あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

佐々木二郎 『 男子にしかできないのは戦争と革命だ 』

2021年11月23日 16時06分30秒 | 佐々木二郎

「 男子にしかできないのは戦争と革命だ 」
と 佐々木二郎の言葉に
磯部浅一は大きくうなずき
「 ウーン、俺は革命のほうをやる 」
と 答えた。
これは陸軍士官学校本科のころ、ある土曜日の夜、
山田洋、佐々木二郎、磯部浅一、三人で語り合った時のやりとりである。


佐々木二郎  ササキ ジロウ
『 男子にしかできないのは戦争と革命だ  』

目次
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「 大佐殿は満州事変という糞をたれた。尻は自分で拭かずに人に拭かすのですか 」 
・ 佐々木二郎大尉の相澤中佐事件 
佐々木二郎大尉の四日間 

・ 昭和11年7月12日 (番外) 佐々木二郎大尉 

昭和十二年三月、
二・二六で無罪で帰隊したが停職になったので、
羅南在住十年の名残りに町を散歩し、美代治を思い出して三州桜に訪ねた。
彼女は芸妓をやめて仲居をしていた。
大広間で二人で飲んだ。
話が磯部にふれた。
「 サーさん、あの人はどうなりました 」
「 ウン、今頃は銃殺されとるかも知れん 」
私はあのとき、初めて人間らしく扱われました。
誰が何といってもあの人は正しい立派な人です
一生私は忘れません 」

「 佐々木、芸妓にも料理を出せよ 」
といった磯部の一言が、
これほどの感動を与えているとは夢にも思わなかった。
底辺とか苦界とか、
口にいってもただ単なる同情にしか過ぎなかった。
磯部のそれは、
苦闘した前半生から滲み出た一言で、
彼女の心肝を温かく包んだのであろう。
当時、少し気障なことだとチラリ脳裡を掠めた私の考えは、
私自身の足りなさであったと思い知らされた。
・・・
「 佐々木、芸妓にも料理を出せよ 」 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下
佐々木二郎 著
一革新将校の半生と磯部浅一 から
虎ノ門事件 「 少なくともここしばらくはなりませぬ 」 
君側 2 「 日本を支配したは宮廷の人々 」
・ 桜田門事件 「 陛下にはお恙もあらせられず、神色自若として云々 」 

昭和の聖代 
( ・・・番外編 / 昭和二十年八月十五日 を 主題としたもの )

・ 佐々木二郎大尉の八月十五日 

「 挙国の士以て自立するなくば即ちその国倒る 」 
・ 亡き戦友の声 


佐々木二郎大尉の相澤中佐事件

2018年05月21日 09時25分48秒 | 佐々木二郎

 
犯人は某中佐

八月十二日、相沢中佐の永田軍務局長斬殺事件が突発した。
○○中佐と名前が紙上で伏せてあるので、私のように深い関係のない者は誰がやったのかわからなかった。
今その人を思い出せぬが佐官の人が 「 相沢中佐 」 だというのを聞いた。
数日後、将校集会所の黒板に斬殺現場の図面入りのものを張り付けた者がいた。
若い者は 「 やるなー 」 といったような口吻を洩らし、
左官級は ちょっと とまどった表情でこれを眺めていた。
 
リンク
永田伏誅ノ眞相 
いろいろの文章が流れて来た。
永田が切られて隣室へ逃げようと把手をとるとき、向う側で把手を握っていた者がいたとか、
同室の憲兵大佐が一振りに振り飛ばされて気絶したとか、
事が終わって相沢中佐が階段を下りかかると、根本中佐が飛んで来たとか、
胸のすくような相沢中佐の斬撃振りと、周章狼狽の幕僚の行動を冷笑したものである。
この事件は、今まで権力の座にふんぞり返っていた幕僚に対する、
見方の眼の色を変えたようであった。
暗殺! 単身 白昼堂々と陸軍省の軍務局長室で局長を斬る、
ちょっと類のない珍しい暗殺だ。
用心とか、緻密な計算とか、およそ そんなもののない やり方、
しかも それで人心の虚をついている。
この人は 何かを掴んでいる信念の人だなと思った。
と ともに 軍の危機を感じた。

この事件と磯部はいかなる関連にあるのだろうか?
たぶん知らぬだろう。
知っておれば磯部自身がやるだろう。
この後、磯部はかき立てられる思いをするだろうが、
西田、大蔵、村中、安藤もおるから軽挙はないと判断した。
ただ、この事件を機に、その原因を徹底的に究明して、これを最後の直接行動にすべきだと思った。
「 相澤中佐の片影 」 が 送られて来た。
リンク
行動記 ・ 第一 「 ヨオシ俺が軍閥を倒してやる 」 
相澤中佐片影
興味を覚えた人物であったから、私と池田中尉とでガリ版で刷って配布した。
これが初めての行動である。
私は元来陸軍部内の派閥というものには関心はなかった。
荒木、柳川、小畑とか、宇垣、南、小磯、永田とか、
このような上層部の人々には一面識もなければ、彼らが何を考え何をなそうとしているのか知る由もない。
田舎の隊附将校とは およそ そんなものである。
ただ、怪文書 ( 双方から来る ) によるものや、上京した折の大蔵、村中たちの話で、
幕僚の権力欲、出世欲には嫌悪の念を抱き、
磯部ら ( 士官学校事件 ) に対する不公平の弾圧には憤慨していた。
この根底には隊附十年間の幕僚に対する認識が根を下ろしていたことは事実である。
秋、間島地方で大尉以上の現地戦術が行われた。
統裁官は連隊長である。
出発の朝、羅南駅にて乗車すると、ホームに柳下参謀長が来て、頭に包帯した連隊長と何か話していた。
昨夜、赤穂家での宴会で連隊長が転んで頭にちょっと怪我をした。
それを参謀長が突き倒したと思ったらしく、帰途合同面に立ち寄り チョンガー連中に、
将校団長が怪我させられたのに黙っておるかと、酔った勢いでいったらしく、
池田、鳥巣憲俊中尉らの血の気の多いのがさっそく立ち上がった。
参謀長を促えて連隊長官舎に行き謝らせた、という一幕があったので、
参謀長がわざわざ駅まで来て、おれは一切君に手を触れてないよと、酔いが醒めた早い時期に釈明して、
しこりを残さないようにしたのだったと車中で聞いた。

 
佐々木二郎 
佐々木二郎 著
一革新将校の半生と磯部浅一 から


「 大佐殿は満州事変という糞をたれた。尻は自分で拭かずに人に拭かすのですか 」

2017年12月13日 18時46分41秒 | 佐々木二郎

昭和八年五月、
野戦瓦斯隊要員として科学研究所と歩兵学校に派遣された。

その出発前、四月の異動で中野直三大佐が聯隊長として着任した。
戸山学校の大蔵中尉から
「 今度行く中野大佐は士官候補生を弾圧した男だ 」
と いってきた。
五 ・一五事件のときの士官学校の生徒隊長をしていたからであろう。
私は士官候補生のたちばで実際運動に加わるのは早いと思っていたので、
中野大佐がどのような弾圧を加えたかは知らぬが、原則としては当然と思っていた。
中野大佐が着任し その招宴のあった翌日、羅南を出発、上京した。
牛込の砲工学校の近くで、磯部浅一と同じ下宿で二週間科学研究所に通った。
磯部は主計転科のため、経理学校に通っていた。
「 おれは革命を一生の仕事にする。そのためには東京にでなければならぬ。主計転科は東京に出るための手段だよ 」
磯部と主計、これほど不似合いのものはない。
磯部の転科の理由をきいてはじめてわかった。
夜は二人で新宿に出て 「 タイガー 」 で よく飲んだ。
ある日、例のごとく 「 タイガー 」 で 飲んでいると、西田税の話が出た。
磯部は 「 立派な男だ、ぜひ会え 」 という。
陸士時代、赤枝らが西田を訪ねようといったときに反対した磯部が、今はだいぶ深くなっているなと思った。
千駄ヶ谷の西田宅を二人で訪ね、はじめて西田に会った。
同じ広島幼年学校出身で私より四期先輩である。
第一印象は、鋭い感覚の持ち主だな、ということであった。

その後大蔵と北一輝宅を訪問した。
例の風貌で支那服を着、ドスの利いた声、なかなか魅力のある人物であった。
あるとき、北のところで偶然相澤中佐と同席した。
異相の偉丈夫で信念の人と思われた。
私は改造法案で、私有財産百万円を限度とするのはなにを根拠としてですかときいた。
同席していた二、三の人は、「 腰だめだよ 」 「 直観だよ 」 といったが、
北御本人はニコニコと私を見つめただけで返答しない。
「 『 然り 然り、否ナ 否ナ 』 似て足りる 」 の 文句どおりの態度である。・・・リンク → 日本改造法案大綱 (1) 凡例 
ビールが出た。
相澤中佐----この人は冬服を着ていて、東京は暑いですねといって上半身裸体となっていた
----が、スットントン節を歌い出した。
調子外れの大声で一座を圧倒するばかりであった。

科研の二週間が終り 千葉の歩兵学校に移ることになった。
科研では学問研究で、歩兵学校では実施での用法の教育である。
いよいよ千葉に移る前の夜、磯部が
「 今まで毎晩貴様にお世話になった。今日はおれが送別会をやる 」
というので一緒に下宿を出た。
見ると彼は正装を入れた鞄を提げている。
近くの質屋で正装を質入れした。
磯部は経理学校在学中、昼飯抜きであった。
彼に幼年学校時代の学費を出してくれた恩人の家が没落し、その子息が商船学校?在学中である。
その学費の一助にと昼食抜きにして援助していたのだ。
「 佐々木、経理学校はその点よいぞ、料理の実習があるのでそいつを食うのだ。ハハハ。
天道人を殺さず、よくできているよ。
しかし実習のないときは腹がへるなー ハハハ 」
事情を知っているだけに彼の友情が嬉しく、この夜はスッカリ酔った。

戸山学校に来ている大蔵中尉とはよく会い、彼の家での会合にも一、二度出席し、
そこで香田清貞、村中孝次中尉らを知り、同期の安藤輝三とは陸士卒業以来はじめて会った。
鋭敏な村中の頭脳と温厚誠実な安藤の成長ぶりが印象に残った。

ある日、村中など二、三人と石原莞爾大佐を訪ねた。
兵器本廠附きで、ジュネーブの会議から帰ったところで欧州の事情を話してくれた。
「 近頃 若い者がだいぶ動いているようだが、ドイツやイタリアでは とって代わる勢力ができていたのだ 」
これはもっともな言である。
しかし私は満州事変の立役者石原参謀の言として、それきりの話では少し納得できなかった。
そのあとに続く大佐の言葉がないので、
「 大佐殿は満州事変という糞をたれた。尻は自分で拭かずに人に拭かすのですか 」
「 なにーー 」
小僧奴がと 私を睨みつけた。

佐々木二郎 

一革新将校の半生と磯部浅一
から