あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

十月事件

2018年12月16日 15時49分27秒 | 十月事件

場所は青年会館の畳敷の広間だった。
目じるしは 「 郷詩会 」 と なっていた。
西田の考案しそうな名称だった。
全国からの陸海軍青年将校四五十人に、
民間人は西田税、井上日召、
それにのちの血盟団のメンバーの人々や 渋川善助、高橋空山などが加わっていた。
血盟団、五・一五事件、二・二六事件の主要メンバーが、
このとき一堂に会していたわけである。
どれが陸軍でどれが海軍か民間人かわからなぬほど、
一様にゆかた袴の若者が広間に雑然と坐っていた。
がそのなかで
一人だけ夏羽織をつけ、
威儀を正して端坐している年輩の人物が私の目をひいた。
「 あれは誰だ 」
と 渋川善助にきくと
「 愛郷塾の橘孝三郎氏だよ 」
と 教えてくれた。 ・・・郷詩会の会合


十月事件の橋本欣五郎中佐

十月事件
目次
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櫻會 ( 國家改造の目論見 ) 
三月事件 ( 宇垣の變心 )
十月事件 ( 錦旗革命 )
櫻會 ( 革新幕僚 )
・ 
三月事件と十月事件 ( 革新幕僚 ) 

井上日召 ・ 郷詩會の會合 前後
末松太平 ・ 十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合
・ 
末松太平 ・ 十月事件の体験 (2) 桜会に参加 「 成功したら、二階級昇進させる 」
・ 
末松太平 ・ 十月事件の体験 (3) 「 それじゃあ空からボラを落として貰おうか 」

・ 
末松太平 ・ 十月事件の体験 (4) 「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」

やっと菅波中尉が現れた。
私はいきなり菅波中尉に欝憤をぶちまけた。
「 あんたは在京部隊の将校を利で誘いましたね。
道理で沢山集まっていますよ。
大岸中尉は同志十人あれば天下の事は成る、といったが、
十人どころか大変な人数ですよ。
私なんかもう出る幕じゃないから引込みますよ。」
菅波中尉は眼鏡の底で目をきらりと光らせると、
「 なんということをいうんだ。どうしたんだ。」
といった。
私はつづけていった。
「 クーデターが成功したら鉄血章をくれるそうじゃないですか。
野田中尉がだまって聞いていたところをみると、あんたも知っているんでしょう。」
「 なにッ、鉄血章、誰がいった。」
「 天野中尉がいいましたよ。」
「 よしッ、おれにまかして置け。」
菅波中尉はぐっと口を真一文字にむすんで広間にはいっていった。
私もそのあとにつづいた。

・ 西田税と十月事件 『 大川周明ト何ガ原因デ意見ガ衝突シタカ 』 
絆 ・ 西田税と末松太平


十月事件 ( 錦旗革命 )

2018年12月15日 14時19分04秒 | 十月事件

前頁  三月事件 ( 宇垣の変心 ) の 続き

満洲事變
昭和六年九月十八日、
突如勃發した柳条溝の鐵道爆破は、遂に全満に於ける排日張学良一派の驅
之は國際的に見れば、英佛米現狀維持派のベルサイユ體制の一環が崩れ落ちたことを意味し、
國内的に見れば、英米追随外交政策を採れる國内現狀維持派への一大反撃と見られる。
國際現状維持者 英、仏、米と國内現狀維持者、追随外交、政黨政治との間に結晶した九ケ國條約の廢棄の第一頁である。
同年初頭 ( 一月二十二日 ) の議會に於ける外交方針演説中に、
幣原外務大臣は満洲問題に触れて
「 我々は本より、民國の正當なる立場を無視して、濫りに利己的の要求を爲すが如き意志を有するものでない。
 同時に民國側に於ても亦、我南満洲鐵道の地位を危くせんとする如き計畫があり得べきものと信ぜぬ。
又 斯る企てが容易に實現し得らるゝものではない云々 」
と 述べたが、當時國民政府の躁急なる國權回収運動が捲起した排日機運と、現實の権權益侵害とは、
我國の徹底忍び得ざる程劇しいものであつた。
國民政府を背後にした張学良の鐵道政策は、満鐵の包囲攻撃であつた。
胡蘆島の築造、満鐵と平行する鐵道の敷設は着々進行し
「 満鐵昭和五年度決算は、鐵道石炭其他各事案に亘り、創立以來の大減収を来し、
 前期配當に比し三分減の年八分の配当をなすには、從來毎期實行し来つた特別積立金 ( 一千萬圓以上 )
社員退職給与積立金 ( 二百萬圓以上 ) を全然行はず、更に翌年度繰越金に於て、
二百七十八萬圓を前期より減少した上、辛うじて辻褄を合せたものだ 」
と 昭和六年六月二十一日の東京朝日がその惨状を奉じて居る程である。
外相の演説は、此の満鐵の地位が危うくされた明白なる事實を、國民の前に平然と否認して居るもので、
軍部の反感をいやが上に高らしめた。
當時、我國と満洲との間には不當課税問題、商租權問題、領事館分館設置問題等
三百有余件の懸案が横はつて居り、我抗議は絶えず繰返されたが、
支那側は之に對して解決遷延策をとり、解決の端緒すらも得られない實狀にあつた。
外交時報 ( 第六三八号一七〇頁 ) が指摘する其の原因は次の如くである。
一、日本の支那に對する國家的權威失墜し支那側の輕侮を招ける事。
二、支那國民が幣原外交の無爲軟弱を見縊みくびつて居る事。
三、出先官憲亦事無かれ主義をとつて事件を根本的に解決せざる事。
四、満洲各地に國民党々部外交協会の如き、民衆運動を煽動する機關が設置せられ、
 宣伝に努めて居る結果、民衆の對外的思想一般に惡化した事。
五、一般に智識向上して國權回収熱が高くなつた事。
六、支那官憲は意外にも排外排日行動を取締らぬのみか之を慫慂する傾向にある事。
斯る狀勢に對し軍部は極度に硬化した。
 南次郎
同年 (昭和六年 ) 八月四日、軍司令官及師團長會議に於て、南陸相は鞏硬なる決意を示し、
世上の軍縮論に對する反駁竝満蒙問題に對する政府の無氣力を痛烈に非難し
「 満蒙地方の情勢が、帝國にとつて甚だ好ましからざる傾向をたどり
 むしろ事態の重大化を思はしむ 」 る旨を切言し、軍部の決意の程を窺はせた。
( 昭和六年八月五日東京朝日 )
南陸相の此の訓示は政府部内に衝動を与へ、同月六日閣議散會後、
幣原外相は陸相に對して、
「 陸相の訓示は國務大臣としては穏當ではあるが、之を故意に外部に發表する事は、
 内は國民の疑惑を受け、外は支那より英米其他の列鞏に對し、
二重外交、武力外交の誤解を受ける事は必定である。
目下多難の時に斯の如き發表は、外務當局として決して喜んでいない 」
と暗に忠告を試みた模様である、
之に對し南陸相は斷然外相の意見を斥け
「 満蒙問題に附 正確なる認識を、軍司令官や師團長に訓示するのは當然である。
 目下支那の現状は、再び勢力爭覇戰によつて混沌たる事情にあるのであるから、
陸軍の負担する使命は實に重大である。
斯の如き事態を前にして國務大臣が満蒙問題に言及するのは理の當然であつて、
その一部を發表する弊害なし 」
と言ひ放ち、外務、陸軍當局の意見はまさに反對の立場に立つたものの如くである。
( 昭和六年八月七日東京朝日 )
斯る軍部内部の革新風潮が目論む急速的積極的解決方針は、
外務當局と對立しつゝ益々壓力を加へて進んだ。
櫻會の急進派が、満蒙問題を解決せよと全國の軍隊に檄を廻したと云はれるもこの當時の事である。
而して斯る機運が柳条溝の爆破によつて口火を切られて満洲事變の蹶起をみたのである。
此事變に附、注意すべきは同事変は軍内革新氣運の爆發であつて、
革新思想に依つて指導せられ、満洲國の成立を見るに至つた事である。
東京日日新聞の記事によれば、同年十二月二十六日荒木陸相は政友會顧問山本条太郎に
「 軍部側の今日迄研究せる新満蒙對策 」 を次の如く説明している。
一、新満蒙は支那本部と何等政治的關係を有せざる特殊地域となすこと。
二、資本家にその利益を壟斷せらるる如き事を絶對避け、或種の事業は國家の直接經營とすること。
三、満蒙における収益は、新満蒙の完全なる建設と徹底的開發とに充當すること。
四、満蒙居住者をして可及的諸般の衝に當らしむること。
等を根本方針とする。
この第二項に於て、満洲事變が革新的思想を有していることを明瞭に観察する事が出來、
かかる革新的政策が、苟くも陸軍大臣から軍部の總意として表現された事に附て、
更に重大なる意義を發見するのである。

十月事件
満洲事變勃發直後、
參謀本部一部中堅將校と大川周明が首謀者となつて、
國内改造を圖る爲にクーデターを計畫したと傳へられ、
世に之を十月事件又は錦旗革命と呼んでいる。
 大川周明
(一)  概要
大川周明自身の述べたる所によれば其概要は次の如くである。
「 三月事件に於て宇垣陸相初め軍人は、非常な覺悟を持つて一九三六年迄に満洲問題を解決し、
 日本を建て直し、長期戰爭に耐へ得る様にする必要より クーデターを目論み、
諸種の事情から中止したのであるが、大川等は老人を加へては駄目だから、
自分等に於て解決しようと云ふ事になり、參謀本部に於ては
支那課長  重藤大佐    露班長  橋本 ( 欣 ) 中佐    関東軍  板垣 ( 征 ) 少将    同  土肥原大佐
等と大川等とが集まり、満洲の形勢は日本の軟弱外交で如何なる事になるか判らぬから、
外交自體に任かせて置く事は出來ぬ。
帝國の面目を潰す様な事があれば、武力を以て之を引摺らうといふ考へを決め、
そこで九月十八日に満洲事變が起きたのであるが、既に板垣、橋本、重藤等が覺悟を定めて、
夫々準備をして居つたので思ふ通りに満洲問題は解決した。
本庄司令官は部下の遣り方が餘りに鮮かなので驚いて居た。
満洲問題の解決端緒が出来たので、第二彈として之に對する準備と満洲經營の具體案を、
大川と參謀本部の者とで作り、之に基いて事變後割合に順調に進展した。
そこで今度は、政黨政治は内地の政治だけでもこなし切れないのであるから、
之に満洲迄も託す事は出來ない。將來何うなるか判らぬ。
それが爲に國内問題も至急解決しなければならぬと云ふ所から、
玆にクーデター計畫が行われる様になつたのである。
然し今度は、軍部の上層の人々には判らぬ顔をしてやるために、
軍部の一番頭の人が中佐であつた。
これを中心として、大川等五名が集り實際の計畫を樹て、
其攻撃目標と担當者と其率ゆる兵力とろを決定し、
中心となつた五名以外の者には全然判らぬ様に計畫した。
それは二十數箇所を攻撃し、一擧に政權を倒して仕舞ふ段取であつたが、
此計畫は十月十八日に暴露し、是も亦挫折した。
この計畫に於ては參謀本部の陸地測量部に改造本部を置き、
錦旗革命本部と書いた大きな旗を立てる事になつて居た。
大川の手許には八十名の兵隊が配置せられ、
大川は都下の大新聞社を占領することになつて居た。」
( 五 ・一五事件記録に拠る )
(二)  計畫
田中清少佐執筆と傳へられる手記には次の如く記載されて居る。
『 橋本中佐は八月四日 ( 昭和六年 ) 我に言ふ
  
「 本年九月中旬関東軍に於て一の陰謀を行ひ満蒙問題解決の機會を作るべく國内は
之を
契機として根本的變革を敢行せらるべきなり云々と
而かも國内改造問題は參謀本部首脳部には十分諒解あり 」 と
更に同中佐は云ふ
「 此の如きを以て軍部に政權の來るべき更言すれば軍部が中心となり政權奪取の爲
計畫案を九月初旬迄に構成せられたし 」 と。
九月十八日満蒙問題突發
十月三日夜 ( 土曜日 ) 橋本中佐より速達あり、文に云ふ
「 明四日打合せ有之候間森ケ崎の萬金にお出で被下待入申候匇々 」
( 原文の儘  消印は京橋新富町 )
十月四日所示の地点に至る。
萬金に到り、橋本中佐を訪れたる旨主人に傳えたるに、吾が身分氏名等を問ひ、
之を階上に傳へ 始めて吾を案内せり。
在室する者は、最近支那駐在武官として赴任せる長少佐、
參謀本部露班の田中弥大尉、小原大尉の三名なり。
彼等は云ふ
「 今や國内變革決行せらる。
 陸軍省 參謀本部を初め、近衛師團等凡て國内變革に向つて準備中、
先づクーデターにより政權を軍部に奪取して獨裁制を布き先づ政治變革を行ふ 」 と。
十月十二日、我は街頭に於て田中弥大尉に會す。
彼は 「 首相官邸に對する現地偵察中なり小原大尉又然り 」 と、
同日 午後六時大森の末浅に至る。
會する者 橋本中佐、長少佐、馬奈木大尉外に二名と我なり。
此の夜 田中大尉はクーデター 実施の際に於ける詳細なる計畫を極秘として示したり。
其の内容は左の如し。
但し吾等に對しては秘匿しあるもの少なからず。

決行の時機   十月二十一日 ( 註、他の資料に依れば十月二十四日が眞の決行期の様である。後に記す  )
參加將校   加盟せる將校在京者のみにて約百二十名
參加兵力   近衛各歩兵聯隊より 歩兵十中隊、一機關銃中隊、歩三より約一中隊、
但し夜間決行の場合には歩三は殆ど全員。
外部よりの參加者
大川博士及び其門下

西田税、北一輝の一派
海軍將校の抜刀隊  横須賀より約十名
霞ヶ浦の海軍爆撃機  十三機
下志津より飛行機  三---四機
實施
1  首相官邸の閣議の席を急襲し、首相以下の斬撃===長少佐を指揮官とす。
2  警視廳の急襲占領===小原大尉を指揮官とす。
3、陸軍省、參謀本部の包囲、一切外部との連絡遮斷竝上司に鞏要して同意せしめ
 肯ぜざる者は捕縛す。軍行動に對する命令を下す。
4、同時に宮中には東郷元帥參内。
 新興勢力 ( 彼等は自らを新興勢力と稱せり ) に大命降下を奏上す。
閑院宮殿下、西園寺公には急使を派す。
新内閣の氏名
首相兼陸相  荒木中將
内務大臣  橋本欣吾郎中佐
外務大臣  建川美次
大蔵大臣  大川周明博士
警視総監  長少佐
海軍大臣  小林少將 ( 霞ヶ浦海軍航空隊指令官 小林省三郎 )
其他彼等の見て不良將校、不良人物に對する制裁
資金金二十萬圓は随時使用し得る様準備しあり

リンク  ↓
・ 粛軍に関する意見書 (10) 所謂十月事件に関する手記 1
・ 粛軍に関する意見書 (11) 所謂十月事件に関する手記 2
・ 
粛軍に関する意見書 (12) 所謂十月事件に関する手記 3

當時、大川周明と橋本中佐一派との間にあつて
聯絡通報者として働いて居た大川側近の中島信一の供述する所は、
其の大要右の手記に符號して居るが、
決行の期日に附ては最初十月二十日の豫定であつたが、
十月十六日朝 橋本中佐より千葉歩兵學校生徒が二十日に演習に行く事になつた爲、
二十四日に變更されたから豊橋歩兵第十八聯隊長佐々木大佐に傳令せよと云はれ
佐々木大佐に其の旨を傳令した事があつて、
十月事件の眞の決行日は十月二十四日であつたとして居る。
又 革新内閣の顔触に附ては全く別個のものを想定して居る。
中島信一は大川の下にあつて
狩野 敏    片岡気介    平田九郎    雪竹 榮
等と共に軍より附けられ兵士の長となり、
東京日日、東京朝日、時事、報知、讀賣、國民、中央放送局を占領する事となり、
中島は東京日日の分担を引受け、十月十五日頃同社に見學と稱して偵察のため行つたと言つている。
又其の計畫は
十月二十四日午前一事に開始せられ、參加すべき各聯隊の兵は、
夜間演習の名目を以て出動し、同志の將校の指揮の下に豫定の部署に着き
各政党の首領其他首脳部
財界の巨頭
首相以下閣僚
君側の奸臣、特權階級
を襲撃し、之を逮捕、監禁し通信機關である中央電話局、中央電信局、中央郵便局
を軍の手に於て占據し
民間側に於て宣傳機關の襲撃、統制、管理を計る爲 各新聞社、放送局を占據し
之等の行動は午前三時頃迄に、約二時間で終り、
直ちに東郷元帥に出動を乞ひ、同元帥は直ちに參内し、
一切の事情を闕下に奏上し 戒嚴令の施行を奏請し奉り、
大命により新國家の組織、内閣の顔触を決定し、其の結果を直ちに全國民に報道し、
國民は一夜の中に天下の一變した事を知ると言ふ筋書であつたと言つて居る。

以上の如く十月事件の計畫は三月事件と同様のものであつたとされているが、
之等に於て注意すべきは三月事件の計畫に於ては、
第一段に於て民間側が左右両翼分子のデモンストレーションを敢行せしめ、
警視廳の力によつては収拾不能の狀況を作爲し、
第二段に於て軍隊がその鎮撫の名目を以て出動し、各機關を占領し、改造を實行する順序であつたのに對し、
十月事件に於ては第一段を行はず、直ちに軍の出動を開始するのであつて、三月事件のそれと相異して居る。
之は三月事件當時に於ては一般の輿論が必ずしも軍部支持でなかつたが、
十月事件の計畫當時に於ては、満洲事變の勃發により、輿論は軍部支持に傾き、
革新的気分が漸く各方面に反映して來て居つたので、かかる情勢の相異が、自ら影響したものと見られる。
又十月事件は、満洲事變に躍動した軍内革新氣運が、國内的に發したもので、
櫻會の急進分子と関東軍内に強い力を有つて居る革新分子とが中心となつて、
全國の革新的將校に呼び掛けたものと見られる。
(三)  挫折
此の計畫は決行直前十月十七日朝、憲兵隊によりその首謀者が檢擧せられ失敗した。
橋本欣五郎中佐    長 勇少佐    田中 弥大尉    小原重厚大尉    馬奈木大尉
の五名は築地の待合金竜亭より同行せられ、東京憲兵隊長、難波大佐の官舎に
知知鷹二少佐は四谷の自宅から澁谷憲兵分隊長官舎に
根本博中佐    天野勇中尉 等は四谷の某所から
藤塚少佐    野田中尉    田中信男少佐 他二名  も夫々同行せられ、
他の憲兵分隊長の官舎に夫々収容せられ、
其の翌日 横浜、市川、宇都宮、沼津 各憲兵分隊長に預けられた。
( 中島信一供述 )
(四)  影響
1  十月事件は、以上の如く大規模のものであつただけ軍内の革新氣運を刺戟し、
 熾烈しれつならしめた事大なるものがあつた。
又一般民間側の革新分子に与へた影響も大なるものがあつた。
軍部内に於て、斯る徹底した改造計畫を有する一大革新勢力のある事を確知した民間改造運動者は、
好機到來せりとして夫々準備を整へ、堅い決意をなして軍部側の決行に應じて蹶起しようとした。
井上日召の一派、橘孝三郎の一派は、
十月事件によつて夫々同志を待機の状態に置き、只軍部側の決行の日を待つて居つた。
十月事件の挫折は彼らの決意を飜へすには役立たず、
却つて彼等が軍部に先んじ捨石となつて、軍部の革新的大勢力を決行に引摺らうと考へるに至らしめ、
血盟団、五 ・一五事件の原因となつた。
2  十月事件は大川周明対北一輝、西田税一派との間を
 全く犬猿も啻ただならざる不倶戴天の間柄となした。
十月事件は、大川周明と從來から親密であつた橋本欣五郎等參謀本部の幕僚將校と、
大川周明とが中心人物となつて居つた。
然るに一方、北、西田一派は 從來から大川一派と對抗し、
陸軍、海軍、民間側に相當の同志を有し、大川に拮抗して改造運動を進めて居つた。
兩派の同志の階級層を見るに、大川が古くから參謀本部に出入し、
後に関東軍と特殊關係を有する満鐵に入り、參謀本部及関東軍の幕僚將校、
佐官級以上の將校に多く同志を有して居たのに反し、
北、西田一派は西田の關係により隊付尉官級の靑年將校に多くの同志を有して居つた。
斯る關係にあつたので、此の十月事件が成功し、其の計畫により改造が行はれるならば、
最も得意であるのは大川であり、北、西田にとつては不愉快な失意なものとならなければならない。
十月事件の計畫は進められるに從ひ首謀者である幕僚將校は、
實際に兵力を有する処の都下各部隊の少壮將校に加担を求めた。
從つて其の計畫は、隊附將校に同志を有する西田、北の耳に筒抜けに入つた。
北、西田は政黨財閥特權階級を打倒し、革新を計らうとするこの計畫に表面より反對はしないが、
來訪する靑年將校に對し、具體的改造の巧拙、資金の出所、大川個人の問題に附批判的態度に出て、
殊に大川の遊興振り等に附て惡口を言ふ。
これが大川一派に通じ、大川一派は北、西田を革命ブローカーなりとして惡口をやり返す事になり、
之が次第に激しくなり、兩派の反目は日に日に激化した。
橋本中佐等軍部の首謀者は、北、西田に計畫が洩れた以上之を排斥することは出來ず、
加担を求め、一部實行行爲の分担を引受けしめたが、
大川と北、西田とに對する關係は親疏自ら差異があるので、
北、西田等は心底よりこの計畫に賛意を表し兼ねた。
長勇 西田税
終りには橋本中佐の片腕であつた長勇少佐が
酔餘 西田方に至つて短刀を抜いて同人を威嚇する事件を生じ、
北、西田一派と橋本、大川派との關係は甚しく惡化した。
事件が失敗に終り、首謀者十三名が各地の憲兵分隊長に預けられた。
其間に事件の失敗の原因に附、諸説紛々として傳へられ、
互に他を疑フ如き黯澹たる空氣が漂つた。
北、西田一派は大川が牧野伸顕に密告したと言ひ、
大川一派は 北、西田が事件を宮内省方面に賣込んだと主張し、
諸説混沌とした。
又一部には橋本等首謀者が遊興に耽り、發覺の端緒をなしたとした。
橋本等首謀者は謹愼に處せられ、間もなく十一月に入り歸京し、この浮説に憤慨し、
偕行社に於て櫻會の會合を開き、大川、西田の對決をなさしめ、黒白を決せんとした。
此時 西田に好意を寄せる隊付靑年將校は殆んど全部十一月の機動演習に行き、
出席したものは僅かに戸山学校の大蔵榮一、末松太平の二名であつた。
西田は之に出席せず、橋本以下は事件を漏洩した者は西田なりと斷定した。

以上の如くにして 北、西田と大川との溝は、北、西田終世迄立越えることが出來ないものとなつた。
この兩派の確執は後日、革新陣営に二つの對立した流を生ぜしめ、
繼起した諸事件に影響するところが多かった。
3  幕僚と隊付靑年將校との分離
 陸軍部内に於ては、昭和六年十月事件に先立つこと遠き
昭和の初年頃より革新運動に關心を有し、
西田税と交り 革新氣運の醸成に力めて居つた隊付靑年將校があつた。
兵火事件を起した 大岸頼好
昭和二年に天劔党に其の名を連ねて居る 
末松太平   村中孝次    菅波三郎   野田又男
他多數の靑年將校はそれ等である。
彼等の一部は十月事件に際し、計畫には加盟はしたが、
内心自分等は革新運動の先覺者であるとの自負心を有し、批判の目を持つて居た。
就中、菅波三郎は鹿児島聯隊勤務當時より、革新的靑年將校の信望を集めて居り、
昭和六年八月麻布歩兵第三聯隊に轉隊後間もなく、
西田税、井上日召等が主催した靑山靑年會館に於ける
陸軍、海軍、民間三者革新分子の會合に出席し、
西田を統制者とするこれ等 革新分子の一群に加つて居た。
菅波及末松太平の如きは十月事件に表面參加したが、内心に於ては批判的態度を持し、
鋭く之を監視して居つた。
彼等は陸軍の首脳部が所謂長閥に依つて占められていた當時、
長閥打倒運動を進め、陸軍の大勢、輿論の趨勢すうせいが革新を叫ばざる時に、
革新的氣運の醞醸うんじょうに努めた。
彼等の念頭にある國家改造、革新達成は常に苦悩に充ちたいばらの道であつたのである。

一方橋本中佐、長少佐、小原大尉、田中弥大尉、天野勇中尉等 所謂十月事件の御歴々聯中は、
既に天下を掌握したかの如く大言壮語し、且 聯日待合料亭に會合して居つた。
菅波、末松等は次第にこの態度に疑惑を持つに至り、
橋本等は眞の憂國の至誠より發したるに非ずして、権勢欲より出でたるものに非ずやとすら思ふに至つた。
十月十日頃、橋本中佐等は
加盟した在京將校數十名を、牛込區神楽坂待合梅林に招待し、宴會を催した。
此際、橋本中佐の腹心の天野勇中尉は、末松太平中尉 ( 戸山学校甲種學生 ) に、
橋本中佐はこの計畫が成功した暁は、鐵血章をやると言つて居るから十分努力せられたいと話した。
末松中尉及之を聞いた菅波中尉は激昂し、菅波は橋本中佐に對し、
「 革命に利を以て誘うとは何事ぞ 」
と云つて詰め寄り、
傍にあつた橋本腹心の小原大尉のため首締めに逢つて氣絶した椿事が起つた。
( 末松述、但し一説には小石川區白山の待合白山亭、又は神楽坂の金波とも言ふ )
菅波三郎末松太平
リンク  ↓
・ 末松太平 ・十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合
・ 末松太平 ・十月事件の体験 (2) 桜会に参加 「 成功したら、二階級昇進させる 」
・ 末松太平 ・十月事件の体験 (3) 「 それじゃあ空からボラを落として貰おうか 」
・ 末松太平 ・十月事件の体験 (4) 「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」
右の如き經過によつて橋本一派幕僚將校と、菅波、末松等隊附將校とは漸次分離して行き、
後に皇道派、淸軍派の二派をなすに至つた。
4  十月事件は軍部の全將校に對する大啓蒙的役割をなした。
 事に青年將校に強い刺戟を与へ、後に二 ・二六事件に連座した、
大蔵栄一    安藤輝三
陸士第四十一期生 ( 当時少尉 )  栗原安秀    對馬勝雄    後藤四郎  以下多数
に革新思想を強く植えつけた。
而して此等 隊附青年將校は初め橋本中佐の下にあつたが、
事件中に橋本中佐等の行動を見、更に菅波、末松等の影響を受け、
次第に菅波、末松等と親密となり、同人等を通じ直接 西田税と接し、其影響を受けるに至つた。
是等一團の隊附青年將校は十月事件の失敗を見、斯の如き心構では革新を成し遂げ得ないと考へ、
革新の根源を國體に求め、國體の原理に徹して初めてここに革新の道ありとなし、
國體原理派と稱せらるゝ革新思想に燃える隊附青年將校の一團を形成するに至つた。
此の國體原理派は一般に皇道派と稱せらるゝ荒木陸相一派を支持し、
之と密接の關係を有し、或は全く之と同一視するものもある。
十月事件の翌年勃發した五 ・一五事件に參加した士官候補生
後藤映範、篠原市之助以下九名及池松武志も亦十月事件に參加して居つた。
十月事件當時は約二十名の士官候補生が參加の豫定となつて居り、
自動車が迎えに來るからそれでは來ればよいと指令されていた。 ( 池松述 )
その大半はこの事件により革新思想を抱くに至り、
鹿児島歩兵第四十五聯隊より派遣せられていた後藤映範、池松武志は
菅波中尉が元來同聯隊附であつた關係上、士官候補生一同を菅波に紹介し、
彼等は同人に心服し同人の統制に服し、一方一同は権藤成卿、井上日召に數回面談し、
彼等にも敬服して居つた。
結局これ等が彼等をして五 ・一五事件に參加するに至らしめた原因をなすものである。
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リンク  ↓
五・一五事件 士官候補生・後藤映範 『 陳情書 』
・ 
五 ・一五事件と士官候補生 (一)
五 ・一五事件と士官候補生 (二)
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右翼思想犯罪事件の綜合的研究 ( 司法省刑事局 )
---血盟団事件より二 ・二六事件まで---
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、
東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である
現代史資料4  国家主義運動1  から


三月事件 ( 宇垣の變心 )

2018年12月14日 04時32分02秒 | 十月事件

前頁  桜会 ( 国家改造の目論見 )  の 続き

三月事件
(一)  概要
五 ・一五事件に聯座した大川周明の第一審公判調書に依れば、
三月事件の概要に附 大川自身次の如く述べている。
昭和三 ・四年頃から陸軍少壮將校は、議會政治、政党政治に對する非常な反感を持つに至り、
國家の改造を行はんとする思想が起つた。
ロンドン條約に關し、統帥權干犯問題が起つてからは一層激烈になつた。
この時、昭和六年二月三日第五十九帝國議会衆議院豫算總会に於て、
幣原首相代理は政友会代議士 中島知久平の質問に對し失言をなした。
( 註  東京朝日新聞によれば 「 此の前の議會に浜口首相も私も、此のロンドン條約を以て
 日本の國防を危うくするものとは考へないと言ふ意味は申しました。
現に、此の條約は御批准になつて居ります。
御批准になつているといふ事を以て、此のロンドン條約が國防を危くするものでないと
云ふ事は明らかであります 」 といふのであつた ) 
之に依つて衆議院は大混乱に陥り、流血の大亂闘を惹起し、約一週間審議を爲さず、醜径な場面を呈した。
之に依つて國民の輿論は議會の否認に傾きかけた。
一方陸軍側にあつては、參謀本部露班長橋本中佐、支那課長重藤大佐、第二部長建川少將、
軍務局長小磯少將、參謀次長二宮中將等は熱心に、國家の改造の必要ありとして居つた。
此の頃、宇垣陸相が田中義一の後を追って政党に入るとの噂があり、
又民政黨も二分して、宇垣を担ぐ声が起つて居た。
其処で小磯軍務局長、建川第二部長等は大川周明に宇垣陸相の腹を探つて呉れと云つたので
大川は陸相に會つてその眞意を尋ねた。
宇垣陸相は大川に對し自分は、政黨に担がれて乗出す様な考へは微塵もないと云つた。
又日本の政黨政治に對しては憤慨して居り、
その改造に付ても相當徹底した考へを有つて居るが如き意嚮を示し、
自分は軍人として、戰場に於ては何時にても死ぬ事を覺悟しているから、御國の爲なら命を差上げると言ひ、
大川は之に感激して歸つた。
小磯、建川は大川よりこの事をきゝ、其の晩か、翌晩に、杉山次官、二宮次長と四人で宇垣陸相に會つて、
突込んだ話をしたところ、宇垣陸相は大川に話したと同趣旨の話をした。
小磯は大川に報告をなし、宇垣陸相は之迄になく明朗であつたと言ひ、
それでは我々は一緒に改造計畫をやらうではないかと云ふ事になり、此処に相談が成立した。
その計畫は、終局國民が政黨政治に對し愛想を尽かして居るのであるから、
民間に於て大デモンストレーションを起し警官隊と戰つて、
民間側に於て議會を占領する様に爲し、
其の時に軍隊を出動せしめて急速に後始末を爲し、改造を實行しようといふのであつた。
斯様な相談が成立したのは同年 ( 昭和六年 ) 二月下旬で
計畫は三月二十日を期して決行し度いとの事であつたが、
二月下旬頃になり、此の計畫が他に露見する虞を生じた爲、
表面上、陸軍省や參謀本部の聯中は、全部この計畫を中止したことにした。
併しその實、大川と小磯軍務局長が主になって、秘かにその計畫を練り準備を進めて居つた。
ところが三月十日前後になつて小磯少將は之を中止すると言ひ出したので、
大川は意外の感に打たれたが 大川は自分の手に於て既に相當の準備をして居り、
決行の決意さへあれば事を擧げ得る状態にまで進んで居つた爲め、
大いにその措置に苦しみ、萬策尽きたため更に重大なる考へになり、
頭山満翁をその病床に訪問し、之迄の經緯を話して相談したが、
翁は結局仕方がないと言ふ事であつた。
大川は之迄の行き掛り上、同人一人だけでも擧行する考へで居た処、
參謀本部第二部長建川少將は、
大川だけでやるなら自分も心中して、共にやらうと云つてその實を示したので
大川は三月二十日を期して決行の決意で準備を進めた。
三月十八日の朝、大川は親しい間柄の徳川義親侯爵が大川に中止を勧め、
大川がその意を翻さなければ、自分も一緒に飛込んで決行に加はると云つた。
大川は此の切なる勧告を聞いて、陸軍と離れて事をなさねばならぬ以上、
結局成功を見ずして處分を免れる事は出來ない。
徳川侯をそのどん底に迄引ずる事は忍びないと考へ、三月十八日夜其の計畫を中止した。
その爲、建川少將も中止し、計畫は挫折に終つた。
(二)  計畫
前記田中少佐の執筆と言はれる手記 竝 大川周明の秘書格 中島信一の供述するところに依れば
三月事件のクーデター計畫は次の如くであったと言はれる。
1  二月中、大規模に無産三派聯合の内閣糾弾の大演説會を開催し、
 大いに倒閣の気勢を上げ 且つ 議會に向つて、デモンストレーションを行ひ、
本格的に決行する場合の偵察的準備を行ふ。
2  三月労働法案上程の日に、大川周明の計畫に依り民間側左翼、右翼一萬人の動員を行ひ、
 八方より議會に對しデモを行ひ、政 ・民 兩党本部、首相官邸を爆破する。
各隊の先頭には計畫に諒解ある幹部を配し、統制をとり、各隊に抜刀隊を置き、
必然的に豫期せられる警官隊の阻止を排除する。
但し爆弾は爆性大なるも、殺傷効力尠きものを使用す。
3  軍隊は非常集合を行ひ、議會を保護するとなして之を包囲し、内外一切の交通を遮斷する。
 豫め將校 ( 主として櫻會の者 ) を各道路に配し、各隊に配しある幹部は之を實行す。
4  此の状勢に於て、某中將 ( 氏名は最後迄秘密にせられ明かでないが 一説には眞崎中將と言ふ )
 は小磯、建川少将の何れかが一名及び數名の将將校を率い議場に入り、
各大臣に対し
「 國民は今や現内閣を信任せず。 宇垣大将を首相とする内閣をのみ信頼す。
 今や国國家は重大なる時期に会す。宜しく善處せらるべし 」
と宣言し、總辭職を決行せしむ。
5  幣原代理以下辭表を提出せしむ。
6  大命は宇垣大將に降下する如く、豫め準備せる所に從ひ策動す。
 ( 閑院宮殿下及西園寺公への使者を決定す )
大川周明は民間側の動員を引受け、所謂右翼團體方面は
清水行之助    狩野 敏    を、
又 無産政党側へは  松延繁次 を通じ各種の工作を施し、
無産党側に於ては社會民衆党の  赤松克磨  に對し働きかけたと云はれる。
 宇垣一成  二宮治重 
資金は最初、宇垣陸相、二宮參謀次長が積極的に賛意を表し、
陸軍側に於て機密費より三十萬圓を出す事になつて居たが、数千圓を出した後、
首脳部が變心したので此の方面よりの資金は出ない事になり、
大川周明と親密の間柄にあつた徳川義親侯より運動資金が出たと云はれて居り、
その額に付ては三十七万円であったとの説がある。
破壊手段に用ゆる爆弾は、橋本中佐が千葉歩兵學校に赴き、同校長に交渉し、
同歩兵學校の名義で演習用の擬砲彈を豫分に注文させ、一部を橋本中佐の方に廻す事にし、
歩兵學校長は丸の内昭和ビル内  火工株式会社  に擬砲弾彈の注文を發し、
其の中 三百發を橋本中佐が直接、同會社より引渡を受け、參謀本部に持ち歸つて隠匿して置いた。
三月十二、三日頃 中島信一は參謀本部に行き、
橋本中佐と一緒に、二個の紙包みになつて居る三百發の擬砲彈を持ち出し、
自動車で新橋駅に行き、同駅ホームに於て大川の腹心 清水行之助の配下 樋口某に渡した。
その擬砲彈は直系一寸五分位の球形のもので、四發が一連となつて居り、
之を使用すれば實戰に於て、一個中隊四門の大砲が連續發射せらるものと殆んど同じ音響を發し、
爆發するとき、約一間くらいの高さに煙塵を上げると云ふ事である。
之は大川の手により、民間、左 右 両派のデモに使用する計畫であつた。
三月事件中止後、其のまま清水行之助の手に保管せられ軍部よりは中島信一を通じ返還を迫ったが、
なかなか清水の方で返さず、遂に翌昭和七年一月頃、荒木陸相時代となり、
根本博中佐が直接清水に交渉し、返還を受けたと云ふ事である。
(三)  挫折
以上の資料に依れば挫折の原因は、次の如くであると言はれる。
1  宇垣陸相の變心
 宇垣陸相は始め大川に對し、天下の大勢を論じ、一生一度の御奉公をしたい旨の事を言ひ、
政党の腐敗から國民が自暴自棄になつて行くから 此の際立たうと思ふ、
君もその時は一緒に死んで呉れと云つて改造運動に乗り出す意志を仄めかし、
小磯、建川等にも同様の意志を示し乍ら其後、政界の有力なる方面から、
宇垣陸相を首班とする内閣樹立の政治的陰謀を持ち掛けられ、之に乗つて、
憂國の至情よりする改造運動より變心し、政權獲得の後には、改造を計る考へとなつて、
小磯、大川等との接近を避け、計畫より脱退したと云はれる。
そして此の事が後年宇垣に対する右翼竝軍部より執拗な排斥を受くる一原因と云はれる。
2  陸軍部内に於ける時期尚早論
 陸軍部内に於て三月事件に対し、時期尚早論を以て反對したのは
當時陸軍省補任課長歩兵大佐  岡村寧次    当時同省軍事課長歩兵大佐  永田鐵山
當時麻布歩兵第三聯隊長歩兵大佐  山下奉文    當時歩兵中佐  鈴木貞一
等であつた。
彼らは國内改造には反對では無く、三月事件計畫者と同じく、
その必要を認めて居つたのであつたが、満蒙問題を主眼とする對外事情から見て、
國内改造を行ふ前に満洲問題を急速積極に解決すべしと云ふのであつた。
当時の満洲問題は如何なる状態にあつたか。
我國の関東州租借期限は日露戰爭の結果、露國から引繼いだものであつて
その本體となる西暦一八九八年露支條約に依れば、満二十五箇年と定められ、
一九三四年に満期となるのであつた。
其後 世界大戰中、加藤高明外相に依つて、
日支間に所謂、二十一ケ條の條約が大正四年に締結せられ、
その租借期限は九十九ケ年に延長せられたのであつたが、支那はベルサイユ會議以來、
この二十一ケ條の條約を日本の暴力に依る條約であるという理由で口を極めて避難し、
米國の支持を恃んで二十一ケ條の廢棄迄主張した。
米國を始め一般諸外國の空氣は、支那に對する同情に傾いて居り、
又一方日本自國に於ても彼の平和主義者、自由主義者は、
支那全權の日本に對する侵略呼ばはりに内心喝采を爲す有様であつた。
支那は二十一ケ條の條約を廢棄し、一九三四年即昭和九年に至り、
期限終了と同時に、露支條約に賣戻しの約定のあるのを楯に取り、
米國より借款をして満鐵、関東州を自國の手に収めんと主張し
二十一ケ條の破棄    旅大回収    満鐵買収
の三スローガンを掲げ、盛んに排日の氣勢を上げ始めた。
しかも此の一九三四年には、日本の海軍がロンドン條約等に依つて最も弱勢となるべき時期であつたので
我國防の責任者である軍部は、此の状勢に最も敏感であり、最も憂慮して居つた。
時期尚早論者は。斯る状勢にある満洲問題を國内改造問題に先んじて一九三四年以前に解決すべく、
その以前に於て國内改造を行ふは不當であると言ふのであつた。
3  尚 注意を惹くのは三月事件の首謀者、中心的人物は主として參謀本部であり、
 尚早論者は主として陸軍省側であつた。
その間の提携連絡が完全で無かつたかの如く思はれる点である。
(四)  影響
三月事件は竜頭蛇尾に終つたがその影響は大なるものがあつた。
1  陸軍少壮階級が此の事件に依り、先輩の將官階級に至る迄政党政治に反對であり、
 革新的氣分を有して居る事を判然と知つた事。
2  將官階級は革新的意識を有しては居るが年配、境遇より實行は不可能である。
 彼等に依つての改造は今後も期待出來ない。
國家改造は若い連中が老人を引摺る事あるのみだ。
自分等が決行し、責任が及ばなければ、
老人連中は必ず自分等に従つて来るものであるといふ考へを少壮の革新的陸軍將校に与へ、
運動の中心が漸次若い將校に移つて行つた事、
及び其の改造手段に付一つの前例を若い將校に与へた事。
等であつて之等は、歴史的重大な意義を有して居る。
尚、此の事件に附ては全然責任者を出して居らない事も見逃してはならない。
又一般の改造運動に大刺戟を与へた事は勿論である。
櫻會の急進的分子にとつては、昭和五年秋九月結成以來國内改造を計つて居た際、
上部より三月事件に參加を求められたのであつて、
換言すれば上部は自分等を利用し、中途に於て之を捨てたと云ふ考へを抱かされた。
それ等急進分子の革新熱は、三月事件の中止に依つて反つてその熱度を高め、
十月事件を生むに至つたと見られる。

右翼思想犯罪事件の綜合的研究 ( 司法省刑事局 )
---血盟団事件より二 ・二六事件まで---
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、
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十月事件 ( 錦旗革命 ) に続く


櫻會 ( 國家改造の目論見 )

2018年12月13日 19時43分52秒 | 十月事件


櫻會
ロンドン条約によって海軍が先づ硬化し、
引續いて陸軍部内に於ても中堅將校、殊に參謀本部を中心として、
鞏硬な革新熱が捲き起り遂に櫻會の結成を見るに至った。
陸軍省調査班員田中清少佐の執筆と云はるゝ手記に依れば、
桜会の構成活動及び其の影響は次の如くである。
(一)  櫻會の構成
 同會は昭和五年九月下旬陸軍省參謀本部の少壮將校が中心となり、
國家改造を目論み組織せられたものである。
その發起者は
 橋本欣五郎   樋口季一郎

參謀本部    橋本砲兵中佐 ( 二十三期 )
陸軍省    坂田歩兵中佐 ( 二十一期 )
警備司令部    樋口歩兵中佐 ( 二十一期 )
を始め二十數名。
目的    國家改造を以て終局の目的とし、必要ならば武力の行使も辭せず。
會員    現役陸軍將校中にて階級は中佐以下國家改造に關心を有し私心無き者に限る。
準備行動
一、一切の手段を尽して國軍將校に國家改造に必要なる意識を注入
二、會員の擴大鞏化 ( 昭和六年五月頃には約百五十名に達す )
三、國家改造の爲め具體案の作成
(二)  櫻會の活動
國軍將校の啓蒙、同志の獲得の外に櫻會員活動の結果と見られる特筆すべき重大事があつた。
昭和五年參謀本部に於ては、恒例に依る第二部の情勢判斷が行はれた。
從來のものは單に作戰に資するためのものであつて、敵國をのみ眼中に置いたものであつたが、
昭和五年の判斷に於ては、積極的に満蒙問題を解決せんとせば必然的に國家の改造を専攻条件とせざるを得ず、
之が爲め先づ國家の改造を決行すべしとの重大な一項が加へられた。
參謀本部第二部が從來の例に見ざる判決を下すに至つたのは時世の變化にも依るであらうが、
第二部の部員班長中に多數の櫻會員を有して居り中にも橋本砲兵中佐 ( 露班 ) 根本歩兵中佐 ( 支那班 )
等の有力者が存して活動した結果である。
(三)  櫻會の影響
櫻會は、是の如くにして情勢判斷に當つてその主張の一部を貫徹せしめ、
又海軍將校との連絡機關  星洋會 ( 陸海軍幕僚將校中佐以下の會 ) を作り 屢〃會見した。
又改造の具體案の作成に着手した。
斯の如き實力ある一段が陸軍部内に生じ、改造を目的として運動を進めた事は、
一般の國家改造機運を躍進せしむるのに役立つたのは勿論、直接的には
三月事件
十月事件
の機縁をなした。

右翼思想犯罪事件の綜合的研究 ( 司法省刑事局 )
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三月事件 ( 宇垣の変心 ) へ続く


三月事件と十月事件 ( 革新幕僚 )

2018年12月12日 12時26分39秒 | 十月事件

前頁 桜会 ( 革新幕僚 )  の 続き

軍内革新の奔騰と憲兵警察
いわゆる三月事件の発案者は、宇垣大将だったのか、大川周明だったのか、
あるいは、省部の高級幕僚、二宮参謀次長、建川の第二部長、
小磯軍務局長らの発議によるものか、今になってもはっきりされていないが、
とも角も、陸軍首脳部たちによって計画された、クーデターの陰謀であることには間違いはない。
宇垣陸相を擁して政党を圧伏し、自ら政権の座について政治改革を断行しようと、
一部の幕僚たち、桜会を牛耳っていた橋本中佐や重藤大佐らが、
民間側や森恪 ( 森の背後には北一輝がいた ) の参劃を得て、
昭和六年二月初の頃から計画を進めていたが、
宇垣大将の、いわゆる変心によって中止せられるに至ったものである。
その計画は、
議会に労働法案が上提を予想される三月二十日を期し、
人を殺傷しない爆薬 ( 擬砲弾 ) を以て、政民両党本部、首相官邸を爆撃し、
また、大川の計画で労働者の一万人動員を行い、議会に一大デモをしかける。
軍隊は非常呼集を行って、議会保護の名目でこれを包囲する。
この間、建川少将らが議場に入って、
各大臣に総辞職を強要し 幣原首相代理以下の辞表を提出せしめて、
現内閣をたおす。
大命降下は宇垣大将に降下するよう予め準備しておく。
ざっと、こんなものであったが、この計画によって着々準備が進められていた。
例えば
これに用いる爆弾は、建川少将が自ら歩兵学校長にあてた紹介状を書き、
根本中佐はこれをもって田中弥大尉と共に、
演習出張中の歩兵学校長代理筒井正雄少将と習志野原で会い、
学校副官高浜大尉を伴って、程ケ火薬工場に行き、そこで、学校発行の伝票でもって、
擬砲弾三百個を受領し、橋本、田中、高浜の三人でこれを参謀本部まで運んだ。
参謀本部では、梅津総務部長以下部員の手で、内外の交通を遮断し、
隠密厳戒裡に建川部長室に搬入した。
さらに、これを爆破責任者の大川の輩下 清水行之助に手交し、清水は自宅にかくした。

これでもわかるように、三月事件陰謀は省部首脳の総がかりのたくらみであった。
この故に、事件中止ときまると、軍上層部はこれをひたかくししていた。
だから、また、宇垣大将も、後任の南大将もこれが責任者を追及することもなく、
もちろん、このような軍の革新の気構えにも自粛の処置をとることはなかった。
しかし、事はかくされたといっても、すでに民間人の干与もあったこととて、
巷間、これに関する流言が飛んだ。
その具体的な内容は窺知できないが、軍自ら宇垣政権をつくるために、
クーデターをやろうとしたといった噂は、政財界、言論界に専らだった。
もちろん、在京の隊付将校にも、それが洩れていた。
もともと、三月事件は、さきの桜会とは別個に計画されていた。
ただ計画者において、議会騒擾そうじょうの場合、若干の桜会々員を、その誘導に使用するもくろみはあったが、
一般的にいえば無関係であり、桜会は、この事件後も依然として偕行社における会合はつづけられていた。
そこで、橋本中佐らは、この事件が不成功におわると、
「 将官級はダメだ。イザというときには尻込みしてものにならない。
 これからは、若いものを獲得して、これを中心に事をあげるのだ。」
と 豪語し、いよいよクーデターの決意を固くしていた。
一方、桜会の穏健中立派は、一部幹部の矯激な言動、ことに待合での大尽遊びを指摘して、
桜会の行き方を非難し、なかでも中立派は、その去就に迷うなど、桜会も混沌としてきた。
だが、橋本中佐はますます強気で、七月に入ると、桜会の急速な拡大を企図して、
全国的に働きかけることにした。
全軍の二十八期以下の将校に対し、『 満蒙問題を解決せよ 』 との檄文を郵送したのも、この頃であったし、
また、在京二十八期以下の尉官の、たて、よこ 二面にわたる会合も催すなど、同志の獲得に奔走した。
在京の隊付将校、ことに、西田に指導統制される青年将校は、
三月事件によって、中央部首脳自らの越軌行動を見た。
そして、上司もまた国家革新を志すものと確認した。
もはや弾圧はないと、その動きは一層活潑になった。
彼らは、全国的規模において同志を動員し、公然と維新運動を展開する機運を示し、
八月から九月にかけては、これが特にはげしく、在京青年将校は、いまにも捨石となって蹶起すべく立ちさわいでいた。
見ようによっては爆発寸前の危機ともとれた。
宇垣陸相は浜口内閣の退陣により軍事参議官に転じ、南大将が第二次若槻内閣の陸相となった。
昭和六年四月中旬のことである。
南陸相の桜会や青年将校運動に対する態度は、これを必要悪とみて、あえて弾圧に出ることはなかった。
当時の憲兵司令官は、峯中将のあとをうけた外山豊造中将だった。
外山中将は、朝鮮憲兵隊司令官より昭和六年八月、その任についたが、
このような部内の険悪な情勢に鑑み隷下憲兵隊長に対し、この種策動を厳重に取締るよう訓示した。
昭和六、八、一七
憲兵司令官訓示要旨
満蒙問題ソノ他時局ニ関シ研究討議ヲ目的トスル青年将校ノ集合等ハ---部外ニ於テ政治的ニ利用セラレ
軍部ヲ却ツテ不利ナル情勢ニ導カントスル虞おそれナシトセズ。
且ツ又、軍制上階級的統制関係厳存スルニカカワラズ、紊リニ横断的団結ヲ講ジ、
事ヲ計ルガ如キハ、洵ニ由々敷大事ニシテ、
建軍ノ基礎ヲ危クスル端ヲ開キ、殃わざわいヲ千載ニ駘スルニ至ルベシ。
陸軍大臣ハ厳トシテ部内ニ於ケル此種策動ヲ一切禁止゛ラルルノ意向ナルヲ以テ、
各憲兵隊長ハ、管下師団当局ト緊密ナル連絡ノモト、コレガ取締ノ万全ヲ期スベシ
だが、いうように、
大臣はこの種策動の一切を禁止せらるる意向というのでは、その取締も手緩いことであった。
ことに策動の中心東京にあっては、ほとんど取締の手が加えられていなかった。
このように、彼らの動きを野放図にさせていたところに、
軍は、のちの十月事件の痛苦を味わさせられる結果となった。
なお、三月事件に関しては、軍は政府からその善処方の申入れをうけている。
この年昭和六年八月頃 若槻首相は南陸相に対し
「 三月事件は軍部のもの一部によるクーデターであったが、
 幸いこれは未然に防ぐことができた。
しかし、これに某陸軍大将も参加したやに伝えられているから、
議会までに陸軍として、これが善処をしておいてほしい。」
との申入れがあった。
議会までにというのは、対議会策としてということである。
そこで、杉山陸軍次官、二宮参謀次長、荒木教育総監部本部長らは、
これが対策を練っていたが、結局、ウヤムヤで結論を得ないまま、満洲事変に突入した。
しかし、そのとき大勢を支配したのは荒木本部長の意見だった。
彼はこういっている。
「 事すでに、ここに至っては、軍は重大な国家の機関であり、
 この際、徒に部内において騒ぐことは避くべきである。
もし一部であく迄も三月事件を法に照して処断するが如き軽挙に出るにおいては、
実に皇軍の威信にかかわるものである。
しかし、地方と中央とを問わず、今や世相は荒れにあれてきていることであり、
部内は、この機会に自発的に充分の改革が必要である。
一方また政党に対しても、これも根本より改革する覚悟で、こちらの方も徹底的に調べる代わりに、
同様相手の政党の腐敗についても、徹底して調査を行なうべきである。」
軍の威信、張作霖爆殺もこの名で不問とされ、あとの十月事件もまた同様だった。
臭いものに蓋をする理論づけが、軍の威信であったことは、遺憾ながら軍の常套手段であった。

十月事件と国士

昭和六年九月十八日 満洲事変は勃発した。
軍の中央部は関東軍に抑制を加えたが成功せず、一方政府の強圧に困惑しつつ、
関東軍の独断行動を許容せざるを得なかった。
そして事変は進展した。
国民はあげて軍の武勲をたたえて、満蒙問題の解決をここに求め、この事変遂行に全面的支援を送った。
軍中央部が関東軍の独走に引きまわされていた十月中旬に、いわゆる十月事件陰謀が発覚した。
参謀本部の中堅幕僚、橋本欣五郎、根本博、馬奈木敬信、長勇といった急進分子を中心に事は進められ、
大体、十月二十日頃に蹶起して、現政府を打倒し荒木中将を首班とする軍事内閣をつくり、
国家改造にのり出そうとしたものだった。
が、事は洩れ 軍首脳部の説得により押止された。

三月事件失敗以来、桜会を中心に同志獲得につとめていた橋本中佐らの一味は、
中央を欺くために、八月頃には、桜会を時局対策協議機関から、
一個の修養団体化に切りかえたように見せかけていた。
ところが、彼らは、満洲事変勃発を契機に、国内改造のため、
いよいよ、クーデターの決行をきめ、ひそかに準備を進めた。
もちろん、橋本らは関東軍と通じていた。
国内改造か、満洲の暴発か、その何れが先着するかに議が争われていた。
橋本らは国内蹶起後に、満洲に事がおこされるのを望んだが、
現地の事情これを許さずとて満洲での独断専行となった。
満洲に事が始まった以上、これに応じて国内改革を断行し、
関東軍の行動を容易ならしめなくてはならなかった。
九月十九日以来、橋本らの一味は、決起の具体策を、ひそかに協議していたが、
かねて同志の一人として参加を求められていた田中清少佐は、
彼らがただ破壊にのみ重点をおき建設計画の皆無なるを不可とし、
これを中止せしめようと、十月十三日になって、池田純久少佐を通じ今村均大佐に善処を求めた。
今村大佐は早速建川第一部長に会って、橋本の中止方説得をたのんだ。
こうして彼らの陰謀は漏れ始めた。
十五日には坂田中佐、樋口中佐など桜会の同志が、橋本を説いて止めさせようとしたが、
橋本はきかなかった。
ところが十五日夜橋本中佐は杉山陸軍次官を訪問し、
近く蹶起すべきにつき同意せよと迫り、
翌十六日には橋本は教育総監部に荒木本部長を訪ね、
共に蹶起の決断を迫ったが却って翻意を説得される始末、
こうして事件は明るみに出た。
陸軍省参謀本部の課長たちは、近衛、第一師団将校の多数の参加が予定されていることを知り、
両師団に対し、とりあえず、参加抑制の処置を講じた。
ところで、そのクーデター計画といったものは、どんな内容だったか、
「 田中少佐メモ 」 によると、
加盟将校
在京者だけで百二十名、参加兵力は、近衛歩兵聯隊から十個中隊機関銃一中隊、

第一師団は、歩一、歩三より約一中隊、参加兵力中、大川に私淑せる中隊は一中隊全部をもって、
また、西田に血盟せる将校は殆んど所属中隊全員を以てする。
外部より参加者は、大川及びその門下、西田税、北一輝の一派
海軍将校の抜刀隊、横須賀より約十名、
霞ヶ浦の海軍爆撃機十三機、下志津より飛行機三、四機
実施
首相官邸の閣議の席を急襲し、首相以下を斬撃する。
長少佐を指揮官とする。
警視庁の急襲占拠、小原大尉を指揮官とす。
陸軍省、参謀本部を包囲し、一切外部との連絡遮断、
ならびに上司に強要して蹶起に同意せしめ、肯ぜざるものは捕縛す。
軍行動に対する命令を下す。
同時に宮中には東郷元帥参内、新興勢力に大命降下を奏上する。
といったプログラムだった。
 南次郎   荒木貞夫
事を知った軍首脳部は、十六日陸相官邸に、省部の課長以下が集まり対策を協議した。
南陸相は荒木本部長をして彼らの説得に任ぜしめた。
荒木は彼らの根城、金滝亭にのりこんで説得し、
とも角も、一応は、中止すると長少佐にいわしめて引き上げたが、
その夜、首脳部会議の結果、即時、彼等を憲兵隊に拘留することになり、
大臣は外山憲兵司令官を招致し、この旨命令した。
ところで、橋本らの急進分子は、すでに、十五、十六日頃には、
その成功の見込みをもっていなかった。
というのは、西田一統の青年将校は、幕僚たちが自己の権勢慾のために動いていることを察し、
その不純性に愛想をつかして続々と彼らから離れ、
また、桜会の中堅層をなす佐官級は、事の重大に驚き離脱し、さらに憲兵将校も袂をわかった。
結局、彼らは桜会を背景に事をおこそうとし、桜会や青年将校を引きずろうとしたが引きずけなかったのである。
だから、決行日の切迫と共に脱落する同志を前にして、橋本さえもこの決行に逡巡したといわれる。
ただ、長勇だけは孤軍奮闘、あくまでも初志を貫徹しようとした。
こんな内部状況であったから、橋本の杉山、荒木への蹶起強要のごときも、
どの程度のものであったか、むしろ、これを中止するための口実をつくるためか、
あるいは、やけくその体あたりだったともとれないではない。
それだけではない。
部内にも反対者がいた。
同志として協力を求めた田中少佐は勿論、其他の中堅幕僚にも批判的な者が多かった。
とも角も、憲兵は大臣命令によって、彼らを急拠拘留することになった。
十月十七日午前四時前後、
金竜亭に屯していた橋本、長、馬奈木、田中弥、小原重孝ら事件中心人物は、
憲兵によって東京憲兵隊に連行され、とりあえず、難波東京憲兵隊長官舎に軟禁された。
また、知知鷹二少佐は四谷の自宅から渋谷憲兵分隊長官舎に、
根本中佐、天野勇中尉は四谷の待合から、藤塚止戈夫中佐、田中信男少佐、野田又男中尉外二名も、
それぞれ市内憲兵分隊長官舎に軟禁されてしまった。
こうして彼らは、憲兵監視の下におかれたが、翌十八日には、横浜、千葉、宇都宮、沼津所在の旅館に分宿し、
それぞれ管轄憲兵隊隊員の監視のうちに約二週間軟禁、この間、上司の説得が加えられたことになっているが、
彼らは、そこでは依然として国士気取りで、その素行目に余るものがあった。
「 田中メモ 」 には、こう書いている。
---彼ら収容将校に就きその非難少なからず。
彼等は東京より芸妓を招きて遊興を専らにするごとき、あるいは、放縦不謹慎なる態度ある等これなり
ところが、約二週間たってから、
彼らは行政処分をうけて逐次解放されたわけであるが、
橋本中佐は重謹慎二十五日、長少佐と田中大尉は各十日、
その他は軽易な謹慎処分ですまされてしまった。
陸軍はなぜ、このような寛大にすぎる処置に出たのであろうか。
当時の軍首脳部は、南陸相、杉山次官、小磯軍務局長、参謀本部は、次長二宮治重、建川第一部長、
その頃陸軍は小磯、建川時代といわれ、この二人の羽ぶりが強く、小磯、建川で省部は動いていた。
すでに三月事件で脛に傷もつ彼らには、この事件に厳重な処断はできなかったのである。
憲兵は、事件首謀者を拘留したが、すでに参加を予定されていた右翼の動き、
橋本の指令によって続々上京を予想せらるる事態
( 近衛師団配属将校小浜氏善中佐は、上京組のためステーションホテルに宿泊準備を整えていた )
に対し警戒を要するものがあった。
これがため東京憲兵隊は、
憲兵練習所 ( 憲兵学校の前身 ) 職員学生、横浜、宇都宮両憲兵隊より応援を得て、警備を強化した。

外山憲兵司令官は、さきに青年将校運動を厳重に取締ることを令達しておきながら、
なぜ、このような処置に出て彼らを厚遇して名分をあやまったのであろうか。
それは中央より彼らを罪人扱いにすることなく、
武士道精神によって、国士としての礼を失わざることを希望した故である。
荒木伝 ( 『 嵐と戦う哲将荒木 』 ) にはこうかいてある。
・・・将軍 ( 荒木 ) は憲兵司令官に対して、
目下のところまだ別に彼らがこれといって明らかな行動をおこしているわけではないのだから、
これを出来るだけ穏便に納めるようにして、飽くまでも軍の威信にかかわることのないように配慮されたい。
しからざれば、三月事件とからんで事態は、いよいよ複雑となろう。
なお、この際、彼らを隔離する目的は、
彼らが外部の陰謀に乗ぜられて利用されることのないようにするのが主眼であるから、
くれぐれも単に外部との交通遮断の措置でよかろうとの意見をつけ加えた。
とある。

中央部の事件態度はあまかった。
あまかったというよりも、事件の重大性を認識していなかったというのが正しい。
南陸相はこの事件について閣議で、こう報告したと伝えられていた。
「 今回現役将校中の一部において、ある種の策謀を企てたが、
 これも憂国慨世の熱情から出たもので、他意はなかった。
ただ、これを放置すると、外部の者の策動に利用せられ、また、軍紀を破る行為ともなり易いので、
保護の目的で収容した 」
これでは、彼らは国士だった。
しばらく軟禁優遇されることも当然であった。


大谷敬二郎 著  『 昭和憲兵史 』
二  革新のあらしの中の憲兵  軍内革新の奔騰と憲兵警察/十月事件と国士 ・・から


桜会 ( 革新幕僚 )

2018年12月11日 09時37分39秒 | 十月事件

桜会の誕生と革新幕僚
昭和五年秋、陸軍中央部に在職する一部の少壮幕僚が中心となって、
東京偕行社に、時局対策を懇談的に話合うため集まった。
これが、のちに桜会といわれた国家改造計画とその実行をもくろむ、
組織された団体として誕生したのであるが、
始めは僅かに二十数名のメンバーだったものが、
漸次増加して、昭和六年の春頃には百五十名近くも参会するようになった。
 橋本欣五郎
この発起者の中心人物は参謀本部第二部のロシア班長 橋本欣五郎中佐であった。
もちろん、それは東京を中心とした国家革新を志す将校を中軸とした啓蒙運動であり、
同志獲得のための予備的会合でもあったが、
桜会の目的は、国家改造であってこれがためには、武力行使もあえて辞せないとしていたので、
直接行動による国家革新を期する現役将校の集団であったのである。
ところで、こんな政治意図をもった集団がなぜ、組織されたのであろうか。
中心人物、橋本中佐は、のちに、
「 あれは国家改造を心にきめたオレのつくったものだ。
 昭和五年の秋から六年の十一月頃まで、オレが引きずりまわしたのだ 」
といっていたが、
しかし、一人の力で、一人の目的のために、有為な幕僚将校たちが躍るものではない。
創立の趣意書を見ると、いろいろ書いてあるが、この桜会ができたのには、二つの動機があった。
その一つは、さきの統帥権干犯問題であり、
あとの一つは、満蒙問題 すなわち大陸政策の遂行であった。
統帥権問題については、これまでしばしば触れてきたように、陸海軍人には大きな衝撃を与えた。
ことに陸軍の幕僚としては国防政策の実行者である。
政府、ことに政党にも基盤をもつ政府が、軍の編成大権を壟断して憚らないようでは、国防は危ない。
それだけではない。
事は、議会政治、議院内閣制を主張する政党政治の軍権抑圧であって、
このまま推移するならば、軍は政党に屈服を余儀なくされる。
しかも、その政党は腐敗堕落して利権あさりに奔命して、あえて、国家国民をかえりみない。
しかも、外には国威を失墜して満蒙の天地は暗澹としている。
満蒙の地は、日露戦争にあがない得た権益だけではない。
実に、わが国防の第一線であって、絶対にこれを失うことはできない。
だが、この政党政府は、
徒に文化外交、平和外交を名として強調追随、退嬰たいえい屈辱をあえてしている。
現に幣原外交は、すでに五ヵ年に及んでいるが、
事、大陸問題に関しては、あくまでも事なかれ主義に終始している。
それは、能う限りの忍耐寛容の態度としてふん飾されてはいるが、
支那をしてますます暴慢をつくさしめて、わが国防の第一線は危殆に瀕している。
かねてからの一部幕僚の間では、大陸問題の解決につき対策が練られていたが、
大陸問題の根本的解決は、国防政策上の緊急な課題だった。
その当面の緊急課題たる大陸政策は、解決どころか、日本はその大陸より しめ出されようとしている。
国防の任にある軍は、自ら立ってこれに当たらなくては国家は危い。
これがため、先ずこの国家を改造しなくてはならない。
すなわち、この国家改造こそ、国防上絶対に必要だとしたことが、
幕僚たちをしてその志向を駆って、これが実行となったものである。

桜会は始め幕僚有志の会合であったが、のち、会員の拡大強化策がとられ、
広く一般軍隊、官衙、学校にも門戸を広げたため、
中央幕僚将校だけでなく、一般将校、ことに隊付青年将校も続々と参会するようになった。
しかし、この会の存在や、会合は決して秘密のものではなかった。
所属長の許可を得たというものではないが、一つの研究機関と銘うっている以上、
また、その会合が公開されている限り、秘密性をもたない。
だからこれに参会する将校の上司も、あえて、これに口を出すことはなかった。

この名簿を見ると、
そこには憲兵司令部からも、東京憲兵隊からも、憲兵将校が会員として名を連ねている。
これらの人々もこの団体の事情を知るために入会しているのではなく、
一現役将校として参加していたのである。
憲兵司令部からは、植木、三浦両少佐、横山、赤藤、美座、四方、川村の各大尉、
東京憲兵隊からは大木少佐といった錚々たる憲兵将校が会員となっている。
だから、この研究団体は、憲兵隊としても、あえて視察するものではなかったのである。
だが、ここに一つ注目しておくことがある。
それは、この会合に隊付青年将校が参加していることである。
彼等はこれまで西田を中心として、軍の外に秘密に改造運動を進めていた。
ところが、桜会に参会することによって
彼らの国家改造運動が、公然と当局の容認する舞台にのぼったのである。
いまや彼らは誰憚かることもなく、公然と国家改造を論議する場を見つけたことであった。
だが、思想的に見れば、そこでは革新思想の雑居であった。
幕僚の改造意欲は、事、国防に関しての発想であるのに、
隊付青年将校のそれは、国家の現状を憂うることにおいて幕僚と軌を一にするが、
その根本思想は、西田---北の革命原理にあった。
ここに始めから思想の混淆こんこうがあり 国家改造思想の基底を異にするものがあった。
このことは、あとで軍に皇道派と清軍派 ( 統制派 ) という
二つの革新分派をもつ因子を含んでいたともいえるし、
始めから二つの改造原理が併存していたともいえよう。
とも角も、陸軍の中に、幕僚を中心とした国家改造のための組織が、
たとえ研究会という名目であっても、堂々と存在したことは、
現役将校が政治そのものに頭をつっ込んだことであり、
これまでの陸軍の政治への態度を著しく転換したものであった。
少なくとも、宇垣陸相時代までは軍人の政治論議は、法度として守られていた。
だが、国防思想、軍事思想の普及は、軍人として当然のこととされていた。
陸軍には昭和三年五月頃から国防思想普及委員会ができて、
国防思想普及が本格的に進められていた。
そこで、その国防思想の普及には、
当面、満蒙問題の解決を論ずることが緊切な課題とされていたので、
宇垣陸相に代った南陸相は、幣原外相から軍人の満蒙論議に関して、警告をうけたとき、
陸軍がこれを論ずることは政治論議ではないといいきっていた。
そして昭和六年の師団長会議における大臣訓示では満洲
問題に関して論及したので、
朝日新聞がその社説でこれを論難し陸軍またこれを反駁するといった波瀾を巻きおこしたが、
とも角も、軍は軍人が国防を論ずることは政治論議ではないと押しきった。

当時の陸軍がこのような態度であったから現役将校が国家改造を研究論議することも、
国家の現状においては、やむを得ないこととして容認されていたのである。
池田純久氏の回想によると、
池田氏は南陸相とも同郷の関係もあり、かつ、陸軍省軍事課員だったので、
直接、大臣に桜会のような横断的な組織は禁止すべきで、
もし、このような研究が必要ならば、陸軍大臣直轄の研究機関を設けてはどうか進言したが、
大臣は、桜会に対しては何等の処置もしなかった。
それだけではない。
大臣は同郷の友人に、桜会も困ったものだが、しかし現下の時局打開のためには、
このような研究も必要だと 語っていた。
と 書いている。
大臣が、このような意向であったので、
これらの国家改造運動が、合法的な形で進められている限り、憲兵はこれを取締ることはなかった。
憲兵司令官は峯幸松中将であった。

こうして軍内にまきおこされた国家改造熱は、
三月事件、十月事件と発展していったが、遺憾ながら、軍の警察力は及ばなかった。
しかし、陸軍におけるこの種陰謀の続発は、
こと治安に関し国の警察機関として緊急な目標であったことには疑いはない。
憲兵の警防ないし事後措置には、毅然たるものがなかった。
事毎に、陸軍の威信に籍口するあいまいな態度に、追随妥協したことは、
軍と共に、その批判を甘受せねばならない。


大谷敬二郎 著  『 昭和憲兵史 』
二  革新のあらしの中の憲兵  桜会の誕生と革新幕僚 ・・から
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