あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

中島莞爾 『 昭和維新の人柱には、成否は眼中にない 』

2021年11月30日 18時49分39秒 | 中島莞爾

我々の行動の爲め
幾分でも世の中が改善せられたら本望であるが、
今回の發表された判決理由書が事實と相違するが如きことあらば、
又如斯事件が再發せぬとも限らぬ
「 不義を知って打たざるは不忠なりと信じて奸臣を斬ったのであります 」
・・・最期の陳述 ・ 中島莞爾 

男子たる者は寡言なるを可とす。
世に往々にして議論を好み、才を恃み、遂には自己の辯説に陶酔する如き輩あるも、
是の如きは決して大丈夫たる者の執る所に非ず。
吾人は不言實行をこそ尚ぶべけれ、節に臨みて斷乎として其の信念を陳じ、
且つ實行し得れば即ち足る。
又沈黙と優柔とは其の守る処 如何に依りて自ら異る。

尚ふべきは犠牲の精神なり。
是れ一つに求むるべき無きの心より生ず。
報酬を豫想する奉仕、恵与は眞の奉仕、恵与に非ず。
他に殉ずる道も然り。
黙々として最後まで殉ずるを要す。
中途にして節を變ずるが如きは丈夫の爲さざる所なりとす。
・・・『 想痕錄 』 


中島莞爾  ナカジマ カンジ
昭和維新の人柱には、成否は眼中にない 』
目次

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・ 昭和維新 ・中島莞爾少尉  
・ 最期の陳述 ・ 中島莞爾 
・ 『 想痕錄 』 
・ あを雲の涯 (十七) 中島莞爾
・ 昭和11年7月12日 (十七) 中島莞爾少尉 


二十六日
午前四時一寸前に眼を醒し、四時三十分頃兵は整列しました。
中橋中尉は中隊長代理であるから自分の中隊を集めたのであります。
此時兵は非常呼集にて集合したのであります。
集合後、明治神宮参詣の為と営門にて衛兵指令に中橋中尉が云ひました。
営門出発後、途中高橋邸との中間位にて(何発か不明)実包を渡しまして行軍し
邸迄行きました。
此時初めて高橋蔵相をやつつけると云ふ事を兵一般に達しましたが、
下士官兵は沈着して一向に驚いた様ではありませんでした。
それで私は、
どの程度迄下士官兵に私達の信念が徹底されてあるかと内心心配して居りましたが、
此状態を見て安心しました。
即ち、私達の信念が中橋中尉により行届いて居ることを知ったからであります。
蔵相私邸に行き、私の分担である梯子をかけ、之を越して先づ巡査を説得せしめ、
玄関にて執事の如きものに案内させてグルグルと引廻して居りましたが、
やつと蔵相も居る処が判って、中橋中尉は 「 国賊 」 と叫びて拳銃を射ち、
私は軍刀にて左腕と左胸の辺りを突きました。
蔵相は一言 言うなりたる如くして別に言葉なく倒れました。
その他何等抵抗なく実行を終り、
兵を纏めてその内約六十名を引率して首相官邸に行きました。
其の時は午前五時二十分位と思ひます。

・・・ 中島莞爾少尉の四日間 


安田 優 『 軍は自ら墓穴を掘れり 』

2021年11月30日 06時07分07秒 | 安田優

・・・・この将校の中に 安田優という少尉がいますが、
彼は天草郡の出身で、私と中学済々黌で机を並べて四年間勉強した仲です。
彼も私も家が貧しかったので、彼は中学四年から、陸軍士官学校に学び、私は師範学校に入ったのです。
安田は中学時代から純粋で一本気な男でしたし、
貧しい農家の出だったからこそ 今の世の中のことが黙って見ていられなかったのでしょう。
・・・・彼は二月二十六日の朝、斎藤内大臣の家を襲って機関銃を撃ちこみ、
その後は渡辺教育総監の家を襲って渡辺大将を軍刀で刺し殺したといわれます。
・・・・事件が起こってすぐは安田君たちは、尊皇討奸の愛国者だといわれていたのに、
日も経ったら天皇の命によって反乱軍、逆賊の汚名を着ることになりました。
早ク原隊ニ帰レ!と命令が出され、命令ニ背ク者ハ、断乎武力ヲ以ッテ討伐スル、
と放送されました。
天皇のために一命を賭して騒ぎを起こしたのに、
天皇から反乱軍だといわれ、討伐されることになったのです
坂本先生はそこで涙を拭かれました。
そして言葉を詰まらせながら話をつづけられました。
あの純粋な安田君は忠義のつもりが不忠になり、 なぜこんなことになるのかわからなかったでしょう。
将校たちは天皇の御命令が出た以上、それに背いたら本当に逆賊にされてしまうので、
何人かはその場で自決し、多くの人たちは抗戦をやめたのです。
・・・・きっとこの青年将校たちは、真崎大将や荒木大将が天皇にとりついでくれると期待していたのでしょうが、
事件が予想以上に大きくなったら、そんなえらい人たちは自分の身がかわいいし、
青年将校たちを見殺しにしたのですね・・・・安田君たちはさぞかし無念だったことと思います・・・・」
・・・そのとき私は小学校五年生でした

同志は實に偉大だ  特に若い同志に偉大な人物が多い
安田の如きは熱叫 軍の態度を攻撃した。
彼の最後の一言
「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 
は 昭和維新を語る後世の徒の銘記すべき名言と云はねばならぬ。
安田はサイトに第一彈をアビセ 渡邊をオソヒ 一人二敵をタホシタル勇豪の同志、
劍に於ける彼の勇は言論にも勇であつた。
余は 彼の言をきゝ 余の云ひたきことを全部云ひツクシテ呉れたるを深謝した。
・・・磯部浅一 ・ 獄中手記 (2) 「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 


安田優  ヤスダ ユタカ
「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 
目次
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・ 安田少尉 「 天誅國賊 」 
昭和維新 ・安田優少尉
・ 安田優少尉の四日間 
・ 安田優少尉 ・ 行動録 ( 1月18日~2月29日 ) 
・ 安田優少尉と片倉衷 
・ 
安田優 ・ 憲兵訊問 「何故に此の様な行動をする様な理由になったのか」 
 安田優 『 軍は自らの手によって、その墓穴を掘ったのであります 』 
・ 最期の陳述 ・ 安田優 「 村中の背後には なにか大なる背景があると信じます 」 
・ 
安田優 『 序言 』 
・ あを雲の涯 (十六) 安田優
・ 昭和11年7月12日 (十六) 安田優少尉 

私は斯く申せばとて
我々の今回の擧を以て罪なしとなすものにあらず。

又、國法無私するものにもあらず。
唯 現在の國法は強者の前には其の威力を發揮せずして
弱者の前には必要以上の威力を發揮す。
我々今回の擧は
此の國法をして絶對的の威力を保たしめんとしたるものなり。

私は今回の事件を起こすに方り既に死を決して着手したり。
即ち、決死にあらずして必死を期したり。
今更罪になるとかならぬとかを云為するものにあらず。
靜かに處刑の日を待つものなり。


『 二 ・二六事件 』 そのとき私は小学校五年生でした。

2021年11月29日 10時55分07秒 | 安田優

阿蘇神社の 「 御前迎え 」 俗に 「 火振り祭り 」 がすむと小川の水もぬるみ、
日とともに阿蘇は早春らしくなり 「 野焼き 」 がくるといっぺんにハルノ装いとなります。
その年は例年になく冬が長く二月も終りになってから雪が降り、山は一日じゅう白銀に輝いていました。
そんな日の夜、わが家の土間では女御衆おなごしたちが集まって炭俵編みの内職をしていました。
その傍らコンコン婆しゃんが、大声で喉をゼーゼーいわせながら喋っています。
コンコン婆しゃんは、村落随一のラヂオ所有者であり、情報にうといこの村落では随一の情報屋で、
村の人たちは 『 伝書鳩 』 とも呼んでいました。

「 ちょとまあ 聞きなはり。 東京じゃ兵隊が大勢して剣付鉄砲で暴れだしてな。
政府のえらか衆ば、片っぱしから撃ち殺してしまったげな。東京は上を下への大騒ぎちゅう話たい 」
「 へえ、婆しやん、そりゃいつのこつじゃうか 」
「 なんでも四、五日まえのこつばい。
 兵隊が鉄砲で撃ち合いばしてな、新聞社も放送局も全部おさえてしもうてな、
夕方儂が聞いたニュレスじゃ、初めてのこつだつたな 」
内職の小母しゃんたちは、一斉に手仕事をとめてコンコン婆しゃんを注視しています。
私も炭俵にする萱を一本ずつ揃えながら母しゃんの傍らにいました。
「 えらか衆たちなら話せばわかろうもんに、
 なんでまた鉄砲撃って人殺しなんぞ恐ろしかこつばするとじゃろか、
兵隊ちゅうのはむごかこつするもんじゃな 」
母しゃんが、えらい見幕でまくしたてたので、みんなが一瞬黙ってしまいました。
「 それがな、騒ぎ起こしたのは陸軍の若え将校さんげなたい。
 いま日本じゅうがこうした不景気じゃろ。
どこの百姓もみな飯の食えんこてなつとるたい。阿蘇の百姓ばつかりがきつかつじゃなかもん。
そいで若い将校たちあ、こうした世の中真っ暗うなつたんは政治家の責任たいちゅうて、
剣付鉄砲で騒ぎば起こしたちゅうこつたい 」
さすがに新智識を仕入れているだけにコンコン婆しゃんの話には説得力があります。
女御衆たちも 「 そげんな 」 「 百姓の味方ちゅうわけたい 」 とうなずきながら聞いています。

昭和十一年二月二十六日の、
いわゆる 「 二 ・二六事件 」 は阿蘇の村里にも、恐ろしい事件として伝えられました。
私に初めて 「 二 ・二六事件 」 を伝えてくれたのは 『 拝み婆 』 ことコンコン婆しゃんだったのです。
しかし情報が伝達されたのは二月二十六日から四、五日経ってからでした。
それは阿蘇というところが、文化果つる僻遠の地というだけでなく、陸軍が事件とともに戒厳令を布き、
事件関係の報道を禁止したからです。
そのとき私は小学校五年生でした。
思い出されるのは、コンコン婆しゃんの話を聞いた直後、
学校で五、六年生の生徒を全部、にわづくりの講堂に集めて、
校長先生や六年の男子組担任の坂本先生の特別講和があったことです。
坂本先生は体躯は小さいが威勢のいい先生で 「 二 ・二六事件 」 の首謀者のひとりである安田少尉と、
中学時代に同級だったとかで、涙をポロポロこぼしながら熱弁を振るわれました。
坂本先生が壇上で興奮の余り絶句されたのがとても印象的でした。
「 ・・・二月二十六日の朝早く、大雪の中を二十一人の将校が、千四百人の兵隊をひきいて雪を蹴たてて
岡田首相、斎藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡辺教育総監、鈴木侍従長らを襲撃しました。
そして鉄砲や機関銃によって重臣たちの多くを殺し、陸軍省をはじめ参謀本部、警視庁などを占領して
しばらくは日本の政治を制圧したのです。
・・・・どうしてこんなことをしたかといえば、
この数年間、日本の社会が不景気で行き詰まっているのは、
天皇陛下を助けて政治をしている重臣や役人が、自分勝手なことをしているからだ。
これらの人間を取り除いて昭和維新をやらねばならんと思ったのです。

・・・・この将校の中に 安田 優 
という少尉がいますが、
彼は天草郡の出身で、私と中学済々黌で机を並べて四年間勉強した仲です。
彼も私も家が貧しかったので、彼は中学四年から、陸軍士官学校に学び、私は師範学校に入ったのです。
安田は中学時代から純粋で一本気な男でしたし、
貧しい農家の出だったからこそ 今の世の中のことが黙って見ていられなかったのでしょう。
・・・・彼は二月二十六日の朝、斎藤内大臣の家を襲って機関銃を撃ちこみ、
その後は渡辺教育総監の家を襲って渡辺大将を軍刀で刺し殺したといわれます。
・・・・事件が起こってすぐは安田君たちは、尊皇討奸の愛国者だといわれていたのに、
日も経ったら天皇の命によって反乱軍、逆賊の汚名を着ることになりました。
早ク原隊ニ帰レ!と命令が出され、命令ニ背ク者ハ、断乎武力ヲ以ッテ討伐スル、
と放送されました。
天皇のために一命を賭して騒ぎを起こしたのに、
天皇から反乱軍だといわれ、討伐されることになったのです
坂本先生はそこで涙を拭かれました。
そして言葉を詰まらせながら話をつづけられました。
あの純粋な安田君は忠義のつもりが不忠になり、 なぜこんなことになるのかわからなかったでしょう。
将校たちは天皇の御命令が出た以上、それに背いたら本当に逆賊にされてしまうので、
何人かはその場で自決し、多くの人たちは抗戦をやめたのです。
・・・・きっとこの青年将校たちは、真崎大将や荒木大将が天皇にとりついでくれると期待していたのでしょうが、
事件が予想以上に大きくなったら、そんなえらい人たちは自分の身がかわいいし、
青年将校たちを見殺しにしたのですね・・・・安田君たちはさぞかし無念だったことと思います・・・・」
坂本先生の講話は山の中の軍国少年たちの興奮を誘いました。
坂本先生の同級生の一人がこの事件に加わったということで 「 二 ・二六事件 」 というものが、
私にとって にわかに身近なことに思えたものです。
坂本先生の話を聞いてから 「 二 ・二六事件 」 の若い将校のことがとても崇高に思えたり、
やはり母しゃんのいうような 「 人殺しはいかんばい 」 とも思えたりしたものです。
そのうちに日が経つにつれて若い将校たちは後ろから操られただけの犠牲者で、
純粋でかわいそうな人たちだと思うようになりました。
どうしてこんなふうに思ったのでしょう。

三月に入ってから 、「 二 ・二六事件 」 の軍法会議による裁判が始まりました。
緊急勅令によって、この事件は反乱罪だから 「 一審のみで、上告なし、弁護人をつけず、公開もせず 」
いうまさに暗黒裁判の名のとおりでした。
宮地館の映画のあいまのニュースで 「 いよいよ軍法会議開かる 」 というのを見ました。
悪びれる風もなく胸を張って軍法会議に赴く若い将校たち二十名余りが映っていましたが、
なかには白い歯を見せている人もいました。
安田少尉という人もいたのでしょうが、どの顔もみな同じに見えてよくわかりませんでした。
写真の解説に
天皇陛下におかせられては、このたびの事件は国法を侵し、
 国体を汚すきわめて憂うべきじけんである。
このさい関係者には厳粛にのぞみ、以て粛軍の実を上げ、
再びこのようなことの起らぬようにすべきである。・・・・との勅諭を発せられました 」
と荘重に言葉がはいりました。
ニコニコして会議場に消えていった若者たちの顔は
子供にもそれとわかる重たい言葉とはまるで違った雰囲気のものでした。
その段階では、
この若者たちはそれほど厳しい罪に問われることは夢想だにしていなかったのかもしりません。
七月にはいって急に暑くなりました。
七月の何日だったのでしょうか、六日か七日のことだったのでしょう。
ブリキ屋の小母しゃんが熊本の町に用事に行った帰りにわが家に立ち寄りました。
「 熊本じゃ号外売りがリン、リンと鈴を打ち振るってとんでまわってな。
 一枚二銭で買うてきたばい。なんでん東京じゃ兵隊しゃんが死刑になったげなたい 」
小母しゃんは手提げの中から折りたたんだ一枚のビラを私にくれました。
それは大きな活字で
「 反乱軍遂に断罪、十五名に銃殺刑、事件の青年将校ら天皇陛下万歳を唱和、
従容として死につく 」 と書いてありました。
事件から四ヶ月、短い間に審理をして死刑の判決を言い渡し、早くも銃殺にしてしまったのです。
何か早く死刑にしてしまわないと、面倒なことでも起こるとでも思っているようなあわてた事の運びようでした。
事件との関係があれこれ取沙汰されていた荒木、真崎、柳川などという将軍は無罪とされ、
直接に行動をした若者たちだけが、『 言い分 』 に封印されたまま処分されたのです。

この青年将校たちは、昭和維新をやってのけて、
軍部の力で腐った政治をたて直そうとしいたのですが、「 二 ・二六事件 」 の結果、
皮肉にも将校たちが思い描いたような軍部独裁が成立したのです。
こうなると この若者たちが生きていることはかえって厄介なのです。
全部を死刑にすることで真相を永遠に闇の中に封じこめてしまったのです。
きっと誰か、大きな軍隊を動かす力が青年将校たちをこんな行動に走らせたのでしょうが、
秘密のうちに事件は片付けられたので、国民は真相を知ることができませんでした。
青年将校たちは銃殺されましたが、この将校の起こした騒ぎを十分に利用するかのように、
その後は軍部が横暴になり、誰にも遠慮することもなく中国大陸での戦火を拡げていきました。
「 雀追いにしても同じりくつ。
 いつもバケツばガランガランやかましゅうやると、 雀も馴れてしもうてびくともせんごてなる。
兵隊さんが東京のど真ん中で鉄砲撃って人殺しばさしたけんな、
人殺しが当たり前になってきたばい。
こるかる戦争がどんどん拡がって、若い衆が何人も死ぬるごてなるとじゃろたい。
ほんとに困ったこつばい。どけんしたらよかもんじゃろ 」
母しゃんは石臼で豆をひいて黄粉を作りながら私に語りかけるようにいったものです。
事実、私が六年生になってからというものは、
坂道を転げ落ちるように日本は戦争への道を駈けおりたように思います。

『 二 ・二六事件と安田少尉 』  丸木正臣 著


尊皇討奸・君側の奸を討つ 「 とびついて行って殺せ 」

2021年11月26日 20時24分22秒 | 昭和維新 ・ 蹶起の目的

河野は余に
磯部さん、私は小学校の時、
陛下の行幸に際し、父からこんな事を教へられました。
今日陛下の行幸をお迎へに御前達はゆくのだが、
若し陛下のロボを乱す悪漢がお前達のそばからとび出したら如何するか。
私も兄も、父の問に答へなかったら、
父が厳然として、
とびついて行って殺せ
と 云ひました
私は理屈は知りません、
しいて私の理屈を云へば、父が子供の時教へて呉れた、
賊にとびついて行って殺せと言ふ、
たった一つがあるのです。
牧野だけは私にやらして下さい、
牧野を殺すことは、私の父の命令の様なものですよ
と、其の信念のとう徹せる、其の心境の済み切ったる、
余は強く肺肝をさされた様に感じた。
・・・第磯部浅一  行動記  第八 


朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、

此ノ如キ暴ノ将校等、
其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ
・・・「 彼等は朕が股肱の老臣を殺戮したではないか 」 

確かに陛下は股肱を殺されたとお考えあそばされた。
だがな、
陛下からご覧になれば股肱でも、
我々から見れば君側の奸だった。
・・・斎藤瀏 

『 君側の奸を討つ 』

謹ンデ推ルニ我神洲タル所以ハ、
万世一神タル天皇陛下御統帥ノ下ニ、挙国一体生成化ヲを遂ゲ、
終ニ 八紘一宇ヲ完フスルノ国体ニ存ス
此ノ国体ノ尊厳秀絶ハ
天祖肇国神武建国ヨリ明治維新ヲ経テ益々体制を整へ、
今ヤ 方ニ万万ニ向ツテ開顕進展ヲ遂グベキノ秋ナリ
然ルニ 頃来遂ニ不逞兇悪の徒簇出シテ、
私心我慾ヲ恣ニシ、至尊絶対ノ尊厳を藐視シ僭上之レ働キ、
万民ノ生成化育ヲ阻碍シテ塗炭ノ痛苦ニ呻吟セシメ、
従ツテ 外侮外患日ヲ遂フテ激化ス
所謂 元老重臣軍閥財閥官僚政党等ハ 此ノ国体破壊ノ元兇ナリ
倫敦海軍条約 並ニ 教育総監更迭ニ於ケル 統帥権干犯、
至尊兵馬大権ノ僣窃ヲ図リタル 三月事件 或ハ 学匪共匪大逆教団等
利害相結デ陰謀至ラザルナキ等ハ最モ著シキ事例ニシテ、
ソノ滔天ノ罪悪ハ流血憤怒真ニ譬ヘ難キ所ナリ
 ・・・蹶起趣意書


余の計画は最初は田中、河野、余の三人で
岡田及び内府をたほして政変を起す程度で満足せねばならぬと思ってゐたのであったが、
栗原は、その関係方面の実力を以て、三目標は完全にやれると云ふのだ。
そこで栗原が一案を出して、岡田、齋藤、鈴木貫位ひでどうですかと云ふのだ。
   <註>・・・
鈴木侍従長の帷幄上奏阻止 

・・・挿入・・・
ある日曜日、西田税が、後の血盟団の一人、
東大生の久木田裕弘を伴って私の下宿に訪ねてきた。
西田は 「 参謀本部の連中の持ってきた暗殺計画には驚いたよ。
警察署長クラスの小物までやろうというんだから・・・。
うんとケズって大物だけ残すようにいっておいたがね 」
と いって笑ったが、こんな話から私が
「 牧野伸顕 をねらうつもりだが 」 と いうと、
これまで控え目に西田のかげに坐っていた久木田が 突如にじり出て
「 私では間に合いませんか 」 と 真剣な顔でいった。
私は 「 久木田さんが是非にというのなら、別のでかまいませんよ」 と いった。
・・・末松太平 ・ 十月事件の体験 (3)


余は牧野は如何と云ふたら、
牧野はいいでせう。
う 内府をしりぞいて力を振ふわけにはゆかぬではないか、
と云ふのだ。
余は牧野、西園寺をたほさねば革命にはならぬ、維新の維の字にもならぬ。
政変が起って、しかもそれが吾々同志に不利な政変になるかも知れぬぞ、と答へて。
大きくやるなら徹底的に殺してしまはぬと駄目だ、
特に牧、西は絶対に討たねばだめだ、と主張した。
・・・磯部浅一  行動記 第六 

襲撃目標は五・一五以来、
同志の間に常識化してゐたから大した問題にならず、簡単に決定した。
唯 世間のわけを知らぬ者共から見て、
渡辺と高橋は問題になると思ふから、理由を記しておく。
高橋は 五・一五以来、維新反対勢力として上層財界人の人気を受けてゐた。
その上、彼は参謀本部廃止論なぞを唱へ、
昨冬予算問題の時には、軍部に対して反対的言辞をさえ発している。
又、重臣、元老なき後の重臣でもある。  <註>・・・
高橋是清 ・ 天誅の由 
渡辺は 同志将校を弾圧したばかりでなく、
三長官の一人として、吾人の行動に反対して弾圧しさうな人物の筆頭だ。
天皇機関説の軍部に於ける本尊だ。 <註>・・・渡辺教育総監に呈する公開状
・・・磯部浅一 行動記  第十 


大内山の暗雲 ( 君側の奸 )
私は昭和十一年一月十日入隊したばかりの新兵で、

訓練と内務のため追廻わされるような毎日を過ごしていた。
だが日課の中には 午後 精神訓話が組まれてゐて中隊長安藤大尉からの話を謹聴する
落着いた時間もあった。
中隊長の訓話は日本の現状をテーマにしたものが多く、
東北地方の農村における深刻な実情について、娘の身売りや生活の赤貧ぶりなどを
克明に説明されたのを今でも記憶している。
そして必ず左のような絵を黒板に書いたものである。

いくら太陽 ( 天皇 ) が照っても
黒雲 ( 側近・軍財閥 ) が遮っている限り 地上の作物は生長しない、

つまり国民が栄えてゆくためには黒雲を取り除かねばならない。
今の日本の現状はこの絵のとおりである。
東北の農民は勿論、全国民が安らかな生活をするにはどうしても
天皇のとりまき連中を排除して
国民の声を上聞に達するようにしなければならない。

いずれ日本は米英から戦争を仕向けられる運命にあるので
国内の改革を急ぎ断行する必要がある。

安藤大尉は常にこの持論をもって強調した。
・・・歩兵第三聯隊第六中隊・二等兵 酒井光司 


かくすれば
かくなるものと 知りながら
已むに已まれぬ 大和魂


教育勅語に国憲を重んじ、国法に遵い、とあります。
自分はこの勅語を重んじ、従うものであります。

「 それでは、被告は国法の大切なことは知っているが、
 今回の決行はそれよりも大切なことだと信じたのか 」

そうであります。
大悟徹底の境地に達したのであります。
 ・・・
相澤三郎 

二・二六事件に参加せる動機は

私は日本大学在学中から政治問題に就ては研究を為して居りました関係から、
栗原中尉の感化を受けたわけでも何でもありません、
過去の歴史が、即ちロンドン条約、五・一五事件、永田事件、神兵隊事件
等々が私を奮起せしめた原因であります。
ロンドン条約に於ては、三千万円の金に依って牧野其の他の重臣が買収され、
敢て六割の比率条約を結び、亦、五・一五事件後の彼等の情態は、反省せざるのみか、
却って私利私慾のみに腐心し、又、五・一五事件後の斎藤内閣に於ては、
農村に対し自力更生等と愚弄策を以て欺瞞し、
実に為政家は所謂策略を以て国民を欺瞞して居りました。
現在の農民に対してより以上の勤勉と節約を望まんとする前に、なぜ彼等は反省せざるや、
彼等は驕奢華美の生活に飽き足らず、猶農村の血と汗と油の結晶を吸血せんとするのか、
是こそ真の国賊であり、逆賊でなくして何んであろうと、
彼等の一大反省と覚醒と奮起を促す為、
非常手段を以て奸賊共を排除せざるべからずと思考し、
確固たる信念を以て同志栗原中尉等の蹶起に参加致しました。
・・・
 綿引正三
・・・ 牧野伸顕襲撃 3 


私は在郷中、建国会員深沢四郎の書生として雇はれ、

本人より常に社会情勢並に重臣、財閥、特権階級 等の腐敗堕落の実情を聴取し、
国家革新の必然を痛感するに至り、栗原中尉を知り 国家革新運動を学び、
遂に事件に参加したるものなり。

五・一五事件後に於ても 政党、財閥、特権階級、重臣等は何等反省する所なく、
依然私利私慾のみに狂奔し居る実情に鑑み、直接行動を以てする外手段なしと覚悟し参加せり。
国家を毒するものは一掃しなくてはならぬと思って居り、
吾々の蹶起により、譬え一部たりとも社会の改革が出来得たなれば、本望と存じて居ります。
・・・宇治野時参 軍曹
・・・
下士官兵 

国を思ふ心に萌えるそくりようの

心の奥ぞ神や知るらん
重臣を殺害し、昭和維新を断行したる行為は国法に違反するものとは考へざりしや
国法に違反することは考へて居りました。
然し、百年の計を得んが為には、今は悪い事をしても良いと思ひました。
・・・長瀬一 伍長 
・・・長瀬一伍長 「 身を殺し以て仁を為す 」 


自分は農村出身であり 農民の苦しみと高位高官の生活の距り等 考えると、
どうしても不正を行っているように思う。
上御一人はこの様な庶民の苦しい生活を知らされてない。
即ち 重臣達が陛下の側近に垣を成して神意を妨げ、私慾を恣ほしいままにしているのではないか。
それが大内山の暗雲なのです。
・・・ 福本理本伍長 
・・・下士官兵 


日本の生成発展の大飛躍の為

已むに止まれぬ所より
統帥権干犯者を斬ったのみにて、
超法的の行為なり
・・・
栗原安秀

陛下の御為に

重臣、財閥等の袞竜の袖に隠れて大権簒奪をなせるものを斬った。
我々の行動は已むに止まれず起ちたるものなり。
国家危急存亡の秋、
時弊を今にして改めずんば国体危機より、
超法的に行動をなしたるものなり。
故に、国憲国法を無視したるものにあらず。
即ち、大権簒奪者に対する現行刑法の制裁なし。
因て、其の犯行者を其儘にする能はざるを以て、
之を討つには斬るより他に途なし
・・・村中孝次

死刑判決理由主文中の
「 絶対に我が国体に容れざる 」 云々は、如何に考へてみても承服出来ぬ、
天皇大権を干犯せる国賊を討つことがなぜ国体に容れぬのだ、
剣を以てしたのが国体に容れずと云ふのか、兵力を以てしたのが然りと云ふのか
天皇の玉体に危害を加へんとした者に対しては
忠誠なる日本人は直ちに剣をもつて立つ、
この場合剣をもつて賊を斬ることは赤子の道である、
天皇大権は玉体と不二一体のものである、
されば大権の干犯者(統帥権干犯)に対して、
純忠無二なる真日本人が激とし、この賊を討つことは当然のことではないか、
その討奸の手段の如きは剣によらふが、弾丸によらふが、
爆撃しようが、多数兵士と共にしようが何等とふ必要がない、
忠誠心の徹底せる戦士は簡短に剣をもつて斬奸するのだ、
忠義心が自利私慾で曇っている奴は理由をつけて逃げるのだ、
唯それだけの差だ、
だから斬ることが国体に容れぬとか何とか云ふことには絶対にないのだ、
否々、天皇を侵す賊を斬ることが国体であるのだ、
国体に徹底すると国体を侵すものを斬らねばおれなくなる、
而してこれを斬ることが国体であるのだ、
・・・獄中日記 (二)  八月九日

曹長は、法律と云うが、
その法律を勝手に造る人達が、御上の袖に隠れ、
法律を超越した行為があった場合、一体誰が之を罰っするのだ。
神様に依る天誅以外に道がないではないか。
 ・・・相澤三郎


満井佐吉 『 特別辯護人 』

2021年11月24日 20時13分49秒 | 満井佐吉

意見
(一)、維新部隊は昭和維新の中核となり、現位置に位置して、
 昭和御維新の大御心の御渙發を念願しつつあり。
右部隊將校等は、皇軍相撃つの意思は毛頭なきも、
維新の精神仰壓せらるる場合は、死を覚覺て同志的關係にあり、結束堅し。
(二)、全國の諸部隊には未だ勃發せざるも、
 各部隊にも同様維新的気勢あるものと豫想せらる。
(三)、此の部隊を斷乎として撃つ時は、全軍全國的に相當の混亂起らざるやを憂慮す。
(四)、混亂を未發に防ぐ方法としては、
1、全軍速に維新の精神を奉じ、輔弼の大任を盡し、速に維新の大御心の渙發を仰ぐこと。
2、之が爲速に強力内閣を奉請し、維新遂行の方針を決定し、諸政を一新すること。
3、若し内閣奏請擁立急に不可能なるに於ては、軍に於て輔弼し維新を奉行すること。
4、右の場合には、維新に關し左の御方を最高意思を以て御決定の上、
   大御心の渙發を詔勅して仰ぐこと。
「 維新 を決行せんとす。之が爲、
(1)、建國精神を明徴す。
(2)、國民生活を安定せしむる。
(3)、國防を充實せしむる。」
5、萬一右不可能の場合は、
犠牲者を最小限度に限定する如く戰術的に工夫し、    維新部隊を処置すること。
但し、此際全軍全國に影響を及ぼさざることに關し、大いに考慮を要す。
之が實行は影響する処大なるべきを以て、
特に實行に先立ち、先づ現狀を上奏の上、御上裁を仰ぐを要するものと認む。
・・・
満井佐吉 『 28日 戒嚴司令部に於る意見具申 』



満井佐吉  ミツイ サキチ
『 特別辯護人 』
目次

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・ 昭和維新 ・満井佐吉中佐

満井特別辯護人ノ證人申請

満井佐吉中佐の四日間 1 
・ 満井佐吉中佐の四日間 2 
・ 満井佐吉中佐の四日間 3 
・ 満井佐吉中佐の四日間 4 
・ 満井佐吉中佐の四日間 5 

 
満井佐吉 『 進退の件御伺 』 

相澤中佐の同期生たる赤鹿中佐 ( 士官學校 )、牛島中佐 ( 士官學校豫科 )
外二名 ( 氏名不詳 ) の人より、特別弁護人たるべき交渉がありました。
私に対し、
「 同期生中には種々の立場上及其他に依り適任者なき爲、
 特別弁護人に是非起って貰ひたい。
鈴木貞一大佐は、永田閣下の部下なるが故に辭退せられ、
中央部には村上大佐、西村大佐、牟田口大佐等が居られるが、
中央部で立場が惡いからとのことであり、
又、聯隊附將校には中央の事情を認識するものがないので、是非引受けて貰ひたい 」
との交渉があり、困っておられましたので、
私は個人としては上司に於て許可があれば出てもよいと申しました処、
同期生から、陸大幹事岡部少将は、其時は許可せられない様な口吻を漏らされ
「 考へて置く 」 とのことでありましたので、
參考迄にと思ひ、私より 次の様な許可の可否に関し意見を申述べました。
「 若し相澤中佐の特別弁護人を受諾するならば、
一、目下青年將校同志の間に、互に實力行動に出づるが如きことは絶對に避けたい。
二、軍裏面の歴史的な旧實実、例へば十月事件、三月事件等、相澤事件と直接關係の
   少なきものは、成るべく必要最小限度に言及することに依り、
   軍内に騒動を起さざる様に努めたい。
三、青年將校の氣心も、軍中央部幕僚の立場も、克く心得て居るから、
   兩者の立場を無視して、正面衝突をせしむる如きことは避ける。
之を要するに、
相澤公判は一歩を誤れば軍を破壊に導く虞れ多きを以て、
私が起てば青年將校も成程に信頼してくれるであらうし、
又、軍全體の爲を考へるから或は事なく公判を終了するかも知れない。
之に反して隊附青年將校中より起てば、軍中央部の立場を理解せざるを以て、
感情的となる虞あり、其の結果は事件を巻き起すやも知れない。
寧ろ、私が起った方が青年將校も穏便に濟むかと思ひます。」
との意味を具申しました処、
岡部幹事は、其の心持ちは自分も克く判ると申されました。
それから約一週間位經ってから、岡部幹事より口頭を以て御許しを受けました。
其間に幹事は參謀本部、陸軍省と交渉せられたものと思ひます。
以上のような經緯で引受けたのであります。
・・・満井佐吉中佐 ・ 特別弁護人に至る経緯 

定刻十時、判士長は開廷を宣し、かたのごとく相澤に対し人定訊問を行った。
相澤は陸軍中佐の軍服を着用していた。
この訊問が終ると、判士長は島田検察官に起訴状の朗読を促した。
そのとき突如、満井中佐が立ち上って、
「 判士長! 」
と 大声で発言を求め、本公判の進行に関し特別弁護人として重大提言があるという。
判士長がこれを許可すると、満井中佐は三つの爆弾動議を出した。
予審のやり直しをせよ、というのである。
「 第一、
本被告事件の予審調書、公訴状は甚だ不明瞭なものである。
皇軍の本質にもとづいて公人的行為と私的行為とは、
これを区別しなければならぬにもかかわらず、事件は公人の資格で行ったのか、
私人の資格でやったものであるのか、
犯行の主体たる被告を審理していないので、この点甚だ不明瞭である。
第二、
本件の行動に関する被告の審理はできているが、その原因動機たる社会的事実、
すなわち軍の統帥が元老、重臣、財閥、官僚等によって攪乱せられたる事実については、
なんらの審理もしていんい。
第三、
被害者たる永田中将の卒去の時刻が不明瞭である。
すなわち、当日陸軍省の公表によれば 午後四時半卒去せりとある。
軍医の検案にもとづく島田検察官の報告によれば、数刻を出でずして卒去せりとある。
はたして陸軍省の発表通りとせば被告は重傷を負わし その後に死に到らしめたことになり、
検察官の報告によれば殺傷したことになっている。
この点に重大な疑義を有するもので、誤りは陸軍大臣にあるか、島田検察官にあるか、
軍医は確実に診察したであろうから、おそらくは検察官のいうところがほんとうであろう。
時の陸軍大臣、首相、宮相が永田中将卒去後にもかかわらず、
偽って陛下を欺き奉って位階の奏請をなしたものと考える。
---以上 この重大事件をめぐって、
陸相、宮相の処置と島田検察官との間に重大なる くい違いがあることは、
影響するところ大であるから、判士長は十分に考慮されたい。
したがって この間の真実を究明するまで、この公判は中止されるのが至当である 」
佐藤判士長は 直ちにこの動議を脚下したが、
しかし そこには、この裁判の前途の多難とその重大さを思わせるものがあり、
人々の心を暗くしていた。
・・・
第一回公判 ・ 満井佐吉中佐の爆弾発言

この機会に強力内閣を組織して国家革新を断行すべきだ
と いうことでは意見が一致していたが、
その強力内閣に誰を首班とするかについては議がわかれたいた。
石原大佐は皇族内閣を主張した。
東久邇宮を推すもので当時の参謀本部幕僚たちの意見を代表するものであった。
満井中佐は蹶起将校の要望する真崎内閣柳川陸相案を強く支持し、
橋本大佐は建川美次中将を推していた。
こうした意見の相違からこの際、
陸軍から首班を求めることをやめて海軍から出してはどうかと
提案したのは満井中佐であった。
「皇族内閣には蹶起将校は断乎反対の態度をもっているし、
建川中将も大権干犯の元兇として彼らはその逮捕を要求しているので、
これらを強行することは事態収拾にはならない。
真崎首班は彼らの熱望するところであるが、
それが参謀本部側で強い難色があるというのであれば、
この際は陸軍部内のイザコザに全く関係のない海軍からこれを求めるより途はない。
山本大将はかつてロンドン条約当時艦隊派の雄として活躍せられ革新思想にも理解があるので、
蹶起将校たちも納得して必ず平穏裏に維新に進むことができよう」
この満井の提案には石原も橋本も賛成した。
そしてこの意見は石原より杉山参謀次長に申達されることになった。

・・・国ホテルの会合 


山口一太郎 『 別格 』

2021年11月24日 12時32分26秒 | 山口一太郎

奉直命令が出たとの風評が陸相官邸に伝わってきたのは、二十七日夜も更けてのことであった。
その頃反乱部隊将兵は昨日来の疲労で各所に分宿してぐっすり眠っていた。
ちょうど、陸相官邸に居合せてこの噂を聞いた山口大尉は驚いて、
早速 鈴木貞一大佐、小藤大佐と相談した。
もし事実とすれば大変な事だ。
すぐにも戒厳司令官に強談してこれを喰い止めねばならない。
彼らは深夜の闇わついて三宅坂から九段下の司令部についた。
小藤大佐らはすでに用意されていた二階の司令官室に通され、
戒厳参謀列席の上で意見を具申した。
午前三時頃であった。
まず 鈴木大佐が口を開いて、
「 今となつて弾圧は考えものだ、軍は昭和維新へと推進すべきだ 」
と 所信を述べた。
次いで小藤大佐が立って 「 弾圧不可 」 を くどくどしく訴えた。
このあとをうけて
山口大尉が えらい気合いでまくしたてた。
「 今、陸相官邸を出て陸軍省脇の坂を下り三宅坂下の寺内銅像の前にさしかかると、
バリケードがつくってあった。
半蔵門前からイギリス大使館の前にかけては部隊がたむろしている。
戦車も散見する。
あのバリケードは何のためのバリケードだろうか。
あの部隊は何のための部隊だろうか、
そして物かげにかくれている戦車はどんな意味なのだろうか。
聞くところによれば、
明日蹶起部隊の撤退を命じ 聞きいれなければこれを攻撃されるという。
蹶起部隊は腐敗せる日本に最後の止めをさした首相官邸を神聖な聖地と考えて、
ここを占拠しておるのである。
そうして昭和維新の大業につくことを心から願っているのに 彼らを分散せしめて
聖地と信じている場所から撤退せしめるというのはどういうわけであろうか。
しかも、彼らは既に小藤部隊に編入され警備に任じておるのに、
わざわざ皇軍相撃つような事態をひきおこそうというのは、一体どういうわけであるのか、
皇軍相撃つということは日本の不幸これより大なるはない、同じ陛下の赤子である。
皇敵を撃つべき日本の軍隊が鉄砲火を交えて互いに殺しあうなどということが許さるべきことであろうか。
今や蹶起将校を処罰する前に、この日本を如何に導くかを考慮すべきときである。
昭和維新の黎明は近づいている。
しかもその功労者ともいうべき皇道絶対の蹶起部隊を名づけて反乱軍とは、何ということであろうか、
どうか、皇軍相撃つ最大の不祥事は未然に防いでいただきたい。
奉勅命令の実施は無期延期としていただきたい 」
声涙共に下って説く彼の弁舌は凄愴な気迫を伴い森閑とした真夜中に、
なみいる人々の心を痛く打つものがあった。
この間、香椎司令官はみずから山口に茶菓をすすめ、
その興奮した空気を和らげることに努めていた。
そして
攻撃開始に確定したわけではない
と 口ごもりながら答えていた。
水を打ったような静寂の中で山口はさらにつづけた。
一語また一語に力をこめて、
どうしても同意させずにはおかないといった気迫が全身にあふれていた。
一座は緊張した面持ちで傾聴している。
彼はこのようにして時余にわたって説き去り説き来りこの重大進言をおわった。
・・・彼らは朕が股肱の老臣を殺戮したではないか 


山口一太郎  ヤマグチ イチタロウ
『 別格 』
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西田の病室を出た私は北一輝に会った。北は私の手を握って心から喜んだ。
「 やあ、実にいい時に来てくれました。
 幸い西田も名医(院長)の手当で、おかげで一命はとりとめたようです。
然し 当分は何の活動も出来ないし、私やここに来ている民間人も、いつ憲兵に連れて行かれるか判らない。
一歩もここから踏み出せず、外との連絡は全く断たれているのです。
山口さんは自由に市中を歩けますか?」
私は、現在のところ身柄は自由であり、
憲兵隊から自動車を提供されているので、市中どこでも飛び廻れること、
小畑少将と会い、事件の拡大防止をたのまれたこと、
西田の撃たれた事について同少将は心を痛めていること、
憲兵隊長は陸軍省の方針にもとづき、事件関係者に十分好意的態度をとっていること、
現在順天堂につめている憲兵は、皆さんの身柄を保護するように指示されていること
・・・などを告げた。
北は大変喜んで、
「 実にいい手を打ってくれてありがたい。
何しろここに居ては外の事が丸でわからないので、困り抜いていたのです。
ついては少し立ち入って相談しておきたい事があるからこっちへ来て下さい。」
と云って、
私を西田の病室のとなりの部屋の隅に導き声をひそめて、
「 順天堂は憲兵の手にはいり、しかも憲兵がわれわれに好意的なことがわかり、
おかげで一安心なのだが安心できないことがある。」
「 何です?」
「 あの向こう側の室にいる連中 ( 菅波、香田、安藤輝三、栗原 ) が弔合戦をやるんだと、
さわいでいるんですよ。」
「 そんなこと今やられては、丸でぶちこわしです。小畑さんの心配しいてるのはそこなんです。」
「 僕も全く同感です。
 きのう事件が起こり、一時放心状態にあった当局者が、急速に態勢を立て直し、
警戒を厳重にしている時、事を起こしても何も出来るものではない。
これはどうしても食い止めなければなりません。
何とかうまい手はありませんか。
僕等は山口さんと違い、自由に市中を歩けないのだから手も足も出んのでね----」
「 ぢゃ、この順天堂につめている将校は、憲兵を敵視しない。
また憲兵も青年将校を敵視しない。
これでいいんだが、西田君が動けないんだから困りましたね。」
北は言葉をついで、
「 僕には全く策がないんだ。あのとおり、西田は出血多量で真っ青になっている。
青年将校諸君は、いつ仇討に飛び出すかも知れない。
さっきから時間も大分たっているので、
山口さんもう一度大手町(憲兵隊のこと)へ連絡に行って来てくれませんか。」

時すでに五月十六日の夜十一時である。
新聞は検閲され、ラジオは、デリケートなことは何も言わぬ。
だから、北をはじめ順天堂組は、全くのつんぼ桟敷に置かれた形なのだ。
これ以上騒ぎを大きくしてはいけない。
これが北と私との合言葉であった。
私は云った。
「 夜どんなにおそくなっても、ここにかえってくるから、
北さんは若い者(将校)たちの立ちあがるのだけはとめておいてください。頼みます。」
北が
「 たしかに御引き受けましょう。
ただ一般情勢について僕の口から説明するより、山口さんから直接話してくれ 」
と いうので、
私は北につづいて若い将校の部屋に入った。
こうして私は、直接陸軍の急進青年将校達に会うことになり、
そうして以後彼等と特別な関係に立つことになるのである。
誰かが云った
「 ア、山口さんだ 」
一同は丁寧に名刺を出し、あいさつをした。
私は、
「 今まで北さんと根本的な打合せをした。
 結論は陸軍の若い者が今立つべきではないと云うにあるのだが、
情勢は時々刻々変わって行く。
権威ある結論を出すため、僕は今から憲兵隊や軍首脳に会ってくるから、
それまで何の動きもしないように、してくれ 」
と 言う。  と
「 ぢゃ我々だけで相談させてくれ 」
 と 部屋のすみで、こそこそ相談している。
( 今の全学連とすることは似ている )  そして菅波三郎が代表して私に
「 北さん、山口さんが、云うのだから 」
と  私が戻るまで何もしないことを約束した。・・・・一五事件と山口一太郎大尉 (2)
五 ・一五事件と山口一太郎大尉 (1)
五 ・一五事件と山口一太郎大尉 (2) 

・ 
昭和八年元旦 

・ 山口一太郎大尉 「バウンダリー ・コンディシン」

山口一太郎大尉の四日間 1 「 大臣告示 」 
・ 山口一太郎大尉の四日間 2 「 総軍事参議官と会見 」 
・ 山口一太郎大尉の四日間 3 「 総てを真崎大将に一任します 」 
・ 山口一太郎大尉の四日間 4 「 奉勅命令が遂に出た 」 
・ 山口一太郎大尉の四日間 5 
・ 
山口一太郎大尉の四日間 6 

・ 山口一太郎 ・ 戒嚴司令部での意見具申 『 昭和維新の功勞者なる蹶起部隊を反亂軍とは何たる也 』

憲兵報告・公判状況 27 『 山口一太郎 』
・ 
憲兵報告・公判状況 28 『 山口一太郎 』

・ 
昭和維新・山口一太郎大尉 

國體明徴に関して何等誠意なき現内閣や
皇軍を国民の怨府たらしめようとする高橋蔵相の如き
私は憎みても余りあるのであります。
しかるに これ等内閣の権威は未だ地に堕ちず
相當の根強さを持ってをりますために、
雑誌その他これ等を謳歌するやうな記事が載り
或は皆様や子弟の中にも
かかる御考への方がありはしないかと心配してをります

・・・
山口一太郎大尉 ・ 壮丁父兄に訓示


佐々木二郎 『 男子にしかできないのは戦争と革命だ 』

2021年11月23日 16時06分30秒 | 佐々木二郎

「 男子にしかできないのは戦争と革命だ 」
と 佐々木二郎の言葉に
磯部浅一は大きくうなずき
「 ウーン、俺は革命のほうをやる 」
と 答えた。
これは陸軍士官学校本科のころ、ある土曜日の夜、
山田洋、佐々木二郎、磯部浅一、三人で語り合った時のやりとりである。


佐々木二郎  ササキ ジロウ
『 男子にしかできないのは戦争と革命だ  』

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「 大佐殿は満州事変という糞をたれた。尻は自分で拭かずに人に拭かすのですか 」 
・ 佐々木二郎大尉の相澤中佐事件 
佐々木二郎大尉の四日間 

・ 昭和11年7月12日 (番外) 佐々木二郎大尉 

昭和十二年三月、
二・二六で無罪で帰隊したが停職になったので、
羅南在住十年の名残りに町を散歩し、美代治を思い出して三州桜に訪ねた。
彼女は芸妓をやめて仲居をしていた。
大広間で二人で飲んだ。
話が磯部にふれた。
「 サーさん、あの人はどうなりました 」
「 ウン、今頃は銃殺されとるかも知れん 」
私はあのとき、初めて人間らしく扱われました。
誰が何といってもあの人は正しい立派な人です
一生私は忘れません 」

「 佐々木、芸妓にも料理を出せよ 」
といった磯部の一言が、
これほどの感動を与えているとは夢にも思わなかった。
底辺とか苦界とか、
口にいってもただ単なる同情にしか過ぎなかった。
磯部のそれは、
苦闘した前半生から滲み出た一言で、
彼女の心肝を温かく包んだのであろう。
当時、少し気障なことだとチラリ脳裡を掠めた私の考えは、
私自身の足りなさであったと思い知らされた。
・・・
「 佐々木、芸妓にも料理を出せよ 」 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下
佐々木二郎 著
一革新将校の半生と磯部浅一 から
虎ノ門事件 「 少なくともここしばらくはなりませぬ 」 
君側 2 「 日本を支配したは宮廷の人々 」
・ 桜田門事件 「 陛下にはお恙もあらせられず、神色自若として云々 」 

昭和の聖代 
( ・・・番外編 / 昭和二十年八月十五日 を 主題としたもの )

・ 佐々木二郎大尉の八月十五日 

「 挙国の士以て自立するなくば即ちその国倒る 」 
・ 亡き戦友の声 


満井佐吉 『 進退の件御伺 』

2021年11月23日 08時44分40秒 | 満井佐吉


満井佐吉 


進退の件御伺
佐吉儀

昨年末、相澤中佐同期有志及同中佐知人ヨリ公判特別弁護人ヲ受諾セル以來、
近年國家及皇軍ノ容易ナラザル實情ニ在ルヲ憂慮シ、就中、相澤事件公判ノ取扱ニシテ一歩ヲ誤レバ、
實力行動ノ突發等容易ナラザル事態ニ陥ルコトナキヤヲ杞憂シ、殊ニ之ガ取扱ニ際シ、
必要以上ニ軍過去ノ歴史的旧事件ヲ暴露シ、故ラニ軍内中級及靑年將校同志ノ感情ヲ激發、
再燃スルコトアラバ、皇軍靑年將校 互ニ入リ亂レテ實力行動ニ移リ、
遂ニ収拾スベカラザルノ難局ヲ展開スル禍因トナルコトナキヤヲ深慮シ、
斯ノ如キ實力行動ヲ未然ニ防止シ、該公判ヲ以テ皇軍ノ精神的一體化ノ契機タラシムルト共ニ、
公判ノ辯護ヲ通ジテ、國民ノ先達タル重臣及財界、政界ノ巨頭其他ニ、
此ノ行詰レル現下ノ情勢ヲ保守センガ爲メ、皇軍ヲ使嗾しそうシテ軍本然ノ統帥ヲ攪亂セントスルハ、
現下ノ國情ニ於テ、國家ノ安泰ヲ期スル所以ニ非ズ。
却テ祖國ヲ破滅ニ導クモノナルコトヲ理解セシメ、公判ニ對スル部外政治勢力ノ作用介入ヲ未然ニ防止シツツ、
以テ窃ひそカニ公判ノ公正ヲ念願スルト共ニ、本公判ノ進行ガ實力行動殊ニ過去ノ歴史的事件等
旧來ノ感情對立ヨリ來ル皇軍中級靑年將校同志ノ實力相撃ヲ誘發スルコトナカラシメ、
之ガ爲メニハ、一々、他方靑年將校等ヲシテ公判ニ於ケル小官ノ合法的努力ニ信頼期待シ、
以テ鬱憤ヲ實力行動ニ天下スルノヲ必要ト感ゼラシムル如ク、
現下ノ國情認識ヲ基礎トシ十分ニ辯護ヲ進メント企圖シツゝ、本公判ニ臨ミタリ。
然ル処、最近ニ於ケル國軍及國家實情ノ重大性ト、其ノ急迫トニ關シテハ小官モ亦正當適確ニ之ヲ認識スルコト能ハズ、
公判ハ誠ニ險惡重大ナル國家國軍實情ノ上ニ進行セラレ、小官ノ辯護ハ幸ニシテ、
軍過去ノ歴史的事件ノ感情ニ發スル靑年將校同志想撃ノ杞憂ハ之ヲ未然ニ防止スルノ目的ヲ達シ得タルガ如キモ、
遂ニ一部靑年將校ノ重臣其他ニ對スル實力行動就中兵員ヲ指揮シテ行ヘル武力突進ヲ見ルニ至リ、
殊ニ右一部靑年將校中ニハ小官ノ知友モ亦參加シアルハ、寔ニ恐懼ニ堪ヘズ。
相澤中佐公判ノ經過ハ極メテ順調ニ、且ツ小官最初ノ希望ノ如ク進ミアリト思惟セルニヨリ、
靑年將校等之ニ信頼期待シテ敢テ實力行動ニ出ヅルコトハ之ヲ愼ムモノト信ジアリタルニモ拘ラズ、
遂ニ小官最初ノ目的ヲ果ス能ハズ、却テ小官ノ辯護ガ實力突進ヲ誘發セルガ如キ観ヲ呈スルニ至レルハ、
誠ニ恐懼措ク処ヲ知ラズ。
若シ他人ヲ以テ之ガ特別辯護ニ當ラシメシニ於テハ、或ハ事端發生ヲ見ルニ至ラシメズシテ、
時勢ヲ善導シ得タランカトモ愚考ス。
玆ニ二月二十六日事件ノ發生ヲ見テ、小官辯護ノ跡ヲ顧ミ、只管恐懼ノ極ミニ堪ヘズ。
乃チ謹ミテ進退ヲ伺ヒ奉ル。
昭和十一年二月二十八日
陸軍大學兵學教官  陸軍歩兵中佐  満井佐吉
陸軍大臣  川島義之殿


「 なに、陛下だって御不満さ 」

2021年11月22日 17時29分30秒 | 昭和 ・ 私の記憶

「 なに、陛下だって御不満さ 」・・村中孝次
・・・彼等は
頼むべからざるものを頼みとして
蹶起したのである。

・・・・天皇のために蹶起した人間が、天皇の名のもとに鎮圧され、裁かれますね。
「 朕がもっとも信頼せる老臣をことごとく倒すは、真綿にて朕が首を絞むるに等しい行為なり 」 とか、
「 これから鎮撫に出かけるから、ただちに乗馬の用意をせよ 」 と天皇は激怒されたと聞きますが、
末松  その天皇の御言葉によって全ては、つぶされてしまうんですよ。
  この天皇の御意思がわかったから、皆将軍連中も手の平を返した。
二 ・二六をぶっつぶしたのは天皇ですよ。そのウラミは私にもありますよ。
・・・末松太平 『 二 ・二六をぶっつぶしたのは天皇ですよ 』
リンク ↓
・ 
速やかに暴徒を鎮圧せよ

俺の回りの者に関し、こんなことをしてどうするのか
・ 天皇は叛乱を絶対に認めてはいけません、 そして 叛乱をすぐ弾圧しなければなりません 
・ 伏見宮 「 大詔渙発により事態を収拾するようにしていただきたい・・」 
・ なにゆえにそのようなものを読みきかせるのか 
・ 自殺するなら勝手に自殺するがよかろう
・ 陸軍はこの機会に厳にその禍根をいっそうせよ 
・ 本庄日記 ・ 帝都大不祥事 第四 陸相への御言葉 
・ 本庄日記 ・ 帝都大不祥事件 第一  騒乱の四日間

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事件の問題点
蹶起将校たちの天皇に対する信頼、尊崇の念は絶大ものであり、
「 君側の奸 」さえ取除けば、天皇の力によって理想的な政治体制が作られるものと信じていた。
大蔵栄一大尉は
「 権力強奪的私心が微塵もあってはいけないことを、お互いの心に誓い合っていたのだ。
 国家の悪に対して身を挺することによって、その悪を排除し、日本古来の真姿顕現に向って直往すれば、
その真心は必ず天地神明にはもちろん、天皇さまにもご嘉納していただけることを念願しての一挙であった 」
と述べている。・・・大蔵栄一 『 二 ・二六事件への挽歌 』 294頁 ( ・・・リンク → 身を挺した一挙は必ずや天皇様に御嘉納いただける  )
しかし、そこに大きな誤算があった。
蹶起将校たちが 「 至高絶対 」 であると信じ、
そのために献身しようとした 「 現実の天皇 」 は、彼らが理想とした 「 理想的な天皇 」 ではなく、
親政がそれを取巻く 「 君側の奸 」 によって曇らされていたのではなく、
「 現実の天皇 」 が実は 「 君側の奸 」 の統領そのものだったのである。

蹶起将校らの直接行動によって
従来天皇を囲繞いじょうし親政を妨げていた奸臣たちが取り払われ、
蹶起将校たちの蹶起の真意を 「 天皇 」 が聞かれれば、
天皇はこれに嘉納し、直ちに適切な処置がとられる
ということを蹶起将校等は信じていた二違いない。
ところが、本庄侍従武官長が
「 決起将校等は、その精神においては、君国を思って行動したものなので、必ずしも咎めるべきではない 」
と述べたところ、
「 天皇 」 は、その将校等の真意を全く知ろうともせず、
一顧も与えずに、
「 じぶんとしては、最も信頼せる股肱たる重臣及び大将を殺害し、
 自分を真綿にて首を締むるがごとく苦悩せしむるものにして、はなはだ遺憾に堪えず、
お前達が朕の命令を躊躇するなら、朕自ら近衛師団を率いて討伐する 」
として、激怒、鎮圧を命じた。

天皇自身は、事件発生を聞いた時は呆然自失だったが、
木戸幸一内大臣秘書官、湯浅倉平宮内大臣、広幡忠隆侍従次長、一木喜徳郎枢密院議長等の
いわゆる宮中グループが先手を取り、事件発生後すぐに進言したことによって、
天皇は強硬な態度を決めたのだとも言われる。
湯浅宮内大臣、一木議長は磯部等が考えていた第二次襲撃目標に入ってはいたが、実行されず、
宮中グループ対策を軽視したことが、失敗に連なったといえよう。
村中は蹶起後に
「 陸軍の方針を迅速に決定しないと、
 宮中にある一木枢府議長や湯浅宮相、其の他閣僚等現状維持派が策動し、
 軍の意向を左右する様なことがあってはならぬ 」
と述べていたが、宮中グループはいち早く天皇を捕捉し、
現状維持 ・鎮圧の方向に天皇の意思をみちびいたのだった。・・・栗原も公判で 「 一木、湯浅により撃退されたものと確信して居ります 」 ( 公判調書 ) と述べている。
昭和天皇には、本来、ノブレス ・オブリージュ というような資質が欠けていたと言わざるをえない。・・・身分の高い者はそれに応じて果さねばならぬ社会的責任と義務を負う
加賀乙彦氏は 「 北一輝と青年将校たち 」 という小文の中で
「 青年将校たちは、天皇をとことんまで信じ、
 つまりは自分たちの思っているとおりに天皇が行動すると信じたが故に天皇に裏切られた。
もっと言えば、青年将校たちの想い画き理想化した天皇は、実際の天皇とかけへだってしまったために、
実際の天皇はかえって彼らの行動を理解出来ず、むしろ敵視する事態が生じたのである。
二 ・二六事件において多くの国民は蹶起部隊に対して同情的で、
青年将校たちを英雄視する風潮さえあったのに、
この英雄たちをもっとも激しく憎んだのは皮肉なことに青年将校が信じた当の天皇であった 」
と述べている。・・・現代史資料月報道 『 国家主義運動 (三) 付録 』( みすず書房 ・1974年 ) 3頁
・・
蹶起行動が挫折し、失敗がほぼあきらかになってからであるが、
二七日になり 「 本庄日記 」 によれば
「 此の日一時 川島陸相及び山下奉文少将が武官府に来て、
 行動将校一同は大臣官邸で自刃して罪を謝し、下士官以下は原隊に復帰させる。
就ては勅旨を賜り死出の光栄を与えられたい、
これ以外解決の手段は無いと述べ、
第一師団長も、部下の兵を討つに堪えないと言っていたと告げる。
本庄が天皇にその旨述べたところ、
天皇は非常な不満で、
自殺するならば勝手にしたらいい、そのようなものに勅使など以ての外だ
と 述べられ。
従来にない気色で厳責され、
直ちに鎮定するよう厳達せよ との命令を受けた 」
というのである。
また、天皇は、三月四日東京陸軍軍法会議設置に関する緊急勅令裁可後、本庄侍従武官長に
「 軍法会議の構成も決まったが、
 相澤中佐に対する裁判のように優柔な態度はかえって累を多くする。
この度の軍法会議の裁判長と判士には、正しい強い将校を任命しなければならぬ
と追打ちを掛けている。…本庄繁 『 本庄日記 』 ( 原書房 ・1967年 ) 283頁  松本一郎 『 二 ・二六事件裁判の研究 』 ( 緑蔭書房 ・1999年 )
当時、国民のおおくである農民、小商工業者たちが、極度の貧困困窮情態にあり、
それを招いた原因が、天皇を主とする政府の失政乃至無策にあった。
その困窮国民を救い日本国家を救わんとして蹶起した将校等の真情を全く理解せず
「 自殺するならば勝手にしたらいい、そのようなものに勅使など以ての外だ 」
と切り捨て、さらに軍法会議での重罰を示威したのだ。
蹶起将校たちは、逮捕後も法廷において自分たちの主張を訴え、国民に決起の真意を伝えようとした。
しかし密室裁判として進められた軍法会議の模様内容は、外からは、全くうかがうことが出来なかった。
そのためもあり、この事件を報じた外電が、表面的現象だけを伝えて核心に触れなかった中で、
ドイツの 『 フランクフルター。ツァイトゥング 』 が、比較的踏み込んだ報道をしている。
その中で
「 逮捕された反乱将校は、蜂起の後も、闘争継続の意志を明確にした。
 彼等は、運動を炊きつけ、それを深く国民に持ち込むため、宣伝の場とした法廷で裁かれることを欲した。
日本の深刻な危機が重要性を持つのは、
一四〇〇人の現役兵士が三日間にわたって反乱を貫徹したという事実によってのみでは無い。
それよりはるかに重要なのは、広範な国民各層と軍の大部分が、蜂起という手段はさておき、
その一般目的についてはこれを支持している、ということである
日本陸軍内における事態の展開についてはいくつもの理由を挙げることは出来るであろうが、
そのうちで最も重要なものの一つは、
ここ数年の間に日本を襲った社会的不安定である。
日本の工業と金融経済が予想外の好況を呈していた同じ時期に、日本の農業は最も深刻な危機を経験した。
日本国民の四八%は今日においてもなお農業で生活している
したがって農業危機は国民全体に、とりわけ農民と密接に結びついた軍に波及する。
しかし都市の労働者と多くの小ブルジョア層にしても産業界の好況から利益を得ているわけではない。
日本の国民大衆は非常に貧しい状態で狭い領域に押し込められている。
それに対し一握りの人間が日本の経済発展と対外膨張から物質的な利益を得ているに過ぎない
とした。 ( 一九三六年四月九日附 ) ・・・田嶋信夫訳 ( 『 二 ・二六事件とは何だったのか 』 ) 55頁

東京陸軍軍法会議裁判の不公正
東京陸軍軍法会議がおこなった裁判については、その公正さについて数々の疑問が投げかけられている。
緊急勅令による特設軍法会議の設置そのものが不自然であった。
二月二九日には自決者と山本又予備少尉以外の蹶起将校全員が逮捕され、
兵士たちは混乱なく原隊に復帰し叛乱は完全に鎮圧され治安は回復されていたのであるから、
前記のように審理を公開し弁護人や上告も認められる常設の第一師団軍法会議によって審理することも可能だったし、
特設軍法会議を設置するとしても、わずか二カ月後に開会された第六九回帝国議会まで待てないはずは無かったのである。
裁判一般についての不公平さについて、大谷啓次郎氏は
「 この裁判の苛酷さはすでに裁判官たちにも十分に自覚されていた
・・・陸軍大臣を長官としたこの軍法会議では、
 陸軍省の幕僚機関の圧力は無視することはできないことだった。
ここにも、この裁判には、たえざる黒い影の触手がつきまとっていた。
・・・たしかに、この裁判は暗黒裁判といわれるだけのものはあった。
組織から運営、さらにその結果としての処罰も含めて峻厳苛酷だった。
だから私もこの裁判を暗黒裁判ということにいささかも躊躇するものではない 」 とする。・・・大谷敬二郎 『 二 ・二六事件の謎 』 (柏書房 ・1967年 ) 264頁

北、西田の処刑については、
それは 「 政治的裁判 」であったとして、多くの人が疑問を投げかけている。
二 ・二六事件は客観的に見れば、
歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊の一部青年将校たちを中心に計画、蹶起したもので、
北や西田とは無関係であった。
西田はむしろそれを止めようとして栗原中尉や安藤大尉を説得したが、
その決意が固いのを知って企図実現に助力したもので、
謀議の中心でも行動を主動したものでもない。
北の場合は、西田から連絡を受けて事件勃発を知り、許可を与えたとか証人したというものではなく、
電話によって連絡を取ったに過ぎない。
村中孝次は
「 本事件は在京軍隊同志を中心として最小限の犠牲を以て国体破壊の国賊を誅殺せんとせしものなり。
 故に北 ・西田両氏にも何等關係なく
( 勿論、事前に某程度察知シタルベク且不肖より若干事実を語りしことあり、
 又電話にて連絡し北氏宅に参上せしことあるも、相談等のためにあらず ) 」 ( 「 続丹心録 ) とのべ、
安藤輝三も 「軍当局は北 ・西田を罪に陥れんがために無理に今回の行動に密接な関係をつけ、
両人を民主主義者となし極刑にせんと策しあり 」 ( 遺書 ) としている。
昭和一一年七月一一日に新井法務官が安田優に
「 北、西田は今度の事件には關係ないんだね。
 しかし殺すんだ。死刑は既定の方針だから已むを得ない 」 とのべたという。
・・・安部源基氏も 「 北 ・西田を首魁にして死刑にしたのは不当である 」としている 『 昭和動乱の真相 』 ( 中公文庫 ・2006年 ) 279頁

北輝次郎、西田税らの民間人を軍法会議で裁くのには基本的に問題があった。
本来なら、冒頭に記した陸軍刑法の罪以外の罪については、
民間人は一般の通常裁判所で裁判すべきものであった。
それを覆して軍法会議での裁判を可能にしたのは、東京陸軍軍法会議
を設置した緊急勅令第二一号の第五条であった。
北、西田の裁判での裁判長だった吉田悳氏が、判士を勤めた藤室良輔大佐にあてた書簡の中で
「 事件前の被告の思想問題はどんなに矯激なものであって、事件に影響があったとしても、
 それはつもるところ情状に属するものである。基本刑決定の要素にはならない。
その上、三月事件、十月事件は不問に附している。
その両事件関係者も現存している状態に於ては、特に軍法会議が常人を審理する場合、
この情状は大局上利害を軽量して不問に附するのがよいと認める。
それゆえ彼等 ( 北、西田 ) の事件関係行為のみをとらえ、犯罪の軽重を観察するを要する。
したがってその行為は首魁の利敵行為である。
それはすなわち普通刑法の従犯の立場である利敵であり、
したがって刑は普通の見解では、主犯よりも軽減さるべきである 」
と述べていた。
吉田悳裁判長は、日記に
「 八月十一日、北、西田に対する最期の合議。
 過去半歳に亘る努力も空しく、大勢遂に目的を達するに至らず。
無念至極なるも今や如何ともするなし。
それも天意とすれば致し方なし 」
と書いた。・・・大谷敬二郎 『 二 ・二六事件の謎 』 (柏書房 ・1967年 )

加賀乙彦氏は
「 時期尚早をとなえて、血気にはやる青年将校たちと対立していた北一輝が、
 ひとたび彼らが蹶起すると、それを肯定し、軍事法廷においても弁解一つ言わなかった態度には、
人の師となる人物の深い用意が認められる。
自分を信じて立った若者たちに冷たい拒絶しか与えられぬ天皇とちがい、
北には思想の帝王となるべき度量がある 」
と述べている。

蹶起将校に資金を出し、その行動に賛同する姿勢を示し、
蹶起将校たちからも最も嘱望された巨頭的存在であり、
事件が起こって蹶起将校側が有利と見られた時期には、それを支援するかのような態度をとりながら、
天皇が弾圧の態度だと知るや、豹変したように冷淡な態度をとった真崎甚三郎大将に対する無罪判決は、
北、西田両氏に対する死刑判決と真に対照的である。
二月二六日、眞﨑は陸相官邸を出て宮城に入る間に伏見宮邸を訪れたが、
彼に同行した加藤寛治大将は、( 真崎が )今朝来の事件の概要を申上げたのち
「 事ここに至りましては、最早、彼等の志をいかして昭和維新の御断行を仰ぐより外に途はありませぬ。
 速やかに強力なる内閣を組織し事態の収拾をはかると共に、庶政を一新しなければなりませぬ 」
とはっきりのべていたと証言している。・・・加藤寛治聞取書  大谷敬二郎 『 二 ・二六事件の謎 』 (柏書房 ・1967年 )  291頁

事件後の推移
蹶起将校たちが 「 天皇陛下万歳 」 を唱えて刑場の露と消えたあと、
軍の統制派は
皇道派と見られる人々を軍の中枢から排除し、軍の実権を掌握し、
二 ・二六事件を背景にして軍の権力を拡大していった。
それは蹶起将校たちが願っていた方向とは異なるものだった。
それなのに、
二 ・二六事件を起した将校たちが
軍の権限拡大のために立ち上がったかのように思われ、
そう書かれていることは心外に違いない。
村中孝次は、七月一五日の 「 続丹心録 」 の冒頭に
「 話によれば、
 陸軍は本事件を利用して昭和一五年度迄の厖大軍事予算を成立せしめたりと。
而して不肖に好意を有する一参謀将校の言ふに
『 君等は勝った。君等の精神は生きた 』 と。
不肖等は軍事費の爲に剣を執りしにあらず。
陸軍の立場をよくせんが為に戦ひしにあらず。
農民の為なり。庶民のためなり。救世護国に為に戦ひしなり 」
と書いている。・・・河野司編 『 二 ・二六事件 獄中手記遺書 』 190頁

「 天皇 」 を理想的存在として規定した大日本帝国憲法を起草した伊藤博文をはじめ、
明治維新を戦った志士 ・元勲たちは、実感として現実の天皇が微力であり、
無力であることを熟知していたに相違ない。
しかし、あたらしく日本を統一し強力な国家としていくためには日本国民の意思を統合する存在が必要であり、
その象徴として 「 理想的な天皇 」 を据える必要を感じた。
その為に憲法にそのように規定し、国民がそれを信ずるように指導教育し、
「 現実の天皇 」 を「 理想的な天皇 」 に近づけるために、「 現実の天皇 」 の周囲に、
天皇を輔弼という形で指導する元老重臣を、正式の議会、内閣とは別に設置した。
明治の元勲が生きている間はそれが機能したが、その人々が去り、時がたつに従って、
制度だけが一人歩きし、「 現実の天皇 」 が、あたかもそのまま 「 理想的な天皇 」 であるかのように錯覚され、
「 現実の天皇 」 を 「理想的な天皇 」 に導くべき元老 ・重臣が堕落し、惰性的環境に馴れ、
天皇自体もみずから当然 「 理想的な天皇 」 であるかのように錯覚し、
周囲にもそれに阿る体制が出来上がった。
明治、大正、昭和の時期を通じ、貨幣を中心とした市場経済の導入による近代化により、
商工業は発達したが、反面、農村は貧しくなり、農民が貧困化した。
政府がそれに対する適切な政策 ・措置をとらなかったために、社会の格差が増大し、社会の矛盾が深刻化した。
昭和一一年当時の日本の現実は、
貴族制による身分的格差、極端な被差別部落の存在、巨大財閥の経済独占による著しい経済的格差、
農村の疲弊、女工哀史ニ見られる極端な搾取労働、人身売買による売春制度、
など改革を要する問題が山積みされていたにも拘わらず、特権階級はその特権の座ら愉悦の日を過し、
「 合法的にこのような逆境を変革しようとしても、到底その目的を果しえない 」 という状態にあった。
法の頂点に 「 現実の天皇 」 は位置していたのであった。
蹶起将校たちは、法律を超えた法の要請に従って行動したと言えるかもしれない。
「 昭和維新の歌 」 は、いみじくも 「 正義に結ぶますらおが、胸裡百万兵足りて 」 と、歌っている正義とは、
まさに、法律を超えた法にほかならない。
或いは、「 それは、甘い考えで、部下の下士官兵までも巻き添えにして軍紀を紊った行為はやはり許されない 」
と考える人も少なくはあるまい。
しかし、そういう人たちは、日頃の生活に若干の不満はあっても、まずまずの平穏に生活出来ている人たち、
つまり二 ・二六事件当時の特権階級に近い生活環境が保証された状態にある人たちであろう。
しかし、自分は勿論子どもたちの明日の食事にも困り、
一粒の米も麦もなく、飢えに直面し、愛児を人買いの手に委ねなければならぬほどになり、
生活保護の制度も、救済 ・苦情申立ての方法もなく、
通常の合法的な方法によっては事態の改善が全く不可能な困窮情態に久しく置かれていたら、
貴方は黙ってその状態を甘受し続けるだろうか。
忠誠なら、それは農民一揆という形で現れただろうが、法律制度、警察制度が整備された下で、
もし、そのような極端な困窮情態が放置され、為政者がその改善施策を怠るならば、
国民は決して黙ってはいないだろう。
世界人権宣言は、その前文で、
人権の無視および軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし、
 言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望と宣言された 」
「 人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、
 法の支配下によって人権を保護することが肝要である 」
としている。

私は、
この二 ・二六事件の判決と資料、
処刑された青年将校たちの手記 ・遺書を読み、
蹶起の前の底知れぬ苦悩、
処刑された時に彼等が唱えた 「 天皇陛下万歳 」 の声、
そして他方、
「 自殺するならば勝手にしたらいい 」
「 軍法会議の裁判長と判士には強い将校を任命せよ 」
との冷厳な言葉を思う時、
冥い悲しみと深い憤怒の思いを禁じえない。
人々が、「 昭和維新の歌 」 が言う永劫の眠り、呪縛から醒める日は、何時なのだろうか。
この小稿を、二 ・二六事件で亡くなった全ての人々の霊に捧げる。
・・・宮崎繁樹
論説
大日本帝国憲法下における叛乱 ( 二 ・二六事件 )
-法律の仮面を被った不法と法律を超える法-       ・・・から


満井佐吉 『28日 戒嚴司令部に於る意見具申 』

2021年11月22日 05時11分03秒 | 満井佐吉


満井佐吉 

意見
(一)、維新部隊ハ昭和維新ノ中核トナリ、現位置ニ位置シテ、
 昭和御維新ノ大御心ノ御渙發ヲ念願シツツアリ。
右部隊將校等ハ、皇軍相撃ツノ意思ハ毛頭ナキモ、維新ノ精神仰壓セラルゝ場合ハ、
死ヲ覺悟シアリ、又、右將校等ト下士官兵トハ大體ニ於テ同志的關係ニアリ、結束堅シ。
(二)、全國ノ諸部隊ニハ未ダ勃發セザルモ、各部隊ニモ同様維新的氣勢アルモノト豫想セラル。
(三)、此ノ部隊ヲ斷乎トシテ撃ツ時ハ、全軍全國的ニ相當ノ混亂起ラザルヤヲ憂慮ス。
(四)、混亂ヲ未發ニ防グ方法トシテハ、
1、全軍速ニ維新ノ精神ヲ奉ジ、輔弼ノ大任ヲ盡シ、速ニ維新ノ大御心ノ渙發を仰グコト。
2、之ガ爲速ニ強力内閣ヲ奉請シ、維新遂行ノ方針ヲ決定シ、諸政ヲ一新スルコト。
3、若シ内閣奏請擁立急ニ不可能ナルニ於テハ、軍ニ於テ輔弼シ維新ヲ奉行スルコト。
4、右ノ場合ニハ、維新ニ關シ左ノ御方ヲ最高意思ヲ以テ御決定ノ上、大御心ノ渙發ヲ詔勅シテ仰グコト。
   維新ヲ決行セントス。之ガ爲、
(1)、建國精神ヲ明徴ス。
(2)、國民生活ヲ安定セシムル。
(3)、國防ヲ充實セシムル。
5、萬一右不可能ノ場合ハ、犠牲者ヲ最小限度ニ限定スル如ク戰術的ニ工夫シ、維新部隊ヲ処置スルコト。
但シ、此際全軍全國ニ影響ヲ及ボサザルコトニ關シ、大イニ考慮ヲ要ス。
之ガ實行ハ影響スル処大ナルベキヲ以テ、特ニ實行ニ先立チ、先ヅ現狀ヲ上奏ノ上、御上裁ヲ仰グヲ要スルモノト認ム。


満井特別辯護人ノ證人申請

2021年11月20日 06時29分21秒 | 満井佐吉

事件突發前 日 二十五日の公判に於て、
私は證人申請は次回にすることを希望しましたが、
裁判官より當日即急に申請する様との要求でありましたので、
取急ぎ申請しました關係上、其夜は疲勞し、
二十六日は遅く迄寝て居りました ・・・



満井佐吉 


相澤中佐被告事件公判ニ於ケル
満井特別辯護人ノ證人申請

證人訊問申請
相澤三郎殺人特兇器上官暴行行爲傷害被告事件ニ付別紙其一 証人
ヲ別紙其二 ニ訊問事項ニ基キ御喚問相成度別紙其三 申請理由相
添ヘ申請ニ及ヒ候也
昭和十一年二月二十五日
相澤三郎辯護人
満井佐吉
第一師団軍法会議
裁判長  佐藤正三郎 殿

別紙其一
證人ノ表示
内大臣    齋藤實 子爵
三井財閥常務理事    池田成彬
太田亥十二
木戸幸一 侯爵
井上三郎 少将
牧野伸顕 伯爵秘書    下園佐吉
警保局長    唐澤俊樹

別紙其二
訊問事項
証人  齊藤實
一、証人ハ眞崎前敎育総監ノ更迭ニ関し林大將若ハ永田中將ニ托又ハ林大将若ハ永田中
  將ノ將來ニ関スル身分上ノ保護ヲ與ヘタルコトノ有無及其ノ事情並ニ其ノ企図
二、証人ハ皇国ニ於ケル統帥權ト歐列強ニ於ケル其ノ国軍統帥トノ間ニ如何ナル差異ヲ
  認識スルヤ
三、証人ハ齋藤内閣辞職後其ノ後継内閣ニ関シ重臣会議ヲ開催シ其ノ決定ニ基キ岡田大
  將ヲ以テ首相候補ノ適任者トシテ之ヲ元老西園寺公ニ告ゲ西園寺公ニ難色アリタルニ
  モ拘ラス之ヲ強要シ遂ニ納得セシメテ御下問ニ奉答セシメタル事実ノ有無及其ノ事情
  並ニ其ノ企図
四、証人ハ國家ノ現況ヲ此ノ儘保守スルコトノ可能並ニ之ヲ以テ國運進展上妥当ナリト認
  識スルヤ否ヤ
五、証人ハ岡田大將ニ對シ首相就任後ニ於ケル條件トシテ、
 1、海軍軍縮会議ニ関シテハ之カ協定成立ヲ達成セシムルコトヲ要望請托セル事実ノ有
  無並ニ其ノ企図
 2、陸軍ノ人事ニ関シ特ニ維新的気魄ヲ有スル硬骨ノ將校を抑圧シ又、民間維新運動ヲ
  彈圧シ以テ非常時ヲ解消スルコトヲ要望請托セル事実ノ有無並ニ其ノ企図

証人   池田成彬 
同      太田亥十二
一、証人等ト故永田軍務局長トノ関係
二、築地ノ料亭 「 錦水 」、並ニ各自宅ニ於テ永田軍務局長と屢々會合セル事実ノ有無並ニ
  軍内維新勢力ノ抑圧其他軍人人事ニ関シ協議並ニ注文セル事実ノ有無
三、特ニ経済的支援ヲ故永田局長若ハ其ノ遺族ニ與ヘタルコトノ有無並ニ遺族ノ家庭上ノ
  問題ニ對シ常時協力シツツアル事実の有無
四、池田成彬乃至ハ三井財閥ト重臣、官僚、政党、言論機関等トノ各種ノ関係ニツキ其
  ノ具体的事情
五、現下ノ国情ニ對スル認識並ニ国運進展ノ爲メノ對策ニ関スル抱懐並ニ思想
  右ニ関シ故永田局長ト了解の程度
六、故永田中將ノ同郷先輩タル原嘉道氏 ( 現在三井財閥ノ顧問辯護士 ) ト三井及永田中將ト
  ノ関係
七、故永田中將ノ叔父小川平吉氏ノ経営ニ係ル日本新聞買收ノ経緯

証人    木戸幸一 侯爵
           井上三郎 少将
          下園佐吉
一、証人等ノ朝食会ニ対スル関係、並ニ朝食会ノ事情
二、特ニ牧野伯ト軍中央部及新官僚等トノ脈絡関係
三、木戸家ト三井財閥トノ関係
四、井上家ト三井財閥トノ関係

証人          唐澤俊樹
一、故永田中將トノ結托関係
二、特ニ事件前夜故永田中將ト赤坂ノ料亭 「 あかね 」 ニ於テ会合シ其夜故永田中將ハ 「 あ
  かね 」 ニ宿泊セル事実ノ有無並ニ其ノ夜打合ハセタル事項
三、故永田中將の叔父小川平吉氏経営ニ係ル日本新聞 買收ノ経緯
四、故永田中將ト相呼應シ軍内外ノ維新的気勢ヲ抑圧シ弾圧方針ヲ以テ非常時解消を企図
  セル事実ノ有無並ニ其ノ意図
五、証人ト重臣、財閥トノ関係
六、朝食会ノ実情殊ニ其ノ裏面
七、現下ノ國情ヲ如何ニ認識スルヤ
  現下国難打開ノ爲メノ抱懐並思想
  及之等ニ関シ故永田局長トノ諒解其他    

別紙其三
申請ノ理由
現下内外ノ情勢ハ皇国ヲシテ相沢中佐殿ガ豫テ憂慮セラレタル一大難関ニ逢着セシムルニ
到リツツアリマス
即チ軍縮会議ノ決裂、蘇満国境ニ於ケル紛擾、北支問題ノ行キ悩ミ等ハ孤立的立場ニ在ル
皇国ノ前途ヲシテ愈々多事多難ナルヲ思ハシムルモノガアリマス而モ国内ニ於テハ国民性
活ノ窮迫、國防ノ不備、国民思想ノ滉泌、政治ノ不安定等、各方面共ニ 一大行詰リニ直面
シテ居ルノデアリマス。皇国ハ速ニ眞ノ挙国一致を以テ此ノ国難ヲ打開シナケレバナリマ
セン。此ノ時ニ於テ明治建軍以来未曾有ノ不祥事タル本件ノ公判カ回ヲ重ネルニ從ヒ事件
ノ本質カ容易ナラサル現下ノ国情ト不可分ノ関係ニ在ルコトカ御審議ニヨツテ漸次明白と
ナリツツアリマスルコトハ国家ノ憂患ヲシテ惠福ト化スルコトデアルト倶ニ此ノ如キ不祥
事ヲ空前ニシテ絶後タラシムル爲メ誠ニ喜ハシキ次第デアルト存シマス
願クハ更ニ引キ続キ、現下ノ容易ナラサル國情ニ根ザス本事件ノ本質ヲ愈々御糾明御審理
ヲ頂キ以テ軍ヲシテ更殆一新眞ノ皇軍ノ姿タラシメ軍民一致速ニ時局匡救ノ根本對策を敗
行シ以テ此ノ非常ノ国難ヲ打開スルノ機縁タラシメラレタイト存ジマス
抑々本件ノ原因動機ハ甚タ廣況且ツ複雑デアリマスガ之ヲ約言致シマスレバ皇国ノ現状ヲ
此ノ行キ詰リノ儘保守セントスル財閥、重臣等ノ勢力ト昭和維新ヲ念願スル新興ノ国民気
勢トガ互ニ相衝突シ、而シテ現状ヲ保守セントスルカハ独リ国家ノ政治、経済ヲ壟断スル
ノミナラズ遂ニ  陛下ノ皇軍ヲモ私兵化シ軍統御ノ御大權ヲモ歪曲シ奉ラントセルノ結果
遂ニ茲ニ本件ノ発生ヲ見ルニ至レルモノデアリマス、然レバ之カ原因動機ヲ究ムル爲メニ
ハ啻ニ之ニ関係スル証人個々ノ行蔵ヲ審ニスルノミナラズ、是等ガ互ニ意識的ニ或ハ無意
識的ニ相関シテ形成スル現下ノ國情全体を綜合的ニ大観洞察スルコトガ絶対必要デアル
ノデアリマス
就キマシテハ左ニ申請スルノ証人個々ノ関係事情等ニ付テハ概要ヲ申シ上グルニ止メ、是等
総体ノ綜合観聯ヲ併セテ申シ上ゲ以テ申請ノ理由ト致シマス

第一、証人個々ノ関係事情
一、斎藤実子爵
一、斎藤実子ガ眞崎敎育總監更迭ニ関シ林大將ニ請托又ハ林大將ノ將來ニ関スル身分上ノ
  保証ヲ與ヘタル旨世上に普ネク取沙汰セラレ世間之ヲ確信シツツアリマシテ、山本英
  輔海軍大將モ亦右ノ事情ヲ提ゲ斎藤子ニ反省ヲ促シタル事実モアリマス
  被告相沢中佐モ亦特に公判廷ニ於テ此ノ点ヲ指摘強調シマシタ
二、岡田内閣擁立ノタメ重臣会議ヲ内大臣府ニ於テ開催シ岡田大將ヲ後継内閣首班ニ奏請
  スルコトニ決定シ其ノ決定ヲ西園寺公ニ強要シ以テ  御下問ニ奉答セシメマシタ
  右ニツイテハ会議列席者ノ一人清浦伯カ側近者ニ減シタル所ニヨリ眞実ナリト思惟シ
  マス。斯カル行為ハ國際関係ノ追随的処理並ニ國内現狀ノ保守ノ爲メノ一工作デアリ
  マス。
二、池田成彬、太田亥十二
  池田成彬氏は三井財閥ヲ代表シ我カ國ノ全経済活動ノ大動脈ヲ独占的ニ支配スル立場
  ニ在ル関係上国家ノ現制ヲ保守センガ爲メ常ニ重臣、官僚、政党等ト結托國情ヲ傾向
  的ニ誘導スルコトニ努メツツアリマス。陸軍ニ於テハ故永田軍務局長ト緊密ナル関係
  ヲ結ビ屢々築地ノ料亭 「 錦水 」 等ニ會合シテ軍内外ノ維新的勢力ノ抑圧ニ関シ其ノ歩
  調ヲ一ニシテ居リマシタ。
  又、池田成彬氏ノ婚姻関係ニ在ル太田亥十二氏ハ右池田成彬氏ト故永田軍務局長トノ
  連絡ニ任シテ居タ者デアリマス
三、木戸幸一侯爵、井上三郎少將、下園佐吉
  所謂重臣 「 ブロツク 」 ノ 「 ブレーントラスト 」 タル朝食會ハ牧野伯内大臣タリシ当時
  内大臣府秘書官長木戸幸一侯ガ井上三郎少將ヲシテ発起セシメタモノデアリマス。其
  ノ中心ヲ爲スモノハ伊沢多喜男氏、後藤文夫内務大臣、唐沢警保局長等デアリマシテ故
  永田閣下モ亦之ト密接ノ関係ガアリマシタ
  下園佐吉氏ハ牧野伯ノ秘書デアツテ右朝食會ノ関係ヲ熟知スルモノデアリ且ツ軍部方面
  ト牧野伯トノ連絡ニ任シテ居リマシタ
四、唐澤俊樹
  唐沢警保局長ハ故永田中將ト同郷デ中將ト結托シ軍内外相呼應シテ維新的勢力ヲ抑圧シ
  政治的策謀ヲ爲シツツアルモノト世人ハ認メテ居マス
  特ニ本被告事件ノ前夜故永田中將ト赤坂ノ料亭 「 あかね 」 ニ於テ会合シ永田中將ト打合
  セタル事実アリト認メラレテ居リマス
  唐沢局長カ朝食会ノ中心人物デアリ新官僚ノ重要人物デアツテ財閥、重臣等トモ結托ノ
  関係ニ在ルコトモ亦世人ノ熟知スル所デアリマス。日本新聞買収等亦其ノ関係スル所ナ
  リト世評シテ居リマス
  以上筒短ニ申シ上ゲマシタ証人個々ノ行爲ニ関スル事項ハ一見各個各別デアツテ何等本
  被告事件ノ原因動機ト関聯ノ無イモノモアル如クデアリマスガ現下ノ国情就中政治経済
  ノ機構ガ必然ニ齎ス絶大ナル影響ト弊害トヲ大観洞察シマスナラバ上述各項ノ事実ニ
  ハ其ノ裏面ニ絶大ナル同一ノ力ガ作用シテ居リマシテ是等悉クハ全ク不可分ニシテ一体
  タル関係ニ在リマス本被告事件原因ノ眞相ハ実ニ此ノ絶大ナル力ノ作用ガ皇軍内ニモ影
  響シテ軍ノ統帥輔弼ヲ不純ニ歪曲セル点ニ存スルノデアリマス。上述セル個々ノ事項ノ
  如キハ此ノ絶大ナル力ノ作用ノ現ハレノ中僅カニ其一ヲ摘出シタモノニ過ギマセン。
  此ノ力ノ作用ノ全部ヲ羅列解剖センコトハ至難ニシテ日モ亦足リナイノデアリマス。
  就キマシテハ上述個々ノ事項カ如何ナル関聯ヲ有スルヤニ関シ左ニ其ノ全貌ヲ綜合大観
  致シマス

第二、本事件ノ原因動機ノ綜合観察
其一、世界ハ今ヤ変革ノ途上ニ在リ
世界ヲ擧ゲテ今ヤ一大変革ノ途上ニ在リマス即チ個人主義、営利主義等ヲ基礎トシテ仕組
マレタル国家機構ノ下ニ政党政治ニヨル 「 闘爭本位 」 ノ国家経営ヲ爲シツツアリシ世界列
強ハ、今ヤ夫々其ノ國々ノ特性ニ基ツキ一大変革ヲ行ヒツツ 「 国家全体ノ統一的経営本位 」
ニ向ツテ進化ヲ遂ゲツツアリマス
即チ列国ハ今ヤ 「 個人ノ営利 」 ヲ第二義トシ国家全体ノ利福即チ 「 国防 」 「 国民生活ノ全
体向上 」 ヲ第一義トシテ 「 全国家ノ統一的経営 」 ニ向ツテ進化シ革新シツツアルノデア
リマス
其ノ結果列国国力ノ飛躍増大ハ大ニ見ルベキモノガアリ就中蘇聯邦ノ如キハ彼ノ貧弱ナル
国力ヨリ発足シタルニ拘ラズ 「 国家統一的経営 」 ノ結果今ヤ其ノ重工業ハ歐洲第一位ヲ占
メ飛行機、戰車等国防産業亦大ニ躍進シ数学ノ示ス所、皇国日本ノ對蘇国防ハ今ヤ誠ニ不
安ニ堪ヘザルモノガアルニ至リマシタ
日本ハ現狀ノ儘ヲ以テスレバ国防上ノ大不安、日ト共ニ加ハル一方デアリマス 殊ニ最近
海軍軍縮会議ノ決裂ハ日本ヲシテ到底現狀保守ヲ許サナイ関係ニ立到ラシメマシタ

其二、日本ハ世界歴史ヲ轉換シツツアリ
日本ハ満洲事件以来毅然トシテ世界列強ノ重圧ヲ排レ東海ニ卓立シテ今ヤ世界歴史ヲ轉換
シツツアリマス
即チ白人万能ナリシ白人黄金時代ハ今ヤ日本ニヨリテ清算セラレ有色民族ハ日本ニヨリテ
白人ノ桎梏ヨリ解放セシメラレントシテ居リマス
明治開国以来成長ニ成長シ来リシ皇国日本ハ、少年期ヨリ靑年期ニ、而シテ今ヤ雄々シキ
壯年日本トシテ世界列強ノ前ニ卓立シ世界歴史ヲ轉換シテ世界ヲ眞ニ道義的ニ調和セシメ
太平洋ノ平和を悠久ニ保証スルノ使命ヲ有スルト信ジマス鄭
之カ爲メ日本ハ自主的ニ皇国本来ノ傳統精神ヲ発揮シ不純不正ナル西歐ノ思想ト其ノ思
想ノ上ニ立ツ文物制度トヲ一擲シ 祖宗御肇国ノ建国大精神ニ則リ眞ノ皇国ノ姿ヲ顕現ス
ルコトガ肝要デアリマス
膳ルニ日本国民現在ノ指導者タル国民ノ先達ハ概ネ歐米模倣時代ニ人トナレル方々デアツ
テ依然トシテ歐米流ノ思想、文物、制度ノ存続ヲ継レ図リ日本ノ眞ノ建国精神ヲ具現発揚
スルコトヲ阻止セントサレテ居リマス
斯クシテ日本ハ今ヤ各方面ニ於テ誠ニ堪ヘ難キ行キ詰リニ直面スルニ至リマシタ

其三、日本ハ行詰レリ
日本ノ指導的立場ニ在ル臣民ガ歐米模倣ノ精神ヨリ脱却シ得ザルノミナラズ大資本ヲ擁ス
ル財閥團ガ自己ノ営利ヲ継続スル爲メ、必然的ナル國家ノ根本対策ヲモ許容セザル爲メ、
日本ハ時勢ノ進運ニ追随シテ必要ノ政策ヲ遂行スルコト能ハズ 今ヤ各方面共ニ甚シク行キ
詰ルニ至リマシタ。就中
其ノ第一ハ   国民生活ノ行キ詰リ
其ノ第二ハ   国防ノ行キ詰リ
其ノ第三ハ   歐米思想ノ行キ詰リ
デアリマス

(イ)、國民生活ノ行キ詰リ
今試ミニ現下農村ノ行キ詰リヲ見ルニ
農村ノ負債ハ六十億乃至九十億ト称シ農村ハ之ガ利拂ヒノミニテ
  年々  九億円ノ負担ヲ
餘儀ナクサレテ居ル次第デアリマス
又其ノ公租公課ハ同一所得額ノ都市商工業者ニ比ベテ約三倍宛ヲ支拂ヒツツアリマシテ其
関係ハ年所得千円ノモノニ於テ例ヘバ都市商工業者ハ諸税ヲ合シテ念三十円内外ノ負担ナ
ルニ農民ハ年九十円内外ノ負担トナツテ居リマス
例へ都市生産品ハ生産制限ニヨル單價ノツリ上ゲ、生産及販賣ノ独占等ニヨル暴利ノ■■
等ノタメ極メテ高價ニ農村ニ賣リツケラルルニ反シ農産物ノ價格ハ極メテ格安ニ之ヲ買ヒ
取ラルル関係上、今ヤ農村ト都市トノ経済上ノ均衡全ク破レ農村ハ日ニ日ニ縮衰弱シツ
ツアリマス
試ミニ明治三十年ト昭和八年トヲ比較セシニ
                  明治三十年           昭和八年
米ノ産額     三〇〇〇万石        七〇〇〇万石
繭ノ産額     二〇〇万貫            一〇〇〇万貫
右ノ如ク農村ハ明治三十年ヨリ昭和八年ニ及ビ米ニ於テ二倍強、繭ニ於テ五倍ノ増産ヲ示シ農
村ハ孜々トシテ働キ居ル次第ナルモ此ノ間農村ノ負債ハ
  明治三十年                昭和八年
   一億五千万円ヨリ        六十億円
ニ増大シ実ニ負債増額三十倍ノ増大ヲ示シテ居リ農村ハ働ケドモ働ケドモ食ヘズ、缼食児
童尚ホ未ダ絶エナイノデアリマス
而モ此ノ間都市ノ資本家企業家側ハ誠ニ莫大ナル富ノ蓄積ヲ示シアリ即チ
                  明治三十年           昭和八年
銀行預金      四億円                  一二〇億円
株式拂込金  五億円                  一五〇億円
ニシテ富ノ増大ハ約三十倍ニ飛躍シマシタ。都市資本家企業家ノ富ノ蓄積ハ固ヨリ其ノ商
工業、金融業ノ自然ノ発達ニ俟ツ所多シト農村ト都市トノ経済上ノ均衡ヲ失シ農村ヲシ
テ其ノ負債ヲ三十倍ニ増大セシメツツ自ラハ其ノ富ヲ三十倍ニ増加セル相対関係ハ今日農
村根本対策上見逃スベカラザル重要ナル因子デアルノデアリマス
今全国農村五百六十万戸ニ全農村ノ全収支ヲ平均スルトキハ一年一戸平均、五人五分ノ家
族ニ對スル実生計費ハ平均僅カニ百八十円内外トナリ、農村各戸ハ実ニ此ノ平均類ヲ以テ
一年ノ生計ヲ営ミツツアル関係ニ在リマス而モ此ノ平均線以上ニ在ル農家ハ十中ノ二三ニ
過ギズシテ農家ノ大部ハ今ヤ將ニ死線ヲ超エテ遥カ下方ニ呻吟シテ居リマス。此ノ農村子
弟ガ兵員ノ約半数ヲ占メアルヲ思ハズ今日国民生活ノ行キ詰リガ兵員ノ思想ヲ通ジテ国防
上ナモ誠ニ由々敷キ根本関係ヲ有スルコトヲ見逃スコトガ出来ナイノデアリマス 蓋シ農村
子弟何レモ忠君愛国ノ赤誠ニ燃エ黙々トシテ国防ノ第一線ニ活動シテ居リマスガ一念一度
其ノ家庭生活ノ悲惨ト国家為政当局ノ何等根本対策ノ適切ナル遂行ヲ爲サザルトニ想致ス
ルトキハ身ヲ戰列隊伍ニ措ク彼等兵員ノ胸奥眞ニ堪ヘ難イ痛憤ヲ抱イテ尺管  陛下大御心
ニヨル眞ノ正シキ御政治ヲ祈願シ奉ルニ至ルコトハ誠ニ必然ノ勢デアルカラデアリマス。
疲弊ハリ農村ノミニ止マラズ漁村、山村、労働者、小商工業者等總シテ下層国民ノ生活
ガ一般ニ窮迫甚シク其ノ因テ來ル所ハ蓋シ大資本財閥ガ其ノ私的営利追及ノ爲メニ全国家
ノ経済活動ヲ独占支配シ必要ノ対策ヲ行ハシメナイカラデアリマス
試ミニ過去ノ経済上ノ諸対策ヲ見ルニ都市乃至ハ資本家自身ノ救済ノ場合ニ於テハ政府ハ
惜気モナク莫大ノ豫算ヲ運用シ全国民ノ負担ヲ以テ資本家其他ヲ救済シテ居リマス 例ヘバ
即チ
一、関東大震災ノ損害五十億円ニ対シテハ二十三億円ノ救済 ( 復興八億円、復旧十五億円 )
  其他ノ處置ヲ講ジテ居リ
二、昭和二年ノ銀行恐慌ニ於テハ例ヘバ資本金三千万円ノ台湾銀行ガ一鈴木商店ニ対シテ
  三億円ノ不当支出ヲ爲シタル等資本家側ノ無謀怠慢ヨリ出デタル結果ナルニモ拘ラズ
  政府ハ特ニ臨時議会ヲ開キ七億円ノ保償法ヲ設ケ国民ノ負担ニヨリ之ヲ救済シマシタ。
三、其他例ヘバ
 1、国際汽船ノ爲ニハ      二九〇〇万円 ( 大正八---十二年 )
 2、日露漁業ノ爲ニハ      六〇〇万円 ( 大正八年 )
 3、三共製薬ノ爲ニハ      二〇〇万円 ( 大正十年 )
 4、日本興行ノ爲ニハ      一八〇〇万円 ( 大正五---十二年 )
 5、日本紙器ノ爲ニハ      六〇〇万円 ( 大正十一年 )
 6、合同油グリセリン ノ爲ニハ    二〇〇万円 ( 大正十二年 )
 7、大倉組ノ爲ニハ        二〇〇万円 ( 大正四年 )
 8、横浜興信銀行ノ爲ニハ    一六〇〇万円 ( 大正十年 )
 9、台湾銀行ノ爲ニハ      五〇〇〇万円 ( 大正十二年---昭和二年 )
10、朝鮮銀行ノ爲ニハ     五〇〇〇万円 ( 大正十二年 )
  合計一億法千万円ノ救済ヲ爲シテ居ルノデアリマス
然ルニ農村ト都市トノ経済的均衡ノ破綻ヨリ今ヤ農村ハ六十億円以上ノ負債ニ喘ギ死
線ヲ越ヘテ呻吟シツツアルニモ拘ラズ事農村ニ関スル場合ニハ政府ハ何等之ガ根本対策
ヲ行フコトナク僅少ナル救済豫算ノ配当ヲ以テ其ノ表面ヲ縫セントシツツ却ツテ軍民
ヲ離間シ陸軍ガ農村ニ充当スベキ豫算ヲ食ツテ居ルカノ如ク軍ヲ誣謗シテ居リマス。其
ノ結果ハ眞ノ軍民一致ニヨル国策ノ慣行ヲ不可能ニシ愈々国民生活ノ窮迫ヲ増シツツア
リマシテ嘆カワシキコトニハ陸軍ニ於テモ高級將校以下多数、斯ノ如キ政府ヤ財閥等ノ
誤レル誣設ニ動カサレアルモノガ多イノデアリマス。ソレガ軍ノ一方的統制トモナルノ
デアリマス。
国民生活ノ行キ詰リハ今ヤ斯ノ如クシテ之ヲ国防問題トシテ真剣ニ憂慮スルノ餘儀ナキ
ニ至リマシタ。

(ロ)、國防ノ行キ詰リ
国防ノ行キ詰リニ関シ玆ニ具体的数字ヲ挙グルハ之ヲ避ケ軍当局ノ研究スル所ニ之ヲ委
ネマスガ總ジテ現在ノ狀態ヲ以テシテハ部隊附靑年將校等國防ノ前途ニ重大ナル不安ヲ
感ゼザルヲ特マセン
我カ陸軍ノ總兵力ハ僅カニ十七師団而モ内部ニ於テハ幾度カノ軍備整理ニヨリ多クノ缼
如ヲ有スルヲ以テ其ノ兵員大約二十三万、其ノ數ハ歐洲ノ ポーランド ニモ及バズ、僅カ
トルコ  ルーマニア ニ稍々勝レルノ程度ニ過ギス。又其ノ装備ニ於テモ辛ジテ世界大戦
型ニ追随セントスル程度ナルニ列強ハ既ニ早クモ大戦後ノ最新型ニ進ンデ居リマス。飛行
機、戦車、毒瓦斯其他幾多新式装備ノ貧弱ハ戰列將士ヲシテ將來国防戦ノ前途ニ大不安ヲ
禁ゼザラシムルモノガアリマス。
下級正規將校、下士官等ノ定員ニ就テモ亦一大憂惧ガアルノデアリマス。而モ其ノ訓練サ
ルル所ハ寡ヲ以テ衆ヲ制スル速戰速決ノ戰法デアリマスガ熟々相對国ノ国防諸施設ト武
トヲ較量シテ皇国国軍ノ現狀ニ深ク思ヒヲ到ストキハ純心ナル靑年將校等一片裏々ノ至情
亦堪ヘ難イモノガ御座イマス。蓋シ今ヤ皇国国軍ハ精兵多数主義ヲ傳統シテ居ルナモ拘ラ
ズ其ノ実質ナ於テハ弱兵少数主義ニセントシツツアルカラデアリマス
然ル處軍中央乃至軍ノ中層ニハ此ノ悲痛ナル頽勢ヲ挽回シ毅然トシテ  陛下ノ皇軍ヲ強化
スルノ熱意ニ乏シク寧ロ軍部以外ノ経済的支配勢力ト妥協苟合シツツ大勢ニ順応シ現狀保
守ニ阿諛セントスルモノガ相当ニ多ク之ガ爲メ軍ハ今日迄知ラズ識ラズノ間ニ軍外不純勢
力ノ乘ズル所となり難局ノ打開ハ爲メニ遅々トシテ進マズ愈々以テ少壯將校ヲシテ深憂ヲ
サシメテ居リマス。斯ノ如クシテ隊附靑年將校等今ヤ概ネ無氣力且ツ無責任ナル軍中央
ノ軟弱ニ對シ信頼ヲ失フニ至リマシタ。国家国軍ノ爲メ誠ニ悲シムベキ極ミナリト謂フベ
キデアリマス
右ノ外近代国防ノ要求スル所ハ啻ニ軍備ノ充実、国民生活ノ安定ノミヲ以テ足レリトセズ
国家ノ基本活力ヲ平時ヨリ十全ニ擴充発展セシムルト共ニ此ノ拡充発展セル全国力ヲ擧ゲ
テ有事ノ日之ヲ急速ニ戰爭能力化スルノ用意ト施設トヲ整ヘアルヲ必要トスルノデアリマ
ス即チ近代国防ハ單ニ軍備ヲ充実スルノミヲ以テ足レリトスルモノデハアリマセン 従テ近
代国家ハ國防ノ必要上啻ニ金融産業等ノミナラズ政治、経済、国民敎育等各般ノ部門全面
ニ亘ツテ根本的諸対策ヲ寛行スルノ已ムナキ情勢ニ在リマス。然ルニ皇国ニ於テハ是等喫
緊ナル根本諸對策モ国家経済活動ヲ独占的ニ支配シツツアル財閥団ノ意思ニヨツテ封止セ
ラレ今日迄軍首脳部自ラモ亦毅然トシテ之ガ根本施設ヲ遂行スルノ氣魄ヲギ爲メニ皇国
ハ近代国防ノ見地ヨリシテ甚シキ行キ詰リニ直面シ其ノ結果ハ眞ノ擧国一致ニヨル近代国
防ノ達成ニ絶大ナル不安ヲ感ズルノ已ムヲ得ザル関係ニ在ルノデアリマス
換言スレバ近代国防達成ノ爲め皇国ハ眞ノ擧国一致ヲ以テ先ヅ其ノ国力ノ拡充発展ト全国
力ノ戰争能力化ヲ好機ニ投シテ了スル施設完成トノタメ国家経営ノ様ヲ更始一新スル
ノ必要ニ直面シアリト断言セザルヲ得マセン。即チ近代国防上祖国ハ今ヤ昭和維新ノ絶対
必要ニ迫ラレテ居マス
軍内少壯爲メニ痛心スル所以、断ジテ他意アツテ国家ヲ騒擾変革セント企図スルモノデハ
ナイノデアリマス。

其四、日本ノ行キ詰リノ原因
日本ノ行キ詰リノ原因ハ明治維新以後歐米ノ模倣急ナリシ爲メ皇国ノ眞ノ精神、眞ノ姿未
タ十分ニ発揚顯現セザルニ先チ早クモ歐米思想ニ基礎ヲ置ク文物制度ノ積樂ガ結シテ現
狀ノ侭ヲ以テシテハ如何トモスル能ハザルニ立チ到リタルニ因リマス。
  明治天皇維新ノ御詔ニ宣ハセ給フ所ノ
『 今般朝政一新の時に膺り天下億兆一人と其處を得ざる時は皆 朕が罪なれば 』
トノ大御心ハ今ヤ容易ニ実現セラレマセン。是ハ何ガ爲メデアリマセウカ。此ノ行キ詰リ
ノ原因ノ眼目ハ財閥ガ私利ヲ営ムヲ主トシテ天下ノ御政ラ私シ國民生活ヲ窮迫セシメ国防
ノ根本ヲ動揺セシムルモ敢テ意トスルコトナク只管現狀ノ保守ニ汲々トシテ非常時局根本
對策ノ遂行ヲ許容シナイ点ニ存スルノデアリマス。日本ガ今日迄模倣シ來リタル歐米列強
スラ漸次 「 個人ノ営利本位 」 ヨリ 「 国家全体本位 」 ノ経営ニ向ツテ国家ノ機構ト国政ノ運
用トヲ切リ換ヘツツ日本ガ嘗テ模倣セル旧制度ノ弊害ヨリ漸次脱却セント企図シツツ世界
ヲ擧ゲテ今ヤ変革ノ途上ニ在ルコトハ前述セル所デアリマスガ日本ハ依然トシテ旧態を続
ケ国政ノ運用一ニ財閥団ノ自己営利ノ目的ヲ第一義トシテ私ニ歪曲セラレ国家統治ノ  御
大權就中最近ニ至リテハ実ニ国軍  御統帥ノ  御大權スラ授等ノ巧妙老繪ナル摩ノ手ニヨ
リ遂ニ侵害セラレルニ至リマシタ。
斯クノ如クシテ今ヤ国軍ハ將ニ一大危機ニ直面セントシ又時難匡救ノ根本国策ハ一トシテ
実現セラルルナク生産ハ山ヲ成シテ倉庫ニ溢レ工場ハ大ニ其ノ生産ヲ制限シアル程ナルモ億
兆ハ之ヲ購フニ過賃ナクシテ本然ノ需要ヲ満タス能ハズ。又政府ノ御倉米ハ千數百万石ヲ
算シ、米ノ作付反別ヲ制限セントスル案スラ考ヘラルルニモ拘ラズ農村缼食児童ハ尚ホ其
跡ヲ絶タズ  大御心ノ具体的顕現遥カニ未ダシト謂フベキ狀態デアリマス。
左ニ国運進展ノ癌タル財閥ト国政国防トノ関係ヲ要約致シマス。
日本ノ全経済活動ハ今ヤ三井、三菱、安田、住友等數個ノ財閥ニテ独占的ニ支配シテ居リ
マス
  四大財閥独占支配力
商工省調査    昭和八年末現在
本邦各銀行、會社総資本額 ( 出資金、拂込資本、積立金、社債ノ合計 ) ハ
  二一八億七九六六万七千円
ミギノ中
三井財閥支配会社    五五億一三一五万九千円
三菱      三九億二〇一三万一千円
安田      二二億三八五四万一千円
住友      一七億九八八七万四千円
右、四大財閥計      一三四億七〇七〇万五千円
即テ四大財閥ハ本部会社總資本額ノ六割一部五厘ヲ占メ
又、三井財閥ノミニテ
二割五分二厘ヲ占メテ居ルノデアリマス
六割一部五厘ヲ占メザルコトハ決定的ニ全支配權ヲ独占スルコトヲ意味スルノデアリマス
何トナレバ残リノ三割八分五厘ハ中小資本家ノ各個バラバラニ所有スルモノニシテ何等ノ
支配的威力ヲ成サナイカラデアリマス
然ルニ三井財閥ノ資本独占ハ最近著シク加速度ヲ以テ強化セラレ昭和八年以後愈々其ノ支
配的威力ヲ増強シツツアリマス
斯ノ如クシテ四大財閥ハ今ヤ全日本ノ金融並ニ産業ノ支配力ヲ独占シ而シテ此ノ四大財閥
中 三井財閥ノ意向一度決スルヤ三菱、安田、住友等各財閥ノ動向ハ遂ニ追随セザルヲ
得ザル立場ニ在リマス 即チ全日本ノ金融及産業界ノ動向ハ三井財閥ニ於テ之ヲ代表的ニ決
定誘導スルノ実情ニ在リマス 而シテ現在三井財閥ノ動向ハ其ノ常務理事池田成彬氏之ヲ独
裁的ニ決定代行スルモノト見テ大ナル誤ハナイト思ヒマス 蓋シ池田氏ハ其ノ僚友タル常務
理事有賀長文、福井三郎両氏ヲ引退セシメ其ノ統制ノ一元化ヲ完成シタカラデアリマス
池田成彬氏ハ実ニ日本現下ニ於ケル金權三井幕府ノ大老デアルノデアリマス
此ノ全日本ノ経済活動ノ決定的支配權ヲ有スル財閥幕府ハ今ヤ重臣ト結托シ政府ヲ操リ言
論機関ヲ自家籠中ノモノトナシ政党ヲ買収シ官僚ヲ使嗾シ而シテ遂ニ軍首脳部ニモ或ハ
直接ニ或いハ間接ニ其ノ作用ヲ伸バシ玆ニ複雑ナル関係ヲ通ジテ絶大ナル影響ヲ軍内ニモ及
ボスニ至リ 軍内外ヲ通ジテ全国的ニ昭和維新ノ気魄ヲ抑圧シテ現狀保守ニ汲々タルニ至リ
マシタ。池田成彬氏ガ啻ニ重臣、官僚等を操縦スルノミナラズ自ラ軍内主要人物タル故永
田中將トヲ通ジテ其ノ歩調ヲ一ニセンコトヲ企図セシ所以 蓋茲ニ在ルノデアリマス。
池田成彬氏ガ築地ノ料亭 「 錦水 」 ニ於テ屢々故永田中將ト會見シ又、池田氏ノ親戚ニ當ル太
田亥十二氏 ( 東京瓦斯常務理事 ) ガ池田市ノ旨ヲ受ケテ永田中將ニ接近シ遂ニ同志的交
友ノ関係ヲ結ビ以テ軍ノ操縦ニ絶大ノ苦心ヲ拂ヒ故永田中將ノ没後、経済的支援ヲ其ノ遺
族ニ與ヘアル所以ノ因ツテ来ル所決シテ故無キニ非ズデアリマス。一以テ十ヲ推スニ足
ルベク巷間傳フル所ニヨレバ久里浜ニ於ケル故永田中將ノ別荘ハ右、太田亥十二氏ノ世話
ニヨルモノナリト云フコトデアリマス。
故永田閣下ハ遂ニ此ノ金權幕府ノ大老タル池田成彬氏ト関係ヲ結ベルルニ至ツタモノト思
ハレマス。

其五、皇国ノ維新ハ必然ナリ
前述ノ如キ行キ詰リヲ打開シ國難ヲ突破スル爲メ皇国御維新ヲ大成セラルルコトハ今ヤ絶
対必要トナリマシタ
国民生活ハ之ヲ安定シナケレバナリマセン
皇国ノ国防ハ之ヲ確立シナケレバナリマセン
之カ爲メニハ皇国ヲ財閥団ノ独占支配ノ魔ノ手ヨリ救出シ眞ノ  天皇御親政ノ大御代ヲ実
現シナケレバナラナイノデアリマス。何トナレバ日本ガ財閥団ノ私的営利ヲ第一義トシテ
彼等ノ独占的支配下ニ国家ノ全経済活動ヲ左右セラルル限リ眞ノ国力充実モ国民生活ノ安
定モ之ヲ望ムニ由ガナク、從ツテ国防ノ確立モ亦期セラレナイカラデアリマス。
宇内ノ大勢ニ鑑ミ世界ノ進運ニ伴ヒ今ヤ昭和維新ハ絶対不可壁デアリマス。
抑々鳥虫ノ類スラ生ヲ保タント欲スルモノハ時ニ臨ンデ孵化、蟬脱ヲ致シマス。況ンヤ悠
久ニ弥栄エントスル国家ニ於テハ機ニ臨イデ更生維新スルヲ要スルノデアリマス 是レ宇宙
ノ眞理、天地ノ自然デアリマス
悠久ノ過去ヨリ永遠ノ未来ニ向ツテ天地ト共ニ無窮ノ国運ヲ進展センガ爲メニハ皇国ハ時
ンデ御維新ヲ遂行シナケレバナラナイト信ジマス。是レ神意デアルノデアリマス。大
化ノ改新アリ建武の中興アリ而シテ明治ノ維新アル所以ハ実ニ茲ニ存シマス
戰国乱世ノ時ニ比ベテ徳川三百年ノ治績ノ功圖ヨリ少シトシマセン。然シナガラ内国民
塗炭ニ苦シミ外、黒船來ツテ我カ港湾辺境ヲ脅カスニ至ツテハ幕府封建ノ制以テ皇運ヲ扶
翼シ奉ルニ適シマセン。斯クシテ遂ニ幕末ノ維新ヲ見マシタ
明治維新ノ大業ハ時勢ノ要求ニ適応シ日本ヲシテ列強ニ伍シ大飛躍ヲ遂グルノ礎ヲ成シマ
シタ。然レトモ歐米模倣ニ急ナリシ結果、政府庇護ノ下ニ累積拡大セラレタル大資本財閥ノ
富ノ独占ハ遂ニ日本国家全経済活動ヲ独占的ニ支配壟断シ一ニ其ノ私的営利ノ爲メニ国防ノ
基礎亦動揺シ国民生活亦窮迫シ啻ニ重臣、台閣ヲ通ジテ皇国ノ政治ヲ私ニ左右スルノミナ
ラズ軍首脳ヲ牽制シテ皇軍統帥ノ  御大權ヲスラ撹乱歪曲スルニ至リマシタ。是レ国家ノ
中ニ寄生シテ皇国日本ヲ私ニ領有シ、うしはく モノデアリマス。此ノ頽勢ヲ以テ進マンカ
国運ノ進展皇謨ノ扶翼遂ニ之ヲ庶幾スベクモアリマセン。
神意煥発ヲ体シテ皇国御維新ノ大業ヲ翼賛シ奉ラントスル億兆ノ念願茲ニ昭和維新ノ叫ビ
トナル是レ天機將ニ動カントスルモノデアリマス。
今ヤ維新ハ必然ナリ。皇国ハ將ニ更生孵化セントシツツアルノデアリマス。徒ラニ卵殻ヲ
旧守シテ皇国ノ生命ヲ其ノ殻内ニ閉塞致死セシメント欲スルモ遂ニ能ハナイノデアリマス。
皇国ノ孵化ハ斷ジテ之ヲ阻止スルヲ得マセン。神国無窮ノ国運ハ幾多難関ヲモ打開して遂
ニ建国ノ大精神ヲ顕現セザレバ已マナイデアリマセウ。
方今國内ハ社会不安ノ罪ハ断ジテ維新ヲ念願スル少壯ニ在ルニ非ズシテ実ニ徒ラニ現狀ヲ旧
守セント欲スル財閥ノ独占的支配力ニ在ルノデアリマス

其六、財閥團ノ支配力ノ作用
一、故永田閣下ノ立場
故永田閣下軍務局長就任ノ頃日本ノ政治的情勢ニ於テハ政党ハ既ニ国民ノ信頼ヲ失シ政局
ヲ安定シ社会不安ヲ排除シ以テ財閥重臣等ノ期待ニ副フノ実力ヲ有シマセンデシタ。
乃チ財閥ハ新官僚群ヲ基礎トスル岡田内閣ヲ擁立シテ之ヲ政治ノ表面ラ立タシメ重臣及主
トシテ民政党ヲ通ジ巧ミニ之カ裏面ヲ操縦シ以テ軍部内外昭和維新ノ気勢ヲ撲滅シテ国家
ヲ此ノ現狀ノ行キ詰リノ儘ニ保守シ以テ財閥自ラノ不當ナル立場ト営利独占トヲ擁護存続
スルコトヲ努メテ來マシタ
故永田閣下ハ頭脳明晰、博識ノ智將ニシテ現代陸軍ノ一偉材タリシコトハ疑フノ餘地ガア
リマセン。又其ノ国家総動員的思想ニ基キ国家ヲ漸次新セントスル希望ヲ有シタルコト
モ亦事実デアリマス。人格的ニ閣下ガ別ニ非難スベキ將軍ニ非ズ寧ロ陸軍衆望ノ集ル所ナ
リシコトモ亦爭ヒ得ザル所デアリマス。小官ハ中尉時代陸軍大学ニ於テ閣下ヨリ教育学ヲ
講授セラレ亦、大尉時代陸軍省ニ於テ軍事課ニ勤務シ親シク故永田閣下ノ部下トシテヨク
閣下ノ人格ヲ承知シテ居リマス 閣下ハ実ニ得難キノ偉材デアリマシタ
然シ乍ラ故永田閣下ハ温厚ナル才子肌ノ智將ニシテ策ト略トニ長ジタル人デアリ、其ノ企
図セラルル所ハ軍ガ財界政界官僚等ト握手妥協シツツ一歩一歩此ノ現狀ヲ修正セントスル
ニ在ツタト思ヒマス。斯ノ如キハ此ノ甚シク行キ詰レル皇国ノ実情ニ合シマセン。乃チ未
ダ其ノ目的ヲ達セザルニ先ツテ却ツテ遂ニ財閥団ノ魔手ニ乗ゼラルル所トナツタノデアリ
マス。故永田閣下ノ目標トスル所ハ恐ラクハ修正的ニ統制経済ヲ実現セントスルニ在ツタ
ト信ジマス。然レドモ統制ノ実權ハ実際ニ於テ財閥団ノ手中ニ握ラルルモ敢テ問ハザルモ
ノノ如クデアリマシタ。斯クノ如キハ実質ニ於テ財閥ノ独占的支配力ヲ強化スルモノデア
ツテ却ツテ国民生活ヲ萎縮シ国防ノ不安ヲ増大スルモノデアルト思ヒマス 決シテ皇国現下
ノ行キ詰マリ打開スル所以ノ道デハアリマセン。是レ即チ三井、三菱等財閥団ノ企図スル
所ト合致スルモノデアリマス 何トナレバ彼等財閥団ハ益々其ノ独占的支配力ヲ強化シツツ
茲ニ完全ニ彼等ノ金權ニ依ツテ皇国ヲ私ニ領有支配センコトヲ企求シツツアルカラデアリ
マス。
斯ノ如キ関係ニ於テ陸軍ノ中心ニ立テル軍務局長故永田中將閣下ト財閥ノ中心人物タル三
井ノ池田成彬氏トガ思想的ニ互ニ共通点ヲ見出スニ至リタルハ必然ト云フベキデアリマス
即チ故永田閣下ハ軍ヲシテ眞ニ  陛下ノ皇軍トシテ毅然トシテ軍民一致ノ中軸タラシムル
コト能ハズシテ遂ニ知ラズ識ラズ軍ヲシテ財閥重臣ノ意図スル所ニ追随セシメ而シテ修正
的革新ノ目的ヲモ達スル能ハズシテ却ツテ財閥ノ意思ヲ迎エテ軍内維新的気勢ヲ抑圧シ軍
ノ統制ヲ希望スルノ餘リ一方的ニ維新的気魄ヲ有スル將校ヲ彈圧シ以テ遂ニ皇軍ヲ財閥ノ
私兵ト化スルモノナリト認識セラルルノ結果ヲ招来シタノデアリマス
蓋シ斯カル思想ト企図トヲ有シ幾多軍外ニ知己、親友、同士等ヲ有スル社会的一存在タリ
シ故永田軍務局長ニ対シ財閥ノ威力ハ軍ニ池田成彬氏対故永田閣下ノ直接関係ノミナラズ
重臣、官僚等幾多雑ナル関係ヲ通ジテ蟬集的ニ作用ヲ集中シ且ツ軍内ニ於テモ故永田閣
下ノ下級幕僚其他故永田閣下ノ背後ニ在リシ高級下級多数ノ全軍將校亦故永田閣下ヲ支持
シ茲ニ閣下ノ策ト略トヲ通ジテ皇軍ノ一方的統制ト所謂清軍ノ名ニヨル弾圧的人事行政ト
ガ強行セラルルニ至ツタノデアリマス
是レ固ヨリ故永田閣下個人ノ罪ニ非ズ其ノ罪ハ実ニ財閥ガ自己ノ不當ナル立場ヲ存続セン
爲メ敢テ国家ノ行キ詰リヲ此ノ儘ニ保守セント欲シ反問苦肉ノ奸策ヲ以テ皇軍ヲ四部五裂
シ之ヲ私兵化セント企図セシニ在ルト思ヒマス
温厚ノ智將故永田中將閣下其ノ気魄遂ニ毅然トシテ此ノ財閥団ノ魔手ニ対抗シ断乎トシテ
之ヲ排スルコト能ハズ遂ニ致サレテ其ノ向フ所ヲ誤ラレマシタ  小官深ク故永田閣下ノ爲メ
ニ悼マゼルヲ得ナイノデアリマス
春秋ノ筆法ヲ以テスレバ故永田閣下ヲ殺セシモノハ実ニ相澤中佐殿ニ非ズシテ財閥ノ魔手
ナリトモ謂フヲ得ベク皇軍ノ秩序ヲ乱スモノハ靑年將校ニ非ズシテ実ニ軍ヲ撹乱スル財閥
ノ奸策ニ在ルノデハナイデセウカ。蓋シ靑年將校ハ純眞ニシテ水ノ如ク、水ハ無心ニシテ
坦々、波瀾ヲ起ス所以ノモノハ其ノ因、ニ在ルモノデアリマス。
故永田閣下没セラルルノ日、財閥団、重臣、官僚、政党、言論機関、政治諸団体、政界有
力者等々口ヲ極メテ閣下ヲ惜シミ又莊麗ナル花輪ヲ捧ゲテ靑山齋場ヲ埋メマシタケレドモ
閣下ノ英魂ハ果シテ地下ニ瞑セラレマシタノデセウカ、閣下ガ生前、東京衛戍地ニ聯隊長タ
リ旅団長タラレシニモ似ズ靑年將校ノ閣下ノ霊前ニ線香スルモノ甚ダ少カリシヲ見テ、嘗
テ閣下生前ノ敎ヘ子タリシ小官ハ窃カニ暗涙ヲ呑マザルヲ得マセンデシタ。
財閥団ハ澎タル昭和維新ノ必然ノ大勢ヲ支ヘテ自己ノ不当ナル立場ヲ存続セントスルノ
餘リ故永田閣下ヲ楯トシテ必然ノ大勢ニ抗セシメ軍統制ノ美名ノ下ニ軍内維新勢力を一方
的ニ弾圧セシメ遂ニ此ノ楯タル故永田閣下ヲシテ不慮ノ横死ヲ遂ゲシムルニ至リマシタ。
然ルニモ拘ラズ今日閣下ノ尊キ犠牲ニモ目醒メズ自ラ其ノ反省スベキヲ反省セズ罪ヲ相澤
中佐殿ノミニ着セントシテ百方工夫ヲ巡ラシ諸勢力ヲ綜合的ニ操縦シツツ本公判ヲ封ゼン
ト企図スルニ似テ居リマス。緃令幾十幾百ノ花輪ヲ以テスルモ故永田閣下ノ霊ハ慰メラル
ベシトモ思ハレマセン  閣下ノ霊ハ唯々閣下ガ只管希望セラレタル軍本然ノ統制、統制ノ字
ハ当リマセンガ、眞ノ皇軍ノ姿ヲ回復セン爲メ此ノ際財閥、重臣等ガ自ラ反省シテ速ニ軍
撹乱ノ魔ノ手を去リ時局根本対策ヲ許容実現シ靑年將校等ヲシテ安心シテ国防ノ第一線ニ
立テ得ル如クスルコトニヨリテノミ之ヲ地下ニ慰ムルコトガ出來ルト信ジマス。軍ニ相沢
中佐殿ノ辯護人トシテノミナラズ故永田閣下ノ旧敎ヘ子及旧部下トシテ小官ハ本被告事件
ヲ斯カカル関連ニ於テ認識シマス
以下此ノ恐ルベキ絶大ナル資本閥ノ威力ガ日本ノ政治、経済ノ現機構ヲ通ジテ不可避的ニ
如何ニ国防ヲ危ウクセントセルカ等ヲ観察シ茲ニ申請セル証人個々ノ行蔵等ノ関ヲ申シ
上ゲマス。茲ニ一言附ケ加ヘテ申シタイコトハ是等証人等個々人ニ罪ガアルノデハナク總
テハ政治及経済ノ現機構ガ時勢ノ進展ニ適應シ得ナクナツテ來タ所ニ是等數々ノ国家的重
大事ガ出現シタノデアルト認メラルルコトデアリマス

二、財閥ト重臣閥トノ関連及其ノ合作
三井財閥ノ重鎮池田成彬氏ト前内大臣牧野伸顕伯トハ多年昵懇ナル親友関係ニ在リ、公私
不可分ノ関係ニ於テ國家ノ動向決定ニ同一歩調ヲ取リツツアルコトハ世間衆知ノ事実デア
リマス。又、現内大臣齋藤実子ハ三菱財閥ノ重要人物タル豊川良平氏ノ子息ヲ養子ト爲シ三
菱財閥トハ不可離ノ関係ニ在リマス 而シテ世人ハ此ノ豊川良平氏ヲ以テ三菱財閥ノ賄賂係
トスラ風評シテ居マス
而シテ齋藤子ハ仁禮子爵ノ女婿トシテ所謂薩派海軍ノ一人物タル関係上多年牧野伯ト結托
ノ関係ニ在ルハ固ヨリ明治海軍ノ発達道程ニ於テ三菱財閥ト共ニ其ノ恩恵ヲ被リタル高田
商会等ノ関係ヲ通シテ原田熊雄男等トモ親交ノ関係ニアル筈デアリマス。而シテ此ノ原田
男ハ牧野伯内府当時ヨリ内大臣府秘書官長木戸幸一侯及民政系政界ノ策士伊沢多喜男氏等
ト緊密ナル関係ガアリマス
即チ牧野伯、斎藤子ハ所謂重臣ブロックノ中心トナリ一木樞府議長、鈴木侍従長、岡田首
相、若槻礼次郎男、幣原喜重郎男、伊沢多喜男氏等ト気脈ヲ通シ三井、三菱両財閥ヲ中心
トスル財閥団ト歩調ヲ同ウシ互ニ相倚リ相扶ケ所謂朝飯会等ヲ以テ其ノ操縦下ニ置キ国際
的ニハ我カ国ノ外交ヲ追随萎縮ノ方針ニ基イテ常ニ英米等ニ阿附セシメ国内的ニハ此ノ
行キ詰レル国家ノ現狀ヲ此ノ侭保守シテ以テ独占支配ヲ通ジテ不当ニ獲得シツツアル
財閥団ノ営利的立場ヲ愈々強化存続セシムルト共ニ、自ラノ優越セル重臣ノ立場ヲ愈々
永続シ以テ其ノ傘下ニ庇護サレル一味ノ後輩ヲシテ続ク国家指導ノ勢力ヲ壟断セシメン
トシ之レガ爲メニハ国防ヲ無視シ国民生活ノ窮迫ヲ度外視シ時トシテハ  君側ニ奉侍スル
ノ特権ヲ以テ統帥大權ノ輔弼ヲスラ歪曲干犯シ以テ國防ト国運ノ進展トニ重大ナル悪影響
ヲ來サシメテ居リマス
例ヘバロンドン條約締結當時軍令部長加藤寛治大將ノ帷幄上奏ヲ鈴木侍従長ハ事実上ニ
於テ阻止シ遂ニ海軍總兵額量決定ニ関スル回訓案ニハ軍令部長ノ同意ナクシテ回訓発送
ノ内奏ヲ終リ之ヲ回訓スルニ至ラシメ爲メニ我カ海軍ノ國防上ニ重大ナル缼陥ヲ招來セシ
メタルノミナラズ海軍將校ノミナラズ民間多数ノ憂国志士ヲシテ憤慨セシメ以テ軍ノ統
御ト国政ノ情勢トニ容易ナラサル影響ヲ及ボシテ居リマス。斯カル統帥權干犯ガ独リ鈴木
侍従長ノミナラズ牧野伯、齋藤子等所謂重臣ブロックノ人々ト財閥巨頭トノ合意結托ノ上
ニ出現セルモノナルコトハ論ヲ俟チマセン
又満洲事変勃発当時朝鮮軍ノ越境出兵ニ関シ時ノ参謀總長故金谷範三大將ノ帷幄
上奏ヲ爲サントスルニ当リ時ノ一木喜徳郎宮相ハ事実上右上奏ニ干渉シ以テ統帥權輔
弼ニ齟齬ヲ來セシメ当時ノ陸軍中央部ニ容易ナラサル影響ヲ及ホシテ居リマス。其ノ背
後ニ財閥及重臣閥ノ意思ガ動イテ居ルコトハ明カデアリマス。
彼等重臣閥及財閥ハ統帥權干犯ノ常習犯デアリマス。斯様ニ所謂重臣閥、財閥等ハ自己
ノ立場ト利益トヲ基礎トシ其ノ時代錯誤的現狀保守ト事勿レ主義トノ謬見ヲ以テ敢テ其ノ
權限ヲ越エ統帥權輔弼ノ上ニ造干渉抑圧ヲ加ヘ以テ  統帥大権ノ独立ヲ干犯スルコト一再デ
アリマセン
本被告事件ノ原因ノ中心問題タル眞崎前敎育総監ノ更迭ニ伴フ統帥権輔弼ニ関シテモ財
閥及重臣ノ意思ノ介入セル所多シト認ムベキ幾多ノ事象ガアリマス 就中齋藤子ハ眞崎教育
總監ノ更迭人事ハ御褒美附ナリト其ノ側近ニ漏シタル事実ガアリマス。御褒美附トハ蓋シ
其ノ職責ニ基キ国体明徴ノ精神ヲ拡充セント欲シテ全軍ニ訓示ヲ下セルガ如キ眞崎大将閣
下を總監ノ椅子ヨリ罷免シ之ニ代ルニ天皇機関説ヲ吹聽スルコトニヨリ其ノ隷下將校ヨリ
不信ノ建白ヲ上申セラレルガ如キ渡辺大將閣下ヲ總監ノ椅子ニ据エ以テ財閥重臣閥及政府
ト相呼應シテ軍内ノ維新的気勢ヲ抑圧統制シテ軍ノ気魄ヲ窒息セシムル如キ手腕ヲ発揮ス
ル林陸相乃至ハ永田局長ニ対シテハ將來後継内閣首班トシテ之ヲ奏請シ又ハ陸相ノ椅子ニ
据エル等恩恵ヲ豫約スルノ意味デアルモノト世人ハ之ヲ解釋シテ居リマス。山本英輔海軍
大將閣下ハ久シキ以前ヨリ齋藤子ノ業蹟行蔵等ヲ其ノ裏面ニモ亘ツテ詳シク承知セラレ
ル御方デアリマスガ現下ノ重大ナル国家内外ノ情勢ニ鑑ミ今ヤ国防問題トシテ齋藤子及牧
野伯等ノカカル思想ト、カカル策謀トガ國加家ヲ危機ニ導クモノナリト見解セラレ牧野伯及齋
藤子ニ対シ御忠言ヲ発セラレタト云フコトデアリマス

三、岡田内閣ノ本質
御褒美附ノ内閣首班奏請ハ既ニ前例ガアリマス即チ斎藤内閣崩壊ノ後、斎藤実子、牧野伸
顕伯、高橋是清、一木喜徳郎男、若槻礼次郎男等ハ所謂重臣会議ヲ開催シ岡田大將閣下
ヲ以テ後継内閣首班候補ト決定シ之ヲ西園寺公ニ強要シ以テ  御下問ニ奉答セシメテ居リ
マス。当時世人齊シク此ノ天皇機関説的輔弼ニ対シテ大ニ痛憤シタコトハ今モ記憶
ニ新ナル所デアルト思ヒマスガ、此ノ岡田大將閣下ノ奏請ハ、同大將閣下ガロンドン條約
締結当時軍事参議官トシテ当初ハ硬軟何レトモ其ノ態度ヲ決シマセンデシタガ牧野、斎藤、
財部、濱口等ノ方々ト意思ヲ一ニシテ間モナク條約締結派トナリ加藤軍令部長ヲ圧シテ條
約締結ノ已ムヲ得ザルコトヲ主張シ次デ斎藤内閣ノ海相トナリ海軍人事ヲ財閥、重臣閥ノ
意思を迎エテ決行シタコトニ対スル御褒美デアツタト世間一般ニ認メテ居ルノデアリマス。
軍統制ノ重要事項タル國軍將校ノ人事ガカカル政權慾ニカラム御褒美附ヲ以テ左右セラレ
而モ非常時日本トシテ必然ノ要求タル国防ノ充実、國民生活ノ安定ノ爲メノ根本対策ガ斯カル
人事ニ依ツテ阻止セラレ之カ爲メ刻々皇国ヲシテ危殆ニ導クノ現況ハ吾々靑年將校ノ齊シ
ク黙視スルニ忍ビナイ所デアリマス。而シテ斯カル御褒美附人事ノ背後ニハ申ス迄モナク
財閥ノ力ガ働イテ居ルノデアリマス。抑々岡田内閣ハ右ノ如キ御褒美トシテ擁立セラレタ
モノデアリマスガ此ノ擁立ノ足場トシテハ稍々久シキ以前ヨリ新官僚ヲ中心トスル政治的
雰囲気ガ前記池田成彬、太田亥十二、伊沢多喜男、後藤文夫、吉田茂、唐沢警保局長及故
永田中將閣下等ニヨツテ形ヅクラレマシタ。就中池田成彬氏ノ旨ヲ受ケ前記太田亥十二氏
ガ矢沢一夫氏ヲ使用シ國策研究会ナルモノヲ組織シ新官僚ヲ中心トスル次官、局長級人物
ヲ連ネ之ニ永田軍務局長ノ幕下ヨリ池田純久中佐等ヲ参畫セシメ茲ニ新官僚ト軍幕僚トノ
合作ニ成ル一ノ政治的雰囲気ヲ構成シ各方面専門家等トモ気脈ヲ通シ以テ池田成彬---永
田軍務局長ノ共通指導精神ノ上ニ生ミ出サレタモノガ即チ岡田内閣デアツタト観察セラ
レテ居マス。右矢沢一夫氏ノ名ニヨツテ発起セラレタル国策研究会ハ其ノ後、岡田内閣成
ルノ後、其ノ必要ヲ感ゼザルニ至リ矢沢氏ハ之カ常任幹事ヲ他人ニ譲リ茲ニ政府ニ於テ國
策審議会ヲ生ミ表面革新ヲ標榜シツツ國民ヲ瞞着シテ却ツテ時勢ヲ保守シテ居マス。
岡田内閣成立前後ヲ通ズル政界、財界及重臣方面ノ空気ト故永田軍務局長ヲ中心トスル軍
中央幕僚ノ動キトテハ見逃スベカラサル不可分ノ関係ガアツタノデアリマス 而シテ是等ノ
背後ニ軍内多数高級將校ノ意思ノ疎通共鳴ガアツタコトモ亦確実デアリマセウ
斯カル関係ニ於テ擁立ヲ見タ岡田内閣ノ重大ナル使ハ、軍内外昭和維新ノ気勢ヲ抑圧シ
テ国家ノ現狀ヲ保守シ些少ナル修正ヲ加ヘテ表面ヲ瀰縫スルノ方針ヲ持スルト共ニ海軍軍
縮会議ヲ成立セシメテ以テロンドン條約ヲ存続セント企図スル点ニ在リマシタ。
然ル所、岡田内閣ハ其ノ何レノ使命ヲモ完ウスルコトガ出來ナカツタノデアリマス。即チ
故永田軍務局長、林陸相ニ依ツテ爲サレタル誤レル軍ノ統制強化ハ遂ニ軍ノ統帥權輔弼ヲ
紊乱シテ其ノ結果故永田閣下自ラ之カ犠牲トナルニ至リ陸軍ヲシテ現在ノ如キ未曾有ノ混
乱ニ陥シ之カ収拾一歩ヲ誤レバ誠ニ重大ナル結果ヲ招来セントスル狀態ニ立チ到ラシメタ
ト共ニ又、時勢ノ進運ニ伴フ我ガ国防ノ要求ハ岡田内閣成立ノ使命如何ニ拘ラズ遂ニ海軍
軍縮会議ヲシテ決裂ノ運ビニ持チ來スコトガ出來マシタ。今ヤ岡田内閣擁立ノ当初ノ企図
ハ全ク挫折シタノデアリマス。斯クシテ今ヤ皇軍ハ海陸軍共ニ誠ニ重大ナル難関ニ逢着シ
タノデアリマス。皇軍ハ時勢ノ進運ニ伴ハザル財閥及重臣閥ノ退嬰保守的指導精神カラ解
放セラレ強力ナル真ノ軍民一致ヲ以テ此ノ難関ヲ乗リ切ラネバナリマセン。
抑々國家ヲシテ斯クノ如ク行キ詰ラシメ皇軍ヲシテ斯カル難関ニ直面セシムルニ至リマシ
タ所以ノモノハ一ニ財閥ノ独占的絶対支配力ガ重臣ト結托シ官僚ヲ使嗾シ而シテ軍中央ヲ
モ篭絡シテ国政ヲ私シ国軍ノ統御ヲ混乱シ爲メニ國民生活ヲ窮迫シ國防を危殆ニ陥ルルモ
敢テ意トシナイカラデアリマス。
眞崎大將更迭問題ハカカル国情ノ基盤ノ上ニ発生セルモノデアツテ、ロンドン條約当時並
ニ満洲事変初頭ニ起ツタ海陸軍統帥権輔弼ノ侵害干犯ト共ニ同根一帯ノ事象ニ外ナリマ
セン
其他擧ゲ來レバ財閥及重臣団ノ國政ヲ私國防ヲ無視スルノ事実ハ枚擧ニ暇ナイノデアリ
マスガ茲ニ申請スル所ノ証據事実ハ僅ニ其ノ一二ヲ摘出シ以テ全貌ノ御明察ニ資セント
スルモノニ止リマス
相澤中佐、剣ト彈トノ奥義ヲ悟リ、神人合一ノ心境ヲ以テ此ノ同根一帯ノ國家ノ禍因ヲ直
視シ英断以テ此ノ国軍ノ危機ニ臨ミマシタ
其ノ採リタル方便ニ至リテハ斷ジテ再ビ之ヲ許スベカラザルノ形式デハアリマスルケレド
モ、其ノ認識ト其ノ念願トニ至ツテハ即チ財閥団ガ国家ノ現機構ヲ通ジテ其ノ絶大ナル悪
作用ヲ国家国軍ノ上ニ及ボス其ノ禍因ヲ斷タント欲シタモノデアリマシテ故永田閣下ハ偶々
以テ之ガ関連ノ中樞タル責任ノ地位ニ在リテ尊トキ犠牲トナラレタノデアリマス。
今此ノ皇軍未曾有ノ重大不祥事ヲ御裁断遊バサレントスルニ当ツテ伏シテ願クハ先ヅ之ガ
原因動機ノ全貌ヲ大観セラレ詳カニ上述関連事項ヲ究メラレテ以テ本事件ノ眞體ヲ
御洞察頂キタイノデアリマス。上述証人等ヲ申請スル所以ハ茲ニ御座イマス、之ヲ以テ証
人申請ノ理由ト致シマス。
尚ホ茲ニ御参考トシテ村田清太郎著 「 重臣ブロックノ正体 」 ト題スル パンフレット ノ御
判読ヲ御願ヒ申シマス。




ネット上から転載


軍の責任轉嫁 「 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 」

2021年11月19日 15時39分14秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


幕僚の筋書き

一、

事件直後の三月七日に、
第一師團參謀長、舞伝男少將が師團司令部において行った口演の要旨が、
全國の陸軍部隊に文書となって印刷配布されている。
この口演要旨がいかなる意圖で、事件直後早々に配布されたか・・・

第一師團參謀長口演要旨 ( 三月七日 午前十時於第一師團司令部 )
玆に諸官を會同せしは、事件の眞相を傳えて慿拠ひょうきょを得せしめんとするに在り、
學校配属將校にも此趣旨を傳えられ度、
一、禍を變じて幸となす覺悟を以て陸軍全般の建て直しを行うを要す

ニ、各省一致協力して不良分子の一掃を期しつつあり
三、師團は逡巡することなく善惡を判明せしむるべく努力しあり
四、此事件は皇軍を盗用して大命に抗したるものにして、此間用捨することは一つも無之、
 目下 西田税、北一輝を調査中にして、

彼らの思想は矯激にして
純眞なる將校が彼等と惡縁を結び判斷を誤りて彼等に動かされたるものにして、
斯の如き事は隊の靑年將校にも示して疑惑無き如くせよ
五、師團に於ては事件直後に於ける収拾、今後の建直しに努力しありて、
 是が眞の御奉公にして責任を避けんとする意志無し、
將兵一同昼夜心血を濺ぎ努力しある事、
此事が眞の御奉公の道なりと信ず
六、叛亂將校の態度は武士道に反し指彈すべきもの多々あるを遺憾とす、仮令たとえば、
(1)  大官を暗殺するに機關銃數十發を射撃して之を斃し、血の氣なくなりたる後、之に斬撃を加えたるものの如き

(2)  大元帥陛下を始め奉り 全國擧って憂愁に暮れる間に、叛徒は飲酒酩酊めいてい醜態を演じありたり
(3)  死すべき時來れるに一人の外、悉く自決するに至らざりき

七、事件の原因として漸く判明しつつある事項を擧げれば左の如し
(1)  叛亂軍幹部及び一味の思想は

 過激なる赤色團體の思想を、機關説に基く絶對尊皇の趣旨を以て僞装したる
北一輝の社會改造法案及び順逆不二の法門に基くものにして、
我國體と全然相容れざる不逞思想なり、
尊王絶對を口にするも内容は然らずして、
如何にも殘虐なる行爲をなして之を殘虐と考へざる非道のものなり

(2)  彼等が敵とせる財閥は之を恐喝して資金を提供せしめたる事實あり
(3)  我國家國軍を破壊するため、第三國より資金を提供しある疑あり、
 彼等の背景をなすものは職業的ブローカーにして、從來は最右翼のものなりき
叛亂軍幹部の中にも軍人精神、武士道の何物かを全く解せずして、
純然たる赤色ブローカーの色彩ありしことを逐次判明しつつあるを見る、
叛亂軍幹部の一部は全く之に欺瞞せられ、
千古拭うべからざる行動に荷担せること明かなり、

若し今日に至るも叛亂軍の行爲を是なりと考ふるものありとせば 全く言語道斷と云ふべし、
今後軍隊團結の鞏化、相互の敬愛教化に努め、國軍建設の爲に驀進ばくしんせんことを期す。
・・・以上 全文

三月七日といえば事件が終結してからわずか一週間後である。
まだ公判も開かれておらず、もちろん北、西田の取調べも進んでいない時である。
・・・事件処理に周章狼狽し、混亂を極めた不始末によって、
全國陸軍部隊に与えた動揺を収拾する一法として、
事件を起した一派を反國家的と惡しざまに誹謗することが、
軍自らの不手際を覆う一つの隠れ蓑となるとでも考えたのであろう。
・・・河野司 著  二 ・ 二六事件秘話 から

ニ、
今井清
軍務局長口達事項    昭和十一年三月五日
此の度は未曾有の不祥事を惹起し、
誠に遺憾至極にして陸軍當局としては只管謹愼しある次第なり。
之を契機として徹底的粛軍を斷行し、禍を變じて福となすを必要とす。
從て摘發檢擧捜査等には一切手加減斟酌しんしゃくを加えず、粛軍を断行する決意を以て、
陸軍大臣も夫々の處置を採られある次第なり。
關係各省に於ても完全に之に同意協力中なり。
此際綺麗さつぱり極惡の分子を一掃したきものなり。
各軍、師團に於ても、此れ等の点につきては毫末も躊躇することなく、
惡しきものは惡し、善いものは善しといふ点を判然と致され度。
叛亂の經過を見ても判る如く、兎に角 今度やつた事項は所謂皇軍を盗用し、
統帥權を干犯し、加之勅命に抗するといふ状態にして、
その間に毫末も容赦をする豫地なきは御承知の通りなり。
漸次調査の進行に伴ひ 西田税、北一輝等も捕縛し調査中なるも、
彼等の把握する思想關係が矯激にして我國體に副はざる思想なることは申す迄もなし。
かかる不逞の徒に純眞なる將校が惡縁を結び、
彼等に躍らされて理非曲直を誤ったのが、今次叛亂の實状なり。
此の辺の関係を若き將校等に十分説き示され度。
此の種不逞の徒と、思想的關係を結び居るもの、気脈を通ずるものは處置すべきは、
斷乎として處置すべきも、尚御國の爲に盡す豫地あるものは、早く眼を覺まして、
元來持つて居る純眞な氣分に立返て、御國の爲に盡す様指導あり度。
陸軍大臣に於ても本事件に關聯する非違犯行責任につきては上下に拘らず、
其れ其れの處置を採られ、先づ自ら範を示さるるものと確信しあり。
各師團等より從來の陸軍當局の態度が、徹底を欠くといふ懸念から鞭撻せらるる向あるも、
今回は決してかかる御心配は掛けざる覺悟なり。
事件の裏面に於ける關係も逐次明白となりつつある今日のことなれば、
此れ等の点も何卒安心せられ度。
事件の經過中、軍當局戒嚴司令部の採つた手段にも一二不審に思はるる點あらんも、
其れ等につきては已に説明ありし筈なり。
尚ほ 不審の點あらば十分に質され一点の誤解なき様にして帰られ度。
種々の機會に於て洩れ承る所に依れば、宮中におかせられても非常に宸襟を悩まされ、
宮中に出入の機會多き者程、一層限り無く恐懼し奉り居る次第なり。
其れ以上露骨に申上ぐることは、畏れ多ければ苟くも其の邊の眞相もよくお話願ひ度。
傳へ聞く所に依れば、陸軍大臣は本三月五日午後西園寺公の招きに依り宮中にて會見する豫定なり。
其の際軍部として、後継内閣首班並に内閣に對して、軍の要望せる重要事項を開陳せらるる筈なり。
此れ等に關しては何れ新大臣より開示せらるべきも、目下未だ其の時期に達しあらず。
尚今回の叛亂軍幹部が如何に武士道の精神を弁へざるかは次の諸點に見るも明なり。
一、大臣暗殺に當り機關銃を以て五十發も撃ち血の氣がなくなって後 刀にて切れり。
二、陛下の御宸襟を初め奉り、全國憂愁に閉されある叛亂中に於て、飲酒酩酊めいていの上亂痴気騒ぎを爲せり。
三、死すべき時に一人の外決行し得ず。
相澤事件公判につきても疑問を懐かるるならんも、
此の度の様なことが起こらない様に、曰ひたい事を曰はせ様といふのが大臣の方針なりしも、
此れが認識の誤なりしなり。
・・・現代史資料23  国家主義運動3  から
大御心 「 陸軍はこの機会に厳にその禍根を一掃せよ 」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
< 軍の責任転嫁 >
・・・東京で事件に直接参加したもの以外の将校は、出所させるということが、
外部でも取沙汰されていたようである。
事実当時の軍中央部の意見のなかにも、それがあったようである。
地方の青年将校の言動は、たとえそれが叛乱を利するものと思われるものであっても、
それは東京における三日間の不手際な処置による混乱に誘発されたものであり、
禍根は軍中央部にあるのだから深くとがむべきでないという意見である。
その一例が 『 猶輿 』 第一巻第六号所載の 「 二 ・二六裁判の方影 」 における次のA判士の意見にもみられる。
「 三日間も大義名分を混迷状態に放置したことからして、
  平素から彼等と志向を同じくする一部の軍人や常人の叛徒に対する支援、激励的活動を見たのであって、
その原因は全く、軍のこの不徹底なる態度にあります。」
『 猶輿 』 は終戦後、北一輝の実弟北昤吉が主宰した猶輿社の機関誌であって
「 二 ・二六裁判の方影 」 の筆者YSMは当時、北一輝、西田税の審理を担当した吉田判士長、
のちの 吉田悳 中将の匿名である。
本庄侍従武官長の 「 手記 」 にも、
「 此如命令、告示ありしに拘らず、事件鎮定直後、
  叛乱行為は営門を出でたるときより始まるものにして、此種命令は一の鎮定方便なりと主張せられあり。
然らざれば右説得文と云い、此命令告示と云い、法律的には皆、無作為の叛乱幇助罪を構成すると云う。」
とある。
右説得文と云い、此命令告示と云い 」 というのは 「 陸軍大臣告示 」 や、
同じ 「 手記 」 の
「 本朝来出動しある諸隊は、戦時警備部隊の一部として、
  新たに出動する部隊と共に師管内の警備に任ぜしめられるものにして、
軍隊相互間に於て絶対に相撃を為すべからず 」
などの蹶起部隊に与えた一連の命令告示を指しているのである。
公正な法の立場からいえば、軍首脳部も、本庄侍従武官長の 「 手記 」 によれば、
叛乱幇助罪に該当するわけであって、
それを不問に付して、東京の蹶起には直接関係しなかった地方の青年将校だけを、
処断することはできないはずだった。
が事実は軍首脳部のそれはうやむやに隠蔽して、
これらの青年将校だけが処刑されることになったのである。
特にその理不尽の最たるものが、北、西田の場合である。
北、西田の判士長、のちの吉田中将は、当時梅津陸軍次官、阿南兵務局長に宛てて
北、西田に対する 「 極刑反対 」 の 「 上申書 」 を呈出している。
その趣旨は、
国体を擁護顕現せんとするものと承認されている蹶起部隊に、
かねてから彼らと思想を同じくする北、西田が同志的情誼から、
指導、激励の言葉を送るのに不思議はない。
それを事件終熄後になって、軍が責任を転嫁して、
これを民間人にかぶせて恬然てんぜんとしているこしは
武士道的見地からも許しがたい
というのである。
この趣旨はしかし他の判士のなかにも共鳴するものがあったりして、
吉田判士長も
「 一時は私の意図を判決の上に具現することは可能 」 と思う時期があった。
が最終合議の結果は 「 遂に私の意図を実現しなかったことは遺憾至極である 」
と嘆息することになるのである。
・・・末松太平著  私の昭和史 


君側 1 『 大命に抗したる逆賊なり 』

2021年11月18日 09時06分21秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


香田大尉外十四名
本官を免ぜらる
けふ内閣より發令
二十九日午後零時四十五分内閣より左の如く發令された
陸軍歩兵大尉    香田淸貞        陸軍歩兵少尉    林 八郎
同                    安藤輝三        同                    池田俊彦
同                    野中四郎        同                    高橋太郎
陸軍歩兵中尉    中橋基明        同                    麦屋淸済
同                    栗原安秀        同                    常盤 稔
同                    丹生誠忠        同                    清原康平
同                    坂井 直          同                    鈴木金次郎
陸軍砲兵中尉    田中 勝
免本官 


關係二十將校免官
今次事件の關係將校等に對し廿九日付左の如く免本官の辭令が内閣から發表された
内閣發表 ( 二月廿九日 ) 
陸軍歩兵大尉    香田淸貞        
同                    安藤輝三        
同                    野中四郎        
陸軍歩兵中尉    中橋基明        
同                    栗原安秀        
同                    丹生誠忠      
同                    坂井 直          
陸軍砲兵中尉    田中 勝

陸軍歩兵少尉    林 八郎
同                    池田俊彦
同                    高橋太郎
同                    麦屋淸済
同                    常盤 稔
同                    清原康平
同                    鈴木金次郎
免本官  ( 各通 )
左の五將校の免官も同日内閣から發表された
陸軍歩兵大尉    河野 壽
陸軍歩兵中尉    對馬勝雄
同                    竹嶌継夫
陸軍砲兵少尉    安田 優
陸軍工兵少尉    中島莞爾
免本官  ( 各通 )

山本少尉  免官さる
今次事件に關係の山本陸軍歩兵少尉に對し二日午後内閣からつぎのごとく發表された
陸軍歩兵少尉    山本 又
免本官 

宮廷の人々  此処では西園寺、木戸、原田、侍従長、内大臣、宮内大臣 等を謂う

内閣は叛乱将校二十名に対し、
二月二十九日免官を発表。
三月一日、
それぞれ位の返上、勲等功級記章の褫奪ちだつの件など御裁可があった旨を發表した。
宮内省もまた位の返上を命じたことを公表したが、
返上命令の理由を
「 大命に抗し 陸軍将校たる本分に背き
 陸軍将校分限令第三条第二号該当と認め

 目下免官申請中のもの 」
とした。
即ち 宮内省は明確に 大命に抗し  と公表し、
叛乱であり 逆賊 と 認定したわけである。
これは不当のことである。
事実は命令は伝達されず、彼等は大命に反抗する意思は少しもなかった。
軍法会議でも奉勅命令が下達されたとは言ってなく、叛乱でなく反乱として処置している。
この誤れる認定が、彼等および遺家族をいかに苦しめたか。
残酷なことである
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
十一年三月一日
宮内省の発令で大命に抗したりとの理由により同志将校は免官になつた、
吾人は大命に抗したりや、吾人は断じて大命に抗していない
大体、命令に抗するとは命令が下達されることを前提とする
下達されない命令に抗する筈はない
奉勅命令は絶対に下達されなかつた、従って吾人は大命に抗していない
・・・中略・・・
奉勅命令については色々のコマカイイキサツがあると思ふが
如何なるイキサツがあるにせよ 下達すべきをしなかつたことだけは動かせぬことだ
下達されざる勅命に抗するも何もない、吾人は断じて抗してゐない
したがつて 三月一日の大命に抗し云云の免官理由は意味をなさぬ
又二月廿九日飛行キによつて散布シタ国賊云云の宣伝文は不届キ至極である
吾人は既に蹶起の主旨に於て義軍であり ( このことは大臣告示に於ても明かに認めている )
大臣告示戒厳群編入によつて義軍なることは軍上層さえ認めてゐる、
勅命には抗してゐない
だから決して賊軍などと云はる可き理由はない。
・・・
獄中手記 (1) 「 義軍の義挙と認めたるや 

二月事件を極刑主義で裁かねばならなくなつた最大の理由は、
三月一日発表の 「 大命に抗したり 」 と 云ふ一件です。
青年将校は奉勅命令に抗した、而して青年将校をかくさせたのは、北、西田だ、
北等が首相官邸へ電ワをかけて
「最後迄やれ」と煽動したのだ、と云ふのが軍部の遁辞(トンジ)です
青年将校と北と西田等が、奉勅命令に服従しなかったと云ふことにして之を殺さねば
軍部自体が大変な失態をおかしたことになるのです
即ち、
アワテ切った軍部は二月二十九日朝、青年将校は国賊なりの宣伝をはじめ、
更に三月一日大アワテにアワテて「大命に抗したり」の発表をしました。
所がよくよくしらべてみると、奉勅命令は下達されてゐない。
下達しない命令に抗すると云ふことはない。
さァ事が面倒になつた。
今更宮内省発表の取消しも出来ず、
それかと云って刑務所に収容してしまった青年将校に、奉勅命令を下達するわけにもゆかず、
加之、大臣告示では行動を認め、戒厳命令では警備を命じてゐるのでどうにも、
かうにもならなくなった。
軍部は困り抜いたあげくのはて、
① 大臣告示は説得案にして行動を認めたるものに非ず、
② 戒厳命令は謀略なり、
との申合せをして、
㋑ 奉勅命令は下達した。と云ふことにして奉勅命令の方を活かし、
㋺ 大命に抗したりと云ふ宮内省の発表を活かして、
一切合財いっさいがっさいの責任を青年将校と北、西田になすりつけたのです。

・・・獄中手記 (一) 「 一切合財の責任を北、西田になすりつけたのであります 」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三月二日、軍法会議に事件送致され、予審開始。
四月中旬、予審終了。
四月二十八日、公判開始、
六月五日、求刑。
七月五日、判決。
右のような日程にて、超スピードで裁判は行われた。
三月一日では、未だ軍法会議が審理開始せざる時期である。
叛乱と認定するには過早ではないか。
五月四日、特別議会開院式の勅語の中で、
「 今次 東京ニ起コレル事件ハ朕ガ憾うらみトスル所ナリ 」
と、ニ ・ニ六事件にふれたお言葉があった。
橋本徹馬は右の文句を捉えて、湯浅内大臣を宮内省の内大臣府に訪ねた。
湯浅は
「 あの勅語の奏請は政府の責任であって、私の与あずからぬところである 」 と。
橋本は
「 遺憾ながら出来事に相違ないが、それが国民に対し軍部に対し、
 如何なる影響を与えるかを考えて、勅語は奏請すべきものである。
・・・・
朕の憾みとするところというお言葉の代りに、 
皆朕の不徳によると仰せられたならばどうであるか。
・・・・
相剋が治まる方向にむかうでしょう 」
湯浅内府は
「 陛下が遺憾に思われたということがどうして悪いか 」
と つぶやいた。
そこで橋本はさらにいった。
「 国家に不祥事が起った場合には、わが国柄のうえからいえば、如何なる場合にも、
 朕の不徳によるという勅語を譲られた方もある 」 と。 ・・・橋本徹馬著  天皇と叛乱将校 ・・・リンク→  『 朕の憾みとする 』 との お言葉
この勅語の影響は、直ちに軍法会議に現れた。
検察官の論告求刑にあたり、この勅語を引用して、
「 畏くも上聖上陛下の宸襟を悩まし奉り、 下国民の信望を損じたることは許容し得ざるところなり 」
と 厳しく断じた。
既述の
虎ノ門事件の時の奈良武官長の輔佐の態度・・・リンク→ 
虎ノ門事件 
桜田門事件における木戸の意見 ・・・リンク→ 桜田門事件 
などとは、
今度の対応処置は大なる差異がある。
否、逆の方向である。
 湯浅倉平
湯浅は虎ノ門事件の時の警視総監。
懲戒免官になったが、
間もなく内務次官に就任し、大助の弁護人今村力三郎から批判されたのは記述の通り。
今次事件の時は宮内大臣。
三月六日、横死した斎藤実のあとの内大臣になった。
安部源基の 『 昭和動乱の真相 』 によると、
「 湯浅氏が天皇のお側におる限り、
 天皇は叛乱軍に対し断固たる態度を採られるであろうと確信したが、
 果してその通りであった 」 と。
 安倍源基
安部は事件当時は警視庁特高部長。
湯浅とは同じ山口県出身で湯浅を最も尊敬している大先輩とし、
謹厳強直、至誠の士であったという。
安部が昭和十年十一月中旬、
湯浅内大臣を訪ねた時、
「 今頃の時局混乱のもとは、全く陸軍の驕慢にある 」
と 厳然たる態度で湯浅は断言したという。
宮内省がこの事件を判定する機関でもないのに、しかも 「 大命に抗し 」 という文句が、
一般国民に与うる影響を如何に思ったか。
大したことはないと仮に思う湯浅であれば、その忠誠心が疑われる。
剛直は認められるが謹厳と至誠はどうであろうか。
湯浅は昭和八年二月から十一年三月六日まで宮内大臣、
続いて十五年六月まで内大臣を務め、
天皇の陸軍への風あたりが強かったのは、湯浅の影響であったと言われている。

宮廷グループは、この事件をいつ知ったであろうか。
『 木戸日記 』 を見ると
「 二六日午前五時二〇分 小野秘書官よりの電話 」、
「 六時四〇分頃西園寺公邸に電話を以て事件を御知らせす。
 公爵始め一同未だ御休み中との女中の返事にて大いに安心す 」
とある。
『 西園寺公と政局 』によると
昭和十一年三月十四日、原田は寺内陸軍大臣に会っている。
その時 陸軍大臣は
「 ・・・鵜沢博士の話によると、公爵は、二十五日に、既に二十六日の事変を知っておられたさうだが
  この点も、憲兵を熊谷氏 ( 西園寺家執事 ) の所にやるから、熊谷氏から忌憚なく充分話してもらいたい 」
と 言っている。
大隅秀夫著 『 昭和は終った 』 の八十九頁に、「 『 旧制高校青春風土記 』 の取材で興味深い話を聞いた。
 いまの東宮侍従長黒木従遠は、当時学習院高等科の二年生だった。
わたしどもより五、六歳年長者である。
ニ ・ニ六事件が起きる前夜、黒木は級友の木戸孝澄から電話を受けた。
木戸は内大臣 ( 内大臣秘書官長・・註 ) 木戸幸一の息子である。
今夜あたりからいよいよ決戦になるらしいぞ
黒木は親友の巽道明を誘い、暮夜ひそかに寮を抜け出して市谷方面へむかった 」
とある。
また、『 木戸日記 』 の昭和十二年二月二十二日の項に、
「 陸軍法務官伊藤章信来訪、ニ ・ニ六事件に関し聴取せらる。
 要点は事件を知りたる経路、時期、陸軍方面の連絡等にして、
其目的は反乱軍若しくは其同乗者と情報連絡あり、
時局収拾につき何等かの働かけを受け居るにあらざるかとの疑を以て、問われたる様推測した 」
と 記されている。
右の伊藤章信が戦犯容疑にて巣鴨にいる時、
「 ニ ・ニ六事件の指導者の一人から重臣に通するものがあって失敗に終った。
 もしあの事件が成功しておれば、日支事変は あるいは起きなかったかもしれぬ 」
旨を児玉誉士夫に語っている。 ・・児玉誉士夫著 『われかく戦えり 』
デイヴット ・バーガミニは その著 『 天皇の陰謀 』 で左のように述べている。
「 決行日二日前の二月二十四日朝、
 情報屋亀川は相澤公判で弁護人となっている民間法律家を訪れ、
陰謀計劃の全容を打ち明けるとともに、
西園寺公を説いて追放された真崎将軍を次期首班に推挙させるよう助力してくれと頼んでいる。
西園寺の友人で鵜沢聡明という名のこの法律家は、
亀川にできるだけのことはしようと約束したあと、西園寺に暗殺の計画があることを教えた。
この警告は、西園寺の輩下で国会議員の津雲国利、
西園寺の私設秘書をしばしばつとめた実業家中川小十郎を中心とする
極めてこみいった仲介者の連鎖を通じて興津に届いた。
西園寺は、この警告の重要さに疑念を抱かず、警告にしたがって即時行動に移った。
・・・・西園寺は雇人たちに電話ではごく自然に応対し、老主人は平静に在宅しており、
自分たちは何も知らないようにふるまえと命じた。
・・・・人気のない径路に来たところで自動車が待っており、西園寺は防備厳重な静岡県知事官舎に入った 」
なお憲兵隊が鵜沢を陰謀の共犯にしようとしたが
「 鵜沢を裁判にかければ西園寺を巻き込むことになるのが明らかになったため。
 鵜沢に対する告訴は取り下げられた 」
と バーガミニは記している。

右の諸項から判断されることは、
木戸も西園寺も事件を事前に承知していたということである。
昭和十一年六月十三日の 『 木戸日記 』 に、
「 松平宮内大臣より内務大臣秘書官長免官の辞令拝受、後任は松平康昌侯、
 ・・・・最後のニ ・ニ六事件に当っては真に思ひ切って働くことを得たので、
此思出を最後として官を退くことを得たことは官吏として真に幸福だと思う 」
と 記している。
その思い切った働きは、当然事件前からの働きを含めていることであろう。
誰々に予報して、如何なる対応策を講じたか、未だ歴史の闇の中にある。

あの当時の情況から、何か起りはせぬかとの疑念は多くの人が抱いたであろう。
二月初め森木憲兵少佐は、青年将校が月末に行動蹶起を予定していると東京憲兵隊長に報告。
二月中旬、三菱本社は独自の情報で、反乱の具体化を練る会合を開いていると憲兵隊に報告。
二月中旬 「 日本評論三月号 」 に青年将校グループの会見記が掲載され、
将来思い切った行動を考えているかとの質問にイエスと答えている。
右のような情報に対し、そのまま放置したのは何故か。
当局の無策か、それとも策謀の一部か。
色々の説がある。
確実な情報を摑んだ木戸が、岡田首相、斎藤内大臣、鈴木侍従長に警告したか否か。
警告を受けても避難しなかったのか。
これは重大にして興味のある問題である。
『 西園寺公と政局 』 の十一年四月六日の項の中に
「 ・・・結局叛乱軍の処罰なんかも、思ったよりよくやったというように、
 速く重く刑に処した方がいいんじゃないか
と、しきりに西園寺が言い、原田は十一日に総理に会い、
右のことを寺内陸軍大臣に伝えているように言づけしている。
寺内も同じ意見と返事する。
速く重く処刑することに宮廷グループでは、それこそ早くから決定していたのだ。

次頁 君側 2 「 日本を支配したは宮廷の人々 」 に続く
佐々木二郎著  一革新将校の半生と磯部浅一 
宮廷グループの動き  から


君側 2 「 日本を支配したは宮廷の人々 」

2021年11月17日 09時41分01秒 | 其の他

前頁 君側 1 『 大命に抗したる逆賊なり 』 の 続き

陛下
日本は天皇の独裁国であつてはなりません、
重臣元老貴族の独裁国であるも断じて許せません、
明治以後の日本は、
天皇を政治的中心とした一君と万民との一体的立憲国であります、
もつと ワカリ易く申上げると、
天皇を政治的中心とせる近代的民主国であります、
左様であらねばならない国体でありますから、何人の独裁をも許しません、
然るに、今の日本は何と云ふざまでありませうか、
天皇を政治的中心とせる元老、重臣、貴族、軍閥、政党、財閥の独裁国ではありませぬか、
いやいや、よくよく観察すると、
この特権階級の独裁政治は、天皇をさへないがしろにしてゐるのでありますぞ、
天皇をローマ法王にしておりますぞ、
ロボツトにし奉つて彼等が自恣専断(ジシセンダン)を思ふままに続けておりますぞ
日本国の山々津々の民どもは、
この独裁政治の下にあえいでゐるのでありますぞ
・・・磯部浅一  獄中日記 (三)  

二十六日の朝に、
・天皇は叛乱を絶対に認めてはいけません、
・そして 叛乱をすぐ弾圧しなければなりません、
・弾圧内に新しい内閣を組織することは絶対に許してはいけません
 と 決定しました。・・・木戸幸一日記から
木戸は 湯浅宮内大臣と広幡侍従次長を通して、
天皇に強い影響を与た。
・・・リンク→ 天皇は叛乱を認めてはいけません・・・ 
・・・リンク→ ・・・こんなことをしてどうするのか

 
 
西園寺公望                 木戸幸一           原田熊雄

宮廷の人々
此処では西園寺、木戸、原田、侍従長、内大臣、宮内大臣 等を謂う
前頁 君側 1 『 大命に抗したる逆賊なり 』 
の 続き

問題の、軍部大臣は現役将官に限るという寺内陸相の提案に対し、
原田は四月二十日、広田首相を訪ね
「 どうせ陸軍大臣の言うことをきかなければならないのなら、
なるべくあっさりきいてしまった方がいいじゃないか
と、西園寺の言を伝えている。
いわゆる 『 原田日記 』 『 木戸日記 』 『 本庄日記 』 『 近衛手記 』 等々を読むと、
敗戦に至るまで、昭和の政治の実権は西園寺を中心とする華族の一派の手中に在ったようだ。
そして便宜上一部の官僚を利用した。
即ち宮内省、内大臣府、侍従職等の要点にこれ等華族を配置して側近を固め、
反対勢力の侵入を断固として抑えた。
明治維新に使われた 「 宝 」 を手にしたのだ。
只一人の元老西園寺を中心とする宮廷派の動きを大観すると、
一口にいえば軍人いじめであると私は考える。
ロンドン条約が問題になれば条約派に肩入れし、
陸軍が強いとみれば海軍を支援して対抗せしめるという方策をとった。
このため、海軍部内の分裂を深め、陸海の対立を激化せしめ、
敗戦に至るまでその亀裂は塞がらなかった。
・・・リンク→
ロンドン条約問題の頃 1 『 民間団体の反対運動 』 
この方策は、何百年という長い間、武家政権に対抗した無力無責任の公家のやり方であり、
身分意識からくる武家軍人に対する蔑視、反感からではなかろうか。
西園寺個人としては、首相時代、増師問題による陸軍の倒閣に対する反感もあったであろう。
しかしこのやり方は、天皇のもつ機能の反対の方向である。
ロンドン条約で海軍部内が二つに割れたのは、
比率問題以上の打撃であり、米国を喜ばせたであろう。
この頃私は中尉であったが、師団より中少尉に対し、軍縮問題を論ずる課題作業があった。
在職二十年間、この様な事はただ一度だけであった。
昭和動乱の根源ともいうべきロンドン条約を、冷静にもっと広く深く研究して、
当局者は対処すべきであったと思う。
斎藤内閣から岡田内閣にかけて国体明徴運動が起きた。
一面は精神的であるが他面では政治問題として取り扱われた。
当時、国内政治の革新が叫ばれ、
現実の社会と、政治の動向との間にある矛盾を克服する運動として起きたのだ。
したがってこの運動は、政治、社会の各方向に大きな影響を与えた。
その一つに美濃部博士のいわゆる天皇機関説問題がある。
・・・リンク→国体明徴と天皇機関説問題 
軍は、その精神的影響をおそれ、
三長官協議の上、
真崎教育総監の名をもって、国体明徴の訓示を全軍隊に行った。
・・・リンク→『 国体明徴 』 天皇機関説に関する真崎教育総監の訓示 
政治問題として取り扱われると、直接的には岡田内閣の倒閣、間接には重臣層の勢力の紛争にあった。
国体明徴運動の政界における中心は平沼騏一郎にあったという。
岡田は海軍の条約派で宮廷派に親近し、平沼は西園寺の最も嫌いな人物。
それでなくとも荒木、真崎と皇道派の領袖として、宮廷グループより嫌われていたのが、
この一件にて真崎敵視は決定的になったと思われる。
・・・リンク→「 武官長はどうも真崎の肩を持つようだね 」 
宮廷派は当然、北の改造法案を読んだのであろう。
最も彼らが嫌ったのは、「 国民ノ天皇 」 の項であろう。
そこには華族制度廃止がうたわれ、皇室財産の国家下附が書かれている。
彼らが二・二六事件の将校や、これと重ね合わせて真崎を敵視した理由はよくわかる。
衆議院で多数を獲得した政党の総裁が首相になるのではなく、
西園寺がこれが適任と推薦したものがなる。
「 強力内閣 」 「 挙国 」 「 挙国一致内閣 」 等の空名を掲げるが、既記の如く、
分割統治の上に成立するのであるから、
基礎薄弱で、国家国民のために何等なすところなくして終るのである。
首班指名という、最も強大な権力を握っているから西園寺詣でが行なわれ、原田、木戸らの勢威は高まる。
したがって宮中における自己勢力の維持には、周到な準備と配慮が行なわれているようだ。
昭和七年三月二十七日 『 木戸日記 』 に、
原田熊雄の 西園寺の言 として次のように記している。
「 老公の御考として、近衛公をなるべく早く議長とし、・・・・必要を生じたる場合には
 出て組閣せしむるも可ならずやとの御話あり。
又、余を矢張り早き機会に侍従次長あたりの位置に就かしめ、
将来は側近にて働かする様になすを可とせしむとの話なりし由。
老公の御胸中を推察するに、
本邦の現状は既に革命の過程に踏込みつつある様に考へ居らるるものの如く、
元老の重責を荷はれて御心労察するに余りあり 」
爾後の進展を見ると、大体その通りに配置している。
ただ革命の過程に入ったと見ながら、その対応策がなかった。
勝海舟がいなかったわけである。

昭和十年十二月二十一日の 『 木戸日記 』に、
「 反対陣営の内閣の手にて内大臣の更迭を行はるるは極力避けたきを以て
 此際是非決行したき旨を希望す。宮内大臣も大体同感なりき 」
とある。
そして二十六日牧野の代りに斎藤実が内大臣となり、運命の日を迎えることになる。

二 ・二六事件直後の四月十日の 『 木戸日記 』 は次のように記している。
「 左の如き家族制度改革の骨子を示し高橋敏雄爵位課長に其研究を求む。
 華族制度改革要旨
適度に新陳代謝を行ひ華族の数をある程度に調整すると共に、
清新の気を加ふること
一、永代世襲の制を廃す
一、左の代数を経たる後は平民に復す
 公爵九代  侯爵八代  伯爵七代  子爵六代  男爵五代
一、特殊の家柄に就ては勅旨を以て代数の延長 又は永続を認むること 」
さらに六月二十五日の日記には、
「 高橋課長に家族制度改革の別案として、
一、既得権には変更を与へず
二、今後の華族を男爵三代  子爵四代  伯爵五代  侯爵六代  公爵七代とする案を研究以来 」
している。
今からみれば馬鹿げた考えだが、木戸ですらこの程度である。
当時の生活環境のためといえばそれまでだが、革新の困難さをよくあらわしている。

戦前世界一といわれた皇室財産。
その収支は明らかにされていない。
天皇家や皇族の家系的支出、災害等の救恤金、学習院や帝室博物館の経営等は知られているが、
いわゆる機密費、特定の人に対する給付が行なわれたようだ。
大臣経験者などに 「 前官礼遇 」 という待遇が与えられた。
これは在官当時の俸給相当額を、退職後も皇室財産から与えたことである。
戦後、『 華族 』 という本の中で木戸は、
「 明治天皇は、大変公卿というものに御関心が深く、
 これを守り立てて、・・・・堂上華族のための資金をおつくりになって、
・・・中略・・・
僕が宗秩寮総裁をしていた昭和八年ごろから十年ごろ、公爵で年間六千円の配分があった。
六千円というと当時の大臣の俸給。爵位によって金額がちがっているのです。
それくらいの配分ができる程資金が貯っていた 」
と 述べている。
また後継内閣をつくるため、重臣を集める考えの案の時、
重臣--前総理大臣で、
「 はじめは前総理大臣では多過ぎるから、総理大臣の前官礼遇を受けたものということで考えた。
 おかしなことに、海軍出身者はみな前官礼遇をもっているのに陸軍出身はいない。
カーキ色をツンボ桟敷なおいて内閣をつくったら、これは大さわぎになる。
仕方なく前総理ということになった 」
と 金沢誠氏らに答えている。

・・・挿入・・・
天皇財産の国家下附
天皇は自ら範を示して
皇室所有の土地山林株券等を国家に下附す。
皇室費を年約三千万円とし、国庫より支出せしむ。
但し、時勢の必要に応じ議会の協賛を経て増額すめことを得。
註。
現時の皇室財産は徳川氏の其れを継承せることに始まりて、
天皇の原義に照すも斯かる中性的財政をとるは矛盾なり。
国民の天皇は其の経済亦悉く国家の負担たるは自明の理也。
・・・リンク→日本改造法案大綱 (5) 巻一 国民の天皇 

天皇家の財政が明らかになれば、昭和史も、否、明治以降敗戦に至る歴史も
一段と明らかになると思う。
政治的の機密費として相当なものが流れていて、宮廷グループは、権力---奥ノ院の---と共に、
物質的なものに左右していたと想像される。
彼らの掌中に軍部も政党も財界も、極端にいえば踊らされていたのではないか。

『 華族 』 という本の中で木戸は、
大正十一年十一月十一日に始めたので十一会といった会名の説明をして、
会員は近衛、原田、阿部長景、外務政務次官浅田信恒、逓信省の局長広幡、
有馬頼寧、貴族院の副議長佐々木行忠など十二、三名で、
はじめは主として華族出身で役人になった連中の集りで終戦まで続いたと、いっている。
この十一会の連中--もちろん、こればかりではないが-- の情報、話し合いの結果が西園寺を動かし、
首相を決定し、側近の重臣、枢密院の議長副議長を決定したと見て大過ないであろう。
そう考えると、敗戦までは、表面はともかく、実際は宮廷政治---貴族政治ではなかったか。
しかりすると 「 一君万民 」 の標語の意味する万民平等への志向は、彼らにとっては好ましくなかった。
守りを固めたのは当然である。
北、西田に親しい磯部は、このような貴族の動きは摑んでいたと思われる。
「 陛下、日本は天皇の独裁国ではあってはなりません。
 重臣元老貴族の独裁国であるも断じて許しません。
明治以後の日本は、天皇を政治的中心とした一君万民との一体的立憲国であります。
もっとワカリ易く申上げると、天皇を政治的中心とする近代的民主国であります 」
と言い切っている。

敗戦によって家族廃止。
貴族院も当然なくなり、皇室財産も、その主要な御料林等も国有に帰した。
農地解放等も行われた。
これらの多くは、
磯部が信奉する 「
日本改造法案大綱
」 の中にあるもので磯部の実行したく思った事だ。
これらの改革は戦争による数百万流血の上に行われたものであり、
決して無血革命ではない。
問題は、今の日本人はこれ程の血を流さねば、改革が行われない国であり人であるのかということだ。
江藤淳著 『 もう一つの戦後史 』 の農地改革の成功の項に興味ある記事がある。
戦前の農林官僚の中に、地主的土地所有の矛盾を痛感し、なんとかしなければ 「 農民がかわいそうだ 」
と 考えた多くのすぐれた官僚かいた。
中心人物は大正九年当時の農政課長の石黒忠篤である。
現実に農地制度の病根にメスを入れるような立法措置が行なわれるのは、
日華事変が勃発し、統制経済を強化する戦時立法が行なわれるようになってからだ。
昭和十三年の内調整法、次いで小作料統制令等、戦局の激化と共に進んで昭和二十年六月、
戦時緊急措置法が成立すると、この緊急立法を利用して、一挙に小作料の金納化を中心とする制度改革を、
農林省は行わんとした。
石黒農林大臣はさすがにこれにはおどろいて、「 もう少し慎重にやり給え 」 と指示して
勅令案から小作料金納化の規定を落とし、
「 国内戦場化に伴う食糧対策 」 に切り替えさせたという。
このように戦前からの準備が積み重なって戦後の農地改革は成功したということだ。
右の記事で、戦時になって初めて病根にメスを入れたことと、
小作料金納化は最後まで踏み切れなかったことは考えさせられることだ。

宮廷派は秩父宮を如何に見ていただろう。
秩父宮は歩三で安藤が士官候補生時代からの関係で、
安藤に対する信頼が深く、刑死する時安藤は、天皇陛下万歳に続いて秩父宮万歳を唱えている。
まあ 自分なんかがいなくなってから後のことだろうけれど、
木戸や近衛 ( 時の首相 ) にも注意しておいてもらいたいが、よほど皇室のことは大事である。
まさか、陛下の御兄弟にかれこれということはあるまいけれど、
しかし 取巻の如何によっては、日本の歴史にときどき繰返されるように、
弟が兄を殺して帝位につくというような場面が相当に数多く見えている。
かくの如き不吉なことは無論ないと思うけれども、また、今の秩父宮とか高松宮とかいう方々に、
かれこれいうことはないけれども、或は皇族の中に変な者に担がれて、
何をしでかすか判らないような分子が出てくる情勢にも、
平素から相当に注意して見ていてもらわないと、事すこぶる重大だから、
皇室のために、また 日本のために、この点くれぐれも考えておいてもらわなければならん
 」

・・・『 西園寺公と政局 』
昭和七年六月二十一日の 『 木戸日記 』 によると
「 六月二一日宮内大臣官邸にて夕食、近衛公、原田男
 秩父宮の最近の時局に対する御考が稍々もすれば軍国的になれる点等につき意見を交換す 」
秩父宮はスポーツを御愛好になり、庶民的で、妃殿下も今までの例を破って皇族や公卿ではなく
会津の松平家より来られ、皇太后陛下は秩父宮を大変可愛がられたといわれる。
それから、これは他のことだけれど、
皇太后様を非常に偉い方のように思って、あんまり信じ過ぎて・・・・というか、
賢い方と思い過ぎておるというか、
賢い方だろうが、とにかくやはり婦人のことであるから、
よほどその点は考えて接しないと、陛下との間で或は憂慮するようなことが起こりはせんか。
自分は心配している
 」 ・・・『 西園寺公と政局 』
宮内省に永らく務めた小川晴信の口述手記 「 三代宮廷秘録 」 ・・・「 文藝春秋 」 昭和二十五年十一月号
によると、

西園寺公望の子 八郎は、ある時、天皇陛下のゴルフのお相手をしていたが、
休憩の時、八郎はねころんで、頬杖ついて陛下と話をしていた。
陛下はゴルフ棒をもって立ってお話しをしていらっしゃる。
そこへ秩父宮がお見えになって、
「 西園寺 」 と、大声で呼ばれ、
「 いかに御運動中とはいえ、陛下の御前ではないか、貴様の無作法は何事か 」
と、お叱りになった。
西園寺は平気な顔で立ち上がったが、恐縮の態には見えなかった。
と。
側近の、天皇観の一端が判る。

昭和八年四月十日の発令で西園寺八郎は職を去る。
ただしこの事のためか否かは不明だが 『 木戸日記 』 で見ると事件の性質を官紀問題としている。
西園寺八郎の進退問題は大分前から近衛、甘露寺らと相談し、
三月十五日、湯浅宮内大臣と一時間半に亙って相談。
西園寺の性格から、他人を交えず大臣が本人に説示し辞任せしむること、
まず内大臣、侍従長と十分意見の交換を希望し、
元老に及ぼす影響を十分考慮せられたし と木戸は言っている。
西園寺八郎は毛利家から西園寺の養嗣子になったもの。
木戸も湯浅も長州出身である。
もしも西園寺八郎の官紀問題が前記の秩父宮の叱責事件も含まれているのであるならば、
宮廷グループに与えた影響は無視できぬものがありそうだ。
二 ・二六事件における天皇の激怒の中に、
宮廷グループから、前まえから、秩父宮に関しての話が陛下にあったのではないか。

佐々木二郎 著  一革新将校の半生と磯部浅一 
宮廷グループの動き  から


櫻田門事件 「 陛下にはお恙もあらせられず、神色自若として云々 」

2021年11月16日 18時49分17秒 | 其の他

昭和七年一月八日、櫻田門事件 が起きた。
恒例の陸軍始めの観兵式を終えて、帰還の途につかれた天皇陛下一行の馬車に、
李奉昌という朝鮮人が爆弾を投げつけた事件である。
陛下は幸い御安泰であった。

犬養内閣は、陛下より
「 時局重大の時故に留任せよ 」
とのお言葉を賜ったという理由で留任した。
野党の民政党は 
「 さきの虎ノ門事件では、
 関東大震災直後の重大事局下にあつて、留任の優諚を拝したが山本内閣は総辞職した。
 当時閣僚であった犬養は 『 責任は絶対だ 』 と強硬に辞職を主張した。
 しかるに今回は全く同じ状況にありながら優諚に名をかりて留任するとは、
 政治道徳上許し難き行為である 」
と、強く非難した。
このように内閣が留任したため、
警衛責任者に対する処分も寛大で、
長警視総監が懲戒免職となった外は、いずれも減棒処分以下ですんだ。
これは虎ノ門事件と日垣してみると明瞭に軽い処分である。

この事件に際し
一木 宮相が
「 陛下には お恙もあらせられず、神色自若として云々 」
という
「 謹話 」 を発表したことを捉え、

今泉定助 ( 皇漢学者として重きをなしていた )
は これを問題にした。
矢次一夫の 『 昭和動乱私史 』 に拠れば、
「 これは表面こそ出なかったが当時の政界裏面にて大紛議を惹き起し、
 前内務省社会局長官で協調会常務理事だった吉田茂 ( 戦後首相となった吉田茂とは別人 )
が調停に動き、
遂に翌八年一月、
一木宮相が辞任するまでに騒ぎを発展させた。
今泉が問題にしたのは、
不祥事件とのみ見るのは間違いで、
神国日本として、これは八百万の神々の意志と見るべしというのである。
しかるに宮相は
『 お恙もあらせられなかったこと 』
のみが、あたかも
『 神の意志 』
であるかのように喜んでいるのは 神国日本の本質を解せざるもの。
さらに
『 神色自若云々 』
というにいたっては、言語道断、
歴代の天皇は、
民にして一人着ざるものあり、食せざる者あれば、

『 これ皆朕の責任 』
と仰せられている

しかるに
着ないとか、喰わぬどころの問題ではなく、
国民の一人から ( 朝鮮人でも当時は国民 )
爆弾を投げつけられたのに、
『 神色自若 』 というのでは、もはや 天皇というべき存在ではない。
これは 『 化物 』 か 『 馬鹿者 』 と申すべきであると、
いうのだ。
仄聞そくぶんしたところによると、
一木は、さすがにこの一語には憤激したということで、
化物とは、陛下に無礼であろう、
と一喝したそうだ。
そして陛下に責任をとれ、ということか
と鋭く訊したところ、
今泉は、
もちろん
と答え、
但し、陛下が責任を負われるのは、国民に対してではなく、
歴代皇祖皇宗の神霊に対して負われねばならぬ
神皇連綿として三千年、しかるに図らずも朕の代にいたり、前古未曾有の不祥事を見る。
朕まことに不徳の極まるところ、
とし伊勢大神宮をはじめ、歴朝の神前に身を投げうち、
泣いて万謝せらるべく、
そして日本に皇室のあらん限り、再び不祥事を起こさないために、
神前に固く誓願せらるることこそ当然、
と切言したのである。
そして仲介者の吉田に、
ことは国体の本義にかかわる大問題ですぞ、
この本義を守り、貫く為には生命をかけています。
貴下の得意とする労働争議の調停のようなつもりで、動き回られるのは困る、
といったそうだから、当時としては、相当な人物である 」
と。
今泉の
側近一木宮相に呈した苦言は、次のように要約できると思う。
即ち、
天皇は国民全員の生活に関し無限の責任を歴代の神霊に負うている。
この根本義から輔佐する人々の言動は発せねばならぬ。
この義を守るためには、私としては生命をかけている、
と。

・・・挿入・・・
天皇陛下
何と云ふ御失政でありますか、
何と云ふザマです、
皇祖皇宗に御あゆまりなされませ
・・・磯部浅一獄中日記  』

この事件の責任者に対する懲戒に関し、
内大臣秘書官長の木戸は、一月十三日の日記に次のように記している。
「 内大臣より今回の不祥事件に責任の地位にありしものの懲戒に関し、
其処分決定前に何等かの方法にて陛下より御優諚を賜りては如何との議あり。
 ・・・中略・・・
苟も行政組織上之等の事件を判定する夫々の機関の存する以上、
其の決定を左右するが如き御言葉等のあるは面白からずと思考す。
行政官として懲戒委員会に附議さるべき事態を惹起したる以上、
其の判定を待つの外方法なきは当然なねべし。
彼の幸徳事件の際の如きも、其の大赦は裁判の判決後に於て初めて行はれたものなり、
決して事前に陛下の御動きのあるは不可なりと述べ置きたり 」
この木戸の見解は至当である。
幸徳事件の大赦とは、
幸徳秋水以下二十四名が死刑の判決を受けたが、
明治天皇の特赦により、十二名が無期徒刑に減刑されたことである。
わが身に危害を加えんとした国民の罪すら、わが身の責として祖宗の神霊に拝謝する態度
---普通の人間に出来ぬこと---は、国民の無限の業を自ら負われることである。
このことは必然的に国民の感謝と敬仰の念を生み、その誠心まごころは天皇に集中連繋する。
ここに神が生ずるのである。
ただ普通のありきたりの人間、字が上手であったり、一つの学問に秀れたりしておるということは、
天皇の本質ではない。
それだけならば他に秀れた人物はいくらでもいる。
千年余に亘る長い伝統のうちに つちかわれたるものはそんなものではない。
一億の民のまごころの集まる身、世襲の皇位でなければならぬ。
そこには対立抗争を超越し、至公至平、寛恕かんじょにして綜合統一に向わしむるものがある。
今泉はこの義を守るためには生命をかけているという。
天皇側近にありて輔佐する人々、当然この義を守るために生命をかけるべきである。

天皇の機能は何か、
私は次のように考えていた。
第一は、
綜合統一の機能である。
分裂せるもの、対立抗争するものを克服して統一に向わしめる機能である。
明治維新の混乱動揺を、最も損害少なく短期間に収拾し得たのは、
天皇のもつこの社会的機能のおかげである。
第二は、
権力者がともすればおちいりやすい権力行使の行き過ぎを、調節抑止する機能である。
幸徳事件における明治天皇による大赦がその一例である。
第三は、
日本民族が長い年月をかけて体系化されるうちに、血の通った同胞感が生れ育つ。
一君万民の平等感を内心に味わうからである。
この平等感は前二項の基底に流れているが、変革期になると変革論の拠りどころにもなる。

昭和七年夏、磯部は主計転科のため上京、桜田門事件の動揺未だ収まらざる時である。
北、西田との接触が始まる。
政界裏面の事情に通ずる北は、また矢次一夫とは熟知の間柄である。
当然前記の今泉の話は北、西田より聞いたであろう。

佐々木二郎 著 
一革新将校の半生と磯部浅一
桜田門事件  から