あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

暗黒裁判 ・ 幕僚の謀略 2 『 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 』

2022年11月20日 14時45分46秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達

昭和十年十二月頃、
ある青年将校は山口大尉に

「 我々第一師団は来年の三月には北満へ派遣されるんです。
防波堤の我々が東京を空にしたら、侵略派の連中が何を仕出かすか知れたものじゃありません。
内閣がこう弱体では統制派の思う壷にまた戦争です。我々は今戦争しちゃ駄目だ 」
と  述べている。
青年将校は主に東京衛戍の第一師団歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊
および近衛師団近衛歩兵第三聯隊に属していたが、
第一師団の満洲への派遣が内定したことから、彼らはこれを 「 昭和維新 」 を 妨げる意向と受け取った。
まず相澤事件の公判を有利に展開させて重臣、政界、財界、官界、軍閥の腐敗、醜状を天下に暴露し、
これによって維新断行の機運を醸成すべきで、決行はそれからでも遅くはないという慎重論もあったが、
第一師団が渡満する前に蹶起することになり、実行は昭和十一年二月二十六日の未明と決められた。
西田等は時期尚早であるとしたが、それら慎重論を唱える者を置き去りにするかたちで事件は起こされた。

二月二十八日、決起部隊の討伐を命ずる奉勅命令を受け取った戒厳司令官の香椎浩平中将も、
蹶起将校たちに同情的で、何とか彼らの望んでいる昭和維新をやり遂げさせたいと考えており、
すぐには実力行使に出なかった。
本庄侍従武官長は何度も蹶起将校の心情を上奏した。
このように、日本軍の上層部も含めて 「 昭和維新 」 を助けようとする動きは多くあった。
しかしながら、これらは全て昭和天皇の強い意志により拒絶され、蹶起は鎮圧された。
蹶起将校の思惑は外れたのである。


昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が    胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
「 昭和維新の歌 」 を高唱しながら 三宅坂方面に向い行進する安藤隊

( 二・二六事件後 ) 岳父の本庄大将に宛てて
「 三年ばかり前に私はある勧誘を受けました。
 それは万一、皇道派の青年将校が蹶起したら、これを機会に、青年将校および老将軍連中を一網打尽に討伐して
軍権政権を一手に掌握しようという大策謀であります。計画者は、武藤章、片倉衷、それから 内務省警保局の菅太郎であります 」
という文章を書き送った。
 ・・・山口一太郎  ・・・福本亀次 『 兵に告ぐ 』  ・・・眞崎談話 『 今回の黒幕は他にある事は俺には判って居る 』

幕僚の謀略

「 政治的非常時變勃發に處する對策要綱 」

序文

帝国内外の情勢に鑑み・・・国内諸般の動向は政治的非常事変勃発の虞 おそれ 少なしとせず。
事変勃発せんか、究極軍部は革新の原動力となりて時局収拾の重責を負うに至るべきは必然の帰趨 きすう にして、
此場合 政府 並 国民を指導鞭撻し禍を転じて福となすは緊契 ママ の事たるのみならず、
革新の結果は克く国力を充実し国策遂行を容易ならしめ来るべき対外危機を克服し得るに至るものとす。
即ち 爰 ここ に軍人関与の政治的非常事変勃発に対する対策要綱を考究し、万一に処するの準備に遺憾なからしむる。
「 対策要綱 」 の実施案

(一) 事変勃発するや直ちに左の処置を講ず

イ、後継内閣組閣に必要なる空気の醸成
口、事変と共に革新断行要望の輿論惹起並尽忠の志より資本逃避防止に関する輿論作成
ハ、軍隊の事変に関係なき旨の声明
但社会の腐敗老朽が事変勃発に至らしめたるを明にし一部軍人の関与せるを遺憾とす
(二) 戒厳宣告 ( 治安用兵 ) の場合には軍部は所要の布告を発す
(三) 後継内閣組閣せらるるや左の処置を講ず
イ、新聞、ラジオを通じ政府の施政要綱並総理論告等の普及
ロ、企業家労働者の自制を促し恐慌防止、産業の停頓防遏、交通保全等に資する言論等に指導
ハ、必要なる弾圧
( 検閲、新聞電報通信取締、流言輩語防止其他保安に関する事項 )
(四) 内閣直属の情報機関を設定し輿論指導取締りを適切ならしむ 
・・・片倉衷・『 片倉参謀の証言 叛乱と鎮圧 』

予測される青年将校が蹶起に際し、その鎮圧過程を逆手にとり、

自分達の側がより強力な政治権力を確立するための好機として利用しようという
構想 をまとめたもので、
昭和九年に片倉衷等が作っていたもの。

この 「 要綱 」 は、国内において軍人による事変が勃発することを予見しつつ、
併せて、国力充実のため、国家体制の革新が求められているとの基本認識 に立って、
こうした事変勃発を逆に利用して軍部自らは直接手を汚すことなく、
しかも結果的に 『 革新の原動力 』 たらんとする意思を明確に打ち出したもの。
それは、青年将校等の国家改造案とは異なり、
緻密な計画性と戦略をもった、統制派の省部幕僚による反クーデター計画案であった。
統制派幕僚は、いつ青年将校が蹶起しても素早く対応できるよう、既に万全の体制を整えていた。
「 彼等が非合法的な何かをやるのではないか
逆にそれを利用して新しい世界に導くこともできるのではないかと考えたのです。
昭和九年一月四日に『 政治的非常事態勃発に処する対策要綱 』 をまとめた。
これが二・二六事件のとき、暴徒鎮圧に役立った。
二・二六事件の時の戒厳令は、私が中心になって作った対策要綱が原案になって居るんです 」
・・・片倉衷

死刑は既定の方針


 
武藤章中佐             片倉衷少佐
二・二六事件の時、武藤章は軍事課の高級幕僚ですね。そして我々を真向からつぶした。
当時の軍事課長は村上啓作大佐で、村上さんは何かと蹶起将校のメンツが立つようにしてやろうと思っていた。
しかし、部下の武藤が徹底的にぶっつぶそうとして、結局勝ったわけですね。
・・・池田俊彦

二月二十八日、陸軍省軍務局軍務課の武藤章らは厳罰主義により速やかに処断するために、
緊急勅令による特設軍法会議の設置を決定し、
直ちに緊急勅令案を起草し、閣議、枢密院審査委員会、同院本会議を経て、
三月四日に東京陸軍軍法会議を設置した。
法定の特設軍法会議は合囲地境遇戒厳下でないと設置できず、
容疑者が所属先の異なる多数であり、管轄権などの問題もあったからでもあった。
特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、
裁判官の忌避はできず、一審制で非公開、かつ弁護人なしという過酷で特異なものであった。
向坂春平陸軍法務官らとともに、緊急勅令案を起草した大山文雄 陸軍省法務局長は
「陸軍省には普通の裁判をしたくないという意向があった」 と 述懐する。
事件後、東条英機ら統制派は軍法会議によって皇道派の勢力を一掃し、
結果としては統制派の政治的発言力が強くなった。
東京陸軍軍法会議の設置は、皇道派一掃の為の、統制派による謀略であった。
そして
迅速な裁判は、天皇自身の強い意向でもあった
特設軍法会議の開設は、枢密院の審理を経て上奏され、
天皇の裁可を経て三月四日に公布されたものである。
この日、天皇は本庄繁
侍従武官長に対して、裁判は迅速にやるべきことを述べた。
「 軍法會議の構成も定まりたることなるが、
相澤中佐に對する裁判の如く、優柔の態度は、却って累を多くす。

此度の軍法會議の裁判長、及び判士には、正しく強き將校を任ずるを要す 」
裁判は非公開の特設軍法会議の場で迅速に行われた。
その方法は、審理の内容を徹底して 「 反乱の四日間 」 に絞り込み、
その動機についての審理を行わないことであった
これは先の相澤事件の軍法会議が通常の公開の軍法会議の形で行われた結果、
軍法会議が被告人らの思想を世論へ訴える場となって報道も過熱し、
被告人らの思想に同情が集まるような事態になっていたことへの反省もあると思われる。
二・二六事件の審理では非公開で、動機の審理もしないこととした結果、
蹶起した青年将校らは 「 昭和維新の精神 」 を 訴える機会を封じられてしまった
事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して、匂坂春平陸軍法務官  ( 軍法会議首席検察官 ) 等がこれに当る。


「 血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した 」
という形で世に公表された。
・・・軍の責任転嫁 「 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 」

陸軍首脳部は蹶起将校等が、
蹶起目的の本義を統帥権者である天皇に帷幄上奏を企てた事、
さらには皇族を巻き込んだ上部工作が進められた事、
これらを陸軍首脳が隠蔽しようとしている真実を
軍事法廷で国民に向けてアピールする事を危惧した。
相澤事件公判がそうであったように、公判闘争が繰り広げられたなら、
軍は国民の信頼を失い、国民皆兵の土台さえ揺るがしかねない。
だから、こうした危惧を払拭するために
筋書を拵えたのである。

拵えられた筋書
・事件は憂国の念に駆られた将校達が起こした。
・あくまで計画性はない。
・要求項目にも 畏れ多くも陛下の大権私議を侵すものはなかった。
・純粋な将校達は、ひたすら昭和維新の捨石になろうとした。
・事件の収拾過程で北一輝や西田税に引きずられたに過ぎない。
・悪いのは陸軍ではない。無為無策な政治家と仮面を被った社会主義者だ。
岩淵辰雄は、( 近衛文麿のブレーンとして知られ新聞記者を経て戦後は政治評論家として活躍した  ) 
戦時中、昭和二十年四月の憲兵隊係官との会話を戦後になって次の様に記す。
「 二 ・二六事件をどう思うか 」
と云うから 知らないといったら、
「 それは判らないだろう、世間に発表したのは、
 あれは拵
こしらえたものだから、
ほんとうの真相を知っている者はないはずだ 」
これは恐らく不用意に云ったことだろうが、このちょっとした断片によって窺知きちし得らるるように、
二 ・二六事件としてこれまで世間に公にされたことが、実は 陸軍の首脳と憲兵隊とで捏造され、
歪曲されたもので、ほんとうの真相ではなかったのである。・・・岩淵辰雄 『 敗るゝ日まで 』
ここには軍事法廷で、
軍権力の手で組織的に真実が捏造され、歪曲され、隠蔽封印されたことが、
憲兵隊の口から仄めかされている。
そうした 拵えたシナリオを具体化する場として 暗黒裁判 が要請されるのだ。
三月四日に天皇臨席のもと 枢密院で、
緊急勅令 「 東京陸軍軍法会議に関する件 」 が可決成立、即時交付施行される。
こうして東京陸軍軍法会議が二・二六事件の軍法会議として成立する。
これは陸軍軍法会議法が定める 「 特設軍法会議 」 にあたった。
本来、この規定が適用されるのは戦時中や戒厳令が布かれている地域など、
あくまで応急で臨時の法廷を想定した特別措置にすぎなかった。
その形式を借りて二・二六事件は裁かれる。
こうしてドサクサに紛れて 暗黒裁判 を行う基盤が整ったのだった。
その意図は明白だ。
「 その行為たるや憲法に違ひ、明治天皇の御勅諭に悖り、國體を汚し、
その明徴を傷つくるものにして、深くこれを憂慮す 」

という、天皇の意志を背景に、全てを闇に葬り去ろうとしたのだ。
特設軍法会議では弁護人もなく非公開、一審のみで公訴上告はおろか裁判官の忌避も認められない。
「 軍法会議は暗いものだった。そこには軍司法の権威はなかった。歪曲された軍に屈従する軍法の醜態であった 」
 
ある判士によれば、心構えとして こう指示された。
「 一つだけ記憶に残っているのは、判士は予審調書をシッカリ読め ということでした 」

判士たちは旅館に籠り、倉庫の山積みになっていた調書を読むことに没頭したという。
つまり 軍首脳陣が 拵えたシナリオ によって予審調書がすでに作成されており、
その指し示す方向性に従って判士たちが行動することが要請されたと云えよう。
・・・鬼頭春樹 著  『 禁断 二・二六事件 』 から

暗黒裁判
幕僚の謀略 2  
『 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 』
目次
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・ 
拵えられた裁判記録 
・ 君側 1 『 大命に抗したる逆賊なり 』 
・ 奇怪至極の軍法會議 ・・・橋本徹馬
・ 暗黒裁判と大御心  
・・・大蔵榮一
暗黒裁判 (一) 「 陸軍はこの機會に嚴にその禍根を一掃せよ 」
・ 
暗黒裁判 (二) 「 將校は根こそぎ厳罰に処す 」
・ 
暗黒裁判 (三) 「 死刑は既定の方針 」
・ 暗黒裁判 (四) 「 裁判は捕虜の訊問 」
・ 暗黒裁判 (五) 西田税 「 その行爲は首魁幇助の利敵行爲でしかない 」
・ 
暗黒裁判 ・ 反駁 1
・ 
暗黒裁判 ・ 反駁 2
・ 叛乱に非ず、叛乱罪に非ず  『 大命に抗したる逆賊に非ず』
最期の陳述
・ 二・二六事件 『 判決 』

小川関治郎陸軍法務官を含む軍法会議に於て公判が行われ、青年将校・民間人らの大半に有罪判決が下る。


匂坂春平は後に 「 私は生涯のうちに一つの重大な誤りを犯した。その結果、有為の青年を多数死なせてしまった、それは二・二六事件の将校たちである。
検察官としての良心から、私の犯した罪は大きい。死なせた当人たちはもとより、その遺族の人々にお詫びのしようもない 」
と 話したという。  そして ひたすら謹慎と贖罪の晩年を送った。

「 二・二六事件の原因動機に付きまして、寺内 ( 前 ) 陸相は叛乱行動迄に至れる彼等の指導精神の根底には、
我が国体と絶対に相容れざる 極めて矯激なる一部部外者の抱懐する
国家革命的思想が横たはつて居ることを見逃す能はざるは 特に遺憾であると、
特別議会で御報告になつたのでありますが、
苟も陸軍幼年学校、士官学校、大学校等に於て 陸軍独自の教育を受けた者、
殊に国体観念に於ては 一般の国民よりも一層徹底した信念を持つて居らなければならぬ帝国の軍人たる者が、
寺内 ( 前 ) 陸相の御話のやうに一部の浪人とも看做みなされるやうな者の、
国体と相容れない思想に動かされ指導されたと言ふやうなことは 吾々は断じてあり得べからざることと確信して居る者であります。
随つて当時、私は寺内陸軍大臣の所謂国体と絶対に相容れない思想とは如何なるものであるか
と言ふことを質問致したのでありますが、之に対しては御答弁がありませんでした。
・・・
第七十回帝国議会の議場で政友会の今井新造代議士の質問 

「 古ヨリ 狡兎死而走狗烹 吾人ハ即走狗歟 」

いろいろと娑婆からここに来るまで戦ってきましたが、今日になって過去一切を静かに反省して考えて見ますと、
結局、私達は陸軍というよりも軍の一部の人々におどらされてきたことでした。
彼等の道具に、ていよく使われてきたというのが正しいのかも知れません。
もちろん、私達個々の意思では、あくまでも維新運動に挺身してきたのでしたが、
この私達の純真な維新運動が、上手に此等一部の軍人に利用されていました。
今度の事件もまたその例外ではありません。
彼等はわれわれの蹶起に対して死の極刑を以て臨みながら、しかも他面、事態を自己の野望のために利用しています。
私達はとうとう最後まで完全に彼等からしてやられていました。
私達は粛軍のために闘ってきました。
陸軍を維新化するためにはどうしても軍における不純分子を一掃して、挙軍一体の維新態勢にもって来なくてはなりません。
われわれの努力はこれに集中されました。
粛軍に関する意見書のごときも全くこの意図に出たものでしたが、ただ、返ってきたものはわれわれへの弾圧だけでした。
そこで私達は立ち上がりました。 維新は先ず陸軍から断行させるべきであったからです。
幕僚ファッショの覆滅こそわれわれ必死の念願でした。
だが、この幕僚ファッショに、今度もまた、してやられてしまいました。
これを思うとこの憤りは われわれは死んでも消えないでしょう。
われわれは必ず殺されるでしょう。 いや、いさぎよく死んで行きます。
ただ、心残りなのは、われわれが、彼等幕僚達、いやその首脳部も含めて、
それらの人々に利用され、彼等の政治上の道具に使われていたことです。
彼等こそ陸軍を破壊し国を滅ぼすものであることを信じて疑いません。
・・・村中孝次

私達は間違っておりました
聖明を蔽う重臣閣僚を仆
す事によつて
昭和維新が断行される事だと思って居りました処
国家を独するものは重臣閣僚の中に在るのではなく
幕僚軍閥にある事を知りました
吾々は重臣閣僚を仆す前に
軍閥を仆さなければならなかったのです 
・・・山王ホテルでの安藤大尉の絶叫である


暗黒裁判と大御心

2021年12月02日 18時41分49秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


陸軍省は午前十一時五十分
「 曩さきに東京陸軍軍法会議に於て 死刑の言渡を受けたる
  村中孝次  磯部浅一  北輝次郎 ( 一輝 )  及 西田税の四名は
本十九日 その刑を執行せられたり 」
と 発表した
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大蔵榮一  
二・二六事件への挽歌 

・・・北一輝、西田税が村中、磯部とともに殺されたことをきいた。
それは八月十九日のことであった。

北 ・西田はなぜ殺されたか
北一輝、西田税を殺した軍当局ヲ、私は心から憎んだ。
私はこのことをきいたときから、怏々おうおうとして楽しまなかった。
軍は殺すべからざる人々を殺した。
なぜ殺したか・・・・?
軍がこの無暴と思える強圧的ナ暴挙をあえて行ったのには、よってきたる原因がなければならぬ。
多くの事件関係の資料が出そろった今日、
特設軍法会議の裁判が全くの暗黒裁判であったことは、すでに明瞭となっている。
事件当初、軍は蹶起部隊ヲいち早く東京警備司令部に編入し、
戒厳令が施行されるや、戒厳部隊として南麹町地帯の警戒に任ぜしめている。
・・・リンク ↓
・ 命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戰時警備部隊トシテ警備に任ず 」 
・ 戒嚴令 『 麹町地區警備隊 ・ 二十六日朝来來出動セル部隊 』 

かてて加えて 『 大臣告示 』 を出して、その真意または行動を認めている。
そのことはあとで眞﨑、荒木の陰謀に引きずられたのだと、弁解めいたことが流布されているが、
コレハトルニタラヌ強弁であって、事実は軍当局の責任において、
その不手際を甘受しなければならぬ性質のものである。
だが、軍当局はその責任をひたすら隠蔽し、回避するために、
『 奉勅命令 』 というオールマイティーをもって、命令下達しないまま、
命令に抗したと称して 『 叛乱罪 』 という極刑に処してしまった。
奉勅命令 』 というのは、
蹶起部隊は現在地を速やかに撤去して原隊に復帰せよ
との命令であった。
かりに命令が下達されて ただちにこれに従わなかったとしても、
それは 『 抗命の罪 』 であって、決して叛乱の罪ではなかったのだ。
叛乱というのは天皇に弓をひくことであって、
妖雲を排し天皇の真姿を仰ぎ奉らんと念願して、起チ上がった青年将校らに、
どうして天皇に弓をひくような不逞な意図があったといえようか。
そのくらいのことは軍当局は百も承知の上であったはずだ。
それをあえて 『 叛乱罪 』 として処分するためには、
北一輝と西田税を首謀者にでっち上げることが必要であった。
彼らにいわしめると、北、西田の思想は国家ヲ顚覆しようとする不逞の思想である。
北の 『 日本改造法案大綱 』 や 『 国体論及び純正社会主義 』 などの著書をことさら曲解して、
わが国体に相容れないものとして、
青年将校はその不逞の思想にまどわされたのである。
だからこそ、北、西田は首魁であり、青年将校は天皇に弓をひくことになった、
というのである。
この強引なでっち上げを、あえて行ったその裏には、
見落とすことのできない重要な鍵があった。
この鍵こそ、事件に対する天皇の激しいお怒りであった

「・・・・朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此かくノ如キ兇暴将校等
  其精神ニ於テモ何ラ恕じょスベキモノヤ 
ト仰セラレ、又或時ハ、
朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク殪スハ、眞綿ニ朕ノ首ヲ締ムルニ等シキ行爲
ト漏ラサル。
之ニ對シ、老臣殺傷ハ固ヨリ最惡ノ事ニシテ、
事下令たとい誤解の動機ニ出ヅルトスルモ、
彼等將校トシテハ斯クスルコトガ國家の爲ナリトノ考ニ發スル次第ナリト重テ申上ゲシニ、
夫ハ唯ダ私利私慾ノ爲ニセントスルモノニアラズ ト云ヒ得ルノミ
ト仰セラレタリ 」 ( 二月二十七日 )

天皇の激怒のご様子は、この二月二十七日の 『 本庄日記 
』 によって、うかがい知ることができる。
いかに天皇であらせられても、なま身の人間である以上、
信頼する重臣が殺害さるれば、激しい怒りを感ぜられるのは当たり前のことである。
お怒りにならない方が、むしろ不思議というべきであろう。

二月二十八日午後、青年将校が自決して罪を陛下に謝し、
兵は原隊に復帰せしむるに決し、
せめてその自決には侍従武官のご差遣さけんをお願いしたいと申し出たとき、
本庄繁武官長はそのことを伝奏した。
「 繁ハ、斯かかルコトハ恐ラク不可能ナルベシト躊躇セシモ、
  折角ノ申出ニ附キ一應傳奏スベシトシテ、御政務室ニテ右、陛下ニ傳奏セシ処、
陛下ニハ非常ナル御不満ニテ、
自殺スルナラバ勝手ニ爲スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ
ト仰セラレ、又
師團長が積極的ニ出ヅル能ハズトスルハ自ラノ責任を解セザルモノナリ
ト、未ダ嘗テ拝セザル御気色みけしきにて嚴責アラセラレ、
直チニ鎭定スベク嚴達セヨ
ト嚴命ヲ蒙ル 」 ( 二月二十八日 )
この二月二十八日の 『 本庄日記 』 にも、
天皇激怒の人間的感情がむき出しに現わされていることがうかがえる。
・・・リンク → 騒亂の四日間 

胸えぐる磯部の直言
ご政道の上において、人間的感情は天皇道には禁物である。
天皇といえども万全ではない。
時には誤りを冒すこともあり得よう。
そのときにこそ、大道念に徹した剛直の士の直諫によって、
ご政道に過誤なきを期せねばならぬ。
高御座たかみくらにつかせられた天皇と、自然人天皇とが調和するところに、
他に類例をみない高次の権威がある。
これが日本の国がらであるのだ。
それがバラバラになったとき、冷たいすきま風が吹き込んで、日本の存立は危くなる。
神が人と国土とを生み、神人合一して人と国とが生命的に生成発展するというのが、
古来より伝わる大和民族の発想法であった。
明治天皇は、億兆ひとりとしてそのところを得ざれば朕が罪、と仰せられた。
万民の苦しみをみずからの苦悩として体感される天皇のお姿に、
われわれは神の姿を仰ぐのである。
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嗚呼十有五烈士
懐十五士涙潸々 放聲
名尚如存
噫周日前臨刑晨  唱和國歌祈聖壽
皇城頭期爲一魂  從容就死鬼神泣
遠雷砌獄舎漸昏  宛似英魂呼両人
昭和十一年夏爲大蔵氏  村中孝次

・・・
リンク → あを雲の涯 (三) 村中孝次
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村中孝次の書きつづった獄中遺書の中に 『 天皇に直通直参 』 という言葉が、随所に出てくる。
これは神人合一の神のみすがたであらせられる、天皇に直参するということだ。
昭和の時代は、天皇は大内山の奥深くまつり上げられて、
側近の重臣によって万民とのつながりを断ち切られていた。
『 二 ・二六事件 』 は、いいかえれば大内山に立ちこめる妖雲を払って、
天皇に直参せんとした捨て身の蹶起であったのだ。
悲しいことに、それはたちまち天皇ご激怒という、予想だにしなかった事態に遭遇し、
結果するところは天皇に弓を引くという 『 叛乱罪 』 の汚名をきせられて、
恨みを呑む悲劇に終わった。

「 
竜袖にかくれて皎々不義を重ねて止まぬ重臣、元老、軍閥等の為に、
如何に多くの國民が泣いてゐるか

天皇陛下
此の惨タンたる國家の現状を御覧下さい、
陛下が、私共の義擧を國賊反徒の業と御考へ遊ばされてゐるらしい
ウワサを刑ム所の中で耳にして、私共は血涙をしぼりました、
眞に血涙をしぼつたのです
陛下が私共の擧を御きき遊ばして
「 日本もロシヤの様になりましたね 」
と 云ふことを側近に云はれたとのことを耳にして、
私は數日間気が狂ひました
「 日本もロシヤの様になりましたね 」
とは 将して如何なる御聖旨か俄にわかりかねますが、
何でもウワサによると、
青年将校の思想行動がロシヤ革命当時のそれであると云ふ意味らしい
とのことを ソク聞した時には、
神も仏もないものかと思ひ、神仏をうらみました
だが私も他の同志も、何時迄もメソメソと泣いてばかりはゐませんぞ、
泣いて泣き寝入りは致しません、
怒って憤然と立ちます
今の私は 怒髪天をつく の 怒にもえてゐます、
私は今、
陛下を御叱り申上げるところ迄、精神が高まりました、
だから毎日朝から晩迄、 陛下を御叱り申して居ります
天皇陛下
何と云ふ御失政でありますか、
何と云ふザマです、
皇祖皇宗に御あやまりなされませ 」
・・・リンク → 獄中日記 (五) 八月廿八日 「 天皇陛下何と云ふザマです 」
これは磯部浅一の 『 獄中日記 』 の八月二十八日の分であるが、
私はこのくだりを読むたびに血涙がしたたり、熱腸がしめつけられる思いがする。


軍の責任轉嫁 「 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 」

2021年11月19日 15時39分14秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


幕僚の筋書き

一、

事件直後の三月七日に、
第一師團參謀長、舞伝男少將が師團司令部において行った口演の要旨が、
全國の陸軍部隊に文書となって印刷配布されている。
この口演要旨がいかなる意圖で、事件直後早々に配布されたか・・・

第一師團參謀長口演要旨 ( 三月七日 午前十時於第一師團司令部 )
玆に諸官を會同せしは、事件の眞相を傳えて慿拠ひょうきょを得せしめんとするに在り、
學校配属將校にも此趣旨を傳えられ度、
一、禍を變じて幸となす覺悟を以て陸軍全般の建て直しを行うを要す

ニ、各省一致協力して不良分子の一掃を期しつつあり
三、師團は逡巡することなく善惡を判明せしむるべく努力しあり
四、此事件は皇軍を盗用して大命に抗したるものにして、此間用捨することは一つも無之、
 目下 西田税、北一輝を調査中にして、

彼らの思想は矯激にして
純眞なる將校が彼等と惡縁を結び判斷を誤りて彼等に動かされたるものにして、
斯の如き事は隊の靑年將校にも示して疑惑無き如くせよ
五、師團に於ては事件直後に於ける収拾、今後の建直しに努力しありて、
 是が眞の御奉公にして責任を避けんとする意志無し、
將兵一同昼夜心血を濺ぎ努力しある事、
此事が眞の御奉公の道なりと信ず
六、叛亂將校の態度は武士道に反し指彈すべきもの多々あるを遺憾とす、仮令たとえば、
(1)  大官を暗殺するに機關銃數十發を射撃して之を斃し、血の氣なくなりたる後、之に斬撃を加えたるものの如き

(2)  大元帥陛下を始め奉り 全國擧って憂愁に暮れる間に、叛徒は飲酒酩酊めいてい醜態を演じありたり
(3)  死すべき時來れるに一人の外、悉く自決するに至らざりき

七、事件の原因として漸く判明しつつある事項を擧げれば左の如し
(1)  叛亂軍幹部及び一味の思想は

 過激なる赤色團體の思想を、機關説に基く絶對尊皇の趣旨を以て僞装したる
北一輝の社會改造法案及び順逆不二の法門に基くものにして、
我國體と全然相容れざる不逞思想なり、
尊王絶對を口にするも内容は然らずして、
如何にも殘虐なる行爲をなして之を殘虐と考へざる非道のものなり

(2)  彼等が敵とせる財閥は之を恐喝して資金を提供せしめたる事實あり
(3)  我國家國軍を破壊するため、第三國より資金を提供しある疑あり、
 彼等の背景をなすものは職業的ブローカーにして、從來は最右翼のものなりき
叛亂軍幹部の中にも軍人精神、武士道の何物かを全く解せずして、
純然たる赤色ブローカーの色彩ありしことを逐次判明しつつあるを見る、
叛亂軍幹部の一部は全く之に欺瞞せられ、
千古拭うべからざる行動に荷担せること明かなり、

若し今日に至るも叛亂軍の行爲を是なりと考ふるものありとせば 全く言語道斷と云ふべし、
今後軍隊團結の鞏化、相互の敬愛教化に努め、國軍建設の爲に驀進ばくしんせんことを期す。
・・・以上 全文

三月七日といえば事件が終結してからわずか一週間後である。
まだ公判も開かれておらず、もちろん北、西田の取調べも進んでいない時である。
・・・事件処理に周章狼狽し、混亂を極めた不始末によって、
全國陸軍部隊に与えた動揺を収拾する一法として、
事件を起した一派を反國家的と惡しざまに誹謗することが、
軍自らの不手際を覆う一つの隠れ蓑となるとでも考えたのであろう。
・・・河野司 著  二 ・ 二六事件秘話 から

ニ、
今井清
軍務局長口達事項    昭和十一年三月五日
此の度は未曾有の不祥事を惹起し、
誠に遺憾至極にして陸軍當局としては只管謹愼しある次第なり。
之を契機として徹底的粛軍を斷行し、禍を變じて福となすを必要とす。
從て摘發檢擧捜査等には一切手加減斟酌しんしゃくを加えず、粛軍を断行する決意を以て、
陸軍大臣も夫々の處置を採られある次第なり。
關係各省に於ても完全に之に同意協力中なり。
此際綺麗さつぱり極惡の分子を一掃したきものなり。
各軍、師團に於ても、此れ等の点につきては毫末も躊躇することなく、
惡しきものは惡し、善いものは善しといふ点を判然と致され度。
叛亂の經過を見ても判る如く、兎に角 今度やつた事項は所謂皇軍を盗用し、
統帥權を干犯し、加之勅命に抗するといふ状態にして、
その間に毫末も容赦をする豫地なきは御承知の通りなり。
漸次調査の進行に伴ひ 西田税、北一輝等も捕縛し調査中なるも、
彼等の把握する思想關係が矯激にして我國體に副はざる思想なることは申す迄もなし。
かかる不逞の徒に純眞なる將校が惡縁を結び、
彼等に躍らされて理非曲直を誤ったのが、今次叛亂の實状なり。
此の辺の関係を若き將校等に十分説き示され度。
此の種不逞の徒と、思想的關係を結び居るもの、気脈を通ずるものは處置すべきは、
斷乎として處置すべきも、尚御國の爲に盡す豫地あるものは、早く眼を覺まして、
元來持つて居る純眞な氣分に立返て、御國の爲に盡す様指導あり度。
陸軍大臣に於ても本事件に關聯する非違犯行責任につきては上下に拘らず、
其れ其れの處置を採られ、先づ自ら範を示さるるものと確信しあり。
各師團等より從來の陸軍當局の態度が、徹底を欠くといふ懸念から鞭撻せらるる向あるも、
今回は決してかかる御心配は掛けざる覺悟なり。
事件の裏面に於ける關係も逐次明白となりつつある今日のことなれば、
此れ等の点も何卒安心せられ度。
事件の經過中、軍當局戒嚴司令部の採つた手段にも一二不審に思はるる點あらんも、
其れ等につきては已に説明ありし筈なり。
尚ほ 不審の點あらば十分に質され一点の誤解なき様にして帰られ度。
種々の機會に於て洩れ承る所に依れば、宮中におかせられても非常に宸襟を悩まされ、
宮中に出入の機會多き者程、一層限り無く恐懼し奉り居る次第なり。
其れ以上露骨に申上ぐることは、畏れ多ければ苟くも其の邊の眞相もよくお話願ひ度。
傳へ聞く所に依れば、陸軍大臣は本三月五日午後西園寺公の招きに依り宮中にて會見する豫定なり。
其の際軍部として、後継内閣首班並に内閣に對して、軍の要望せる重要事項を開陳せらるる筈なり。
此れ等に關しては何れ新大臣より開示せらるべきも、目下未だ其の時期に達しあらず。
尚今回の叛亂軍幹部が如何に武士道の精神を弁へざるかは次の諸點に見るも明なり。
一、大臣暗殺に當り機關銃を以て五十發も撃ち血の氣がなくなって後 刀にて切れり。
二、陛下の御宸襟を初め奉り、全國憂愁に閉されある叛亂中に於て、飲酒酩酊めいていの上亂痴気騒ぎを爲せり。
三、死すべき時に一人の外決行し得ず。
相澤事件公判につきても疑問を懐かるるならんも、
此の度の様なことが起こらない様に、曰ひたい事を曰はせ様といふのが大臣の方針なりしも、
此れが認識の誤なりしなり。
・・・現代史資料23  国家主義運動3  から
大御心 「 陸軍はこの機会に厳にその禍根を一掃せよ 」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
< 軍の責任転嫁 >
・・・東京で事件に直接参加したもの以外の将校は、出所させるということが、
外部でも取沙汰されていたようである。
事実当時の軍中央部の意見のなかにも、それがあったようである。
地方の青年将校の言動は、たとえそれが叛乱を利するものと思われるものであっても、
それは東京における三日間の不手際な処置による混乱に誘発されたものであり、
禍根は軍中央部にあるのだから深くとがむべきでないという意見である。
その一例が 『 猶輿 』 第一巻第六号所載の 「 二 ・二六裁判の方影 」 における次のA判士の意見にもみられる。
「 三日間も大義名分を混迷状態に放置したことからして、
  平素から彼等と志向を同じくする一部の軍人や常人の叛徒に対する支援、激励的活動を見たのであって、
その原因は全く、軍のこの不徹底なる態度にあります。」
『 猶輿 』 は終戦後、北一輝の実弟北昤吉が主宰した猶輿社の機関誌であって
「 二 ・二六裁判の方影 」 の筆者YSMは当時、北一輝、西田税の審理を担当した吉田判士長、
のちの 吉田悳 中将の匿名である。
本庄侍従武官長の 「 手記 」 にも、
「 此如命令、告示ありしに拘らず、事件鎮定直後、
  叛乱行為は営門を出でたるときより始まるものにして、此種命令は一の鎮定方便なりと主張せられあり。
然らざれば右説得文と云い、此命令告示と云い、法律的には皆、無作為の叛乱幇助罪を構成すると云う。」
とある。
右説得文と云い、此命令告示と云い 」 というのは 「 陸軍大臣告示 」 や、
同じ 「 手記 」 の
「 本朝来出動しある諸隊は、戦時警備部隊の一部として、
  新たに出動する部隊と共に師管内の警備に任ぜしめられるものにして、
軍隊相互間に於て絶対に相撃を為すべからず 」
などの蹶起部隊に与えた一連の命令告示を指しているのである。
公正な法の立場からいえば、軍首脳部も、本庄侍従武官長の 「 手記 」 によれば、
叛乱幇助罪に該当するわけであって、
それを不問に付して、東京の蹶起には直接関係しなかった地方の青年将校だけを、
処断することはできないはずだった。
が事実は軍首脳部のそれはうやむやに隠蔽して、
これらの青年将校だけが処刑されることになったのである。
特にその理不尽の最たるものが、北、西田の場合である。
北、西田の判士長、のちの吉田中将は、当時梅津陸軍次官、阿南兵務局長に宛てて
北、西田に対する 「 極刑反対 」 の 「 上申書 」 を呈出している。
その趣旨は、
国体を擁護顕現せんとするものと承認されている蹶起部隊に、
かねてから彼らと思想を同じくする北、西田が同志的情誼から、
指導、激励の言葉を送るのに不思議はない。
それを事件終熄後になって、軍が責任を転嫁して、
これを民間人にかぶせて恬然てんぜんとしているこしは
武士道的見地からも許しがたい
というのである。
この趣旨はしかし他の判士のなかにも共鳴するものがあったりして、
吉田判士長も
「 一時は私の意図を判決の上に具現することは可能 」 と思う時期があった。
が最終合議の結果は 「 遂に私の意図を実現しなかったことは遺憾至極である 」
と嘆息することになるのである。
・・・末松太平著  私の昭和史 


君側 1 『 大命に抗したる逆賊なり 』

2021年11月18日 09時06分21秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


香田大尉外十四名
本官を免ぜらる
けふ内閣より發令
二十九日午後零時四十五分内閣より左の如く發令された
陸軍歩兵大尉    香田淸貞        陸軍歩兵少尉    林 八郎
同                    安藤輝三        同                    池田俊彦
同                    野中四郎        同                    高橋太郎
陸軍歩兵中尉    中橋基明        同                    麦屋淸済
同                    栗原安秀        同                    常盤 稔
同                    丹生誠忠        同                    清原康平
同                    坂井 直          同                    鈴木金次郎
陸軍砲兵中尉    田中 勝
免本官 


關係二十將校免官
今次事件の關係將校等に對し廿九日付左の如く免本官の辭令が内閣から發表された
内閣發表 ( 二月廿九日 ) 
陸軍歩兵大尉    香田淸貞        
同                    安藤輝三        
同                    野中四郎        
陸軍歩兵中尉    中橋基明        
同                    栗原安秀        
同                    丹生誠忠      
同                    坂井 直          
陸軍砲兵中尉    田中 勝

陸軍歩兵少尉    林 八郎
同                    池田俊彦
同                    高橋太郎
同                    麦屋淸済
同                    常盤 稔
同                    清原康平
同                    鈴木金次郎
免本官  ( 各通 )
左の五將校の免官も同日内閣から發表された
陸軍歩兵大尉    河野 壽
陸軍歩兵中尉    對馬勝雄
同                    竹嶌継夫
陸軍砲兵少尉    安田 優
陸軍工兵少尉    中島莞爾
免本官  ( 各通 )

山本少尉  免官さる
今次事件に關係の山本陸軍歩兵少尉に對し二日午後内閣からつぎのごとく發表された
陸軍歩兵少尉    山本 又
免本官 

宮廷の人々  此処では西園寺、木戸、原田、侍従長、内大臣、宮内大臣 等を謂う

内閣は叛乱将校二十名に対し、
二月二十九日免官を発表。
三月一日、
それぞれ位の返上、勲等功級記章の褫奪ちだつの件など御裁可があった旨を發表した。
宮内省もまた位の返上を命じたことを公表したが、
返上命令の理由を
「 大命に抗し 陸軍将校たる本分に背き
 陸軍将校分限令第三条第二号該当と認め

 目下免官申請中のもの 」
とした。
即ち 宮内省は明確に 大命に抗し  と公表し、
叛乱であり 逆賊 と 認定したわけである。
これは不当のことである。
事実は命令は伝達されず、彼等は大命に反抗する意思は少しもなかった。
軍法会議でも奉勅命令が下達されたとは言ってなく、叛乱でなく反乱として処置している。
この誤れる認定が、彼等および遺家族をいかに苦しめたか。
残酷なことである
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
十一年三月一日
宮内省の発令で大命に抗したりとの理由により同志将校は免官になつた、
吾人は大命に抗したりや、吾人は断じて大命に抗していない
大体、命令に抗するとは命令が下達されることを前提とする
下達されない命令に抗する筈はない
奉勅命令は絶対に下達されなかつた、従って吾人は大命に抗していない
・・・中略・・・
奉勅命令については色々のコマカイイキサツがあると思ふが
如何なるイキサツがあるにせよ 下達すべきをしなかつたことだけは動かせぬことだ
下達されざる勅命に抗するも何もない、吾人は断じて抗してゐない
したがつて 三月一日の大命に抗し云云の免官理由は意味をなさぬ
又二月廿九日飛行キによつて散布シタ国賊云云の宣伝文は不届キ至極である
吾人は既に蹶起の主旨に於て義軍であり ( このことは大臣告示に於ても明かに認めている )
大臣告示戒厳群編入によつて義軍なることは軍上層さえ認めてゐる、
勅命には抗してゐない
だから決して賊軍などと云はる可き理由はない。
・・・
獄中手記 (1) 「 義軍の義挙と認めたるや 

二月事件を極刑主義で裁かねばならなくなつた最大の理由は、
三月一日発表の 「 大命に抗したり 」 と 云ふ一件です。
青年将校は奉勅命令に抗した、而して青年将校をかくさせたのは、北、西田だ、
北等が首相官邸へ電ワをかけて
「最後迄やれ」と煽動したのだ、と云ふのが軍部の遁辞(トンジ)です
青年将校と北と西田等が、奉勅命令に服従しなかったと云ふことにして之を殺さねば
軍部自体が大変な失態をおかしたことになるのです
即ち、
アワテ切った軍部は二月二十九日朝、青年将校は国賊なりの宣伝をはじめ、
更に三月一日大アワテにアワテて「大命に抗したり」の発表をしました。
所がよくよくしらべてみると、奉勅命令は下達されてゐない。
下達しない命令に抗すると云ふことはない。
さァ事が面倒になつた。
今更宮内省発表の取消しも出来ず、
それかと云って刑務所に収容してしまった青年将校に、奉勅命令を下達するわけにもゆかず、
加之、大臣告示では行動を認め、戒厳命令では警備を命じてゐるのでどうにも、
かうにもならなくなった。
軍部は困り抜いたあげくのはて、
① 大臣告示は説得案にして行動を認めたるものに非ず、
② 戒厳命令は謀略なり、
との申合せをして、
㋑ 奉勅命令は下達した。と云ふことにして奉勅命令の方を活かし、
㋺ 大命に抗したりと云ふ宮内省の発表を活かして、
一切合財いっさいがっさいの責任を青年将校と北、西田になすりつけたのです。

・・・獄中手記 (一) 「 一切合財の責任を北、西田になすりつけたのであります 」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三月二日、軍法会議に事件送致され、予審開始。
四月中旬、予審終了。
四月二十八日、公判開始、
六月五日、求刑。
七月五日、判決。
右のような日程にて、超スピードで裁判は行われた。
三月一日では、未だ軍法会議が審理開始せざる時期である。
叛乱と認定するには過早ではないか。
五月四日、特別議会開院式の勅語の中で、
「 今次 東京ニ起コレル事件ハ朕ガ憾うらみトスル所ナリ 」
と、ニ ・ニ六事件にふれたお言葉があった。
橋本徹馬は右の文句を捉えて、湯浅内大臣を宮内省の内大臣府に訪ねた。
湯浅は
「 あの勅語の奏請は政府の責任であって、私の与あずからぬところである 」 と。
橋本は
「 遺憾ながら出来事に相違ないが、それが国民に対し軍部に対し、
 如何なる影響を与えるかを考えて、勅語は奏請すべきものである。
・・・・
朕の憾みとするところというお言葉の代りに、 
皆朕の不徳によると仰せられたならばどうであるか。
・・・・
相剋が治まる方向にむかうでしょう 」
湯浅内府は
「 陛下が遺憾に思われたということがどうして悪いか 」
と つぶやいた。
そこで橋本はさらにいった。
「 国家に不祥事が起った場合には、わが国柄のうえからいえば、如何なる場合にも、
 朕の不徳によるという勅語を譲られた方もある 」 と。 ・・・橋本徹馬著  天皇と叛乱将校 ・・・リンク→  『 朕の憾みとする 』 との お言葉
この勅語の影響は、直ちに軍法会議に現れた。
検察官の論告求刑にあたり、この勅語を引用して、
「 畏くも上聖上陛下の宸襟を悩まし奉り、 下国民の信望を損じたることは許容し得ざるところなり 」
と 厳しく断じた。
既述の
虎ノ門事件の時の奈良武官長の輔佐の態度・・・リンク→ 
虎ノ門事件 
桜田門事件における木戸の意見 ・・・リンク→ 桜田門事件 
などとは、
今度の対応処置は大なる差異がある。
否、逆の方向である。
 湯浅倉平
湯浅は虎ノ門事件の時の警視総監。
懲戒免官になったが、
間もなく内務次官に就任し、大助の弁護人今村力三郎から批判されたのは記述の通り。
今次事件の時は宮内大臣。
三月六日、横死した斎藤実のあとの内大臣になった。
安部源基の 『 昭和動乱の真相 』 によると、
「 湯浅氏が天皇のお側におる限り、
 天皇は叛乱軍に対し断固たる態度を採られるであろうと確信したが、
 果してその通りであった 」 と。
 安倍源基
安部は事件当時は警視庁特高部長。
湯浅とは同じ山口県出身で湯浅を最も尊敬している大先輩とし、
謹厳強直、至誠の士であったという。
安部が昭和十年十一月中旬、
湯浅内大臣を訪ねた時、
「 今頃の時局混乱のもとは、全く陸軍の驕慢にある 」
と 厳然たる態度で湯浅は断言したという。
宮内省がこの事件を判定する機関でもないのに、しかも 「 大命に抗し 」 という文句が、
一般国民に与うる影響を如何に思ったか。
大したことはないと仮に思う湯浅であれば、その忠誠心が疑われる。
剛直は認められるが謹厳と至誠はどうであろうか。
湯浅は昭和八年二月から十一年三月六日まで宮内大臣、
続いて十五年六月まで内大臣を務め、
天皇の陸軍への風あたりが強かったのは、湯浅の影響であったと言われている。

宮廷グループは、この事件をいつ知ったであろうか。
『 木戸日記 』 を見ると
「 二六日午前五時二〇分 小野秘書官よりの電話 」、
「 六時四〇分頃西園寺公邸に電話を以て事件を御知らせす。
 公爵始め一同未だ御休み中との女中の返事にて大いに安心す 」
とある。
『 西園寺公と政局 』によると
昭和十一年三月十四日、原田は寺内陸軍大臣に会っている。
その時 陸軍大臣は
「 ・・・鵜沢博士の話によると、公爵は、二十五日に、既に二十六日の事変を知っておられたさうだが
  この点も、憲兵を熊谷氏 ( 西園寺家執事 ) の所にやるから、熊谷氏から忌憚なく充分話してもらいたい 」
と 言っている。
大隅秀夫著 『 昭和は終った 』 の八十九頁に、「 『 旧制高校青春風土記 』 の取材で興味深い話を聞いた。
 いまの東宮侍従長黒木従遠は、当時学習院高等科の二年生だった。
わたしどもより五、六歳年長者である。
ニ ・ニ六事件が起きる前夜、黒木は級友の木戸孝澄から電話を受けた。
木戸は内大臣 ( 内大臣秘書官長・・註 ) 木戸幸一の息子である。
今夜あたりからいよいよ決戦になるらしいぞ
黒木は親友の巽道明を誘い、暮夜ひそかに寮を抜け出して市谷方面へむかった 」
とある。
また、『 木戸日記 』 の昭和十二年二月二十二日の項に、
「 陸軍法務官伊藤章信来訪、ニ ・ニ六事件に関し聴取せらる。
 要点は事件を知りたる経路、時期、陸軍方面の連絡等にして、
其目的は反乱軍若しくは其同乗者と情報連絡あり、
時局収拾につき何等かの働かけを受け居るにあらざるかとの疑を以て、問われたる様推測した 」
と 記されている。
右の伊藤章信が戦犯容疑にて巣鴨にいる時、
「 ニ ・ニ六事件の指導者の一人から重臣に通するものがあって失敗に終った。
 もしあの事件が成功しておれば、日支事変は あるいは起きなかったかもしれぬ 」
旨を児玉誉士夫に語っている。 ・・児玉誉士夫著 『われかく戦えり 』
デイヴット ・バーガミニは その著 『 天皇の陰謀 』 で左のように述べている。
「 決行日二日前の二月二十四日朝、
 情報屋亀川は相澤公判で弁護人となっている民間法律家を訪れ、
陰謀計劃の全容を打ち明けるとともに、
西園寺公を説いて追放された真崎将軍を次期首班に推挙させるよう助力してくれと頼んでいる。
西園寺の友人で鵜沢聡明という名のこの法律家は、
亀川にできるだけのことはしようと約束したあと、西園寺に暗殺の計画があることを教えた。
この警告は、西園寺の輩下で国会議員の津雲国利、
西園寺の私設秘書をしばしばつとめた実業家中川小十郎を中心とする
極めてこみいった仲介者の連鎖を通じて興津に届いた。
西園寺は、この警告の重要さに疑念を抱かず、警告にしたがって即時行動に移った。
・・・・西園寺は雇人たちに電話ではごく自然に応対し、老主人は平静に在宅しており、
自分たちは何も知らないようにふるまえと命じた。
・・・・人気のない径路に来たところで自動車が待っており、西園寺は防備厳重な静岡県知事官舎に入った 」
なお憲兵隊が鵜沢を陰謀の共犯にしようとしたが
「 鵜沢を裁判にかければ西園寺を巻き込むことになるのが明らかになったため。
 鵜沢に対する告訴は取り下げられた 」
と バーガミニは記している。

右の諸項から判断されることは、
木戸も西園寺も事件を事前に承知していたということである。
昭和十一年六月十三日の 『 木戸日記 』 に、
「 松平宮内大臣より内務大臣秘書官長免官の辞令拝受、後任は松平康昌侯、
 ・・・・最後のニ ・ニ六事件に当っては真に思ひ切って働くことを得たので、
此思出を最後として官を退くことを得たことは官吏として真に幸福だと思う 」
と 記している。
その思い切った働きは、当然事件前からの働きを含めていることであろう。
誰々に予報して、如何なる対応策を講じたか、未だ歴史の闇の中にある。

あの当時の情況から、何か起りはせぬかとの疑念は多くの人が抱いたであろう。
二月初め森木憲兵少佐は、青年将校が月末に行動蹶起を予定していると東京憲兵隊長に報告。
二月中旬、三菱本社は独自の情報で、反乱の具体化を練る会合を開いていると憲兵隊に報告。
二月中旬 「 日本評論三月号 」 に青年将校グループの会見記が掲載され、
将来思い切った行動を考えているかとの質問にイエスと答えている。
右のような情報に対し、そのまま放置したのは何故か。
当局の無策か、それとも策謀の一部か。
色々の説がある。
確実な情報を摑んだ木戸が、岡田首相、斎藤内大臣、鈴木侍従長に警告したか否か。
警告を受けても避難しなかったのか。
これは重大にして興味のある問題である。
『 西園寺公と政局 』 の十一年四月六日の項の中に
「 ・・・結局叛乱軍の処罰なんかも、思ったよりよくやったというように、
 速く重く刑に処した方がいいんじゃないか
と、しきりに西園寺が言い、原田は十一日に総理に会い、
右のことを寺内陸軍大臣に伝えているように言づけしている。
寺内も同じ意見と返事する。
速く重く処刑することに宮廷グループでは、それこそ早くから決定していたのだ。

次頁 君側 2 「 日本を支配したは宮廷の人々 」 に続く
佐々木二郎著  一革新将校の半生と磯部浅一 
宮廷グループの動き  から


第七十回帝國議會の議場で政友會の今井新造代議士の質問

2020年11月11日 18時27分44秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


帝国議会・イメージ

第一に御尋致したいことは
二 ・二六事件の原因動機に付きまして、
寺内 ( 前 ) 陸相は
叛乱行動迄に至れる彼等の指導精神の根底には、
我が国体と絶対に相容れざる 極めて矯激なる一部部外者の抱懐する
国家革命的思想が横はつて居ることを見逃す能はざるは 特に遺憾であると、
特別議会で御報告になつたのでありますが、
苟も陸軍幼年学校、士官学校、大学校等に於て
陸軍独自の教育を受けた者、
殊に国体観念に於ては
一般の国民よりも一層徹底した信念を持つて居らなければならぬ帝国の軍人たる者が、
寺内 ( 前 ) 陸相の御話のやうに一部の浪人とも看做みなされるやうな者の、
国体と相容れない思想に動かされ指導されたと言ふやうなことは
吾々は断じてあり得べからざることと確信して居る者であります。
随つて当時、私は寺内陸軍大臣の所謂国体と絶対に相容れない思想とは
如何なるものであるかと言ふことを質問致したのでありますが、
之に対しては御答弁がありませんでした。
なほ 寺内さんは あの事件に対して 前古未曾有と言ふやうな言葉を使はれまして、
殆ど我が尊厳なる国体の何たるも解せないやうな、
又 君臣の別を解せないやうな不謹慎極まる言葉を用ゐられて議会に報告なさつたから、
此の点に付ても 私は自己の所信を述べまして、
前古未曾有と言ふやうな言葉を用ゐることは不謹慎ではないか、
宜しく訂正するが宜しいと申し上げたのでありますが、それも遂に訂正する所がなかつたのであります。
此の点に付ては、此の議会に及びまして、北昤吉君が あなたに御尋ねしました所、
寺内前陸相がさう言ふ言葉を用ゐたのは、一つの修文である、
文を飾る言葉であつたと思ふと言ふやうな、あなたの御答弁であつたのでありますが、
形容詞と言ふものは、苟も君臣の別が分らないやうな、
国体の何たるかも弁ぜざるのであるかと誤解を抱かしむるような形容詞を
陸軍大臣たるものが用ゐると言ふことは、
奇怪千万であると私は今なほ固く信じて居るのであります。
しかも昨年の特別議会に於ける民政党の斎藤隆夫氏のなした演説と、
今回問題となつた政友会の浜田松国氏の演説とは、殆ど内容が同工異曲のものであるにも拘らず、
昨年は斎藤氏の演説に寺内 ( 前 ) 陸相は敬服同感の意を表され、
今年、浜田氏に対しては軍を侮辱する言葉があつたと思ふと言ふやうなことを述べられたのであるが、
かくの如きは洵に定見がないぢやないかと思ふ。
斯う言ふやうな人が現在陸軍の教育総監であることが、果して適任なりや否やと言ふことに付て
私共は多くの疑問を持つのであります。

あわし其の問題は姑しばらく措きまして、
二・二六事件の原因動機に対して、
杉山陸軍大臣は少なくとも二・二六事件の原因動機は政治の腐敗である、
斯う言ふやうに あなたは此の議会に於て述べられた。
然るに政治の腐敗が此の事件の主たる原因動機であつたと言ふあなたの言葉に対して、
予算総会に於て牧山氏でありましたか、斯る現説をなすことは不都合ではないか
と あなたに御尋ねになつた。
所があなたは 其の質問に対して、
それは自分が言ふたのではない、彼等青年将校がさう言ふことを言つて居るのだ
と 御返事になつた。
併し 是は青年将校の考へのみではない、
私共も政治の腐敗が二・二六事件の原因動機であつたと言ふことは、之を認めます、
併し 独り政治の腐敗のみでないと言ふことを既に能く知つて居るのであります。
叛乱将兵判決理由書の中にも、
彼等青年将校が国体の明徴を力説し、国体の明徴ならざるを憂へた点を強調致して、
其の次にはこんなやうなことが書かれてあります。
「 斯クテ前記ノ者ハ 此ノ非常時局ニ処シ
当局ノ措置徹底ヲ欠キ 内治外交共ニ萎靡いびシテ振ハズ、
政党ハ党利ニ堕シテ国家ノ危急ヲ顧ミズ、
財閥亦私欲ニ汲々トシテ国民ノ窮状ヲ思ハズ、
特ニ倫敦条約成立ノ経緯ニ於テ 統帥権干犯ノ所為アリト断ジ、
斯ノ如ニハ畢竟ひっきょう元老、重臣、官僚、軍閥、政党、財閥等
所謂特権階級ガ国体ノ本義ニ悖リ、
大権ノ尊厳ヲ軽ンズルノ致セル所ナリトシ、
一君万民タルベキ皇国本然ノ真姿ヲ顕現センガタメ、
速カニコレ等 所謂特権階級ヲ打倒シテ
急激ニ国家ヲ革新スルノ必要アルコトヲ痛感スルニ至レリ。」
斯のう言ふように彼等の志なるものが明瞭になつて居ります。
又、事件直後に於て、私共が知りました所謂彼等青年将校の趣意書にも斯う言ふことが書いてある。
なほ判決理由書の中には、彼等が事を起します直ぐ前の晩、
二月二十五日夜 歩兵一聯隊に会合致して、前記襲撃及び占拠後、
陸軍大臣に対して要望すべき事項を六箇条ばかり相談致したやうでありますが、
其の中には軍の統帥破壊の元兇を速かに逮捕すること、
軍閥的行動を為し来つたる中心人物を除くこと、斯う言ふような項目がある、
是は判決理由書の中にあるもので、既に公な刊行物として広く国民に知られて居るものでありますが、
之に依つて見ますと、少なくとも彼等があの事件を起こした原因動機と言ふものは、
軍の統制を破つた者、又は軍閥的行動を為した者に対する公憤から発したものと
私共には考へられるのであります。
苟も  光輝ある 天皇陛下の軍隊の中に・・・派閥が対立して抗争すると言ふようなことは
断じてあり得べからざることであると、私共は考へて居つたのであるが、
二・二六事件の原因動機が、主として斯様なことに出発して居るらしく思われますことは、
名誉あり光輝ある軍の為、甚だ遺憾に堪へざる所であります。
若し斯くの如く軍閥、派閥の対立抗争がありとするならば、
全力を挙げて、斯くの如きことを徹底的に一掃することが、蓋し粛軍の本旨ではなからうか、
眼目ではなからうかと、私共は考へますが、
此の点に付いて杉山陸軍大臣は如何様に御考へになられますか、
若し軍閥なるものありとするならば、派閥の抗争ありとするならば、
是等に対して今後どう言ふやうな御処置を執られますか、
此の点に付いて御明答を願ひたいと思ふのであります。

それから第二に御尋申上げたいのは、
奉勅命令の問題であります。
当時戒厳司令部の発表に於ても、彼等は遂に勅命に抗したりと言ふことになつて居ると記憶致します。
更に川島陸軍大臣も
「 昨二十八日早朝に至り 戒厳司令官は畏き勅命を拝したるを以て
聖旨を叛乱部隊幹部に伝へて 更に反復其の反省を促したるも 遂に其の効なく、
已むを得ず兵力を以て之を一掃して治安を確立するに決し 」 云々と言ふやうな声明を発せられて居ります。
斯様の次第で今日に至るまで、
叛乱将兵が勅命に抗したと言ふやうなことになつて居るのでありますが、
此の点に付いて政友会の宮脇君は、先日の本会議に於きまして、斯う言ふ演説を為さつて居ります。
「 国体を擁護せんが為に一身を犠牲にし、蹶起せりと呼号して居る者が直接命令を戴かずとも、
戒厳司令官に奉勅命令があつたことを承知致しますならば、
一人として直ちに帰順せぬ者がありませうか、恐らく命令の伝達が通じなかつた結果と思ひまするが、
果して然らば是は何人の責任でありませうか。
私は叛乱者の行為は洵に憎むべしと思ひまするが、
我国に生を享けた者に対し、勅命に抗したりとの罪だけは除いてやりたいと思ふ者であります。
是は叛乱者に対してのみならず、国民の思想上重大な影響があると思ふからであります 」
宮脇君も斯う言ふことを述べられて居りますが、
此の点に付いては私は徹頭徹尾同感であります。
而も 是は独り宮脇君が斯う言ふ御考へを持たれるだけではなく、
当時の情勢から申しまして、斯う言ふように一般が考へたのではなからうかと思います。
判決の理由書の中にも、
命令が彼等に伝達しなかつたのではなからうかと思はれるやうな点を発見するのであります。
其の理由書の中に
『 偶々小藤大佐ハ
戒厳司令官ニ対シテ下サレタル
占拠部隊ヲ速ニ原所属ニ復帰セシムベキ旨
ノ勅命ニ基ク第一師団命令ヲ受領シ、之ガ伝達ヲ企図セル時ナリシモ、
同人等ノ感情ノ激化甚ダシキニ由リ 姑ク之ヲ保留セリ 』
と あるのであります。
こんな具合に疑問が多々あるのでありますから、
此の点を願わくば斯う言ふ機会に明瞭に致して欲しいと思ふのであります。
それから あの事件の直後、
私共の手に謄写版で刷りました「----」 と言ふものが入つたのであります。
それは斯う言ふ内容であります。
【 速記中止 】

第七十回帝国議会の議場で政友会の今井新造代議士の質問である。
事件の核心を突いたものと言へやう。
この今井代議士の質問内容で 説明の難しい所、
軍の機密とも言うべき部分は 速記を中止されている。

池田俊彦 著  生きている二・二六 から


間野利夫判士 手記 1 「 その眞意は諒とするも・・・・ 」

2020年11月08日 09時37分59秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達

間野利夫判士手記
この手記は昭和三十九年二月、友人藤田清君の勧めに従って
某週刊誌に投稿のために書いたものである。
しかし時期を逸したため掲載されず未発表のままに終わった。

その眞意は諒とするも・・・・
( 二・二六事件裁判の眞相 )
間野利夫
F君!
君の御慫慂しょうようにもかかわらず、書くことを拒んできた私ですが、
近頃のように、二・二六事件に関して多くの著書が現れ、
その裁判が云々せられるのを見ますと、
このあたりで一度裁判の真相を発表しておく必要も感ぜられ、資料皆無のため、
日時や順序など間違うかも分かりませんが、記憶をたぐり出しながら、短文をまとめてみます。
話の順序として、まず軍法会議について予備知識をもっていただかなければなりません。
元来、軍の裁判というものは、一般の裁判と大変違っているのです。
陸軍には陸軍刑法、海軍には海軍刑法があり、その裁判をすすめるための法律としては、
一般の場合の裁判構成法と刑事訴訟法の代りに、陸軍軍法会議、会議軍法会議があって、
各々その軍の構成及び行動に適合するように、法律が作られていました。
しかも平常の場合と、戦時事変の場合によって差異があり、
前者の場合には成るべく一般社会の裁判に近づけようとしていますが、
なお軍の性質上特異なところがあります。
後者の場合には随分と禁止的制限の緩和がありまして、裁判の様式も簡単となり、
一刀両断的な感じを受けます。
二・二六事件の裁判に際しては、緊急勅令によって、
事変に準じ、臨時に東京陸軍軍法会議が特設されたのです。
特設軍帽会議になりますと、弁護人は許されません。
公開、非公開は、一般の場合でも、勿論裁判長の権限ですが、
事件勃発の契機となった相沢事件の公判は経緯に鑑みても、あの環境では公開などしたら、
社会不安をいやが上にも増大したことでしょう。
軍法会議の構成は一般の場合、
判士と名づけられる兵科四名、法務官 ( 軍に於ける法律の専門家で陸軍文官です ) 一名
計五名が裁判官となります。
特設の場合、判士 ( 将校 ) 二名とすることが出来る規定になっていました。
公判には検察官が列席します。
この検察官である法務官と裁判官である法務官とは区別して置いて下さい。
これが混雑するものですから、間違った論議が出て来ることにもなるのです。
二・二六の場合、軍法会議は右の五名の構成をとっていましたが、
真崎大将の場合には大将二名が判士になりました。
軍の裁判のことですから、判士は被告より下級のものであってはならないのです。
そして被告の階級が兵であるとか、下士官であるとか、佐官、将官であるとかに従って、
佐官何名、尉官何名などと、判士の階級人員も規定されているのです。
軍紀がきびしく、上下の階級を重視する軍として必然のことです。
二・二六の場合、直接行動者は免官になっていましたが、なお大体右の規定を尊重していました。

さて、いよいよ本題に入りましょう。
最も恐れられた撃ち合いも起らず、下士官以下は原隊に引きあげて隔離収容せられ、
将校などは衛戍刑務所に拘禁されてから、早速取調べ開始され、
これが為めに全国の師団から法務官数十名が東京に集められました。
陸軍省の法務局が検察陣の本拠となって、尨大な調書が作成され、ガリ版やタイプで複写されていきます。
軍法会議によれば、軍では検察官の調べだけで、起訴不起訴の定まるものもあれば、
更に予審官が調べてから、それの決定するものもあり、この点一般の刑事訴訟法とは違うのです。
この間、前記の緊急勅令が発せられ、陸軍人事局では無色透明の判士の人選に苦心していたのです。
あとから聞いたことですが、中央部の人達は皆 激務がある上に、あとで論議の的にされることですから、
多くの人はしり込みしたようです。
当時私は兵器本廠に席だけおいて、二年前から聴講生として東大に通学していました。
私の任務は 「 軍の統率 」 に関する研究です。
私はそれを主として心理学、教育学、社会学的に究明し、法律的にもその裏付けをしようと企てていました。

事件の当日の二月二十六日は、雪を踏んで登校しましたが、予定の講義が休講になりましたので、
午前中できりあげ、途中どうも様子が変なのを訝いぶかりながら、西萩窪の自宅に帰りました。
夕刻、近所に住む軍人の友人から事件の概要をきいて驚き、
軍人の心得として、席だけでも置いている兵器本廠に電話しましたところ、
宿直将校の応答がチグハグで結局 「 出て来ても仕方がない 」 との返事でした。
あとで知ったのでしたが、陸軍省と道路を隔てた隣にある兵器本廠もまた占拠されていたのです。
翌日同じく聴講中の同僚と共に麹町にある研究上関係の深い邱育総監部まで行きましたが、
抗議中の私たちは全然用事はなく、大学の講義も大体終りだったので、
それから後は、友人から情報をきき、憂心をいだきながら自宅に籠って、
静かに事件の前後処置と関係の深い自分の研究に没頭していました。
ところが、三月二十六日頃だったでしょうか、陸軍省からの速達によって呼び出され、
四月二日 行ってみると、大会議室には、将校や法務官が大勢集まっていました。
そこで私たち二十数名ばかりの将校は判士に任命され、
数名の法務官と共にこの歴史的大事件の裁判に当たらされることになったのです。
事件当時の川島大将に代わった寺内陸軍大臣の訓示は、
要するに、
「 未曾有の大事件を起こした陸軍の責任を説き、
軍の将来を憂え、公正なる裁判によって軍の秩序の恢復をはかれ 」
と 云うな意味のものでした。
私は任命の瞬間、大津事件の裁判長・児島惟謙を想起して、ひそかに心に誓いました。
一同は直にくだんの軍人会館に運ばれ、そこで当局者から事件の概要を聴くことになりました。
その説明に当たった数人の中の一人は、陸軍省の課員少佐で、所謂統制派のチャキチャキでしたが、
その説明というものは、行動者に対する批判非難の言辞が多く
「 全員死刑だ、背後の北、西田こそ元凶だ 」
と 云うような激越な意見にまで脱線しましたので、私は決然立って
「 裁判官に対する説明は客観的事実のみにとどめるのが至当ではないか、
判決を示唆しさする如きことは慎んでもらいたい 」
という意味のことを述べて抗議しました。
「 若い大尉が生意気な!」
という 憎悪の視線を一部から受けているのを感じて、私は一層覚悟を固めた次第です。
説明会は夕刻に終りました。
裁判に関する係は陸軍省の兵務課が主任でしたが、その課員は
「 世間も昂奮しているし、裁判官に雑音が入っても悪いから、本日から軍人会館に宿泊して貰いたい 」
と云う。
「 いま急にそう言われても困る。本日は一応帰宅して宿泊の準備を整え、明日から 」
と 云うことになりました。
各地から呼び集められた法務官は、既に渋谷の衛戍刑務所近くの旅館に分宿していたのです。
裁判官たちの事務所としては、当時新築されたばかりの未使用の陸軍省医務室があてられました。
そうして日中はそこで研究し、夕方宿舎に帰りました。
私たちは、文部省の前を少し入ったところにある 「 霞ヶ関茶寮 」 とか云う静かな新築の旅館で、
罐詰生活を送ることになったのです。

最初 五ケ班が作られました。
当初の受持ちは、
第一班が直接行動部隊の将校及び部隊の中に入りこんだ関係者、
第二 第三班が下士官及び兵、
第四班が行動に加わった所謂常人、
第五班が直接行動隊外にあった稍々間接的と見られる軍人、及び常人だったと記憶しています。
私は第一班で、第一、第二班の判士たちが同宿でしたが、
私は気の合ったほぼ同年配の川辺、福山の両大尉と共に、毎夜深更まで原則的研究をしていました。
三人は真剣でした。
それは一方にはこの三人が自由な時間をもち得たからでもあります。
福山大尉も私より一年遅くれて東大に学んでいましたし、
川辺大尉は航空本部の本来の仕事は殆んど全部放擲ほうてきして裁判に専念出来るようにして貰えたのです。
他の判士達は調書などを研究していましたが、
大部分の人達は陸軍省や参謀本部の繁忙はんぼうな現職をもち、
裁判準備のみに没頭することが困難な事情にありました。
当時私たちの最大の関心事は軍の将来でした。
勿論、国家の現状、政治的な革新も、血気の私達にとっては内心の大問題でしたが、
軍人として、特に当面の裁判官としては、
軍の秩序団結の恢復こそ、与えられた任務に伴う最大の問題であったわけです。
その見地からすれば、問題は命令服従の関係に帰着します。
勝手に軍隊を使用したもの、その命令に従って行動した部隊を如何に処置すべきかです。
徴兵制度の下に義務兵役に服する一般の兵、志願して軍隊に留った下士官、
しかも大部分は中隊長や中隊幹部の命のままに動いたものです。
一部には日頃から相当革新的思想を有し、
或は出動に当っての訓示や激励によって積極的行動に出たものもありましたが、
その思想といっても、つまりは日常の教育指導によるものであってみれば、
大いに考えなければなりません。
軍に於て命令服従の関係に疑念が残ったならば、弾丸雨飛の間に於て ものの用に立ちません。
それ故に、
「 上官の命を承ること実は直に朕が命を承る義なりと心得よ 」
と、軍人の金科玉条とした勅諭に訓えられていますし、
教育内容そのものはまた、命令と同様の重みをもたせてあったのです。
私たちは陸軍刑法制定当時の審議の記録に遡り、
更に刑法大家の著述をあさって議論をかわし、一つの結論を得る毎に、それをガリ刷りにして、
他の全裁判関係者たちに配って共同研究の材料を提供しました。
この研究に当って、法務官たちの考えは大体に於て、
「 不正の命令は命令に非ず」 という傾きが強かったようです。
この点 実際に部下を教育し指導した判士たちの意見とは差があったようです。
判士たちの間に於ても、細部の点ではなかなか結論の出ないこともありました。
しかも事件は未曾有のことです。
悩み続けました。
私は下士官兵の裁判には直接関係しませんから、詳しく述べることは差し控えますが、
裁判の結果は起訴されたものの中 下士官四十数名、兵三名が有罪 ( 大部分執行猶予 )になりました。
塀の有罪者は直接殺人の弾丸発射したものの中、特別に積極的行動の顕著なものでした。
判決をした裁判官にも恐らくなお多分の胸、のしこりはあったでしょうが、
この判決は世人も大体納得したようでした。

準備研究も終り、検察側の控訴提起もあって公判を開いたのは四月下旬以降からであったと思います。
法廷は代々木練兵場の一隅、衛戍刑務所の高い煉瓦塀に近い所にバラック二棟を急造し、
一棟を各班の控室に、一棟を四室に仕切って法廷としました。
その周囲を有刺鉄線の高い塀で囲い、入口には衛兵所が出来ました。
更に開廷日には機関銃をもった部隊が、その周囲を警戒するという厳重さでした。
勿論刑務所内には収容直後から地方から憲兵が多数派遣されていました。
私の所属する第一班が公判を開いたのは比較的遅く、五月上旬であったかと思います。
本来ならば、一つの軍法会議が全被告を同時に裁判すべきでしょうが、
それでは裁判は何年続くか見当もつきません。
しかも各々のグループに分離することを、反って適当とする面もあり、このように処置せられたのですが、
私の直接関与した限りは、実際に当っても支障は無かったようです。
公判は型のように、一段高いところに裁判官が裁判長を中央にして着席し、
一端に検察官が、多端に録事 ( 裁判書記のこと ) が 列席していました。
被告席は代々木の原の上に白砂を敷いているのですから、文字通り 「白洲 」 であった訳です。
六尺腰掛を二列に並べて、それに三人ずつ着席することになっていました。
その後方に警査が二、三人立ち、外部は憲兵が警戒するという情景でした。

法廷の秩序の維持は裁判長の責任であり、またその権限に属することです。
余談ですが、
「 被告たちが昂奮の余り乱暴でもしないだろうか、
『 幕僚ファッショの裁判官 』 などと敷きつめた砂を投げ、
或は腰掛でもふりげはしないだろうか 」
これは警査を出す衛戍刑務所側の心配だったらしいです。
勿論のこのようなことは杞憂で、彼等が乱暴を働くなどと心配する方が間違っているのですが、
当時色々と、右翼や、行動将校に同調する青年将校が被告を奪回に来ると云うデマも飛んでいたようで、
そのような情勢なればこそ、前述のような法定外囲のものものしい警戒配置だったことと併せて、
如何に社会一般に不安の気が充満していたかが想像されましょう。

私達の前に直接行動の元将校たちが入廷して来ました。
免官された香田元大尉以下は平服から階級章などをとった姿で、大体従来の古参順に着席し、
村中、磯部など事件前早くも免官になっていた者はその後方に、
今泉少尉のみ軍服姿でした。
最古参の香田も私より二期若く、全員始めて見る顔でした。
最初顔を合した時は、一同蒼白で思いつめた顔をしていましたが、
独り 林元少尉のみは座席につくときビョンビョンと腰掛をとび越えるなど、
無邪気というか、豪胆というか、一瞬思わず一同の緊張を弛めました。
胸に勲章一箇をつけ、軍刀を帯び、第一装の軍服に威儀を正した私たちの顔もまた緊張のため硬直していたことでしょう。

先日九州の片田舎にも佐分利信の映画 「 叛乱 」 が 来ました。
いやなものではないかと思って、躊躇しましたが、見た人の話をきいて出かけました。
この法廷の場面が最初に出ましたが、俳優裁判官や被告の顔を見て、何だか変な気持ちになりました。
顔付がチグハグです。
しかし場面の進行につれ、彼等の性格が如実に演技されていて、場面に引き入れられ、思わず涙しました。
序に申しますが、立野信之著 「 叛乱 」 も よくかけていると思います。
「 歴史小説 」 といわれていますが、事件の遠因から経過に到るまで、大体よく事実を書いていると思います。
裁判関係の記録でも入手したのではないでしょうか。
内容について、多少異論はありますが。

弁論の指揮は裁判長の任ですが、細部の訊問は大体、裁判に慣れた法務官が代わってしました。
行為そのものについては、検察官の読み上げた控訴状の内容は大部分直ちに肯定されました。
しかしその動機、精神について それから数十回被告人の陳述が続いたのです。
私達は連日 或は 隔日位に代々木に通いました。

公判の様相について話を進めましょう。
大事件のあと、あの荒涼とした刑務所に独居して、自分たちの行動のあとを振り返ってみれば、
千々に心の乱れる時もあったことでしょう。
いよいよ法廷に立ったときは、
すっかり達観して死を待って居るかの如く至極簡単に淡々と陳述する者もありますし、
せめて裁判官にでも昭和維新の理念をたたきこんでやろうとするかの如く熱烈に陳述する者もあり、
神がかり的にその信念を縷々述べる者もありました。
又多少行き過ぎを自認した発言をする者も二、三ありました。
非公開なのは彼等の心残りであったでしょう。
法廷には時たま裁判事務に直接関係のある兵務課員の一、二人や
他の法廷を受けもつ裁判官の傍聴を許しましたが、
その他は許さず、憲兵隊の切なる希望も裁判長はこれを拒否しました。
段々と暑気を加えてくるバラックの法廷、窓硝子も閉めきったままで審理を続けました。
同じ調子で綿々と述べられるとき、ふと練兵場の遠くでする演習の空砲など耳に入ることもありましたが、
開廷中は、被告も裁判官も緊張しきっていました。
たしか第二次は裁判された新井が先年公刊した著書の中で
「 裁判官中ニヤニヤ冷笑して居る者があった 」
と 憤慨して書いて居たと記憶しますが、これは全くの誤解で川村少佐は顔面神経痛があり、
緊張すると一層甚だしくひきつるので、それが笑いに見えたのでしょう。
彼等は政財界、重臣の腐敗、幕僚ファッショを衝きます。
それを調べずして裁判は出来ないと主張します。
しかし私達第一班の裁判官は諸方面の秘密書類など調査はしましたが、
誰一人として、証人の喚問する必要を認めませんでした。
その必要あればわが軍法会議は何人の干与をも受けず、独自の見地で、その権限を行使した筈です。
軍隊の使用と殺人の行為は明白な事実です。
私は軍の裁判に於ては、主観主義をとらず、客観主義をとっていました。
当時の私の研究の一つの結論でもあったのです。
行為を起こした意志、動員は情状であり、それを軽視するのではありませんが、
軍成立の根本を揺るがす問題について、
客観的事実を重視することは間違っていないと、今でも確信しています。
私たちも暗黙の裡に、彼等の指摘する情勢については憂を同じくするところもありましたが、
軍法会議は指定された被告人につき、公訴事実に関して取り調べ、
陸軍刑法に照らして判決するのが任務ですから、そこに限界があり、
陸軍刑法の適用を判断するに必要とする以上の資料を集め
或はそれによって政治的効果を期待するようなことは、裁判官のなすべきことはありません。
彼等が勝手に部隊を引き連れて行動に移ったとき、現行の陸軍刑法を変えない限り、
その条文に照らして、既に 「 反乱 」 であったのです。
彼等は満州事変に於ける林朝鮮軍司令官の独断越境を引例して
「 陛下の御意図に副う独断用兵 」
で あったと、主張しました。
しかしこの度の場合 天皇は事実の示すように、この事件を絶対に御許しになっていませんでした。
よし独断と言い得たところで、独断は自らの責任に於てなすべきことが、軍の教典に教えるところでした。
私たちは、間違ったら、腹を切れと教え込まれていました。
責任者は潔く責任をとらねばなりません。
彼等もそれを否定していたのではありませんが、
事件の経過中そり行動を混迷に陥らしめたのは事件勃発後の陸軍の長老、
責任当局者のとった処置が甚しく適切を欠いたことに原因します。
最高責任者にその人を得なかったことが、最大の原因であることを否むことが出来ません。
平素指揮系統を重んじた軍でありながら、テンデバラバラの発言をなし、処置命令が一途に出ていないのです。
軍の外のことに対する問題ならば、命令一下、日頃の組織訓練にものを言わせて、
迅速適格な処置ができたでしょうが、自らの軍の中から未曾有の大事件が起きたのですから、
無理もなかったとも弁解しておきましょうか。
しかし、そこにはまた事件は事件として別に後に責任を問うとして、
この際革新的な前後措置をとられることを期待する気持ちが陸軍将校一般に強かったことが影響していないでしょうか。
何しろ実弾をもった一千余の部隊です。
一歩誤れば大変なことになる。
何んとしても、これは避けなければならない。
そこで、行動将校を刺戟しないことに最大の考慮を払ったために、
この間第二次裁判の被告となった山口の働きなどに部隊長が引きまわされ、
動かされて一時旧部隊長の指揮下に入れて糧秣を給与する等のことも起こりました。

ここで一言 「 奉勅命令 」 のことに触れなければなりません。
これは私たちから見れば、特別のことではないのですが、
世間では 「奉勅命令 」に反したから 「 反乱 」 になったのだと、今でも考えているように思われます。
それも無理はありますまい。
「 勅令下る。軍旗に手向ふな 」
という趣旨のビラが撒かれ、アドバルーンがあがる。
この時将校と下士官兵とを判然と分けて下士官兵を対手としたのでした。
「 兵に告ぐ 」
の アナウンサーはその後 有名になりましたが、
その内容の文句と、放送局のアナウンサーによってそれを告げたことに関しては、
私は当時、軍の統率の見地から、戒厳司令部に対して甚だしく失望を感じたことでした。
問題の 「 奉勅命令 」 とは、確かな文面は覚えていませんが、
要するに
「 選挙部隊を速やかに原位置を撤去して原隊に帰らしめよ 」
という意味のもので、
閑院宮参謀総長に代って杉山参謀次長が充裁を受け、戒厳司令官に命令したものです。
別の処置を願い、断乎たる処置を自己の責任に於てすることを躊躇していた戒厳司令官に
最後の決断を促す手段でもあったのです。
従って選挙部隊が平穏に撤去しない場合には
戒厳司令官はその周囲に配置した隷下の兵力を用い、
砲火銃剣をもってしてでも、撃ち退けよということになります。
今まで軍であったものを、軍が討伐しなければならなぬと云う重大事件ですから、
特に勅を仰いだのであって、重大な作戦用兵には常に奉勅命令が出ているのです。
しかし軍の命令は本質から言えば、平素の上官の命令と何等異るところはありません。
若しそうでないとしたら、軍紀の確立は到底出来るものではありません。
「 早く退らぬと いよいよ撃つことになるぞ、奉勅命令が出たのだから 」
と 最後の決心を促すために、危険を顧みず行動将校にを説きに廻った将校もいました。
或る者はそれを聴いて信じ、一部は偽りとし、
一部は拒否して聴いていないようです。
「 奉勅命令は正式に受けていない。よって反乱とは何事だ 」
というのですが、
彼等には直接勅命が発せられるわけのものでもなく時既に正式伝達を云々する部隊でもなかったのでした。
しかし 上述のような事態で、思うだに不びんな状態に陥られたのでした。
「 幕僚の謀略 」 と 悲憤するのは当たりませんが、若い彼等です、同情すべき点も多々ありました。
訊問も証拠調べも終って、いよいよ検察官の論告求刑がありました。
その内容は峻烈なものでした。
軍法会議は弁論を閉じる前、最後に被告に対し、陳述の機会を与えるべきことを規定しています。
裁判官は相談して、一人一人別々にこれを聴くことにしました。
休憩の後直ちに始めました。
昼食、夕食のための短時間を除いて、悲壮な彼等の最後の陳述を聴いたのでした。
電燈がつきました。
依然として続けました。
法廷内外の警戒の責任者は 「 責任がもてない 」 と 言って、中止を要請しましたが、
聴取を打ち切ったのは、夜も更けた十時頃でしたろうか。
彼等の言葉は救国の念願のみでした。  リンク→昭和維新・反駁
判決言渡しの時の彼等の眼差しとともに、今でも折にふれてその情景を想起して涙を催します。
その行動には くみすることは出来ません。
行動に移る過程にも落度はあります。
しかし、それは彼等のみの責任ではありません。
その救国の真意は汲まざるを得ません。
裁判官は鳩首評議しました。
判決理由書も何回書き改めたことでしょう。
一字一句もゆるがせにしなかった心算です。
そして最後に
「 慨世憂国の至情とその進退を決するに至れる諸般の事情とに付ては之を諒とすべきものありと雖も 」
云々と書き入れたのです。
量刑に関して、これに関係した一判士は先日新聞紙上にとんでもない談話を発表しました。
それが沈黙を続けてきた私の重い口を開かしめる重要な契機となったのです。
いやなことですが、これは触れざるを得ません。
「 どうせ死刑になるのなら潔く死なせてやろう。
その代わりに同じ将校でも、ひきょうな連中はせいぜい無期にして死刑にしてやるまい 」
と、いかにも大時代的な言葉です。
私はその行為を判定して、首魁、謀議参与、群集指揮、諸般の職務従事などを区分し、
情状を酌み、陸軍刑法の条文に照らして夫々量刑しました。
軽きをとったことは勿論ですが、奇妙な論理で、死刑を無期に、無期を死刑にしたなど、とんでもないことです。
いつもの豪傑流の脱線の方言であって欲しいと念願しています。
「 ひきょう者 」 とは 何人を指したのでしょうか。
一、二の者から行動の行き過ぎを反省した言葉が特に最後の陳述に述べられましたが、
それを卑怯者とは、余りにも過酷です。

七月五日に判決を下しました。
彼等は一言も発しませんでした。
ただその眼は輝いて 「 後を頼む 」 と 言っているように、私には思えました。
その日は久し振りに自宅に帰りました。
その夜八時頃でしたか、陸軍省の自動車が裁判長石本大佐の命令で私を迎えに来ました。
陸軍大臣はその日の午後判決を奏上した筈です。
裁判長は、或は 「 死一等を免ぜられる、というようなことでもあったら 」 と 思ったようですが、
夜は更けていくばかりでした。
当時の石本大佐は陸軍省の軍事課長 ( 註・正確には八月一日付 ) でしたから、
政治的な考慮から、万一の期待をもったのでしょう。
まことに公正な立派な方でした。
七月十二日 私たちが死刑の判決をした十五名の中、村中、磯部の両名は
後に行われる北、西田の裁判に必要ありとしてあとに残され、
あとの十三名は他の班で死刑を判決された渋川、水上の両名とともに刑務所内で刑を執行されました。
私たちの班の裁判官はその日の午前十一時頃でしたか、
刑務所傍の天幕に待つ遺族たちに気兼ねしながら門を入り、
寝棺に収められ、三段に重ねられた十五の亡骸に深く頭を下げました。
外に出ますと、広い代々木の原には、この時、演習の部隊もなく、妙に静まりかえっていました。
右の裁判集結と前後して、第二、三、四班の裁判も終って、その軍法会議は閉鎖され、
大部分の判士達は帰任しました。
検察陣は相かわらず向う側で、次の公訴提起を準備しています。

第一班も少し人員が入代って、間もなく第二次の裁判にとりかかりました。
それから第三次、第四次と、いつしか悪夢の昭和十一年を送って、新しい年を迎え、裁判は進行していました。
この間、一番末席の川辺大尉と私は、交互に補充裁判官となりましたが、相変わらず終始法廷に出ました。
北、西田の裁判は第五班が担当し、私は時々その公判を傍聴したに過ぎず、
勿論裁判官たち個々の意見、評議の模様は承知しませんので、
多くを書くことを差控えたいと思います。
この両名の裁判はまことに困難なものでした。
最近新聞や週刊誌に載った二・二六事件裁判に対する不信も主としてこの裁判に関する疑問から発して、
全般に推し及ぼしているところに問題があると思います。
結局この両名も昭和十二年八月中旬頃、先に判決を受けた村中、磯部の両名と同日に処刑されました。
裁判官たちは帰任して、残るは川辺大尉と私の二人になりました。
その頃は真崎大将の裁判が準備されていました。
この際は裁判官は最小限の構成で、大将二名と法務官一名の計三名でした。
現役の大将は何れも事件処理に関係があり、後備役の大将二名が臨時召集されて、
裁判にあたることになったのです。
そして私たち二人は助手兼副官の役目を仰せつかりました。
赤坂の第一師団司令部校内の小さい建物が空けられ、そこが裁判官の詰所になりました。
間もなく川辺大尉は伊太利留学の為め去り、私は独りぽっちになって、両大将の御用を務めました。
法廷は同じ司令部の常設法廷が使用されました。
事件の直接契機となった相沢公判の行われた法廷です。
多くの高官たちと共に証人に申請すべしとして、盛んに画策の的になった当の真崎大将は、
今や事件終末の裁判に、被告として同じ法廷に立たされたのです。
運命の人物です。
傍聴人も軍法会議法の規定によって、被告より下級の者の入廷は禁ずることが出来ることになっています。
私は勿論入廷しませんでした。
三人の裁判官の意見は対立しているようでした。
私は裁判長の自宅に度々呼ばれました。
この裁判が証拠不十分、無罪の判決をもって、終結したのは九月下旬だったでしょうか。
詰所のあと片付けまでやらされて、この苦しい役目から私が放免されたのは、
一年七ヶ月余を経た十月末のことでした。

以上で裁判の経緯は一応御話ししたことになります。
しかしこれで筆を擱くことは出来ません。
「 暗黒裁判 」 という問題に答えなければなりません。
たしかに厚いカーテンの彼方、厳秘の密室でなされた裁判です。
それを暗黒というなれば、まことに然りですが、こと裁判に関する場合、
それは、行政府の威力をもって法を枉げ、或は枉げさして行われたことを意味しましょう。
或はソ連のベリヤ裁判に於けるように、裁判それ自体政敵打倒のための形式に過ぎない場合が
「 暗黒裁判 」 の名に該当しましょう。
そうだとすると、一言なきを得ないのです。
ことに嘗ての一判士が検察陣の横暴を説き証人の喚問を妨げたと称し、
北、西田の裁判に際し、
素志にかかわらず
「 陸軍部内の圧力に勝てずに死刑を判決した 」
と 発表しているに於て殊に然りです。
最初に述べましたように、検察官は長官の決定によって公訴を提起するのです。
長官とはこの場合陸軍大臣です。
陸軍大臣の意図に副うて、検察陣の方針が定められることは当然のことです。
検察官は各人独立ではありません。
上長の指揮を受けるのは当然です。
公訴を提起したのは、検察陣が罪ありと認定した結果で、それが峻烈であったことは、
当時の軍当局として自明の成行きでした。
裁判官も陸軍大臣によって任命されました。
しかし一たび軍法会議を構成した以上、拠るべきは軍法会議法のみです。
裁判官は軍人として階級、新旧の上下はあり、裁判長には法廷の指揮など特別の権限はありますが、
評議の場合、階級の上下はその発言力に何等関係がありません。
ただ、軍法会議法は、各裁判官の意見発言の順序を規定しています。
第一は法務官、判士は下級者から順次に裁判長に到るのです。
何人も意見発表を拒み、その順序をあと廻しにすることは出来ません。
私たちの関する限り、最初の相違した意見をそのまま決をとって定めることはしませんでした。
回を重ねて論議をつくした後に始めて決定しました。
常に各人が大体同意し得る線に落付きました。
事実の認定については論議を重ねる間に自ら帰結点が見出されましたし、
理由書の一字、一句に数回の評議を重ねたこともあります。
量刑の場合、採決すれば事は明瞭ですが、妥当の線を出すには、神に祈念せざるを得ませんでした。
私たちの班では互の意見を十分傾聴し、それを玩味して裡れば、虚心坦懐それを容れ、
過誤なからんことを期しました。
一人の意見が最終に全員の意見となったことさえあります。
この点石本大佐と代わった若松中佐も正しい裁判長であったと、敬服しています。
----参謀本部の課員だったと思います。
裁判に際して、各班は相互に必要な資料を与え、意見を述べ合いましたが、
裁判官の評議の次第は相互に秘密を保っていましたので詳しくは知りませんが、
北、西田担当の裁判官たちの意見は甚だしく岐れていたように推測されました。
その裁判長であった吉田悳大佐----裁判進行中に少将に進級したと思っています----
が 陸軍次官、阿南兵務局長にあてた文章が先般某週刊誌で問題にされていました。
私は当時そのようなことがあったことを耳にしていましたし、発表された文章は真実のものと考えます。
その内容は大体
「 北、西田は裁判着手前には、事件背後の元兇であると考えていたが、
いざこれを裁判官として調べ、法に照らすということになると、外部で考えるようではない。
現在の自分の事実認定は軍当局の認定と相違する。
自分の意見を述べるから参考意見あらば提供して欲しい 」
ということです。
陸軍大臣が極刑を示唆したこともあったでしょう。
あったとしたならば、このことはもとより正しくありません。
このような事実が一応あったとして、最後の決定が意見不一致のまま、票決の形式をとって定められたか、
或は全員一致したかは問わず、一部の裁判官は納得しないまま自分の考えを抑えて、
遂に極刑の判決を成立するに至らしめたのでしょうか、
或は他の意見に聴いて、自己の判断を最終的に自ら決定して、あの判決を成立せしめたのでしょうか。
私は、後者であったと、先日まで推測していたのでしたが、前述の通り一判士はこの判決に関して
「 陸軍内部の圧力には勝たなかった 」
と 話しています。
若し記事の誤りでなければ、圧力に屈した人は、
一人で 「 暗黒裁判 」 の汚名を背負って貰わなければなりません。
四周の 「 雑音 」 を却け、自己の良心を貫徹した大部の裁判官の、
よく甘受し得るところではないのです。
大分長くなりました。
四周の雑音----私は敢て雑音と申します----について私の意見を述べて、
筆を擱くことにしましょう。

事件は軍隊の使用、中央官衛の占拠、現役大将を含む高官の殺人です。
あまつさえ、自分達の職場を若輩によって占拠せられ、
陸軍省の職員は偕行社に、参謀本部の者は軍人会館へと行かされた身にとって、
常日頃、彼等の行動に反対的であった将校は勿論のこと、中立無色の者も憤激を覚えたことは当然の成行です。
多少同情的であった者でも、部外者の参加、介入を知って、その焦燥をそれ等のものに怒として投げかけたことも、
あり得る人間の心理でしょう。
事件は事件として、この際政局の転換を期待するもの、その中にもそれを直接の目的とするものもあり、
中には事件の悪化を避けるための方便的に、それを口にする者もなきにしもあらずという状態です。
各人各種の事件観処理草案を疲労と焦燥によってかき乱されて、
異常な雰囲気を醸成していたことは容易に推察されることではありませんか。
天皇の御意志は常になく当初から明確に御示しになっていたようです。
この場合輔弼をまつまでもなかったようです。
変革の望みは消えて、あとは唯 平穏な収拾を所期するのみです。
陸軍は政府及び一般世論の冷い眼に囲まれました。
陸軍当局者の方針が、責任者の厳罰に決定したのは当然の成行きで、
それは検察陣の控訴状、更に論告に明瞭に示されています。
当局が裁判に関し合法的処理をなし、非難の余地なからしめようと配慮し、
裁判官の人選にも後くされのないようにと、一応の考慮を払ったことは或る程度認めてもよいでしょう。
しかし裁判長はもとより、多くの判士は陸軍省、参謀本部の課長や課員、部員でありましたから、
穏健、中正の人を選んだ心算とは言え、前述の部の雰囲気を体験した人であります。
そして繁忙な現職の処理、指示のため、屢々自席に帰れば、当然、裁判が周囲の話題になって、
所謂雑音が耳に入ってたことでしょう。
現職関係の上官から、判決を示唆する言辞があったと言うならば、
私は否定する資料をもちません。
次のようなこともありました。
たしかに兵務課からだったと思いますが、模造紙半截位に印刷し、
「 参考、事件関係背後一覧表 」 とか 題したものが配布されたことがあります。
兵務課は軍の軍紀関係事項、従って憲兵隊も管掌していましたから、
多分その方面で作成されたものでしょう。
私は 「 余計なことをする 」 と、例の潔癖から憤慨しましたところ、
石本裁判長から
「 なーに、そうむきになることはないよ。見るだけ見とけばいいじゃないか。
判断は我々自身でするのだから 」
と、たしなめられたことを想い出します。
裁判官たる法務官は、元来検察官と同僚です。
しかも、一般社会に於て検事、判事としているのに対し、法務官は検察官となり、予審官となり、
又 裁判官となるのについては、管轄する長官の命によるものです。
一般に、検察陣の見解に同調的であったとしても、
その経歴からする、ものの考え方の類型性を併せて考慮すれば、
これまた自然のことと謂わなければなりません。
以上のような次第で、或種の圧力があったことは前提してもよいでしょう。
但し大津事件に関して伝えられるような程度の、行政府の裁判官に対する策謀乃至圧迫が、
この際もあったとは、絶対に考えられません。
陸軍当局者は、世の非難に対し、又軍内部の禍根を残すことを虞れて、臆病だったようです。
私たちが慎重評議の結果作製した、第一次裁判の判決理由が、要点を削除して発表されたことは、
私たち裁判官の憤激したところですが、それも、この臆病というか、或は慎重というか、
そのような態度の致す結果であって、非公開のまま判決を申渡した軍法会議としては、
それ以後のことは、法律的に権限の及ぶことではなかったのです。
暗黒裁判か否かを決するのは、最後には、裁判そのものに於ける裁判官の態度一つにかかっていたのです。
「 裁判官は弁解せず 」 という教訓もあるそうです。
軍も崩壊し、軍法会議法も死滅した今日でも、各裁判官の発言、評議の内容などについて、
秘密を守ることは、道義上当然のことでしょう。
しかし裁判進行の様相、裁判官としての心構え、心境を述べることは、
この際元裁判官も認めて下さるだろうと思います。
厚いカーテンをおろしたままでは、揣摩憶測をはびこらせ、誤解不信を増すのみです。
私は、中味を変えていません。
可能な限りに於いて薄いカーテンにとり代えた心算なのです。

次の頁  
間野利夫判士 手記 2 東京軍法会議 ・ 補註  に 続く
松本清張編
二・二六事件=研究資料Ⅰ
から


間野利夫判士 手記 2 東京軍法會議 ・ 補註

2020年11月06日 09時34分55秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達

補註
「 補註 」 は 週刊文春に前記手記が引用せられることになった際
執筆者の需めに応じてその時点において逐次記憶を辿って書き送り説明を加えたものである。

( 1 ) 裁判の評議
通常会議と言いますが--過半数によって決定します。
意見を述べるのは先ず法務官の裁判官から始まり、それからははん下級者から順序にしました。
当初の発言で一致する場合もあれば、別れる場合も多々ありました。
量刑についてばかりではありません。
理由の一句に至るまてです。
裁判官は裁判長を除いて四人ですから、二対二の場合もありました。
その際は、裁判長の意見によって決定すればよいのですが、私たちの班では、四人の間で熟慮・討議を求められ、
四人の意見が最終的に一致するまで待たれました。
この際、補充裁判官の意見も参考に述べさしました。
三対一の場合は既に一応決定したことになりますが、この際も慎重に右と同様の方法をとられました。
三対一の内容が最終的に一の方に合致したことさえあります。
誰も面子にこだわることなく、真剣に正しい判決に導くことは真剣に努力したものです。
そうして最後まで意見の一致しないままで決定されたことは一回もありません。
従って裁判長が自らの意見を述べて一同をリードすることはなく、
要点については詳細を求められるだけでした。
私は二、三回の場合において裁判長自身の意見に反する結論もあったのではないかと推察しています。
( 2 )
五・一五の時は普通の軍法会議でしたから、弁護人もありましたし、公開されていました。
特別弁護人として、たしか士官学校の現・元中隊長の二人が出たと思います。
その要旨が新聞に出たのを見て、 「 当時の一般の空気にあまえ、アマッチョロイことを述べている 」
と 憤りを覚え、「 是非を部分ごとに明らかにし、教育者の罪を謝し、弁護すべき点は弁護すべし。
こんなことで一体士官学校の教育をどうするか 」 と 憂慮し、上司に意見を申出ました。
当時私は教育総監部の精神教育班にいて軍隊用の精神教育資料の編集にあたっていましたので、
本然の任務に関したことでした。
右の弁護人は上司と十分打合せの上の筈です。
当時の士官学校長や幹事が誰であったか覚えていません。
事件そのものより、こういう流れが陸軍にあったことを浮彫りする材料にはならないかと思って・・・・、
二・二六事件裁判中にもこのことを考えました。
( 3 ) 「 統帥権干犯 」 ということについて
この言葉は昔からあり、軍の御旗ですが、
ロンドン条約締結、真崎大将の教育総監更迭を特に被告達は、「 統帥権干犯 」 として問題としたのです。
通常、統帥系統以外から 「 統帥権の独立 」 に介入することに用います。
統帥の根本を紊り、兵力を僣用したことは文字の意味からは、内からの統帥権干犯には違いありませんが、
慣用はしていません。
従って軍法会議は統帥権干犯と言わず、「 皇軍の僣用--私兵化 」 を用いました。
この点について、軍法会議は 「 皇軍の僣用 」 の表現にすべきか、他に適当な言葉があるかを論議したに過ぎません。
( 説明 )
①  小さいところでは 「 大阪のゴーストップ事件 」 で警察官が外出の兵を捕えたことを
「 統帥権干犯 」 として問題にしたこともあります。
②  内ゲバ的な用法はなかったようです。
( 4 ) 反乱の認定時期について
軍法会議は 「 いつからを反乱 」 と したかは大して論議するまでもなく 「 営門を出たときから 」 と判定しました。
( 次官通達にかかわりなく )
明らかに事件処理の過程において甚だしい矛盾撞着を見出します。
その件については勿論調査しましたが、
これは各当事者の行動の是非、当不当の問題であって、
それは別に責任を問うべく、
情状には関係があっても、軍法会議が進んで決定を下すべき範囲内ではありませんから、
必要な限りにおいて事実を記述したに過ぎません。
裁判では決行そのものが問題であって、その点の情状は判決文 に出ています。
これは裁判官にとって重大なことであったのです。
その後の状況はいささかも判決そのものには影響はありません。
----各裁判官とも心の奥底では 「 最後はかわいそうなことになった 」 という憐憫れんびんの情はあったでしょうが。
せめて軍人らしい最後をとげさしてやりたかった。----
一時はその気にもなったのに、上層部が腹中に毅然たる判断をもち得なかったために、
若い彼等の行動を迷わす結果となったことについて哀れを感じました。
しかし、彼等も自ら強調する統帥権の紊乱を、決行後自決によってお詫びする位の
もっと徹底した厳正な決意をしておくべきであった、と 彼等のために考えるのです。
多少の環境の違いはあっても河野壽のように、また、四囲の情勢は違いますが、終戦時の畑中のように。
( 説明 )
① 慨世憂国ノ至情ト一部被告人等カ其ノ進退ヲ決スルニ至レル諸般ノ事情トニ付テハ
     之ヲ諒トスヘキモノアリト雖モ・・・・
( 編集部註 )
尚、この点については、別のところで間野氏自身が真情を告白しておられる。
「 ・・・・中正を持したと自信する小生も --彼等の行動に全然無関係であり反対の観念をもつ小生も
世相革新の要に思いをいたすとき----殆んど総ての苟くもく血の気のある将校----判士も含めて----
も そうではなかったかと思います----彼等の総てを排撃することの出来ない心境にあったことを告白いたします。
そこで第一班判決の 「 ・・・・諒とすへきものあり・・・・」 という字句を入れたものです。
今にして思えば、もう少し別の表現をとった方がよかったと思いますが----この時は・・・・
全裁判官の脳裏に焼きついていたあの最後の陳述の情景が作用していたことを信じます 」
・・大谷啓二郎氏宛書書簡下書き
( 5 )
「 奉勅命令 」 は重大な条件について特に勅裁を仰ぐものです。
その命令の遂行----「 原隊に復帰せしめる 」 ためには、戦闘惹起の危険もあります。
犯罪性のない千数百名の兵----昨日までの友軍----を攻撃することになるのですし、
附近住民にも戦禍を及ぼす危険性があり、まことに重大なことです。
それがために勅裁を仰いだのです。
しかし、 「 奉勅命令 」 も一般の命令と本質的には何等異なるものではありません。
「 奉勅命令 」が出て、それに服従しなかった時から----伝達についても色々と問題がありますが----
始めて反乱軍になったとする方が、大臣告示や小藤大佐の指揮下に入れた命令などを説明し易いのですが、
このようなことにかかわることなく、事理上 上記の判決をしたのです。
この点をどう取扱うかについて論戦したことは記憶していますが、
藤井法務官を含めてわれわれ判士にとっては、事態は明らかで、ただ判決中の 「 罪となるべき事実の記述 」
において どう取扱うかを評議したに過ぎません。
要するに、陸軍大臣以下、司令官、隊長が未曾有の事件に遭遇して処置を誤った点があるのは多少はやむを得ないとしも、
どうも政治に慣れて、軍統率の根本精神が少しかげっていたのではないか?・・・・
この批判は当然甘受すべきです。
上層部のことは暫く措いても、例えば 「 兵に告ぐ 」 の文章のアマッチョロイサ ( 世間の好評は博しましたが )、
しかもそれをアナウンサーに放送させたことなど、如何に異常な事態とはいえ--
異常であれば一層毅然たる態度をとるべきであるにかかわらず、全く軍隊の統率を忘れたやり方です。
何故戒厳司令官自ら放送し諒々と説き聞かせなかったのか、全く軍人としておかしいことです。
( 説明 )
① 当局の混迷心は別として、世間の多くはこれを一種特別なものと取扱っているが、これは間違い。
( 6 ) 将校と兵士の 「 骨肉の情 」 について
そもそもが貧乏な兵の家庭に同情し、その原因を政治家資本家の私利私欲追究とし、
これ等を元兇としたのですから・・・・。
私をして言わしむれば、川辺、福山との共同研究において、
安藤を例にとって問題とし、この研究もガリして配布したと記憶していますが
----「 安藤は一応誠意のある立派な男 」 と 認めました。
しかし、その教育、統率には----指摘されたように----所謂親分乾分間のような面が顕著であった。
猛練習をしたあとで、私費をもってパンを買い、ウドンを運ばせて 「 オゴル 」 ことが度々であった。
--調書にも出ていました。
部下をかわいがる気持ちは理解できるが、これは真の軍隊教育の方法ではない--
私兵化するものであるとの見解です。
私も少尉の頃、枚方の火薬庫の衛兵として二十名位を率いて一週間勤務についたときなど、
粗悪な給食 ( 賄夫 ) にウンザリして、帰路二〇キロ余りの行軍中にパンなど買って共に空腹をみたしたことも時々あって、
気持ちはよく理解できるのですが、安藤の場合、度が過ぎていたようです。
そしてそれを兵をかわいがった一例と考えていたところに問題が存在すると思うのです。
( 7 ) 三人の共同研究について
私と川辺は将校班です。
それが下士官兵の服従の問題に手をつけたのは、一つには将校達の命令の責任問題ででもありますが、
狙いは命令服従については法務官をリードせよという意図を強くもって法務官の法理論に対抗すべく、
敢てドイツの陸軍刑法の原書まで引っぱり出し、陸軍刑法制定時の法律家の審議記録を読んで、
判士に任命された将校達の理論構成を助けよう、審理に当っての考慮すべき点を明らかにしようとしたものです。
勿論不徹底に終わっています。
それは私の皇軍における統率の研究がまだ完了していなかったことも因由します。
「 判士は法律の素人 」 は 事実ですから、法務官に押されることを心配したのです。
私は軍の統率の観点から東大聴講に際し、多少一般刑法理論などを勉強していたので、
「 法務官何するものぞ 」 という気概をもっていたのです。
片倉発言を遮った発言もこの知識からです。
『 昭和史発掘 』 では、「 法務官が裁判をリード 」 と 書かれましたが、
私は吾々判士がリードしたと自負しています。
私は今日でも吉田書簡のようには全部を具体的に発表する気はありませんが、
量刑についても然りです。
( 8 ) 判決について
苦悩の日夜を重ねて判決文の作成に参与した私は判決公判の際には静かな心境にあって被告達を見ていました。
裁判長が理由を読み、最後に主文を言渡した時には、
被告はじっと鋭く裁判長を見つめたまま一言も発することなく動揺もありませんでした。
ただ、死刑の求刑を受けながら それを免れた者の中の二、三には心なしか ほっとしたような表情を見たと覚えています。
私達将校班は構成メンバーが変わるたびに公判開始前に明治神宮に参拝し、
「 正しい裁判ができますよう、皇軍国家再出発の機縁となりますように 」
加護をお願いしました。
恐らく他の班も同様でしたことでしょう。
私たち将校班は第一次の公判において一七名の死刑判決をしました。
村中、磯部の両名はあとの北、西田の裁判を慮って執行が延期されたことは気の毒なことでした。
七月十二日--盆の前日--十五名の死刑が検察官立ち会いの下に執行されました。
場所は衛戍刑務所内の北端部です。
観音崎の要塞地帯内や色々の意見があったが、自己の発生を懸念して上記の場所に決定したと聞いています。
曹長から始まり一人が終ってから次の者が監房から呼び出されました。
銃殺刑ですから、後の順番の者の気持を考え、その銃声を紛らわすために隣接の代々木練兵場において
小銃隊による演習を行い空砲を発射した筈です。
全部の執行が終って、死体が納棺され遺族に引渡される前の時刻--十時頃でした--を見計って
私たち裁判官は、門外の天幕の中で引渡しを待っている遺族の前を通って中に入り、
三段に積み重ねられた十五の柩にお詣りしました。
誰が発案したかは忘れましたが、一同そうせぞるを得ない心境であったのです。
( 9 ) 週刊文春 「 昭和史発掘・裁判篇 」 の読後感
はからずも二・二六事件裁判に関する私の手記が昭和史発掘に引用せられることになって、
毎号関心をもって読みました。
その引用に伴なう解釈、批判については多少の不満がありますが、
一々それを反駁する必要もありますまい。
私の手記は事実を明らかにし、裁判は所管長官--陸軍大臣--の お膳立ての枠内ではあったが
「 良心に従って行った。陸軍省--幕僚達の意によって動いたものではない 」 ことを、
あくまで主張したいのです。
このことは随所に一応引用されているが、しかし当らない推測も見受けられます。
そのため、一、二の点に触れておきたいと思います。
一、山口一太郎の判決について
山口に対する法の適用量刑についての批判はたしかに尤もな点があります。
しかし 「 本庄大将の女婿ということを考慮したのか 」 は 全く不当な推測です。
関係裁判官の誰一人として本庄大将を意識していません。
最後に量刑の評議になった時、最初に発言することになっている法務官の裁判官は死刑、
私はこの裁判では正裁判官ではなかったが、発言を促されて、
無期 ( これは数には入らない ) 河辺判士は無期、あと二名の判士は死刑、
即ち三対一ですから、裁判長の意見にかかわらず、死刑が決定されたことになります。
記述のように、石本裁判長は一人でも異論がある場合には、自己の意見を言わず、
一般裁判官の間で時間をかけ、納得のいくまで再研究をさせられました。
河辺君と私は、なし得る限り罪は軽きをとることを信念としていました。
事前の関係、特に週番指令としての処置、態度は直接兵力僣用者よりも重い責任をとらしても決して不当ではないが、
しかし死刑にしなくても済むならばと考えたのです。
決して本庄大将の女婿を意識していません。
結局長時間の討論の末 無期と決定したのです。
不当の非難は甘受します。
ただ、それほど直接兵力使用を重視したのです。
二、北、西田の判決について
北、西田の判決に至る経緯は相当詳細に書かれていました。
吉田判士の研究と信念、反対意見の藤室判士もまた信念に従って行動した筈です。
たまたま、吉田氏の意見、行動は長官--幕僚達の意図に反したため事後は不遇であったのです。
石本裁判長も然りです。
三、真崎裁判について
判決直前の某日 磯村裁判長から電話で呼び寄せられてお宅に御伺いしましたところ、
真崎大将に対する法律の適用、量刑に関する意見を求められました。
私は考えるところを縷々申し上げたところ
「 同感だ。あとの二人との意見が違うが、もう一度説得してみよう 」
とのことでした。
それが判決公判の直前であっただけに、また理由は反対意見の法務官が起草済であって、
一部の修正はしたでしょうが、結局、執筆者が指摘されたようなチグハグなものになったのです。
以上限度を越えて敢て書きましたが、
これによって、二は長官の意図に副うた判決になったものの、その過程に種々の問題があり、
一、三の判決は完全に長官--幕僚達--の意図に反することになったことが明白となったと信じます。
これでもなお、世人は裁判官はロボットであったとされるでしょうか。
以上の記述によって 二・二六事件裁判の真相を理解して頂けたら幸いであります。
昭和四十六年六月二十四日
間野利夫 識

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松本清張編
二・二六事件=研究資料Ⅰ
から


東京軍法会議判士候補者人名簿

2020年11月04日 09時31分52秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達

東京軍法会議判士候補者人名簿
昭和十一年三月二十五日

陸軍省
陸軍騎兵大佐  吉田 悳
同    石本寅三
陸軍歩兵少佐  河村参郎
予備員  同    倉本敬次郎
参謀本部
陸軍歩兵中佐  若松只一
陸軍航空兵大尉  谷川一男
陸軍歩兵大尉  石井秋穂
予備員  陸軍歩兵中佐  河田槌太郎
同  同    宮崎繁三郎
同  陸軍砲兵大尉  寒川吉隘
同  陸軍歩兵大尉  杉田一次
陸軍大学校
陸軍歩兵中佐  藤室良輔
陸軍歩兵少佐  大橋熊雄
教育総監部
  東京陸軍幼年学校
陸軍歩兵大尉  浅沼吉太郎
  陸軍歩兵学校
陸軍歩兵中佐  人見秀三
陸軍歩兵大尉  三神  力
 熊本陸軍教導学校
陸軍歩兵少佐  村上宗治
 陸軍野戦砲兵学校
陸軍砲兵大尉  根岸主計
 陸軍騎兵学校
予備員  陸軍騎兵大尉  吉橋健児
陸軍航空本部
 下志津陸軍飛行学校
陸軍航空兵大尉  河辺忠三郎
陸軍兵器本廠
陸軍歩兵大尉  間野利夫
同  福山芳夫
第一師団
 戦車第二聯隊付
陸軍歩兵大尉  河合重雄
 横須賀重砲兵聯隊中隊長
陸軍砲兵大尉  高山信武
第五師団
 歩兵第十一聯隊
陸軍歩兵中佐  山崎三子次郎
第十師団
 歩兵第六十三聯隊中隊長
陸軍歩兵大尉  中尾金弥

松本清張編
二・二六事件=研究資料Ⅰ
から


法廷

2020年11月02日 09時28分51秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達

二・二六事件当時、私は、第十師団法務部長として姫路に在職していた。
事件終了後四日目の三月四日、私は陸軍省からの命令書を受け取った。
それは、緊急勅令により東京陸軍軍法会議を特設することになったので、至急上京、
右特設軍法会議法務官として事件処理の任務につけ、という趣旨のものである。
はじめ、地方から呼び集められた法務官は、私を含めて四人、他に東京在職の者を加えても僅か十名内外である。
陸軍省の方針では、それを一月半ほどで判決言い渡しまで、一気呵成に片付けたい腹であった。
とりあえず、法務官の数を二十数名に増員してもらい、まず予審の取調べにかかった。
代々木の陸軍刑務所の構内に、バラック造りの予審廷が設けられ、
各法務官は、予審官として 一人づつ被告人の取調べを進めた。
予審廷は、二十ほどの小部屋からなり、そこで、予審官は録事 ( 書紀 ) と同席し、
日曜祭日の休みもなく取調べを続け、
直接行動に参加した将校を全員と二、三 主要な下士官に対する予審を終ったのが四月中旬。
下士官と兵の大部分は、その所属部隊に留置されていたから、憲兵と検察官が手分けして各部隊に出向き、
一通りの捜査をしただけで、予審には回らなかった。
予審が終れば報告書に調書を添えて検察官に送る。
検察官は、予審抜きの捜査調書や予審経由の書類などを検討して起訴不起訴を決める。
常設軍法会議では、被告人が望めば、弁護人もつけられ、
又、法定刑一年以上の重罪犯には官選弁護人がつけられるし、
判決に不服があれば、上告することもできる。
だが、戦時又は事変に際し特設される軍法会議では、弁護人もつけられず上告も許されず、
又、一般傍聴も禁止することに定めてある。
私が予審で取調べたのは、
安藤、中橋、村中、磯部、北、西田 その他 約一年半の間に二十数名であった。
結局、向坂俊平首席検察官により、第一次に起訴されたのは、
直接行動に参加した将校以下百二十三名であった。
これは、とても一度にまとめて裁判できる数ではないし、
又 将校、下士官、兵、常人と それぞれ立場が違うので、
これを将校班一、下士官班二、兵の班一、常人班一の五組に分けることにし、
これらを裁く担任裁判官の組も五班に分けて編成された。
しかし、事実の認定、情状酌量などの点には 甚だしく差を生じてはいけない。
そこで五組の全裁判官が集まり、裁判に臨む心構えについて一貫する線を協議検討し、
統帥命令を紊乱した事実に焦点をあわせ、審理を進めることに決めた。
念の為に述べておんが、
これらの打ち合わせや、判決に対して、
軍の上層部やその他から 特別の干渉や指示を与えられたことは、一度もない。
すべて独立独歩の立場で裁判官の自主的な判断にまかせられていた。
それは、起訴された者のうち、下士官、兵の大部分が、
裁判の結果、無罪となり 又は 執行猶予の判決を受けたことによっても明らかにうなづけるだろう。
特設された東京陸軍軍法会議の法廷は、陸軍刑務所に隣接する代々木練兵所に、
法廷は五つ作られた。
各班一つの割合である。

法廷内の様子を図示すると上図のようになる。
審理期間中は、九時に、被告人たちが警査 ( 刑務所看守が兼務 ) に付き添われてに入廷、
昼食時に一時間の休廷があり、
午後四時か五時頃まで審理を続ける。
被告人は、多いところでは四十名も廷内にいる。
それに一人一人同じことを審問するのは時間的にも無駄である。
そこで、被告人たちの互選で代表者のみに応答させ、
異論のある場合のみ、挙手により、各被告人に発言させた。
あるいは、これでは被告人たちは、言うべきことも充分主張できぬことがあったと思う方があるかも知れない。
だが、彼等は軍人として教育された者であり、言うべきことは ズバズバ発言主張したし、
我々も充分に彼らの発言に耳を傾けたつもりである。
しかし、彼らの思想、信念はどうあれ、
事件が軍の命脈とする統帥の根本を破壊する軍規紊乱の最たるものであることは、覆うべくもなかった。
そして七月五日、十七名の死刑を含む第一次の判決が下された。
死刑判決を受けた者の中、村中、磯部の両名は、北、西田ら常人の審理と背後関係の追究のために、
処刑を延期し、なお審理を続けることにした。
これは、我々特に常人班担当裁判長 吉田悳少将などが、
事件の背後関係は軍上層部の一部にあると信じ、それを徹底糾明せんがためであった。
しかし結局 その試みは不得要領に終ったが・・・・。
七月十二日、第一次処刑が行われたが
その頃から、村中、磯部の両名は、蹶起の目的が失敗に帰したことを悔やみ始め、
特に磯部は、これまで深く信頼していた軍の上層部某々らが、平素の大言壮語を裏切り、
彼ら青年将校を見殺しにしたものと為し、いたく憤怒の念を抱き、屡々その意味の口吻を洩らしていたことを記憶する。
事件の背後関係が、不得要領に終ったといえば、こんなこともあった。
それは 蹶起部隊の最初の計画では、豊橋にあった部隊が、興津の西園寺公私邸を襲撃することに決まっていて、
万全の準備が進められていたが、事件の前夜、東京で亀川哲也が、相沢中佐の弁護人である鵜沢聡明氏を訪れ、
西園寺公の襲撃は中止になったから、蹶起後は、
「 青年将校らの最も信頼する、真崎甚三郎大将をもって後継内閣の首班に奏請し、事態を収拾するよう 」
 西園寺公に進言してくれと依頼した。
その使命を受け 鵜沢氏は、二十六日早朝五時頃、興津に到着したのだったが、
実際は、豊橋部隊の同志青年将校の一人が、襲撃のため軍を私兵化することを極力反対したため、
蹶起の直前に中止がきまっていたのである。
それなのに何故 西園寺公は いち早く退避したのだろうか。
これは事前に蹶起の秘密計画を知った者が、襲撃中止の事情を知らずに、
西園寺公に退避の進言をしたに違いないと判断され、背後関係糾弾のため取調べが進められた。
しかし、これもついに 裁判では的確な証拠を握ることができなかった。
人物往来/S・40・2
当時第十師団法務部長 伊藤章信 著
軍事法廷 なみだの判決 から


暗黒裁判 (一) 「 陸軍はこの機會に嚴にその禍根を一掃せよ 」

2020年10月20日 09時14分42秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


二・二六事件の発生は陸軍をして痛く反省せしめたことは事実である。
陸軍創設以来未だかつてなかった一大不詳事件は
天皇の激怒を買い、
天皇は陸軍に対し非常な不信を表明された。
事件終結のあと、川島陸相に対し、
「 陸軍において発生せる今次の事件は、
 國威を失墜し 皇軍の歴史と伝統に一大汚點を印たるものと認める。
陸軍はこの機會に嚴にその禍根を一掃せよ 」
と、きびしくいわれている。
明治天皇によって朕は頭首、汝等は股肱と信頼されてきた陸軍は、
こうして頭首と仰ぐ大元帥より ひどくその信頼を失ったのである。
陸軍は真に恐懼して その禍根の徹底的粛正に、その方針をきめた。
したがって、この事件処理は非常峻厳を極め、
いやしくも革新運動に関係のあった全軍の将校は、
ことごとく検挙せられ、あるいは検挙せられないまでも一応は所属部隊長の調査を受け、
夫々行政処分に付せられたのであった。
このように、陸軍の粛正の決意は、これまでに、かつて見たことのない徹底したもので、
そこでは一片の情実をも許すものではなかった。

「 今次の反乱事件に関し、その発生の原因は極めて広汎深刻なるのみならず、
この種禍根を将来に絶滅するためには、部の内外に亙り、迅速かつ徹底的措置を施す必要とす。
これがために部下軍人軍属にして苟も事件に関係ありと認むる者は、
遺漏なく捜査のための万全の措置を講ずべし。
右の措置は軍の威信を保持せんがために、一時を糊塗するを許さず 」 ・・三月一日 陸軍大臣通達
陸軍の事件関係者の摘発、ならびに捜査にかんする方針を示すこの通達は、
さらに各師団においては、より具体化されていた。
叛乱部隊を出した第一師団では、
「 この機会において不純思想抱懐者を徹底的に摘発処断し 師団の更生を期したきに付、
私情に左右せらるることなく、全軍のため馬謖を斬るの決心を以て捜査相成度 」
・・三月四日 第一師団参謀長の団下への通牒
と、「 不純思想包括者 」 にまで、これが摘発を志達していたのである。
いうまでもなく 不純思想包括者とは、革新思想をいだくもので、
それは徹底した思想の粛正であった。

この叛乱事件の司法的処理のためには、
三月四日、緊急勅令で東京軍法会議法が公布せられ、
陸軍はこれに基いて東京に東京軍法会議を開設した。
この事件だけを管轄する軍法会議である。
だが、この軍法会議は、
その裁判の構成、審判など、すべて特設軍法会議の原則を適用するものであった。
緊急勅令は
「 陸軍々法会議ノ適用ニ付テハ 之ヲ特設軍法会議ト見做ス 」
と 規定したのである。
そもそも、特設軍法会議というのは、
戦中または戒厳地域に設けられるもので、
その内容は頗る簡明直截で、
後半の公開原則や弁護制度も認められていないし、一審制上告は認めない。
裁判官の数も少ないし、
法務官がいなければ適任の兵科将校で検察事務がとれるようにもなっていた。
いわば、裁判とはいうけれども、
それはただ裁判の形式をとったものにすぎない。
おおよそ、近代的な訴訟、審判制度ではなかったのである。
もちろん、これは戦場や急迫緊張した地域における軍司法の要請に応ずるものであったが、
これが、この事件に適用されるところに、最初から問題があった
事実、この事件の司法的処理のために、このような特別軍法会議を設置する必要があったかどうか、
これを全軍一途の方針のもとに処理するためには、
一個の独立した軍法会議を必要としたことはうなずけても、
しかし、これをもって戦地に準ずる軍法会議を設定したことは、
彼等の弁護を封じ 公判闘争を拒否し、簡単にかたづける といった意図以外にない
それは戒厳令下における迅速なね事件処理
( 叛乱参加将校以下の裁判は一カ月半ばで終結を予定されていた )
という名目に飾られていたが、こうした裁判形式を用いたこと自体、
初めから 軍の裁判企図は察知できるのである。
それはまた、さきの 禍根の一掃を期する 徹底的粛正とは、思想事犯の苛烈なる粛正であって、
真に軍の再建を期するものではなかったことを示している。

世にこの裁判を目して暗黒裁判という。
ことに獄につながれていた叛乱将校たちは、
予期した公判闘争は封じられ、いっせいにこの裁判の不当不正を叫んで暗黒裁判だと訴えた。
たが、それはこの事件が終結したときから、判かっていたことだった。
特設軍法会議とはそうしたものである。
「 三月一日午後、這次不祥事変に対する軍法会議構成に付 緊急勅令を仰ぐべく閣議あり、
四日午前十時より枢密院本議に於て、
陛下臨御の下に前項閣議決定の軍法会議に関する勅令案に付 御諮詢あり、
可決の上 議長より上奏御裁可あらせられる。
此軍法会議は東京に陸軍軍法会議を設け、
二・二六事件に関する被告事件に付管轄権を有せしむるものにして、
裁判は公開せず  一審にて決定し 上告し得ざるものとす 」・・本庄日記

東京軍法会議が設けられると、この事件に従事する職員、
すなわち、検察、予審、公判にあたる法務官や判士要員の兵科将校は、全軍から東京に召集された。
そして裁判官となる兵科将校は、
思想正順、派閥にはいささかも関係のないものとの条件で選任された。
リンク  
東京軍法会議判士候補者人名簿  
法廷  
東京に集められた将校は、陸軍省で数日間の講習をうけている。
事件に対する認識を与えられた彼等はすでに初めから、
事件に対する軍の方針をはっきりと植えつけられていた。
なお、法務官は三月五日には
検察官として高坂春平勅任法務官を長として沢田首席検察官以下六名、
裁判官、予審官として小川関次郎勅任法務官以下十五名が
それぞれ任命されたし、裁判官たる将校もこれを五組
( 将校班一、下士官班二、兵班一、常人一 )
に 分け、かつ、これにおうずるように叛乱被疑者を区分し、
極めて能率的に迅速に判決を終始するよう、お膳立てがなされた。

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暗黒裁判 (二) 「 将校は根こそぎ厳罰に処す 」  に 続く
大谷敬二郎著 二・二六事件の謎 粛軍の決意 から

リンク ↓  大谷敬二郎著 二・二六事件 編
陸軍はこの機会に厳にその禍根をいっそうせよ


暗黒裁判 (二) 「 将校は根こそぎ厳罰に処す 」

2020年10月18日 09時11分38秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


三月十九日 陸軍省は参加下士官兵の取扱いについてこう発表した。
「 叛乱軍に参加した兵千三百六十名は、
おのおのの所属隊に留置し軍法会議検察官において取調中なりしが、
昨十八日 一応取調をおわり千三百二十数名は留置を解除せられたり 」
正確にいってこの叛乱に参加した千三百五十八名の兵隊はどんな取扱いをうけたか。
彼等は二十九日午後にはすべて原隊にかえった。
が、彼等はかつての温かい中隊には入れてもらえなかった。
この叛乱に参加した犯罪部隊として一様に隔離収容されたのである。
そしてこれらの兵の処置については、部内に二つの意見が対立していた。
(一)
彼等には叛乱の意思とその実行があったのだから、
そのことごとくを軍法会議に付し厳正に処断すべきである。
彼等が重臣を殺戮し 軍の中央官衛を占拠した行動は、明らかに軍隊の行動ではなく反乱であり、
その一般軍人軍隊に対し執った行動には一片の同情を持つべきではない。
(二)
彼等が事実上革新に意慾に燃え、積極的にこれに参加したとしても、
それは、自己の自由意志によって、かような革新意識をもつに至ったものではない。
彼等のうち 志願による下士官は別として、
その大部分の兵隊達は、強制徴兵によって入隊せしめられ、
たまたま、革新将校の訓育とその環境によって、こうした意識を育成せられたものである。
ことに、その大部分は まだ入隊二カ月で軍人としての教養は十分でない。
しかも、命令のもとに駆り出されたことも事実である。
だから、純粋な意味での自由意志による犯意を肯定することは酷である。
もし、彼等が他の部隊、他の中隊に入隊しておれば、
かような事態を惹き起こすことはなかったであろう。
したがって 此等の兵隊はこれを不問に付すべきである。

だが、陸軍当局はこの対立する二つの意見のうえに折衷案を採った。
そして、
(一)
参加下士官兵に対しては憲兵において一律に訊問を行なう。
ただし、下士官は一応全員軍法会議に送致しその取調べを慎重にする。
(二)
おおむね左記要目に基づいて訊問し、これに該当すると認めた者に限り、
さらに改めて捜査する。
(1)  どうした考えで反乱行為に参加したか。( 命令によるか、自由意志か )
(2)  人を殺傷したことがあるか。
(3)  上官その他に暴行脅迫したかどうか。
(三)
右の訊問要目にて犯罪に該らないものは即日釈放して原隊に復帰せしめる。
ことに決定した。
このような処置がとられたのは、彼等が強制徴兵によって軍隊に入ったものである以上
このことのためな、一様に犯罪容疑者とすることは、
建軍の必任義務兵制の根基を脅かすものがあったからである。
・中略・
たしかに、下士官兵は軽かった。
寛大にすぎる断罪だった。
陸軍省は七月七日 処刑者第一次の発表において、
「 下士官兵中、有罪者の一部の者にありては、党を結び兵器をとり反乱をなすに方り、
進んで諸般の業務に従事したるものと認められるべしと雖も、
その他の者にありては、自ら進んで本行動に参加するの意思なく、
平素より上官の命令に絶対に服従するの観念を訓致せられあり、
なお、同僚始め大部隊野出動する等、四囲の状況上これを拒否しがたき事情等のため、
やむなく参加し、その後においても、ただ、命令に基き行動したるものにして
今や深くその罪を悔い改悛の情顕著なるものあるを以て、
これらの者に対しては刑の執行を猶予し、
爾余の下士官兵は上官の命令に服従するものなりとの確信を以て
その行動に出でたるものと認め、罪を犯す意なき行為としてこれを無罪とせり 」
といい、
大いにその情状を酌量したことを明らかにした

だが、将校に対しては厳罰だった。
これらの将校二十名は、すでに二月二十九日付を以て位階返上、免官となった。
陸相官邸で自決した野中大尉、熱海陸軍病院で自刃した河野大尉を除く生存者十八名は、
シャム公使館附近に待機して高橋蔵相邸襲撃には直接参加しなかった今泉中尉、
それに村中、磯部、水上らの常人十名と共に、起訴予審に付せられ
七月五日判決の言渡しがあった。
香田大尉以下十三名は死刑、麦屋少尉以下五名は無期禁錮、
村中らの常人は、村中、磯部、渋川、水上が死刑、その他は禁錮一五年という重刑だった。
(山本又は十年)

この第一次直接参加者の処罰についで、
七月二十一日 第二次処分を発表したが、反乱者を利したものとして
山口大尉が無期禁錮、その他の将校五名が、四年から六年の禁固刑に処せられた。
さらに、翌十二年一月十八日には 第三次処分として、
満井佐吉、齋藤瀏、菅波三郎、大蔵栄一、末松太平といった将校七名が、
それぞれ五年以下の禁固、常人としては福井幸ほか六名が三年以下の禁固となった。
この場合、大蔵大尉のごときは、
遠く朝鮮の辺疆へんきょうで将校団の若い者に働きかけたというので禁錮四年、
末松大尉のごときも、
青森から電報で叛乱軍を激励したというので禁錮四年の実刑を受けたのであるから、
叛乱将校と同志関係にあった錚々たる皇道派将校は、
根こそぎに厳罰に処せられたということになる。
八月十五日の号外
八月十四日 軍法会議は北一輝、西田税に死刑、亀川哲也に無期禁錮、
そして山形農民同盟の中橋照夫に禁錮三年を言渡し、
ついで九月に入って真崎大将の無罪を判決した。

こうした東京軍法会議は一年八カ月にわたってこの事件の審理にあたったわけであるが、
その間、有罪としたもの軍人関係七十九名、常人関係二十一名、総計百名に及んでおり、
なかんずく、死刑十九、無期七という重罰者を出しているのである。
もってこの軍法会議が、いかに峻烈苛酷であり、
しかも将校の責任を重視したかを窺知きちすることができよう。
それだけではない、そま裁判の進行は驚くべきスピードであった。
これを直接参加者にみても
起訴者百二十三名の大量を わずか百日内外で捜査、予審、起訴、公判とかたずけているし、
支援ないし背後関係者にしても、すでに書いたような処罰だけでなく、
現役軍人として不起訴になったもの、平野助九郎少将以下十名、
無罪になったもの柴有時大尉以下九名に及んでいるのである。
これでは、いかに精力的な法務官や判士であっても到底その任に堪えるものではない。
そこでは拙速主義に徹して審理を尽さず裁判という形式でお茶を濁したとも極言できよう。

一方、事件の行政責任については、
三月六日、
林、荒木、真崎、阿部の四軍事参議官は待命となり、
つづいて関東軍司令官南次郎大将も、
また陸軍大臣川島大将、侍従武官長本庄大将も軍を去った。
四月に入ると
戒厳司令官香椎中将、憲兵司令官岩佐禄郎中将、近衛師団長橋本中将、
第一師団長堀中将らも待命となり、
叛乱部隊を出した歩一、歩三 両聯隊長、歩一、歩二 両旅団長らも責任退職した。
こうして陸軍の首脳部は
西義一教育総監、寺内寿一陸軍大臣、植田謙吉関東軍司令官の三大将を残すのみとなったが、
さらに、この年八月、
寺内陸相によって断行された粛軍人事は三千余名に上る大異動だった。
第四師団長建川美次中将、陸軍大学校長小畑敏四郎中将を始めとする、
かつての革新運動に躍った人々は、それが佐尉官級にまで粛正せられたのである。
しかし、過去において、とかくの革新のいわくつきの人々を一掃した、この粛軍人事も皇道派に重かった。
そこにはもはや皇道派の名のつく人々の存在を許さなかったのである。
だから、この粛正は必ずしも公正なものでなかった。
この粛正が皇道派に偏し かつての統制派 (清軍派)幕僚に対しては余りにも行われなかったからである。
ことにいわゆる三月事件、十月事件の幕僚の多くは無疵だった。
こうしたことが、この粛軍は寺内陸相をあやつる幕僚群の皇道派潰滅策だといわれた所以であり、
また、真崎大将がしばしば生前言っていた
「 俺は彼等の術策に乗せられたのだ 」
との言葉は この意味において理解されるのである。

次頁 
暗黒裁判 (三) 「 死刑は既定の方針 」  に 続く
大谷敬二郎著 二・二六事件の謎 兵は寛大、将校は厳罰 から


暗黒裁判 (三) 「 死刑は既定の方針 」

2020年10月16日 09時06分41秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


已に軍法会議の構成も定まりたることなるが、
相沢中佐に対する裁判の如く、優柔の態度は、却て累を多くす、
此度の軍法会議の裁判長及び判士には、
正しく強き将校を任ずるを要すと仰せられたり 
・・・本庄日記三月四日


二月二十九日夕刻
代々木軍刑務所に収容された叛乱将校たちは、
憲兵の強制捜査によっていっせいに訊問を受けた。
憲兵は三月二日には軍法会議に事件を送致した。
それから予審官の手によって予審から始められた。
予審官は日曜休日も無休で訊問を行ったが、
一人の被告に多くの時間をかけることができない。
なにしろ 百二十三名の第一次裁判は
陸軍省の方針としては 約一カ月半を予定していたのであるから、
事はいそがねばならない。
この予審がおわったのが四月中旬、
それから公訴が提起され公判が始まったのが四月二十八日。
香田大尉以下二十三名は一号法廷第一班で左の裁判官により裁判をうけた。
判士長  騎兵大佐 石本寅三 (陸軍省)
判士     兵科将校四名
法務官  藤井喜一 (近衛師団)
検察官  竹沢卯一 (近衛師団)
公判廷は四月上旬 軍刑務所に近い代々木練兵場の一隅に急造されたが、
鉄条網で二重、三重に囲まれ、その公判には各所に機関銃をすえた歩哨が立つという、
ものものしい警戒ぶりだった。
だが、その審理は全くの急速調で、
一人一人に同じことを審理するのは時間的に無駄だというので、
被告人たちの互選で代表者だけに応答させ、
異論のある場合だけ手をあげて各被告人に発言させた。
こうして一カ月あまりで結審となり、六月五日には求刑されたのである。
しかも、この求刑があってから一カ月後の七月五日には、
もう判決を下してしまったのである。
こんな裁判であったから、彼等被告たちの怒りははげしかった。
もともと、彼等は公判闘争を誓って自決を思いとどまったのであるから、
大いに冒論をもって闘うことを決めていた。
だが、それはすっかり当てがはずれたうえ、この極刑となったので、
憤激はひととおりではなかった。

清原少尉は
「 ある日 渋川善助がたまりかねて絶叫した。
『 裁判長、裁判長が職務としてやっておられることはわかりますが、
この裁判は一体なんですか、私たちが命がけで国のためにやってきたことが、
まるで泥棒以下のような裁判ではないですか、
同志の中には裁判官を勤めてきた将校もおります。
なぜ、二・二六が起り、そして二・二六の経過はなぜあのようになったかを
天下に明らかにし 生きた裁判をすることができないのですか 』
『 この裁判は特別軍法会議で一審制であり 上告はできないし、
非公開、弁護人なしということは、裁判の当初にきめられていたことで、いかんともしがたい。
しかし 君たちがいうことは制限しないし、なんでも裁判長は聞くつもりだから、
思う存分いってくれ 』
云い終った裁判長の眼には涙が浮んでいた。
裁判長の気持を察して渋川もうなだれてしまった 」 ・・清原手記
と、伝えている。
栗原安秀は
「 そもそも今回の裁判たるその惨酷にして悲惨なる昭和の大獄にあらずや。
余輩青年将校を拉致し来り これを裁くや、
ロクロク発言をなさしめず、予審の全く誘導的にして策略的なる
何故にかくまでなさんと欲するか。
公判に至りては僅々一カ月にして終り  その断ずるところ酷なり。
政策的の判決たる真に厳然たるものあり。
既に獄内に禁錮し外界と遮断す、何故に然るや 」
と 遺書している。
安藤輝三は
「 公判は非公開、弁護人もなく ( 証人の喚問は全部脚下せられたり )
発言の機会等も全く拘束され、裁判にあらず捕虜の訊問なり。
かかる無茶な公判なきことは知る人の等しく怒る所なり 」
と、鋭く裁判の不当を衝いている。
このような、将校たちの裁判へのいかりは、おしなべて、その遺書につづられているが、
しかし、その中に一貫して流れるものは
この裁判が初めから極刑という既定の方針をもって臨み、
これに都合のよいように、予審から公判まで誘導したものだとしていることである
村中孝次は、
「 渋川氏は一として謀議したる事実なきに謀議せるものとして死刑せられ、
水上氏は湯河原部隊にありて部隊の指揮をとりしことなく、
河野大尉が受傷後も最後まで指揮を全うせるに拘らず、
河野大尉受傷後 水上氏が指揮をとりたりとて死刑に処したり、
噫、昭和現代における暗黒裁判の状かくの如し、これを聖代とてうべきか--」 ・・続丹心録
と、この裁判がことさらに極刑にするために事実を歪曲した点を指摘し、
磯部浅一は、
「 新井法務官が七月一一日安田優君に
北、西田は二月事件に直接関係はないのだが、
軍は既定の方針にしたがって両人を殺してしまうのだ
と いうことを申しました。
軍部が彼等の自我を通さんがために、ムリヤリに理窟をつけて、陛下の赤子を殺すのです。
出鱈目とも 無茶ともいう言葉がありません。
軍の既定方針とは何でありましょうか 」 ・・獄中手記
と 訴えている。
すなわち、軍、とくにその幕僚は
すでに全員の死刑を方針として、初めから臨んでいたので、
ただ、裁判は これに理由をつけるためのもの、
しかも 死刑にするためには事実まで曲げているのだというのだ。
しかも、このような軍幕僚の策動は、至るところにあったとして、
磯部はこんな事例まで挙げている。
「 大蔵大尉以下数名の同志は不起訴になることにきまっていて、
前日夕方迄は出所の準備をしていたのですが、
陸軍省の幕僚が横車を押してムリヤリに起訴してしまいました 」 ・・獄中手記
幕僚の策動といえば、
のちの真崎ケースでもその疑いがあるように、
真崎大将はその遺書 「 暗黒裁判 」 に 述べている。
「 十二月二十七日には看守長 加藤髙次郎君が私の室に来り、
『 検察官より釈放の命令がありましたから、只今物品の整理中です 』
と 内報してくれた。
他に二、三の看守も同様のことを洩らしてくれたので、私は大いに待ったのだが、
結局、いつまで待っても何とも申して来らず お流れになった。
後で聞けば 陸軍大臣より電話にて停止命令が来たそうである。
しかして公訴提起となった 」

軍がこの事件に臨んだ態度は、初めから峻厳であった。
したがって東京軍法会議が厳罰方針を堅持しておったことは事実であるし、
また、この公判には常に陸軍省の圧力がかかっていたことも蔽えない。
裁判官はその良心に従って判決するというけれども、
陸軍大臣を長官としたこの軍法会議では、陸軍省法務局はその補佐機関であり
これに軍務局 とくに軍事課、兵務課あたりの発言も力強く作用したことである。
そこでは初めから死刑を既定の方針としたことは、その確証のないかぎり、
にわかに断定することはできないにしても、軍が厳罰方針を確立していたこと、
また 軍法会議が中央の方針に忠実であったことは、間違いのないことである。

次頁 暗黒裁判 (四) 「 裁判は捕虜の訊問 」  に 続く
大谷敬二郎著 二・二六事件の謎 裁判へのいかり  から


暗黒裁判 (四) 「 裁判は捕虜の訊問 」

2020年10月14日 08時59分13秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


我々は刑死将校達が書き遺していった血を吐くような数々の遺書を読むことによって、
この軍法会議が暗黒裁判というにふさわしい実体を持ち、
かつその運営がなされたことをうかがい知ることができるのであるが、
それは既述のように東京軍法会議そのものが、
軍訴訟とはいっても近代的なそれではなかったのである。
だから彼等叛乱将校達がこの軍法会議に激しい怒りを持ちつづけたことは、
いささかも無理のないところであるが、しかし、彼等にもこの裁判には大きな錯誤があった。
もともと彼等は裁判といえば 五・一五事件を思い、相沢公判を考えていた。
そこでは、その主張は常に堂々と披瀝せられ公判を通じて広く国民に訴えることができた。
したがって、彼等は蹶起の初めに於いて、事敗れてもなお激しい公判闘争を期して
威信における言論戦をもくろんでいた
「 失敗の責任を自決によって解決することは弱い方法である。
吾々の不抜の信念は一度や二度の挫折で挫くじけてはならない。
死の苦しみを越えて戦い抜くことが、ほんとうの強い生き方である。
だから、たとえ事が敗れても最期迄公判廷において所信を披瀝して世論を喚起し、
終局の目的貫徹まで飽く迄戦わねばならない 」 ・・河野司著 「 湯河原襲撃と河野大尉の自刃 」
これが彼等の信念だったのである。
ところが、東京軍法会議は彼等が考えていたような、そんなあまいものではなかった。
公判廷で言論で争うなどのことは、論外の沙汰であった。
いくら証人を申請してみても、そんなものは許されるものではなかった。
第一、彼等には弁護人さえつけられていないのだった。
このことの減滅に彼等はすっかりおこってしまった。
それは、たしかに、
安藤が叫んだように 『 裁判は捕虜の訊問 』 で 聴くだけきけば被告たちには用がない、
といった 『 さばき 』 方だった。
この予期に反した裁判の内容とその進行に、彼等は一様にその不当不公正をなじったのである。
しかして、また、この裁判は統帥大権をせん用したという、
この事件の特質と天皇の厳しい意思、態度を体していた 軍部としては、
かの相澤公判のような轍をふむことはできないことだった
川島陸相は事件鎮定後、
「 軍は本事件を契機として更始一断、真に団結鞏固なる国軍の真価を充実し、
以て忝かたじけなき叡慮に副い奉り 国家国民の信倚に副わんことを期す 」
と、その粛軍の決意のほどを声明していたのであるから、
この裁判は初めから簡明直截に厳罰をもって臨むことを方針としていた。
だから、そこでは彼等の言いたい放題のことは言わさなかったし、
彼等がいくら原因動機を調べてくれといっても、それらは形式的に通り一ぺんの取調べに終わったし、
また、大臣告示や警備隊編入をとり上げて われわれの行動は軍の首脳部が認めたのだと言い張っても、
そんなことは反乱と言う犯罪事実に関係のないことだとして、
あえて真剣に取上げようとはしなかったのである。
これらを取上げることは
徒に事態を紛糾に導き、軍の醜態を曝露するにすぎないことを恐れたのであろう。
だが、このことは、軍法会議の致命的な欠陥だった。
なぜなら、このような事件の根幹を追及することなくしては、
断じて陰影は取り除かれなかったし、軍再建の資料を掴むことさえできなかったからである。
このように、彼等はこの裁きの世界においては、至るところで幻滅感、悲痛感を味わされていた。
しかもこの減滅による悲痛感が強いだけに、彼等の反発もまた激しかったわけであるが、
しかし、彼等にも事態を見る目がなかったことは争えない。
いな、事態を見る目がなかったというよりも、
その眼を閉ざされていたというのが正しいのかもしれない。

彼等は事件鎮定とともに、直ちに獄につながれてしまった。
もともと彼等は、事件中は、眼前の事態にのみ眩惑されていたし、
また、すでに見てきたように、しばしば同情ある将校によって事態の好転をのみ信じさせられていた。
こうして彼等は外界の動きに全く目を蔽われ、甚だしい独善に陥っていたのである。
しかも、それがそのままに二月二十九日以後全く世の中と隔絶されてしまったのであるから、
この蹶起の世評がどうなのか、
どんなに天皇の激怒に触れ、軍首脳部がどのような態度に出たものであったのか、
さらにまた、この事件によって内には軍の統帥が破壊されて軍は信を失い、
外には国威を失墜したかなどといったことは、全く知ることがなく、
依然として蹶起当時の認識と理解に立っていたことであった。
だから、そこでは、おおよそこの事件の反省とか、
事件の持つ重大性などには、自覚することがなかったのである。
だからこそ、彼等はこの裁判に、なお、維新の展開を求めようと意気ごんでいたのだった。

こうして、彼等は、かつての軍事裁判のあり方に望みをかけ、
今日における裁きを極めて楽観していた。
げんに私が三月一日主謀者の一人 磯部浅一を取調べた時、
彼は肩章と襟章をもぎとった軍服姿に四日間のあとをしのばせてはいたが、
意気頗る軒昂で、
『 これからが吾々の真の維新運動です、はげしく闘います。
公判闘争で天下をひっくりかえして見せる覚悟です 』
と はりきっていた。
事態を楽観していたといえば、彼等はまた いわゆる皇道派の首脳者たちが、
ひとしく彼等に同情的であって同志を見棄ることはないと信じていた。
だから、こん裁判では相沢公判のように、これらの巨頭連がぞくぞくと出廷して、
よい証言をしてくれるものと待ち望んでいた。
ところが巨頭たちは、事件鎮定と共にすっかり逼塞ひっそくしてしまっていた。
あえて積極的に彼等を助けようともしなかったし、
その事件関係の証言も決して彼等に有利なものではなかった。
なかには、わざわざ 「 あいまいな 」 あるいは 「 うそ 」 の証言をしたものもいた。
例えば、
小藤大佐は奉勅命令は全将校を集めては下達しなかったが、
各部隊毎に実質的に下達したと証言したし、
また、村上軍事課長は二八日幸楽で安藤大尉に、維新大詔なる案分を見て、
事態はここまで来ているのだから、お前達も安心して引上げてくれと勧告しておきながら、
予審では
「 維新の大詔などは知らない。何かの間違いだろう 」
と うそぶいていたのだった。
・・・
中略
・・・
軍法会議はこういっている。
「 彼等は折柄来邸したる山下少将より軍首脳部において起案したる説得文を読み聞かされ
説示せられたるもこれに復せず---」
ここでは 「 大臣告示説得文 」 と なっている。
軍法会議はなぜ大臣告示といわなかったのか、
それは既に東京部隊だけでなく全軍に周知されているにかかわらず、
あえて説得文という。
大臣告示という以上彼等の行動を一応是認したことになるのを恐れたのであろう。
だが、それだけではない。
山下少将より説示されても これに服しなかったというのである。
これはひどい事実の歪曲である。
山下少将は告示を三度読み上げただけで、いささかも説得していない。
そこには幾人かの立会の将校もいたことであり、
これらの人も山下の朗読でホッと胸を撫でおろし喜んだというのである。
蹶起将校はまずわが事なれりと歓迎し これに服したのである。
服さなかったのではない。
これを曲げて 「 服せず説得に応じなかった 」
と 判定するがごときは、まさに言語道断である。

つぎに警備部隊編入についても、
「 第一師戦時警備の下令せらるるや、なるべくこれ等部隊は流血の惨を避け、
説得により帰隊せしめんとする警備司令官の方針に基き、
同二十六日夕より歩兵第一聯隊長小藤大佐の指揮下に入らしめられ、
次で同二十七日早朝戒厳令中の一部施行ありし後も、
前日と同一方針の下に右状態を持続せしめられたるが、
幹部はこれを以て一般の情勢好転せりと判断し、
益々その所信を深めその企図を断行推進せんと志すに至れり 」
と 判示している。
軍法会議は警備隊編入をどのように理解していたのだろうか。
彼等は大命なくして独断、不法出動したことを自覚している。
いわば脱走部隊である。
その私兵的部隊が再びもとの師団長や聯隊長の指揮に入れられた。
この認識に立つならば警備隊編入は軽々に看過できない建軍上の大問題であったはずである。
なぜこれを看過したのか。
不法出動を自覚した彼等は、許されて統帥系統に入れられたと信じた。
それはまさに占拠態勢の確立である。
一般の情勢好転とせりと判断するのは当然のことであった。
ここでも軍法会議は小藤大佐の伝達のなかったことを認めている。
指揮系統を通じて命令下達のない以上、その指揮下にあった彼等は撤退はできないはずである。
すれば戦線離脱である。
さらに軍法会議は、
「 村中孝次、香田清貞、對馬勝雄等は午前十時頃第一師団司令部に至り
師団長及び参謀長に対し、勅命の下令なきよう斡旋方を陳述し 」
と、彼等が二十八日小藤、鈴木両大佐らと共に師団司令部に赴いたことを述べているが、
そこで彼等が聞いたことは、奉勅命令はまだ下達されないとのことであったのに、
こうした軍隊指揮官の態度には、いささかも触れることがない。
軍首脳部や軍隊指揮官の不利とするところは、一切これを隠蔽しては、
彼等の罪質や量刑を判定することはできない。
裁判は軍法会議の本質には撤せず、尽すべきをつくさず、
事実を無視するなどの独断、軍の不利とするところを隠蔽するなど、
その内容は、まさに支離滅裂だった。
こうして彼等は極刑を科せられたのである。
彼等が死に臨んで昭和の大獄と叫んだのも無理からぬことである。
以上の様に、東京軍法会議は はなはだ暗いものであったが、
しかし、この事件の原因動機には一応ふれている。
だが、それはこれまでの青年将校運動を経過的に叙述するに止まって
この事件がどうして起こったのかという社会的背景の認否、
とくに、陸軍に深く根を下ろしていた革新運動の根源、派閥の存在とその抗争などについては、
その事実の追及を怠っていた。
いいかえれば、彼等の蹶起の真意、その要因といったものには克明にメスが加えられていなかった。
このために軍の根源的な反省とはならず、
粛軍の裁判といいながら、いたずらに苛酷な断罪に終始し、
粛軍の企図はその方向を誤ったのである。
河島陸相はこの事件の発生原因は極めて広汎深刻であり、
この種禍根を将来に絶滅するためには、部の内外にわたり迅速かつ徹底的措置を施すことを、
全軍に通達したにもかかわらず、軍中央部自体はなんら粛正されることはなかった。

事件の発生原因を歴史的に辿れば、
遠くは昭和初期から潜行的に行われていた隊付青年将校運動、
これにつづい桜会の誕生、そこでは国家改造が公然と論議され、
三月事件、十月事件陰謀、満洲事変、それから荒木陸相らによる青年将校運動の容認と助成、
五・一五事件、皇道派、統制派の分派と確執、さらに十一月事件と相沢事件、
こうした一連のつながりにおいて 二・二六は発生しているのだ。
まことに、この事件発生の原因は広汎にして深刻であった。
したがって、いうように真に粛軍に徹するならば、こうした源流にさかのぼって、
それらに克明なメスを加うべきであった。
その根元は、いうまでもなく国家革新という名にかざられ、
憂国と結びついた政治運動にあった。
したがって、軍から、この政治運動ないし政治への志向を徹底的に排除することが、
喫緊にとて根本的な要事であったし、
これまであいまいとされていたクーデター陰謀は公正な司直の手によって、
厳重かつ徹底した捜査に出るべきであった。
軍法会議にこのような重責を負荷することには、その軍法の上において疑義をもつものもあったであろう。
だが、軍法が粛軍の基本である以上、
少なくともこれらの摘けつは、ここでなさるべく、しかもその目標は軍中央部自体にあった。
粛正のあらしは全軍に及んだが、
ひとり中央における幕僚群は大手をふって庶政一新という政治の渦中に狂奔していた。

大谷敬二郎著 二・二六事件の謎 暗黒裁判ということ


反乱に非ず、叛乱罪に非ず 『 大命に抗したる逆賊に非ず 』

2020年10月04日 08時12分59秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達

宮内省発表
位の返上を命ず (各通)  ( 二月二十九日 )
返上の理由
大命に抗し 陸軍将校たるの本分に背き
陸軍将校分限第三条第二号該当者と認め
目下免官上奏中のものとす。

二・二六は叛乱か
わたしは、さきに陸軍当局が、
彼らを大命に従わなかったとして大命に抗した叛徒と断定したことは、
はなはだし 不当だとかいた。
ここで、この点を明らかにしたい。

三月一日 陸軍省は
陸普第九八〇号により、陸軍次官古莊幹朗 名で、
「今次ノ不法出動部隊 ( 者 ) ヲ叛乱軍 ( 者 ) ト称スルコトトス 」
と 通達した。
これによって、
蹶起部隊は叛乱軍と呼びその参加者は叛乱者と呼ばれることになった。
爾来 叛乱部隊、叛乱罪 等々、彼らの蹶起が叛乱という言葉で統一されてしまった。
だが、
彼らは叛乱の徒であったか。
すでにみてきたように、
彼らはひとたび大命が下ればこれに従うことを信念としていた。
彼らの国体観、忠誠心に発するものであった。
ただ首謀者の一部 例えば磯部、栗原などは、
この大命が真の天皇の意思に出でずして、奸臣の輔翼に出づるものならば、
この大命輔翼者に向ってなお鉄槌を加えねばならぬとしていたにすぎない。

とにかく、事の経過をたどれば、
二十八日午前
山下奉文少将より奉勅命令の下達近きにあり、
お前たちはどうするかと聞かれ、
一同協議の上
「 天皇陛下の命令にしたがう 」
と 自決をちかった彼らであったが、
その後まもなく徹底抗戦に出て幸楽を中心に攻囲軍に対決しようとした。
この事態逆転のきっかけは、
磯部の自決について懐疑、攻囲軍の動きに対する激発、
それに北一輝の
「 奉勅命令はおどかしだろう、さいごまで頑張るべきだ 」
 との激励などが原因で、
彼らは 陸相官邸をすてて攻囲軍と対峙していた 「幸楽」 に集結してしまったのだ。
これがさきの戒厳司令部発表にあった
「 一時聴従したがたちまち前言をひるがえし 」
云々の事の内容なのである。
だが、徹底抗戦の決意に一夜をあかした彼らも、
払暁からの放送などから、
奉勅命令の下達も、もはや明らかであることを知り
続々と兵を徹して帰順したのだ。
だが、二十八日正午以来抗戦を決意し警備線上に討死しようとしたことが、
奉勅命令に抗したとて叛徒にされてしまったのである。
が、事実、
奉勅命令が下達されていない限り 彼らを大命に抗したというわけにはいかない。
しかるに、事件が鎮定してから彼らは叛乱軍とされた。
もともとこの不法出動部隊は、
はじめ行動部隊、
あるいは維新部隊といわれ
ついで統帥系統に入って南部麹町警備隊と公称されたが、
間もなく騒櫌部隊といわれ、
そして最後のドタン場になって叛徒呼ばわりの叛乱部隊とされたのである。
だが、この叛乱軍とされたことは、同時に彼らが叛乱罪に問われたこととされている。
磯部は「叛乱罪」について、こう書きのこしている。
「 吾人は叛乱をしたのではない、
蹶起の初めからおわりまで義軍であったのに、
叛乱罪に問われる理由はない。
義軍であることは告示において認め、
戒厳軍に入れられた事によって明らかになり、
警備を命ぜられたことによって、いよいよ明白でないかと、私は強弁しました。
ところが法務官の奴らは、君らのシタ事は大臣告示以前において叛乱である、というのです。
これは面白いではありませんか、私は次のように言って笑ってやりました。
さようですか、これはますますおもしろい。
大臣告示が下達される以前において国賊叛徒であるということが、
それ程明瞭であるのに、なぜ、告示を示し警備命令を与えたのです。
国賊を皇軍の中へ勝手に入れたのは誰ですか、大臣ですか、参謀総長ですか、戒厳司令官ですか。
国賊を皇軍の中に陛下をだまして編入した奴は、明らかに統帥権の干犯者ではないかと。
そしたら法務官の奴は、
何しろ中央部の腹がきまらんからね、君、といって、ウヤムヤに退却しました。
ところが、裁判長の奴、
私がチチブの宮様の事を言うたことにカコツケテ言葉がすぎるといって叱りつけるのです。
奴ら道理においてはグウの音も出ないものですから、権力をカサにきて無理を通すのです」
 (「 獄中日記 」)
強気な磯部の論弁であるが、ここでわたしの注意をひくことは
法務官が君らは大臣告示が出る前において叛乱だといったことである。
事件鎮定後の第六十九議会において、
寺内陸相は一議員の"何日から叛乱部隊であるのか"との質問に対して、
「 彼らが営門を出た時から叛乱である 」 と 答えている。
これからすれば彼らが不法に出動して
重臣を倒し中央要域を占領したことが叛乱行動であったわけであるが、
しかしそれは反乱であって叛乱ではなかった。
当時の陸軍刑法は反乱罪を規定して、
「 党ヲ結ビ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者 」 ( 陸法第二十五条 ) とあった。
つまり法律的には明らかに反乱であった。
現にこの事件は陸軍刑法第二十五条反乱の罪をもって処罰している。
この反乱行為をしたものに、わざわざ叛乱軍の名を与えたのはなぜか。
彼らが奉勅命令に従わなかったとし、
それは天皇に反逆する行為と規定して、
叛乱軍と名づけたものと解するよりほかはない。
だが、
事の実際はすでにみたように彼らを大命に抗した叛乱者としたことは、
いちじるしい不当なことであった。
事実、この命令は伝達されていなかったし、
また、彼らには大命に反抗する意思はいささかもなかったからである。
林八郎のかきのこしているように 「 一同下達されるまでやる覚悟 」 であり、
したがって、
二十九日早暁
その下達をラジオやビラでこれを確認して、
さっさと兵を返しているのである。
その上、
彼らを審理した軍法会議も
奉勅命令が彼らに正式に下達されたことは認めていないのだ。

彼らの部隊長となった小藤大佐は、
この命令を懐中ふかくおさめて下達しなかったのである。
下達のない命令には反抗するすべもないはずである。
断言する、
軍が大命に抗したとして叛徒の名を与えたことはいちじるしい不当であった。
叛乱は反乱であった。
彼らには寸毫も大命に抗するの意思はなかったことを大書しておきたい。

抗命の罪
ここでもう一つ書いておくことがある。
いささか理屈っぽくなるが。
それは、この場合の奉勅命令、
「 戒厳司令官ハ 三宅坂附近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ 速ヤカニ現姿勢ヲ撤シテ
各所属部隊長ノ隷下ニ復帰セシムベシ
奉勅    参謀総長載仁親王 」
にしたがわなかったとて、これを違勅、反逆の徒といいうるかということである。
いったい、勅命を仰いで彼らを撤退させようとは、
この事件当初に陸軍大臣の頭の中にあったことだった。
強烈なる不撤退の決意を知った大臣が、
この奥の手を用いなければ治安の回復は不可能に近いと思ったことであろう。
だが、軍隊において部下が反乱をおこした場合、
その上官はただちに鎮圧の処置をとることは、その職責上当然のことである。
何も奉勅命令を仰がなくとも
中隊長も大隊長もまた聯隊長も師団長もこれを鎮定すべき責任があった。
当時、陸軍が奉勅命令を仰いで鎮圧に出たことについてある在郷将官は、
「 軍がなにゆえに奉勅命令を仰いだか、
事件が勃発せばまず大隊長は鎮撫のため身を挺して現場にのぞみ、
肯ぜざるときは中隊長を斬るか、斬られるかの二つしかない。
大隊長倒れたら聯隊長出でよ。
聯隊長職に殉じ、しかしてのち奉勅命令を奏請すべきだ 」
といい、各級指揮官の叛徒鎮定の責任を説いていたが、
これが、そもそも軍統帥の常道であった。
だが、
流血の惨事を避けて事を鎮めようとしたことから、蹶起将校らの説得によって撤退させようとした。
しかしそのことは必ずしも不可というのではなかった。
しかし、事実、行われた説得鎮定の処置は、
ことごとく彼らの成功を信じさせるものばかりで、結果は全く逆のかたちとなってしまった。
こうした情勢の中で武力鎮圧を決意した最後の切札を仰々しく押し出したものが、奉勅命令だったのである。
なにも奉勅命令といわなくとも、軍統帥の命令はいつでも天皇の命令であったのだ。
一中隊長が部下に下す命令にしても、統帥大権の承行によって行う命令であるから、
その命令の根源は天皇にあった。
だからこの場合
奉勅命令は戒厳司令官に下されたもので
反乱に出た将校以下に下ったものではないのだ。
統帥の系統にしたがい
戒厳司令官はこれに基づいて近衛、第一師団長に命令を下す。
師団長はさらに具体的に師団命令を下す。
だからこの場合彼らは、小藤部隊として軍隊区分に入っていたのだから、
その撤退すべき命令は小藤部隊長から下達さるべきであった。
したがって
彼らは小藤大佐の命令のみで動くべきもので、
そのさきさきの命令源がどうなっているか知る必要もないことであった。
つまり彼らは
小藤部隊の命令こそ天皇の命令につながるとしてこれに服従すべきであった。
したがって、
兵を引けという小藤部隊長命令 ( 統帥命令 )  に もし従わなかったとしても、
それは抗命罪であって、大命に抗した大逆の罪などというべきではない。
現に抗命罪はあっても、奉勅命令に抗したという大逆罪はない。
要するに大命とは統帥命令であり、
もし撤退せよとの統帥命令にしたがわねば、
ただ、抗命罪が成立するだけである。
これをして大逆罪などというは、全くいいがかりであるというのほかはない。

このようないいがかりで、彼らをあるいはその遺族たちまでも、
長い間、唇かしめたことはたいへん酷なことであった。
( 昭和二十一年一月三日大赦令により大赦 )
しかし、また、この奉勅命令が形式的には、
参謀総長の上奏によって天皇の允裁を仰いだものであっても、
その事の内容においては当時の天皇の直々の意思であったことには間違いはない。
この大御心にそむいたというから、
大命にしたがわなかったというのであれば、
彼らもその撤退を頑強に拒否したのであるから、ある程度のみこめないではない。
しかしその大御心を二十六日朝来拝承していた軍首脳者たちが、
全く天皇の意思に反する 「 大臣告示 」 をつくって、彼らを激励したその不逞こそ、
道義的責任において、
反乱青年将校に十数倍する不逞反逆行為といわざるをえないであろう。
敗れて獄中に悲憤の情にえたぎりたっていた彼らこそ悲劇の主人公であった。
「 当時、大命ニ抗セリトノ理由ノモトニ 即時吾人ヲ免官トナシテ逆徒トヨベルハ、
勅命ニ抗セザルコト明瞭ナル 今日ニ於テ如何ニスルノカ 」 ( 安藤輝三遺書 )

待命に抗することのいささかなかった青年将校の心情をかいて 一応のことの真実を明らかにした。
事件の悲劇は、
天皇への彼らの忠誠が、革命する心にある限界を与えたことであった。
彼らは維新革命へと勢いこんで立ち上がったが、
その心情の底には革命遂行への限界があったのだ。
このことからいえば、
この一挙の失敗は、彼らの信条とした天皇絶対への忠誠心 
それ自身にあったともいえよう。
忠誠心をいだいて 刑死を甘んじなければならなかった所以であろう。

大谷敬二郎 二・二六事件 から


「 奉勅命令ハ傳達サレアラズ 」

2020年10月02日 06時54分05秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


奉勅命令

天皇の勅を奉じて下す命令のことである。
大元帥としての天皇を輔翼するのが参謀総長であるから、
参謀総長が命令案をつくって天皇に申しあげ、勅裁をえる。
そしてこれを 戒厳司令官に命令するわけで、
この命令は参謀総長が 「勅を奉じて」 命令することを現わすために、
とくに 「奉勅」 とかかれることになっていた。これを奉勅命令というのである。
(戒厳司令官は天皇に直隷しる親輔職で参謀総長や陸軍大臣の命令指揮下にあるものではない)
したがって、天皇の勅裁をえた命令であるかぎり、天皇の直々の命令といってもそれは差支えない。
しかしその直々の命令は戒厳司令官に下されるのであって、蹶起青年将校に下されるものではないのだ。
だが、当事者はこの奉勅命令を天皇の直々の命令だとして、
この命令にしたがわなかったといって 「 大命に抗したり 」 と断言したが、これは不都合なことである。
天皇の命令をきかなかったというと、
天皇への忠誠心にこりかたまっていた彼らにしては以外なことであり不本意であったろう。

彼らを現所属に復帰せしめようという奉勅命令は、
すでに二十七日午前八時二十分参謀次長杉山元中将の上奏で允裁をえている。
ただ、これを戒厳司令官に下達する時機は、目下彼らを説得中であるので、
参謀総長に一任をえたいとて許しをえたのである。
ところがどうした幕僚の手違いだったか即刻これを伝えてしまったのである。
驚いた杉山次長は、戒厳司令官を訪ね、奉勅命令の下達は二十八日午前五時とすると伝えた。
すなわち奉勅命令の実施は二十八日午前八時以後ということになった。
ところがこの手違いによってこれが幕僚たちに洩れてしまった。
そしてここから混乱がおこった。
この間の事情を磯部は継のように記録している。
「----戒嚴命令は第一師戒命として、
 "二六日以來行動せる將校以下を小藤大佐の指揮に属し----の警備を命ず" 
というものである。
余等はこの事を知って百萬の力をえた。
しかし何だか變な空氣がどことなく漂っているらしい事は、頻りに我が隊の撤退を勧告する事だ。
満井中佐や山下少將、鈴木貞一大佐迄が撤退をすすめるのである。
満井中佐は維新大詔渙發と同時に大赦令が下るようになるだろうから一應退れと言うし、
鈴木大佐、又、一應退らねばいけないではないかとの意嚮を示す。
余は不審に耐えないので、陸相官邸において鈴木大佐に對し
「 一體我々の行動を認めたのですか、どうですか 」 と問う。
大佐はそれは明瞭ではないか、戒嚴令下の軍隊に入ったと言うだけで明らかだと答える。
行動を認めて戒嚴軍隊に編入する位であるのに一應退去せよと言う理屈がわからなくなる。
かような次第で不審な點は多少あったが、
 概して戰勝氣分になって退却勧告などは受けつけようとしなかった。
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二七日は時々軽微な撤退勧告があったが、
午後になって宿營命令が發せられたので、スッカリ安心してしまった」 
・・・「 行動記 」
彼らに好意を示す幕僚たちはすでに奉勅命令を知って、彼らにそれとなく撤退をすすめていたのだ。
だが、こうしたことが、いよいよ二十八日になって奉勅命令の実施となると、
青年将校たちは、幕僚への不信も手伝って、奉勅命令そのものの実在に疑問を投げたのであった。
「 奉勅命令ハ誰モ受領シアラズ 」 ・・・香田清貞
「 山下奉文等、將に下達ノ時機切迫スト。一同ヲ集メ切腹セシメントス。
 一同下達サルルマデヤル覚悟、遂ニ下達サレズ、外部々隊包囲急ナリ 」 
・・・ 林八郎
「 奉勅命令ハ傳達サレアラズ 」
・・・安藤輝三
いずれも奉勅命令は伝達されなかったと遺書している。
だが軍当局は彼らが奉勅命令にしたがわなかったとして逆賊とした。
「 軍幕僚竝ニ重臣ハ吾人ノ純眞純忠ヲ蹂躙シテ權謀術策ヲ以テ逆賊トナセリ 」 
・・・香田清貞
「 當時大命ニ抗セリトノ理由ノモトニ即時、吾人ヲ免官トシテ逆徒トヨベルハ、
 勅命ニ抗セザルコト明瞭ナル今日ニ於テ如何ニスルノカ 」 
・・・安藤輝三
忠誠心にこりかたまっていた彼らの悲憤、今日においてなお私たちの胸に迫るものがある。
彼らははたして「奉勅命令」そのものをどのように受けとったのであろうか。
村中孝次は、
「奉勅命令に從わなかったということで、
私どもの行動を逆賊の行爲であるのようにされましたことは、
事志と全く違い忠魂を抱いて奮起した多數の同志に對し寔に申し譯ない次第であります。
しかし 私どもはかつて奉勅命令にまで逆おうとした意思は毛頭なく
最後は奉勅命令をいただいて現位置を撤退させるという
戒嚴司令官の意圖であることを知って、そんな事にならぬように、
そんな奉勅命令をお下しにならぬようにと、 色々折衝しただけでありまして、
決して逆賊になってまで奉勅命令に逆うような意思は毛頭ありませんでした。
事實、今日に至るまでいかなる奉勅命令が下されたのか、
その命令内容に関しては全然知らないのであります」 
・・・村中孝次調書

奉勅命令で撤退せしめられるという意図を知って、これが下達されないように工作したというのである。
奉勅命令がでれば、万事休すである。これは絶対だからだ。
それ故に、逆賊になってまで奉勅命令に逆う意思は毛頭なかったと、首謀者村中は言うのである。

同じように首謀者安藤輝三も、
「 奉勅命令は命令系統からは全然聞いておりません。
ただ、二十八日夜に歩三聯隊長が幸楽に來てくれまして、
奉勅命令が下ったということの話はありましたから、その後小藤部隊長の命令を持っておりましたが、
何の命令もなく、周囲の部隊が攻撃して來ますので、
どうすることも出來ず、山王ホテルに立ちこもっておりましたような次第で、
奉勅命令に抗するというような気持は毛頭なく、
また事實、小藤部隊の指揮に入っておりましたので、
奉勅命令に從わなかったということはないと信じます」 
・・・安藤輝三調書

これ等の首謀者はもとより
第一線の指揮に任じた年少の中少尉たちも、
ひとしく奉勅命令は絶対なりとし、これを聞くと、さっさと兵を返している。
清原少尉は同期生よりこれを聞いて独断兵を指揮して歩三営門まで送り届けているし、
坂井直中尉も磯部に向って
「 もう何もいって下さるな、わたしは兵を返します 」 といい兵をかえしている。
錦旗に逆わず、大命に抗せずとは彼らの信念であった。

ところが、同志将校であってもこの奉勅命令のうけとめ方に若干の違いがあるやに感じられる。
というのは、例えば磯部は、
「 われわれはその裏の事情を少しも知らず、
 ただ何だか奉勅命令でおどかされていいるようにばかり考えた 」
と かきのこしているし
二十八日幸楽にいた香田大尉も、
歩三の新井勲中尉が奉勅命令が出たことを伝えると即座に、
奉勅命令なんかデマだと一蹴しているし、
また安藤大尉も、二十九日払暁、
清原少尉が遠くからのラジオ放送で、奉勅命令が下ったと聞き、
その去就に迷って山王ホテルに安藤を訪ねると、
彼は奉勅命令は謀略だとこの後輩を叱咤激励した。
そこでは彼らが奉勅命令をうけつけまいとする心情と、
それが彼らを撤退させるための
「 いつわりとおどし 」 だとする思念がいりまじっている。

磯部は二十八日 朝
戒厳司令部で満井中佐に会ったとき、こうのべたといっている。
「 臺上にする私どもを解散することは、軍が維新翼賛することにならぬ。
すなわち、私どもがあの臺上にいることによって、國をあげての維新斷行の機でもある。
奉勅命令が下っても、
實に宮中不臣の徒の策謀によって陛下の大御心をおおい奉るの奉勅命令だとしか考えられません。
だからこの際われわれは、
もし部隊を解散させられたならば、
断乎各自の決意において不臣の徒に對して天誅を加えなければならぬと 」
しかし彼は、奉勅命令になぜ従わなかったのかという調査官の質問には、
「 大命のままに行動する決心でありました、
 ただ、各級指揮官からは奉勅命令が下ったという拙論ではなしに、
下ったらどうするかという拙論であったので、前同志に徹底しなかったのです。
今から考えて見て大命があったことについては、まことに恐懼している次第であります 」
と 述べていたが、さらに、
「 ただ、奉勅命令が政党政治家のやるような
 議會解散のための詔書を事前に上奏ご裁可を得ておいて
機に応じて渙發するが如き天皇機關説的思想によって行われるものでありますならば、
私どもは非常なる國體冒瀆だと考えます。
當時の狀況におきましては、たしかに一部重臣、その他軍幕僚の策動によって、
機關説思想より發する奉勅命令が渙發されるような氣運を看取したのであります。
かかる場合においては、奉勅命令にしたがわないというのでなく、
機關説思想によって陛下の御聖明をおおい奉の不臣の徒に對して
最後まで戰わねばならんと考えました 」
これが磯部の本心なのであろう。

また、栗原安秀は憤りをこめて、
「 陸軍當局は最後において吾人を逆賊なりとの傳單を飛行機上より撒布し、
 あるいは放送せしめたのでありますが、
われわれはこのとき、
いかに方便のためとはいえ當局者のとった手段がいかに殘薄なるかに、
ひそかに涕泣したものであります。
われわれは、出動しわれわれを攻撃し來る軍隊が勅命を奉じたるものならば、
われわれは甘んじて屈服するの腹をきめていたのであります。
維新の大原則として殊死して玉砕すべきでありましたが、
われわれのとったのは實に屈服にあり、
わたしは首相官邸にあってこの重大な岐路に立ったのであります。
ただ玉砕するも屈服するも、結果においては大きな相違がなければ、
輦轂の下に陛下の宸襟を悩し奉ること、これ以上なるを恐れたのであります 」
栗原にとっては奉勅命令のもとにこれにしたがうのは 「 屈服 」 であったのである。
彼はまた、こうもいっている。
「 二十九日の払暁首相官邸において
 戒嚴司令部の放送をきき初めて奉勅命令を確知したのであります。
爾後、攻囲部隊遂次前進し來り、このまま推移せんか衝突をまぬがれぬ、
したがってここに屍山血河を築くも、いたずらに宸襟を悩し奉るにすぎず、
と感じ磯部と相會し引くことに決しめ 」
・・・栗原調書

この二人の軍人革命家は、
あるいは機関説信奉者に対して徹底的に戦うといい、
あるいは、革命の本質からは一戦を交えて討死すべきだったという。
ここに革命家の先覚として他の青年将校とはいささか異なるものがあり、その心理は複雑であるが、
しかし真の大御心による奉勅命令にはしたがうが、
その真偽は不明だったというのが少なくとも二十九日朝までの彼らの受け取り方であったが、
もはや間違いはなく奉勅命令が下っては、磯部や栗原にしても、
無念ではあるが、ここに兵を収めざるを得なかったのである。

いうまでもなく奉勅命令は天皇の直々の命令として心象される。
そこに第一線将校の天皇観による即座の反応がおこる。
それは軍人として絶対に服従すべきもの、これに弓を引くことは絶対に許されない。
これが日本軍隊伝統の天皇観である。
しかし これに最後まで抵抗をつづけていたのが、磯部であり栗原であった。
こうしてみると、青年将校の奉勅命令のうけとり方にも若干の違いがあった。
それは当然に彼らの天皇観につながり、かつその革命観に由来するところの違いであった。
獄中、反乱将校たちは事の別明するにつけ、
大臣告示は説得案、
戒厳部隊の編入は謀略と知らされ、
悲憤の涙に軍の措置をうらんだ。
磯部は、
「 余は惡人だ、だからどうも物事を善意に正直に解されぬ。
例の奉勅命令に對しても余だけは初めからてんで問題にしなかった。
インチキ奉勅命令なんかに誰が服從するかというのが眞底だった 」 
・・・「 獄中日記 」 八月十五日
「 この時代、この國家において吾人のごときもののみは、
奉勅命令に抗するとも忠道をあやまりたるものでないことを確信する。
余は眞忠大義大節の士は、奉勅命令に抗すべきであることを斷じていう。
二月革命の日、斷然、奉勅命令に抗して決戰死闘せざりし吾人は、
後世 大忠大義の士にわらわれることを覺悟せねばならぬ 」 
・・・同右八月十七日
と はげしく奉勅命令に抗すべきだったと書きのこしている。
激情家磯部のこととて奉勅命令に降参したことが
今日の境遇においやったものとしての悔恨が、
右の文字となっているのであろうが、
革命家磯部の面目躍如たるものがある。

青年将校の天皇観は絶対であった。
それは日本軍隊の正統的思想であったが、
これに革命思想が加わってくると、人によりその感応を異にしてくる。
湯河原で傷つき熱海陸軍病院で自決した河野寿大尉のごときは、
そのもっとも強烈なる天皇絶対者であった。
すでに逆徒となっては、もはや公判闘争さえ許されない、
ただ自決し遺書によってのみ世論を喚起すべしとし、獄中同志に自決を勧告した。
だが、北一輝の革命法典を絶対に心奉していた磯部や栗原は、
その革命信条のために、奉勅命令の感応にいささか違ったものを見せていたのである。
しかし、いかにそこに感応のちがいをもつといっても、やはり彼らは日本の軍人であった。
その国体観、天皇観は絶対であった。
したがってこの革命においてトコトンまでやるといってもそこに限界があった。

村中孝次は、同志中の理論家であったが、
昭和維新という言葉さえ臣下の口にすべきものではないといい、
いわんや 天皇に強要し奉るが如きは厳に戒慎したというよりも、
彼らには思ってもできない事柄であった。
ここに この一挙革命の悲劇がある。
重臣を殺戮しあるいは幽閉して天皇を孤立化において、
事を運ぶなどは絶対に許されないことであった。

大谷敬二郎 二・二六事件 から