あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

紫の袱紗包み 「 明後日参内して、陛下にさし上げよう 」

2018年02月26日 05時04分18秒 | 五・一五事件


西田税 
西田税が快癒して六月三十日に退院したことが知れると、
同志の人々や青年将校たちは心から喜んで祝ってくれた。
その二、三日後、
薩摩雄次が日本新聞の記者をつれて蘇生の感想を聞きに来た。
西田は自分の負傷には一言もふれないで、
記者に こう 語っている。
「 民主主義者共が、如何に体裁を作ってうごめこうとも、
連綿として わが民族に流れて来たところの、
この血をどうすることも出来はしない。
勿論我々には、現代の社会組織や経済組織の間違っていることに、
夙にこれを認識し、
その改革を叫んで来たのである。
祖国を愛する、ということは資本主義を愛するということではない。
国体こそ絶対不変なるものである。
けれども、政体等はもとより不変なものではないのだ。
我々は絶対不変なる国体のもとに、あらゆる制度や組織を改革して、日本本来の道にかえらねばならぬ。
実際今日の世相を見るとき、誰か暗澹たらざる者があろうか。
満洲の曠野に汗と血みどろになって戦っている我が将兵は、
それは決して資本主義を守る為ではない。
実に祖国を守るためではないか。
我々はあらゆる努力を以て、
その銃後を護り、彼らの戦いをして真に意義あらしめねばならぬ。
彼らの戦いが資本主義を守るものになっては断じてならないのだ。
我々は現今の世相をみるとき、それを痛切に感ずるのである 」

西田は十日あまり 山谷の家に起居していたが、
退院後さっそく とりかかったのは 天皇陛下への建白書であった。
腹案は病臥中に充分練っていた。
去年の十二月の末、菅波が秩父宮にお会いし、
殿下が国民の動向や革新運動につよい関心をおもちであることを聞かされた。
パッと西田の頭の中に閃いたのは、
殿下を通じて天皇陛下に微衷を申し上げたいという決意であった。
これは当時としては破天荒なかんがえであった。
敗戦までは九重の奥深くまします天皇は神聖この上もないお方で、
庶民にとってはまさに雲の上の存在であった。
その神聖比なきお方に建白書を奉ることなどは、
市井の浪人としては分に過ぎた思い上りである。
もし発覚したら西田はもとより、関係者はただでは済まない。
しかし、西田には自信があった。
秩父宮は必ずお取り上げて下さるだろうと確信していた。
西田は斎戒沐浴して、心身を清浄にし、精魂をこめて浄書した。
その要旨を、直接建白書を読んだ菅波と、
西田から建白書の下書きを見せられた次姉村田茂子
の 記憶とによって再現すると、
およそ次のような主旨の文章になる。

「 先般、不幸にして勃発いたしました陸海軍將校の首相暗殺事件につき、
聖上陛下にはいかに御宸念遊ばされましたことか、
洵に恐懼の至りに堪えぬところでございます。
しかし乍ら今回の事件は偶發的に起こったものでなく、
その根底には國家の現狀と將來を深憂する多數の皇軍將校と、愛國靑年群が存在いたします。
政党政治は國家百年の大計を捨てて、目前の党利党略に抗爭を事とし、
財界は皇恩を忘れて私利私欲の追求に餘念がありません。
近年の經濟不況によって、一億國民の大多數は塗炭の苦境に呻吟いたしております。
洵に餓民天下に満つと申しても過言ではありません。
天下萬民の仁父慈母に存します聖上陛下におかせられましては、
この國民の困窮を救うため、速やかに昭和維新の大詔を渙発あらせられ、
内は百僚有司の襟を正さしめ、財界の猛省を促し、上下一體となって國利民福の實をあげ、
外に向っては國交の親善を増進して、大いに皇威を發揚し、
以て帝國興隆の基を築かれんことを、
草莽の微臣、闕下にひれ伏して、謹んで奏上仕ります 」

と、西田一流の壮麗な美辞で修飾した大文章であった。

退院して四、五日起ったある日、
会いたいという電話で菅波が西田の家を訪れると、西田はやや緊張ぎみである。
「 何か変わったことでもあったのですか 」 と、問うと、
「 いや、実は君に重要なことをお願いしたいのだが、
ことによると迷惑がかかるかも知れないので、
君にはまことにすまないけれど 」
「 それで 」
不審そうな菅波の目の前に、西田は机上にあった紫の袱紗包みを取り上げ
「 これをね、秩父宮殿下を通じて、天皇陛下にまで差し上げたい。精魂をこめて認めたものです 」
と いう。
菅波は一瞬迷った。
殿下は快くお受け取りになるであろうか。
お取り上げになっても、殿下に累が及ぶようでは困る。
「 拝見していいですか 」
「 どうぞ 」
菅波は姿勢を正して一読した。
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・・・挿入・・・

一夕、墨痕琳漓
大きな奉書の紙に認めたものを、私に托した。
天皇に奉呈する建白書である。
これを秩父宮にお願いして呉れと言う
私は反対した。
そんなものを天皇が受けとるはずがない。
また、秩父宮が承知されるか、どうか。
だが。 西田の意志は固かった。
死線を越えた彼の言うことだ。
一応、聞き届けなくちゃならない。
そこで、隊に帰って安藤に相談した。
「 よかろう、やってみよう 」 と 言う。
翌日二人で秩父宮にお目にかかって申上げた。
意外、宮は即座に承知された。
「 明後日、陛下に会えるから、その折に差上げよう 」
 と 申され
「 西田は元気になったか 」
と お尋ねになった。
殿下は、いつも朗らかで、誠実で、信頼の度は深い。
お頼みした以上は、殿下にお任せする以外にない。
・・・
あとで聞くところによると、
宮中では、天皇と皇弟秩父宮との間に激論が交わされたという。
この事に関係あったのかどうか分らないが、たぶんこの時のことだろう。
・・・菅波三郎 「 回想 ・ 西田税 」 
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「 特権意識にこり固まった重臣層にとりまかれていらっしゃる天皇陛下に、おそらくこんな大英断はできまい 」
と いうのが、菅波の読後感であった。
しかし、建白しないより、幾分でも効果があれば建白したほうがよい。
「 承知しました 」
「 ありがたい、この通りです 」
西田は深々と頭を下げた。
顔をあげた西田は愉快そうに笑った。
菅波もつられて微笑んだ。

あくる日、菅波は安藤をよんだ。
「 夕方、殿下にお目にかかりたいが 」
「 承知しました。殿下に申し上げておきます 」
昼食の時、殿下が承知されましたと、安藤は小さい声でささやいた。
隊務の一切が終わると、菅波は安藤と二人で地下道から第六中隊長室に行った。
秩父宮は一人でお待になっていた。
「 今日は殿下にお願いがあって参りました 」
「 何だね 」
「 実は西田さんから、
殿下を通じて天皇陛下に建白書を奉りたいというので、預って参りました 」
「 ほう 」
秩父宮は渡された紫の袱紗包みをとかれると、奉書に認められた建白書に目を通された。
「 よろしい、承知した。
 明後日参内して、陛下にお目にかかる事になっているから、その時にさし上げよう 」
秩父宮は無造作にカバンの中に入れられた。
菅波はお礼を言って起ち上がろうとすると
「 時に、西田はすっかり全快したかね 」
「 はい、快癒いたしたようであります。近く温泉に療養に行くように申しております 」
「 それはよかった、よろしく言ってくれ給え、身体にはくれぐれも注意するように 」
菅波は再びお礼を言って辞去した。

「 だが、一週間あまり後、下志津へ行った時、寺倉御付武官から詰問された。
あの紫色の包みはどうしたというのだ。
誰かが私の行動を始終見張っていたらしい。
それはそれで済んだのだが、間もなく満洲へ飛ばされることになったから、
その原因のひとつはこれだったのだろう
と、菅波は苦笑する
もうひとつの原因がある と 菅波は言う。
昭和五、六年の経済恐慌で、
失業者の家庭や極貧な農民の子弟が多数入隊してきた。
隊付将校たちは、彼らの悲惨な境遇に幾度か泣かされた。
なかには月給の大半を兵士の家庭に送金する将校もいた。
「 そこで在営兵士の家庭の困窮を救おう。
と いうパンフレットを印刷し、将校は俸給の一割を出して、
幾分なりとも援助しようと、全国の将校団に呼びかけたのだ 」
署名は在京青年将校一同としたが、
首謀者は菅波とわかったと思われると述懐する。
二週間あまり後、八月の定期異動の内示があった。
菅波は満洲派遣軍の公主嶺守備隊付に飛ばされた。

天皇に建白書を上る
西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄 著から 


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