あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

池田俊彦 『 私も参加します 』

2021年12月02日 08時34分24秒 | 池田俊彦

林は私に
「 おい、今晩だぞ。明朝未明にやる 」
と 言ったので、
「 よし、俺も行く 」
と 答えて中隊に帰った。
いよいよやるのだということで、
身の回りの整理するものは整理して、
夕食を居住室の食堂ですませてから自分の部屋に入った。
机に向って坐ると、
佐々木信綱の 「 萬葉読本 」、美濃部達吉博士の 「 法の本質 」 や
先日買ったばかりのショーロホフの 「 開かれた処女地 」 等の本と共に
義兄の海軍中尉小林敏四郎から贈られてきた 「 靖献遺言講話 」 が 置かれてあった。
私はその中の出師の表 の 終りの諸葛孔明が出師の必要を説く最後の文章を読んだ。
凡そ事是の如く、逆あらかじめ見る可き難し。
臣鞠躬して力を盡し、死して後已まん。
成敗利鈍に至りては、臣の明の能く 逆あらかじめ観る所あらざるなり。
私はここを見て心の昻まりを覚え、迷いを断ち切った。
七時半過ぎであったと思うが、私は栗原中尉を機関銃隊に訪ねた。
栗原中尉は銃隊の入口に立っていた。
私は敬礼して
「 私も参加致致します 」 
そう 言った。



池田俊彦  イケダ トシヒコ
『 私も参加します 』

池田ハ純情純真ノ人・・・村中孝次
目次
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昭和維新 ・池田俊彦少尉 
・ 池田俊彦少尉 「 私も参加します 」
・ 池田俊彦少尉の四日間 
磯部浅一 「おい、林、参謀本部を襲撃しよう 」 
・ 池田俊彦少尉 「 事態の収拾に付ては真崎閣下に御一任したいと思ひます 」 
・ 
池田俊彦、反駁 『 池田君有難う、よく言ってくれた 』 
・ 最期の陳述 ・ 池田俊彦 「 我々は断じて逆賊などではありません 」 

昭和11年7月12日 (番外) 池田俊彦少尉 

・ 蹶起の目的は、昭和維新の端緒を開くにあった 
・ 「 栗原中尉は新しい日本を切り開きたかった 」 
・ 
大御心は一視同仁 
・ 大御心 『 まさに陛下は雲の上におわしめたのである 』 

河野大尉 ・ 自決の由

この頃、何処からともなく群衆が集まってきた。

私に対して話を聞かせてくれとしきりにせがんだ。
私は次のような話をしたことをかすかに覚えている。
「 我々は天皇陛下の聖明を掩い奉り、
 我が国の前途に障害をきたす奸賊を斬って、昭和維新のために立ち上ったのだ。
大化の改新の際も中大兄皇子が奸物蘇我入鹿を倒して、
破邪顕正の剣を振るわれて大化の新政を実現したように、奸賊共を斬ったのだ。
日本の歴史はいつもこのような正義の力によってのみ切り開かれてゆくのだ。」
このようなことを言って、ちょっと言葉が途切れたとき、

一人の風采いやしからぬ四十位の人が私に近づいて、
「 おっしゃることはよく解りました。
 しかし、皇軍同志撃ち合うようなことにならぬようにくれぐれもお願いします。
私共はそれが一番心配なのです」
と 言った。
私は、

「そのようなことは絶対にありません。私達はこちらから撃ったりするようなことはありません」
と 答えた。
・・・「おい、林、参謀本部を襲撃しよう 」 


大御心は一視同仁

2020年05月27日 17時14分55秒 | 池田俊彦

天皇陛下は嘉し給わなかった
陛下の嘉し給わぬ行動は天人共に許さぬ行動であろうか
若し我々が天下の義に背いた行動をしたのであれば、
直ちに死するべきである
天皇陛下の為に国を憂えて身命を擲ったこの行動が、
陛下の逆鱗に触れ、そして逆徒になる
こんな馬鹿げたことがあろうか

我々は軍に入り陛下の大命により戦場に生命を捧げることを身上とした者である
しかも自ら進んで天下大義の為に立ったのだ
それにも拘わらずその義軍が叛徒として葬り去られたのだ
こんな悲しみがあろうか
天を仰いで長大息しても、この恨みは尽きるものではない
これは神に対する絶望であろうか  身震いするような恐怖であった
我々が蹶起した昭和維新の大義がこの世に存在の価値がないとすれば、
今日迄我々の生きてきた支えは壊滅してしまうのだ

 蹶起の寄書

しかし
世論の動向とか一時的に上に立つ人の心がどうあろうとも
陛下の真の大御心は一視同仁であらせられ
名も無き民の赤心に通ずるものであり
それが天下の正義であり
我々の赤心もきっと通じるに違いないと思った
ここに生きてゆく心の支えがあった


池田俊彦 著
きている二・二六  から 


大御心 『 まさに陛下は雲の上におわしめたのである 』

2020年05月26日 09時28分58秒 | 池田俊彦

本庄日記
昭和九年二月八日
尚、此機会に繰り返して将校等が、
部下の教育統率上政治に無関心なる能はずとする事情を述べ、
同時に政治上の意見等ありとすれば、
其筋を経て改善の方法を申言すべく、
断じて直接行動すべからずとの方針なる旨言上したり、
然る処、
二月八日午前十時
之に対し、更に御下問あり
将校等、
殊に下士卒に最も近似するものが農村の悲境に同情し、
関心を持するは止むを得ずとするも、
之に趣味を持ち過ぐる時は、却て害ありとの仰せあり。
之に就き、余儀なく関心を持するに止まり、
決して趣味を持ち、積極的に働きかくる意味にあらざる次第を反復奉答せり。
陛下は此時
農村の窮状に同情するは固より、必要なるも、
而も農民亦自ら楽天地あり、
貴族の地位にあるもの必ずしも常に幸福なりと云ふを得ず、
自分の如き欧州を巡りて、自由の気分に移りたるならんも心境の愉快は、
又其自由の気分に成り得る間にあり。

これを読んで、秩父宮殿下の如く
実際に兵の家庭の事情に触れられた方とはお考えが違うと思った。
農村で娘の身売りをしなければならない者に楽天地などあったであろうか。

陛下は政治に御熱心で
側近の人々から様々な情報を御聴取遊ばされておられたようであるが、
私は側近の人々の気持が分らない。
陛下のお側近く仕える人々は、すべて名門の出である。
これ等の人々は
当時の逼迫した大陸の情勢や国内の農村の窮状、
労働者の生活状態を見て、
青年将校がどんな心情を抱いていたかなど
全く理解していなかったのではないかとしみじみ思った。
まさに陛下は雲の上におわしめたのである


池田俊彦 著
生きている二・二六 から


蹶起の目的は、昭和維新の端緒を開くにあった

2020年04月04日 17時50分54秒 | 池田俊彦

この事件はクーデターなのか。
それとも それ以外の何物なのか。
そこが判然としないために、各種の誤解が起こってくるものと思う。
我々の首脳部の人々は、
底辺の国民の声をきくこともなく、
民生をそのままにして

自己の勢力を確立しようとする反維新勢力を武力を以て排除し、
真の国体を顕現しようとした。
そして我々に理解を持つ軍中枢部の人々を動かし、
昭和維新を実現すべき維新内閣を組織する首相を陛下に奏請して、
その御裁下を得て
維新実現の一歩を踏み出すことにあったのである。

もしクーデターであるならば、
もっと大規模な行動が全国的になされねばならず、
或る論者の言う如く、
宮中府中を占拠し、全国の軍及警察網を握り、
完全に維新軍の独裁を確立しなければならなかった。
それには事前の工作はもっと徹底的に行われるべきであった。
民衆も動員されなければならなかった。
しかし あの時の情勢はそこまで切迫していなかったのである。
磯部さんは敗れてから このような考えを持ったかも知れないが、
蹶起の時はそのような計画ではなかった。
唯、奸を斬り、軍を被冒して、
天皇陛下の御稜威みいつの下に
維新政府を発足せしめるだけのものであった。

あれは クーデターなどではなく、
村中氏の丹心録にあるように、
昭和維新の端緒を開くにあったのである。

しかしながら、
武力を以て時の政権を倒し、新しい政権を樹立し、
社会制度の改革の企図を持つものをすべて クーデターと呼び 革命と呼ぶならば、
これも日本的一種のクーデターと言えるであろう。


池田俊彦
生きている二・二六   から


「 栗原中尉は新しい日本を切り開きたかった 」

2020年04月02日 18時54分01秒 | 池田俊彦

和十一年という波瀾の年にあの事件は勃発した。
そして撲滅した。
世論はこれを糾弾した。
しかしどうすれば良かったのであろうか。
過去の非を論ずることは容易い。
しかし当時の事実を見極めることは難しい。
何もしないでいることが出来たであろうか。
あの時国を思う青年がどうすれば良かったのか。
誰も本当の解決をしてくれる者はいなかったのだ。

栗原中尉は新しい日本を切り開きたかった。
封建的な残滓を一掃して、
国民全体が、天皇陛下を戴く明るい安らかな生活が出来る、
自由な世の中を夢に画いていたのだ。
何よりも革新への情熱が優先していた。
林八郎もこれに触れて激発した。
私はあの時の情熱を忘れない。
そして 高橋太郎少尉が死の直前に
弟治郎氏への思いをこめて書いた遺書の一節を。

陛下の赤子たれ 真日本人たれ
兄の仇は世の罪悪なり
罪悪と戦え
兄の味方は貧しき人なり

そして あの七月十二日に我々同志の頭を貫いた銃弾の響きは
私の耳に一生焼付いて消えることはない。

もうひとつ書かねばならぬことがある。
この事件はクーデターなのか。
それともそれ以外の何物なのか。
そこが判然としないために、各種の誤解が起こってくるものと思う。

我々の首脳部の人々は、
底辺の国民の声をきくことなく、民生をそのままにして自己の勢力を確立しようとする
反維新勢力を武力を以て排除し、真の国体を顕現しようとした。
そして我々に理解を持つ軍中枢部の人々を動かし、
昭和維新を実現すべき維新内閣を組織する首相を陛下に奏請して、
その御裁下を得て維新実現の一歩を踏み出すことにあったのである。

このような考え方が、全く現状を見誤り、
時機を見誤り、その方法を誤ったことは否定すべからざるところであるが、
事件の目的はここにあったのである。


生きて
いる二・二六

池田俊彦 著より


池田俊彦、反駁 『 池田君有難う、よく言ってくれた 』

2019年10月01日 11時51分25秒 | 池田俊彦

裁判始まる
五月十一日はいよいよ私と林の番であった。
午前中は林の審理及び陳述が行われた。
林は昭和七年の上海事変で金沢の歩兵第七連隊長として出征され、
壮絶な戦死を遂げられた軍神林聯隊長の次男で、
ちいさな身体に満々たる闘志を秘めて法廷に立った。
裁判長以下裁判官一同名門の好漢の言に熱心に聞き入っていた。
法廷に於ける林の態度は実に立派であった。
陳述の中で特に印象に残っていることを記す。

自分は幼年学校に入学以来、自分の身はすべて、天皇陛下に捧げ、
毎日のすること為すことすべて陛下の御為との自覚に立って行動し、
毎朝軍人勅諭を奉読し、全身全霊を捧げて日常を律したこと。
そして民を慈しみ給う陛下の大御心に違背する者の存在を許すことが出来なかったとし、
革新思想を抱くようになった動機等に就いて語った。
また御尊父を心から尊敬していたことを話し、その戦死の模様について語った。
上海で最も頑強な抵抗を示した江湾鎮攻撃の際、
旅団長から 「 我が旅団は砲兵の協力を待たずして直ちに攻撃を開始する 」
との命令に接し、林聯隊長は憤慨して、
陛下の赤子である兵隊の生命を何と考えるかと烈火の如く怒ったそうである。
砲弾の少なかったことも原因しているかも知れないが
砲兵の協力無く独力で攻撃が成功すれば、金鵄勲章の等級が上がるからである。
このような栄達主義、兵の生命を粗末にする堕落した軍の幹部、
そしてそのような雰囲気を醸成している今の社会を徹底的に改革しなければならないと言い、
何よりも国家の革新が急務であることを堂々と主張した。
林聯隊長はこの日、兵隊達だけ死なすことは出来ないと、
自ら第一線に進出し壮絶な戦死を遂げられたのである。
また長男林俊一氏のことにつき法務官は林の気持ちをきいた。
俊一氏は一高在学時代 共産主義運動に走り、拘留せられ退学されたが、
そのことに就いて林の考えをきいたのである。
林は簡単に兄は私と同じような考えであったが、
唯一つ、天皇陛下に対する気持の上で一致しなかったと述べた。

林も亦起訴状に対する反駁を強く主張していたが、
最後に二十九日首相官邸を離れて陸相官邸に行く時、
兵隊に別れの挨拶をしなかったことが、今となっては心残りであると、
しんみりした口調で述べた。


池田俊彦

午後は私の番であった。
事実関係の審理のあとで革新思想を抱くようになった動機について尋ねられた。
私は中学校及び士官学校在学時代から、国語、漢文に興味を持ち宗教や哲学的書物を好んで読んだこと、
そして日本精神に関する種々の本、特に大川周明の本などを読むうちに、
日本人は日本人たることによって生存の価値があること、
我々の行動基準は日本精神、神ながらの道に帰することだと考えるようになった旨を述べた。
そして僧契冲の伝記を読み、契冲が仏門に帰依して思索懊悩の末、遂に断崖に撒手して絶後に蘇った時、
飜然として自己に目覚め、仏教から国学へと転向していったその境地に深い感銘を覚えたことを話した。
私は神ながらの道にかえることが現在の混迷せる日本の進むべき道であり、
これこそが昭和維新だと考えるようになったと述べた。
亦安岡正篤の書などから王陽明の思想を知り、次で大塩中斎の著書を読んで、
その神学的な実践思想に共鳴するようになり、
この方面からも自ら進んで昭和維新の実現に努力すべきことを感じた旨を話した。
そして日本の海外進出についても、日本は王道的道義的精神を以てお互いに栄える道を選ぶべきであり、
利益本位のやのり方は是正さるべきであると言い、一つの例を挙げた。
中国貿易を行っている或る小さな会社が、中国奥地の乾燥卵を輸入していた。
これはその会社が奥地の鶏卵の山地に行って永年研究の末乾燥卵を造らせて、
それを一手に引受けて内地に輸入していた。
このことを知った或る財閥の会社は、その資本力に物を言わせ、
その商店より高く買い付けて、その輸入を独占してしまった。
これによってその小さな会社は倒産した。
その後その財閥の会社はダンピングによって買い値をたたき、
膨大に利益を得たということを或る人から聞いたこと。
そしてこのような覇道的な侵略的なやり方は断じて許さるべきものではないこと。
国内の貧困の救済と共に、
眼を大きく開いて米英の資本主義的搾取から東洋の民族を救ってゆかねばならぬことを述べた。

どうしてこの事件に参加したかとの問いに対しては、
私はこれ迄革新運動をやってきた者ではなく、また現在の軍の情勢などは分からないけれども、
今回の蹶起が昭和維新への道を開くことを念願して参加したことを述べ、
諸葛孔明の出帥の表の最後の文章を唱え、その成敗利鈍を問わず出陣した心境に触れ
参加を決意するに至ったことを話した。

次で法務官は一段と声を高くして次のように私を問いつめた。
「 今回襲撃し、そして殺害した方々は国家の元老、重臣であり、
 特に、陛下の御親任も厚く、今迄国家に対して功労のあった方ばかりである。
このような方々を殺害したことに対し、どう考えているか 」
私はこれに対しきっぱりと次のように答えた。
「 私はこのことについては次のように考えております。
 凡そ善人とは過去にどんな悪行があり、誤りがあったにせよ、それを反省し現在善人であり、
善なる方向に努力している者は善人であります。
また悪人とは過去にどんな善行があっても、現在悪であり、悪の方向に進んでいる者は悪人であります。
過去において国家に功労があった元老、重臣の方々も、時勢の進展に眼を開かず、
誤った認識の下に国家の進展を阻害している者は、悪と断じて差支ないものと信じております。
このような者を誅戮するのに躊躇するものではありません 」
この時裁判官一同私の顔をじっと睨んでいるような感じがした。

私は更に語をついで、
十一月二十日事件のことに触れ、
辻大尉一派のように謀略的方法を以て反対派を排撃し、
権力を以て自派本位の改革を行う考え方には反対で、
むしろ村中さんや磯部さんのように
一身を捨てて維新のために立ったことは正しいと考えている旨を述べた。

また法務官は自決しなかったことの理由を問いただしたが、
私は二十八日には栗原中尉以下一同自決する決心でいたけれども、
その後の攻囲軍の動きと当局の吾々の心情を踏みにじったやり方に、
何とも言えぬ反抗心が湧いたからであると述べた。
今から考えると、死を決意した者がその死を取り止めた理由など弁解じみたことに聞こえるが、
きかれた以上返答しなければならなかった。

あとは何を言ったかは覚えていなかったが、これで私の陳述は終り閉廷となった。
私は少し張り切りすぎて言いすぎたような気持がして、自分の席に戻ってからも興奮がさめなかった。
随分思い切ったことを言ったと思った。

やがていつものように香田さんを先頭に一列縦隊になって、
刑務所に向って帰っていった。
その時、私の二人目の後を歩いていた村中さんが、私の側に寄ってきた肩をたたき、
「 池田君 有難う。よく言ってくれた 」
と言って礼を言った。
磯部さんもまた同様であった。
この時私は嬉しかった。

池田俊彦 著
生きている二・二六   から


磯部浅一 「おい、林、参謀本部を襲撃しよう 」

2019年09月24日 06時03分18秒 | 池田俊彦


蹶起部隊と包囲軍

二十八日ははじめから険悪な日であった。
朝から混乱していた。
陸軍省や参謀本部の将校 その他多くの人々が、
入れかわりたちかわり、首相官邸にやってきて話をして帰っていった。
どうやら奉勅命令が下されたような雰囲気であった。
そして我々が守備する地域の周囲には他の部隊が逐次終結しつつあった。
そしてこの蹶起が不成功に終わったということがはっきりしてきた。
午前九時頃であったと記憶するが、
私の陸士予科の区隊長松山大尉が私に会いに来られた。
事件前、私が訪ねて行こうと思って雪のため果たせなかった方である。
松山大尉は門の所に私を呼んで、
これからどうするか、
こうなったらお前は自分の身をどう処するか分っているだろう
と 言われた。
私は
分っています
と きっぱり答えた。
栗原中尉が側によってきてこの様子を見ていた。
松山大尉は私に自決の決意を確かめに来たのである。
栗原中尉は松山大尉と一緒に出かけたが、後で聞くと陸相官邸に行ったそうである。

磯部浅一
昼近くであったと思うが、
磯部さんが血相を変えてすさまじい勢いで首相官邸にやってきた。
栗原中尉と  と私のいる所へ来て、
参謀連中は駄目だ、徹底的にやっつけなければいかんと言い、
林に向かって、
「おい、林、参謀本部を襲撃しよう
と 言った。
林は黙っていたが、
栗原中尉は、そこ迄やってはお終いです。
それは止めましょうと穏やかに反対していた。
私はこの時、
軍人をやめてしまった磯部さんと現役軍人としての栗原中尉との相違を見る思いがした。

・・・挿入・・・
維新運動を阻害し、軍浄化を妨げるものは軍幕僚であります。
之を倒さねば日本は直りません。
私は参謀本部と陸軍省の全幕僚をやっつける覚悟でありましたが、
外の同志の為め 出来ませんでした。

・・・磯部浅一 訊問調書 1 昭和11年4月13日 「 真崎大将のこと 」 


栗原さんと磯部さんはこの事件を引き起こした最大の牽引力である。
しかし、栗原さんは磯部さん程徹底した破壊主義者ではなかったし、
現役軍人としての越えられない一戦ははっきりしていた。
まして この期にいたって部下の兵を犠牲にすることは出来なかったのだ。

この日の午後、
栗原さんは出て行き、首相官邸はひっそりしていた。
午後二時頃、
私が一人で官邸にいたとき、小藤聯隊長がやって来られた。
そして私に栗原中尉を呼んでくるように命じられた。
私は栗原中尉が安藤部隊に行ったことを知っていたので、
安藤部隊のいる料亭の幸楽へ出かけた。
この時、
攻撃軍は われわれの周囲をびっしりと取り囲み、
虫の這い出ることも出来ない状態であった。
部隊の中には戦車も見られた。
私は攻撃軍の前をよぎって行かねばならないので、
明らかに蹶起部隊の将校と見られ狙撃されることもあり得ると考え、
はっきりそれと判断しにくいように持参していたマントを着て出かけた。
幸楽の前に来ると、安藤大尉と丹生中尉がいた。
兵達は鉢巻をして前を睨み、攻撃軍と対決し、皆、非常に興奮していた。
私が近づいてゆくと
安藤大尉が進み出て、
貴様は誰だ、
と 怒鳴った。
丹生中尉が あわてて私を同志だと紹介したので、
安藤大尉の顔色は和らいだ。
丹生中尉でもいなければ、突きとばされかねまじき勢いであった。
私は安藤大尉を知っているけれども、先方は私を覚えていないから無理もない。
栗原中尉は先程迄いたが、帰ったとのことで、
私は急いで官邸に帰ってきたが、小藤聯隊長の姿はすでになかった。

しばらくして栗原さん達が帰ってきた。
この時いた者は 對馬中尉、中橋中尉、田中中尉、中島少尉と 林と私であった。
栗原中尉の顔には憔悴の色が漂っていた。
栗原さんは我々に向かって言った。
「ここまで来たのだから、兵は原隊に帰し、我々は自決しよう 」
皆、黙然として一言も発しなかった。
誰も自決に反対する者はいなかった。
首相官邸にいた者はこの時、全員自決を決心した。
私は林と向き合って、拳銃の引鉄を引けばそれで終わりだと思った。
不思議にさっぱりした気持ちであった。

それからしばらくして村中さんが来た。
村中さんもやはり兵を引いて自決しようと考えていた一人である。
この時、突然ざわめきが聞こえてきた。
攻撃軍が攻めて来るというのである。
我々は一斉に立ち上り、
急いで坂の下の方へ駆け下りて行った。
村中さんは抵抗してはいけない、討たれて死のうではないかと言った。
私は第一線をかけ廻って兵達に絶対に撃ってはならぬと厳命した。
私も、やはり村中さんの言った通り撃たれて死のうと覚悟をきめた。
しかし攻撃軍は動かず静かであり、じっとこちらの動きを見守っているようであった。
この頃、何処からともなく群衆が集まってきた。
私に対して話を聞かせてくれとしきりにせがんだ。
私は次のような話をしたことをかすかに覚えている。

「我々は天皇陛下の聖明を掩い奉り、
我が国の前途に障害をきたす奸賊を斬って、昭和維新のために立ち上ったのだ。
大化の改新の際も
中大兄皇子が奸物蘇我入鹿を倒して、
破邪顕正の剣を振るわれて大化の新政を実現したように、
奸賊共を斬ったのだ。
日本の歴史はいつもこのような正義の力によってのみ切り開かれてゆくのだ。」

このようなことを言って、
ちょっと言葉が途切れたとき、
一人の風采いやしからぬ四十位の人が私に近づいて、
「おっしゃることはよく解りました。
しかし、皇軍同志撃ち合うようなことにならぬようにくれぐれもお願いします。
私共はそれが一番心配なのです」
と 言った。

私は、
「そのようなことは絶対にありません。
私達はこちらから撃ったりするようなことはありません」
と 答えた。

後で聞く所によると栗原中尉も演説をしたというし、
その他の将校も何か一言ぐらい群衆に向かって話していたらしい。


池田俊彦 著
生きている二・二六 から


池田俊彦少尉 「 事態の収拾に付ては眞崎閣下に御一任したいと思ひます 」

2019年09月22日 05時09分23秒 | 池田俊彦


池田俊彦少尉
憲兵調書
« 國家革新運動に從事するに至りたる原因動機 »
学問的、歴史的、社会的方面、皇軍将校としての立場の順序に就いて申述べます。
(1) 学問的方面
陸軍士官学校予科二学年の頃より漢丈に興味を持ち、
始めは朱子学を考究し、漸次 陽明学に傾き来り。
就中、安岡正篤の 「 王陽明の研究 」 は 特に感激を深くしました。
又、日本精神に関する種々の書物を読み、仏教の方面も稍やや研究し、
東洋思想の内観的価値重大にして深遠なるを感じました。
西洋学問の概念的普遍的なるに対し、
東洋倫理の玄(東洋学の意) にして 幽遠なるを銘記したのであります。
陸軍士官学校本科の中頃より、日本精神の総べてを超越して尊きものなることを更に感じ、
而して之れは日本国民の理念と至情なることを痛感致しました。
(2) 歴史的方面
日本精神 即ち 皇道は、天御中主神を中心として中心分派し、
遠心求心兼備せる世界大道宇宙(自己及天体) の真理であって、
恰も太陽が万物を生成育化する如きものであり、
大御心が世界を隈なく照らすものなることを確信しまして、
而して 此 精神の日本に於て最も発揚せられたる時代は、
大化の改新、建武の中興、明治の維新にあることは疑なき事実であります。
日本の 「 神ながらの道 」 が 歪めらるれば、それに対して常に天誅の刃は下されたのであります。
人間界が動物界と異なる点は 甲が或る処から或る処までやれば、
次の時代の乙は又 或る処から始めると言ふが如き 人間の意志及事業の継続であり、
而して それは純にして真直なるものであります。
日本家族主義が一貫し、孝なる事 即ち 忠なる君民一体の国家の永続であります。
往昔、仁徳天皇が民の心を心となされ給ひし如き国家の永昌にあることを確信するものであります。
蘇我入鹿が天皇の命を勝手に作り、天子の威を着て私腹を肥し、
大逆を敢てなしたるに対し、中大兄皇子は破邪顕正の剱を取って、
宮中にて剱を抜くの法度を破りても大極殿に於て 天誅の刃を下されました。
而して 「 神ながらの道 」 に復し奉り、大化の新政を現出し奉ったのであります。
又、建武の中興に於ても 御宇多天皇の御意志に基き、
後醍醐天皇の御代に高時を破りて中興の大業を成就しました。
是れ即ち 高時の勅を奉ぜざるを打破して大業を翼賛し奉る
楠公以下忠臣の業に依るものが大なのであります。
明治維新亦然りであり、
昭和維新も亦然る可きものと考えるのであります。
(3) 社会的方面
現今の情勢を見ますると、天日照々として輝く真の国体を現出せんと云ふ可きか。
何人もこれを打破せんとする希望に燃へつつあると思ひます。
但し 現今、
自己の地位を確立しあるものは私慾の為に汲々として現状を維持するに急なのであります。
米が余る程出来て 食ふことの出来ぬものがある一方に於て、
生産過剰に苦しむ者ありて一方に物資を持たぬ者がある。
これが現今の矛盾の一つであります。
何処かに やりくりの悪い所があるやうに思ひます。
農民は貧苦のどん底にあるも 之れに対する処置は僅少であります。
帝都の大震災、金融界の動揺に対する救済は大々的になされましたが、
下層民の窮境には極めて冷淡であります。
天皇陛下に対し奉り、機関なりとする天皇機関説論者を保護せんとするが如き政府の声明、
党利のみを第一とする政党政治の堕落を見る時、
何んとかせんと忠臣は努力しつつあるが総て法規に依って阻止されて居るのが現状であります。
陛下に対し奉り、植物学の御研究をお薦めし、
天皇の大権の御発動を御裁下のみを縮小し奉り、
自己等の地位権勢を以て国家を動かさんとする元老、重臣の横暴、
而して仁徳天皇の如く、明治天皇の如く、
民の心を十分に大御心を以て滋育し給ひたるが如きことをせず、
極端に言へば 陛下に蓋をし奉り 自己の地位を保護せんとするが如き
実に慨嘆に堪へません。
我等は断固 妖雲を一掃して、
天皇御親政の真の国体を顕現せんことを期すのであります。
我等は過去に於て如何に善人たりとも、如何に国家に功労があるも、
現在国家の発展を阻止せんとするが如きは逆賊と言はざるを得ないものであります。
(4) 皇軍の将校としての立場
軍は天皇親率の下に皇基を恢弘かいこうし、国威を宣揚するを本義とせられて居ります。
而して 対外的、対内的 何れに対しても国家の奸たる者は討伐をせなければなりません。
平戦両時を問はずに軍の行動を妨害すのものは、外人たると日本人たるとを問はず、
正義の剣を振って打倒すべきであります。
軍は細民の為めの軍に非ず。
政党、財閥、元老、重臣の軍にも非ず。
一に、天皇陛下の皇軍にあります。
軍は一元的中心の下に製正敏活一致して行動し得るを以て本質とするのであります。
即ち統帥の一貫であります。
これが歪められれば軍の絶滅であります。
而るに数年来、屡々、統帥権干犯問題を惹起し、軍をして私兵化せんとせる傾向があります。
今回、相沢中佐殿の立たれたる最大の原因又ここにありと信ずるのであります。
軍が資本家と供託して殖民地を作り、 「 ダンピング 」 を以て市場を獲得し、
民の利害を顧ず、威力を発展せしむるが如きは、
所謂覇道の軍であって 決して皇軍ではないのであります。
皇軍は万民を生成育化する皇道精神の具現にあるのであります。

以上の様な心境にありましたので、士官学校卒業以来、
歩兵第一聯隊中隊長山口一太郎殿、機関銃隊附中尉栗原安秀殿、
同少尉林八郎氏と語る機会が多く、
益々改造運動に努力致し度く思って居りましたが、
特に初年兵教育を担任して身上調査をしてみて
深刻に国家組織の欠陥を認識しましたが、
更に 現に行はれつつある相沢中佐殿の公判状況を
元歩兵大尉村中孝次氏より聞くに及び、憤慨の至りに堪へず、
どうしても軍の力に依りて国家を改造しなければならないと思ふ様になったのであります。

« 此の事件誰が計画したか »
誰が計画したのか存じませんが、臆測で
歩兵中尉  栗原安秀
元歩兵大尉  村中孝次
元一等主計  磯部浅一
歩兵大尉  山口一太郎
の 四人であらうと思ひます。
二月二十三日 午前十時頃、
林少尉が私の部屋に来り 決行の日は示さないが、
近くやると云ふことを言ひますので、
私は五・一五事件の如き火花線香式の如きものはやらないと申しました。
すると林は
今度は、
歩兵第一聯隊七中隊、第一中隊、及 機関銃隊
近衛歩兵第三聯隊 一箇中隊
歩兵第三聯隊 八箇中隊
豊橋 若干
野重 同右
出動し、帝都の実力を握り、戒厳令を戴き、維新を断行すると申して居ましたので、
是なら出来ると思ひ、私も参加すると申しました。
然し私の中隊は機関銃隊みたいな下士官兵に御維新に参加する丈の教育が出来ていないことと、
又 中隊長がこの運動をしない人ですから 迷惑を掛けてはならないと思ひ、
更に不成功となった時、多数の兵員を犠牲にすると思って 連れて行かず、
私一人参加しました。
そして爾後二日間は演習に忙しく、全然同志と会合せず、
二十五日演習より帰り、
午後六時半頃、私の部屋で林より
「 今晩やるぞ 」
と 聞かされました。
そこで私は
午後十時頃機関銃隊将校室へ行きますと、
栗原中尉(歩一)  中島少尉(鉄道第二聯隊 現在砲工学校在学中)  が居りまして、
私は栗原中尉り計画を聞きました。
・・略・・
右の計画を聞いてから 暫らく沈黙の状態が続きました処へ、
山口大尉は当時週番司令でありましたが、私等が居ります処へ来、
「 本庄閣下の親戚である私は 一個の山口と二つの肩書を持ちたい 」
と 申されました。
此意味は 皆と一緒に第一線に立つて行きたいが、
他に任務があるから一緒に行けないと云ふことで、他の仕事は外交面担任すると云ふ事であります。
・・略・・
午前五時頃、
栗原中尉は第一教練班及機関銃の主力を率ひ、
表門より突入し、次で林少尉の部下の大部分侵入し、
私の教練班並林少尉及林の部下一部は裏門から突入しました。
そして林少尉は中に入り、私は機関銃二銃を持って裏門の警戒に当たりましたが、
栗原部隊が首相を中庭でやっつけたので兵を表門に集結し、
万歳を三唱しました。
当時大蔵大臣担任の近歩三中橋基明中尉及中島少尉の指揮する一隊も、
首相官邸に到着して居りました。
又、田中中尉は自動車一台、トラック二台(共に軍用) を持来て居りました。
・・略・・
二月二十七日夕、
陸相官邸に於て 栗原中尉の除く外の全将校と軍事参議官と会見し、
野中大尉が一同を代表して次の事をお願ひしました。
「 事態の収拾に付ては眞崎閣下に御一任したいと思ひます。
宜しくお願ひします。
軍事参議官閣下は眞崎閣下を中心としてやられる事をお願ひ致します 」
それに対し阿部閣下は、誰を中心とすると言ふのではなく、
軍事参議官が一体となって努力するといわれました。
眞崎閣下は、
「 諸氏の尊い立派なる行動を生かさんとして努力して居る。
軍事参議官は何等の職権もない。
只、陸軍の長老として道義上、顔も広いから色々奔走して居る。
陛下に於かされては 不
眠不休にて、御政務を総攬あらせられ給ひ、真に恐懼の至りである。
お前達が此処迄立派な行動をやって来て、陛下の御命令に従はぬとなると大問題である。
その時は俺も陣頭に立って君等を討伐する。
よく考へて聯隊長の命令に従ってくれ 」
と 言はれました。
そこで私等は退場し、聯隊長とは誰か、元の聯隊長か今の小藤大佐かと色々話合ひましたが、
そこへ山口大尉が来られ、眞崎大将に対し、
「 奉勅命令の内容は我々を不利に導き、御維新を瓦解せしむるものなるや 」
と 問ひたる処、
「 決して然らず 」
と 答へられました。
山口大尉は更に、
「 聯隊長とは誰か 」
と 問ひたるに、
「 小藤大佐なり 」
と 答へられました。
そこで吾等は、一に大御心にまかせ、聯隊長の命令に従ふことを誓ひました。

二・二六事件秘録 (二)  から


池田俊彦少尉 「 私も参加します 」

2019年01月20日 05時00分54秒 | 池田俊彦


池田俊彦少尉
昭和十一年二月二十三日の朝まだき、
近年未曾有の大雪は帝都を純白に染めていた。
それは 歩兵第一聯隊の営庭の上にも深々と降り積っていた。
三日後に起る世紀のドラマを秘めて雪は霏々(ヒヒ)と降り続いた。
起床ラッパが鳴った。
私は将校機銃室の布団の中で日曜日の朝の睡眠をゆっくりとっていた。
起き出して窓を開けると外は一面の銀世界であった。

同期生の林八郎少尉が蹶起のことを告げに来たのはこの時である。
林少尉は週番肩章をかけて 私の前にどっかり腰をおろすと、
昨夜 赤松大尉が来た時のことを話した。
赤松貞雄大尉は私達が見習士官の頃迄、
聯隊の中隊長をしていた陸士三十四期の俊才で、当時教育総監部の参謀であった。
赤松大尉は将校居住室の食堂に若い将校を集めて、陸軍部内の情況を話した。
そして昭和維新は是非やらねばならないが、今は尊皇討幕の時期ではなく、
公武合体の時だと話したそうである。
明治維新の際、先覚者によって尊皇の精神が培われ、
幕末の西欧勢力の東漸と東洋侵略の情勢の下、王政復古を目指す尊皇討幕運動が起こったが、
光明天皇をいただく朝廷及び幕府並びに一部雄藩に、これと対抗して構想されたのが
公武合体論であった。
これは既成勢力の体制立て直しともいうべく、
やがてそれら勢力の対立によって短時日で崩壊したものである。
これは急激な変化を好まぬ上層階級が、下級武士の革命的動きを一掃して、
現体制のまま時局を収拾しようとした既成勢力の妥協の産物であった。
いまは公武合体の時だと言っても、
我々はそこに昭和維新の終局の目的を見出すことは出来なかった。

青年将校の運動は、
既に三月事件や十月事件を経て、軍中央主導の運動に愛想をつかし、
自らの力を結集して既成勢力と妥協しない新しい運動を展開していたのである。
このような考え方は全国の軍隊内に浸透していたし、軍中央部にも理解を示す人は多かった。
しかし赤松大尉は歩一の情勢を憂えて、
今の時期に直接行動のようなことは絶対に避けるべきだと言いに来たに違いない。
だが、林はこの時既に心を決めていたのだ。

雪のせいか 物音のしない日曜日の朝、
私は林と膝を交えて語り合った。
林はいつもの口癖のように 「 我々は国内線をやるのだ 」 と 言い、
どうしてもやらなければ駄目だ、と言い切っていた。
そして近く在京の同志は立ち上がるという話をした。
私は五・一五事件のようなことをもう一度やっても、花火線香で終ってしまうから、
やるなら全軍一致して立ち上がらなければ出来ない。
同じことを何度繰り返しても、結局は強い力で押えつけられるばかりで、
かえって事態は悪くなるだけではないか。
やる時は一挙に死命を制する力を以てやらなければ出来ないと思うと言った。
林は今度やるのは五・一五などとは全然違う。
大部隊を以てやるのだ。
いま参謀本部や陸軍省の軍中央部に我々と一体となって維新を推進する人々がいる。
我々が立てば必ず全軍蹶起する端緒を作ることになる。
我々が維新の突破口を作り、
全軍をその渦中にひきずり込んで一挙に維新への道を開くのだと力説した。
私が部隊は何処から出るのかと聞くと、
歩一の機関銃隊と十一中隊、歩三はほとんど全部だ。
豊橋の教導学校からも来るし、近歩三の一部も参加すると言った。
私が、それなら出来るだろうと言うと、やる時期は今週中だ。
このことは伊藤(常男)には話していない。
貴様だけに話したのだ。
貴様がやるかやらぬかは貴様の勝手だが、我々同志以外の者に話したら貴様の命はもらうぞ、
と いって 林は私の眼をじっと見詰めた。
理想に燃える決死の眼差しと真剣な気魄に打たれて、私はしばらく無言であった。
林はそれからすぐ部屋を出て行った。
いままで漠然と予感めいたものはあったけれど、
ついにそれが現実にやってきたという重量感が ずしんと胸にのしかかってきた。

私は林のことを考えた。
林と私との心の結びつきは、書物を通じてであった。
陸軍士官学校予科のころから、私は宗教書、哲学書、日本精神に関する出版物などを愛読したが、
その中で安岡正篤の 「 王陽明の研究 」 は 私の心に一つの灯りをともしてくれたように思う。
この本によって私はさらに大塩中斎の 「 洗心洞箚記 」 を 読むにいたった。
それは本科の初め頃だったと思う。
これが林の眼にとまり、私の心の中にこんな所があったのかという驚きの眼をもって私を見、
それから色々と語り合うようになった。
国家改造の話もするようになった。
林は私に、貴様は企画心があるから良いと言い、
俺は今後十年かけて政治、経済などをみっちり勉強する。
それ迄は動かない。
貴様も勉強しろ、と私にもこの方面の勉強をするようにすすめた。
見習士官の当時、よく本を買ってきては読み 私にも貸してくれた。
小説なども読んだ。
中里介山の 「 大菩薩峠 」 なども次々と私に貸してくれた。
林は短身で剣道が強いので、当時、中隊にいた幹部候補生達から、
大菩薩峠の作中の人物である米友という綽名をつけられていた。
少尉に任官した頃 「 東亜先覚志士紀伝 」 を 読み、私に貸してくれた。
これは私に強烈な感銘を与えた。
日本の大陸政策の良い面はこの人達の崇高な精神にその源を発していると思った。
林はその頃、
今の時勢をよく見極めるのだと言って直接行動に出るような気配は全然なかった。
その林が十二月に機関銃隊に転属になり、栗原中尉に接するに及び、
栗原さんにすっかり共鳴してしまったのである。
それも私の感じでは一月に入ってからと思われる。
小藤聯隊長は私に、栗原中尉を歩一に帰したいきさつについて話してくれたことがある。
小藤大佐は歩一に来る前は、陸軍省の補任課長をしておられた。
その時、栗原中尉は千葉の戦車隊付であって、
戦車でも持ち出して暴れられては困るとのことで何処かの聯隊へ転出することになっていたが、
札付きの栗原中尉を受け入れてくれる聯隊がどこにもないことを知った。
そして、御自分がその出身の歩一の聯隊長で赴任することが内定していたので、
自分が引き受けようと同じ出身の歩一に帰したのである。
今にして思えば小藤聯隊長の善意が、
この事件にある種の角度を以て結びついて行ったように思われる。
小藤聯隊長は、おそらく栗原さんの抑え役として、林を機関銃隊へもっていったのだと思う。
その林がどういう訳か、栗原さんに共鳴してしまったのだ。
林は士官学校予科の頃、区隊長の松本中尉から
「 五尺の小身これ胆 」
と 称せられた同期生随一の豪傑で、
頭脳明晰であると共に 人を人とも思わぬ不遜な魂の持主であるが、
また一面、非常に純情で直情径行の男である。
この林が栗原中尉に同調したのだ。
栗原中尉は私にとって興味ある存在ではあったが、当面あまり魅力的ではなかった。
むしろあまりにも矯激な言動に反感さえ感じていた。
私も議論好きであったので、将校集会所で夜などよく栗原さんと議論した。
私は、革新は個々の軍人の行うべきものでなく、挙軍一体となって推進すべきものであり、
軍の強力な力によって腐敗した政党も、ユダヤ的な財閥も駆逐できるのではないかと主張した。
小藤聯隊長の前任の本間雅晴大佐も、曾て将校集会所に将校団全員を集めて、
何事も全軍一致して行うべきもので、軍隊内部の横断的弾圧を戒める訓話をされたが、
私もそのように考えていた。
これに対して、栗原さんの考えは根本的に違っていた。
栗原さんは、私のような考え方は、ファッシズムや、幕末当時の公武合体論につながっていくという。
それは革新を全体として考えて、大衆と一体となって強力に推進し、
革新への突破口をつくる栗原さんたちの行き方と違うというのだ。
自己自身を革新のために捨てることから新しい道が開けてくる。
またそこに活路もあるというのが栗原さんの考えだった。
栗原さんはまた、
現代の議会制度を痛烈にこきおろした。
「 今の議会は支配階級の民衆搾取のための手段と化している。
そこから新しい力は生れない。
第一、土地改革などは、地主達の多い支配階級が承認するはずがないし、
真の根本的改革は出来ない。
我々は力を以てこれを倒さなければならない。
いかにも多数決で事を決し、
国民の意志の上に国民の心を体して云っている政治のようであっても、
それは、結局権力者の徹底的利己主義となってしまっている。
起爆剤としての少数派による変革の先取りこそ、新しい歴史を創造することが出来るのだ。
このことは対話では為し遂げることは出来ない。
強力な武力的変革によってのみ為し得られるのだ。
我々はその尖兵である。
変革の運動は始まったばかりで、
最初から一定の理想像を期待出来るほど世の中は甘く出来てはいない。
新しい未来は闘争を通じてしか生まれない 」
と 論じた。
私は栗原さんの考え方は何回となく話しているうちに了解出来たけれど、
私には今すぐそれが出来る筈はないという考え方が根強かった。
林が栗原さんの考え方に全く同感したかどうかは分らない。
しかし一緒にやる決心をしたのだ。
林の考え方の転換点は、昭和九年の十一月二十日事件にあるように思う。
林は戦死された林聯隊長の二男で、
林聯隊長の部下で共に上海で戦った辻正信大尉が凱旋し士官学校に講演に来て以来、
辻大尉と親しくなり、辻大尉には敬服していたように思う。
しかし 十一月事件が辻大尉の謀略的行為によって摘発され、
親しくしていた同期生の荒川、次木、佐々木の三名が
投獄され退校させられたことに烈しい怒りを感じ、
それ以来、辻大尉とは疎遠になっていた。
そして栗原さんに会い、
磯部、村中の両氏の考えも知り、次第にこの方向に進んできたのだと思う。
ここに一言、十一月二十日事件に於いて触れなければならないと思う。
本科二年生の時、
同期生の荒川、次木及び佐々木の三名と一年下の武藤候補生が革新の意欲に燃えて、
日曜外出の際、村中大尉、磯部一等主計、西田税などを訪ねていたが、
それを当時士官学校の中隊長をしていた辻正信大尉が察知して、
自分の訓育中隊の佐藤という候補生をスパイに使って内情を調査し、
クーデター計画があると判断して検挙した事件である。
この事件は調査の結果、
証拠となるべきものがなく不起訴となり、
村中大尉、磯部主計は停職、候補生は退校処分となった。
そして辻大尉も左遷されたのである。
村中さんや磯部さんは、時期が来れば蹶起しようという意志はあったし、
その計画も考えていたことと思う。
しかし考えていたことと実際の計画とは別である。
村中大尉や磯部主計が佐藤候補生に話した計画は、
スパイ佐藤の
「 将校がやらなければ候補生だけでやる 」
との 殺し文句にほだされて、なだめるための方便であったのだ。
これは、私が当時の次木君から聞いた話で判然としている。
辻大尉は事件後、候補生等に詫びたとの事実をもってしても、
この事件は全く事実無根だったのである。
林は私に辻大尉のやり方に憤懣の意を
洩らしていた。
このような過去を踏まえて林は栗原中尉の考え方に近づいていったように思われてならない。
栗原さんは同期生の一部の人々や、歩一のある将校から、
あれはダラ幹で、やるやると言って
ちっともやらないではないかと蔭口をたたかれていた。
また曾ての埼玉挺身隊事件では、
教え子の蹶起に自分は間に合わず、一時は助かったものの、
軍幕僚関係が近くこの事件をとり上げて軍から追放されるかも知れないとの噂もあった。
そして相沢中佐の捨身的行動、村中さん、磯部さんの動きと相まって、
どうしても一つの血路を切り開かなければならない絶体絶命の心境にあったと、私は考える。
 

第一師団の渡満は目前に迫っているし、今やらなければ永久に出来ないと考えたに違いない。
そして、この時に林八郎が自分の銃隊にやってきたのである。
いかに栗原さんが努力で銃隊の兵を動かそうとしても、
軍神林聯隊長を父に持つ豪快な林がいなければ、情勢はここまで進展しなかったかも知れない。
私は雪の降る営内居住室の中で、一人様々な思いに耽った。
これから行こうとする満洲の原野、
そして渡満を打ち消すこの蹶起、家のこと、上官のこと、部下のこと。
いくら考えてもやがて一大事が起ろうとする圧迫感だけが胸にこたえた。
はたして今回のことは、林の言うように成功するであろうか。
これは私がいくら考えても分ることではなかった。
・・・
もしも、この時期にこうして経つことが悪い結果を将来するものならば、
私は一身を擲って、栗原さん達の行動を阻止しなければならないと考えた。
私は二月初めの竜土軒の会合の時の安藤大尉を思い出した。
相沢公判の報告をするから聞きに来るようにとのことで、私と林と伊藤も一緒に参会した。
公判の状況を話した後、何か不穏の空気が漂っていた。
安藤大尉はソファーの中に身を埋めるようにして頭を抱えこんでじっとしていたが、
起き上ると皆の方を向いて次のようにおごそかに言った。
「 青年将校は何時でも起つぞという気構えで、刀の柄に手を掛け、
何時でも抜く姿勢を崩してはいけない。
しかし 刀を抜いてはいけないのだ。
抜くぞ、抜くぞと構えて滅多に抜いてはいけない。
それなら絶対抜かないのかと言えば、抜く時が来れば抜く 」
そして間を置いて、
「 今は抜くべき時ではない 」
と 言った。
私にはその時の情景が頭に焼き付いていた。
しかしその安藤大尉が起ったのだ。
もう大勢は動いているのだと思った。
私は栗原さんや林と一緒にやるより他に道はないと考えた。
やるか止めさせるか二つに一つであるが、
かりに阻止したらすべて悲劇的結末になることは明瞭である。
所謂、幕僚によって革新勢力は根こそぎ撲滅させられてしまうことは明らかである。
林の言うように突破口を作ってそこで勝負するより他には道は無いと思った。
それにしても私は小藤聯隊長の考えは一度よく確かめてみたいと考えていた。

翌二十四日は何をしていたのか私には全く記憶がない。
しかし、この日我々の同志は蹶起の打合せに、そして計画にと一歩一歩前進していたのだ。
まさに息詰るような時間が流れていたのである。

二十五日の火曜日は雪も止み、
私は中隊を率いて、代々木練兵場に演習に行った。
間もなく出征する北満の野を思い、積雪地の不整地運動に習熟する為の訓練であった。
種々の基礎的訓練を行った後、私は中隊を班ごとに分けて、
代々木練兵場の周辺近い不整地を競走させてきびしく鍛えた。
午後四時頃、帰途についたが、
途中、初年兵の一人が転倒して足をいためたので
近くの民間の医院で応急の手当てをして帰った。
あとで兵士を聯隊の医務室に見舞って出てくるところを林少尉と出合った。
林は私に
「 おい、今晩だぞ。明朝未明にやる 」
と 言ったので、
「 よし、俺も行く 」
と 答えて中隊に帰った。
いよいよやるのだということで、
身の回りの整理するものは整理して、
夕食を居住室の食堂ですませてから自分の部屋に入った。
机に向って坐ると、
佐々木信綱の 「 萬葉読本 」、美濃部達吉博士の 「 法の本質 」 や
先日買ったばかりのショーロホフの 「 開かれた処女地 」 等の本と共に
義兄の海軍中尉小林敏四郎から贈られてきた 「 靖献遺言講話 」 が 置かれてあった。
私はその中の 「 出師の表 」 の 終りの諸葛孔明が出師の必要を説く最後の文章を読んだ。
凡そ事是の如く、逆(あらかじ)め見る可き難し。
臣鞠躬して力を盡し、死して後已まん。
成敗利鈍に至りては、臣の明の能く 逆(あらかじ)め観る所あらざるなり。
私はここを見て心の昻まりを覚え、迷いを断ち切った。

七時半過ぎであったと思うが、私は栗原中尉を機関銃隊に訪ねた。
栗原中尉は銃隊の入口に立っていた。
私は敬礼して
「 私も参加致します 」
と 言った。
栗原さんはうなずいて、私の顔をじっと見て、
「 俺は貴公を誘わなかったのだ 」
と 言った。
私が
「 林から聞きました 」
と 言うと、
栗原さんは、
私が一人息子だから誘いたくなかったのだ
と いうことと、
私が行かなくてもいいのだと言った。
それでも私は
「 是非、参加します 」
と きっぱり言いきった。
この時、栗原さんは
「 有難う、そうか、そこまで考えていてくれたのか。中に入り給え 」
と 言って
先に立って将校室に私を導き入れた。
そこには中島少尉がいたように思う。
初対面なのでお互いに紹介された。
それから林がやってきて、いささか興奮気味で栗原中尉と話していた。
私の記憶では、
中島少尉が出て行ってから、対馬中尉がやって来たように思う。
対馬中尉は豊橋の教導学校の教官で、
生徒を率いて参加する筈のところを同僚の板垣中尉に止められて単身やってきたのだ。
皆が腰を落着けてしばらく経つと、
対馬中尉はポケットからハンカチに包んだものを出して 一同の前に広げた。
それは荼毗に付した小さな数片の遺骨であった。
「 これは満洲で戦死した自分の最も信頼する同志菅原軍曹の骨だ 」
対馬中尉はその骨を握りしめ、
皆の手で触ってやってくれと言って、ハンカチを差し出した。
栗原さんも林も、そして私もそのハンカチを手にとり骨片を握りしめた。
菅原軍曹の骨は、対馬中尉のぬくもりで温かかった。
それは掌を通じて心の底まで伝わる温かさであった。
菅原軍曹は秋田の聯隊出身で、大岸大尉の仙台教導学校時代の教え子であった。
十月事件当時、
菅原軍曹は対馬中尉に呼ばれて、隊列を離れ、
体操服を着て銃剣を風呂敷に包んで駆けつけた人である。
彼は満洲の奉山線の北鎮という所に連絡にきていて、匪賊と戦って斃れた。
この葬儀の時、
対馬中尉は駈けつけて、その遺骨の一部を貰い受け、
肌身離さず持っていたものである。
また 郷里秋田での葬儀の時は相沢中佐も出席されたそうである。
相沢、大岸、対馬、菅原の心の結びつきがあった。
「 今日菅原軍曹と一緒に討入りをするのだ 」
と 対馬中尉は気魄をこめて語った。
栗原中尉から計画の説明を受けて私は緊張が次第に高まってゆくのを感じた。
我々の機関銃隊は首相官邸を襲撃することに決っていた。
そして機関銃隊を小銃三小隊と機関銃一小隊に編制し、
栗原中尉は第一小隊を、
私は第二小隊を、林が第三小隊、尾島曹長が機関銃隊を率いることに決定した。
栗原中尉と私、対馬中尉が表門から突入し、
林は第三小隊を率いて裏門から突入することにし、
その後、私が外部を固めて警戒する手筈になっていた。
しばらく経ってから週番指令の山口大尉が部屋に入ってきた。
そして、いつもと違った深刻な表情で、
「 今日の私は本庄閣下の親戚である私と、
一個人の山口としての私との 二つの体を持ちたい 」
と 言った。
皆と一緒に出撃したいが、
襲撃成功後の外交方面を担当するという意味であったように記憶する。

その頃、私は十一中隊の丹生中尉に連絡に行ったが、
その内容は何であったか覚えていない。
十一中隊の将校室には
香田大尉と共に、村中さんと磯部さんが軍服姿でいて、
私を見るとはっと驚きの表情を見せた。
丹生中尉が私を同志として紹介したので了解した。
両人は私と初対面ではないがよく覚えていなかったのである。
私は両人が既に免官の身であるにも拘らず、
軍服を着用していることに奇異の感を抱いたが、
非常の時と考えて、私自身深くそのことにこだわらなかった。
そこでは蹶起の趣意書を印刷していたようである。

一度機関銃隊に帰り、
大分夜が更けてから私は身支度をする為に、居住室の自分の部屋に帰った。
軍刀をあらため、身支度をととのえると私は机に向った。
栗原中尉から遺書など手掛りとなるものは書かないように言われていたが、
このまま黙って出発するに忍びず、両親と直属上官である中隊長と大隊長に遺書を書いた。
もうすぐ出発であり、もし発見されても襲撃は終わっていると判断したからである。
鉛筆で走り書きした。
父母宛のものが現在残っているので、恥を顧みずに書き写す。

乱筆にて失礼仕り候
俊彦事此の度 尊皇斬奸の精神に基き昭和維新に邁進申すべく候
天日照々として輝くを得ず、妖雲空を蔽ふの今日、誰か拱手傍観し得るものぞ、
今にして奸臣を討たずんば相沢中佐殿の御精神を生かすを得ず、
維新の消滅を将来する次第と存じ候
維新は我等純一無雑の青年の赤き血潮によつてのみ成就す。
俊彦死力を尽くして戦はん。
其の成敗利鈍に到りてはよく我が明の逆(あらかじ)め知る所に非ず。
父上、私のこの精神をよく理解下さることと思ひます。
最後に母上、兄上、姉上によろしく願上候
くれぐれも御健康に御注意下され、姉上と共に永く永く御暮し被下度候
二月二十五日    俊彦
父上様

そして手許に残っていた十円札を一枚同封し、私の始末費だと書き添えて封をした。
・・・
機関銃隊に帰ると、ぼつぼつ兵を起して出発の準備にかんかっていた。
栗原中尉は立ったり坐ったり、部屋を愞た利入ったりして、
「 全く時間が長い。一分が一時間のように感じられる 」
と 言っていた。
午前四時頃、銃隊は舎前に集結した。
・・・
私の第一中隊から機関銃隊に転属になった坪井一等兵がやってきて、
「 自分も一員として参加します。教官殿しっかりやりましょう 」
と、決意を披露した。
私は今回のことが将校だけの蹶起でなく、
兵の一人一人にまで浸透していることに深い感銘を覚えた。
坪井一等兵は勇猛で数少ない兵のうち実刑を受けた者の一人であった。

全員終結が終ったところで、
栗原中尉は、
かねてから話しておいた通り今日は愈々昭和維新を決行すると述べ、
次いで蹶起の趣意書を読みあげた。

次いで部隊の編制を下達し、
進行順序は第一小隊、第三小隊、第二小隊、機関銃隊とした。
なお
合言葉として
「 尊皇、斬奸 」
の 四文字を決めた。
「 尊皇討奸 」 と いう合言葉を使用した部隊もあったが、
我が機関銃隊は 「 尊皇斬奸 」 であった。
また
栗原中尉は三銭切手を出して
「 これは我々同志の印である 」
と 軍帽の裏側に貼ってある個所を示した。

命令が下った。
我々は、第一小隊を先頭に静かに正門を出ていった。
そして左折して聯隊の塀に沿って進み、師団長官舎の前を通り、
隊列は暗い道を辷るように進んでいった。
私には兵の一人一人が全員一丸となって、
この世紀の維新へ、日本の夜明に突入してゆく尖兵のように感じられた。
誰も命令だけで無理矢理に従うのではなく、
心の底から日本の夜明けを念じて参加している空気がうかがわれた。
菅原軍曹の遺骨も対馬中尉の胸に抱かれて進んでいった。
真暗な空から小雪がときどきちらつき、
足下は先日来の積雪のため雪明りではっきり見えた。
隊列は蕭々と音もなく進み、
溜池に出てそこから一気に首相官邸に向って歩を進めた。

生きている二・二六
池田俊彦 著より