あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

栗原中尉 ・ 救國埼玉挺身隊事件

2017年10月26日 14時26分47秒 | 栗原安秀

救國埼玉挺身隊事件 ( 昭和八年十一月十三日検挙 )
の中心人物である吉田豊隆 以下 同志数名の取調に依って、
同事件の背後に西田税と深い関係を有する陸軍青年将校栗原安秀等の
直接破壊行動に依る国家改造運動の存し、
同事件の運動の派生的事件であることが明らかになった。

栗原安秀中尉

急進青年將校を中心とする内亂陰謀事件
(一) 栗原中尉等幹部候補生を同志に獲得す
昭和六年秋の所謂十月事件以來 國家改造を熱望し、
自ら之が實行に當らんとして居った歩兵第一聯隊陸軍歩兵中尉栗原安秀は、
昭和七年十二月
幹部候補生として同聯隊に入營したる山内一郎、高木勇一、中西正之、北島一市 等に對し、
教官として學科教育の際、特權階級政党財閥の不純分子を一掃し
現在の國家及社會組織を破壊して 國家改造を斷行せざるべからず、
自己の幹部候補生教育の方針は 革命の二字に尽く と迄極言し、同人等を共鳴させた。
リンク→ 
栗原中尉 「 教育方針は革命の二字につきる 」 
其後 彼は幹部候補生に對し 聯隊將校室又は自宅に於て
資本主義機構 及 其の擁護機關たる現在の我が政治機構變革の要を説き、
或は レーニン、吉田松陰の批判を試み、
或は 五 ・一五事件が部分的テロであって全般的テロ 即ち 革命の手段と其の軌を異にする所以を説き、
自己の抱懐する革命理論を暗示する等 革命意識を注入向上せしむるに努め、
更に、自己等青年將校の改造運動は
終局 日本國家の政治的機構の全面的破壊 竝にその建直しにあるので、
其の手段としてクーデターを斷行し
憲法を停止し、
樞密院、貴族院諸般の制度を廢止し、
軍の獨裁政府を樹立し、
革命直後の國内混亂を救ひ
最後に革命委員會を組織し
我が國の根本的改造を遂げたる上、
亜細亜革命より世界革命に躍進すべき計畫であることを教示し、
革命の經典として 北一輝著 『 日本改造法案大綱 』 を交付し、彼等の革命參加を勧説した。

斯の如く 栗原中尉は幹部候補生を同志に獲得するに努め
昭和八年五月頃迄に 約二十餘名の同志を得、之を三班に分ち、
山内以下四名もをその首脳者となして一同の結束を堅めしめた。
同年七月十三日頃
栗原中尉の召集によって山内以下四名の首脳者は外十數名の幹部候補生と共に
東京市赤坂区青山五丁目寺院梅窓院に會合した。
近衛歩兵第三聯隊  中橋中尉
歩兵第一聯隊  前田軍曹
同  小島軍曹
も 之に加った。
栗原中尉は同年五月 千葉戰車隊附となって居ったが
會合の同志一同に對しクーデター斷行の近きことを告げ、一同の參加決定を訊し、
決行當日に於ける幹部候補生の武装程度を示し、候補生の攻撃目標は牧野内府邸なることを指示した。

同年九月十七日
栗原中尉は同市赤坂溜池アメリカン・ベーカリーに
前記四名の首脳候補生と外數名の幹部候補生を集め
中橋中尉 前田、小島軍曹も出席し、
栗原中尉は一同に向って 愈々 二三日中に蹶起すべき旨を告げ、
服装の注意を与へ、
更に前記四名は各其の所属中隊より輕機關銃一挺宛を持出すこと、
栗原は戰車を繰出すこと、
中橋中尉は約二個中隊を引率して參加すること、
其の襲撃目標は牧野内府邸、警視廳とすること
等を指示したので 一同之に同意した。
革命建設方針に付て栗原は、
戒嚴令の宣布を爲し 憲法を停止し 軍政府を樹立し、
續いて革命執行委員會を組織し
國内の政治經濟機構の根本的改造に着手する方針なることを告げ
一同の賛同を得た。
同夜
更に栗原は幹部候補生に對し、
同月二十二日午後十二時を期し 營門出發の予定なること、
近歩三の中橋中尉の率いる部隊が乃木坂を上り
一聯隊前にて喇叭を吹奏し 通過するを合図に前田軍曹の指揮を受け參加すべきことを指令した。
山内以下の候補生は歸隊後各自身邊の整理をなし 遺書を認め、其の時期到來するを待って居った。
然るに栗原中尉は同志中時期尚早なりとして阻止する者があった爲め、
遂に決行するに至らずして中止するに至った。

其の後に於ても山内一郎以下四名の首脳部候補生は鞏固なる決意を有し、
屢々 栗原中尉と會合し互に相激励して革命遂行の時期を窺って居った。
同年十一月二十六日 芝区虎の門晩翠軒に會合し、
退營の時期が切迫したので
除隊後も引續き結束して在郷軍人會、青年訓練所にて同志獲得に努むること等を申し合わせた。

(二) 在郷軍人學生をも獲得し蹶起を企つ
日大生 水上源一、拓大學生 吉田豊隆 等は
豫て政党、財閥、特種階級打倒の念慮を抱いて居ったが、
血盟団事件、五 ・一五事件等が相踵いで起るに及んで、
政党財閥特權階級を打破するには到底合法手段に依っては効果なく
直接行動に出づる外途なしと確信するに至り、
同志獲得の目的を以て昭和七年五月各大學々生を糾合して救國學生同盟を結成し、
愛國運動に努めて居った。
偶々 水上の友人 山内一郎が昭和七年十二月一日
幹部候補生として赤坂歩兵第一聯隊に入營したので
同人に對し軍部内の國家改造に志す青年將校との聯絡方を依頼して置いたところ、
山内一郎は教官 栗原中尉より改造運動に付ての急進論を説かれたので直ちに之に賛同し、
進んで栗原中尉に水上源一を紹介し
同年十二月下旬 水上は栗原中尉と同聯隊内にて意見を交換し、
次いで翌八年一月三日
水上の同志 吉田豊隆 外 數名の學生が同聯隊に栗原中尉を訪ね、
革新意見の交換をなし 互いに共鳴し、
救國學生同盟なる急進的學生は軍部内の急進青年將校栗原中尉外多數の同志と提携して
改造運動に進むこととなった。
此処に於て 學生連は活潑に同志の獲得に努め、
吉田豊隆は同年三月拓大卒業後熊谷市の自宅に歸り 専ら同地方に於ける同志の獲得に努め、
十月下旬頃迄に救國埼玉挺身隊事件に參加した同志 浅見知治、上野常次郎外數名を同志として獲得した。

又 宮岡捨次なる者は昭和七年十月二十一日豫備召集に依って歩兵第一聯隊に入營し、
栗原安秀がその教官中隊長となった。
栗原は宮岡等豫備兵に學科の講義を爲したが、
其の内容は國體論及五 ・一五事件の批判等を試みたもので、
我が國 建國以來の大化の改新、明治維新等に於ける軍隊の動向が如何に決定的な力を有して居ったかを説き、
更に之と五 ・一五事件を結び付けて、五 ・一五事件は昭和維新の斥候戰であり、
踵いで來るべきものは本隊の衝突である。
我我青年將校は一致團結して此の昭和維新の爲め 邁進しつゝあるが故に、
在郷軍人も共に蹶起すべきである 等、革命意識を注入鼓舞するに努めたので
宮岡は深く之に共鳴し、召集解除となり歸郷後 栗原中尉と聯絡し、
其の指導の下に埼玉県入間郡の郷里に於ける在郷軍人青年等に働き掛け、數名の同志を獲得した。
更に昭和八年七月 此の運動に専念するため家出して上京し 水上源一及栗原中尉の下宿に寄寓し、
更に同年八月末より熊谷市に於て活動中の吉田豊隆宅に赴いて同人と提携して同志の獲得に努めつつ
時期の到來するを待って居った。

叙上如くにして栗原中尉を中心として民間側、學生組、水上源一、吉田豊隆 以下數数在郷軍人、
宮岡捨次 以下多數一團となり、
栗原中尉を介して軍部内の急進分子と歩調を揃へつゝ 改造運動を進めて居ったので
是等の同志は屡々 栗原中尉と歩兵第一聯隊將校室、神田區今川小路三ノ五 水上源一宅の他
數ヶ所に於て會合を重ね、同市の結束、各自 信念の鍛錬、組織の擴大、鞏化、警備、
決行方法の研究等をなしつ々あったが、
同年七月中旬 水上源一は千葉市に於て千葉戰車隊附となって居った栗原中尉と會合し、
 決行の際に於ては
(イ)  目標として西園寺公望、牧野伸顕、齊藤實、若槻礼次郎、鈴木喜三郎、郷誠之助、岩崎小弥太、
  木村寿弥太、警視廳、新聞社、日本銀行等を撰び
(ロ)  軍部側は西園寺公望、牧野伸顕、齊藤實、警視廳の襲撃を担當し、
  其の餘の目標襲撃は民間側に於て担當すること
(ハ)  各部隊に軍隊より輕機關銃一挺宛を付し、民間側同志は抜刀にて目標に突進すること、
  尚 千葉戰車隊より若干台の戰車を出動せしむること
等を協議し、水上は歸京後 其の旨を吉田豊隆、宮岡捨次 其他の同志に報告し
九月十八日頃 栗原中尉より同月二十二日の夜半を期し、
 軍部民間一齊に蹶起すべき司令が發せられ、水上源一を通して各同志に傳達せられた。
即ち 栗原中尉は近歩三の中橋中尉、歩一の前田軍曹、幹部候補生山内一郎 以下二十余名等にも
同様の手筈を打合せ、夫々準備をなし、
民間側は水上源一を通じ學生組、在郷軍人の同志に同様の司令を下し 決行をなすべく決定した。
然るに
栗原中尉の同志中より時期尚早の理由を以て決行中止を主張する者を生じた爲め
その計畫は中止となった。
併し その結束は其の儘保たれ、
同年十一月九日水上源一 方に栗原中尉以下が會合し、近く決行することゝし、
民間同志は便衣隊の役割に當ることとなし、
其の部隊編成、指揮者に關し
埼玉入間班  指揮者 宮岡捨次
同熊谷班  指揮者 吉田豊隆  參謀 浅見知治  同 市川国助
拓大A班  指揮者 澤田一敏
同B班  指揮者 白石司  參謀 小林正夫
日大A班  指揮者 水上源一
同B班  指揮者 宮城銈之助  參謀 吉沢学
土工班  指揮者 森永喜一郎
行商班  指揮者 小幡武夫
と 決定し其の陣容を整へ
尚決行の際の準備行動として
(イ)  四月初旬 水上源一、吉田豊隆は白石司を帯同して静岡県興津町に至って
  西園寺公望の坐漁荘の周囲を徘徊して地形及警備の狀態を偵察し
(ロ)  五月中、水上源一、白石司の兩名は東京市本郷區駒込 若槻礼次郎の邸宅附近に至り
  同様の偵察をなし
(ハ)  十月下旬新たに目標人物として安達謙蔵、中野正剛を加ふるに至ったので
  水上源一は其の頃二日間に亙り横浜市の八聖殿、東京市麻布區内の安達の本邸
及 代々木の中野邸の附近に赴いて偵察を爲した。

(三) 急進派青年將校の一團
右内亂陰謀事件は 昭和九年一月浦和地方裁判所檢事正より特別權限に属する事件として
大審院檢事總長に移送せられ、同檢事局に於て記錄捜査を遂げ
尚 陸軍現役軍人に對する取調方を陸軍檢察官に依嘱し 取調を遂げたるも
其の首魁と目すべき栗原安秀 其の他の陸軍軍人等に於て
暴動を起し 本計畫を實行するの眞意の有無に付いて尚疑ふべき點あり、
また是以上捜査を進むるの機に熟せざるものと認むるを以て
爾後の推移を嚴重に監視するとの理由を以て 同年六月中止處分に附せられた。
右内亂陰謀事件に於て檢事聴取書中の記載より共謀若しくは首魁者としての
嫌疑濃厚であった者は
歩兵第一聯隊中尉  栗原安秀
近衛歩兵第三聯隊  中橋基明中尉
歩兵第一聯隊  佐藤中尉
同  香田中尉
同  丹生中尉
同  中村中尉
同  小島軍曹
同  前田軍曹
であるが 其の取調中
宮岡捨次が栗原中尉方に同居中 同中尉の手帳より同志の連絡網を示すものと目せらるゝ
記載を秘かに書き取り蔵匿し居れりとの記述によってその蔵匿箇所を捜索して發見した
押収物によれば 数十名の將校の氏名の記載を見るのである。
次にその全文を記載する。
1L  香田中尉  佐藤中尉  栗原中尉  中村少尉  佐藤少尉  丹羽少尉  下重主計
3L  寺生大尉  安藤中尉  新井少尉  坂井少尉  冷泉中尉
1GL  高村中尉  三宅中尉
2GL  近藤中尉  竹下少尉
3GL  中橋中尉  淺井少尉  弦木少尉
1A  小田島中尉
KA  中牟田中尉
戸校  大蔵中尉  鶴見中尉  村岡大尉  藤崎中尉
陸大  村中中尉
騎校  松田中尉  光田中尉
電一  磯部中尉
4GL  小林少尉
近四  磯部中尉
工校  成富中尉
歩校  福島中尉  竹中中尉  堤中尉  島藤中尉
仙台教導  野中中尉  内堀中尉  草地中尉
山形 横地少佐
秋田17L  相澤少佐
61L  大岸中尉  田中中尉
奈良  吉井大尉  松浦少尉
福山  池田中尉
福岡  堤丸中尉
小倉  後藤中尉
静岡  坂本中尉  宮原中尉
松山  佐野少佐  柴大尉
豊橋  對馬中尉  間瀬中尉  金子中尉  鈴木中尉  村井中尉  芳野中尉
金沢  栗原中尉  池田中尉
名古屋  青山中尉  村瀬中尉  三浦中尉  山田中尉
徳島  野田中尉  田邊中尉
丸亀  小川中尉  江藤少尉
佐世保  藤野中尉
久留米  中村中尉
朝鮮  朝山中尉  谷村中尉  森田中尉  福永中尉  片岡中尉  岩崎中尉
鹿児島  栗原中尉
満洲  城所中尉  菅波中尉  末松中尉  津島中尉  町田中尉  堤中尉  浦野中尉
台湾  若松中尉  山田中尉
高田  大関少尉
仙台  外山中尉  星中尉
館山  上出大尉  浅永中尉  森中尉  安中尉  高橋中尉
横須賀  島崎少佐  岩沢中尉
霞ヶ浦  寺井大尉  坂谷中尉 
間島惣兵衛 杉並區天沼
伊東乙男  本所東駒形三ノ二
大塚松太郎  本郷區根津八重垣町五二
滝沢孝治 麹町區・・・
佐野愛作 下名栗四四
下士官 歩一 一五 四九 八
救學同盟 20 4 4  埼玉靑 ?
歩校 六  仙 六  熊谷者
神代村塾 30
芳流会 30
北一輝 四谷四八
西田税 青山七四九
岩田富美男 大化会五九七 牛込五二五
山口一太郎 大塚三七四八
小畑敏四郎 高輪六〇四七
黒木 銀座三六八八
秦中将 丸ノ内八二七
眞崎 四谷二二三三
宮岡の説明に依れば
L は歩兵連隊  G は近衛  A は野砲を示す  KA は亡失
名簿中少尉は概ね五 ・一五事件關係者と同期生
歩一の丹羽は丹生の誤り、館山の浅永は浅水の誤 (特別弁護人)
右は同志として相許す關係にある者の氏名であるか、
或は栗原中尉り任意に革新的意見の持主として選択したものであるや、
これを斷定し得ないが
一、程度の問題はあれ、革新分子の一群たることを推知し得ること
二、横斷的に結束し陸軍部内の上層有力者及民間革新運動者の巨頭を含んで居ること
三、二 ・二六事件の關係者を網羅して居ること
等は極めて注目すべき點で所謂皇道派若しくは國體原理派と稱せられる革新的思想に於て
相通ずる所ある青年將校の一群なることが想像せらるるのである。

栗原中尉に心服し 各所を往復して居った宮岡捨次は、
救國埼玉挺身隊事件に於て證人として次の如く陳述して居る。
「 栗原中尉は青年將校の代表として民間同志と聯絡をとって氣運の醸成に努めて居ったのであるが、
昭和八年七月下旬頃 愈々同年九月に同志蹶起して大事決行と定めた。
栗原中尉は同志青年將校の急進分子であるが他に自重論者が多く、
栗原中尉は之に不満で民間側と提携して九月蹶起を決意した。
処が間もなく同志の澁川善助がそれを知って西田税 に告げた爲め、
西田税は水上源一を呼び付け 輕擧盲動を避けて自重せよと説いた爲め、九月蹶起は挫折した。
栗原等は其の後 益々同志の獲得に努め大々的に蹶起する方針の下に進むこととなった。
九月二十二日水上源一方に栗原以下同志が會合し、栗原より延期した理由を述べ、
同志の者は尚此際大いに結束する様戒め、西田税の作った天劔党趣意書を讀み聞かせ、
自分も此の趣意に依って進む者であることを一同に告げた。」
・・・リンク→  天劔党事件 (2) 天劔党規約 

栗原安秀中尉、中橋基明中尉は對馬勝雄中尉と陸士第四十一期同期生で
孰れも二 ・二六事件にて死刑に処せられたのであるが、
昭和六年の秋の所謂十月事件當時未だ歩兵少尉にて
同事件に刺戟せられ革新思想を抱くに至ったもので、
十月事件の際 橋本中佐一派の首脳部の勧誘に應じ渦中に入って居ったが、
同事件進行中 次第に橋本中佐一派より離れて
末松太平、菅波三郎等 天劍党以來の革新的將校と結ぶに至り、
尉官級にして隊附の革新的青年將校の一團を形成し
所謂皇道派 又は 國體原理派と呼ばるゝ一系統をなすに至った。
其の一派の多くは西田税と親しく交際し、
自ら西田を通じ 北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 がその多數に信奉せられて居った。
是等 所謂皇道派青年將校は一定の指導原理、革命方針によって集り、
截然たる組織を持つ團體とは趣を異にするものであったが、
十月事件以來十月事件の首脳部を爲した幕僚將校と對立し、
その指導原理を覇道なりとして自らを皇道又は國體原理に基くものとして居り、
幕僚將校と親交ある民間側大川系と鋭く對立する北、西田系と親しくして居る點等に於て自ら一派をなして居った。
是等青年將校の一團は國内改造を目的として進むものであり乍ら、
十月事件後 荒木陸相の出現後 俄に自重論を採るに至ったことは叙上の如くであるが、
其の一部に於ては栗原等急進分子が自重的態度を慊らずとして
急速に決行することを主張して居ったのであった。
栗原、中橋 兩中尉を中心とする本内亂陰謀事件の如きは
其の間の事情を示すものとして注目せられたのであった。

救國埼玉挺身隊事件
本件の中心人物 吉田豊隆は拓殖大学在學中同校に教鞭を執って居った大川周明、安岡正篤、
満川亀太郎等の感化に依り 國家革新思想を抱くに至り、
昭和七年五月十五日 日大生 水上源一 等と謀り 救國學生同盟を結成し愛國に從事し、
又 右同盟の事業として神代村塾を設け 學生闘士の養成に努めた。
又 拓大内の同志を糾合して皇國青年芳流会を組織する等 活動を續けて居った。
昭和八年一月同志水上源一の紹介により西田税 及歩兵第一聯隊歩兵中尉栗原安秀と識り、
栗原中尉の非合法手段を辭せざる國家改造論に共鳴し共に大事を決行せんことを盟約した。
同年算がっ拓大卒業後郷里熊谷に歸り 同志の獲得に努め、
淺見知治、市川國助、上野常次郎、井口幾造、杉田幸作、水野綏茂、等を同志たらしめ、
一方中央の栗原中尉、水上源一等と聯絡して
栗原中尉を中心とするクーデターに依る國家改造の
重大計畫に参畫して居った。
同年九月二十二日 愈々蹶起することとなり之が準備をなしたが
栗原中尉等が之を延期したるため、焦慮の末 熊谷班のみを以て單獨蹶起を決意し、
同年十一月十四日 川越市鶴川座に於て開催せらるゝ立憲政友會関東大會に出席の豫定なる
鈴木喜三郎總裁以下領袖を暗殺することに決定、
二連猟銃一挺 日本刀匕首等の武器を集め、鶴川座前空家を借り受け、
同志一同此処に潜伏し、鈴木總裁以下を邀撃せんとなして居ったが
同大會前日 計畫が洩れて一同檢擧せられた。
裁判の結果は次の如くである
殺人予備
懲役二年(求刑二年)  吉田豊隆 犯行当年二五
同 一年六月(同一年八月)  淺見知治 同二五
同 一年六月(同一年八月)  市川国助 同二四
同 一年(同一年三月)  上野常次郎 同二六
同 一年(同一年三月)  杉田幸作 同二四
同 一年(同一年)  水野綏茂 同二七
同 一年(同一年)  井口幾造 同四二

れは
「 思想研究資料特輯第五十三号 」
( 昭和十四年二月、司法省刑事局 )
昭和十三年度思想特別研究員としての、東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の抜粋である
・・現代史資料4     国家主義運動1  から 
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十月事件ガ暴露シ、幹部ガ其ノ筋ニ引張ラレルト、
栗原其ノ他ノ青年将校ハ、我々ノ手デ実行シヤウト非常ニ強硬ナ意見ヲ吐キマシタノデ、私ト菅波トデ抑ヘマシタ。
其ノ後其ノ様ナ口振リノアツタ時、又ハ多少動キガ見ヘタ時、抑ヘタ事ガ二、三回アリマス。
所謂埼玉挺身隊事件ノ時、或種ノ行動ニ移ラムトシタノヲ抑ヘタノデ、
栗原及其ノ時會ツタ水上源一等ハ手ヲ引キ、参加シナカツタノデアリマスガ、
私ノ手ノ届カナカツタ埼玉ノ連中ガ飛出シテアノ事件ヲ起シタノデアリマス。
私ハ、軍人ガ軍部以外ノ若イ者ニ接触スルノハ危険ダカラ、接触シナイ様ニセヨト言聞カセテ居リマシタ。
次ニ、昭和九年齋藤内閣ガ総辞職シ岡田内閣成立前頃、
色々噂ノアツタ宇垣朝鮮総督ガ東京ニ居リマシタガ、
戦車隊ニ在勤中デアツタ栗原ハ、
何十台カノ戦車ヲ指揮シ大森附近ニ宿営シテ居リ、
「 此機ニ西園寺、牧野、齋藤、岡田其ノ他ノ重臣達ヲ襲撃スルト云ツテ居リ、
 栗原ノ如キハ逆上シテ了ツテ抑ヘテモ肯カナイガ、何トカ方法ハナイダラウカ 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ大蔵大尉ガ告ゲテ來マシタノデ、
私ハ栗原、香田、磯部等数名ヲ私方ニ呼付ケテ、
「 君等ハ何ヲヤラウトシテ居ルノカ、捨身デヤル気カ 」
ト申シテ尋ネマスト、
大蔵ガ話シタ様ナ計劃ヲシテ居ルト云フ事デアリマシタカラ、
私ハ、
「 アレ程言ツテアルノニ、何カト云フト直グ逆上シテ飛出サウトスル。
 君等ノ純情ハ純情トシテ、總テヲ犠牲ニシテ夫レデヨイノカ 」
ト言ツテ叱リ附ケマスト、
其ノ者等ハ相談シテ遂ニ中止ヲ約シテ歸リマシタ。
其ノ時私ハ、
「 君等ハ二度ト其ノ様ナ事ヲ考ヘテハイカヌ 」
ト認メテ置キマシタ。
其ノ程度ニハ及びマセヌガ、
軍人ハ矢鱈ニ武力一点張デ進ム風ガアルノデ、気分ダケトハ思ヒマシタガ、
栗原ダケハ頭モ良ク氣モ早ク、強硬派ノ代表人物デアルカラ、
栗原サヘイイ工合ニ誘導シテ行ケバ宜イト思ヒ、
同人ニ對シテハ終始直接行動ニ出ナイ様、説聞カセテ居リマシタ。
直接行動ニ出ルト云フ事ニナレバ、自分ノ頭デ構図ヲ劃ク譯デアリマスガ、
栗原ハアチコチノ先輩ノ人ヲ知ツテ居タ爲、色々ノ事ヲ考ヘテ居ツタ様デアリマス。
私ハ栗原ノ性格ヲ或程度知ツテ居マスノデ、時ニ応ジテ説イテ居リマシタ。
栗原モ、私ガ言聞カス時ニハ、ヨク判ツテクレテ居タノデアリマス。
・・・西田税  第二回公判 から


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