あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

本庄日記・昭和十年七月二十日 「 敎育總監更迭・・ 在職中御苦労であった 」

2017年02月26日 04時35分52秒 | 本庄日記


本庄日記
昭和十年
七月二十日
午後一時三十分、
新任敎育總監 渡邊大將、前任總監眞崎大將 葉山御用邸に參内拝謁す。
繁は拝謁に先ち、
新任者には 「 御苦勞である 」
前任者に 「 御苦勞であった 」
との意味の御言葉を給はらば難有存ずる旨内奏す。
陛下は之に對し
眞崎は加藤の如き性格にあらざるや、
前に加藤が、軍令部長より軍事參議官に移るとき、

自分は其在職間の勤勞を想ひ、
御苦勞でありし旨を述べし処、彼は、
陛下より如此御言葉を賜はりし以上、御親任あるものと見るべく、
従て敢て自己に欠點ある次第にあらずと他へ漏らしありとのことを耳にせしが、
眞崎に満一之に類することありては迷惑なり
と 仰せらる。
繁は之に對し、
眞崎としては自己の主義主張を曲ぐることは出來ざるべきも、
苟りそめにも御言葉を自己の爲に惡用するが如き不忠の言動を爲すものには斷じてあらざる
旨を固く奉答せし処、
陛下は、
夫れならば結構なり
と仰せられ、
拝謁に際して
渡邊大將には 御苦勞である
と仰せられ、
眞崎大將には 在職中御苦勞であった
との御言葉を給はりたり。
尚ほ、此日 眞崎大將は 出來れば、御言葉を給はりし際、
一言 自己の立場を奉答したき旨
武官長に
漏らす所ありしも、
夫れは當の主任者たる大臣の奏上に對する事となり、
恐懼の次第なること

事件に引續き何事か奏上することは、
其結果の如何なるものを齎もたらすかをも余程考慮すべきことなり
と、
眞崎大將も能く諒解し 右 思ひ止まりたり。


附記
今回の陸軍大異動の前提として、
敎育總監更迭の如く不愉快なりしものはなく、
去る十六日、
陛下が、兩元帥御召しの後ち、鈴木侍從長に對し、
武官長は眞崎を弁護する様だ
と 仰せられし趣なるが、
其後三十日午後遅く ( 宮城より葉山ヘ行幸直後 )
村中大尉、磯部主計 免官の内情言上の爲め參内せし林陸相も、
閑院宮殿下より 或者が梨本宮殿下の許へ參り申上げし事なりとて
前に武官長は大臣を訪問し、眞崎弁護に努めたり とのことなるが事實なりや
との御尋ねありし旨漏らし、
尚ほ大臣は
自分は夫は單に意思疎通の爲め來りしものなり
と 弁明し置けりと語れり。

繁は
何れにも偏せず、何れにも党せず、
只 急に過ぎ酷に過ぐること 乃至何れかに偏するとの感を与ふる人事は、
軍の統制を圖らんとして、却て反對の結果を招致する虞れなきにあらず
との忠言を全く個人の立場に於て ( 武官長としてにあらざる事を常に前置きにし )
至公至平の見地より大臣等に述べ、
最古參の軍事參議官等に呈する所あり、
全く軍の統一を希ふに外ならざりき。
然るに此等は早くも
座間勝平 ( 七月二十一日附 ) なるものの怪文書として各方面に配布されしものの如く、
又 夫れが誰かに拠りて梨本宮殿下等の耳に、
而も武官長として傳へらるゝことは甚だ遺憾なり。
此等の事實に鑑みて
宮中奉仕の間は軍の爲めとは云へ、
一切沈黙を守るに如かざるを想はしめたり。


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