あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和11年2月29日 (一) 野中四郎大尉

2021年01月31日 14時31分24秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


野中四郎 

野中大尉は蹶起将校中の最古参で、

歩兵第三聯隊の将兵と共に出動し警視庁を占拠した。
二月二十九日、
叛乱軍となり下士官全員が原隊に復帰し、
事件が終結したあと、陸相官邸で自決した 。
野中が官邸の一室で自決した時、
同じ官邸の別室には他の将校全員が収容されていた。
その部屋を出て行ったままかえらない野中大尉の身を案じながら、
囚われの将校たちは憲兵隊の車で代々木の陸軍刑務所へ収容されて行った。
そのあとは、
さしもの四日間にわたって全日本の視聴を集めた陸相官邸もまったくの静けさに返った。

静かになった官邸の一室で、野中大尉の検屍が済み、
遺体の処理が行われたあと丁重に納棺が終わった。
死の直前まで野中と語り合った前の聯隊長、
井出宜時大佐が最後まで野中の遺体の側を離れなかった。
前日の二十八日、叛乱軍将校全員自決の動きがあったとき、
軍当局は手廻しく 二十一の白木の棺を用意してあった。
その一つがこま日役立つことになったのもわびしかった。
東京の街に四日ぶりに明るい灯が輝き、
ラジオが賑やかに正常の音楽を奏で始めた八時頃、
野中の遺体は陸相官邸を出て原隊の歩兵三聯隊に帰った。
四日前、維新の夢に燃えて歩武堂々と出動して行った原隊に、
今 敗残の身を横たえたのは、野中中隊の本拠、第七中隊の部屋であった。
用意された祭壇に安置された野中大尉の遺体は、
聯隊の将校たちにみまもられて手厚い通夜が営まれた。
事件発生以来、
中野の野中の厳父、野中勝明予備少将の宅に身を寄せたいた美保子夫人も、
聯隊からの知らせで、家族と共に来隊した 。
武人の妻らしく雄々しく遺体と対面した夫人は、同僚将校たちとともに通夜の一夜を隊内で送った。
翌朝、聯隊長をはじめ多数将兵の送別の中に、野中大尉は歩三を出た。
野中と行を共にした下士官兵たちは隔離収容されており、
姿を見せなかったことは 一抹の淋しさであったが、
九時過ぎに野中は遺体となって四谷左門町の自宅に帰った。

まだいたいけない幼児保子をかかえ、
未亡人となった美保子夫人は変わり果てた夫と共に帰りついた我が家であったが、
さすがに涙ひとつ見せなかった。
午後四時に戒厳司令部発表の中で、野中大尉の自決が公表され、
伝え聞いた金親近所の人々、同期生の人々などの弔問が相次いだ。
野中家としてはいっさい公表を避け、密葬として葬儀を行うこととし
三月二日、
自宅で野中家の菩提寺 牛込田町の月桂院の住職によってひそやかな葬儀を営んだ。
参列者も原隊の歩兵三聯隊の将校たちや、同期生の人たちが軍装のままで多数会葬され、
密葬らしからぬ葬儀であった。
日本中を騒がせた叛乱事件の責任者として自決した野中大尉は、
社会的には微妙な立場にあったが、遺家族の心理はさらに複雑なものがあった。
マスコミが未亡人の心境を取材した記事が新聞紙上に報道され、世人の関心をひいたこともあった。
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・・挿入・・
汚名に涙しげき
野中元大尉未亡人
皆様へ霊前からお詫び
・・三月三日付の朝刊各紙に、
野中美保子の同文の手記が掲載になったときの、一紙の見出しである。
二日夜、近親を通じて次の 『 御詫びの言葉 』 を認めて 世に送った。
「 皆様へのお詫びの言葉」
私は四郎の妻美保子でございます、
いま私は夫の霊前で皆様に対して相済まぬ心に苦しみながらこれを認めました。
このたびは 夫たちが大事をひき起しまして
上は畏くも陛下の御宸襟を悩まし奉り
下は国民皆様にこの上ない御心配をおかけ申しまして
誠に誠に御詫びのしやうもございません、
殊に東京市民の皆様には四日間大変な御迷惑をおかけしました、
また 一同の犠牲となつて尊いお身をあへなく失はれました高位の方々をはじめ
警察官にはほんたうに何んと申上げてよいかわかりません
いまは冷たい骸となつて私の前に横たはつてゐる夫も
きつときつと 皆様に深くお詫び申してゐることゝ思ひます。
私も皇軍の一員たりし四郎の妻でございます、
私は夫を信じてゐました、
夫のすることはみな正しいと思ふほど信じてをりましたのに
この度の挙に出で この様な結末をみました、
私は夫の所信をどう考へてよいのか 私の心 私の頭は狂ったやうで解りません。
でも 夫は 終始お国のことを思ひながら立ち、
しかして死んだと思ひ 私は寸毫疑ひたくありません、
しかしながらいまは 叛乱軍の一員として横たはってゐます、
それが私には悲しくて悲しくてなりません。
夫は軍人として一切の責を負って立派に自決してはてました、
けれどこれくらゐで この罪亡ぼしはできません、
妻としての私は たゞたゞお詫びの心に苦しみながら いまは深く深く謹慎致しております、
どうぞ皆様、
仏に帰つた夫の罪をお許し下さいませ、
四郎の妻として私はそれのみ地に伏してお願い申してをります
昭和十一年三月二日
野中美保子
・・妻たちの二・二六事件  から・・
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しかし いっさい世間の眼を避けて秘めて行事を済まそうと念じた遺族にとって、
こうした周囲の温い好意は、これでよいのかと疑うほどの感激に打たれ、
野中老将軍の白鬚をつたわる涙こそ、叛乱軍の父としての苦悩の心境を偲ばせるものであった。
憲兵や特高も立会っていた。
しかし 表立つような動きは何一つ見せなかった。
これも人間としての温い心づかいであったろう。

野中大尉の遺骨はその後、郷里の岡山市の墓地に埋葬された。
岡山での葬儀、埋葬も、ひそやかに営まれたが、当局からのさしたる干渉もなく、
関係者、遺族の温情に護られて安らかに眠った。
大尉の墓所は、岡山市平井町墓地内の野中家の墓地にある。

ある遺族の二・二六事件  河野司  著から


昭和11年3月5日 (七) 河野壽大尉

2021年01月30日 14時06分35秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


河野壽

河野壽は、

所沢飛行学校学生で在学中、
単身事件に参加し、
二月二十六日早朝、
東京部隊と時を同じくして、湯河原に牧野伸顕伯別邸を襲撃した。
この際 護衛警官の反撃の銃弾を胸部に受けて倒れ、
その上襲撃目標の牧野伯を撃ち損ずる不運となって、
重傷の身を熱海陸軍病院に運び入院する身となった。
東京本部と電話連絡を取りつつ
療養の間に、蹶起は叛乱軍の汚名の下に完敗した。
切歯扼腕の河野は、傷の軽快になるのを待って、
三月五日、
病院構外の松林の中で自決し、
翌六日早暁に死んだ。    リンク→河野壽大尉の最期 
この河野の死は、
前々日四日にはすでに予知されており、
四日は兄弟三人と病院長、
入院中の同期将校とで別離の酒を酌み交わした覚悟の死だった。
私たち兄弟は
東京の自宅で菩提寺の住職も詰めて、弟の死の知らせを待っていた。
六日の朝 八時頃、
病院から死の電報を受取って、私と義兄が熱海に急いだ。

すでに祭壇が設けられ、供花も数多く枕頭に飾られていた。
遺体をあらため
頸部、腹部の自決のあとを検分し、弟と死の対面を済ませた。
入院中の将校をはじめ、
東京から駆付けた所沢飛行学校の川原教官や同期生の田辺中尉等の弔意を受け、
遺体引渡しの手続を済ませるうちに夜に入った。
用意された霊柩車に生花に埋まった遺体を移し、多数の葬送のうちに、
私と田辺中尉、川原副官が分乗して病院を去った。
二十六日早暁、昭和維新を期して東海道を下ったその道を、河野は遺体となって東京に帰った。
私の家に着いたのは明けやらぬ五時頃であった。
河野大尉の死は、
六日の午後一時、戒厳司令部の発表でラヂオを通じて発表された。
午後から夜にかけて 弔問の客が相次いだ。
所沢の飛行学校から校長徳川好敏中将をはじめとして、同期の学生将校たちが多数、
軍装姿で、富ヶ谷の家に弔問された。
平素縁のなかった町内の国防婦人会や在郷軍人会の人々までも弔意を表しに来られた。
意外なことであった。
世間の眼を忍び、こっそりと密葬を覚悟していた遺族にとっては、こうした現実らとまどう思いだ。
これでよいのだろうかということが、偽らない心境であった。

翌八日は珍しい春の雪が降った。
その雪の中を、密葬の霊柩車が火葬場に向った。
この日も所沢の徳川校長 外、多数の将校たちや、同期の将校たちの軍服組が、
自宅前の道を埋めた。
在郷軍人団、婦人会の人など立並ぶ人垣の葬送されて、密葬らしからぬ出棺であった。
夢想もしなかったことだった。
死んでくれてよかったと涙をこらえた。
火葬場で骨になるのを待つ間も、雪はやまなかった。
雪に蹶起し 雪に消えた 弟の清らかな死であった。

その翌日、河野家の菩提寺、浦賀の東福寺での埋葬を行った。
東京から横須賀線で、横須賀駅で下りた。
驚いたことには ホームに陸軍の将校たちが渚列しょれつしている。
まさかと思ったが、河野大尉遺骨の出迎えであった。
河野は横須賀の重砲兵聯隊に、少尉任官前後の数年を勤務していた。
その聯隊の人々であった。
戦争中に見られた戦死者遺骨の凱旋風景と同じであった。
私たちは我目を疑うこの光景に接して、またしても意外というより驚きであった。

あれだけ日本中を騒がせ、
しかも叛乱の烙印を押された事件の責任者が受ける制裁は十二分に覚悟していた。
葬儀埋葬に当っても何らかの制約、監視の目も予想していた。
それよりも世間の人々への手前にも、極力目を避けて、ひそやかな密葬を期していた。
それが 現実にはこの三日間の意想外の姿であった。
人間として 又 肉親としての本性からは、矛盾したことではあるが、
死んでくれたことの喜びを胸にしみて味わったものであった。
野中家の方々の心境も まったく同じであったと思われる。
ことにそれから四ヶ月後、
生き残って軍法会議での公判闘争に最後の望みを掛けた同志の人々が、
事志に反し 公判を通じて国民に訴えんとした悲願むなしく、
刑場の露と消えた非業な死に際会したとき、
その方々の遺族の心境に思いをはせるにつけ、
ひとしおにその感が深いものがあった。

ある遺族の二・二六事件  河野司 著 から


昭和11年7月3日 (二十) 相澤三郎中佐

2021年01月29日 13時35分21秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


相澤三郎

昭和十一年七月二日

午後七時より約三十分間 ( 最後の接見 )
接見人 妻  相澤米子
同  知人  猪狩定典
被告  急に思ひ付いた事があるので御許しを得て面會するが、 之から又調べがあるので長くは會はれない。
  先程調べられた際、私に決心が出來たかとの御訊ねがあったが、實に情けないと思ふ。
肉體は亡びても精神は七生報國の覺悟がある。
○○○の御心が解らない。
亦生死の〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇が言はれたので○○○やつたが、
あんな事を言ふて○○○が良いものであらうか。
今わのきわに取調べをすることは情けないことだ。
私が死體になつて家に歸る事も近い内と思ふから、次の事は特に頼んで置く。
1、死刑執行があった際は、どの様な事があつても必ず死體は家に持ち歸る事。
2、如何なる創傷があつても、眞裸體にして檢査をして貰ふ事。
3、子供達には死體を見せない事。 以上の事は確實に行つて貰ひたい。
猪狩さんにも御頼みして置きます。
猪狩  はい。
被告  お前が申しました様に遺言は訂正して置いた。
  何処迄も家は本家である正彦 ( 長男 ) を中心にして、円満に生活發展する様に書いて置いた。
遺言等總て私の書いた書類は、 たとへ佐藤さんや大野さんが欲しいと言ふて借りに來ても決して貸してはならぬ。
又家より外は出さない様に注意して保存して置く様に。
私が死刑に處せられたと言ふ事は、
社會を刺激し却って無期等に處せられたより以上御國を良くする爲には効果があると思ふ。
必ず御國は變化し良くなる事 受合だ。
之を個人的に考へれば定めしお前は殘念だらうが、 其の點は能く解つて貰ひたい。
解つて居るだらうな。
妻  解つて居ります。
被告  遺言等大切な書類は、直接お前に手渡しをして頂きたいと御願して置く。
  又 最後まで筆を執る積りであるが、最後の筆は絶筆として置くから承知して置く様に。
猪狩さんとは不思議な縁で今日迄厄介になつたが、今後も宜敷く頼みます。
今日貴方に面會出來て實に良かつた。 猪狩 畏りました。
被告  最後迄健康体で活動出来たのも、皆 刑務所の御蔭であつた。 眞に感謝に堪へない。
  お前はときには刑務所の処置に對して不平を言ふたが、それはお前の誤解である。
子供達にもこの事は能く話して置いてくれ。
妻  貴方が其の様な御元氣で終始された事は、皆 刑務所の御骨折であると常々思つて居りました。
  本當にお礼を申上げます。
立會官に對し 兩人にて  心から感謝の辭を述ぶ。
以上


七月二日
午後七時三十分
妻等と面會終り、

歸室後直に、明治大帝の御冩眞 ( 書籍挿画 ) に對し礼拜を爲し、
次で 木像 ( 不動明王 ) に礼拜したる後
稍暫ややしばらく 木像の裏に彫刻しある作名を見つつありしが、

どうも人に會つて話をするのは骨が折れます。
疲れましたよ。
等と發言し、
其後夕食を喫する際
やあ 御馳走 御馳走、成程ね。早速頂きます。
と 意味有り氣に發言しつつ至つて元氣よく喫食せり。
午後八時五十分
私が逝つた後 妻に御渡しして頂くものは、
箱の蓋に誰が見ても直く解る様に書いてありますから御願ひします。
之は相澤家の家宝として永久に家に殘したいと思ひますから、
必ず妻に御渡しを願ひます。
と 願出づ。 又、
何時頃執行されますか、所長殿に前以て知らせて頂くことを願ひます。
午後九時頃
所長の命を受け 今晩はゆつくりお寝みなさいと看守長の傳達に對し、
有難う御座います。
と 言ひ、其後書類の整理及揮毫きごう等忙しげに爲し居れり。
午後十一時三十分頃
床を展べ就寝したるも 稍々暫らく眠れざる情況なりしが、
午前零時頃には 良く安眠し居れり。
七月三日
午前三時に起床し ( 命に依り看守傳達 )、
室内の清潔整頓を爲し、次で洗面後朝食を喫す。
此の時 願出を爲し
家を出る十分前に知らせて下さい。
と申出で、朝食後半紙に遺書を認め、且既に認めありたる遺言書を更に點檢し、
「 之で良し 」 と 言ひ 整頓せり。
( 朝食は給与の牛乳一本 「 少量殘す 」 を飲み、
差入洋菓子三個を食したる後 わかもとを服用す )
午前四時三十四分
居室 ( 將校監第二房 ) に於て差入の画仙紙に
尊皇絶對
昭和十一年七月三日午前四時三十五分
於宇田川  相澤三郎  絶筆
と 書く。
自 四時四十分、
至 四時四十五分
差入の佛像に對し観音經の朗讀を爲し、
終つて居室前に在りし看守長に對し、
私は何時でも宜敷くあります。
御蔭で時間を与へて頂き有難う御座いました。
家内に編んで貰つた此の腹巻毛糸をやつて行きます。
と 發言す。
午前四時四十八分
出房を命じたる処、医務室に監獄長、檢察官等の在るを目撃し、
早歩にて監獄長の前に至り、
長い間御世話になりまして有難う御座いました。
と 謝辭を述べ、
次で 檢察官に敬礼を爲す等 其の狀況至つて明朗にして、
間もなく死刑の執行を受くる者とは思はれざる程落付居れり。
午前四時五十二分
医務室前に於て 監獄長の死刑執行言渡後、遺言なきやに對し、
何もありません。
色々御世話になりました。
御蔭で健康でありました。
皆様に宜敷。
遙拜させて頂きます。
と 言ひ、許可を得て、
遙拝所に於て遥拜後、
大聲にて、
天皇陛下萬歳
を 三唱す。
次で刑場に護送中 ( 温浴場前 ) に 於て 看守長は本人に對し目隠を爲す旨告げたる処、
やらないで下さい。
と言ひしに付、 「 規則ですから 」 と 目隠を鞏へたる処、
私には其必要はありません。
と 發言す。
依て 更に看守長は 射手の方が困りますからと告げたるに、
そうでありますか。
と 柔順に目隠を爲し、
何だか私は外に出て行く様な氣持ちがしましたが此の中ですか。
と 發言す。
午前五時
刑架前に於て看守水を与ひたるに、
頂きました。
と 少量飲みたり。


午前四時五十分、
陸軍監獄看守長 諸角要は、看守三名 ( 細谷、加藤木、高取 ) 共に受刑者

( 服装は通常衣に上靴を穿ち、戒具を施さず ) を 護送し
医務室前に到着したるを以て監獄長は軍医をして健康診斷を行はした。
受刑者の心神異常なきを確め、
相澤三郎に對し、昭和十一年五月七日第一師團軍法會議に於て殺人罪に依り
死刑の宣告ありたる其刑を執行する旨告知し、
尚申し遺す事の有無を訊ねたる処、何等言ふ事無き旨述べたるに依り、
更に所持品の処置に付ては 家族に下付すべき旨を告げたるに之を了承したり。
其言語明晰にして態度亦沈着なり。
次で監獄長は本人の願に依り遙拜を許し、
遥拜後看守長をして受刑者の目隠を爲し刑場に護送し、
刑架前の莚むしろ上に受刑者を正座せしめ、
兩手、頭部、胴體を刑架に確縛し、尚膝を縛し、
看守 ( 長塚 ) 水を与ひ、
午前五時一分、
射撃指揮官岩井中尉に執行準備完了を告ぐ。

前記 射手田畑少尉及豫備射手諸澄軍曹は、所定の地點に位置し、
田畑少尉は托架に装したる三十八年式歩兵銃を以て立射準備を爲し、
諸澄軍曹は伏射の姿勢を以て何れも準備を完了したり。
午前五時三分
射撃指揮官は射手田畑少尉に發射を命じたるに依り、
同少尉は受刑者の眉間を射撃したる処 同個所に命中し、
後頭結節部に貫通し 出血甚しく、
軍医は直に受刑者の創傷及心臓脈搏を檢し、
午前五時四分
受刑者絶命したる旨を報告す。
檢察官、監獄長は之を承諾したるに依り
茲に相澤三郎の死刑執行を終了す。



七月三日
午前十一時
遺骸を、夫人、令弟に一見せしめた後、
直ちに落合火葬場にて憲兵隊の手にて荼毘に附し、
午後二時半 骨揚げ、
遺族奉持して
三時、鷺宮の自宅に歸った。

夜になって荒木大將は軍服姿で弔問された ・・< 註 >
一部右翼の者が
相澤中佐の遺骨奪取を計っているとの情報があり、
廷内は直診道場の若者が昼夜警戒、
外周を警察と憲兵が私服で警戒するという物々しさだった。
夫人が
「 せっかく歸ってまいりました主人です。
せめて家庭では のんびりと家族だけでくつろがせたい 」
との 希望から、警備員は戸外に出たと云う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
< 註 >
荒木、眞崎が中佐の背後にあるごとくデマを飛ばし、
兩名を中佐とともに葬り去ろうとの陰險な策動が軍中央部で行われていたときであったので、
弔問は控えるべきだとか、軍服でなく私服で行くべきだと荒木の知人たちは忠告したが、
荒木夫人が
「 相澤さんが國を思うご一念から倒られた以上、弔問されるに何遠慮がいりましょう。
 いわんや現役軍人であられる閣下が、軍服で行かれることは當然すぎるほど當然で、
遠慮される必要はありますまい 」
と毅然と言い、荒木は憲兵の監視する相澤家へ堂々と軍服で弔問したという。
・・・菅原祐 『 相澤中佐事件の真相 』

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荒木と眞崎の焼香を聞いた獄中の澁川善助
今朝號外ニテ判決理由等發表サレタル由。
相澤中佐殿ハ、
六月三十日上告却トナリ、
既ニ、七月三日死刑執行セラレナサレシ由。

誠忠無比ノ中佐殿ヲ遂ニ死刑ニナシタルカ。
噫、皇國ノ前途暗澹タルベシ。
絹子モ御通夜ニ参りたる由。
荒木 ( 貞夫 ) 大将、眞崎 ( 甚三郎 ) 大將モ通夜ニ見エタリト。
如何ノ心事ヲ以テカ、霊前ニ對シタル。
知ル人ゾ知ル。
咄。咄。咄。

相澤様ヘノ手紙ヲ出スノガ遅レタルモ妙ナ因縁ナリ、書改メテ出ス。
要部ヲ削除セシメラル、戸田精一兄ヘモ手紙ヲ出ス。
・・・渋川善助 『 感想録 』 七月七日 より
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・・にわかに獄内に緊張した空気がながれ、ある殺気が走るのを感じた。
勿論、それがなんであるかわからなかったが、
そのうち誰からとなく、
「 相澤中佐が処刑されるらしい 」 と いう情報が流れた。
風のようにその情報が房中に伝わり終えた頃、
私たちの房の裏の方向であまり遠くない距離から、
「 撃て ! 」 という大声がして
「 パン ! 」 という弱装薬の小銃の発射音がした。
一瞬房中はざわめき、
そしてすぐもとの静寂にかえった。
その後、看守から
「 本日相澤さんの処刑が終わりました。
その最期は見事でした。
はじめ刑場には目かくしをして誘導したのですが、中佐殿はその目隠しをはずしました。
そして、自ら 撃て と号令をかけて射撃係を励まされました 」 
と、従容とした相澤中佐の最期を聞くことができた。
相澤中佐とは西田さんの家で二、三度お会いしたことがあるが、
微笑すると実にやさしい感じのする方であった。
隣りの西田さんの心境はどのようであったろうか。
さぞかし腸をしぼられる思いであったろう。
北さんの読経の声が心なしか ひときわ無気味に感じられた。
相澤中佐の冥福を祈ってこの日は暮れた。
・・・恋闕 黒崎貞明 著から
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陛下万歳の一語殘し
相澤中佐
從容死ニ就く
「 ・・・死刑を執行セシム ・・・陸軍大臣寺内壽一・・・ 」
低く讀み上げる塚本定吉所長の聲が、微かに震へて寂とした靜かさの重壓、
直立して聞いてゐた相澤元中佐 「 承知しました 」 と硬こわばつた顔を稍和やわらげて
「 色々御世話になりました、御苦労 ・・・・・ 」 と島田朋三郎檢察官、夏目、小倉、勝井の各錄事等に目禮する、
塚本所長を先に植本、諸角、越川、加藤の各看守長に護られた相澤氏が昂然、
前方を正視しつゝ確しつかりした歩調で獨房の外へ出る薄い朝靄もやで露の冷たい大地 ・・・・・

下士官兵の銃殺の際は同村叉は同町出身の兵三名を射手に選ぶ、
同郷の者がゐない場合は日頃最も親しい 戰友 がこれに當る、
残酷だといふ人もあるが介錯は武士の情、眞新しい第一装の軍服を着用する、
距離三十米、目標は左胸乳下の心臓部 ・・・ 手許が狂つて撃ち損ずることはないか、
何故もつと接近して射たぬ?
空砲でさへ三四米では即死する火薬爆發の勢ひで餘り近づいては顔を灼くし、
第一非常な空氣の壓迫で後にひつくり返る惧れがある
監房内でも毎朝五時起床するや身を潔きよめて宮城を拜した中佐である、
最後の瞬間遥かに
皇居 に最敬禮して黙禱したに違ひなく規定の面蔽ひも拒けた事であらう、
嘗て地方のある歩兵聯隊の二年兵が娼妓に溺れた揚句脱營して強盗殺人を犯し銃殺された事がある、
刑場に立つと兩膝がガクガクして姿整が崩れて仕様がない、
指揮官が 「 氣を付け!」 と大喝したら日頃の訓練といふものは偉いものでピタリ不動の姿整をとつた相だ

處刑される相澤中佐に向つて右手横に塚本所長、島田檢察官、岡田、浅野兩法務官と錄事等が並び、
射手は三八式歩兵銃を右手に支へ 蒼白 な面に緊張し切つてゐる、
刀を抜いた指揮官の低い 「 立ち射ちの構へ-- 」 でサッと斜め半歩に開いて安全装置を外す
装彈は唯一彈而も装塡は下士上りの看守長が、射手の眼に触れないやうにやつて
「 よいか、この中に空砲が一發ある 皆の中、誰か一人は必ず空砲を装塡した銃に當るわけだ 」
少し射撃に慣れた者なら、空砲と實砲の區別位は射つた時の手應へで直ぐ解るが
戰場ならイザ知らず、平時我が指の  引金  一つで人を殺さねばならない宿命に際會すると、
大概の者がカーツとなつて 「 自分の射つた彈丸こそ、きつと空砲だつたに違ひない 」
とせめてもの氣休めにする由、
命令とは言へ銃殺の射手になつた印象は生涯深刻に脳裏を失せぬ、
そこで銃の掃除も他の人に絶對に見せず看守長だけで行ふ、
空砲を射つた銃口と實包を發射したそれとはどんな素人にも一目瞭然、
空砲は實包よりも油布が眞黒に汚れてゐるから
「 天皇陛下萬歳!」 の聲が終るか終わらぬかに 「 ネ…射てツ 」 の指揮刀一下、
中佐の身は先づ膝が折れ
上體 が前屈みとなつてドサリ倒れる、
南部式拳銃を右手に、脈を見る檢屍官に近づいた指揮官は
「 絶命です 」 の報告に拳銃を納める、
二 ・二六事件が起こらなかつたら、死刑にならずに濟んだのではあるまいか---
といふ疑問を永久に殘して
相澤中佐の處刑は
戒嚴下の帝都で何等の豫告もなく執行されてしまつた譯である
・・・日伯新聞  昭和十一年八月六日  読書欄


昭和11年7月12日 (二) 香田淸貞大尉

2021年01月28日 14時24分42秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


香田淸貞 

國家安泰を御願ひ致します
・・香田清貞 ・・・死刑執行言渡時の発言

死刑が執行された蒸し暑い日の午後のことだ。
真新しい鉄条網が入念に張られた衛戍刑務所裏門から運び出された一五の遺体は
代々木練兵場一角に設けられたテント張りの仮説安置所に並べられる。

詰めかけた遺族たちが棺桶に納められた屍体と次々に対面した。
顔に掛けられた白い布を剥ぐと、そこには変わり果てた肉親の姿がある。

悲痛と云うか、
悲惨と云うか
・・・・
屍體の顔にかけられていた白布を除いて對面する
遺族の気持こそこの世の地獄であったろう。
眉間を射抜いた弾丸
・・・・
その後部は石榴りゅうのように貫通創で割れている。
・・・・
眼を開き、歯を喰いしばり、
血の引いた青白い顔の無念の形相
・・・・
肉親縁者なればこそ、この淒惨せいさんな姿でも一刻も離れまいと嗚咽しながら
あくこともなく眺め入るのは無理もないことだった。

「 よく見るのよ。
これがあなたたちのお父様よ。
きょうでお別れなのよ 」
和服の喪服姿の香田富美子(二五) は 腰をかがめ、
五歳の長女と四歳の長男を立たせ、二人の幼子の手をしっかりと握り締めた。
蝉時雨が刑務所の木々から聞こえるなか 夫の亡骸を凝視する。
子供たちもなくまいと必死に歯をくいしばる。
周囲から貰い泣きの声が漏れた。
・・・鬼頭春樹著 禁断二・二六事件 から
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「 筆者の従妹に香田富美子という未亡人があるが、
彼女は二・二六事件の首魁香田清貞(大尉) のつまであった。
香田が死刑になったとき彼女は二十五歳で、長女が五つ 長男が三つだった。
---彼女は私に
『 眞崎甚三郎大將はきらいだ 』
と いったことがある。
良人がああなって 初めて眞崎の人格がわかったという。
『 あんな卑怯な人間は軍人ではない 』
しかし、彼女の良人は 眞崎大將を立派な首領と仰いで疑いなく死んでいった。
その夫の純眞な革命的情熱を思うにつけ、
『 私は眞崎さんが にくくてたまらない 』
と フンガイしている彼女である 」
・・緑川史郎・日本軍閥暗黒史
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香田大尉と眞崎大將との關係
香田と眞崎との関係は特に深いものがあった。
香田は眞崎と同郷であっただけでなく、
彼が歩一に士官候補生として配属されたとき歩一旅團長が眞崎少將であった。
しかも歩一に一緒に配属された吉富候補生の保證人が眞崎であった関係上、
この吉富とともにしばしば眞崎邸に出入りしていた。
また、香田が陸士本科に入校したときの學校幹事 ( 後の校長 ) が眞崎であったし、
さらに中尉のはじめ頃歩一在勤中の師團長は眞崎中將であった。
こうした關係から彼は昭和六年頃までは、しばしば眞崎邸を訪問し その謦咳 けいがい に接していた。
ついで眞崎の陸軍士官學校在職は大正十二年八月より 昭和二年の長きに及び、
彼はこの間 校風を刷新し 名声嘖々 さくさく たるものがあり
廣く生徒たちの信望をあつめており、後年 靑年將校の眞崎崇拝はここに由来するといわれる。
・・大谷啓二郎著  二・二六事件


昭和11年7月12日 (五) 安藤輝三大尉

2021年01月27日 14時13分12秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


安藤大尉 

秩父宮殿下万歳
・・安藤輝三・・・死刑執行直前、刑架前での発言

「 安藤輝三、遺族は生前面会の際、
輝三は決して死ぬものではないと言ひ残したりとて、生きたる人を引きとる気持ちで接しおれり。
一、父上よ、母上よ、心安らかにませ、輝三は死にません。
一、兄よ輝三は死にません。
幼き頃の思出が胸に迫る、の揮毫を持帰り、自宅着後、暗に当局の警戒を断り、
憲兵警察に相当反感をいだき居る模様
・・特高刑事の報告

「 国体を護らんとして逆賊の名 万斛の恨涙も涸れぬ  ああ天は  輝三 」
「 さような 万斛の恨みは御察し下され度し  断じて死する能はざるなり  御多幸を祈る
  昭和十一年七月十一日  安藤輝三 」・・同期生に宛てて
「 我はただ万斛の恨と共に  鬼となりて生く
  昭和十一年七月十一日  旧中隊長 安藤輝三 」・・旧部下に宛てて
『 このなかの ああ天は の天は、
天地の天の意味もあろうが、前後の分の調子、あの頃の獄中の雰囲気から考えて、
天皇の天の意味も充分含まれていることを、僕は感じている 。
天皇絶対、吾々は天皇の股肱であると子供の頃からたたき込まれていた当時の青年将校の口からは、
たとえ 口が裂けても言えない言葉であった。
磯部にしろ、安藤にしろ それを敢て踏み越えて書いた意味は大きい 』
・・菅波三郎

元大尉安藤輝三妻の実父静岡市茶町 佐野鎰蔵は、
六日夜 東京在住中の娘孝子 ( 安藤の妻 ) より
「未だ面会許可通知はありません故 面会は絶望かも知れませんが、
明日喪服携行上上京して下さい 」
との 電話を受け、七日午後零時八分静岡駅発上京せるが次の如く語れり
「 既に本人も此の結果を覚悟してやったことであり、今更驚きません。
私共はべつに世間から白眼視されることもなく、却って皆さんが同情して呉れている様に思ひます。
只 娘が案外健気にやって居て呉れるのが一番安心です。
近く こちらに引取りたいと思って居ります。
満洲で戦死したと思へば 充分諦めがつきます 」


「 家族は極めて冷静にして
輝三は幼少より忠君愛国の志篤く 今度の事件も国を憂ふるの余り行動した事であるが
国法を犯し 陛下の宸襟を悩まし奉り 下万民を騒がせました罪は諒として居ります。
今更 輝三の死に対し 軍人の家族らしくない振舞は致しません。
本人は面会の折 妻に対し
「 自分は 殺されても魂は此の世に残り 維新詔書の渙発を見ているのであるから
其の渙発のある迄は埋葬はするな。当分の間は家に帰らない 」
と 洩らして居りますので葬式はしない考えで居ります。
・・・父栄次郎

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十一日には赤飯、メロンが出、
 彼等の獄舎からは夜もすがら読経、放歌、吟詠、絶叫の声が流れ 珍しく自由でにぎやかだった。
反乱の汚名を着て死んでゆく彼等は誠に気の毒だ、
何とか救う方法はないのか、
国が疲弊し民百姓が苦しみにあえぐ事態にあっても為政者の責任は追求されず、
蹶起した我々だけが処断の対象となった。
国政が正常であったなら二・二六事件など起らずに済んだであろう。
今彼等は限られた今晩だけの生命の中に何を考え 何を祈っているのか、
一同の胸中を思えば痛哭 これに過るものはない。

七月十二日の朝が白々とやってきた。
窓外は深い霧が立ちこめ何も見えない、巡視にきた看守を見ると新しい制服に変っていた。
午前七時以降 四号棟から覆面をした将校が五人間宛 三回に分けて出ていった。
代々木原の隅にある狐塚の方向で日曜だというのに空包が盛んに鳴っていた。
私は房内でジッと耳をすましていると、
遠くの方から 「バンザーイ!!」 の声が聞え
同時に  ブスッ!!ブスッ!! という実包音が
響き処刑執行の様子がくみとれた。

私はやり場のない悲しみに包まれて思わず合掌した。
安藤大尉が行かれたのは第一組でガラス戸越しに私らに向って拝んだ。
監視も泣いていた。
( 伊高、あとをたのむぞ ) と 目で語って行かれた。
ガラス越しに見送る安藤大尉の姿、それが今生の見納めとなったのである。
悪夢のような七月十二日の朝方のひととき、
今もあの光景が歴然としてうかび、 生涯忘れることはない。
獄舎の思い出は消えず
歩兵第三聯隊第十中隊 
軍曹 伊高花吉 著 雪未だ降りやまず(続二・二六事件と郷土兵) から 

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蒸し暑い。
しかし、東京渋谷の宇田川町の衛戍刑務所では最後の数時間、
どれほど湿気があっても暑苦しくても、
この国を守れ、お前たちは、朕が股肱なるぞ
との信念に燃え、
天皇が世々伝えられた天壌無窮のご計画を守るべく立ち上がった青年将校たちは、
逆賊の汚名のもと、死にゆくのである。
処刑に促されて牢屋を出る瞬間まで、
天皇陛下をおもい、日本国の行く末をおもい、親をおもい、妻や子をおもい、、
廊下を歩いて刑場に赴くのである。
小伝馬町の牢屋だから、廊下を挟んで、向こうが見える。
中庭も見える。
みんな大声で自分たちの上官の名を叫んだ。
精一杯大きな声で叫んでいた。
窓ガラスで見えない牢屋では、刑務官を怒鳴り散らし、窓を開けさせた。
宇田川町の衛戍刑務所は、大きな涙声が こだましていた。

北島軍曹の話
「安藤さーーん」
「安藤大尉どのーー。」
「中隊長殿ーーー」
すると、
刑場に赴く廊下から、
安藤大尉が、するりと、中庭に歩いてきた。
安藤大尉は、獄中の人たちに向かって、
この度は、皆様に大変ご迷惑をおかけしました。
こころからお詫び申し上げます。
安藤、心より感謝しております。
と いわれたと。 
外では、空砲の演習が始まっている。
そして、天皇陛下万歳の声がして、実弾のピューンという発砲音が聞こえた。
・・・今泉章利氏・2017年7月12日のブログから


昭和11年7月12日 (六) 澁川善助

2021年01月26日 14時09分34秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


澁川善助

諸君万歳を三唱しませう。
天皇陛下万歳
皇国万歳
・・澁川善助・・・死刑執行直前、刑架前での発言

七月十二日 ( 日 )  朝、晴
今朝執行サレルコトガ昨日ノ午後カラウスウス解ツテ夜ニ入ツテハツキリ解ツタ。
一同ノ爲メ 力ノ及ブ限リ讀經シ 祝詞ヲ上ゲタ。  疲レタ。・・< 註 > 
今朝モ思フ存分祈ツタ。
揮毫きごう ハ時間ガ足リナクテ十分出來ナカツタ。
徹夜シテ書イタガ、家ヘノ分、各人宛ノハ出來ナカツタ。
「 爲報四恩 」 ヲ家ノ分ニシテ下サレバヨイト思ヒマス。 ・・< 註 > 
濟ミマセンデシタ。
最後マテ親同胞ニ盡スコトガ出來マセンデシタ。
遺言は平常話シ、今度オ目ニカカツテ申上ゲマシタカラ別ニアリマセン。
一同
君ケ代合唱
天皇陛下  萬歳三唱
大日本帝國 ( 皇國 ) 萬歳三唱
シマシタ。
祖父上様ノ御寫眞ヲ拝見シ、御両親始メ皆々様、
御親戚ノ方々ニモオ目ニカカレテ嬉シウ御座イマシタ。
皆様、御機嫌ヤウ。
私共モ皆元気デス。
浩次、恵三、代リニ孝行盡シテクレ。
絹子 元気で辛抱強ク暮セ、
祖父上様や父上様、母上様ニヨクオ仕ヘシテオクレ。
五之町ノ皆様、御許シ下サイ。
此ノ日記 ( 感想録 ) ハ絹子ニ保存サセテ下サイ。
 百千たび此の土に生れ皇國に
  仇なす醜も伏しすくはむ

・・・ 澁川善助 『 感想録 』 

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< 註 >
読経 祝詞 ・・・澁川善助の観音経 
「 為報四恩 」 ・・・あを雲の涯 (六) 澁川善助

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[チクショウ・・]
七月七日、
面會許可の通知が來た。
嗚呼 何も彼もお終いだ。
七月八日、
大垣さんが家族にまじって面會して來たと言う。
澁川さんに會い度い。
一日だけでいい、も一辺あの温顔に接したい。
然し現在の自分としては會わせる顔がない。
何故澁川さんと一緒に行かなかったのか。
何故澁川さんと一緒に死ねる運命にならなかったのか。
七月九日、
會い度いと、會い度くないと言う二つの矛盾せる気持ちが情に押された。
澁川さんの甥の名をかたって、
佐藤さん ( 奥さんの兄さん) に案内され、渡邊さん御夫妻と衛戍刑務所に赴く。
嚴戒裡の門を入ると憲兵が應接に出る。
桧葉の植込と、木造建築の事務室らしい屋根の間から、
嚴めしい赤煉瓦の高い塀がのぞいている。
アッ、あの中に澁川さん達が居られるんだ。
アア、あの塀一重で・・・・。
面會に來られた家族の方が、三三五五まって、海底の重苦しい沈黙。
顔見知りの方も大分來て居られる。
村中さんの奥さんが挨拶に近よって來られた。
無心の法子ちゃんが駄々をこねる度に、若いお母さんの眼に浮かぶ涙・・・・。
どうして正視出來よう。

永い間待たされた人々が、
やがて面會を濟まして來る人達を振りかえって、ひそひそとささやき合い、
 みんな顔を垂れて、靜寂の中に嗚咽が聞えて來る。
胸に熱湯をつぎ込まれる思いに眩暈げんうんを感ずる。
仁丹をふくみ、瞑目して、歯を食いしばって我慢する。
脊柱の患部が無気味に痛む。
「 今日は面會の方が多いので、
貴方方は御気の毒ですが、明日にしていただき度いのですが 」
憲兵上等兵が申譯なさそうに、そう傳えて來た。
何と言う無礼さだ。
何と言う侮辱だ。
しきりに頭を下げている憲兵に對して、限りない憤りが爆發する。
「 我々は遅くなってもかまわないんだ 」
「 それはそうでしょうが、夕刻五時迄と言う規則で・・・・」
「 規則なんかどうでもいい 」
「 そんな無茶な・・・・」
「 何が無茶だ。我々が何しに來ているか分っているか 」
「 それは分っています。だから四時迄と言う制限を特に一時間延ばしたので・・・・」
「 面會所は幾つあるんだ 」
「 二つです 」
「 何故人數だけ作らないんだ 」
「 そう言うことは上の方の命令で・・・・」
とうとう面會出來ず引揚げた。
權力の横暴に口惜し涙が出る。
七月十日、
朝早く出かける。
今日は直ぐ面會出來た。
憲兵に身體檢査をうけ、法務員の身許調べをうける。
例によって澁川さんの甥になり濟ましている。
係官も全然氣がつかぬでもあるまいが、大目に見ているのであろう。
軍人の面會が目立つ。
同期生の連中らしい。
奥さんに導かれ、澁川さんの御兩親、御兄弟、奥さんのお母さんと兄さん、
渡邊さん御夫妻と面會所に入る。
八畳敷ばかりの土間だ。
直ぐ正面の机の前に、紋付姿の澁川さんが立って居られる。
「 オウッ ! 」
「 オウッ ! 」
見交す眼と眼。
「 頭を刈ったね ( 不肖の頭髪を短くした事 ) 」
「 はッ 」
何時もの澁川さんとちっともかわりはない。
感極まって言葉も出ない。

一應みんなの挨拶が濟んだ
澁川さんの口が徐に不肖に向って開かれる。
「 面會に來る青年將校の中に笑って死んでくれ、と言う奴等が居る。以ての外だ。
 我々はまだ戰っているのだ。
戰場に於ても、刑務所に於ても、死んで戰いは斷じて止めない。
それにどうして笑えるか。
笑って死ねと言うことは銃火を交えている我々の後ろから、負けろと言う事じゃないか。
我々は荒木、眞崎、川島等軍首脳部の陥穽に墜ちて「 尊皇義軍の主張は全部認める 」
と言う彼等の奉じ來たった勅命を信じ
實力部隊を撤収して終わったが爲、こんな結果になって終わった。
残念でたまらないが、將來之と同じ失敗をくりかえさないように、くれぐれも注意して置く。
抜いた刀は折れる迄鞘に収めてはならなかったのだ。
法廷に於ても、十分言うだけのことは言って死ぬつもりで居ったが、
たった一回しか引っぱり出さないで、
然も求刑には十五年と言い渡し、其後死刑の宣告をうけた。
法律上そんな無茶なことがあるか。
然も十分調べもしないで我々に宣告を与えて置いて、まだ調べて居る始末。
全く言語道斷だ 」
傍に臨席している法務官が 「 もっともです」 と思わずうなずく。
「 裏切った者は單に軍首脳部ばかりではない。
 事件最中、味方と思っていた者の中から續々として裏切り者のを出した。
その奴等全部に、北一輝が法廷に於て、めっきり白髪の多くなった頭を振り立てて
「 俺を一緒に殺してくれ 」 と絶叫していた道義の姿を見せたかった。
俺は絶對死なぬぞ。
肉體は亡びても魂はあくまで此の世に残って、
楠公の七世討奸のように、永刧に志を遂げる迄戰うのだ。
俺達は命が惜しいと言うのではない。
明治維新に於て有爲な人材を失ったと同じことを、
今日再びくりかえすことによって、日本が亡國たらんとすることを慨歎するのだ。
君達はどうか、俺のこの言葉を忘れないで記憶して置いて貰いたい。
事ここに至っては、一切は君達の双肩にかかっているのだ。
冥々の加護を信じて奮闘してくれ。
それだけが願いだ 」
「 観音經に修羅を以て得度するものには即ち修羅の身を現じて云々とある。
然り、我々も修羅と化して七生討奸を念じている 」
それから澁川さんは御兩親に向って、
「お父さんにもお母さんにも、不幸ばかりして來ました。
 然し忠孝並び立たない世の中だから、我等のようなものが必要なのです。
私は大正義の爲に戰って來たことを、例え死刑になっても喜んでいます。
分っていただけますか 」
澁川さんとしては、生みの親に、
國家の手に依って惨殺される自分を見せなければならない現實を、
最も苦悩されたのであろう。
お父さんは、はふり落ちる涙を拂いも得ず、
「 分って居る。お前のゆうことに惡いことはない 」
「 有難う御座いました 」
突如として澁川さんの兩眼から、とめどもなく流れ出て來る涙。
絶對境に於て最後の安心を得た歓喜の涙だ。
やがて涙を押しぬぐって澁川さんは奥さんに向って言った。
「 絹子には随分苦勞をかけて濟まなかった。
唯今こんな身になってからでは遅いかも知れないが、お詫びする 」

やがて澁川さんは言い遺すことを終り、
「 獄中でみんな非常に元氣だ。
 事件關係者十七人が全部第四舎と言うのに、丁度入ったのも不思議な因縁だ。
刑務所でも割合に寛大に待遇してくれ、お互い同士話すこと位は大目に見てくれる。
自分が毎朝晩勤行すると、みんなが  『 澁川さん、もっと大きな声でやって下さい 
  」
等と言っていたが、近頃は自分に和して勤行するものも出て來た。
近頃は 『 死ぬ前に座談會を開いて、みんなの話をレコードに吹き込んだら、よく賣れるだろうなあ 』
等と言っている連中もある。
勿論レコードは冗談だがみんなが一つ部屋に集って、
せめて熱いお茶とお菓子位で最後の別宴兼座談会を開かせてくれないかなあと言うのは、
みんなの切實な願いだ。
林少尉が
『 俺は二月事変で、天皇機關説の軍隊に殺された父 ( 林大八 聯隊長---上海事変で戰死 ) の 仇を討ったのだ。
 俺の仕事はこれからだ 』
と 言っていた。
之は一番若くて元氣だが、
首相官邸で、前から来る警官を袈裟懸けに斬りたおし、
後ろから組みついた警視廳の柔道三段と言う猛者を、
モロに背負投げにして、之を一刀の下に斬り、
一度に二人たたっ斬ったのは目覺ましいものだった。
それから、末松大尉が護送されて來ているね。
先日散歩の時間に反對側を悠々と例の調子で歩いているのを見たので、
一寸合圖をしたが氣がつかなかったらしい 」
等と獄中の模様や當時の様子を話したり、
「 死刑になったら先ず一同打ちつれて、在京の大官達を訪問し、
それから湯河原に行って牧野に挨拶し、
此の夏はゆっくり伊豆で避暑をし、
秋になって涼しくなったら興津に西園寺を訪ねる約束だ 」
等々、反對に我々の気分を輕くして励ましたり、慰めて下さった。
「 三角君は身體が弱いのだから、大事にしなければいけない。
夜船閑話にも、心気上昇すれば色々の病發る、と 書いてある。
何時も氣持を樂にしていることが大切だ。
何も彼も先ず病気を癒してからなければいけない 」
と 細かい注意までして下さった。
「 おやじが埼玉から、お約束の玉露を持って來たんですが、
差入れがきかないので残念だと言って居りました 」
「 ああ、そうかね。それは有難いことだ。
瀬邊さんに安心させないで死ぬのが残念だなあ。
早く御健康になられるように傳えて下さい 」
「 はあ・・・・。それから木村さんから、よろしく、と言うことづけでしたが・・・・」
「 うむ、木村さんには直接間接みんなが世話になっているんだから、
決して恩を忘れないように、 後に残っている人達で世話をして・・・・」
其処へ、隣の面會室に行く爲に、竹嶌中尉がドアの所を通りかかり、
奥さんを見て 「 やあ 」 と 元氣な声で挨拶に立寄られた。
澁川さんと同じように死んで行く人とは思えない顔色態度だ。


二十分の面會時間が十分超過した。
愈々お別れだ ( それでいいのか、然し そうしなければならない )
もう之で再び生きて相見ゆることの出來ないお別れだ。
法務官に促されて席を立つ。
澁川さんは御兩親初め外の方達にも、それぞれ挨拶をして居られる。
魂が現實を離れて、余所の世界の出來事らように思われて呆然と立ちつくして居ると、
奥さんが涙声で、
「 三角さん、之が最後のお別れです 」
と 注意された。
ハッと我にかえって夢中で澁川さんの手にすがりつく。
堰を切ったように涙があふれて來て、拳を伝って流れる。
「澁川さん----これからは僕の方から行くことは出來ませんから、
貴方の方から時々訪ねて來て色々と教えて下さい 」
「 よし行くぞ。身體を大切にしてね 」
しばし無言。
「 いずれゆっくりお會い出來ることと信じています 」
「そうだ。今度會う時には、別れる心配はなくなるんだね 」
澁川さんの姿が扉の向うにかくれて終った。
不肖は何時迄も、何時迄も放心したように立ちつくして、その後を追う。

七月十二日、
朝八時過ぎ目覺めたまま床の中に横たわっている。
階段をあわただしく上って來る足音・・・・
( 奥さんだ )
不吉な豫感が電撃のように全身を衝撃する。
奥さんは枕許に坐ったまま、しばし無言。
「 澁川が 」
不肖は耐えきれなくなって布団をかぶった。
「 澁川がとうとう今朝八時・・・・」
奥さんの嗚咽が空氣を振わせ、瞬間血が逆流して骨と肉がばらぱらに解けた。
體中を狂気した魂がかけめぐる。
「八時二十分に銃殺されました・・・・。
只今憲兵隊から通知が參りましたので直にこちらへお知らせに來たのです・・・・」
石渡さんが目をしばたき乍ら、黙って入って來られて、うなだられて居られる。
追々外の連中も集って來た。
香煙がしずかに頭上に輪をえがいている。

午後二時、遺骸引取り。
遺骸は荼毘に附し、すぐに會津若松に帰られることとする。
自動車が制限されている爲、
二台の自動車に澁川さんのお父さん、奥さん、奥さんの御母さん、
兄さん、渡邊さん御夫妻が分乗され、石渡さんと松浦君と不肖は憲兵の好意で、憲兵隊の自動車に同乗。
代々木原南隅の指定の場所では、既に七人の方の分は引取りを濟ませて、
我々が一番後で到着したわけであった。
刑務所から明治神宮を望んだ右側に、ずらりと霊柩車と乗用車が並べられ、
左側に遺族控え席の天幕が張られ、
そのずっと後ろが十五柱の神霊を誅戮ちゅうりくし奉った刑場であろう、
無気味な土塁がつまれてある。
薄日がじりじりと草を蒸して、代々木原頭は一齊に死の沈黙。
粛々として一組ずつ取られる中に、自動車のきしむ音がヒステリックに響いている。
田中中尉の奥さんと会う。 低頭。
「 田中がよろしくと申して居りました 」
結婚して二ヶ月にして此度の事変に遭遇され、
雄々しくも後を守って差入れ等 奔走して居られた奥さん・・・・。
お若い喪服の姿が悲痛にも万斛の恨みを投じている。
水上君の遺児が何も知らずにたわむれ、待ちくたびれてむずかる度に、人々の涙をそそる。
此の人々の恨みだけでも・・・・。
其処へ憲兵が來て、執行は七時に開始されて、八時三十五分に完了したことを傳える。
到着順の爲、最後にまわされた。
やがて漸く日が西に傾く頃、
澁川さんのお父さんと、奥さんと、奥さんのお母さんが澁川さん入所中の生活、
執行當時のことに就て報告を受ける爲、刑務所長の所へ行かれた。
それが濟んで愈々刑務所の塀にそうて、裏口に當る遺骸引渡所に赴く。

心臓が調子を外れて踊っている。
既に意志もなければ、思考する能力もない。
高い塀の横腹に作られた小さなくぐり戸を入る。
刑務所の裏庭とも思える所に天幕が張ってあって、その下に寝棺が安置してある。
十四人の人達にも同じ様にしたであろうように、僧侶が型の如く讀經している。
香煙がむせるようだ。
立合いの法務官や看守が眼を眞赤に泣きはらし、すすり泣くのがきこえる。
あの中に澁川さんが入って居られるのだろうか。
本當の澁川さんだろうか。
みんなの焼香が濟むと、二人の法務官に依って棺の蓋が靜かにとられた。
みんなかけよった。

白装束。
( あっ、やっぱり澁川さんだ )
本當に殺しちまいやがった! 畜生!
繃帯が額を鉢巻にして顎にまわされている。
銃丸が眉間と顎を貫通しているに違いない。
誰が撃ちやがったのだ。
面會の時言われたように、
歯を食いしばって、半眼に開かれた眼が虚空をにらんでいる。
冷たく合わされている手を、必死と握りしめて居られる奥さんの胸中は・・・・。
然し不肖等自身、精神の常態を失っている。
何も彼も夢中、今更拙い筆に委ぬべくもない。
棺の蓋が蔽われ、看守の手に依って霊柩車に運ばれる。
添えられている花に一入悲しみが湧く。
午後六時八分、
霊柩車を先頭に、行列は代々木原を突切って、
しずしずと指定された落合火葬場へ向かう。
夕闇は神宮の杜に迫って、
ねぐらに急いでいた鴉のことが、不思議と混亂した頭に残っている。
警戒の兵隊が、嚴粛に捧げ銃をして弔意を表する。

午後六時半、嚴粛な黙禱の裡に棺は、かまの中に入れられた。
やがてスイッチが入って、
ヂヂヂヂと地獄の底から響いて來るような騒音が、みんなの體中を包んだ。
石渡さんの朗々たる御題目が、
闇を貫く光明のように、たたきのめされた魂に炬火かがりびを點ずる。
ぬぐえあえぬ涙を押えて、北さんの奥さん、西田さんの奥さん方が、それに和せられ、
それが次第に広がった。
「 南無妙法蓮華經 」 の 声は天地幽明にみなぎり渡り、
不肖等澁川さんと感応道交するようであった。
突如として線香台に立った石渡さんが宣告された。

「謹んで澁川善助さんの神霊に申上げます。
事志と違い、満腔の恨みを呑んで虐殺された御心中御察し致します。
どうか、在天の同志の方々と共に我々を導き下さいますよう。
奸雄と裏切者を掃蕩することをお誓い申します」

憲兵も警官も、すべて涙を押し拭っている。

澁川善助に兄事していた、三角友幾の手記である
軍隊と戦後のなかで 末松太平 著  夏草の蒸するころ から

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
処刑の前日の11日、

面会に訪れた直心道場の玉井賢治に
澁川善助は、
眞崎、荒木、山下等の将軍連中の名を挙げて、物凄い形相で
『 彼等は我々をたきつけておきながら、イザという時になったら裏切った。
だから この首を打ち落ちたら、虚空を飛んで行って 彼等の首つたまに食らいついてやる 』
と 、言った・・という

妻キヌは
死刑は予て覚悟の前なれば 今更申上ぐることはありません。
但し、昨十一日 刑務所に面会に赴きたる際、
刑務所にては 尚今後二、三日は面会を許さざる旨 申渡されたるを以て
上京中の親戚一部は帰郷し 一両日中 再上京することとなしたるに
之を偽はり 急遽執行さるるは 遺族のを無視せる不当の処置であると思ひます、
と 不満を洩らしたり


昭和11年7月12日 (九) 栗原安秀中尉

2021年01月25日 14時02分01秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


栗原安秀

霊魂永へに存す。
臣栗原安秀---栗原死すとも昭和維新は死せず
・・栗原安秀・・・死刑執行直前、刑架前での発言

事件が鎮圧され、
将校たちは代々木の陸軍刑務所に収容されてから、
家族との面会はいっさい許されなかった。
七月五日 死刑の判決が終わって初めて面会の許可が下りた。
六日から十日までの五日間、
看守立会いの面会室でテーブルを挟んでの面会があった。
軍人として涙一つ見せることなく従容として刑架についた彼らであったが、
裸の人間になって、親、兄弟、妻子などと相対するとき、
その生別の心境や情景は、まさに悲劇を超えた、表現のできないシーンが繰返されたことであろう。
面会が打切られたことは刑の執行が迫ったことであり、きょうかあすかと合掌する栗原家に、
十二日早朝に、憲兵隊からの通知状が届いた。

御通知
栗原安秀ノ御遺骸御引取ノ為、本十二日正午(十二時) 東京衛戍刑務所ニ出頭相成度。
昭和十一年七月十二日
東京衛戍刑務所長
栗原  勇殿
注意事項
一、御遺骸御引取ノ為寝台車又ハ霊柩車を準備セラルヽコト
二、混雑ヲ予防スル為成ルヘク近親者ニ限ルコト、
      之カ為御引取場所ニ於テハ乗用自動車ヲ成ヘク二台以内ニ制限セラレタシ
三、到着後直チニ代々木練兵場渋谷口受付ニ連絡セラルヽコト
四、火葬ノ場合ハ各火葬場ニテ優先的に取計フ如ク処置セラルヽ筈
五、細部ニ付テハ受付に連絡セラレタシ

すでに覚悟した死の知らせであったが、
この通知状を手にし、
さすがに母克子さん、夫人玉枝さんをはじめ妹さんたちは、わっと泣き崩れる姿は哀れであった。
事件直後、曹同宗管長、鈴木天山師の導きによって仏門に帰依していた父、勇大佐は、
静かに仏壇に香を焚き、合掌の数珠をまさぐりながら、読経を唱えし続けた。
ややあって、この日を予期して待機していた親戚一同と共に、霊柩車を手配し、
正午前に指示された代々木の衛戍刑務所に赴いた。

「 当日親戚縁者二十名と共に、午前十一時半、
代々木練兵場の一角、陸軍刑務所に参り、
先づ 両親及び嫁の三名は刑務所長、塚本定吉氏の懇論を受け、
午後零時二十分頃
衆と共に裏門より死体安置所に入り、棺蓋を開いて一同告別を行ひました。
前日は元気溌溂たりし十七貫の大兵の彼、今や全く見る影もなし、
眉間に壮絶なる一点の弾痕
眼を開き歯を食ひ締りたる無念の形相を見ては、
肉親縁者として誰が泣かざる者がありませう
一度に悲鳴の声が起りました
私は此時 声を励まして 死骸に向ひ
『 安秀、国家のためと思ひ、よく死んでくれた
父は満足しているぞ
国家と一家の前途に関しては 何も心配を残さず 安心して成仏せよ 』
と 慰めざるを得なかった。
又 一同に対しては
『 皆さん 昨日までは笑っていて下さいと申しましたが、
今日は思ふ存分泣いて下さい 』
と 願ふ他なかった 」

栗原氏の書いたこの様な悲劇の場面は、
おそらく他の十四遺族全部に、次々と繰返されたに違いない。

遺体との対面を終り、
引渡しを受けた遺骸は、
ただちに用意の霊柩車に移され、
車を連ねて代々幡火葬場に直行した。
すでに待機していた火葬場係員によって即刻、荼毘に付された。
骨あげを待ち、
遺骨になった栗原中尉は、玉枝夫人に抱かれて、
午後四時頃、
変わり果てた姿で百三十七日ぶりで我家に帰った。
・・・
河野 司 著  ある遺族の二・二六事件  から


昭和11年7月12日 (十) 對馬勝雄中尉

2021年01月24日 13時59分43秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


對馬勝雄 


・死者の念願を受け継いで、必ず陸相を呪ひ殺す
・憂国の至情を汲まず死刑にせしことは、日本の国が怖くなった
・寺内陸相は閣僚とともに 祝杯を挙げて居るだらぅ
・勝手に殺して死体の後始末をして呉れとは、刑務所は無責任極まる



元中尉 對馬勝雄 妻千代子は
事件直前より実父静岡市鷹匠町三丁目一五予備歩兵少佐松永正義方に産後静養の為
帰郷し目下腎臓結石病にて重態なるが、
六日、上京せる実父の通知により夫の死刑判決を知り
「 仮令一目なりとも面会し度し 」 と 懊悩しあり。
尚 母親 ( 千代子の母 ) は
「 判決のあった以上 仮令時期を失したりとは言へ
せめて武士らしき最後を遂げて呉れる様祈って居ります 」
と 洩らせり。

「 自分の自決せざりしは申訳なし。
生に対する執着に非ず、自己の目的遂行のためなり。
自分の信念は公判廷に於て述べた通り。  国民に公表せらりしは遺憾なり。
自分の信念は変わらず 又 行動は不正ならず。
今度の判決は誤りなり・・・・・・・・( 八字不明 ) 覚らず  その時は吾人の墓前に於て切腹して詫びるべきなり 」
・・・仙台より上京、面会せり 桜井某 談


昭和11年7月12日 (十一) 中橋基明中尉

2021年01月23日 13時56分47秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


中橋基明 

陛下に対し奉り
決して弓を引いたのではありません
・・中橋基明 ・・・死刑執行言渡直後の発言

絶筆
只今最後の御勅諭を奉讀し奉る。
盡忠報告の至誠は益々勃々たり、心境鏡の如し
七月十二日午前五時


二 ・二六事件の第一次処刑者として、中橋基明が他の同志とともに銃殺されたのは、

昭和十一年 ( 1936年 ) 七月十二日 朝のことである。

遺体は通夜を待たずに、そのまま幡ケ谷火葬場で荼毘にふされ、
骨灰となって家族の許にもどされたのは、もう夕闇が迫る頃であった。
その日は朝からむし暑い曇り空だったが、折から激しい驟雨しゅううに見舞われ、
さながら遺骨を出迎えた家族の悲涙を思わせた。
葬儀は身内だけで読経もなく執り行われた。
すでに遺族は、一切の法要と弔問の辞退を軍当局から申し渡され、
くわえて警備と称する憲兵の監視を余儀なくされていたからである。
叛乱者の罪は、一死をもっても贖あがなえないことを、軍当局はそうして黙示したのである。

しかし初七日も過ぎた頃、世田谷区太子堂の中橋の実家、退役陸軍少将垂井明平邸を訪れた軍人が二人いた。
別々にやって来た二人はともに軍服で、あたりを気遣う風もなく、重い静寂に閉ざされた喪家そうかの門をくぐった。
門前を徘徊する憲兵を予期したなら、私服にでも着替えそうなものだが、
二人とも星と桜の近衛の徽章きしょうと 将校の肩章に恭うやうやしい敬礼を受けた。
事件後に加えられていた、革新将校への容赦ない弾圧を考えれば、
垂井家への弔問がいかなる譴責けんせきを招くか、測りがたい状況であった。
ましてその二人は、ともに中橋と同じ近衛歩兵第三聯隊の将校で、
依然から革新将校の動向を調査していた憲兵隊には、要注意人物として知られた存在だった。
また 彼ら自身も、垂井邸にはたびたび出入りし、親しい朋輩として中橋の実父垂井少将はじめ
家族とも懇意の間柄だったから、その危険は知悉ちしつしていたはずである。
ただでさえ、連累を恐れて 逆賊となった刑死者の家を訪れる者は皆無に近かった。
それが不慮の死なら、まだ納得がゆく。
が、事件から四ヶ月、誰の目にも中橋の死は既定の事態であり、
帝都に施行されていた戒厳令も解除され、
軍部を除けば事件そのものも忘れ去られようとしていた時分のことである。
その弔問が一様のものでなかったことは明らかである。

はじめにやって来たのは、田中軍吉大尉であった。
近歩三第二大隊長代理で、第七中隊長代理だった中橋の直属上官であり、
事件後はその第七中隊の長となっていた将校である。
事件後、訪れる者もなく 火の消えたような家に逼塞ひっそくしていた垂井家の人々にとって、
田中の来訪は意外であったろうが、
田中が玄関で大声で刺を通すと、明平を除く全員が出迎えて出て来た。
いずれも打ち沈んだ表情で、無言で頭を垂れた。
「 憲兵は平気でしたか 」
顔見知りの実母・宏こうが位牌を祀まつった仏間に案内しながら、田中を気遣った。
その頃もまだ憲兵が二人、特高の刑事が一人、邸のぐるりを固めていたのである。
「 なに、悪いことをしているわけじゃないんですから 」
と 田中は以前と少しも変わらぬ磊落らいらくな様子で受けた。
一階の六畳の仏間は、明平が鎮海湾要塞司令官から兵器本廠長として帰国後、
この家を購入した際、もっとも手を入れた部屋であった。
明平もまさか自分より早く次男の基明が収まることになるとは考えてもみなかったろう。
部屋の北側に設けた仏壇の前に小机が置かれ、その上に真新しい位牌があった。
田中はその前で、しばらく凝然ぎょうぜんと位牌に見入っていたが、
「 至徳院釈真基居士・・・・」
と、中橋の戒名を唱えると席を外した田中はなおも位牌を見やっていた。
「 田中さんには、ほんとうによくしていただきました。ありがとうございます。
基明もこんなことになりましたが、これもあの子の運命と諦めております 」
田中の傍らで、宏が型通りの礼を言った。
田中は中橋の原隊、近歩三の先輩として兄事けいじしていた将校だが、革新将校の先達でもあった。
「 ・・・・運命です。まったくその通りですよ。
ご子息はきっと天の命じるままに蹶起に参加なさったのでしょう 」
「 でも、なぜ北満から戻ったばかりの基明でなければならなかったのでしょうか 」
初七日のために実家に戻っていた次姉の久子が、思い余った様子で尋ねた。
「 さあ・・・・、ただ、今の近歩三には他に人がいなかったせいかな 」
「 それなら、近歩三でなくてもよかったのじゃありませんか 」
久子は執拗だった。
幼い時から歳も近く、一番仲の良かった姉であった。
「 僕もそうは思いますが、中橋には近衛としての役目があったのではないでしょうか 」
田中は、事件当日、宮城へ入った中隊を捜し、
そして中橋が宮城に放置していった第七中隊を営舎に引き連れている。
しかし、あえてそのことは口にしなかった。
田中はそれから間もなく垂井邸を辞した。

続いて飯淵幸男中尉が訪れたのである。
飯淵は三期後輩の隊付中尉で、
やはり革新将校として中橋不在中、同志としての連絡にあたり危険視されていた。
田中と違い、飯淵はびっくりするほど憔悴の色を浮かべ、力なく位牌の前についた。
家人がその異常を感じたのは、無言のうちに方通りの焼香が済んでからのことであった。
「 すまない、ほんとうに悪かった。・・・・俺の代わりに死んだんだ 」
突然、飯淵は顔を伏せ、嗚咽おえつするかのように叫んだ。
明らかに個人となった中橋に対して謝っているのである。
久子の表情が変わった。
「 何かご存じなのですね 」
「 ・・・・いや、僕がしっかりしていたら、と 残念なんです 」
久子の強い口調に、飯淵は口ごもったが、それが飯淵の謝罪の意味とは考えられなかった。
しかし、その場は宏が穏やかにおさめた。
それから、いくぶん平静を取り戻した飯淵から、
二人がその日やって来たのは けっして偶然ではないことを知った。
戒厳令が解除され、田中大尉の待命 ( 馘首かくしゅ ) が 決まったこと、
そして飯淵自身も軍籍から離れる覚悟がついたこと、
そのため もう彼らには憲兵も軍も脅威にはならなかったのである。
飯淵も、ついに それ以上は口を噤つぐんだまま帰った。
久子は、さすがに弔問者に対する礼として詰問を差し控えたが、
その傍らに控えていた末弟の武明は、そんな姉が不満であった。
明らかに兄の事件が因となって、軍を離れることになった二人の弔問は、
時日を同じくしているだけに、何かよほどの意味があるように思えてならなかったのである。
それは 数日前、最期の面会の際ら兄が洩らした言葉に抱いた名状しがたい疑念、
そして刑務所長から聞かされた 他の受刑者とは異なる兄の死に様に受けた衝撃など、
武明の心底に淀んでいた腑に落ちないことどもと、どこか通底するものだった。

武明が母と久子とともに、代々木の衛戍刑務所へ出向いたのは、
死刑判決の下った翌々日、七月七日が最初であった。
カーキ色の夏外被を着た中橋は、存外元気そうに三人を迎えた。
しかし、その時は事件のことは一切触れず、ただ家族の消息をたしかめたに過ぎなかった。
・・・
ものものしい警戒の中での重圧感に因縛しゅうばくされ、不得要領に貴重な時間を失したような面会だった。
二日後、
「 どうしても、基明の真意を知りたい 」
と、再度面会に出向いた久子に、武明も同道した。
母は忍びないといって来なかった。
母の姿がないのを看て取ってか、中橋の態度にもいくぶん余裕が感じられた。
すでに中橋は死を達観している様子だった。
憲兵の立会いを警戒して、中橋が筆談で語りかけた。
「 笑って死んで行くから、何も心配はいらんよ。
俺は計画には参画しなかったけど、やるだけのことはやったから思い残すことはない 」
と むしろ さっぱりした表情を見せ、判決に対しても仕方がないという風な感じだった。
気丈な久子が涙ながらに、
なぜこんな真似をしたのか、
と 糾ただすと、少し顔を歪めた中橋は押しだすように答えた。
「 けっして天皇に弓を引いたわけじゃないんだ。だから半分は納得し、半分は納得しない 」
指先に力が入っているのがわかった。
そして
「 しかし、俺たちのやったことは十年後になってわかるだろう 」
と 語を継いだ。
それが虚勢だったにしても、いかにも自信家の兄らしく振舞うその優しさに感極まり、そして・・・・
「 兄さんの志をついで、僕がやる 」
と 武明は震える指で書いた。

帰路、二人は一言も言葉を交わさなかった。
久子も武明もそれぞれ中橋の語ったわずかな語句を反芻し、懸命に理解しようとしていた。
でなければ哀惜あいせきの情に、たちまちおぼれてしまいそうだったからである。
だが武明には、どうしても意味の判然としない一条があった。
・・・・天皇に弓を引いたわけじゃない。
陸軍将官の家に育ち、末弟とはいえ、すでに府立一中を卒業していた武明は、その言葉の重大さを知っていた。
国民として、まして帝国軍人として それほどの大逆はない。
しかし、なぜ兄は死を目睫もくしょうにして、なお弁明しなければならなかったのか。
覚えがあったのだろうか。
武明は、事件報道がはじめて解禁された三月二十日の号外、七月七日の事件判決もそらんじるほど精読していた。
だが、新聞報道のかぎりでは兄の行動にその懸念はなかった。
兄の罪状は高橋蔵相殺害の一点である。
たしかに中橋らは重臣を殺傷し、国民を壟断した。
それが、結果的に軍法上、反乱とされたのは理解できる。
が、仮にも天皇に対し弓を引いたと指摘されることになるとは考えられなかった。
兄が近衛将校だったからなのか、とも思った。
が、ともに生い立った武明の知る兄は、軍人らしからぬ軍人で、死に直面してなお近衛将校の矜持きょうじがあるとは、
これもかんがえられなかったのである。

七月十二日朝、ついに軍から遺体の引き取りに来るよう連絡が入る。
宏と久子、武明の三人が時間に衛戍刑務所の安置場に行くと、各々同志の家族が集まっていた。
その場からすぐに火葬場へ運ぶので待機するようにとの通達。
やがて柩が運ばれて来た。
中橋の遺体は、眉間の真っ白な包帯を巻かれているのを除けば、眠っているような静かな表情だった。
遺族は何よりの慰めであった。
しかし、付き添って来た 刑務所長塚本定吉の一言は、武明には衝撃的なものだった。
「 ご立派な最期でしたが、中尉は三発まで生きていらしたんですよ 」

刑の執行は粛然と行われた。
第一師団から選抜された正副二名の射手はすべて将校で、
十㍍の一に銃架を構え、正射手が眉間、副射手が心臓部に照準する。
通常眉間の一発で絶命するといわれ、実際彼らの大半が一発で済んでいる。
例外は第一組の安藤輝三と栗原安秀の二発、そして第二組の中橋の三発である。
この三名については後述する奇しき因縁があるのだが、
とくに三発を受けた中橋の銃殺は異例中の異例であった。・・・リンク →・・・万民に 一視同仁であらせられるべき英邁な大御心が 我々を暴徒と退けられた
死の瞬間、基明は何を想ったか、そのわずかな動揺が名手の照準を狂わせたのか、
むろんさだかではないが、塚本からその異状を知らされた時、
武明は はっきりと兄の生への未練を感じた。
そして無念の死であったことも。
いまだ知れないが、事件の中で兄はもっと大それたことに関わっていたにちがいない。
日を追ってその思いは、武明の裡にしっかりと根づいていった。
そんな折、田中、飯淵の二人の弔問を受けたのである。

宮城占拠の噂は事件直後から軍内外に囁かれていたが、
さらに近衛の一隊が侵入したという近衛兵の証言を得て、なかば公然の事実のように取り沙汰されたのだった。
としても、軍がそれを公に否定するわけにはいかない。
その意味でただ一人、中橋憎しの情が募ったのか、中橋への報復はその遺骨にまで及んでいる。
昭和十二年三月二日、
衆議院陸軍委員会で無所属の前田幸作代議士は、陸軍次官梅津義治郎に対しての質問に
中橋の遺骨の処遇について質をした。
「 ・・・・所謂 中橋中尉の白骨の如きは、佐賀市の出身でございましたが、
佐賀駅に下車することさえも、憲兵当局の干渉がやかましくて、許されなかったのでございまして、
佐賀駅から二つ手前の神埼という小さな駅に、中橋中尉の白骨を降ろして、
密かに何か窃盗品でも運ぶかの如くに、我が家に持ち帰らしめた・・・・」
中橋の遺骨は、養家の墓所がある佐賀市の正蓮寺に埋葬するため、明平の弟 垂井保平が運んだ。
それにも事前に憲兵の指示があり、白い函は目立つので別の色布で覆い、形も長方形にした。
この前田代議士の陳述は事実で、佐賀駅で降りようとすると、憲兵が来て下車を拒否されたという。
「 不穏な動きがあり、暴行でも加えられる恐れがある 」
との申し条だった。
いかにも尊皇の志が篤い土地柄とはいえ、日時も知らずに遺骨を待ち受ける暴漢がいるとは思えない。
これも冒頭の葬儀の辞退を強制されたことに通ずる軍の嫌がらせであったろう。

軍紀際で聯隊旗を奉じる 中橋連隊旗手
リンク
万民に 一視同仁であらせられるべき英邁な大御心が 我々を暴徒と退けられた
中橋中尉 ・ 幸楽での演説 「 明朝決戦 やむなし ! 」 

仲乗匠 著
「 ワレ皇居ヲ占拠セリ 」 から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「 中橋基明の死刑執行の通知を受けましたが 予て覺悟は致して居りましたが感慨無量です。
然し、故人も刑務所に収容されて以來 日夜多數の本を閲讀した結果、
大變修養になり 過去に於ける自己の行爲が解ったと云ひました。
然し、何と申しましても若い者は一本気で事の善惡を考へずに 思った通り實行するので困ります。
今少し冷靜に考へて呉れるとよかったと思ひます。
如何にしても國法を犯した罪は輕くありませんから 當然の處分と諦めて居ります。
・・・父 


昭和11年7月12日 (十二) 丹生誠忠中尉

2021年01月22日 13時52分48秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


丹生誠忠 

死体をよろしく頼みます
・・丹生誠忠 ・・・死刑執行直前、刑架前での発言

「 私たちは誠忠が二十六日 事件を起こした事を知り、

翌日二十七日 山王ホテルに電話で連絡しました処
「 陛下の御為 歩一、歩三、近歩三の一部を以て事を起し、信念を以て善処する 」
との事でありましたので、
軍人は最後が大事だと言ひ聞かせました処、
其の点は安心して呉れ と申すので安心して居りましたが、
二十九日夕刻 刑務所に収容せられたとの事で、
何故自決しなかったかと 非常に残念に思ひました。
誠忠にも相当の理由あり、自決を中止したものとは考へては居りますが、
公判の結果 死刑を宣告せられ
面会の通知を戴き 面会致しました際、
人は信念を以て事をなしたる以上 信念を以て事を貫くべきだと
特に軍人の子と生れ 軍人になりたる以上 最後丈立派にやって呉れと、呉々も話しました。
本人も非常に元気で必ず最後は立派にやるからとの事を申し、
家の事に関しては特に申しませんので安心致しました。
誠忠は最後迄 正しいことをしたと信じて居り、生に対する執着が少ない様でした。
然し 最後の状態を聞く迄は不安でしたが、刑務所長 ( 塚本定吉 ) に 面接し当時の状況を聞き、
立派な最期をなしたるとて安心致しました。
死顔も見、又 本人の遺骨を受取りましたことは有難いと想って居ります。
当局の人々に非常に御骨折を掛けました事を御詫申上げますと共に、
種々御世話になりましたことに対し感謝致します。云々
・・・母広子、叔父・折田四郎
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
丹生誠忠中尉の遺骨

丹生誠忠中尉の本骨は、

四十六年後の今日 、«昭和56年 1981年 »
まだ 未埋葬のまま 賢崇寺に安置されている。

丹生家は鹿児島藩の由緒ある士族で、
誠忠中尉の父は、海軍大佐丹生猛彦、
母は陸軍中将大久保利貞氏の息女で、
生粋の薩摩隼人の出である。
又、母方の関係で、
当時の首相、岡田啓介大将とは姻戚に繋がっている。

陸士を出て歩一に配属、
昭和九年中尉任官のあと、事件の前年に、
本間雅春大将の媒酌で、東京の山口家の息女、寸美奈子さんと結婚した。
その夫人は中尉刑死の五年後に再婚し 丹生家を去っている。
以上の背景が複雑に重なって今日になっていると思われる。

父猛彦氏は 事件の前年死去し、
母は鹿児島を去って東京の縁戚方に身を寄せていた。
事件が勃発し、
誠忠これに参加し、
岡田首相襲われたその日は、
母は新婚間もない誠忠宅にいた。
叛乱罪の汚名のもとに、誠忠が刑場の露と消えたとき、
鹿児島の軍人一家丹生家の立場の苦悩は想像に余りある。

中尉の遺体引取りには、
丹生家から母と京都の叔父とが立会い、
火葬場の遺骨は山口家に帰って葬送が行なわれたが、
鹿児島の菩提寺への埋葬はなかった。
その後、仏心会が発足し 賢崇寺での法要が営まれるようになり、
その法要には 山口夫妻、寸美奈子未亡人は欠かさず参列されたが、
丹生家の人の姿はなかった。

こうした経過から推して、
中尉の遺骨は丹生家に引取られることなく 未亡人のもとに安置されていたと思う。
山口夫妻すでに逝かれ、寸美奈子夫人 また 再婚で丹生家を去り、
今ではこの間の事情を確かめることができない。
臆測されることは、
未亡人が丹生籍を抜くに当り、
両親によって遺骨が賢崇寺に托されたものと思われるのである。

十九年後半から戦況の悪化により、仏心会の行事も中止のやむなきに至り、
賢崇寺もまた 二十年四月、米軍機により爆災、消失した。
二十二士分骨合祀の厨子はこなごなになったが、
中尉の本骨は焼跡に無事の姿で残っていた。

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« 戦後の丹生家の消息探す為に、姻戚の岡田啓介元首相に手紙をだす »
・・扨さて、突然書面を差し上げます不躾しつけを御許し願ひ上げます。
小生は古い海軍将兵故河野佐金太の次男で、
昭和三年東京商科大学を卒業、目下日本国土開発株式会社に勤務しある者にて、
小生の次弟が、過る二・二六事件に参加し、
湯河原より熱海に赴き、同地にて自決せる 元航空兵大尉河野寿で御座います。
今更申げるまでもなく、二・二六事件は洵まことに不幸なる出来事であり、
敗戦の悪夢と共に過去の記憶の外に忘れ去りたいものとは存じますが、
身を以て御遭難せられた閣下は勿論のこと、
私共肉親的関係に連る身としては、矢張り終世忘れることの出来ない痛恨事であります。
実は、小生 事件に弟が連座し、且つ その最後を見届けた関係もあり、
事件による衝撃も深く、爾来、
故栗原安秀元中尉の厳父、栗原勇大佐等と共に護国仏心会なる名称にて遺族の会を作り、
専ら刑死自決の二十二霊の冥福を祈ると共に、
遺家族の互助連絡の世話役を務めてまいりました。
すでに御高承の事とは存じますが、二十二霊の遺骨はすべて分骨に致し、
それを合祀して 麻布一本松、賢崇寺に納め 同寺住職藤田俊訓師の献身的な庇護の下に、
昭和十一年八月以来、毎月十二日を法要日として遺家族の参集を得て例月の法要を営み、
昭和十九年秋まで一回の中断もなく継続して参りました。
其後賢崇寺の羅炎と、会の中心者栗原勇氏を初め遺家族の疎開、離散により、
自然中絶の止むなきに至り、今日に至って居ります。
---中略---
前置きが長くなりましたが、
本日御相談申上げますことは、故丹生誠忠中尉の御遺骨の問題でありまして、
灰聞致しますれば 閣下は故丹生中尉とは御親戚に当られる由に承知致して居りますので、
敢て御考慮を仰ぎたく御願ひに及ぶものであります。
誠忠中尉の御遺骨は、
合祀の御分骨の外に 御本骨が現在なほ、
未埋葬のまま 賢崇寺に御預り頂いて居ります。
当初如何なる御事情にてか御郷里の菩提寺に埋葬される事なく、
賢崇寺に御預けになったまま今日に至って居るのであります。
当時は寸美奈子未亡人 並びに 母堂広子殿も毎月欠かさず御参詣になりましたが、
其後、寸美奈子殿は御再縁のため姿を消され、
母堂亦、戦時中逝去されて、
以来遂に丹生家の方々の御姿を見ることができなくなりました。
就きましては 右の事情を知る小生等関係者として、
後本骨をこのままに放置するに忍びず、
賢崇寺藤田住職も亦、各方面を探索して居られますが、
現在丹生生家の御消息が全くつかめませぬままに、
せめて御縁筋に当られる閣下の御尽力を仰ぎ、丹生家との御連絡を御とり頂き、
誠忠中尉の御遺骨が一日も早く安住の地を得て
永久の眠りにつかれますよう念願してやまないもので御座います。
---中略---
事件関係刑死 或ひは 自決の他の廿一霊が悉く其祖先の塋はか域に埋葬されて、
温かき家族の方々の懐に抱かれて居られる時、
唯一人 誠忠中尉のみ 未だ安住の地を得られぬ遺憾は、
関係者として洵に痛恨の極みであります。
何卒、以上の事情御諒察賜り、
閣下の特別の御懇情にすがり解決の緒を見出すことが出来ますれば感激此の上もなく、
切に御同情と御配意を念じて止まないもので御座います。
河野司
岡田啓介閣下
 
事件当時・内閣総理大臣

誠忠中尉の弟、
正孝氏の所在が判明し、

誠忠中尉の本骨は、
十数年目に
弟さんに抱かれることになった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
岡田大将への照会によって、誠忠令弟、正孝氏の消息が判明した。
以来、丹生家と仏心会の結びつきは密接になり、
横須賀に定住する正孝氏が病身のため夫人操さんが代わって、
仏心会の行事には必ず出席され融けこんでおられる。
しかし、
中尉の本骨は、
いまだに未埋葬のまま賢崇寺に安置されている。
いずれ、正孝家の墓所が作られると聞く。
しかし、誠忠中尉の遺骨は、
此の墓とは別に、やはり鹿児島の菩提寺に近いうちに本葬されることになると知らされた。
一日も早くその日を迎え、
誠忠中尉の永遠安住の冥福を切願して祈るものである。
( 昭和五十六年 ・・1981年 )
河野司 著  ある遺族の二・二六事件 から

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あを雲の涯 (十二) 丹生誠忠 


昭和11年7月12日 (十三) 坂井直中尉

2021年01月21日 13時50分56秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


坂井直

天皇陛下の万歳を唱へさせていただきます
・・坂井直 ・・・死刑執行言渡後の発言

陛下の御宸襟を悩まし奉り
世間を騒がせたる事に就ては、
親として何と お詫びしてよいかわかりません。
其罪は万死に値するものと予てから覚悟は決めて
只菅 謹慎して処刑の日を待って居りました。
然し乍ら 罪は法律上 叛乱罪として処刑せられても、
彼等は絶対的忠君愛国 憂国の一念の精神より出でたるものにして
何時かは彼等の精神が現れる時が来るものと信じ、
せめてもの慰めとして居ります。
・・・父 平吉

元中尉坂井直実父三重県三重郡桜村一二三後備陸軍少将坂井兵吉は
事件勃発以来表門を閉じ 外部との交渉を絶ち 謹慎中の処、
七月五日 東京衛戍刑務所より面会を許すとの通電に接し、
同日午後九時十二分四日市発列車にて上京せり。


昭和11年7月12日 (十四) 田中勝中尉

2021年01月20日 13時48分12秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


田中勝

「一日を一年と思えば 」 と いう言葉は、
夢破れ、死んでも死にきれない男が、
自らを得心させるため ようやく辿りついた平安・慰めともみえる。
「 お前のことを考えたら、おれ、死にきれねえ 」
そう 言われて、
夫人はもやもやと胸にわだかまり つかえていたものが一瞬に消える思いであったという。
死にきれないほど思われている女の悲しい充足感が、
ひたひたと夫人の胸をみたした。
同時に 「 この人を失いたくない 」 という烈しい思いが、胸から迸ほとばしり出た。
しかし 一審即決上告なしの裁判で既に夫の運命は定まっている。
余命いくばくもない。
冷厳な現実がまさに夫と妻を永遠に引離そうとしている。
握りあった手の確かなぬくもりも、明日はない。
身悶えするようなせつない時間のうちに、別れの瞬間が来た。

七月十二日朝、
ついに処刑の通知が届いた。
陸軍衛戍刑務所へ赴いて夫の遺骸をひきとる。
妊娠中の躰にさわるから、死顔は見ないほうがいいと、家族が立塞がったが、
人垣の後ろで 背伸びしたら、柩の中の夫の顔が見えた。
長い拘禁生活で陽灼けもとれて、眠っているような血色をしていた。
繃帯で巻かれた眉間のあたりに、桃色の血が滲んでいる。
ああ、ここに射たれたのだと思った。
隣では 安田少尉の遺族が、デスマスクをとる用意をしていた。
出来るものなら夫のデスマスクをとりたいと思ったが、
火葬場へ行く時間を急ぐ刑務所側の意向のもとでは果たせなかった。

久子
決して自らを殺すな
神は許さぬぞ
久子  二は最后だよ  三は何時でも
久子
ふるさとの
浜辺にうつす
影二つ

田中勝には、思いつめた夫人の自殺への懸念が幾許かあったのであろう。
たとえ生れてくる子が女の児であってもいい、
どうか死なずに無事生きのびてくれと、田中は必至の熱禱ねっとうを捧げたのであろう。
「 二は最后だよ  三は何時でも 」 には、
夫婦だけが知る特別の意味がこめられているという。
故郷の早靹はやともの瀬戸の浜辺で、婚約時代の二人は何を語りあったのだろうか。
死を前にして、田中勝は降伏な思い出のひとときに浸り得たようである。

夫の遺品として刑務所から渡されたなかには、食べ残しの菓子の包みもあった。
「 差入れが多くて食べきれない。父も母も妻も、菓子が好きだから、来たらやって下さい 」
と 夫が託したものであった。
処刑の翌日、
夫の遺骨を抱いて下関へ帰り、実家に身を寄せた久子さんは、
十月十二日、夫の予言通りの男の児を産んだ。

澤地久枝著  妻たちの二・二六事件 から


昭和11年7月12日 (十五) 高橋太郎少尉

2021年01月19日 13時45分49秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


高橋太郎 

七月十二日の朝、公報が届いた。
「 高橋太郎ノ御遺骸御引取ノ為、
本十二日正午 ( 十二時 ) 東京陸軍衛戍刑務所ニ出頭相成度 」
熱湯を浴びせられたような衝撃だった。
遺骸―--なんということだ。
きのう別れるとき、
「 今日こそ最後だ 」
と、とくにきびしく私を見つめながら固く握手していった太郎のことばは、
現実となったのだ。
噓だ !    嘘だ !    噓だ !    そんなことがあってたまるか !
好子と私は夢中で代々木へ車をとばした。
刑務所の前は憲兵のいかめしい軍服で埋まっていた。
処刑を知ったのか、付近は黒山のような人だかりだった。
昨日までざわついていた構内は、異様に静まりかえり、私語する声もない。
耳に入るのは、いつもと変らないかまびすしい蝉の声だけだった。
遺族の黒っぽい服装が三々五々、控え所へ集ってきた。
おそらく、だれもがはじめて体験する異常な事態に動転していたことであろう。
私も例外ではなかった。
名前を呼ばれた遺族は、黙々と看守の後について奥へ入っていった。
私は待っている間じゅう汗がひっきりなしに腋の下を流れるのを感じた。
それは、重苦しい、長い、長い、時間だった。
死刑---どんなふうにして殺されたのか。
どんな姿で死んでいるのか。
考えまいとしても、
さまざまな形の死体が、血に染まったむごたらしい顔が浮かんでくる。
処刑の順であろう、私たち二人が呼ばれたのは、いちばん後の方だった。
好子と私は塚本刑務所長の前に案内された。
所長は、
「 高橋太郎の獄中生活は、なにひとつ不平不満をいわない、
看守の指示をまもる立派な模範囚であった。
最期のことばは 
元気で行きます  とだけ。
まるで旅へでるように淡々と別れをつげ、少しも興奮がなかった。
天皇陛下万歳  を 三唱しながら、従容として死についた 」
と 語り、そして、惜しい人を亡くしました、と つけ加えた。
「 立派な模範囚 」  「 惜しい人 」
なんという白々しいことばだ。
私は煮えくりかえるような腹立たしい思いで、所長のことばをきいた。
所長から死体埋葬証明書や遺品などをうけとった好子と私は、
遺体安置所へ案内された。
テント張りのなかに白木の柩が木の台上におかれ、
制服の人たちが緊張した面持ちで見守っていた。
線香の煙がただよい、僧侶のとなえる荘重な読経の声がきこえるだけで、
しわぶきひとつない粛然としたたたずまいだった。
「 お改めになりますか 」
かたわらの看守が、死体の確認をもとめた。
私は無言でうなずいたが、
恐ろしいものから逃げだしたい気持ちもあった。
足の震えが止まらなかった。
柩の蓋が開けられた。
いきなり目にとびこんだのは、
白と赤---白衣の人間が上向きに横たわっている。
目と額の上をおおうように、
幅広くまかれた白い包帯が真っ赤に染まり、なまなましく濡れていた。
包帯をとれば、血が噴きだすのではないかと思った。
鼻と口につめこまれた白い脱脂綿がはみだし、それも赤くにじんでいた。
私は顔を近づけた。
両眼がかくされ、鼻と口が脱脂綿でふくれあがり、人相はさだかでない。
皮膚の色は土気色で、人間という感じがしなかった。
頬から顎にかけて、太郎らしい特徴をわずかに認めたが、
それがほんとうに彼であるという実感はわかなかった。
身長も大きく見え、人違いかと思った。
私は呆然と立ちつくしたまま、遺体に見入った。
毎日、毎日、涙をきらしたことのない意気地なしの私は、
面会初日のとりみだした愁嘆を思いだし、
遺体をみれば泣きわめき、どんな醜態をさらすのも仕方がないと思った。
だが、その無残な死体をみて、不思議に涙もでなかった。
なんの感動もなかった。
頭は空っぽになり、思考力は停止した。
情感は極限に達すると、無感覚の状態になるのであろうか。
それからの記憶は、完全に消えた。
私が自分をとりもどしたのは、霊柩車のあとにしたがう乗用車のなかだった。
遺体は刑場から火葬場へ直行するように、
手際よくお繕だてされ、遺族用の乗用車まで用意されていた。
車内でも私の心は乾ききったまま、涙もでなかった。
私が声をあげて泣いたのは、
焼却炉からかきだされた灰褐色に焼け朽ちた骨の山をみたときであった。
私は泣きながら、ひとかけらの骨も残すまいと、ていねいに骨壺におさめた。
噴出する涙と鼻水がいっしょになって、顔じゅうをめちゃくちゃにした。
私はそれまで、父親の自然死以外に人の死に直面したことがなかったが、
父の死に泣いた悲哀とはちがった。
だれに向って訴えていいかわからない、怒りに近い激情だった。
火葬場の構内は一般人の立ち入りが禁止され、警官と軍服でうまっていた。
そして、あちこちに慟哭くの固まりがあった。
みいーん !   みいーん ! 
そこでも蝉の声はかまびすしかった。
私の哀哭をあざわらうように鳴いていた。
そのときの非情な蝉の声は、いまだに耳について離れない。

---太郎は天皇にたいする叛逆者として殺された。
天皇陛下、天皇陛下と、いまわのきわまで天皇を忘れたことのない太郎。
天皇を信じ、天皇を熱愛し、天皇陛下の万歳を叫びつつ死んだ太郎。
彼は悪人として殺された。
人間が人間を裁くことができるか。
人間を裁けるのは神様だ。
人間の善悪は神様だけが知っている。
天皇は神様だ。
神様が太郎のような善人を殺すはずはない。
国民の父。
現人神の天皇。
こんなことがあっていいのか・・・・・・。

その夜、私は熱病にうかされたように、
とりとめもないことを口ばしり、
寝衣を噛み、嗚咽をこらえながら泣きつづけた。
涙は枯れつくしてしまった。
そして、あれほどファンだった秩父宮がきらいになり、
天皇をうらみ、神も仏もないと思った。

太郎の遺骨は、私が胸に抱いて、火葬場から家へ帰った。
二月二十五日に積雪をふんで家を出てから、
百三十八日ぶりの無残な帰宅だった。
葬儀は私服の警官に監視されて、
近親者だけでひっそりおこなった。
どこへも案内しなかったが、
多数の見知らぬ軍服姿が手を合わせているのが目に入った。
秩父宮の侍従をむかえた父の晴れがましい葬儀にくらべ、
国賊のそれは、あまりにも暗く惨めだった。
葬儀、埋骨と、特異な死であっても、死者を葬る形式は変らない。
私はただ人のいいなりに動く、操り人形だった。
生きてさえいればいい。
一生、会えなくてもいい。
生きていて欲しい・・・・だが、すべては失われてしまった。
昨日まで微笑をうかべながら語り合った太郎は、忽然と消えた。
二度とふたたび私の前に姿を現すことはないのだ。
どうしたらいいのだ。
私にのこされたのは、
悲痛、忍耐、失望だけだった

高橋治郎 著  一青年将校  おわりなき二・二六事件  から


昭和11年7月12日 (十六) 安田優少尉

2021年01月18日 13時42分39秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


安田 優 

陛下は絶対であります
・・・死刑執行言渡時の発言
和歌 を詠ひたる后 特権階級者の反省と自重を願ふ

・・・死刑執行直前、刑架前での発言

七月初旬、家族の面会が許されるというニュースを耳にし、
会える会えないは別問題、兎に角行って見ようと帰途、
別役、堤の三人で新宿二幸で買った果物籠を提げ、代々木に行った。
軍服姿が大分来ている。
待つ間に高橋太郎の順番が来たので、三人は面会所に入った。
高橋を育てた伯母と令弟が、同席されている。
高橋が見事な紋付き袴姿であったのは、その経済的豊かさの故か。
士官学校予科、本科とも区隊を共にした私には、育ちのよさから来る美少年、
しかも落ち着いた淡々とした挙措迄が、以前と何も変わらないものを感じた。
身内の話しも実に淡々として快よい。
私は 「 御苦労様でした 」
と 言った様に記憶している。
ところが、私の後の衝立の向う側の隣の面会所は確かに村中さんの声だ。
予科区隊長時代と全じ落着いた村中さんの声と、
ちょっと早口の奥さんの声が聞こえる。
二十分程の面会時間の終りになった時、私はわざと大きな声で
「 村中に会ったら宜しく伝えて呉れ 」
と 言って立上がった。
村中さんは椅子を後に引く様にしてこちらを覗かれ、
これも可成り大きな声で
「 おおー 高矢か。おおー 別役も 」
と、こちら側を見られた。
かすかに笑みを浮かべて。
お月さんの様な丸い顔であるのに、
何時も炯々けいけいとした目をしていた区隊長の顔が、
この時私には何とも云えない慈顔として目に映り、今も焼付いている。

面会所を出て次は安田と思っていたが、三人のうち誰だったか、
「 もう帰ろう 」
と 言い、そのまま帰った。
私は安田に会い度い心を残し乍ら。


七月十二日の日曜日の朝、
多分十時頃だったと想う。
安田の姉から、
「 今朝刑が行われたので、
遺体を受取に午後一時に代々木に来て下さい。
他の同期の方には連絡がつかないので貴方丈で結構です。
遺族丈と云うことになっているので、
絶対に軍服で来ない様に 」
と云う電話があり、
私は別役宛間に合わないだろうから
安田の家に待つ様電報し、和服で代々木に赴いた。

雲の無いカンカン照りの日であった。
衛戍監獄の裏門に近く十数台の霊柩車が並び、婦人の喪服姿が眼に入る。
中に際立ってきれいな夫人は誰の奥さんだろうか。
或はフィアンセか。
だれも言葉を発する人は居ない。
何も聞えない。
カンカン帽から汗が頬を伝わる。
時が来て、順次遺体は霊柩車で去って行く。

安田の番が来た。
片開き三尺の裏門の扉を入れば、
左右に二ケのテントのもと、一体宛遺体が置かれている。
安田のは右側。
白衣、そして眉間を鉢巻の様に繃帯巻いてある。
下のガーゼから、右頬に数条の血が流れている。
簡単な読経后、デスマスク作りに掛る。
令兄の奔走により、
事件当時負傷し入院していた前田病院の院長が、
進んで看護婦一人を連れて来て下さっていた。
先ず看護婦が繃帯を取り除く。
正に眉間の真中に一発、
お釈迦様始めインド人のビンズーラとか云う あれと位置は同じ、
あの大きさを小さくしたもの。
看護婦が傷跡と右目の附近を、私が右頬の血を取り除いた。
アルコールで顔全面をきれいにワセリンを塗ったあと、
こ先生が十五番位の針金で丁度剣道の面の金具の様な骨格を作り、
石膏を前面に厚く盛り上げた。
ややあって、固まった石膏を先生が静かに持ち上げる。
裏返された先生が 「 あゝよく出来ました 」 と原型に一礼されたのが印象深い。

先生方をお送りし、令兄他と共に遺体を霊柩車に運び堀之内火葬場へ。
火葬時間二十分。
骨を拾うのももどかしく荻窪の家へ。
安置所であったか車中であったか、
令兄が
「 弟が入院していた時階上に、磯部さんに撃たれたと云う片倉少佐が入院して居り、
看護婦に
『 二階に連れて行って呉れ、あいつをぶっ殺す 』
と せがみ、困らせたこと。
不思議と病院中の看護婦は弟には親切で、
片倉少佐の世話をするのは皆いやだと言っていたそうです 」
と 囁かれた記憶がある。
諾なる哉。
デスマスクの原型を取られる時の院長先生と看護婦さんの、
穏かと云うより、むしろ進んで喜んでなさって居た様子が思い起される。

荻窪の家には別役が待っていて呉れた。
早速二階の安田の書斎に遺骨を安置し通夜。
列する者、別役、堤、鈴木の誠ちゃん、更に御大一宮。
この人は私をして御大と書かせる丈あって、
少尉の時から私などは一歩も二歩もおく、人に長たるの風格を感じさせた人である。
夜に入って、学校の教官も来て呉れた。
その他参列された同期生も在った様だが人名と顔が浮ばぬ。
デスマスクはその後 美術学校生の奉仕的協力で三ヶ作られ、
郷里に一つ、
京大を出てたしか内務省に努めて居られた前述の令兄に一つ、
そして一つは同期生として私が持つことになった。
通夜の時、供物は身内の他は一切ならぬとのこと、
階下の応接間には特高が二名控えて居り、私は降りて行って  御苦労様  と言った。
どんな関係ですか  と 言うから  御覧の通り親友だ  と 答えた様に覚える

通夜の席で令兄から、
弟と面会の時
「 高矢さんが来ていた 」
と、伝えるや、
看守の制止も振り切って面会所の入口に走り、
外に私の姿を追い求めた ということを聞かされ、
終生の痛恨事となった。
何故私は
『 安田に会い度いから 俺は残る 』
と 言はなかったか。
頑固なくせに大事な時に出る私の気の弱さ。
この一事は、
あの世で安田に詫びる迄、心から絶対に消えない。

・・高矢三郎 著  『 近頃憶いだすこと 』・・二・二六事件青年将校  安田優と兄・薫の遺稿 から
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昭和十一年七月十二日亡、安田優  二十五歳
最後の筆
我を愛せるより国を愛する至誠に殉ず
昭和十一年七月十二日  刑死前五分  安田
二・二六事件の墓
安田少尉墓には・・・そう刻まれている



「 将来、神様も お前を捨てないだらう。
お前の後について 陸相を呪ひ殺してやる・・ 」
・・・遺骸に対して・姉


昭和11年7月12日 (十七) 中島莞爾少尉

2021年01月17日 13時38分49秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


中島莞爾 

中島少尉の遺骨、
郷里の佐賀へ遺骨埋葬のため東京駅を発った。
車中、『 付添 』 の 刑事が、
「 お骨は トランクの中にしまってくれ、他人の目につくといけないから 」
と 指図された。
気丈硬骨の少尉の父、荒次郎氏は、
トランクの中で莞爾 ( 少尉の名 ) が 苦笑したに違いないと 笑いとばした。
列車が目的地の小城駅に着く 一つ前の小駅に到着する直前に、
この駅で降りてくれとのこと。
乗降客のマバラな駅に降されて、
こっそりと裏道づたいに帰宅させられた。
小城駅で待つ親類関係者を待ちぼうけにさせて憤慨させたことであった。
埋葬を終って帰京する際にも、
「 お前は分骨を持っているだろう、手荷物を開いて見せろ 」
と いった警戒ぶりであった。
分骨は既に東京に残されていたのだった。
河野司 著  ある遺族の二・二六事件 から

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父・荒次郎は
予て覚悟の上の事でもあり 又 存命中 面会して居るので 思ひ残すことはありません。
本人も笑って死ぬと申して居りましたので、男らしく死んだと思ひますが面会の時本人は、
「 我々の行動の為め幾分でも世の中が改善せられたら本望であるが、
今回の発表された判決理由書が事実と相違するが如きことあらば、
又如斯事件が再発せぬとも限らぬ 」
と 語りました・・と漏らす