あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

39 二・二六事件北・西田裁判記録 (二) 『 西田の起訴前の供述 警察官聴取書 』

2016年08月30日 14時00分50秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第38号 ( 1994年 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一)
松本一郎

一  はじめに

二  二 ・二六事件北 ・西田の検挙
三  捜査の概要
1  捜査経過の一覧
2  身柄拘束状況
3  憲兵の送致事実
4  予審請求事実 ・公訴事実
四  北の起訴前の供述
1  はじめに
2  検察官聴取書
3  警察官聴取書
4  予審官訊問調書  ( 以上第三八号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第39号 ( 1994 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎
五  西田の起訴前の供述
1  はじめに
2  警察官聴取書
3  予審訊問調書
4  西田の手記  ( 以上本号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第40号 ( 1995年3月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 三 )

六  公判状況
 はじめに 
 第一回公判  ( 昭和11年10月1日 )
 第二回公判  ( 昭和11年10月2日 )
 第三回公判  ( 昭和11年10月3日 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第41号 ( 1995年9月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 四 ・完 )

 第四回公判 
( 昭和11年10月5日 )
 第五回公判  ( 昭和11年10月6日 )
 第六回公判  ( 昭和11年10月7日 )
 第七回公判  ( 昭和11年10月8日 )
 第八回公判  ( 昭和11年10月9日 )
 第九回公判  ( 昭和11年10月15日 )
 第一〇回公判  ( 昭和11年10月19日 )
 第一一回公判  ( 昭和11年10月20日 )
 第一二回公判  ( 昭和11年10月22日 )
 第一三回公判  ( 昭和12年8月13日 )
 第一四回公判  ( 昭和12年8月14日 )
むすび  ( 以上四一号 )

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五  西田の起訴前の供述
1  はじめに
 ・・・目次頁に記載

2  警察官聴取書
(一)  はじめに

西田を取調べ、聴取書を作成した警察官は、
後日北をも取調べた警視庁特別特高警察部特別高等課勤務の関口照里警部補であり、
立会人は警視庁巡査清水虎雄であった。
取調べにたいして西田は、事件とのかかわり合いを概ね認め、
青年将校の蹶起を知って揺れに揺れた心情を率直に告白しているが、
北と事件との関係については、ほとんど口を閉ざしている。
関口警部補の調書は冗漫の嫌いがあるが、西田の言い分をそのまま忠実に録取している。
しかし、内容的には後に紹介する予審訊問調書と重複するところが多いので、
ここではその概要と、とくに筆者の注意を惹いた点を紹介するに止める。

(二)  昭和一一年三月八日付第一回聴取書
(1)  西田は、この聴取書において、
  学歴、経歴、家庭状況、青年将校トノ關係などについて述べた後、
事件発生までの行動について詳細に陳述している。
西田は、広島陸軍地方幼年学校から陸軍中央幼年学校 ( 後の士官学校予科 )、
陸軍士官学校 ( 第三四期 ) を経て、
大正一一年に陸軍騎兵少尉に任官したが、
同一四年病気のため願いにより予備役に編入された。 ( 後に刑事事件に問われて免官となる )
西田は中央幼年学校在学中から国家革新意識を抱き、やがて北一輝に私淑するようになり、
退官後は国家主義的政治運動に加わり、活発に活動した。
彼は、軍人としての経歴を有していたため、とくに陸軍の青年将校たちとのかかわりが深く、その指導的立場にあった。
しかし昭和七年の五 ・一五事件のときには、
海軍士官の呼びかけに対して陸軍の青年将校の自重を求め、
参加を阻止したため、裏切者として川崎長光から拳銃で狙撃された。
彼は奇跡的に一命をとりとめたが、
「 現在デモ弾丸ガ一発対内ニ這入ツテ居ルト云フ状態 」 で、その後の体調はよくないという。
順天堂病院に入院中、北の檢心的な看護を受けた西田は、それ以来北を親のように慕うことになる。
同志によるこの襲撃事件は、西田の肉体のみならず精神に対しても深刻な衝撃を与えたようである。
処世方針についての次の供述に、西田の心のかげりがにじみ出ている。
「 ・・・其后各方面ノ狀況ハ色々ナ意味デ複雑化シ、尖鋭化シ、陰惨ナ空氣ガ満チテ來タト同時ニ、
  私自身ノ立場ニ對スル各方面ノ観察、想像モヤハリ複雑化シ、尖鋭化シ、誤解モ加ハツテ來タノデ、
私ハ自他共ニ輕率ナ過チヲ犯サセナイ爲メニ、言動ヲ愼ミ、且ツ餘リ人ニモ面會シナイ様ナ方針ヲ採ツテ來タ・・・」 
二 ・二六事件発生直前の頃の西田は、相澤中佐の軍法会議公判の支援活動に専念していた。
彼は亀川哲也と共に弁護活動の裏方をつとめ、とくに相澤の思想の広報活動に全力を傾注した。
西田はつぎのようにのべる。
「 私ガ主トナツテ動ク事ハ、軍内ノ狀況上却ツテ相澤中佐ニモ惡影響アリ、同期生ノ人其他有志ノ人達ニ表面ニ立ツテ貰ヒ、
 夫レ等人々ノ協力ニ依リ私ハ蔭ニ居リ、公判ヲ通ジテ相澤中佐ノ処信ヲ瞭カニシテ其ノ志ヲ達シ得ラルル様ニスル事ガ、
相澤中佐ノ精神ヲ生カス事デモアリ、即チ國家ニ對スル御奉公デアルト確信シ、殆ンド全部ノ努力ヲ致シテ來タ・・・・」

(2)  二月二四日夜、磯部の置手紙で二六日に事件が起きることを知った西田は、
 「 其夜ハ、色々ナ事ヲ考ヘマシタノデ、殆んど眠ル事モ出來ズニ過シタ譯デアリマスガ、
  結論ハ直感的ニ萬事休ス以外何モ良イ考ヘハ起リマセヌデシタ 」 
という。
翌二五日、西田は新宿三越で封筒、便箋、カバンなどを買い求めて一旦自宅に戻る。
「 若シ愈々事端ガ起ツタ場合ニ、私ハ遅カレ速カレ當局ニ聯レテ行カレル事ハ自明ノ事デアリマスカラ、
 私トシテハ若イ將校達ト一緒ニ行動ヲ共にスル事モ出來ズ、
又シナイ方ガ其ノ人達ノ純粋ナ立場ヲ採ラレル上ニ於テモ必要ト思ヒ、
矢張り自分ハ自分ノ分を守ツテ、別ノ立場カラ出來ル丈ケノ助力ヲ私ニ出來ル間シテ上ゲ様ト考ヘテ、
何レ家ニ居ツテハ直チニ連レテ行カレル虞レガアルノデ、外ノ場所デ出來ル丈ケノ事ヲシタイト思ヒ、
通信、聯絡等ニ必要ト考ヘ、賣ヒ求メタノデアリマシタ。」

西田は、実際はその後自宅を出て北方に泊り込んだのであるが、北に迷惑をかけることもおもんばかって、このことを秘している。

(三)  昭和一一年三月九日付第二回聴取書
この聴取書には、事件発生後の西田の行動が述べられている。
その大要はつぎのとおりである。
二六日、小笠原長生海軍中将に電話で事件の発生を報告し、事態の早期収拾方を願う。
首相官邸の栗原安秀から電話があり、見に来るよう誘われるが断わる。
「 狀況ガ判然セズ、結局氣許リ焦ツテモ何ウスル事モ出來ズニ過ギテ仕舞ツタ 」
二七日、栗原と村中に電話して、事態を速やかに収拾するため眞崎大将にすべてを一任することを勧める。
山口大尉に、聯隊長 ・旅団長 ・師団長らに事態収拾を頼むよう電話し、また亀川に来てもらい、
山本英輔海軍大将らに事態の収拾方を働きかけることを依頼する。
なお、この日の夜村中孝次が北方を訪れ、北 ・西田 ・亀川と会談したという重要な事実があるが、
この調書では西田はこれを秘匿している。
二八日、電話で栗原を激励する一方、再び小笠原中将に収拾方を依頼する。
午後八時頃憲兵が来たので、カバンを持って窓から庭に出て裏口から逃走、
タクシーを拾って新宿、新橋、浅草とあてもなく走り回った後、岩田富美夫が入院している巣鴨の木村医院を訪れる。
そこにいた若い男 ( 佐々木 ) の好意で、牛込区喜久井町の彼の家に泊まる。
二九日、正午頃門下の赤沢がやってくる。
反乱軍討伐の号外を見て、事態の急変に驚愕する。
赤沢と共に佐々木宅に泊まる。
三月一日、赤沢と共に佐々木宅に潜む。
二日、赤沢の案内で、下谷区谷中初音町の赤沢の友人 ( 佐藤 ) の下宿に移り、一泊する。
三日、赤沢の友人という丹羽の案内で、渋谷区若木町の角田宅に移り一泊する。
四日午前五時半頃、就寝中を警視庁係官に検挙される。

(四)  昭和一一年三月一〇日付第三回聴取書
(1)  この聴取書ではまず 「 事件計画ノ内容 ・各其役割分担 」 という見出しで、西田の事件に対する心情、
  その果した役割等が記述されている。
西田は、北が事件とかかわりのないことを極力印象づけようとしている。
以下、主要な個所を抜粋するが、見出しは筆者が付したものである。

事件の計画を知ってからの西田の心情について
「 私ハ私ノ御維新實現ニ對スル方針ト社會的狀勢ニ對スル観察ノ上カラ、
今ノ時ニアノ立場ノ人達ガ今日ノ如キ事件ヲ計劃シ、 實行スル事ニ就而ハ、實ハ同意シ兼ネルモノデアリマス。
ダカラ私トシテ、前申上ゲタ様ニ全般ヲ通ジテ氣ガ進マナカツタノニ拘ラズ、
只事件關係者との從來ノ關係等ニ依ツテ、遂ニ消極的ナガラ或ル程度ノ關係ヲ持ツタ譯デアリマス。
( 中略 )
同君 ( 村中孝次 ) 等ノ話デハ、私共ニ後ノ事ハオ願ヒシタイト云フ希望デアルト云フ事モ聞キマシタ。
私トシテハ、從來ノ關係上、及特ニ世間一般ハ私ト此ノ人達トノ關係ヲ一ツデアル様ニ見、
寧ロ私ガ主體デ此ノ人達ガ其ノ指導下ニアル様ニ斷定的ニ見テ居リマスカラ、
例ヘ私ガ無關係デアツテモ事ガ起レバ殆ンド同時ニ私ノ自由ハ拘束サレルモノト考ヘネバナリマセン。
夫レデ後ノ事ヲ期待サレテモ、夫レハ先ヅ不可能ノ事ダト思ハネバナラナイノデアリマス。
夫レカト云ツテ、一層ノ事私ガ之ニ參加ヲシテ行動ヲ共ニスル事ハ、
從來色々對世間的ナ關係ニ於テ純情ノ人達ノ立場ニ曇リヲ生ズル様ナ虞レモアリ、
私トシテハ私ノ理論方針ト、此ノ人達トノ情誼關係トノ相剋ニ色々考ヘタ結果ヤメテ、
出來ル丈ノ事ハ努力シテ上ゲ度イト思ヒマシタ。
其ノ代リ私トシテハ、何モ彼モ捨テネバナラヌ立場ニナツタ事ヲ考ヘマシテ、
要スルニ後ハ天ニ委セテ流レテ行カウト決心シテ、ソウユー意味ノ事ヲ話シタ筈デアリマス。」


事件の役割分担
( 山口、亀川と話し合った結果 ) 山口大尉ガ公私ノ關係ヲ辿ツテ軍ノ上部ニ對シテ努力スル、
 亀川哲也ハ眞崎大將トカ山本英輔大將トカノ方面ニ努力スル、
私ハ小笠原閣下其他ノ方面ニ對スル努力ヲスルト云フ事ヲ決メタノデアリマス。
( 中略 )
・・・・事件ノ役割ノ分担トカ申シマスカラ、行動隊ハ若イ將校達、資金關係ハ村中君トカ亀川氏邊リ、
事件發生后ノ事態収拾ハ山口大尉、亀川哲也、私邊リ、ト言ハレルノデアリマス。」
北の役割
「 尚、北サント私トノ關係、北サント若イ人達トノ關係ハ、北サン、私、若イ人達ト云フ狀態デアリマスカラ、
 今回ノ事件デモ恐ラク若イ人達直接ニハ北サンニ話シタ者ハ無ク、
私ガ前申シタ様ニ若イ人達ガヤルラシイト云フ話ヲシタ位デアリ、
事件發生當日私ガ同家ニ參リマシタガ、何モ詳シイ事ハ知ラヌ様子デアリマシタ。」

(2)  次に、「 私ノ客観狀勢ニ對スル認識及御維新實現ニ關スル方針 」 という見出しで、
  西田の情況判断と活動方針、事件についての感想などが述べられる。
「 ・・・昭和維新ニ對スル私ノ方針ハ、日本ノ立場、日本國民の使命、行詰ツタ現狀ニ對スル認識、
 明日ノ日本ガ有ルベキ理論等ヲ速カニ全國各方面ニ普及シ、各方面ガ夫レ夫レ自主的ニ革新ニ進ム如クアリ度イ、
ソシテ其ノ革新的ナ躍動ノ總和ガ、全體トシテ日本其ノモノノ革新ニ落着ク事ヲ理想トシテ居リマス。
ダカラ或ル一党一派的ナ力ニ依ツテ一擧ニ革新ヲ敢行スルト云フ様ナ事ハ、
上御一人ノ大命デアレバ別デスガ、吾々臣下トシテ考ヘラルル事デハナイト思ツテ居リマス。」
「 私ノ 見タ処デハ、今回事件ヲ起シタ東京ニ於ケル人達が嚴然トシテ公判ヲ監視シ、
正シキ態度デ各方面ニ對スル努力ヲシテ居レバコソ、公判ノ進行ガアノ様に進行シタノデアルト思ヒマス。
同時ニ此ノ人達ヲ中堅トシテ革新ノ大成ガ逐次ニ擴大シ、強化サレテモ來、之レカラモ發展スルモノト思ツテ居リマシタ。
言ヒ換ヘレバ、私ノ考ヘテ居タ大勢進展ノ貴重ナル力デアツタト思ヒマス。
私ハ、相澤公判ヲ通ジテ、ソシテ廣ク御維新ノ準備大勢、築成ノ爲メニ、
此ノ人達ノ存在ヲ得ニ重視シナガラ其ノ人達ノ努力ト相俟ツテ公判ヲ有利ニ進メ、
相澤中佐ノ志ヲ出來ル丈ケ達セシムル様ニ考ヘテ來タノデアリマス。
夫レガ相澤中佐ノ先駆ニ續イテ、同一性質の途ニ出ル事ニ片寄ツタ事ハ、
私トシテハ前申シタ情誼關係ニ於テ已ムヲ得ナイト云フ理解ハ充分ニ致シマスガ、
私ノ本来ノ気持カラ申シマスト誠ニ殘念ダト思フ処ガアリマス。
大體社會情勢ニ對スル私ノ認識及御維新實現ニ關スル方針ハ大略以上ノ様ナモノデアリ、
私トシテハ若シ事件ヲ起シテ貰フナラ、今回起ツタ以外ノ者ニ出テ貰ヒタカツタ位デアリマシタ。
処ガ、私ノ最モ大切ニ考ヘテ居ル方達ガ斯様ナ事件を起ス事ニナツテ仕舞ヒマシタノデ、
前ニモ述ベマシタ様ニ、私トシテハ不本意ナガラ今回ノ様ナ立場トナツタノデアリマス。」


39 二・二六事件北・西田裁判記録 (二) 『 予審訊問調書1 』

2016年08月28日 10時01分26秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第38号 ( 1994年 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一)
松本一郎

一  はじめに
二  二 ・二六事件北 ・西田の検挙
三  捜査の概要
1  捜査経過の一覧
2  身柄拘束状況
3  憲兵の送致事実
4  予審請求事実 ・公訴事実
四  北の起訴前の供述
1  はじめに
2  検察官聴取書
3  警察官聴取書
4  予審官訊問調書  ( 以上第三八号 )
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獨協法学第39号 ( 1994 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎
五  西田の起訴前の供述
1  はじめに
2  警察官聴取書
3  予審訊問調書
4  西田の手記  ( 以上本号 )
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獨協法学第40号 ( 1995年3月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 三 )

六  公判状況
 はじめに 
 第一回公判  ( 昭和11年10月1日 )
 第二回公判  ( 昭和11年10月2日 )
 第三回公判  ( 昭和11年10月3日 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第41号 ( 1995年9月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 四 ・完 )

 第四回公判 
( 昭和11年10月5日 )
 第五回公判  ( 昭和11年10月6日 )
 第六回公判  ( 昭和11年10月7日 )
 第七回公判  ( 昭和11年10月8日 )
 第八回公判  ( 昭和11年10月9日 )
 第九回公判  ( 昭和11年10月15日 )
 第一〇回公判  ( 昭和11年10月19日 )
 第一一回公判  ( 昭和11年10月20日 )
 第一二回公判  ( 昭和11年10月22日 )
 第一三回公判  ( 昭和12年8月13日 )
 第一四回公判  ( 昭和12年8月14日 )
むすび  ( 以上四一号 )

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五  西田の起訴前の供述
3  予審訊問調書
(一)  はじめに
西田を取調べた予審官は、北も取調べた伊藤章信陸軍法務官であった。
伊藤法務官は、西田が叛乱の謀議に参加し、自らは外部工作を担当したのではないかという観点から、
六回にわたって西田を厳しく追及している。
とくに第二回ないし第五回の訊問調書は四六丁 ( 九二頁 ) から五五丁 ( 一一〇頁 ) にも達する長文のものである。
一問一答式の予審調書の記載は、ときとして行間から息詰まるような緊迫感を感じさせる。
(二)  昭和一一年四月一六日付被告人訊問調書 ( 勾留訊問調書 )
  勾留訊問をした予審官は、陸軍法務官新井朋重であった。調書の内容は次のとおりである。
( 第一ないし第三問答省略 )
四  問  陸軍司法警察官ノ送致書記載ノ犯罪事實ハ次ノ通リニ爲ツテ居ルガ怎ウカ
  此時豫審官ハ陸軍司法警察官ノ送致書記載ノ犯罪事實ヲ讀聞ケタリ
 答  只今御讀聞ケニナツタ犯罪事實ニハ大分相違ノ點ガアリマスガ、何レ御取調べニ對シ弁解スル積リデアリマス。

(三)  昭和一一年五月二八日付第一回被告人訊問調書
  この調書では、西田の前科、学歴、経歴、家庭状況等についての問答の後の、
「 国家革新思想ノ推移竝運動経歴ヲ述ベヨ 」 という質問 ( 第八問 ) に対する供述が、主要なものである。
その中で十月事件、血盟団事件、同志からの襲撃を受けた五 ・一五事件等についての供述部分を次に紹介する。
「 十月事件
參謀本部作戰部長建川少將ハ騎兵第五聯隊時代ノ聯隊長デアリマシタノデ、其ノ關係カラ時々訪問シテ居リ、
又橋本欣五郎中佐ニハ友人ノ紹介デ訪問シ、満蒙問題等ニ附話ヲ聞イテ居リマシタガ、
同年 ( 昭和六年 ) 八月頃橋本中佐カラ十月事件ノ計畫内容を聞カサレ、
海軍ヲ參加サセル様ニ努力シテクレト依頼サレマシタ。
其ノ頃井上日召ガ居ル所ガナイトテ上京シテ來テ居タノデ、同年八月下旬頃聯合艦隊ガ入港シタ機會ニ、
私、日召、藤井ノ三名ガ主トナリ、日本青年會館デ陸、海、地方合同ノ會合ヲ開催シ、
其ノ際 陸軍カラ三、四名、海軍カラ十四、五名、地方側カラ日召其ノ他愛郷塾關係者等ガ出席シ、
合計二、三十人集合シマシタガ、話ハ纏リマセヌデシタ。
然シ、藤井ト日召ハ十月事件ニ參加ノ希望ヲ有シ、陸軍側トノ聯絡ヲ私ニ依頼シマシタ。
陸軍側ハ、同年八月ノ異動デ東京ニ轉任シテ來タ 歩三菅波三郎中尉 近歩三野田又男大尉 戸山學校末松太平中尉ノ三人ガ中心トナリ、
部隊側將校、戸山學校 ・砲工學校等ノ學生等ヲ取纏メル事ニナリマシタガ、
部隊側ノ者ハ幹部將校ノ意見ガ不明ナル爲、私ニ對シ橋本中佐ト部隊側トノ交渉ノ依頼ヲ受ケタノデアリマス。
斯様ニ私ハ、陸海兩方カラノ依頼ニ依リ、橋本中佐ヲ中心トスル幹部將校ニ對スル聯絡折衝ノ役目ヲシテ居ツタノデアリマス。
此十月事件ニハ、最初ハ地方人ハ參加セシメナイト云フ事デアリマシタガ、
同年十月ニナツテ橋本中佐カラ其ノ計畫内容ニ附 更ニ話ヲ聞キマシタ処、最初ノ計劃ト大變違ツテ居リ、
大川周明ナドモ參加シ、維新詔勅ノ原案ヲ書イテ居ル事ガ判リ、又近歩二田中信助少佐ガ參加スルトカ、
近歩四森一郎大尉ガ機關銃隊ヲ引率シテ出動スルトカ、聯隊旗ヲ出ストカ云フ事デアリマシタノデ、
私ハ青年將校ノ一團ガ直接行動ニ出ルノミデアルト考ヘテ居ツタノデ、橋本中佐ニ對シ反發意見ヲ述ベマシタガ、
同中佐ハ私ノ意見ヲ容レマセヌデシタ。
其ノ内此事件ハ暴露シ、不發ニ終ツタノデアリマス。
私ガ十月事件ニ參加シタノハ、菅波ガ大川ノ參加シテ居ル事ヲ知ツテ憤慨シ、
大川ヲ參加セシメル位ナラ元軍人ノ西田ヲ何故參加セシメナイカト言ヒ出シタ結果、私モ參加スルニ至ツタノデアリマス。
血盟団事件
昭和六年ノ十月事件ガ不發ニ終ツタノデ、海軍側ノ者ヤ井上日召一派ガ焦リ出シ、
私ガ度々注意ヲシタ事ヲ惡ク解釋シ、私達ニ關係ナク計畫ヲ進メテ居リマシタ。
同年末ヨリ昭和七年初ニ亘リ、陸軍側ノ青年將校をヒキイレル爲ニ努力シテ居ツタ様デアリマシタガ、
其頃ヨリ私ト彼等トハ聯絡ガ絶タレタノデアリマス。
昭和七年二月井上蔵相、同三月團男爵等ガ相次デ暗殺サレ、
私モ其ノ關係者トシテ認メラレテ、警視庁ニ約三週間留置セラレテ取調ヲ受ケマシタガ、
井上日召ヲ中心トスル血盟團ノ大部分ガ檢擧セラルルト共ニ嫌疑ガハレテ、釋放セラレマシタ。
五 ・一五事件
私ガ血盟團事件デ警視庁ニ留置中、
海軍側ノ青年將校ト陸軍側ノ士官候補生ト結合スルニ至ツタノデアリマスガ、
最初ハ海軍關係、民間關係ノ方ヨリ陸軍關係ノ者ヲ退カセ様ト思ヒ、之ニ努力シ、
陸軍側ノ青年將校ハ遂ニ動カナカツタノデアリマスガ、之ガ爲ニ私ハ裏切者トシテ取扱ハレ、川崎長光ノ爲ニ狙撃サレタノデアリマス。
私ガ病院ニ入院中、北一輝カラ親身モ及バヌ程ノ介抱を受ケ、此時ヨリ綿とト北トノ間柄ハ親子ノ様ナ關係ニナリマシタ。
ソシテ昭和七年六月三十日ニ退院シ、七月中ハ湯河原ニ轉地療養ヲシテ辛フジテ癒リマシタガ、其ノ後元気ハ恢復セズ、
身體ガ普通デナイノデ餘リ人ニ會ハナイ様ニシテ居リマシタカラ、大シタ運動ハ出來マセヌデシタ。
五 ・一五事件以来、私ハ當局ノ 『 スパイ 』 ノ如ク噂サレ、當局カラハ危險人物トシテ注意セラレ、
何レヲ向イテモ私ト云フ者ハ妙ナ存在トナリ、毎日快々トシテ樂シマズト云フ生活ヲ送ツテ居リマシタ。
右ノ次第デアリマスカラ、私ハ軍部關係ヲ離レテ民間方面ノミノ啓蒙運動ニ努力シテ、現在ニ至ツタノデアリマス。」

(四)  昭和一一年六月二日付第二回被告人訊問調書
(1)  本調書は通常の調書の形式と違って、表題付きの項目を立てた、むしろ論文に近いスタイルの特異な構成となっている。
  西田は、「 被告人ノ抱懐セル国家改造論、竝其ノ改造実現ノ手段方法ニ就テ述ベヨ 」という質問に対して、
一一項目、五五丁 ( 一一〇頁 ) にわたって、滔々とその抱負を述べる。
文中には、国家改造後における各国家機関の図解さえも含まれている。
おそらくあらかじめ西田に準備させた草稿に基づいて作られた調書であろう。
十月事件に關係した西田は中途から首謀者の橋本中佐 ( 当時 ) と確執を生じ、事件が未遂に終わった後で、
橋本から密告者呼ばわりをされた。
しかし彼はこのような誹謗に対してはついに釈明をしなかった。
本調書でも、西田が沈黙を守った真意は明らかではない。
以下、主要な個所を抜き書きするが、参考までに各項ノ表題を示しておく。
 一  私ノ抱懐スル理論及手段ノ要領
 二  改造理論ノ根本ニ就テノ一考察
 三  實現手段ノ根本ニ就テノ一考察
 四  實現時期ニ就テノ一考察
 五  改造實現ノ要領ニ就テ
 六  實現期ニ對スル判斷ニ就テ
 七  「 テロ 」 ニ就テノ一考察
 八  過渡期ニ於ケル行動ノ方針ニ就テ
 九  最近諸事件ニ表ハレタル改造運動ノ一大傾向ニ就テ
 十  最近ニ於ケル諸事件ト私ノ關係ニ就テ
十一 私ノ生活態度ノ一端ニ就テ

(2)  (  「 一  私ノ抱懐スル理論及手段ノ要領 」 から  )
  「 私ハ、北一輝著日本改造法案大綱ニ示サレタル理論對策ト其ノ實現手段トニ共鳴シ、之ヲ基準トシテ居ルモノデアリマス。」

(3)  ( 「 三  實現手段ノ根本ニ就テノ一考察 」 から  )
  「 私ハ、改造ハ全體生命ノ進化途上ニ於ケル躍動デアリ、本能的營ミデアルト申シ上ゲマシタ。
換言スレバ全體思想--社會思想--國家意思ノ發動デアリマス。
法案ハ、此根本ニ依ツテ國家意思ノ發動トシテノ 『 クーデター 』 ヲ採用スル事ヲ宣明シ、
日本ノ改造ハ天皇ト全國民トノ合體ニ依ルモノニシテ、國民ノミデハナイコト、天皇ニ指揮セラルル全國民ノ運動ナリト云フコト、
日本ノ意思ハ全國民ノ輔佐セラルル天皇ニ依リテ發動スルモノナルコト等ヲ明白ニ主張シ、解説シテ居ルノデアリマス。

(4)  ( 「 四  實現時期ニ就テノ一考察 」 から  )
  「 經濟生活ヲ營マザル人間ハ死者デアル如ク、
經濟ハ社會生活ノ全部デハアリマセヌガ、最モ重要ナル部分デアリマス。
改造或ハ亡國ヲ直接動因スルモノハ、實ニ此經濟力ノ破綻、從ツテ財政ノ破綻デアリマシテ、
之レ古今東西ノ興亡史ヲ一貫スル大事實デアリマス。」
「 此國家財政ノ破綻、即 經濟組織ノ老廢化ハ、其ノ原因多々アリマスガ、結局ハ内憂外患ノ逐次深刻化スルニ從ヒ、
 國民負担力ノ衰弱化ト共ニ國家収入ハ減少化ヲ來シ、然モ各種支出消費ハ激増スルト云フ事態ヲ招來スルニ依ルノデアリマス。
又此時期ハ國民朝野共ニ國難打開ヲ言動スル譯デアリマシテ、茲ニ始メテ全體生命ノ躍動ガ起ル事ニナルノデアリマス。
ソシテ遂ニ政府ヲ中心トシテ、打開ノ講究ガ行ハレ始メル事ニナルノデアリマス。」
「 實ハ此処迄ノ動キヲ見ナケレバ、今日ノ統一國家ニ於ケル極メテ複雑化シ、且 微妙ニ動ク所ノ組織、
 特ニ其ノ骨幹タリ、動脉タル經濟財政ノ改造ニ着手スル事ハ、絶對不可能デアリマス。
即 組織ノ改造ハ組織自身ノ解體以外ニナイノデ、此原則ニ於テ、國家改造ノ時期ハ其ノ財政經濟ノ破綻期ヲ以テ時期トスルノガ、
古今ノ大事實デアリマス。」

(5)  ( 「 五  改造實現ノ要領ニ就テ 」 から  )
  「 世間ニハ、今次事件ハ
宛モ私ノ方寸ニ出ヅル革命行動デアルト思ツテ居ル者モアルト思ヒマスガ、
不肖無智ナル私ト雖、未ダ其処迄迷ハズ、盲セズ、狂セザルモノデアリマシテ、
其ノ様ニ思フ世間ノ人ニ對シテ、妄斷スルヲ休メヨト申シタクナリマス。

(6)  ( 「 六  實現期ニ對スル判斷ニ就テ 」 から )
  「 ( 日本の現状分析の結果、国家財政はまだ維持、持続できる余地が相当あり、外患も退勢の傾向にあると判断した上で、)
 之ヲ要スルニ、機縁尚致ラズ、未ダ熟セズト云フ狀勢ニ在ルノデアリマス。
即、先覺者の先憂期ヲ未ダ脱シテ居ラナイノデアリマス。
世上現前ヲ如何ニ施設スベキカノ究明論議ヨリモ、人事ノ系統ナドガ主ナル論題デアルト云フ現狀デアリマス。
結局、未だ實現可能ノ天ノ時期ニ非ズト判斷シテ居リマス。」

(7)  ( 「 七  「 テロ 」 ニ就テノ一考察 」 から  )
「 國家ニ國防精神存シテ陸海軍ヲ常備シ、時ニハ砲火ニ訴フル事アル限リ、國家ガ刑罰ニ死刑ヲ採用スル限リ、
 人類ノ 『 テロ 』 ハ止ムヲ得ザル現象デアリマス。唯私ハ、我陸海軍ガ王帥デアリ、神武不殺ヲ理想トセル如ク、
個人ノ 『 テロ 』 ハ夫レ以上ニ愼ムベキデアルト信ジ、孫子ノ曰ヘル 『 百年之ヲ用フベカラズ、一日モ備ナカルベカラズ 』
ヲ理想トスルモノデアリマス。
而シテ、『 テロ 』 ハ人類生活ニ於テ起ル現象デアツテ、世上妄斷スル如ク所謂改造運動上ノ特異ナ現象デハアリマセヌ。
否、寧ロ改造運動ニハ、却テ有害ノ結果ヲ齎もたらス事ガ多イノデアリマス。」
「 私トシテハ、物心ツイテ以來實ハ腕力ニ訴ヘタ經驗ノナイ性質モアリマセウガ、『 テロ 』 現象ハ否定シナイガ、
 私自ラハ先ヅ採用セザル方針ヲ公私トモニトツテ居ルモノデアリマス。」

(8)  ( 「 九  最近諸事件ニ表ハレタル改造運動ノ一大傾嚮ニ就テ 」 から )
  「 所謂三月事件以來續發セル大小各事件ハ、何レモ大同小異ノ性質ノモノデアリマシテ、
 近時國家改造運動ト云ヘバ宛モ悉ク斯ル事件ノ如キ方式行動ニ依ルベキモノデアリ、
又依ラザルベカラザルモノデアルカノ如ク宣傳セラレ、兎角ノ論爭ガ爲サレツツアルノデアリマスガ、
斯ル一大傾向ヲ齎ラシ來ツタ原因動機ハ、果シテ何処ニアリヤヲ探求究明セネバナラヌト思ヒマス。」
「  ( 三月事件、十月事件、血盟団事件、五 ・一五事件、神兵隊事件等を概観した上 ) 右ノ各種事件ヲ通観致シマスト、
 三月、十月ノ兩事件ガ如何ニ其ノ後ノ各事件ヲ行動方針ノ上カラ誘導シ、暗示シ、啓蒙シ、模範ヲ示シテ居ルカガ判明致シマス。
殊ニ、三月事件ニ於テサウデアリマス。
帝都ノ大騒亂、軍人軍隊ノ私用、至尊ニ對シ奉リ改造ノ強要ヲ結果スルヤリ方、爆弾 ・毒瓦斯等ノ民間交付等然リデ、
而モ陸軍上層部、中央部ノ軍人等ニ斯ル大破壊、大騒亂、大不敬ヲモ敢テ辭セズトスル者少ナカラズ居ルコト、
及斯ノ如キ重大ナル陰謀行動ヲ爲シタル者ガ、何等ノ制裁ヲモ受クル事ナク、
寧ロ逆マニ壯語シ、横行シ、榮進シツツアルト云フコトガ
如何ニ軍部及民間ノ改造主義者ヲ刺戟シタカハ、
想像ニ餘リアルモノデアリマシテ、
是非ヲ批判シツツ不知不識裡ニ實現形式ヲ
彼ノ如キモノデアルコトニ自ラ決定スルノ風潮ヲ、見ルニ至ツタノデアリマス。
個人ニ於テモ出発ガ大切デアル如ク、社会モ社会運動モ亦同様デアリマス。
一般改造主義者ハ固ヨリ、改造反對論者迄モ一様ニ、
此兩事件ノ形式ヲ以テ改造實現ノ典型的ナルモノデアルカノ如キ暗示ニ陥ツテ了ツテ居ルノミナラズ、
夫レ迄ハ殆ド此方面ニ無意識ニ近ク、無自覺ニ近カリシ陸軍部内、
殊ニ青年將校階級ニ与ヘタ無韻ノ影響ハ極メテ深刻ナルモノガアツタト信ジマス。
( 中略 )
以上ノ諸點、此一大傾嚮向ヲ生ジタ理由、動機ニ附テハ、
特ニ深甚ナル御留意ヲ御願ヒスル次第デアリマシテ、
今次事件ノ中心者等亦其ノ代表的ナモノデアリマス。」

(9)  ( 「十  最近ニ於ケル諸事件ト私ノ關係ニ就テ  」 から )
「 十月事件
當時對露對満問題デ友人ノ紹介ヲ受ケタ橋本大佐 ( 當時中佐 ) ト時々會見シテ居リマシタガ、
八月下旬ニ漠然タル抽象的ナ方針ヲ聞キ、考慮ヲ約シタ程度ニ於テ此事件ニ關係シテ居リマス。
前年ノ 『 ロンドン 』 條約問題紛糾當時ハ私ノ意見ニ從ツテクレ、僅ニ海軍次官面詰ノ程度デ平靜自重シテ居タ海軍ノ藤井中尉ハ、
今度ハ肯ゼズ、井上日召ト共ニ益々硬化シ、自ラ大川周明ト會見シタリシテ居リマシタ。
私ハ橋本大佐及野田又男 ( 當時近歩三附中尉--三月事件參加 ) カラ海軍側參加ヲ依頼サレ、
當時歩三ニ轉任上京シタ菅波中尉等陸軍ノ將校ヨリモ依頼セラレ、『 オブザーバー 』 デ聯絡係ト云フ様ナ變ナ立場ニ立チマシタ。
其ノ頃マダ明白デハアリマセヌガ、青年將校群ヲ以テスル重臣襲撃位ニ聞イテ居リマシタ。
柳条溝事件勃發シ、皇軍既ニ南北満洲ヲ轉戰シ、前途如何ニ爲リ行クカ判ラナイ時、
軍部ハ重臣其ノ他ノ勢力カラ異常ナ壓迫ヲ受ケ、満洲事變ハ軍侵略主義ノ陰謀ナリト云フ様ナ空氣ガ見ヘタ時、
一面私ハ満洲事變ハ改造ノ前奏曲ナリト信ジマシタノデ、勃然義憤ヲ發シ、
從來迷惑気味デアツタ十月事件ニモ、内容ニ依ツテハ人肌抜ク決心ニナツタノデアリマス。
然ル処、其ノ後近歩二田中大隊、近歩三野田中隊、近歩四森中中隊等ガ立ツト云フコト、
聯隊旗ヲ持出シテ二重橋前ニ集ルトカ、陸軍省 參謀本部 ・警視庁等ヲ占領スルトカ、
皇軍相撃タザル如ク中間ニ幕僚ガ立ツテ盡力スルトカ、大川周明ガ詔勅案文ヲ起草シテ居ルトカ、
殺人勲章ヲヤルトカ、誰が大臣ダ、誰ガ戒嚴司令官ダトカ、少將以上ハ塵殺シニスルトカ、
實弾ハ豊橋ノ佐々木大佐ガ持參スルトカ云フコトガ耳ニ入リ、
私ハ事ノ意外ニ驚キ、橋本ニ對シ随分反對忠言シ、又陸軍青年將校側モ變ナ空氣ヲ生ジ、
結局十月十六日午後私ハ橋本中佐ト會見シ、
計畫内容ガ一切不明デアルカラ若イ人ニ依頼サレテ一度内覧シタイト申述ベ、
十七、十八日ノ兩日ハ休日ノ事トテ十九日午後ヲ約シテ別レマシタガ、
其ノ夕刻カラ彈壓ガ始マリ、一切其ノ儘ニナツタノデアリマス。
私ハ此ノ事件ニ依リ熟々考慮反省シタモノデアリマシテ、
其ノ後虚實取交ゼ私ニ種々ナル中傷壓迫ガ集リマシタガ、
之等ノ悉クニ對シ其ノ眞相ヲ明カニスレバ私ノ態度モ自ラ明カトナリマスカラ、
千万人ト雖モ我行カンノ固イ決心ヲ持ツテ臨マントシマシタガ、
一率ニ一切ヲ噛ミ殺シテ雲霧完全ニ消散シテ、
明カニ自覺シタ 『 一乗道 』 ニ黙々トシテ這入ツタノデアリマス。」

「 五 ・一五事件
井上蔵相遭難後海軍ノ古賀中尉ガ來訪シ、
『 黙ツテ居レヌカラ第二ノ犠牲ニナリタイ。尤モ、アナタガ同意シテ下サラナケレバ考ヘ直シマスガ 』
ト云フ趣旨ノ事を申シマシタノデ、私ハ反對シ再考ヲ促シテ置キマシタ。
三月下旬約三週間餘ノ檢束ヲ解カレテ歸宅シマスト、海軍將校ト士官候補生トガ怪シイト云フ事デ、
或先輩カラ注意ヲ受ケ、且大蔵大尉モ心配シテ居リマシタ。
大蔵ガ憂慮ノ餘 古賀ヲ説得ノ爲訪問スルニ際シ、私ハ會ヒタイ事ヲ傳言シテ置キマシタ処、
四月上旬ノ或休日ニ古賀中尉ハ上京來訪シマシタ。
同中尉ハ、關東、東北各地ノ農民モ動クト話シ、決行スル旨ヲ語リ、私ニ同意ヲ求メマシタガ、
私ハ絶對反對ナル旨ヲ述ベテ反省ヲ求メ、結局改メテ聯絡スル事ヲ約シテ別レマシタガ、
遂ニ消息ナク五月十五日ニ至リ、行動ヲ阻碍スルモノトシテ私ハ川崎長光ニ襲ハレタノデアリマス。
尤モ、其ノ當時何故私ヲ襲フニ至ツタノカ、其ノ理由ハ不明デアリマシタガ、
果然其ノ背後ニ三月事件 ・十月事件ノ首脳ノ一人大川周明アリ、本間、頭山等アリ、
次ノ神兵隊トモ一脈相通ジテ居ル事ガ判ツタノデアリマス。」


(10)  ( 「 十一 私ノ生活態度ノ一端ニ就テ 」 から  )
「 私ノ同志ニハ、『 テロ 』 反對主義ニ立ツ狭心社同志諸君ノ如キモアリ、大體ニ於テ五 ・一五事件迄ハ、
 中央政界ニ於ケル高等政策的政治運動ヲ主トシテ爲シ來ツタモノデアリマスガ、
五 ・一五事件以後ハ在家信者運動ニ眞劍ニナリマシテ、今ヤ農村 ・都市、中央 ・地方ヲ通シテ、
或ハ郷軍關係トシテ、或ハ農民運動、勞働運動、大衆團體運動トシテ關係致シマシテ、
徐々ニ且孜々トシテ進ンデ來タモノデアリマス。
何レモ命令服從關係デナイ事ハ、既ニ申上ゲタ通リデアリマス。無組織ノ組織トモ申シテ居リマシタ。
軍人方面デハ、時々急進過激ナ事ヲ持歩ク人モアツテ、幾分ザハツイテ居リマシタ。
村中等モ苦心シ、時々私ニ對シマシテ 『 命令的ニ統制シテハ如何デアラウカ 』 ト云フ様ナ、
相談的ナ依頼的ナ事ヲ申込マレタ事モ二、三度ハアツタト思ヒマスガ、
私ハ方針トシテモ斯ル処置ハ反對デアリマスノデ拒否シマシタガ、
此ノ場合ハ懇談理解ノ方法デ平靜ニ歸スルコトヲ得テ居ツタノデアリマス。
齋藤内閣總辭職當時と思ヒマス。
栗原中尉等ガ、戰車隊ヲ中心トシテ不穏ノ形勢ニ在リ、村中、磯部等モ多少之ニ引ズラレテ居タラシク、
大蔵大尉ハ之ニ反對シ私ニ打明ケマシタノデ、同感デアツタ私ハ、
明白ニ記憶致シマセヌガ栗原等ノ有志三、四名ト會見シテ、
『 世ヲ騒ガセ、自ラヲ亡ボス結果ヲ見ル計リノ過誤デアリ、必ズ失敗ニ歸スルノデアルガ、
 覺悟シテヤルナラバ制止スル筋合デハナイガ、何ヲ騒ギ立テルノカ。
御互ヒデソンナ騒ギヲスル間ニ、將校團一體運動デモヤツテハ何ウカ 』 ト云フ趣旨ノ事ヲ申シ、
結局事無キヲ得タ事モアリマシタ。」
「 然ラバ、實現期ニハ如何ニ行動スルカト申シマスト、
既ニ申上ゲマシタ様ナ事態ニ於テ國家ノ生命及制度組織ノ根本ニ觸レル重大ナル國策問題、
特ニ財政經濟關係ニ附政府纏ラズ、國論亦動クノ時アリトセバ、或ハ斷乎自ラ挺身スルカモ知レマセヌ。
喩ヘテ鳥羽伏見ノ一戰ト私ガ申シマスノハ、此事デアリマス。
唯祈ル所ハ、順調ニ進ンデ大權ノ發動トナルコトデ、此國家的進軍ニ臣下ノ一兵士トシテ從軍スル事デアリマス。
夫レ迄ハ啓蒙デアリマス。」


(五)  昭和一一年六月六日付第三回被告人訊問調書
(1)  四六丁に及ぶ本調書には、
  西田の事件前の一般情勢に対する認識 ( 第二問答 )、西田が事件発生を推知した経緯 ( 第三問答 )、
そのときの西田の心情 ( 第四問答 )、西田たちが考えていた外部工作 ( 第五問答 )、
栗原から聞いた事件の実行計画の内容 ( 第六問答 
)、が記載されている。
西田の事前共謀の有無の認定について、重要な調書である。 なお第一 ( 人定質問 )、第六問答は滴録を省略する。
(2)  西田の一般情勢に対する認識
( 「 二  問  今回ノ事件前ニ被告人ノ認識シタ一般情勢ヲ述ベヨ 」 )
西田は、事件発生前は相澤事件の弁護活動に専念していた。
相澤中佐との親交もさることながら ( 相澤は、永田軍務局長刺殺の前夜、西田宅に泊っている )、
彼の狙いは、公判活動を通しての陸軍の粛正にあったという。
この頃西田と青年将校の往来は稀になり、彼はもっぱら民間人を対象に革新運動を行っていた。
故郷米子での亡父の法要を控え、平穏な生活を営んでいた西田に、青天の霹靂のように本事件の情報が飛び込んできた。
「 私ハ、相澤中佐ノ御依頼モアリ、妙ナ因縁ニモナツタノデ、
 中佐ノ公判ヲ良クスル事ニ因テ合法的ニ堂々ト一切ヲ明カニスル氣ニナリ、
一面五 ・一五事件公判デ海軍士官等ガ陳述トタ事ヲ動機トシテ海軍ガ淨化サレテ來タ事ニ想到シ、
此度ハ相澤公判ヲ通シテ徹底的ニ陸軍ノ肅正ヲ期スベシト考ヘマシタ。
從ツテ同公判ニ關シテハ、私ハ全ク眞劍ナラザルヲ得ナカツタノデアリマス。
( 中略 )
私ハ、結局蔭ノ人トシテ下準備ニ努力スル立場ニ在リ、主トシテ資料ノ蒐集等ニ奔走シテ來マシタ。」

「 軍部關係ニ於テハ、村中孝次 磯部淺一等ガ
 陸軍大臣、陸軍次官其ノ他ノ者ト時々會見シテ意見具申ヲ爲シ、
相當空氣ガ緩和サレタ様ニ感ジマシタノミナラズ、軍隊側ノ人モ相澤公判問題ヲ中心トシテ、
上下左右ニ熱心ナル盡力ヲ爲サレ居ル事ヲ聞イテ、春光漸ク動カントスルノ感ヲ抱イテ居リマシタ。
第一師団渡満ノ噂ガ昨年カラアリ、時偶不穏ナ聲ヲ漏ス者モアツタ様デアリマスガ、
斯ノ如キハ所謂常習犯的言辭トシテ取扱ハレ、殆ド問題デハナカツタト思ヒマス。
私ハ、素ヨリ前ニ陳ベマシタ様ナ方針デアリ、満洲内地ノ如何ヲ問ハズ、直接行動ニハ絶對反對デアリマシタ。
一月二十八日相澤中佐公判開始ノ前後ニ、
龜川宅デ二、三回、満井中佐ヲ中心ニ数名ノ青年將校其ノ他私共ガ參集シテ、
公判ニ關シ二、三ノ協議ヲシタ事ガアリマシタガ、何等不穏ナル氣配モナク終始シタモノデアリマス。」

「 私自身ノ私的關係カラ申シテモ、本年二月十一日ハ亡父ノ十三年祥忌日デアリ、
 亡弟ノ五年忌ガ三月十日デアリマスノデ、
一家眷族ヲ會シテ正式供養ノ佛事ヲ營ム爲ニ郷里ニ歸ル所存デアリマシタガ、
相澤公判開始ノ爲当時都合ガ惡クナツタノト共ニ、伊勢山田ニ居住スル姉ノ都合モ三月ガ好イトノ事デアリマシタノデ、
三月十日ノ亡弟忌日ニ執行スル事ニ變更シテ、夫々通知ヲ出シ、三月ヲ待ツテ帰郷ノ豫定ヲシテ居ツタ程デアリマス。」
「 私宅モ數年來逐次軍人トノ關係ガ薄クナリ、最近ハ殆ンド途絶ヘテ居リマシタ。
一方民間関係者ノ出入ハ相當頻繁デアリ、時々半バ事務所ノ如キ観念ヲ以テ部屋又ハ電話ノ使用ヲスル人モアリマシタ。」

「 右ノ如キ狀況デ、萬事他意ナク忙中順調ナ日ヲ□□シテ居リマシタ処、
本年二月中旬前後頃忽然トシテ、今回ノ事件計畫ノ決定的ナ動キガ眼前ニ展開シタト云フ有様デアリマシタ。」


(3)  事件発生を推知した経緯
( 「 三 問  其ノ後事件ヲ具體的ニ推知シタ顚末ヲ述ベヨ 」 )
  西田は、二月一八日、不穏な動きをしていると聞いた栗原を自宅に呼びつけて、軽挙妄動を愼むように注意したところ、
初めて事件の計画を知らされて驚いたが、なお抑止に一縷の望みをつなぐ。
しかし、二〇日には、西田が全幅の信頼を置いていた安藤さえも参加を決意していることを知って、絶望する。
説得を断念した西田は、山口大尉らと善後策について協議する。
「 同日 ( 筆者注、二月一八日 ) 午後五時頃カ六時頃カニ、栗原中尉が來宅シマシタ。
私ハ
『 君等ハ、最近ヤルヤルト言ツテ隊内デ露骨ニ不穏ノ行動ヲシテ居ルサウデアルガ、
 引込ガツカナクナツテ困ル様ナ事ニナルノデハナイカ 』
ト云フ趣旨デ山口大尉カラ聞イタ事ヲ注意スルト、栗原ハ例ノ開放的ナ、輕妙ナ調子デ、
(イ)  今度コソハアナタガ何ト言ツテ止メ様トモ、又誰ガ何トシヤウト、部隊ヲ率イテ蹶起スル。
  如何様ニナルトモ、アナタ達ニハ無關係ダカラ構ハヌデハナイカト云フ意味ノコト、
(ロ)  我々ガ在京シテ居ツテハ邪魔ニナルノデ、第一師團ヲ満洲ニ派遣スルノダト思フガ、
  我々ガ二年間満洲ニ行ツテ居ル間ニ、重臣ブロックト其ノ周囲ノ者等ハ、
必ズ勢力ヲ盛リ返シテ愈々跳梁スルデアラウカラ、之ヲ黙シテ出發スル事ハ出來ヌ。
相澤公判トカ大本敎檢擧トカ云フガ、我々ハ其ノ様ナ事デハ到底期待スル事ハ出來ヌト云フ意味ノコト、
ヲ申シ、襲撃目標及實行計畫ノ概要ヲ話シマシタガ、
私ハ夫レニ對シ約一時間計リヲ要シ、種々ナ角度カラ其ノ不可ナル所以ヲ縷々説明シ、
中止セヨト迫リマシタガ聞流サレルノデ、
更ニ方法ヲ變ヘテ、
私自身終局一味トシテ即時ニ捕マル事ハ確實デアリ、
又世上ノ風評デ片付ケラレテ了フ事モ確實デアル事、
其ノ他民間側ノ啓蒙運動ハ順調ニ進ンデ居ルガ、一擧ニシテ打壊シニナル事
等ヲ話シテ中止シテクレト頼ミ、
最後ニハ攻メテ渡満直前頃迄延期スル譯ニ行カナイカ
ト申シマシタガ、栗原ハ、
『 アナタニ何トカ彼トカ云ハレルノガ一番嫌ダ 』
ト申シ、更ニ、
『 考ヘテ見マセウ、モウ之デ歸ツテモ宜イデセウ 』
ト言ヒ殘シテ歸ツテ了ヒマシタ。
私ハ、從來此種ノ事例モナカツタ譯デハナシ、比較的楽観シテ居ツタノデアリマスガ、
栗原君ト會見ノ結果、事ノ意外ニ内心一驚シタノデアリマス。
然シ、栗原ハ常習犯的ナ定評ノアル人デモアルノデ、絶望ハシマセンデシタ。
下士官 ・兵ナトガ滅多ニ動クトモ考ヘラレナイシ、
他ノ將校達ガ栗原ノ言動ニ對シテハ却テ反發的デアツタ風モ、多少承知シテ居ツタカラデアリマス。」

「 同月二十日頃ノ夕方、安藤大尉ガ聯隊カラノ歸途私方ニ立寄リマシタ。
 安藤モ、一度會見シテ私ノ意見ヲ聞キタイト思ツテ居ツタ所デアルト申シタノデ、
私ハ栗原トノ會見シタ顚末ヲ告ゲ、一應簡単ニ反對ノ意見ヲ述ベ、
『 重大ナ問題デアルカラ、忌憚ナク意見ヲ話シテ貰ヒタイ 』
ト告ゲマシタ処、安藤ハ私ノ從事シテ居ル民間運動 ( 海員、農民、勞働、大衆、郷軍各方面及上海方面ノ情勢等 ) ニ附
如何デスカト云フ事ヲ質問シマシタカラ、
私ハ萬事漸ク緒ニ就イタ所デ、何事モ之カラノ努力デアル事ヲ話シタノデアリマス。
スルト安藤ハ、
(イ) 最近若イ連中ガ甚ダ激化シテ直接行動ニ訴ヘ様トシ、自分ハ大物ト見テ盛ニ勧誘スルコト、
(ロ) 自分トシテハ之ニ同感シテ決行ニ參加スル事ハ何デモナイ、別ニ能ノ無イ人間ダカラ。
 然シ、夫レガ良イカ惡イカニ附テ判斷ガツカナイノデ、數日前皆カラ話サレタ時モ、種々考ヘタ結果一応斷ツタコト、
(ハ) 其ノ後先輩野中大尉ニ斷ツタ事ヲ話シタ処、同大尉カラ
  今蹶起セネバ天誅ハ却テ我々ニ下ル、何故斷ツタカ。ト強ク怒ラレ、非常ニ恥カシイ思ヒヲシタコト、
(ニ) 此様ナ形勢デ、若イ連中、下ノ方ノ空氣 ( 下士官、兵ナドノ強硬ナ事ヲ若干漏ラシ ) ハ、
  到底只デハ濟マヌ狀態デアルコト
及實ハ自分モ、最近若イ將校達ヲ聯レテ以前ノ將校團長山下少將ヲ訪問シタガ、
若イ者ヲ刺戟スル様ナ事ヲ山下少將ト話合ヒ、
其ノ晩常盤少尉ノ如キハ、早速非常呼集デ警視庁に出掛ケタ位デアルコト、
(ホ) 此状態ハ、從來アツタ如ク、
誰カガアナタニ傳ヘルト アナタハ直グニ押ヘテ了ウト云フ調子ニハ行カナイ程度ニ進ンデ居ル様デアリ、
  押ヘデモスレバ却テ大変ナ結果ニナルト思ハレルコト、
左様ナ時ニハ、誠ニ失礼ナ申分デアリマスガ
五 ・一五事件ノ時ト同様、アナタヲ撃ツテ前進スル事ニナルカモ知レナイコト、
(ヘ) 右ノ如キ情勢デアルカラ、
  自分ハ種々考ヘタ末 其ノ様ナ事ニナツテハ困ルノデ、
前以テアナタノ御意見聞キタイト思フテ居ツタコト 』
當ヲ朴訥ナ口調デ語リマシタノデ、
私ハ以外ノ感ニ打タレマシタ。
實ハ、栗原ノ話デハ幾分疑点モ抱キマシタガ、
安藤ニハ左様ナ疑点ヲ抱ク餘地ノナイ性格、言動ヲ信頼シテ居ツタノデアリ、
且 夫レダケ安藤ノ慎重、重厚ナ態度ヲ尊敬シテ居ツタノデアリマス。
他ノ人々ガ如何ニ騒ガウト、安藤ガ自重シテ居レバ大抵ノ事ハ大丈夫ト豫想シテ居ツタノデアリマス。
然ルニ、安藤ヨリ右ノ如キ狀況ヲ聞クニ及ビ、私ハ全ク心中愕然トシテ了ツタノデアリマス。
安藤ハ大體決心ヲシテ居ル様デアリ、
尠クトモ同意ノ決心ヲ爲サネバナラヌ立場ニ置カレテ了ツテ居ル様デアレ事ヲ、其ノ時直観シマシタ。
ソシテ、最早狀勢ハ私等一人、二人ノ力デハ到底押ヘ切レヌ処所迄進ンデ居ル事ヲ認メタノデ、
安藤ニ對シ、
『 (イ) 理論方針トシテハ、總テノ點カラ反對デアルコト、
(ロ) 質問ヲ受ケタ自分ノ努力シテ居ル方ノ事ハ、根底カラ打撃サレ、總テ一空ニ歸シ終ルデアラウコト、
(ハ) 諸君ガ蹶起スレバ、關係ノ有ル無シニ拘ラズ自分ハ一體ト見ラレテ、先ヅ唯デハ濟マヌト思ハレルコト、
(ニ) 止メ様トシテ殺サレル位ハ別ニ惜しい身體デハナイガ、形勢斯ノ如キデハ、結局止メテモ無駄カモ知レヌト思ハレルコト、
(ホ) 自分自身ニ夫レ程ノ力量ガ無キノミナラズ、蹶起將校中ニハ知ラヌ人ガ多い模様であり、
  一方自分ニ對スル信用問題モ不明デアルコト、
(ヘ) 蹶起ノ主タル理由ガ、渡満ヲ動機トシテノ國體明徴ノ様ニ聞イテ居ルガ、
  風雲急ヲ傳ヘラレルル蘇満國境及共産化シツツアル匪賊ノ跳梁等ヲ考ヘルト、前途ハ不明デアリ、
夫レヨリモ心配ナノハ國内ヲ何トカシタイト云フ諸君ノ氣持ニハ、諒解出來ヌ譯デハナイコト、
(ト) 海軍ノ藤井ノ上海出征ノコト、
(チ) 主義方針ハ別トスルモ、人情ニ於テハ堪ヘ難キ懐ヒ出トナツタコト 』
等ヲ色々披瀝シマシテ、結局
『 中止シテ貰ヒタイトハ思フケレド、此狀況デハ最早何トモ致シカネルガ、ヤルカヤラヌカ、今一度ヨク考ヘテ、
 何レニシテモ御國ノ爲ニナル最善ノ途ヲ選ンデ貰ヒタイ。
君等ガヤルト云フナラ、自分ハ運ニ任ヨリ外ハナイダラウト思フ 』
ト云フ趣旨ノ事ヲ話シマシタ処、
安藤モ 『 ヨク判リマシタ 』 ト申シテ、會見ヲ終ツテ歸ツテ行キマシタ。
私ハ茲ニ於テ、之ハ飛ンダ事ニナツテ了ツテ居ル事ヲ痛感シ、種々考ヲ廻ラシマシタ。
ソシテマタ、何トカナルカモ知レナイト云フ一部ノ餘裕ハ頭ノ隅ニ在リマシタガ、
安藤ノ言動ニ依リ、殆ド大半ノ希望ヲ失ツテ了ツタノデアリマス。

二月二十一日朝ノ内ニ山口大尉カラ、
『 明日カラ週番デアルガ、今日ハ風邪氣味デ休イデ居ルカラ來イ 』
トノ電話ガアリ、私モ會ツテ相談シタイト考ヘテ居タノデ、訪問ヲ約束シマシタ。
同日午前中ニ中野ノ北一輝宅ヲ訪問シマシタガ、之ハ事態極メテ重大デアリ、
萬一實現スレバ關係ノ有無ニ拘ラズ平素ノ交友、世間ノ誤解ヤ 『 デマ 』 ハ、
必ズ此ノ機會ニ私ニ對シ或程度ノ災ヒヲ被ラシメルコト明カデアリ、
又當然豫想サレル私ノ一身上ノ變化ニ附テモ、
北一輝ト私トノ從來ノ關係上一應話シテ置ク必要ガアルト考ヘマシタカラ、
私ハ栗原、安藤等カラ聞イタ情報ヲ話シ、
最早押ヘル事モ何ウスル事モ出來ヌ狀態ニ進ンデ居ル事ヲ説明シマシタ処、
北ハ、左様ナレバ我々トモ致方アルマイト云フ様ナ返事デアリマシタガ、若干腑ニ落チヌ風デアリマシタ。
同日午後私ハ山口大尉ノ宅ヲ訪問シ、栗原、安藤等トノ會見ノ結果、事態極メテ不穏ナル事ヲ話シ、
同大尉ノ観タ隊内ノ情勢ハ果シテ事實カ否カヲ尋ネタ処、
同大尉ノ観察モ私ノ判斷ト同様デアリマシタノデ、両人長嘆息シマシタ。
結局、何トカ打開ノ途ナキカヲ見付ケ、兩人ノ智恵ヲ絞リマシタガ、纏ツタ考モ浮バナカツタノデ、
彼等蹶起後ノ對策ニ附考ヘルヨリ外ナシト話合ヒ、
一、彼等ガ蹶起スレバ、自分ハ當然關係アルモノトシテ直ニ身體ノ拘束ヲ受ケルカラ、
  彼等ノ爲ニ對策ヲ講ズルトシテモ大ナル期待ハ出來ナイコト、
二、兎ニ角事態ヲ速ニ収拾シ、内外ニ与ヘル惡影響ヲ出來ルダケ尠クスルコトニ努メ、
  一方ニ犠牲トナル若イ人達ノ志ヲ生カス様ニ努力スルコト、
等ヲ話シマシタガ、山口ト二人デ如何ナル工作ヲ爲スベキカニ附テ話合ヒマシタガ、
結局名案ヲ得ルニ至ラズ、何トカセネバナラヌト云フダケデ抽象的話ニ止マリ 結論ニ達セズ、
御互ヒニ考ヘテ置ク事ニシテ、近イ内ニ會ヘタラ今一度會見スル事ヲ約束シテ歸リマシタ。」

「 二月二十二日ト思ヒマス。村中孝次ガ來タ時、私ハ栗原、安藤等ト會見シタ事ヲ話シ、
 『 君等ハ何ウスルカ 』 ト尋ネマシタ処、村中ハ、
一、自分等ハ一緒ニ行ク決意デ居ルコト、
一、香田大尉等ト陸相ニ談判ニ行ク考デアルコト、
等ヲ話シマシタ。
私ハ、香田大尉ハ純情ナ眞面目ナ人ダト思ツテ居リマシタノデ、
同大尉ガ此事ニ參加スル事ヲ意外ニ思ヒ、更ニ尋ネ返シマシタ処、
『 香田大尉ハ、現狀ヲ斷乎トシテ打開セネバ日本ハ全ク行詰ツテ居ルトノ意見デ、相當強硬デアル 』
ト云フ事デアリマシタ。
既ニ安藤然リ、村中然リ、香田然ルヲ知リ、私ハ今更ノ如ク驚キマシタ処、
村中ハ却テ私ニ對シ參加ヲ求メマシタガ、私ハ拒絶シマシタ。ソシテ、
『 現役軍人側ノ人ガ此形勢デハ致方ナシトシテモ、君等 ( 村中、磯部 ) ガ加ハルコトハヨクナイ 』
ト忠告シマシタガ、肯キ入レサウニモナク、一昨年以來の鬱憤モアラウト考ヘラレ、最早致方ナシト諦メマシタ。
村中迄ガ斯ノ如キ始末デハ、私トシテハ最早他ニ処置ナシト思ヒマシタガ、村中ノ今迄ニ似合ハヌ態度ヲ意外ニ感ジマシタ。
二月二十四日頃、聯隊ノ山口大尉カラ閑ガアルカラ來ナイカト云フ電話ガアリ、
同日午後七時半カ八時頃歩兵第一聯隊ニ山口大尉ヲ訪問シマシタ。
週番指令室デ雑談ノ末、『 連中ガヤルトスレバ、今週中デアルラシイ 』 トノ事デアリマシタノデ、私ハ山口ニ、
『 判ツタラ直グ知ラシテ貰ヒタイ。
 私ノ方ニ電話ヲ掛ケル譯ニモ行カヌダラウガ、出來得レバサウシテ一刻モ早ク知ラシテ貰ヒタイ。
私ノ立場上困難デハアルケレドモ、何トカシテ早ク収拾ノ出來ル様ニ努力スル。
一、二ケ所頼ム所モアルカラ、サウシテ貰ヒタイ。
又アナタハアナタノ立場モアリ、本庄大將ノ方ヘ知ラサネバナルマイ 』
ト申シ、約一時間位デ別レテ歸リ、途中新宿デ酒ヲ飲ンデ其ノ晩十二時頃歸宅シマシタ。
私ガ一、二ケ所頼ム処モアルト申シタノハ、海軍中將小笠原長生 元外交官藤井實 ノコトデ、
藤井ヲ通シテハ、平沼騏一郎方面ニ連絡シテ貰フ考デアリマシタ。
歸宅シテ見ルト、机ノ上ニ置手紙ガアリマシタ。
夫レニ依ルト、
『 二月二十六日朝ダト都合ガ宜イト言ツテ居リマス 』
ト云フ意味ノ事ガ書イテアリ、
磯部ノ字デアリマシタノデ、愈々二十六日朝蹶起スルコトガ判明シマシタ。
直グ床ニ入リマシタガ、色々ノ事ガ考ヘ出サレテ、其ノ夜ハ一睡モ出來ズニ過シマシタ。
翌二十五日午前中、私は來客と話シテ居ルト、磯部淺一ガ來テ、一寸部屋ヲ貸シテ呉レ、
此所デ落合フ人ガアルカラト申シ、暫クスルト澁川善助妻ガ來テ別室デ話シテ居リマシタ。
私モ後カラ挨拶ノ爲其ノ室ニ行クト、磯部ガ、澁川ニハ湯河原ヘ視察ニ行ツテ貰ツテ居ルト申シタノデ、
其ノ時澁川ガ妻君ニ手紙ヲ託シテ、視察ノ狀況ヲ聯絡ノ爲ニ來タ事ヲ知リマシタ。
澁川ハ二月二十日頃ヨリ突然私方ヘ顔ヲ見セナイ様ニナツタノデ、不思議ニ思ツテ居リマシタガ、
右ノ事情デ始メテ諒解シタノデアリマス。
然シ、澁川モ參加スルト思ツタノデ、磯部ニ對シ、
『 現役軍人ガヤルノダカラ、澁川迄引張リ出スノハ宜クナイ。 夫レダケハ止メテクレヌカ 』
ト申シタ処、磯部ハ承知シマシタノデ、
私ハ早速澁川宛
『 軍人側ノスル事ニ我々地方人ハ無関係デアリ、没交渉デナケレバナラヌト思フカラ、
 君ハ今日中ニ東京ニ歸ツテ貰ヒタイ。歸ツタラ直ニ電話デ連絡セヨ 』
ト言フ趣旨ノ手紙ヲ書キ、澁川ノ妻ニ宅シマシタ。
同日午後村中ガ來マシタガ、
附近ニ怪シイ者ガウロツイテ居ルトカ申シ、ソハソハシテ居リマシタノデ、
同日夕刻龜川方デ落合フ事ニシテ、何モ話ヲシナイデ別レマシタ。」

「 二月二十五日午後六時頃麻布區龍土町龜川哲也方ニ行キマシタ処、
既ニ村中孝次ガ來テ居ツタノデ、
三人で話ヲシマシタ。其ノ内ニ村中ガ 『 愈々明朝蹶起スルコト 』 ヲ話シ、
之カラ床屋ニ行クト申シテ歸ラウトシマシタガ、
龜川ガ弁當ヲ取ツテアルカラ一緒ニ食ツテ行ケト申シ、三人デ會食シマシタ。
其ノ時ノ私ノ氣持ハ、村中トハ之ガ最後ノ別レデハナイカト思ヒ、悲壮ナ感ニ打タレテ居リマシタ。
間モナク村中ハ立去リマシタガ、此時村中ハ龜川ヨリ、兵ノ弁當代トシテ千五百円貰ツテ行キマシタ。

私ガ今回ノ事件ヲ事前ニ推知シタ顚末ハ、大體以上ノ様デアリマス。」

(4)  事件発生を確知した西田の心情
( 「 四 問  推知シタ結果、被告人ハ如何ナル決心ヲシタカ 」 )
「 私ハ村中ノ話ヲ聞キ、最早明カニ他ニ処置ナキ事ヲ考ヘマシタガ、
 私ノ從來ノ主義方針トシテハ、何ウシテモ之ニ同意スル事が出來ナイノデ、
寧ロ 『 勝手ニシロ 』 ト云フ放任的ナ氣持ニナリマシタ。
然シ、此人達トノ平素ノ人情ニ於テ、斯クナル上ハ事態ノ惡化防止、
且 出來ル限リ彼等ノ志ニ理解アル収拾ヲセネバナラヌト念願シ、
出來ルダケ之ニ向ツテ努力スル事ガ彼等ニ對スル私ノ情誼デアリ、
且 國家ノ爲デアルト決心シマシタ。
從テ、彼等ガ中止セズトシテモ、此儘ニ之ヲ官憲ニ密告又ハ宣傳スルダケノ勇氣ハ出マセヌデシタ。
同時ニ、世間ハ從來ノ誤解ト 『 デマ 』 トニ依ツテ、
若シ之ガ未然ニ暴露スレバ其ノ責任者ハ私デアルト言フデアラウシ、
決行すれば無關係デアツテモ私ガヤツタトシテ、捕縛サレル事ハ明カデアリマシタ。
然ラバ斷乎決意シテ、寧ロ先頭ニ立ツベキカト申シマスト、之コソ私ニトツテ最モ至難トスル所デアリマス。
私ハ私ノ理論方針、換言スレバ信念ニ附テハ、
如何ナル犠牲ヲ拂ツテモ捨テナイ性格的ナ點アルコトヲ自覺シテ居リマスガ、
其ノ半面ニ己レノ同意シ能ハザル事ニハ、放任的態度ヲトルト云フ性格ノアル事ヲ自覺シテ居リマス。
從來私自身ノ拂ツテ來タ幾多ノ犠牲ハ、皆如上ノ性格カラ出發シテ居ルト云フ事ヲ自覺シテ居リマス。
結局私ハ、
一、事前ニ抑止スル事ハ出來ナカツタ、自分ハ放任看過スルヨリ外ニ途ナカツタコト、
一、己レノ信念意外ノ事ニハ斷ジテ同意デキズ、參加モ出來ヌコト、
一、事前ニ暴露、告訴等ノ事ハ情誼上斷ジテ出來ヌコト、
一、仍テ、爾後ニ對シ事態ノ収拾ヲ速ニシ、事態ノ惡化ヲ防止シ、彼等ノ精神ヲ生カス方法ニ於テ事態ヲ収拾シ、
  彼等ノ目的ヲ達成サセテヤル爲ニ、能フ限リノ努力ヲ拂フコトガ自分ノ情誼デアルコト、
等ノ決心ヲシタ次第デアリマス。
然シ、彼等ガ蹶起スレバ、
私ハ彼等ト關係ガ有ルト無イトニ拘ラズ、自由ヲ拘束サレルト思ツテ居リマシタノデ、
速ニ身ヲ隠シ、逃ゲラレルダケ逃ゲテ、
其ノ間彼等ノ爲ニ出來ルダケノ外部工作ヲシテヤリタイト考ヘタノデアリマス。」

(5) 考えていた外部工作
 ( 五 問  如何ナル工作ヲスル筈デアツタカ 」 )
「 二月二十日前後頃ヨリ同月二十五日頃迄ノ間ニ、山口大尉ヤ龜川哲也ト寄々相談シタ結果、
一、若イ人達ガ尊敬シテ居リ、且 相當ナ判斷力、實行力アリト思ハレル眞崎大將、柳川中將ノ様ナ人達ニ依ツテ、
  速ニ事態ヲ収拾シテ頂ク様ニ盡力スルコト、
二、山口大尉ハ、公私ノ關係ヲ辿リ本庄大將其ノ他陸軍ノ上層部ニ對シ努力スルコト、
三、龜川哲也ハ、眞崎大將、山本英輔大將等ノ方面ニ對シ努力スルコト、
四、私ハ、小笠原中將其ノ他方面ニ對シ努力スルコト、
等ニ意見ガ一致シマシタ。
然シ、私ハ何時捕マルカ判ラナイノデ、
私ニハ多クヲ期待シナイデ、
主トシテ山口、龜川ニ於テ盡力シテ貰フヨリ外ナイト考ヘ、
兩人ニ其ノ事ヲ御願シテ置キマシタ。」


39 研究ノート 二・二六事件北・西田裁判記録 (二) 『 予審訊問調書2 』

2016年08月26日 16時03分34秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第38号 ( 1994年 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一)
松本一郎

一  はじめに

二  二 ・二六事件北 ・西田の検挙
三  捜査の概要
1  捜査経過の一覧
2  身柄拘束状況
3  憲兵の送致事実
4  予審請求事実 ・公訴事実
四  北の起訴前の供述
1  はじめに
2  検察官聴取書
3  警察官聴取書
4  予審官訊問調書  ( 以上第三八号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

獨協法学第39号 ( 1994 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎
五  西田の起訴前の供述
1  はじめに
2  警察官聴取書
3  予審訊問調書
4  西田の手記  ( 以上本号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第40号 ( 1995年3月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 三 )

六  公判状況
 はじめに 
 第一回公判  ( 昭和11年10月1日 )
 第二回公判  ( 昭和11年10月2日 )
 第三回公判  ( 昭和11年10月3日 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第41号 ( 1995年9月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 四 ・完 )

 第四回公判 
( 昭和11年10月5日 )
 第五回公判  ( 昭和11年10月6日 )
 第六回公判  ( 昭和11年10月7日 )
 第七回公判  ( 昭和11年10月8日 )
 第八回公判  ( 昭和11年10月9日 )
 第九回公判  ( 昭和11年10月15日 )
 第一〇回公判  ( 昭和11年10月19日 )
 第一一回公判  ( 昭和11年10月20日 )
 第一二回公判  ( 昭和11年10月22日 )
 第一三回公判  ( 昭和12年8月13日 )
 第一四回公判  ( 昭和12年8月14日 )
むすび  ( 以上四一号 )

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五  西田の起訴前の供述
3  予審訊問調書

(六)  昭和一一年六月一二日付第四回被告人訊問調書
五四丁に及ぶ長大な本調書では、二月二五日以後の西田の行動が詳細に述べられている。
次に第二から第一七までの問答のうち、重要な部分を摘錄する。
二  問  二月二十五日、龜川哲也ガ村中孝次ニ資金ヲ供給シタ顚末、及被告人ト龜川ト上部工作ニ附協議シタ顚末ヲ詳細ニ述ベヨ
 答  龜川ハ、從來ヨリ久原房之助ヲ非常ニ偉イ人デアルト褒メ、次ノ内閣ニハ久原ヲ出サネバナラヌト申シ、
  私ハ久原ナンカ問題デナイト申シテ、一笑ニ附シテ居ノマシタ。
青年將校ノ情勢ガ愈々切迫シ、押ヘ切レナイ狀況ニ在ツタ頃デ二月二十日前後頃、私ハ亀川ト其ノ情勢ヲ話シ、
彼等ハ君側の奸ヲ除クト云フ事ヲ専ラ主張シテ居ルノデアルカラ、其ノ主張ヲ生カシテ、
爾後ノ建設工作ニ付テハ我々ガ外部ニ於テ努力シテ遣ラネバナラヌト云フ趣旨ノ事を話合ヒ、
兎ニ角事態ヲ速ニ収拾スルニハ、適當ナ内閣ヲ速ニ組織セネバナラヌ、
夫レニハ臺灣軍司令官ノ柳川中將ガ適任デアルト思フガ、遠方デ間ニ合ハナイカラ、
眞崎大將ガ宜シイダラウト云フ話ヲ致シマシタ。眞崎内閣ト云フ事ニ附テハ、龜川モ同感デアリマシタ。
其ノ後二月二十五日夕方龜川方ニ行キ、村中ト龜川ト私ノ三人ガ夕食ヲ共ニシタ時ノ話ハ、前ニ申シタ通リデアリマス。
食事ヲ終ツテ村中ガ私ト龜川ニ對シ、「 デハ後ノ事ヲ宜シク頼ミマス 」 ト申シテ玄關迄歸リカケタ際、
龜川ハ村中ニ、「 金ガ有ルカ 」 ト尋ネタ処、
村中ハ夫レヲ勘違ヒシテ、「 大シタ事ハ無イガ、少シ位ナラ持ツテ居ルカラ差上ゲマセウカ 」 ト申シマシタ。
龜川ハ、「 無クナツタラ何ウスルノカ 」 ト申シマスト、
村中ハ、「 無クナツタラ、必要ガ゛アレバ財閥カラ献金デモサセマセウ 」 ト申シ、
龜川ハ、「 ソンナ事ヲシテハイカヌ、兎ニ角モ一度部屋迄歸レ 」 ト申シ、再ビ座敷ニ引返シマシタ。
ソシテ龜川ガ 「 兵ノ數ハドノ位ニナルカ、幾何位要ルカ 」 ト尋ネ、
村中ガ、「 約八ケ中隊位デアル 」 ト申スト、
龜川ハ、
「 カウ云フ仕事ニ懸賣シタリ徴發シタリスルノハイカヌカラ、現金拂ニシテ奇麗ニシテ置カネバナラナイ。
 今日金ガ出來タカラ、之ダケ持ツテ行ツテクレ 」
ト申シ、十円紙幣デニ千圓差出シマシタ。
最初ハ、村中モ私モ要ラヌト言ツテ斷リマシタガ、龜川ハ兎ニ角持ツテ行ケト喧シク申シ、
村中ハ受取ツテイイカ惡イカ一寸困ツテ居ル様デアリマシタカラ、
私ハ、「 折角ダカラ好意ダケ受ケル事ニシテハ何ウカ、半分貰ツテ行ツタラ何ウカ 」 ト申シ、
千圓ダケ受取ラセマシタ処、
龜川ガ更ニ、「 夫レデハ足ラヌデアラウ、モウ五百圓持ツテ行ケ 」 ト勧メマシタノデ、
合計千五百円を村中ガ受取ツテ歸リマシタ。
私モ村中ト一緒ニ歸ラウトスルト、龜川ガ引止メタノデ私ハ後ニ殘リ、龜川ト二人デ話シマシタ。
其ノ際、龜川ハ殘リ五百圓ヲ私ニ持ツテ行ケト勧メマシタガ、私ハ
「 ドウセ捕マル身體デアルカラ金ハ要ラナイ。夫レヨリ君ノ方ガ主トシテ働イテ貰ハナケレバナラヌカラ、必要デアラウ 」
ト申シ、結局百圓ダケ貰ヒマシタ。
其ノ時龜川ト話シタ要領ハ、
一、最モ速カニ事態ヲ収拾スル爲ニハ、眞崎大將、山本大將、小笠原中將等ニ聯絡シテ御願ヒスルコト、
二、龜川ノ主張ニ依リ 即日収拾、即日大赦ニナラネバナラヌ、
  即日大赦ニシテ貰ハナケレバ時局ハ収拾出來ナイカラ、其ノ方針ニテ工作スルコト、
三、眞崎大將ヤ山本大將ニハ龜川ガ聯絡シ、小笠原中將ニハ私ガ聯絡スルコト、
四、明朝ニナレバ、市内ノ要所要所ハ官憲ガ警戒シテ動キガトレナクナルデアラウカラ、
  其ノ以前ニ早ク飛出シテ迅速ニ聯絡スル必要ガアルコト、
等デアリ、尚私ハ龜川ニ對シ、
「 若イ者ガ事ヲ起セバ、關係ノ有無ニ拘ラズ直ニ捕ヘラレル虞レガアリ、
 其ノ點ニ於テハアナタヨリ私ノ方ガ危險デアルカラ、後ノ工作ニ附テハアナタノ方デ十分努力シテ貰ヒタイ。
決行ガ判レバ速ニ知ラシテ貰ヒタイ。
夫レニ依ツテ、私ハ一時身ヲ隠ス事ニナルカモ知レヌガ、居所ガ定マレバ聯絡ヲスル。
又小笠原ノ方ヘハ、何トカシテ聯絡シテ御願ヒスル事ニスル 」 ト申シ、龜川ハ承知シテクレマシタ。

三  問  村中ハ、日本銀行カ三井銀行カラ献金サセタラ宜イ、ト龜川ニ申シタノデハナイカ
 答  財界カラ献金サセタラ宜イト申シタ様ニ思ヒマスガ、
  或ハ三井銀行ヤ日本銀行カラ献金サセタラ宜イ、ト申シタカモ知レマセヌ。
其ノ點 判然記憶シテ居リマセヌ。


四  問  二月二十五日、龜川方ヲ辭去シテカラノ行動ヲ述ベヨ
 答  龜川方ヲ辞去シテ同日午後八、九時頃北一輝方ニ立寄リ、
一、千坂海軍中將邸ニ通夜ニ行クコト、
一、龜川哲也ヨリ千五百圓都合シテ貰ツタコト、
一、山口大尉ニハ本庄大將ニ知ラセル様ニ話シタコト、
一、自分ハ小笠原子ニ御願ヒシテ見ル存念ナルコト、
等ヲ話シテ後一旦歸宅シ、午後十一時頃千坂閣下ノ御宅ニ通夜ニ行キマシタ処、
同夜ハ身内ノ者計リデ通夜スルトノコトデアツタノデ、暫ク拝シテカラ辭去シ、歸宅シマシタガ、
氣ガ落着カナイノデ北方ニ電話ヲ掛ケ、
「 ソチラニ行ツテモ差支ナイカ 」 ト聞キマシタ処、
來イト云フ返事デアリマシタノデ、
同夜、即 二月二十六日午前一時頃、
家人ニハ 「 今夜は歸ラナイカラ 」 ト言ヒ置イテ、北方ニ行キマシタ。
北方ニ行ツテ間モナク、澁川善助ヨリ電話ガ掛リマシタノデ、私ノ言ヲ容レテヨク歸ツテクレタト思ヒ、安心致シマシタ。
ソシテ私ハ澁川ニヨク歸ツテクレタト申シマシタ処、澁川ハ、
「 歸ル汽車中デ、偶然豊橋ノ對馬中尉ヤ竹嶌中尉等ト一緒ニナツタガ、
 汽車中ノ事トテ詳シク話ハ出來ナカツタガ、豊橋ノ狀況ガ變化シタ爲ニ上京シタ様デアル 」
ト申シマシタノデ、豊橋部隊デ西園寺公ヲ襲撃スル計劃ニ齟齬ヲ來シタ爲、對馬等ガ上京シタノデアラウト想像シマシタ。
ソシテ尚澁川ニ對シ、
「 君ハ決シテ彼等ノ仲間へ飛び込ンデ行ツテハナラヌ。明朝愈々蹶起スル様デアルガ、判ツタラ直グ知ラシテクレ 」
ト申シテ電話ヲ切リ、
北ニ對シ西園寺襲撃ヲ中止シタ様デアル旨ヲ話シマシタ。
処ガ二十六日午前五時頃、澁川ヨリ電話デ、
「 先程ヨリ歩一、歩三カラ軍隊ガ澤山出テ行キマス 」
ト通知シテ來タノデ、愈々始マツタカト思ヒ、感慨無量デアリマシタ。
夫レカラ澁川ニ一寸來テ貰ヒ、二人デ朝食ヲ食ベナガラ、
御互ニ無關係デモ平素ノ關係ヨリ唯デハ濟ムマイト思フカラ、身邊ニヨク注意スルコト、
ヲ話シテ置キマシタ。



五  問  其ノ後二十六日中ノ行動ヲ述ベヨ
 答 ( 前略 )
  私ハ先ヅ小笠原中將ニ電話ヲ掛ケ聯絡シヤウトシマシタガ、
不在トカ話中トカデ容易ニ聯絡ガ出來ズ、漸ク三度目位ニ聯絡ガ出來マシタ。
其ノ時ハ、同日午前九時過頃カラ十時頃ト思ヒマス。
私ハ、
「 トウトウ陸軍ノ青年將校達ガ今朝蹶起シタ様デスガ、既ニ御承知ノ事ト思ヒマス。
 最早斯クナツタ以上ハ致方ガアリマセヌカラ、
一時モ早ク此事態ヲ収拾シテ貰フ様、閣下ノ御力添ヲ御願ヒシタイ、
兵隊モ澤山出テ居ルノデアリマスカラ 」 ト云フ意味ノ事ヲ御願ヒシマシタ処、小笠原中將ヨリハ、
「 ヨク判リマシタ。何トカ私モ考ヘテ、出來ルダケノ事ヲシテ見マセウ 」
ト云フ返事デアリマシタ。
( 中略 )
其ノ後ノ狀況ヲ知ル爲ニ、赤澤ガ私ノ宅ニ電話ヲ掛ケテ見タ処、
「 今 栗原君カラ電話ガ掛リ、西田ガ捕ツタカト云フ事ヲ尋ネテ來タ 」
トノコトデアリマシタ。
又、栗原ハ首相官邸ニ居ル事ガ判リマシタ。
當時寒クハアルシ、雪ハ降ルシ、兵隊モ可愛サウダト考ヘ、
彼等ハ何ウシテ居ルカト心配ニナツタノデ、私ハ栗原ニ電話ヲ掛ケテ、
「 雪ハ降ツテ寒イシ、兵隊達ノ食物ハ何ウシテ居ルカ 」
ト尋ネルト、栗原ハ、
「 糧食ハ、聯隊ノ方カラ持ツテ來テ呉レルカラ心配ハナイ 」 ト申シ、尚
「 岡田首相ハ殺害ノ目的ヲ遂ゲタガ、非常ニ苦戰デアツタ 」
ト申シ、大變元氣ナ様子デアリマシタ。
栗原ハ其ノ時、一度狀況ヲ見ニ來ル様ニ勧メマシタガ、私ハ行キ度クナイト言ツテ電話ヲ切リマシタ。
( ・・・リンク → 西田税 2 「 僕は行き度くない 」  )
( 中略 )
同日夕方頃、私ハ豫テ指導ヲ受ケテ居ル先輩、東京市赤坂区青山高樹町 元外交官藤井實ニ電話ヲ掛ケ、
小笠原中將ニ御願ヒシタト同様ナ事ヲ頼ミマシタ処、
藤井ハ時局ヲ非常ニ心配シテ居ル様ナ風デアリ、何トカ考ヘテ見ルトノ返事デアリマシタ。
又、木村病院カラカ、北方カラデアツタカ只今覺ヘテ居リマセヌガ、
龜川哲也ニ電話ヲ掛ケマシタ処、龜川ハ同日朝早ク眞崎大將方ニ行キ、
更ニ鵜澤博士方ニ立寄リ、鵜澤ヲ興津ニ遣ツタトノ事デアリ、
同日夕方頃ニ興津ヨリ歸ツテ來ルトノ話デアリマシタ。
其ノ時私ハ、龜川ガ既ニ西園寺襲撃中止ノ事ヲ知ツテ鵜澤ヲ興津ヘ遣ツタノデアルト思ヒ、
其ノ機敏ナ事ニ感服シマシタ。
又、満井中佐ノ宅ヘ電話ヲ掛ケマシタガ、不在ノ爲聯絡ガ出來マセヌデシタ。
結局二十六日ノ行動ハ以上ノ様ナ狀況デ、
徒ラニ氣バカリ焦ツテ何ウスル事モ出來ズニ過ギテ了ツタノデアリマスガ、其ノ儘北方ニ滞在シ、
同月二十八日飛出ス迄、同家ニ身ヲ隠シテ居ツタ次第デアリマス。


六  問  二月二十七日朝、龜川ト會見シタル顚末ヲ述ベヨ
 答  其ノ前日二十六日ニ龜川哲也ガ眞崎大將宅ニ行ツタ時ノ狀況ト、
鵜澤博士ガ興津カラ歸ツタ狀況ヲ知リ度イト思ヒ、
 又 前日來ヨリ私ノ方デ聞イタ情報ヲ話シテ、今後ノ對策ニ就イテ協議シタイト考ヘマシタノデ、
二月二十七日朝龜川ニ電話ヲ掛ケマシタ処、遠クテ話シ難ツタ爲、
午前六、七時頃龜川哲也ガ來マシタノデ、「 パン 」 ヲ焼イテ朝食ヲ摂リナガラ話シマシタ。
其ノ時龜川ノ話デハ、
一、眞崎大將ニ會ツタガ、同大將ハ大變狽ヘテ居ツタ、
一、同大將ニハ後刻聯絡スル必要ガアルカラ、自宅ニ待ツテ居ツテクレト頼ンデ置イタガ、
  同大將ハ昨二十六日午前八時頃家ヲ飛出シテ了ツテ其ノ後會ヘナイコト、
一、西園寺ノ方ハ鵜澤博士ニ行ツテ貰ツタガ、
  鵜澤博士ガ大勢ヲ述ベタ事ニ對シテ、西園寺ハ何モ意見ヲ述ベナカツタラシイコト、
一、石原大佐、橋本大佐、満井中佐ナドガ帝國ホテルニ邂逅シ、後繼内閣ニ附策動シテ居ルコト、
一、石原大佐ハ東久邇宮殿下ヲ首班トスル皇族内閣ヲ主張シ、橋本大佐ハ建川中將ヲ出スト主張シ、
  満井中佐ハ久原房之助ヲ此際有力ナ位置ニ出サネバト主張シテ居ルコト、
等デアリマシタ。私ハ龜川ニ對シ、前日來聞イタ情報ヲ話シテ遣リマシタ。
龜川ガ帝國ホテルノ話ヲ持出シタノハ歸リ掛ケタ頃デアリ、私ハ龜川ノ歸リヲ見送リナガラ、
「 石原ハ相變ラズ下ラヌ事ヲ言ツテ居ル様デアルガ、皇族内閣ナドト云フ事ハ國體上カラ見テモ宜シクナイ。
 橋本ガ建川ヲ持出スノハ、青年将將等ガ、三月事件ヤ十月事件ノ責任者ヲ處分セヨト要求シテ居ル蹶起ノ趣旨ニモ反シテ居ル。
又満井ガ久原ヲ持出ス事ハ、普通ノ改變ノ場合ナレバ兎ニ角トシテ、此非常ナ騒ギデ生レル政變ニハ問題ニナラナイ。
久原ノ如キ不純ナ札附ノ政治家ハ、斷ジテ不可デアル 」 ト申シ別レタノデアリマス。
尚、私ハ龜川ニ對シ、
「 アナタノ主張シテ居ル即日収拾ハ不能ト爲リ、遂ニ一晩延ビテ了ツタカラ、
 早ク何トカシナケレバナラヌ 」 ト申シマシタガ、
龜川ハ 「 アア疲レタ 」 ト言ツテ暖炉ニアタリ、ウツラウツラシテ居リ、
此時ノ會見ハ何等得ル所ナク、約一時間位話シタ後歸ツテ行キマシタ。


七  問  二月二十七日栗原、村中、磯部等ニ電話ヲ掛ケタ状況ヲ述ベヨ
 答  二月二十七日午前中ニ、首相官邸ニ居ル栗原安秀ニ電話ヲ掛ケマシタ処、栗原ヨリ、
「 一、牧野襲撃ニ行ツタ者ハ、箱根山ニ逃込ンダトカ死ンダ者ガアル等ノ噂ガアルガ、
  事實実デアルカ否カ確メタ処、運転手ガ歸ツテノ話デハ牧野殺害ノ目的ヲ達シタ様デアルガ、
少人數ノ爲相當苦戰デアツタラシク、其ノ爲ニ同志ニ負傷者ヲ出シタガ、別館ニ放火シタトノコト、
一、蹶起部隊ハ戒嚴令下ニ編入サレ、其ノ儘原位置ニ居ツテモイイ様ニ諒解ガ出來タコト、
  食料モ聯隊カラ運ンデ居ルコト、
一、蹶起軍ノ行動ヲ認メタ趣旨ノ大臣告示ガ出タコト、
一、襲撃目標岡田、高橋、齋藤、渡邊ハ完全ニ殺害ノ目的ヲ達シタコト、
一、二月二十六日夜軍事參議官全部ト蹶起部隊將校等ト會見シ、希望ヲ出シタガ、
  陸軍上層部ノ人々ハ話ガヨク判ラナイ様デアルト云フコト、
栗原ハ右會見ニハ出席シンカツタガ、事態ノ収拾ヲ柳川中將ニ一任スルコトヲ自分ガ主張シタノデ、
其ノ會見ノ際ニ他ノ者カラ右ノ意見具申ヲシタコト
等ヲ聞キマシタ。
私ハ栗原ニ對シ、
一、内閣ハ總辭職ヲシ、後藤内相ガ臨時總理大臣代理ニナツタコト、
一、事態収拾ノ爲柳川中將ヲ持出スノモイイガ、此際速ニ収拾スル爲ニハ、
  眞崎大將邊リニ上下共ニ萬事ヲ一任スル様ニ一同相談シテハ何ウカト云フコト、
一、ヨク新聞デモ見テ、同志ハ互ニ聯絡ヲ保ツテ、意見ノ喰違ヒヲ來サナイ様注意スルコト、
  等ヲ申シテ置キマシタ。
其ノ後村中孝次ニ電話ヲ掛ケ、栗原ニ申シタト同様ナ事ヲ話シマシタ処、
村中ハ、
一、蹶起將校ハ、内部ガ硬軟二派ニ分レテ意見ガ纏ラナイト云フコト、
一、部隊ハ、今迄居ツタ所ヲ大部引上ゲテ終結シテ居ルコト、
一、硬派ノ者等ハ、陸軍省、參謀本部ノ幕僚ヲ襲撃スルト主張シテ居ルノデ、之ヲ押ヘルノニ骨ヲ折ツテ居ルコト、
一、強硬ナ意見ヲ持ツテ居ルノハ、安藤、磯部等デアルコト、
一、兵ヲ給養サセル爲ニ宿営地ヲ捜シテ居ルガ、適當ナ候補地ガ無イノデ困ツテ居ルコト、
等ノコトヲ申シマシタノデ、
其ノ後更ニ磯部淺一 ニ電話ヲ掛ケマシタ処、同人ハ、
「 我々ハ尊皇義軍デアル。最初カラ反亂軍タルコトハ覺悟ノ上デ蹶起シタノデアルカラ、
 今更奉勅命令ガ出ルトカ出ナイトカ云ツテ脅カサレテモ、引込ム譯ニ行カナイ。
最後迄頑張ル心意デアル 」
ト非常ニ強硬ナ意見ヲ述ベマシタノデ、
私ハ 「 ヨク考ヘテヤレ 」 ト申シテ置キマシタ。
其ノ後同日午後四時頃、更ニ私ハ首相官邸ノ栗原安秀ニ對シ電話ヲ掛ケ、
一、海軍軍令部總長宮殿下ガ參内セラレタコト、
一、陸軍首脳部ガ集ツテ相談シテ居ル様デアルガ、小田原評定ノ様デアルコト、
一、君達ハ戒嚴部隊ニ編入セラレ行動シイ居ル形ニナツテ居ルノデアルカラ、
  此上二重三重ニ君達ヲ脅カス様ナ奉勅命令ガ出ル筈ハナイカラ、此上共シツカリヤレト云フコト、
一、或新聞記者カラ聞ク所ニ依ルト、全国各地カラ目下澤山ノ激励電報ガ來テ居ル様デアルガ、
  皆戒嚴司令部ニ押収サレテ居ルラシイコト、
等ヲ話シテ遣リマシタ処、栗原ハ大變喜ンデ、最後ノ一兵迄モ戰フト申シテ居リマシタ。
尚、其ノ時栗原ハ、
一、華族会館ヲ占據ニ行ツタ処二十名位ノ華族ガ居ツタノデ、
  之等ニ對シ蹶起ノ趣旨ヲ説明シ、質問ハナイカト言ツタラ、其ノ内ノ一名ガ内閣ノ首班ハ誰ガイイカト尋ネタノデ、
我々ハ大權ヲ私議スル譯デハナイガ、此事態ヲ収拾スルニハ眞崎大將邊リガ適任デアルト思フト答ヘテ遣ツタコト、
一、赤坂溜池附近デ、民衆ニ對シテ蹶起ノ趣旨ヲ演説シタコト、
一、眞崎、阿部、西三大將ト蹶起將校ト會見シ、事態ノ収拾ヲ眞崎大將ニ一任スル旨申上ゲタ処、
  眞崎大將ハ、俺ハ何トモ言ヘナイガ、オ前達ハ早ク引上ゲテクレナイカト云フ話デアリ、
阿部、西兩大將ハ、蹶起將校ノ意見ガ一致スレバ、自分達ハ極力努力スルト言ハレタト云フコト、
一、田中国重大將、江藤源九郎少將等ガ來テ、激励シテ行カレタト云フコト、
一、四天王中將ガ戒嚴司令官ト會ヒ、蹶起軍ヲ決シテ討伐シナイ意思ヲ確カメ、其ノ事ヲ知ラセテクレタコト、
等ノコトヲ話シマシタノデ、私ハ、
一、民衆ニ對シテ、蹶起ノ趣旨ダケヲ説明スル程度ナラバ無難デアルガ、
  煽動的ナルト却テ世間カラハ君等ノ純情ヲ疑ハレテ、結果ハ面白クナイカラ、其ノ邊ハ十分注意ガ必要デアルト云フコト、
一、早ク蹶起將校一同ノ意見ヲ取纏メ、又軍事參議官一同ガ眞崎大將ヲ推立テテ進ンデ行ク様ニスル必要ガアルコト、
等ヲ申シテ矢理リマシタ。

八  問  同日夕方頃龜川ト會見シタル顚末ヲ述ベヨ
 答  龜川ニ御經ノ文句ヲ話シ、且栗原其ノ他ヨリ聞イタ情報ヲ話シテ、
  今後ノ對策ヲ講ズル爲ニ、電話ヲ掛ケテ來テ貰ツタノデアリマス。
龜川ハ同日午後六、七時頃來マシタ。
ソシテ、「 陸軍首脳部ニハ時局収拾スルニ足ル人物ハ居ナイカラ、
海軍ノ山本英輔閣下ヲ後繼内閣ノ首班トシテ行クコトニ定メタ 」 ト申シマシタガ、
私ハ、
「 今度ノ騒ギハ陸軍ガヤツタ事デアルカラ、此騒ギヲ取鎭メル爲ニハ陸軍カラ出テ貰ハネバナラヌ。
 期
セズシテ我々ノ意見モ蹶起將校等ノ意見モ、最初カラ同ジ方向ヲ向イテ居ルノデアルカラ、
此際海軍側カラ出ルノハ筋違ヒデハナイカト思フカラ、
此儘眞崎大將ヲ内閣ノ首班トシテ時局ヲ収拾スル方針デ進マウデハナイカ 」
ト申シ、尚
「 北一輝ノ靈感ニ、
 天下人無シ、勇將眞崎在リ、國家正義軍ノ爲號令シ、正義軍速ニ一任セヨ、
トアルノデ、其ノ事ヲ蹶起将將等ニ傳ヘ、同將校等ハ眞崎ニ一任シタ形ニナツテ居ルカラ、
今更山本大將ニ變更スルノハ宜クナイ 」 ト話シタ処、龜川ハ、
「 眞崎ハ家ヲ出タ儘デ偕行社ニ居ルサウデアルガ、少シモ聯絡ガ出來ナイノデ困ツテ居ル 」
ト申シ、私ハ、
「 山本大將ハ同ジ軍事參議官デアルカラ、同大將ニ随行シテ行クカ、
 或ハ其ノ他ノ手段ヲ採ツテ聯絡ヲシタラ何ウカ 」
ト申シ、龜川ハ、
「 夫レデハサウシマセウ 」 ト申シテ居リマシタ。


九  問  同日夜村中孝次ガ北方ニ來タトノコトデアルガ、其ノ時ノ狀況ヲ述ベヨ
 答  時間ハ記憶アリマセヌガ、當夜午後七、八時頃龜川ト話シテ居ル際、村中ガ突然來タノデ、
  私ハ意外ニ感ジ、且 再ビ會ヘナイダラウト覺悟シテ居ツタ同人ト會フ事ガ出來テ、感慨無量ノ體デアリマシタ。
ソコデ、私ト北、龜川、村中ノ四人が一座ニシテ、村中ニ對シテ今迄ノ經過ニ附、
物珍ラシク色々尋ネタリ、聞イタリ致シマシタ。
其ノ時村中ハ、
一、二月二十六日朝陸軍大臣官邸ニ行ツテ、大臣ト會見シタ模様、
一、蹶起部隊ハ戒嚴司令部ノ隷下ニ編入セラレタコト、
一、戒嚴司令官ト面接シテ、此儘現占據地ニ留ツテ居ツテ宜イト云フ諒解ヲ得タコト、
一、先輩同僚ガ多數來テ激励シテクレルノデ、同志將校等ハ非常ニ心強ク思ツテ居ルコト、
一、今朝陸軍省、參謀本部等ニ兵力ヲ終結シテ、幕僚ヲ襲撃スルコトヲ安藤、磯部、栗原等ガ言ヒ出シタガ、之ヲ阻止シタコト、
一、眞崎、阿部、西三大將ニ會見シ、眞崎大將ニ時局収拾ヲ一任スルコトヲ要望シ、大體其ノ方針デ進ンデ居ルコト、
一、新議事堂附近ニ兵ヲ終結スルコトハ地形偵察ノ結果不可デアルノデ、
  戒嚴司令官ニ其ノ儘留ツテ居ツテモ宜イカト尋ネタ処、同司令官カラ其ノ儘デ穏クリ給養シテ宜イト言ハレタコト、
一、万平ホテル、山王ホテル等ニ居ル部隊ハ蹶起軍ナルコト、其ノ給与ハ部隊カラ受ケテ居ルコト、
一、奉勅命令デ現地ヲ撤退セシメ、命令ニ服從シナケレバ討伐スル等ノ噂ガアルト話シタラ、村中ハ、
  「 ソンナ筈ハ無イ、我々ノ行動ヲ認メタト云フ大臣告示ガ出テ居ルカラ 」
ト申シ、右大臣告示ノ内容ヲ説明シタコト、
等ヲ話シマシタ。
其ノ時龜川ガ、
「 奉勅命令ト云フガ、夫レハ天皇機關説ノ様ナコトデアル。
 ソレハ、袞龍ノ袖ニ隠レテ大御心ヲ私ニセントスル者ノ処業デアル 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ強調シタノデ、
私ハ、龜川ハ理論的ニ強イ事ヲ言フ人ダト感ジ、黙ツテ聞イテ居リマシタ。
其ノ時北カラモ、
「 早ク陸軍首脳部ノ意見ヲ纏メテ、時局収拾ニ努力スル必要ガアル 」
旨ヲ申シテ居リマシタ。
村中ハ、兵ノ敎育上何カ參考資料ハナイカト申シマシタガ、
何モ無イト申スト、約一時間位話シテ歸ツテ行キマシタ。


( 第一〇問省略 )
一一  問  二月二十七日、小笠原中將ニ電話ヲ掛ケタ狀況ヲ述ベヨ
 答  同日午後一時半頃、私ハ小笠原閣下ニ電話ヲ掛ケタ処、
  加藤寛治大將方ニ行ツテ居ラレル事ガ判リマシタガ、加藤大將ハ知ラヌノデ、
當時來合セテ居ツタ薩摩雄次ニ頼ンデ加藤方ヘ電話ヲ掛ケテ貰ヒ、
小笠原閣下ヲ呼出シテ私ガ電話ニ掛リ、
「 蹶起部隊ハ小藤部隊ノ隷下ニ入ツタトノ事デアルガ、
 彼等ハ昭和維新ノ目的ガ貫徹スル迄ハ斷ジテ撤退セヌト強硬ナ態度デアリ、
此儘放任シテ置ケバ事態ハ益々惡化スルカラ、速ニ収拾スル様ニ御盡力ヲ願ヒタイ。
又蹶起シタ青年將校等ハ、眞崎大將ヲ推ス希望ヲ有シテ居リマスカラ、御考慮ヲ願ヒタイ。
又兵隊ガ澤山參加シテ居ルガ、之等ニ對シテハ不問ニ附シ、満洲ニ行ツテ御奉公サセル様ニデモナレバ、
ウマク収拾ガ出來ルカト思フカラ、宜シク願ヒマス 」
ト申シ、又
「 蹶起軍ト陸戰隊シ競リ合ヒガ始マリサウナ噂モアルガ、
 蹶起軍ハ既ニ戒嚴司令官ノ隷下ニ入リ、警備ニ任ジテ居ル形ニナツテ居ルノデ、
彼等トシテハ陸戰隊ト競リ合フ意思ハ毛頭ナイノデアルカラ、其ノ様ナ事ニ立至ラヌ様海軍ノ方ヲ押ヘテ貰ヒタイ 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ御願ヒシマシタ処、小笠原閣下ハ、「 ヨク判リマシタ、出來ルダケノ事ハ盡力致シマス 」
トノ事デアリマシタ。


一二  問  同日山口一太郎大尉ニ電話ヲ掛ケタ狀況ヲ述ベヨ
 答  同日、時刻ハ忘レマシタガ、夕方頃歩兵第一聯隊ニ電話ヲ掛ケ、山口大尉ニ對シ、
「 聯隊長、旅團長、師團長其ノ他先輩將校等デ多少共蹶起將校ニ理解ある人々ニ、
 蹶起將校等ノ氣持ヲ解ツテ貰フ様ニ工作シ、上下一致シテ速ニ事態ヲ収拾サレル様ニ、一層努力シテ貰ヒタイ 」
ト云フノコトヲ申シマシタガ、山口大尉ハ當時大變忙シサウニシテ居リ、話ノ途中デ、
隊長ニ呼バレテ居ルカラ後刻又電話デ話サウト申シテ、切ツテ了ヒマシタ。
其ノ儘デ、山口大尉ト聯絡ハ出來マセヌデシタ。


一三  問  後継内閣ニ就テ、石原大佐、橋本大佐、満井中佐等ガ帝國ホテルデ會見シタル際、
  龜川及村中モ出席シテ協議シタコトヲ龜川ヨリ聞イタノデナイカ
 答  龜川ヤ村中迄モ帝國ホテルニ顔ヲ出シテ協議シタ事ハ、聞テ居リマセヌ。
  龜川ハ、其ノ様ナ事ハ尠シモ申シマセヌデシタ。


一四  問  帝國ホテルデハ、結局海軍ノ山本大將ヲ後繼内閣ノ首班ニ推シ、
時局ヲ収拾シテ貰フ事デ協議ガ成立シ、  村中ヲ招致シテ部隊ヲ速ニ撤退スルコトヲ勧メタ処、
村中ハ、個人トシテハ大體同意ナルモ、事ハ重大デアルカラ同志一同ト協議セネバナラヌシ、
又西田ニモ相談セネバナラヌト答ヘタルニ、龜川ガ西田ノ方ハ自分ガ引受ケルト申シタノデ、
夫レデハ一同相談ノ上、速ニ部隊ヲ引上ゲル様ニスルカラト言明シテ歸ツタトノコトデアリ、
其ノ後龜川ハ帝國ホテルニ於ケル右會見ノ顚末ヲ被告人ニ話シタ処、
被告人ハ非常ニ憤慨シ、其ノ案ハマルデブチ壊シダ、一體發案者ハ誰デアルカ、
村中ハ承諾シタカト申シタトノコトデアルガ、如何
答  其ノ様ナ事ハアリマセヌ。
  矢張リ前申シタ通リデアリマス。
龜川ハ、自身帝國ホテルニ出席シタコトハ勿論ノコト、村中ガ行ツタト云フ事モ全然話シテ居リマセヌシ、
其ノ様ナ口吻モ無カツタノデアリマス。
尤モ、後繼内閣ニ附皇族内閣トカ、建川ヲ出ストカ、久原ヲ出ストカノ意見ガアツタト申シマシタノデ、
私ハ一々噛ンデ吐キ出ス様ニ反對意見ヲ述ベタル爲、
龜川ハ私ノ權幕ニ怖レテ、遂ニ言ヒ出シ得ズシテ歸ツテ行ツタノデハナイカト思ヒマス。
山本内閣ノ事ハ、二十七日夕刻頃龜川ト二度目ニ會見シタ際、龜川カラ出タ話デアリマスガ、
夫レニ對シ眞崎ヲ推シテ行ツタ方ガ宜イト言フテ反對シタ顚末ハ、既ニ申上ゲタ通リデアリマス。

一五  問  北ノ靈感ニ出タ 「 國家人無シ、勇將眞崎アリ云々 」 ノ事ハ
  栗原、磯部、村中ニ通知シタトノコトデアルガ、其ノ事情ヲ述ベヨ
 答  夫レハ二月二十七日朝北ノ靈感ニ、
  國家人無シ、勇將眞崎アリ、國家正義軍ノ爲ニ號令シ、正義軍速ニ一任セヨ。
ト現ハレタトノ事デ、北ハ私ニ對シ、
早ク彼等ニ知ラシテ眞崎ニ一任スル様ニ注意シテ遣レト申シマシタノデ、
同日栗原、磯部、村中ニ夫々電話ヲ掛ケタ際、
「 君等ガ二月二十六日軍事參議官ト會見シタ際、臺灣ノ柳川中將ヲ以テ次ノ内閣ノ首班トシ、
 時局収拾ヲ一任シタイト要求シタトノコトデアルガ、十日モ二十日も要スル遠イ人ノ事ヲ考ヘズニ、
此際眞崎ニ總テヲ一任スル様ニシタラ何ウカ。
夫レニハ、軍事參議官ノ方々モ一致シテ眞崎ヲ擁立テテ行ク様ニ、御願ヒシテ見タラ何ウカ 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ忠告シテ遣リマシタ処、
孰レモ、夫レデハ同志一同協議ノ上、其ノ方針デ進ム様ニスルト申シテ居リマシタ。


一六  問  二月二十八日ノ行動ヲ述ベヨ
 答  私ハ前日迄ノ情勢ヲ顧ミテ、
  事態ノ収拾ハ容易ニ出來ナイ模様デハアルガ、
蹶起部隊ハ戒嚴部隊ノ隷下ニ入リ、原位置ニ停ツテ居ル事ヲ承認セラレ、
更ニ夫々會見シテ相談ガ進メラレテ居ル事、
尚眞崎大將ニ一任スルト云フ意見モ申出テ居ルノデアルカラ、
事態ハ惡化スル事ナク此儘ノ空氣ノ間ニ早ク纏ツテ貰ヒタイモノダト念願シテ居リマシタ処、
同日正午前栗原中尉ヨリ電話デ、
「 山下少將、鈴木大佐等カラ自決セヨト勧めメラレ、其ノ決心ヲシテ別レノ最中デアル 」
ト知ラシテ電話ガ切レテ了ヒマシタ。
私ハ事ノ意外ニ驚イテ更ニ電話ヲ掛ケ、漸ク栗原ト話ス事ガ出來テ其ノ事情ヲ尋ネ、
夫レハ皆ノ意見カト聞イテ見マシタガ、「 自分等二、三人ノ若イ者ダケノ意見デアル 」
トノ事デアリマシタノデ、私ハ
「 何事モ早マツテハナラヌ。 ヨク皆ト相談ノ上爲サレル事ガ大切デアル。
上下ヨク一致シテ、生キルモ死ヌモ一緒ニシタラ宜カラウ 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ忠告シテ遣リマシタ処、北モ私ノ後同様ノ趣旨ヲ忠告シテ居ツタ様デアリマシタ。
同日午後ニナツテ、戒嚴部隊ガ蹶起部隊ヲ愈々討伐スルト云フ噂ガ出マシタ。
又、奉勅命令ヲ以テ斷乎トシテ彈壓ノ処置ヲトルト云フ噂モ聞キマシタノデ、
其ノ事情ヲ確メタイト考ヘ、電話デ色々聯絡ヲトツタ結果、同日午後四時カ五時頃ニ漸ク栗原ニ聯絡ガツキマシタノデ、
其ノ眞否ヲ確メマシタ処、栗原ハ
「 左様ナ事ハ聞イテ居ラヌ。何モ變ツタ事ハナイ。自分達ハ今迄通リノ態度デ居ル 」
トノ事デアリマシタ。
私ハ、
「 陸軍ノ首脳部ハ弱腰デ何ウモ態度ガ判然決マラナイ様デアルガ、
 新聞ヲ見ルト今朝軍令部總長宮様モ御參内セラレ、皇族方ノ御會議モアル様ダシ、
一方海軍側ハ相當シッカリ纏ツテ來テ陸軍側ヲ支援スル事ニナツテ居ル様デアリ、
情勢ハ今一息ト云フ所デアルカラ、萬事將校諸君ガ御互ニヨク聯絡ヲ取リ、意思ノ疎通スル様ニシツカリ意見ヲ纒メ、
上層部ニ對シ早ク話ヲ決メルヨウニシテクレト交渉スル事ガ必要デアル 」
トノ趣旨ノ事ヲ申シテ遣リマシタ処、栗原ハ
「 自分達ノ決心ハ堅ク纏ツテ居ルカラ、心配ハ要ラナイ。
 萬万一奉勅命令デ討伐スル様ニ事ニナレバ、最後ノ一人ニナル迄決戰ヲ覺悟シテ居ル 」
ト申シ、非常ニ強硬ナ態度デアリマシタ。
私ハ更ニ、
「 兎ニ角、ヨク皆ノ意見ノ一致ヲ計ル様ニセヨ 」
ト云フ意味ノ事ヲ申シマシタガ、栗原ハ私ノ云フ事ガ氣ニイラヌ風デアリマシタ。
尚私ハ、二十七日ニ薩摩雄次ニ來テ貰ツテ、
「 青年將校等ハ、眞崎大將ニ總テヲ一任スル事ニ意見ガ一致シタ様デアルカラ、
 陸軍上層部ノ意見モ眞崎大將ニ一任スル様ニ纒マル様ニ、海軍側カラ支援シテ貰ヒタイト云フ趣旨ノ事ヲ、
海軍ノ加藤大將ニ電話デ御願ヒシテクレ 」
ト依頼シ、薩摩ハ右ノ趣旨ヲ加藤大將ニ電話デ聯絡シタ筈デアリマスガ、
二十八日ニモ薩摩ヲ呼ンデ、同趣旨ノ事ヲ更ニ加藤大將ニ御願ヒシテ貰ツタ様ニ思ヒマスガ、
之ハ確カナ記憶デハアリマセヌ。
薩摩ハ、加藤大將ト同県ノ者デアリ、常ニ親シク出入シテ居ツタ様デアリマスカラ、
海軍側ノ意見ヲ纏メテ貰フ爲ニ努力シテ貰ツタノデアリマス。
同日ハ、右ノ如ク只管眞崎大將ガ出馬シテ早ク時局ヲ収拾シテクレル事ヲ念願シテ居リマシタガ、
陸軍上層部ノ意見ガ容易ニ纏ラナイ模様ナルコトヲ想像シ、北ト共ニ成行キヲ心配シテ居リマシタ処、
同日午後五、六時頃憲兵ガ北ニ面會ヲ求メ、亂暴ニ家ノ中ニ入ツテ來タノデ、薩摩ガ憲兵ヲ二階ニ案内シ、
北ガ二階ニ行ツテ會見シテ居ル間ニ、咄嗟ノ考デ私ハ庭ニ出テ裏門ヲ越ヘテ逃出シマシタ。
途中デ下駄、帽子ヲ買求メ、淀橋附近ノ圓タクヲ拾ヒ、
新宿ニ出テ青山ヲ經テ何所ヘ向カウカト考ヘナガラ更ニ麻布ヲ過ギ、新橋方面ニ向ヒ、
更ニ新橋カラ通ヲ通ツテ殘草雷門ニ出テ自動車ヲ降リ、少シ歩イテカラ再ビ圓タクニ乗リ、
同日午後十時頃巣鴨ノ木村病院ニ行キマシタ。
岩田ハ不在デ、佐々木某ト云フ書生ガ一人居リマシタノデ、簡單ニ事情ヲ話シ、
病院ニ居ツテモ迷惑ヲ掛ケルトイケナイガ、何所カユツクリ休ム所ハナイカト話シマスト、佐々木ハ
「 私ノ家ハ妻モ實家ニ行ツテ居ルシ、誰モ居ナイカラ不自由デアルガ、夫レデモ宜シケレバ二、三日御休ミニナツタラ 」
ト申シテクレマシタノデ、同人ノ家ニ行ク事ニ定メ、直ニササキノ案内デ牛込區喜久井町ノ同人宅ニ行キ、
同人ハ直ニ病院ニ引返シマシタノデ、其ノ晩ハ私獨リデ寝マシタ。

一七  問  二月二十九日以後ノ行動ヲ述ベヨ
 答  二月二十九日ハ終日佐々木方ニ引籠ツテ居リマシタガ、
  同日正午頃赤澤良一ガ訪ネテ來マシテ號外ヲ見セテ貰ヒ、
青年將校等ガ叛軍トサレテ討伐ヲ受ケル狀況ニ陥ツテ居タ事ヲ知リ、非常ニ驚キマシタガ、
此場合自分トシテハ最早如何トモスル事ガ出來ズ、天ヲ仰イデ嘆息シタ次第デアリマス。
其ノ後叛軍ハ帰順シ、解決シタ事ヲ知リマシタ。
當初カラ國憲ニ反抗シタ異種ノ兵變デアリマスカラ、其ノ決着スル運命ハ明カデハアリマシタ。
其ノ故ニ私モ之ニ反對シ、押ヘ様トシテ來タノデアリマス。
夫レニモ拘ラズ強行シテ、最後ニ遂ニ來タルベキ所ニ到達シタノデアリマスカラ、
已ムヲ得ヌ事トハ申シナガラ、痛恨今更ノ如キ深刻ナモノガアリマシタ。
同日ハ赤澤ト二人一緒ニ居リマシタノデ、聊いささカ寂寥ヲ慰メラレマシタ。
翌三月一日モ終日佐々木ノ家ニ引籠リ居リ、色々考ヘナガラ一日ヲ過シ、赤澤ト共ニ同家ニ泊リマシタ。
同月二日、既ニ木村病院ニ警察ノ手ガ廻ツテ、此家モ危險デアルコトヲ赤澤ガ聞イテ來タノデ、
同日朝赤澤ノ案内ニ依リ、下谷區谷中初音町ノ安下宿ノ一室ニ聯レテ行カレ、
赤澤ガ他ニ適當ノ場所ヲ見附ケテ來ル間待ツテ居テクレト申シタノデ、同室デ待ツテ居リマシタ。
此室ノ下宿人ハ、赤澤ノ友人佐藤某デアル事ヲ聞イテ居リマシタガ、
同日夕方頃佐藤ガ歸ツテ來タノデ、私ハ初對面ノ挨拶ヲシマシタ。
夜遅クナツテカラ赤澤ガ歸ツテ來マシタガ、
「 今日ハ都合ガ惡イカラ明日行ク事ニシマスカラ、今夜ハ此所ニ寝テ貰ヒマス 」
トノ事デアリマシタ。
赤澤ハ再ビ出掛ケテ行キ、私ハ佐藤某ト其ノ室デ一夜ヲ明カシタノデアリマス。
同月三日赤澤ガ來レカト待ツテ居リマシタガ、同人ハ來ラズ、午後ニナツテ赤沢ノ友人ダト云フ丹羽某ガ訪ネテ來マシタ。
同日夕方頃ニナツテモ赤澤ガ來マセヌノデ、丹羽ノ案内デ渋谷區若木町角田某ト云フ家ニ行キ、其ノ晩ハ同家ニ泊リマシタ。
同月四日朝、未ダ寝床ニ入ツテ居ル間ニ警視庁ノ方ガ來テ、遂ニ連行サレタ次第デアリマス。
確カ、同日午前五時半頃デアツタト記憶シテ居リマス。

二月二十八日逃走後ハ、一回モ蹶起將校等ニ聯絡スル機會ハアリマセヌデシタ。
始終追ハレル様ナ氣持デ、落着カナイ日ヲ送ツタニ過ギマセヌ。
三月二日頃、谷中初音町ノ安下宿ニ居ル間デアツタト思ヒマス。
私ハ本籍地ノ實弟、大阪宇治山田等ニ居ル姉等ニ手紙ヲ書キマシタ。
夫レハ、事件ガ起キテ心配シテ居ルダラウケレドモ、自分ノ事ハ心配ヲ要シナイコト、
及三月十日亡父亡弟ノ供養ヲ營ム爲歸郷スル筈デアツタガ、自分ハ到底歸郷出來ナイト思フカラ、
皆デ適當ナ方法ヲ相談シテ營ンデ貰ヒタイコト、等ノ通信デアリマシタ。
又、小笠原閣下、松平紹光大尉ニモ手紙ヲ書キマシタ。
夫レハ、自分トシテハ最早如何トモスル事ガ出來ナイカラ、此上ハ先輩ノ皆様ノ御盡力ニ依ツテ、
蹶起シタ青年將校ノ志ヲ生カス様ニシテ貰ヒタイト云フ通信デアリマス。
尚、其ノ外、私ノ先輩ノ大久保留次郎 原田政治ニモ手紙ヲ書キマシタ。
大久保ニハ、事件ニハ關係ナイガ、自分ノ立場上暫ク歸ラヌカラ、留守宅ノ方ヲ宜シク頼ムト云フ意味、
又原田ニハ、世間政事ノ事ハ自分ノ希望諒察セラレテ、然ルベク努力シテ貰ヒタイト云フ意味ノ通信デアリマシタ。
以上ノ手紙ハ、投函シテ貰フ様ニ頼ンデ、小笠原閣下宛ノ分ハ丹羽五郎ニ、其ノ他ノ分ハ赤澤良一ニ渡シテ置キマシタ。

二月二十九日以後ニ於ケル私ノ行動ハ、大體以上ノ様ナモノデ、
私トシテハ逃ゲ隠レスル事ノミニ心ヲ奪ハレ、之ト云フ工作モ致サズ、
我ナガラ其ノ卑怯ナ態度ヲ顧ミテ、恥スシク感ジテ居ル次第デアリマス。


39 研究ノート 二・二六事件北・西田裁判記録 (二) 『 予審訊問調書3 』

2016年08月24日 05時48分05秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第38号 ( 1994年 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一)
松本一郎

一  はじめに

二  二 ・二六事件北 ・西田の検挙
三  捜査の概要
1  捜査経過の一覧
2  身柄拘束状況
3  憲兵の送致事実
4  予審請求事実 ・公訴事実
四  北の起訴前の供述
1  はじめに
2  検察官聴取書
3  警察官聴取書
4  予審官訊問調書  ( 以上第三八号 )
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獨協法学第39号 ( 1994 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎
五  西田の起訴前の供述
1  はじめに
2  警察官聴取書
3  予審訊問調書
4  西田の手記  ( 以上本号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第40号 ( 1995年3月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 三 )

六  公判状況
 はじめに 
 第一回公判  ( 昭和11年10月1日 )
 第二回公判  ( 昭和11年10月2日 )
 第三回公判  ( 昭和11年10月3日 )
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獨協法学第41号 ( 1995年9月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 四 ・完 )

 第四回公判 
( 昭和11年10月5日 )
 第五回公判  ( 昭和11年10月6日 )
 第六回公判  ( 昭和11年10月7日 )
 第七回公判  ( 昭和11年10月8日 )
 第八回公判  ( 昭和11年10月9日 )
 第九回公判  ( 昭和11年10月15日 )
 第一〇回公判  ( 昭和11年10月19日 )
 第一一回公判  ( 昭和11年10月20日 )
 第一二回公判  ( 昭和11年10月22日 )
 第一三回公判  ( 昭和12年8月13日 )
 第一四回公判  ( 昭和12年8月14日 )
むすび  ( 以上四一号 )

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(七)  昭和一一年六月二六日付第五回被告人訊問調書
本調書も、第一問答から第四〇問答までの五一丁に及ぶ膨大ナモノデ、
外部工作の共謀関係ト事件関係者との交際関係についての追求を主な内容とする。
なお、本調書に登場する杉田省吾と宮本正之は、いずれも反乱罪 ( 陸軍刑法二五条二号後段 )、
満井佐吉は叛乱幇助罪 ( 同法三〇条 ) で起訴サレ、杉田は禁錮一年六月 ・執行猶予四年、宮本は禁錮一年六月、
満井は禁錮三年の各刑に処せられている。
以下、主要な部分を紹介する。
( 第一問答 省略 )
二  問  二月二十六日午後九時頃、杉田省吾ニ電話ヲ掛ケ、民間側同志ノ採ルベキ態度ニ附話シタノデナイカ
答  杉田ニ電話ヲ掛ケタ事ガアル様ニ思ヒマス。
  夫レハ、杉田ハ右翼團體方面ニ行キ、蹶起軍ニ握飯ノ炊出ヲシテ感謝ノ意ヲ表スル爲盡力シテ居ル、
ト云フ事ヲ澁川ヨリ電話デ知ラセテ來タノデ、私ハ杉田ニ電話ヲ掛ケ、
「 火事場ノ野次馬ノ様ニ騒ギ立テル事ハ宜クナイ。
 ( 中略 )
民間側各團體ハ團體毎ニ纏ツテ、從來ノ主義方針ニ基キ適當ニ善処スレバ宜イノダ 」
ト申シ、戒メテ置キマシタ。
尚、蹶起軍ヲ革命軍ト言ツテ居ル様デアリマシタカラ、革命軍デハナク正義軍デアルト説明シテ遣リマシタ。


三  問  二月二十七日杉田ト會見シタル顚末ヲ述ベヨ
答  同日午後一時頃、杉田ヨリ是非會見シタイト云フ電話ガアリマシタガ、
自分ハ出ラレナイカラ北一輝宅デ會見スル事ヲ約束シテ置キマシタ処、同日午後四時頃來マシタ。
其ノ時杉田ハ、
「 今回ノ事件ハ、昭和維新實現ノ爲ニハ極メテ重要性ヲ有シテ居ルガ、
 此犠牲ヲ無駄ニシナイ様ニ、各方面ニ聯絡ヲ取ツテ支援スル事ガ必要デアル。
夫レニハ相當ノ資金ヲ要スルト思フガ、某方面ヨリ或程度ニ纏ツタ金ヲ出シテモ宜イト云フ事ガアルガ、
夫レハ自分ノ友人ノ先輩デアルガ、一度會ツテ見テクレナイカ 」 ト云フ趣旨ノ事ヲ申シマシタ。
私ハ
「 俺ハ人前ニ出ルノモ嫌デアルシ、又資金ノ事ハ考ヘテ居ナイカラ、君達ノ方デ適當ニヤツタラ宜カラウ 」
ト申シ、斷ツテ置キマシタ。
其ノ時杉田ハ、此際一般愛國團體ハ、如何ナル行動ニ出タラ宜イカト尋ネマシタノデ、
私ハ、兎ニ角今度ノ事件ハ、善カレ惡シカレ普通人ノ出來ナイ思ヒ切ツタ事ヲヤツタノデアルカラ、
之ヲ無駄ニシナイ爲ニハ、
一、從來敵味方ニ分レ、雑多ニ存在シテ居ル愛國團體ヲ一掃シテ、一ツノモノニ結合スル必要ガアルコト、
二、而シテ維新ヲ促進スル爲、廣イ範囲ノ國民運動ヲヤルコト、
三、以テ直ニ理想的ノ維新内閣ヲ望ムト云フ譯ニ行カナイカラ、先ヅ維新ニ近ヅイタ準備的ノ内閣ノ出現ヲ望ム様ニ努力スルコト、
等ノ三点ヲ主張シ、尚青年將校等ハ、時局収拾ニ眞崎大將ヲ推シテ居ル事ヲ説明シテ遣リマシタ。
其ノ時杉田ハ、今迄ニ判明シテ居ル確實ナ情報ヲ尋ネマシタノデ、
當時新聞ニモ眞相ガ發表サレズ、色々ノ 「 デマ 」 ガ飛ンデ、夫レガ爲却テ間違ツタ行動ニ出テハナラヌカラ、
杉田ノ知ツテ居ル民間側ノ各方面ニ知ラセテ遣ツテクレト依頼シ、便箋紙ニ、
一、蹶起ノ理由
  之ハ蹶起趣意書ヲ見レバ判ル、趣意書ハ三六社デ五、六万部印刷シタトノ事デアルカラ、貰ツテ來タラヨイ。
二、占據地点
  首相官邸、陸軍省、參謀本部、警視庁
三、決行部隊
  歩一  香田、栗原、林等ノ率ユル約三中隊
  歩三  野中、安藤等ノ率ユル約六中隊
  近歩三  中橋等ノ率ユル約一中隊
  其ノ他、河野、對馬、竹嶌、村中、磯部等ノ將校約二十名、
  下士官以下合計約二千名ナルコト、
四、決行部隊ハ二月二十六日警備司令部發表ニ依リ、現地域ヲ占據ノ儘編入セラレ、
  又二十七日戒嚴令ノ發表ト共ニ、現地占據ノ儘戒嚴令下ニ編入セラレタコト、
五、其ノ他判明シタ各種ノ情報
等ヲ説明シナガラ、鉛筆書ニシテ渡シテ遣リマシタ。


四  問  右ノ情報ヲ印刷シテ、各方面ニ配布スル様ニ命ジタノデナイカ
答  君ノ知ツテ居ル民間同志ニ知ラシテクレト、申置キシマシタ。
  其ノ後二十八日ニ、赤澤ガ印刷シタモノヲ持ツテ來マシタノデ見タ処、
内容ガ扇動的ニナツテ居ツタノデ私ハ不快ニ感ジマシタ。
( 第五ないし第八問答省略 )

九  問  泰助事赤澤良一トノ關係如何
答  赤澤ハ、北一輝方ノ書生ヲシテ居ツタ事ガアリ、其ノ後私ノ方ニモ出入シ、
  敏捷びんしょうニ立廻ツテ何呉トナク世話シテクレルノデ、私ハ留守中ノ事ヲ頼ム心意デ、
二月二十五日ノ夕方私方ニ來テ貰ヒマシタ。
其ノ時私ハ
「 明早朝青年將校等ガ蹶起スルカモ知レヌガ、
青年將校等ト自分ノ從來ノ立場上、關係ノ有無ニ拘ラズ蒼イノデ、暫ク家ヲ留守ニスルカラ留守中ヲ頼ム 」
ト依頼シ、其ノ夜遅ク北一輝方ニ行ク際モ、自宅ヲ出テ圓タクヲ拾フ迄一緒ニ來テ見送ツテクレマシタ。
其ノ翌二十六日木村病院ニ呼寄セ、爾來、陰ニ陽ニ私ノ爲ニ身ノ廻リノ世話ヲシタリ、
又各方面ニ聯絡シテクレマシタ。


( 第一〇ないし第一二問答省略 )

一三  問  軍隊側ガ蹶起シテ斯ル大事件ヲ起シタ場合、
  平素被告人ニ出入シテ居ツタ民間側ノ者ガ集ツテ來テ、軍隊側ヲ支援スル爲彼是策動スル事ハ當然ノ事ト思ハレルガ、
之ニ對シテ如何ナル処置ヲシタカ
答  確實ナ情報ヲ知リタイ爲、私ノ処ヘ集ツテ來ル事ハ當然ノ事ト思ハレマスガ、
  當時私方ニ誰ガ集ツタカ、又集ツテ何ヲシテ居ツタカ全然承知シテ居ラナカツタノデ、
私ハ制止モセズ又指圖モセズ、放任シテ置キマシタ。


一四  問  福井、澁川、加藤、赤澤其ノ他ノ者ガ被告人方ニ集合シテ、
  大眼目カラ昭和維新第一報乃至第三報ノ發行、蹶起趣意書及大詔渙發ノ請願書等ノ印刷、
地方ノ同志トノ聯絡等ヲ爲シ、軍隊側ヲ支援スル爲種々策動シテ居ツタ様デアルガ、
之ハ被告人ノ指令ニ基イテヤツテ居ツタノデナイカ
答  私ハ始終北一輝方ニ居リマシタノデ、私ノ留守宅デ彼等ガ何ヲヤツテ居ツタカ、全然承知シテ居リマセヌ。
  二月二十六日ニ赤沢ガ二、三部印刷物ヲ持ツテ來タノデ、始メテ承知シタノデアリマス。


一五  問  三月二日下谷ノ下宿ニ滞在中丹羽五郎ト會見シタ際、被告人ハ
「 今度ノ事件ハ蛤御門ノ事變ノ様ナモノデ、夫レダケ日本トシテハ二度ト繰返シタクナイ。
 此次ハ、完全ナル維新ノ大キナ犠牲ヲ拂ヒタタクナイ 」
ト申シ、又
「 平生自分ノ所ヘ出入シテ、色々ト教ヘテ居ツタ若イ人達デコウシタ大事件ヲ起シタ事ニ附テハ、
 自分トシテハ感ジ過ギル程十分ナル責任ヲ感ジテ居ル 」
と云フ事ヲ話シタトノ事デアルガ如何
答  当時其ノ様ナ考デ居リマシタノデ、其ノ通リノ事ヲ話シタト思ヒマス。

( 第一六ないし第一八問答省略 )

一九  問  宮本 ( 筆者注、宮本正之を指す) ハ、昭和十年七月頃被告人ノ指示ニ依リ、
  金澤市ニ 「 天劔塾 」 ナル革新青年團體ヲ組織シ、維新斷行ノ際地方ニ於テ相呼應シテ蹶起スル別動隊タル爲ニ、
同志ノ獲得、啓蒙運動ニ努力シテ居ツタ様デアルガ如何
答  金澤市ニ 「 天剣塾 」 ト云フ革新團體ノアル事ハ、全然知リマセヌ。
  又、私ガ指示シテ左様ナ團體ヲ組織セシメタ事モ、覺ヘアリマセヌ。
夫レハ全ク人違ヒデナイカト思ヒマス。
元來私ハ、一定ノ生業ニ就キ眞面目ナ生活ヲ營ム者デナケレバ、
改造運動ヲヤツタトテ駄目ダト云フ信念ヲ持ツテ居リマシタ。
塾ト云フ様ナモノヲ作リマスト、其ノ經營資金調達ノ爲事實ヲ虚構シ、無理ヲスル事ニナリ、
從ツテ改造運動モ堕落スル事ニナリマスノデ、
私ハ此ノ意味ニ於テ、塾ヲ設ケテ改造運動ヲスル事ニハ反對デアリマシタ。


二〇  問  二月二十三日頃金澤ノ天剣塾ニ指令ヲ出シテ、東京ノ同志ト相呼應シ、
  蹶起スル手筈ニナツテ居ルト云フ事デアルガ如何
答  私カラ左様ナ指令ヲ出シタ事ハアリマセヌ。東京カラ左様ナ指令ガ出テ居ルトスレバ、
  夫レハ私ノ關係シタ事デナク、人違ヒデアルト思ヒマス。


( 第二一問答省略 )

二二  問  本年二月中旬頃龜川宅で、磯部 村中 満井 被告人 ( 西田 ) 等ガ會合シ、
  相澤公判ノ打合セヲシタ際、満井、磯部、被告人トノ間ニ次ノ様ナ問答ヲシタカ
此時豫審官ハ、被告人満井佐吉第二回予審訊問調書第十八、十九、二十問答ヲ讀聞ケタリ
答  相澤公判ガ始マツテカラ、龜川宅デ二回位會合シタダケデアリマスガ、
  夫レハ二月上旬カ中旬カヨク覺ヘテ居リマセヌガ、私ハ二回共遅ク出席シ、早ク歸ツテ、
相澤公判ノ打合セ以前ニ其ノ様ナ話ノアツタ事ハ、記憶ニ殘ツテ居リマセヌ。
尤モ、磯部ト満井トガ激論ヲシタコトヲ後デ聞イタ事ガアリマスガ、
如何ナル激論ヲシタカ、其の内容ハ聞イテ居リマセヌ。


二三  問  青年將校ガ蹶起シタ場合ニ満井中佐ガ如何ナル態度ニ出ルカヲ知ル爲ニ、
  磯部ト被告人トデ満井ヲ打診シタノデハナイカ
答  其ノ様ナ記憶ハアリマセヌ。
  尤モ、磯部ト満井ト激論シタ場合ニ、若シ私ガ其ノ様ナ事ヲ言ツタトスレバ、
夫レハ其ノ様ナ場合ニ兩者ヲ取做シテ仲裁ヲスル者ハ私ヨリ外ニナイト思ヒマスカラ、
其ノ意味デ二、三口ヲ利キ引分ケタカモ知レマセヌガ、記憶ニ殘ツテ居リマセヌ。


二四  問  被告人ト満井中佐トノ關係如何
答  私ハ、満井中佐トシツクリ合ハナイト思ヒマス。一昨年秋頃、
  満井の姪婿デ九州ノ護國軍ノ一派ニ關係シテ居ル私ト同姓ノ西田ト云フ者ガ、林陸相ノ所ヘ行キ、
「 陸相ガ起タネバ、護國軍ハ九州ノ青年將校ト一緒ニナツテ蹶起スルカモ知レヌ 」
「 本省カラ追ヒ出シタ満井ヲ、本省ニ歸シテ統制スル必要ガアル 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ進言シタトノ事ヲ、有末秘書官ヨリ聞イタノデ、私ハ満井中佐ニ對シ、
「 アナタガ西田某ヲシテ進言サセタ様ニ思ハレ、不穏当デアルカラ注意セネバナラヌ 」
ト忠告シテ置イタ事ガアリマス。
然ルニ満井中佐ハ、西田ハ 「 スパイ 」 ダトカ、西田ハ官憲ト通謀シテ居ルトカ、
西田ノ家ノ吸殻入ハ金デ出來テ居ルトカ、
九州ノ護國軍ハ自分が組織シタモノナルニ、西田ガ之ヲ撹亂シテ居ルトカ、
色々ノ 「 デマ 」 ヲ飛バシ始メタノデ、其ノ時以來私ハ同中佐ト絶交狀態デアリマシタ。
又満井中佐ハ、合法主義的ナ事ヲ常ニ口ニシテ居リマシタガ、
「 要スルニ維新ト云フ事ハ、鶏卵ガ割レテ中カラ雛ガ出テ來ル様ナモノダ 」
ト申シ、私ハ之ニ對シ
「 國家ノ革新ヲヤル時、即卵ノ殻ヲ破ツテ雛ガ出ル時、血ガ出ルカ出ナイカ 」
ト質問シテ論爭シタ事モアリマスガ、議論別レトナリ、満井中佐ガ相澤公判ノ弁護人トナル迄會ハズニ居リマシタ。
又、一昨年秋十一月事件ノ前頃ニ新宿ノ宝亭デ青年將校ガ宴會シ、( ・・・リンク → 栗原中尉と十一月二十日事件・・・末松太平 村中孝次 「 やるときがくればやるさ 」 )
栗原ガ岡田首相ノ額ヲ國賊ノ額ダト言ツテ外シタ事ガアリ、其ノ際モ出席シテ一席弁ジマシタガ、
別室ニ於テ私ヲ攻撃シタトノ事デ、當日同席シタ大蔵大尉ハ、憤慨シテ私ニ其ノ話ヲシテクレタ事ガアリマス。
又、満井ハ、「 僕 ( 満井 ) ガ出レバ維新ガ一遍ニ出來ルノダカラ、僕ノ云フ事ヲ聞イテツイテ來ル様ニセヨ 」
ト常ニ若イ者ニ對シ大言壯語シテ居ツタノデ、若イ者トノ間ニ精神的ニシツクリ合ハヌモノガアリマス。
夫レデ満井ハ、若イ者等ハ満井ノ云フ事ヲ聞カズ、私が云ヘバ何デモ聞クト思ツテ居ル様デアリマス。
以上ノ様ナ關係デアリマシテ、私ハ長イ間満井ト交ツテ居リマセヌデシタガ、最近相澤事件ノ事ヨリ、
私ハ相澤ノ爲ニ少シデモ刑ガ輕クナル様ニト思ヒ、虫ヲ殺シテ満井ト會ツテ居ツタノデアリマス。
満井ガ相澤事件ノ弁護人ヲ引受ケタ時、
「 僕ハヤルガ、若イ連中ガ飽キ足ラヌ點ガアルト言ヒ出シタ時、押ヘテクレルカ 」
ト申シ、私ハ
「 出來ルダケヤリマス 」 ト申シタ事ガアリマス。
又、二月中旬満井ト會ツタ時、
「 若イ連中ガ蹶起スルト云フ空氣ガアツタラ、押ヘテクレ。
 直接行動ハ何遍モ繰返サレテ居ルノデ、世間デハ嫌ガツテ居ルカラ、若イ聯中ニ氣ヲ付ケル様ニ注意シテヤツテクレ 」
ト言ハレ、私ハ「 相澤様カラモ其ノ様ナ事ヲ言ハレテ居ルノデ、十分注意シマセウ 」
ト申シテ置イタノデアリマス。
然シ、相澤公判ニ對シスル私ノ態度ハ、
相澤様ガ巷説ヲ信ジテ兇ニ出タモノデ無イト云フ眞相ヲ明カニシ、
少シデモ刑ヲ輕クシテ、其ノ精神ヲ世間ニ認メテ貰ヒタイト云フ氣持デ努力シテ居ツタノデアリマスガ、
満井中佐ハ相澤公判ヲ通シテ維新ノ氣運ヲ醸成シ、之ニ依ツテ一擧ニシテ軍ガ維新ニ邁進スル様ニ、
政治的工作ヲ考ヘテ居ツタ様デアリマス。
夫レハ相澤公判ノ始マル前頃ニ陸軍省ニ到リ、陸相其ノ他上層部ノ人ニ面會シ、
「 軍内ニ對立セル派閥ガ手ヲ握リ、擧軍一體トナツテ維新ニ前身スルカラ軍内ハ騒ガズニツイテ來イ、ト聲明セヨ 」
ト云フ趣旨ノ重大ナ進言ヲシタトノ事デアリマスガ、
右ハ満井ガ、軍内ノ政治的工作ニ依ツテ相澤公判ヲ解決セネバナラヌ、ト考ヘテ居ツタモノト想像シテ居リマシタ。


二五  問  小笠原長生トノ關係如何
答  「 ロンドン 」 條約ニ關聯シ統帥權干犯問題ノアツタ際、私ヤ北等ガ民間ニ於テ諸方面ヲ駆ケ廻リ、
  參考資料ヲ蒐集シテ小笠原子ニ提供シ、其ノ反對運動ニ強力シテ努力シタ關係デ、小笠原子ノ知遇ヲ得、
爾來時々訪問シテ各種ノ情報ヲ知ラセテ居リマシタ。
事件前ニ訪問シタノハ二月二十日頃ノ事デアリマス。
夫レハ相澤公判ニ附 荒木大將、阿部大將等ガ、先輩軍人ヲ公判廷ニ證人トシテ呼出ス事ハ宜シクナイ
ト主張シテ居ラルル事ヲ新聞デ知リ、又山口大尉カラモ聞イテ居リマシタノデ、
同大將等ノ考ノ間違ツテ居ル事ヲ指摘シ、合法的ニ軍内ヲ肅正スル手段トシテ是非必要デアル事ヲ話シ、
小笠原子カラ荒木大將ニヨク敎ヘテ頂ク事ヲ依頼シ、尚相澤公判ノ内容ノ事ヲ若干話合ヒマシタ。
其ノ時小笠原子ハ、
「 新聞デアナタノ直接行動反對方針デアル證言ノ掲載記事ヲ見テ、
 アナタノ立場ガ漸次明カニナツテ、私モ喜ンデ居マス 」
ト申サレタ事ヲ覺ヘテ居リマス。
又、其ノ時 「 陸軍ノ混沌タル現狀ヲ収拾シ得ル者ハ誰ト思ヒマスカ 」 ト尋ネラレ、
私ハ 「 柳川中將ト眞崎大將位デセウ 」 ト答ヘマシタラ、
小笠原子ハ 「 眞崎君ナラバ自分モ適任ト思フ 」 旨ヲ申サレマシタ。
其ノ他二、三ノ話ヲシテ歸リマシタ。
今回ノ事件ニ附テハ、事前ニハ何モ話シテ居リマセヌガ、事態ノ収拾ニ附海軍側ノ助力ヲ期待スル爲、
私ハ小笠原子ニ御願ヒスル考デ龜川ヤ山口大尉トモ其ノ事ヲ申合セ、
二月二十六日以後、二、三回小笠原子ト電話デ聯絡シタ事ハ、既ニ申上ゲタ通リデアリマス。


二六  問  北一輝ハ、被告人ガ今回ノ事件ニ附如何ナル態度ニ出ルカ懸念シ、
  事前ニ被告人ニ對シ、「 君ハ何ウスルノカ 」 ト尋ネタ処、被告人ハ沈痛ナ顔色ヲシテ、
「 今度ダケハ私ヲ止メナイデ下サイ 」 ト答ヘタノデ、
被告人ハ今回ノ事件ニ附蹶起將校等ト相結ビ、彼等ト運命ヲ共ニスベク決心シタモノト観察シ、
從來世間カラ妙ナ立場ニ置カレテ苦シンデ居ツタ被告人ノ胸中ヲ察シ、
被告人ノ申出デヲ承認シタト申シテ居ルガ如何
此時豫審官ハ、被告人北輝次郎第一回豫審調書第十一問答ヲ讀聞ケタリ
答  若イ者等ノ蹶起ノ決意ハ、最早我々一人ヤ二人ノ力デハ押ヘル事ガ出來ナイ程ニ進ンデ居ルカラ、
  アナタモ止メナイデクレト申シテ諒解ヲ得ル心意デアリマシタガ、言葉ガ足リナカツタ關係上、
北ハ、私ガ此事件ニ附直接若イ者等ト關係シ、
彼等ト運命ヲ共ニスベク決心シタモノト勘違ヒシタノデハナイカト思ヒマス。
率直ニ申上ゲマスト、從來青年將校等ガ年中病ノ様ニ時々 「 ヤル、ヤル 」 ト申シテ、
之ヲ押ヘルノニ蒼蠅クテ仕方ガ無カツタ位デアリマスガ、押ヘ、押ヘテ來タ処、
今回ハ栗原ヲ呼ンデ説得シタ処、其決心ノ固イ事ヲ知リ、
更ニ安藤ニ會見シタ処、沖モ押ヘ切リナイ情勢ニ進ンデ居ルコトヲ知ルニ及ビ、
私ハ其ノ去就ニ迷ツタノデアリマスガ、彼等ハ國家ノ改造又ハ建設等ノ事ニハ直接触レナイデ、
單ニ捨石トナツテ重臣 「 ブロック 」 ヲヤルトノ事デアツタノデ、ドウセ押ヘテ押ヘ切レナイモノナラ、
彼等ノ欲スル儘ニヤラセルヨリ外ニ仕方アルマイト思ヒ、
此爲ニ私モ多少ノ犠牲ヲ拂ハネバナラヌガ已ムヲ得ナイ事デアルト諦メマシタ。
然シ、青年將校等ハ純粋ナ気持デ蹶起スルノデアルカラ、民間側ノ同志ハ參加シテ貰ヒタクナイト思ヒマシタ。
而シテ蹶起シタカラニハ、其ノ結果ガ惡クナルトハ思ハズ、出來ル限リ好結果ヲ得サセル様ニ事態ヲ収拾シテ遣リタイ、
夫レモ私ノ立場上、極メテ短期間ニ其ノ処置ヲシテ置イテヤリタイト決心シタノデアリマス。
彼等ガ蹶起シタナラバ、早晩私ハ連レテ行カレル事トナリ、私ノ身ニモ變動ガ起ルデアラウカラ、
一應北ニモ話シテ其ノ諒解ヲ求メテ置ク必要ガアルト考ヘ、二月二十一日頃北ノ家ラ行ツテ、
簡單ニ右ノ事情ヲ話シタノデアリマス。
右の如ク最早押ヘ切レヌ情勢ナルコトヲ知ツテ、ヤルモノハヤラシテヤレ、
ヤリタイ事ハ思フ存分ヤラシテヤレト云フ氣ニナリマシタガ、
夫レト同時ニ、從來何カ事ガアツタ場合ハ自分ガヤラシタト言ハレ、
又事前ニ事ガ發覺スレバ私ガ密告シタト言ハレ、其ノ都度私ハ迷惑ヲ被ツテ不愉快ノ目ニ會ツテ來マシタノデ、
此機会ニ從來ノ惡宣傳ヲ一掃シタイト云フ氣ニモナリ、又今回ノ事件ガ萬一事前ニ暴露シタ場合ニハ、
從來ノ例ニ依リ世間カラハ私ガ暴露シタト見テ、之迄ノ例ト異リ、今回ハ内輪カラ暴露シタト笑ハレルノハ當然デアリ、
之ハ私トシテ忍ブベカラザル所デアリマスカラ、實ハ事件直前頃ニハ事前ニ發覺シナイ様ニ祈リ、
ドウカ營門ダケデモ出テクレタラヨイト云フ氣持ニナツテ居リマシタ。
右ノ様ナ複雑ナ氣持ヲ抱イテ焦ツテ居リ、此氣持ハ北ニ會ツタ時其ノ時々ニ話シタ筈デアリマスカラ、
北モ判ツテクレタモノト思ツテ居リマシタ。
實ハ、二月二十五日夜北方デ、北ハ北ノ親友岩田富美夫ニモ話シテ置イテハドウカト申シマシタガ、
私ハ事前ニ萬一暴露シタ場合私ノ立場ヲ考慮シ、彼等ガ蹶起シタ事ガ判ツテカラ話シタ方ガ宜イト申シテ、
止メテ置イタノデアリマス。


二七  問  今回ノ事件ニ參加シタ青年將校其ノ他デ、被告人ガ知ツテ居ル同志ヲ述ベヨ
答  香田大尉 安藤大尉 河野大尉 栗原中尉 坂井中尉 對馬中尉 中橋中尉
  田中中尉 村中孝次 磯部淺一 澁川善助
  等デアリマス。右ノ内村中、磯部、澁川、栗原、安藤等ハ、
特ニヨク其ノ性質ヲ知ツテ居ル間柄デアリマスガ、其ノ他ハ一、二回ノ面識ガアルダケデアリマス。
尚、野中大尉ノ事ハ事前ニ聞イテ居リマシタガ、
一度モ會ツタ事ガアリマセヌカラ、如何ナル性質ノ人デアルカ承知シテ居リマセヌ。
又民間側ヨリ參加シテモノデハ、水上源一トハ學生時代ニ一、二回會ツタ事ガアリマス。


二八  問  今回ノ事件ノ首脳者ハ誰カ知ツテ居ルカ
答  首脳者トシテ指導的立場ニ在ツタ者ハ、磯部 栗原 等デアリ、之等ガ急先鋒トナリ、
  之ニ 村中 香田 安藤 河野 等ガ引ズリ込マレタノデハナイカト観察シテ居リマシタ。


二九  問  北一輝ヤ被告人等ハ、國家改造運動ニ携ツテ居ル同志等ノ思想的中心デアルト認メラルルガ如何
答  日本改造法案ヲ信奉セル同志ニ對シテハ、
北ヤ私等ハ其ノ思想的中心デアルト申ス事ガ出來ルト思ヒマスガ、
  改造法案ヲ熟読玩味シ、其ノ根本理論ヲ體得シタ同志ハ多クナイト思ヒマス。
殊ニ青年將校等ハ、熱心ニ研究シテクレル者ハ尠ナイノデアリマス。
ヨク勉強シテ改造法案ノ根本理論ヲ研究理解シテ居ル者ハ、
和歌山ノ大岸頼好位ノモノデアルト私ハ思ツテ居リマシタ。
從ツテ、青年將校、殊ニ今回ノ事件ニ參加シタ青年將校等ハ、
思想的ト云フヨリモ、寧ロ感情的ニ結バレテ居ル點ガ多イト思ヒマス。
換言スレバ、等シク國家改造ヲ志シテ居ル者デモ、
感情的ニ對立シテ居ル大川周明一派 ( 即民間及軍人 ) ノ如キニ對シ、
所謂共同ノ敵ニ對スル防衛ト云フ意味ニ於テ、私ヤ北ガ其ノ中心トナリ、
又ハ往來ノ足溜リ場所トモナツテ居ツタノデアリマス。
右ノ意味ニ於ケル同志トシテノ中心デアル、ト見ルノヲ至當ト思ヒマス。


三〇  問  結局今回ノ事件ニ參加シタ同志等ノ中心トシテ、被告人ヤ北一輝等ガ策動シ、彼等ヲ踊ラシタモノデハナイカ
答  其ノ様ナ事ハ毛頭アリマセヌ。
  事前ニ或程度ノ計劃ハ知ツテ居リマシタガ、之ニ對シ私モ北モ指圖、意見等ヲ述ベタ事モナク、
又積極的ニ相談ヲ受ケタ事モアリマセヌ。
實ハ彼等ガ蹶起スレバ、從來ノ關係上多少ノ犠牲ハ覺悟シテ居リマシタガ、
事件ノ首魁ノ如キ取扱ヲ受けて居ル事ヲ知リ、其ノ結果ノ意外ニ大ナル事ニ、驚イテ居ル次第デアリマス。
然シ、私トシテハ、蹶起シタ若イ者等、即反亂者ノ企圖目的ヲ達成セシメ、
出來ルダケ有利ニ事態ヲ展開シテ遣リタイトノ親心ノ如キ感情カラ、
事前事後ニ於テ若干ノ支援幇助ヲシテ遣ツタノデアリマスカラ、
其ノ意味ニ於テ重大ナル責任ヲ受クベキ事ハ、覺悟シテ居リマス。


三一  問  山口大尉ト今回ノ事件トノ關係如何
答  山口大尉ハ維新運動ニ對シ合法主義者デアリマシタガ、
  本年一月兵ノ入營ノ際、父兄ニ過激ナ挨拶ヲシテ問題ヲ惹起シタ事ガアリマスガ、
其ノ反響ガ全國的ニ意外ニ大キイト申シテ居リマシタ。( ・・・リンク →山口一太郎大尉 壮丁父兄に訓示  )
其ノ様ナ關係デ現狀打開ニ附キ多大ノ關心ヲ持チ、相當強イ意見ヲ主張シテ居ラレマシタガ、
今回ノ事件ニ附テハ、其ノ直前頃ハ私ト同様ナ心持デアツタト思ヒマス。
即、何トカシテ押ヘ様ト努力シタガ、遂ニ力及バズ引ズラレテ渦中ニ投ジタト云フ恰好デアリマシタ。
其ノ點ニ於テハ、私モ當時苦シイ立場ニ置カレノシタガ、山口大尉モ同様デ、
殊ニ同大尉ハ現役ノ身デアリ、且本庄大將トノ關係モアリ、私ヨリ一層苦シイ立場ニ置カレテ居ツタモノト思ヒマス。
結局押ヘテ押ヘ切レナイ事ヲ見極メ、
此上ハ蹶起後ノ事態ノ収拾ニ附、彼等ノ精神ヲ生カス様ニ極力努力スルヨリ外ナシト考ヘ、
其ノ點ニ附互ニ協議シタ事ハ、既ニ申上ゲタ通リデアリマス。


三一  問  龜亀川哲也ト今回ノ事件トノ關係如何
答  龜川ハ大日本農道會ニ關係シ、農村問題ヨリ經濟的ニ國家ヲ改造スル事ニ附相當進ンダ考ヘヲ持ツテ居リ、
  國家改造ニ附一脉相通ズル點ガアツタ様デアリマシタ。
私ガ龜川ヲ知ツタノハ山口大尉ノ紹介デアツテ、最近ノ事デアリマス。
龜川ハ相澤公判ノ關係デ青年將校等ト度々接觸シテ居ツタノデ、
青年將校等ノ動向ニ附テハ若干感知シテ居ツタト思ヒマスガ、
今回ノ事件ニ附事前ニ於テ大體ノ輪郭ヲ知ツタノハ、二月二十日前後頃ヨリ二十四日頃迄デアルト思ヒマス。
當時度々同人ト相會合シ、其ノ都度斷片的ニ私カラ話シテ遣リマシタノデ、
大體ノ事ハ承知シテ居ツタ筈デアリマスガ、如何ナル考デ蹶起後ノ事態ノ収拾ニ附參加シタカ、
私ニハ當時判リマセヌデシタ。
恐ラク同人ハ、革新的ナ考ヲ持ツテ居ルト同時ニ、久原トノ關係ニ於テ政治的意味ヲ含メ、
事態ノ収拾ニ努力スベク參加シタノデハナイカト思ヒマス。
從ツテ、私ヤ山口大尉ガ、若イ者ヲ押ヘテ遂ニ押ヘ切レズ、引ズラレタ形ニ於テ渦中ニ投ジタト云フ意味ト
異ツタ意味ニ於テ、參加シタ事ニナルト思ヒマス。
龜川ト事前ニ於テ事態ノ収拾ニ附協議シ、事後ニ於テ聯絡努力シタ事ハ、既ニ申上ゲタ通リデアリマス。


三三  問   襲撃目標、蹶起ノ時期等ハ、何日頃龜川ニ話シタカ
答  襲撃目標ハ二月二十二、三日頃迄ニ、斷片的ニ話シタ様ニ思ヒマス。
  又蹶起ノ時期ハ、山口大尉ノ週番中ナル事モ話シテ遣つたと思ヒマス。
愈々二十六日蹶起スル事ハ、同月二十五日頃龜川方で村中ト私ト龜川ト會見シタ際、村中カラ聞イテ確實ニ知ツタト思ヒマス。


三四  問  西園寺公襲撃ハ不可ナル意見ヲ龜川ガ主張シタノハ何日頃カ
答  夫レハ二月二十四日、龜川ガ眞崎大將ヲ相澤公判ノ證人トシテ出廷サス爲、其ノ打合セトカデ同大將ヲ訪ネ、
  其ノ歸途私方ニ立寄ツタ際ノ事デアリマス。
其ノ時龜川ノ話ニ、
「 若シ事件勃發スレバ、事後ノ事態収拾ノ爲ノ政治工作ニ元老ハ必要デアルカラ、西園寺公ハ討タヌ方ガヨイデハナイカ。
同老公ト鵜澤博士トハ懇意デアルカラ、工作スルニ都合ガ宜イト思フ 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ申シマシタノデ、私ハ
「 軍人達ノスル事ニ手ヲ出サヌ方ガ宜イ。
 彼等ハ國體顯現ノ爲ニ、君側ノ奸を除クト云フ意味ニ於テ蹶起スルノデアルカラ、彼等ノ思フ通リニヤラセタラヨイ。
事後工作ノ爲ニ、若イ者ノ心持ヲ無視スル事ハ宜クナイ。
重臣ブロックガ惡イト云フナラバ、夫レヨリ尚一層無責任デ恐懼スベキハ、寧ロ元老ガ最大マ人デアル 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ申シテ、龜川ノ意見ニ反對シマシタ。

三五  問  西園寺公ヲ殘シテ置ク事ニ附話ヲシタノハ、夫レヨリ以前デハナイカ
答  龜川ハ、其ノ以前ニ西園寺公ト鵜澤博士トハ關係ガ深イト云フ事ヲ申シテ居リマシタガ、
  西園寺公ハ殘シテ置イタ方ガ宜イト云フ事ハ、二月二十四日龜川ガ私方ニ來タ時、
同人ヨリ始メテ其ノ主張ヲ聞キ、夫レニ對シ私ガ反對シタ事ハ確實デアリマス。
私方ノ應接間デ、「 ストーブ 」 ニ當リナガラ話合ツタ事ヲ覺ヘテ居リマス。


三六  問  二月二十七日夜 村中ガ北方ニ來テ北、龜川、被告等ト会見シタ際、龜川ガ
  「 奉勅命令ハ天皇機關説ノ様ナ事デアリ、夫レハ袞龍ノ袖ニ隠レテ大御心ヲ私セントスル者ノ所業デアル 」
ト強調シタ事は事實カ
答  私ハ其ノ時龜川カラ聞イタ様ニ、確カニ記憶シテ居リマス。

三七  問  北、村中等ハ聞イテ居ラヌ様ニ申立テテ居ルガ如何
答  私ハ確カニ聞イタ様ニ記憶シテ居リマスガ、或ハ私ノ勘違ヒデアツタカモ判リマセヌ。

三八  問  地方ニ居ル青年將校同志トノ關係如何
答  地方ニ居ル青年將校中最モ關係ノ深イノハ、菅波三郎 大岸頼好 大蔵營一  等ガ主ナルモノデアリマス。
いずれモ十月事件前後カラ、革新運動ノ同志トシテ交渉ヲ持ツニ至ツタノデアリマス。
ソシテ革新運動ニ對スル態度ハ、自重的デアル點ニ於テハ私ト同様デアリマス。
今回ノ事件ニ參加シタ行動將校等ヨリモ最モ崇敬セラレ、人望ノアルノハ、菅波三郎 デアルト思ヒマス。
大蔵大尉ハ、自分ノ身體ヲ合法的ニ動カシテ行くと云フ質ノ人デアリマス。
大岸大尉ハ、若イ時ハイ意見ヲ持ツテ居リマシタガ、最近ハ自重的トナリ、
大蔵ト反對ニ總テヲ戰略的ニ動カシ、漸次維新ノ空気を醸成シテ行ク事ニ努力シテ居ル人デアリマス。
全國ノ青年將校同志、就中若イ大尉カラ中少尉マデノ同志ノ中心的立場ニ居リ、
絶大ノ信頼ヲ受ケテ居ル人ハ、大岸大尉 菅波大尉 ノ兩名デアルト思ヒマス。


三九  問  西田派ト稱スル同志ハ、
  右大岸、菅波、大蔵等ヲ中心トシテ結合シテ居ル青年將校ノ一派ヲ指スノカ
答  私等ハ、特ニ西田派ト稱シテ團結シテ居ルモノデハアリマセヌ。
  西田派ト云ヒ出サレタノハ、曩さきニ申シタ通リ私等ト對蹠的たいせきてき立場ニ居ル大川周明一派デアリマス。
彼等ハ各種ノ 「 デマ 」 ヲ飛バシ、惡宣傳ヲ爲ス對象トシテ、所謂西田派ト云フモノヲ勝手ニ作ツテ了ツタノデアリマス。
然シ、仮ニ西田派ト稱スルモノガアリトスレバ、
夫レハ 大岸 菅波 大蔵 等ヲ中心トシテ結合シテ居ル、青年將校同志ノ一團デアリマス。
其ノ一團ノ中ニモ、栗原ノ如キ急進的ナ思想ヲ抱イテ居ル者モアリ、
夫レト反對ニ漸進的ニ、即合法的ニ改造運動ヲ進メテ行ク考ヲ持ツテ居ル者モアリ、
必ズシモ一律デナイ事ハ、既ニ申上ゲタ通リデアリマス。


四〇  問  今回ノ事件ニ附、事前ニ於テ地方青年將校同志ト聯絡シテアツタノデハナイカ
答  夫レハ私ハ承知シテ居リマセヌガ、具體的ノ事ハ聯絡ハナカツタノデハナイカト思ヒマス。

(ハ)  昭和一一年七月七日付第六回被告人訊問調書
  最後の予審調書であって、西田の心境と将来の方針を問うものである。
この二日前の七月五日、一七名もの被告人らに死刑判決が宣告されている。
西田の説得を無視して反乱軍に投じた澁川善助も、その中の一人であった。
澁川は牧野内府の居場所の偵察にこそ協力したが、事件には直接参加していない。
彼は、事件が終盤を迎えた二月二十八日、同志らの安否を気遣って、
山王下の料理店幸楽に立てこもっていた安藤大尉 ( 仙台陸軍地方幼年学校で、澁川の一期先輩であった )
のもとに馳せ参じたに過ぎなかった。
検察官の求刑が禁錮一五年だった水上源一 ( 弁理士、湯河原での牧野内府襲撃に参加した ) に対する死刑判決も、意外であった。
水上の極刑は重きに失するという世間の反響であったことが、戒厳司令部の資料に記録されている。
この判決は、極刑が多数出ることを覚悟していた筈の西田にとっても、おそらく衝撃的であったに違いない。
この期に及んで、冷徹な彼が自らの死を予感しなかった筈はない。
あの澁川でさえも、死を免れなかったのである。
しかし、數エ年三十六歳の西田は、ソレニモカカワラズ必死に生きようとする。
彼は、制止を振り切って去って行った後輩たちの万感の思いに涙しながらも、
予審官に対して、「 私は今や心身共に疲れ切っています 」 と告白し、
革新運動への決別を宣言し、「 故郷ニ於ケル信仰生活 」 こそが、自分に残された唯一の希望であると訴える。
あるいは、顧みることの少なかった最愛の妻の面影も、脳裏をよぎっていたのかもしれない。
もちろん西田は、最後までおのが矜持きょうじを捨ててはいない。
それにもかかわらず、「 不幸私ノ如キモ稀デアルト考ヘ、寂寥断腸ノ思ヒ 」 と嘆くこの調書からは、
刀折れ、矢尽きた西田の呻吟が聞こえてくるような気さえする。
以下、全文を収録する。

一  問  氏名ハ
答  西田税。
二  問  之迄陳述シタ意外ニ、何カ弁解スル事ハナイカ。
  此時豫審官ハ被告人ニ對シ、嫌疑ヲ受ケタル原由ヲ告知シタリ
答  何モアリマセヌ
三  問  現在ノ心境如何
答  現在ノ私ノ抱イテ居ル考ハ、眞ニ縦横無盡デアリマスガ、其ノ一端ヲ申上ゲマス。
一、事件ニ就テ
  今回ノ事件ハ、勿論不祥事件デアリマスガ、之ハ一朝一夕ノ処産デハナク、
小ニシテハ陸軍ガ宝蔵シ、大ニシテハ國家ガ含有スル幾多ノ矛盾ヨリ出發セル一大現象デアリマス。
行動其ノ事カラ申シテモ、三月事件、十月事件等ニ胎生シ、
然モ大胆率直ニ、單純拙劣ニ其ノ某程度ヲ實行シタニ過ギナイノデアリマス。
右各事件當時ノ首謀者諸氏ハ、此事實ヲ見テ、果シテ如何ナル感懐アリヤラ質問シタイト思ヒマス。
然モ三月、十月事件ハ未發ナリシガ故ニ、大臣大將トナリ、幕僚參謀トナツテ居ルノミナラズ、
「 放火犯人懐手シテ傍見スル 」 感ナキニ非サセルヤヲ考ヘサセラレマス。
而シテ、三月、十月事件ヲ魔行ナリト憤慨シ、軍私兵化、統帥權干犯ヲ追及シテ居タ青年將校同志ガ、
討魔施命ヲ佛ニトツテ、然モ其ノ行動遂ニ魔ト一ニシテ、殪レルニ至ツタノデアリマス。
實ニ佛魔一如ノ境トハ、斯ル事ヲ云フノデハナイカト考ヘマス。
二、事件ニ關係シタ點ニ就キ、
  私ハ既ニ申シタ如ク平常ノ方針、行動ヲ自ラ背擲シテ周囲ノ一切ヲ顧ミズ、
其ノ結論ノ明白ナル逆施殪行ヲ強行シ去ツタ若イ人等ノ心事ヲ追想シ、宿命ノ人々ノ如き感モシ、
又歴史ノ裏ニハ斯ル血涙ガ潜流シテ居ルカトモ考ヘ、涙ナキ能ハザルモノガアリマス。
事前ニ抑止スルヲ得ナカツタ私ハ、自ラ無力不徳ヲ恥ヂテ居リマスガ、
同時ニ抑止ノ餘地ナキ迄ニ秘シ進行シツツ、抑止ヲ容レテクレズニ、驀進ばくしん強行シテ了ツタ人々ヲ淋シク思ヒマス。
五 ・一五事件デハ、理論方針ト情誼ト二ツナガラ捨テテ背キ去ツタ海軍諸君ニ比シ、
二 ・二六事件ノ諸君ハ情誼ノミヲ留メテ居マシタ。
此気持ヲ思ヒ、理論方針ニ背馳シ去ツタ氣持ヲ思フ時、感慨今更ノ如ク深イモノガアリマス。

四  問  將來ノ方針如何
答  私ハ、改造ヲ信念トシテ來タモノデアリマス。
  國国家改造ニ關スル私ノ理論方針ハ、既ニ申上ゲタ通リデアリマスガ、
之ハ私ノ生活ノ生命トモ申スベク、如何ナル事ガアツテモ之ダケハ一歩モ譲ル事が出來ナイノデ、
今回蹶起シタ有力ナ二、三ノ同志等モ、
「 總テガ背キ去ツテモ、自分一人デ改造ノ道ヲ行ク 」
ト云フ信念退治ハ、諒解シテ居ル筈デアリマス。
私ハ、之ダケハ明カニシタイト思ヒマス。
今回ノ事件ニ關シテモ、不當過大ナル評価ハ私自身ノ生命トスル問題ニ觸レルガ故ニ、
實ニ遺憾限リナイモノデアリマシテ、世間ノ思惑ヨリモ、
私自身ノ國家社會ニ對スル理論的見解ト日本ニ對スル信念トニ於テ、黙視スルニ忍ビヌ所デアリマス。
私ハ五 ・一五事件ニ於テ流シタル血ト、拂ヒタル犠牲トヲ回想スルト共ニ、
空前ノ事例トシテ蘇活セシメラレ、今日アルヲ得テ居ル私自身ニ附テハ、
眞ニ他人ノ窺知ヲ許サナイ深甚ナル使命、職分ガアル事ヲ信ジテ居ルモノデアリマス。
而シテ、一切ノ偏傾セル認識、歪曲サレタル態度ニ依ル風評 中傷 壓迫等ノ中ヲ黙々トシテ歩一歩進ンデ來タノモ、
改造ニ對シ、國家ニ對シテ私ノ奉仕デアツテ、人ヲ相手トスル單ナル爭闘デナイカラデアリマシタ。
然シ、病餘ノ臝弱らじゃくノ身ヲ以テ上京以來十年此間、私ガ東京ニ於テ現實社會ノ渦波ノ中ニ棹シテ來タ改造生活ハ、
全ク文字通リノ浮沈辛酸デアリ、涙痕血史デアリマシタ。
利他即自利ノ菩薩行ヲ信ジテ行動シツツ、
悉ク逆施ヲ受ケテ來タ事ヲ顧ミ、不幸私ノ如キ者モ稀デアルト考ヘ、寂寥断腸ノ思ヒデアリマス。
然モ今日茲ニ至ツテ、遂ニ其ノ極ニ達シタト謂フベキデアリマス。
今ヤ十年ヲ回想シツツ、更ニ二十年ヲ回想シツツ、而シテ歴史ヲ偲ビナガラ、彼一時此一時、
感慨眞ニ滾々こんこんトシテ盡キザルモノガアリマス。
縦横ノ滾々トシテ盡キザル感慨ハ、同時ニ無逕無量ノ願求デアリマス。
而シテ之ハ、結局 「 天地ノ大ナルモノニ祈ルコト 」 ノ一事ニ決定スルト思ヒマス。
要スルニ、改造運動ガ進化ノ途上ニ於ケル現實的躍動デアル時、
進化ノ根源タル人類本具ノ 「 ヨリヨカラントスル心 」 ノ裏ノ現象トシテノ、「 ヨリヨキモノニ對スル憧憬仰願 」 、
即 祈リハ、同時ニ改造運動ノ超現實ナルモノデナケレバナリマセヌ。
私ハ、今ヤ心身共ニ疲レ切ツテ居リマス。
從ツテ、社會運動ト決別ヲ希望シテ居リマス。
之迄狙ハレ、背カレ、傷ツケラレ、追ハレテ、
眞ニ疲レ切ツタ私ノ魂ヲ快ク喜ビ迎ヘテクレルモノハ唯一ツ、故郷ノ山水風光人情アルノミデアリマス。
私ハ今無量ノ感慨リ裡ニ、故郷ト祈リノ生活トヲ慕ヒツツアルモノデアリマス。
即、「 故郷ニ於ケル信仰生活 」、之ガ私ノ將來ニ殘サレタル唯一ノ物デアリ、私ノ將來ノ希望デアリマス。


39 二・二六事件北・西田裁判記録 (二) 『 西田の手記 』

2016年08月22日 04時50分19秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第38号 ( 1994年 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一)
松本一郎

一  はじめに
二  二 ・二六事件北 ・西田の検挙
三  捜査の概要
1  捜査経過の一覧
2  身柄拘束状況
3  憲兵の送致事実
4  予審請求事実 ・公訴事実
四  北の起訴前の供述
1  はじめに
2  検察官聴取書
3  警察官聴取書
4  予審官訊問調書  ( 以上第三八号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第39号 ( 1994 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎

五  西田の起訴前の供述
1  はじめに
2  警察官聴取書
3  予審訊問調書
4  西田の手記  ( 以上本号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第40号 ( 1995年3月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 三 )

六  公判状況
 はじめに 
 第一回公判  ( 昭和11年10月1日 )
 第二回公判  ( 昭和11年10月2日 )
 第三回公判  ( 昭和11年10月3日 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第41号 ( 1995年9月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 四 ・完 )

 第四回公判 
( 昭和11年10月5日 )
 第五回公判  ( 昭和11年10月6日 )
 第六回公判  ( 昭和11年10月7日 )
 第七回公判  ( 昭和11年10月8日 )
 第八回公判  ( 昭和11年10月9日 )
 第九回公判  ( 昭和11年10月15日 )
 第一〇回公判  ( 昭和11年10月19日 )
 第一一回公判  ( 昭和11年10月20日 )
 第一二回公判  ( 昭和11年10月22日 )
 第一三回公判  ( 昭和12年8月13日 )
 第一四回公判  ( 昭和12年8月14日 )
むすび  ( 以上四一号 )

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

4  西田の手記
(一)  はじめに
(1)  東京陸軍軍法会議予審官陸軍法務官新井朋重は同軍法会議検察官に対して、
  昭和一一年七月九日付で西田の叛乱被告事件の予審が終了したとして一件書類を送致し、
右通知は翌一〇ニチ受第四五六号で受理された。
これで事件は、検察官のところへ戻されたことになるが、西田はその前後に予審官に対して、
冒頭に 「  ( 伊藤法務官へ提出 ) 」 と自筆で括弧書きした 「 手記 ( 陳述補遺 ) 」 と題する供述書を提出している。
この手記は、陸軍のB4版罫紙三二枚に鉛筆で書かれている。
端正でしかも雄渾ゆうこんなその執筆は、彼の人となりを窺うに十分である。
西田派、六回に及ぶ予審訊問を通じて、自己の心情が予審官に十分伝わっていないと感じていたのであろう。
彼は、まず自己の改革思想について釈明した上、事件と自分とのかかわりについて詳細に弁明している。
(2)  この手記の表書きには、「 昭和十一年七月初旬 」 と記載されているが、
  そこに押捺された東京陸軍軍法会議の受付印の日付は、「 一一 ・七 ・二一 」 となっている。
受け付けた 「 東京陸軍軍法会議 」 が予審官を指すのか、それとも検察官を指すのかが先ず疑問であり、
「 七月初旬 」 と 「 七 ・二一 」 のずれも気にかかる。
手記の草稿が、予審係属中からの少しずつ書き留められていたことはあり得ないではない。
しかし、文章の続き具合と全体的な執筆から推理すると、手記は一気に書き上げられたという印象が強い。
手記は予審での供述を補うために作られているから ( このことは、その表題から明らかである )、
これが七月七日の最終訊問以後に作られたことは疑う余地がない。
したがって、西田が書いた 「 七月初旬 」 を文字どおりに受けとると、
手記は七月七日から一〇日までの間に書かれたと推定することができる。
では、七月二一日にこの手記を受理した東京陸軍軍法会議の機関は、
予審官か、それとも予審官を経由しての検察官か。
前者では、西田の記した作成時 「 七月初旬 」 との間隔が開きすぎる。
もっとも、西田が手記を書き上げたものの提出をためらっていたため、
日時が経過したと考えることもできないではない。
しかし、もしそうだとすると、提出を決意した時点で、
「 初旬 」 という記載を 「 中旬 」 あるいは 「 下旬 」 に訂正するのが常識であろう。
私としては、後者、すなわち、予審官から検察官にこの手記が追送され、
検察官がこれを受領した日にちが 「 七 ・二一 」 ではないかと推測している。
(3)  ところで、七月五日には青年将校ら一七名に死刑判決が言い渡され、
一二日には村中、磯部以外の一五名について銃殺刑が執行された。
ワタシガ手記の作成時にこだわったのは、このことに関係している。
私の推理によれば、この手記は死刑判決とその執行の中間で書かれたことになる。
それにもかかわらず西田は、同志の死については、手記の中で一言も触れていない。
これは一つの謎であろう。
私としては、そこに、押し殺された西田の深い悲しみを覗き見るような気がする。
おそらく、彼は意識的にそれを書かなかったに違いない。
もしも間もなく殺される人たちの思いを少しでも綴るとしたら、たちまち彼はほとばしる激情に流されて、
後にみるように、予審官に対して 「 公正ナル御裁断ヲ仰望 」 したりなどできるはずもないからである。
予審官は、北と西田を事件の首魁と決めつけている ( 西田の第五回予審訊問調書第三〇問答参照 )。
それが、この二人をスケイプ ・ゴオトに仕立てようとする軍首脳部ま意向によることを、
明敏な西田が察知しないはずはない。
したがって、「 公正ナル御裁断 」 など、もはや期待すべくもないのである。
にもかかわらず彼は、少なくともこの時点では、軍のフレイム ・アップによって殺されることに耐えられなかったのだと思う。
死んでも死にきれぬ思いだったのだと思う。
彼は、何としてでも自分だけは生きねばならぬと思ったのではないだろうか、
たとえ奴隷の言葉を使ってでも・・・・・。
この手記は、暗黒の地底から、絶望しつつもなお救いを求める西田の血の叫びである。
切々と訴え続ける端正な文字の背後に、彼の苦悩に満ちた面影を見る思いがする。

(二)  手記の構成
手記は二章から構成されているが、その比重は圧倒的に自己と事件との関係を述べた第二章にある。
各章とその項目は次のとおりである。

第一  改造理論ニ就テノ一考察
 一  一般改革理想ト所謂社會主義
 二  「 改造法案 」 ノ根本思想
 三  敵本的非難ニ就テ
 四  所謂 「 青年將校ノ純眞性 」
第二  「 二 ・二六事件 」 ニ對スル立場ニ就テ
 一  事件關係一部將校等トノ關係
 二  事件原因ニ就テノ一二ノ參考事實
 三  事件關係ノ立場梗概こうがい ( 第一期、第二期、第三期、第四期、第五期 )
 四  事件關係立場ノ總括的結論

以下内容をしょうかいしつつ、適宜な部分を抜粋する。

(三)  「 第一  改造理論ニ就テノ一考察 」
(1)  西田は、第一項 「 一般改革理想ト所謂社会主義 」
 および第二項 「 「 改造法案 」 ノ根本思想 」 において、
北の改造法案が社会民主主義に立脚していることを認めながらも、
それが個人の人格と私有財産を容認する北独特のものであることを強調する。
( 改造法案の根本思想は ) 明カニ一種ノ 『 民主社會主義 』 デアリマス。
 ( 中略 ) 而モ在來ノ民主主義、社會主義ニ非ズ、獨自ノ夫レデアルトシテ居ルモノデ、
現代日本人北一輝トシテノ學的理論デアリマス。
此ノ點ハ、『 法案 』 ノ随所ニ一般在來ノ社會主義 ( 特ニ外國流ノ ) ヲ批判彈劾シテ居リマスカラ、明瞭デアリマス。
『 權威ナキ個人ノ集合ハ、奴隷的社會ナリ
』 ト云ツテ居ル如ク、
『 權威 』 即チ人格權ヲ享有スル個人ノ結合ニヨル有機的統一社會---人格國民ヲ分子トスル國家ヲ主張スルモノデアリマス。
同時ニ 『 此ノ個人ノ物質的保障ハ私有財産ニアリ 』 トシテ、私有財産制度ヲ絶對必須条件トシテ居ルモノデ、
( 限度制トハ全體的統一ノ必要上ノ限度制デアリマス ) 『 個人主義ノ正當ナル發達ナクシテ社會主義ノ眞ノ進化ナシ 』
トモ言ツテ居リマス。
同時ニ斯ノ國民ニヨリテ信念サレ、體現サルル國體理想ナルガ故ニ、始メテ日本國體ハ正シク強ク活キテ來ルノデアリマス。
神格的天皇ヲ國家ノ根柱、一體的君民ノ神的表現トシ、
其ノ統一ノ下ニ人格權ヲ享有シ、結合スル人格國民---此ノ日本國家ニシテ始メテ大帝國タリ得ルモノデアリマス。」
「 斯クノ如クシテ、『 法案 』 ノ根本思想ハ學的ニ一種ノ 『 民主社會主義 』 デアリマスガ、
實際歴史的ニハ、純乎トシテ純ナル 『 日本精神ノ近代的閉鎖 』 ト云フベキモノデアルノデアリマス。」
(2)  第三項 「 敵本的非難ニ就テ 」 では、
  従来日本改造法案に対しては天皇機関説的思想であるとか、
外国思想の直訳であるといった 「 卑怯姑息ニシテ低級淺薄ナ非難 」 が浴びせられてきたが、
「 是ハ寧ロ思想其者ヨリモ、主トシテ北、西田ニ對スル敵本的攻撃ニ利用サレタ 」 ものであったとし、
法案は現在の社会よりもより社会本位的である点において、「 社会主義呼バハリハ甘ンジテ受ケル 」 と言いきる。
そして、これは日本に適合する思想であって、「 斷ジテ非日本的ナルモノニ非ズ 」 と主張する。
(3)  第四項 「 所謂 「 青年将校ノ純真性 」 」 においては、
  青年将校の 「 純真無垢 」 性がもっぱら軍部の上層部から 「 吹聴放送 」 されているが、
これは 「 単純ニシテ無智デアルト云フ事ノ美化デアルトスレバ、無礼侮辱モ極マル 」
と前置きしたうえで、次のようにいう。
「 『 北、西田ト其ノ仮装セル思想ニ誘惑欺騙サレタ 』
 トハ一應青年將校ヲ庇蔭セルカノ如キ言辭デアリマスガ、
事實ハ逆ニ侮辱スルモノデアリマス。
加之、北、西田に至ツテハ全クノ冤罪デアリ、非常ナル侮辱デモアリマス。
宛トシテ惡人扱ヒデアリ、
所謂浪人的生活ヲナシテ居ルガ故ニ、
常ニ不純ヲ行動スルカニ直感曲解セルコトノ一結果デモアルト思ヒマス。」

(四)   「 第二  「 二 ・二六事件 」 ニ對スル立場ニ就テ 」
(1)  西田は、第一項 「 事件関係一部将校等トノ關係 」 において、
  将校達の直接行動に反対し、抑止に努力してきたその自分が、
叛乱の首魁として処断されようとしている運命の皮肉について慨嘆する。
( 前略 )
 直接行動--- 『 テロ 』 等ニハ私ガ必ズ反對シ、私ニ知レバ必ズ之レヲ抑止シ、
忠告スルモノデアルコトハ、安藤君、栗原君等モ判ツテ居タ筈デス
( 殊ニ混亂ヲ惹起シテ戒嚴ヲ期待スルカノ過去幾多ノ事件等ガ根本カラノ逆施倒行ナルコトノ批判ノ如キハ、
  十二分ニ説明シテ居ル所デアリマス )。」
「 從來性格的ニモ危險性ヲ包蔵セル栗原君ナドニ對シテハ、
 其ノ氣分ヲ煽ルカノ一原因家庭ニアリト感ジタコトガアツタノデ、山口大尉等ヘモ話シ、
父君ノ國家的事業ニ對スル陸軍トシテノ誠意アル或ル對策ニツキ盡力ヲ願ツタコトモアリ、
軌道ヲ逸脱セザランコトヲ努メテ來タモノデアリマス。」
「 實ニ換言スレバ十月事件以後、現役軍人ノ破壊的行動ニ出デントスル氣配アルニ對シテ、
 之レヲ予防シ、抑止スベク努力シテ來タコトニ於テ、私ハ陸軍カラ誉メラルルトモ
惡ク思ハルル道理ノナイ事實上ノ立場ニ居ルモノデデモアルノデアリマス。
終ニ酬イラルルニ誤解、曲解、デマ、壓迫、排撃以外ノ何物モナキニ至ツテ、
感懐眞ニ憮然タルモノアリ、
茲ニ將ニ葬ラレントスルニ至ツテヤ、
終ニ何ノ爲ノ人生ナルヤヲ自嘲自哭セシメラルルモノデアリマス。」
(2)  第二項 「事件原因ニ就テノ一二ノ參考事實 」 では、
  青年将校を事件に追いやった一因として、
軍首脳部の青年将校に対する不当な敵視、差別の方針と、
永田軍務局長が企図したという風説のある第一師団の満洲派遣をあげる。
(3)  第三項 「事件関係ノ立場梗概 」 では、
  事件と自分とのかかわりを五期に分けて詳細に説明する。
以下、順を追ってその内容を摘録する。

第一期 ( 二月十八日頃栗原中尉トノ會見前 )
「 〇  從來過激ナ 『 テロ 』 主義的言辭ヲ吐ク者ハ栗原中尉デ、
 挨拶代レニ用ヒル位ダト迄評判サレテ來タ口癖ノ人デアリ、
之レニ多少雷同共鳴的ナ態度ヲ示スノガ磯部君デアリマシタ。
( 中略 ) 
安藤大尉、香田大尉等ノ存在ハ、之レガ無言ノ壓倒的解消力デアリマシタ。
〇  山口大尉カラ栗原中尉ノコトヲ聞イタ時モ、半信半疑デアリマシタガ、
  會ツテ話スル氣持ニナツタ主原因ハ、栗原君ガ例ノ如ク過激ナコトヲ言動シテ 『 引込ミ 』 ガツカナクナリ、
終ニ餘儀ナクトビ出ス破目ニ陥ルトイケナイ ( 從來コノ傾向ガ多分ニアツタノデアリマス ) カラ、
ト云フコトニアツタノデアリマシタ。體内デ煽動的ナ言動ガ露骨ダト云フ話デアツタカラデ、
從來ノ中尉ノ癖ヲ知ツテ居ルト思ツテ居タ私ハ、之レハイケナイト考ヘタノデアリマス。
同中尉サヘガタガタ騒ギサヘシナケレバ、軍人方面ハ極メテ平和ダツタカラ、
注意旁々會ヒタカツタ譯デアリマス。
同時ニ、萬一ノコトデモアレバ、
何モ彼モ駄目ニナル重大ナ問題デアルカラデモアルコトハ勿論デアリマス。
要スルニ、蹶起約一週間前ニ於テ、大體右ノ程度ノ大勢ト判斷トデアツタノデアリマス。」

第二期 ( 栗原中尉會見---二月二十一日、二日頃迄 )
「 〇栗原中尉ハ、電話口ノ態度カラシテ從來トハ多少感ヲ異ニシマシタノデ、
 『 會フ必要ナシ 』 ト拒絶スルノヲ實ハ癪ニモ觸ツタノデスガ、
怒鳴ツテ兎ニ角會フコトヲ約束サセタ上會ヒマシタガ、其ノ模様ハ調書ノ通リデアリマシタ。
豊橋ノ方トハ已ニ聯絡濟みと云フヨリハ自分ガ出向イテ行ツタラシイ話デ、
早クモ實行ニ移ツテ居タコトト、時機ヲ殊ノ外ニ焦ツテ居ル風ガ見ヘタコトハ、私ヲ相當驚カセマシタ。
ソレニ私ノ反對意見、忠告、懇願悉クヲ 好イ加減ニアシラツテ居ル如キ口吻、態度ヲ見タノデ、
從來トハ趣ヲ異ニシテ居ルコトヲ感ヅイタノト、
『 貴方カラ色々ナコトヲ言ハレルノガ一番嫌ダ 』 ナドノ噛ンデ吐ク如キ言葉ブリハ、
今迄經驗シナカツタ所デアリマシタ。
〇  然シ、栗原中尉ノ今迄カラ考ヘテ、他ノ人々ハ到底動カヌト思ヒ、動クト思フノハ中尉ノ過信ダトシ、
  ( ソレモ忠告シタガ、過信デハナイト云ヒ切ツテハ居マシタガ ) フリ切ル様ニシテ歸ツタ後、
從來ノ體驗上安藤君ニヨツテ抑止出來ルト思ヒ直シタ上、安藤君ト會見シタ譯デアリマスガ、
之レハ眞ニ意外デ、本文ニ述ベタ如ク結局ハ抑止ノ途ナキ絶望ヲ感ジタノデアリマス。
( 中略 )
〇  私ハ、安藤君トノ會見デ抑止ノ途ナキヲ悟ツタト申シマスカ、大體施ス途ナシト考ヘマシタ。
 ( 中略 )
〇  而シテ二十一、二日頃村中君ノ決意、香田大尉ノ決意等ヲ村中君カラ聞キ、
  逆ニ私ニ參加ヲ勧誘サレルニ及ンデ、實際私ハ寧ロ呆気ニトラレタ感ジデアリマシタ。
平素村中君ハ、全ク問題デハナイ人デアリマシタ。
香田君ハ安藤君ノ如キ感ジノ人デ、從來陰ニ陽ニ同隊同郷ノ後輩タル栗原君ヲ誘掖シ、
監督的ニ行動シテ來タ重厚ナ人デアリマス。
一週間以前ニハ立場ガ苦シイト述懐マデシタ村中君ガ、何時ノ間ニカ變節シテ居タコトヲ知ツタ私ハ、
最早大體観念シテ居タ時デモアリ、正面カラ開キ直ル丈ケノ勇氣モ出ナカツタノデアリマス。
殊ニ同君ノ口カラ、陸相ニ意見具申ヲスルコト、肅軍 ・國體明徴ノ内容ラシイコトヲ一寸聞カサレタ時
---十一月事件ト肅軍意見書ガ村中君ヲシテ斯クアラシメル一大契因デアラウト思ヒ、
サモアラウト考ヘタ時、同君一人ヲ引留メテ何ニナルト云フ氣ニモナリ、
一面カラハ 『 皆勝手ニシロ 』 ト云フ様ナ放任的氣分ニモナリマシタノデ、
強イテ爭フコトモセズ、私ノ立場、決心ダケヲ明ニシテ拒絶シマシタ。
( 中略 )
〇  私トシテハ、如是ノ計畫画内容ラシキモノ、其他方針ラシキモノニ對シテハ、何モ意見モ定義モ致シテ居リマセン。
  元來ガ方針上斯カルコトハ私ノ欲セザル所デアルノト、反對忠告シテモ聽從セザル場合、
自ラ欲セザルニ容喙ようかいスルコトハナイト思ツタカラデ、之レハ私ノ性格的ナ點モアリマス。」

第三期 ( 二月二十二日、三日頃---二月二十六日朝迄 )
「 〇  私ハ、是レ迄萬一ノ場合ハ 『 如何ニナルカ 』 ヲ考ヘ、
  『 私トシテハ如何ニスベキカ 』 ヲモ考ヘテハ見乍ラ、抑止ニ努力シテ來タノデアリマシタガ、
抑止絶望ト共ニ 『 如何ニナルカ 』、『 如何ニスベキ乎 』 ヲ眞劍ニ考ヘネバナラナクナツタノデアリマス。
栗原君ニハ強氣デ抑止ニ努メマシタ。
安藤君トノ會見デハ豫想外デアツタコト、抑止殆ド絶望ト云フ氣持ニナツタノデ、
考ヘ直スコトヲ希望スルト共ニ、一方斷行サルレバ私ハアル程度ノ自分ノ犠牲モ覺悟セネバナラズ、
如何ニナルカハ豫想ハツカヌケレドモ、此儘デ運ニ任セヤウト云フ氣ニナリ、
其ノ意味ノコトモ多少洩ラシタ筈デアリマス。
( 中略 )
〇  私ハ最初カラ、萬一ノ際ハ、
  蹶起シタ人々モ永田町附近占據ノ上第二次決行 ( 栗原君ノ話 ) ナド云ツテハ居ルガ、
到底不可能デ、先ヅ第一次ノ直後ニハ片付ケラレルモノト考ヘテ居マシタ。
同時ニ、世界無比ノ警察力ハ直後軍憲ト強力シテ、東京市内外ハ完全ニ警備サレルモノト豫想シ、
私共關係嫌疑ノ下ニ直チニ拘禁監視サレテ、バタバタ片付ケラレルモノト考ヘテ居タノデアリマス。
五 ・一五ニハ 『 阻止シタ 』 トテ同時ニ狙撃サレマシタガ、血盟團ノ時ハ直チニ拘禁ヲ受ケ、
十月事件ノ直後ハ約一ケ月ノ監視ヲ受ケマシテ、夫々非常ナ痛苦ヲ嘗メサセラレテ居ルノデアリマス。
私ハ抑止ガ段々絶望ニ陥チ、強行ガ確實性ヲ加ヘルト共ニ、前述ノ各種ノ體驗ヲ想起シ、
心ヲカキ立テラレル気分ニナツテ來タノデアリマス。
同時ニ、平素ノ方針モ何モ一擲いってきシテ  『 ヒタムキ 』 ニ蹶起ニ邁進スル人々ノ氣持ヲ悲シミナガラ、
完全ニ犠牲トナリ完全ニ誤謬ごびゅうヲ犯スコトガ分明シ乍ラ、
周囲モ自己モ捨テテ突進スル三、五年交友ノ人々ヲ憎ムコトハ出來ズ、
私トシテ賛同、參加スルコトハ信念ガ許サズ、寂寥じゃくりょうヲ感ジ、過去將來ノ種々ナ感慨ガ涌イテ來ルノヲ感ジテ、
一層落チ附カヌ気分ヲ煽ラレテ了ツタノデアリマス。( 顧ミルト、修行不足ノ恥ヅベキ点多々暴露致シマシタ )
〇  コンナ気分ノ中デ内心決定シタ方針ハ大體左ノ如クデアリ、
  之レハ一時ニ定メタノデハナクシテ、漸次ニ固マツタ所ノ考ヘデアリマシタ。
一、抑止、阻止ハ、自分ノ力デハ到底不可能デアル。
一、暴露シテ未發ニ止メルコトハ、自分ニハ尚更不可能デアル。
  情ニ於テ忍ビザルト共ニ、一面ニハ私自身ガ常ニ暴露、賣込等ノ常習者ノ如ク 『 デマ 』 ラレテ居リ、
其爲ニ生命ヲスラ脅威サレテ來テ居ルコト等カラ、逆ニ反撥的ニモ シタクナイカラデモアリマス。
一、自分ハ理論方針上反對デアッテ、參加スルコトハ絶對不可能デアル。從テ、放任スル。
一、唯々情誼ニ於テ、事態ノ惡化ヲ防ギ、速ニ収拾スルコトヲ希望シ、
  出來得ベクンバ犠牲者等ノ志ニ一歩デモ近キ収拾ヲ圖ツテヤルコト。
等デアリマス。
( 中略 )
〇  但シ、彼等トノ間ニ斯ル話合ヒハ一切アリマセン。依頼モ相談モ受ケマセン。私及龜川氏等ノ間ノ考ヘデアリマシタ。
  ( 中略 )
〇  私ハ此ノ四、五日間、コノ大事件ヲ控ヘタニシテハ無爲、靜肅デハナイカト見ヘルカモ知レナイノデアリマス。
  私ハ抑止ノ途ナシト観念シツツ、『 ナル様ニナレ 』 ト云フ氣ニモナリ、放任的ニナリマシタ。
同時ニ安全ナルベキ短時日ニ、私自身本來ノ運動ヲ依然トシテ繼續、進展セシメ置クコト責任、
義務的ナモノヲ自分自信ニ感ジテ居タノデアリマス。
然シテ、其ノ方面ノ來往モ相當繁カツタノデアリマス。
相澤公判ノ事ノ如キ、實ニ廿五日迄果スベキヲ果ス心算デアツタ譯デアリマス。
〇  乍然一面カラ見テ、斯カル私ノ決意、態度ガヨカツタカ惡カツタカ。
  是レハ問題デハアルト思ヒマスガ、結局ハ夫々ノ性格ニ基ク生活態度ノ問題ダト考ヘマス。
殊ニ五 ・一五遭難後 『 三十二年絶後命、不附人間附自然 』 ト述懐シテ、
『 天を相手にすること 』、『 そのためには名もいらぬ 』 ト云フ覺悟ヲシテカラハ、
快ヲ一時ニトルコト、華ヤカナ男前ヲ示ス等ノコトヲ、一切心底カラ拂拭シテ居ルノデアリマス。
然シ、對世間的ニハ種々議論ノ種トナリマセウ。
甘ンジテ受ケマスノミナラズ、私自身トシテモ彼此思ヒ巡ラシテ、平生ノ修練足ラザリシ點ヲ反省、
自責シツツアルコトヲ赤裸々ニ告白スルモノデアリマス。
〇  斯クテ、事前ニハ事態ノ擴大惡化ヲ反亂助成的ナコトハ絶對戒心スルト共ニ、
  一面未然暴露ノ責任負担ニ陥ル如キ事態惹起ヲモ内心恐レテ、
私直接關係ニ於テハ、北氏、龜川氏、山口大尉以外ニハ話ヲシテ居ナイノデアリマス。
北氏ニモ、栗原、村中君等トノ問答中私ガ察知シ得タ具體的内容ヲ話シタ譯デアルノデ、
『 私モ貴方モ知ラヌ筈ノコトデアルカラ、聞キ流シテ置イテ呉レ 』 ト緘口ヲ注意シタ筈デアリマス。
龜川氏關係ノ弁當代千五百圓ノコトモ、私ハ事態惡化ヲ防グ上ニハ必要ト直観シテ感激シタ爲ノ斡旋デ、
他意ナク、龜川氏ハ實ニ私以上ニ痛感サレタ結果ノ大金提供ダツタト想像スルモノデアリマス。」

第四期 ( 二月二十六日---二月二十八日午后迄 )
「 〇  私ノ豫想ハ殆ド全部履替ヘサレマシタ。
  二十七日午后迄ハ、此ノ意外ノ結果ヲ情報トシテ一々受取ツタコトバカリデアリマシタ。
即チ、一般ノ警戒監視---特ニ私共ニ對シテ何事モナク、
蹶起將校等ハ戒嚴部隊ニ編入サレ、現地占據ヲ承認サレ、大臣カラハ殆ド是認スルカノ如キ告示ヲ受取リ、
私ノ心配シタ食事等モ官ノ給与ヲ以テスルト云フこと等ガ一ツ。
蹶起將校等モ最初私ガ聞知、察知シテ居タノト異ナルカノ如ク、第一次行動ヲ以テ打切リトナリ、
現地ニ膠着こうちゃくシテ 『 喧嘩ニモナラズ 』 ト云フ風デアツタト共ニ、
意外ニモ政治的發言、提議ヲナシテ首脳部ト折衝シツツアルコト、
牧野伯襲撃ガ意外ニモ民間人が參加 ( 澁川君意外ニ ) シテ居タコト、
中橋中尉ガ宮城ニ増加衛兵トカデ這入ツテ追出サレタラシイコト 等ガ一ツ。
又、是等ノ事情ヲ知ルコトヲ得タノガ、栗原中尉トノ電話デアツテ、カカル際カカル電話ヲ通ジ得タト云フコトハ、
全ク事前ニハ私ノ夢想ダモシナカツタ所デアリマシタ。
實ニ若シ栗原君ガ、曾テ私ノ抑止ヲ受ケタ時ニ
『 君等ガ何カヤレバ必ズ直グ僕モ災ヲ受ケル 』 ト云ツタコトヲ忘レズニ心配シテ呉レテ居テ、
家ニ問合セタト云フコトノ好意モナク、或ハ無關心デアツタトセバ、
恐ラク二十七、八両日ニ於ケル栗原、村中、磯部君等ト私及北氏ノ通話ナド、
村中君ノ突然ノ來訪ナド
全ク思ヒモ寄ラヌコトデアツタト考ヘネバナリマセン。
又、私ガ再ビ北氏宅ニ伺ツタコトノ過半ノ理由モ、栗原君ト電話デ話シタト云フ意外ノ事實ト
其ノ内容トヲ珍奇ナ 『 ニユース 』 トシテ話シテヤリタカツタカラデアツテ、
而モ其後ズルズルト同家ニ滞在シテ當初ノ方針ヲ自ラ放棄シテ、
終ニ北氏ニモ縲紲ノ苦ヲ味ハハシムルニ至ツタ私ノ不始末モ、考ヘレバ端ヲ此処ニ發シテ居ルノデアリマス。
( 中略 )
〇  豫想ノ如キ速カナル収拾ハ達セラレズ、一日半ヲ空過シテ二十七日午后トナリマシタ。
  一面蹶起將校側ハ、現地占據ヲ承認サレタ儘政治的交渉ヲ開始シタト云フコト、
及ビ私ノ豫想セシト異リ、軍人ノ純ナル尊皇討奸ト云フコトノミデハナクテ、
計畫其者ガ政治的意義ヲ有スルモノデアルコトニ始テ気附イテ、
『 之レハ拙イ 』 ト考ヘ、何ダカ欺サレテ居ル様ナ感ニモ打タレタノデアリマシタ。
其処ニ將校仲間ニ硬軟二派ガアルラシク察セラレマシタ ( 村中君ノ電話談 ) ノミナラズ、
栗原君ノ口吻デハ相互間聯絡ガ不十分デアルカノ感ヲウケマシタノデ、
拙クスルトトンダ事態ヲ惹起スルカモ知レヌト云フコトヲ憂慮スルト共ニ、折角政治的交渉ニ公然移ツテ居リ、
且ツハ今ノ所討伐ヲ受クル憂モナキ模様デアルカラ、之レヲ有効ニ使用シテ速ニ収拾ヲ講ズルコト、
夫レモ私共外部ノ外部的盡力モ必要デアルガ、此際内部ノ人達が直接進メタ方ガ早イト考ヘマシタ。
北氏モ同様デシタ。此ノ方針ハ、二十七日午后カラ二十八日夜マデ持續シテ居タノデアリマス。
〇  眞崎大將ニ一任ヲスルコトノ妥當ナル提案ヲ村中、栗原、磯部等ニ向ツテシタノハ、右ノ意圖カラデアリマシタ。
〇  從テ、事態惡化又ハ擴大ヲ招クガ如キ考ヘハ毛頭ナク、
  二十七、八両日ノ電話等ニモ此ノ氣持以外ノモノハナイ筈デアリマス。
仮令私ノ方針ニ反シ、國權ニモ反抗シテ、遮二無二トビ出シタ我儘ナ破戒的ナ人達デアツテモ、
其志存スル所ハ兎ニ角君國デアリマス。
私ハ此ノ人達ガ是レ以上自身ノ立場ヲ惡クシ、世間ヲ惡化セシムル如キコトヲ考ヘルモノデハアリマセン。
二十八日栗原君トノ電話ニシテモ、動力盤エハ自決スル方ガ妥當デアリマセウシ、
徹底的ニ反抗スルコトノ宜シカラザルコトハ因ヨリ明カデアリマスカラ、反抗スル方ガ好イトハ勧告出來ナイガ、
然シ人情トシテ自決セヨトハ私ニハ言ヒ切ラナイノデアリマシタ。
( 眞實ハ言ヒ切ツタ方ガ正シイデセウガ、修行未熟デアリマセウ )
故ニ、二、三人ノ相談ダト云フノヲ好餌トシテ、『 何事モ全部ノ意見一致デスルガ宜イ 』 ト云フ、
全クダラシノナイ勧告ヲシテ了ツタノデアリマス。又、自決其事ヨリモ、
進行中デアル筈ノ上下ノ意見一致ヲ速ニ努力、完成スルコトヲ主ニスルコトモ、希望スル譯デアリマス。」

第五期 ( 二月二十八日夜---三月四日迄 )
「 此ノ期間ハ、悲痛ナ感懐ト狼狽シタ感情トヲ抱イテ、全ク方針、目的、目標ナキ轉々漂泊デ、
 眞ニ恥ヅベキ最後ノ行動時代デアリマシタ。
或意味ニ於テ、事件ニ對スル私ノ立場ヲ説明、表現スル所ノ私ノ心ノ映像デモアリマシタ。」

(4)  第四項 「 事件関係立場ノ総括的結論 」 では、
  西田は 「 公正冷嚴ニシテ無雑ナル所ノ御判斷ニ待ツ 」 と述べた上で、
事件との関係についての一〇項目の質問 ( 項ないし項 ) を自ら設定し、これに答えるという形式で弁明に努める。
西田は此の自問自答で、あるいは理論を駆使し、あるいは人情に訴えながら、必死に予審官の説得に努める。
伊藤法務官は、一読後胸の痛みを覚えなかったのであろうか。
以下、主要な問答を抜粋する。
  「 汝ガ關係、指導シテ、村中、栗原、磯部、安藤等ニ計劃實行セシメタ、計畫的ナモノデナイカ 」
  私トノ事實關係ガ明白ニ説明シテ居ルノモノデアリマシテ、全然サル事ハアリマセン。
  私ニハ寧ロ秘シテ計劃ヲ進行シタト思ハレル節ガアリ、私ガ察知シテ阻止、中止ヲ努メタ時ハ時機已ニ遅ク、
抑止力ナキ私ハ、止ムナク情誼ノ収拾的盡力ヲ多少心ガケタト云フ事以外ニナイノデアリマス。
( 中略 )
  如何ニ私ガ未熟者デアツテモ、計劃的ナラバ二十五日以前ニ於テモ、
  私自身ガ一生一代ノ大仕事デアル丈ケノ決定的ナ準備ヲ致シマス。
天下ノ大事デモアリマスカラ、一層工夫ヲ凝ラシマセウ。
  同時ニ、二十五日夜半以後ノ私ノ去就、
  殊ニ 二十八日夜逃避後ノ醜態ナドハ、演ジナカツタノデアリマセウ。
ヨツテ、多數ノ友人先輩等ニ無用ノ迷惑ヲ掛ケタコトヲ衷心ヨリヂテ居ル今日ノ私ヲ 見ルコトハナカツタデアリマセウ。
極端ニ言ヘバ、二、三日以前カラデモ出來ナイコトノナイ性質ノモノモアツタト思ヒマスガ、
ソレモ爲サズニ事件ニ正面シテ居ルノデアリマス。
  眞崎大將推薦ハ、私自身ノ眞意、希望デハアリマセン。
  私ト 「 法案 」 ( 私ノ改造意見 ) ヲ誤解、不信任スル大將ハ、私ガ改造ノ爲ニ推薦スル筋合デハナイノデアリマス。
( 後略 )
  「 青年將校等ノ挺進ヲ承認シ、利用スル破壊的改革遂行ノ意志ニ非ズヤ 」
  ソレナラバ、抑止 ・阻止ハ致シマセン。
 ( 後略 )
ト  「 彼等ハ、事後ノ処置等ニツキ汝ニ期望シテ居タノデナイカ 」
 夫レハ、或ル意味ニ於ケル建設---収拾、
又ハ所謂 「 後亊ヲ託スル 」 意味ニ於ケル公私、將來ノコト等ニツキ、期待シテ呉レタト思ヒマス。
 ( 後略 )
  「 青年將校等ガ何カスレバ、直ニ汝ニ及ブト思考スル根據ハ何処ニアルカ 」
( 前略 )
  當刑務所入所ノ時、勾留訊問ヲシタ新井法務官曰ク、
  「 事件ノ際、君ガ之レニ這入ツテ居ナイ譯ガナイ、ト云フ我々仲間デノ噂デアツタ 」 ト。
大體ニ於テ斯カル空氣ト斯カル宣傳トヲ、
十月事件以後ニ於ケル軍及對立的方面ヲ中心トシテ、作リ上ゲテ了ツタカラデアリマス。
惡意ト爲ニセントスルモノト、輕卒ナル即斷トガ混淆こんこうシテ出來上ツタモノデアリマス。
( 後略 )
  「 五 ・一五当時一度喪ツタ生命デアルカラ惜シクモナク、思ヒ切ツテ決行シタノデハナイカ 」
1  五 ・一五当時、確カニ私ハ肉體ノ痛苦ニ堪ヘズ ( 腸切斷手術後腹膜炎ヲ起シテ )
  且 彼ノ如キ結果ニ陥サレタコトニ對スル心的寂寥、非愁ニ堪ヘズ、死ヲ希望シタノデアリマス。
枕頭ニ居タ北氏等ハ、「 見ルニ忍ビヌカラ死ナセテヤル方ガヨイ 」 ト考ヘタ相デアリマス。
注射ノ鍼一本デ簡單ニスムコトデアリマス。
然ルニ、私ハ腸切斷ノ二時間ノ手術中、麻睡ノ間已ニ脈拍止リ、死ノ狀態デアルノヲ、
輸血、注射等デ手術ヲ終ヘタノダソウデアリマスガ、麻睡中大聲ニ法華經ヲ唱ヘテ居タト云フコトヲ聞キ、
ツマラヌ譫言ヲ云ハズニスンデヨカツタトモ感謝シタ位デアリマシタ。
手術後ノ夜半腹膜炎ガ起リ、私ハ死ヲ希フト云フ狀態デ明朝迄ハ絶望トサレタノガ、
夜半ヨリ腹膜炎ガ俄然退勢シ、ソレヨリ逐次恢復ニ向ツタモノデ、主治医八代博士モ不可解ダトシタノデアリマス。
斯クノ如キ症状ト經過ノ中ニ、私ハ神佛ノ加護ヲツクヅクト感ジタ事ガ此ノ過渡期ニアリマシテ、
單ニ拾ツタ生命ナドト云フ安価ナ考ヘヲ私自身ニ考ヘナイノデアリマス。
私ニハ大切ナ預ツタ命デアリマス。
「 三十二絶後命、不附人間附自然 」 トハ當時ノ述懐デアリマスガ、
餘命アラバ信仰生活ヘト云フノモ此様ナ事情モアルノデアリマス。
( 後略 )
(5)  この手記は、次の言葉で終わる。
「 私ハ事前ニ於テ、抑止スル丈ケノ力徳モナク、已ニソノ機會モ逸脱シテ居リ、
  斷然殉情的ニ參加スルコトハ信念ガ許サズ、
而モ事後ニ於テハ周章、輕卒、無方針ノママニ何事ノ盡シテヤルコトモ出來ザリシノミナラズ、
周囲ニ迷惑ヲ及ボシタ等 醜態ヲ晒ラシマシテ、自ラ省ミテ眞ニ恥カシク思ツテ居ルモノデアリマス。
然シテ、關係事實、當時ノ心境等一切ヲ露呈致シマシテ、
實際ノ事實ニ基ク公正ナル御裁斷ヲ仰望致シテ居ル次第デアリマス。」