あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

村中孝次 『 勤皇道樂の慣れの果てか 』

2022年12月22日 01時01分01秒 | 村中孝次

磯部が言う。
「 村中さん、おとなしくしていれば陸大を出て、今頃は參謀ですなあ 」
村中が答える。
「 勤皇道楽の慣れの果てか 」
一同は アッハッハと大笑いする。
(大西郷の言葉を借用していたので)

・・・村中孝次 「 勤皇道楽の慣れの果てか 」 


村中孝次  ムラナカ タカジ
『 勤皇道樂の慣れの果てか 』
目次

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・ 昭和維新 ・村中孝次 (一) 粛軍に關する意見書
・ 昭和維新 ・村中孝次 (二) 赤子の微衷
・ 
昭和維新 ・村中孝次 (三) 丹心錄 

維新の原理―方法論
一君萬民、君民一體、一國一家、共存共栄の原則に立つ日本國家の維新は必然、

此の原則によって發展されねばならぬ。
即ち天皇を至高中心とする君民一體の國家的躍進たるべく、
國家のものの理想と時勢の 進運に伴って實現せんとする
君民一體の國家意思の躍進的發動たるべきである。
維新は天皇を無視除外せる臣民的國民のみの大衆行動に非ず。
臣民的國民を除外せる天皇の独裁に非ず。
國民中の或る階級分子の専制であってはならぬ、一體的君民の國民行動である。
先覺的國民の先駆誘導による擧國的躍進行動で天皇は其中心指令者、
全國國民は是を協翼する本隊員である、
此の行動は國家原理維新原理に深刻正当な理解を把握して國家の格階層全分野より 起り
上下左右強力して進めることが必要である。
維新とは又より高き現実の實現である、
現實を否認すると共に此の否認する現實を基点としてのより高き明日の現實への躍進である
從って形式的復古でなく非現實的改革でないのは固よりである。
維新の具體的原則
1 政治的原則 一君萬民、君民共治、天皇親裁、 國民翼賛議会政党

 (自主的國民の政治的意見の自由は政党を作ることがあり得 )
國民の自由発展 (進化の原則である)
2 経済的原則 國民各自の自由發展の物質的基本の保証、自主的個人の人格的基礎の確立、
 國家の最高意思による私有財産土地企業の限度―経済的封建制の廃止
( 現政党の否認は財閥との結託により大政党を組織して居ることによる弊害大なるが故である )
3 軍事的原則 ( 國家最高意思による統一 )
 消極的國防の観念を排し建國の理想世界的使命の實現の爲めの積極的実力の充實、國家の國際的生存權の主張
二月十八日   村中孝次

・・・
村中孝次 ・ 同期生に宛てた通信

國防の本義と其強化の提唱に就て
陸軍が其総意を以て公式に 經済機構變革を宣明したるは建國未曾有のこと

昭和維新の氣運は劃期的進展を見たりと謂うべし。
( 水戸藩主が天下の副將軍を以て尊皇を唱えたるよりも島津侯が公武合體を捨て
尊皇統幕を宣言したるよりも大なる維新氣勢の確信なり )
陸軍は終に維新のルビコンを渡れるシーザーなり。
内容に抽象的不完全の點なきに非ずと雖も具體的充實化は今後の努力にあり。
我等は徹底的に陸軍當局の信念方針を支持し拡大し強化するを要す。
之が方策の一、二例左の如し。
イ、該冊子を有効に頒布し十分活用すること、將校下士官兵有志、在郷下士官兵有志、
 郷軍有志、民間有志竝農民關係其他所在の改造勢力方面
ロ、國防國策研究 ( 本冊子をテキストとして ) の集會を盛に行うこと
ハ、各種の方法を以て當局に對し本冊子に對する絶賛の意を表すると共に活行突破要請を具申建白すること
ニ、 農民其他一般に民間方面の當局に對する陳情具申等を陸軍に集中せしむること
一般情勢判斷に就て
イ、陸海軍軍事予算竝國民救濟豫算 ( 臨時議會提出及十年度分 ) 手呈的に支援し
要求貫徹を計ること
ロ、在満機関紙海軍軍縮廢棄通告の實現を促進すること
ハ、所在同憂同志諸士を正算結集し非常時におうずる準備を着々整うること
ニ、可能なる限り在京同志と密度なる聯絡をとること
ホ、冷鐡の判斷行動と焦魂の熱意努力とを以て日夜兼行り奔走を敢行すること
 「 一息の間斷なく一刻の急忙なきは即ち是れ天地の気象 」 とは吾曹同志の採って以て日常の軌道とすべきなり。
降魔斬鬼救世済人の菩薩が湧出すべき大地震裂の時は恐らく遠からずと想望され候
日夜不撓為すべきを爲し、盡くすべきを盡くし 以て維新奉公の赤心に活くべく
お互いに精遊驀往可仕候     十月五日  村中孝次
・・・
村中孝次 『 国防の本義と其強化の提唱について 』 

陸軍士官學校予科區隊長 ・ 村中孝次 
「 軍中央部は我々の運動を彈壓するつもりか 」 
「 粛啓壮候 」 と冒頭せるもの
 村中孝次 『 全皇軍青年將校に檄す 』 
改造法案は金科玉条なのか 

・ 村中孝次 「 やるときがくればやるさ 」
・ 村中孝次 「 カイジョウロウカク みたいなものだ 」 
十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 ) 
 ・ 所謂 十一月二十日事件
 ・ 十一月二十日事件の經緯
 ・ 法務官 島田朋三郎 「 不起訴處分の命令相成然と思料す 」
 ・ 村中孝次 「 やるときがくればやるさ 」
 ・ 村中孝次 「 カイジョウロウカクみたいなものだ 」
 ・ 士官候補生の十一月二十日事件
 ・ 栗原中尉と十一月二十日事件
 ・ 憲兵 塚本誠の陸軍士官學校事件
 ・ 十一月二十日事件をデッチあげたのは誰か
 ・ 十一月二十日事件 ・ 辻大尉は誣告を犯した
 ・ 辻正信大尉
 ・ 正面衝突 ・ 村中孝次の決意
 ・ 粛軍に關する意見書
 ・ 栗原中尉と齋藤瀏少將 「 愈々 正面衝突になりました 」
 ・ 三角友幾 ・ 辻正信に抗議
 ・ 候補生 ・ 武藤与一 「 自分が佐藤という人間を見抜けていたら 」
 ・ 荒木貞夫が見た十一月二十日事件
 
正面衝突 ・ 村中孝次の決意
 粛軍に關する意見書


教育總監更迭事情要点 ・村中孝次 
村中孝次 發 川島義之 宛 


野中大尉の決意書を
村中が之を骨子として、
蹶起趣意書 を作ったのだ。
原文は野中氏の
人格、個性がハッキリとした所の大文章であった。
・・・磯部浅一 ・ 行動記  第十 「 戒厳令を布いて斬るのだなあ 」 

吾人の蹶起の目的は 『 蹶起趣意書 』 に明記せるが如し。
本趣意書は二月二十四日、
北一輝氏宅の仏間、

明治大帝御尊象の御前に於て神仏照覧の下に、
( 村中孝次 ) の起草せるもの、

或は不文にして意を盡すと雖も、
一貫せる大精神に於ては
天地神冥を欺かざる同志一同の至誠衷情の流路なるを信ず。

・・・村中孝次、丹心録 「 吾人はクーデターを企図するものに非ず 」 


「 只今から我々の要望事項を申上げます 」 
・ 帝國ホテルの會合
・ 西田税、村中孝次 『 村中孝次、 二十七日夜 北一輝邸ニ現ル 』 
・ 村中孝次の四日間 1 

・ 村中孝次の四日間 2 

歯ぎしりする村中

この後の二時間近くを、私はどこでどう過したかを今となっては覚えていない。
二十七日の夜九時ごろ、
鐡道大臣官舎 ( 伊藤公の銅像のある西方約百メートル ) の 前で、バッタリ 村中孝次に会った。
彼は既に免官になっていたのだが、歩兵大尉の軍服を着て小柄な身体をマントに包んでいた。
兵隊を一人連れていたが巡察の途中だという。
あいさつもぬきにして、村中が私を見るなり、
「 おい、牧野 ( 伸顕伯 ) は どうした?生きたか死んだか ? 」
と 問いかけて来た。
牧野が無事脱出したことは、昼間見た社の情景で知ってはいたが
村中のこの決死の形相を見て私は事実を告げるわけにも行かなくなった。
といって、嘘もつけない。
モゴモゴ口籠っている私を見ると、
鋭敏な彼は早くも事の失敗を察知して、歯がみをして口惜しがった。
小さな体を震わして、
「 牧野を逃がしたのかウーム・・・・・失敗か 」
東北弁で歯ぎしりしながら語る村中のことばはよく聞きとれなかったが、
こうしている間も もどかしいという風に、私の手をグッと握ると後はもう何もいわず、
鐡道大臣官舎の門の中へ消えて行った。
後ろ姿は妙に寂しかった。
・・・「 今夜、秩父宮もご帰京になる。弘前、青森の部隊も来ることになっている」 

・ 村中孝次 「 奉勅命令が下されたことは疑いがない。大命に從わねばならん 」 
・ 「 あの温厚な村中が起ったのだ 」 

裁判官は檢察官の陳述せる公訴事實
竝に豫審に於ける取調を基礎として訊問せらるる様なるも、
檢察官の陳述せる公訴事實には
前回迄に申述べたる如く蹶起の目的其の他に相違の點あり。
又、豫審に於ける取調は急がれたる關係上
我々の気持を十分述ぶる餘裕を与へられざりしを以て
我々は公判廷に於て十分なる陳述を爲し度き考なれば、
白紙となりて十分陳述の餘裕を与へられ度、
殊に當軍法會議に於ては弁護人を許されざるを以て
我々は自分で弁護人の役目も果たさねばならず、
而も弁護人と異なり身體の自由を有せざるを以て
弁護の資料を得ること能はざる不利なる立場に在り。
此等の点點を御諒察の上、陳述の機會及餘裕を十分に与へられ度し。
今回の行動は大權簒奪者を斬る爲の獨斷専行なり。
党を結びて徒らに暴力を用ひたるものにあらず。
我々軍隊的行動により終始一貫したるものなるを以て、
此獨斷専行を認めらるるか否かは一に大御心にあるものなり。
若し大御心に副ひ奉る能はざりし時と雖も反亂者にあらず。
陸軍刑法上よりすれば檀權の罪により處斷せらるるものたるを信ず。
・・・ 反駁 ・ 村中孝次 

村中孝次 ・ 丹心錄 
 ・ 丹心錄 「 吾人はクーデターを企圖するものに非ず 」
 ・ 続丹心錄 「 死刑は既定の方針だから 」
 ・ 続丹心錄 「 この十年は昼食、教科書官給の十年なり、貧困家庭の子弟と雖も學び得る十年なり 」
 ・ 続丹心錄 ・第一 「 敢て順逆不二の法門をくぐりしものなり 」
 ・ 続丹心錄 ・第二 「 奉勑命令は未だ下達されず 」
 ・ 続丹心錄 ・第三 「 我々を救けやうとして弱い心を起してはいけません 」
 ・ 続丹心錄 ・第四、五、六  「吾人が戰ひ來りしものは國體本然の眞姿顯現にあり 」
 ・ 村中孝次 ・ 同志に告ぐ 「 前衛は全滅せり 」

 青年 村中孝次 「 自己を知り、自我を養ふ 」 
・ あを雲の涯 (三) 村中孝次
・ 村中孝次 ・妻 静子との最後の面會
・ 昭和12年8月19日 (三) 村中孝次大尉

「 勝つ方法としては上部工作などの面倒を避け、
襲撃直後すかさず血刀を提げて宮中に參内し、
畏れ多いが陛下の御前に平伏拝謁して、
あの蹶起趣意書を天覧に供え目的達成を奉願する。
陛下の御意はもとよりはかり知るべきではないが、
重臣らにおはかりになるかも知れない、
いわゆる御前會議を經ることになれば、
成果はどうなるか分からないが、
そのような手續きを取らずに、おそらく御許しを得て奏功確實を信じていた。
この方法は前から考えていたことだが、いよいよとなると良心が許さない、
気でも狂ったら別だが、至尊鞏要の言葉が怖ろしい。
たとへ 御許しになっても、皇軍相撃つ流血の惨は免れないだろうが、勝利はこちらにあったと思う。
飛電により全國の軍人、民間同志が續々と上京するはずだ。
しかし、今考えて見れば銃殺のケイ よりも、私らは苦しい立場に立つだろう。
北先生からも  『 上を鞏要し奉ることは絶對にいけない 』 と聞かされていた。
この方法で勝っても、その一歩先に、
陛下のために國家のために起ったその忠誠が零になるわけだ、矢張り負けて良かったとも考えている。
勝つ方策はあったが、あえてこれをなさざりしは、
國體信念にもとづくもので、身を殺しても鞏要し奉ることは欲せざりしなり。
・・・ 勝つ方法はあったが、あえてこれをなさざりし

いろいろと娑婆からここに来るまで戰つてきましたが、
今日になって過去一切を靜かに反省して考えて見ますと、
結局、私達は陸軍というよりも軍の一部の人々におどらされてきたことでした。
彼等の道具に、ていよく使われてきたというのが正しいのかも知れません
もちろん、私達個々の意思では、あくまでも維新運動に挺身してきたのでしたが、
この私達の純眞な維新運動が、上手に此等一部の軍人に利用されていました。
今度の事件もまたその例外ではありません。
彼等はわれわれの蹶起に対して死の極刑を以て臨みながら、
しかも他面、事態を自己の野望のために利用しています。
私達はとうとう最後まで完全に彼等からしてやられていました。
私達は粛軍のために闘ってきました。
陸軍を
維新化するためにはどうしても軍における不純分子を一掃して、
擧軍一體の維新態勢にもって來なくてはなりません。
れわれの努力はこれに集中されました。
粛軍に關する意見書 』 のごときも全くこの意圖に出たものでしたが、
ただ、返ってきたものはわれわれへの彈壓だけでした。
そこで私達は立ち上がりました。
維新は先ず陸軍から斷行させるべきであったからです。
幕僚ファッショの覆滅ふくめつこそわれわれ必死の念願でした。
だが、この幕僚ファッショに、今度もまた、してやられてしまいました。
これを思うとこの憤りはわれわれは死んでも消えないでしょう。
われわれは必ず殺されるでしょう。
いや、いさぎよく死んで行きます。
ただ、心残りなのは、
われわれが、彼等幕僚達、いやその首脳部も含めて、

れらの人々に利用され、彼等の政治上の道具に使われていたことです。
彼等こそ陸軍を破壊し國を滅ぼすものであることを信じて疑いません

・・・
「古ヨリ 狡兎死而走狗烹 吾人ハ即走狗歟 」 


「 古ヨリ 狡兎死而走狗烹 吾人ハ即走狗歟 」

2017年09月28日 05時50分47秒 | 村中孝次

「古ヨリ 狡兎死而走狗烹 吾人ハ即走狗歟 」
ずる賢い兎 ( 陸軍にとっての敵 )が弱まれば、
それを追いかけた猟犬 ( 青年将校運動 ) は、必要なくなり、
煮て食べられる運命となった

  村中孝次  
いろいろと娑婆からここに來るまで戰ってきましたが、
今日になって過去一切を靜かに反省して考えて見ますと、
結局、私達は陸軍というよりも軍の一部の人々におどらされてきたことでした。
彼等の道具に、ていよく使われてきたというのが正しいのかも知れません
もちろん、私達個々の意思では、あくまでも維新運動に挺身してきたのでしたが、
この私達の純眞な維新運動が、上手に此等一部の軍人に利用されていました。
今度の事件もまたその例外ではありません。
彼等はわれわれの蹶起に對して死の極刑を以て臨みながら、しかも他面、
事態を自己の野望のために利用しています
私達はとうとう最後まで完全に彼等からしてやられていました。
私達は粛軍のために闘ってきました。
陸軍を維新化するためにはどうしても軍における不純分子を一掃して、
擧軍一體の維新態勢にもって來なくてはなりません。
われわれの努力はこれに集中されました。
粛軍に關する意見書のごときも全くこの意圖に出たものでしたが、
ただ、返ってきたものはわれわれへの彈壓だけでした。
そこで私達は立ち上がりました。
維新は先ず陸軍から斷行させるべきであったからです。
幕僚ファッショの覆滅ふくめつこそわれわれ必死の念願でした。
だが、この幕僚ファッショに、今度もまた、してやられてしまいました。
これを思うとこの憤りはわれわれは死んでも消えないでしょう。
われわれは必ず殺されるでしょう。
いや、いさぎよく死んで行きます。
ただ、心残りなのは、
われわれが、彼等幕僚達、いやその首脳部も含めて、

それらの人々に利用され、彼等の政治上の道具に使われていたことです。
彼等こそ陸軍を破壊し國を滅ぼすものであることを信じて疑いません。
・・・村中孝次


勝つ方法はあったが、あえてこれをなさざりし

2017年09月25日 04時39分47秒 | 村中孝次

  村中孝次  
村中は私が房前に立つと、
突如 「 私らは負けた 」 といった。
しかも元気旺盛で、負け面づらは見えない。
それを冒頭に大いに喋る。
この話の骨子は十一月事件で入所した時も聞いたのであった。
その話の要旨は、
「 勝方法としては上部工作などの面倒を避け、
襲撃直後すかさず血刀を提げて宮中に參内し、
畏れ多いが陛下の御前に平伏拝謁して、
あの蹶起趣意書を天覧に供え目的達成を奉願する。
陛下の御意はもとよりはかり知るべきではないが、
重臣らにおはかりになるかも知れない、
いわゆる御前會議を經ることになれば、
成果はどうなるか分からないが、
そのような手續きを取らずに、おそらく御許しを得て奏功確實を信じていた。
この方法は前から考えていたことだが、いよいよとなると良心が許さない、
氣でも狂ったら別だが、至尊強要の言葉が怖ろしい。
たとへ 御許しになっても、皇軍相撃つ流血の惨は免れないだろうが、
勝利はこちらにあったと思う。
飛電により全國の軍人、民間同志が續々と上京するはずだ。
しかし、今考えて見れば銃殺のケイ よりも、私らは苦しい立場に立つだろう。
北先生からも  『 上を鞏要し奉ることは絶對にいけない 』 と聞かされていた。
この方法で勝っても、その一歩先に、
陛下のために國家のために起ったその忠誠が零になるわけだ、
矢張り負けて良かったとも考えている 」
と 慨然として嘆声を洩らす。
「 勝つ方策はあったが、あえてこれをなさざりしは、
國體信念にもとづくもので、身を殺しても鞏要し奉ることは欲せざりしなり 」
…東京陸軍刑務所所長  塚本定吉  「 二・二六事件  軍獄秘話 」 から


青年 村中孝次 「 自己を知り、自我を養ふ 」

2017年09月21日 17時05分34秒 | 村中孝次


村中孝次  
明治三十六年 (1903年) 十月三日生れ
二年間の仙台幼年学校を経て、
東京・市ヶ谷台の陸軍士官学校予科へ進み、
大正十二年 (1923年) 士官候補生として故郷の旭川歩兵第二十六聯隊に配属になる
同年秋 士官学校本科生となる。

大正十四年(1925年) 2月20日の日記
日記は
陸軍士官学校本科から隊附になるまでの一年半の間に書かれたものである。
煩悶はんもんと苦悩を積重ねながら
ひたすら自己の確立を求めていく苦悩の青春がある。

大正十三年に於ける自己は、自己に目覚めた。
そして悲しんだ。
内へ内へと向かって猛烈に突進した。
然し 力は弱かった。
歩を他に施した。
夫れも駄目。
目を四方に向けたときは、既に八方塞がれてあった。
無力を嘆いて遂にこの年を終えたのだ。
思想は目まぐるしい程変転して行く。
・・・大正十四年 (1925年) 一月三日の日記

正月から見始めた白村氏の 『 近代文学講 』を 今日見終わる。
人間になろうと努めていた。
学校で学ぶべきことを余所にして他に走っていた。
大いなる過まりとは言わねばならぬ。
人間となるには一生涯を通じた精進でなければ、不可能だ。
先ず 軍人となるのが刻下の急務だ。
人間の一部としての、一形式としての軍人になることが何より先に努むべき本分だ。
完全なる軍人となる事によって、
敢然なる人間となる事に努むるが至当の順序だろう。
本分に対する自覚が少なかった。
信念に乏しかった。
・・・大正十四年 (1925年) 一月十八日の日記

信(次) 兄に返事を今書いているうち筆は思わぬほうへ滑った。
『 思えば歓喜と希望とを失わずにとあせっているのが私の存在です。
淋しさがひた寄するとき・・・激戦の熱闘中に六・五ミリメートルの小銃弾一発で
肉体を離れる軍人の死程容易なものはないでしょう。
霊と肉との不一致---それが今の私の最も大きな苦悩の一つです。
それを忘れようとして私は今読書に耽っています。
それも心に委せない・・・』  こんなことを書き綴っていた。 兄は何と思うだろう 。
・・・大正十四年 (1925年) 三月一日の日記

天地を呑吐する気概と霊の神聖化二者を合して一とする。
これを以て俺の精進邁往の目標としよう。
肉体を諦あきらめるとき心苦しさに圧倒される。
肉を離して霊に生きよう。
余りに淋しき憂うつの霊だ。
而し 強く生きねばならない
・・・大正十四年 (1925年) 三月十八日の日記

噫、我この眇軀びょうく、爾の倭少なる何をか爲し得ん。
現戦の疲労に、続く憂うつは愈々深みゆくのみだ。
俺のこの陰惨な憂うつはこの肉体が亡びるに非ざれば滅することが出来ないものだ。
俺のこの心は肉体が更生するに非ずんば更新すること不可能だ。
カラーチェの弾奏した 『 倭人踊 』 お前は狂った様に踊っている。
お前は楽しいのか、でも時には俺の様に悲しくなることもあるのだろう。
五月一日から航空兵科なるものが出来た。
俺も転科しようか・・・。
・・・大正十四年 (1925年) 五月三日の日記

観兵の予行と校長宮殿下の訓示と午前中あり。
午後、用弁外出。
直ちに井本、菅波等六名と共に日本改造の闘将北一輝を千駄ヶ谷に訪ねる。
彼の軍隊観を質さんが為。
簡素な応接室の椅子の上に安座せし彼は隻眼の小丈夫。
『 日本の現在を如何に見ますか 』
と 反問を発したる後、
宗教、科学、哲学より悪に対する最後まで戦闘精神を説きて我等を酔はしむ。
其の熱と夫の力。
酒脱、豪放、識見、一々敬せざるを得ず。
『 諸君は我日本を改造進展せしむるに最も重大なる責任を有する位置に在ることを光栄とし、
今後大いに努力し給へ 』 。
・・大正十四年 (1925年) 七月二十二日の日記

『 国体論及純正社会主義 』 北一輝著
北は ここで
社会を日本の国体と合一させようとする論を試み

その諸言で
「 破邪は顕正に克つ 」 という日蓮的な言葉を使っている

「 吾人の挙は一に破邪顕正を以て表現すべし、
破邪は 即 顕正なり、
破邪顕正は常に不二一体にして事物の表裏なく、
国体破壊の元凶を誅戮して大義自ら明らかに、大義確立して、民心漸く正に帰す。
是れをこれ維新というべく、少なくとも維新の第一歩にして 且 其の根本なり、
討奸と維新と豈二ならんや 」 ・・・獄中手記 『 続丹心録 』
・・と、
元老、重臣らの中の天皇の大御心を妨げる元凶を取除くことが、
「 破邪顕正 」 で 昭和維新に通ずることである。

十二月十日に大正十四年兵を迎えて早くも五日、
若輩無経験を以て彼等に教官と称する。
省みて冷汗なる能わず。
身上調査をして其境遇の哀れなるに一掬いっきくの涙なき能わず。
其思想の正統なる善導せば必ずや立派な干城たり得べし、
我その才能ありや否や、只管 熱誠を以て彼等を導き二年在営の目的を、達成せしめんのみ。
・・・大正十四年 (1925年)  十二月十五日の日記

盟友菅波三郎兄より写真一葉に添えて 『 真個大日本帝国ノ建設ニ向ツテ精進死戦セン 』
との 語を寄せらる。
国を思うの丹心と其れに向ってする実行とに於て 我亦この盟兄に劣らじと期す。
然れども 悲しい哉。
我は先づ自我建設に向って精神努力せざるを得ず。
自己を知り 自我を養い 以て自己を嘆する声を消さざるべからず。
『 求苦邁進是男子 』。
道を遮る総ての者と戦って驀進ばくしんせんのみ。
以て 年頭の覚悟となす。
・・・大正十五年 (1926年 ) 年頭の日記
・・・平澤是曠 著  叛徒 から


青年村中孝次、二十二歳・・である


陸軍士官學校予科区隊長 ・ 村中孝次

2017年09月20日 17時01分16秒 | 村中孝次

  村中孝次  
昭和三年 ( 1928年 )、村中(25才) は中尉に進級し、陸軍士官学校予科区隊長となる。
区隊長は生徒訓育の中心で、人格、識見、指導力をもった者が選ばれる。
一区隊は 二十五人で編成される。
安田優、中島莞爾、高橋太郎は村中の教え子である。

安田 優少尉
は 憲兵調書で
「 旭川の原隊に帰っも村中氏とは家族同様の親交をして 今迄来たのでありますが
それ等終始交際して居る内に
村中氏は私情を投て凡て 君国に殉するの精神に甦って行動して居らるることに
非情に感奮したのです。
然し 一度も国家改造の事は村中氏より聞いたことは有りません。
但し 其の親交中の無言の内に愛国の士であることが判り 無言の感化共鳴し
全く此の愛国の至情には一つの疑念なく
凡てに於て 共に行動出来るものと確信したのであります 」
と 答えている

中島莞爾 少尉
は 憲兵調書で
「 村中氏とは予科の時は他の区隊長であったから種々の動作を見聞し
立派な人だと考えていました
即ち 武人的の人と考えていましたが その後 次第に親しくなって来て
私と同じ信念を持って居る人であるとし
先輩として敬して居りました 」
と 答えている

三岡健次郎氏
は 平成三年 ( 1991年 ) の夏、
六十年前の記憶を こう 語った
「 私が陸士の生徒のとき、
学校では毎日生徒に日記を書かせて区隊長に提出させていましたが、
ある日 私は村中さんに呼ばれました。
私は和歌山の貧農の子で
幼い時からその頃の日本の矛盾を何となく肌に沁みるように感じていました。
年を重ねるにつれて そのことが意識として形づくられるようになりましたが、
村中さんは日記に書いている私の考えを聞き
最後に
『 そりじゃ一体、今の日本をどうすればいいと思うか 』
と 言いました。
村中さんは静かに頷いていましたが
『 よし、お前の考えは分った。 しかし そりは自分の胸にだけしまっておけ。
他人には話すな。 ただ、俺に見せる日記にだけは本当のことを書け、
どんなことでもいい、お前の思っていることを正直に書け 』
と 言われました。
𠮟られるとばかり思っていた私は、茫然と村中さんを見返しました。
村中さんは 心底から敬服できる立派な方だと思いました。
和歌山で生まれた私が、なぜ北海道を原隊として選んだかというと、
村中さんに 『 北海道は俺の故郷だ。お前行ってみないか 』
と 言われたからです。
村中さんの言うことに素直に従っていけるほど信頼の出来る方でした。
陸士を良い成績で終えた多くの者が東京近在か、
自分の出身地の部隊を希望していたときですから、
私は変わり者としてみられたかもしれません 」

武藤与一氏
十一月二十日事件の陸軍士官候補生

「 私は貧乏農家の出ですが、将来軍人になって世に出ようとして陸士を志願したのです。
村中さんとの出会いは 予科へ入ってすぐ、
週番士官の村中さんから訓示を受けたときです。
『 お前らは将来軍人になって偉くなりたいと思っているかもしらんが、
陸軍士官学校はそんな人間をつくるところではない 』
と 言われたとき、
私はそれまでの自分の考えを恥ずかしく思いました。
それから私は 一人で村中さんのお宅を訪ねるようになりましたが、
村中さんは農村の疲弊に義憤を感じておられました。
だが、ともすれば過激なことを口走る私をたしなめるのは村中さんの方でした。
とにかく村中さんは温かく、静かに諄々と私たちを訓すという方でした。
二・二六事件に関わった何人かの人を知っていますが、
それぞれ信念をお持ちの方々ですけど、特に村中さんと安藤 ( 輝三 ) さんは
心底 敬服できる立派な人でした 」
と 追慕した。  ・・・リンク→候補生・武藤与一 「 自分が佐藤という人間を見抜けていたら 」

・・・平澤是曠 著  叛徒 から