議いたしました。
光栄を通りこした次第、
それで軍人以上の大事業の意味も御わかりになると思ひます。
とに角、殿下---摂政宮の御心と一致した大事業なんです。
私も殿下の斯くの如き御信任に対して、
一身も鴻毛こうもうより軽き程の決心をいたしてゐます。
決して一門のために汚名をあげない。
詳しきことは数年以内にわかりませう。
軍人生活の十年---それは思ひ無量のものです。
さり乍ら 理想のためには、
抛棄ほうきすとも悔ゆる所なかるべき性質のものでなくてはなりませぬ。
決して退職をきかれて驚かるることはありませぬ。
御放念下さい。
当地方では私に注目してゐます。
それは殿下と余りといへば 余りに親し過ぎるからです。
凡俗何ぞ この深き志を知らんやです。
来月上旬頃、いよいよ 大事業着手のため上京の予定です。
一日位御邪魔いたしたいと思ってゐます。
羅南では 私の退職することを知って
---その深い原因も知らずに、
将校連中が、聯隊長に詰問して、大いに留任運動をやらかしたそうで、
好意謝するも及ばず、
唯々この心事を諒解せざるこことを笑止の至りと苦笑を禁じ得ませぬ
・・・・」
この時、西田は二十五歳
いくらか年少気鋭の客気がかんじられないでもないが、
信頼する義兄に感激と抱負を語りかけているのである。
「 弟は筆まめな性でしてね。
よく手紙やハガキをよこしましたけど、ほとんど無くしてしまって、
でもこれは数年前、主人の行李を整理した時、
偶然見つけて大切に保存しておいたのですよ。
こんなになるんだったら、
一本のハガキも大切にしておけば良かったと思っているんですよ 」
姉の村田茂子はこう語って、ハンカチで目がしらをおさえた。
・・・須山幸雄著  西田税 二・二六への軌跡 から


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