あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和・私の記憶 『 二・二六事件 』

2024年02月29日 17時17分09秒 | 昭和 ・ 私の記憶


昭和50年 ( 1975 年 ) 11月 22 日、昭和維新の 面影たずねて一人歩き
・・・・ 昭和十一年 ( 1936年 ) 二月二十六日 午前八時半、
桜田門を潜った中橋中尉の眼前には蹶起部隊の展開する 昭和維新の景色がパルラマの如く拡がった
『 尊皇--討奸 』 の合言葉 と 三銭切手を証し 歩哨線を 通過したる其時、嗚呼 中橋中尉の心懐や如何

始めに
昭和40年(1965年) のこと
テレビで 『 陸海流血史・五・一五から二・二六へ 』 と いう 映画に偶然に出遭った。 ・・・話せば分る・・問答無用  
しかし其は、十一歳の少年が期待した、「 勇ましいもの 」 に反し、「 暗い、重い、哀しい ・・もの 」 であった。
 イメージ
この時、私が感じ取った 「 暗い、重い、哀しい・・もの 」 その正体が、『 私の中に潜在しているもの 』であると いうこと、
たかが 11歳にして 気づくべくもなかったのである。
昭和49年 (1974年) 19
歳の私は、昭和維新に殉じた人達が存したことを知り、
果して、私の中に潜在している 斯の正体 を はっきりと認識するに至った。
昭和の聖代における、『
日本人の正義  』  というものを 体現し、昭和維新に殉じた人達。
私は此を 『 諒 』 とした。
私にとって 斯の人達は、英雄となり、憧れとなり、そして鑑となった。
私は、昭和維新に殉じた人達の 『 人 』 を 主題に 斯の人達を見つめ、
斯の人達の日々の行動言動を観ることで、その為人ひととなりを知り、
茲に 斯の人達の魂おもいを汲取ろうとした。

本書は、私の出遭し 先達の書物を、吾の欲するところ欲する儘に吟読し、
吾琴線に触れたるところを、玆に清書することにより、私の想いを表そうと試たものである。

本書の他に
私の想い、二 ・二六事件 『 昭和維新は大御心に副はず 』 
私の想い、二 ・二六事件 『 頼むべからざるものを頼みとして 』 
昭和維新に殉じた人達  
昭和 ・私の記憶 『 西田税との出逢い 』 
昭和 ・私の記憶 『 謀略、交信ヲ傍受セヨ 』 
昭和の聖代 ( ・・・番外編 / 昭和二十年八月十五日 を 主題としたもの )
も、同様の試みをしたものである。
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昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
「 昭和維新の歌 」 を高唱しながら 三宅坂方面に向い行進する安藤隊
『 昭和維新の春の空 』 青年将校達の正義は通らなかった 

昭和 ・私の記憶
『 二 ・ 二六事件 』

目次
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昭和維新 ・ 道程 ( みちのり ) 
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・ 道程 ( みちのり ) 1 みちのり ( 大正十五年迄 )
道程 ( みちのり ) 2 みちのり ( 昭和元年~7年 )
道程 ( みちのり ) 3 みちのり ( 昭和8年、9年 )
道程 ( みちのり ) 4 みちのり ( 昭和10年 )
道程 ( みちのり ) 5 前夜 ( 昭和11年1月1日~2月25日 )
道程 ( みちのり ) 6 部隊編成 ( 出撃時 ) ・・・未完中途
道程 ( みちのり ) 7 蹶起部隊 ( 26日、午前 )
道程 ( みちのり ) 8 蹶起部隊 ( 26日、午後 )
道程 ( みちのり ) 9 蹶起部隊 ( 27日 )
道程 ( みちのり ) 10 叛亂部隊 ( 28日 )
道程 ( みちのり ) 11 叛亂部隊 ( 29日 )
道程 ( みちのり ) 12 昭和維新 ( 昭和11年3月1日~12月31日 )
・ 道程 (みちのり )  13 昭和維新 ( 昭和12年1月1日~
8月19日 )

1  導火線
・ 國家改造・昭和維新運動 
 靑年將校運動
後顧の憂い 
・ ロンドン條約問題 『 統帥權干犯 』 
・ 十月事件
・ 
五 ・一五事件 
・ 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 ) 
國體明徴と天皇機關説問題 
・ 眞崎敎育總監更迭 
・ 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

2  二 ・二六事件
前夜 (  ← クリック  )
今の諸君の立場に対しても私自身の立場からは理屈以外の色々な点を考へさせられます。
結局皆が夫れ程迄決心して居られると云ふなら私としては何共言ひ様がありません。
之以上は今一度諸君によく考へて貰ってどちらでも宜しいから、
御国の為になる様な最善の道を撰んで貰いたいと思ふ。
私は諸君との今までの関係上己一身の事は捨てます。
人間は或運命があると思ふので、
或程度以上の事は運賦天賦で時の流れに流れて行くより外に途はないと思ひます。
どちらでも良いから良く考へて頂き度い。
と云ふ意味の事を話し、安藤君は 「良く判りましたから考へて見る 」
と云って別れて帰ったのでありました。・・・西田税 ・・私は諸君と今迄の関係上自己一身の事は捨てます 

何事モ勢デアリ、
勢ノ前ニハ小サイ運命ノ如キ何ノ力モアリマセヌ。・・・西田税

蹶起
栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。
其の時俄然、官邸内に数発の銃声をきく。
いよいよ始まった。
秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。
勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。
同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。
とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい。
余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。
・・・磯部浅一 ・ 行動記 ・・いよいよ始まった

本日午前五時頃 一部靑年將校等は左記箇所を襲撃せり。
首相官邸、( 岡田首相即死 )。齋藤内大臣私邸、( 齋藤内府即死 )。
渡邊敎育總監私邸、( 敎育總監即死 )。
牧野前内大臣宿舎 ( 湯河原伊藤屋別館 ) 牧野伯爵不明。
鈴木侍從長邸、( 鈴木侍從長重傷 )。
高橋大蔵大臣私邸、( 大蔵大臣負傷 )。東京朝日新聞社。
これら將校等の蹶起せる目的はその趣意書によれば、
内外重大危急の際、元老、財閥、官僚、政黨等の國體破壊の元兇を芟除せんじょ
以て大義を正し 國體を擁護顯現せんとするにあり。
右に關し在京部隊に非常警戒の處置を講ぜしめたり。
つづいて東京警備司令部から第一師團官下に戰時警備が下令されたる旨、
およびこれに伴う司令官香椎中將の告諭が放送された。・・・ 二月二十六日 ・大雪の朝 

・ 昭和維新 ・ 蹶起の目的 
・ 蹶起趣意書
昭和維新情報 
蹶起部隊本部から行動部隊下士官兵に配布した檄文 
首脳部 ・ 陸軍大臣官邸 
・ 
丹生部隊 
・ 中橋部隊 
・ 野中部隊 
・ 安藤部隊 
・ 坂井部隊 
・ 栗原部隊 
・ 田中隊
牧野伸顕襲撃 河野隊 

・ 赤子の微衷 1 西田税と北一輝
赤子の微衷 2 蹶起した人達
赤子の微衷 3 渦中の人達 ・・・山口一太郎  満井佐吉  小藤恵
・ 赤子の微衷 4 後事を托された人達 ・・・大蔵栄一、末松太平

説得と鎭壓 (  ← クリック  )
二月二十六日午後三時三十分
東京警備司令部
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聽ニ達セラレアリ
二、諸子ノ行動ハ國體顯現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、國體ノ眞姿顯現(弊風ヲ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事參議官モ一致シテ右ノ趣旨ニ依リ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之レ以上ハ一ニ大御心ニ待ツ

・・・ 大臣告示 「 諸子ノ行動ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム 」

戰警第一號 「 第一師團命令 」 竝びに戒作命第一號 「 命令 」 は、
蹶起部隊を第一師團戰時警備隊としてその指揮下に入れ
更に戒嚴令施行後は、
歩兵第一聯隊長小藤大佐を長とした麹町地區警備隊とし、
さらに敵と見ず友軍として共に警備し、相撃を禁じ
二十七日は 配宿、給養を命じているのである。
靑年將校たちがこれらの軍の処置を、蹶起部隊を皇軍と認めたことと解釋し、
これに力を得て事後の行動を積極的に行った事は首肯できる。
しかし彼らは、
翌二十八日には叛亂部隊として討伐されている。

・・・ 命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戦時警備部隊トシテ警備に任ず 」 

朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ
3  大御心
・ 大御心 『 天皇親政とは、大御心とは 』 
・ 大御心 「 朕が憾みとするところなり 」 

我人を犠牲となし、我人を虐殺して、
しかも 我人の行へる結果を利用して、
軍部独裁 ファッショ 的改革を試みんとなしあり、
一石二鳥の名案なり、
逆賊の汚名の下に虐殺され 「 精神は生きる 」 とか
何とかごまかされては断じて死するに能はず、
昭和維新は我人の手による以外
断じて他の手に委して歪曲せしむる能はず
・・・安藤輝三
4  暗黒裁判
反駁 1 西田税と北一輝、蹶起した人達 
反駁 2 東京陸軍軍法會議公判状況 『 憲兵報告 』 
反駁 3 後事を托された人達
・ 
暗黒裁判 ・幕僚の謀略 1 西田税と北一輝 『はじめから死刑に決めていた』
暗黒裁判 ・幕僚の謀略 2 『純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた』  
・ 暗黒裁判 ・幕僚の謀略 3 磯部淺一の闘爭 『余は初めからケンカのつもりで出た』 
・ 暗黒裁判 ・幕僚の謀略 3 磯部淺一の闘爭 『北、西田両氏を助けてあげて下さい』
・ 暗黒裁判 ・幕僚の謀略 4 皇道派の追放 
5  処刑
・ 
天皇陛下萬歳 
・ あを雲の涯 
あを雲の涯 ・ 二十二烈士 

6  後

・ 
純眞なる天皇観なるがゆえに 
・ 後に残りし者 

しかし叛逆の徒とは!
叛亂とは!
國體を明かにせんための義軍をば、叛亂軍と呼ばせて死なしむる、
その大御心に御仁慈はつゆほどもなかりしか。
こは神としてのみ心ならず、
人として暴を憎みたまいしなり。
鳳輦に侍するはことごとく賢者にして  
道のべにひれ伏す愚かしき者の
血の叫びにこもる神への呼びかけは
ついに天聽に達することなく、
陛下は人として見捨ててたまえり、
かの暗澹たる広大なる貧困と
青年士官らの愚かなる赤心を。
わが古き神話のむかしより
大地の精の血の叫び声を凝り成したる
素戔鳴尊は容れられず、
聖域に馬の生皮を投げ込みしとき
神のみ怒りに触れて國を逐われき。
このいと醇乎たる荒魂より
人として陛下は面をそむけ玉いぬ。
などてすめろぎは人間となりたまいし
・・・などてすめろぎはひととなりたまいし


『 昭和維新の春の空 』 青年将校達の正義は通らなかった

2024年02月29日 17時06分31秒 | 道程 ( みちのり )

陛下
なぜもつと民を御らんになりませんか、
日本國民の九割は貧苦にしなびて、おこる元氣もないのでありますぞ
陛下がどうしても菱海の申し條を御ききとどけ下さらねばいたし方御座いません、
菱海は再び、陛下側近の賊を討つまでであります、
今度こそは
宮中にしのび込んででも、
陛下の大御前ででも、
きつと側近の奸を討ちとります
恐らく 陛下は 
陛下の御前を血に染める程の事をせねば、
御氣付き遊ばさぬでありませう、
悲しい事でありますが、 
陛下の爲、
皇祖皇宗の爲、
仕方ありません、
菱海は必ずやりますぞ
惡臣どもの上奏した事をそのまゝうけ入れ遊ばして、
忠義の赤子を銃殺なされました所の 陛下は、不明であられると云ふことはまぬかれません、
此の如き不明を御重ね遊ばすと、神々の御いかりにふれますぞ、
如何に 陛下でも、神の道を御ふみちがへ遊ばすと、御皇運の涯てる事も御座ります
統帥權を干犯した程の大それた國賊どもを御近づけ遊ばすものでありますから、
二月事件が起こったのでありますぞ、
佐郷屋、相澤が決死挺身して國體を守り、統帥權を守ったのでありますのに、
かんじんかなめの 陛下がよくよくその事情を御きわめ遊ばさないで、
何時迄も國賊の云ひなりなつて御座られますから、
日本がよく治まらないで常にガタガタして、
そこここで特權階級をつけねらつてゐるのでありますぞ
・・・磯部淺一  獄中日記 (三) 八月十二日 「 先月十二日は日本の悲劇であつた 」

昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花

「 昭和維新の歌 」 を 高唱しながら 
三宅坂方面に向い行進する安藤隊

陛下の大御心に
我々は尊皇軍であることが解るまで頑張るのだ。
昭和聖代の陛下を
後世の物笑いにしない歴史を作るために断乎闘わねばならない。
・・・安藤輝三

『 昭和維新の春の空 』
年将校達の正義は通らなかった
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二 ・ 二六事件前夜 二月二十三日 西田税 『 今まではとめてきたけれど今度はとめられない、黙認する 』
二 ・ 二六事件前夜 二月二十四日 村中孝次 『 蹶起趣意書 』 を起草
二 ・ 二六事件前夜 二月二十五日 林八郎 『 おい、今晩だぞ。明朝未明にやる 』
二 ・ 二六事件蹶起 二月二十六日 磯部淺一 『 勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ 』
二 ・ 二六事件蹶起 二月二十六日 大臣告示 『 諸子ノ行動ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム 』
二 ・ 二六事件蹶起 二月二十七日 北一輝 『 國家人無シ 勇將眞崎アリ、正義軍速ヤカニ一任セヨ 』 
二 ・ 二六事件蹶起 二月二十八日 澁川善助 『 全国の農民が、可哀想ではないんですか 』
二 ・ 二六事件蹶起 二月二十九日 安藤輝三 『 農村もとうとう救えなかった 』

・ 大御心 「 朕が憾みとするところなり 」 

・ 二・二六事件の収拾処置は自分が命令した 

天皇陛下は嘉し給わなかった
陛下の嘉し給わぬ行動は天人共に許さぬ行動であろうか
若し我々が天下の義に背いた行動をしたのであれば、
直ちに死するべきである
天皇陛下の為に国を憂えて身命を擲ったこの行動が、
陛下の逆鱗に触れ、そして逆徒になる
こんな馬鹿げたことがあろうか
我々は軍に入り陛下の大命により戦場に生命を捧げることを身上とした者である
しかも自ら進んで天下大義の為に立ったのだ
それにも拘わらずその義軍が叛徒として葬り去られたのだ
こんな悲しみがあろうか
天を仰いで長大息しても、この恨みは尽きるものではない
これは神に対する絶望であろうか  身震いするような恐怖であった
我々が蹶起した昭和維新の大義がこの世に存在の価値がないとすれば、
今日迄我々の生きてきた支えは壊滅してしまうのだ
・・・池田俊彦  大御心は一視同仁 
・・・大蔵栄一  身を挺した一挙は必ずや天皇様に御嘉納いただける  

私は今、
陛下を御叱り申上げるところ迄、精神が高まりました、
だから毎日朝から晩迄、 陛下を御叱り申して居ります
天皇陛下
何と云ふ御失政でありますか、
何と云ふザマです、
皇祖皇宗に御あやまりなされませ

・・・磯部淺一 獄中日記 (五) 八月廿八日 「 天皇陛下何と云ふザマです 」

こんな苦勞の多い
正義の通らん人生はいやだわい。
 
・・・西田税


二・二六事件 蹶起 二月二十九日 安藤輝三 『 農村もとうとう救えなかった 』

2024年02月29日 02時29分29秒 | 道程 ( みちのり )

・・・安藤は怒号した。
「 オーイ、俺は自決する、自決させてくれ 」
彼はピストルをさぐった。
磯部は背後から抱きついて彼の両腕を羽がいじめにした。
そして言った
「 死ぬのは待て、なあ、安藤! 」
安藤はしきりに振りきろうとしたが、磯部はしっかり抑えて離さなかった。
「 死なしてくれ、オーイ磯部 !  俺は弱い男だ。
いまでないと死ねなくなるから死なしてくれ、俺は負けることは大嫌いだ。
裁かれることはいやだ。
幕僚どもに裁かれる前にみずからをさばくのだ。死なしてくれ磯部 !  」
もがく安藤をとりまいて、号泣があちこちからおこった。
磯部は、
「 悲劇、大悲劇、兵も泣く 下士官も泣く 同志も泣く、涙の洪水の中に身をもだえる群衆の波 」
と、その情景を書きのこしているが、まさしくこの世における人間悲劇の極限というべきか。
伊集院少佐も涙にくれて、
「 オレも死ぬ、安藤のような奴を死なせねばならんのが残念だ 」
鈴木侍従長を拳銃で撃ち倒した堂込曹長が泣きながら安藤に抱きついた。
「 中隊長殿が自決なさるなら、中隊全員お伴いたします 」
「 おい、前島上等兵 ! 」
安藤は当番兵の前島が さっきから堂込曹長と一緒に彼にすがりついているのを知っていた。
「 前島 !  お前がかつて中隊長を叱ってくれたことがある、
 中隊長殿はいつ蹶起するんです。
このままでおいたら、農村は救えませんといってね、
農民は救えないな、
オレが死んだら、お前たちは堂込曹長と永田曹長を助けて、どうしても維新をやりとげてくれ。
二人の曹長は立派な人間だ、イイかイイか 」
「 曹長 !  君たちは僕に最後までついてきてくれた。ありがとう、後を頼むぞ 」
群がる兵隊たちが一斉に泣き叫んだ。
「 中隊長殿、死なないで下さい ! 」
「 中隊長殿、死なないで下さい ! 」
磯部は 羽がいじめの腕を少しゆるめながら、
「 オイ安藤、死ぬのはやめろ ! 
人間はなあ自分で死にたいと思っても神が許さぬときは死ねないのだ。
自分が死にたくなくても時が来たら死なねばならなくなる。
こんなにたくさんの人が皆 とめているのに死ねるものか、
また、これだけ尊び慕う部下の前で貴様が死んだら、一体あとあはどうなるんだ 」
と、いく度もいく度も、自決を思いとどまらせようと、説きさとした。
すると 次第に落ちつきをとりもどした安藤は、
やっと、
「 よし、それでは死ぬことはやめよう 」
と 言った。
磯部は安藤の羽がいじめをといてやった。
・・・「 中隊長殿、死なないで下さい ! 」 
・・・ 『 農村もとうとう救えなかった 』 2 


・・・前項 
二 ・ 二六事件蹶起 二月二十八日 澁川善助『 全国の農民が、可哀想ではないんですか 』 の 続き
二 ・ 二六事件蹶起 
2月29日 ( 土 ) 

午前2時頃   安藤部隊、幸楽~山王ホテルへ移動
 清原少尉、對馬中尉より包囲部隊が攻撃してくると聞き文相官邸の西側地区を警戒
午前2時頃  中橋部隊、1箇分隊を残し帰営す
午前2時30分  鈴木少尉、近衛聯隊から攻撃すると告げられる

午前3時過ぎ  陸軍省新聞班の大久保弘一少佐が偕行社を訪れ、
 軍事参議官らに下士官兵らへ向けた帰順勧告文の作成と配付を提案、攻撃開始の延期を要請す

午前3時頃  農相官邸で仮眠の磯部、鈴木少尉に起される・・「 奉勅命令が下ったらしいです 」
・・・村中孝次 「 奉勅命令が下されたことは疑いがない。大命に従わねばならん 」 
・・・
「 あの温厚な村中が起ったのだ 」 
・・・
兵に告ぐ 「 今からでも決して遅くない 」 


午前3時30分~4時頃  野中部隊、新国会議事堂へ
 清原3中隊は参謀本部、陸軍省
 常盤隊は平河町附近を警備

午前5時頃  鈴木少尉、 ラジオで奉勅命令を聞く
午後5時30分  戒厳司令部、戒厳区域の一切の交通を停止す
午前6時頃  小藤大佐、山王ホテルへ来る ・・・
「 声をそろえて 帰りたくない、中隊長達と死にます 」 

午前6時20分  武力鎮圧の旨ラヂオ発表さる ・・・兵に告ぐ 「 今からでも決して遅くない 」 
磯部、夜明  ラジオで奉勅命令を聞く
午前6時25分  戒厳司令部、武力鎮圧の告諭を発す
『 反乱部隊は奉勅命令に抗する叛乱部隊 』 ・・・「 断乎、反徒の鎮圧を期す 」 

午前7時10分  戒厳司令部、麹町区、千代田区の一部住民に対して避難命令を出す
午前7時30分頃  田中隊、一酸化炭素中毒に・・・10時頃蘇生す

午前8時  「 下士官兵ニ告グ 」 のビラを三宅坂上空で撒く

午前8時頃  栗原中尉、陸相官邸へ

・・・払暁を破るかのように鎮圧軍の陣地から気ヲツケラッパが亮々として鳴り響いた。
我々も戦闘態勢に入る。
いよいよ楠軍と足利軍との戦いが始まるのだ。
そのような緊迫した所に大隊長伊集院少佐がやってきて血を流さんうちに帰隊せよと盛んに説得したが
安藤大尉は頑として拒否し
「 そのお心があったら軍幕を説いてくれ 」
と 絶対に動こうとしなかった。正に大尉の気魄は鉄の如く固まっていたのである。
鎮圧軍の包囲網が刻々迫ってきた。
これを見た大尉は軍刀を引抜き  「 斬るなら斬れ、撃つなら撃て、腰抜け共!」
と 叫びながら突進しはじめた。
私たち五人の兵隊も銃を構えてあとに続く。
もし中隊長に一発でも発射すれば容赦せずと追従したが鎮圧軍は一人として手向かう者はいなかった。
程なく電車通りで歩兵学校教導隊の佐藤少佐と顔が合った。
すると安藤大尉は
「 佐藤少佐殿、歩兵学校当時は種々お世話になりました。
このたび貴方がたは何故我々を攻撃するのですか、
我々は国家の現状を憂いて、ただ大君の為に起ったまでです。
一寸の私心もありません。
そのような我々に刃を向けるよりもその気持ちで幕臣を説いて下さい。

私は今初めて悟りました。重臣を斬るのは最後でよかったと・・・・。
そして先ずもって処置するのが幕臣であった。自分の認識が不足であった点を後悔しています 」

「 歩兵学校では種々有益な戦術を承りましたが、それを満州で役立てることがて゛きず残念です 」
安藤大尉の意見に佐藤少佐は耳をかたむけていたが、果たしてどのように受けとめたことであろうか。
少佐は教導隊の生徒を率いて鎮圧軍に加わっていたのである。
次いで歩三、第十一中隊長浅尾大尉がやってきた。
「 安藤大尉、お願いだから帰ってくれ 」
「 浅尾大尉殿安藤は帰りませんぞ。
陛下に我々の正しいことがお判り頂くまでは帰るわけには参りません。
十一中隊は思い出の中隊でした。帰りましたら十一中隊の皆さんによろしく伝えて下さい。
木下特務曹長をよろしくお願いいたします 」
二人が話している所へ戦車が接近してきた。
上空には飛行機が飛来し共にビラを撒きはじめた。
これを見た中隊長は憤然として 「 こんなことをするようでは斬るぞ 」 と叫んだ
・・・ 『 農村もとうとう救えなかった 』 2 

午前8時頃  安藤大尉、山王ホテル前の都電軌道上で伊集院少佐と対決す ・・・丹生部隊の最期
午前8時頃  山王ホテル前に戦車来て投降勧告、上空よりビラ撒き ・・・
丹生誠忠中尉 「 昭和維新は失敗におわった。 まことに残念である 」 
午前8時30分  坂井部隊、帰順・・・坂井、高橋、麦屋、陸相官邸に

午前8時55分  「 兵に告ぐ 」 を繰返しラジオで放送す ・・・・兵に告ぐ 「 今からでも決して遅くない 」 

午前9時頃  坂井、高橋、麦屋、 野中、常盤、鈴木、清原他、陸相官邸へ 
午前9時  小藤大佐、首相官邸へ来る

午前9時30分頃  警視庁方面の反乱部隊の一部が帰順、以後、各方面での帰順が相次ぐ
午前9時30分  丹生部隊帰順決定

午前10時頃   香田大尉、安藤大尉と協議、帰順する丹生部隊を呼び戻す ・・・「 声をそろえて 帰りたくない、中隊長達と死にます 」 
 磯部浅一、鉄道大臣官邸~首相官邸へ  栗原中尉と会う
 磯部浅一、首相官邸~陸相官邸へ戻る  途中農相官邸附近で坂井中尉と会う

午前10時  中橋部隊の残余1箇分隊、帰営 ・・中橋中尉は陸相官邸へ
午前11頃  歩三第7中隊 常盤少尉、中隊全員に別離の訓示 ・・・常盤稔少尉、兵との別れ 「 自分たちは教官殿と一心同体であります 」
午前11時頃  栗原、村中、磯部 丹生、竹嶌、對馬、田中、山本、山王ホテルへ集まる
 栗原、磯部、安藤に会し協議、  協議の結果部隊は原隊復帰とす 香田は陸相官邸へ
 林少尉、池田少尉、陸相官邸へ・・・丹生中尉 「 手錠までかけなくても良いではないか 」 

正午近い頃  清原少尉、第三中隊を引率し歩兵第三聯隊に帰営 ・・・帰順 ・ 沿道の群集 「万歳! 蹶起部隊万歳!」 
正午頃  栗原中尉、兵に解散命令下す・・・一人陸相官邸へ
正午  安藤大尉以外の全将校、陸相官邸に集合 ・・・
「 お前たちの精神は、この山下が必ず実現して見せる 」 
 山本又、腹痛甚だしく鉄相官邸にて休養後安藤大尉を山王ホテルに訪ふ、爾後山王神社に到り其の裏林に明す、
 磯部、村中、田中 陸相官邸へ戻ったところ拘束さる

午後0時30分  安藤大尉、自決せんとす ・・・行動記 ・ 第二十四 「 安藤部隊の最期 」 

午後0時50分  叛乱部隊将校、免官


一三・〇〇頃、

歩一香田部隊が武装解除して帰ろうとしていた。
それを見た安藤大尉が憤り香田大尉に詰め寄った。
「 帰りたいなら帰れ、止めはせん、六中隊は最後まで踏止まって闘うぞ。
陛下の大御心に我々は尊皇軍であることが解るまで頑張るのだ
昭和聖代の陛下を後世の物笑いにしない歴史を作るために断乎闘わねばならない
この言葉に香田大尉は感激したらしく、意を翻して最後まで闘うことを誓い再び陣地についた。
我々はここで志気を鼓舞するために軍歌を高唱した。
その声は朗々として山王ホテルを揺るがした
最期まで中隊長の命を奉じて闘い そして死んでゆく気概がありありと感じられた。
・・・ 『 農村もとうとう救えなかった 』 2 

午後1時頃  丹生部隊 ( 歩一第十一中隊 ) 神谷曹長引率で帰営 ・・・丹生部隊の最期 

丹生中尉は陸相官邸に到る・・・丹生中尉 「 手錠までかけなくても良いではないか 」 

午後1時30分  野中部隊 ( 歩三第七中隊 )  帰営の途に就く ・・・野中部隊の最期 「 中隊長殿に敬礼、頭ーッ右ーッ 」 

午後2時過  陸相官邸で野中大尉自決 ・・・野中四郎大尉の最期 『 天壌無窮 』 
午後2時30分頃  安藤大尉のもとに野中大尉自決の報が入る ・・・リンク→叛徒の名を蒙った儘、兵を帰せない

午後3時頃  安藤大尉自決
・・・「 何をいうか、この野郎、中隊長を殺したのは貴様らだぞ!」 

午後3時  戒厳司令官事件の集結を宣言す
午後3時頃  田中中尉、安田少尉、陸相官邸に


白襷を掛け 『 尊皇討奸 』 の 幟を持って帰隊途中の蹶起部隊
中隊長を失った第六中隊は、
歩三第五中隊代理の小林美文中尉がトラック三台を率いて迎えに来たが、
堂込曹長はこれを断り、永田曹長と共に中隊を指揮して堂々と行軍で帰隊することにした
それは 中隊長の志を継いだ 堂込曹長 最後の抵抗である
沿道の市民は黒山の人手となって六中隊を歓迎し、
知人の兵の名を呼ぶ者、中隊を激励する者などがあって大変な騒ぎであった
それは さながら討入を終えた赤穂浪士の泉岳寺への引揚を彷彿させるものであった

午後5時  安藤部隊、帰営

午後5時  陸相官邸、石原大佐 「 君等は自首したのか 」
午後6時  将校以下全員 衛戍刑務所に収容さる

同志将校は
各々下士官兵と劇的な訣別を終わり、
陸相官邸に集合する。
余が村中、田中 と 共に官邸に向ひたる時は、
永田町台上一体は既に包囲軍隊が進入し、勝ち誇ったかの如く、喧騒極めている。
陸相官邸は憲兵、歩哨、参謀将校等が飛ぶ如くに往来している。
余等は広間に入り、
此処でピストルその他の装具を取り上げられ、軍刀だけの携帯を許される。
山下少将、岡村寧次少将が立会って居た。
彼我共に黙して語らず。
余等三人は林立せる警戒憲兵の間を僅かに通過して小室にカン禁さる。
同志との打合せ、連絡等すべて不可能、余はまさかこんな事にされるとは予想しなかった。
少なくも軍首脳部の士が、
吾等一同を集めて最後の意見なり、希望を陳べさして呉れると考へてゐた。
然るに血も涙も一滴だになく、自決せよと言はぬばかりの態度だ。
山下少将が入り来て 「覚悟は」 と 問ふ。
村中 「天裁を受けます」 と 簡単に答へる。
連日連夜の疲労がどっと押し寄せて性気を失ひて眠る。
夕景迫る頃、
憲兵大尉 岡村通弘(同期生)の指揮にて、数名の下士官が捕縄をかける。
刑務所に送られる途中、
青山のあたりで 昭和十一年二月二十九日の日はトップリと暮れてしまふ。

・・・
行動記 ・ 第二十五 「 二十九日の日はトップリと暮れてしまふ 」


「 これからが御奉公ですぞ。しっかり頑張ろう 」 

・・・目次頁  『 昭和維新の春の空 』 青年将校達の正義は通らなかった に 戻る


二 ・ 二六事件蹶起 二月二十八日 澁川善助『 全国の農民が、可哀想ではないんですか 』

2024年02月28日 10時47分39秒 | 道程 ( みちのり )



・・・前項 二 ・ 二六事件蹶起 二月二十七日 『 國家人無シ 勇將眞崎アリ、正義軍速ヤカニ一任セヨ 』  の続き
二 ・ 二六事件蹶起 
2月28日 ( 金 ) 
午前3時  小藤大佐、鈴木大佐、山口大尉、柴大尉、戒厳司令部に於て戒厳司令官と会見 、意見具申す
・・・ 山口大尉、午前6時迄戒厳司令部に留まる
 ・・・彼らは朕が股肱の老臣を殺戮したではないか 
・・・
山口一太郎大尉の四日間 4 「 奉勅命令が遂に出た 」 
午前5時8分  奉勅命令 が発令さる

早朝  西田税宅へ原宿署の特高が押掛ける・・澁川追い返す→ 澁川、幸楽へ向かう
うちに 原宿署の特高が来たのです。
そしていきなり玄関に上がり込んだのです。
「 西田さんいますか 」
「 おりません 」 と言いましたら
「 家宅捜索をする 」 と言って、それで私と押し問答しましたときに澁川さんが出てきたのです。
令状を持ってないのに土足で踏み込むとは何ごとか、家宅侵入罪で訴えてやる、
そんなもの出ているはずがないから、いま首相官邸に電話をかけて聞くから待っておれ、
と言ったら、原宿署の特高が逃げて帰っちゃったんです。
半信半疑で来たんですね。原田警部という方でしたが、逃げて帰ったんです。
それから澁川さんが様子が変だというので出られたのです
。 ・・・西田はつ

午前6時頃  村中、香田大尉、陸相官邸に小藤大佐に会う
磯部浅一、憲兵隊神谷少佐と戒厳司令部へ行く ( 農相官邸 → 軍人会館 )
磯部浅一、香椎司令官に面談叶わず、石原大佐、満井中佐と会談 ・・・
行動記 ・ 第二十 「 君等は 奉勅命令が下ったらどうするか 」 
香田大尉、村中、對馬中尉、外1名、第一師団司令部で佐藤正三郎少将と会う
午前6時頃  第5中隊小林美文中尉、 幸楽の安藤大尉に面会 ・・・
小林美文中尉 「 それなら、私の正面に来て下さい。弾丸は一発も射ちません 」 
午前6時45分  山本又少尉、単身戒厳司令部を訪れる
午前7時頃  山口大尉、偕行社に真崎、荒木に会う
午前7時10分頃  山本又少尉、新国会議事堂へ至り蹶起将校を集める
午前7時30分頃  満井中佐、香椎司令官の斡旋で川島陸相、杉山参謀次長に会見を申入れる ・・・
満井佐吉中佐の四日間 
午前8時頃 
戒厳司令部で満井中佐と川島陸相、古荘陸軍次官、今井清軍務局長、
杉山参謀次長、香椎戒厳司令官、安井戒厳参謀長、林銑十郎大将、荒木大将ら軍首脳が協議
昭和維新断行か否かの上奏案が読上げられるが、杉山参謀次長の強硬な反対で却下さる ・・・
撤回せる上奏案 
午前8時頃  小藤大佐、奉勅命令の原本と第一師団命令 ( 一師戒令第三号 二月廿八日午前六時三十分発令 ) 受領す
午前8時45分  磯部、神谷憲兵少佐と同行し戒厳司令部へ・・大臣に面会希望・・許されず
午前9時頃  陸相官邸に蹶起将校集合  野中、香田、山口、對馬、清原、鈴木、他多数
午前9時20分頃  神谷憲兵少佐に案内され磯部、戒厳司令部に赴く
午前9時20分頃  幸楽へ集合の呼びかけ  
鈴木少尉、村中と共に自動車で幸楽へ
 「 部隊を離れてはいかん 」 と、安藤大尉に叱られ村中の自動車で文相官邸に戻る
午前  村中、香田、對馬、第一師団司令部へ赴く ・・・リンク→行動記・第二十一 統帥系統を通じてもう一度御上に御伺い申上げよう
午前10時頃  澁川善助、幸楽に到着・・坂井部隊と行動を共にする
午前10時頃  村中孝次、安藤大尉に吉報を持ってくる。
 「 闘いは勝った。われらに詔勅が下るぞ、全員一層の闘志をもって頑張れ 」
午前10時10分頃  戒厳司令官 ・ 香椎浩平
「 私の決心は 変更いたします。討伐を断行します 」
午前10時40分頃  第一師団長堀丈夫中将、戒厳司令部に招致せらる
 其の後、香椎司令官の承諾を得て皇軍相撃を避ける為に陸相官邸に向かう
午前11時頃  杉山参謀次長参内、本庄侍従武官長に反乱部隊の武力討伐方針が決定した旨を報告
午前11時頃  田中中尉、車輌隊を指揮して首相官邸へ
正午 清原少尉、陸相官邸に集合・・・幸楽の安藤大尉の許へ・・・蔵相官邸へ戻る、夜三宅坂の警備
正午過  戒厳司令部に反乱将校は自決し、下士官兵は原隊復帰するとの報告が入る
正午頃  村上大佐、幸楽の安藤大尉を訪ね 「 維新大詔 」 の原稿を見せ撤退を諭す
午後1時~2時頃
陸相官邸で 栗原、野中、磯部、山下少将、鈴木大佐、山口大尉、柴大尉、現状打開に付懇談す
「 勅使の誤差遣を願ふ 」 ・・・行動記 ・ 第二十一 「 統帥系統を通じてもう一度御上に御伺い申上げよう 」 
村中孝次、安藤大尉に 「 今までの形勢はすっかり逆転した。もう自決する以外道はなくなった 」 と告げる
島陸相、山下少将、本庄侍従武官長を訪問し、蹶起将校が自刃するための勅使派遣を要請する
・・・強い天皇の拒否意志によって、先に正式に下達された 「 陸軍大臣告示 」 の運命は、
その時点において実質的に消滅したのであるが、
下達された蹶起将校、部隊側においては依然確固として生存していたのである。
得々と胸をはって 「 陸軍大臣告示 」 を三度、読みあげた山下少将の五カ条の告示文の内容は、
蹶起趣旨精神を是認し、天聴に達し、軍、政府共一致してその目的達成に邁進するとある。
これが何の理由によって撤回されたかを、いかにして蹶起将校、部隊に納得説示するためには、
天皇の反対意志を表面に持出さない限り絶対的に不可能のことであったろう。
天皇のために、国家国民のために蹶起した彼らに、
朕自ら近衛師団を率いて鎮圧するとまで激怒された天皇の意志を秘しては
いかにして彼らを説得させることができるであろうか。
至難のことであった。
そのため軍当局としては、ただ、何も言わずに、原隊復帰を説得、懇請することに奔命した。
一命を賭して蹶起して今に至った彼らである。
理由をいわず、原隊復帰、部隊撤収の要請に応諾することなどあり得ないことであった。
ことに最初の時点から蹶起将校との折衝に当っていた山下少将は、
この百八十度の大変転の事態に直面して、いかに対処すべきかの苦衷は察するに余りあるものがあった。
蹶起前に訪れた栗原中尉に、やるのなら早いほうが良い、と 語ったその栗原がいま眼前に対峙している。
帰順を哀願する山下の前に栗原の手が伸びた。
しかと握られた掌を通じて栗原の決意が伝えられた。
すでに事態推移の実状を知る栗原は、まはや蹶起完敗を知悉し、
この上は自決をもって責任を果したい、
最後の願いは、自決に当ってせめて勅使の御差遺を仰ぎたい
との懇願であった。
帝国軍人として死に臨む最後の願望であったろう。
これを聞いて山下少将は、差出す栗原の手を固く握りしめて感激の涙を浮かべた。
口では 「 ありがとう 」 と いったかは確かめるに由ないが、
山下の心中の安堵は充分に察せられる。
「 承知した、私が責任をもって申出でに善処する。ただちに宮中に参内する 」
と、山下は官邸を出た。複雑な心境であったろう。
山下は宮中に本庄侍従武官長を訪ねた。この山下、本庄会見の結果が栗原らに伝えられた記録はない。
しかし、栗原らの決意が、磯部や安藤らの反対意見によってくつがえされるのである。
すでに、自決の決意表明によって、当局による逸早い措置によった白木の棺、二十数個も宙に浮いてしまった。
磯部らは、今、全将校が自決したら、蹶起の目的、精神は何によって、誰によって国民に訴えることができるか。
蹶起の挫折を死によって償うことは武人として立派な最期であろう、
しかし我々の蹶起の目的は、完敗によって滅却するような安易なねのではない、
敗北による死を乗越えて、生のあらん限り闘い抜くことが当初からの信念である。
來るべき軍法会議の法廷闘争において、死を賭して 国民の前に、蹶起の真精神、尊皇護国昭和維新達成の真意を
開陳披瀝することに
最後の全力を傾けるべきである、と 説いた。 
・・・ 二・二六事件の収拾処置は自分が命令した 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昨夜 安藤と会ったあの応接室には、十数名の将校が集っていた。
安藤も坂井も鈴木もいた。勿論 見馴れぬ将校もいた。
わたくしがそこに這入って行くや、坂井に話す隙もあらばこそ、忽ち数名の者から、
「何うだ、何うだ」 と、質問の矢を浴びてしまった。
これは余り様子が違う。
野中や坂井が誰と交渉したのか、それさえも知らぬわたくしである。
ただ知っているのは奉勅命令のことである。
「 奉勅命令が出たんです。お帰りになるんでしょう 」
わたくしは慰撫的にそう云った。
これはかれらには意外だったらしい。
「 何が残念だ、奉勅命令が何うしたと云うのだ、余りくだらんことを云うな 」
歩兵第一旅団の副官で、事件に参加した香田大尉がこう叫んだ。
かれらはまだ自分の都合のよい大詔の渙発を期待しているのだ。
奉勅命令については全然知らない。
わたくしは茫然立っているだけであった。
この時 紺の背広の澁川が 熱狂的に叫んだ
 
「 幕僚が悪いんです。幕僚を殺るんです 」
一同は怒号の嵐に包まれた。
何時の間にか野中が帰って来た。
かれは蹶起将校の中の一番先輩で、一同を代表し軍首脳部と会見して来たのである。
「 野中さん、何うです 」
誰かが駆け寄った。それは緊張の一瞬であった。
「 任せて帰ることにした 」
野中は落着いて話した。
「 何うしてです 」
澁川が鋭く質問した。
「 兵隊が可哀想だから 」
野中の声は低かった
「 兵隊が可哀想ですって・・・・。全国の農民が、可哀想ではないんですか 」
澁川の声は噛みつくようであった
「 そうか、俺が悪かった 」
野中は沈痛な顔をして呟くように云った。
・・・全国の農民が可哀想ではないんですか

午後1時頃 安藤部隊、白襷をして戦闘準備す
村中、新国会議事堂南角路上で堀第一師団長の自動車と遭遇す
午後2時頃 文相官邸の鈴木少尉の処へ清原少尉来る →  清原少尉に促されて鈴木少尉、円タクで警戒区域を巡回す
午後2時頃  磯部、田中隊と栗原部隊の一部を率いて閑院宮邸附近を警戒 ・・・
行動記 ・ 第二十二 「 断乎 決戦の覚悟をする 」 
午後2時40分頃  秩父宮邸で森田大尉が現状報告す
秩父宮殿下ノ歩兵第三聯隊ニ賜リシ御言葉
一、今度ノ事件ノ首謀者ハ自決セネバナラヌ。
二、遷延スレバスル程、皇軍、国家ノ威信ヲ失墜シ、遺憾ナリ。
三、部下ナキ指揮官 ( 村中、磯部 ) アルハ遺憾千万ナリ。
四、縦令軍旗ガ動カズトスルモ、聯隊ノ責任故、今後如何ナルコトアルモミツトモナイコトヲスルナ。
      聯隊ノ建直シニ将校団一同尽瘁セヨ。


午後3時頃  安藤部隊、下士官兵遺書を書く
午後4時 (2時) 頃  坂井部隊、幸楽を出て参謀本部へ
参謀本部を占領敵わず、陸軍省、参謀本部を配備 ・・坂井中尉、澁川善助は陸相官邸へ
午後
蹶起部隊本部から行動部隊下士官兵に檄文を配布 

午後4時  戒厳司令部に蹶起将校、下士官兵は帰順せずとの報告が入る
午後4時30分頃  西田税、首相官邸の栗原中尉に電話す
午後4時30分頃  安藤大尉、府立一中を視察す

夕方  栗原中尉、西田税宅へ電話する 
首相官邸から電話がかかってきまして
「 いろいろ長い間お世話になりましたけれども、奥さん、これが最後です 」

・・・西田はつ 回顧 西田税 2 二・二六事件

午後5時30分 
第一師団参謀長 舞伝男大佐、歩三聯隊長渋谷大佐、森田大尉、農相 ( 文相 ) 官邸に野中大尉 ( 傍に村中 )、幸楽の安藤大尉を訪ね帰順を説得
・・・
「 私は千早城にたてこもった楠正成になります 」 
午後6時 
香田大尉、陸相官邸に小藤大佐を訪問情況を聞く → 香田大尉、第一師団司令部に於て師団長に面接
陸軍大臣通達
陸密一三三号
事件に関する件 ( 二月二十八日午後六時 )
昭和十一年二月二十八日
陸軍大臣    川島義之
第一師団長殿
今次三宅坂占拠部隊幹部行動ノ動機ハ、
国体ノ真姿顕現ヲ目的トスル昭和維新ノ断行ニアルト思考スルモ
其行動ハ軍紀を紊リ国法ヲ侵犯セルモノタルハ論議ノ余地ナシ、
当局ハ輦轂れんこくノ下、同胞相撃ツノ不祥事ヲ可也避ケ、
為シ得レバ流血ノ惨ヲ見ズシテ事件ヲ解決セントシ、
万般ノ措置ヲ講ジタルモ未ダ其目的ヲ達セズ
痛ク宸襟ヲ悩シ奉リタルハ寔ニ恐悚恐懼ノ至リニ堪エズ、
本職ノ責任極メテ重且大ナルヲ痛感シアリ
陛下ハ遂ニ戒厳司令官ニ対シ最後ノ措置ヲ勅命セラレ
戒厳司令官ハ此勅令ニ反スルモノニ対シテハ仮令流血ノ惨ヲ見ルモ断乎タル処置ヲ執ルニ決心セリ
事此処ニ至ル、順逆ハ自ラ明瞭ナリ、
各師団長ハ此際一刻モ猶予スルコトナク所要ノ者ニ対シ、
要スレバ適時断乎タル処置を講ジ後害を胎サザルニ違算ナキヲ期セラレ度


夜になって  磯部、常盤、鈴木隊と行動を共にす
坂井 ・清原隊が陸軍省、参謀本部附近、磯部が陸相官邸附近、野中部隊は新議事堂に配備す
宵  磯部、同期生宇田に電話す・・・ 「 しかし 今となっては駄目かもしれんな
午後7時20分頃  山本又少尉、戒厳司令部へ

夜  幸楽での演説 ・・・栗原中尉、安藤大尉、中橋中尉、6中隊下士官
« 栗原中尉の演説 »
々同志が蹶起したのは
天皇と臣民の間に居る特権階級たる重臣財閥官僚政党等が
私心を慾しい侭に
人民の意志を 陛下に有りの侭を伝へて居ない
従って日本帝国を危くする
吾々の同志は已む無く 非常手段を以て今日彼等の中枢を打砕いたのである
吾々同志は皆 今夜死ぬ
諸君は吾々同志の屍を乗りこえて 飽迄も吾々の意思を貫徹して貰いたい
諸君は何れに組するや
栗原中尉がこのように問いかけると、
群衆より
討奸軍万歳 
と 云う者がありました
後は諸君と共に天皇陛下万歳を三唱します
と云って栗原中尉は
天皇陛下万歳  
と 発声しました処
其後で群衆中に
尊皇討奸万歳
 と 唱いたるものあり 群衆は之に三唱しました
・・・
幸楽での演説 「 できるぞ! やらなきゃダメだ、モットやる 」 
・・・中橋中尉 ・ 幸楽での演説 「 明朝決戦 やむなし ! 」 
・・・
下士官の演説 ・ 群集の声 「 諸君の今回の働きは国民は感謝しているよ 」 

午後8時 
香椎戒厳司令官、29日午前5時以降に攻撃できるように準備せよとの命令
北一輝、憲兵隊に逮捕さる


・・・追い詰められた事件の首謀者の1人、磯部浅一が
天皇を守る近衛師団の幹部と面会して、
「 何故(なぜ)に貴官の軍隊は出動したのか 」 と問い、
天皇の真意を確かめるかのような行動をしていたことも詳しく書き留められていた。
攻撃準備を進める陸軍に、決起部隊から思いがけない連絡が入る。
「 本日午後九時頃 決起部隊の磯部主計より面会したき申込あり 」
「 近衛四連隊山下大尉 以前より面識あり 」
決起部隊の首謀者の一人、磯部浅一が、陸軍・近衛師団の山下誠一大尉との面会を求めてきたのだ。

磯部の2期先輩 ( 36期 ) で、親しい間柄だった山下。
山下が所属する近衛師団は、天皇を警護する陸軍の部隊だった。
追い詰められた決起部隊の磯部は、天皇の本心を知りたいと、山下に手がかりを求めてきたのだ。
磯部  「 何故に貴官の軍隊は出動したのか 」

山下  「 命令により出動した 」
山下  「 貴官に攻撃命令が下りた時はどうするのか 」
磯部  「 空中に向けて射撃するつもりだ 」
山下  「 我々が攻撃した場合は貴官はどうするのか 」
磯部  「 断じて反撃する決心だ 」
天皇を守る近衛師団に銃口を向けることはできないと答えた磯部。
しかし、磯部は、鎮圧するというなら反撃せざるを得ないと考えていた。
山下は説得を続けるものの、二人の溝は次第に深まっていく。
山下  「 我々からの撤退命令に対し、何故このような状態を続けているのか 」

磯部  「 本計画は、十年来熟考してきたもので、なんと言われようとも、昭和維新を確立するまでは断じて撤退せず 」
もはやこれまでと悟った山下。
ともに天皇を重んじていた二人が、再び会うことはなかった。 
昭和維新の断行を約束しながら、
青年将校らに責任を押し付けて生き残った陸軍。
事件の裏側を知り、決起部隊とも繫がりながら、
事件とのかかわりを表にすることはなかった海軍。
極秘文書から浮かび上がったのは二・二六事件の全貌。
そして、不都合な事実を隠し、自らを守ろうとした組織の姿だった
・・・私の想い ・ 二・二六事件 「 昭和維新は大御心に副はず 」 

午後9時頃  近歩四の山下大尉、磯部と会見  
・・・行動記 ・ 第二十三 「 もう一度、勇を振るって呉れ 」 
丹生隊  終日 山王ホテル ・・・村中孝次 「 奉勅命令が下されたことは疑いがない。大命に従わねばならん 」 
夜半  香田大尉、山王ホテルへ →村中、對馬、山口と共に安藤大尉の幸楽に集合
夜  磯部浅一、山本又少尉、村中、鈴木隊と共に鉄相官邸に宿泊、 常盤少尉は文相官邸
午後10時  堀第一師団長、小藤大佐に対して蹶起部隊への指揮を外すと命令
 ・・・「 小藤大佐ハ爾後占拠部隊ノ将校以下を指揮スルニ及バズ 」 
午後10時頃  常盤少尉、酒肴を持って文相官邸の鈴木少尉の室へ
午後11時  戒厳司令部 「 戒作命第14号 」 を発令
 「 29日午前5時までに準備完了し、住民を避難させたあと午前9時を期して叛乱部隊を攻撃と命令す 」

・・・次頁  
二・二六事件 蹶起 二十九日 安藤輝三 『 農村もとうとう救えなかった 』 に 続く


二 ・ 二六事件蹶起 二月二十七日 北一輝 『 國家人無シ 勇將眞崎アリ、正義軍速ヤカニ一任セヨ 』 

2024年02月26日 18時39分53秒 | 道程 ( みちのり )

・・・前項 二・二六事件蹶起 二月二十六日 『 諸子ノ行動ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム 』  の 続き

二 ・ 二六事件蹶起 
2月27日 ( 木 ) 
午前2時頃  陸相官邸に於て軍事参議会と会談、結論出ない侭終了 ・・ 村中、香田、磯部、野中、栗原、對馬、竹嶌
午前2時頃  石原大佐、橋本大佐、満井中佐、亀川哲也 帝国ホテルで会談
午前3時頃  村中、亀川哲也、満井佐吉中佐、帝国ホテルへ
龜川がボーイに案内されて一室に入ると、
そこには満井、橋本、田中その他二、三名の將校、それに右翼浪人の小林長次郎がいた。
満井が龜川にこれまでのいきさつを説明したのち、
「 この際、山本大將に出てもらうことが一番よいということに意見の一致を見た。
そこで石原大佐から杉山次長に電話して、これが諒解を得た。
次長は機を見てこれを上聞に達するということになっている。
ついては山本大將と親交のあるあなたに意見を伺うと思って來ていただいたのです 」
「 それはいいでしょう。
 だが、それにはまず部隊の引きあげが先決ではないでしょうか、
蹶起部隊は一応目的を達したのだから、
いつまでも首相官邸や陸相官邸を占拠していてはいけません。
彼らは速やかに現在の場所から撤去させなければなりません 」
と 龜川は問題を投げた。
この龜川の意見には満井も橋本も同意し、
部隊を戒厳司令官の指揮下に入れて警備区域はそのままとして歸隊せしめよう、
と 提案、
一同それがよかろうということになり、
満井は車を陸相官邸にやり 村中 をよんできた。
村中を説得して引きあげさせようとしたのだ。
龜川はこの村中説得の事情をつぎのように述べている。
「 そこで満井と私は村中を別室に呼び、
 まず私から目的を達したかと聞きますと村中は達しましたという返事なので、
私はそれでは早く引きあげればよいではないか、といいますと、
村中は、事態をどうするか決まらないのに引きあげるわけにはいかない、との返事でした。
私は引きあげさえすれば事態は自然に収拾されるのだ、といいました。
この時、満井は、
≪ 部隊を戒嚴司令官の指揮に入れ警備区域は現場のままとする ≫
という条件を持ち出し、早く引きあげた方がよいと話したので、
村中は
引きあげるということは重大だから 外の者にもいわなくてはならん、

そして西田にも相談しなくてはならん
と いいました。

この時私から 西田の方は私が引き受けるから、
若い人たちの方は君が引き受けて早速引きあげてくれ、と話ました。
すると村中は
歸りましたら早速引きあげにとりかかりましょう

ということで
わずかな時間で話がまとまって村中は帰って行きました」
( 憲兵調書 )
こうして彼らはこの協議をおえて帝國ホテルを出た。
もう夜が明けかかっていた。
満井はその足で戒嚴司令部に赴き、石原参謀を訪ね、右の顚末を傳え、
さらに、
「 維新内閣の實現が急速に不可能の場合は、
 詔書の渙發をお願いして、建國精神の顯現、國民生活の安定、
國防の充實など國家最高のご意思を広く國民にお示しになることが必要である。
そしてこれに呼応して速やかに事態の収拾を計られるよう善処を希望する 」
龜川はホテルから自宅にかえったが、そこで山本大將と久原に右の報告をした。
それから眞崎邸を訪問したが不在だったので車を海軍省に向けここで山本大將に會い、
組閣の心組みをするよう申言したが、山本は相手にしなかった。
八時頃 北一輝邸に西田税を訪ね帝國ホテルにおける部隊引上げの話をした。
西田は憤然として、
「 そんなことをしては一切ぶちこわしだ、一体誰の案か、村中は承諾したのか 」
と 詰問した。
龜川が、大体承諾したようだと口をにごすと、西田はすっかり考え込んでしまった。 ・・・帝国ホテルの会合

村中、陸相官邸で撤退を協議、野中、香田、安藤、磯部、栗原  

帝國ホテルで部隊の撤退を約束した村中は
二十七日朝
陸相官邸の廣間で野中、香田、安藤、磯部、栗原らとともに 部隊の引きあげについて協議した。
だが、意見は硬軟二派にわかれた。
村中は同志部隊を引きあげよう、皇軍相撃はなんとしても出來ない、
と 撤退を説いたが、
磯部 は激昂を全身にたぎらかし、
「 皇軍相撃がなんだ、相撃はむしろ革命の原則ではないか、
 もし同志が引きあげるならば俺は一人になってもとどまって死戰する 」

と 叫ぶ。
安藤もまた、
「 俺も磯部に賛成だ。維新の實現を見ずに兵を引くことは斷じてできない 」
と 鞏硬だった。
磯部としては もし情況惡化せば田中隊と栗原隊をもって出撃し、
策動の本拠と目される戒嚴司令部を轉覆する覺悟だった。
とうとう磯部は怒って栗原と一緒に首相官邸に引きあげてしまった。・・・「 国家人無し、勇将真崎あり 」



午前2時20分  戒厳を宣告
午前2時40分  枢密院が戒厳令の施行を決定す
午前3時50分  東京市に戒厳令公布

午前4時40分  戒厳司令部より 「 戒作令第一号 」が下令さる
戒作命第一號  
命令  ( 二月二十七日午前四時四十分 於 三宅坂戒嚴司令部 )

一、今般昭和十一年 勅令第十八、第十九號ヲ以テ
 東京市ニ戒嚴令第九、第十四條ノ規定ヲ適用セラルルト同時ニ、
 予ハ 戒嚴司令官ヲ命ゼラレ 從來ノ東京警備司令官指揮部隊ヲ指揮セシメラル

二、予ハ 戒嚴地域ヲ警備スルト共ニ、地方行政事務及司法事務ノ軍事ニ關係アルモノヲ管掌セントス、
 適用スベキ戒嚴令ノ規定ハ第九條及第十四條第一、第三、第四ト定ム
三、近衛、第一師團ハ夫々概ネ現在ノ態勢ヲ以テ警備ニ任ズベシ
四、歩兵第二、第五十九聯隊ノ各一大隊及工兵十四大隊ノ一中隊
 竝陸軍自動車學校ノ自動車部隊ハ、依然現在地ニ在リテ後命ヲ待ツベシ

五、憲兵ハ前任務ヲ續行スルノ外、特ニ警察官ト協力シ戒嚴令第十四條第一、第三、第四の實施に任ズベシ
六、戒嚴司令部ハ本二十七日午前六時九段軍人會館ニ移ル
戒厳司令官  香椎 浩平
下達法  命令受領者ヲ集メ印刷セルモノヲ交付ス

軍隊區分
麹町地區警備隊
  長 歩兵第一聯隊長 小藤大佐
二十六日朝來出動セル部隊


蹶起部隊、麹町地区警備隊に編入せられ、戒厳令下での治安維持任務に就く
午前5時頃  三宅坂の安藤大尉の許へ、柴有時大尉来訪す


午前6時  戒厳司令部が九段の軍人会館に移る
午前7時  田中隊、陸相官邸から首相官邸へ移動
午前8時  丹生部隊、歩哨を残し主力は新国会議事堂 (  新議事堂附近に集結待機 ) に移る 
午前8時15分  「戒作令第一号 」 が発表さる
午前8時20分  昭和天皇 奉勅命令を裁可 ( 発令は28日午前5時8分 )


主力を新議事堂附近に集結
午前9時頃  警視庁附近警戒の野中部隊 鈴木少尉 ( 歩三第10中隊 )、新国会議事堂に集合
午前9時頃  西田税、首相官邸の磯部に電話 ・・北一輝の 「 霊告 」 を伝える
二月二十七日朝
北ノ靈感ニ、
 『 國家人無シ、勇將眞崎アリ、國家正義軍ノ爲ニ號令シ、正義軍速ニ一任セヨ 』
ト現ハレタトノ事デ、
北ハ私ニ對シ、
早ク彼等ニ知ラシテ眞崎ニ一任スル様ニ注意シテ遣レト申シマシタノデ、
同日栗原、磯部、村中ニ夫々電話ヲ掛ケタ際、
「 君等ガ二月二十六日軍事參議官ト會見シタ際、臺灣ノ柳川中將ヲ以テ次ノ内閣ノ首班トシ、
 時局収拾ヲ一任シタイト要求シタトノコトデアルガ、
十日モ二十日も要スル遠イ人ノ事ヲ考ヘズニ、此際眞崎ニ總テヲ一任スル様ニシタラ何ウカ。
夫レニハ、軍事參議官ノ方々モ一致シテ眞崎ヲ擁立テテ行ク様ニ、御願ヒシテ見タラ何ウカ 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ忠告シテ遣リマシタ処、
孰レモ、夫レデハ同志一同協議ノ上、其ノ方針デ進ム様ニスルト申シテ居リマシタ。
・・・・・
北ハ靑年將校等ガ柳川中將ヲ持出シタコトヲ心配シテ居ツタ様デアリマシタガ、
朝カラ御經ヲ讀ムデ居ラレマシタガ、
間モナク、
「 國家人無シ、勇將眞崎在リ、國家正義軍ノ爲ニ號令シ、正義軍速ニ一任セヨ 」
トノ靈感ガ現レタトテ、夫レヲ示サレ、
早ク彼等ニ知ラシテ眞崎ニ一任スル様ニ注意シテヤレト申サレマスシ、
私モ無論早ク彼等ニ知ラシタイト思ヒマシタノデ、其ノ事ヲ村中、磯部等ニ知ラシマシタ。
其ノ要旨ハ、
「 實ハ北ノ御經ニ此様に出タノダガ 」
ト申シテ右ノ靈感ヲ告ゲ、
「 此中ニ國家正義軍トアルノハ君等ノコトニ當ツテ居ルノダガ、
 君等ハ二月二十六日軍事參議官ト會見シタ際、柳川中將ニ時局収拾ヲ一任シタイト要求シタトノコトデアルガ、
遠方ニ居ル柳川ヲ呼ブヨリ、此際眞崎ニ一任スル様ニシテハ何ウカ。
全員一致ノ意見トシテ、無条件ニテ時局収拾ヲ皆ノ者トヨク相談セヨ。
ソシテ軍事參議官ノ方々モ亦意見一致シテ眞崎ニ時局収拾ヲ一任セラル様ニ、御願ヒシタラ宜カラウ 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ申シマスト、
村中、磯部等ハ
「 判リマシタ。我々ハ尊皇義軍ト言ツテ居ルノダガ、眞崎デ進ムコトニ皆ト一緒ニ相談シマセウ 」
ト申シマシタ。・・・西田税、蹶起将校 ・ 電話連絡 『 君達ハ官軍ノ様ダネ 』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人なし勇將眞崎あり
磯部が首相官邸に移ってから間もなく、
西田から栗原に電話があり、つづいて、北一輝からも栗原に電話で、
「 眞崎大將に時局収拾をしてもらうことに、
 まず君ら靑年將校の全部の意見を一致させなさい。
そして君らの一致の意見として軍事參議官の方も、
また、參議官全部の意見一致として眞崎大將を推薦することにすれば、つまり陸軍上下一致ということになる。
君らは軍事參議官の意見一致と同時に眞崎大將に時局収拾を一任して、一切の要求を致さないことにしなさい 」

と 教示した。
さらに、西田も磯部を電話口に呼び出し和尚 ( 北のこと ) の靈告なるものを告げた。
磯部は、午前八、九時であったが西田氏より電話があったので、
「 余は 「 簡單に退去するという話を村中がしたが斷然反對した、小生のみは斷じて退かない。
 もし軍部が彈壓するような態度を示した時は、策動の中心人物を斬り戒嚴司令部を占領する決心だ 」

と 告げる。
氏は「 僕は龜川が撤去案を持ってきたから叱っておいたよ 」 と いう。
更に今、御經が出たから讀むといって
「 國家人なし 勇將眞崎あり、國家正義軍のために號令し、正義軍速やかに一任せよ 」 と 靈示を告げる。
余は驚いた、
「 御經に國家正義軍と出たですか、不思議ですね、私どもは昨日來 尊皇義軍と言っています 」
と 言って神威の嚴肅なるに驚き 且つ快哉を叫んだ 」

と 遺書 「 行動記 」 に書いているが、この北の靈告にはよほど激励されたものらしい。
しばらくすると 村中が香田とともに首相官邸にやって來た。
磯部は村中を見つけると 夜明け方の喧嘩別れも忘れて、
「 さきほど、西田さんから電話があって 和尚の靈告を聞いたんです。
人なし勇將眞崎あり國家正義軍のために號令し、正義軍速やかに一任せよというのです」

と 氣色をたたえ、はしゃいだ聲で話しかけた。
村中も、
「 いや、俺の所にも今、その電話があったものだから相談しに來たのだ。
 和尚の靈告通りに この際は眞崎一任で進むのが一番いいんじゃないかと思うんだが 」
と 一同にはかった。

そして
「 賛成 ! それでいこう 」
と いうことになった。

折もよく 野中も來合わせていて、眞崎一任ということに全員一決した。
そこで 各參議官の集合を求めることになったが、
同時に、昨日來の行動で疲勞している部隊に休息を与えるために、
警備兵を除いて、部隊を一時國會議事堂附近に集結することにきめた。
・・・軍事參議官との會談 1 『 國家人無し 勇將眞崎あり、正義軍速やかに一任せよ 』

午前10時頃  丹生部隊、山王ホテルへ
午前中  香田大尉、村中、戒厳司令官を訪問  皇軍相撃つことなき様意見上申
午前10時30分  野中部隊 清原少尉 ( 歩三第3中隊 )、1箇小隊を率い華族会館を襲撃
 栗原中尉来て蹶起趣意書を朗読す ・・・華族会館襲撃

午後0時10分  安藤部隊・・・新議事堂へ移動
坂井部隊・・・陸軍省東北角配備 → 新議事堂附近に集結
香田、村中・・・戒厳司令部へ ・・香椎、参謀長、石原大佐、柴大尉と面接 → 首相官邸へ 栗原、磯部と会う


午後1時頃  安藤部隊 新国会議事堂附近に集結
井出宣時大佐、安藤大尉と面会 ・・・小川軍曹がいきなり大佐を射殺すると言い出し大尉に止められる一幕あり
午後1時頃  坂井部隊 高橋小隊、新国会議事堂裏の広場に集結す
午後1時27分  岡田啓介首相、官邸より脱出す
午後2時頃  野中部隊 鈴木少尉以下10中隊、警視庁に戻る
主力を新議事堂附近に集結
午後2時  野中部隊 3中隊、7中隊、10中隊、新国会議事堂へ向かうも途中で引返す
午後3時頃  安藤部隊、幸楽へ向かう
同期生宇田武次 、幸楽で安藤大尉と会う 
・・・いまの参議院西通用門の口にまわってのぞいて見ると、
安藤輝三大尉が出来かけの石段の上に立って部下中隊に訓示と命令を達しているところであった。

時刻はたしか (27日) 午後三時ごろであった。
「 小藤大佐の指揮下に入り、中隊は今より赤坂幸楽に宿営せんとす・・・・」
よくとおる安藤の声がハッキリ聞こえてくる。
・・・「 今夜、秩父宮もご帰京になる。弘前、青森の部隊も来ることになっている」

午後4時  鈴木少尉以下10中隊、新国会議事堂中に集合
 常盤少尉 ( 歩三第6中隊 )、一箇小隊を率い新国会議事堂へ
午後4時  東京台場に戦艦長門他40隻の艦隊が集結し砲口を永田町一帯に向ける
午後4時30分  将校全員陸相官邸に集合、山口大尉より宿舎命令を受ける
 鈴木少尉以下10中隊は鉄相官邸、清原少尉以下3中隊は文相官邸、
 其の後、野中大尉以下7中隊、香田大尉は鉄相官邸、蹶起部隊本部を鉄相官邸に置く
 10中隊は文部大臣官邸、栗原・中橋隊は首相官邸、

午後4時59分  秩父宮、上野駅に到着す
午後5時頃  陸相官邸へ集合命令・・17、8名が集合
 真崎、西、阿部の三大将と蹶起将校 陸相官邸で会見、 真崎大将に時局収拾を一任す
午後二時、陸相官邸で蹶起將校と眞崎大將らと會談した。
席上、野中大尉が
「事態の収拾を眞崎將軍に御願ひ申します。
 この事は全軍事參議官と全靑年將校との一致せる意見として御上奏をお願い申したい 」
と、言った。
しかし、眞崎は既に天皇の御意嚮を知っているから、はっきりした返事をしていない。
「 君たちが左様言ってくれる事は誠に嬉しいが、いまは君等が聯隊長の言う事を聞かねば何の処置も出來ない 」
と言って、撤退が先決だという。 
結局、この會見ははっきりした結論を出さないでおわった。
軍事參議官たちは、靑年將校が撤退を認めたと思い、
靑年將校の方では、阿部、西の両大將が眞崎大將を助けて善処するという言葉を信じた。

・・・
行動記 ・ 第十九 「 国家人なし、勇将真崎あり 」
・・・山口一太郎大尉の四日間 3 「 総てを真崎大将に一任します 」


午後6時頃  陸相官邸へ将校全員集合
午後6時  丹生部隊、山王ホテルへ  ( ・・・午後8時山王ホテルへ )

午後6時30分  丹生中尉、山王ホテルへ・・・歩一11中隊は山王ホテルに宿営
午後6時30分  安藤部隊、坂井部隊、幸楽へ向かう
午後6時半  坂井部隊・・・幸楽へ入る
午後6時半頃  安藤部隊、尊皇討奸の旗を先頭に幸楽へ入る 
 今晩秩父宮様が弘前を御出発上京の情報、中隊長以下各幹部 涙にむせぶ。
・・・「 今夜、秩父宮もご帰京になる。弘前、青森の部隊も来ることになっている」

午後7時  戒作命第九号 発令

戒作命第九號 
( 近衛師團長ニ与フルモノ )
命令  二月廿八日午前七時  於九段戒嚴司令部
一、貴官ハ半蔵門附近ニ自動貨車積載部隊若干ヲ準備シ情況ニ應シ機ヲ失セス 陸軍省參謀本部ヲ確保スヘシ
 但シ目下平穏裡ニ占據部隊ヲ撤去セシメ得ルノ見込大ナルモノアルニ鑑ミ
之ヲ刺戟シ不測ノ事端ヲ醸成セサル事ニ關シ留意ヲ要ス
戒厳嚴司令官    香椎浩平
下達法  電話ニ依ル

午後7時頃  澁川、加藤、佐藤らと留守の西田税宅に集る・・佐藤、青森の末松大尉の許へ向かう
午後7時頃  清原小隊、華族会館を出  午後7時半頃 大蔵大臣官邸へ、
田中隊 ・磯部、山本又少尉は農林大臣官邸  歩三第10中隊は文相官邸
坂井部隊、幸楽へ
澁川善助、皇道維新聯盟へ ・・・柴有時大尉と共に鐡相官邸へ
午後7時  栗原中尉、幸楽で演説
午後8時頃  村中、北一輝邸を訪問  北、西田、亀川と会合 ・・・北一輝 (警調書2) 『 仕舞った 』
・・・ 時間ハ記憶アリマセヌガ、當夜午後七、八時頃
龜川ト話シテ居ル際、村中ガ突然來タノデ、

私ハ意外ニ感ジ、且 再ビ會ヘナイダラウト覺悟シテ居ツタ同人ト會フ事ガ出來テ、感慨無量ノ體デアリマシタ。
ソコデ、私ト北、龜川、村中ノ四人が一座ニシテ、村中ニ對シテ今迄ノ經過ニ附、
物珍ラシク色々尋ネタリ、聞イタリ致シマシタ。
其ノ時村中ハ、
一、二月二十六日朝陸軍大臣官邸ニ行ツテ、大臣ト會見シタ模様、
一、蹶起部隊ハ戒嚴司令部ノ隷下ニ編入セラレタコト、
一、戒嚴司令官ト面接シテ、此儘現占據地ニ留ツテ居ツテ宜イト云フ諒解ヲ得タコト、
一、先輩同僚ガ多數來テ激励シテクレルノデ、同志將校等ハ非常ニ心強ク思ツテ居ルコト、
一、今朝陸軍省、參謀本部等ニ兵力ヲ終結シテ、幕僚ヲ襲撃スルコトヲ安藤、磯部、栗原等ガ言ヒ出シタガ、之ヲ阻止シタコト、
一、眞崎、阿部、西三大將ニ會見シ、眞崎大將ニ時局収拾ヲ一任スルコトヲ要望シ、大體其ノ方針デ進ンデ居ルコト、
一、新議事堂附近ニ兵ヲ終結スルコトハ地形偵察ノ結果不可デアルノデ、
  戒嚴司令官ニ其ノ儘留ツテ居ツテモ宜イカト尋ネタ処、同司令官カラ其ノ儘デ穏クリ給養シテ宜イト言ハレタコト、
一、万平ホテル、山王ホテル等ニ居ル部隊ハ蹶起軍ナルコト、其ノ給与ハ部隊カラ受ケテ居ルコト、
一、奉勅命令デ現地ヲ撤退セシメ、命令ニ服從シナケレバ討伐スル等ノ噂ガアルト話シタラ、村中ハ、
  「 ソンナ筈ハ無イ、我々ノ行動ヲ認メタト云フ大臣告示ガ出テ居ルカラ 」
ト申シ、右大臣告示ノ内容ヲ説明シタコト、等ヲ話シマシタ。
其ノ時北カラモ、
「 早ク陸軍首脳部ノ意見ヲ纏メテ、時局収拾ニ努力スル必要ガアル 」
旨ヲ申シテ居リマシタ。
村中ハ、兵ノ敎育上何カ參考資料ハナイカト申シマシタガ、
何モ無イト申スト、約一時間位話シテ歸ツテ行キマシタ。

午後10時  新井中尉、幸楽の安藤大尉に面会、続いて 山王ホテルの丹生中尉に面会 ・・・地区隊から占拠部隊へ
午後11時頃  磯部、首相官邸を夜襲して武装解除するとの風説の報告を受ける
終日  陸相官邸に在したる者、柴大尉、山口大尉、小藤大佐、鈴木大佐
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「 事件の処理は私がやった 」
との 陛下のお言葉のように、
この段階で進めらていた陸軍首脳の方針に、
待った、を かけられた陛下のご意志のまえに、軍当局は絶対的な苦悩に陥ることになった。
朝令暮改というが、陛下の激怒によって軍首脳は、今や施す術がなかった。
百八十度の変転である。

「 陸軍大臣告示 」 はどうして消えたか
昭和四十六年十一月の、外国記者団との会見における天皇の発言によれば、
二・二六事件の収拾処置は自分が命令した、
それは憲法の規制を逸脱した専断であった。

と 認められている。
憲法によれば、
国政を預る政府責任当局の決定に対しては、天皇といえどもそれを否認する拒否権はない。
その憲法無視を敢て強行された天皇の意志が、二・二六事件蹶起完敗のすべてであった。
事件は陸軍軍隊によって起された暴発であり、この収拾は軍当局の責任である。
その責任下に決定、告示された 「 陸軍大臣告示 」 が、
わずか半日にして姿を消したことは、一に 天皇の意志であり 激怒 であった。
いかに憲法上は正しい大臣告示でも、
神厳にしておかすべからずの天皇の意志の前には、軍人として一も 二もなく 為す術はなかったろう。
天皇の意志に反した告示など、存在する運命はなかった。
天皇の鎮圧すべしとする意思決定の段階で、「 陸軍大臣告示 」 の存在理由はなくなったのである。
・・・ 二・二六事件の収拾処置は自分が命令した 


二・二六事件蹶起 二月二十六日 大臣告示『 諸子ノ行動ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム 』

2024年02月26日 12時00分00秒 | 道程 ( みちのり )

・・・前項 二・二六事件蹶起 二月二十六日 『 勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ 』 の 続き

二 ・ 二六事件蹶起 
2月26日 ( 水 ) 

午前10時 
 安藤部隊、三宅坂三叉路に陣地、・・27日正午まで桜田門の手前、半蔵門、隼町に歩哨警戒に当る ・・・安藤大尉「 私どもは昭和維新の勤皇の先駆をやりました 」 
 坂井中尉、麦屋少尉と共に部隊を引率して赤坂見附から平川町に至り、
 市電停留所を中心に三宅坂、永田町、麹町四丁目、赤坂見附に歩哨  ・・・
歩哨線 「 止まれ !」 

午前11時前頃
 村上大佐、三宅坂の安藤大尉に会う
 小藤大佐、山口大尉、陸相官邸に来る  ・・・
香田清貞大尉 「 陸相官邸の部隊にも給与して下さい 」 
 香椎警備司令官、山下少将と参内、川島陸相、真崎、荒木大将と会談す

西田税、首相官邸の栗原中尉に電話す ・・・西田税 (警調書2) 『 僕は行き度くない 』
( ↓ 西田税、第三回公判での供述 )
午前十時頃、三度目ノ電話デ漸ク小笠原中將ト話スル事ガ出來マシタ。
私ハ、
「 陸軍ノ青年將校等ハ遂ニ今朝蹶起シ、多クノ兵ヲ聯レテ重臣ブロックニ向ツテ襲撃シタ様デアリマスガ、
既ニ御承知ノ事ト思ヒマス。斯ウナリマシテハ致方アリマセヌカラ、國家ノ爲一刻モ速ニ事態ヲ収拾シテ頂ク様、
閣下ノ御力添ヲ御願ヒシタイ 」 ト云フ趣旨ノ事ヲ申シマシタ処、小笠原ハ
「 ヨク判ツタ。何トカ考ヘテ、出來ルダケノ事ヲシテ見ヤウ 」
 
ト言ツテクレマシタ。

被告人ノ謂フ蹶起後ノ事態収拾ニ附テノ盡力ト云フノハ何ウスルノカ
國家國軍ニ對スル蹶起青年將校等ノ希望、目的、精神ニ副フ様ニシテ事態ヲ収拾スル様、
盡力シテ貰ヒタイトノ意味デ、約言スレバ、彼等ノ意見ニ合致スル様ニシテ貰ヒタイト云フ意味デアリマス。
此意味ナル事ハ言明シナクテモ、私ノ氣持ヲヨク判ツテ居ラレル小笠原トシテハ、十分酌ムデクレタモノト信ジテ居リマス。

小笠原中將ニ電話ヲ掛ケテカラ、自宅ニ電話ヲ掛ケテ留守番ノ赤澤ヲ呼出シ、
  「 自分は今木村病院ニ來テ居ルカラ、此方ニ來テクレヌカ 」 ト申シマシタ処、
赤澤は午前十一時頃病院ニ來マシテ、「 軍人ガ警視庁ニ居ル 」 ト報告シマシタノデ、
更ニ同人ヲ外ニ出シ、夫レガ蹶起部隊カ鎭壓部隊カヲ確メサセマシタ結果、
蹶起部隊ガ首相官邸、陸相官邸、警視庁方面ヲ占據シテ居ル事ガ判明致シマシタ。

夫レカラ赤澤ガ私ノ自宅ニ電話ヲ掛ケマシタ処、
「 今栗原カラ電話ガアツテ、西田ハ捕ツタカト問合セテ來タカラ、西田ハ北方ニ行ツテ居ルト答ヘタ処、
 栗原ハ、自分ハ首相官邸ニ居ルト言ツテ大笑ヒシテ居ツタ 」 トノ事デアリマシタ。
私ハ事前ニ栗原ト喧嘩別レヲシタガ、
其ノ際私ガ、君等ガ蹶起スレバ自分ハ捕マルダラウト話シタ事ヲ覺ヘテ居テクレテ、
安否ヲ気遣ヒ、尋ネテクレタト思フトイヂラシイ氣持ニナリマシタシ、
當時寒クテ兵モ可愛サウダガ、彼等ハ兵ヲ何ノ様ニシテ居ルノダラウト思ツタリシマシタノデ、
先方カラ電話ヲ掛ケテ寄越ス位ダカラ、此方ヨリ掛ケラレナイ事モナカラウ、
一ツ連絡ヲシテ見ヤウト思ヒ、首相官邸ノ栗原ニ電話ヲ掛ケマシタ。
ソシテ同人ニ對シ、
「 ドシドシ雪ハ降ツテ居ルシ、兵達ハ寒イデナイカ、兵ノ飯ハ何ウシテ居ルカ 」
ト尋ネマシタ処、栗原ハ、
「 糧食ハ聯隊カラ持ツテ來テクレルシ、防寒具モ持ツテ來テ居ルノデ心配ナイ 」
ト申シマスカラ、
「 君達ハ官軍ノ様ダネ 」
ト申シマスト、
「 官邸ヲ占據シタカラニハモウ動カヌ 」
ト言ヒ、
「 何ウシテ居ルノカ 」
ト申スト、
「 何モシテ居ラヌ 」
トノ事デアリマシタ。
尚、襲撃ノ結果ヲ尋ネマシタ処、
「 岡田首相ハ殺害ノ目的ヲ達シタガ、非常ニ苦戰デアツタ。
 兎ニ角一度様子ヲ見ニ來ナイカ。來ルナラ、溜池迄案内ヲ出シテ置ク 」
ト言ヒマシタガ、私ハ 「 行キタクナイ 」 ト申シテ斷リマシタ。

右ノ様ナ次第デ、夫レ迄抱イテ居タ私ノ豫想ハ全然裏切ラレ、糧食 被服ハ聯隊ヨリ支給シテ居リ、
栗原モ元氣デ呑氣サウニ話シ、一方我々ノ方モ警察ヨリ追廻シテ居ル様子モナシ、
事態ハ惡化シテ居ラヌ計リデナク、却テ好轉シツツアルノデナイカト云フ様ナ氣ガシタノデ、
夫レナラ設備行届カズ、暖クモナイ木村病院ニ居ルヨリ、北方ニ歸ツタ方ガ宜クハナイカト云フ様ナ、
事件前ト變ツタ氣持ニナリマシタノデ、午後北ニ電話ヲ掛ケ、變リハナイカヲ尋ネマシタ処、
何ノ變リモナイトノ事デアリマシタカラ、安心シテ 「 之カラオ伺ヒシマセウ 」 ト申シマスト、
北ハ、「 來テモヨイ 」 ト言ツテクレマシタノデ、「 後刻參リマス 」 ト申シテ置キマシタ。
夫レカラ薩摩雄次ニ電話ヲ掛ケテ狀況ヲ聞キマシタ処、色々ノ情報ガ集ツテ居ル様ナ話デアリマシタカラ、
私ハ 「 自分ハ之カラ北方ニ行クカラ、同家ニ落合ツテ色々話サウ 」 ト申シテ電話ヲ切リ、
同日午後二時頃赤澤ト共ニ木村病院ヲ出テ北方ニ戻リマシタ処、
間モナク薩摩ガ來マシタカラ、北ト薩摩ト私ノ三人デ話合ヒマシタ。
私ハ栗原ト電話デ聯絡シタ狀況ヲ話シ、薩摩ハ世間ノ噂ナド色々ノ情報ヲ話サレマシタガ、
何レモ局部的デ、事實カ流言カ判ラヌ様ナモノモアリマシタ。
・・・
40 二・二六事件北・西田裁判記録 (三) 『 公判状況 第三回公判 1 』 

林八郎少尉 は、二六日の午後
倉友音吉上等兵を供に、銀座の松坂屋に買物に出かけた。
蹶起将校たる白襷をかけ 人々の視線の中、颯爽と店内を歩いた。
林少尉は、晒布、墨汁、筆 を購入し、首相官邸に帰ると
「 尊皇維新軍 」 と、大書した幟を作って、高々と掲げたのである。
 
・・・林八郎少尉 『 尊皇維新軍と大書した幟 』


正午 
陸軍軍事参議官が正午までに全員参内す

歩三聯隊より 野中隊に昼食届く ・・夕食も
蹶起部隊、古荘次官を通じ、宮中の陸相に 「 蹶起部隊を義軍に認めるや否や 」 の決意を求める

午後1時頃  軍事参議官会議

川島の參内につづいて寺内大將、
それから、ついさっきまで官邸に來ていた眞崎大將が參内してきた。
陸軍省からの急報によってかけつけた軍事參議官は、
東久邇、朝香の兩宮を始め、荒木、西、阿部、植田の諸大將も續々と參内してきた。
一番遅く姿を現わしたのは林大將で、もう正午をすぎていた。
この軍事參議官招集は 山下少將の入れ知恵で事件對策を協議するために、
大臣が宮中に參集を求めたものであった
    
 寺内大將         眞崎大將           東久邇宮          朝香宮            荒木大將
     
 西大將              阿部大將             植田大將           林大將                   ・・・梨本宮 ( ? )
宮中に參集した軍事參議官たちは
東溜り場で情報を収集するかたわらこれが對策について協議していた。
隣室には杉山次長、岡村寧次第二部長、山下奉文軍事調査部長、
石原作戰課長、村上軍事課長それに香椎警備司令官が待機していた。
軍事參議官たちが円陣をつくって何事か協議している。
荒木大將が隣室の山下などを呼びつけひそひそと打ちあわせをしていた。
これをかたわらのソファーによりかかって、見つめていた杉山次長は、
軍事參議官の干渉によって事態の収拾が妨害されることをおそれた。
そこで川島陸相に向かって言った。
「 軍事參議官は陛下の御諮詢があって始めてご奉答申上ぐべき性質のものであるから、
 事件処理にあたっていろいろ干渉されては困る。
 事態の収拾は責任者たる三長官において処置すべきものだと信ずるが大臣の意見をた承りたい 」
「お説のとおり 」 と 陸相はうなずいた。
これを聞いて荒木大將が弁明した。
「 もとより軍事參議官において三長官の業務遂行を妨害しようとする意志は毫も持っていない。
 ただ、われわれは軍の長老として道徳上 この重大事を座視するに忍びないので奉公の誠をつくそうとするものである 」
こんな問答があったのち、
參議官一同はその對策なるものの協議に入った。
まず 川島陸相はその對策を三段にきって、
一、勅命を仰いでも屯營に歸還すべく論す
二、聽かなければ戒嚴令を布く
三、ついで強力な内閣を組織する
と 提案した。
荒木大將はこれに對し、
「 川島案に先だって まだわれわれのなすべきことがある。
 今日までのわれわれのやって來たことを回想すると、
國體の明徴、國運の開拓に努力はしたものの、その實績は挙擧っていない。
それがついに今日の事態を惹起せしめたものともいえる。
この際、もし對策を一歩誤れば取りかえしのつかぬこととなる恐れがある。
これは充分に考えなくてはならんと思う。
ともかく刻下の急務は一發の彈もうたずに事を納めることである。
私はこの際 維新部隊に對して
「 お前たちはその意圖は天聽に達したことである。
 われわれ軍事參議官もできるだけ努力しよう。
それには軍事參議官一同は死をもってこれが實施に當るから、
お前たちは速やかに兵營に歸還し一切は大御心にまつべきである。
お前たちが引きあげたのちにわれわれは國運の進展に努力することができる 」
との主旨で 説得することが大切である、と信ずる。
もしも一度あやまてば皇居の周囲で不測の戰闘がおこり
飛彈は恐れ多くも宮城内にも落ちることは必然である。
この邊も とくと考慮せねばならぬ。
もし、どうしてもこの説得を聞かなかったら川島案のごとく勅命を拝すべく、
なお、これにも應ぜざるときは斷乎これを討伐するより外はない。
なお、この際最も注意すべきことは左翼團体の暴動で、
これがゴタゴタに便乗しておきたら困難をきたすおそれがある 」
眞崎大將もまたおおむねこれと同様の意見を述べた。
その間、荒木大將か眞崎大將かの發言で、
 「維新部隊をその警備にあてるよう取り扱ったらよい 」
との 意見が開陳されたが、
その他の參議官はこれには誰も反對せず、また、積極的に支持もしなかった。
だが、大勢は武力行使を回避し説得によるということに參議官會同の方向を決定づけ 
そこでこの非公式軍事參議官會同では、
軍の長老として蹶起將校に説論し原隊に歸ること勧告することとし、
これがための説得要領を起案することになった。
山下少將が荒木の命で 原案を書き二、三の軍事參議官が修正を加えて一案が決定した。
そして陸軍大臣の同意を得て大臣告示としての成案となった。
これがのちに問題をおこした、いわゆる 「 陸軍大臣告示 」 である。 ・・・大臣告示の成立経過 
陸軍大臣告示
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聽ニ達セラレアリ
二、諸子ノ眞意ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム
三、國體ノ眞姿顯現 ( 弊風ヲ含ム ) ニ就テハ恐懼ニ堪エズ
四、各軍事參議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合せたり
五、之レ以上ハ一ニ大御心ニ待ツ
この告示はとりあえず 山下少將をして陸相官邸に赴いて將校に傳達せしめることになった。
一方、この成案を喜んだ香椎中將は
許を得て司令部安井參謀長に電話してこれを隷下部隊に下達することを命じた。

午後2時  山下少将、陸相官邸に於て 『 大臣告示 』 を朗読呈示
 香田、村中、磯部、野中、對馬の五人  古荘次官、鈴木大佐、西村陸軍省兵務局長、小藤大佐、山口大尉
・・・山下少將は官邸に赴き將校の集合を命じた。
香田、村中、磯部、野中、對馬、などが會議室に集まった。
古莊次官、山口大尉らも列席した。
一同が集合したのを見て山下少將は、
それでは大臣告示を讀むから皆よく聞くように と 前おきして、
一語一語ゆっくり讀んだ。
讀みおわると
「 わかったか 」
と 一同を見返した。
對馬中尉がまっ先に質問した。
「 それでは 軍當局はわれわれの行動を認めたのですか 」
すると 山下はむっつりした表情で、
「 ではもう一度讀むからよく聞け ! 」
といい、またゆっくり讀み上げた。
「 それではわれわれの行動が義軍の義擧であることを認めたわけですか、
 少なくともそう解釋してよいのですか 」
今度は磯部がたずねた。
だが、山下はそれでも答えなかった。
「 もう一度讀む 」
そして山下は都合三度その告示を讀みあげ、あとは一言も發せず、さっさと引きあげてしまった。
だが、立ち會いの人たちは告示を聞いて愁眉を開いた。
次官は行動部隊を現位置にとどめるよう大臣に申言し盡力しようと出かけるし、
西村大佐も香椎中將に聯絡して、やはりこのままの位置にとどめておくようにしようと、そそくさと官 邸を飛び出した。
・・・ 「 軍当局は、吾々の行動を認めたのですか 」 

・ 
大臣告示 「 諸子ノ行動ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム 」 
・ 
山口一太郎大尉の四日間 1 「 大臣告示 」 

午後2時30分  宮中で臨時政府会議が開催さる
二十六日の午後二時半、宮中では臨時政府会議が西溜りの間で開催された。
この会議の出席者の一人 内田鉄相のメモがそれである。
この場で川島義之陸相は、一木枢密院議長と閣僚たちを前に、早朝から状況報告を行なった。
そこで述べられた
「 蹶起軍の陸相への要望事項 」 とは
一、昭和維新を断行すること
二、之がためには先づ軍自らが革新の實を挙げ、
      宇垣朝鮮総督、南大将、小磯中将、建川中将を罷免すること
三、すみやかに国体明徴の上に立つ政府を樹立すること
四、即時戒厳令を布くこと
五、陸相は直ちに 用意の近衛兵に守られて参内し、我々の意思を天聴に達すること 
・・・
内田メモ 
・・・ 戒厳参謀長 安井藤治 記 『 二・二六事件の顛末 』 

午後3時 
東京警備司令部より第一師団管区に戦時警備令  ( 「 軍隊に対する告示 」 ) が下令、 蹶起部隊、警備部隊に編入さる
村上啓作大佐が 「 維新大詔 」 の草案を川島陸相に一部をみせる  ・・・
維新大詔 
午後3時頃  満井中佐、陸相官邸へ ・・・満井佐吉中佐の四日間 
 東京警備司令部、 「 軍隊に対する告示 」

 
午後3時20分  「 陸軍大臣ヨリ 」 告示さる
午後3時30分  「 陸軍大臣ヨリ 」 蹶起将校らに伝達さる

午後4時  閣議開催さる
一師戦警第一号
命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戦時警備部隊トシテ警備に任ず 」 
蹶起部隊、歩三渋谷聯隊長の指揮下に入り現在地警備の任務に就く

午後4時頃 
小藤大佐、第一師団司令部招致せられ
 陸軍大臣告示 ( 諸子の行動とある分 )、
 軍隊に対する告示 ( 二月二十六日午後三時東京警備司令部 )
 第一師団命令 ( 二月二十六日午後四時於東京 )
を 受領す

午後5時30分  小藤大佐、歩一聯隊長室で 陸軍大臣告示、軍隊に対する告示、第一師団命令を下達す
午後六時   澁川善助、
新宿宝亭で有時大尉と松平紹光と會う
昭和維新情報 第一報  午後7時現在・・・澁川善助、福井 幸、加藤春海、宮本誠三 ・・全国の同志に直送す
午後7時東京に警備令が発令のラジオ放送
午後7時30分頃  小藤大佐、
一師団司令部に招致せられ ・・一師戦警第二号、第一師団命令を下達
歩一警命第四号
歩兵第一聯隊命令  二月二十六日  於屯営
一、師団は昭和十年度戦時警備計画書に基き、担任警備地域の警戒に任じ、治安の維持を確保す。
二、予は本朝来行動しある部下部隊及歩三、野重七の部隊を指揮し、
 概ね 桜田門、公園西北角、議事堂、虎の門、溜池、赤坂見附、平河町、麹町四丁目、半蔵門を連ねる線内の警備に任ぜんとす。
歩兵第三聯隊長の指揮する部隊は其他の担任警備地区の警備に任ずる筈。
三、聯隊主力は古閑中佐の指揮を以て待機の姿勢に任ずべし。
聯隊長  小藤大佐
下達法  命令受領者を集め、口達筆記せしむ。


午後8時15分  陸軍省公式発表
午後9時  内閣総辞職  「 速やかに暴徒を鎮圧せよ 」
午後9時頃  三宅坂の安藤大尉の許へ、柴有時大尉、松平紹光大尉、來訪 ・・二人共陸相官邸へ
午後10時頃  軍事参議官と会談、村中、磯部、對馬、栗原、山下少将、小藤大佐、鈴木大佐、山口大尉、立会う
( 眞崎大将 )
「 吾々に總てを委して呉れんか。 委する以上は条件を附けないで呉れ。
 きつとやるから。我々も命がけだ。 今迄は努力が足りなんだ。
今度はきつちりやる。全部一致團結して居る。
吾々がやると言ったら、君達は吾々の懐に飛込んで呉れんか。
然し日本では大御心が一番大事なものぞ。 これは絶対である。
我々が如何に努力しても必ず必ずこの範囲内の努力である。
一度び大御心により決ったならば、お前達は己れを空しくして從はねばならぬ。
之れに反するならば、私は遺憾乍ら君達を敵とせなければならぬ。」
・・・ 磯部淺一
行動記 ・ 第十八 「 軍事参議官と会見 」 
・・・ 山口一太郎大尉の四日間 2 「 軍事参議官と会見 」 
・・・山口一太郎 
軍事参議官との会見 「 理屈はモウ沢山です 」 

部、村中、香田、陸相官邸に宿泊

・・・次頁 
二 ・ 二六事件蹶起 二月二十七日 『 國家人無シ 勇將眞崎アリ、正義軍速ヤカニ一任セヨ 』  に 続く


二・二六事件蹶起 二月二十六日 磯部淺一『 勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ 』

2024年02月26日 05時00分00秒 | 道程 ( みちのり )

・・・前項 二 ・ 二六事件前夜 二月二十五日 林八郎 『 おい、今晩だぞ。明朝未明にやる 』  の 続き

二 ・ 二六事件蹶起
2月26日 ( 水 ) 
午前0時30分頃  安藤大尉、柳下中尉に部隊の出動を通達す ・・・命令 「 柳下中尉は週番司令の代理となり 営内の指揮に任ずべし 」 
午前0時30分頃 
 河野大尉の牧野伸顕襲撃隊、歩一を出発す

 磯部、河野壽大尉出発後、→ 歩三野中大尉と打合せ ・・・
下士官の赤誠 1 「私は賛成します 」 
 → 歩一 → 西田税宅へ  ・・・行動記 ・ 第十一  
午前2時30分頃  對馬、竹嶌中尉、歩一に到着
午前3時頃  歩一11中隊の下士官を起し、丹生中尉より蹶起趣意書を説明す
午前3時過  磯部、村中、香田、歩一11中隊の下士官室に赴く  丹生中尉、下士官全員に紹介す
午前3時30分  安藤部隊 ( 歩三第6中隊 )、出発す
午前4時頃  澁川善助、営門を出た安藤部隊 安藤大尉と歩一の前で会う
午前4時過  河野隊、湯河原到着
午前4時10分  坂井部隊 ( 歩三第1中隊 )、出発す
午前4時25分  野中部隊 ( 歩三第3、第7、10中隊 ) 出発す
午前4時30分頃  
 栗原部隊 ( 歩一機関銃隊 )、丹生部隊 ( 歩一第11中隊 )  表門から出発、歩一裏門で待つ野中隊と合流す
 丹生部隊、栗原部隊の後尾より首相官邸の坂道を上る ・・ 村中、香田、丹生 先頭、磯部、山本、後尾に付く
午前4時30分頃  亀川哲也、眞崎邸へ蹶起を知らせる
午前4時50分  中橋部隊 (近歩三第7中隊 )、出発す
午前4時50分頃  安藤部隊、鈴木侍従長邸に到着
午前5時前  栗原部隊、首相官邸に到着
午前5時  丹生部隊、陸相官邸に到着




栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。
其の時俄然、官邸内に数発の銃声をきく。
いよいよ始まった。
秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。
勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。
同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。
とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい。
余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。
・・・行動記 ・ 第十三 「 いよいよ始まった 」

午前5時同時蹶起
野中部隊、警視庁占拠開始
栗原部隊、首相官邸襲撃開始

安藤部隊、鈴木侍従長襲撃開始
坂井部隊、斎藤内府襲撃開始 
中橋部隊、高橋蔵相襲撃開始 
牧野伸顕襲撃 河野隊 、襲撃開始 
丹生部隊
首脳部
陸相官邸に突

我々は三十分行進して香田、村中、と着いた所が陸相官邸正門前であった。
私は將校の身辺護衛という任務のため中隊の先頭にたち、香田大尉に随行して正門に至った。
そこには憲兵上等兵が一名立哨していた。
香田大尉は門外から大声で
「 アケロ! アケロ!」
と 数回叫び開門を強要したがシブって応ずる気配がない。
そこで大尉は語気を強めて
「開けなければブチこわすゾ!」
と 一喝したところ、立ちどころに門をあけた。
憲兵は開門と同時に哨舎に飛込み受話器をとったので、
香田大尉が 「それをおさえろ!」
と いいながら兵一名を監視につけたため、憲兵は観念し連絡を断念した。

開門するや、
香田大尉、村中大尉、
護衛の私以下五名及び丹生中尉指揮の第十一中隊は官邸玄関前広場に浸入、
丹生中尉は直ちに分隊の任務と配備を下達し全兵力を要所に配し警備体制を布いた。
官邸に隣接する陸軍省、参謀本部にも当然兵力を配置し
特定者以外の出入りを遮断したことはいうまでもない。
香田大尉、村中大尉、護衛の私と兵四名はやがて表玄関に進み階段を登った。
玄関の扉はピタリと閉まっていて恰も我々の訪問を拒絶しているかのようであった。
香田大尉は扉に近づくや大音声をあげて大臣に呼びかけた。
時の陸軍大臣は川島義之大将である。
大臣閣下! 大臣閣下! 國家の一大事でありますぞ! 
早く起きて下さい。
早く起きなければそれだけ人を余計に殺さねばなりませんゾ !!
大尉は繰返し繰返し叫びながら大臣の現れるのを待ったが、
なかなか姿を見せず、・・・・
・・・香田清貞大尉 「 国家の一大事でありますゾ ! 」 

丹生部隊、陸相官邸を包囲、赤坂見附~三宅坂附近 ・ 参謀本部正門付近、陸軍省表門付近を警戒
山本予備少尉、丹生部隊と共に陸相官邸表門出入者を監視す

野中部隊、鈴木少尉 ( 歩三第10中隊 )、新撰組を急襲 ・・・新撰組を急襲 「 起きろ! 」 

午前5時10分 
中橋襲撃隊63名、蔵相門前に集合 → 中島少尉が引率して首相官邸へ向かう
中橋中尉、2箇小隊75名を引率 赴援隊として宮城半蔵門へ向かう  ・・・「 近歩三第七中隊、赴援隊として到着、開門!」 

川島陸相、面会を渋る間、磯部浅一、正門、其他の部隊配置を巡回する  竹嶌中尉は首相官邸へ

午前5時25分 
田中隊 ( 野重砲第七 )、陸相官邸へ来る  「 面白いぞ 」
中島少尉、陸相官邸へ報告に来る  「 高橋蔵相をヤッタ 」 → 首相官邸へ向かう
・・午前5時40分  首相官邸到着、その後は単独で陸相官邸、鉄相官邸、を往復する

午前5時40分  「 朕ガ首ヲ真綿デシメルヨウナモノダ 」  ・・・「 俺の回りの者に関し、こんなことをしてどうするのか 」 

午前5時53分  中橋赴援隊62名半蔵門から宮城に入る

 
昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
 昭和維新の歌 」 を高唱しながら
三宅坂方面に向い行進する安藤隊


午前6時頃 
 安藤部隊、侍従長邸正門前で隊列を組み三宅坂方面に向かう  「 昭和維新の歌 」 を高唱しながら行進、
 安藤大尉、東京警備司令部の参謀福島久作少佐と接見す ・・・安藤大尉「 私どもは昭和維新の勤皇の先駆をやりました 」 

午前6時頃  清原少尉 ( 歩三第3中隊 )、警視庁屋上占拠 ・・軽機2箇分隊、小銃2箇分隊 40名

午前6時頃  林少尉 ( 歩一機関銃隊 )、襲撃を終え首相官邸表玄関に集結す

午前6時頃 
 中橋襲撃隊、大江曹長以下60名首相官邸を包囲配備す
 野中部隊、 虎ノ門 日比谷 三宅坂に歩哨
 野中部隊 鈴木少尉 ( 歩三第10中隊 ) 二箇小隊を指揮して内相官邸を占拠、一箇小隊を残置し午前9時頃迄内務省附近を警戒
 坂井部隊 高橋少尉 ( 歩三第1中隊 )、陸相官邸に到着、参謀本部前を午前10時頃まで警備
 坂井部隊 麦屋少尉 ( 歩三第1中隊 )、陸相官邸に報告に来る  「 斎藤内府をヤッタ 」

午前6時30分頃 
 安藤大尉、陸相官邸報告に来る  「 鈴木侍従長をヤッタ 」 ・・・「 ヤッタカ !! ヤッタ、ヤッタ 」 
 野中部隊 常盤少尉、安藤大尉に状況報告す。・・・「 愈々 昭和維新が達成するか 」 ・・報告を受けた安藤大尉、感無量といった姿で天を仰ぐ
 安藤部隊全員、陸相官邸前に整列  安藤大尉から蹶起趣意書を読み聞かされる

午前6時15分  安藤大尉、東京警備司令部の参謀新井匡夫中佐と接見す
午前6時15分  中橋赴援隊、守衛隊司令官門間少佐の許へ到着
午前6時25分  中橋赴援隊、坂下門の非常警備配置に就く
午前6時30分頃  小藤大佐、山口大尉、首相官邸へ到着
午前6時30分過  小松陸相秘書官、陸相官邸へ到着
午前6時40分  安藤大尉、東京警備司令部安井藤治参謀長と接見・・接見後、兵数名を率い陸軍省裏門附近に亘る
午前6時40分過  香田、村中、磯部、漸く 川島陸相との面会に進展
午前6時45分  中橋中尉、午砲臺へ立つ
午前6時50分  田中自動車隊、首相官邸へ集結

午前7時頃  安田、高橋少尉 兵力30 渡邊教育總監私邸に到着襲撃開始

午前7時頃  磯部、村中、香田 川島陸相と面会
蹶起趣意書 」 「 川島義之陸軍大臣への要望書 」  朗読す
・・・「 只今から我々の要望事項を申上げます 」 
・・・陸相官邸 二月二十六日
 
川島陸相
・・・極秘文書には、
事件初日にその後の行方を左右するある密約が交わされていたことが記されていた。
事態の収拾にあたる川島義之陸軍大臣に、
決起部隊がクーデターの趣旨を訴えたときの記録には、
これまで明らかではなかった陸軍大臣の回答が記されていた。
陸相の態度、軟弱を詰問したるに
陸相は威儀を正し、
決起の主旨に賛同し昭和維新の断行を約す

川島は、決起部隊から 「 軟弱だ 」 と 詰め寄られ、

彼らの目的を支持すると、約束していたのだ。
「これは随分重要な発言だと思います。
決起直後に大臣が、直接決起部隊の幹部に対して、
“昭和維新の断行を約す”
と、約束している。 
・・・私の想い ・ 二・二六事件 「 昭和維新は大御心に副はず 」

午前7時過  斎藤少将、首相官邸に着く
午前7時20分頃  斎藤少将、栗原中尉に案内されて車で陸相官邸へ
 陸相官邸に着いた栗原中尉は折り返し朝日新聞社襲撃の準備す

午前7時30分  中橋赴援隊、坂下門を警備

午前7時30分~8時  坂井部隊 麦屋少尉、三宅坂道路上の警戒 ・・・「 チエックリストにある人物が現れたら即時射殺せよ 」 

午前7時50分  警備司令部、第一師団に兵力撤収を命ず、近衛師団に出動を命ず

午前7時55分  中橋中尉、単独宮城を出る

午前8時頃  陸相官邸に眞崎大将到着 ・・・行動記 ・ 第十五 「 お前達の心は ヨーわかっとる 」  ・・・川島義之陸軍大臣 憲兵調書 
 眞崎大将が陸相官邸に到着との伝令に、安藤大尉、陸相官邸へ 並 野中大尉も陸相官邸へ

午前8時30分頃  香椎東京警備司令官、警備司令部に当庁

午前8時40分頃  栗原中尉、朝日新聞社襲撃に首相官邸を出る
 警視庁--参謀本部の路上で中橋中尉と遭遇  中橋中尉、そのまま襲撃に加わる
午前8時55分頃  栗原隊、東京朝日新聞社襲撃 → 日本電報通信社 午前・・頃 → 報知新聞社 午前9時30分
 → 東京日日新聞社 午前9時35分 → 国民新聞社 午前9時40分 → 時事新聞社 午前9時50分
・・・朝日新聞社襲撃 『 国賊 朝日新聞を叩き壊すのだ 』  

安田優、渡邊教育總監襲撃の報告に来る・・前田病院に入院す

坂井部隊 高橋少尉、陸相官邸に到着 参謀本部前を午前10時頃まで警備

午前9時頃 
 古荘次官、石原大佐、山下少将、満井中佐、鈴木貞一大佐、陸相官邸に到着
 磯部浅一、陸相官邸の玄関で片倉少佐を射つ ・・・ 「 エイッこの野郎、まだグズグズ文句を言うか 」 

 軍事参議官 宮中に集う 

 川島陸相 参内上奏する為 宮城へ向かう
 村中、磯部、香田 と 満井中佐、馬奈木中佐、山下少将と共に宮城へ向かう も、 参内は山下少将のみ
< 川島陸相の上奏要領 
一、叛乱軍の希望事項は概略のみを上聞する。
二、午前五時頃 齋藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、渡邊教育總監、牧野伯を襲撃したこと。
三、蹶起趣意書は御前で朗読上聞する。
四、不徳のいたすところ、かくのごとき重大事を惹起し まことに恐懼に堪えないことを上聞する。
五、陛下の赤子たる同胞相撃つの惨事を招来せず、出来るだけ銃火をまじえずして事態を収拾いたしたき旨言上。
・・・川島義之陸軍大臣 二月二十六日 
・・・ 川島義之陸軍大臣参内  

午前9時30分  川島陸相、天皇に事件を奏上し、蹶起趣意書を読上げる
天皇に拝謁すると、
事件の経過を報告するとともに 蹶起趣意書 を読みあげた。
天皇の表情は、陸相の朗読がすすむにつれて嶮けわしさを増し、
陸相の言葉が終わると、
なにゆえにそのようなものを読みきかせるのか 
と 語気鋭く下問した。
川島陸相が、
蹶起部隊の行為は明かに天皇の名においてのみ行動すべき統帥の本義にもとり、
また 大官殺害も不祥事ではあるが、陛下ならびに国家につくす至情にもとづいている。
彼らのその心情を理解いただきたいためである、
と 答えると ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

午前10時頃  眞崎大将、伏見宮邸に入る → 伏見宮上奏 ・・・伏見宮 「 大詔渙発により事態を収拾するようにしていただきたい・・」 
午前10時頃  西田税、小笠原海軍中将に事態収拾を電話で依頼す
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第一歩哨 までくると車を止めて、助手台の田中弥が飛び降りた。
そして右手を高く上げて、「 尊皇 ! 」 と どなる。
そうするとすぐ歩哨が答えて、「 討奸 」 っていうんだ。
尊皇、討奸が山と川との合言葉ってわけさ。
それで田中が
「 野戦重砲第二聯隊長橋本欣五郎大佐! 連絡ずみ ! 」
「 ようし、通ってよし ! 」
そこで田中が車で乗り込んで次へ行くと、第二哨 というのがある。
それも 同じように通って、大臣官邸までくると 下士哨 だ。

大かがり火を焚いて着剣の銃を構えたのが十五、六名いたが、すさまじい光景だったね。
なかなか厳重なもんだよ。
ここでも 同じようなことをする と、
「 それは遠路御苦労でござる。容赦なうお通り召され ! 」
哨長は曹長だったが、芝居の台詞もどきで大時代のことを真顔でいったね。
まったく明治維新の志士気取りだ
 橋本大佐
陸相官邸の警戒線はこのように三重になっていた。
最後の内戦は下士官が見張っている。
決行部隊の司令部だけに厳重であった。
橋本は官邸の中に入る。
橋本は広間に行くと、
「 野戦重砲第二聯隊長橋本欣五郎大佐、ただいま参上した。
今回の壮挙まことに感激に堪えん!
このさい一挙に昭和維新断行の素志を貫徹するよう、

及ばずながら此の橋本欣五郎お手伝いに推参した 」
と よばった。

・・・以降、次頁  二・二六事件蹶起 二月二十六日 『 諸子ノ行動ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム 』  に続く


二 ・ 二六事件前夜 二月二十五日 林八郎 『 おい、今晩だぞ。明朝未明にやる 』

2024年02月25日 08時14分00秒 | 道程 ( みちのり )

2月24日 ( 月 )
朝  歩一に出勤した栗原中尉、林少尉に蹶起計画を告ぐ
朝食後  澁川、伊藤屋別館を視察す・・ 澁川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」 
午後  磯部、千駄ヶ谷の西田税宅へ・・西田税不在
午後3時頃  常盤少尉、鈴木 清原少尉とともに野中大尉に呼ばれ蹶起の任務分隊を命ぜらる
午後7時半  西田税、歩一週番司令室の山口大尉を訪問 ・・「 実に弱ったことになった 」
午後9時頃  坂井中尉、高橋少尉、麦屋少尉と共に斎藤内府私邸を偵察す ・・高橋太郎少尉の四日間 1 
午後9時頃  
村中孝次、北一輝邸を訪問 ・・『 蹶起趣意書 』 を作成す
午後10時過  西田税、岩崎豊晴私邸を訪ねる ・・・
「 貴様が止めなくて一体誰が止めるんだ 」 
午前0時半頃  西田税、帰宅  磯部の置手紙 ・・「 二月二十六日の朝だと都合が良いと云つてます 」 
歩一週番指令室で野中、香田、村中、磯部、 
山口、打合せ
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・・・前項  二 ・ 二六事件前夜 二月二十四日 村中孝次 『 蹶起趣意書 』を起草  の 続き

二 ・ 二六事件前夜
2月25日 ( 火 ) 
第十回相澤公判   眞崎大将出廷

早朝  澁川、絹子夫人に西田税への手紙を託す
・ 澁川善助と妻絹子 「温泉へ行く、なるべく派手な着物をきろ」 
・ 澁川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」 

  
西田税               澁川善助   
・・・翌二十五日午前中、私ハ來客と話シテ居ルト、
磯部淺一ガ來テ、一寸部屋ヲ貸シテ呉レ、此所デ落合フ人ガアルカラト申シ、
暫クスルト澁川善助妻ガ來テ別室デ話シテ居リマシタ。
私モ後カラ挨拶ノ爲其ノ室ニ行クト、
磯部ガ、澁川ニハ湯河原ヘ視察ニ行ツテ貰ツテ居ルト申シタノデ、
其ノ時澁川ガ妻君ニ手紙ヲ託シテ、視察ノ狀況ヲ連絡ノ爲ニ來タ事ヲ知リマシタ。
澁川ハ二月二十日頃ヨリ突然私方ヘ顔ヲ見セナイ様ニナツタノデ、不思議ニ思ツテ居リマシタガ、
右ノ事情デ始メテ諒解シタノデアリマス。
然シ、澁川モ参加スルト思ツタノデ、磯部ニ對シ
『 現役軍人ガヤルノダカラ、澁川迄引張リ出スノハ宜クナイ。 夫レダケハ止メテクレヌカ 』
ト申シタ処、磯部ハ承知シマシタノデ、
私ハ早速澁川宛
『 軍人側ノスル事ニ我々地方人ハ無関係デアリ、没交渉デナケレバナラヌト思フカラ、
 君ハ今日中ニ東京ニ歸ツテ貰ヒタイ。歸ツタラ直ニ電話デ連絡セヨ 』
ト言フ趣旨ノ手紙ヲ書キ、澁川ノ妻ニ宅シマシタ。
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午前8時30分頃  竹嶌、對馬、井上、板垣中尉と打合せ・・對馬と板垣が対立す ・・・
斯くて 興津の西園寺公望襲撃は中止された 
西園寺公望襲撃中止、對馬、竹嶌は上京

午前10時頃  澁川夫人、西田税宅へ・・西田書簡を開く・・磯部、村中共に・・牧野 伊藤屋別館に滞在中の報

午後1時  村中、中野区鷺宮の自宅を出る ・・戸山町の中島少尉の下宿に寄る

午後2時  安田少尉、中島少尉宅で村中、中島と三人で打合せす

午後6時頃  香田大尉、帰宅す

午後6時  山本又少尉、磯部宅へ到着

午後6時頃  林少尉、池田少尉に蹶起を知らせる
   
林八郎少尉           
池田俊彦少尉
・・・二十五日の火曜日は雪も止み、
私は中隊を率いて、代々木練兵場に演習に行った。
間もなく出征する北満の野を思い、積雪地の不整地運動に習熟する為の訓練であった。
種々の基礎的訓練を行った後、私は中隊を班ごとに分けて、
代々木練兵場の周辺近い不整地を競走させてきびしく鍛えた。
午後四時頃、帰途についたが、
途中、初年兵の一人が転倒して足をいためたので
近くの民間の医院で応急の手当てをして帰った。
あとで兵士を聯隊の医務室に見舞って出てくるところを林少尉と出合った。
林は私に
「 おい、今晩だぞ。明朝未明にやる 」
と 言ったので、
「 よし、俺も行く 」
と 答えて中隊に帰った。

七時半過ぎであったと思うが、私は栗原中尉を機関銃隊に訪ねた。
栗原中尉は銃隊の入口に立っていた。
私は敬礼して
「 私も参加致します 」
と 言った。
栗原さんはうなずいて、私の顔をじっと見て、
「 俺は貴公を誘わなかったのだ 」
と 言った。
私が
「 林から聞きました 」
と 言うと、
栗原さんは、
私が一人息子だから誘いたくなかったのだ
と いうことと、
私が行かなくてもいいのだと言った。
それでも私は
「 是非、参加します 」
と きっぱり言いきった。
この時、栗原さんは
「 有難う、そうか、そこまで考えていてくれたのか。中に入り給え 」
と 言って
先に立って将校室に私を導き入れた。
そこには中島少尉がいたように思う。
初対面なのでお互いに紹介された。
それから林がやってきて、いささか興奮気味で栗原中尉と話していた。
私の記憶では、
中島少尉が出て行ってから、對馬中尉がやって来たように思う。
對馬中尉は豊橋の教導学校の教官で、
生徒を率いて参加する筈のところを同僚の板垣中尉に止められて単身やってきたのだ。
皆が腰を落着けてしばらく経つと、
對馬中尉はポケットからハンカチに包んだものを出して 一同の前に広げた。
それは荼毗に付した小さな数片の遺骨であった。
「 これは満洲で戦死した自分の最も信頼する同志菅原軍曹の骨だ 」
對馬中尉はその骨を握りしめ、
皆の手で触ってやってくれと言って、ハンカチを差し出した。
栗原さんも林も、そして私もそのハンカチを手にとり骨片を握りしめた。
菅原軍曹の骨は、對馬中尉のぬくもりで温かかった。
それは掌を通じて心の底まで伝わる温かさであった。
菅原軍曹は秋田の聯隊出身で、大岸大尉の仙台教導学校時代の教え子であった。
十月事件当時、
菅原軍曹は対馬中尉に呼ばれて、隊列を離れ、
体操服を着て銃剣を風呂敷に包んで駆けつけた人である。
彼は満洲の奉山線の北鎮という所に連絡にきていて、匪賊と戦って斃れた。
この葬儀の時、
對馬中尉は駈けつけて、その遺骨の一部を貰い受け、
肌身離さず持っていたものである。
また 郷里秋田での葬儀の時は相沢中佐も出席されたそうである。
相澤、大岸、對馬、菅原の心の結びつきがあった。
「 今日菅原軍曹と一緒に討入りをするのだ 」
と 對馬中尉は気魄をこめて語った。
栗原中尉から計画の説明を受けて私は緊張が次第に高まってゆくのを感じた。
我々の機関銃隊は首相官邸を襲撃することに決っていた。
そして機関銃隊を小銃三小隊と機関銃一小隊に編制し、
栗原中尉は第一小隊を、
私は第二小隊を、林が第三小隊、尾島曹長が機関銃隊を率いることに決定した。
栗原中尉と私、対馬中尉が表門から突入し、
林は第三小隊を率いて裏門から突入することにし、
その後、私が外部を固めて警戒する手筈になっていた。
しばらく経ってから週番指令の山口大尉が部屋に入ってきた。
そして、いつもと違った深刻な表情で、
「 今日の私は本庄閣下の親戚である私と、
一個人の山口としての私との 二つの体を持ちたい 」
と 言った。
皆と一緒に出撃したいが、
襲撃成功後の外交方面を担当するという意味であったように記憶する。
・・・池田俊彦少尉 「 私も参加します 」
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午後6時30分頃  香田大尉、歩一丹生中尉の処へ

午後7時  磯部、山本、自宅を出る 歩一へタクシーで向かう

午後7時頃  村中、安田、中島、タクシーで歩一の栗原中尉の許へ

午後8時  山本少尉、磯部と共に歩一栗原中尉の許へ、 ・・・11中隊将校室の丹生中尉の許へ、村中、香田が既に居た

午後7時頃  香田大尉、歩一の栗原中尉の部屋で野中、村中と会同 -- 丹生中尉の参加を確認す

午後9時  村中、
蹶起趣意書を携えて丹生中尉の許に到り、
  山本又少尉 「 蹶起趣意書 」 印刷す ・・2時間かかる  ・・・ 山本又 『 我等絶體臣道ヲ行ク遺族ヲシテ餓ニ泣カシム勿レ 』

村中、磯部、香田、要望事項の意見開陳案を練る、香田が通信紙に認める

午後9時  栗原中尉、湯河原までの車二台予約す

午後9時30分  7中隊下士官、10中隊下士官全員 ( 新井軍曹を除く )  第七中隊長室に集合す
・・・二月二十五日、
その日は初年兵の実弾射撃訓練で朝から大久保射場に行き指導にあたった。
この時どこからか今夜非常呼集があるかもしれぬといううわさが流れた。
私は別に気にもせず聞き捨てにしていた。
実弾射撃は初めてだったが開始前の注意や要領の説明がよかったのか円満に進み、
かなりの成果を収めた。
このため早く終了したので
残り時間をLGの夜間射撃における命中精度向上手段について訓練をはじめたところ、
下士官集合がかかったので、
あとを加庭上等兵にまかせて鈴木少尉の元に集まると、
「 これから新宿に出てお茶でも飲もう 」 といった。
珍しいこともあるものだと思いながらついて行くと、多分 中村屋だったと思う店に入った。
この時の顔ぶれは 
鈴木少尉と福原、井沢、伊高、大森、井戸川、松本、宇田川、私の下士官八名であった。
しばらくして少尉が茶代を払い、円タクで帰営したが、それから一時間後に兵隊たちが帰ってきた。

その夜 ( 2 5 日 ) 九時頃
鈴木少尉 ( 週番士官に服務 ) の指示で、下士官全員は少尉と共に第七中隊長の部屋に集合した。
部屋の中には七中隊の下士官も集まっていて私たちが入るとすぐ扉をピタリと閉めた。
すでに話が進んでいたらしく机の上には洋菓子と共にガリ版の印刷物があった。
野中大尉は私たちを見ると一寸顔をくずし、「 十中隊もきてくれたか 」 といってすぐ切り出した。
話の内容は
相澤事件の真意、昭和維新の構想、蹶起の時期、
といったやはり私が予想していたことの具体的解説とその決意であった。
「 今述べたことをこれから実行する。そこで貴君等の賛否を伺いたい 」
大尉の顔がひきしまり、目が光った。
私たちは蹶起が正しいことなのか邪であるのか考えたが判断がつかず、しばし声なく数分間の沈黙が流れた。
やがて私は、
「 賛成します 」 と答えた。
すると他の下士官も追随して賛意を示したので、
それを聞いた野中大尉は、
「 賛成してくれたか、それでは細部について述べるが、まさか裏切ることはあるまいな 」
といいながら全員の顔を机上に集めて地図を拡げた。
以下 大尉の話は核心に触れていった。
出動部隊名、兵力、各部隊の襲撃目標、そして中隊における非常呼集の時刻、
兵の起こし方、装備、携行品等、こと細かく説明が続いた。
第十中隊は第三、第七中隊と共に警視庁を襲撃することを確認したとき何か体が引締まる思いがした。
その時ノックする音が響いた。
一瞬ギクリとしながらも内側から聞くと
見知らぬ将校が御苦労といいながら飛込んできた。
野中大尉の紹介で その人が 磯部一等主計であることを知った。 
彼は重ねて 「 よろしくたのむ 」 とあいさつし、
約十分間ほど゛紅茶を飲み菓子を食べながら雑談して帰っていった。
何の理由できたのか不明だが 恐らく激励か蹶起の確認にきたのではなかろうか。
それから三十分位いたった頃、野重七の田中中尉がきた。
彼も紹介によって同志の一人であることが判った。
彼は顔を見せた程度ですぐ出ていったが、営門前に彼の指揮するトラック数輌が待機しているとのことであった。
私たちはなお十一時頃まで出動上の細部打合せを行い ようやく野中大尉の部屋を辞去した。

・・・野中大尉 「 同志として参加してもらいたい 」
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午後10時頃  栗原中尉、聯隊本部の兵器掛 石堂軍曹を威し弾薬庫を開ける

午後10時頃  鈴木少尉、10中隊の下士官を連れて野中大尉の許へ・・指揮下に入る

午後10時過ぎ  水上ら湯河原襲撃組の民間人、栗原中尉に面会すべく歩一に入る

午後11時  高橋少尉、常盤少尉、日本橋の末広亭での夕食を済ませ帰隊す
 河野大尉、機関銃隊に到着

午後11時  西田税、千坂海軍中将の通夜に行く

午後11時55分頃  安藤大尉、週番司令として柳下中尉に命令下達

21:00
第六中隊下士官集合・・・中隊長より訓示
点呼終了後階下の広場で行われた
訓話を始めるにあたって先ず準備された黒板に富士山の絵をかき、
次に白墨を横にして富士山を塗りつぶした。
「 今の日本はこのように一部の極悪なる元老、重臣、軍閥、官僚等の私利私欲によって
このように汚され、今や暗雲に閉されようとしている。
今こそ我々の手によってこの暗雲を払いのけ 日本を破滅から救い
国体の擁護開顕を図らなければならぬ 」
24:00
安藤大尉は次の命令を下した。
1  かねて相沢事件の公判に際し、真崎大将の出廷による証言を契機とし、
    事態は被告に有利に進展することが明かとなれり。
2  しかるに この成行きに反発する一部左翼分子が蠢動し、
    帝都内攪乱行動に出るとの情報に接す。
3  よって 聯隊は平時の警備計画にもとづき  
    主力をあげて警備地域に出動し、警備に任ぜんとす。
4  出動部隊は第一、二、三、六、七、一〇の各中隊とし、
    機関銃隊は一六コ分隊を編成し、各中隊に分属せしむべし。
5  命令 「 柳下中尉は週番司令の代理となり 営内の指揮に任ずべし 」
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北一輝
西田ニ對シ、
「 君ハ何ウスルノカ 」
ト尋ネルト、西田ハ悲痛ナ顔色ヲシテ、
「 今度ハ私ヲ止メナイデ下サイ 」
ト申シマシタ。
五 ・一五事件ノ時、
其ノ一ケ月半程度前ニ私ガ西田ニ忠告シテ、彼等ノ仲間カラ手ヲ引ク様ニシタ爲、
西田ハ遂ニ裏切者ト見ラレテ川崎長光カラ狙撃セラレ、重傷ヲ受ケタノデアリマス。
爾來西田ハ、同志カラハ官憲ノ 「 スパイ 」 ノ如ク見ラレ、
此事ヲ非常ニ心苦シク感ジテ居ツタ様デアリマシタ。
其ノ後ハ、西田が起タヌカラ靑年將校ガ蹶起シナイノデアル、
西田サヘ倒セバ靑年將校ハ蹶起スルト云フ風ニ同志カラ一般ニ思ハレテ居ツタ様デアリ、
西田ハ妙ナ立場ニ置カレテ苦シンデ居リマシタ事ハ、私モ承知シテ居リマシタノデ、
西田ハ右ノ如ク 「 今度ハ止メナイデクレ 」 ト悲壯ナ言ヲ發シタ時、
私ハ胸ヲ打タレタ様ニ感慨無量トナリ、非常ニ可愛サウナ氣持ニナリマシタ。
此氣持ハ 西田ト私トノ關係ヲヨク知ツテ居ル者デナケレバ、諒解の出來難イ點デアリマス。
私ハ 只 「 サウカ 」 ト言ツテ彼ノ申出ヲ承認セザルヲ得ナカツタノデアリマス。
ソシテ 西田ハ遂ニ靑年將校ノ大勢ニ動カサレテ、
彼等ト合流シテ行カザルヲ得ナイコトニナツタカト考ヘ、
斯様ニナツタ上ハ、私モ只西田ノ行動ニ從ツテ、
唯々諾々トシテ西田ニ從ツテ行ツテヤルヨリ外ナシト覺悟ヲキメタノデアリマス。
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・・・次項 二・二六事件蹶起 二月二十六日 『 勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ 』 へ 続く


二 ・ 二六事件前夜 二月二十四日 村中孝次 『 蹶起趣意書 』 を起草

2024年02月24日 08時04分18秒 | 道程 ( みちのり )

2月23日(日)   
西田税、北一輝邸へ
磯部浅一、西田税を訪ねる  ・・西田不在・・妻初子に26日早朝の蹶起を伝言を依頼  ・・・
西田はつ 回顧 西田税 2 二・二六事件 「 あなたの立場はどうなのですか 」
朝まだき  林少尉、池田少尉を訪ねる ・・・池田俊彦少尉 「 私も参加します 」
午前中  栗原中尉、豊橋駅前の旅館 「 つぼや 」 で竹嶌、對馬と会合・・・栗原、深夜帰京
午前中、磯部、田中中尉に 「 本日午後四時磯部宅に来れ 」 の電報を打つ
午前11時  村中、香田大尉宅へ
・・・香田清貞大尉の参加
午後3時前  澁川善助、小石川道場を出る。
午後4時  田中中尉、磯部宅へ・・磯部、田中に決行の日時と計画内容を告げる
午後5時過  渡辺鉄五郎一等兵、帰営時間に間に合わず ・・・「 中隊長のために死のうと思っただけです 」
午後5時  澁川善助、湯河原駅に到着 ・・・渋川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」
午後7時  歩三週番指令室に野中、香田、村中、磯部、安藤、坂井、集合す  ・・・合言葉 「 尊皇討奸 」 「 三銭切手 」 を決める
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・・・前頁 二 ・ 二六事件前夜 二月二十三日 西田税『 今まではとめてきたけれど今度はとめられない、黙認する 』 の 続き
二 ・ 二六事件前夜
2月24日(月)
朝  歩一に出勤した栗原中尉、林少尉に蹶起計画を告ぐ

朝食後  澁川、伊藤屋別館を視察す・・ 澁川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」 

午後  磯部、千駄ヶ谷の西田税宅へ・・西田税不在

午後3時頃  常盤少尉、鈴木 清原少尉とともに野中大尉に呼ばれ蹶起の任務分隊を命ぜらる

午後7時半  西田税、歩一週番司令室の山口大尉を訪問 ・・「 実に弱ったことになった 」

午後9時頃  坂井中尉、高橋少尉、麦屋少尉と共に斎藤内府私邸を偵察す ・・高橋太郎少尉の四日間 1 

午後9時頃 
村中孝次、北一輝邸を訪問 ・・『 蹶起趣意書 』 を作成す

午後10時過  西田税、岩崎豊晴私邸を訪ねる 
・・・この夜の寒さは格別だったので、岩崎は珍しく外出せず、自宅で晩酌を楽しんでいた。
すると十時過ぎになって、西田税がぶらりとやって来た。
早速二人で飲みはじめると、西田の表情がいつになく憔悴したように見えたので、
岩崎が問い詰めると、西田がようやく重い口を開いた。
「 近く、どうしてもやらなければならなくなった 」
「 やるというのは、実力行動か ? 」
「 う む、これまでのいきさつからいっても、今度ばかりはどうしても止められない。
 無理に止めようとすれば、彼らは俺を殺してでも蹶起するだろう 」
「 だが、そこが先輩の責任だ。貴様が止めなくて一体誰が止めるんだ 」
「 いや、それでは、俺も職業革命家とか、西田は命が惜しいのだと非難される。卑怯者にはされたくない 」
「 馬鹿をいえ。今やって成功すると思うか。磯部や栗原に引きずられてどうするのだ 」
「 もう、俺も引くに引けないところまできてしまった。 それで今夜は貴様に別れに来たのだ 」
酒が冷えてしまった。
西田の沈痛な表情には、すでに、覚悟の色が歴然と現れていた。
岩崎は西田の表情から、今度は本物に違いないと思った。やがて熱燗がくると、
再び飲みはじめたが、いかにも苦い酒であった。
西田ほどの奴が、これほどまでに決心したのだから、恐らくもう止められないだろう
・・と 岩崎は察した。
・・・
「 貴様が止めなくて一体誰が止めるんだ 」 

午前0時半頃  西田税、帰宅  磯部の置手紙 ・・「 二月二十六日の朝だと都合が良いと云つてます 」 

歩一週番指令室で野中、香田、村中、磯部、 
山口、打合せ


野中四郎大尉    香田淸貞大尉      村中孝次           磯部淺一  
・・・野中大尉は自筆の決意書を示して呉れた。
立派なものだ。
大丈夫の意気、筆端に燃える様だ。
この文章を示しながら 野中大尉曰く、
「 今吾々が不義を打たなかったならば、吾々に天誅が下ります」 と。
嗚呼 何たる崇厳な決意ぞ。
村中も余と同感らしかった。
野中大尉の決意書は村中が之を骨子として、所謂 『 蹶起趣意書 』 を作ったのだ。
原文は野中氏の人格、個性がハッキリとした所の大文章であった。
・・・磯部浅一、行動記  第十 「 戒厳令を布いて斬るのだなあ 」 

吾人の蹶起の目的は 『 蹶起趣意書 』 に明記せるが如し。
本趣意書は二月二十四日、
北一輝氏宅の仏間、
明治大帝御尊象の御前に於て神仏照覧の下に、
余 ( 村中孝次 ) の起草せるもの、
或は不文にして意を盡すと雖も、
一貫せる大精神に於ては
天地神冥を欺かざる同志一同の至誠衷情の流路なるを信ず。
・・・村中孝次、丹心録 「 吾人はクーデターを企図するものに非ず 」 

 北一輝宅の仏間
(  二月二十四日 村中孝次、北一輝邸ヲ訪ル )
明治陛下御尊像前デ法華経ヲ讀誦シタ際 妻ニ靈告ガアリ、
  大内山ニ光射ス 暗雲無シ
 ト現ハレタノデ、青年将校蹶起ノ目的モ天聴ニ達シ、
比較的純心ノ人々デ内閣ヲ組織スルニ至ルモノト思ヒ、
 「 豫テ皇室ノ事ヲ御心配申上ゲテ居ツタガ、之デ大ニ安心シタ 」
 ト 村中ニ言ヒマシタ、
村中ガ野中大尉ノ書イタ 「 蹶起ニ關スル決意 」 ト題スルモノヲ見セタノデ、
私ハ夫レヲ一讀シ、
野中大尉ニハ一度モ面會シタコトガナイガ、
其ノ至誠ガ紙面に躍動シテ居ルノヲ感ジ、
實ニ名文デアルト思ヒマシタノデ、
「 名文ト云フモノハ至誠カラデナイト出来ナイモノデアル 」
 ト感歎ノ辭ヲ漏シタ
・・・北一輝、予審訊問調書から
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・・・次頁 
二 ・ 二六事件前夜 二月二十五日 林八郎 『 おい、今晩だぞ。明朝未明にやる 』 に 続く


二 ・ 二六事件前夜 二月二十三日 西田税 『 今まではとめてきたけれど今度はとめられない、黙認する 』

2024年02月23日 10時57分50秒 | 道程 ( みちのり )

2月18日
山口大尉から西田税に電話・・・西田、栗原中尉を呼付ける
午後六時過  栗原中尉、西田税を訪る ・・「 貴方には関係ない 」 ・・・私は諸君と今迄の関係上自己一身の事は捨てます
夜  目黒区駒場の栗原宅に安藤、村中、磯部、 河野が集合

2月19日
磯部淺一、西田税を訪る・・・大体の計画を打明ける
・・・行動記 第十一 「 僕は五一五の時既に死んだのだから諦めもある 」
午前10時  磯部、豊橋の對馬中尉宅へ
夜  栗原宅で会合  磯部、村中、安藤、栗原

2月20日 
夕方  安藤大尉、西田税を訪る

「 最近何カヤロウト云フ空氣ニナツテ居テ、自分(安藤) ハヤルトナレバ重鎭デアルガ、
後ノ事ガヨイカ惡イカ判断ガツカヌト申シマシテ、一週間位前ニ將校ガ集ツテ相談シ、
其時、野中大尉ニ話ヲシマシタ処、叱ラレマシタ。
ソコデ一應斷リマシタ。村中ニモ話シマシタガ、同ジ様ニ叱ラレマシタ。
ソレデ從來ノ例カラ、今度ハ全般ノ空氣ガ治まラナクナツタト申シテ居リマシタ。
尚、ノツピキナラナイカラ、若シ貴方ガ反對スレバ命モ取ラナケレバナラナイト申シテオリマシタ

私ハ安藤ニ、僕ノ意見トシテハ直接行動ハヤツテ貰ヒタクナイ。
場合ニヨツテハヤルベキダガ、現在ハ時機デハナイト申シマスト、
安藤ハ大體私ノ意見ヲ聞イタ様デシタ。
今回ノ原因ハ、一ツハ満洲ヘ行ク爲デシタカラ、私ハ一般ノ人ハ實際ニ感心シナイダロウシ、
諸君ガヤレバ僕モ一緒ニヤラレテシマフ。
ドウシテモヤルナラ押ヘテモ押ヘ切レナイ時ニヤルベキダト申シマシテ、
藤井 (藤井齊海軍大尉) ガ上海デ戰死シタ話ヲシテ、
私ハ自分ノ以前ノ體驗カラシテ、永年情誼ノ人ガヤル事デアルカラ、之ヲ理解サシテ、
ヤル事ヲ留メナケレバ私ノ一生モ棒ニ振ツテ仕舞フト申シマシテ、
諸君ガ是非ヤルナラ私ハ留メナイガ、間違ヒナイ様ニ僕ハ覺悟シテ居ルトモウシマシタ 」
・・・西田税憲兵調書原文のまま
私は諸君と今迄の関係上自己一身の事は捨てます
行動記 ・ 第十一 「 僕は五一五の時既に死んだのだから諦めもある 」

2月21日
西田税、山口大尉宅を訪る

磯部と村中、歩一の山口大尉を訪ねる
夕刻  豊橋部隊会合、對馬中尉、竹嶌中尉、鈴木一等主計、塩田中尉、井上中尉・・・斯くて 興津の西園寺公望襲撃は中止された
午後11時頃  磯部、村中、澁川 は世田谷上馬の安藤宅へ

2月22日   第九回相澤公判 
 早朝  磯部浅一、安藤大尉私邸を訪ねる

「 磯部 安心してくれ、俺はヤル、本当に安心してくれ 」・・・安藤大尉の決意
 安藤大尉、聯隊に到着し坂井中尉に参加の旨告げる
正午前  第一師団の満州派遣が師団命令により聯隊将兵に通達せらる
 正午  安藤大尉週番指令に  野中大尉、安藤大尉より参加の決意を知らさる
 昼食後  坂井中尉、将校集会所で高橋少尉に蹶起の時期切迫を告げる
 午後4時  磯部、村中、四谷の野中大尉宅へ・・・「 野中大尉の決意書 」・・・『 
蹶起趣意書 ・・・※24日
 夕刻  高橋少尉、中隊将校室で坂井中尉と会合・・遺書を認 したためる
 夜  駒場の栗原中尉宅で栗原、中橋、河野、村中と磯部が集合 ・・・『 尊皇討奸 の合言葉 』 決める ・・・
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二 ・ 二六事件前夜

2月23日(日)
西田税、北一輝邸へ

磯部浅一、西田税を訪ねる  ・・西田不在・・妻初子に26日早朝の蹶起を伝言を依頼  ・・・
西田はつ 回顧 西田税 2 二・二六事件 「 あなたの立場はどうなのですか 」

朝まだき  林少尉、池田少尉を訪ねる ・・・
池田俊彦少尉 「 私も参加します 」

午前中  栗原中尉、豊橋駅前の旅館 「 つぼや 」 で竹嶌、對馬と会合・・・栗原、深夜帰京

午前中、磯部、田中中尉に 「 本日午後四時磯部宅に来れ 」 の電報を打つ

午前11時  村中、香田大尉宅へ
・・・香田清貞大尉の参加

午後3時前  澁川善助、小石川道場を出る。


午後4時  田中中尉、磯部宅へ・・磯部、田中に決行の日時と計画内容を告げる

午後5時過  渡辺鉄五郎一等兵、帰営時間に間に合わず 
・・・
「 中隊長のために死のうと思っただけです 」

午後5時  澁川善助、湯河原駅に到着
  ・・・
渋川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」

午後7時  歩三週番指令室に野中、香田、村中、磯部、安藤、坂井、集合す  ・・・合言葉 「 尊皇討奸 」 「 三銭切手 」 を決める
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夕方 
西田税、26早朝の蹶起を知る
わたくしはあの事件の起きますことを、二月二十三日に知ったのでございます。
西田の留守に磯部さんが見えまして、
「 奥さん、いよいよ二十六日にやります。
 西田さんが反対なさったらお命を頂戴してもやるつもりです。とめないで下さい 」
と おっしゃったのです。
その夜、西田が帰って参りましてから磯部さんの伝言をつたえました。
「 あなたの立場はどうなのですか 」
「 今まではとめてきたけれど、今度はとめられない。 黙認する 」
西田はかつて見ないきびしい表情をしておりました。
言葉が途切れて音の絶えた部屋で夫とふたり、
緊張して、じんじん耳鳴りの聞こえてくるようなひとときでございました。
・・・西田はつ
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次頁 二 ・ 二六事件前夜 二月二十四日 村中孝次 『 蹶起趣意書 』を起草 に 続く


昭和・私の記憶 『 二・二六との出逢い 』

2023年02月24日 18時12分52秒 | 昭和 ・ 私の記憶

私の
二 ・二六
との出逢い

昭和49年1月21日(月)
会社の帰り、先輩に伴い大阪梅田の旭屋書店に、
先輩につられた訳ではないが、書棚に目を遣っていた。 
そして、居並ぶ書籍の中から、なにげなしに目にとまったのが
『 天皇制の歴史心理 』
それは、偶然の如くか それとも必然なりしか
私は 「 天皇 」 と 出遭ったのである。

「 天は、自分にこの本を読ませようとしている 」

『 天皇制の歴史心理 』  ・・1974年1月21日
『 天皇制 』  ・・1974年1月25日
『 我々にとって天皇とは何か 』  ・・1974年1月25日
『 内なる天皇制 』  ・・1974年2月2日

「天皇とは日本人の意志の統合である」
「大御心は一視同仁にあらせられ、名もなき民の赤心と通ずるもの」 
「赤心の赤子たる日本人」 
「日本人の赤心は必ずや天に通ずるもの」 
云々、と
「 天皇 」 から始まり
さらに 日本人とは如何 に展開して行く
そして、

昭和49年 ( 1974年 ) 2月12日
『 二 ・二六 』 との確かな出逢い
・・玆に始る
私、19歳 ( 1954年生まれ )

・・・ リンク → 男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (一)
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↓  出逢いの記録        『 書籍 』        著者         購入年月日
『 二 ・二六事件と下級兵士 』  東海林吉郎 ・・1974年2月12日
『 二 ・二六事件と下士官兵 』  山岡明 ・・1974年2月14日
『 二 ・二六事件への挽歌 』  大蔵栄一 ・・1974年2月25日    ★★★
『 花ざかりの森 ・憂国 』  三島由紀夫 ・・1974年2月28日
『 二 ・二六事件獄中手記 ・遺書 』  河野司 ・・1974年3月4日    ★★★
『 二 ・二六事件 』  高橋正衛 ・・1974年3月16日
『 日本国家主義運動史Ⅰ・Ⅱ 』  木下半治 ・・1974年4月2日
『 現代日本思想大系 超国家主義 』  橋川文三 ・・1974年4月2日   
『 二 ・二六事件の原点 』  芦澤紀之 ・・1974年6月4日
『 昭和史発掘 六~十三 』  松本清張 ・・1974年6月22日
『 二 ・二六と青年将校 』  松沢哲成 ・・1974年6月22日
『 英霊の聲 』  三島由紀夫 ・・1974年7月1日    ★★
『 妻たちの二 ・二六事件 』 澤地久枝 ・・1974年7月30日
『 奔馬 』  三島由紀夫 ・・1974年8月8日
『 秩父宮と  二 ・二六 』  芦澤紀之 ・・1974年8月19日
『 私の昭和史 』
  末松太平 ・・1974年9月7日    ★★★
『 天皇制の支配原理 』  ・・1974年9月29日
『 一億人の昭和50年史 』  毎日グラフ  ・・1974年11月30日
『 東京12チャンネル 私の昭和史 』  ・・1974年12月7日
『 順逆の昭和史 』  高宮太平 ・・1974年12月7日
『 軍閥 二 ・二六事件から敗戦まで 』  大谷敬二郎 ・・1974年12月7日
『 二 ・二六事件 』 大谷敬二郎 ・・1974年12月24日   


『 現代史資料 5  国家主義運動 2  』  今井清一 / 高橋正衛 ・・1975年2月9日    ★★
『 現代史資料 23  国家主義運動 3 』  今井清一 / 高橋正衛 ・・1975年2月9日    ★★
『 現代史資料 4  国家主義運動 1  』  今井清一 / 高橋正衛 ・・1975年2月23日    ★★
『 二 ・二六事件秘録 (一) 』  小学館 ・・1975年3月10日   
『 一億人の昭和史 2⃣ 二 ・二六事件と日中戦争 』  毎日新聞社 ・・1975年5月25日    
『 ドキュメント日本人3  反逆者 』 
 村上一郎 ・・1975年8月9日    
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『 私の二 ・二六事件 』  河野司 ・・1976年3月3日
『 二 ・二六事件秘録 (二) 』  小学館 ・・1976年3月19日   
『 二 ・二六事件秘録 (三) 』  小学館 ・・1976年3月19日   
『 二 ・二六事件秘録 (四) 』  小学館 ・・1976年6月26日   
『 現代のエスプリ ・二 ・二六事件 』  利根川裕 ・・1976年10月26日   
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『 香椎戒厳司令官秘録二 ・二六事件 』  香椎研一 ・・1980年3月6日
『 二 ・二
六事件秘話  』  河野司 ・・1983年3月23日
『 西田税  二 ・二六への軌跡 』  須山幸雄 ・・1992年   
↑  出逢いの記録        『 書籍 』        著者         購入年月日
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以降、記録 ( 年月日 ) 不明        『 書籍 』        著者         数値は発刊年
事件参加将兵の著書
『 生きている二 ・二六 』  池田俊彦  1982   
『 その後の二 ・二六 獄中交遊録 』  池田俊彦  1997
『 二 ・二六事件蹶起将校 最後の手記 』  山本又  2013
『 二 ・二六事件と郷土兵 』  埼玉県史刊行協力会  1981   
『 雪未だ降りやまず 』  埼玉県史刊行協力会  1982    
『 罪は刑にあらず ある下士官の二 ・二六事件 』  福本理本  1986

青年将校の著書
『 軍隊と戦後のなかで 』  末松太平  1980   
『 恋闕 』  黒崎貞明  1980   
『 一革新将校の半生と磯部浅一 』  佐々木二郎  1981   
『 同期の雪 』  小林友一  1981

参加将校の遺族/関係者の著書
『 二 ・二六事件 』  河野司  1957
『 湯河原襲撃 』  河野司  1965
『 遠景近景 』  斎藤史  1980
『 ある遺族の二 ・二六事件 』  河野司  1982
『 天皇と二 ・二六事件 』  河野司  1985
『 一青年将校 』  高橋治郎  1986
『 機関銃下の首相官邸 』  迫水久常  1986
『 本庄繁日記  本庄繁  1989
『 二 ・二六事件青年将校 安田優と兄 ・薫の遺稿 』  社会運動史研究会  2013

事件に関係する憲兵の著書
『 二 ・二六事件の謎 』  大谷敬二郎  1975
『 ある情報将校の記録 』  塚本誠  1979
『 昭和憲兵史 』  大谷敬二郎   1987
『 首相官邸の血しぶき 』  青柳利之  1987
『 ある憲兵の記録  朝日新聞山形支局   二・二六事件異聞 』

事件を扱った著書
『 天皇と叛乱将校 』  橋本徹馬  1954    
『 北一輝論 』  村上一郎  1970
『 暁の戒厳令 』  芦澤紀之  1975
『 二 ・二六事件 = 研究資料Ⅰ』  松本清張 / 藤井康栄  1976
『 天皇 』  児島襄  1981
『 二 ・二六事件青春群像 』  須山幸雄  1981
『 二 ・二六事件の兵隊 』  須賀長市  1983
『 二 ・二六事件の礎 安藤輝三  』  奥田鑛  1985
『 二 ・二六事件 = 研究資料 Ⅱ 』  松本清張 / 藤井康栄  1986
『 二 ・二六事件  全三巻 』  松本清張  1986
『 磯部浅一と二 ・二六事件 』  山崎國紀  1989
『 叛徒 』  平澤是曠  1992
『 盗聴 二 ・二六 』  中田整一  2010
『 ワレ皇居ヲ占拠セリ 』  仲乗匠  1995
『 昭和維新の朝 』  工藤美代子  2008
『 禁断 二・二六事件 』  鬼頭春樹  2012
『 実録 相沢事件  二 二六への導火線 』  鬼頭春樹  2013
『 昭和天皇に背いた伏見宮元帥 』  生出寿  2016

『 昭和史探索 ・3  われらが遺言 ・50年目の2 ・26事件 』  半藤一利 編  1986
『 目撃者が語る昭和史第4巻 二 ・二六事件 』  義井博編  1989
『 目撃者が語る昭和史第2巻 昭和恐慌 』  山崎博編  1989
『 NHK歴史への招待  二 ・二六事件 』  日本放送出版協会  1989
『 実録コミックス   ( 1991年3月10 日初版)  叛乱!  二 ・二六事件 ❶  雪の章  あとがき  山口一太郎大尉のこと 』  元東京日日新聞記者  石橋恒喜
『 実録コミックス   ( 1991年3月10 日初版)  叛乱!  二 ・二六事件 ❸  霧の章  あとがき  今、想う 二 ・二六事件への総括 』  元東京日日新聞記者  石橋恒喜

『 2 ・26事件の謎 』  新人物往来社編  1995
『 2 ・26事件と昭和維新  別冊歴史読本 』  1997
『 図説  2 ・26事件 』  太平洋戦争研究会編  平塚柾緒  2003

< 
註 
私にとって、「 受容れ難いもの 」、「 記憶に薄いもの 」、等々の書籍は掲載せず。

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タクシーはNHKホール前 交叉点に着いた
目の前に大勢の若者が居て、それは、祭りの如く賑やかであった
然し、肝心要の渋谷区役所が判らない
道路向にパラソルの露店をみつけた
斯の売り子に尋ねてみようと、わざわざ道路をわたったのである
「渋谷区役所は何処ですか」
「後ろですよ」
「後ろ ?」
なんと私は、渋谷区役所を背負っていたのである
私の脳裡には、目的の位置はしっかり焼付いている
渋谷区役所の隣りが渋谷公会堂、更に渋谷税務署と続く
渋谷公会堂での、コンサートに由り 大勢の若者が集まっていたのである
・・
目的地は直ぐそこ哉、気が逸る
そして

「ああ・・・あった」
一人 声無き歓声を上げた私
「神達と逢いたい」 との、夢が現実のものと成りし瞬間である
やっと、辿り着きし
二・二六事件慰霊像
神達の処刑場跡地に建立されし、慰霊像
昭和49年 (1974年 ) 8月7日(水)
二十歳の私 
昭和維新の神達と 初めて直接接点を持ったのである
言い替えらば
歴史との、記念すべき感動の 出逢いであった。


昭和・私の記憶 『 西田税との出逢い 』

2023年02月22日 04時39分31秒 | 昭和 ・ 私の記憶

   
出逢い
私の
二 ・二六事件との確かな出逢いは、
昭和49年 ( 1974年 )
2月12日、東海林吉郎著 『 
二 ・二六と下級兵士 』 
2月14日、山岡明著 『 二・二六事件と下士官兵 』  から始まり、
続いて、昭和49年 ( 1974年 ) 3月4日、
河野司編 『 
二 ・二六事件  獄中手記遺書 』 より、二十二士を知る。
 
西田税 
斯の写真との出遭いは衝撃であった
これぞ 日本人
私の理想とする、日本人の面構え
それは真まさに、『 国士 』
・・・と、
私は 斯の写真に
私のDNAの中に存する、
『 国士 』 への憧憬をみた
・・・一つの写真との出遭い 

さらに、昭和49年 ( 1974年 ) 4月2日、
『 現代日本思想体系 超国家主義 』 で
『 西田税  夢眼私論 』 と出逢った。
それは、衝撃的なものであった。

無眼私論
青年将校運動の指導者 西田税が、大正11年 ( 1922年 ) 春、

21歳の青年期、病床で記した感想録である。
「 西田税の乃公自作の真理 」 は、
52年後の 昭和49年 ( 1974年 )4月、
19歳の私に届いた。

「 吾意 得たり 」
これが、私の実感であった。
そして、19歳の私は
「 祖父の想い 」 として、これをを継承しようと誓った。
 ・・・リンク→ 祖父 の 遺伝子 

翌年の昭和50年 ( 1975年 ) 8月9日、
西田税自伝 『 戦雲を麾く 』 を知る。
茲で私は、西田税を
心懐の中心とし
たのである。
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先覚者 ・青年将校運動のリーダー達

それぞれの

西田税との出逢い



大蔵栄一
革新の気秘めて、桜会出席 
大正の末期から昭和の初頭にかけて、世の中は大動乱の胎動を始めていた。
経済的には政友会、民政党と政権が替わるごとに 金輸出禁止政策から金解禁政策へと、
ネコの目のように変わった。

大恐慌は国民に上に重くのしかかった。
かてて加えて 天候の異状は大冷害となって、東北地方の農民をいよいよ窮地に追い込んだ。
未曾有の農業恐慌が起こる。
政界では疑獄 ( 汚職 ) の続出で、貧官汚吏の高官どもが私欲をほしいままにした。
大正七年のロシア革命の成功は、日本にも もとより無縁ではなく、
この思想は不景気、恐慌の下にあえぐ国民の間にも浸透していく。
外交問題では 昭和五年のロンドン軍縮条約のごとく英米の圧迫によってわが海軍艦艇の保有量の制限を強いられ、
数量の削減、制限を受けざるを得なくなった。
国民は不安の声をあげ、怨嗟えんさの叫びは大きくウズを巻き始めた。
この海軍軍縮の条約締結は統帥権干犯の事実ありとして、
時の総理大臣浜口雄幸が東京駅頭で十九歳の青年佐郷屋留雄により襲撃されるという不祥事件をひき起すにいたる。
・・・・世の中は大きく揺れはじめていた。

私が初めて 『 桜会 』 ( 橋本欣五郎中佐らを中心とした軍内の革新団体 ) に出席したのは、
昭和六年五月ごろであった。
最初だれに誘われて行ったのか、今では全く記憶にない。
約五十名が偕行社に集まっていた。
参謀肩章を吊った佐官連中や、陸軍省あたりの中堅将校と思われる 『 天保銭 』 ( 陸大出 ) のお歴々が、
キラ星の如く並んだありさまは、私には偉観であった。
橋本欣五郎中佐 ( 陸士二十三期 ) 樋口季一郎中佐 ( 陸士二十一期 ) など数人によって、
内外時局の緊迫せる状況や、国内革新の必要であることなど、かわるがわる熱弁がふるわれた。
私が菅波三郎中尉に再会したのも、この日である。
菅波は熊本幼年学校の同期生で、このとき鹿児島の四十五聯隊から麻布の三聯隊に転任してきたばかり、
陸士卒業以来六年ぶりであった。
それからは、菅波と私はしげしげと会った。
菅波三郎中尉
北・西田・村中との出会い
この菅波に紹介されて会ったのが西田税 ( 陸士三十四期 ) である。
当時、西田は代々木山谷に居を構えていた。
大正十二年、私が士官候補生として羅南の七十三聯隊に飛ばされたころ、
西田は同じ羅南の騎兵二十七聯隊の新品少尉であった。
熊幼の同期生である親泊朝省 ( 終戦時、家族とともに自刃 ) が騎兵の士官候補生であったので、
私は親泊を通して、西田のことは時々聞いて知っていた。
一度たずねてみたいと思っていたが、士官候補生生活が一か月目には胸膜炎で入院、
その後自宅療養を命ぜられた郷里に返されたので、
ついに会う機会を得ないままこの日に至ったのであるが、菅波の紹介で初めて会ったというわけだ。
村中孝次中尉 
菅波の家で、私は同期生の村中孝次中尉とも会った。
村中とは陸士の本科では同中隊であったし、私が戸山学校で一般学生であったとき、彼は長期学生であった。
小男であるが からだはがっちりしていた。
剣術、体操ともに抜群であるとは、だれもが思えぬような静かなやさ男であった。
彼は旭川二十六聯隊から士官学校予科の区隊長に転任してきていた。
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・・・挿入・・・
観兵の予行と校長宮殿下の訓示と午前中あり。
午後、用弁外出。
直ちに井本、菅波等六名と共に日本改造の闘将北一輝を千駄ヶ谷に訪ねる。
彼の軍隊観を質さんが為
簡素な応接室の椅子の上に安座せし彼は隻眼の小丈夫。
『 日本の現在を如何に見ますか 』
と 反問を発したる後、
宗教、科学、哲学より悪に対する最後まで戦闘精神を説きて我等を酔はしむ。
其の熱と夫その力。
酒脱、豪放、識見、一々敬せざるを得ず。
『 諸君は我日本を改造進展せしむるに最も重大なる責任を有する位置に在ることを光栄とし、
今後大いに努力し給へ 』 。
・・村中孝次  大正十四年 (1925年) 七月二十二日の日記

『 国体論及純正社会主義 』 北一輝著
北は ここで  社会を日本の国体と合一させようとする論を試み
その諸言で  「 破邪は顕正に克つ 」 という日蓮的な言葉を使っている
「 吾人の挙は一に破邪顕正を以て表現すべし、
破邪は 即 顕正なり、
破邪顕正は常に不二一体にして事物の表裏なく、
国体破壊の元凶を誅戮して大義自ら明らかに、大義確立して、民心漸く正に帰す。
是れをこれ維新というべく、少なくとも維新の第一歩にして 且 其の根本なり、
討奸と維新と豈二ならんや 」 ・・・獄中手記 『 続丹心録 』
・・と、
元老、重臣らの中の天皇の大御心を妨げる元凶を取除くことが、
「 破邪顕正 」 で 昭和維新に通ずることである。
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北一輝
西田税につれられて、北一輝とも会った。
貴公子然とした風丰ふうぼうから感ぜられる威圧感に、彼独特のものがあった。
「 北さんと相対すると、いつも威圧されるんだ。死んだ方の目だけ睨みつけて話をすると大丈夫だ 」
と、あとで西田から教わったことがある。それほど北の威圧は強烈であった。
彼の左眼は義眼であった。
『 隻眼せきがんの反逆児 』 とか、『 独眼竜の魔王 』 とかいわれるゆえんである。
昭和初期の大衆作家 林不忘は、北が学んだ佐渡中学の校長の子息である。
北家をしばしば訪問しているうち、北のニヒリスト的魔性の一面にヒントを得て書き上げたのが、
『 丹下佐膳 』 であるといわれている。
そのころ北一輝は大久保百人町に住んでいた。
私も大久保に住んでいたので、日曜日にはよくたずねて、『 日本改造法案大綱  』 の疑問点を無遠慮にぶつけたものだ。
「 北さんはいつも法華経を上げているようですが、日蓮宗でしょうか 」
私の質問は子供じみていた。
「 日蓮は、オレの友達だよ 」
北の答えは、簡明直截ちょくせつであった。
私らがこんな答えをするとキザっぽく聞こえるが、北一輝の場合は、気宇壮大に思えるから不思議なのである。
北の言説と青年将校
また、北はいったことがある。
「 幸徳 ( 秋水 ) は、わたしの本 ( 『 国体論及び純正社会主義 』 ) を読み違えてあんなことをしでかしてしまった。
あのとき ( 大逆事件 ) 、私は死刑のグループに入れられていた。
だが明治天皇は、多すぎると仰せられて、お許しにならなかった、
次々に死刑の人数が削られていって、わたしは何回目かに死刑からはずされていた。
それからわたしは、仏間に明治天皇の肖像画を掲げて毎日拝んでいる 」
そういえば、北の仏間には西郷隆盛と明治天皇の大きな額が掲げられてあって、私は何回か拝んだことがある。
 北一輝の祭壇
そのころは北一輝の 『 国体論及び純正社会主義 』 という本は、どこを探しても見当たらない幻の本であった。
もちろん北の家にも、西田の家にもなかった。
ただ西田の家に筆写した大部のものが一時おいてあったのみで、
私は、大いそぎで走り読みすることができた程度で、熟読玩味がんみするわけにはいかなかった。
したがって大半の青年将校は、この 『 国体論及び純正社会主義 』 には眼を通したことも、手に持ったこともなかったはずだ。
大体、北一輝の思想を青年将校たちは深く掘り下げて研究しておらず、
したがって充分咀嚼そしゃくしていなかった---と 指摘する論者 ( 例えば 『 北一輝 』 の著者 長谷川義記 ) がいるが、
私も全くその通りだと思っている。
『 国体論及び純正社会主義 』 を私が読んで得た知識は、皇室に対して不敬の言辞の多いことと、
北のとなえる国体論は天皇機関説には違いないが、西洋流天皇機関説ではなく、
天皇中心の有機体的天皇機関説であることを理解する程度であった。
「 あのころは若くて、すべてがけんか腰だったからなァ-- 」
この言葉は、皇室に対する不敬の言辞と思われる点をあげて、私がつめよったときの北の返答であった。
北が 『 国体論及び純正社会主義 』 を書いた二十三歳のころと、
私がつめよった四十七、八歳のころとでは、北一輝の思想は基本的には変化はなかったけれども、
天皇に対する信仰の度合いは濃度を大きく増していたのだろう、と私は信じていた。
・・・大蔵栄一著 二 ・二六事件への挽歌 から ・・・( 昭和49年 ( 1974年 ) 2月25 日・・・大蔵栄一と  私の出逢い )

 
末松太平
天剣党以来
西田税とのつきあいは、大学寮に彼を訪ねたときからである。
大正十四年の十月に、
青森の五聯隊での六ヵ月の隊付を終えると、私は士官学校本科に入校するため、また東京に舞戻ってきた。
そのとき、まだ少尉だった大岸頼好が、東京に行ったらこんな人を訪ねてはどうか、
と 筆をとって巻紙のはしに、さらさらと書き流してくれた人名のなかに、西田や北一輝があった。
しかし入校早々、すぐにも訪ねなければ、とまでは思っていなかった。
が、入校後間もない土曜日の夕食後、
青森で別れたばかりの亀居見習士官がひょっこり学校にやってきたのがきっかけで、
まず西田税訪問が急に実現することになった。
亀居見習士官は士官学校本科を卒業する前に航空兵科を志願していたので、
そのための身体検査に出願するよう通知をうけ、検査地の所沢に行くついでに立ち寄ったのである。
「五十二が廃止になり、知らぬ五聯隊にやられて面白くないので航空を志願しておいたが、
大岸さんや貴様らと過ごしているうち考えが変った。身体検査は合格するにきまっているが、志願はとり消しだ。」
こういった亀居見習士官にとっては、いまはむしろ所沢に行くほうがついでで、
目的は私らを誘って西田税を訪ねるほうだった。
大岸頼好 
「 大岸さんが貴様らを誘って西田さんを訪問してはどうかといっていたが、明日は別に予定はないだろう。」
明日は日曜で外出ができる。別に予定などあるはずはない。
どうせいつかは訪ねてみようと思っていたことである。
こういった亀居見習士官の誘いは私にとっては、いいついでであった。
翌日、約束の場所で落合って西田税を訪問した。
同じ聯隊からきていた同期生の草地候補生も一緒だった。
訪ねた場所はその頃西田税が寝起きしていた大学寮である。
健康上の理由で朝鮮羅南の騎兵聯隊から 広島の騎兵五聯隊に転任した西田は、
結局は健康上軍務に耐えられぬという口実で少尉で予備になり、大学寮にきていたのである。
・・・中略・・・
案内を乞うと、声に応じて長身の西田税が和服の着流しで姿を現した。
「大岸は元気ですか。」
招じいられた部屋での西田の第一声はこれで、変哲もなかったが、
つづいての、

「 このままでは日本は亡びますよ。」
は、このときの私たちには、いささか奇矯だった。
天壌無窮の皇運のみをたたきこまれているだけに、このままでは----の前提条件はあるにしても、
日本が亡びるということには不穏のひびきを感じないわけにはいかなかった。
当時の世間一般の風潮からいえば必ずしも奇矯なことではなく、
私たちと同年輩のもののなかには、もっと過激なことをいうものもいたにちがいないが、
武窓にとじこめられた教育をうけている私たちには刺激の強いものだった。
こう受取られる傾向が、その後、北、西田の思想が国体に背反している危険なものと軍当局ににらまれ、
二・二六事件で難くせつけられることにもなるわけである。
そういった私たちの反応を、同じ軍人であっただけに内幕は知りすぎているから、
はじめから計算にいれているかのように西田は、亡国に瀕しているという日本の現状を語りつづけた。

この最初の訪問のあと、私はもう一度 「 日本亡国論 」 をききたいと思ったので、
次の日曜日にまた大学寮に行った。
この時は草地が気乗りしないふうだったので、予科以来の親友森本赳夫を
「 面白い男がいるよ 」 と いって連れて行った。
が 同じ鳥取県人というせいもあるまいが、森本のほうが私より西田に熱をあげた。
その後間もなく 西田税に連れられて森本と一緒に北一輝を訪問したが、
こんども北一輝に
「 君は孫逸仙に似ている 」
といわれたせいもあったのか、また 森本のほうが北一輝に熱をあげた。
このはじめての北一輝訪問の際は、
朴烈・文子事件の最中で、この事件の中心人物、馬場園という人も同席していた。
北一輝は、
「警視庁がいま躍起になって探している馬場園君です。
大変な猛者のように思っているらしいが、このとおりの優男の紳士ですよ。」
と 私たちに紹介した。
そのあとで、
「 軍人が軍人勅諭を読み誤って、政治に没交渉だったのがかえってよかった。
 おかげで腐敗した政治に染まらなかった。 
いまの日本を救いうるものは、まだ腐敗していないこの軍人だけです。しかも若いあなたがたです。」
と、キラリと隻眼を光らしていった。
それは意外なことばだった。
いまの自衛隊そっくりに無用の長物視されていた軍人が、
日本を救う唯一の存在であり、特に若いわれわれがその最適格者だといわれたからである。
・・・末松太平著  私の昭和史  天剣党以来 から
末松太平著  私の昭和史・・・( 昭和49年 ( 1974年 ) 9月7日・・・末松太平 と 私の 出逢い )

 
菅波三郎
永遠の同志 西田税  菅波三郎

西田税の名を初めて聞いたのは、大正十二年の晩春。
私が、東京・牛込の市ヶ谷台上、陸軍士官学校予科二年を卒業して、
士官候補生の隊付勤務に就いた時のことである。
私は、鹿児島歩兵第四十五連隊付、当時満州駐剳で遼陽に在り。
同期の親友、親泊朝省は騎兵第二十七聯隊附として、北鮮の羅南に在った。
或日、彼より来信に、
「 貴様に是非紹介したい人物がいる。同じ将校団の西田税という新品少尉。
中々の優れた革新の士だ 」 と書いてあった。
それから、時が流れた。
隊付半年の勤務を終えて、大正十二年十月一日 ( 関東大震災直後 ) 陸士本科に入り、
再び市ヶ谷台上の人となった。
大正十四年五月初夏、
ふとしたことから私は、北一輝著 「 日本改造法案大綱  」 を入手して、
爾来 不退転の革新運動に身を投じたのであるが、
同年七月二十日頃、日曜日、著者北一輝氏を訪ねて初対面、親しく謦咳に接した。
三日後に陸士本科卒業、鹿児島に帰隊して、十月、陸軍少尉に任官。
その年 ( 大正十四年 )の暮、
年末休暇を利用して単身上京、大学寮 に初めて西田税を訪う。
西田は既に現役を辞して大学寮の学監であった。
・・・リンク
西田税と大学寮 1 『 大学寮 』 
 西田税と大学寮 2 『 青年将校運動発祥の地 』 

西田さんに初めて会った時は、丁度大学寮が閉鎖になる間際だった。一寸険悪な空気だった。
満川亀太郎さんが現れて 「 今後どうするか 」 と 西田さんに問う。
愛煙家の西田さんは大机の抽出を開いて、バットの箱が一杯つまっている中から新しいのを一個つまみ出し、
一服して、
「 決心は前に申した通り。とにかく私はここを去る 」
と 吐きすてるように言った。
間もなく、長居は無用と思ったか 「 出よう 」 と ぶっきらぼうに私を促がして、トットと歩き出す。
導かれた神田の喫茶店はケチな薄暗い店、カレーライスとコーヒーの一杯をおごって貰って、
めざすは千駄谷九〇二番地の北一輝邸。
こんもりと庭樹に囲まれた、物静かなたたずまい。
中古の二階建の洋館で、あとで満川さんに聞いた話だが、
当時 「 虎大尽 」 ( 南洋で虎狩りをしたとかで ) と 異名を取った山本雄三郎の別邸を
「 北一輝氏は国宝的人物だから 」
 と いう
永井柳太郎 ( 当時の民政党の代議士。元文相永井道雄の実父 )
 
の 口ききでタダで借りた家だったんだそうな。
招じられた応接間にカーテンは無く、ソファは上質だが、ガランとしている。
貧乏暮し。 だが、悠々たる雰囲気だった。
その日、三人 ( 北 四十二歳、西田 二十四歳、そして私 二十一歳 ) で 会談した数時間は、まことに貴重なものであった。
帰り際に
「 私を頼るな。私は、いつ斃れるかも分らない。 私は君の魂に火を点ずる役割を持ったのかも知れぬ。
 しかし一度火が点いたら、ひとりで燃えなくちゃ・・・・」
北氏 西田さんと北邸を辞したのは、夜十時に近かったろうか。
大正十四年の年の暮。師走の空は寒い。
・・・須山幸雄著  西田税 二 ・二六への軌跡 ・・・( 昭和57年 ( 1992年 )  ・・・この本 と 私の出逢い )


昭和維新に殉じた人達

2023年02月20日 23時06分42秒 | 昭和維新に殉じた人達

人生は出逢い
昭和49年 (1974年)
19歳の私は、
二・二六事件を知り、昭和維新なるものを知った。
そして、 昭和維新に殉じた人達と出逢った。
その感動たるや、
「 勇躍する、歓喜する、感慨 たとへんにものなしだ 」


ニ・ニ六事件慰霊像
1974年.8月7日


時は滔々と流れ、

時代は進化した 令和元年 (2019年) 而今、
65歳の私は、斯の人達との出逢いを忘れないでいる。
それは 生涯 忘れることはない
茲に、吾心懐に存する斯の人達 への 吾想いを印す。


西田税              北一輝            相澤三郎中佐
 
野中四郎大尉    香田淸貞大尉      村中孝次           磯部淺一       安藤輝三大尉    澁川善助      河野壽大尉
 
竹嶌継夫中尉        栗原安秀中尉    對馬勝雄中尉     中橋基明中尉     丹生誠忠 中尉      坂井直中尉        田中勝中尉
 
高橋太郎少尉  安田優少尉    中島莞爾少尉  林八郎少尉        水上源一

昭和維新に殉じた人達
目次
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一、  昭和維新に殉じた人達 1 ・ 先覺者 
 くさわけ・西田税
・ 明治武士 ・ 相澤三郎中佐
・ カリスマ ・ 北一輝

・ 青年將校運動のリーダー
 菅波三郎 大尉
 大蔵栄一 大尉
 末松太平 大尉   
 大岸頼好 大尉

別格 ・ 上部工作に奔走した人達
 山口一太郎 大尉
 満井佐吉 中佐

二、
昭和維新に殉じた人達 2 ・ 蹶起した人達
十九烈士
 野中四郎 大尉
 香田淸貞 大尉
 村中孝次 
 磯部淺一
 安藤輝三 大尉
 澁川善助
 河野壽 大尉
 竹嶌繼夫 中尉
 栗原安秀 中尉
 對馬勝雄 中尉
 中橋基明 中尉
 丹生誠忠 中尉
 坂井直 中尉
 田中勝 中尉
 高橋太郎 少尉
 安田優 少尉 
 中島莞爾 少尉
 林八郎 少尉
 水上源一

 参加将校

 山本又予備少尉
 池田俊彦少尉  
 常盤稔少尉 
 清原康平少尉  
 鈴木金次郎少尉
 麥屋清濟少尉 
 今泉義道少尉

下士官兵

江藤五郎中尉の死


昭和・私の記憶 『 謀略、交信ヲ傍受セヨ 』

2023年02月18日 05時12分48秒 | 昭和 ・ 私の記憶

二月二十六日からの推移、
すべてがうまく行っているかの情報がわたくしの耳にも届きます。

信じられなくて、身を抓るような気持ちでございました。
西田は有利な収拾へ事を運ぶのが自分の役割と考え、
北夫人におりた霊告を青年将校たちへ電話で伝え、
軍長老へ斡旋の依頼を試みたようでございます。

この電話が憲兵隊によってすべて盗聴されていたのでした。
実力行使の成果を実らせ刈取るために、北先生も西田も、相談に乗り、意見を伝えました。
それが死刑に該当するかどうかは別のことで、事件と全く無関係とは申しません。
・・・リンク→西田はつ 回顧 西田税 2 二・二六事件 「 あなたの立場はどうなのですか 」 


昭和54年 ( 1979年 ) 2月26日
NHKで
『 戒厳指令  交信ヲ傍受セヨ 二 ・二六事件秘録 』
が、放送された。

NHKが 『 二 ・二六事件 』 を 如何にみているのか、
そして、全国民に何を如何 伝えるのかそこが肝心
・・と、期待を以て視たのである。


私が 放映画像を撮影したもの
当日の吾日記  ( 日付カレンダーは翌月 3月 )

2、26事件43年
未 認知されない悲劇
栗原さん、安藤さんの声をテレビで聴く
43年前の声が今 吾にとどく
神達が日本人でありし日の声が吾にとどく
北一輝の声も 西田夫人の声も亦 42日目
・・・1979.2.26の 吾日記

録音テープ
( 親友 ・長野に依頼した )

しかし
「 やっぱり、
正しく 評価が為されていない 」
私の期待は、はずれてしまつた。

昭和11年2月28日
幸楽に於いて安藤大尉は謂った
私は楠正成に成る
蹶起した心懐は、70年も、80年も経たねば分って貰えないだろう 
・・と


事件から43年経つても猶ほ
安藤大尉の魂は、
暗雲漂う大東京の空を彷徨う ・・・・


NHK
戒厳指令
『 交信ヲ傍受セヨ 』  
二 ・二六事件秘録

 西田税
栗原君が首相官邸に居ると云ふので栗原君に電話を掛け、
先づ私から 
「 何うした 」
と云ひますと栗原君は
「 今官邸に居ますが元気である。岡田はやつたが自分の処は非常に苦心した 」
と云ふ様な話があり、 
私は
「 雪も降って寒いし、皆食べ物は如何してゐるか、夫れが心配だ 」
と云ひますと栗原君は
「 食物は聯隊の方から持つて来て呉れるから心配はない。
一遍見に来ませんか。 
そうすればちゃんと中に這入れる様にします。
溜池の方から来れば言ひ付けて置く 」
との事でした。
私は
「 僕は行き度くない 」
と話して電話を切ったと思ひます。

・・・リンク→西田税 2 「 僕は行き度くない 」 

栗原中尉 -- 西田はつ

    
「 もしもし栗原です。どうでございますか 」
「 はあ 」
「 何んでございますか ・・・・ 」

「 うふふ。ちよっと、電話では はばかりますが・・・」
「 スガナミさん、来とるんですか。何処へ・・・・」

「 はあ、さっきお電話があったんですけどね 」

「 ふうん、それは僕が迎えに行ってもいいです 」
「 遠くへですか・・・・」
「 ええ 」

「 あ、もし ×××× 」
「 あちらへは・・・・」

「 もし連絡がありましたらね、首相官邸を目標に来て下さい 」
「 そうでございますか 」

「 ええ、そしてね、合言葉はね、尊皇斬奸 」
「 はア・・・・」
「 尊皇斬奸 」
「 ああ、そうでございますか 」
「 それでね、クリハラ中尉に面会といえば大丈夫です 」
「 ああ、そうですか 」
「 首相官邸に来られて 」
「 ああ、そうでございますか 」
 
「 すく案内しますから、お一人でいらっしゃいますか・・・・」
「 はあ、そうです 」
「 はあ 」
「 承知しました 」
「 はあ、御願します 」
---ガチャーン
「 日にちはどうもハッキリしませんが、『 菅波の妻何ですが 』 って女の方から お電話をいただきました。
私その時、『 菅波三郎さんですか 』 ってことをね、電話の盗聴ということも考えられますから、
三朗さんって言葉は出しませんで、ただ 『 御主人と御一緒にですか 』 ってことを私は申し上げたんです。
女の方が、『 はあ、そうですが 』 っておっしゃったもんですから、私は上京なすったとばかり思って、連絡しました。
そうしましたら、そうではなかったらしゅうございますね 」 ・・・西田はつ
「 家内です。上京した家内が東京駅から・・・・。私も上京したかったんですが、御存知のとおり憲兵に貼りつかれていてね 」 ・・・菅波三郎 



« 安藤大尉の演説 »
・・・・昨夜来から幸楽前に押しかけた群衆は益々その数を増し、
夜になっても帰る様子がなく、安藤大尉の話を望む声が強まってきた。
そこで大尉が玄関前に姿を現すと 一斉に群衆が万歳を叫んだ。
まさに天地が亀裂せんばかりの響きである。
大尉は静かに話し始めた。

諸氏も知っているとおり、
さきの満州事変、上海事変等で死んだ兵士は気の毒だがみな犬死だった
これは軍閥や財閥の野望の犠牲であったからである
これらの悪者は一刻も早く倒さねばならない
その目的で我々は皆さんにかわって実施したまでである
今からお願いしたいことは、
我々の心を受けて大いに後押ししてもらいたい
以上おわり
大尉が姿を消すと
衆はやっと承知したかのように万歳を叫び徐々に帰りはじめた。
・・・リンク→幸楽での演説 「 できるぞ! やらなきゃダメだ、モットやる 」 

北一輝 -- 安藤大尉
電話は2月28日午後11時50分にかけられている

-- 
見ていただいたビデオでは、はっきり聞こえませんが、
料亭幸楽は赤坂の昔のホテルニュージャパンがあったところ、
そこの周囲を28,000人くらいの軍隊、8,000人ほどの警察官、
東京の消防団などが取り囲んでおり、
そういう中での電話です。
また、ゴーっという音も聞こえるのです。
後で分かったのですが、これは 戦車の音です。
よく聞こえないと安藤が言っているのはそんな中の電話ということ です。

「 もしもし 」
「 はい 」

「 どなたですか・・・・」
「 キタ 」
「 えッ・・・・」

「 キタ 」
---雑音---
「 はあ 」
---雑音---
「 えッ・・・・」
「 ××だいじょうぶですか・・・・」

「 はたが騒がしすぎて、聞こえないんですがね 」
「 ×××××× 」

「 えッ・・・・」
---雑音---
「 もしもし 」
「 ×××××× 」
「 ええ、ちょっとまわりがやかましすぎて、聞こえないんですがねがね 」
 
「×××× 」
「 ××をですか・・・・ 」
「 ええ 」

「 ××ほぼ順調に行っております 」
・・・・・・・
「 えッ・・・・」

「 ほぼ順調にやって
おります」
「 ×××× 」
「 えッ・・・・」
・・・・・・
「 ×××× 」
「 カネ、カネ 」

「 ×××ですか・・・・」
「 カネ、カネ 」
「 えッ・・・・」

「 マル、マル、カネはいらんかね・・・・」
「 なに・・・・」
「 カネ 」
「 カネですか・・・・」
「 ええ

 
「 ええ、まだだいじょうぶです 」
「 だいじょうぶ。あのね 」

「 ええ 」
「 心配ないね 」
「 ええ 」
「 じゃあ 」

---ガチャーン

北一輝、西田税の強引な裁判の有力な証拠にさせられたのが電話で ある。
北一輝の判決文を読んでも十数か所に電話による激励という ことが出てくる。
青年将校たちの処刑が発表された昭和11年7月 5日の新聞には、
戒厳令下ですから軍が書かせたものですが、電 話による激励という大見出しが出ている。
電話は徹底的にマークされた。
・・・
北を取り調べた憲兵は当時の東京憲兵隊の特高課長の福本亀次という男です。
この人は中野学校を作った男です。
彼が北を調べて彼の 尋問調書が残っている。
それによると、その方は2月27日午後、
安藤に金はあるか、給与はよいかと電話をかけたことはないか
とい う一問一答の調書が残っている。
何故2月27日が出てきたのだろ う、
2月27日ならばすべて辻褄は合う、北が逮捕される前ですから。
これは明らかにでっち上げの調書だと思った。
北はこれに対し て、そんな電話は勿論かけたことがないし、
金はあるかとか給与は どうかとか、そんなことは全く知りませんと述べている。
そういう 疑問点が出てきて非常に辻褄が合わない。
その電話は2月28日の 午後11時50分にかけられている。
北はその前に逮捕されている。
福本の調書では、2月27日午後に北が安藤に電話したことになっ ている。
憲兵隊としてはそれで辻褄は合う。
・・・
2月28日午後11時50分、
憲兵司令部から 北を騙 かたって安藤に電話してきた男は
ほぼ、100%とはいえないが、98% くらいは 金子憲兵 に間違いないと思っています。
北をいかにして罪に陥れるかいろんな謀略がなされた証拠だろうと思います。
北を裁 いた裁判官に聞いても、
精々叛乱幇助罪で禁固3年くらいというの が妥当といい、北の裁判は1年延びた。
5人の裁判官の意見が割れ、また、北を死刑にすることに裁判長が反対したからである。

・・・リンク→
拵えられた憲兵調書 

亀川哲也 -- 栗原中尉
  -- 

亀川哲也は、
同月二十七日午前三時頃、
陸軍歩兵中佐満井佐吉より、電話により帝国ホテルに来訪を求められ直ちに同所に赴き、
同中佐により村中孝次に対し撤退勧告を依頼せられ、
間もなく同ホテルに来着したる村中孝次と会見し、蹶起部隊がこれ以上占拠を持続するときは
却つて不利なる結果を招くべしと説明し、その撤退を勧告したる際、
同人より蹶起部隊を戒厳部隊に編入し、原位置を警備する様取計われ度旨要望せらるるや、
満井中佐と共にその実現に努力する旨約束し、
次で同日午前八時頃、北輝次郎方に西田税を訪ねて、
帝国ホテルの会合、西園寺公に対する軍部内閣の進言 及び真崎大将訪問等、
二十六日以彼が活動の結果得たる諸情報を伝へたるが、( ・・・リンク→帝国ホテルの会合 )
同月二十八日に至り、俄然情勢の変化に伴ひ身辺の危険を察知するや、
各種の証拠湮手段を講じたる上、同日午後十時頃従来の親交をたどり 東京市芝区白金今里町十八番地
久原房之助方に潜入し爾来同人の庇護の下に同家に隠避しいたるが ・・・軍法会議判決文から


「もしもし栗原ですが 」
「 あのね 」
「 うん 」

「 もしかする
とね 」
「 うん 」
「 今払暁
ふつぎょう ね 」
「 うん 」
「 攻撃してくるかもしれませんよ 」
「 はあ 」

「 それでね、大活動おこそうと思ってね 」
「 はあ 」
「 連絡とろうと思ったけど、連絡とれなかったんだ 」
「 はあ 」
「 とにかく、内閣はね 」
「 はあ 」

「 いったい誰・・・・、真崎でなけゃ、どうしてもいかんのかい 」

「 とにかくね---略---もうあれですな、妥協の余地はないようですね 」
「 うん 」

「 向こうもとにんく奉勅命令で来るんでしょうから 」
「 うん 」
「 そういう状況でいか・・・・」
「 うん、そうだ 」
「 はあ 」
「 それでね 」
「 はあ 」

「 君のほうの希望はだな 」
「 はあ 」
「 いったい誰だい・・・・」
「 さあ×××× 」
「 総理大臣はマザキの他に誰かあるのかい・・・・」
「 今んところありませんね 」
「 ほう 」
「 はあ 」
「 それで、まだなんとかやるけどね 」
「 マザキを代えることができないくらいなら他の者もできないですよ 」
「 うん 」
「 はあ 」
「 例えばカワイとかね 」
「 は、は、は、」
「 ヤナガワとか 」
「 ヤナガワならいいですけどね 」
「 うん 」
「 あとは駄目 」
「 そいでね 」
「 はあ 」
「 実はその、それがわかったらだな 」
「 はあ 」
「 すぐサイオンジ公もね 」
「 はあ 」
「 トクガワもね 」
「 はあ 」
「 みんな活動をはじめてね 」
「 はあ、サイオンジも来てるんですか・・・・」
「 サイオンジのところへとんで行くことになったんだ 」
「 はあ 」
「 うん 」
「 間に合わんでしょうね 」
「 うん、間に合わないと思う 」
「 もし、そういうこと××××××徹底的でしょうから 」
「 うん 」
「×××××× 」
「 うん 」
「 ま、これでお別れですな 」
「 うん、それでね 」
「 はあ 」
「 何とか、まだやるけどね 」
「 はあ 」
「 うん 」
「 ま、お達者で 」
「 うん 」
「 これが最後でござい×× 」
「 うん 」
「 それでは、皆さんによろしく言って下さい 」
「 うんうん、じゃ 」
「 それでは 」
「 はい 」
---ガチャーン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

二月二十八日の夕方でしたかしら、
私は栗原さんと最後のお別れを言ったのですよ。
首相官邸から電話がかかってきまして
「 いろいろ長い間お世話になりましたけれども、奥さん、これが最後です 」
と おっしゃってね。
それですぐに主人にそれを話しましたら、
もう一度電話をかけてみろと言いまして、
首相官邸に電話をしましたが、もう出ませんでした。

・・・西田はつ 

  徳川義親侯
二十八日夜、
( 栗原中尉から ) 決別の電話が来ました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
『 栗原です。・・・・長い間お世話になり御迷惑をかけましたが、これでお訣れ致します。
 ・・・・おばさま、史子さんにもよろしく 』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

彼等の心情のあわれさに動こうとした人もございました。
同日、夜半過ぎ、徳川義親侯からの電話でした。
内容の重なところは
「 ---身分一際を捨てて強行参内をしようと思う。
決起将校の代表一名を同行したい。代表者もまた自決の覚悟をねがう。
至急私の所へよこされたい--- 」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
『 徳川三百年、皇威を蔑らし奉つた、その罪の深きに関らず、わが徳川一族は、寵遇を辱くし、
 国民の最高位にあるは、私の恐懼措かざる処、この際一行に代り、参内し、罪を閣下に謝さんと思ふ。
 蹶起将校代表者一名を同行したし。素より私は、爵位勲等を奉還する。
 代表者も亦豫め自決の覚悟を願ふ。至急右代表者を私の許によこされたし・・・』 ・・・徳川義親侯爵
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しばらくの後、栗原に話が通じ、さらに協議ののちに来た答を、父が電話の前でくり返すのを聞きました。
あるいは父の書いたものよりは、彼の口調に近いかも知れません。
「 状勢は刻々に非です。お心は一同涙の出るほど有難く思いますが、
もはや事茲に至っては、如何とも出来ないと思います。
これ以上は多くの方に御迷惑をかけたくないので、
おじさんから、よろしく御ことわりをして下さい。御厚意を感謝します 」
電話については、これよりだいぶん前に、彼の方から、
「 盗聴されているかも知れません---」
と 連絡されて居り、
わたくしたちは、何処がそれをしているのか、警視庁ででもあるのか
・・と 思っていましたが、
交信を傍受し、
しかも 録音を取っていたのは戒厳司令部であったと知ったのは
昭和五十四年二月二十六日放送の NHKの番組によってでございました
・・・リンク→ 齋藤史の二・二六事件 2 「 二・二六事件 」 

 濁流だ濁流だと叫び 流れゆく末は
 泥土か夜明けか知らぬ  ・・齋藤史
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

令和四年 ( 2022年 ) の而今
NHK  『 戒厳指令  交信ヲ傍受セヨ 二 ・二六事件秘録 』
は YouTube で視ることができる。
昭和11年 ( 1936年 ) 、事件から43年、
昭和54年 ( 1979年 ) から、更に43年経った令和四年 ( 2022年 )
事件から86年経つ。
「 70年も、80年も経たねば分って貰えないだろう 」
との、安藤大尉の想いは虚し。

二月二十六日北方ノ電話ニ故障ガ起キタ時、不思議ニ思ハナカツタカ
先方ヨリ掛ケテ來ルノハ話ガ出來テ、私ノ方ヨリ掛ケルノガ先方ニ通ジナイノデ、
不思議ダトハ思ヒマシタガ、
豈然盗マレテ居ルト迄ハ考ヘマセヌデシタ。
・・・西田税、第三回公判


私の想い、二・二六事件 『 昭和維新は大御心に副はず 』

2023年02月16日 14時56分58秒 | 昭和 ・ 私の記憶


令和元年 ( 2019年 ) 八月十五日 ( 木 )

NHKは、
全貌二・二六事件  ~最高機密文書で迫る~
と、銘打って  二・二六事件について放送した。
『 私達が知っていたのは、「真相の一断面 に過ぎなかった 」、
「 海軍の極秘文書を発掘した、そこには、数々の新事実が・・・・』
・・と。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・極秘文書には、
事件初日にその後の行方を左右するある密約が交わされていたことが記されていた。
事態の収拾にあたる川島義之陸軍大臣に、
決起部隊がクーデターの趣旨を訴えたときの記録には、
これまで明らかではなかった陸軍大臣の回答が記されていた。
 川島陸相
陸相の態度、軟弱を詰問したるに
陸相は威儀を正し、
決起の主旨に賛同し昭和維新の断行を約す


川島は、決起部隊から 「 軟弱だ 」 と 詰め寄られ、

彼らの目的を支持すると、約束していたのだ。
「これは随分重要な発言だと思います。
決起直後に大臣が、直接決起部隊の幹部に対して、
“昭和維新の断行を約す”
と、約束している。
言葉として。
これを聞いたら、決起部隊は大臣の承認を得たと思うのは当然で、
それ以降の決起部隊の本当の力になってしまった。
 眞崎大将
この直後、
川島は、決起部隊が軍事政権のトップに担ごうとしていた皇道派の幹部 ・眞崎甚三郎大将に接触。
「謀議の結果、決起部隊の要求をいれ、軍政府樹立を決意」

 昭和天皇と鈴木貫太郎
しかし天皇は、勝手に軍隊を動かし、
側近たちを殺害した決起部隊に、厳しい姿勢で臨もうとしていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
川島陸相の上奏要領
一、叛亂軍の希望事項は概略のみを上聞する。
二、午前五時頃 齋藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍從長、渡邊教育総監、牧野伯を襲撃したこと。
三、蹶起趣意書は御前で朗讀上聞する。
四、不徳のいたすところ、かくのごとき重大事を惹起し まことに恐懼に堪えないことを上聞する。
五、陛下の赤子たる同胞相撃つの惨事を招來せず、出來るだけ銃火をまじえずして事態を収拾いたしたき旨言上。
陛下は この事態収拾の方針に關しては 「 宜 し 」 と 仰せ給う

事件勃發當初は蹶起部隊を叛亂軍とは考えず。

その理由は下士官以下は演習と稱して連出されたのものにして、叛亂の意思に出でたるものにあらずして
ただ將校が下士官以下を騙して連出し人殺しをなしたるものと考えいたり。
したがって蹶起部隊全體をもって叛亂軍とは考えず。
またこれを討伐するは同胞相撃となり、兵役關係は勿論、對地方關係等 今後に非常なる惡影響をもたらすものと考えたり。
また 蹶起部隊は命令に服從せざるに至りたるときは叛徒なるも、
蹶起當時においては いまだ叛亂軍と目すべきものにあらずと 今日においても考えあり
・・川島陸相訊問調書

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2日目、2月27日の午後6時半の記録には、
陸軍の幹部が青年将校らについて
「 彼らの言い分にも理あり 」 と 理解を示し、
「 暴徒としては取り扱い居らず 」 と 発言をしたことが記され、
陸軍の対応に一貫性がなく状況が複雑化していることに対し、海軍が警戒していた様子がうかがえる。
さらに事件が収束する前日の2月28日午後11時5分の記録には、
追い詰められた事件の首謀者の1人、磯部浅一が
天皇を守る近衛師団の幹部と面会して、
「 何故(なぜ)に貴官の軍隊は出動したのか 」 と問い、
天皇の真意を確かめるかのような行動をしていたことも詳しく書き留められていた。

攻撃準備を進める陸軍に、決起部隊から思いがけない連絡が入る。
「 本日午後九時頃 決起部隊の磯部主計より面会したき申込あり 」
「 近衛四連隊山下大尉 以前より面識あり 」
決起部隊の首謀者の一人、磯部浅一が、陸軍・近衛師団の山下誠一大尉との面会を求めてきたのだ。

磯部の2期先輩 ( 36期 ) で、親しい間柄だった山下。
山下が所属する近衛師団は、天皇を警護する陸軍の部隊だった。
追い詰められた決起部隊の磯部は、天皇の本心を知りたいと、山下に手がかりを求めてきたのだ。
磯部  「 何故に貴官の軍隊は出動したのか 」
山下  「 命令により出動した 」
山下  「 貴官に攻撃命令が下りた時はどうするのか 」
磯部  「 空中に向けて射撃するつもりだ 」
山下  「 我々が攻撃した場合は貴官はどうするのか 」
磯部  「 断じて反撃する決心だ 」
天皇を守る近衛師団に銃口を向けることはできないと答えた磯部。
しかし、磯部は、鎮圧するというなら反撃せざるを得ないと考えていた。
山下は説得を続けるものの、二人の溝は次第に深まっていく。
山下  「 我々からの撤退命令に対し、何故このような状態を続けているのか 」
磯部  「 本計画は、十年来熟考してきたもので、なんと言われようとも、昭和維新を確立するまでは断じて撤退せず 」
もはやこれまでと悟った山下。
ともに天皇を重んじていた二人が、再び会うことはなかった。 ・・> 
昭和維新の断行を約束しながら、
青年将校らに責任を押し付けて生き残った陸軍。
事件の裏側を知り、決起部隊とも繫がりながら、
事件とのかかわりを表にすることはなかった海軍。
極秘文書から浮かび上がったのは二・二六事件の全貌。
そして、不都合な事実を隠し、自らを守ろうとした組織の姿だった。
・・・以上 放送内容の中から関心部分を ネットから引用
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磯部浅一、獄中手記
 ・・・
行動記 ・ 第二十三 「 もう一度、勇を振るって呉れ 」 ・・参照 
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私の想いを記す
「 私達が知っていたのは、真相の一断面 に過ぎなかった、

海軍の極秘文書を発掘した、そこには、数々の新事実が記されていた、
そして、これにより 全貌が明らかになった 」・・と 云う。
NHKが 此をどのような意図を持って拵えたかは分からない。
なにも、新しい事実の発見が、必ずや真相の解明に繫がるとは限るまい。
海軍の極秘文書によって発掘された新事実が、
これまで囁かれていたものを裏付ける材料とはなりても、
公式記録だから 正しいもの、真実のもの、と、そのまま丸呑みは出来ない。
あくまで海軍が海軍の立場に基いて記した 記録もの なのである。
それは、海軍の都合で記されたるもので、やっぱり これも亦陸軍のものと同様 拵えたもの、
二・二六事件の一断面に過ぎないのである。
だからと云って、私は之を否定などしない。事実として ちゃんと受容れる。
いつも はがゆく想うは、斯の時代の日本人 ( 何も軍人である蹶起将校だけとは限らない )
の 精神の検証がなされないこと、
これなくして、如何して真実に辿り着けようか。
斯の時代の日本精神を知らぬ私も亦同様である。


「 昭和維新は大御心に副はず 」
大御心は正義を體現する
而して、赤誠の正義は大御心に副う  のである
しかし、己が行動は必ずや大御心に副うものと信じ 蹶起した靑年將校に、
大御心は正義を體現することはなかった
否  正義を體現する大御心は 存在しなかったのだ
靑年將校の正義は、大御心に副う  べくもなかったのである

昔から七生報國というけれど、
わしゃもう人間に生れて來ようとは思わんわい。
こんな苦勞の多い正義の通らん人生はいやだわい ・・・西田税

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「 ニ ・ニ六事件って何でしようか 」
「 正義の味方だ 」
「 なぜ人を殺したのですか 」
「 それは立場だ 」
平成二年 ( 1990年 )
今泉章利氏 ( 今泉義道少尉の御子息 ) の問に、
末松太平はそう答えた ・・・と謂う


大御心
・ 二・二六事件の収拾処置は自分が命令した 
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・ 
天皇は叛乱を絶対に認めてはいけません、 そして 叛乱をすぐ弾圧しなければなりません

伏見宮 「 大詔渙発により事態を収拾するようにしていただきたい・・」

《 眞崎大将は 》
川島陸相に会うと、
テーブルに置かれた 蹶起趣意書 と 要望事項 の紙片 を押さえて云った。

「 こうなったら仕方ないだろう・・・これでいこうじゃないか 」
川島陸相は頷き、天皇に拝謁すると、
事件の経過を報告すると 共に 蹶起趣意書  を 読みあげた。
天皇の表情は、陸相の朗読がすすむにつれて嶮けわしさを増し、
陸相の言葉が終わると、
なにゆえに そのようなものを読みきかせるのか
と 語気鋭く下問した。
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《 川島陸相が 》
「 蹶起部隊の行為は
 明かに天皇の名においてのみ行動すべき統帥の本義にもとり、

亦 大官殺害も不祥事ではあるが、
陛下ならびに国家につくす至情に基いている、

彼らのその心情を理解いただきたいため ・・・」
と 答えると
今回のことは精神の如何を問はず甚だ不本意なり
国体の精華を傷つくるものと認む

天皇はきっぱりと断言され、
思わず陸相が はっと頭を下げると
その首筋をさらに鋭く天皇の言葉が痛打した。
朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス
斯ノ如キ兇暴ノ将校等、其精神ニ於テモ恕ゆるスベキモノアリヤ
天皇は
一刻も早く、事件を鎮定せよ
と 川島陸相に命じ、
陸相が恐懼して さらに拝礼するのをみると、

速やかに暴徒を鎮圧せよ
と、 はっきり蹶起部隊を 暴徒 と断定する意向をしめした。
・・・なにゆえにそのようなものを読みきかせるのか

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川島は、午前九時に参内し、天皇のまえに進みでた。
ここで事件の概容を伝え、あまつさえ 「 蹶起趣意書 」 を 読んだ。
そしてこうなったら強力内閣をつくらなければならないと述べた。
この陸相は、事件を鎮圧するのでなはなく、
この流れに沿って、新たな内閣の性格まで口にしている。

つまり 蹶起将校や眞崎の使者となっていたのである。
「 陸軍大臣はそんなことまで言わなくていい。
 それより 反乱軍を速やかに鎮圧するほうが先決ではないか 」

天皇のことばに、
川島は自らどうしていいかわからないほど 混乱して退出していった。
・・・俺の回りの者に関し、こんなことをしてどうするのか
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26日
午後四時頃から閣議が開かれ
陸相から事件報告がなされた。

川島陸相は ここでも協力内閣の必要を強調したが、
閣僚の誰一人として耳を傾けるまのはなかった。
これは、この日の午後、蹶起将校から
「 われわれを義軍と認めよ 」
「 眞崎内閣をつくれ 」
などの要求がなされ、
大臣も強力内閣をつくることに意が動いたが、
統帥部の反対で立ち消えとなった。

するとさらに蹶起将校側から
「 それでは内閣をして国政の大改革を断行することを声明せしめよ 」

との 代案が持ち出され、これをとり上げて大臣が閣僚に要求したのだということであった。
・・・速やかに暴徒を鎮圧せよ