あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

『 南大將の自殺 』

2016年12月17日 05時18分23秒 | 其の他


南次郎

南關東軍司令官は本年五月
軍直属部隊及各兵團高級幕僚を召集して訓示をした。
その一節に曰く
特に謂ふべきの必要を認むるは
最近に於ける青年將校の所謂右翼系運動に關与するものあるの件なり、
由來我が隷下團隊の將校は
第一線に立ちて國防及治安の重責に任ずる緊張の心境に在るの關係ならんか
此種の傾向を有するもの極めて稀なりしも
最近に至りては點々越軌不穏當の言動をなすものあるやの報に接するは
本職の大に遺憾とする處なり、
進歩革新の嚮上心に燃え感傷的の観察に陥り易き青年將校が
同志相求め同憂気脈を通じ遂に軍律に背くの策動をも敢て爲すに至るは
世相の險惡なるに從ひ起り易き事象なるべしと雖も
其の熱意純情愛すべしとして之を寛恕ゆるすするは本職の採らざる所
就中部外者と窃ひそかに聯絡を保ちて不當の言動を爲すものゝ如きは
断じて之を容認すること能はず、
抑々將校は貴重の天職を有す 而して平素の職責を顧み自己の大成を期せんと欲せば
本務の精励と自鑚研究に忙がはしくして寸時と雖も他を顧みる頭脳の餘裕なき理なり、
若夫れ本務を放擲ほうてきし 又は將校たるの職量を増強するの途に進むことなく
徒らに國家改造社會改造の運動に關与するものあらば
本職は其の心情掬きくすべき一面ありとするも
帝國將校として之を容るゝを欲せず 況や部外に於ける爲めにするを目的とする
所謂策士の利用下に在るを認識せずして狂奔するの徒や
と。

之を南大將の自殺と言ふ
以下少しく説明を加へる。

大將の言を借りるならば
『 抑々將校は貴重の天職を有す 而して平素の職責を顧み
 又自己の大成を期せんと欲せば本務の精励と自鑚研究に忙がはしくして
寸時と雖も他を顧みる頭脳の餘裕なき理 』
であるに拘らず不純なる政治的策謀と賤劣なる利權漁あさりに没頭し
「 部外者と窃に聯絡を保ちて不當の言動を爲し 」
「 部外に於ける爲にするを目的とする所謂策士の利用下に在りて狂奔する 」
現役陸軍將校中第一の札付は實に南次郎その人ではないか。
斯道に於ける大將の令名?は世上
「 宇垣  南 」
と竝稱喧傳されて居る程著名であることは此処に言ふ迄もない。
二三の例をあげて見やう。
一、小泉策太郎と言ふ既成政界の策士の元締を以て任ずる男が居る。
 その鎌倉の別荘は南大將私宅の近所にある。
從來政界軍部を中心として宇垣内閣が陰謀され策動されたのは何時も此の別荘が一方の根拠地であり
小泉 南 等のなす所であることは已に一般消息通は承知濟みであるが
或人 小泉は南は來るかと尋ねた。
小泉曰く 「 家も近いし よく來るよ 政治陰謀の好きな男でね 」 と。
大將は昨年宇垣擁立運動が何度目かの芽をふき出さうとした頃、
此処の陰謀組の一人として或日の席上
「 陸軍の反對は大したことはない、荒木を始め二十人位の將官級を馘つて終へば問題ぢやない 」
と暴言を吐き
「 民間反對派を押へるのに幾何の金と如何なる方法とが必要だろう 」
「 反對派の中心は誰だ 」
などと抑せられたことはよもや御忘れではあるまい。
一、大將は其後關東軍司令官に就任した。
宇垣に代つて總理になりたい野望の生長し始めていた大將が最初大いに躊躇したことは識者の知る處である。
結局後日を期し在満中に組閣の準備工作をするの有利なることに氣づいて就任したが、
其際自ら選んで長岡隆一郎氏を抜擢し吉田寛氏を秘書官に採つた。
長岡氏は人も知る一木樞府議長格別の腹心である。
吉田氏は牧野内府の愛婿吉田茂
( ロンドン條約問題當時の外務次官で牧野幣原の下で賣國的暗躍に狂奔した男である )
の甥である。
此の人達は來るべき南内閣の重要な伏線であると言はれて居る。
一、着任早々
 「 自分の所信實行に背く内閣は何度でも倒してやる 」
 と不穏當極まる聲明をした。
そして腹心で政治的策動のウルサ型である例の小野寺主計總監を満鐵総裁たらしめんとして蹉跌さてつした。
大將は目下満洲日報などを配下の座間勝平 御手洗辰雄 高野清八郎 等に占領させようと暗躍中である。
高野は昨年軍部攪亂出版法違反で憲兵隊に引致され裁判所に廻つて罪をうけた人物であるが
大將の渡満當時 「 自分は南全權の嘱託となる月給は二百圓だ 」 と宣傳して居た。
一、大將は次のことを思ひ出す必要がある。
 昭和七年の秋頃例の医者を看板にして政治や利權をサジに盛る有名なブローカーであると同時に
妻君がフランス人である關係から國際的にもブローカーな先生で
久原房之助 秋田清 など政界の札付とも惡緣の深い医学博士山内保を正座に据えて
ブローカー子爵で有名な瀧脇宏光 小野寺總監 永田鐵山少將 ( 當時參某本部第二部長で今や反動權勢双びなき現軍務局長 )
其他で之を取り巻き柳橋の待合 「 やなぎ 」 或は 柳光亭 等の密室に度々謀議して居ただろう。
南、小野寺、永田、客れも政治資金が入用である。
國際投資による新興満洲國經濟開發借款奔走に名を借り
運動費手數料の數百万圓を稼ぐべく山内フランス夫人を使つて不純な利權漁りに浮身をやつして居たのである。
そして村井長庵もどきの山内先生の惡亊から火がついて一切が暴露し
當局の取調となり新聞に書き立てられた。
小野寺總監の陳述によれば遊興費會合毎に 三、四百圓迄は山内先生に支払はせて居ると言ふチャッカリさである。
試みに其の或る日の柳光亭謀議遊興の席順を図示しやう。

大将は新聞が事件を暴露するや東京憲兵隊に
「 何故新聞に書かせたか 」
と筋違ひのことを真赤になつて怒鳴り込んで宿直の下士に蹴られたと言ふ醜態まで演じたのである。

先輩の行ふ所 後輩之を倣ふ。
南が宇垣に取って代る時代には後輩永田も柳橋で毒食つただけに
今や出監の譽あらんとするするものもあり。
最近の御時世柄でもあらうが新官僚と結び就中 唐澤警保局長と提携し
政界の陰謀策士 伊澤多喜男に款を通じ---此の三名は同郷人である---南が渡満するや
其姪婿の片倉少佐を部下の満蒙班に入れ 伊澤の愛婿で調査班員たる山県大尉を近づけて居る。
そして財閥と接近した左翼崩れのダラ幹などを手なづけて國家革新派に對する反動彈壓に狂奔して居る。
宇垣内閣又は南内閣の陸相を以て自任して居る松井大將の如きも
毎日の様に大アジア協會に入浸つて 中谷武世 ( 高野清八郎と共に軍部攪亂の出版法違反で罰を受けだ人物 )
などを手先にして部外と如何はしい政治的策謀に没頭し
識者の顰蹙ひんしゅくを買つて居るのは著名なる事實である。
何と言つても南大將の惡影響は大であり責任は重い。
( 尤も 乃公は宇垣先輩を真似て居るに過ぎない一番惡いのは宇垣だと言はれるならばそれ迄ではあるが )
今や國家内外の憂慮すべき現狀は何人も異議のない所である。
大將の言ふ
「 進歩革新の嚮上心に燃えて青年將校が同志相求め同憂氣脈を通ずる 」
は人一倍忠君愛國の情操信念を有する青年將校としてやむにやまれずして
おもむくべき自然の道で 寧ろ慶賀すべきことである。
其の中には 「 感傷的 」 になるものもあるであろう。
畏敬すべき先輩たる南 其他の人々にして斯くの如き不純賤劣の越軌不穏当の言動ありとすれば
裏切られたる悲嘆感傷の起ることも止むを得ない。
「 世相の險惡なるに從ひ起り易き事象なるべし 」
と言ふが大將等の是くの如き背信堕落の言動こそが青年將校にとつては
「 危險なる世相 」 の重要なる一部をなして居る事を反省される必要がある。
從つて是等の將軍達が大聲叱呼する軍律や統制に對して心から信頼出來ぬ憤りを持つが故に
純情血性の青年將校が是等反動不純の軍閥者流を蹴破つて
一擧に大元帥陛下の 御聖旨に直參しやうとすることは
人情の自然であり國家革新上必然の道であろう。
大將は言ふ
「 由來我が隷下團隊の將校は第一線に立ちて國防及治安の重責に任ずる緊張の心境に在るの
 関係ならんか此種の傾向を有するもの極めて稀なりしも
再評に至りては點々越軌不穏當の言動をなすものあるやの報に接するは本職の大に遺憾するを所なり 」
と。
第一線に立ち日夜生命を賭して國防及治安の重責に任じて居るからこそ、
國家の内外の現狀に對して押へ得べからざる憂憤が湧くのである。
緊張せるが故に尚更激化するのである。
部下將兵の眞情に理解なきこと大將の如きは正に將器ではない。
然して満洲事變を指導して今日あらしめたるは固より天祐と稜威とであるが、
一般國民、軍部特に關東軍の將兵が克く内外の狀態を認識し
粉骨砕心したるに因ること甚大なる當時陸相たりし大將が最もよく知つて居る筈ではないか。
之を呼應して起つた十月事件は同時に大將の大臣時代であつたではないか。
非常時の宣傳が陸軍が中心となつて開始されたのも大將の大臣時代ではなかつたか。
國家革新の氣運が公々然と動き出して所謂青年將校が出現したのも實に此時からである。
今日益々擴大進展しつつある 「 此種の傾向 」 は前述の如く
南大將等の不穏当な言動が大いに拍車をかけて居ると共に
「 大に遺憾とする處 」 であるならば其責任の過半は當初當時の陸相たりし
南その人が負ふべきではないか。
宇垣時代の三月事件、南時代の十月事件が公正妥當に處置されなかつたことの餘殃よおう
如何に其後の軍統制と革新運動のある部分とに惡影響して居るかは、
夫子自身最もよく御承知でなければならぬ。
四年前前陸相時代に蒔き且つ放任した種が大いに生長し 繁茂して居るのを
新京に赴任して此度見たに過ぎない。
斷じて言ふ。
この革新氣運は如何なる障碍彈壓に遭遇しても益々擴大進展して
必ず目的を貫徹せずんば止まざるものである。
唯々その南大將を信頼せざるは南自身がよくないと言ふ反證である。
本職は本職從來の言動を大に遺憾とすべき 」 である。
要之、大將の
帝國將校として之を容るるを欲せず
斷じて之を容認すること能はず
と言ふのは、以上によつて大將自ら斷乎たる處置を我れと我が地位、
我が首に對して執られる自殺の宣言であると確信する次第である
古語に曰く 「 魂より始めよ 」 と。
昭和十年六月

美濃紙判半紙プリント四枚袋トジ。謄冩版刷。封筒差出人は 「 大阪市北区堂ビル裏近畿軍友會 」 とある。
現代史資料5
国家主義運動2 より


拵えられた憲兵調書

2016年12月10日 15時59分21秒 | 尾鰭


中田整一  ( 元 NHK プロデューサー)
講演

『 二・二六事件・・・71年目の真実 』
2007年9月17日掲載  から

本日お話させていただくのは、二・二六事件のときの電話の 「 盗聴 」 についてなのですが、
この春、ある方からお手紙がありました。
それは戦前の総理大臣をやっていた阿部信行という陸軍の軍人のお 孫さんからで、
「 父が、あなたがやった番組のことを語り残してい る。
父は二・二六事件のときに、戒厳司令部で電話の傍受をやって いた。
そして、録音もやっていた。秘密の部屋でその録音を聞いて いた。
電話の相手方は真崎甚三郎が中心であった。
あなたが番組を 放送した10年ほど前に、電話の傍受・録音のことを語り残してい る 」
というものであった。
父とは稲田正純という錚々たる陸軍の参謀であり、日中戦争の時には作戦課長だった人である。
私が放送 の取材をしていた時には、全くこういうことは分からなかった。
私は、偶々20枚の録音版を手に入れて、28年前から二・二六事 件について取材を始めていったのです。
それから8年後、これはス クープになったのですが、二・二六事件のときの、
今流に言えば、 検事総長、当時軍法会議の主席検察官の匂坂春平という人の極秘記録650点の中で、
初公開資料600点を掘り起こし、深く二・二 六事件に関わっていったわけです。
歴史というのは、断定してはいけない。後で取り返しが付かなくな ってしまう。
私が放送した番組の中にも誤りがありますが、後ほど この点については、修正させていただきます。

事件を結論から言うと、
これは私なりの独断的な解釈なのですが、 二・二六事件は ( 統制派幕僚の ) カウンタークーデターである
これは、予め事件を 予測して、二・二六事件の2年前に、
満州事変を起こした石原莞爾 らと一緒だった統制派の参謀の片倉衷がまとめた
「 政治的非常事変 の勃発に処する対策要綱 」 ・・・リンク→ 
「 政治的非常時変勃発に処する対策要綱 」 
に沿って、事件が起きたらこうする旨の 基本的戦略をすべて考え、
また、事件処理を見てもそのとおりなさ れていること、
それから、もう一つは裁判すなわち陸軍軍法会議が 非常に滅茶苦茶な裁判であったこと、
結論的に言うと、指揮権発動 もされている。

今日の話の中心である北一輝、西田税に矛先が向け られている。
北については、叛乱幇助罪で3年くらいのところ、また、西田については、もっと軽くてよいところ、
強引に寺内陸軍大臣が指揮権発 動して死刑にするような裁判の構造を作ってしまった。
これは歴史的事実である。
これは匂坂資料の中にも出てくる。
北一輝、西田税の強引な裁判の有力な証拠にさせられたのが電話で ある。
北一輝の判決文を読んでも十数か所に電話による激励という ことが出てくる。
青年将校たちの処刑が発表された昭和11年7月 5日の新聞には、戒厳令下ですから軍が書かせたものですが、
電 話による激励という大見出しが出ている。
電話は徹底的にマークされた。
二・二六事件を起こすということを西田が聞いたのが2月15日、 西田から北へ連絡があったのが2月20日であった。
彼らは、事が ここまで来ているのなら仕様がない、それなら青年将校たちをサポ ートするしかないと決心した。
事件の中でいろいろ不思議なことがあったが、今日は掻い摘んでお話します。

先ず一つのポイント。
私が20枚の録音盤をもとに番組を作って放送したのですが、その とき、取材していてどうしても所在が分からない人がいた。
それは 盗聴の主人公である。戒厳司令部で盗聴をやっていたのは分かっていたが、誰がやっていたのかは分からなかった。
その人から半年後、自分が盗聴をやっていたことを私に名乗ってき た。
自分は首都圏防衛の東部軍の通信主任参謀をやっていたが、
二・二 六事件とともに戒厳司令部の通信主任参謀となり、電話の盗聴を命 じられた。
盗聴・録音をやったのは自分であることを名乗ってきた。
そこで、すぐに横浜に濱田萬氏 ( 元陸軍大尉 ) を訪ねた。
縷々話を 聞いたが、一つ心に引っかかる言葉があった。
「 盗聴なんかやった ばっかりに・・・、軍人の名誉を汚してしまって・・・」。
この言 葉はこれまでにずっと私の心の重石なっており、今度、新しい本を 出版することにも繋がった。
彼は二・二六事件の当時、盗聴をやったが、当時盗聴は民間人3人、 兵士3人の合計6人であった。
二・二六事件が一段落すると、陸軍 は中野学校の前身である後方要員養成所 ( 中野学校は昭和14年設立 ) を立ち上げた。
濱田他3人はそこの教官として当時の盗聴シス テムをもって養成所に赴任した。
当時は、外国から様々な情報が盗 まれていたので、諜報組織の立ち上げが急がれていた。
濱田はその後またすぐに上海に渡り、日本のスパイ活動をやってい た。
そして外国の大・公使館の諜報活動に携わり、どちらかという と暗い街道を歩いてきた。
そこで、先ほど紹介した 「 盗聴なんかや ったばっかりに、軍人の名誉を汚してしまって・・・」
という言葉 がポツリと出てきたということが分かった。
もう一つ、盗聴・録音はどういうことでやったのかというのは、
昭 和9年頃から先ほどご紹介した片倉衷ら陸軍参謀本部第二部 ( 情報 )の人達が、民間人に頼んで録音機の開発を始めた。
その試作品で 昭和10年にソビエト大使館の盗聴を始めた。
このことは直接片倉 さんから聞いている。
録音機ができたのと、二・二六事件はほぼ同時期であった。
日本における録音機の歩みはこの時期に始まってい る。
当時の録音機は2台が必要で、円盤1枚が3分しか持たない、交互 にやっていかないと長時間の録音ができない。
録音機を開発した人 達の中に何と二・二六事件のときの侍従武官長本庄繁大将 ( 満州事 変のときの関東軍司令官 ) の娘婿、
山口一太郎大尉が民間人と一緒 に開発に携わったという歴史的事実もある。
それから、私が二・二六事件でもう一つ発掘した匂坂主席検察官の軍法会議資料についてですが、
ここには、いろんなことが秘められ ていた。
一つは、私が最初の二・二六事件の番組を作ってから8年後ですが、
匂坂主席検察官の資料から 「 電話傍受綴り 」 というものが出てきた。
軍法会議は昭和11年3月5日から始まるのですが、
匂坂主席検察 官が自分なりに電話傍受の整理を陸軍の罫紙に120数ページに亘 って記録している。
その中に、NHKが持っている20枚の録音盤 が書き写されている。
NHKの録音盤にはいつ録音されたか日付は 入っていないが、
電話傍受綴りには、いつ、何時何分、誰から誰へ ということがすべて書き込まれている。
二・二六事件に関する電話傍受の数は300件に上り、
1月8日の 斎藤瀏少将に始まり、2月21日の西田税から真崎甚三郎への電話、 21日以降は盗聴件数も増加している。
2月27日の戒厳令発令後は、第14条(郵信電報の開緘)により、発令前は盗聴、発令後は傍受ということとなる。
傍受は3月6日ま で続き合計件数は300件となっている。
これらの中には二・二六事件のいろんな断片が出てきます。
また、 様々なドラマが展開されています。

今日は二つの事例をビデオで見ていただきたい。
一つは外国大使館を傍受したものです。
300件の中で外国大使館 を傍受したものはこれが一つです。
二・二六事件が起きたら、外国への通信をすぐに止めてしまいます。
沢山いる、日本の特派員に対しても、また、満州への通信もすぐに 止めています。
海外へ情報が流れるのを戒厳司令部は一番嫌ったわ けです。
それで26日午前9時半以降通信を止めてしまったわけです。
ただし、膨大な情報が流れています。
録音盤についてみると、時間にして約4時間半、聞きとれた通話は 64通話です。
この中にドイツ大使館を傍受したものがあります。
聞いていると 「 大使 」 という言葉が出てくる。
これから、ビデオを見ていただいて 裏話をお話したいと思います。
具体的な会話のやり取りは残念ながら文字化できておりません。
ビデオの解説部分のみ文章化します。
銀座2317番。これはドイツ大使館、大使専用の電話である。
当時、ドイツ大使館は国会議事堂の隣、陸軍省や参謀本部の向かい側、つまり反乱軍のど真ん中にあった。
二・二六事件の最中、  日本人がドイツ大使館に入ったという記録はない。
国際法上、大使館はその統治権を保障されている。
しかし、いかに二・二六が大事件とはいえ、
日本の軍人が外国の大使館のしかも大使の執務室に情報収集のため出入りすることが何故できたのか。
事件の最中、ドイツ大使館の窓越しに反乱軍の動きを通報した日本人は一体何者なのか。
そこには、どのような事実が秘められているのか。
幸いに当時のスタッフのうちただ一人、商務官のハース氏がドイツに健在であることが分かった。
当時の大使館員ウィルヘルム・ハース氏は西ドイツのブレーメンの町外れにひっそりと暮らしていた。
ハース氏を訪れたとき、町はすっぽりと深い雪に覆われていた。
戦後、駐日大使を務めたことのあるハース氏は、外交官としての自分の半生を振り返って回想録を執筆中であった。
ハース氏の数ある思い出の中でも、二・二六事件は特に強い記憶となって残っているという。
事件のとき、ドイツ大使館は決起部隊に包囲される形となっていた。
ディレクセン大使以下館員達は、日本政府の避難勧告を断って、館内で事態の推移を見守ったという。
そのとき、大使館に確か「まつい」とかなにか「まつ」の名のつく日本人がやってきた。
これがハース氏から得たかすかな手がかりである。
西ドイツ外務省にディレクセン大使によって報告された膨大な二  ・二六の事件記録が眠っていた。
その2月28日の記録の中に、一人の日本人の名前がはっきりと記されていた。
馬奈木中佐である。
その日、10時15分頃馬奈木中佐があたふたと来訪した。
彼は顔色も青ざめひどく興奮した様子で、早く通訳を呼んでくれと叫んだ。
外交記録部の報告書はこう記している。
馬奈木中佐とは、当時、参謀本部ドイツ班長として、ドイツとの折衝役の立場にあった馬奈木敬信氏である。
当時、彼は戒厳司令部の設置とともに戒厳参謀に任命されていた。
2月28日、事態は決起部隊との衝突が避けられない方向に進みつつある中で、
馬奈木中佐は反乱軍の目を掠めて、密かに裏門から大使館に進入したという。
馬奈木氏の話しによれば、日本とドイツの軍部の間では、
既に前の年の秋から外務省には極秘で、日独防共協定への下工作が進められていたという。
今、ゾルゲの話が出てきました。先ほどのビデオで西ドイツ外務省 (1978年、取材当時)に膨大な文書がありました。
その文書の かなりの部分は、あるいは、ゾルゲが書いた可能性があります。
こ れを読んでみると、相当学術的な日本の分析をやっている。
二・二 六事件の「前史」、「起因」、「影響」などの章には、ゾルゲの手 が入っているのではないか。
ゾルゲの証言の中で、彼がドイツやソビエトに信頼を得るようにな った一番のきっかけは二・二六事件であったと自ら言っている。
彼 の書いた報告書はドイツの「地政学」(ゲオポリティーク)という 雑誌、ドイツ外務省とソビエトの赤軍第4本部へ送られている。
こ こで信頼を築いて昭和16年のゾルゲ事件まで行くこととなる。
また、私がインタビューしたとき、
馬奈木敬信中佐(参謀本部第二 部ドイツ班長・・・欧州および南洋方面の情報収集の主務者)
も自分の名前が出てくるので、びっくりしていましたが、
彼が証言した 中で、一つだけ違うことがある。録音を聞いていると、
大使の執務 室の中でコツコツと3人くらい動き回っている音がする。
私もこれ はてっきり馬奈木さんの班の軍人かと思っていたら、
報告書には、 28日の午後2時に、憲兵が3人くらい大使館の警備に来たとある。
何故警備かというと、28日の午後は奉勅命令が出て、討伐命令が 出されており、
反乱軍は国会議事堂の周りにバリケードを築いて一 触即発の状態にあった。
東京湾には、戦艦長門をはじめ連合艦隊の40隻の艦艇が国会議事堂の尖った塔屋に照準を定め、
いつでも艦 砲射撃ができる体制にあった。
国会議事堂は当時できたばかりで、反乱軍の兵士達はここに立てこ もり、
いざ開戦となれば、最終的にみんなが国会議事堂に潜り込む こととなっていた。
憲兵が来て監視というのにはそういう理由もある。
時刻については、匂坂資料ではっきり分かったのが、夕方5時頃と 思われる。
何故かというと、ディレクセン大使が長崎に行っており、
急遽帰ってくるのが午後4時頃で、その後、大使の了解を得て云々との会話 も入っているので、
28日午後5時頃の会話と判断できる。
ゾルゲが情報収集していた時期に、ドイツからもう一人スパイが来 る。
馬奈木さんが先ほど話されましたが、日独防共協定の交渉を前の年 の10月から始めていた。
外務省にも全く極秘でやっていた。
当時 は、外交官が出る幕がなく、統帥権の下に外交権まで軍が握ってい て、
ヒットラーと結びつけようとしていた、重要な証言が彼の中に 出てきた。
私は日独防共協定に至る経緯についても取材したが、
そ のきっかけと日独が提携する一番の山場つまり難しい時期がこの2 月だった。
その後、ドイツからナチスと日本の二重スパイのドクタ ーハックという男が来て、
日本の陸海軍と防共協定の根回しをやっ た丁度その時期とぶつかる。
それをゾルゲが知って、逆にそれに目をつけて、
原節子出演の映画 のプロデューサーの触れ込みで来たスパイの後を追うとともに、
映 画監督のアーノルド・ファンクの美貌の奥さんに言い寄って何とか 情報を取ろうとしていた。
私が奥さんにお会いしたとき、後でゾル ゲがスパイだったことが分かり、奥さんはぞっとしていました。
一本の電話の中にもいろんな含みがあります。

もう一つ、私は今も疑問に思っているのですが、匂坂資料の中にコ ミンテルンからの革命指導書が入っている。
2月3日に満鉄経済調 査会のロシアの専門家から満鉄東京支部を経由して、
西田税あてに コミンテルンの活動報告書があって、それが横浜税関に差し押さえられた。
同じくそこにもう一つ文書、「 ソビエト革命武装指導要領 」 が紛れ込んでいる。
その中には、クーデターを起こすには、武力 機関、権力機関など占拠するなどいろいろなことを挙げている。
昭和13年の内務省の報告書の中に、
二・二六事件に関係する対馬勝雄中尉が持っていて押収されたとあるが、信憑性は分からない。
このように二・二六事件の影がある。
それから、戦後の日本週報という雑誌があり、その中に録音機を作 った山口一太郎が、
烏森の料亭で、赤い人 ( これはゾルゲのことで すが ) と会ったと、多分これは栗原安秀だと思われるが、
座談会の 席で話している。
このような胡散臭い情報もあるが、
匂坂主席検察官は二・二六事件とコミンテルンの関係を軍法会議の中でもずっと 追いかけている。
息子さんが私に言ってくれたのは、
親父は、二・ 二六事件はコミンテルンの影があったのだと、死ぬまでそう言って いた・・・ ただし、それはそういう事実もあるが、
あるいは3月、事件が終わ って3日後にソビエト大使館が強制捜査を受けて日本人の通訳など 8人が逮捕されたのは、
目くらましの可能性もある。
このように、 二・二六事件に関連する、波及的な事件も起こっている。

これから、私は冒頭申し上げました濱田大尉のことに触れます。
事件のときに、北一輝から安藤大尉に電話が入った。
NHKに残っ ている20枚の録音盤の中で、1枚だけ2月29日 北→安藤と日 付と名前が書かれている。
ここでビデオを見てもらい、分かったことについて説明したいと思 います。
具体的な会話のやり取りは残念ながら文字化できておりません。
ビデオの解説部分のみ文章化します。
何故か1枚だけ声の主の名前が記されている。

安藤大尉である。
「 日本改造法案大綱 」 の著者北一輝。
北一輝は特権的地位にある華族や貴族院の廃止、国民の自由を拘束する取締り令の廃止、
天皇や国民の私有財産の制限などを主張した。
そして、彼は天皇親政による国家改造を目指し、青年将校にも少なからぬ影響を与えたとみなされていた。
安藤輝三大尉は決起には最後まで反対した。
だが、昭和維新を夢見た彼は、ついに妻と乳飲み子を残してたった。
彼は、料亭幸楽に立てこもった。
冒頭、私は、歴史は断言してはいけないと申し上げましたが、
私自 身自分で反省するのですけど、この録音を始めて聞いたとき、
2月29日 北から安藤となっていますので、放送でも注釈をつけずに 北→安藤ということで放送しています。
ただ、自分の心の中では、疑問はあったのです。
北という人はこんなしゃべり方をする人なのか、どうもこれは謀略臭くないかなど疑 問はありました。
最初の放送はこれで放送しました。
その後、匂坂資料の電話傍受綴りを見ていましたら、これと同じ内容のものを匂坂主席検察官が書き写しされており、
しかも対話の時間も2月28 日午後11時50分とある。
今、見ていただいたビデオでは、はっきり聞こえませんが、料亭幸楽は赤坂の昔のホテルニュージャパンがあったところ、
そこの周囲を28,000人くらいの軍隊、8,000人ほどの警察官、東京の消防団などが取り囲んでおり、
そういう中での電話です。
また、ごーっという音も聞こえるのです。
後で分かったのですが、これは 戦車の音です。
よく聞こえないと安藤が言っているのはそんな中の電話ということ です。
匂坂資料の中に、憲兵司令部と称し、まるはあるか、金はあるかと 書いてある。
それで私はあれっと思ったのです。
憲兵司令部という のはどういうことかと思い、いろいろ調べていたところ、
北は、実 は、憲兵隊の記録を見ても、2月28日の遅くとも午後8時頃までには逮捕され憲兵司令部へ連れて行かれている。
そうすると北が電 話をかけるはずがない。
おかしいなと思って、更に調べていたら、
北を取り調べた憲兵は当時の東京憲兵隊の特高課長の福本亀次という男です。
この人は中野学校を作った男です。
彼が北を調べて彼の 尋問調書が残っている。
それによると、その方は2月27日午後、 安藤に金はあるか、給与はよいかと電話をかけたことはないか
とい う一問一答の調書が残っている。
何故2月27日が出てきたのだろ う、2月27日ならばすべて辻褄は合う、北が逮捕される前ですから。
これは明らかにでっち上げの調書だと思った。
北はこれに対し て、そんな電話は勿論かけたことがないし、
金はあるかとか給与は どうかとか、そんなことは全く知りませんと述べている。
そういう 疑問点が出てきて非常に辻褄が合わない。
その電話は2月28日の 午後11時50分にかけられている。
北はその前に逮捕されている。
福本の調書では、2月27日午後に北が安藤に電話したことになっ ている。
憲兵隊としてはそれで辻褄は合う。
いろんな疑問を抱えな がら、傍受綴りを読み進めました。
そうしたら、3月2日のところ に実は、私に名乗りを上げてきた濱田萬大尉が、
角田男爵邸に西田 税を探して3月2日午前0時過ぎに電話している記録が出てきた。
西田は、2月29日に北の家から逃走していなくなったので、
憲兵隊が西田を捜索し、電話の盗聴をやりながらほぼ居所を掴んでいた。
それで、私はてっきり濱田大尉が偽電話をしたのではないかと思い込み、すぐに濱田宅へ電話しました。
濱田大尉から最初に手紙をも らってから8年後のことです。
電話には娘さんが出てこられて、父 は2年前に亡くなりましたとのことでしたので、それで私の取材は 終わっていました。
ただその後、かれこれ20数年経ちましたが、
いつも私の頭の隅に残っていた濱田大尉のあの一言
( 盗聴なんかや ったばっかりに・・・軍人の名誉を汚してしまって・・・) と偽電 話とが自然に符合して、
私は昨年夏に再取材するまで濱田大尉が北を騙ったものと信じていました。
実は、去年の夏、濱田大尉の遺族を探した。
偶々戦友会の方のご協 力等もあって、濱田大尉が住んでいたところに娘さんが住んでいた。
そこで、テープを持参してご遺族の娘さん宅を訪問した。
私はあな たのお父さんを偽電話の犯人と思っているが、是非このテープを聴 いてほしい。
娘さん、息子さんとも社会的に活躍された方でしたが、 聞いてもらった結果、
「 いや、これは父の声ではない。父はこんな ものの言い方はしない。
非常に正義感の強い男だったけど、
安藤大尉とは仙台の陸軍幼年学校時代から1年先輩・後輩の間柄で、
父の性格からして安藤をだますことはない 」
とはっきり断言された。
そ れで、では、誰が犯人なのかもう一度、30年前からの取材ノート を点検していったところ、私が全く見逃していることがあった。
そ れは、金子という真崎甚三郎についていた憲兵のことだった。
金子は皇道派の首魁として真崎甚三郎が宮中へ行くときの護衛憲兵であ ったが、
彼が当時語ってくれた証言が私のノートの片隅に残ってい た。
全く私が迂闊だったのですが、やはり憲兵司令部の中でも電話 の盗聴・傍受をやっていた。
先ほど出てきた福本亀次が指示してやっていた。
   
     
2月28日午後11時50分、憲兵司令部から北を騙っ て安藤に電話してきた男は
ほぼ、100%とはいえないが、98% くらいは金子憲兵に間違いないと思っています。
北をいかにして罪に陥れるかいろんな謀略がなされた証拠だろうと思います。
北を裁 いた裁判官に聞いても、精々叛乱幇助罪で禁固3年くらいというの が妥当といい、北の裁判は1年延びた。
5人の裁判官の意見が割れ、また、北を死刑にすることに裁判長が反対したからである。
その後、濱田大尉のご遺族のところにお邪魔し、何か残っているも のはないかお尋ねしてみた。
父は二・二六事件については家族には 何も語らなかった。
今あるものはこれだけですと言って、二つのも のを差し出された。
一つは紙。
それには自分の職歴から、自分の子供、孫、その成長と かずっと年代順に書いてある。
ただし、二・二六事件の昭和11年と自分がスパイ活動をやった昭和14年から昭和16年のところは ブランクになっている。
余程、彼の人生にとって、苦渋の人生、苦 渋の期間であったかが分かるように思います。
それから、娘さんがもう一つ出されました。
それはベルトのバックルだった。
父は82歳で亡くなるまで約50年の間、一日も欠かさ ずこのバックルを身につけていた。
バックルは、当時、威厳司令部 に記者会があったが、
そこの新聞記者達から濱田大尉に、「 贈濱田 大尉 戒厳 二・二六 」 と書いてプレゼントされたものであった。
これが何を意味するのかは分かりませんが、苦渋の二・二六事件だ ったが、
二・二六事件の思い出を自分でバックルに秘めていたもの と思われます。
そういうことが、昨年はじめて分かりました。

二・二六事件によって、いろんな影響がありました。
昭和天皇が絶対、事件でぶれなかったことが、二・二六事件が4日間で無事収束した一つの大きな理由になっている。
事実そうだと思 います。
自分の重臣達が殺された。
当初、青年将校たちをちやほやしていた連中がみんな寝返っていく中で、昭和天皇だけはぶれていない。
二・二六事件の一つの結論として、二・二六事件は太平洋戦争に直結している。
それはどういうことから言えるかというと、
片倉衷が まとめた 「 政治的非常事変の勃発に処する対策要綱 」、
これに沿っ た事件処理がずっとなされていく。
当時統制派といわれた連中の戦 略がそこに書かれている。
事件処理も正に軍法会議から戒厳令から そのとおりとなった。
戒厳令を一早く主張したのが、片倉の上司の石原莞爾である。
戒厳令を敷くについては当時ものすごく反対があ った。
それは、5・15事件のときも軍は戒厳令を敷こうとして権力を握ろうとした。
そういう失敗があったが、反対を抑えて電話の 傍受などいろんなことをやった。
その中で、二・二六事件が終わって4つほど矢継ぎ早に制度・政策等に変化が生じ、時代が大きく変 わっていく。
一つは、5月に首相の広田弘毅は軍に脅されて陸海軍大臣の現役武官制をのむ。
そして、その後の内閣の生殺与奪の権を陸軍が握っていく。
6月に、不穏文書臨時取締法を作る。
これにより様々な言論弾圧が できるようになる。
( 二・二六事件を梃子・口実にしながら ) 8月に、広田内閣が国策の基準を作る。
国策の基準で何が決まった かというと
南方進出、軍部の充実 ( 国防強化 )、満蒙開拓 ( 満蒙に 様々な経済政策の強化 ) などである。
それから、11月に日独防共協定を締結する。昨年10月から検討 を進め、
一時頓挫しかかるが、協定締結の方向で進む。
日独防共協定、三国同盟、そして太平洋戦争へと進んでゆく。


「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」

2016年12月09日 09時21分04秒 | 其の他

「 右翼思想犯罪事件の綜合的研究 」  ----血盟団事件より二・二六事件まで

これは
「 思想研究資料特輯とくしゅう第五十三号 」 ( 昭和十四年二月、司法省刑事局 )の全文である。
昭和十三年度思想特別研究員としての、東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告であり、
本書の表紙は極秘として取扱注意 No.361 の番号が押印されている。
A
5判九ポイント組三七七ベージにわたる。
本報告の立場は、著者のはしがきの一部の、
「 俗に右翼事件と呼ばれる此等諸事件は、現下の歴史的転換期に直面する日本の推進力をなす日本精神の発露であった 」
という文章が明瞭に示している。
したがって、右翼思想犯罪を叙述する筆者に一貫して流れる執筆態度は、
国家権力の代弁者としての思想係検事の立場と国家主義運動のイデオローグとが、
ほぼ完全に一致していることを、ここに示している。
この意味において、この研究報告自体が、またひとつの副次的資料の性格を有している。
・・・・
現代史資料4  国家主義運動1 から

 

 

 

 


「 政治的非常時變勃發に処する對策要綱 」

2016年12月08日 15時57分26秒 | 尾鰭

 片倉衷
「 二 ・二六事件の時の戒嚴令は、私が中心になって作った對策要綱が原案になって居るんです 」
・・・片倉衷 ( 戦後、NHKの中田整一にそう語る )

豫測される皇道派による軍事クーデター勃發に際し、その鎭壓過程を逆手にとり、
自分達の側が依り鞏力な政治權力を確立するための好機として利用しようという、
カウンター・クーデター の構想 をまとめたもので、昭和九年に片倉衷等が作っていたもの。
「 政治的非常時變勃發に処する對策要綱 」
序文
帝國内外の情勢に鑑み・・・國内諸般の動向は政治的非常事變勃發の虞 おそれ 少なしとせず。
事變勃發せんか、究極軍部は革新の原動力となりて時局収拾の重責を負うに至るべきは必然の歸趨 きすう にして、
此場合 政府 竝 國民を指導鞭撻し禍を轉じて福となすは緊契 まま の事たるのみならず、
革新の結果は克く國力を充實し國策遂行を容易ならしめ來るべき對外危機を克服し得るに至るものとす。
即ち 爰 ここ に軍人關与の政治的非常事變勃發に對する對策要綱を考究し、萬一に処するの準備に遺憾なからしむる。
「 對策要綱 」 の實施案
(一) 事變勃發するや直ちに左の処置を講ず

イ、後継内閣組閣に必要なる空氣の醸成
口、事變と共に革新斷行要望の輿論惹起竝盡忠の志より資本逃避防止に關する輿論作成
ハ、軍隊の事變に關係なき旨の声明
但社會の腐敗老朽が事變勃發に至らしめたるを明にし一部軍人の關与せるを遺憾とす
(二) 戒嚴宣告 ( 治安用兵 ) の場合には軍部は所要の布告を發す
(三) 後継内閣組閣せらるゝや左の処置を講ず
イ、新聞、ラジオを通じ政府の施政要綱竝總理論告等の普及
ロ、企業家勞働者の自制を促し恐慌防止、産業の停頓防遏、交通保全等に資する言論等に指導
ハ、必要なる斷壓
( 檢閲、新聞電報通信取締、流言輩語防止其他保安に關する事項 )
(四) 内閣直属の情報機關を設定し輿論指導取締りを適切ならしむ
・・・片倉衷・『 片倉参謀の証言 叛乱と鎮圧 』
この 「 要綱 」 は、國内において軍人による事變が勃發することを豫見しつつ、
併せて、國力充實のため、國家體制の革新が求められているとの基本認識 に立って、
こうした事變勃發を逆に利用して軍部自らは直接手を汚すことなく、
しかも結果的に 『 革新の原動力 』 たらんとする意思を明確に打ち出したもの。
それは、皇道派靑年將校らの國家改造案とは異なり、
緻密な計畫性と戰略をもった、統制派の省部幕僚たちによる反クーデター計畫案であった。

統制派幕僚たちは、いつクーデターが起こっても素早く對應できるよう、既に萬全の體制を整えていた。

「 二 ・二六事件の勃發についても、それは第一師團の満洲移駐が決定的な引き金になるだろうと豫測し、
2月22,23日には、憲兵より事件勃發の警告を得ていた 」・・・片倉衷


片倉衷 ・ 二・二六事件を語る

2016年12月06日 15時55分40秒 | 尾鰭

磯部はなぜ私を撃ったか
十一月事件で磯部が停職になりました。
その後、磯部はちょっとした事件を起して免職になりました。
そうさせた張本人が僕だと彼等は想定していたんです。
磯部は私を恨んでてたのです。
しかし、あの事件の背後には彼等がいたということは間違いないし、
辻君が佐藤勝郎候補生あたりを使って調査したということも間違いない。
しかし、よく言われているように永田軍務局長の指示により、私と辻が事件をデッチ上げたというようなことでは断じてない。
私は参謀本部員であり、陸軍省の軍務局長から指示や命令を受ける立場になかったのだから。
・・・陸相官邸で撃たれた時、倒れたまま何か言われたそうですね。
「 天皇の命令なくして兵を動かしちゃいかん 」 と、叫んだのです。
撃った将校は香田とばかり思っていてたが、実際は磯部だった。
免官になっていたのに歩兵将校の軍服を着ていたからわからなかった。
・・・当時、事件が起りそうだという雰囲気を感じていらっしゃったでしょうか。
一週間ほど前にわかっていました。
当時私は軍務局軍事課満洲班にいたのですが、今も生きていますが、部下に三品という者がいて、
三品の友達で元大尉だった松平という者から 「 歩三の連中が渡満を前にコトをあげるそうだ 」 という話を聞きこんできました。
それを聞いて、私は陸相官邸室で憲兵司令官とか次官などがいるとき、
「 コトが起りますよ 」 と 忠告したことがあります。
憲兵司令官が 「 どこからの情報だ 」 と 聞いてきましたが、「 どこからということは言えない 」 と 言ったのです。
・・・二月二十六日ということもわかっていたのですか。
二月の下旬ということだったですよ。

私はテロには反対だった
私は昭和八年八月に参謀本部の第二部第四課四班に入ったのです。
陸軍士官学校事件もこのポストにいたときの事件です。
ここは情報の統合、防諜関係、国内情勢等の処理を行うところで、
入ってすぐ当時まだ続いていた五・一五事件軍法会議の特別傍聴人になった。
これも一つの任務だった。
青年将校の動向はそれ以前からずいぶん心配していたことの一つです。
参謀本部に入る前は、満洲の関東軍にいて、そこから久留米にあった第十二師団に転属になった。
五・一五事件の定期異動のときです。
十二師団では教育関係の一部と警備、国防宣伝を仕事とする幕僚勤務を命じられた。
当時久留米には五・一五事件の残党がたくさんいましてね。
連中を集めて懇談したり、後援会で演説したりしていた。
私は五・一五事件のようなことをやっちゃいかんということを主張していたのです。
満井佐吉君も久留米師団の大隊長をしていましてね、この人も盛んに講演活動をやっていたが、
私の行き方とは違っていたことはもちろんです。
・・・いわゆる青年将校がやろうとしていた国家改造の方向とはちがっていたわけですね。
当時、荒木さんのところなどに青年将校が盛んに出入りしていて、
隊付の将校の中には師団長や聯隊長といった上官の意見より荒木さんの意見を尊重するといった雰囲気が強かった。
これでは軍秩がうまくいかない。
私はそういう状況を憂えていたのです。
そこで 『 筑水の片言 』 という小冊子を作って、自分の所属する師団の杉山師団長や石田参謀長をはじめ、
本庄中将、南大将、荒木陸相、永田少将、石原大佐など要路の二十数名に配ったことがあります。
・・・国家改造の方向としては一言でいえばどういう立場を表明されていたのでしょうか。
それは、満洲事変をきっかけにして、国民も軍部に協力しようとしているこの時期をとらえて、
この勢いを利用して陸相が強力に総理大臣を動かして国政の検討をやらなければいけないというものです。
・・・軍部が主導権を握るとしてもあくまで内閣を通じてということですか。
そういうことです。
私はまもなく久留米から参謀本部に転属になりましたが、班長の武藤さんに挨拶にいったとき、
「 君、これはやらんだろうね 」 と 人差し指を曲げて拳銃をうつ真似をするので、
「 イヤ、私はそっちのほうじゃない 」 と 言ったのです。
『 筑水の片言 』 には日本国家の内容はこのままではいけない。
直すべきところは直さなければいけないと書いたけど、革命を示唆することは一切ないのです。

同志を誘って国家改造研究会
・・・そういう国家改造の内容について、研究会を主宰されたことがありましたね。それはどういうきっかけからですか。
直接には当時陸軍大臣の秘書官をやっていた若松二郎さんから声をかけられたことだったのです。
とにかく所謂青年将校運動というのは活発でしたからね。
五・一五事件以後は海軍との連携はなくなっていたのですが、八年から九年にかけて、
参謀本部と陸軍省の中堅幕僚が青年将校運動の指導的立場にいる者と何回か会って話を聞いたことがある。
満井佐吉、村中孝次、西田税といった人たちですリンク→統制派と青年将校 「革新が組織で動くと思うなら、認識不足だ」
しかし、話を聞くにつけ 私が不安を強くしていったことは事実です。
それはやはり彼等が非合法的な何かをやるのではないかといった不安です。
しかし、もし事態がそこまで進んだら、逆にそれを利用して新しい世界に導くこともできるのではないかとも考えたのです
そういう考えに取りつかれ始めていたころ、若松さんから何とか今の事態に対する対策を研究してくれという話があったので、
それではやってみようということになった。
・・・どういうメンバーを集められたのですか。
若松さんと参謀本部の服部卓四郎、辻なんかと相談して決めたんですがね。
真田穣一郎、河越重定、板間訓一、中山源夫、永井八津次、島村矩康、久門有文、西浦進、荒尾興功、堀場一雄、加藤道雄などで、
いずれも当時大尉です。私も当時は大尉でしたから。
・・・片倉さんがリードされたのですか。
私より上席の人もいたのですが、『 筑水の片言 』 を配布したり、
研究会を始めるにあたって 叩き台のつもりで書いた 『 瞑想余禄 』 と題して自分の所感を綴ったものを配っていたこともあって、
私が座長ということになったのです。
・・・研究はどれくらいの機関でまとめられたのですか。
第一回は 八年十一月七日で、翌年一月四日には要綱をまとめた。
・・・『 政治的非常事態勃発に処する対策要綱 』 というのがそれですね。
そうです。それ ( 『 政治的非常事態勃発に処する対策要綱 』  ) が二・二六事件のとき、暴徒鎮圧に役立った。
対策要綱はそういう事態をも想定したものだったからです。
・・・国家改造の方向も盛り込んであったわけでしょう。
もちろんです。
あれを読んでもらうとわかりますが、
軍部主導のもとでなるべく早く革新を断行するが、非合法手段の直接行為はとらないと謳ってあるのです。
・・・その案は軍部の正式採用となったものですか。
秘密に採用された形になったと言っていいのです。
というのは、研究メンバーが陸軍省と参謀本部の各部署からきていますから、
それぞれのメンバーがそれぞれの上司に報告する形をとったのです。
軍部の首脳部の間では、「 大体この方向でいこう 」 ということになっていたはずです。
・・・そういう研究案は軍部の中では初めてのものだったのでしょうか。
いや、そうじゃないんです。
そういう研究案があるということは、参謀本部に移ってからウスウス気づいていたのですが、
偶々 武藤班長が海外出張をして留守をした。
或る日、仕事の必要から金庫を開けて ある書類を捜していた時、偶然に発見して、
失礼かと思ったが 読ませてもらったことがある。
しかし、内容は要綱書き程度の疎略なものでしたよ。
・・・それはどういうメンバーが研究していたものですか。
陸軍省調査部長の工藤義雄少将を中心として、
永田鉄山、東条英機、武藤章、影佐貞昭、池田純久、田中清 などの将、佐官クラスですね。
これを読んだとき、将、佐官クラスではダメだ、やっぱり我々尉官クラスがしっかりしなければ
という気持ちを強く持ったものです。
しかし、 『 瞑想余禄 』 にしても それを下敷きにした 『 対策要綱 』 にしても、
よく書いたものだと、おかしいくらいだが・・・・。

青年将校の心情は尊敬するが・・・・
・・・片倉さん等と青年将校との間の国家改造に対する取り組みは結局どういう点に違いがあったのでしょうか。
歴史的には皇道派と統制派の争いということになっていますが。
池田純久さんは統制派と言っていたし、満井佐吉君は皇道派と名乗っていたな。
しかし、実際はそういう区別というものはなかった。
・・・片倉さんは第四班にいたとき、全国各地をまわって若い将校達の意見を聞いてまわったということがあるそうですが、
具体的には彼等はどういう不平不満があったのでしょうか。
満洲事変の後のことですから、若い将校の間にはしっかりしなければという雰囲気が強かった。
そういう気持ちに対して、聯隊長あたりが案外のんびりしていることに対する苛立ちというものがあったと思います。
聯隊長への不満というのは直接中央部幕僚に対する不満ともなっていたわけです。
その点、荒木さんあたりはそういう元気のいい将校から意見を求められると、
はっきりものを言うので人気があったわけです。
・・・当時の慢性的な不況から来る農村の疲弊というものが、二・二六事件の背景になっていったということですが、
そういう問題に対する政治への不信、不満という声も当然あったわけですね。
農民は軍の下部を作っているわけですから、兵に直接接している若い将校の間からはそういう不満が強かったわけです。
聯隊付の将校団に対する教育が足りないという印象でした。
しかし、全体にはやはり農民の窮状や大資本と一般国民との遊離、或は政党が政争ばかり繰り返して
何等 庶民の窮状を救おうとしない現実があったわけで、それに対する青年将校の強い不平不満があったことは事実でした。
私もこういう状況は何とか早く解決しなければ大変なことになるという気持ちを強く抱いたものです。
・・・なんとか解決しなければならないと思ったところは、青年将校と同じだと・・・。
二・二六事件を引き起こした青年将校は 荒木とか真崎といった一部の将軍と結びつき、
それを 北一輝とか磯部とかが煽動したんです。
私等は組織を動かして革新をやろうとした。
それが決定的な違いです。
革新への心情というところでは 重なるところがあるんですが、彼等の手段がね・・・・。
私はピストルで撃たれましたが、ある程度は彼等の心情については尊敬するところがあったのです。
 ・
片倉衷元少将  二・二六事件を語る
新人物往来社  2・26事件の謎  から


「 刀を収めろッ 」 と 大喝しました

2016年12月04日 15時51分17秒 | 尾鰭

 片倉衷少佐
大雪の朝
当時、私は陸軍省の軍務局におりました。
ちょうど相沢事件の公判が進行中で、
裁判長の佐藤正三少将が橋本近衛師団長や林陸軍大臣などを証人喚問していました。
永田軍務局長が刺殺されたとき、たまたま私は参謀本部から陸軍省に転勤し、
軍事課勤務として現場に居合わせたこともあって、この相沢事件の軍法法廷には多大の関心をもっていました。
そして、かねてより佐藤裁判長の公判の進め方に、疑問を抱いていた私は、
上司である村上軍事課長と今井軍務局長に、裁判長を取り替える必要があることを、進言したのです。
これが昭和十一年二月二十五日のことでした。
その日の夜、一晩中隣家の犬が吠えて寝つかれなかったことを記憶しています。
朝 起きると雪がかなり降り積もっていました。
その日は、前日に続いて陸軍大臣に意見具申するつもりでいましたので、
いつもより早く起きて、中野の新井の家を出ました。
雪を踏んで中野駅に近い三差路まで来ると、警官が四人、ものものしい警戒態勢で、
軍刀を吊りマントを羽織った私を呼び止め、行き先を尋ねるのです。
陸軍省へ出勤する旨を伝えると
「 今朝、神兵隊事件以上の大事件が起り、陸相官邸にも何かあった模様だ 」
と、警官はただごとならぬ口調です。
私はとっさに、これは青年将校の蹶起だ、と考え、自宅にもどって拳銃を携行しようと一瞬考えましたが、
むしろそのほうが危険だと思いとどまり、その場から円タクを拾って三宅坂の陸軍省へ急行しました。
途中、車が電信隊の営門の前にさしかかったとき、見るといつも一人しかいない歩哨が六名もいて、
いずれも銃に着剣しています。
これは非常呼集があったものと判断して、タクシーの中で、ひそかにマントの下の軍刀の具合を確め、
鯉口をいつでも抜けるようにしておきました。

青山から赤坂見附を抜け 平河町の三差路に来ると、
機関銃を持った兵隊が四、五十名並んでいて、車を通してくれません。
これが反乱軍との出会いの最初ということになります。
車から降りて 兵卒に 「 小隊長を呼べ 」 と 命じたところ小隊長がすぐに来たので、
「 陸軍省の職員だ 」 と 告げると通ってもいいという。
徒歩で陸軍省へ急ぎながら、大蔵大臣官邸や首相官邸のほうを見ますと、
一、二の兵隊が動いているだけで非常に静かでした。
陸相官邸の手前の銅像のあった附近へさしかかると、再び銃剣を構えた兵隊が私の通行を阻止します。
中隊長の命令がないかぎり通すわけにはいかないというので、中隊長を呼び
「 貴官はいったい誰の命令で動いているのか 」
と 詰問すると、しばらく考えた末、
「 同志の命令です 」 という。
そこで私は 「 兵を動かすには天皇陛下のご命令でなすべきで、同志の命令などで動くべきではない 」
と さとしました。
周囲にいた兵隊たちが、天皇陛下という私の言葉に、一斉に直立不動の姿勢をとったのが、緊迫したやりとりの中で印象的でした。
次いで中隊長を同行して官邸門前にくると、閉門されて、若干の将校が動いています。


門を入っていくと、ちょうどそこへ参謀本部員菅波中佐が来合せました。
私と菅波中佐は名刺を出して 「 大臣に会わせろ 」 と中隊長に要求し、官邸の前庭に立っていました。
        
石原大佐          真崎大将                       古荘次官             山下少将                          斎藤少将

そこへ石原莞爾大佐 ( 参謀本部作戦課長 ) が官邸の内部から出て来ました。
一瞬私は、石原さんも反乱軍に与くみしたなと思いましたが、そうではなかったことがやがてわかりました。
しばらくすると、官邸玄関に古荘幹郎次官が現れたので、私は次官にも大臣への面会を申し込むと、しばらく待ってくれという。
そこへ陸軍大将の正装をした真崎甚三郎が現れました。
石原大佐が真崎大将に向って
「 これは、あなた方の責任ですよ。早く収めなければいけませんね 」
と 語りかけるのを私は耳にしました。
先の中隊長は、やがて官邸から出てきて
「 大臣にお会いになることはできません 」 という。
「 それは大臣自信の言葉か 」 と ただすと、「 香田大尉の言です 」 と 答える。
そこで私はそこへ居合わせた数名の憲兵に
「 君らは何をしているんだ。大臣の身近は大丈夫かッ 」 と 怒鳴りました。
官邸内には斎藤少将、山下少将の姿も散見されました。
続く中隊長の言によると、大臣はこれから宮中に参内するところだという。
私は反乱軍の武力に強要されて大臣が上奏するというのは由々しきことだと考え、
何としてでも、玄関先ででも大臣に一言しようと思っているところへ、左側にふと人の近づく気配を感じ、
同時に、ガンと左頭部に衝撃を受けました。
思わず右によろめき、手袋のまま左手で左頭部を押さえながら振り返ると、
歩兵大尉の軍服を着た将校が抜刀して近づいて来ます。
私はその男が私を撃ったなと思い、その将校に向って 「 刀を収めろッ 」 と 大喝しました。
そのとき、玄関先にいた古荘次官か真崎大将かが
「 皇軍将校同士で血を流してはいかん 」 と 叫んだようでした。
私を撃った大尉を、私は香田大尉だと思っていましたが、のちに磯部浅一であったことを知りました。
磯部は偕行社か何かの青年将校の会合で私の顔を覚えていたらしいのです。
磯部が刀を収めたので、私は山崎大尉、谷川大尉、生田大尉らに介添えされて反乱軍の歩哨線を突破、
赤坂の前田病院に入りました。
ピストルの弾丸たまは幸い 骨が二重になっているところの二枚目で止まり、文字どおり間一髪で助かりました。

片倉衷
『 大雪の朝、私は 』
決定版  昭和史 二・二六事件前後 昭和9--11年  7  から
リンク
天皇陛下の命令でヤレ
エイッ この野郎、ウルサイ奴だ、まだグズグズ文句をいうか

国家の一大事でありますぞ!
弾圧 「それでは、軍中央部は我々の運動を弾圧するつもりか」


安田優 『 序言 』

2016年12月03日 06時04分33秒 | 安田優


安田 優

序言
維新と言ひ 革新と言ふ。
吾人の希ふ所、
啻に社会機構の非ずして、
日本國民の根本的精神革新を以て第一義とす。
若し それ吾人が、
十八世紀前後に於ける大英帝國が其の植民政策を鞏固に堅持し、
克く 其の大をなせるもの其の所以を検、
其の事業たるや單なる海賊の所業に外ならずして、其の目的を貫徹せる所以のもの、
一に其の伝統的紳士道に基くものと言はざる可らず。
吾人今翻って、皇國の現狀を観察せむか、
外に國民精神の廢頽は徒に悔いを四夷にいたし、内徒らに私利の貧りに終始す。
吾人は此の精神的堕落を匡正して皇國本來の精神を發揚し、
國體の眞姿顯現のため挺身せざるを得ざるなり。
一、直接行動論
余は直接行動に依る現狀破壊に論理性を明白に堅持す。
夫れ大樹の克く其の大をなせる、一日の力にあらず、
其の基を訪ねむか地下に抑壓せられたる一つの種子が其の壓迫に抗し之を排除し、
太陽の白々明々を浴せむとする、
是に吾人は大地を破り、壓力に抗するの論理性を堅持す。
若し夫れ、大河の克く激流を集め破砕裂劇の自然性は、
此の論理性を明らかにして余す所なかる可し。
余は是に皇國國體破壊の現狀に鑑み、
此の現況を打破して民族意識を鞏固にし、更に之を高揚せむがためには、
斷固天劍に依る 是れに大撃を加ふ可きを信じてうたがはざるなり。
一、社會彈力論
吾人の求むる所は、サイン曲線の交錯にあらずして、
ガウス曲線の連續なる平面に非ずして之に近き波状面たり。
吾人の加えたる天撃は、實に此のガウス曲線に鼓動をあたへむとするの序曲たり。
若し夫れ大正中世以来、空氣充満破裂に瀕するの空氣枕、
然かも内壓に伴ふ外壓による其の平面的表狀を呈するは、
是れ實に彈力性を完全に失墜せるの劃一的の國家狀況に堕せるもの、
吾人が斷固改新せざる可からざる所以なり。 

國體論大綱
恭しく思見るに、
萬世一系、聖なる天皇の御稜威は、濱土に至るも是れを光被せざる可からず。
吾人は是に自主的人格の高揚により、
九千萬人民の日本國民たるの自主的人格の中心を求めて熄まざるなり。
是に吾人は維新を希求して熄まず。
國體破壊の元凶を論ず
一君萬民たる國體本來の面目は、
全く是れを認識せらるる事なく、國政は一部特權階級の壟斷に委し、
財政は一部財閥の獨占に帰し、
軍は一部巨頭の私兵化し、人材登庸の道は封建時代思想に逆轉し、
遂に天皇機關説の謬論は天皇の聖明を九重の奥に閉し奉り、
之れ實に所謂、啓して遠ざくるの不逞不敬の國體破壊に非ずして何ぞ。
以下之を詳述せむとす。
一、特權階級論
明治維新の歪曲せられたる藩閥政治の延長は、二十世紀当に半ばすぎむとするに當り、
更に尚余喘を保てるもの、是れ即ち特權階級の實質にして、
一君萬民たる可き國體を遮斷せむとするの中世的宦官、柳沢吉保的昭和攪乱の元凶にして、
酒井清勝的國權紊乱の元凶たり。
皇國一大躍進のためには、更に吾人は是れが残奸の艾除を希求して熄まず。
一、財閥論
富は皇室を凌ぎ、政匪を操縦することに依りて國政を壟斷し、
赤子股肱をして露頭に迷はしめ、
秩序破壊の根源をなし、是れを打倒し、
一君萬民本來の面目に立ち到らしむるがためには、
天皇の軍隊に依りて之に天劍を加へざる可らず。
即ち資本主義破壊の前に其の悲惨なる壊滅を救ふ所以のもの、實に此の天劍にあり。
一、政黨論
吾人は、天皇主權最高度発揚のためには、議會政治を是認す。
即ち吾人は主權發揚のための議會政治を維持するもの、
自由民主々義の主權制限のための議會政治を否認す。
故に吾人は政權授受のための既成政黨を排し、更に國體破壊の新進政黨を忌否せむとす。
現政黨政治を維持せむか、十年後に於ける天皇議會は遂に蘇議會の派出會たるに到るべし。
一、軍閥論
山県、上原等、藩閥皇魂の元凶に誘導せられたる軍閥の吾が軍隊を毒せるの事實は、
長軍たらしめ薩軍たらしめ、宇垣私軍たらしめ、更に幕僚私軍たらしめたるもの、
小児的虚榮心に彩られたる軍隊七十年の歴史は、皇軍本然の眞姿に非ざるなり。
然かも吾人の此の挙に依って派閥關係は一掃せられ、
啻幕僚私軍の排除をのみ残されたるものなり。
一、幕僚論
情報に支配せられ大勢に漂流する幕僚は、欺瞞的策謀的にして定見を有せず。
所謂保身の術に終始し、皇國に殉ずるの定見と情熱を有せず。
朝に新官僚と結託し、夕に財閥番犬の門を叩き、
皇軍を毒し更に皇國を毒す、その状、實に痛憤にたへず、
吾人は斷固ケレンスキー幕僚時代の崩壊を計りてやまず。
一、閣僚論
右に平等、左にマルクスをかざし、併かもレーニンの情熱を有せず。
自由獲得のために血を濯ぐの勇氣を有せず。
皇士に生れ、然かも皇士の何たるかを知らず。
言論抑壓の暴政に叩頭し、秋唇の卑怯に屈す。
無用の長物コノ位素禄を食むもの、夫は官僚たり。
吾人は是を斷固破壊せざる可らず。
一、將校論
口に忠君愛國を唱へ、兵に信義を教ゆ。
胸中利財をのみ計り、腹中同僚を陥れむとする。
是れ所謂將校たり。
國事損命を高唱し元気の中心を説いて然かも難を避けて易きにつくをのみ是れ計り、
兵を營倉に錮して身は唐劍に身をや安む。
軍の崩壊又期してまつのみ。反省せざる可けむや。
一、幕僚、官僚結託論
其の本質を同じくする兩者は、
今や全く民意を無視し、皇國を忘れ、利を胸中に計って國を食まむとす。
其の定見なくして漂洲たる海中に喘ぐもの、
実に皇國破壊の元凶と言はざる可らず。
上級階級の精神的堕落を論ず
天皇機關説の謬説にかくれ、旧套の自由平等主義に謬られ、
飛躍時代の新進の気鋭を殺ぎ、啻に現狀に満足し自利を之計り、
重臣は益々其の結束を固くし、軍内巨頭は三長官爭奪、
あたかも政党者流の政權爭奪に似たり。
此の弊風を打破せる之即ち、大義を明らかにして民心を正すにあり。
中間階級の思想的頽廃を論ず
知識階級は徒に卑屈なる功利主義にかくれ、進んで自己の信念を徹するの勇なく、
しかも只これマルクスの鵜呑みに終始し、又所謂プチブルは享樂的桃色的に終始す。
國を誤るの大、思ふべし。
層階級の經濟的窮迫を論ず 
( 略す )

故に我は、
是に天賦の劍を振ひ、特權階級に一撃を加へ、大義を明らかにし、民心を正し、
皇道を光被せむと共に、勃々たる神州正大の気を發揮せむと欲したるなり。
昭和十一年七月十一日
安田 優

極秘を要せむ

« 註 »
これは安田少尉が、刑死の前日の七月十一日、徹宵して書残したものである。
文中、蹶起の原因の一つである、
下層階級の経済的窮迫の問題を省略して結論しているのは、
時間の余裕がなくなったためと思われ、
それは筆致が乱舞になり、急いだ跡が歴然と見られることからも想像される

河野司編  二 ・二六事件  獄中手記遺書  から


安田優少尉と片倉衷

2016年12月02日 15時45分04秒 | 安田優

「 中佐、妙な話があるんです 。どうもこの病院に奴らの一味が入院しているらしい。二階にね 」
片倉はがらり話題を転じて来た。
「 それは将校か 」
「 そうらしい。ちょくちょく奴らの仲間が見舞にきているようですよ 」
「 貴様が入院していることは?」
「 これのおかげで気づいていません 」
顔面を覆う包帯を指で示した。
「 誰だ入院している奴は 」
「 安田とかいう男・・・・」
「 安田?それは野砲七聯隊の安田少尉だ。天草の出身で俺と同郷だ 」 ・・・リンク→そのとき私は小学校五年生でした
事件のまっただ中で、憎しみ合う反乱、幕僚の将校が同じ病院で治療を受けていたのである。
・・・
「 武藤中佐 」
病室を去ろうとする上司を片倉は鋭く呼び止めた。
「 何だ 」
「 殺しましょう。全員処刑だ 」
片倉は叫んだあと、武藤の耳を寄せるように長いことを語り続けた。
武藤は何度も頷いていたが、やがて病人から身を引き離した。
「 片倉少佐。今の言分を文書にして提出せよ。軍事課員のみんなで、じっくり検討する 」
「 この身体で書くんですか 」
片倉は、片方の眼を情けなさそうにゆがめた。
武藤は取り合わなかった。
「 文書にして提出せよ 」
冷酷に繰り返した。
・・・毎日新聞社一九八九年刊、寺内大吉著 「 化城の昭和史 」 下巻から

前田病院は院長が外遊中で尾形という方が代理院長だったんです。
その方が手術をしてくれましたのですが、その病院に安田少尉が入院したんですよ。
総理官邸へ侵入した男、それがぼくの上、二階におったらしい。
やが
てぼくの入院を知って、ぼくを殺すというんです。
今度は奴が・・・・
これはあとから聞いた話ですよ、
そこで尾形氏は、安田を寝台に縛りつけたらしい、動けないように。
それで、まあそういうことは病院ではなかった。
こっちは私の関係者が見舞にくる。
向うは向うの奴らが来るという状態が続いたんです。
さらに二十九日の朝、
いよいよ討伐攻撃が始まるというので、赤坂も危険地域になり、患者たちに避難命令が出た。
片倉は衛戍病院へ移ることになった。
ところが輸送車に安田少尉と二人だけ乗せる、という病院側の処置だ。
ようやく別々の車で運ばれた。
衛戍病院の病室へ移ったら最初の見舞客が反乱将校の栗原安秀中尉だった。
彼は気づかずに 「 これは失敬 」 と すぐに出ていってしまったという ・・・。
・・・片倉衷・回想録  から

 
安田 優

安田少尉が入院した経緯
二十六日の払暁、斎藤内大臣を襲撃、殺害。そのあとトラックで杉並の渡辺錠太郎教育総監を襲った。
・・・午前六時半か七時頃です。
都心へ帰ってくると 直ちに陸相官邸へ引揚げましたが、歩けません。
憲兵が世話して玄関の側の室に連れてゆき、看護長か誰かが手当をしてくれました。
これより自動車に乗り 中島が前田外科病院 ( 赤坂伝馬町 ) へ連れて行ってくれ、治療を受け、
昨二十九日午後二時迄入院しておりました。 ・・・憲兵隊訊問調書
・・・リンク→安田優少尉 ・ 行動録 ( 1月18日~2月29日 ) 

階上に、磯部さんに撃たれたと云う片倉少佐が入院して居り、
看護婦に

『 二階に連れて行って呉れ、あいつをぶっ殺す 』
と せがみ、困らせたこと。
不思議と病院中の看護婦は弟には親切で、
片倉少佐の世話をするのは皆いやだと言っていた
・・・昭和11年7月12日 (十六) 安田優少尉