あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

二 ・ 二六事件蹶起 二月二十七日 北一輝 『 國家人無シ 勇將眞崎アリ、正義軍速ヤカニ一任セヨ 』 

2024年02月26日 18時39分53秒 | 道程 ( みちのり )

・・・前項 二・二六事件蹶起 二月二十六日 『 諸子ノ行動ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム 』  の 続き

二 ・ 二六事件蹶起 
2月27日 ( 木 ) 
午前2時頃  陸相官邸に於て軍事参議会と会談、結論出ない侭終了 ・・ 村中、香田、磯部、野中、栗原、對馬、竹嶌
午前2時頃  石原大佐、橋本大佐、満井中佐、亀川哲也 帝国ホテルで会談
午前3時頃  村中、亀川哲也、満井佐吉中佐、帝国ホテルへ
龜川がボーイに案内されて一室に入ると、
そこには満井、橋本、田中その他二、三名の將校、それに右翼浪人の小林長次郎がいた。
満井が龜川にこれまでのいきさつを説明したのち、
「 この際、山本大將に出てもらうことが一番よいということに意見の一致を見た。
そこで石原大佐から杉山次長に電話して、これが諒解を得た。
次長は機を見てこれを上聞に達するということになっている。
ついては山本大將と親交のあるあなたに意見を伺うと思って來ていただいたのです 」
「 それはいいでしょう。
 だが、それにはまず部隊の引きあげが先決ではないでしょうか、
蹶起部隊は一応目的を達したのだから、
いつまでも首相官邸や陸相官邸を占拠していてはいけません。
彼らは速やかに現在の場所から撤去させなければなりません 」
と 龜川は問題を投げた。
この龜川の意見には満井も橋本も同意し、
部隊を戒厳司令官の指揮下に入れて警備区域はそのままとして歸隊せしめよう、
と 提案、
一同それがよかろうということになり、
満井は車を陸相官邸にやり 村中 をよんできた。
村中を説得して引きあげさせようとしたのだ。
龜川はこの村中説得の事情をつぎのように述べている。
「 そこで満井と私は村中を別室に呼び、
 まず私から目的を達したかと聞きますと村中は達しましたという返事なので、
私はそれでは早く引きあげればよいではないか、といいますと、
村中は、事態をどうするか決まらないのに引きあげるわけにはいかない、との返事でした。
私は引きあげさえすれば事態は自然に収拾されるのだ、といいました。
この時、満井は、
≪ 部隊を戒嚴司令官の指揮に入れ警備区域は現場のままとする ≫
という条件を持ち出し、早く引きあげた方がよいと話したので、
村中は
引きあげるということは重大だから 外の者にもいわなくてはならん、

そして西田にも相談しなくてはならん
と いいました。

この時私から 西田の方は私が引き受けるから、
若い人たちの方は君が引き受けて早速引きあげてくれ、と話ました。
すると村中は
歸りましたら早速引きあげにとりかかりましょう

ということで
わずかな時間で話がまとまって村中は帰って行きました」
( 憲兵調書 )
こうして彼らはこの協議をおえて帝國ホテルを出た。
もう夜が明けかかっていた。
満井はその足で戒嚴司令部に赴き、石原参謀を訪ね、右の顚末を傳え、
さらに、
「 維新内閣の實現が急速に不可能の場合は、
 詔書の渙發をお願いして、建國精神の顯現、國民生活の安定、
國防の充實など國家最高のご意思を広く國民にお示しになることが必要である。
そしてこれに呼応して速やかに事態の収拾を計られるよう善処を希望する 」
龜川はホテルから自宅にかえったが、そこで山本大將と久原に右の報告をした。
それから眞崎邸を訪問したが不在だったので車を海軍省に向けここで山本大將に會い、
組閣の心組みをするよう申言したが、山本は相手にしなかった。
八時頃 北一輝邸に西田税を訪ね帝國ホテルにおける部隊引上げの話をした。
西田は憤然として、
「 そんなことをしては一切ぶちこわしだ、一体誰の案か、村中は承諾したのか 」
と 詰問した。
龜川が、大体承諾したようだと口をにごすと、西田はすっかり考え込んでしまった。 ・・・帝国ホテルの会合

村中、陸相官邸で撤退を協議、野中、香田、安藤、磯部、栗原  

帝國ホテルで部隊の撤退を約束した村中は
二十七日朝
陸相官邸の廣間で野中、香田、安藤、磯部、栗原らとともに 部隊の引きあげについて協議した。
だが、意見は硬軟二派にわかれた。
村中は同志部隊を引きあげよう、皇軍相撃はなんとしても出來ない、
と 撤退を説いたが、
磯部 は激昂を全身にたぎらかし、
「 皇軍相撃がなんだ、相撃はむしろ革命の原則ではないか、
 もし同志が引きあげるならば俺は一人になってもとどまって死戰する 」

と 叫ぶ。
安藤もまた、
「 俺も磯部に賛成だ。維新の實現を見ずに兵を引くことは斷じてできない 」
と 鞏硬だった。
磯部としては もし情況惡化せば田中隊と栗原隊をもって出撃し、
策動の本拠と目される戒嚴司令部を轉覆する覺悟だった。
とうとう磯部は怒って栗原と一緒に首相官邸に引きあげてしまった。・・・「 国家人無し、勇将真崎あり 」



午前2時20分  戒厳を宣告
午前2時40分  枢密院が戒厳令の施行を決定す
午前3時50分  東京市に戒厳令公布

午前4時40分  戒厳司令部より 「 戒作令第一号 」が下令さる
戒作命第一號  
命令  ( 二月二十七日午前四時四十分 於 三宅坂戒嚴司令部 )

一、今般昭和十一年 勅令第十八、第十九號ヲ以テ
 東京市ニ戒嚴令第九、第十四條ノ規定ヲ適用セラルルト同時ニ、
 予ハ 戒嚴司令官ヲ命ゼラレ 從來ノ東京警備司令官指揮部隊ヲ指揮セシメラル

二、予ハ 戒嚴地域ヲ警備スルト共ニ、地方行政事務及司法事務ノ軍事ニ關係アルモノヲ管掌セントス、
 適用スベキ戒嚴令ノ規定ハ第九條及第十四條第一、第三、第四ト定ム
三、近衛、第一師團ハ夫々概ネ現在ノ態勢ヲ以テ警備ニ任ズベシ
四、歩兵第二、第五十九聯隊ノ各一大隊及工兵十四大隊ノ一中隊
 竝陸軍自動車學校ノ自動車部隊ハ、依然現在地ニ在リテ後命ヲ待ツベシ

五、憲兵ハ前任務ヲ續行スルノ外、特ニ警察官ト協力シ戒嚴令第十四條第一、第三、第四の實施に任ズベシ
六、戒嚴司令部ハ本二十七日午前六時九段軍人會館ニ移ル
戒厳司令官  香椎 浩平
下達法  命令受領者ヲ集メ印刷セルモノヲ交付ス

軍隊區分
麹町地區警備隊
  長 歩兵第一聯隊長 小藤大佐
二十六日朝來出動セル部隊


蹶起部隊、麹町地区警備隊に編入せられ、戒厳令下での治安維持任務に就く
午前5時頃  三宅坂の安藤大尉の許へ、柴有時大尉来訪す


午前6時  戒厳司令部が九段の軍人会館に移る
午前7時  田中隊、陸相官邸から首相官邸へ移動
午前8時  丹生部隊、歩哨を残し主力は新国会議事堂 (  新議事堂附近に集結待機 ) に移る 
午前8時15分  「戒作令第一号 」 が発表さる
午前8時20分  昭和天皇 奉勅命令を裁可 ( 発令は28日午前5時8分 )


主力を新議事堂附近に集結
午前9時頃  警視庁附近警戒の野中部隊 鈴木少尉 ( 歩三第10中隊 )、新国会議事堂に集合
午前9時頃  西田税、首相官邸の磯部に電話 ・・北一輝の 「 霊告 」 を伝える
二月二十七日朝
北ノ靈感ニ、
 『 國家人無シ、勇將眞崎アリ、國家正義軍ノ爲ニ號令シ、正義軍速ニ一任セヨ 』
ト現ハレタトノ事デ、
北ハ私ニ對シ、
早ク彼等ニ知ラシテ眞崎ニ一任スル様ニ注意シテ遣レト申シマシタノデ、
同日栗原、磯部、村中ニ夫々電話ヲ掛ケタ際、
「 君等ガ二月二十六日軍事參議官ト會見シタ際、臺灣ノ柳川中將ヲ以テ次ノ内閣ノ首班トシ、
 時局収拾ヲ一任シタイト要求シタトノコトデアルガ、
十日モ二十日も要スル遠イ人ノ事ヲ考ヘズニ、此際眞崎ニ總テヲ一任スル様ニシタラ何ウカ。
夫レニハ、軍事參議官ノ方々モ一致シテ眞崎ヲ擁立テテ行ク様ニ、御願ヒシテ見タラ何ウカ 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ忠告シテ遣リマシタ処、
孰レモ、夫レデハ同志一同協議ノ上、其ノ方針デ進ム様ニスルト申シテ居リマシタ。
・・・・・
北ハ靑年將校等ガ柳川中將ヲ持出シタコトヲ心配シテ居ツタ様デアリマシタガ、
朝カラ御經ヲ讀ムデ居ラレマシタガ、
間モナク、
「 國家人無シ、勇將眞崎在リ、國家正義軍ノ爲ニ號令シ、正義軍速ニ一任セヨ 」
トノ靈感ガ現レタトテ、夫レヲ示サレ、
早ク彼等ニ知ラシテ眞崎ニ一任スル様ニ注意シテヤレト申サレマスシ、
私モ無論早ク彼等ニ知ラシタイト思ヒマシタノデ、其ノ事ヲ村中、磯部等ニ知ラシマシタ。
其ノ要旨ハ、
「 實ハ北ノ御經ニ此様に出タノダガ 」
ト申シテ右ノ靈感ヲ告ゲ、
「 此中ニ國家正義軍トアルノハ君等ノコトニ當ツテ居ルノダガ、
 君等ハ二月二十六日軍事參議官ト會見シタ際、柳川中將ニ時局収拾ヲ一任シタイト要求シタトノコトデアルガ、
遠方ニ居ル柳川ヲ呼ブヨリ、此際眞崎ニ一任スル様ニシテハ何ウカ。
全員一致ノ意見トシテ、無条件ニテ時局収拾ヲ皆ノ者トヨク相談セヨ。
ソシテ軍事參議官ノ方々モ亦意見一致シテ眞崎ニ時局収拾ヲ一任セラル様ニ、御願ヒシタラ宜カラウ 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ申シマスト、
村中、磯部等ハ
「 判リマシタ。我々ハ尊皇義軍ト言ツテ居ルノダガ、眞崎デ進ムコトニ皆ト一緒ニ相談シマセウ 」
ト申シマシタ。・・・西田税、蹶起将校 ・ 電話連絡 『 君達ハ官軍ノ様ダネ 』
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人なし勇將眞崎あり
磯部が首相官邸に移ってから間もなく、
西田から栗原に電話があり、つづいて、北一輝からも栗原に電話で、
「 眞崎大將に時局収拾をしてもらうことに、
 まず君ら靑年將校の全部の意見を一致させなさい。
そして君らの一致の意見として軍事參議官の方も、
また、參議官全部の意見一致として眞崎大將を推薦することにすれば、つまり陸軍上下一致ということになる。
君らは軍事參議官の意見一致と同時に眞崎大將に時局収拾を一任して、一切の要求を致さないことにしなさい 」

と 教示した。
さらに、西田も磯部を電話口に呼び出し和尚 ( 北のこと ) の靈告なるものを告げた。
磯部は、午前八、九時であったが西田氏より電話があったので、
「 余は 「 簡單に退去するという話を村中がしたが斷然反對した、小生のみは斷じて退かない。
 もし軍部が彈壓するような態度を示した時は、策動の中心人物を斬り戒嚴司令部を占領する決心だ 」

と 告げる。
氏は「 僕は龜川が撤去案を持ってきたから叱っておいたよ 」 と いう。
更に今、御經が出たから讀むといって
「 國家人なし 勇將眞崎あり、國家正義軍のために號令し、正義軍速やかに一任せよ 」 と 靈示を告げる。
余は驚いた、
「 御經に國家正義軍と出たですか、不思議ですね、私どもは昨日來 尊皇義軍と言っています 」
と 言って神威の嚴肅なるに驚き 且つ快哉を叫んだ 」

と 遺書 「 行動記 」 に書いているが、この北の靈告にはよほど激励されたものらしい。
しばらくすると 村中が香田とともに首相官邸にやって來た。
磯部は村中を見つけると 夜明け方の喧嘩別れも忘れて、
「 さきほど、西田さんから電話があって 和尚の靈告を聞いたんです。
人なし勇將眞崎あり國家正義軍のために號令し、正義軍速やかに一任せよというのです」

と 氣色をたたえ、はしゃいだ聲で話しかけた。
村中も、
「 いや、俺の所にも今、その電話があったものだから相談しに來たのだ。
 和尚の靈告通りに この際は眞崎一任で進むのが一番いいんじゃないかと思うんだが 」
と 一同にはかった。

そして
「 賛成 ! それでいこう 」
と いうことになった。

折もよく 野中も來合わせていて、眞崎一任ということに全員一決した。
そこで 各參議官の集合を求めることになったが、
同時に、昨日來の行動で疲勞している部隊に休息を与えるために、
警備兵を除いて、部隊を一時國會議事堂附近に集結することにきめた。
・・・軍事參議官との會談 1 『 國家人無し 勇將眞崎あり、正義軍速やかに一任せよ 』

午前10時頃  丹生部隊、山王ホテルへ
午前中  香田大尉、村中、戒厳司令官を訪問  皇軍相撃つことなき様意見上申
午前10時30分  野中部隊 清原少尉 ( 歩三第3中隊 )、1箇小隊を率い華族会館を襲撃
 栗原中尉来て蹶起趣意書を朗読す ・・・華族会館襲撃

午後0時10分  安藤部隊・・・新議事堂へ移動
坂井部隊・・・陸軍省東北角配備 → 新議事堂附近に集結
香田、村中・・・戒厳司令部へ ・・香椎、参謀長、石原大佐、柴大尉と面接 → 首相官邸へ 栗原、磯部と会う


午後1時頃  安藤部隊 新国会議事堂附近に集結
井出宣時大佐、安藤大尉と面会 ・・・小川軍曹がいきなり大佐を射殺すると言い出し大尉に止められる一幕あり
午後1時頃  坂井部隊 高橋小隊、新国会議事堂裏の広場に集結す
午後1時27分  岡田啓介首相、官邸より脱出す
午後2時頃  野中部隊 鈴木少尉以下10中隊、警視庁に戻る
主力を新議事堂附近に集結
午後2時  野中部隊 3中隊、7中隊、10中隊、新国会議事堂へ向かうも途中で引返す
午後3時頃  安藤部隊、幸楽へ向かう
同期生宇田武次 、幸楽で安藤大尉と会う 
・・・いまの参議院西通用門の口にまわってのぞいて見ると、
安藤輝三大尉が出来かけの石段の上に立って部下中隊に訓示と命令を達しているところであった。

時刻はたしか (27日) 午後三時ごろであった。
「 小藤大佐の指揮下に入り、中隊は今より赤坂幸楽に宿営せんとす・・・・」
よくとおる安藤の声がハッキリ聞こえてくる。
・・・「 今夜、秩父宮もご帰京になる。弘前、青森の部隊も来ることになっている」

午後4時  鈴木少尉以下10中隊、新国会議事堂中に集合
 常盤少尉 ( 歩三第6中隊 )、一箇小隊を率い新国会議事堂へ
午後4時  東京台場に戦艦長門他40隻の艦隊が集結し砲口を永田町一帯に向ける
午後4時30分  将校全員陸相官邸に集合、山口大尉より宿舎命令を受ける
 鈴木少尉以下10中隊は鉄相官邸、清原少尉以下3中隊は文相官邸、
 其の後、野中大尉以下7中隊、香田大尉は鉄相官邸、蹶起部隊本部を鉄相官邸に置く
 10中隊は文部大臣官邸、栗原・中橋隊は首相官邸、

午後4時59分  秩父宮、上野駅に到着す
午後5時頃  陸相官邸へ集合命令・・17、8名が集合
 真崎、西、阿部の三大将と蹶起将校 陸相官邸で会見、 真崎大将に時局収拾を一任す
午後二時、陸相官邸で蹶起將校と眞崎大將らと會談した。
席上、野中大尉が
「事態の収拾を眞崎將軍に御願ひ申します。
 この事は全軍事參議官と全靑年將校との一致せる意見として御上奏をお願い申したい 」
と、言った。
しかし、眞崎は既に天皇の御意嚮を知っているから、はっきりした返事をしていない。
「 君たちが左様言ってくれる事は誠に嬉しいが、いまは君等が聯隊長の言う事を聞かねば何の処置も出來ない 」
と言って、撤退が先決だという。 
結局、この會見ははっきりした結論を出さないでおわった。
軍事參議官たちは、靑年將校が撤退を認めたと思い、
靑年將校の方では、阿部、西の両大將が眞崎大將を助けて善処するという言葉を信じた。

・・・
行動記 ・ 第十九 「 国家人なし、勇将真崎あり 」
・・・山口一太郎大尉の四日間 3 「 総てを真崎大将に一任します 」


午後6時頃  陸相官邸へ将校全員集合
午後6時  丹生部隊、山王ホテルへ  ( ・・・午後8時山王ホテルへ )

午後6時30分  丹生中尉、山王ホテルへ・・・歩一11中隊は山王ホテルに宿営
午後6時30分  安藤部隊、坂井部隊、幸楽へ向かう
午後6時半  坂井部隊・・・幸楽へ入る
午後6時半頃  安藤部隊、尊皇討奸の旗を先頭に幸楽へ入る 
 今晩秩父宮様が弘前を御出発上京の情報、中隊長以下各幹部 涙にむせぶ。
・・・「 今夜、秩父宮もご帰京になる。弘前、青森の部隊も来ることになっている」

午後7時  戒作命第九号 発令

戒作命第九號 
( 近衛師團長ニ与フルモノ )
命令  二月廿八日午前七時  於九段戒嚴司令部
一、貴官ハ半蔵門附近ニ自動貨車積載部隊若干ヲ準備シ情況ニ應シ機ヲ失セス 陸軍省參謀本部ヲ確保スヘシ
 但シ目下平穏裡ニ占據部隊ヲ撤去セシメ得ルノ見込大ナルモノアルニ鑑ミ
之ヲ刺戟シ不測ノ事端ヲ醸成セサル事ニ關シ留意ヲ要ス
戒厳嚴司令官    香椎浩平
下達法  電話ニ依ル

午後7時頃  澁川、加藤、佐藤らと留守の西田税宅に集る・・佐藤、青森の末松大尉の許へ向かう
午後7時頃  清原小隊、華族会館を出  午後7時半頃 大蔵大臣官邸へ、
田中隊 ・磯部、山本又少尉は農林大臣官邸  歩三第10中隊は文相官邸
坂井部隊、幸楽へ
澁川善助、皇道維新聯盟へ ・・・柴有時大尉と共に鐡相官邸へ
午後7時  栗原中尉、幸楽で演説
午後8時頃  村中、北一輝邸を訪問  北、西田、亀川と会合 ・・・北一輝 (警調書2) 『 仕舞った 』
・・・ 時間ハ記憶アリマセヌガ、當夜午後七、八時頃
龜川ト話シテ居ル際、村中ガ突然來タノデ、

私ハ意外ニ感ジ、且 再ビ會ヘナイダラウト覺悟シテ居ツタ同人ト會フ事ガ出來テ、感慨無量ノ體デアリマシタ。
ソコデ、私ト北、龜川、村中ノ四人が一座ニシテ、村中ニ對シテ今迄ノ經過ニ附、
物珍ラシク色々尋ネタリ、聞イタリ致シマシタ。
其ノ時村中ハ、
一、二月二十六日朝陸軍大臣官邸ニ行ツテ、大臣ト會見シタ模様、
一、蹶起部隊ハ戒嚴司令部ノ隷下ニ編入セラレタコト、
一、戒嚴司令官ト面接シテ、此儘現占據地ニ留ツテ居ツテ宜イト云フ諒解ヲ得タコト、
一、先輩同僚ガ多數來テ激励シテクレルノデ、同志將校等ハ非常ニ心強ク思ツテ居ルコト、
一、今朝陸軍省、參謀本部等ニ兵力ヲ終結シテ、幕僚ヲ襲撃スルコトヲ安藤、磯部、栗原等ガ言ヒ出シタガ、之ヲ阻止シタコト、
一、眞崎、阿部、西三大將ニ會見シ、眞崎大將ニ時局収拾ヲ一任スルコトヲ要望シ、大體其ノ方針デ進ンデ居ルコト、
一、新議事堂附近ニ兵ヲ終結スルコトハ地形偵察ノ結果不可デアルノデ、
  戒嚴司令官ニ其ノ儘留ツテ居ツテモ宜イカト尋ネタ処、同司令官カラ其ノ儘デ穏クリ給養シテ宜イト言ハレタコト、
一、万平ホテル、山王ホテル等ニ居ル部隊ハ蹶起軍ナルコト、其ノ給与ハ部隊カラ受ケテ居ルコト、
一、奉勅命令デ現地ヲ撤退セシメ、命令ニ服從シナケレバ討伐スル等ノ噂ガアルト話シタラ、村中ハ、
  「 ソンナ筈ハ無イ、我々ノ行動ヲ認メタト云フ大臣告示ガ出テ居ルカラ 」
ト申シ、右大臣告示ノ内容ヲ説明シタコト、等ヲ話シマシタ。
其ノ時北カラモ、
「 早ク陸軍首脳部ノ意見ヲ纏メテ、時局収拾ニ努力スル必要ガアル 」
旨ヲ申シテ居リマシタ。
村中ハ、兵ノ敎育上何カ參考資料ハナイカト申シマシタガ、
何モ無イト申スト、約一時間位話シテ歸ツテ行キマシタ。

午後10時  新井中尉、幸楽の安藤大尉に面会、続いて 山王ホテルの丹生中尉に面会 ・・・地区隊から占拠部隊へ
午後11時頃  磯部、首相官邸を夜襲して武装解除するとの風説の報告を受ける
終日  陸相官邸に在したる者、柴大尉、山口大尉、小藤大佐、鈴木大佐
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「 事件の処理は私がやった 」
との 陛下のお言葉のように、
この段階で進めらていた陸軍首脳の方針に、
待った、を かけられた陛下のご意志のまえに、軍当局は絶対的な苦悩に陥ることになった。
朝令暮改というが、陛下の激怒によって軍首脳は、今や施す術がなかった。
百八十度の変転である。

「 陸軍大臣告示 」 はどうして消えたか
昭和四十六年十一月の、外国記者団との会見における天皇の発言によれば、
二・二六事件の収拾処置は自分が命令した、
それは憲法の規制を逸脱した専断であった。

と 認められている。
憲法によれば、
国政を預る政府責任当局の決定に対しては、天皇といえどもそれを否認する拒否権はない。
その憲法無視を敢て強行された天皇の意志が、二・二六事件蹶起完敗のすべてであった。
事件は陸軍軍隊によって起された暴発であり、この収拾は軍当局の責任である。
その責任下に決定、告示された 「 陸軍大臣告示 」 が、
わずか半日にして姿を消したことは、一に 天皇の意志であり 激怒 であった。
いかに憲法上は正しい大臣告示でも、
神厳にしておかすべからずの天皇の意志の前には、軍人として一も 二もなく 為す術はなかったろう。
天皇の意志に反した告示など、存在する運命はなかった。
天皇の鎮圧すべしとする意思決定の段階で、「 陸軍大臣告示 」 の存在理由はなくなったのである。
・・・ 二・二六事件の収拾処置は自分が命令した 


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