あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

夢見る昭和維新の星々

2017年12月13日 20時05分07秒 | 磯部淺一

≪ 昭和7年 ≫
七月はじめの日曜日であった。
例によって、青山五丁目の菅波の下宿に、数名集まっていた。
突然、よれよれの浴衣にセルの袴をはいた、精悍な男がはいってきた。
  磯部浅一 
「今度、経理学校に参りました磯部です」
陸士三十八期、
磯部浅一中尉であった。
磯部といえば、三十八期随一の やじころ だ。
その磯部が、そろばんで ぜに を勘定する主計に転科するとは、
天と地がひっくり返るほど驚かされることだ。
「朝鮮の大邱ではどうにもなりません。
なんとかして東京に出たいと思っていた矢先、主計転科の募集があった。
これはあるかなと、さっそく応募して出てきました」
磯部もまた東京の求心力によって、
彼の最も不得意とする ぜに 勘定の学校に、前後のみさかいもなくやってきたのだ。
一応あいさつも終わって、もとの雑談的話し合いにはいったが、
「みなさん何というざまですか、
いやしくも天下国家を論じようとするとき、裸でいたり、
寝ころんで煙草吸ったり、不謹慎じゃないですか。
そんな態度で、国家の革新ができるのですか、もっと真剣になって下さい」
正座したまま黙って様子を見ていた磯部が、
いかにも概嘆に耐えぬ、といったかっこうで、タンカをきり出した。
 安藤輝三
「 そうだな、すまん 」
と、磯部と同期の安藤が、まず威儀を正した。
私も一応は呆れながらも、さわらぬ方がいいと、すわりなおした。

しかし、
その磯部が一週間もたたぬうち
一番行儀が悪くなって行くのだが、
この日を契機として、磯部は東京の舞台に躍り出て、
彼の火の玉のような情熱を、
昭和十二年八月十九日銃殺で刑死するに至るまで
約五年間にわたって燃やし続けたのである。


大蔵栄一  著
二・二六事件への挽歌


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