あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

香田淸貞 『 撃たれたら直ぐ 陛下の御側に集まろう 』

2021年12月08日 12時30分16秒 | 香田淸貞

ごろ、オレはつくづく思うことがある。
兵の教育をやってみると、果たしてこれでいいかということだ。
あまりにも貧困家庭の子弟が多すぎる。
余裕のある家庭の子弟は大学に進んで、麻雀、ダンスと遊びほうけている。
いまの社会は狂っている。
一旦緩急の場合、後顧の憂いなしといえるだろうか。
何とかしなけりゃいかんなァ。

 ・・
後顧の憂い

大臣閣下! 大臣閣下! 
國家の一大事でありますぞ! 
早く起きて下さい。
早く起きなければ
それだけ人を余計に殺さねばなりませんゾ !!
・・・香田清貞大尉 「 国家の一大事でありますゾ ! 」 

香田、村中は
國家の重大事につき、陸軍大臣に會見がしたい
と云って、憲兵とおし問答してゐる。

余は 香、村は 面白い事を云ふ人達だ、えらいぞと思った。
重大事は自分等が好んで起し、
むしろ自分等の重大事であるかも知れないのに、

國家の重大事と云ふ所が日本人らしくて健氣だ、
と 思って苦笑した。

憲兵は、大臣に危害を加へる様なら私達を殺してからにして下さいと云ふ。
そんな事をするのではない、
國家の重大事だ、
早く會ふ様に云って來いと叱る。
・・・いよいよ始まった

七月十二日、処刑の朝
香田淸貞大尉が聲を掛けた。
六時半をまわったころだった。
香田は彼らのなかで年長者の一人である。
皆、聞いてくれ。
殺されたら、 その血だらけのまま 陛下の元へ集まり、
それから行く先を決めようじゃないか

それを聞いた全員が、 そうしよう、と 声を合わせた。
そこで 香田の發生で皆が、
「天皇陛下萬歳、大日本帝國萬歳」
と 全監房を揺らすらんばかにり叫び、
刑場へ出發していった。

 
香田淸貞 コウダ キヨサダ
『 撃たれたら直ぐ 陛下の御側に集まろう  』

目次
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・ 昭和維新 ・香田淸貞大尉

後顧の憂い 「 何とかしなけりゃいかんなァ 」 
・ 香田淸貞 ・ 眞崎大将を訪問 「 乃公は絶對に同意はしていない 」

・ 香田淸貞大尉の参加 

・ 香田淸貞大尉 「 國家の一大事でありますゾ ! 」 
・ 香田淸貞大尉 「 陸相官邸の部隊にも給与して下さい 」 
・ 川島義之陸軍大臣 二月二十六日 
・ 「 只今から我々の要望事項を申上げます 」

香田淸貞 ( 憲調書 ) 『 神州の危急を知ろしめずんば朕をして君たるの道を失はしむるものなり 』 
・ 香田淸貞大尉の四日間 1 
・ 香田淸貞大尉の四日間 2


午前十時頃と思はれる頃、三階から外を見ると、
電車通りも行動隊の兵士が ( 白襷を掛けて ) 整列して居って、
階下に下りて来て先程の部屋を見ると
安藤、香田の両大尉及下士官、七、八名も居り
緊張して居り安藤か香田に何か大声で話をして居りました。
安藤大尉は
「 自決するなら、今少し早くなすべきであった。
全部包囲されてから、オメ オメと自決する事は昔の武士として恥ずべき事だ。」
「 自分は是だから最初蹶起に反対したのだ。
然し君達が飽迄、昭和維新の聖戦とすると云ふたから、立ったのである。」

「 今になって自分丈ケ自決すれば、それで国民が救はれると思ふか。
吾々が死したら兵士は如何にするか。」
「 叛徒の名を蒙って自決すると云ふ事は絶対反対だ。自分は最後迄殺されても自決しない。」
「 今一度思ひ直して呉れ 」
と テーブルを叩いて、香田大尉を難詰して居りました。
居合せた、下士卒は只黙って両大尉を見詰めて居るばかりでした。
香田大尉は安藤の話をうなだれて聞いて居たが暫らくすると、頭を上げ、
「 俺が悪かった、叛徒の名を受けた儘自決したり、兵士を帰す事は誤りであった。
最後迄一緒にやらう、良く自分の不明を覚まさせて呉れた 」
と 云って手を握り合ひました。
安藤大尉は、
「 僭越な事を云って済まなかった。許して呉れ 」
と 詫び
「 叛徒の名を蒙った儘、兵を帰しては助からないから、遂に大声で云ったのだ。
然し判って呉れてよかった。最後迄、一緒にやって呉 」
と 云ってから
「 至急兵士を呼帰してくれ 」
と 云ったので、
香田大尉は其処に居た下士に命じ、呼戻させ、又戦備をつかしめたり。
・・・ 安藤大尉 「 吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです 」 

十二時頃
「 十一中隊集合 」、
に 四階に居った自分達は何事かと下の広間に集ったら、
丹生中隊長は眼に一杯涙を浮かべて、
「 皆の者 今迄大変御苦労をかけてすまなかった、実は今日皆を帰すから 」 
と 言ふので、
「 何で帰すのか 」 と 皆でなじった。
「 中隊長は何事も言ふまい、自分だけ死ねば後の者は皆助かる 」 
と 言った。
何でだまってゐられやう。
「 中隊長死なせたからには自分達は生きては此のホテルから出ない 」 
と 言ひ合ひ皆泣いた。
中隊長も泣いたたが、時世には押され情なくも帰営するために前の電車路に整列した。
列が半町も行った時、
熱血将校香田大尉が皆を止め、部所に付けと、
一同 亦も 喜び勇み立ち
再度応戦のため各部所についた。

二度と再び出まいと言ひ合った
・・・ 「 声をそろえて 帰りたくない、中隊長達と死にます 」 

又銃
我々は自発的に武装を脱いだ。
小銃を大通りに一列に叉銃し、
LG(軽機関銃)を一端に置き、あとの一切を鎮圧軍に委ねることにした。
この時、

香田大尉が軍服の上衣を脱ぎ
「 殺すなら殺してみろ」 
と 狂乱の如く絶叫しながら
我々の整列した近くから
鎮圧軍の包囲網をめがけて
単身、電車通りを突進していった。
・・・丹生部隊の最期 

・ 反駁 ・ 磯部淺一 村中孝次 香田淸貞 丹生誠忠 
・ 反駁 ・ 香田淸貞 以下 澁川善助 迄、蹶起将校 全員 
・ 最期の陳述 ・ 香田淸貞 「 自分の気持は捨石となることにある 」 


あを雲の涯 (二) 香田淸貞 
・ 昭和11年7月12日 (二) 香田淸貞大尉 


この朝 香田兄の發唱にて
君ケ代 を齊唱し 且 天皇陛下萬歳、大日本皇國萬歳、
を三唱したる後、香田兄が
『 撃たれたら直ぐ 陛下の御側に集まろう。 爾後の行動はそれから決めよう 』
というや、一同意気愈々昂然として不死の覺悟を定め、
從容しょうよう迫らず些かも亂れたることなく、歩武堂々刑場に臨み刑に就きたりと
・・・ 『 撃たれたら直ぐ 血みどろな姿で陛下の許へ参る 』 


香田淸貞 ・ 眞崎大將を訪問 「 乃公は絶對に同意はしていない 」

2018年04月11日 15時47分15秒 | 香田淸貞


香田淸貞 

第一回聴取書
昭和十一年四月十三日
東京衛戍刑務所に於て

眞崎教育總監更迭に際して色々風評が出たが、教育總監の更迭党は三長官の協議がなければいかぬ、
又、こんな事が省部規定にあると云ふ様な事を聞きたることありや。
聞いたことがあります。
確か七月頃、村中から貰つたガリ版刷りで見た事がある様に思ひますし、
又、直接村中から聞いた事がある様に思ひます。
三長官の更迭は省部規定に依り爲すべきものであつて、
之の規定には三長官の合議の上其の更迭を行ふべきものであると云ふ事が定めてあり、
そして合議とは唯三長官が話し合ふのみならず、三長官の同意を要するものであり、
勅令によつて定つて居るものと聞きました。
其他、此省部規定は軍部大臣文官制の聲が盛んな時に定められたもので、
部外から軍部が政治的に動かされない爲めであつたと聞いておりました。

此省部規定と真崎教育総監更迭問題との関係に就き、何か談を聞いたか
當時の林陸軍大臣は、教育總監の更迭に関し、眞崎大將に話をしたが、
眞崎大將は最後迄同意を与へて居らぬと言ふ事や、
當時の軍事參議官會議にも、之に關して相當激論があつたと聞いて居ります。
當時の新聞紙を見ても、之等に關し何かあつたと言ふ様な書き振りでありました。

右の真崎大将更迭問題が省部規定に違反しておる事は、其方の判断以外に誰から聞いたか
矢張り村中から聞きました。
而して、村中は誰からそんな事を聞いたかは聞きませんが、
私は從來より村中が各方面より集める情報に確實性があることを信じて居りますので、
其事柄も矢張り信じて居りました。
其上、私が眞崎大將を訪問した際にも、そんな話がありました。

眞崎大将訪問の際の話の内容につき詳細述べよ
昨年十二月二十八日であつたと思ひますが、眞崎大將を訪問した時に話がありました。
「 國體明徴に關し如何に考へありや 」 ・・眞崎
「 吾々の維新運動と國體明徴とは一體不可分のものであつて、
 之の問題が世上には八釜敷なつたことは、維新運動が始めて本筋に這入ったものである。
從て、私共は之の問題を捕らえて、まつしぐらに各方面に亘り、
實現に努力する考へであり、又、努力しつゝあります。
之れに就き、最近極めて遺憾に思つて居るのは、
教育總監渡邊閣下が名古屋、又 士官學校に於て天皇機關説問題を擁護し、
且つ 國體明徴に關して軍人は之れに關与するは本分外であるかの如き訓示をせられたと言ふ事は、
國軍の教育の中樞機關にある方として許すべからざる事であつて、
私として、渡邊大將は教育總監を辭めて戴きたいと思ひます。
私等は上司を通じて意見を具申しつつあります 」 ・・・リンク→ 渡邊教育總監に呈する公開状
と言ふ主旨の事を申しました

右の事を申上げますと、眞崎大將の言は簡略でありまして、
其の言葉は覺へて居りませぬが、維新運動の事に關しても、渡邊教育總監の訓示問題に關しても、
私の意見に同意せられた様であります。
確か、 「 そうだ 」 と言ふた様に覚へて居ります。
尚、「 國體明徴問題でやつて行けば、合法的維新運動がやつて行けるではないか 」 ・・眞崎
と 言はれました。
「 省部規定は軍令に相當するものにあらずや。
 若しそうだとすれば、七月事件は軍令違反と言ふ事になりはしませんか 」
「 乃公は法律の方は詳細でないので、其点に就きては目下研究中である 」 ・・眞崎
右の言により、私は先に申述べました眞崎教育總監更迭の經緯等は事實であると判斷致しました。
其外、色々眞崎大將邸構築に關する誤解の問題等に關して話がありました。
尚、「 靑年將校が乃公の家に出入りするのは誤解を受ける恐れがあるので、 餘り來ない様にせよ 」 と 言はれますので、
私は士官學校長、旅團長、師團長等として色々御世話になつた關係上、
屢々御訪ねしておりましたが、昭和七年頃から御訪ねする事を遠慮して居りました。
其の時、訪問の時間は一時間位でありまして、私が單獨で御訪ねし、話の時も二人だけでありました。

蹶起将校或は昭和維新運動に関して考へを持つておる将校と共に真崎大将の宅を訪問せしことありや
何時も一人で行つて居ります。
昨年は七月に支那から歸つた挨拶の爲め、十二月には年末の御礼の爲め、都合二回行つただけであります。

栗原等が眞崎大将宅を訪問した話をしておらなかつたか
餘り行かないと思つて居ります。私は其んな話を聞いて居ります。

其方の同志は眞崎大将を各個に訪問しありしにあらずや
直接訪問して維新運動等に關して話は合つた事のあるのは、私とい菅波位であると思つております。

それでは蹶起将校が言ふ様に、「 眞崎大将 」 「 眞崎大将 」 と言ふ筈はないではないか
其れは、私等同志の気持を充分諒解して頂きます。
私等の或一人か二人の者が、立派な人だ、人格者だと言ひますと、其言を信頼して大將を尊敬する様になるのであります。
殊に、之等同志は直接御訪ねなどしないにしても、第一師團長とか、教育總監とか、
士官學校長と言つた各方面の職務におらるゝ時に訓示等を受けたりして、
略々眞崎閣下の御人格を知つておる者が多い様に思つております。

相澤事件に関し、眞崎大将より聞きたることありや
私が御訪ねした時 ( 十二月の時 )、相澤中佐の公判も近くなりましたと言ひますと、
大將は相澤中佐に對しては表面上何もしてをらぬが心の内では人一倍に思つて居ると言はれ、
又、相澤は時々神様の様になる事があると言つて褒めて居られました。
尚、相澤中佐からは揮毫を頼まれて居るが、之は書く心算であると言つておられました。

満井中佐に会つた事ありや
昭和八年頃から五、六回会つた事があります。

昭和八年頃、満井中佐に会つたのは如何なる事からか
磯部、村中とそれからもう一人、
名前は忘れましたが、獨身者との合同宿舎を靑山四丁目の靑山墓地に近い所に一軒の家を借り、
其所で此のもの等が自炊を爲し、又、我々同志の維新運動の會合場にしておりました。
其折、満井中佐も其処に來られた時、始めて會ひました。
満井中佐は其折り、維新運動は何処迄も合法的になさねばならぬ、
然し、此処に排除する事の出來ぬ障碍が出来來た時には、捨石が出る必要がある、
と若い者が意見を述べるも、
其は一應も二應も考へねばならぬ、と言つて、常に若い者をたしなめる立場にあり、
將校も皆同意を表しておりました。

満井中佐より公判に関して話を聞きたる事ありや
昨年十二月二十四日だつたと思ひますが、
新宿の御座敷本郷で、相澤中佐同期生と私等二十名近くの同志が會合しました時、
私共が満井中佐に、公判に關して色々壓迫を加へると豫想せられることがあるから、
充分其点御考への上、御奮闘を願ひたいと述べました。
満井中佐は、私も之の問題を引受けたからには、身命を賭してやるから、
御安神を乞ふ、と言ふ返事があつたと思ひます。

右の様な事柄は誰が言つたのか
右の會は私が主催したのでありますから、私が言つたのだと思ひます。
私が言つたのでなければ、村中が言つたと思ひます。

圧迫を加へると予想した基準点は何か
七月事件は渡邊教育總監の天皇機關説が眞崎大將の國體明徴運動壓迫の結果でありまして、
其の明徴運動を捉えて立つた相澤中佐の公判に對しては、自らの壓迫のあることを考へられました。
八月事件 ( 相澤事件 ) の結果によりますと、
相澤中佐は怪文書を妄信したとか、相澤中佐は氣違ひだとか言つて、
明徴運動の現れなることを暗に葬らんとした等より判斷したからであります。
尚ほ、満井中佐には脅迫的な怪文書のあつた事を聞きました。

蹶起したる際、誰か其方等同志にて後継の眞崎内閣説を主張せしことありや。
大體、私等が蹶起したのは昭和維新運動に對する妨害勢力を排除して、
尚ほ、私等の気持を陛下に奏上するのが目的でありまして、
そんな大權事項に關する事柄を要求がましく言外した事は無いと斷言致します。

蹶起前に於て、眞崎内閣の希望のあることを誰かに言つた事ありや
同志と寄り合つた時などには、十月事件等の探求を時々して居りましたが、
十月事件には誰を首相にするとか、誰を何にするとか言つて居るが、
其れは事件を起した者が要路者となり、又、大權を私議することになりて面白くないが、
吾々であれば眞崎内閣になれば良いなあと言ひましたが、
其れも大權を私議することになりて面白くないと言つて居りました。
其んな話は時々同志と話合つて居りますので、誰と何処でしたか覺へて居りません。

二十六日午前八時三十分頃、陸相官邸に於て、陸相や眞崎大将と会見したる時、
真崎大将は如何なることを言ひしや
私は当時、陸相と對談して居りました時、眞崎閣下の這入って來られたのを見まして、
直ちに立つて敬礼をしたのは覺へておりますが、眞崎閣下は何を言はれたかは知りません。
「 乃公は行く処があるから 」 と言つて出られたのは覺へております。

他に申述ぶる事ありや
他にありません。


香田淸貞
訊問調書
昭和十一年四月十八日
東京衛戍刑務所に於て

相澤中佐の予審調書の一部を、真崎大将に手交した事実はないか
ありません。
本年一月中旬頃、私宅に村中が參りまして、
相澤中佐の片影八部、相澤中佐の豫備調書冩一部、計九部を持つて參りました。
之は既に前の取調官に申立てゝあります。
此の豫審調書は、私は其内容は一度も見る暇なく、机の引出しの中に入れておきました。
夫れが今回家宅捜査の結果、赤坂憲兵隊へ押収せられたのであります。
 相澤中佐片影
相澤中佐の片影の配布先は一部宛、
第一師團長  堀中將    第一旅團長  佐藤少將
第一師團  島田法務官    高等軍法會議  杉原法務官
近衛師團司令部附  渡少將
眞崎大將に二部
であります。
其目的は、中佐を正しく認識して頂く爲に、私より御あげしました。
右の配布方法は、佐藤少將 及 島田法務官には私より直接手交し、他は郵送しました。
但し堀中將に對しては、横田副官を介して差上げました。

村中より渡された予審調書は、誰かに見せなかつたか
誰にも見せません。

真崎大将は相澤公判廷の証人に立ちて何か証言をしてやると云ふ様な話を聞いたか
昨年十二月二十八日午後七時頃、私は眞崎閣下を御宅に訪問しまして、
年末の挨拶に參り、色々世間話をいたしましたが、
終りに閣下は私に、
「 近頃の若い將校は國體明徴問題につき如何な感想を持つて居るか 」
との御問がありました。
そこで私は、
「 私共は、國體明徴と云ふ事は軍人として徹底的にやらねばならぬ問題であります。
 最近此問題にさき世間では喧しく論議される様になつて來たことは、
私共の昭和維新に關する運動が相當に徹底したことと考へます。
尚、維新運動其ものに、始めて本筋に這入つたと考へますので、
喜んで居りますと共に、益々奮闘せねばならぬと考へます 」
閣下は更に、
「 そうか。其の通りだ。
 此の國體明徴問題で進んでいつたなら、
昭和維新も合法的に成就することが出來るじゃないか 」
と 申されました。
私は、
「 此の問題に關して、最近甚だ遺憾に感じて居りますのは、
 渡邊大將が軍教育の中樞に在り乍ら、名古屋 及 士官學校に於て、
天皇機關説を擁護し、
且、軍人として、本問題に頭を注入することは不可なる如き訓示を爲されたといふことであります。
從つて、私共としては、同大將は軍隊教育の中樞より去つて頂きたいと考へて居ります 」
私は尚、
「 相澤中佐の公判も近づいて來た様でありますが 」
と 申しましたら、
閣下は、
「 相澤中佐については、目下具體的には何もしていないが、
 心の中には誰にもまけない様に中佐の事を心配しておる。
中佐は全く私心のない立派な將校だと考へる。
以前同中佐から揮毫を頼まれたが、未だ果してないので、之もいつかは必ず果たす積りである 」
其他、同中佐のよく口にされた詩など申されましたが、今 忘れました。
そこで私は、
「 相澤中佐の公判に當ては、澤山の偉い人が證人に立て、
 眞相を明確にして頂けなければならない點が多々ある様に思ひますが 」
と云ふ事を申しました。
閣下は、
「 自分も若し證人に呼び出されると云ふ様な事になつたならば、證人として出る覺悟である。
 但し、俺が出るにはたしか勅許を得なければならないと思つて居る 」
と云ふ事を申されました。
あとは閣下は、
「 今度建てた家につき、金の出所につき、兎角申して居るが甚だ心外である 」
と 申され、私に金の出所を説明されました。
夫によりますと、
あの家は華族の古物を買つて少し許り手を加へたので、
基金は、満洲事変の論功行賞に頂ける金を充當することが出來る見込が付いたので買つたので、
此の家を手に入れる目的は、妻は今迄非常に内助の功があつたので、
老後の妻に報ゆるためであると申されました。

真崎大将と汝との関係はどうか
今迄の取調官に対し申上げましたが、昭和七年以降は世間がうるさいから年二度位しか訪問しません。
昨年は七月と十二月二十八日の二回であります。
七月に參りましたのは、北支那から歸りました挨拶に參りました。
今年になつてからは参參つておりません。

外に申立つることないか
從來憲兵隊の方での御取調べで、
蹶起同志と眞崎、荒木兩大將間に何等かの深い關係がある様にきかれますが、
全然ないことを斷言いたします。

香田淸貞
第二回聴取書
昭和十一年五月九日
東京衛戍刑務所に於て

私と眞崎大將との關係
眞崎大將とは、私は同郷の出身であります。
之れを經過的に申しますと、
私が士官候補生として、歩一に配属になりました當時の歩兵第一旅團長が、眞崎閣下でありました。
私と共に歩一に配属せられたる吉富候補生眞崎閣下保證人であつた關係上、
吉富と二人で屢々閣下の御宅を訪問しました。
私が士官學校本科に入校しました時の學校長は眞崎閣下でありました。
任官後、中尉の始め頃と思ひますが、
私が歩一在勤間、眞崎閣下が第一師團長であられました。
以上の如くで、昭和六年迄は同郷の關係、直上の上官であつた事、
私の同期生の保證人であつた事等の關係から、屢々御訪ねして御指導を受けておりました。
昭和七年に入ってから、維新運動の同志から眞崎閣下は維新に就て理解ありと聞き、
訪問の際は此方面の事に就てもお話しておりました。
昭和八年頃になりますと、
荒木、眞崎將軍のお宅に靑年將校を集めて何かやるのだらうとかの噂を生むに至りました。
之が爲め、私は閣下に御迷惑になることを虞れ、訪問を遠慮する様になり、
眞崎閣下からも私に對し、餘り來ない様にと注意された事もありました。
それ以來は、滅多に訪問した事はありませんでした。
私は昭和十年六月末、北支より歸りましたので、七月の五、六日頃、大將のお宅にお訪ねしました。
その目的は歸朝の御挨拶と、
もう一つは
當時似島檢疫所長をしておられた相澤中佐から眞崎大將に手紙をことづかつて來ましたので、
其れを手渡しする爲めでありました。
しかし、此時は玄關で閣下にお目に掛かり、手紙を渡して挨拶だけで直ぐ歸りました。
閣下からもゆつくり北支の事情でも聞きたいが、今來客中であるし、
又、若い者と會ふ事も惡い時機であるから、と申されて居りました。
先きに憲兵の御調べに對し、年末挨拶の爲めに兩親の処へ行つた序に、
大將をお訪ねしたと申したのでありますが、それは其通りでありますが、
猶ほ閣下から又傳へに、私に會ひたいと言ふ傳言があつたので行つたのであります。
私は眞崎大將が會ひたいと申されて居ると云ふ事は、富永中佐から聞きました。
それは富永中佐は早淵中佐より聞かれ、早淵中佐は平野少將より聞かされたのであります。
平野少將は當時上京しておられて、大將訪問の際、大將が、
「 若い者の氣持ちを聞き度いと思つておるが、誰に會ふたら良いか 」
と相談せられ、平野少將から、香田大尉にお會ひになつてはと申されたので、
大將も同意して、平野少將に傳達方依頼せられたのですが、
平野少將は私を旅團司令部にお訪ねになりましたが、私が恰度出張不在中でしたので、
右の様に又傳へになつたのであります。

其時に於ける、大将との会談内容を述べよ
「 近頃若い者は、國體明徴問題に就てどう云ふ風に考へておるか。
 この問題を捉えて、靑年將校がしつかり活動したならば、合法的に拓けてくるではないか 」
と 閣下が申され、猶ほ
「 靑年將校の活動が足らんのではないか 」
と言ふ事をお言いました。
之に對する私は、
「 國體明徴の問題は、私共の考へて居る維新運動が本筋に入つて來たと云ふ事を感じ、
 非常に喜びを持つて居ると共に、益々活動をして居ります。
靑年將校は眠つて居る譯ではなく、上下左右十分に活動しておりますが、
到る処壓迫を受けて親展を見ません 」
と申しました。
之に對する閣下の御言葉をはつきり今覺へて居りませんが、閣下の御言葉は、
「 靑年將校の活動が足らんと云ふ事、著眼が惡いと言ふ 」 お考へでなかつたかと思ひますが、
兎に角活動が十分ならずとて、御不満の様でありました事は事實であります。
それで私は、
「 今后益々努力致します 」 と答へました。

其著眼が悪いと言ふのは、どう言ふ事か
それは統帥權干犯の事實を靑年將校が知らないと云ふ風に
私は看取しましたので、
私は閣下に、省部規定は勅令によつて定つておると聞いて居るが、
之に反する事あれば、軍令違反と言ふ事になりますかと質問しましたら、
閣下は、
「 其點は、自分は法律には明るくないから、今研究をしておるのだ。
 特に、自分があの際
同意をしたと言ふ事を言ひ触らしておる者がある相だが、

絶對に左様な事がない。
若し自分之に同意しておる様な事があるならば、自分は今日生きていないのだ 」
と 言はれました。
そこで、私は次の如く感じました。
七月に於ける眞崎總監更迭の際は、統帥權干犯が行はれたと言ふ事は、
今迄他の方面より聞いて大體確かであるとは考へておりましたが、
閣下の御言葉によつて正しく事實であると確信しました。
右の狀況をお話しされる時は、大將の態度は非常に憤懣の情態でありました。

次で、私から、
「 相澤中佐の公判も近づいて來ましたが 」 と申しましたら、
大將は奥の方から手紙を持つて來られました。
其中に相澤中佐の常に口にしておられました詩が書いてあり、
手紙の内容も、愛國の至情のこもつた眼で相澤中佐を見ておるものでありましたが、
其内容は覺へて居りません。
大將は之を示し、
「 相澤公判に就ては、何も具體的には講じて居ないが、心の中では誰にも負けない程、
 相澤の事に就ては考へて居る。
相澤は時々やつて來ておつたが、全く純眞なる神様に近い様な人物である 」
と言つて居られました。それで私が、
「 今度の公判は、正しく裁かれる場合には、
 相當多数の高位高官の人が證人とならなければならぬと思ひますが 」
と 申しましたら、閣下は、
「 そうだ。自分も證人として呼ばれることがあつたならば出る心算である。
 たゞ、自分が出るには、確か勅許を得なければならぬと思つておる。
そう言ふ様にならなければいかぬと思ふ 」 と 申されました。

「 そう言ふ様にならなければいかぬと思ふ 」 と言はれたるはどう言ふ事か
それは相澤公判に於て、相當多数の高位高官の人を證人として呼ばなければならぬ、
と言ふ事を謂はれたものであります。

それから続きを述べよ
それから閣下は、
「 近頃は、全く恐ろしい世の中になつて来た。
 自分の周囲には常にスパイがついておつて、殆んど自由が利かないのだ。
近頃は「 ロシア 」 の手が及んでおるのではないかと言ふ感じがする 」
と言はれ、更に、
「 この家を建てたのに就ても、非常に批難する者があつて、
 自分が何処からか金を貰つて建てたと言ふ事を言ふものがあるが、實に怪しからぬ事である 」
とて、憤懣の情態で言はれました。
「 實は某華族の古家であり、それを譲り受け、造作したのであつて、 この壁あたり紙張りである。
又、これを建てるには、實は家内が今日迄非常にに内助の功を盡してくれたので、
老後を慰めてやりたいと言ふ氣持であつたし、家内からも家を造つたらと言ふ意見があつたので、
今度恩賞があつて、御下賜金を頂くと言ふ事が分り、陸軍省で大體何ら頂けるかと調査した所の、
基金を持つてこの屋敷を貰ひ、造作をする事が出來る目安が付いたので、
其通りやつたので、この事情は藤原副官がよく知つておる 」
と 申されました。

其他右の会談に於て、大将に其方が申したる事なきや
私は
「 國體明徴問題に關し、近來私が遺憾に考へておりまするは、
 群教育中樞にある渡邊閣下が名古屋、士官學校等に於て、天皇機關説を擁護し、
軍人がかくの如き問題に關与するのは良くない、
と言ふが如き訓示をされたと言ふ事に就てであります 」
と 申しますと、之に對し閣下は、
「 そうぢゃ。渡邊があの位置を のく様な事になれば、事は都合よく運んで行くと思ふが 」
と申されました。

「 事は都合よく運んで行く 」 と言ふ事はどう言ふ事か
渡邊が退けば、維新運動が都合よく運んで行くと言はれたのであります。
夫れから私が歸りがけに、
「 私がお伺ひするといろんな事を言ひますか 」
と聞きますと、大將は、
「 そうだ。靑年將校はなるべく來ない方がよい 」
と申されたので、私は 「 手紙ではどうですか 」 と伺ひますと、閣下は
「 手紙は開封する様な事はない 」 と申されますので、
「 それでは必要な事には御手紙を差上げる事にして、お邪魔に上らない事にします 」
と申して歸つたと思ひます。

其方は右の会談に於て、如何なる印象を受けたるや
1、靑年將校の活動が足らないと言ふ強い意見を持つておられると言ふ事。
2、七月の統帥權干犯に就て、非常に怒りを感じておられる事。
3、閣下の身邊は、各種の勢力によつて壓迫拘束せられおつて、
 閣下自身の活動は目下出來ない狀況にあること。
4、靑年將校の活動が甚だ不活潑の様に感じておらるゝこと。
要するに、靑年將校の活動狀況と言ふ事は途中で止まつて、
上の方に通じて居ないのだと言ふ事を知りました。

右の会見に於て、其方としては、どう言ふ風に向つて今後行かねばならぬとゆう事を感じたか
もう一回努力しやう。
それでも靑年將校の意見が通ぜず、大權干犯に對し、
國民の自覺を喚起する事が出來ない場合は、國家内外の狀況から判斷して、
一刻も猶豫ならない大事であると感じました。

一刻も猶予ならない大事であると感じたと言ふ事はどう言ふ事か
どうしてもいかなれれば、劍によつて解決するより外方法なしと強く感ずるに至りました。

右会見に於て知得した事は其后誰かに話したか
村中には話した事がありますが、其他の同志には話した事はありません。

二月二十六日朝、其方は官邸前で真崎大将に対し、事件の状況、蹶起の趣旨に就て話たね事なきや
話した事はありません。
公判で知りましたが、それは、磯部が大將に官邸で狀況報告をした様であります。

官邸談話室にて真崎大将に対し何か話さなかつたか
別に何も申しておりません。

真崎大将
の青年将校に対する態度を如何に看取しありや
國體明徴によつて昭和維新を翼賛し奉ると言ふ我等同志の考には御同意でありました。
従つて、靑年將校の維新に邁進することには同情的態度を持して居られ、
我々が之を上下左右に擴充して行くことにも同意せられて居りましたが、
絶對に合法的に維新を完成したいと願つて居られたと思ひます。
常に若い者には、輕擧してはならぬと矯めて居られました。
殊に、昭和七、八年頃には、
靑年將校が經濟の逼迫とか、人口問題とか、失業問題等を提げて御意見を伺つても、
聽き置かれる程度でありました。
それが昨年十二月末、私が訪問しました時は、大權干犯と言ふ問題に触れて居られたので、
非常な決意と激しい御態度を以て話されましたが、私がこれ迄御訪ねして曾てない事態でありました。
そこで、私は、閣下は國體の根本に触れた問題には大なる怒を感ぜられ、
其他の事に就ては、單にそんな事では駄目だと云ふ程度に所懐を洩される方だと強く感じました。
又、大將は靑年將校に對しては、虚心坦懐に下の者の氣持を良く酌んで、
これを上の方にも傳へ、又、上の方の意嚮も下の方によく傳へて下さつたと思つております。
これが靑年將校が眞崎大將を崇敬する所以だと思つております。

其方が今度の計画を知れるは何日か
二月二十三日であります。

其時の計画には、西園寺襲撃計画ありしや
確かにありました。

それが中止になつたのは何日、何処で聞いたか
それは二月二十五日夜、
歩一の第十一中隊で、對馬中尉、竹嶌中尉が來て、
實効出來なかつた旨の報告を受けて知りました。

その中止は豊橋の同志の自発的意思であつたのか
同志の中にも意見の異なるものがあつて、
無理に強行すれば発覺の虞ありとて中止した旨を申しておりました。
・・・憲兵大尉 大谷敬二郎・・・
二・二六事件秘録 ( 二 )  から


後顧の憂い 「 何とかしなけりゃいかんなァ 」

2017年12月06日 12時36分14秒 | 香田淸貞


「 近ごろ、オレはつくづく思うことがある。
兵の教育をやってみると、果たしてこれでいいかということだ。
あまりにも貧困家庭の子弟が多すぎる。
余裕のある家庭の子弟は大学に進んで、麻雀、ダンスと遊びほうけている。
いまの社会は狂っている。
一旦緩急の場合、後顧の憂いなしといえるだろうか。
何とかしなけりゃいかんなァ 」

と、香田が私に慨嘆したことがあった。
( 昭和六年の事 ) ・・・
二・二六事件の挽歌 大蔵栄一  著

香田清貞 
幼年学校二年生頃、
圧迫を受けて居た時代でありまして、自由主義赤化思想が侵入し、
為に 其判断に迷って来ました。
次で士官学校予科に入りても共産主義の道理が判然せず、
本科に入りてから之を解決せねばならぬと考へ、
一時は軍人を辞めなければならぬとも決心致しました。
之は解決せずして士官学校を卒業したのであります。
其後は隊付となり一君万民尊皇絶対の観念が明確に認識し得ました。
之は大部分兵隊に接して教はったので、
これなら大丈夫将校として務まると思ひました。
其処でもう一つ不安であったのは、
日本には貧富の差が大で、之は甚だ不合理な事であり、
指導する立場に在るものは
兵をして戦場に於て後顧の憂なからしめねばならぬと思ひ、
其欠陥は指導的立場にあるものの責任と思料し、
結局政治的問題に及んだのであります。
政治にかかはると云ふ事が、翼賛を明確に示してあるので、
軍人の任務としては良い場合には良い、
悪い場合には悪いと 明確に云はねばならぬと思ひました。
云ふ方法に付、我々の直属上官に云ふのが大切な事と考へ、
之を実施して居りましたが、
此等の原因が常に減じないので其方法は大した効果が無いと考えました。
其頃迄には、部外部内との関係なく、一人で思索を練って居りました。
原因が減じないと考へたのは、
共産主義を心奉した兵が、年々二、三名入隊するのが続いたのと、
軍事救護を受ける者の数が年々増加の傾向があるからです。
此の様な兵が増えるから、対外関係が悪化するので、
此等の兵を以て戦場に立たねばならぬと云ふ事になって来ました。
対外関係とは、「ロンドン条約」 「ワシントン条約」 等が 私の頭に映じて居りました。
結論としては、
此状態を早く直して戦闘能力旺盛な兵をつくらなければ対外的に危険なりと考へました。
矯す方法は如何にすべきか判らない状態になりました。
其は 十月事件が起る前の考であります。
十月事件が第一聯隊内で問題になりまして、聯隊内で中少尉会を開きました。
其時十月事件の目的、経過を栗原中尉が話しました。
中少尉会では、二つの討論が出ました。
其一つは軍人にして如斯問題に参与するのは不可なりと云ふのと、
一つは原則として不可なるが之に参与するのは止むを得ない事であるかも知れぬ、
との議論がありまして、
後の方の議論をするものは栗原外一、二名位であった様に思ひます。
其中少尉会で感じたのは、
議論の良悪よりも、
栗原中尉が激しいので専任者が圧迫排斥する気運が濃厚でありました。
私は其時両方の議論に対し善悪を考へずして、
中少尉会の空気に対し関心を持って居りました。
個人的感情で後輩を排斥するの気分があるのは良くないと考へました。
そこで自分は、之等の問題の中に飛込んで見ると云ふ気になりました。
其後一、二日の後、菅波大尉に遭はないかとの話がありましたので、
同期生で且幼年学校友達であるので、彼の居宅である神宮前の「アパート」で遭ひました。
其時二、三名の顔の知らない将校が直接菅波大尉と話が出来ないので、其人達の話を聞いて居りました。
其話は私は以前から考へて居た考と同じであるから、其話に共鳴して帰りました。

十月事件の発覚になった晩かと思ひますが、菅波の家に将校が沢山集まって居りました。
其時の話は十月事件の決行に就ての話でありました。
十月事件指導者の思想并に計画共に不同意の点がありました。
菅波に対し、十月事件に対する意見を聞いた処、
菅波は不同意だが勢がついて居るものを止める訳には行かぬので、
菅波が考へて居る様に指導する必要がある。
之が為め其中に飛込む必要があると云ひました。
そうでないと、十月事件の動きが反国家的なものとなる虞れがあると云ひましたので、
それなら判ると私は答えまして、
其人達と其行動を共にしても好いと思ひまして、
十月事件が天意により止まって呉れればよいと思って居りました処、
情報で取止めになったと聞き、其席に居た人々が其は好い事だと云ひました。
そこで同席の人々は、自分と同じ考であると判りましたので、信頼の気分が起こりました。
其後軍人の持する改革思想には種々なものがある事が判りましたので、
其後研究して居りましたが、
私としては軍人の改革思想に差があるので、之をまとめる必要があるのと、
之が実行の為めに血を流すことをさけねばならぬと考へて居りました。
之が為め軍隊内に情を以て上下左右が一体となるには、
腹蔵なく膝を交へて話さなければいかぬ。
斯の如くして昭和維新をどうしても実行しなくてはいかぬと云ふ考に纏れば、
流血の惨を極めて少なくして昭和維新を断行することが出来ると思って居りました。

憲兵調書 香田清貞 訊問調書 ニ・ニ六事件秘録(一) から