あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

靑年將校運動

2018年01月30日 19時33分19秒 | 靑年將校運動

兵に後顧の憂いがある
これでは天皇陛下萬才を心から叫んで死んでいけない
今日の政治はだめだ
後顧の憂いのなき社会にするぞ



靑年將校が、指導中心となってゐる國家改造を目的とする 「軍隊運動」 の意味である、
而してこれらの指導中心となってゐる靑年將校の大部分は、
 軍隊内にあって、下士官、兵士達と苦樂を共にいてゐる中隊長以下の、
 若き大尉、中尉、少尉によって占め
られてゐ
・・・青年將校運動とは何か 

靑年將校運動
目次

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一部靑年將校等  ・・・一覧

「 騒動を起したる小作農民に、何で銃口を向けられよう 」 
末松太平 ・ 赤化將校事件 1 
末松太平 ・ 赤化將校事件 2
貧困のどん底 
後顧の憂い 「 何とかしなけりゃいかんなァ 」 
菅波三郎の革新思想 
歩兵第三聯隊の將校寄宿舎 
打てば響く鐘の音のように 
・磯部淺一の登場 「東天に向ふ 心甚だ快なり」
 
夢見る昭和維新の星々 
もう待ちきれん 
« 靑山三丁目のアジト » 

「 大佐殿は満洲事變という糞をたれた。尻は自分で拭かずに人に拭かすのですか 」 

村中孝次 發 川島義之 宛 
「 軍中央部は我々の運動を彈壓するつもりか 」 
統制派と靑年將校 「革新が組織で動くと思うなら認識不足だ」 
村中孝次 『 國防の本義と其教化の提唱について 』 ・・・國防の本義と其強化の提唱 
「 粛啓壮候 」 と冒頭せるもの 
村中孝次 ・ 同期生に宛てた通信 
村中孝次 『 全皇軍靑年將校に檄す』

松浦邁 (つぐる)  『 現下靑年將校の往くべき道 』 
靑年將校の道  歩一  林八郎 

改造法案は金科玉条なのか 
此処に頑是ない子供がいる 「 命令、殺して來い 」
對馬勝雄中尉 ・ 殘生 
河野壽 ・ 父の訓育 「 飛びついて殺せ 」 
山口一太郎大尉 ・ 壯丁父兄に訓示  
「 軍刀をガチャつかせるだけですね 」 
昭和十年大晦日 『 志士達の宴 』 ・・・昭和10年12月31日

國體明徴と天皇機關説問題 

私達は間違っておりました
聖明を蔽う重臣閣僚を仆す事によつて
昭和維新が斷行される事だと思って居りました処
國家を獨するものは重臣閣僚の中に在るのではなく
幕僚軍閥にある事を知りました
吾々は重臣閣僚を仆す前に
軍閥を仆さなければならなかったのです
・・・安藤輝三

こんなに多くの肉親を泣かしてまで、こういう道に進んだのも、
多くの國民がかわいかったからなのだ。
彼らを救いたかったからだ
・・西田税 


「 頼むべからざるものを頼みとして 」

2018年01月29日 20時22分23秒 | 靑年將校運動

二 ・二六事件は突発的に起った事件のように思われる方があるかも知れないが、
この事件に致るまでに、陸海軍部内では次々と白色テロやクーデター計画が持ち上がった。
主なものをあげてみると、
昭和五年十一月の浜口首相の遭難
 ( 犯人はロンドンの海軍軍縮条約の結果に怒った右翼青年 )
三月事件
 ( 昭和六年三月、軍トップと大川周明ら一部民間人が
  時の陸相宇垣一成を擁して軍政府をこしらえようと企んだクーデター ・ 未遂 )
十月事件
 ( 同年十月、桜会系の陸軍中央部の幕僚将校が満州事変と呼応して錦旗革命をもくろんだ事件 ・未遂 )
血盟団事件
 ( 昭和七年、二月~三月、政財界の粛正を呼号した井上日召を首謀者とする農村青年が、
  三井合名理事長、井上準之助前蔵相に向けられた白色テロ )
五 ・一五事件
 ( 同年五月、海軍士官と陸軍士官候補生の一隊が総理大臣官邸を襲って犬養首相を暗殺 )
永田事件
 ( 昭和十年八月、相澤歩兵中佐による永田陸軍省軍務局長に対する殺害事件 )
このような血なまぐさい事件の数々が、きびしい言論統制 ( 新聞紙法および出版法 ) の網の目をくぐりながら、
昭和十一年、一部青年将校による二 ・二六事件の蹶起へと連なったのである。

蹶起趣意書
では青年将校たちは、何をねらって蹶起したのだろうか。
首謀者の栗原中尉の維新思想というのは、
「 一君万民、君民一体の日本を作る 」
にあった。
・・・リンク→青年将校の国体論 「 大君と共に喜び、大君と共に悲しむ」 
 栗原安秀中尉
それは蹶起直前、彼が雑誌 ( 日本評論三月号 ) に一問一答の形式で発表した、
 
靑年将校運動とは何か 』 と題する一文によく表れている。
その中で彼は、
「 靑年将校はその運動において何を望んでいるか 」 と言う 「 問い 」 に対して、
こう答えている。
「 簡単にいえば、一君萬民、君民一體という境地である。
 大君と共に喜び、大君と共に悲しみ、日本國民が本當に天皇の下に一體となり、
建国國以來の理想顯現に嚮かって前進することである 」
彼の言う 一君万民の境地とは、
日本国民は天皇の下に 一切平等無差別
万民その処を得て共にその生活を楽しみ得る世界を意味する。
従って彼は、究極においては 「 軍部独裁政治 」 を否定する。
そして、さらに
「 奴隷的徴兵制と革命 」 について、次のように言っている。
「 靑年將校として切實に感ずることは何かというと、 安心して國防の第一線に活躍することだ。
 われわれは今日、兵を教育しているが、今のままでは安心して戰爭に行けない。
今日の兵の家庭は疲弊し、働き手を失った家が苦しむ狀態では、どうして戰爭に行けるか。
自分たちが陛下から、一般國民から 信頼されている以上は、
この國防を安全に國防の重責を盡すような境地にしたい。
そのために日本の國内の狀勢は、明瞭に改造を要するのである。
國民の大部分が經濟的に疲弊し、經濟上の權力は、まさに一部の支配階級が獨占している。
時として彼らは、政治機構と結託して一切の獨占を弄ろうしている。
しかも、それらの支配階級が、非常に腐敗している狀態だから承知ならないのだ。」
あとで考えると、これは明らかに 二 ・二六決行の宣言であったのだ。
このようにして彼らは蹶起した。

しかし、いわゆる 討奸 のあと、彼らは具体的な維新のプログラムを示そうとはしなかった。
それを押しつけることは、ファッショ的行動である、と考えたからであろう。
だが彼らが願ったのは、軍首脳部が、彼らの 精神 を生かして、
昭和維新 に向け 突き進んでくれることだったと見ていい。
すなわち、蹶起将校の手には一千語百名の武装集団がある。
これを背景として強く迫れば、
彼らを動かすことはさほどむずかしいことではないと考えたに相違ない。
だから冷酷な革命に徹しようとは考えてもいなかった。
食糧一日分の用意すらなかったのだ。
・・・リンク→ 上部工作 「 蹶起すれば軍を引摺り得る 」
すべてが中途半端のうちに、頽勢たいせいを建て直した省部幕僚派によって弾圧されてしまった。
北一輝が、
「 あれは革命軍ではなくて、正義軍とでも呼ぶものでしょう 」
と 評したのは、的を射ていたように思う。
しかも、尊王絶對 を唱える彼らが、
かえって 絶對主義的天皇制 の名において葬り去られたのである。
悲劇というにしても、あまりにむなしい犠牲であった。
たとえ第一師団の満洲移駐というタイムリミットがあったとしても、
当時の客観情勢は 彼らにとって極めて不利だったのだ。
そして、頼むべからざるものを頼みとして、昭和維新 をめざして暴発してしまった。
蹶起の牽引車だった磯部が、彼の獄中の手記の中で、
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・・・挿入・・・
判決(七月五日)
死刑十七名、無期五名、山本十年 今泉四年
斷然タル暴擧判決だ
余は蹶起同志及全國同志に對してスマヌと云ふ氣が強く差し込んで來て食事がとれなくなつた、
特に安ドに對しては誠にすまぬ
余の一言によつて安は決心しあれだけの大部隊を出したのだ
安は余に云へり
「 磯部 貴様の一言によつて聯隊を全部出したのだ 下士官、兵を可愛そうだと思ってくれ 」 と
余はこの言が耳朶にのこりてはなれない、
西田氏北先生にもすまぬ
他の同志すべてにすまぬ
余が余の観察のみを以てハヤリすぎた爲めに
多くの同志をムザムザと殺さねはならなくなつたのは重々余の罪だと考へると
夜昼苦痛で居たゝまらなかつた
余は只管に祈りを捧げた
然し何の効顯もなく十二日朝 同志は虐殺、されたのだ
 磯部浅一
・・・獄中手記 (2) 「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 
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「 余が余の観察のみをもってハヤリすぎたために、

 多くの同志をムザムザと殺さねばならなくなったのは、重々、余の罪だと考へる 」
と 告白しているのは、なぜ事件が勃発したのか を雄弁に物語っている。
栗原、磯部ら急進分子は、若さゆえに ハヤリすぎた
そして、省部の統制派軍人官僚の力を過小評価したところに、
失敗の原因があったといえる。
「 昭和暗黒時代 」 の生んだ悪夢と評するほかない。
・・・リンク→ 
万斛の想い 「 先ずは、幕僚を斃すべきだった 」 

実録コミックス  ( 1991年3月10日初版)
叛乱!
二 ・二六事件 ❸  霧の章
あとがき
今、想う 二 ・二六事件への総括
元東京日日新聞記者  石橋恒喜
・・・全文引用・・・


河野壽 ・ 父の訓育 「 飛びついて殺せ 」

2018年01月28日 19時13分36秒 | 河野壽

河野壽
明治四〇年三月二十七日、佐世保で生まれた。
父は海軍少将河野左金太で剛直質実な人柄で、人一倍忠誠心の強い軍人であった。
寿が小学校四年の春、熊本の碩台小学校に転入した。
三日目、
同級生のガキ大将が弱い子をいじめているのに立腹して
「 よせ 」 と 一喝した。
ガキ大将は新入生の癖に生意気だと、下駄で殴りかかった。
肩から鞄を下した寿少年は
いきなり竹の物差で相手の眉間を打った。
その日の夕方、
学校に呼び出された左金太は、帰ってきてしょんぼりしいている寿少年に言った。
「今日お前のやったことに、お父さんは小言をいわない。
しかし、物差でやったことは悪い。やるなら拳骨でやるんだ」
父の訓戒はこれだけであった

河野も幼い時の父の訓戒を肝に銘じていたものらしく、
二・二六事件の直前、
 磯部にこんな決意を告げている
「磯部さん、
私は小学校の時、
天皇陛下の行幸に際し、父からこんな事を教えられました。
今日陛下の行幸をお迎えにお前たちは行くのだが、
もし、陛下の「ろぼ」 を乱す悪漢が お前たちのそばから飛び出したらどうするか、
と。
私も兄も父の問に答えなかったら、
父は厳然として 「飛びついて殺せ」 といいました。
私は理屈は知りません。
しかし 私の理屈をいえば、父が子供の時教えてくれた、
賊に飛びついて殺せという、たった一つがあるだけです。
牧野だけは私にやらせてください。
牧野を殺すことは、私は父の命令のようなものですよ」

河野司 著 「湯河原襲撃」

リンク
磯部浅一 ・行動記
・ 第七 「 ヤルトカ、ヤラヌトカ云ふ議論を戦わしてはいけない 」 
・ 第八 「 飛びついて行って殺せ 」 


河野壽

通学早々の三日目のことだった。
寿が編入されたクラスに一きわ身体の大きいいかにも強そうな子がいて、
教室内ではおとなしいのだが、
遊び時間になると滅法に傍若無人ぶりを発揮していた。
どこでもあるように、弱い者をいじめてはお山の大将をきめこんでいる。
転校したての寿には、それがまことに苦々しい光景とうつったらしい。
その日の放課後の帰り道、
またその子の乱暴がはじまって、弱い子がいじめられている。
寿は我慢できなくなって、その子供との間にわりこんでいった。
「 よせ ! 」
寿が大きな声で一括したのに、
一たんはおどろいたその子も、
それが新入の寿であることを知って、にわかに強気になった。
帰りがけの子供がパラパラと駆けよって、三人をとりかこむ中で、
その餓鬼大将は、
自分より身体も小さく未だ勝手もわかっていない新入生がなぜ自分に抗争をいどむのか
 理解できないふうに にらみかえしながら、
「何だ、生意気な」
と 履いていた下駄をすばやく片手握って戦闘姿勢をしめした。
寿は顔面を蒼白にしながら、
「君、可哀想じゃないか。弱い者いじめはやめ給え」
と 言ったが
「ドサを使うて何かッ。喰わすっぞ」
 と いきなり下駄を振り上げた。
ドサは東京弁の意味で、喰わすっぞとは殴るぞという熊本弁である。
寿の東京言葉は、その子の反感をさらにつのらせたのだろう。
振り上げた下駄が寿の横面に鳴った。
寿は一歩後退すると、
肩からかけた鞄をはずし、そこにさしてあった竹の物差をとって、
ふたたび襲いかかる下駄をはらいのけた。
そして、そのまま竹の物差で相手の眉間をピシャリと打ったのである。
額に手をあてて退るその子の顔に赤い血が走った。
その日の夕方、
学校の受持訓導から父へ、学校へ出頭するようにと使いが来た。
学校で一部始終を聞いて帰った父は、座敷に坐ると寿を呼んだ。
どんなに叱られるかと、寿はおずおず父の前に正座した。
「今日のおまえのしたことを、お父さんは叱るつもりはない。
しかし物差でやったのは悪い。やるなら拳骨でやるんだ」
父の訓戒はそれだけだった。
そして、それが父だった。
曲ったことの嫌いな、むしろ頑固一徹の、いわば古武士的の性格であった父は、
海軍部内でも大久保彦左衛門と陰口されほど権勢におじない人であったようだ。
生抜きの軍人のこととてご多分にもれず 絶対皇室中心主義にかたまった父であったが、
それもまた一きわ徹底していた。
それは、時折新聞紙上に現れるいわゆる当時の 不敬 的分子に対して、
「そんな奴は、構わないからぶった斬るんだ」
と 慷慨していたのでもわかる。
寿は、そういう父のもとで育っていった。
そして、寿はとくに厳格に訓育された。
五人の男の子のうち、
一人は軍人に育てて自分の後継としたいという念願を父はもっていたのである。
寿は小さいときから、
おっとりしたなかにはげしい気性をもち、こせこせした性格ではなかった。
がっしりした身体つきも父に似ていた。
そういう寿を父は一番軍人むきとして、後継にしたいと考えたのだろう。

私の二・二六事件 河野司 著から


山口一太郎大尉 ・ 壮丁父兄に訓示

2018年01月24日 10時59分12秒 | 山口一太郎

私はこのたび 中隊長として皆さんの大事な息子さんを預ることになりましたが、
まことに申訳がないのは、その息子さん方に満足なものを着せ、
充分なものを食べさせてやることができないことです。
特に兵舎はごらんのように粗末なものです。
隙間風も入れば、寝台も酷いものです。
それもこれもすべて大蔵大臣がわれわれの要求する軍事予算をとおしてくれないからです。
皆さん、息子さんを可愛いいと思ったら、
どうか大蔵大臣に文句をいって軍事予算を増額させて下さい。
われわれはいつ満洲へ行くかわかりません。
命を捨てる覚悟で戦場に行く青年を、もっと大切にしてやろうではありませんか

山口一太郎 
昭和十一年一月十日
初年兵の入隊式に於いて、見送りの父兄に向って行った
歩兵第一聯隊の第七中隊長の山口一太郎大尉の
大演説の一部である


赤坂歩兵第壱聯隊第七中隊長 山口一太郎大尉は、
青年将校間の中核的存在として知られているが、
十日 中隊の壮丁見送りの父兄に對し、
壮丁入營後における訓練等に関して約一時間にわたり挨拶を述べる
そのうち第二項 「 精神的後援について 」 のもとにおいて、
国體明徴問題に論及し
國體明徴に関して何等誠意なき現内閣や
皇軍を国民の怨府たらしめようとする高橋蔵相の如き
私は憎みても余りあるのであります。
しかるに これ等内閣の権威は未だ地に堕ちず
相當の根強さを持ってをりますために、
雑誌その他これ等を謳歌するやうな記事が載り
或は皆様や子弟の中にも
かかる御考への方がありはしないかと心配してをります・・云々 」
( ・・謄写版刷りによる )
さらに高橋蔵相の陸軍予算八百萬円追加問題にも触れ、
型を破ったこの挨拶は参集者を一驚せしめた。
謄写印刷は任意持帰らせしめたので
参会後 会衆は三々五々この挨拶を中心として、
現場取締りの憲兵はこの状況を上司に報告、
これが成行に関して慎重なる態度で注視している。


一部靑年將校等

2018年01月22日 19時06分18秒 | 靑年將校運動


一部靑年將校等

  
相澤三郎 中佐 福山・歩兵第四十一聯隊  22期 
富永良男 中佐 秋田・第歩兵第十七聯隊  22期
満井佐吉 中佐・陸大兵学教官 26期

大尉
山口一太郎  東京・歩兵第一聯隊 33期
若松満則 久留米・歩兵第四十八聯隊 33期 / 柴有時 東京・戸山学校 33期
松平紹光 東京・近衛歩兵第二聯隊 33期 / 目黒茂臣  憲兵  33期
西田税  少尉 34期

岩崎豊晴 陸軍士官学校附 34期 / 福永 憲  34期
 
大岸頼好 和歌山・歩兵第六十一聯隊 35期 
野田又男 35期 / 佐藤 大尉  35期

野中四郎 東京・歩兵第三聯隊 36期
 
村中孝次 旭川・第二十七聯隊 37期 
 菅波三郎 鹿児島・歩兵第四十五聯隊 37期
大蔵栄一 羅南・歩兵第七十三聯隊 37期
朝山小二郎 羅南・野砲兵第二十五聯隊 37期

香田清貞  東京・歩兵第一旅団司令部附 37期
親泊朝省  37期  殉国 「愛児とともに是非お連れ下さい」
 
岡村適三  37期  憲兵 「 あの温厚な村中が起ったのだ 」
 田中軍吉 東京・近衛歩兵第三聯隊 37期

亀井大尉  青森・歩兵第五聯隊  37期 / 西山敬九郎  関東軍  37期
蓮岡高明 東京・近衛歩兵第三聯隊 37期 / 天野一夫  37期 / 土屋正徳 天津駐屯歩兵隊  37期
 東 昇 / 楢木 茂 京都・歩兵第九聯隊 / 瀬戸口武夫 大尉 第三十八聯隊
寺尾征太露 浜松・高射砲兵第一聯隊 / 佐藤竜雄 大尉 天津駐屯歩兵隊

 
安藤輝三  東京・歩兵第三聯隊 38期
 磯部浅一 東京・野砲兵第一聯隊 38期
佐々木二郎 羅南・歩兵第七十三聯隊 38期
鈴木五郎 名古屋・歩兵第六聯隊 38期

山田 洋 歩兵第六十一聯隊 38期
小川三郎 丸亀・歩兵第十二聯隊 38期
北村良一 公主嶺・関東軍独立守備隊戦車第四大隊 38期 32才
竹中英雄 戦車一 / 足立鐘男 東京・輜重兵第一大隊

末松太平 
青森・歩兵第五聯隊 39期
 
澁川善助 ( 39期 )

森本赳夫  39期  高村経人 台湾・歩兵第二聯隊  39期  / 三浦美徳 / 佐藤幸次郎 大尉
内堀次郎  東京・歩兵第三聯隊  39期 / 生駒正幸  所沢・飛行学校  39期 
吉井〇四郎  歩兵第三十八聯隊 / 植田 勇 / 富田 実 / 寺尾征太露  高射砲第一聯隊
小河原清衛 / 西原 大尉 / 樽木 茂  歩兵第九聯隊 / 間瀬惇三  歩兵第十八聯隊
村山 勇  近衛歩兵第三聯隊 / 川上 大尉  歩兵第三十七聯隊 / 足立鐘男  輜重兵第一聯隊 
江崎 大尉 / 蓮岡高明  近衛歩兵第二聯隊 / 伊地知進 関東軍・独立守備隊11 / 石丸作次  歩兵第八十聯隊

河野壽 飛行十二聯隊附 40期

中尉
竹嶌継夫 豊橋教導学校 40期

蟹江中尉 奈良・歩兵第三十七聯隊  40期
鶴見重文 奈良・第三十八聯隊 40期
小林美文 東京・歩兵第三聯隊  40期

對馬勝雄  豊橋教導学校 41期
 
栗原安秀 歩兵第一聯隊 41期
中橋基明 東京・近衛歩兵第三聯隊 41期
  片岡太郎 東京・近衛歩兵第三聯隊 41期
片岡俊郎 札幌・歩兵第二十五聯隊 41期

栗原凱二 金沢・歩兵第七聯隊 41期
後藤四郎  関東軍・独立守備隊十二大隊 41期
池田万寿治 羅南・歩兵第七十三聯隊 41期
池田早苗  歩兵第二十聯隊 41期
板垣徹  豊橋教導学校 41期 / 近藤伝八  41期 / 大井 中尉 / 佐藤 操  独立守備隊2 
石川寛一  公主嶺高射砲隊 41期 / 藤野 中尉  41期 / 四本 中尉  41期

塩田淑夫 関東軍・独立守備隊歩兵第一  42期

鶴田静三台湾飛行八  42期
松浦義教  仙台・教導学校  42期

丹生誠忠 東京・歩兵第一聯隊 43期
新井 勲 東京・歩兵第三聯隊  43期
  井上辰雄 豊橋教導学校  43期

江藤五郎 丸亀・歩兵第十二聯隊 43期

坂井直 東京・歩兵第三聯隊 44期
志村陸城  青森・歩兵第五聯隊  44期
柳下良二 東京・歩兵第三聯隊 44期
志岐孝人 熊本・歩兵第十三聯隊  44期

松浦邁   奈良・第三十八聯隊  44期 
杉野良任 青森・歩兵第五聯隊  44期
新井 健 東京・近衛歩兵第三聯隊 44期 / 緒方岩夫 東京・近衛歩兵第三聯隊 44期
飯淵幸男 東京・近衛歩兵第三聯隊 44期 / 村田光行  東京・歩兵第一聯隊  44期
尾形岩夫  東京・近衛歩兵第三聯隊 / 新郷 中尉  歩兵第三十八聯隊  44期 / 瀬戸口武夫  44期
竹中英雄  戦車1 / 楠田 犠 中尉  鉄道2 / 佐藤孟夫  所沢・飛行学校 / 植田 稔 中尉

田中勝  国府台・野戦重砲兵第七聯隊 45期
黒崎貞明  関東軍・独立守備隊六大隊  45期

明石寛二 金沢・山砲兵第九聯隊 当時綿洲在  45期
市川芳男 金沢・歩兵第七聯隊 45期 / 黒田武文 岐阜・飛行第二聯隊  45期
池田万寿治  歩兵第七十三聯隊  45期 / 草間 勇 仙台・野戦重砲兵第二聯隊  45期
赤座 武  独立守備隊18 / 田中兼五郎  砲工学校 / 諏訪脇栄次  歩兵第三十八聯隊
坂本東洋  独立守備隊1 / 外山喜一郎  野砲学校 / 鈴木 中尉  青森・歩兵第五聯隊
清水 監  歩兵第六聯隊 / 岡崎利行  砲工学校 / 北村正栄  歩兵第三十四聯隊
北村将臣  東京・歩兵第一聯隊 / 原田千秋  野戦重砲兵第六聯隊 /福井寛治  歩兵第八十聯隊
堀之内吉彦 / 井上元幸  砲工学校 / 伊藤義行/ 河村寅雄 / 大橋 中尉
浅利 中尉 / 石川寛一  錦州松井部隊 / 藤野 中尉 / 野北祐常 小倉工廠
戸次俊雄 小倉・歩兵第十四聯隊 / 福井寛治 大邱・歩兵第八十聯隊
三木正明 丸亀・歩兵第十二聯隊 / 鈴木 熈 青森・歩兵第五聯隊 / 遠山弥兵衛  青森・歩兵第五聯隊
出雲井英雄  青森・歩兵第五聯隊 / 岡崎整吾 少尉 大阪・歩兵第八連隊
中村数雄 関東軍・独立守備隊六 / 坂本東洋 関東軍・独立守備隊一
河村寅雄 津・歩兵第三十三聯隊 / 伊藤義行 奈良・歩兵第三十八聯隊 / 辻正雄
北村正栄 静岡・歩兵第三十四聯隊 / 中田 薫 中尉 福山・歩兵四十一聯隊 / 浅沼慶太郎 
輜重兵 29才
高木利光  歩兵第二十四聯隊 / 戸次俊雄  歩兵第二十四聯隊 / 楠田 曦 津田沼・鉄道第二聯隊
森田太平 山砲兵二十五聯隊 / 野村準太郎 山砲兵二十五聯隊 / 鳥巣憲治 羅南・歩兵第七十三聯隊

少尉
高橋太郎 歩兵第三聯隊 46期
安田 優 旭川・野戦重砲兵第七聯隊 46期 
中島莞爾  津田沼・鉄道第二聯隊 46期

飯尾裕幸 騎兵学校  46期 / 長尾正夫 歩兵第七十五聯隊

林八郎 東京・歩兵第一聯隊 47期
池田俊彦 東京・歩兵第一聯隊 47期
常盤 稔 東京・歩兵第三聯隊 47期 昭和維新・常盤稔少尉 
 鈴木金次郎 東京・歩兵第三聯隊 47期 昭和維新・鈴木金次郎少尉
清原康平 東京・歩兵第三聯隊 47期 昭和維新・清原康平少尉
今泉義道 東京・近衛歩兵第三聯隊 47期 昭和維新・今泉義道少尉

中川範治 羅南・歩兵第七十三聯隊  47期 / 長尾正夫会寧・歩兵第七十五聯隊
安部富雄  東京・歩兵第三聯隊  特志 / 秋吉周一  歩兵第十二聯隊
井上 薫  独立守備隊6 / 秋吉周一 丸亀・歩兵第十二聯隊 / 八幡弥兵衛 青森・歩兵第五聯隊

後宮二郎  和歌山・歩兵第六十一聯隊  48期

麦屋清済 東京・歩兵第三聯隊 特志 昭和維新・麦屋清済少尉
山本 又 42歳
昭和維新・山本又予備少尉 


靑年將校運動とは何か

2018年01月20日 18時44分09秒 | 靑年將校運動


靑年將校運動とは何か

和田日出吉
×月×日
質問者 和田日出吉

まえがき
最近、靑年將校といふ言葉、及びこれに關連する各種の思想及び行動が好むと好まざるとに拘らず、
特殊の意味を帯有して問題的に扱われてゐる。
靑年將校とは何であるか。
今まで貌相を的確に社会に現はしたこともなければ、説明されてゐないやうだ。
從つてこの言葉を使ふのも、ほんのその文字と、その文字の背後的關係とを聯想に入れたまま漠然と使ってゐるに過ぎない。
然らば一體、靑年將校、或は靑年將校運動とは、何を指し云ふのか。
漠然たるこれ等の名称は何を意味し何を語らうとしてゐるか。
筆者は、過日、これらの所謂靑年將校運動の線上にある靑年將校の一人  ( 或は多數と云ってもよい ) と話を交換す機會を得た。
勿論お互に突然であり且つ、限られた小時間であったため答者は、
その思ふところを存分にまかせぬ點もあったらうし、問者もまたその意にまかせなかった。
然も本文にはここに記す自由を有せない事柄をはぶいたためと、
問者の質問内容を簡單に要點だけ記錄するに止めたため、記事が表面的になったやうに思ふ。


最近、國家改造運動のうへに、靑年將校といふ言葉が使はれてゐるが、文字的解釋以外に何を意味してゐるかを訊ねたい

これは自分等が名附けたわけではない。
靑年の將校が國家改造運動の必要上、口々に自然發生的に名がつき、自分等もそれを使ふやうになったまでである。

ではその靑年將校運動なるものを具體的に

それは、靑年將校が、指導中心となってゐる國家改造を目的とする 「軍隊運動」 の意味である、
而してこれらの指導中心となってゐる靑年將校の大部分は、
軍隊内にあって、下士官、兵士達と苦樂を共にいてゐる中隊長以下の、
若き大尉、中尉、少尉によって占められてゐる。
決して軍部の中央部にあって、華かに世間的存在を認められてゐるものでないことを配慮せられたい。
従って本當の 「 靑年將校 」 などの姿は、決して世間には解らない。
全國各地に營々として皇軍のため兵と共にしてゐるのだから。

相澤中佐の如きは?

中佐の如きは、所謂靑年將校ではなかったが、
この運動に於ける年長者であって靑年將校たるの情熱と信念を有してゐたものと解する。

それ等の靑年將校の中でもイデオロギーの各種の潮流があると思ふが、
それを一概に靑年將校運動の中に含めるのは余りに、その思想を概念的たらしめてはゐないか

いや、前述の意味に於ける靑年將校の中には絶對に相對する思想はない。
勿論細部にはあるかも知れぬが、そんな点は何うでもよい。問題は根本にある。

現在の若い將校で、改造運動に入ってゐない者が大部分であらうがそれとの關係は?

さういふ革新運動を考へて居らない一般の若い將校も結局精鋭なる革新分子である。
これらの靑年將校によって指導されてゐるのが現狀である。

ところで目下その 「 靑年將校運動 」 は活潑なる活動をしてゐるのか?

いよいよ活潑となってゐると思ふ。

われわれ外部から解らぬが、その具體的な例は?

相澤中佐事件はその一例であるが、更に今回の公判に於ける全國的活動や、
渡邊教育總監に對する全面的反撃運動もその一例である。

ところで靑年將校と云ひ、その運動と云ひ、軍隊としての組織以外に、何等かの組織があるのか

具體的には何もない。
例へば綱領であるとか、結社的なものはない。
精神と信念を同じくしてゐる以上、綱領とか規約とかは無意味である。
然しこの國家革新を考へてゐる靑年將校が、 全國に亙って自ら聲息相通じてゐるといふことは明らかな事實である。
だから各靑年將校が、一つの大義名分を唱へて奮起した時には、全國からこれに呼應した起き上って來ることは想像できる。
従って無組織とでも云ふか・・・・・要するに陛下の軍人として軍隊内に一つの結社を作るといふことは、
吾々の排撃するところであるが、同一の理想と信念を持ってゐる者が接近して互に情報を聯絡し、
その信念に忠實たらんとする行動は許されていいと思ふ。
ことは社会は勿論、軍隊内部の改革が必要とされてゐる今日に於て、
これはよくわれわれが問題視される横斷的結束では決してない。

然らば、この靑年將校運動が、發生したのはいつ頃か。また發生した因子は何か。

世間では靑年將校運動を目して、満洲事變あたり、
或は五、一五事件この頃から出來たやうに思ってゐるが、そんな浅いものでなく、
事實相當に古い歴史的根拠を持ってゐる。
即ち、わが國に於て資本主義の最も活潑を極めた欧州大戰當時からその直後に當って、
日本帝國が逐次に自由主義思想或は左翼思想等なよって浸食され、
一般人のみでなく軍隊内部までが腐敗或は、その思想的影響下にあるやうになり、
然も軍の首脳部も何等これに對して積極的な力を見せず、
云はぱむしろ肩身を狭くして軍隊精神を委縮させるやうな事態になったとき、
これを憤った當時に於ける中少尉の靑年將校、或は士官候補生が、
軍首脳部頼むら足らず自分等の力で日本を革新しやうと集って、
互に國家改造の運動の發足を契ったのだ、それが始りだから、
かれこれ十五六年經つと思はれる、
これが世間的に具體的に現はれたのが数年前の○○○○事件であり五、一五事件である。

當時の思想的根拠は?

今も昔も變わりはない、建國以來の國體観念である。
即ち神武創業の時から大化の革新、建武の中興、明治維新をはじめとして同一の思想と云ひ得るわけである。

では 五、一五事件関係の靑年將校と現在の靑年將校との間にイデオロギーの變化的、
或は生長的差異はないと見ていいのか

少しも變わってゐない。
但し五、一五事件に於ては、現象的に見てわれわれさうした機械に當って靑年將校運動の一部が、
露出したといふ狀態とみるのを至當と考へる。
從って靑年將校運動の全體と解釋するのは非常な困難事だ。

五、一五事件關係者の中には軍人以外の者がいるが、これも全く思想的に同じと見ていいか

五、一五事件に於ては、明らかに吾々靑年將校の有する思想と、それに非ざるファッショ思想とが混亂してゐる。
即ち、五、一五事件の被告中の陸士官候補生の如きは明らかに、われわれの思想であるが、
大川周明或はこれに從ったものゝ思想は、ファッショ的思想濃厚であると思はれるし、
われわれの反對するところだ。
これが一歩進んで神兵隊事件になると、純然たるファッショ思想の指導下にあって、吾々の輕蔑するところである。

だが、五、一五事件や神兵隊事件の持つ思想と
靑年將校運動の有する思想と一般にはかくまで根本的差異があると理解されてゐない

然し 事實は全く違ふ。
特に神兵隊事件などの思想と同一にされることは迷惑至極である。
兎に角、この思想的差異を認識してかからないと所謂正しき意味の靑年將校の本體が解らない。
ただ新聞等に許されたる範囲の報道のみで、これ等の現象とその各々の思想を想像するから、
自由主義を排撃するものはファッショといふ言葉に片附けてしまふのだから低い。

軍部内に於て、統制派とか、清軍派とか色々な派閥があると聞くが如何?

軍部内には明瞭に色々な派閥があると云へる。
派閥があるといふよりも、寧ろ相對する二つの潮流があるといった方が適當な意味を持つやうだ。

二つの潮流とは

その一つを現狀維持派と名附けやう。
その中には所謂統制派、幕僚ファッショ ( 政治派とも云ふ ) 等が含まれてゐる。
また一方現狀を打破しやうとする派 ( 皇軍派 ) とでも云ふべき派がある。
この二大潮流は、根本思想に相對するところから出發してあらゆる點に相反してゐる。
例へば對露問題についても前者は明瞭に對露親善であり、
後者はこれを爆發しやうとする思想である。

これが所謂、宇垣派とか荒木派とか云ふ形になってゐるわけか

兎に角、我々の頭から云へば、
所謂荒木派とか、宇垣派とかいふやうな個人的な名前による對立などてんで問題でない。

然し 事実じつ上、靑年將校は荒木、眞崎派だといはれてゐるではないか

いや我々は實際に於て、そのいづれの派にも属さない、
荒木、眞崎といふ者を支持した形になってゐることもあらう。
然しそれは單に、この人達が、軍人として正しい人であるから指示すると云ふ結果的な現象にすぎない。

処で、宇垣とか南を支持する靑年將校もゐる譯ではないか

それはあらう。
だがそれらはわれわれが荒木、眞崎を支持するのとは根本的に違ふ。
宇垣、南等に属するものゝ行動を見てゐると、明らかに方便主義、利益主義が含まれてゐると思ふ。
我々が仮に世間で云ふ如く荒木派であり、眞崎派であるとして、これを我々をして云はしむれば、
 むしろ現狀を打破しやうとする靑年將校の陣営に荒木、眞崎が含まれてゐると云ふべきであらう。
本來の意義から云って、青年將校は絶對に荒木派でもなければ、眞崎派でもない。
まして派閥によるこしは軍人の本分にもとるのである。
これを世間的に見ると恰も宇垣派に対する荒木派であり、
下の方でも幕僚ファッショに對する靑年將校といふ格構になるのだと思ふ。

だが、軍部内に於ける派閥には思想的對立と云ふ純粋なもの以外に
地位名誉の爭奪も當然ふくまれて相當複雑だと思ふ

少なくとも靑年將校にはそれはない。
現狀維持派は多分にそれがあると解するが適當だ、然しそれは第三者から見た方が、はっきりすると思ふから云はぬ。

現狀維持派の中心は死んだ永田中將か

まあ參謀と云ったところだらうと思ふ。

現状維持派の思想の中心はファッショであるか

左様、ファッショ的であるが必ずしも確固なる理論、組織、信念から基いたものとは思へぬ、
結局、新興勢力たる靑年将校が、獨自の國體観念によって立上がって來た時に
これに依ってすべての腐敗堕落したもの、
或は支配階級に寄生的態度を採ってゐたものが自分の地位を奪はれ特權的地位が剥がれることを恐れて、
その結果、新興勢力である靑年將校に對して、
自然に色々な派閥が集って幕僚ファッショなるものを形成したものと解すべきであらう。
從って彼等の間には軍隊内部の自由主義的思想あり、官僚重臣に阿る者もゐる。
中には或る程度まで革新を考へてゐるが、日本本來の國體観を持つことが出來ず、
外国國への留学等に於てナチス、ファッショなどの政治形體への共鳴から、
日本にもこれを移植しやうとする浅薄な思想を持ってゐるものもあり、雑然たる寄合である。

永田中將亡き後の現狀維持派の中心勢力は

矢張り幕僚ファッショであらう。
ところが、靑年將校は、彼等とは根本的に相容れない、
先ずわれわれは、彼等が目ざす如く、軍人による獨裁政治は考へてゐない。
我々は日本人として考へるのである、
即ち革命日本人としての軍人であるとの自己認識を持ってゐるが故に
國家を革新せんとする爲めに軍人獨裁の政治の現出を必要とは考へてゐない。
むしろ國家改造は、軍人が獨裁でなくて、天皇の下に一切を捧げた國民が全國的に凡ゆね部門に亙って
各々改造しなければならぬではないか、國家社會が腐敗するとき、
軍部もまたひとり孤高であり得る筈がない、軍部また革新を要するのは理の當然である。

然し世間には軍人全体體がファッショだと思はれてゐる
勿論、ファッショの意義を知らない爲もあらうが

だが、世間がさう思ふ理由の一半に次ぎのやうな理由があると思ふ。
即ち、軍隊の社會外部に對する宣傳機關や、
その地位的關係から表面的に外部と接触する機會の多いものは主として軍の中央部にある・・・・・・・
幕僚ファッショの聯中であらう。
彼等は自分も軍のスポークスマンであるが如く誇示し、
世間また之等の者の思想的代表者であると信ずるため、
幕僚ファッショによって宣表されたファッシズムは、世間的に軍部全體、ことにその先鋭分子として
靑年將校を聯想するが如き結果になるのである。
繰返して云ふが、靑年將校運動には、
幕僚ファッショなどに依って抱懐されてゐるファッシズムは芥一つないことを心得べきである。

然らば靑年將校は、その運動に於て何を望んでゐるか

簡單に云へば、一君萬民、君臣一界といふ境地である、大君と共に喜び、大君と共に悲しみ、
日本國民が、本當に天皇の下に一體となり建國以来の理想國顯現に向って前進するといふことである。
眞に吾々は、陛下の赤子であると言ふ境地を現出して、
日本をあげて、世界に於ける最強の大和民族たらしめ、
日本が世界の封建的資本主義國家の上に君臨する日本帝國を建設する事によって、
世界の平和を招來する事だと思ふ。
我々は人間として平和郷を現出する事を希望して居るが、
今日国際間に於ても大和民族は座して他のアングロサクソンとか、
スラブ民族に依って踏みつけられるに甘んずるわけには行かない。
矢張り之に対して敢然征服すべく突進せねばならぬ、
それまでは靑年將校として切實に感ずる事は何かといふと安心をして國防の第一線に活躍することだ。
即ち我々は今日兵を教育して居るが、今の儘では安心して戰爭に行けない。
今日の兵の家庭は疲弊し働き手を失った家が苦しむ狀態では、どうしても安心して戰爭に行けるか。
即ち自分達が陛下から、一般國民から信頼されて居る以上は、此の國防を安全に、
國防の重責を盡すゆうような境地にしたい。
その爲めに日本の國内の狀態は明瞭に改造を要するのである。
國民の大部分といふものが、經濟的に疲弊し、經濟上の權力は、
天皇陛下に對して、まさに一部の支配階級が獨占してゐる。
時として彼等は、政治機構と結託して一切の獨占を弄してゐる。
然も、それ等の支配階級が、非常に腐敗してゐる狀態だから承知相成らんことになるのだ。

さうした感想は、一般的に云って左翼的にも考へられる

さうにも感じられやう。
然し、その根本に於て、靑年將校運動は、國體観念から出發してゐるという一點で、磁石の両極ほど違ふだらう。

では、何うしやうと言ふのか

今日、日本の國内狀勢を見て、何んとかしなければならぬといふ考へは、一般國民の常識だと判定していい。
だが改造の方法に各々異説があるのだが、
これは日本建國以來の國是といふものを考へて見れば自ら決ってくるものと思ふ。

然らば、改造戰線に於ける靑年將校の役割は何か

建國の理想への顯現に努力することである、
端的に云へば、陛下の正しい力として國是の遂行を妨害する者を排除して行くといふ事にある。
從って國外に對しては日本の國策を妨害する、
例へば英、米、露の如きに對しては、國防の第一線に立って敵をたをし、
國内にあって若し日本の國の進歩發展の爲に妨害となるといふ存在があるとすれば
-----例へば、天皇機關説論者の如き----
之を國民の先頭に立ち一切を排除して天皇の下に馳せ参ずるのが、自分達の任務だと思ふ。
又吾々靑年將校としては、特に同じ陛下の赤子國民でありながら、
殊遇を忝くして居る以上、日本の國の爲めには、
何れの場合に於ても眞先に斃れるといふことが我々の信条である。
随って唯戰爭だけやればよいといふのではなく、國内問題に對しては非常なる決意を持ってゐる。
要するに靑年將校としては先づ先に斃れて、其の上に日本國民を前進せしめて、
日本國民をして益々よりよき境地に行かしむるといふのを心密かに誇りとしてゐる譯だ。

さう云ふ日本の國の前進を妨害するものは

要するに今日の國内狀勢をよく見れば、
現狀を維持せんとするもの然かも現狀を維持するといふ事の反面には、
今日迄の自分達の得た特權であり、
地位であり、財産であり、名誉といふものをあくまで保持せんとするもの、
例へば政黨であり、財閥であり、軍閥であり、吏閥であり、悉くさうだ。
然かも之等の現狀を維持せんとする者は、事實上日本の國の支配階級を形作って居る。
支配階級の權力は非常に強大であるが、明瞭に今日新興一般國民は、
これに反抗して居るが如何ともし難い狀態にある。
唯之に對して唯一の残された刀としては、
陛下の正しい權力としての靑年將校を中心とする軍隊運動が存在する丈だ。
それで概ね吾々靑年將校が革新運動上何をするかといふ事が想像がつくだらうと思ふ。

現在の經濟機構に関して如何 ?

はっきり云ふと、今日の資本主義經濟機構は明瞭に否定する。
今日迄の所謂資本主義經濟組織、明治維新の時に取入れられた富國強兵の資本主義といふものは
過去に於ける有力なる働きをしたが、
今やその役目を果し段々破綻して、何等かの新しき形式に移りつつあるといふ事は、
支配階級ですら何等かの形で是正せんとして居るので判る。
だが今日の資本主義の組織權力といふものを根底としてゐる、統制經濟主義には明瞭に反對だ。
我々は今日の資本主義組織といふものを打破する爲には少く共、三大原則があると信じてゐる。
大資本と私有財産と土地と此の三つの部門と云ふものが、
今日の資本主義經濟の三の大なる因子であると思ふが、
この因子に根本的修正を与へなければならぬ、
先づ大資本を國家の統一に歸する。
私有財産を制限する、土地の所有の制限をする。
この三つである。

支配階級、殊に資本主義内に、勿論表面的ではあるが広い意味の右翼転向の氣運を感じないか

我々の今日の支配階級に對する憤は決して所謂プロレタリアがブルジョアに対する復讐ではない。
日本の國家がよくなる爲の金融大權を奉還するといふのはいいと思ふ。
例へばブルジョアが三千萬圓を出したとするも其反面に於て十億の金を鞏硬なる組織で、
日本人の懐から搾取して居る情態である以上は、生半可な生半可轉向狀態に誤魔化される程我々は馬鹿ではない。
資本家聯が、陛下の下に奉還するなら話は非常に簡單だが、
それが厭だといふと正義の力を持ってやらなければならないと言ふ立場にある。

唯財閥が今の自由主義經濟機構を中心として活動を止めると、日本の國富といふ點から何う考へるか

よく其の質問を受けるが、今日の資本主義經濟機構といふものを否定したら日本は經濟的に破綻する、
と考へるそれ自體の頭が今日の資本主義機構の中に生活している人の考へであるらしい。
國富といふのは日本全體から見れば決して變化はないと思ふ。
現在の日本の國富は、なるほど資本主義の潮流に乗って全體としての日本が蓄積した冨であって、
決して資本主義だけの富の製造技術によって爲されたものでない事を心得るべきである。
日本及び日本人としての經濟的に膨脹しゆく力----民族的なるエキスパンションに因るもので、
その中にあらゆる階級、あらゆる生活、學問、さうしたものの渾然たる日本の發展力の結果だ。
資本主義陣営内の前述の如き考へは、恰も現在の日本の富を作ったものは資本家の手であり頭脳であると思ってゐる。
哀しむ可き錯覺である。
恰も今やその資本主義の修正が必然的に約束されてゐる今日、日本の資本主義經濟機構を改變し、
資本閥を倒すことに依って日本が貧乏になるといふ理論は成り立たない。
反って既に役目を果した資本主義を否定する民族的な、生活力は更に次の富國の段階に移るべきだと思ふ。
われわれはその位の民族發展の可能性のあることを、日本民族に信じてゐる。
寧ろ鞏硬なる國家的統一をなした事になり、日本の統一といふことは世界に對する恐怖であるが譯だ、
同時に日本の經濟機構を改變するといふことは、世界の今日の經濟組織の大破綻を來すといふことで、
今日の日本の改造といふことは、日本一國の改造のみならず、世界改造に及ぶことにならう。
大和民族が將來世界に雄飛する爲めにはその位の苦労はしなければならぬ。

現在の國民生活の神經の樞を握ってゐるのは官僚である
この官僚の最近の抬頭は、軍部の臺頭に伴って起って來たやうな奇現象を示してゐるが如何?

軍部の抬頭といふより、國體観念を中心とする國家改造運動、靑年將校運動の臺頭に對して、
所謂重臣がその現狀維持の方法を取るに政黨が駄目であるから官僚に求めた事による。
官僚は長年政党の壓迫下にあったので、この時とばかり、軍部臺頭の力を逆用してゐるのだ。
然も軍部内にある現狀維持の聯中が、この官僚どもと款を通じることなどによって一時はいい氣なものであった。
然し、現在永田中將の死によって、この気勢は壊滅したやうだが・・・・
新官僚の旗印は或程度の改造といふことを考へて居るが、此の新官僚の立場といふものは、
仮に明治維新を例とする公武合体派だ。
もう一つ突っ込んで言ふと、ロシア革命に於けるケレンスキー政權だ。
官僚が看板にしてゐる旧勢力にもよい新勢力にもよかれといふ存在は矛盾である。
ところで官僚の思想の中心は依然として彎曲された自由である。
彼等は政治に対してさへも政黨に對する反撃的修正に止まり國家改造など及びも寄らない。
むしろ明治の當初に於ける官僚階級とその華やかさに對する思慕にすぎない。
その観念は、退嬰的であるばかりでなく、徒らに細部的である、官僚運動を實践するに當っても、
自らその力もないので軍部に頼らうとしたのだ。
玆に思想的といふより便宜的に幕僚ファッショとの通謀が成立したわけで、そこに指導力などのあらう道理がない。
最も指導力を必要とする時代に、指導力のないものが政治の中心となってゐることは日本の不幸である。
帝國大學の机の上と官廳の窓からは巷の聲は判らない。
農民や市井の勤労者は、むしろ彼等の物判りのよさそうな、蒼白い、
高慢ちきな秀才面を見て怨嗟を徴發されるに止まらう。

現在、右翼團体の大部分に對して、われわれは低劣な印象しか持ち得ない
然も右翼團體と云へば、必然的に軍部と關係ある如く思はれるが、靑年將校として何う思ふ

單純に右翼と靑年將校を結びつけることは迷惑至極である。
右翼と云っても日本精神を賈り物にして、寄生虫的存在が多いと思はれる。
だから決して既成の右翼團体といふものは、革新運動の中心にはなってゐない現狀だ。
論より證拠所謂既成の右翼團體といふものは悉く至る処で革新分子によって改變されてゐる。

明倫会の如き軍人出身者を中心としている右翼の團體があるが、一例として何う思ふ

あんな邊りがまあ、何と言ふか我々が深い所を流れて居るとすれば、丁度岸辺を洗ってゐるといふものだ。

右翼團體にしても財閥の補助を受けて居るといふ説が伝はって居る

之は我々靑年將校をといふ者は、國家の官吏として待遇されてゐる。
だから生活者で無い者の内容がわからないが不正がなければ徒らに潔癖に見る必要もなからう。
唯それが革新運動を他人に賈り附ける或は支配階級を食物にして居る者は、明瞭に我々の敵だ。

次に左翼運動はいま、思想的流行の圏外になってはゐるが潜在的には、
 インテリ階級の大部分に、多少ともシンパ的魅力を持たれてゐる。
また左翼思想が、自由主義に寄生してゐることも事實だ。

左翼思想は、先づ日本の國體に反する意味で反對である。
左翼と云っても無産党の聯中の如く陛下を認めて、
 然も日本の國體論があってそれに社會民主主義を取り附けるといふ事は成り立たない。

だが右翼小児病も、ずい分ある

右翼にも、左翼にも、小児病は多い。
右翼小児病などのいい例は、活動冩眞によくある近藤勇が酒に酔って芸者を前に置いて深刻な顔をしてゐる。
それに魅力を感じるやうなものだ。
最近の各種の右翼運動などでよく發見されるやうに、國家を改造するものが、日夜待合などに出入して、
芸者を抱いて紅灯縁酒の下に酔ひしれてゐる實情である。
それで何の改造が出來るか、營々として働いてゐる農民や、勞働者に申しわけがない。
で、第一に彼等には眞劍さがない。 改造の捨石になる信念がない。
だから改造だ改造だと云ってゐながら、ひとりでゐると淋しくなる。
同志が集まって酒を呑み、女を抱き焦繰的寂寥を誤魔化さうとしてゐるのだ。
信念があるならば、ただ一人黙々として冷静に前進する筈だ。
聞けば相澤中佐の如きは決行の前などは何人にも語らず、水の様な静けさであったといふ。
現在の中央部の軍人の中にも、幕僚あたりは、國家の大事を語るに盛んに料亭待合に出入して行ってゐるが、
これでは國家を改造する資格はない。
われ等靑年將校の運動にあるもの、兵と共に野營し、泥にまみれて苦勞を共にしてゐる者には、
想像も出來ない芸當だと思ってゐる。

ぢゃ三月事件、十月事件当初から・・・・

大部分さうだ。
十月事件以來、靑年將校が幕僚から離れ去った重大な理由は、そこにある。
宴会派なる名稱が出來たのもその頃である。

一般的な意味に左翼の運動は、靑年將校等は認識をもっと深めていいぢゃないか

いや相當、その點は勉強してゐるつもりだ。
共産主義にしたところで人類の幸福を目標としてゐる点で、徒らに否定はしない。
然し何よりも先づ我々が日本人である点、また日本人であらねばならぬ一点で、根本的否定----といふより撲滅をせねばならないと思ふ。
ところで左翼の運動などでは先づ感覺的に不快だ、青白いインテリ崩れが、
國家の改造をするについても、戰術の名にかくれて、
ショップガールやタイピストを桃色化したとかなどに至っては子供だましだ。ほんの遊びだ。
例のハウスキーパーなんて、情婦 ( いろをんな ) ぢゃないか、要するに児戯の二字に盡きる。
そんな遊びから何が生まれるものか。

兵士は、徴兵で國家の義務であるから、奉公、奉仕といふ感じが湧くが、
 將校は將校たるが故に生活の資を得、まして生涯を通じて生活を保證されてゐる點から見て、
 一部から將校職業論の出てゐるやうだ

制度上から云ふと、將校は徴兵制度内にあって、義勇兵制度に入る。
從って職業ではない。
唯實際問題として今日我々が特に反省しなければならない事は 將校が自己を以って職業的軍人ならしめてゐる事だ。
若し職業でやってゐるならば、日本國民でありながら、
陛下の殊遇を忝うして居るといふ事が前に云ったやうに靑年將校をして内外を問はず
國民の眞先に犠牲になるといふ信条を持たしめる。
若し職業であるならば、戰爭には成る丈死なない様にして、金鵄勲章を貰ふ
實際問題として我々靑年將校は職業でないといふ信念の下に立ってゐる。
軍人勅諭を噛みしめて讀んで頂くとはっきりすると思ふ。

靑年將校などには、世間的接触がないために、民衆の生活感情を無視した點がずい分あるやうだ

世間的に最も多く信ぜられてゐる考へだが、事實はこれと反對である。
我々將校程世間的接触の多いものはない。
論より證拠に、我々が毎年十萬以上の壮丁を入れてそれを直接教育する。
彼等は世間の総ての職業を網羅して居る。
我々軍人は戰爭術の技師ではない。
だから兵隊に軍隊の技術を教へる爲めの將校ではない。
それに兵隊の凡ゆる階級の者が持つ思想、信念、境遇之を體得しなければ理想的の教育が出來ぬ。
況んや我々靑年將校が此の一般社会から入って來る兵卒の演習場に於ても共に露營し、
共に同じ飯を食ひ、泥まみれになって居る中に、彼等の思想感情を知り、彼等の悩を感得、苦しみを知る譯だ。
從って民衆の生活感情や思想内容に對する知識といふものは非常に強いものだ。
國民總てを指導しなければならぬ確信を持って、ものを非常に研究して居り、却って世間一般の人よりも色々知って居る。
勿論なかなかさう云ふ將校が全部を占めて居るとはいへないが、
軍人自信が自己の任務といふ事を考へると自ら解る問題である。
また毎年十萬宛の在郷軍人を出して居り、其の在郷軍人は今日三百萬を越して居る、
之等の者は事實上健康なる精神力、肉體力を持って居る者、所謂完全な日本人である筈だ。
然らば將校の信念であり思想といふものは、非常に國民の間に浸入して居る譯だ。
われわれの在郷軍人に對する考へは解ると思ふ。

現代のジャーナリズムに對して何う思ふか

自由主義、資本主義の太鼓持の役目以外には、あまり氣に止めぬ。

然し、新聞雑誌が、自由主義なのでなく、社會全體がさうなのではないか、それでなくては、
新聞や雑誌が、ああまで一様に自由主義的陣營にのみ集るまい
まして所謂右翼を標榜する雑誌で營業的に成り立ったのを聞いた事がない
これは民衆が要求してゐないのではないか

さうだ、何と云っても、支配階級と、これに隷属的關係にある階級の生活感情は
明らかに自由主義の温床なものであるからだ。
だがこの社會底部にうつ然として盛り上がってゐる明日の日本の潮流に氣がつかないからだ。
いやわかってゐても自分等の慣れた生活環境なり階級の現在を維持しようとして、耳目をふさいでゐるのだ。
だからジャーナリズムのみを非難しても仕方ない。
だが現在の新聞などの態度はまさに軽蔑すべきものだらう。
自由主義でありながら、云ふ可き口をことさらに塞ぎ、甚だしきは軍部に媚態を示してゐる態度は、賈笑婦に等しい。

軍人も士官學校の數年間を除いては同じ社会環境に育つものである以上、
 一般の社會にある、自由主義的影響、欧化思想のない筈はあるまい

それはたしかにある。
第一 日本の軍制からして、欧米諸國の制度をまねて居るのだ。
又所謂優秀な將校は、皆外國に行って居る位で、ここに陸軍内部の教育制度、軍制の改革が必要されるのだ。
これは矢張り日本が富國強兵の爲に、欧米の資本主義を輸入した結果、
矛盾を來した如く陸軍に於ても、其の轍を踏んで居ると思ふ。
此の中で今日最も害を來して居る事は、將校の教育である。
今日の將校の教育といふものは、一世紀前のプロシヤの貴族將校團の思想が入って居ると思ふ。

上官に對する靑年將校の考へといふものは?

我々は陛下の軍人だから、上官個人の部下ではない譯だ。
要するに上官の命令といふものは、陛下の命令と確信するからこそ、水火も辭せずに行くのだ。
從って日本の國に於てこそ、上官といふものは、國體論を眞に把握せずして、
所謂職業軍人であった場合下の者は之に服從しないのは當然だ。
日本に於ては上に立つ者程國體観念に透徹し、人格職權共に立派でなければならぬ。
制度上に於ける上官であるから服從しなければならぬと云腑言はない。
陛下の命令が上官を通じて命令されるから服從するのであって上官個人に服從するのではない。
即ち軍規に服從するのでなく天皇陛下に服從し奉るのである。

では信念の相違の場合は、服從し得ない場合も生じて來るか

相澤中佐事件の場合の例になると思ふ。

併し其の、陛下の命令が上官を通じて現れるといふ事は、實際問題としての認識は非常に困難と思ふ

それは難しい。
日本軍隊に居って上は元帥、大將から下は二等兵に至る迄、 皆陛下の軍人としての信念が統一せられねばならぬ。
之が所謂國軍の所謂統制といふ事でなければならぬ。
それを制度により規則によって統一しやうといふ頭が統制派の思想だ。
勿論人間は神様でないから、實際問題として理想が今日直ぐ行はれるとは云へない。
少なく共我々が其の理想的境地に迄前進しやうと思ふ。
だから或時期に於ては上官が、下の者に自己の信念によって鞏要する事がある、
其の時に我々の信念として、間違って居る時には腹を切って陛下に詫びるといふ事を認識しなければならない。
自分が命令する時に下の者は陛下の命令と確信して動くのであるから、自分の一言一句確く信念を作ってやらなければならぬ。
戰場に行って此の部下は行けば必ず死ぬと思ふが、涙を呑んで行けと命令する其の信念の境地に達しなければならぬ。
頼むのではない、命令するのである。
其の行けといふ言葉の裏には、非常なる信念がなければならない。

暴力の倫理性といふことについて考へることがあるか

直接行動の一切を暴力といふ意味で先づ戰爭は國家としての暴力の行使だ。
如何なる力の發揮にも根本に理想が無いものはない。
要はその思想の如何だ。
勿論力の發揮は最終的なものであるが、
言論その他の方法が無力となったとき特に正しいものの発現には、力の必要に迫られることがある。
國際間に於て戰爭が起ると同様に、個人に於ても最後には正しい信念を有する者が、
正しい信念を遂行する丈の力を持たなければならなぬ。

陸軍大學の天保銭は時代錯誤だ。子供の玩具のやうな・・・・

本當にさうだ。將校といふものには盛装も天保銭も要らないと思ふ。
理想としては軍人の服制は戰爭に行く制服が即ち正義の様に簡單にしたい。

神兵隊については、特に何を考へるか

あれはファッショだ。日本の國體観念を錯覺した欧化思想である。
その改造の方法に國家に攪亂を起して戒嚴令を敷かさうとした如き思想は以ての外だと思ふ。
即ち、攪亂を起してやると云ふことは根本的の間違ひなのだ。
即ちファッショの下に國民暴動を煽動して戒嚴令を奏請すると云ふことは陛下をだまし奉る遣り方だ。
大權鞏要に属する。
むしろ自分がやるだけの事をやって、陛下の前にひれふすと言ふ態度でなければならないと思ふ。
況やその資金を作る爲に株式の投機業者と結託してその計畫を投機の對象たらしめやうとしたり、
 或は關係者はさうした金で花柳の巷で、遊興してゐたなどに到っては、むしろ苦笑を禁じ得ない。
以上
(日本評論社刊「日本評論」昭和十一年三月号に掲載されたものに、整理訂正を加えたものである)

現代のエスプリ 二・二六事件 編集・解説 利根川裕 至文堂刊 から


維新運動とは何か

2018年01月17日 18時49分08秒 | 國家改造・昭和維新運動

彼等の心中には革命という意識は毛頭なかった。
彼等はその行動を 『 維新 』 と称し、
それは 天皇の大御心に副ったものであると信じていた。
我国には革命ということは絶対にあり得ないことであり、
若し有るとすれば、肇國の精神に則り、天皇によってのみ行われるものであると信じていた。
彼等にとって天皇は神聖であり、絶対であり、神であった。
そして己れの立場は、天皇親率の軍隊の一員であり、
天皇の意思を忖度そんたくして部下に号令する指揮官としての使命観に燃えていた。
然るに 現下の社会情勢を眺めるとき、この神聖なるべき天皇の大御心が、
君側にある 元老、重臣、政党、財閥、軍閥、官僚の一部佞臣ねいしんによって歪められているばかりでなく、
天皇を擁し、若しくは 天皇の御名を藉りて天下に号令し、私利私慾を恣ほしいままにしているかの如くである。
純真な青年将校たちは、この大権を壟断ろうだんしたり、私議する徒輩こそ君側の奸であり、
これを芟除せんじょすることによって我国本然の天皇親政の姿に立ち還ると信じた。
この考えが君側の奸を斃すという非常手段の発想となり、これこそが国体を危殆きたいから救う唯一の道であり、
これを決行する事こそが青年将校に課せられた使命であると思い込んだ。
そして、この考えが強くなればなるほど 君側の奸に対する憎悪の念が激しくなっていった。
次に彼等の考えていた維新実現の順序は、
先ず 憂国の青年将校が、天皇の大御心を心として尖兵となって口火を切り、
次いで本隊である軍当局がこれを是認し、行動に参加することによって軍が維新に入り、
そして国民が賛同すれば、国民が維新に加わる。
そこで大号令が発せられ、初めて本当の維新がその緒につくというものであった。

だが、予想に反し、
大御心に副うことが出来なかったことに気付いた。
最後の極点に立って自己の信念を再検討してみた揚句、
残された道は唯一つ、自決しかなかったのではなかろうか。
この点、平戦両時を通じて天皇に対するお詫びは是にあるのみと云っていたことに合致する。
従って彼等は最後迄自分達の行動は正しいものと信じ、
これを弾圧するものは君側の奸の陰謀であって、
決して大御心の真意ではないと思い込んでいたものと思う。
銃殺刑に処せられたにも拘らず、その最後に臨んでも尚、
「 天皇陛下万歳 」 を叫んだということから推してもはっきりしている。
彼等は後続部隊のあるを信じ 蹶起したのであったが、遂に逆賊の汚名を着て殺されてしまった。


青柳利之 遺著 
首相官邸の血しぶき 
から


西田税、安藤輝三 ・ 二月二十日の會見 『 貴方ヲ殺シテデモ前進スル 』

2018年01月17日 05時34分43秒 | 前夜

二十二日の早朝、
再び安藤を訪ねて決心を促したら、
磯部安心して呉れ、
俺はヤル、
ほんとに安心して呉れ

と 例の如くに簡単に返事をして呉れた。
・・・磯部淺一  行動記 第十 「 戒厳令を布いて斬るのだなあ 」 


西田税               安藤輝三


安藤大尉ハ二月二十日頃ノ夜私方ニ來マシタノデ、
私ハ
「 實ハ君ニ聞キタイ事ガアツテ來テ貰ツタノダ 」
ト申シマシタ処、安藤モ
「 私モ貴方ニ會ツテ、意見ヲ聞イテ見タイト思ツテ居タ処デアツタ 」
ト言ヒマシタ。
私ハ安藤ニ栗原トノ会見顚末ヲ話シタ上、
「 自分ハ反對ダガ、君ハ何ウ思フカ。重大ダカラ、御互ニ腹ノ底ヲ打明ケテ、忌憚ナキ意見ヲ交換シヤウ 」
ト申シテ話ヲ始メマスト、安藤ハ先ヅ
「 貴方ガヤツテ居ル、海員、農民、労働、大衆、郷軍各方面ノ民間運動ハ何ウナツテ居リマスカ 」
ト質問シマスカラ、私ハ
「 僕ノヤツテ來タ運動方針ノ民間運動ハ順調ニ運ビ、漸ク其ノ緒ニツイタ処ダ 」
ト答ヘマスト、安藤ハ
「 最近若イ者ガ甚ダシク激化シ、蹶起スルト騒イデ居リ、
 自分ヲ大物ト見テカ一緒ニ立ツテクレト頻リニ催促シテ來ル。
自分トシテハ参加スルニ出來ナイ事ハナイガ、唯夫レガ善イ事カ惡イ事カニ附キ判断ガ定マラズ、
神経衰弱ニナル程考ヘニ考抜イタ結果、此間一応参加ヲ斷ツタ。・・・竜土軒の激論
夫レヲ、当時週番司令ヲシテ居タ先輩ノ野中大尉ニ其ノ旨ヲ話シタ処、
野中大尉ヨリ
「 今起タナケレバ、天誅ハ却テ我々ノ頭上ニ下ル。何故貴様ハ斷ツタカ。
 今俺ガ週番ダカラ、此機会ニ今週中ニヤラウデハナイカ 」
ト甚イ勢デ怒ラレ、自分ハ恥カシイ思ヒマシタ。
此様ナ空気デ、下士官 兵ナドモ相当強ガリヲ言ツテ居リ、到底此儘デハ済マヌト思フ。
實ハ、自分ハ最近若イ者ヲ聯レテ、
聯隊ノ先輩デアル山下少将ノ処ヘ行ツテ話ヲシテ貰ツタガ、却テ刺激サレテ帰リ、
或少尉ノ如キハ、其ノ晩速非常呼集デ警視庁襲撃ノ豫行演習ヲシタ様ナ始末デアリ、・・・昭和維新・常盤稔少尉
自分トシテハ本心ニ副ハヌケレドモ、
参加セネバナラヌ絶体絶命ノ立場ニ置カレテ居ルノデハナテカト思ツテ居ル。
又、今迄ナラバ
誰カガ貴方ニ告ゲルカ、貴方が嗅付ケルト抑附ケテ來タガ、
今度コソハ、何ウシテモ抑ヘガ利カヌ程度迄進ムデ居ル様デアル。
若シ貴方ガ今迄ノ様ニ考ヘテ抑附ケテ゛モスレバ、却テ大変ナ事ニナリ、
誠ニ申難イ話デハアルガ、貴方ヲ殺シテデモ前進スル様ナ事ニナルカモ知レヌト思フ。
私ハ貴方ニ此事ヲ告ゲタリ、又貴方ノ意見ヲ聞ク爲ニ一度會ヒタイト思ツテ居タ 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ、シンミリト落着イテ話シマシタ。
私ハ野中大尉ハ知リマセヌガ、聯隊ニハ飛ムデモナイ急進分子ガ居ルナト思ヒマシタ。
安藤ノ話ヲ聞イテ居ル間ニ、
今迄頼リニシテ居タ安藤が大体決心シテ居ル様デアリ、
少ナクトモ同意セネバナラヌ立場ニ置カレテ居ル様デアル事ヲ知リ、
斯クテハ、我々一人二人ノ力デハ到底抑へ切レナイ所迄情勢ガ進ムデ居ルト思ヒマシタノデ、
安藤ニ對シ
「 君モヨク知ツテ居ル通リ、理論方針トシテハ直接行動ニハ絶對ニ反對ダ。
 若シ諸君ガ蹶起スレバ、常カラ一味ト見ラレテ居ル位ダカラ、事實関係ノ有無ニ拘ラス唯デハ済マヌ。
當局及世間ハ或程度ノ責任ヲ自分ニ冠ラセルガ、之ハ已ムヲ得ナイトシテモ、
サウナルト今迄孜々ししトシテ力ヲ濺イデ來タ自分ノ運動方針ハ、根底カラ打壊サレ、撲滅シテ了フ。
自分ハ抑ヘテ殺サレル事ハ厭ハナイガ、事態ガ其処迄進ムデ居レバ、結局ハ抑ヘテモ駄目ダラウ。
蹶起ノ主タル原因ハ、渡満ヲ動機トシテ国体明徴ノ様ニ聞イテ居ルガ、
満洲ニハ匪賊跳梁シ、ロシアハ共産主義国ニシテ北支亦悪化シ、今や満洲ハ實ニ重大ニシテ危険性ヲ増シ、
日露関係愈々切迫セル此際、渡満シテ彼地ニ骨ヲ埋ムルハ軍人ノ本望ナルベキモ、
海軍ノ藤井少佐ガ上海出征前後ノ心情ヲヨク知ツテ居ル自分トシテハ、
諸君ト主義方針ハ異ナルモ、
事ノ善悪ハ別トシテ、諸君ガ今蹶起セムトスル気持ハ、十分ニ諒解スル事ガ出來ル。
自分ハ、諸君ニ思止ツテ貰ヒタイトハ思フケレドモ、
此情勢デハ抑ヘテ抑ヘラレヌカトモ思フカラ、モウ抑ヘハシナイ。
君ハ国家ノ爲ニナルカ否カ、善イカ惡イカト云フ點ヲヨク考ヘ、最善ノ途ヲ選ムデ貰ヒタイ。
諸君ガヨク考ヘタ末ヤルトナレバ、自分ハ自分個人ヲ犠牲トスルヨリ外ナイノデ、運ヲ天ニ任セル。
兎ニ角、更ニモ一度考直シテクレ 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ申シマシタ処、
安藤ハ、
「 ヨク判リマシタ 」
ト言ツテ歸ツテ行キマシタ。

安藤ト会見シタル結果、
抑止不可能ノ情勢ニ在ル事ヲ確信シタカ。

左様デアリマス。
安藤ハ栗原ト余程違フ所ガアリマスノデ、
安藤ニハ大ナル期待ヲ掛ケテ居タダケニ、
其ノ話ヲ聞イタ結果ハ、
モウ抑ヘルニ抑ヘラレヌ情勢ニナツテ居リ、之ハ駄目ダト感ジマシタ。

斯カル情勢ノ下ニ於テ、安藤が被告人ノ意見ヲ聞キタイト思ツテ居タト云フノハ、
参加シテ蹶起スルノガ善イカ惡イカノ判断ニ迷ツテ居タノデ、
其ノ決心ヲ附ケル爲ニ來タノデナイカ。
安藤トシテハ、
周囲ノ空気ガ険悪ニナツタガ、
或ハ同志ヲ裏切ツテ何トカスル方法モアルガ、夫レハ従来ノ關係カラ出來ナイノデ、
愈々絶体絶命ノ立場ニ置カレ迷ツタ爲、
決心ヲ附ケルベク考ヘテ來タカモ知レヌト思ヒマスガ、
又、私ガ力ヲ入レテ居ル民間運動ノ方ガ何ウナツテ居ルカ、
其ノ状況ヲ聞キ度カツタモノト思ヒマシタ。

安藤ニ考直シテクレト言ツタトノ事ダガ、
安藤トシテハ既ニ考直ス餘地ハナカツタノデナイカ
私ハ安藤ニ、更にモ一度考直シテクレト申シマシタガ、
肚ノ中デハ、安藤ハ最早考ヘル餘裕ハナカラウト思ヒ、同人ニ期待ヲ掛ケズ、諦メテ了ヒマシタ。

・・・第二回公判 から
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リンク
・ 
西田税 「 今迄はとめてきたけれど、今度はとめられない。 黙認する 」 
・ 西田税 「 私は諸君と今迄の関係上自己一身の事は捨てます 」 


靑年將校の國體論 「 大君と共に喜び、大君と共に悲しむ」

2018年01月15日 20時56分19秒 | 國家改造・昭和維新運動

靑年將校の國體論
上、天子のもと、下、万民が平等なるべしというもの
村中孝次は
「 我国体は上に万世一系連綿不変の天皇を奉戴し、
この万世一神の天皇を中心とせる全国民の生命的結合なることにおいて、
万邦無比といわざるべからざる。
吾が国体の真髄は実に玆にぞんす。
天皇と国民と直通一体なるとき、
日本は隆々発展し、権臣武門両者を分断して専横を極むるや、
皇道陵夷りょういして国民は塗炭す。
全日本国民は国体に対する大自覚、大覚醒を以て
その官民たると職の貴賤、社会的国家的階級の高下なるとを問わず、
一路平等に天皇に直通直参し天皇の赤子として奉公翼賛に当り、
真に天皇を中心生命とする渾一的こんいつてき生命体の完成に進まざるべからず」
リンク→ 続丹心録  「 死刑は既定の方針だから 」 
と書いているが、
その思想は、
日本の国体は一天子を中心として万民一律に平等無差別である、
とするのであるが、
それは天皇と国民の精神的結合を示すものである

革新将校の思想系譜
軍における革新運動は、その発生よりみて、二つの流があった。
その一つは、隊付青年将校のそれであり、
他の一つは、大体において中央部幕僚のそれである。

青年将校運動は、
すでに大正の末年から昭和の初頭にかけて、
北一輝の 『日本改造方案大綱』 を聖典として、
これが実現をもくろんだ西田税によって、青年将校に働きかけられ、
ようやく一つの同志結集にまでいたっているが、
それは、あくまで隠密潜行的なものであり、軍当局の許容するものではなかった。

ところが、
昭和五年に入ると、時局に刺戟せられた軍中央部一部幕僚の手によって、
国家改造を研究しこれが実現を期そうとする一つの結集ができた。
これが昭和五年十月東京にできた「桜会」である。
この動きには、軍当局は黙認のかたちをとったので、こうして論議が表面的に行われ、
あたかも陸軍は国家改造を志すやに見られた。
もともと
桜会は国家改造に志あるものを求めたので、
ここにはすでに西田により思想的啓蒙をうけていた青年将校も参加した。
したがって
桜会は思想的にはバラバラで統一あるものではなかったが、
大体において、
急進的な数名の幕僚がこれをひきまわしていた感があり、
そこでの論議も改造政策を討議するのではなく、
時局の悲憤慷慨に終始していたといっても過言ではない。
はっきりいえば、
発起者 ( 指導者 ) たちによって、
真に国家改造に挺身しうる人材を物色しようとするものであったともいえる。
だからそこには改造政策の具体策はなかった。

桜会を背景として十月事件が計画されたが、
それは武力革命そのもので、
その権力的な行き方に批判的な青年将校群はこれから脱落していく。
しかし、
この桜会から十月事件に発展する過程において、
一部有志幕僚により国家改造政策が研究され、これから統制派へと発展していくのである。
のちに統制派といわれた一部有志幕僚の改造政策研究への志向は、
この十月事件が破壊をこととし、破壊後の建設に何等の案を持たなかったからである。
もともと統制派幕僚は、
合法、非合法いずれにしても、改造案なくしてことの成功するものでないことの自覚から、
改造案の立案に積極的に進んでいったのである。
この統制派の合法的改造策が発展して
昭和九年秋の広義国防論の主張となって、
一応、軍の革新政策として表面化されるにいたった。
これが有名な 『 国防の本義とその強化の提唱 』 である。

そして、
軍のもつ革新政策の基礎は、国防的観点に立つことが闡明せんめいされた。
本来、
青年将校の革新運動は国家の革新、それ自体を目的としたものであったが、
幕僚は、もともと、国防政策の担当者であることから、
その国家改造の基底は 「 国防 」 にあった。
国防上の必要にもとづく国家改造であったことは銘記されねばならない。

二・二六事件は青年将校が維新革命を企図して失敗した歴史として理解される。
それにまちがいはないが、
しかし彼らは重臣殺傷はしたが、
その武力を背景に自ら国家改造を行なおうとしたものではなかった。
重心殺傷によって国民に一大警鐘を乱打し、陸軍を説得し、
陸軍が維新の主体となって国家改造にのぞむことを求めようとしたものであった。

いわゆる寺内粛軍はきびしかったが、
青年将校にかわった幕僚群は革新の気鋭するどいものがあった。
軍は自ら革新政治の責任者たることを嫌った。
そこに 「部門政治」 への遠慮があったからだ。
かくて
庶政一心をもって政府を鞭撻推進することになった。
この場合、
推進する政治とは名は 「革新」 というが、
実は革新自体はその目的ではなく目的は 「国防」 にあった。

 西田税
国家改造案
陸軍に国家革新の 「種」 をまいたのは、西田税であり、
そのまかれた革新の 「種」 は、
北一輝の 『 日本改造方案大綱 』 であったことは、今日あまねく知られている。

西田が、昭和二年七月 「天剣党」 の組織を企図し、
かねてから培養しておいた
隊付青年将校たちに天剣党規約を配布したが、
その中の戦闘指導要領には、
「 天剣党は軍人を根基として、
あまねく全国の戦闘的同志を連絡結盟する国家改造の秘密結社にして、
日本改造方案大綱を経典とせる実行の剣なりとす」
と示していた。
リンク
・ 天劔党事件 (1) 概要 

・ 天劔党事件 (2) 天劔党規約 
天剣党は軍当局の弾圧によって結盟に至らなかったが、
西田税はこの改造方案を以て
青年将校に働きかけ、これを啓蒙し指導し、多くの同志を獲得したのである。
したがって、
のちに皇道派といわれた青年将校の一群には、北一輝のこの革命法典が生きていた。
しかし、
皇道派青年将校のすべてが北一輝の革命法典を身につけていたということはできない。
少なくとも、
この青年将校運動の指導的地位にあった人々、
ことに二・二六事件の首謀者たちは、
この革命の法典を通じて国家改造の理論を与えられたとみることができる。

たしかに
この蹶起の首謀者たちの間には、あるいはそのままに、
あるいは彼らの思考を通じて消化され、北の改造方案が、その身にしみついていた。
なかでも
その首謀者の
一人磯部浅一は、
改造方案こそ革命をはかる尺度であり、
一点一字の修正を許してはならないといった改造方案絶対信奉者であったし、
また同じ村中孝次は
改造方案をよく読みこなし、よく消化し、その理論をさらに自らの手で発展せしめていた。
ともかくも、
彼らの二・二六事件謀議では、
改造方案そのものをもって建設の具体案とすることは、同志間の議題はのぼっていないので、
この蹶起には具体的にこの案によって建設工作を進めようとしたものでないことはたしかだが、
しかし、政治にせよ、経済にせよ、教育文化にせよ、
今日の弊害を改善刷新するためには、どんな制度や運営がなさるべきかは、
誰にも考えられており、
そして、こま場合彼らの思考に占めたものは、まず北の改造方案だったといつてよいであろう。
なぜなら、
北の改造方案はこれらの青年将校たちにとっては、
その血肉となっていたと見られるからである。
ともかくも
北一輝が、西田税を通じ、その改造方案の思想を、
青年将校に定着せしめたことは事実であるが、
彼が直接に、青年将校の思想啓蒙にあたったという事実はない。
もちろん、
古くからの青年将校運動に挺身してきた、村中孝次、磯部浅一、安藤輝三、栗原安秀といった、
この事件の首謀者たちは、北一輝の謦咳けいがいに接したことはあるが、
いわゆる皇道派青年将校の大部、ことに年少の中少尉クラスは、
ほとんど、北の名は知っていても、その改造方案を手にしたことはなかった。
ただ、
これらの思想的先達によって、その啓蒙をうけたとみるべきである。

それにしても、北の改造方案が軍に与えた影響は大きい。
青年将校運動の基礎は、この書の普及によってなり、
軍はこれがために、
青年将校運動という爆弾を、うちにかかえることになったからだ。
北が、のちにこの事件に連座して捕えられ、死刑の判決をうけ、
刑死二日前、弟、北昤吉が会ったとき、
わたしはこの事件に何ら関係はしない。
しかしわたしの書物を愛読していた連中がやったので、
責任を問われれば責任を負う。 
もし、ぼくが無罪放免になっても、他の諸君のあとを追うて自決する
と 語った といわれるが、 ( 北昤吉 『 風雲児北一輝 』 )
これこそ、北一輝の自著 「 日本改造方案大綱 」 に対する、きびしい責任感であろう。

その改造方案が軍にもちこまれたのは、
西田が、北より改造方案の版権を得た大正十五年囲碁のことであるが、
その後西田の手によって、
ずっと精力的に、軍隊工作が行なわれたかというと、そうではなかった。
天剣党事件による軍の弾圧もあり、
その後は軍の警戒監視のもとに細々とつづけられていたにすぎない。
だが、国家革新のあらしは、昭和七年頃より激化し、
これにつれて西田の青年将校との接触もしげく、その彼の働きかけも活発となった。
しかし、その西田の青年将校への接触面は、直接に拡大されることなく、
旧来の同志を通じての運動の拡大であった。
これがため、たとえば、二・二六に蹶起した二十名の将校についてみても、その大部は、
北のこの革命の書は開いていなかった。
いわば、
若い隊付将校は
『 改造方案 』 によっては国家改造への意欲をかりたてられてはいなかった。
彼らはその軍隊教育を通じて社会悪、政治悪を実感し、
そこから国家改造へと志向していったのである。


北一輝

青年将校は 「国体」 にコチコチに固まっていたといわれるが、
彼らはそこにどんな国体観をいだいていたのか、
そしてその国体観からどんな政治が行われるべきだ、と確信していたのだろうか。
彼らはいう。
一君万民、
国民一体の境地、
大君と共に喜び大君と共に悲しみ、
日本の国民がほんとうに、
天皇の下に一体となり
建国の理想に向って前進することである
( 『 青年将校運動とは何か 』 昭和十一年三月 「日本評論」 所載 )
だが、
その言葉は抽象的で真意をとらえがたいが、
おおよそ、一君万民、君民一体という表現は、
当時、青年将校も、日本主義右翼も一致してとなえられていた理想の政治形態であるが、
さて、その一君万民、君民一体の政治とは何か。

日本主義者はこれを、
「 一君万民、君民一体の大家族体国家、上大御親、絶対、下万民赤子、平等、
そこには、一物一民も私有支配する私なく、
したがって、天下億兆皆そのところを得、万民一魂一体、
ひたすら君が御稜威みいつの弥栄いやさかを仰ぎまつろい志向帰一する皇国体 」
といい、
また、あるものは
「 一刻一家、天皇のもと共存共栄、無階級、無差別の社会、
それは、また、われわれ人間社会の理想形態であり、かつ、その本然の姿である。
天皇の下における
強力な国家主権と国民各自の自治的精神との完全なる調和による
強力一致の健全な国家統制機関を確立することである 」
とも説いていた。
そのどれもが原理的な抽象的解説で、一君万民の政治の具体的な姿は示されていない。
だが、青年将校が天皇とともに喜びともに悲しむという一体観、
そこでは一君を中心とした国民の結集であり、
そこに君と国民との間には、なにものをの介在を許さないもので、
国民は無差別、平等に天皇に直参するものであることを表現して
天皇に一切をささげる国民が、
天皇の御声のままに、翼賛する政治の体制を、理想としていたといえよう。

はなはだ漠然としているが、
では、どうすれば、このような理想形態に導きうるのか。
彼らは現支配機構を否定するのではなくて、
現支配機構を支える悪者をとりのぞき、
これに代って人徳髙い補翼者を天皇の側近におきかえ。
同時に全国民に維新への感動を激発すれば、
ことはなるとしんじていたようである。
これが二・二六事件の思想的根基であったわけであるが、
それにしても、
この一君万民の原理は、外形的にみれば、明らかに徹底せる日本的社会主義、
あるいは国体的社会主義、
かの近衛のいう天皇共産主義といえないではない。
ことに、さきにいう日本主義者の ”無差別、無階級の社会”
あるいは、”万民平等にして、そこには一物一民も私有支配なき社会”
というに至っては、明らかに原始共産主義にちかい。
だが、青年将校たちは、極度の精神主義者であるので、
結局は国民個々人の精神革命を強調したものと思われる。

ここで、われわれは、
一つの不思議な現象に目をみはる。
それは
右のような国体観をもつ彼らが、
その指導の書とした北一輝の 『改造方案』 に流れる、
北の 「高天ケ原式国体観」 の否定、
日本国をもって天皇を政治的中心とする近代的民主国だという不思議さである。

北一輝の 『 改造方案 』 を一読すれば、その思想根柢に、
民権主義、社会主義それに国権主義のさまざまが入り乱れているように思われるが、
北の思想は、彼が二十四歳で著わすところの 『 国体論及純正社会主義 』、
三十五歳の 『 支那革命外史 』、
それにこの 『 日本改造方案 』 の 三部作を通ずることによって明瞭となる。
その 『 国体論及純正社会主義 』 は、
北にしたがえば
「 若気の強がり 」
であったというが、そこに流れる思想は何か。
大川周明は
北の社会主義はマルクスの社会主義でなく、
孔孟の 「王道」 の近代的表現だ
とかいているが、 ( 『 北一輝君を億う 』 ) 
そこには、
「 万国社会党大会の決議に反して、
日露戦争を是認し、全日本国民の輿論にこうして国体論を否認す」
と 宣言して、
有賀長雄、穂積八束、美濃部達吉らの、家長的国家論、万世一系論、
不徹底なる天皇機関説のことごとくを痛撃し、
論鉾は、金井延、丘浅次郎、一木喜徳郎、山路愛山、安部磯雄から
ダーウィン、マルクスにも及び、
資本主義の害悪を攻撃し同時に「平民主義」をも否定している。
そして当時における国体論を徹底して罵倒するところは奇矯に近い。
いわく、
「 明治憲法における天皇
――白痴にして低腦なる現代学者どもの国体論者の神輿みこしの中に、
安置されたる天皇は、真の天皇にあらず、
国家の本質及法理に対する無知と、新道的迷信と、
奴隷道徳と、転倒せる虚妄の歴史解釈を以て捏造せる土人部落の木偶 」
だと。
そしてまた、
「 世の所謂国体論とは決して今日の国体論にあらず、
また過去の日本歴史にもあらず。
明らかに今日の国体を破壊する反動的復古的革命主義 」
といい
当面の国体論の打破を叫びつづけている。
明らかに復古的高天ヶ原的国体論の徹底した否定である。

青年将校がその武窓でたたきこまれた国体論を、
寒膚なきまでに痛撃論難したこの国体否定論者を、
彼らはやすやすと受け入れている。
村中は、その改造方案を、
「 社会主義乃至デモクラシー万能の徒が我が国体の尊厳性に目をおおい、
いたずらに理想社会を欧米の学説に求めんとするに対し、
”日本国こそ本質的に爾等の求める理想社会の国なり” 
と 説き聞かせたる者なり」 ( 『 丹心録 』 ) リンク→
村中孝次 ・ 丹心録 
といい、
また、磯部も
「 北氏は著書 国体論において、
本書の力を用いたるところは、いわゆる講壇社会といい、
国家社会主義と称せらるヌエ的思想の駆逐なり 」 ( 『 獄中手記 』 ) リンク→獄中手記(三) 一、北、西田両氏の思想
と 書き、
それぞれ北の思想を弁護している。
これを、私は一見不思議といったが、それは不思議でも何でもない。
北の思想には、尊皇思想もあれば、強い国権主義も、
また、はなはだしい民主主義もあるが、それがときに刺激に応じて表現されている。

青年将校は北の強い尊皇思想を確認した。
さきの磯部は言う。
「 氏の日常
”自分は祈りによって自らを救うのだ”
”日本は神国である”
”天皇の御稜威に刃向うものは滅ぶ”
等の言々句々は、
すべて、天皇に対する神格信仰
の あらわれであります」 ( 『 獄中手記 』 ) リンク→獄中手記 (三) の一 ・ 北、西田両氏の思想 
彼は北の尊皇心をうたがわなかった。
北は改造方案に天皇を規定していて、「 天皇は国民の総代表なり 」 とし、
日本国は 「 天皇を政治的中心とした近代的民主国なり 」 としている。
それはその頃やかましかった美濃部博士の天皇機関説以上の進歩的なものだったが、
彼は一面、天皇を国民親愛尊敬の中心としてとらえ、
「 日本の皇室は、いうまでもなく国民の大神であり、
国民はこの大神の氏子である 」 ( 陳述書 )
「 日本の国体は一に天子を中心として、万民一律に平等無差別である 」 ( 同上 )
と いっている。
ここに青年将校は彼の尊皇愛国を信じ、
安心してその天皇機関説いじょうのものに魅了されていた。
そこでは、
青年将校は一君万民の原理は、
全国民が天皇に一路平等無差別に直通直参するものであり、
それは決して北のいう国体原理に矛盾するものではなかった。

青年将校は国家改造の理念ないし政策といえば、大げさだが、
彼らが国家改造を思念するかぎり、そこにどんな構想をもっていたか。
「 日本国内の状勢は明瞭に改造を要するものがある。
国民の大部分というものが、経済的の疲弊し、経済上の権力は天皇に対して、
まさに、一部の支配階級が独占している。
時として、彼らは政治機構と結託して、一切の独占を弄している。
それらの支配階級が、非常に腐敗している状態だから、承知できないのだ 」
という。 ( 『 青年将校運動とは何か 』 ) 
いまの世の中は、一部支配階級、それは資本階級が経済上の権力を、
そしてまた政治をも壟断している。
いわば、今日は金権政治であり、これが政治の腐敗をきたしているのだ
というのである。

そこで、政治の腐敗が金権政治にあるとすると、
その経済における彼らの改造理念ないし政策はなにか。
「 今日の資本主義経済機構は明瞭に否定する。
今日までのいわゆる資本主義経済組織、
明治維新の時に取入られた富国強兵の資本主義というものは、
過去においては、有力な働きをしていたが、
いまや、その役目を果たし、
だんだん破綻して、何らかの新しき形式に移りつつあるということは、
支配階級ですら、何らかの形で是正せんとしているのでわかる。
だが、今日の資本主義の組織権力というものを根底としている、
統制経済主義には明瞭に反対だ。
われわれは今日の資本主義組織というものを打破するためには、
少なくとも三大原則があると信じている。
大資本と私有財産と土地と、この三つの部門というものが、
今日、資本主義経済の三つの大きな因子であると思うが、
この因子に根本的終生を求めねばならぬ。
先ず大資本を国家の統一に帰する。
私有財産を制限する。
土地の所有を制限する。
この三つである」 ( 『 
青年将校運動とは何か 』 )
そのいうところは、表現が正確でないので真意の捕捉に難渋するが、
資本主義を否定するかぎり、社会主義を受容するものともとれる。
だが、それは北一輝の改造方案そのものである。
北の改造原理の根本を流れるものは、金権政治の打破にあった。
「 現在の日本はその内容は経済的封建制度とも申すべきものであります。
三井、三菱、住友等を、往年の御三家にたとえるならば、
日本はその経済生活において、
黄金大名らの三百諸侯によって、支配されているとも思われます。
したがって、政治の局に当る者が、政党にせよ、官僚にせよ、軍閥にせよ、
それらは表面とは別に、内容は経済的大名らすなわち、
財閥の指示によって在立するものであります。
金権政治は、いかなる国の歴史も示す通り、
政界上層はもちろん、細末の部分にわたっても、
ことごとく、腐敗堕落を暴露することは、改めて申すまでもありません。
国内の改造方針としては、金権政治を一掃すること、
すなわち、御三家はじめ三百諸侯の所有している富を、
国家の所有に移して国家の経営となし、
その利益を国家に帰属せしむることを第一といたします」 ( 『 北一輝 調書 』 )

この北の金権政治の打破こそ、
その改造方案の大眼目であった。
試みにこの法案をひらけば、
「 巻一、私有財産の制限」、
「巻二、土地処分の三則」、
「巻三、大資本の国家統一」
とある。
この三つが、改造方案のもっとも重要な部門であるがそれは、
さきの青年将校の改造策と全く符節を合している。
北の改造方案は、ここに、青年将校に定着している観がある。
しかし、
北のこの策案をもって、彼を社会主義革命を志したものとはいえない。
彼は大資本を抑制し、私有財産を制限し、私有地に限度を設けたが、
その私有財産の尊重をも忘れてはいない。
「 限度を設けて私有財産を認むるは、
一切のそれを許さざらんことを終局の目的とする諸種の社会革命説と社会
及び人生の理解を根本より異にするを以てなり。
古人の自由なる活動または享楽はこれをその私有財産に求めざるべからず。
貧富を無視したる画一的平等を考えることは、
誠に社会万能説に出発するものにして、ある者はこの非難に対抗せんがために、
個人の名誉的不平等を認むる制度をもってせんというも、
こは価値なき別問題なり。
人は物質的享楽または物質的活動そのものにつき画一的なる能わざればなり。
自由の物質的基本を保証す」 ( 『 改造方案 』 私有財産制限の註 )

したがって、彼はマルクス社会主義者ではなかった。
彼は自ら 「社会主義」 というも、
それは彼、独自のそれであって私有財産を否認する共産主義ではなかったし、
また、資本主義を全面的に否定することなく、
これが抑制を試みた修正資本主義者であった。
だからこそこの思想と軌を一にする青年将校の思想も、
また、まったくの社会主義思想というわけにはいかないのではなかろうか。

大谷啓二郎著 軍閥 より


「 軍刀をガチャつかせるだけですね 」

2018年01月13日 03時52分16秒 | 大蔵榮一

ある夜
西田宅で私と彼と二人だけの懇談のときであった。
西田税 
君は武力行使をどう思っているのか
と、彼が突然質問を発した。

無暴に行使すべきではないと思います。
だが、何れはやらねばこの日本はどうにもなりますまい。

僕の理想は武力行使はやらずに維新が断行されることにある。
それは出来ない相談ではないと思っている。
蹶起すべき時には断乎として蹶起出来るだけの、協力な同志的結合の下にある武力、
その武力をその時々に応じてただ閃かすことによってのみ、
悪を匡正しつつ維新を完成してゆく。 つまり無血の維新成就というのが理想だ。

軍刀をガチャつかせるだけですね。

そうなんだ。ガチャつかせることは単なる、こけおどしではいけない。
最後の決意を秘めてのガチャつかせでなければならぬことは、もちろんだがね。

私もそう思います。だが、若い連中に無血が理想だなんてことを、
少しでもにおわしたら、それこそ大変ですよ。

もちろんそうだ。しかし、そういう考えを胸中奥深く秘めて、
僕は若い連中に対処したいと思っている。

大蔵栄一  ・・から


昭和十年大晦日 『 志士達の宴 』

2018年01月10日 11時42分59秒 | 靑年將校運動


大岸が目をかけた男に中村義明という人がいる。
昭和三年の三・一五事件で検挙された共産党の闘志であったが、
獄中で転向し、遠藤友四郎の 「 天皇信仰 」 を読んで、国体の尊厳を自覚したと言っている。
昭和九年に 雑誌 「皇魂」 を発行し、主として陸海軍の軍人に配った。  リンク→
皇魂 1   皇魂 2 
原稿は主として大岸が執筆し、資金援助もしたらしい。

翌十年二月に東京に移り、
西田や大蔵の援助もうけて大々的な啓蒙活動をすることになった。
ところが ふとした機会で、津田英学塾出の才媛と知りあい、十月一日、めでたく結婚式をあげた。
それまでのいきさつは 大蔵の 「 二 ・二六事件への挽歌 」 に詳しく出ている。
  リンク→
中村義明 ロマンス実る 

その年の十二月三十一日、
中村義明の新婚早々の家に、
大岸をはじめ 林 ( 正義 )、伊東亀城 ( 五 ・一五事件の関係者 )
それに安藤、村中、磯部、澁川 ら、    ( ・・・三名 ?)
有志の面々が集まり、飲むほどに酔うほどにすっかり座が乱れて大宴会になった。

ふと  ただならぬ気配になってきた。
大きな声のやりとりが聞こえてくる、
一人はどうやら中村らしい、
新夫人の よし はこの時のありさまを こう書いている。
「 その論点が西やら東やらさっぱりわかりませず、さりとて平静ではいられず、
 襖に手をかけはしたものの、何かこだわりがあって、すっと開けることも出来ず、
全神経を部屋の気配に集中してのまま立ちすくんで居りました。するとその時、
「 ようし、斬る ! 」
「 斬れ ! 」
思わず、さっと襖を開けて部屋の中を見て、これは驚愕、声も出ずただ茫然と棒立ちになってしまいました。
どなたかが ( 多分澁川氏であったと記憶します ) 木刀を大上段に振り上げ、
あわや一討ちという瞬間だったのです。
あの木刀が力をこめて打ち降ろされれば、胸を張って正座している吾が背の君は、
悪くすれば 昭和十年十二月三十一日を一期として相果てるところだったのです。
斬る、斬れといっても木刀でのこと、大事はなかったとも考えられますが、
これは今にして思えることであって、
当時のあの方たちの真剣な思いは本当に命を賭けていたと思うのです。
木刀を振り上げた人の良識を信じたものか、そもありんと解釈したものか、
一座はシーンと静まり返って、誰一人止めだてする人もないのです。
この呼吸のつまりそうな数瞬、女房たる者全く生きた心地はありませんでした。
「 アハハハハハ ! 」
と、突然の笑い声、
「 どっちが正しいかは後世の史家がきめてくれるよ 」
の 声に一座の緊張は急にほぐれ、
木刀は事なく静かに降ろされ、正座の主も生命に別状なく、
吾が麹町の家も惨劇の家とならずに済んだ次第でした。
この時の氏神は、誰あろう大岸氏その人であったのです。
将にタイミングのよい一喝であったと言うべきでしょう 」
・・・・・追想・大岸頼好 中村よし 手記

国家の革新に生命を賭けた、その頃の有志たちの真剣な気魄と、
大岸の包容力に富んだ人柄を、心にくいまで浮彫りした一文である。
「 ぼくもうこの時は羅南に赴任していていなかったから、何とも言えないが、
木刀を振り上げたのは澁川でなく、磯部ではなかったろうか。
磯部なら酔うとよく刀をふりまわす癖があったからだ。
立川文庫流にたとえるなら、磯部はさしずめ塙団右衛門という所だろう、
とにかく直進する猛将型という点でよく似ていた。・・・・」
・・・・大蔵栄一
« 西田税
對馬勝雄  も この宴に居た »
西田税 ・ 金屏風への落書 
・・・・大蔵栄一
須山幸雄 著  二・二六事件・青春群像 から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

« 末松太平大尉もこの宴に居た »
この年の年末から年始にかけて私は東京に出た。
大晦日には中村義明の家で大岸大尉、澁川善助、伊藤亀城に会った。
中村義明に会ったのは、これがはじめてだった。
大阪時代から 『 皇魂 』 を 通じて知ってはいた。
『 皇魂 』 は 中村義明が主宰する月刊雑誌だったが、
大岸大尉がその大半の頁を埋めていたことは、聞かなくても、文章の癖でわかっていた。
中村義明は 元は有力な共産党員だったが、
この少し前から大岸大尉らの仲間にはいっていた異色る存在だった。

『 皇魂 』 には 「 皇室の御式微 」 という表現が目立った。
大内山の松の緑がいかに色あざやかにみえようとも、
民に生色なしとすれば、それは単なる虚飾としか目にうつらないというわけだった。
皇城にたちこめる瑞雲も、皇室と国民との間をさえぎる妖雲とかわるというわけだった。
民のかまどの衰えの上に、皇室の繁栄はありえない。
尊皇とは同時に民のかまどをにぎわすことである。
かつて、民のかまどのにぎわいのために、その障害となる最大拠点を打倒すべく、
皇城に牙をむけた共産党有力メンバーは一転して、
現実にみるものとはちがった。
宮垣の壊れ、殿屋の破れを瞼のうらにうつして、南朝の悲歌を昭和の代に詠うのだった。
しかり、『 皇魂 』 は 悲歌調だった。
しかし、そのなかから、一人も飢えこごゆれば顧ておのれを責めた、いにしえのひじりのきみの大御心を今に体して、
妖雲を打ち払う革新の情熱を噴騰させようとしたのである。
村中孝次の遺詠の一句
「 尊皇義軍一千兵  欲除奸害払妖雲 」 ・・< 註 1 >
が それである。

私が麹町元園町の中村義明の家にいったのは、夜もかなり更けたころだった。
もう皆は、たわいもなく酒に酔っていた。
それでも除夜の鐘の鳴るのを聞くと、澁川はすっくと立ちあがり、
青年たちと明治新宮に初詣でを約束してあるからといって出ていった。
残ったものは依然、狭い部屋で歌を歌ったり、悪たれをついたりして、惰性のように酒をくみかわしていた。
酔いの遅れた私は、この雰囲気に容易に溶けこめなかった。
どれほど時間がたったかわからなかったが、
意外に早く 澁川が帰ってきて、いただいてきた明治神宮のお札を皆にくばった。

夜の白々と明けそめたころ、私は澁川と中村義明の家を出て、西田税の家へ向かった。
酒いきれ、人いきいれのなかから出ただけに、睡眠不足ながら、元旦黎明れいめいの寒気がかえってさわやかに感じられた。
二・二六事件のあった昭和十一年の元旦はこうして明けた。

昨年の元旦は、相澤中佐、大岸大尉と一緒に、仙台の宿で迎えたのだった。
年越しのそばを相澤中佐と二人で、行きずりのそば屋で食べたとき、
相澤中佐は、
「 末松さんと一緒に年越しそばを食べるのだから、来年はいい年だぞ 」
と 目を細めてたのしそうにいったが、
その人はこのとき 未決の獄に、ひとり端坐して元旦を迎えていたことだろう。
末松太平 著
 私の昭和史 から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
< 註 1 >
尊皇義軍一千兵  欲除奸害拂妖雲
雪霏々降白旗揺  願神州從是維新
村中孝次の絶筆
・・・香田清貞大尉の奥さんの手料理のチキンライスはうまかった ・・参照


核心 ・ 竜落子 『 時局寸観』

2018年01月08日 10時24分58秒 | 國家改造・昭和維新運動


時局寸観

竜 落 子

満洲國皇帝の御來朝
明治天皇對露宣戰の詔勅に宣ふ
---若シ満洲ニシテ露國ノ領有ニ帰セン乎 韓國ノ保全ハ支持スルニ由ナク
極東ノ平和 亦 素ヨリ望ムヘカラス---
と。
然して日本は日本自身の興廢を賭し一切をあげて戰つた。
星移り物換る玆に三十年。
當時の韓國は日本と併合して、其の大陸に於ける重要なる一地方朝鮮となつた。
當時日本と同盟の盟約を結んでいた英國、陰に陽に日本を支援した米國は、
今日日本を向ふに廻して極東制覇、從つて世界制覇に砕心しつつある。
當年勧告を攪亂しながら露國と款を通じて日本に對抗した支那は、革命を遂行して孫文之れを支配するや、
爾來彼の英米を語り 更にボルセビキ露國と聯繋し 一層烈しき抗日を繼續して來て居る。
然して彼の露國はロマノフ王政仆れてボルビキ政權を樹立したが、
其の極東侵略は宿命の如く、電燈の如く 寧ろ激化するとも一歩の退轉もない。
即ち對露宣戰當時に於ける満洲其者の 「 極東の平和 」 に對する立場は、
韓國が朝鮮となりて日本と満洲とが直接々壌するに至つた今日、
革命と共に更に凶惡化したる露支兩國と、日本を押へんとする英米が之を暗に支持擁護するに至つて居る今日、
いよいよその重大性を可とも、決し輕減していないのだ。
換言すれば前掲詔勅の 「 露國 」 は今日 「 英米を背景とし支援者とする露支兩國 」 に擴大され強化されて居る。
是れ当年 「 露國の満洲領有 」 を忌いまわしみ恐れねばならぬことである。
日本の爲め、極東の爲め、而して満洲其者の爲めに、
この凶惡なる魔手から満洲を救出し庇護し扶導する日本最上の途は、
日満の一體的發展にあること正に當然の理であり必要の事である。
已にして満洲事変あり、満洲國家なり、
而して昭和十年四月六日地球上唯一の盟邦元首として 満洲國皇帝親ら來朝して、
天皇陛下と握手の礼をなし給ふ。
誠に歴史的壮観である。
對露の血戰終つて三十年にして略々成る。

國體問題
内務當局は美濃部達吉博士の著作中二三の主要なるものを禁止處分に附した。
司法當局は博士其人を起訴すべきか起訴猶豫にすべきかを目下 「 慎重 」 に考究中だと云ふ。
文部大臣は全國管下各方面に對し、教育總監は全陸軍に對し、
「 國體は確立して居る。邪説に惑ふ勿れ、更に益々國體顯現に努力せよ 」
と云ふ訓論を發した。
相成るべくは、先づ此の程度或は稍々 やや 進んだ程度の処置を以て、
換言すればいい加減に鎮撫解決したいといふ官邊の意嚮の如くである。
元來、國體とは何ぞや。
それは單なる學説ではない。
國家の現実實としては政治的にも經濟的にも其他百般の部門に政治的經濟的其他各部門的に發現さるべく、
されてあるべき性質のものである。
國民としては此の國家の各部門に於ける其の生活行動に、國民として體現實践すべく、
して居るべき意味のものでなければならぬ。

伝へ聞く、十一月廿日事件に連座した青年將校諸君に對する當局の處分理由に曰く
「 被告人ハ我國現時ノ情勢ハ腐敗堕落セシ所謂支配階級ノ横暴ト無自覺トニ依リ
宿弊山積シ國體ノ原理タル一君萬民君民一體ノ理想ニ反スルコト甚シキモノアリ
速ニ國家ヲ改造シテ政治上經濟上等各般ノ部門ニ國體減にヲ顕セザルヘカラス爲シ 」 云々と。
これだ! 實に盡し得て妙である。
「 國體を明徴にする 」 とは、美濃部博士の著者との処分ではない。當局の訓論ではない。
誠に國體は今日の日本に維新を要求すること火の如く急なるものがある。
維新を要望するものは區々國民ではない。
三千年の國體其者が國民の魂を透し、國民の魂に命じて要求して居るのだ。
□は今日の日本が國體叛逆の思想勢力によつて左右され、國體の原理が埋没せしめられて居るからである。
例へば
元老重臣等中心思想。
議會中心主義的政黨政治思想。
資本主義、共産主義。竝に亜流として其の中に介在する所謂金融フアツシヨ、國家社會主義、一國社會主義。
官僚 ( 幕僚 ) 中心思想。
等々。凡そ是等は悉く所謂天皇機關説又はそれ以上の邪道を實践しつつある所のものである。
一般に口を開けば重臣、政黨、財閥、官僚、軍閥と云ひ、その駆逐打倒が維新の主働であると云ふ。
然らば、「 國體を明徴にする 」 ための此の國體叛逆勢力を打倒することは同時に維新であらねばならぬ。
「 機關説 」 排撃は、美濃部博士に次いで一木樞府議長へ、金森法制局長官へ、
其他同學系の諸氏へ、躍進轉戰すると共に、一切の非國體思想に進撃せねばならぬ。
これが戰ひ一たん収まる時、昭和維新の旭日は東天を染めて居るであらう。
再言する今日の國體明徴は、維新と同義語である。

・・・革新 記事の一部  現代史資料5 から


皇魂 1 ( 第二巻 第十五號 ) 十二月號 昭和10年12月20日發行

2018年01月06日 18時54分04秒 | 國家改造・昭和維新運動


みこと
いともかしこし
將校の本務
将校はその本務の遂行に於て遺憾なきや
明治十五年の 聖論は軍隊に賜りたるに非ず 「軍人」 に賜りたるもの
軍人就中將校の本務は擧げてその中に宣示あらせ給ふ
高御座
上天授國の惠に應じ御親り高御座に即かせられて天の下しろしめし給ひしより二千五百有余年
高御座とは申すも畏し天の下しろしめし給ふ御親政の御神位
「 君絶對に仰ぎ参らす天下萬民の尊皇心の上に 」 の御事である
日の本の、あめのしたの高御座
「 朕が國家を保護して上天の惠に応し祖宗の恩に報いまゐらする事を得る得ざるも」
これを祭即政---祭政一本御親政原義の大本御宣明であると拝し奉る
「汝等軍人が其職を盡すと盡さざるとに由るぞかし」
天の下日本の高御座にましまして 上天授國の恵に応じ 祖宗の恩に報いまゐらすのこと
即ち 朕が親政の可能
不可能は汝等軍人がその職を盡すと盡さざるとに由るぞかしと大御言のらせ給ふ
みこといともかしこし
「 朕斯も深く汝等軍人に望む」
と御信倚を垂れさせ給ふその望ませ給ふ御事とは何ぞ
「 天子は文武の大權を掌握するの義を存して再中世以降の如き失體なからんことを望むなり」
文武の大權御親掌これこそ 天皇御親政の大義である
朕と一心なりてその職を尽せ、然らば我國の創生は永く太平の福 ( サイハヒ ) を受け
我國の威烈は大に世界の光華ともならんと仰せ給ふ
みこといともかしこし
軍人の本務
臣民皆兵の御制なれば殊更に軍人のみを謂ふにあらねど就中軍人の本務は
「 すめらみことがその本來の高御座にましまして天の下日の本をしろしめし給ふ事
即ち文武の大權を御親掌あらせ給ふ様弥益高御座を高く仰が固み參らすこと」
軍人の生命
軍人の本務は斯に存るぞと大御言のらせ給ふ
みこともかしこし
軍人精神五条一誠のみ旨も斯の本職を守り行ふために
「 猶訓論すべきこと 」 とて宣らせ給へり
斯のみ旨を思はず今のあるべきからざる民主民生の世論政治に眩惑拘泥する軍人は最早生ける屍である
君のまします高御座をいや高め参らすることこそ國體の原理大本の教令する処であり、
これこそ内にには創生太平の福たれとの大御心に副ひ奉る所以であり、外には世界の光華たる威烈となる
日ねもす夜もすがら、高御座を弥々益々高く参らすることを念ぜざるの人は最早軍人ではない
往古軍人の本務を怠るやや
「 兵農おのづから二に分れ古の徴兵はいつとなく將兵の姿に移り遂に武士になり 」
「 兵馬の賢は一向 ( ヒタブル ) に其武士どもの棟梁たる者に歸し 」
「世 の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち 」
「 凡7百年の間武家の政治とはなりぬ 」
ああ 民主民生---高御座を荊蕀雑草の裡深くもうづもれ参らせたる大逆不忠
「 且は我國體に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき 」
臣道背離、國體原理無視の民主民政制度機構----大逆不逞
神怒りて神剣を大楠公中楠公小楠公諸々の楠公に授け給ふ
非理法権天とは國體を生活する忠義の士の至極の心境である
高御座が本來在しますべき天の下日の本の大表最高所より不逞の逆賊等によりて
荊蕀の奥深くうづもれ参らせ奉りたるを見ぬふりせる山陽の
所謂七道風を望んで豹狼を授くるの軍人等高位を盗みて天日全く昏し
かの不逞大逆妄説機關説の払拭を以て或は
「 天皇機關説排撃、國體明徴などと余り騒ぎ廻るな 」 
と云ふが如き不逞大逆の幕府庇護の随意的表白をなすが如き將軍がこの
陛下の神軍の高位に存在することが果して許されるべきであらうか
天皇陛下萬歳を以て集結さるべき軍隊教育に何を教へんとするのであらうか
岡田総理大臣が英人ビカリングに語ったと伝へらるる 
「 上からの民主政 」----「 機關説的不逞大逆 」 に協力しつつあるが如き軍人が現役に留ることが
果して許さるべきであらうか
その將軍が軍に於ける至高輔弼に座して安如泰然たるが如きは寔に神州の絶大なる不幸ではあるまいか
×   ×   ×
重ねて曰ふ
みこといともかしこし
聖論は軍人に下し賜へるもの、軍人諸公謹みかしこみて誦し奉るべし
神軍の光華はこれより発す
神軍の威烈戰力はこれより迸る
みことかしこみ敢て諸公に向ひ熱禱祈願する

雑誌 皇魂 十二月号  昭和十年十二月廿日發行 から
現代史資料5 国家主義運動2 から


皇魂 2 ( 第二巻 第十五號 ) 十二月號 昭和10年12月20日發行

2018年01月05日 18時51分56秒 | 國家改造・昭和維新運動


皇軍精神の十全徹底

發揮に直進せよ !
國体本義の明徴に斷乎徹底的に
盲信するぞ皇國軍人の本分たり
(一) 前言
「 軍隊内務書 」 は、その綱領第一に記して曰く、
『 軍ハ 天皇親率の下 皇基ヲ恢弘シ國威ヲ宣揚スルヲ本義トス 』 と
げに皇軍は、「 天皇親率ノ下 」----天皇御親裁
ノ下 「 朕ト一心ニナリテ 」 
なる神ながらの國魂を熾烈最も強く体現せる日本民族の先頭首脳部なり
皇國軍人たる者、いかでか尊き己が本分を三思、
以て皇軍精神の十全徹底發揮に直進せざるを得んや
まして劃期的皇國非常重大の今日、之が打開皇國維新----國体本義の明徴が緊切絶對事たるに於ておやである

(二) 皇軍の本義
皇軍の本義は、明治十五年一月四日、
「 陸海軍々人ニ賜リタル御勅諭 」 として輝いてゐる
『 我國ノ軍隊ハ、世々 天皇ノ統率シ給フ所ニソアル。
昔 神武天皇、躬ツカラ大伴物部ノ兵トモヲ率キ、

中國(ナカツクニ)ノマツロハヌモノトモヲ討チ平ゲ給ヒ 
高御座ニ即カセラレテ天下シロシメシ給ヒシヨリ、二千五百有余年ヲ經ス。

此間世ノ様ノ移リ換ルニ随ヒテ、兵制ノ沿革モ亦屢々ナリキ。
古ハ 天皇躬ツカラ軍隊ヲ率ヒ給フ御制ニテ、
時アリテハ、皇后皇太子ノ代ラセ給フコトモアリツレト、
大凡兵權ヲ臣下ニ委ネ給フコトナカリキ 』
『 夫れ兵馬ノ 大權ハ、 朕カ統フル所ナレハ、其司々ヲコソ臣下ニ任スナレ、
其ノ大綱ハ朕親之を攬り、肯テ臣下ニ委ヌヘキモノニアラス 』
『 朕ハ汝等軍人ノ 大元帥ナルソ、
サレハ 朕ハ汝等ヲ股肱ト頼ミ、汝等ハ 朕ヲ頭首ト仰キテソ、其親ハ特ニ深カルヘキ。
朕カ國家ヲ保護シテ、上天ノ恵ニ応シ、 祖宗ノ恩ニ報ヒマヰラスル事ヲ得ルモ得サルモ、
汝等軍人カ 其職ヲ尽スト盡サルトニ由ルソカシ。
我國ノ稜威振ハサレコトアラハ、汝等能ク 朕ト其憂ヲ共ニセヨ、
我武維揚リテ、其榮ヲ耀サハ、 朕汝等ト其誉ヲ偕ニスヘシ。
汝等皆其職ヲ守リ、 朕ト一心ニナリテ、力ヲ國家ノ保護ニ尽サハ、
我國ノ創生ハ永ク太平ノ福ヲ受ケ、我國ノ威烈ハ、大ニ世界ノ光輝トモナリヌヘシ 』
---と
即ち 『天皇親率ノ下』 「朕ト一心ニナリテ」 『皇基を恢弘シ國威ヲ宣揚スル』 こと、之皇軍の本たり
処でここに注意を喚起しておかなければならぬことは、
皇軍が 『 天皇親率ノ下 』 に在るの大權は、
断じて憲法第十一條の 『 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 』 なる 統帥大權の定めあるに基けるに非ず
憲法十一條の該規定は、却って皇軍の在るべき本義を法的に御宣示し給へるに過ぎざるものなり
皇軍は憲法にその規定があらうがなからうが本來的に 「 天皇親率ノ下」 に在るの軍隊である、
といふことを明確に理解すべきことである
何となれば、皇軍は、その本質を根本的に究きつめれば、
畏こくも 「 修理個成 」 な御實践、御まつらひ給ふ 陛下の御稜威そのものなればなり
「 朕ト一心ニナリテ 」 が不動絶對皇國軍人の根本精神で、
「 一將一兵の進止は、即ち 「 股肱 」 おのもおのもがそれぞれの地位立場より 
大元帥陛下にまつろひ志向帰一する 「 朕ト一心ニナリテ 」 であり、
あらねばならぬを本義するは、別言を以てせば一將一兵の進止そのものが即 大元帥陛下の御進止、
御稜威であり、あらねばならぬを本義とするは、實に然るが故の必然事である
而して、ここに「上官ノ命ヲ承ルコト實ニ直ニ 朕か命ヲ承ルナリト心得ヨ 」 との大御論の大生命である
かくて又ここに皇軍の 「 上元帥ヨリ下一卒ニ至ルマテ其間に官職ノ階級アリテ從属スル 」 
は、威壓支配のためのものに非ずして 「 股肱 」 おのもおのもの
大元帥陛下に まつろひ 志向帰一し奉るの體制であり、命令服從は、
その實、即ち 「 國民はひとつ心にまもりけり遠つみおやの神のをしへを 」 なる 「 一ノ誠心 」
上下一体の まつろひ のものたるの所似があるのである
* 以上の義よりにして、「 軍制學教程 」 第四章--統帥權の条章中に述べられてゐる 
「 天皇に直隷スル指揮官ノ部下ニ在ル各級ノ指揮官ハ各々其部下ヲ統率シ間接ニ、
大元帥ニ隷属ス、統帥權作用ノ系統右ノ如クナルヲ以テ上官ノ命令ハ即チ
大命ヲ代表スル モノニシテ絶對服従ヲ 要求 ス 」 といふ點は最だ不徹底、
特に傍点を附した点の表現は、寧ろ皇軍の本義を歪曲せるものといふべきなり
之を要するに皇軍の生命は、 天皇の御親帥 「 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 」 そのものである
故に從ってこの大義の--世上伝ふる偕上民主幕府的統帥大權の非議は、即皇軍そのものの否認であり、
この大義に徹せず皇軍の統帥を謂ふは、恐懼皇軍の統制を私にする 御親帥本義の冒瀆である
以上以て職るべし、現人神にして天下億兆の 大御親にまします 「 天皇親率ノ下 」
「 皇基ヲ恢弘シ國威ヲ宣揚スルヲ本義トス 」 る、
即ち皇國体の眞姿--一君萬民、君民一體の大家族体國家上大御親、絶對、下萬民赤子、平等、
其処には一物一民も私有支配する私なく、從って天下億兆皆其処を得、
萬民一魂一體只管に 君が御稜威の弥榮を仰ぎまつろひ志嚮歸一する皇國體の本義を愈々明徴にし、
皇國を在るべき本來の世界民生の 「 光華 」 「 國といふふくのかがみ 」 世界の 御父帥表國たらしめ、
八紘一宇、世界修理固成の神業に直進するを、その本分となす皇軍は、正に之れ神軍たり
* 断じて皇軍は、かの共産主義共の云ふ、
或る階級的支配のための階級軍に非らざるは勿論、「 國民の軍隊 」 ともいふべきものに非ずして、
絶對に天下億兆の大御親にまします全體者 「 天皇の軍隊」 である
故に又皇國には、「 武士トモノ棟梁 」、「 軍閥 」 の在る可からざるは勿論、
厳密には今日一般に謂はれてゐる 「 軍部 」 なるものの在ることなし
皇軍の本義、本質たるや即ち斯の如しである

(三) 皇國の現勢と之に処する軍人の本分
処で、今日皇國の軍人おのもおのもは、果して皇軍の本義、その本質を十全之を體認し、
「 朕ト一心ニナリテ 」 なる國魂を熾烈最も強く體現せる日本民族の先頭首脳部たる皇軍の一員として
「 朕カ國家ヲ保護シテ、上天ノ惠ニ応シ 祖宗ノ恩ニ報ヒマイラスル事ヲ得ルモ得サルモ汝等軍人カ 
其職ヲ尽スト盡ササルトニ由ルソカシ」 「 朕ハ汝等ヲ股肱ト頼ミ 」 「 深ク汝等軍人ニ望ムナレ 」 
との深厚なる御信任に答へ奉ってゐるであろうか? 顧みて自らの今日を謙恭に猛思三省すべきである
今その行蔵の一々に云々はしない、ただ一點
「 天子ハ文武ノ大權ヲ掌握スルノ義を存シテ、再中世以降ノ如き 」
「 且ハ我國体ニ戻リ、且ハ我 祖宗ノ御制ニ背キ奉リ、浅間敷次第ナ 」 る 「 失體ナカランコトヲ望ムナリ 」
との大御論をそも何と拝誦し奉つてゐるか? 軍人たるもの恐懼三省すべきなり
『 天子ハ文武ノ大權ヲ掌握スルノ義を存シテ 』 とは、謹承せよ !
斷じて 『 天子ハ文武ノ大權ヲ掌握シ 』 「 此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ----( 憲法第四條より )----」
といふ、國家の××、人民の代表者といふが如き 『 中世如何 『 且ハ我國體ニ戻リ且ハ、我 祖宗ノ御制ニ
背キ奉リ、浅間敷次第ナ 』 る主權在民的機關説の謂に非ずして、
そは 「 昔 神武天皇、躬ツカカラス大伴物部ノ兵トモヲ率ヰ、中國ノモツロハヌモノトモヲ討チ平ケ給ヒ
高御座ニ即カセラレテ天下あめのしたシロシメ給ヒシヨリ、二千五百有余年ヲ經ヌ 』
一貫不動神ながらの事實たる 「 高御座ニ即カセラレテ天下あめのしたシロシメ給ふ 」、
『 列聖ノ御偉業ヲ繼述シ、一身の艱難辛苦を問ス、親ラ四方ヲ経営シ』給はる天皇御親裁本義の 御宣示である。
即ち、右の大御論は汝等軍人は、 天皇御裁本義を夢忘るゝ事なく、之を護持し、以て 「 中世以降ノ如キ 」
「 且ハ我國體ニ戻リ、且は我 祖宗ノ御前ニ背キ奉リ、浅間敷次第ナ 」 る機關説的主權在民覇道制覇ノ
「 失體ナカラン 」 様 「 朕ト一心ニナリテ、力ヲ國家ノ保護ニ盡 」 せよとの御思召しである。
処で、見よ !  皇國今日の實狀や如何 !  「 中世以降ノ」武家に代り、今や資本家財閥 「 權ヲ専ラニシ、
表ハ 朝廷ヲ推尊シテ、實ハ敬シテ是ヲ×ケ、億兆ノ父母トシテ、總テ赤子ノ情ヲ知ル事能ハサルヤウ計リナシ。
遂ニ億兆ノ君タルモ、唯×ノミニ成リ果、其カ爲ニ今日 朝廷ノ尊重ハ、古ニ倍セルカ如クニシテ
朝廷ハ倍×へ 」 爲めに、天下億兆其処を得ず、『 上下相離ルル事霄壌ノ如  』 き 『 且ハ我國體ニ戻リ、
且ハ我 祖宗ノ御制ニ背キ奉リ、浅間敷次第ナ 』 る民主機關説的金權覇者の覇道制覇に在るのである。
かくてその結果、成る程皇國の今日は、産業に於て、軍事に於て、將又學術等々日進月歩、
大いに世界にその威を輝かしてゐるが如くである。
がその半面に其の日の生活に喘ぎ苦しんでゐる大多數の赤子同胞のあるを忘れてはならぬ。
然るに、噫 ! 然るに、これ等生活苦に呻吟する大多数の赤子同胞は、
にも拘らず 「 身のために、君を想ふは口惜しや 君のためにと身をば想はで 」
「 海ゆかば水づく屍 山ゆかば草むす屍 大君のへにこそ死なめ 顧みはせじ 」 と、
「 君が代を思ふ心の一すじに我身ありとは思は 」で、身を鴻毛の輕きに置き、
「 只々一途ニ己カ本分ノ忠節ヲ守リ 」 戰場に、軍營に、工場に、或は又農場に等々それぞれの
地位立場よりまつろひ奉行翼賛し奉つてゐる。
その彼等の姿、噫! そは正に無私無我、嚴粛そのものである。
それは 神の御姿、現人神陛下の御稜威みいつに非ずして何んぞや。
然るにこの忠良なる大多數の同胞は、その日の生活に事欠ぎ喘ぎ苦み、
「 表ハ 朝廷ヲ推尊シテ、實ハ敬シテ是ヲ×ケ 」 參らせ給へる彼金權覇者とその手代共が
却って益々冨み且つ栄えてゐるのである。
何たる矛盾 ! 何たる國體本義の歪曲ぞ ! 
「 天下億兆、一人モ其処ヲ得サル時ハ、皆 朕カ罪 ナ」 りと、
噫 ! 皇國今日の実態、そは君の御式徴に非ずして何んである。
正に 「 且ハ我國體ニ戻り、且ハ我 祖宗ノ御制ニ背キ奉リ、浅間敷次第 」 といふべきなり。
然らばこの矛盾、この歪曲はそも何に原由せるか?
即ちそは、我國今日の進歩發達なるものが、實は 「 開くべき道は開きてかみつ代の國のすがたを忘れざらなむ 」
「 智識ヲ世界ニ求メテ大イニ皇基ヲ振起スヘシ 」 と仰せ給へる

明治天皇の御叡慮に戻り、「 さだめたる國のおきてはいにしへの聖の君のみこゑなりけり 」
「 あまてらす神の御光ありてこそわが日のもとはくもらざりけれ 」----皇國體の本義 ( 祭政一本
天皇御親裁本義 ) を忘却せる、欧米の利益社會観的民主個人主義文明の無批判的
殖模做に基く弱肉強食覇者の利害を中心にせるものなればなりといふ所にあるのである。
げにや皇國は今日、「 七百年ノ間ノ、武家ノ政治 」 のそれにも幾倍かする金權覇者のうしはぎによって、
國體本義はなし崩し的に破壊され、爲に國際的に國内的に劃期的非常重大れんきてきの機器に當面してゐるのである。
明治天皇は明治元年三月十四日 「 億兆安撫國威宣布ノ御宸翰 ごしんかん に於て、
『 汝億兆旧来ノ陋習ろうしゅう ニ慣レ、尊重ノミヲ 朝廷ノ事トシ、神州ノ危急ヲ知ラス。
朕一度ヒ足ヲ擧クレハ、非常ニ驚キ、種々ノ疑惑ヲ生シ、萬口紛紜トシテ 朕カ志ヲナササラシムル時ハ、
是 朕ヲシテ 君タル道ヲ失ハシムルノミナラス、從テ、列祖ノ天下ヲ失ハシムルナリ汝億兆能々、
朕カ志ヲ體認シ、相率テ私見ヲ去リ、公議ヲ採リ、 朕カ業ヲ助テ 神州ヲ保全シ 列祖ノ
神霊ヲ慰シ奉ラシメハ、生前ノ幸甚ナラン 』----と。
『 朕カ國家ヲ保護シテ、上天ノ惠ニ應シ、 祖宗ノ恩ニ報ヒマヰラスル事ヲ得サルモ、
汝等軍人カ 其職ヲ盡スト盡ササルトニ由ルソカシ。我國ノ稜威振ハサルコトアラハ 
汝等能ク 朕ト其憂ヲ共ニセヨ、我武維揚リテ、其榮ヲ耀サハ 朕汝等ト其誉ヲ偕ニスヘシ。
汝等皆其職ヲ守リ、 朕ト一心ニナリテ、力ヲ國家ノ保護ニ盡サハ、我國ノ蒼生ハ永ク太平ノ福ヲ受ケ、
我國ノ威烈ハ、大ニ世界ノ光華トモナリヌヘシ、 朕斯モ深ク汝等軍人ニ望ムナ シ』
----と仰せ給へり。
「 朕カ國家ヲ保護シテ、上天ノ惠ニ応シ、祖宗ノ恩ニ報ヒマヰラスル事ヲ得ルモ得サルモ
汝等軍人カ 其職ヲ盡スト盡ササルトニ由ルソカシ」----と
噫! 皇國軍人たるもの、いかでか想ひを皇國の今日に致し、顧みて自分らの實践行蔵を三省、
斷乎勇躍以て 「 皇基ヲ恢弘シ國威ヲ宣揚スル 」 ----國體主義の明徴に猛進せざる可けんやである。

(四) 「 政治ニ拘ラス 」 なる大御言葉の眞義を體せ
國体主義の明徴の問題に対する皇國軍人今日の態度について、今こゝでは具體的に一々を
云々するは控へる。
だが要するに今日緊切重大なる國体本義の明徴とは、断じて単なる、然も攻略的な声明や、
一文部省の數學刷新によつて期成される問題でなく、實にそは前述、
『 且ハ我國體ニ戻リ、且ハ我祖宗ノ御制ニ背キ奉リ、浅間敷次第ナ 』 る民主機關説的金權覇者の覇道的制覇の下、
天下億兆其処を得ざる今日の國家、社會の中心力を革新する維新の
問題である。
從ってそれは結局するに、「 天子ハ文武ノ大權ヲ掌握スルノ義」----天皇御親裁の十全を仰ぐ、
現存覇道的制度機構の御改革に翼賛し奉る、この維新的實践に根基し 輔弼の重責、
國家の樞機に在るの人物を斷乎徹底的に刷新するを具體的第一義と爲す。
然り民主機關説的金權覇者の覇道的制覇の支柱になり下れる、
かの重臣ブロックとその一類の
うしはぎを、その儘にして國體本義の明徴を期せんとするは、
正に百年河清を俟つ天下の愚事である。

然るに責任の局にある皇國軍人のこの問題に對する態度は、例へば稱揚激励をこそ爲すべき
皇魂軍人のそのためへの至誠を却って抑壓し、
恰も政府内閣の死命問題を國體本義の
明徴より重しとするが如き消極不徹底そのものである。
静思せよ ! 
こうした責任の局にある皇國軍人今日の態度は、實に、軍人勅諭に御論し給へる五ケ条の第一なる
「 軍人ハ忠節ヲ尽スヲ本分トスヘシ 」 といふ条項の終りごろにある 「 世論ニ迷ハス、政治ニ拘ラス、
只々一途ニ己カ本分ノ忠節ヲ守リ 」 といふ 大御言葉を、御勅諭の全體に流れる大精神である。
明治十五年に至る世論よりして民主主義的政黨覇権政治の檯頭だいとうするであらう危険を、
恐れ多くも感じさせられ給ひ、痛く之を御軫念遊ばされ 「 股肱と賴 」 み給へる軍人に
「 朕ト一心ナリテ 」 皇國を 「 再ヒ中世以降ノ如キ 」 「 且ハ我國體ニ戻リ、且ハ我祖宗ノ御制ニ背キ奉リ、
浅間敷次第ナ 」 る、覇道に陥し入れない様 「 天子ハ文武ノ大權ヲ掌握スルノ 」
----天皇御親裁本義を堅持、「 順逆ノ理ヲ弁ヘ大義ノ重キヲ知リ 」、
「 只々一途ニ己カ本分の忠節を守リ 」 世論や政治に惑はされ、支配されることなく、
「 朕カ國家を保護シテ 上天ノ惠ニ応シ 祖宗ノ恩ニ報ヒマヰラセスル事 」 を期せよ ! と御論し給へるものであるといふ、
その深さ御思召を拝察し奉るこしなく、右の一句を、
例へば林前陸相が某貴族議員の質問に答へ、
勅諭の中の 「 政治に拘らず 」 との御言葉の
意義は 「 軍人ハ政治ニ干与セズト解スル 」 と答弁せるそれの如く、
全體から切り離し単に字義的に、
世論がどうであらうと、政治が如何何様な行はれてゐようとそれに構らずといふ、
所謂 
「 政治不干与論 」 的に展解し、
前述皇國今日の反國體的實態、その意識的な支柱である政治に
對し消極不干与的態度を持し、
結果に於てそれに支配された無意識的にではあるが身苟も
皇國軍人にあり乍ら
「 且ハ我國體ニ戻リ、且は我祖宗ノ御制ニ背キ奉リ、
 浅間敷次第ナ 」 る今日の民主機關説的金權覇者の
衛兵になり下がってゐる所に原因してゐるのである。

(五) 國體本義の明徴----維新への奉公こそ皇國軍人今日の重大責務たり
或る軍人が日常の職分とする処は國防である。
処がその國防の本義たるや
『 列祖ノ御偉業ヲ継述シ、一身ノ艱難辛苦ヲ問ス。
親ヲ四方ヲ経営シ、汝億兆ヲ安撫シ、遂ニハ万里ノ波濤はとう拓開シ、國賊ヲ四方ニ宣布シ 』
『 六合ヲ兼ネテ都ヲ開キ、八紘ヲ掩ヒテおおいて宇ト爲  』 す
「 世界修理固成 」 の神業を使命とする皇國日本の國家生活それ自體である。
故にそは絶對に政治の現實に不干与的たり得ない。
然も今日、『 國家の全活力を締合統制し 』 之を 『 最大限度に發揚せしむる如く、
國家社會を組織し運營する事が國防國策の眼目と 』 爲すがため、
『 現存の如き機構を以て窮乏せる大衆を救濟し、
 國民生活の嚮上を庶幾しつゝ非常時局打開
に必要なる各般の緊急施設を爲し、
皇國の前途を保障せんことは至難事に属するであらう。

須らく國家の全機構を國際競爭の見地から----( 筆写註 = 國際競爭の見地からでなく
天下億兆皆其心を得る一君萬民、君民一體家族體的皇國體の本義からであらねばならぬ )
----再檢討し、財政に經濟に、外交と攻略に將た國民教化に根本的の樹て直しを斷行し
皇國の有する偉大なる精神的物質的潜勢を國防目的の爲め組織統制して、
之を一元的に
運營し、最大限の現勢たらしむる如く努力せねばならぬ。』
----( 以上引用は凡て陸軍省發行
『 國防の本義と其鞏化の提唱 』 より )、
即ち金權覇者の利害を中心とする民主機關説的

現存國家社會の制度機構を根本的に改革し、皇國をその本來なる天下億兆皆其処を得さしめ、
「 世界の光華 」 世界の親父師表國と完成完美する、
皇國體本義の明徴--維新を
緊切絶對とするに於ておやである。
全く今日のそれの如く國家の政治が經濟が等々、
即ち國家の現實的態勢が上層指導階層と
大多數の赤子臣民との間に一魂一體の家族的協翼なき状態で、
いかでか強力なる
國防あらんやである。
皇國軍人が日常の職分とする國防たるや、即ち斯の如くである。
かくて今日皇國軍人が國體本義の明徴--維新のために斷乎徹底的に猛進することは、
正に皇軍精神の十全發揮であり、それは實に、
「 天子ハ文武ノ大權ヲ掌握スルノ義ヲ有シ 」 「 且ハ我國體ニ戻リ、且ハ我 祖宗ノ御制ニ背キ奉リ、浅間敷次第ナ 」 る
「 中世以降ノ如キ失體ナカランコトヲ望ムナリ 」 との大御論を眷々服膺 けんけんふくよう 
「 順逆ノ理ヲ辨へわきまえ大義ノ重キヲ知レル 」 に基く、 「 只々一途ニ己カ本分ノ忠節ヲ守 」 るの
道である。
これを以て軍人の許すべからず 「政治干与 」 「 政治的干渉 」 と爲すは、
金權覇者のデマに惑はされたる全く採るに足らざる俗論である
又或は云はん、皇國の今日に維新の緊切絶對であるは認める。
併し軍人の 「 政治干与 」 は、國防的立場の限りに於てで、
それを越え維新の問題にまで突入するは
不可であると、この一見尤もらしき見解は、
前述せる所によつて識らるるが如く、

實は解った振りをして軍人自らが積極的に皇國々防の本義を歪め、
己が日常の職分である國防を危きに陥し入るるの許すべからざる日和見的腰抜論である。
識る可し、皇國軍人は、身を 「 天皇神率ノ下 」、天皇御親裁の下
「 朕ト一心ニナリテ 」
なる神ながらの國魂を熾烈しれつ
最も強く體現せる日本民族の先頭首脳部たる皇軍に
奉じてゐるのである。
即ち皇國軍人にして國體本義の明徴--維新のために斷乎徹底的たらずして、
いかでか之が達成は期し得られんゆである。
想ひをこゝに致さんか、皇國軍人今日の重大責務は、毅然として何者にも動かされることなく、
軍人が日常の職分とする國防とは、單に外國に対する 「 國の護り 」 といふが如き消極的なものに非ずして、
その 「 國の護り 」 たるや、積極的に 「 皇基ヲ恢弘シ國威ヲ宣揚スル
ヲ本義トス 」 る、
即ち皇國體の本義を發輝し、御稜威みいつを世界光被する 「世界修理固成 」
の使命國、
皇國日本の國家生活そのものである。

從って皇國の軍人たる者は不動絶對の國体を持つことなく、ただ政體に生活する、
即ちそのために時の政治家の勢ひ、その求めの儘に動かされ、動くをよしとなす、
外國の軍人に於けるそれより類推せる所謂 「 政治干与 」 を本義とし、
政治の現實に不干与的
であるを絶對に許さない。
と政治に対する軍人の態度を堂々宣言し、
( 併しこのことは云ふまでもなく軍人個々の勝手気儘な
政治行動を主張するのでなく、
それは飽くまでも皇軍一體としての態度である )

その統帥大權の下、皇國本然の態勢を牙保せる独自の地位を斷乎徹底的に發揮し、
以て國體本義の明徴--維新のために猛進することである。

(六) 結言
即ち皇國軍人今日の重大責務は、國體本義の明徴--維新のため斷乎堂々の軍を進め、
皇軍精神を十全徹底的に發輝することである。
このために今日軍に必要なることは、正に相澤中佐が一死以て指教せる粛軍である。
粛軍の叫は今日色々の方面より擧げられてゐる。
されど以上の本義に基かざるのそれは、
恐懼 「皇軍ヲ恢弘シ國威ヲ宣揚スル 」 皇軍の本義を
蹂躙する私のための粛軍であり、
それは潜上 天皇御親率の大義を冒瀆するの大逆である。

耳を掩ひておおいて 鈴を盗むの類ひなる 「 派閥的策動排撃 」 「 流言蜚語翦成 」 「怪文書清算 」
なる叫びは即ち、こうした爲めにせんがための粛軍のスローガンである。
識るべし粛軍とは、
要するに 「 天皇親率ノ下皇基ヲ恢弘シ國威ヲ宣揚スル本義トス 」 る皇軍精神
の十全徹底發輝そのものである。
重語以て結論とせん。
粛軍とは 「 天皇親率ノ下皇基ヲ恢弘シ國威ヲ宣揚スル本義トス 」 皇軍精神の十全徹底發輝そのものであり、
皇軍精神の十全徹底發輝は今日具體的には、

軍が國體本義の本義の明徴--維新のために斷乎徹底的に猛進することである。
即ち皇國軍人は今日の重大責務は國體本義の本義の明徴--維新のために斷乎徹底的に猛進すべく
それぞれの地位立場よりおのもおのもが本分を盡すことである。

(十二月十五日) 


改造法案は金科玉条なのか

2018年01月01日 18時39分44秒 | 靑年將校運動

末松太平
« 改造法案は金科玉条なのか・・菅波中尉の意見 »

新京に着いたのは夜だった。
宿をとった二人は寝る間を惜しんで話し合った。
私が是非会って話し合って置きたいと思ったことは、
北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 を めぐっての建設案のことだった。
これまでは建設案は念頭に浮かべることすら邪道と思っていた。
それは先輩、特に大岸頼好 あたりに任しておけばよく、自分らは破壊に専念すれば事足りると思っていた。
火事場の破戒消防夫は、破壊に専念するだけでよく、
あとはどうなるなど考える必要はないと思っていた。
しかし 満洲での足掛け四年は相ついで起こった日本内地の事件の推移に思いをひそめるひまをつくった。
破戒消防夫も ふと 後始末を考えてみたくもなるのだった。
破壊のあとに構築される構造物のデザインも、垣間見ながら見て置きたくなった。
それが 『 日本改造法案大綱 』 に 対する反省ともなって、
菅波中尉の意見を徴したくもなったわけだった。
暗黙のうちに、これが建設案だと、同志のあいだで認められているようだったからである。
私は菅波中尉に、『 日本改造法案大綱 』 は 金科玉条なのか、
それとも単なる参考文献なのか、単なる参考文献であるとすれば、
別に妙案があるのか---といった点をただした。
これに対して菅波中尉は
「 実はそのことで自分も考えているところだが、『 日本改造法案大綱 』 を 金科玉条とみるわけにはいくまい 」
といった意味のことをいった。
そのとき
「 これなどはその意味において、一応いい案だと思っているがね 」
といって出したのが 『 皇国維新法案大綱 』 というのだった。
( ・・・『 皇政維新法案大綱 』  ) 
これは私も前に見ていた。
青森の聯隊時代の大岸中尉の作品で、十月事件の前に私案として同志に印刷配布したものだった。
北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 や、権藤成卿の 『 自治民範 』 や、遠藤友四郎の 『 天皇信仰 』
などを参考文献に起案したものである。
菅波三郎
『 日本改造法案大綱 』 を めぐっての建設案については菅波中尉と私の意見は一致した。
「 内地に帰ったら、みなとよく相談してみてくれ 」
と 菅波中尉はいった。
« 大同団結 »
片岡中尉は北海道師団の主力の渡満と同時に交代して、私より先に札幌に帰っていた。
彼は私の凱旋する時期をみはからって行動を起した。
大同団結を策しようとするためだった。
同じ革新に志していながら対立排擠はいせいしあっている青年将校間の紛糾を調整しようとすることである。
それは私と満洲の戦塵の間で相談しあっていたことであった。
しかしそれは複雑で困難なことだった。
十月事件の後味悪い幕切れも対立排擠の一因だった。
それに十月事件と必ずしも関係があるとはいえない、軍自体の計画する革新がからまった。
永井大尉が承徳の兵站旅館で私にいった、陸軍省の金庫のなかにしまってあるという
革新案がそれであるかどうかはともかく。
軍内部の派閥関係もあった。
それも必ずしも革新と関係あるものとはいえなかった。
かつての長閥、薩閥といったものではもちろんなかった。
が、それらと革新が奇妙に交錯していた。
そのうえ政界、財界が、これにまつわりついていた。
もともと 「 郷詩会 」 によって一応全国的組織を持った、陸・海・民 青年の革新は、
一君の絶対と万民の平等をうたった徹底維新だった。
それは 『 天皇と叛乱将校 』 の著者から 「 天皇の名において共産政治を日本に布こうとしていた 」
と 思われても無理からぬ過激なものだった。
一方軍自体は満洲事変に、国防国家、総力体制確立のために、ある種の革新を迫られていた。
『 国防の本義とその強化の提唱 』 と いったようなパンフレットが、
陸軍省自体から鳴物入りで配布されるに至るのも、その一つの現れである。
もともと政治・経済がウィークポイントだった軍である。
それへの対策から、にわかに軍人で、帝国大学に政治・経済を学んで、
エキスパートを自任するものができたり、
学界、政界、財界で、軍との関係をこの意味で結ぶものができたりした。
それにはイタリーのファシズムやドイツのナチズムが参考にされたりした。
軍自体の革新案は大体こういった間に生まれたものらしかった。
通俗的にいうならば
---私自身、通俗的にしかいい得ないが---
徹底維新は困るが、ある程度の革新は軍自体にとっても必要だ、ということである。
それと青年将校との関係は微妙だった。
あるときは利用価値のある存在であり、あるときは厄介な存在だった。
このころから和歌山六十一聯隊の中隊長をしていた大岸大尉がいっていた
「 軍は若いものが承知しないとおどしては軍事予算をふんだくっているんだよ 」 と。
しかしそれが青年将校にとっては、もっけの幸いだった。
そこに青年将校の弾圧されない隙があり、その隙を巧みにぬって行動範囲をひろげ、
組織をかためていった。
そのために時に妥協し、時に反抗した。
そのなかから妥協に安住するものと、反抗を内にとぎすますものとが、
それぞれの個人の持つ人生観、処世観によって分かれていった。
それが勢力ある高級者とつながり、勢力分野を形成し、
互いに、曲解、誤認、中傷をも含めた対立排擠を渦巻かせるのである。
こういったことは何時の時代、何時の場合にもみられる世の常のことであって、
こと珍しく青年将校の間にのみ見られた現象ではないが、
これによって純な革新的ムードは変貌して、すれっ枯らしの政争的様相を呈するに至るのである。

片岡中尉は大阪で私と待ち合わす前に、東京で軍中央部の先輩筋を打診して大体の見当はつけていた。
それはしかし大同団結の困難さを思い知らされたにとどまった。
せめて手近から大同団結の事実をつかみとろうとした。
それが大阪の聯隊にいた蟹江中尉を、私の強力を得て、説得することだったのである。
蟹江中尉は私の一期後輩で、片岡中尉の一期先輩だが、
十月事件のとき片岡中尉に説得されて同志となった歩兵学校グループのメンバーだった。
その蟹江中尉が、片岡中尉の出征しているあいだに、東京の村中孝次、大蔵中尉らと対立状態になっていた。
私は片岡中尉に落合う前に
東京で村中、大蔵中尉らに会って行けるよう日程を組んで青森を発った。
村中孝次 
« 改造方案は金科玉条なのか・・東京のグループ »
東京に着くと、先ず西田税を訪問した。
予め日程は澁川に知らせておいたので、西田税の家には大勢の同志が集まっていた。
菅波中尉が満洲に渡ってからの東京の青年将校は、
村中、大蔵中尉が中心になっていた。
それに磯部中尉や栗原中尉が新たに重要メンバーに加わっていた。
栗原中尉は十月事件のころは、同期生の溌溂として後藤中尉や片岡中尉らにくらべれば陰のうすい存在だった。
同期生のなかには彼を軽侮するものすらいた。
その軽侮したもののなかには、その後退転するものもいたが、軽侮された彼が、遂に初志を貫くことになるわけだった。
ともかく 久振りの西田税の家で、前とはちがった面目の磯部、栗原中尉に私は会ったのだった。
が 西田税のうちの雰囲気は物足りなかった。
「 君のいない間に、いろんなことがあったよ 」
と 西田税はいったが、その言葉にこめられた西田税の感慨には共感できても、
あとは雑談ばかりで、予期したものはそこになかった。
私は凱旋の挨拶をしに顔を出したのではなかった。
もっと緊迫した話題がほしかった。
私はそれで菅波中尉と親京で約束したとおり、北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 に対する
われわれの態度はどうあるべきかを一同にただした。
ぴたりと談笑がとだえた。
だれも意見をいわなかった。
西田税も口をつぐんだままだった。
座が白けた。
それにもかまわず、
「 それは金科玉条なのか、それとも参考文献にすぎないのか。」
と 私はたたみかけて誰かの意見の出るのを待った。

しばらくして磯部中尉が、
「 金科玉条ですね 」
とだけいった。
すかさず私は
「 過渡的文献にすぎないというものもある 」
と 応じた。
これに対しては もう誰も口を利こうとはしなかった。

« 澁川善助の苦悩 »
私は釈然としない気持ちで澁川と一緒に西田税のうちを出て、直心道場に向った。
このころ澁川は直心道場に起居していた。
その夜 直心道場の澁川の部屋で、澁川と薄い布団をならべて寝ると、
「 貴様、きょう西田氏のところで、ひどいことをいったよ。」 と 澁川はいった。
もう二人だけなら安心して、なんでもいっていいといった口振りだった。
「 なにがひどいことだい。」
「 『 改造法案 』 のことだよ。だが、いってよかったかな。貴様でなければいえないことだからな。」
そういって、澁川は 『 改造法案 』 を めぐっての西田対大岸の確執を話しだした。
意外だったのは西田税の 『 改造方案 』 に対する執着の深さだった。
当然、『 改造法案 』 に批判的な大岸大尉との間に確執を生じた。
このために、青年将校間に別の対立が生じようとしていた。
この調整に奈良の聯隊の松浦邁少尉が上京したが、それはかえって両者の確執を深める結果になったという。
リンク→ 
松浦邁 ・ 現下青年将校の往くべき道 
「 松浦君は有能だが、しかしまだ若いからな。ちょっとまずかったよ。西田氏が怒ってしまった。
 おれは日本にいるのがいやになって、満洲に行って貴様と戦場で一緒に死のうとさえ思ったことがある。
だから貴様の帰ってくるのが待ち遠しかった。が もう安心だ。貴様が帰ってきたからな。
二人でこれから東京と和歌山との調整をしよう。
貴様は西田氏とも古いし、大岸さんとも切っても切れない仲だからな。」
澁川は西田税に対しても、大岸大尉に対しても不満があった。
しかし、それをじっと殺して、なんとか両者の間をとり持とうと苦心しているのだった。
そういった澁川の苦衷は、『 改造法案 』 問題だけではなかった。
私と品川駅で別れてからの人知れぬ苦労は、
その間に起った西田のいった 「 いろんなことがあったよ 」 の、いろんなことの裏に秘められていた。
それを私に打ち明けて、少しは荷を軽くするようだった。
「 では一寝入りするか 」
と 何度か言い合いながら、どちらかともなく話しをしかけて、結局夜をとおして語りあかした。
それでも澁川は直心道場の規律通りに起きて、朝の行事をすますようだった。
私は行事の終わったころをみはからって起き、大森一声はじめ道場の人たちと朝食を共にした。
道場の食膳は質素を極めていた。
麦めしに大根の葉を身にした味噌汁だけだった。
私にだけ目刺しが二三匹ついていた。
澁川は笑って、「 お客だから特別御馳走したんだ。」 といった。
他の人たちもこれにつられて明るく笑った。

« 和歌山の大岸頼好大尉 »
汽車に乗ると私はすぐ眠ってしまった。目がさめたら大阪に着く直前だった。
大阪に着いたのは夜だった。
片岡中尉が蟹江中尉を伴なって駅に出迎えていた。
「 話しはもうついた 」 と 駅を出ると片岡中尉はささやいた。
蟹江中尉を二人で説得しようとしていたのだが、私はもうなにもいわなくてもよかった。
が 一緒に酒を飲みはじめると、「 あすは一緒に和歌山へ行こう。」 と 片岡中尉は蟹江中尉にうながしていた。
これはまだ話をつけていないことのようだった。
「 いや、隊務があるからまたにしよう。」 と 蟹江中尉がいうのを皆までいわせなかった。
「 まだ本当にわかっていないな。真剣になれよ。大事なことだぞ。
 隊務がなんだ。末松さんもわざわざこのために来たんじゃないか。一緒に行くべきだよ。」
片岡中尉に圧倒されて蟹江中尉は渋々承諾した。
私しは二人の問答をききながら、ただ 食い倒れの大阪の味覚を堪能していた。
翌朝、牛にひかれて善光寺詣りならぬ、片岡中尉にひかれて和歌山詣りをする蟹江中尉と一緒に、大岸大尉を和歌山に訪ねた。
和歌山の駅を降りたところで、ひょっこり村中中尉に出合った。
東京で別れたばかりだった。
陸軍大学校の学生だった村中中尉は大学の戦史旅行で満洲に行く途中、
大岸大尉を訪ね帰るところであった。
「 妙な顔ぶれだね。」
蟹江中尉と連れだっている私と片岡中尉に対する村中中尉の皮肉なことばだった。
蟹江中尉の敬礼に応える村中中尉の敬礼も、よそよそしかった。
対立のはげしさを如実にみせつけられた。
「 満洲にいったら菅波に会ってくる。」 と 村中中尉は別れぎわに私にいった。
西田税のうちでの 『 改造方案 』 論議に関連していっているわけだった。

蟹江中尉と会った大岸大尉は如才なかった。
「 久振りですね。奥さんお元気ですか。」 といって蟹江中尉とを迎えた。
一時は家庭のつきあいまでしていたことが推測できる挨拶だった。
それがいつのころからか、村中中尉らに令眼視される関係になって、和歌山へも足が遠のいているわけらしかった。
片岡中尉は蟹江中尉を同伴するに至ったいきさつを述べ、短兵急に大同団結の必要を強調した。
が 大岸大尉の受け答えは のらりくらりとしていた。
それは大岸一流の韜晦とうかい癖のようにもとれた。
蟹江中尉に対する警戒が解けていないためのようにもとれた。
暗くなる前に片岡中尉は物足りない顔で、蟹江中尉をうながして大阪に引き返した。
私は残った。
暗くなって、和歌山聯隊の若い将校が二三人訪ねてきた。
私に引き合わすため夫人を呼びにやったようだった。
なかに広島幼年学校時代の二期先輩、土屋正徳中尉もいた。
林銑十郎大将同様のいかめしい髭を生やしていた。
ヅク十郎髭だといっていた。

私は大岸大尉からまだ、ききたいことを何一つきいていなかった。
昨夜は酒間の雑談に終始しただけだった。
退屈でも帰るわけにはいかなかった。
この日の夜は二人だけだったので、問題の 『 改造方案 』 についてきり出した。
新京で菅波中尉と話し合ったこと、西田税のうちでのこと、直心道場で澁川と話し合ったことなどを。
大岸大尉は私の話をきき終ると、
「 そりゃ澁川君のいうとおりひどかったよ。めくら蛇におじずだったね。
 磯部君はおれを殺すとまでいっていたそうだ。気の毒なのは澁川君で、間に立って随分苦労したらしい。」
といって、いざこざのあらましを話すのだった。
澁川からきいた話とつき合わすと、
『 改造方案 』 をめぐっての東京と和歌山の葛藤は大体検討がついた。
私が凱旋の帰途たまたま新京で、菅波中尉の意見を徴した同じ問題に、
ちょうどその頃内地でもつき当っていたわけである。
では一体、『 改造方案 』 のどういった点が意見の衝突となっているのだろうか。
これに就いて大岸大尉は、あまり語ることを好まぬふうだった。
ただ この点は骨が粉になってもゆずれないといって、二三それをあげるにはあげた。
それがどういうことであったかは、いま記憶にない。
私はしかし 『 改造法案 』 批判よりも、それに代わる案があればそれを知りたかった。
それで、「 では 『 改造法案 』 に代わるものがありますか 」 と きいた。
大岸大尉は 「 あるにはあるがね 」 と いったきりで口をつぐんだ。
いやに勿体ぶるなと思った。
いわなければいわなくてもいいや、おれにいえなくて誰にいえるのだろう、ともおもった。
韜晦もいい加減にするがいいや、とも思った。私は無理にきこうとはしなかった。
私は西田税のうちでも不満だった。ここでも不満だった。
この夜はここに泊まるほかないが、翌日はすぐ辞去しようと思った。

「 これはまだ検討を要するもので、人には見せられないものだが・・・」
と いって私の前に置いた。
私はひらいてみた。
冒頭に 『 皇国維新法案 』 と 銘打ってあって、革新案が筆で書きつらねてあった。
これが 『 改造法案 』 に代わる大岸大尉の革新案の草稿だった。
が、それはまだ前篇だけで、完結していなかった。・・・ 『 極秘 皇国維新法案 前編 』
私がそれを読み進んでいるとき大岸大尉は
「 将軍たちがえらく 『 改造方案 』 を きらうんでね 」 と つぶやきもした。
それを考えにいれてのものかどうか、ともかく、ざっと目を通していく私には、
どこがどう 『 改造方案 』 と、きわだってちがっているのかわからなかった。
日本が皇国となっていたり、改造が維新となっていたりするように
将軍好みに用語、表現に工夫が払われているとは、大岸大尉のつぶやきに影響されて思いはしたが、
これが殺すのどうのと葛藤を生むほどのものの御本尊であるかどうかは、
『 改造法案 』 を 後生大事に、箱入娘のように庇物にすまいとする金科玉条組の偏執とともに、
了解しがたかった。

磯部浅一は二・二六事件後、死を直前にしてしるした 『 獄中手記 』 の八月二十一日のところに
「 『 日本改造法案大綱 』 は 絶対の真理だ。 一点一画の毀却を許さぬ。
今回死したる同志中でも、『 改造方案 』 に 対する理解の不徹底なるものが多かった。
又 残っている多数の同志も、殆んどすべてがアヤフヤであり、天狗である。
だから余は、革命の為に同志は 『 法案 』 の 真理を唱へることに終始しなければならぬと言うことを言い残しておくのだ。
『 法案 』 は 我が革命党のコーランだ。
剣だけあってコーランのないマホメットはあなどるべしだ。
同志諸君、コーランを忘却して何とする。
『 法案 』 はいいが、字句がわるいというなかれ 」
と 書いているが、私などは、このなかの 「 理解の不徹底なるもの 」 の 一人であり、
天狗ではなかったが 「 アヤフヤ 」 の 部類には、はいるわけではあるが、
『 改造方案 』 が 金科玉条であるにしても、そうでないとしても、
どうしてお互い対立以前に、互いに偏執なく検討しあう了解が成り立たなかったのだろうかと思った。
これを翌朝和歌山を発って大阪に向う南海電車のなかで私は考えつづけた。
大同団結どころの騒ぎではない。
片岡中尉の提案をのらりくらりと受け流していたのは、必ずしも大岸一流の韜晦とのみはいえなかった。
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『 皇政維新法案大綱 』 から 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 に至る経緯は、
大岸が1931年9月頃に書いた 『 皇政維新法案大綱 』 を参照して、
鳴海才八 は1932年1月頃に 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 を作成、印刷し、二月頃東京の関係者に頒布した。
1933年5、6月頃に澁川善助、菅波三郎らが 「 在満決行計画大綱 」 を作成、
同年か1934年、 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 と 「 在満決行計画大綱 」 は結びつけられたことになる。
1934年頃になると、大岸の思想はもはや 『 皇政維新法案大綱 』 を書いたときとは異なっていた。
そこで、改めて大岸によって編まれたのが、 『 皇国維新法案 』 だった。 
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« 大岸頼好の皇国維新法案 » 
・・リンク→ 『 極秘 皇国維新法案 前編 』

澁川が大岸大尉の 『 皇国維新法案 』 を 印刷したものを、風呂敷一杯重そうに掲げて、
また青森にやってきたのは、このときから一カ月とはたっていなかった。
これはこんないきさつからだった。
澁川がこの前帰って間もなく、
大岸大尉から、和歌山で 「 人には見せられないもの 」 と大事がっていた 『 皇国維新法案 』 の草稿を、
どういう心境に変化がきたのか、至急印刷したいから澁川に頼んでくれといってきた。
私は早速大岸大尉の意志を澁川に伝えたが、それが出来上がったから、と 持参したのである。
「 知っている印刷屋のおやじが奉仕的にやってくれた。
紙も、おやじが大事なものだから上質紙にしたがいいというのでそうした。」
澁川は風呂敷を解きながら、こういった。
私はこれを私直接の全国の同志に配ろうと思った。
が、どういうわけか大岸大尉から間もなく、配布はしばらく待ってくれといってきた。
そのときはまだ何部かを独身官舎の若い将校に配っただけで、殆んど手付かずだった。
二・二六事件のときまでそのままだった。
湮滅しようと思えばそのひまはあったのに、わざとそのまま残して置いた。
二・二六事件があった年の正月、私は東京に出ていたが、
その時澁川が 『 皇国維新法案 』 が 西田税にみつかって、これは誰が印刷したんだと激怒したといっていた。
「 どうもおれが下手人とにらんでいるらしかったが、とぼけて素知らぬ顔をしておいた。
 それにしても西田氏があんなに怒るとは思わなかったな。」
と 澁川は意外といった顔で、苦笑していたが、私も、へえ、そんなものかなあ、と 以外に思った。
ともあれ、二・二六事件直前に、まだこんな未解決な問題が、残されていたのである。
二・二六事件で私が調べられているとき、
予審官が 「 ときに 『 皇国維新法案 』 というのがありますね。あれは誰が書いたのですか 」
と きいた。
私は一瞬だまった。
それにとんちゃくせず、予審官はつづけて
「 澁川は自分が書いたといっているが、そうですか 」
ときいた。
「 そうです 」
と 私は答えた。
末松太平著  私の昭和史から