あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

西田税、事件後ノ心境ヲ語ル

2018年11月08日 05時18分45秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

私ハ事前ニ於テ、
抑止スル丈ケノ力徳モナク、已ニソノ機會モ逸脱シテ居リ、

斷然殉情的ニ參加スルコトハ信念ガ許サズ、
而モ事後ニ於テハ
周章、輕卒、無方針ノママニ何事ノ
盡シテヤルコトモ出來ザリシノミナラズ、

周囲ニ迷惑ヲ及ボシタ等 醜態ヲ晒ラシマシテ、
自ラ省ミテ眞ニ恥カシク思ツテ居ルモノデアリマス。

・・・
西田税の手記・・最終句

 
西田税
正義が常に正義として通用する、此 眞の聖代と謂う
正義とは大御心
而して、大御心は正義を體現する

玆に 赤誠の正義はきつと大御心に副うのである


昔から七生報國というけれど、わしゃもう人間に生れて來ようとは思わんわい。

こんな苦勞の多い正義の通らん人生はいやだわい。
こんなに多くの肉親を泣かしてまで、こういう道に進んだのも、
多くの國民がかわいかったからなのだ。
彼らを救いたかったからだ。

・・・西田税
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一口ニハ言ヘナイガ、
萬感交々デ 私トシテハ思ヒ切ツテ止メサセタ方ガヨカッタト思ヒマス。

私ノミナラズ、皆ヲ犠牲ニシテシマヒマシタ
尚、岡田サンガ後ニナッテノコノコ出テ來タト云フ事ハ、
此度ノ事件ヲ如實ニ物語ル證據デアリマシテ、
國家大局カラ見テ、此度ノ事件ハ維新ノ爲メニモ駄目ダト思ヒマシタ。
ソシテ、歴史ト云フモノハコンナ事カト思ヒマシタ。
丁度、蛤御門ノ戰爭ノヨウナ氣ガシマス。
陸軍ノ上ノ方ガ、維新ニ於ケル薩摩藩ノ態度ヲ執リ、
長州藩ガ君側ノ奸ヲ除カントシテ宮闕ニ發砲シタ爲メ、
遂ニ朝敵ニナッタト同ジヨウナ感ジデアリマス。
コウ云フ點ヲ色々考ヘサセラレマシタ。
現在ノ心境トシテハ、ドウニモ致シ方ガアリマセン。
一時ハ自決シヤウト思ヒマシタガ、ドウニモ出來ズ、捕マリマシタ。
自分ノ修養ノ足リナイ點モアリ、不明ノ至ス點ダト思ヒマス。
私ハ若い者ガヤレバ、今迄ノ關係カラ必ズ引摺ラレナケレバナラヌ事情ニアリマシタノデ、
コレモ運命ダト思ッテオリマス。
・・・西田税 (憲調書2) 『 萬感交々で私としては思ひ切って止めさせた方が良かったと思ひます 』


現在ノ私ノ抱イテ居ル考ハ、
眞ニ縦横無盡デアリマスガ、其ノ一端ヲ申上ゲマス。
一、事件ニ就テ
今回ノ事件ハ、勿論不祥事件デアリマスガ、
之ハ一朝一夕ノ所産デハナク、
小ニシテハ陸軍ガ宝蔵シ、大ニシテハ國家ガ含有スル
幾多ノ矛盾ヨリ出發セル一大現象デアリマス。
行動其ノ事カラ申シテモ、
三月事件、十月事件等ニ胎生シ、
然モ大胆率直ニ、單純拙劣ニ 其ノ某程度ヲ實行シタニ過ギナイノデアリマス。
右各事件當時ノ首謀者諸氏ハ、此事實ヲ見テ、果シテ如何ナル感懐アリヤラ質問シタイト思ヒマス。
然モ三月、十月事件ハ未發ナリシガ故ニ、
大臣大將トナリ、幕僚參謀トナツテ居ルノミナラズ、
「 放火犯人懐手シテ傍見スル 」 感ナキニ非サセルヤヲ考ヘサセラレマス。
而シテ、三月、十月事件ヲ魔行ナリト憤慨シ、
軍私兵化、統帥權干犯ヲ追及シテ居タ靑年將校同志ガ、
討魔施命ヲ佛ニトツテ、然モ其ノ行動遂ニ魔ト一ニシテ、殪レルニ至ツタノデアリマス。
實ニ佛魔一如ノ境トハ、斯ル事ヲ云フノデハナイカト考ヘマス。
二、事件ニ關係シタ點ニ就キ
私ハ既ニ申シタ如ク平常ノ方針、行動ヲ自ラ背擲シテ周囲ノ一切ヲ顧ミズ、
其ノ結論ノ明白ナル逆施殪行ヲ強行シ去ツタ若イ人等ノ心事ヲ追想シ、
宿命ノ人々ノ如き感モシ、
又歴史ノ裏ニハ斯ル血涙ガ潜流シテ居ルカトモ考ヘ、
涙ナキ能ハザルモノガアリマス。
事前ニ抑止スルヲ得ナカツタ私ハ、自ラ無力不徳ヲ恥ヂテ居リマスガ、
同時ニ抑止ノ餘地ナキ迄ニ秘シ進行シツツ、
抑止ヲ容レテクレズニ、驀進ばくしん強行シテ了ツタ人々ヲ淋シク思ヒマス。
五 ・一五事件デハ、
理論方針ト情誼ト 二ツナガラ捨テテ背キ去ツタ海軍諸君ニ比シ、
二 ・二六事件ノ諸君ハ情誼ノミヲ留メテ居マシタ。
此氣持ヲ思ヒ、理論方針ニ背馳シ去ツタ氣持ヲ思フ時、感慨今更ノ如ク深イモノガアリマス。

私ハ、改造ヲ信念トシテ來タモノデアリマス。
國家改造ニ關スル私ノ理論方針ハ、既ニ申上ゲタ通リデアリマスガ、
之ハ私ノ生活ノ生命トモ申スベク、如何ナル事ガアツテモ之ダケハ一歩モ譲ル事が出來ナイノデ、
今回蹶起シタ有力ナ二、三ノ同志等モ、
「 總テガ背キ去ツテモ、自分一人デ改造ノ道ヲ行ク 」
ト云フ信念退治ハ、諒解シテ居ル筈デアリマス。
私ハ、之ダケハ明カニシタイト思ヒマス。
今回ノ事件ニ關シテモ、不當過大ナル評価ハ私自身ノ生命トスル問題ニ觸レルガ故ニ、
實ニ遺憾限リナイモノデアリマシテ、世間ノ思惑ヨリモ、
私自身ノ國家社會ニ對スル理論的見解ト日本ニ對スル信念トニ於テ、黙視スルニ忍ビヌ処デアリマス。
私ハ五 ・一五事件ニ於テ流シタル血ト、拂ヒタル犠牲トヲ回想スルト共ニ、
空前ノ事例トシテ蘇活セシメラレ、今日アルヲ得テ居ル私自身ニ附テハ、
眞ニ他人ノ窺知ヲ許サナイ深甚ナル使命、職分ガアル事ヲ信ジテ居ルモノデアリマス。
而シテ、一切ノ偏傾セル認識、歪曲サレタル態度ニ依ル風評 中傷 壓迫等ノ中ヲ黙々トシテ歩一歩進ンデ來タノモ、
改造ニ對シ、國家ニ對シテ私ノ奉仕デアツテ、人ヲ相手トスル單ナル爭闘デナイカラデアリマシタ。
然シ、病餘ノ臝弱らじゃくノ身ヲ以テ上京以來十年此間、
私ガ東京ニ於テ現實社會ノ渦波ノ中ニ棹シテ來タ改造生活ハ、
全ク文字通リノ浮沈辛酸デアリ、涙痕血史デアリマシタ。
利他即自利ノ菩薩行ヲ信ジテ行動シツツ、
悉ク逆施ヲ受ケテ來タ事ヲ顧ミ、不幸私ノ如キ者モ稀デアルト考ヘ、寂寥断腸ノ思ヒデアリマス。
然モ今日茲ニ至ツテ、遂ニ其ノ極ニ達シタト謂フベキデアリマス。
今ヤ十年ヲ回想シツツ、更ニ二十年ヲ回想シツツ、
而シテ歴史ヲ偲ビナガラ、彼一時此一時、感慨眞ニ滾々こんこんトシテ盡キザルモノガアリマス。
縱横ノ滾々トシテ盡キザル感慨ハ、同時ニ無逕無量ノ願求デアリマス。
而シテ之ハ、結局 「 天地ノ大ナルモノニ祈ルコト 」 ノ一事ニ決定スルト思ヒマス。
要スルニ、改造運動ガ進化ノ途上ニ於ケル現實的躍動デアル時、
進化ノ根源タル人類本具ノ 「 ヨリヨカラントスル心 」 ノ 裏ノ現象トシテノ、「 ヨリヨキモノニ對スル憧憬仰願 」 、
即 祈リハ、同時ニ改造運動ノ超現實ナルモノデナケレバナリマセヌ。
私ハ、今ヤ心身共ニ疲レ切ツテ居リマス。
從ツテ、社會運動ト決別ヲ希望シテ居リマス。
之迄狙ハレ、背カレ、傷ツケラレ、追ハレテ、
眞ニ疲レ切ツタ私ノ魂ヲ快ク喜ビ迎ヘテクレルモノハ
唯一ツ、故郷ノ山水風光人情アルノミデアリマス。
私ハ今無量ノ感慨リ裡ニ、故郷ト祈リノ生活トヲ慕ヒツツアルモノデアリマス。
即、「 故郷ニ於ケル信仰生活 」、
之ガ私ノ將來ニ殘サレタル唯一ノ物デアリ、
私ノ將來ノ希望デアリマス。

私モ結論ハ北ト同様、死ノ宣告ヲ御願ヒ致シマス。
私ノ事件ニ對スル關係ハ、
單ニ蹶起シタ彼等ノ人情ニ引カレ、彼等ヲ助ケルベク行動シタノデアツテ、
或型ニ入レテ彼等ヲ引イタノデモ、指導シタノデモアリマセヌガ、
私等ガ全部ノ責任ヲ負ハネバナラヌノハ時勢デ、致方ナク、之ハ運命デアリマス。
私ハ、世ノ中ハ既ニ動イテ居ルノデ、新シイ時代ニ入ツタモノト観察シテ居リマス。
今後ト雖、起ツテハナラナヌコトガ起ルト思ハレマスノデ、
此度今回ノ事件ハ私等ノ指導方針ト違フ、自分等ノ主義方針ハ斯々デアルト
天下ニ宣明シテ置キ度イト念願シテ居リマシタガ、此特設軍法會議デハ夫レモ叶ヒマセヌ。
若シ今回ノ事件ガ私ノ指導方針ニ合致シテ居ルモノナラバ、
最初ヨリ抑止スル筈ナク、北ト相談ノ上實際指導致シマスガ、
方針ガ異レバコソ之ヲ抑止シタノデアリマシテ、
之ヨリ観テモ私ガ主宰的地位ニ在ツテ行動シタモノデナイコトハ明瞭ダト思ヒマスケレド、
何事モ勢デアリ、勢ノ前ニハ小サイ運命ノ如キ何ノ力モアリマセヌ。
私ハ檢察官ノ 言ハレタ不逞の思想、行動ノ如何ナルモノカ存ジマセヌガ、
蹶起シタ靑年將校ハ
去七月十二日君ケ代ヲ合唱シ、
天皇陛下萬歳ヲ三唱シテ死ニ就キマシタ。
私ハ彼等ノ此聲ヲ聞キ、
半身ヲモギ取ラレタ様ニ感ジマシタ。
私ハ彼等ト別ナ途ヲ辿リ度クモナク、
此様ナ苦シイ人生ハ續ケ度クアリマセヌ。
七生報國ト云フ言葉ガアリマスガ、
私ハ再ビ此世ニ生レテ來タイトハ思ヒマセヌ。
顧レバ、實ニ苦シイ一生デアリマシタ。
懲役ニシテ頂イテモ、此身體ガ續キマセヌ。
茲ニ、謹ンデ死刑ノ御論告ヲ御請ケ致シマス。
・・・最終陳述


西田税ノ抱懐セル國家改造論 竝 其ノ改造實現ノ手段方法

2018年11月06日 05時53分25秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録


西田税


西田は、
「 被告人ノ抱懐セル國家改造論、竝其ノ改造實現ノ手段方法ニ就テ述ベヨ 」
という質問に対して、滔々とその抱負を述べる。

本調書は通常の調書の形式と違って、
表題付きの項目を立てた、むしろ論文に近いスタイルの特異な構成となっている。

表題
 一  私ノ抱懐スル理論及手段ノ要領
 二  改造理論ノ根本ニ就テノ一考察
 三  實現手段ノ根本ニ就テノ一考察
 四  實現時期ニ就テノ一考察
 五  改造實現ノ要領ニ就テ
 六  實現期ニ對スル判斷ニ就テ
 七  「 テロ 」 ニ就テノ一考察
 八  過渡期ニ於ケル行動ノ方針ニ就テ
 九  最近諸事件ニ表ハレタル改造運動ノ一大傾嚮ニ就テ
 十  最近ニ於ケル諸事件ト私ノ關係ニ就テ
十一 私ノ生活態度ノ一端ニ就テ

・・・以下、主要個所の抄録、
一  私ノ抱懐スル理論及手段ノ要領 

私ハ、北一輝著日本改造法案大綱ニ示サレタル
 理論對策 ト其ノ實現手段トニ共鳴シ、之ヲ基準トシテ居ルモノデアリマス。

二  改造理論ノ根本ニ就テノ一考察
  ・・・省略・・・

  實現手段ノ根本ニ就テノ一考察
私ハ、改造ハ全體生命ノ進化途上ニ於ケル躍動デアリ、本能的營ミデアルト申シ上ゲマシタ。
換言スレバ全體思想--社會思想--國家意思ノ發動デアリマス。
法案ハ、
此根本ニ依ツテ國家意思ノ發動トシテノ 『 クーデター 』 ヲ採用スル事ヲ宣明シ、
日本ノ改造ハ天皇ト全國民トノ合體ニ依ルモノニシテ、
國民ノミデハナイコト、
天皇ニ指揮セラルル全國民ノ運動ナリト云フコト、
日本ノ意思ハ全國民ノ輔佐セラルル天皇ニ依リテ發動スルモノナルコト
等ヲ明白ニ主張シ、解説シテ居ルノデアリマス。

四  實現時期ニ就テノ一考察
經濟生活ヲ營マザル人間ハ死者デアル如ク、
經濟ハ社會生活ノ全部デハアリマセヌガ、最モ重要ナル部分デアリマス。
改造或ハ亡國ヲ直接動因スルモノハ、實実ニ此經濟力ノ破綻、從ツテ財政ノ破綻デアリマシテ、
之レ古今東西ノ興亡史ヲ一貫スル大事實デアリマス。
此國家財政ノ破綻、即經濟組織ノ老廢化ハ、其ノ原因多々アリマスガ、
結局ハ内憂外患ノ逐次深刻化スルニ從ヒ、國民負担力ノ衰弱化ト共ニ国家収入ハ減少化ヲ來シ、
然モ各種支出消費ハ激増スルト云フ事態ヲ招來スルニ依ルノデアリマス。
又此時期ハ國民朝野共ニ國難打開ヲ言動スル譯デアリマシテ、
茲ニ始メテ全體生命ノ躍動ガ起ル事ニナルノデアリマス。
ソシテ遂ニ政府ヲ中心トシテ、打開ノ講究ガ行ハレ始メル事ニナルノデアリマス。
實ハ此所迄ノ動キヲ見ナケレバ、今日ノ統一國家ニ於ケル極メテ複雑化シ、
且 微妙ニ動ク所ノ組織、特ニ其ノ骨幹タリ、動脉タル經濟財政ノ改造ニ着手スル事ハ、絶對不可能デアリマス。
即 組織ノ改造ハ組織自身ノ解體以外ニナイノデ、
此原則ニ於テ、國家改造ノ時期ハ其ノ財政經濟ノ破綻期ヲ以テ時期トスルノガ、
古今ノ大事實デアリマス。

五  改造實現ノ要領ニ就テ
世間ニハ、今次事件ハ宛モ私ノ方寸ニ出ヅル革命行動デアルト思ツテ居ル者モアルト思ヒマスガ、
不肖無智ナル私ト雖、未ダ其所迄迷ハズ、盲セズ、狂セザルモノデアリマシテ、
其ノ様ニ思フ世間ノ人ニ對シテ、妄斷スルヲ休メヨト申シタクナリマス。

六  實現期ニ對スル判斷ニ就テ
( 日本の現状分析の結果、国家財政はまだ維持、持続できる余地が相当あり、外患も退勢の傾向にあると判断した上で、)
之ヲ要スルニ、機縁尚致ラズ、未ダ熟セズト云フ狀勢ニ在ルノデアリマス。
即、先覺者の先憂期ヲ未ダ脱シテ居ラナイノデアリマス。
世上現前ヲ如何ニ施設スベキカノ究明論議ヨリモ、
人事ノ系統ナドガ主ナル論題デアルト云フ現狀デアリマス。
結局、未だ實現可能ノ天ノ時期ニ非ズト判斷シテ居リマス。

七  「 テロ 」 ニ就テノ一考察
國家ニ國防精神存シテ陸海軍ヲ常備シ、
時ニハ砲火ニ訴フル事アル限リ、
國家ガ刑罰ニ死刑ヲ採用スル限リ、
人類ノ 『 テロ 』 ハ止ムヲ得ザル現象デアリマス。
唯私ハ、我陸海軍ガ王帥デアリ、神武不殺ヲ理想トセル如ク、
個人ノ 『 テロ 』 ハ夫レ以上ニ愼ムベキデアルト信ジ、
孫子ノ曰ヘル 『 百年之ヲ用フベカラズ、一日モ備ナカルベカラズ 』 ヲ理想トスルモノデアリマス。
而シテ、『 テロ 』 ハ人類生活ニ於テ起ル現象デアツテ、
世上妄斷スル如ク所謂改造運動上ノ特異ナ現象デハアリマセヌ。
否、寧ロ改造運動ニハ、却テ有碍ノ結果ヲ齎もたらス事ガ多イノデアリマス。
私トシテハ、物心ツイテ以來實ハ腕力ニ訴ヘタ經驗ノナイ性質モアリマセウガ、
『 テロ 』 現象ハ否定シナイガ、
私自ラハ先ヅ採用セザル方針ヲ公私ともニトツテ居ルモノデアリマス。

九  最近諸事件ニ表ハレタル改造運動ノ一大傾嚮ニ就テ
所謂三月事件以來續發セル大小各事件ハ、何レモ大同小異ノ性質ノモノデアリマシテ、
近時國家改造運動ト云ヘバ宛モ悉ク斯ル事件ノ如キ方式行動ニ依ルベキモノデアリ、
又依ラザルベカラザルモノデアルカノ如ク宣傳セラレ、兎角ノ論爭ガ爲サレツツアルノデアリマスガ、
斯ル一大傾向ヲ齎ラシ來ツタ原因動機ハ、果シテ何所ニアリヤヲ探求究明セネバナラヌト思ヒマス。
( 三月事件、十月事件、血盟団事件、五 ・一五事件、神兵隊事件等を概観した上 )
右ノ各種事件ヲ通観致シマスト、
三月、十月ノ兩事件ガ
如何ニ其ノ後ノ各事件ヲ行動方針ノ上カラ誘導シ、暗示シ、啓蒙シ、模範ヲ示シテ居ルカガ判明致シマス。
殊ニ、三月事件ニ於テサウデアリマス。
帝都ノ大騒亂、軍人軍隊ノ私用、至尊ニ對シ奉リ改造ノ強要ヲ結果スルヤリ方、
爆弾 ・毒瓦斯等ノ民間交附等然リデ、
而モ陸軍上層部、中央部ノ軍人等ニ斯ル大破壊、大騒亂、大不敬ヲモ敢テ辭セズトスル者少ナカラズ居ルコト、
及 斯ノ如キ重大ナル陰謀行動ヲ爲シタル者ガ、何等ノ制裁ヲモ受クル事ナク、
寧ロ逆マニ壯語シ、横行シ、營進シツツアルト云フコトガ
如何ニ軍部及民間ノ改造主義者ヲ刺戟シタカハ、
想像ニ餘リアルモノデアリマシテ、
是非ヲ批判シツツ不知不識裡ニ實現形式ヲ
彼ノ如キモノデアルコトニ自ラ決定スルノ風潮ヲ、見ルニ至ツタノデアリマス。
個人ニ於テモ出發ガ大切デアル如ク、社會モ社會運動モ亦同様デアリマス。
一般改造主義者ハ固ヨリ、改造反對論者迄モ一様ニ、
此兩事件ノ形式ヲ以テ改造實現ノ典型的ナルモノデアルカノ如キ暗示ニ陥ツテ了ツテ居ルノミナラズ、
夫レ迄ハ殆ド此方面ニ無意識ニ近ク、無自覺ニ近カリシ陸軍部内、
殊ニ青年將校階級ニ与ヘタ無韻ノ影響ハ極メテ深刻ナルモノガアツタト信ジマス。
( 中略 )
以上ノ諸點、此一大傾嚮ヲ生ジタ理由、動機ニ附テハ、
特ニ深甚ナル御留意ヲ御願ヒスル次第デアリマシテ、
今次事件ノ中心者等亦其ノ代表的ナモノデアリマス。

十  最近ニ於ケル諸事件ト私ノ關係ニ就テ
十月事件
當時對露對満問題デ友人ノ紹介ヲ受ケタ橋本大佐 ( 當時中佐 ) ト時々會見シテ居リマシタガ、
八月下旬ニ漠然タル抽象的ナ方針ヲ聞キ、考慮ヲ約シタ程度ニ於テ此事件ニ關係シテ居リマス。
前年ノ 『 ロンドン 』 條約問題紛糾當時ハ私ノ意見ニ從ツテクレ、
僅ニ海軍次官面詰ノ程度デ平静自重シテ居タ海軍ノ藤井中尉ハ、
今度ハ肯ゼズ、井上日召ト共ニ益々硬化シ、自ラ大川周明ト會見シタリシテ居リマシタ。
私ハ橋本大佐 及 野田又男 ( 當時近歩三附中尉--三月事件參加 ) カラ海軍側參加ヲ依頼サレ、
當時歩三ニ轉任上京シタ菅波中尉等陸軍ノ將校ヨリモ依頼セラレ、
『 オブザーバー 』 デ聯絡係ト云フ様ナ變ナ立場ニ立チマシタ。
其ノ頃マダ明白デハアリマセヌガ、靑年將校群ヲ以テスル重臣襲撃位ニ聞イテ居リマシタ。
柳条溝事件勃發シ、
皇軍既ニ南北満洲ヲ轉戰シ、前途如何ニ爲リ行クカ判ラナイ時、
軍部ハ重臣其ノ他ノ勢力カラ異常ナ壓迫ヲ受ケ、
満洲事變ハ軍侵略主義ノ陰謀ナリト云フ様ナ空氣ガ見ヘタ時、
一面私ハ満洲事變ハ改造ノ前奏曲ナリト信ジマシタノデ、勃然義憤ヲ發シ、
從來迷惑気味デアツタ十月事件ニモ、内容ニ依ツテハ人肌抜ク決心ニナツタノデアリマス。
然ル処、其ノ後近歩二田中大隊、近歩三野田中隊、近歩四森中中隊等ガ立ツト云フコト、
聯隊旗ヲ持出シテ二重橋前ニ集ルトカ、陸軍省 ・參謀本部 ・警視廳等ヲ占領スルトカ、
皇軍相撃タザル如ク中間ニ幕僚ガ立ツテ盡力スルトカ、大川周明ガ詔勅案文ヲ起草シテ居ルトカ、
殺人勲章ヲヤルトカ、誰が大臣ダ、誰ガ戒嚴司令官ダトカ、少將以上ハ塵殺シニスルトカ、
實彈ハ豊橋ノ佐々木大佐ガ持參スルトカ云フコトガ耳ニ入リ、
私ハ事ノ意外ニ驚キ、橋本ニ對シ随分反對忠言シ、又陸軍靑年將校側モ變ナ空氣ヲ生ジ、
結局十月十六日午後私ハ橋本中佐ト會見シ、
計畫内容ガ一切不明デアルカラ若イ人ニ依頼サレテ一度内覧シタイト申述ベ、
十七、十八日ノ両日ハ休日ノ事トテ十九日午後ヲ約シテ別レマシタガ、
其ノ夕刻カラ彈壓ガ始マリ、一切其ノ儘ニナツタノデアリマス。
私ハ此ノ事件ニ依リ熟々考慮反省シタモノデアリマシテ、
其ノ後虚實取交ゼ私ニ種々ナル中傷壓迫ガ集リマシタガ、
之等ノ悉クニ對シ其ノ眞相ヲ明カニスレバ私ノ態度モ自ラ明カトナリマスカラ、
千万人ト雖モ我行カンノ固イ決心ヲ持ツテ臨マントシマシタガ、
一率ニ一切ヲ噛ミ殺シテ雲霧完全ニ消散シテ、
明カニ自覺シタ 『 一乗道 』 ニ黙々トシテ這入ツタノデアリマス。
五 ・一五事件
井上蔵相遭難後海軍ノ古賀中尉ガ來訪シ、
『 黙ツテ居レヌカラ第二ノ犠牲ニナリタイ。尤モ、アナタガ同意シテ下サラナケレバ考ヘ直シマスガ 』
ト云フ趣旨ノ事を申シマシタノデ、私ハ反對シ再考ヲ促シテ置キマシタ。
三月下旬約三週間餘ノ檢束ヲ解カレテ歸宅シマスト、
海軍將校ト士官候補生トガ怪シイト云フ事デ、或先輩カラ注意ヲ受ケ、且大蔵大尉モ心配シテ居リマシタ。
大蔵ガ憂慮ノ餘 古賀ヲ説得ノ爲訪問スルニ際シ、私ハ會ヒタイ事ヲ傳言シテ置キマシタ処、
四月上旬ノ或休日ニ古賀中尉ハ上京來訪シマシタ。
同中尉ハ、關東、東北各地ノ農民モ動クト話シ、決行スル旨ヲ語リ、私ニ同意ヲ求メマシタガ、
私ハ絶對反對ナル旨ヲ述ベテ反省ヲ求メ、結局改メテ聯絡スル事ヲ約シテ別レマシタガ、
遂ニ消息ナク五月十五日ニ至リ、行動ヲ阻碍スルモノトシテ私ハ川崎長光ニ襲ハレタノデアリマス。
尤モ、其ノ当時何故私ヲ襲フニ至ツタノカ、其ノ理由ハ不明デアリマシタガ、
果然其ノ背後ニ三月事件 ・十月事件ノ首脳ノ一人大川周明アリ、本間、頭山等アリ、
次ノ神兵隊トモ一脈相通ジテ居ル事ガ判ツタノデアリマス。
・・・五 ・一五事件 ・ 西田税 撃たれる

十一 私ノ生活態度ノ一端ニ就テ

私ノ同志ニハ、『 テロ 』 反對主義ニ立ツ狭心社同志諸君ノ如キモアリ、
大體ニ於テ五 ・一五事件迄ハ、
中央政界ニ於ケル高等政策的政治運動ヲ主トシテ爲シ來ツタモノデアリマスガ、
五 ・一五事件以後ハ在家信者運動ニ眞劍ニナリマシテ、
今ヤ農村 ・都市、中央 ・地方ヲ通シテ、
或ハ郷軍關係トシテ、或ハ農民運動、勞働運動、大衆團體運動トシテ關係致シマシテ、
徐々ニ且孜々トシテ進ンデ來タモノデアリマス。
何レモ命令服從關係デナイ事ハ、既ニ申上ゲタ通リデアリマス。
無組織ノ組織トモ申シテ居リマシタ。
軍人方面デハ、時々急進過激ナ事ヲ持歩ク人モアツテ、幾分ザハツイテ居リマシタ。
村中等モ苦心シ、
時々私ニ對シマシテ 『 命令的ニ統制シテハ如何デアラウカ 』 ト云フ様ナ、
相談的ナ依頼的ナ事ヲ申込マレタ事モ二、三度ハアツタト思ヒマスガ、
私ハ方針トシテモ斯ル処置ハ反對デアリマスノデ拒否シマシタガ、
此ノ場合ハ懇談理解ノ方法デ平靜ニ歸スルコトヲ得テ居ツタノデアリマス。
齋藤内閣總辭職當時と思ヒマス。
栗原中尉等ガ、戰車隊ヲ中心トシテ不穏ノ形勢ニ在リ、村中、磯部等モ多少之ニ引ズラレテ居タラシク、
大蔵大尉ハ之ニ反對シ私ニ打明ケマシタノデ、同感デアツタ私ハ、
明白ニ記憶致シマセヌガ栗原等ノ有志三、四名ト會見シテ、
『 世ヲ騒ガセ、自ラヲ亡ボス結果ヲ見ル計リノ過誤デアリ、必ズ失敗ニ歸スルノデアルガ、
 覺悟シテヤルナラバ制止スル筋合デハナイガ、何ヲ騒ギ立テルノカ。
御互ヒデソンナ騒ギヲスル間ニ、將校團一體運動デモヤツテハ何ウカ 』
ト云フ趣旨ノ事ヲ申シ、結局事無キヲ得タ事モアリマシタ。
然ラバ、實現期ニハ如何ニ行動スルカト申シマスト、
既ニ申上ゲマシタ様ナ事態ニ於テ國家ノ生命 及 制度組織ノ根本ニ觸レル重大ナル國策問題、
特ニ財政經濟關係ニ附 政府纏ラズ、國論亦動クノ時アリトセバ、或ハ斷乎自ラ挺身スルカモ知レマセヌ。
喩ヘテ鳥羽伏見ノ一戰ト私ガ申シマスノハ、此事デアリマス。
唯祈ル所ハ、順調ニ進ンデ大權権ノ發動トナルコトデ、
此國家的進軍ニ臣下ノ一兵士トシテ從軍スル事デアリマス。
夫レ迄ハ啓蒙デアリマス。

・・・昭和11年6月2日付第二回被告人訊問調書
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被告人ノ抱懐セル國家改造理論竝其ノ實現ノ手段、方法ニ就テ述ベヨ
公訴狀ニハ、
私ガ今回ノ事件ノ主動者トシテ行動シ、蹶起部隊ヲ指導シタカノ様ニ書カレテアツタノデアリマス。
昨日モ鳥渡申上ゲマシタガ、
今回ノ事件ノ人達ガ日本改造法案大綱ヲ基調トシ、
之ヲ實現セムガ爲ニ蹶起シタカ何ウカハ私ノ知ル所デハアリマセヌ。
彼等トノ平生ノ關係及事件中或程度ノ接触ヲ保ツタ故ヲ以テ左様ニ考ヘラレルト云フ事ハ、
事實ノ眞相ヲ誤ル虞レガ多分ニアルト存ジマス。
私ノ至ラヌ所モアリ、不徳ノ致ス所デモアリマセウガ、
世間ノ噂、デマニ根拠ヲ置イタ観察ハ迷惑デアリマス。
( 中略 )
私ハ北ノ日本改造法案大綱ヲ
十六、七年信ジ、考ヘテ、之ニ基イテ研究シ、解釋シ、行動シテ來タモノデアリマス。
改造法案ナル書物ハ一般ニ廣ク出シテ居ル譯デモナク、從ツテ一般ニ讀マレタ書物デハアリマセヌ。
改造法案ニハ、
日本ノ改造ハ天皇ト全國民トノ合體ニ依ツテ成リ、
然モ天皇大權ノ發動ニ依ツテ改造ハ進行サレ、
之ヲ全國民ガ輔佐シ奉ルモノニシテ、
決シテ國民ノミニ依ツテ改造スルモノデナイコト
及天皇ノ改造實行ニ對スル輔佐ハ、在郷軍人ナルコトヲ明記シテアルノデアリマス。
現役軍人ヲ以テ國内ノ改造ニ使用スルト云フ事ハ、
ロシア、ドイツノ如キ國柄ナラバイザ知ラズ、日本デハ絶對ニ罷リナラヌ所デ、
外國ヨリノ侵略 及 國内ニ於ケル改造妨碍者ノ警備ニ任ズベキモノナルコトヲ特筆大書シテアリマス。
要スルニ日本ノ改造ハ、
天皇ヲ中心指揮者シ仰ギ奉リ、國民ハ各其ノ立場立場ニ依ツテ動クノガ改造法案ノ趣旨デアリマス。
又戒嚴令ヲ布ク事ハ、説明ニモアル通リ、
天皇ノ改造方針、改造斷行ニ對シ邪魔スル者ガアレバ、
之ヲ排撃スル様ナ必要ノアル場合ニ布クノデアツテ、
帝都ヲ擾乱シ、以テ戒嚴令ニ導クガ如キハ絶對ニ反對デアリマス。
次ニ、國家ノ大勢ヲ改造ニ導ク爲ニハ如何ニスレバ宜イカ、ト云フ準備行動ノ問題ガアリマス。
改造ノ實現方法ト其ノ準備行動トハ自ラ違フノデアリマシテ、準備行動トハ國民ノ自治國民運動デアリマス。
改造法案ニハ、
擧國一人ノ非議ナキ國論ヲ定メ、全日本國民ノ大同團結ヲ以テ終ニ天皇大權ノ發動ヲ奏請シ、
天皇ヲ奉ジテ速ニ國家改造ノ根基ヲ完フセザルベカラズト記サレテアリマス。
一人ノ非議ナキニ至ル事ハ理想境ナルモ、之ニ近イ所迄行カナケレバ改造ハ出來マセヌ。
一人デモ多ク理解スルニハ、夫レダケ改造ガ容易ニ出來ル譯デアリマス。
國民ニハ各職能アリ、軍人ハ軍人、學生ハ學生、官吏ハ官吏、勞働者ハ勞働者ト云フ風ニ、
各其ノ立場ニ於テ自覺シ行動スルノデアリマス。
軍隊ダケガ蹶起シテ改造ヲ斷行シヤウト考ヘルノハ、誤ツテ居リマス。
私ハ軍隊ダケデヤルトカ、軍隊本位デヤルトカ考ヘマセヌ。
改造運動ハ國民ノ間ノ凡ユル立場ニ起ツテ、始メテ改造ガ出來ルノデアリマス。
國民生活ノ困苦、内憂外患等ヨリ、國民ノ間ニ改造シナケレバナラヌトノ氣運ガ醸成サレテ來ナケレバナラヌノデ、
此氣運ト國民ノ改造運動トガ御互ニ凭もたレ合ツテ、改造運動ハ逐次進展スルノデアリマス。
言ヒ換へマスト、改造運動ハ新陳代謝運動デアル。
有機體トシテノ新陳代謝ガ内部ヨリ起ルノガ、即チ改造デアリマス。
芽ガ出ナイノニ葉ガ落チタノデハ、自然ノ理屈ニ合ハナイ。
此様ナ國家ハ滅亡スルノデアリマス。
葉ガ落チル時々ハ、既ニ次ノ芽ガ出ル様ニナツテ居ナケレバナリマセヌ。
端的ニ申シマスト、經濟組織ト内部崩壊デアリマス。
經濟組織ガ未ダ活力ヲ以テ國家社會ヲ賄まかなツテ居ル間ハ、改造ハ出來マセヌ。
内憂外患ガ起リ、現在ノ經濟組織デハ之ヲ救フニ不適當デアルト云フ事ガ國民ノ間ニ理解サレ、
之ヲ如何ニスベキカノ根本方針ガ定マリ、已ムヲ得ザル時期ニ到來シタ改造運動ハ、改造時期ヲ促進シマス。
即チ、芽ヲ出ス準備ガ十分出來テカラナラバ、葉ハ落チテモ宜イノデアリマス。
( 中略 )
北ガ時ノ内憂外患ヲ憂ヘテ日本改造法案大綱ヲ書イテカラ、最早十七、八年ヲ經過シマシタガ、
國民ガ此内憂外患ヲ自覺スル様ニナルト改造運動ハ促進サレル譯デ、
先ヅ其ノ態勢ヲ整ヘル必要ガアルノデ、無理ヲシテハ決シテ改造ハ出來マセヌ。
而シテ我國民ニ對スル改造ニ附テノ啓蒙運動ハ、改造法案ノ建設論ガ主デアリ、
又此建設論ノ大眼目ハ私有財産ノ限度制デアリマス。
現在ノ資本主義經濟機構ニ對スル議論ハ相當喧マシク叫バレル様ニナリマシタガ、
之ニ代ルニ如何ナル經濟組織ヲ持ツベキカ、
即チ其ノ建設方法ニ於テハ、五里霧中ニ迷ツテ居ル様デアリマスガ、
改造運動ガ塾シテ來レバ朝野共ニ研究シ、議論ガ行ハレル筈デアリマス。
五里霧中ニ迷フ様デハ、未ダ改造ノ時期ニ達シテ居リマセヌ。
ダカラ、此建設原理ヲ國民ノ間ニ成ルベク廣ク理解サセタイノガ、私ノ使命デアリマス。
みだりニ人ヲ殺ス爲ニ、人ト交ツテ來タノデハアリマセヌ。
人ガ蹶起セムトスルヲ抑止シテ來タ次第ハ、昨日申上ゲタ通リデアリマス。
私ハ、斯ル根本方針ニ立ツテ改造法案ヲ信ジ、之ヲ實行ニ移シテ來マシタ。
世間周囲ヨリ有形無形ノ干渉、壓迫ガ甚シクナレバナル程、自分ノ信念ヲ大事ニ育テ、
國家ノ上ニ花ヲ咲カセタイト云フ氣持デ國民運動ニ力ヲ入レテ居ツタ際、今回ノ事件ガ勃發シタノデアリマス。
私ハ、今回ノ事件ニ幾多ノ關係ヲ持チマシタガ、或種ノ型ニ嵌メタ様ナ關係デ動イタノデハアリマセヌ。
二、三年前ヨリ苦労艱難シツツ、労働運動ト在郷軍人ノ關係ニ於テ國民運動ヲ進メテ來テ居ルノデ、
不肖ナガラ青年將校ノ十人ヤ二十人ヲ當テニシテ改造運動ヲヤラウナドトノ無茶ナ事ハ考ヘテ居リマセヌ。
今回ノ様ナ事件ガ起ルノハ時代ノ現象トシテ認メザルヲ得ナイ事デ、
仮ニ青年將校等ガ改造法案實現ノ爲ニ蹶起シタトシテモ、
事件其ノモノト如何ナル關係ガアルカ距離ノアル事デアリ、
今回ノ事件ヲ眺メテ、
私共ノ改造方針ハ其ノ様ニヤルニ在ルノダト考ヘルノハ間違ツテ居リマス。
( 中略 )
現下ノ國内一般ノ大勢ヲ洞察サレテ今回ノ事件ヲ観テ頂ケバ、
彼等ハ決シテ日本改造法案ノ實行ヲ目指シテ蹶起シタノデハナイ事ガ判明スルト思ヒマス。

被告人ハ、
被告人ノ改造法案ニ對スル解釈竝実行ニ附テノ考方ナドニ附、
被告人ニ接スル者ニ對シテ説明シタ事ガアルカ

特ニ人ヲ集メテ話シタ事ハアリマセヌガ、個人個人ニハ機會アル毎ニ説聞カセテ居リマシタ。

今回ノ事件ニ蹶起シタル靑年將校等ニ對シテハ如何
今回ノ事件ノ中心人物、
即チ村中、磯部、安藤、香田、栗原等ニ對シテハ數年來ヨク話シテアリ、
栗原ノ如キ過激性ノ者ニハ特ニヨク話シテ遣リマシタ。
斯様ニ論シテ來タカラコソ、私ノ考ガ彼等ニヨク判ツテ居ルノデ、
今度モ私ニ抑止セラレ、
又ハ抑止セラレル事ヲ思ツテ勝手ニ計劃ヲ進メ、
勝手ニ蹶起シタノデアリマス。

被告人ノ改造意見ガ果シテ村中、磯部其ノ他ノ者ニ判ツテ居タトスレバ、
今回ノ如キ行動ニハ出ラレナカツタダラウト思ハレルガ如何
彼等ハ、私ノ考ハヨク判ツテ居タガ、肯入レラレナカツタノデハナイカト思ヒマス。
私ヨリ話ヲ聞ケバ成程サウダト判ツテ居テモ、
他所デ別ナ事ヲ耳ニスルト又考ガ變ルト云フ風デアツタノデハナイカト思ヒマス。
即チ、彼等トシテハ理屈ハ西田ノ言フ通リダガ、
自分達ニハ實践ハ出來ナイト云フ気持デ、
今度デモ私達ニハ敬遠主義ヲ採ツタノデハナイカト思ヒマス。

被告人ノ言フ所ハ、
実践ノ伴ヒ得ナイ理屈、換言スレバ直接行動ニ陥リ易イ理屈デハナイカ

或ハリクツ通リニハ行カヌカモ知レマセヌ。
又理屈ハ一ツデモ、實践ト云フ事ニナルト各人ノ性格ニ依ルト思ヒマス。
・・・第二回公判 ( 昭和11年10月2日 )


西田税、北一輝 ・ 捜査経過 ( 昭和11年2月28日~昭和12年8月19日 )

2018年11月05日 05時17分32秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録


西田税、北一輝
捜査経過

昭和11年
2月28日    北、東京憲兵隊に連行 ・留置
2月29日  反乱将校ら逮捕さる ・事件鎮圧

・・・リンク→ 「 これからが御奉公ですぞ。しっかり頑張ろう 」 

3月2日    北に対する東京憲兵隊本部陸軍司法警察官 ( 憲兵 ) 第一回聴取書 ( 鈴木磯治郎憲兵曹長 )
・ 北一輝 (憲聴取1) 『 今回ノ事件ニハ西田ハ直接關係ハナイ 』 
3月3日    北に対する憲兵第二回聴取書 ( 福本亀治憲兵少佐 )
北一輝 (憲聴取2) 『 譬ヘ逆賊ノ汚名を被セラルモ、 此ハ正義ノ行ヒナリ 』
3月4日    西田、警視庁に連行 ・留置
3月4日  東京陸軍軍法会議設置に関する昭和十一年緊急勅令第二塔二十一號公布 。即日施行
3月6日    北に対する憲兵第三回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
 北一輝 (憲聴取3) 『 彼等ノ行フコトハ正義デアル 』
3月8日    北に対する憲兵第四回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
北一輝 (憲聴取4) 『 實西田税ガ、二月二十七日ヨリ同月二十八日迄私方ニ居リマシタ 』 
3月8日    西田に対する警視庁特別高等部特別高等係司法警察官 ( 警察官 ) 第一回聴取書 ( 関口照里警部補 )
・ 西田税 (警聴取1) 『 私は諸君と今迄の關係上自己一身の事は捨てます 』
3月9日    北に対する検察官第一回聴取書 (竹澤卯一陸軍法務官 )
3月9日    西田に対する警察官第二回聴取書 ( 関口警部補 )
・ 西田税 (警聴取2) 『 僕は行き度くない 』
3月10日    西田に対する警察官第三回聴取書 ( 関口警部補 )
・ 西田税 (警聴取3) 『 私の客観情勢に対する認識 及び御維新實現に關する方針 』

・・・リンク→ 幕僚の筋書き 

3月13日    北に対する憲兵第五回聴取書 ( 福本亀治憲兵少佐 )
北一輝 (憲聴取5) 『 二十七日午後、安藤大尉ヲ電話ニ呼ビ出シテ、「 〇ガアルカ 」 ト尋ネタコトガアルカ 』
3月15日     北に対する憲兵第六回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
北一輝 (憲聴取6) 『 外部カラ蹶起部隊ニ對シテ好意的ナ助言ヲシタ 』
3月15日    北に対する検察官第二回聴取書 (竹澤陸軍法務官 )
3月15日    西田、東京憲兵隊に移送


・・・リンク→ 幕僚の筋書き 

3月17日    西田に対する憲兵第一回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
西田税 (憲聴取1) 『 貴方から意見を聞かうとは思はぬ 』
3月17日    北に対する警察官第一回聴取書 ( 関口警部補 )
・ 北一輝 (警聴取1) 『 是はもう大勢である 押へることも何うする事も出來ない 』
3月17日    西田に対する憲兵第二回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
西田税 (憲聴取2) 『 萬感交々で私としては思ひ切って止めさせた方が良かったと思ひます 』
3月18日    北に対するの警察官第二回聴取書 ( 関口警部補 )
・ 北一輝 (警聴取2) 『 仕舞った 』
3月18日    西田に対する憲兵第三回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
西田税 (憲聴取3) 『 石原は相変らず、皇族内閣などを云って居るとすれば、國體違反だ 』
3月19日    北に対する警察官第三回聴取書 ( 関口警部補 )
・ 北一輝 (警聴取3) 『 大御心が改造を必要なしと御認めになれば、 百年の年月を持っても理想を實現することが出來ません 』
3月20日    北に対する警察官第四回聴取書 ( 関口警部補 )
・ 北一輝 (警聴取4) 『 柳川では遠い 』 
3月20日    西田に対する憲兵第四回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
西田税 (憲聴取4) 『 若いものが起ちましたから、其収拾に就てはよろしく御盡力をお願ひ致します 』
3月21日    北に対する警察官第五回聴取書 ( 関口警部補 )
・ 北一輝 (警聴取4) 『 柳川では遠い 』 
3月22日    西田に対する憲兵第五回聴取書 ( 大谷敬二郎憲兵大尉 )
西田税 (憲聴取5) 『 眞崎大將をして時局収拾せしめたいと鞏調しました 』
3月27日    北に対する憲兵第聴取書 ( 宇津木猛雄憲兵少佐 )
・ 北一輝 (憲調書) 『 西田は、同志と生死を共にしようと決心した 』 
4月11日    北、東京憲兵隊に移送
4月11日    西田に対する憲兵第六回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
西田税 (憲聴取6) 『 昭和維新への道程 1 』・・前
・ 西田税 (憲聴取6) 『 昭和維新への道程 2 』・・後

4月14日    西田、東京陸軍軍法会議検察官に送致
4月14日    西田につき、予審官に対して強制処分請求
4月15日    北、東京陸軍軍法会議検察官に送致
4月16日    西田につき、勾引状執行
4月16日    西田に対する予審官訊問調書 
 ( 勾留訊問調書 ・・新井朋重陸軍法務官 )
( 第一ないし第三問答省略 )
四  問  陸軍司法警察官ノ送致書記載ノ犯罪事実ハ次ノ通リニ爲ツテ居ルガ怎ウカ
  此時予審官ハ陸軍司法警察官ノ送致書記載ノ犯罪事実ヲ讀聞ケタリ
 答  只今御讀聞ケニナツタ犯罪事実ニハ大分相違ノ點ガアリマスガ、何レ御取調べニ對シ弁解スル積リデアリマス。

4月16日    西田につき、勾留状発付 ・執行 ( 勾留場所、東京衛戍刑務所 )
4月17日    北につき、予審官に対して強制処分請求
4月17日    北につき、勾引状執行
4月17日    北に対する予審官訊問調書 ( 津村幹三陸軍法務官 )
4月17日    西田につき、勾留状発付 ・執行 ( 勾留場所、東京衛戍刑務所 )
4月17日    北に対する憲兵第七回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
 北一輝 (憲聴取7) 『 國家改造運動ノ經緯ニ就テ 』
4月28日 将校班、第一回公判
5月4日    北 ・西田両名につき、予審請求命令 ( 陸軍大臣寺内壽一 )
5月5日    北 ・西田両名につき、予審請求 ( 検察官匂坂春平陸軍法務官 )
5月28日  西田に対する予審官第一回訊問調書 ( 伊藤章信陸軍法務官 )
6月2日    西田に対する予審官第二回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
6月4日   将校班、論告 ・求刑
6月5日  将校班、結審
6月6日    西田に対する予審官第三回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
6月12日    西田に対する予審官第四回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
6月20日    北に対する予審官第一回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
6月26日    西田に対する予審官第五回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
7月3日    北に対する予審官第二回訊問調書 ( 伊藤法務官 )

7月5 日  反乱実行者に対する判決宣告
7月7日    西田に対する予審官第六回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
7月9日    北に対する予審官第三回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
7月9日    新井予審官から検察官に対して、北 ・西田の予審終了通知
7月12 日 村中孝次 ・磯部淺一を除く十五名、死刑執行
7月24日    匂坂検察官から陸軍大臣に対して、北 ・西田の予審終了報告
・・・(15) 「 匂坂資料 」 Ⅲ ( 一九九〇年 ) 130頁、134頁
7月24日    北 ・西田につき公訴提起命令 ( 寺内陸軍大臣 )
・・・(16) 「 匂坂資料 」 Ⅲ 133頁、136頁
7月24日    北 ・西田につき各別に公訴提起 ( 匂坂検察官 ) 

公判の進行状況
第一回 ( 昭和11 ・10 ・1 ) 併合決定、人定質問、西田に対する被告人訊問
第二回 ( 昭和11 ・10 ・2 ) 西田に対する被告人訊問 ( つづき )
第三回 ( 昭和11 ・10 ・3 ) 西田に対する被告人訊問 ( つづき )、北 ・亀川の西田供述に対する意見陳述
第四回 ( 昭和11 ・10 ・5 ) 北に対する被告人訊問
第五回 ( 昭和11 ・10 ・6 ) 北に対する被告人訊問 ( つづき )、北供述に対する西田の意見陳述、亀川に対する被告人訊問
第六回 ( 昭和11 ・10 ・7 ) 亀川に対する被告人訊問 ( つづき )
第七回 ( 昭和11 ・10 ・8 ) 亀川に対する被告人訊問 ( つづき )
第八回 ( 昭和11 ・10 ・9 ) 亀川に対する被告人訊問 ( つづき )、亀川供述に対する西田の意見陳述
第九回 ( 昭和11 ・10 ・15 ) 亀川に対する被告人訊問 ( つづき )、書証の証拠調べ、書証に対する各被告人の意見陳述
第一〇回 ( 昭和11 ・10 ・19 ) 書証の証拠調べ ( つづき )、書証に対する各被告人の意見陳述
第一一回 ( 昭和11 ・10 ・20 ) 書証の証拠調べ ( つづき )、書証に対する各被告人の意見陳述
第一二回 ( 昭和11 ・10 ・22 ) 検察官の論告 ・求刑、各被告人の最終陳述、弁論集結
第一三回 ( 昭和12 ・8 ・13 ) 弁論再開、手続き更新、西田 ・亀川につき書証取調べ、書証に対する西田 ・亀川の意見陳述、再び弁論集結
第一四回 ( 昭和12 ・8 ・14 )  判決宣告

8月19 日  北、西田、村中、磯部の死刑執行


西田税の手記

2018年11月04日 09時08分12秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

 
西田税 
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎
たまたま web上でみつけたもの、

此も亦 出逢いかしら・・と、私流に吟讀し、
茲に 『 書写 』 したものである
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

西田の手記
東京陸軍軍法会議予審官陸軍法務官新井朋重は同軍法会議検察官に対して、
昭和一一年七月九日付で西田の叛乱被告事件の予審が終了したとして一件書類を送致し、
右通知は翌一〇ニチ受第四五六号で受理された。
これで事件は、検察官のところへ戻されたことになるが、西田はその前後に予審官に対して、
冒頭に 「  ( 伊藤法務官へ提出 ) 」 と自筆で括弧書きした 「 手記 ( 陳述補遺 ) 」 と題する供述書を提出している。
この手記は、陸軍のB4版罫紙三二枚に鉛筆で書かれている。
端正でしかも雄渾ゆうこんなその執筆は、彼の人となりを窺うに十分である。
西田派、六回に及ぶ予審訊問を通じて、自己の心情が予審官に十分伝わっていないと感じていたのであろう。
彼は、まず自己の改革思想について釈明した上、事件と自分とのかかわりについて詳細に弁明している。

この手記の表書きには、「 昭和十一年七月初旬 」 と記載されているが、
  そこに押捺された東京陸軍軍法会議の受付印の日付は、「 一一 ・七 ・二一 」 となっている。
受け付けた 「 東京陸軍軍法会議 」 が予審官を指すのか、それとも検察官を指すのかが先ず疑問であり、
「 七月初旬 」 と 「 七 ・二一 」 のずれも気にかかる。
手記の草稿が、予審係属中からの少しずつ書き留められていたことはあり得ないではない。
しかし、文章の続き具合と全体的な執筆から推理すると、手記は一気に書き上げられたという印象が強い。
手記は予審での供述を補うために作られているから ( このことは、その表題から明らかである )、
これが七月七日の最終訊問以後に作られたことは疑う余地がない。
したがって、西田が書いた 「 七月初旬 」 を文字どおりに受けとると、
手記は七月七日から一〇日までの間に書かれたと推定することができる。
では、七月二一日にこの手記を受理した東京陸軍軍法会議の機関は、
予審官か、それとも予審官を経由しての検察官か。
前者では、西田の記した作成時 「 七月初旬 」 との間隔が開きすぎる。
もっとも、西田が手記を書き上げたものの提出をためらっていたため、
日時が経過したと考えることもできないではない。
しかし、もしそうだとすると、提出を決意した時点で、
「 初旬 」 という記載を 「 中旬 」 あるいは 「 下旬 」 に訂正するのが常識であろう。
私としては、後者、すなわち、予審官から検察官にこの手記が追送され、
検察官がこれを受領した日にちが 「 七 ・二一 」 ではないかと推測している。

ところで、七月五日には青年将校ら一七名に死刑判決が言い渡され、
一二日には村中、磯部以外の一五名について銃殺刑が執行された。
ワタシガ手記の作成時にこだわったのは、このことに関係している。
私の推理によれば、この手記は死刑判決とその執行の中間で書かれたことになる。
それにもかかわらず西田は、同志の死については、手記の中で一言も触れていない。
これは一つの謎であろう。
私としては、そこに、押し殺された西田の深い悲しみを覗き見るような気がする。
おそらく、彼は意識的にそれを書かなかったに違いない。
もしも間もなく殺される人たちの思いを少しでも綴るとしたら、たちまち彼はほとばしる激情に流されて、
後にみるように、予審官に対して 「 公正ナル御裁断ヲ仰望 」 したりなどできるはずもないからである。
予審官は、北と西田を事件の首魁と決めつけている ( 西田の第五回予審訊問調書第三〇問答参照 )。
それが、この二人をスケイプ ・ゴオトに仕立てようとする軍首脳部ま意向によることを、明敏な西田が察知しないはずはない。
したがって、「 公正ナル御裁断 」 など、もはや期待すべくもないのである。
にもかかわらず彼は、少なくともこの時点では、軍のフレイム ・アップによって殺されることに耐えられなかったのだと思う。
死んでも死にきれぬ思いだったのだと思う。
彼は、何としてでも自分だけは生きねばならぬと思ったのではないだろうか、

この手記は、暗黒の地底から、絶望しつつもなお救いを求める西田の血の叫びである。
切々と訴え続ける端正な文字の背後に、彼の苦悩に満ちた面影を見る思いがする。

手記の構成
第一  改造理論ニ就テノ一考察
 一  一般改革理想ト所謂社會主義
 二  「 改造法案 」 ノ根本思想
 三  敵本的非難ニ就テ
 四  所謂 「 靑年將校ノ純眞性 」
第二  「 二 ・二六事件 」 ニ對スル立場ニ就テ
 一  事件關係一部將校等トノ關係
 二  事件原因ニ就テノ一二ノ參考事實
 三  事件關係ノ立場梗概こうがい ( 第一期、第二期、第三期、第四期、第五期 )
 四  事件關係立場ノ總括的結論

第一  改造理論ニ就テノ一考察
第一項 「 一般改革理想ト所謂社會主義 」 および第二項 「 「 改造法案 」 ノ根本思想 」 において、
北の改造法案が社会民主主義に立脚していることを認めながらも、
それが個人の人格と私有財産を容認する北独特のものであることを強調する。
( 改造法案の根本思想は ) 明カニ一種ノ 『 民主社會主義 』 デアリマス。
( 中略 ) 而モ在來ノ民主主義、社會主義ニ非ズ、独自ノ夫レデアルトシテ居ルモノデ、
現代日本人北一輝トシテノ學的理論デアリマス。
此ノ點ハ、『 法案 』 ノ随所ニ一般在來ノ社會主義 ( 特ニ外國流ノ ) ヲ批判彈劾シテ居リマスカラ、明瞭デアリマス。
『 權威ナキ個人ノ集合ハ、奴隷的社會ナリ
』 ト云ツテ居ル如ク、
『 權威 』 即チ人格權ヲ享有スル個人ノ結合ニヨル有機的統一社會---人格國民ヲ分子トスル國家ヲ主張スルモノデアリマス。
同時ニ 『 此ノ個人ノ物質的保障ハ私有財産ニアリ 』 トシテ、私有財産制度ヲ絶對必須条件トシテ居ルモノデ、
( 限度制トハ全體的統一ノ必要上ノ限度制デアリマス ) 『 個人主義ノ正當ナル發達ナクシテ社會主義ノ眞ノ進化ナシ 』
トモ言ツテ居リマス。
同時ニ斯ノ國民ニヨリテ信念サレ、體現サルル國體理想ナルガ故ニ、始メテ日本國體ハ正シク強ク活キテ來ルノデアリマス。
神格的天皇ヲ國家ノ根柱、一體的君民ノ神的表現トシ、
其ノ統一ノ下ニ人格權ヲ享有シ、結合スル人格國民---此ノ日本國家ニシテ始メテ大帝國タリ得ルモノデアリマス。」
「 斯クノ如クシテ、『 法案 』 ノ根本思想ハ學的ニ一種ノ 『 民主社會主義 』 デアリマスガ、
實際歴史的ニハ、純乎トシテ純ナル 『 日本精神ノ近代的閉鎖 』 ト云フベキモノデアルノデアリマス。」
第三項 「 敵本的非難ニ就テ 」 では、従来日本改造法案に対しては天皇機関説的思想であるとか、
外国思想の直訳であるといった 「 卑怯姑息ニシテ低級淺薄ナ非難 」 が浴びせられてきたが、
「 是ハ寧ロ思想其者ヨリモ、主トシテ北、西田ニ對スル敵本的攻撃ニ利用サレタ 」 ものであったとし、
法案は現在の社会よりもより社会本位的である点において、「 社会主義呼バハリハ甘ンジテ受ケル 」 と言いきる。
そして、これは日本に適合する思想であって、「 斷ジテ非日本的ナルモノニ非ズ 」 と主張する。
第四項 「 所謂 「 青年將校ノ純眞性 」 」 においては、
青年將校の 「 純眞無垢 」 性がもっぱら軍部の上層部から 「 吹聴放送 」 されているが、
これは 「 單純ニシテ無智デアルト云フ事ノ美化デアルトスレバ、無礼侮辱モ極マル 」
と前置きしたうえで、次のようにいう。
『 北、西田ト其ノ仮装セル思想ニ誘惑欺騙サレタ 』
 トハ一應靑年將校ヲ庇蔭セルカノ如キ言辭デアリマスガ、事實ハ逆ニ侮辱スルモノデアリマス。
加之、北、西田に至ツテハ全クノ冤罪デアリ、非常ナル侮辱デモアリマス。
宛トシテ惡人扱ヒデアリ、所謂浪人的生活ヲナシテ居ルガ故ニ、
常ニ不純ヲ行動スルカニ直感曲解セルコトノ一結果デモアルト思ヒマス。

第二  「 二 ・二六事件 」 ニ對スル立場ニ就テ
第一項 「 事件關係一部將校等トノ關係 」 において、
 將校達の直接行動に反對し、抑止に努力してきたその自分が、
叛乱の首魁として處断されようとしている運命の皮肉について慨嘆する。
直接行動--- 『 テロ 』 等ニハ私ガ必ズ反對シ、私ニ知レバ必ズ之レヲ抑止シ、
忠告スルモノデアルコトハ、安藤君、栗原君等モ判ツテ居タ筈デス。
殊ニ混亂ヲ惹起シテ戒嚴ヲ期待スルカノ過去幾多ノ事件等ガ根本カラノ逆施倒行ナルコトノ批判ノ如キハ、
十二分ニ説明シテ居ル所デアリマス。
從來 性格的ニモ危險性ヲ包蔵セル栗原君ナドニ對シテハ、
其ノ氣分ヲ煽ルカノ一原因家庭ニアリト感ジタコトガアツタノデ、
山口大尉等ヘモ話シ、父君ノ國家的事業ニ對スル陸軍トシテノ誠意アル或ル對策ニツキ盡力ヲ願ツタコトモアリ、
軌道ヲ逸脱セザランコトヲ努メテ來タモノデアリマス。
實ニ換言スレバ十月事件以後、現役軍人ノ破壊的行動ニ出デントスル氣配アルニ對シテ、
之レヲ豫防シ、抑止スベク努力シテ來タコトニ於テ、私ハ陸軍カラ誉メラルルトモ
惡ク思ハルル道理ノナイ事實上ノ立場ニ居ルモノデデモアルノデアリマス。
終ニ酬イラルルニ誤解、曲解、デマ、壓迫、排撃以外ノ何物モナキニ至ツテ、感懐眞ニ憮然タルモノアリ、
茲ニ將ニ葬ラレントスルニ至ツテヤ、終ニ何ノ爲ノ人生ナルヤヲ自嘲自哭セシメラルルモノデアリマス。
第二項 「事件原因ニ就テノ一二ノ参考事実 」 では、青年將校を事件に追いやった一因として、
軍首脳部の青年將校に對する不當な敵視、差別の方針と、
永田軍務局長が企圖したという風説のある第一師團の満洲派遣をあげる。
第三項 「事件關係ノ立場梗概 」 では、事件と自分とのかかわりを五期に分けて詳細に説明する。

第一期 ( 二月十八日頃栗原中尉トノ會見前 )
從來過激ナ 『 テロ 』 主義的言辭ヲ吐ク者ハ栗原中尉デ、
挨拶代レニ用ヒル位ダト迄評判サレテ來タ口癖ノ人デアリ、
之レニ多少雷同共鳴的ナ態度ヲ示スノガ磯部君デアリマシタ。

安藤大尉、香田大尉等ノ存在ハ、之レガ無言ノ壓倒的解消力デアリマシタ。

山口大尉カラ栗原中尉ノコトヲ聞イタ時モ、半信半疑デアリマシタガ、
會ツテ話スル氣持ニナツタ主原因ハ、栗原君ガ例ノ如ク過激ナコトヲ言動シテ 『 引込ミ 』 ガツカナクナリ、
終ニ餘儀ナクトビ出ス破目ニ陥ルトイケナイ ( 從來コノ傾向ガ多分ニアツタノデアリマス ) カラ、
ト云フコトニアツタノデアリマシタ。
體内デ煽動的ナ言動ガ露骨ダト云フ話デアツタカラデ、
從來ノ中尉ノ癖ヲ知ツテ居ルト思ツテ居タ私ハ、之レハイケナイト考ヘタノデアリマス。
同中尉サヘガタガタ騒ギサヘシナケレバ、
軍人方面ハ極メテ平和ダツタカラ、注意旁々會ヒタカツタ譯デアリマス。
同時ニ、万一ノコトデモアレバ、
何モ彼モ駄目ニナル重大ナ問題デアルカラデモアルコトハ勿論デアリマス。
要スルニ、蹶起約一週間前ニ於テ、大體右ノ程度ノ大勢ト判斷トデアツタノデアリマス。」

第二期 ( 栗原中尉會見---二月二十一日、二日頃迄 )
栗原中尉ハ、電話口ノ態度カラシテ從來トハ多少感ヲ異ニシマシタノデ、
 『 會フ必要ナシ 』 ト拒絶スルノヲ實ハ癪ニモ觸ツタノデスガ、
怒鳴ツテ兎ニ角會フコトヲ約束サセタ上會ヒマシタガ、其ノ模様ハ調書ノ通リデアリマシタ。
豊橋ノ方トハ已ニ聯絡濟みと云フヨリハ自分ガ出向イテ行ツタラシイ話デ、
早クモ實行ニ移ツテ居タコトト、時機ヲ殊ノ外ニ焦ツテ居ル風ガ見ヘタコトハ、私ヲ相當驚カセマシタ。
ソレニ私ノ反對意見、忠告、懇願悉クヲ 好イ加減ニアシラツテ居ル如キ口吻、態度ヲ見タノデ、
從來トハ趣ヲ異ニシテ居ルコトヲ感ヅイタノト、
『 貴方カラ色々ナコトヲ言ハレルノガ一番嫌ダ 』
ナドノ噛ンデ吐ク如キ言葉ブリハ、今迄經驗シナカツタ所デアリマシタ。

然シ、栗原中尉ノ今迄カラ考ヘテ、他ノ人々ハ到底動カヌト思ヒ、動クト思フノハ中尉ノ過信ダトシ、
  ( ソレモ忠告シタガ、過信デハナイト云ヒ切ツテハ居マシタガ ) フリ切ル様ニシテ歸ツタ後、
從來ノ體驗上 安藤君ニヨツテ抑止出來ルト思ヒ直シタ上、安藤君ト會見シタ譯デアリマスガ、
之レハ眞ニ意外デ、本文ニ述ベタ如ク結局ハ抑止ノ途ナキ絶望ヲ感ジタノデアリマス。

私ハ、安藤君トノ會見デ抑止ノ途ナキヲ悟ツタト申シマスカ、大體施ス途ナシト考ヘマシタ。
 
而シテ 二十一、二日頃 村中君ノ決意、香田大尉ノ決意等ヲ村中君カラ聞キ、
逆ニ私ニ參加ヲ勧誘サレルニ及ンデ、實際私ハ寧ロ呆氣ニトラレタ感ジデアリマシタ。
平素村中君ハ、全ク問題デハナイ人デアリマシタ。
香田君ハ安藤君ノ如キ感ジノ人デ、從來陰ニ陽ニ同隊同郷ノ後輩タル栗原君ヲ誘掖シ、
監督的ニ行動シテ來タ重厚ナ人デアリマス。
一週間以前ニハ立場ガ苦シイト述懐マデシタ村中君ガ、何時ノ間ニカ變節シテ居タコトヲ知ツタ私ハ、
最早大體観念シテ居タ時デモアリ、正面カラ開キ直ル丈ケノ勇氣モ出ナカツタノデアリマス。
殊ニ同君ノ口カラ、陸相ニ意見具申ヲスルコト、肅軍 ・國體明徴ノ内容ラシイコトヲ一寸聞カサレタ時
---十一月事件ト肅軍意見書ガ村中君ヲシテ斯クアラシメル一大契因デアラウト思ヒ、
サモアラウト考ヘタ時、同君一人ヲ引留メテ何ニナルト云フ氣ニモナリ、
一面カラハ 『 皆勝手ニシロ 』 ト云フ様ナ放任的氣分ニモナリマシタノデ、
強イテ爭フコトモセズ、私ノ立場、決心ダケヲ明ニシテ拒絶シマシタ

私トシテハ、如是ノ計畫内容ラシキモノ、其他方針ラシキモノニ對シテハ、何モ意見モ定義モ致シテ居リマセン。
元來ガ方針上斯カルコトハ私ノ欲セザル所デアルノト、反對忠告シテモ聴從セザル場合、
自ラ欲セザルニ容喙ようかいスルコトハナイト思ツタカラデ、之レハ私ノ性格的ナ點モアリマス。

第三期 ( 二月二十二日、三日頃---二月二十六日朝迄 )
私ハ、是レ迄万一ノ場合ハ 『 如何ニナルカ 』 ヲ考ヘ、
『 私トシテハ如何ニスベキカ 』 ヲモ考ヘテハ見乍ラ、抑止ニ努力シテ來タノデアリマシタガ、
抑止絶望ト共ニ 『 如何ニナルカ 』、『 如何ニスベキ乎 』 ヲ眞劍ニ考ヘネバナラナクナツタノデアリマス。
栗原君ニハ強氣デ抑止ニ努メマシタ。
安藤君トノ會見デハ豫想外デアツタコト、抑止殆ド絶望ト云フ氣持ニナツタノデ、
考ヘ直スコトヲ希望スルト共ニ、一方斷行サルレバ私ハアル程度ノ自分ノ犠牲モ覺悟セネバナラズ、
如何ニナルカハ豫想ハツカヌケレドモ、此儘デ運ニ任セヤウト云フ氣ニナリ、
其ノ意味ノコトモ多少洩ラシタ筈デアリマス。

私ハ最初カラ、万一ノ際ハ、
蹶起シタ人々モ永田町附近占據ノ上第二次決行 ( 栗原君ノ話 ) ナド云ツテハ居ルガ、
到底不可能デ、先ヅ第一次ノ直後ニハ片付ケラレルモノト考ヘテ居マシタ。
同時ニ、世界無比ノ警察力ハ直後軍憲ト協力シテ、東京市内外ハ完全ニ警備サレルモノト豫想シ、
私共關係嫌疑ノ下ニ直チニ拘禁監視サレテ、バタバタ片付ケラレルモノト考ヘテ居タノデアリマス。
五 ・一五ニハ 『 阻止シタ 』 トテ同時ニ狙撃サレマシタガ、血盟團ノ時ハ直チニ拘禁ヲ受ケ、
十月事件ノ直後ハ約一ケ月ノ監視ヲ受ケマシテ、夫々非常ナ痛苦ヲ嘗メサセラレテ居ルノデアリマス。
私ハ抑止ガ段々絶望ニ陥チ、強行ガ確實性ヲ加ヘルト共ニ、前述ノ各種ノ體驗ヲ想起シ、
心ヲカキ立テラレル氣分ニナツテ來タノデアリマス。
同時ニ、平素ノ方針モ何モ一擲いってきシテ  『 ヒタムキ 』 ニ蹶起ニ邁進スル人々ノ氣持ヲ悲シミナガラ、
完全ニ犠牲トナリ完全ニ誤謬ごびゅうヲ犯スコトガ分明シ乍ラ、
周囲モ自己モ捨テテ突進スル三、五年交友ノ人々ヲ憎ムコトハ出來ズ、
私トシテ賛同、參加スルコトハ信念ガ許サズ、
寂寥じゃくりょうヲ感ジ、過去將來ノ種々ナ感慨ガ涌イテ來ルノヲ感ジテ、
一層落チ附カヌ気分ヲ煽ラレテ了ツタノデアリマス。( 顧ミルト、修行不足ノ恥ヅベキ點多々暴露致シマシタ )

コンナ氣分ノ中デ内心決定シタ方針ハ大體左ノ如クデアリ、
之レハ一時ニ定メタノデハナクシテ、漸次ニ固マツタ所ノ考ヘデアリマシタ。
一、抑止、阻止ハ、自分ノ力デハ到底不可能デアル。
一、暴露シテ未發ニ止メルコトハ、自分ニハ尚更不可能デアル。
  情ニ於テ忍ビザルト共ニ、一面ニハ私自身ガ常ニ暴露、賣込等ノ常習者ノ如ク 『 デマ 』 ラレテ居リ、
其爲ニ生命ヲスラ脅威サレテ來テ居ルコト等カラ、逆ニ反撥的ニモ シタクナイカラデモアリマス。
一、自分ハ理論方針上反對デアッテ、參加スルコトハ絶對不可能デアル。從テ、放任スル。
一、唯々情誼ニ於テ、事態ノ惡化ヲ防ギ、速ニ収拾スルコトヲ希望シ、出來得ベクンバ犠牲者等ノ志ニ一歩デモ近キ収拾ヲ圖ツテヤルコト。
等デアリマス。

但シ、彼等トノ間ニ斯ル話合ヒハ一切アリマセン。依頼モ相談モ受ケマセン。私及龜川氏等ノ間ノ考ヘデアリマシタ。

私ハ此ノ四、五日間、コノ大事件ヲ控ヘタニシテハ無爲、靜肅デハナイカト見ヘルカモ知レナイノデアリマス。
私ハ抑止ノ途ナシト観念シツツ、『 ナル様ニナレ 』 ト云フ氣ニモナリ、放任的ニナリマシタ。
同時ニ安全ナルベキ短時日ニ、私自身本來ノ運動ヲ依然トシテ繼續、進展セシメ置クコト責任、
義務的ナモノヲ自分自信ニ感ジテ居タノデアリマス。
然シテ、其ノ方面ノ來往モ相當繁カツタノデアリマス。
相澤公判ノ事ノ如キ、實ニ廿五日迄果スベキヲ果ス心算デアツタ譯デアリマス。

乍然一面カラ見テ、斯カル私ノ決意、態度ガヨカツタカ惡カツタカ。
是レハ問題デハアルト思ヒマスガ、結局ハ夫々ノ性格ニ基ク生活態度ノ問題ダト考ヘマス。
殊ニ五 ・一五遭難後 『 三十二年絶後命、不附人間附自然 』 ト述懐シテ、
『 天を相手にすること 』、『 そのためには名もいらぬ 』 ト云フ覺悟ヲシテカラハ、
快ヲ一時ニトルコト、華ヤカナ男前ヲ示ス等ノコトヲ、一切心底カラ拂拭シテ居ルノデアリマス。
然シ、對世間的ニハ種々議論ノ種トナリマセウ。
甘ンジテ受ケマスノミナラズ、私自身トシテモ彼此思ヒ巡ラシテ、
平生ノ修練足ラザリシ點ヲ反省、自責シツツアルコトヲ赤裸々ニ告白スルモノデアリマス。

斯クテ、事前ニハ事態ノ擴大惡化ヲ反亂助成的ナコトハ絶對戒心スルト共ニ、
一面未然暴露ノ責任負担ニ陥ル如キ事態惹起ヲモ内心恐レテ、
私直接關係ニ於テハ、北氏、龜川氏、山口大尉以外ニハ話ヲシテ居ナイノデアリマス。
北氏ニモ、栗原、村中君等トノ問答中私ガ察知シ得タ具體的内容ヲ話シタ譯デアルノデ、
『 私モ貴方モ知ラヌ筈ノコトデアルカラ、聞キ流シテ置イテ呉レ 』 ト緘口ヲ注意シタ筈デアリマス。
龜川氏關係ノ弁當代千五百圓ノコトモ、私ハ事態惡化ヲ防グ上ニハ必要ト直観シテ感激シタ爲ノ斡旋デ、
他意ナク、亀川氏ハ實ニ私以上ニ痛感サレタ結果ノ大金提供ダツタト想像スルモノデアリマス。」

第四期 ( 二月二十六日---二月二十八日午后迄 )
私ノ豫想ハ殆ド全部履替ヘサレマシタ。
二十七日午后迄ハ、此ノ意外ノ結果ヲ情報トシテ一々受取ツタコトバカリデアリマシタ。
即チ、一般ノ警戒監視---特ニ私共ニ對シテ何事モナク、
蹶起將校等ハ戒嚴部隊ニ編入サレ、現地占據ヲ承認サレ、大臣カラハ殆ド是認スルカノ如キ告示ヲ受取リ、
私ノ心配シタ食事等モ官ノ給与ヲ以テスルト云フこと等ガ一ツ。
蹶起將校等モ最初私ガ聞知、察知シテ居タノト異ナルカノ如ク、第一次行動ヲ以テ打切リトナリ、
現地ニ膠着こうちゃくシテ 『 喧嘩ニモナラズ 』 ト云フ風デアツタト共ニ、
意外ニモ政治的發言、提議ヲナシテ首脳部ト折衝シツツアルコト、
牧野伯襲撃ガ意外ニモ民間人が參加 ( 澁川君意外ニ ) シテ居タコト、
中橋中尉ガ宮城ニ増加衛兵トカデ這入ツテ追出サレタラシイコト 等ガ一ツ。
又、是等ノ事情ヲ知ルコトヲ得タノガ、栗原中尉トノ電話デアツテ、
カカル際カカル電話ヲ通ジ得タト云フコトハ、全ク事前ニハ私ノ夢想ダモシナカツタ所デアリマシタ。
實ニ若シ栗原君ガ、曾テ私ノ抑止ヲ受ケタ時ニ
『 君等ガ何カヤレバ必ズ直グ僕モ災ヲ受ケル 』 ト云ツタコトヲ忘レズニ心配シテ呉レテ居テ、
家ニ問合セタト云フコトノ好意モナク、或ハ無關心デアツタトセバ、
恐ラク二十七、八兩日ニ於ケル栗原、村中、磯部君等ト私及北氏ノ通話ナド、
村中君ノ突然ノ來訪ナド 全ク思ヒモ寄ラヌコトデアツタト考ヘネバナリマセン。
又、私ガ再ビ北氏宅ニ伺ツタコトノ過半ノ理由モ、栗原君ト電話デ話シタト云フ意外ノ事實ト、
其ノ内容トヲ珍奇ナ 『 ニユース 』 トシテ話シテヤリタカツタカラデアツテ、
而モ其後ズルズルト同家ニ滞在シテ當初ノ方針ヲ自ラ放棄シテ、
終ニ北氏ニモ縲紲ノ苦ヲ味ハハシムルニ至ツタ私ノ不始末モ、考ヘレバ端ヲ此処ニ發シテ居ルノデアリマス。

豫想ノ如キ速カナル収拾ハ達セラレズ、一日半ヲ空過シテ二十七日午后トナリマシタ。
一面蹶起將校側ハ、現地占據ヲ承認サレタ儘政治的交渉ヲ開始シタト云フコト、
及ビ私ノ豫想セシト異リ、軍人ノ純ナル尊皇討奸ト云フコトノミデハナクテ、
計畫其者ガ政治的意義ヲ有スルモノデアルコトニ始テ氣附イテ、
『 之レハ拙イ 』 ト考ヘ、何ダカ欺サレテ居ル様ナ感ニモ打タレタノデアリマシタ。
其処ニ將校仲間ニ硬軟二派ガアルラシク察セラレマシタ ( 村中君ノ電話談 ) ノミナラズ、
栗原君ノ口吻デハ相互間聯絡ガ不十分デアルカノ感ヲウケマシタノデ、
拙クスルトトンダ事態ヲ惹起スルカモ知レヌト云フコトヲ憂慮スルト共ニ、折角政治的交渉ニ公然移ツテ居リ、
且ツハ今ノ所討伐ヲ受クル憂モナキ模様デアルカラ、之レヲ有効ニ使用シテ速ニ収拾ヲ講ズルコト、
夫レモ私共外部ノ外部的盡力モ必要デアルガ、此際内部ノ人達が直接進メタ方ガ早イト考ヘマシタ。
北氏モ同様デシタ。
此ノ方針ハ、二十七日午后カラ二十八日夜マデ持續シテ居タノデアリマス。

眞崎大將ニ一任ヲスルコトノ妥當ナル提案ヲ村中、栗原、磯部等ニ向ツテシタノハ、右ノ意當カラデアリマシタ。

從テ、事態惡化又ハ擴大ヲ招クガ如キ考ヘハ毛頭ナク、
二十七、八両日ノ電話等ニモ此ノ氣持以外ノモノハナイ筈デアリマス。
仮令私ノ方針ニ反シ、國權ニモ反抗シテ、遮二無二トビ出シタ我儘ナ破壊的ナ人達デアツテモ、
其志存スル所ハ兎ニ角君國デアリマス。
私ハ此ノ人達ガ是レ以上自身ノ立場ヲ惡クシ、世間ヲ惡化セシムル如キコトヲ考ヘルモノデハアリマセン。
二十八日栗原君トノ電話ニシテモ、道理上ハ自決スル方ガ妥當デアリマセウシ、
徹底的ニ反抗スルコトノ宜シカラザルコトハ因ヨリ明カデアリマスカラ、反抗スル方ガ好イトハ勧告出來ナイガ、
然シ人情トシテ自決セヨトハ私ニハ言ヒ切ラナイノデアリマシタ。
( 眞實ハ言ヒ切ツタ方ガ正シイデセウガ、修行未熟デアリマセウ )
故ニ、二、三人ノ相談ダト云フノヲ好餌トシテ、『 何事モ全部ノ意見一致デスルガ宜イ 』 ト云フ、
全クダラシノナイ勧告ヲシテ了ツタノデアリマス。
又、自決其事ヨリモ、
進行中デアル筈ノ上下ノ意見一致ヲ速ニ努力、完成スルコトヲ主ニスルコトモ、希望スル譯デアリマス。

第五期 ( 二月二十八日夜---三月四日迄 )
此ノ期間ハ、悲痛ナ感懐ト狼狽シタ感情トヲ抱イテ、
全ク方針、目的、目標ナキ轉々漂泊デ、眞ニ恥ヅベキ最後ノ行動時代デアリマシタ。
或意味ニ於テ、事件ニ對スル私ノ立場ヲ説明、表現スル所ノ私ノ心ノ映像デモアリマシタ。

第四項 「 事件関係立場ノ総括的結論 」 では、公正冷厳ニシテ無雑ナル所ノ御判断ニ待ツ 」 と述べた上で、
事件との関係についての一〇項目の質問 ( 項ないし項 ) を自ら設定し、これに答えるという形式で弁明に努める。
西田は此の自問自答で、あるいは理論を駆使し、あるいは人情に訴えながら、必死に予審官の説得に努める。
伊藤法務官は、一読後胸の痛みを覚えなかったのであろうか。

  汝ガ關係、指導シテ、村中、栗原、磯部、安藤等ニ計劃實行セシメタ、計畫的ナモノデナイカ
私トノ事實關係ガ明白ニ説明シテ居ルノモノデアリマシテ、全然サル事ハアリマセン。
私ニハ寧ロ秘シテ計劃ヲ進行シタト思ハレル節ガアリ、
私ガ察知シテ阻止、中止ヲ努メタ時ハ時機已ニ遅ク、
抑止力ナキ私ハ、止ムナク情誼ノ収拾的盡力ヲ多少心ガケタト云フ事以外ニナイノデアリマス。

如何ニ私ガ未熟者デアツテモ、計劃的ナラバ二十五日以前ニ於テモ、
私自身ガ一生一代ノ大仕事デアル丈ケノ決定的ナ準備ヲ致シマス。
天下ノ大事デモアリマスカラ、一層工夫ヲ凝ラシマセウ。
同時ニ、二十五日夜半以後ノ私ノ去就、
殊ニ二十八日夜逃避後ノ醜態ナドハ、演ジナカツタノデアリマセウ。
ヨツテ、多数ノ友人先輩等ニ無用ノ迷惑ヲ掛ケタコトヲ衷心ヨリヂテ居ル今日ノ私ヲ 見ルコトハナカツタデアリマセウ。
極端ニ言ヘバ、二、三日以前カラデモ出來ナイコトノナイ性質ノモノモアツタト思ヒマスガ、
ソレモ爲サズニ事件ニ正面シテ居ルノデアリマス。
眞崎大將推薦ハ、私自身ノ眞意、希望デハアリマセン。
私ト 「 法案 」 ( 私ノ改造意見 ) ヲ誤解、不信任スル大將ハ、私ガ改造ノ爲ニ推薦スル筋合デハナイノデアリマス。

青年将校等ノ挺進ヲ承認シ、利用スル破壊的改革遂行ノ意志ニ非ズヤ
ソレナラバ、抑止 ・阻止ハ致シマセン。

彼等ハ、事後ノ処置等ニツキ汝ニ期望シテ居タノデナイカ
夫レハ、或ル意味ニ於ケル建設---収拾、
又ハ所謂 「 後亊ヲ託スル 」 意味ニ於ケル公私、將來ノコト等ニツキ、期待シテ呉レタト思ヒマス。

青年将校等ガ何カスレバ、直ニ汝ニ及ブト思考スル根拠ハ何処ニアルカ

當刑務所入所ノ時、勾留訊問ヲシタ新井法務官曰ク、
「 事件ノ際、君ガ之レニ這入ツテ居ナイ譯ガナイ、ト云フ我々仲間デノ噂デアツタ 」 ト。
大體ニ於テ斯カル空氣ト斯カル宣傳トヲ、
十月事件以後ニ於ケル軍及對立的方面ヲ中心トシテ、作リ上ゲテ了ツタカラデアリマス。
惡意ト爲ニセントスルモノト、輕卒ナル即斷トガ混淆こんこうシテ出來上ツタモノデアリマス。

五 ・一五当時一度喪ツタ生命デアルカラ惜シクモナク、思ヒ切ツテ決行シタノデハナイカ
五 ・一五当時、確カニ私ハ肉體ノ痛苦ニ堪ヘズ ( 腸切斷手術後腹膜炎ヲ起シテ )
且 彼ノ如キ結果ニ陥サレタコトニ對スル心的寂寥、非愁ニ堪ヘズ、死ヲ希望シタノデアリマス。
枕頭ニ居タ北氏等ハ、「 見ルニ忍ビヌカラ死ナセテヤル方ガヨイ 」 ト考ヘタ相デアリマス。
注射ノ鍼一本デ簡單ニスムコトデアリマス。
然ルニ、私ハ腸切斷ノ二時間ノ手術中、麻睡ノ間已ニ脈拍止リ、死ノ狀態デアルノヲ、
輸血、注射等デ手術ヲ終ヘタノダソウデアリマスガ、麻睡中大聲ニ法華經ヲ唱ヘテ居タト云フコトヲ聞キ、
ツマラヌ譫言ヲ云ハズニスンデヨカツタトモ感謝シタ位デアリマシタ。
手術後ノ夜半腹膜炎ガ起リ、私ハ死ヲ希フト云フ狀態デ明朝迄ハ絶望トサレタノガ、
夜半ヨリ腹膜炎ガ俄然退勢シ、ソレヨリ逐次恢復ニ向ツタモノデ、主治医八代博士モ不可解ダトシタノデアリマス。
斯クノ如キ症状ト經過ノ中ニ、私ハ神拂ノ加護ヲツクヅクト感ジタ事ガ此ノ過渡期ニアリマシテ、
單ニ拾ツタ生命ナドト云フ安価ナ考ヘヲ私自身ニ考ヘナイノデアリマス。
私ニハ大切ナ預ツタ命デアリマス。
「 三十二絶後命、不附人間附自然 」 トハ當時ノ述懐デアリマスガ、
餘命アラバ信仰生活ヘト云フノモ此様ナ事情モアルノデアリマス。

この手記は、次の言葉で終わる。
私ハ事前ニ於テ、抑止スル丈ケノ力徳モナク、已ニソノ機會モ逸脱シテ居リ、
斷然殉情的ニ參加スルコトハ信念ガ許サズ、
而モ事後ニ於テハ周章、輕卒、無方針ノママニ何事ノ盡シテヤルコトモ出來ザリシノミナラズ、
周囲ニ迷惑ヲ及ボシタ等 醜態ヲ晒ラシマシテ、自ラ省ミテ眞ニ恥カシク思ツテ居ルモノデアリマス。
然シテ、關係事實、當時ノ心境等一切ヲ露呈致シマシテ、
實際ノ事實ニ基ク公正ナル御裁斷ヲ仰望致シテ居ル次第デアリマス。」


澁川善助 「 斷じて檢察官豫審請求理由の如きものには非ざるなり 」

2018年11月03日 18時46分33秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録


澁川善助

澁川善助が、
「 斷じて檢察官豫審請求理由の如きものには非ざるなり」
と言う  「豫審請求 」 の内容とは。
二・二六事件の捜査報告書の送附を受け、
昭和十一年三月八日に、
檢察官陸軍法務官匂坂春平が陸軍大臣川島義之に對し 「 捜査報告書進達 」 を爲し、
豫審を請求すべきものと思料するとした。
同日、匂坂春平から豫審官に對して 「豫審請求 」 が提出された。
その内容は、次の通りである。
犯罪事実
第一 被告人等は我國現下の情勢を目して重臣、軍閥、財閥、官僚、政黨等が
國體の本義を忘れ私權自恣、苟且とう安を事とし國政を紊り國威を失墜せしめ、
為爲に内外共に眞に重大危局に直面せるものと斷じ、
速に政治竝經濟機構を變革し庶政を更新せんことを企圖し、
屡々各所に會合して之が實行に關する計畫を進め、
相團結して私に兵力を用い内閣總理大臣官邸等を襲撃し内閣總理大臣岡田啓介、
其の他の重臣、顕官を殺害し、武力を以て樞要中央官庁等を占據し公然國權に反抗すると共に、
帝都を動亂化せしめて之を戒嚴令下に導き、
其の意圖に即する新政府を樹立し、以て其企圖を達成せんことを謀り、
昭和十一年二月二十六日午前五時を期して事を擧ぐるに決し、
各自の任務及部署を定めたり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「 本事件ニ參加スルニ至リシ事情竝ニ爾後ノ所感念願 」
豫審中の昭和11年4月8日付で提出した手記
本事件の意義
國ノ亂ルゝヤ匹夫猶責アリ。
況ンヤ至尊ノ股肱トシテ力ヲ國家ノ保護ニ盡シ、我國ノ創生ヲシテ永ク太平ノ福ヲ受ケシメ、
我國ノ威烈ヲシテ大ニ世界ノ光華タラシムベキ重責アル軍人ニ於テヲヤ。
『 朕カ國家ヲ保護シテ上天ノ惠ニ應シ祖宗ノ恩ニ報ヒマイラスル事ヲ得ルモ得サルモ
 汝等軍人カ其職を盡スト盡サ ゝルト由ルソカシ 』
ト深クモ望マセ給フ 大御心ニ副ヒ奉ルベキモノヲ、奸臣下情ヲ上達セシメズ、
赤子萬民永ク特權閥族ノ政治的、經濟的、法制的、權力的桎梏下ニ呻吟スル現實ヲモ、
國威ニ失墜セントシツツアル危機ヲモ、「 大命ナクバ動カズ 」 ト傍観シテ何ノ忠節ゾヤ。
古來諫爭ヲ求メ給ヒシ御詔勅アリ。
大御心ハ萬世一貫ナリト雖モ、今日下赤子ノ心情ハ奸閥ニ塞ガレテ、上聞に達セズ、如何トモスベカラズ。
此ノ奸臣閥族ヲサン除シテ 大御稜威ヲ内外ニ普カラシムル 是レ股肱ノ本分ニアラズシテ何ゾヤ。
實ニ是レ現役軍人ニシテ始メテ可能ナルニ、今日ノ如キ内外ノ危機ニ臨ミテモ、頭首ノ命令ナクバ動キ得ザル股肱、
危険ニ際シテモ反射運動ヲ營ミ得ズ 一々頭脳ノ判断ヲ仰ガザルベカラザル手脚ハ、
身體ヲ保護スベク健全ナル手脚ニ非ズ。
此ノ故コソ、『 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ 』 ト詔イシナレ。
億兆を安撫シテ國威ヲ宣揚セントシ給フハ古今不易ノ 大御心ナリ。
股肱タルモノ、此ノ大御心ヲ奉戴シテ國家ヲ保護スベキ絶對ノ責任アリ。
今ヤ未曾有ノ危局ニ直面シツツ、大御心ハ奸臣閥族ニ蔽ワレテ通達セズ。
意見具申モ中途ニ阻マレテ通ゼズ。
萬策効無ク、唯ダ挺身出撃、万惡ノ根元斬除スルノ一途アルノミ。
須ラク以テ中外ニ 大御心ヲ徹底シ、億兆安堵、國威宣揚ノ道ヲ開カザルベカラズト。
今回ノ事件ハ實ニ斯ノ如クニシテ發起シタルモノナリト信ズ。
叙土世界ノ大勢、國内ノ情勢ヲ明察セラレアレバ、本事件ノ原因動機ハ自ラ明カニシテ、
「 蹶起趣意書 」 モ亦自ラ理解セラル ゝ所ナルベシ。
吾人ガ本事件ニ参加シタル原因動機モ亦、以上述ベシ所ニ他ナラズ。
臣子ノ道ヲ同ウシ、報國ノ大義相協ヒタル同志ト共ニ、御維新ノ翼賛ニ微力ヲ致サントシタルモノニシテ、
斷ジテ檢察官ノ豫審請求理由ノ如キモノニハ非ザルナリ。

世界ノ大勢ト皇國ノ使命、當面ノ急務
今日人類文明ノ進展ハ、東西兩洋ノ文化ガ融合棄揚セラレテ、
世界的新文明ノ樹立セラルベキ機運ニ際會シ、而シテ之ガ根幹中核ヲ爲スベキ使命ハ嚴トシテ皇國ニ存ス。
即チ遠ク肇國ノ神勅、建國ノ大詔ニ因由アリ、
歴史ノ進展ト伴ニ東洋文化ノ眞髄ヲ培養シ、幕末以来西洋文化ノ精粋ヲ輸入吸収シ、機縁漸ク成熟シ來レルモノ、
今ヤ一切ノ残滓ヲ清掃シ、世界的新文明ヲ建立シ、
建國ノ大理想實現ノ一段階ヲ進ムベク、既ニ其序幕ハ、満州建國、國際連盟脱退、軍縮條約廢棄等ニ終レリ。
『 世界新文明ノ内容ハ茲ニ細論セズ。
 維新セラレタル皇國ノ法爾自然ノ發展ニヨリ建立セラルベキモノ、
宗教・哲學・倫理・諸科學ヲ一貫セル指導原理、
政治・經濟・文教・軍事・外交・諸制百般ヲ一貫セル國体原理ヲ基調トスル
齊世度世ノ方策ノ世界的開展ニ随ツテ精華ヲ聞クベシ。』
而モ、列強ハ弱肉強食ノ個人主義、自由主義、資本主義的世界制覇乃至ハ
同ジク利己小我ニ發スル權力主義、獨裁主義、共産主義的世界統一ノ方策ニ基キテ、
日本ノ國是ヲ破砕阻止スベク萬般ノ準備ニ汲々タリ。
皇國ノ當面ノ急務ハ、國内ニ充塞シテ國体ヲ埋没シ、大御心ヲ歪曲シ奉リ、民生ヲ残賊シ、
以テ皇運ヲ式微セシメツアル旧弊陋廃ヲ一掃シ、
建國ノ大國是、明治維新ノ大精神ヲ奉ジテ上下一心、世界的破邪顕正ノ聖戰ヲ戰イ捷チ、
四海ノ億兆ヲ安撫スベク、有形無形一切ノ態勢ヲ整備スルニアリ。
現代ニ生ヲ享ケタル皇國々民ハ須ラク、茲ニ粛絶荘厳ナル世界的使命ニ奮起セザルベカラズ。
此ノ使命ニ立チテノミ行動モ生活モ意義アリ。
私欲ヲ放下シテ古今東西ヲ通観セバ自ラ茲ニ覺醒承當スベキナリ。

國内ノ情勢
顧レバ國内ハ欧米輸入文化ノ餘弊―個人主義、自由主義ニ立脚セル制度機構ノ餘弊漸ク累積シ、
此ノ制度機構ヲ渇仰導入シ之ニ依存シテ其權勢ヲ扶植シ來リ、
其地位ヲ維持シツアル階層ハ恰モ横雲ノ如ク、仁慈ノ 大御心ヲ遮リテ下萬民ニ徹底セシメズ、
下赤子ノ實情ヲ 御上ニ通達セシメズシテ、内ハ國民其堵ニ安ンズル能ハズ、
往々不逞ノ徒輩ヲスラ生ジ、外ハ欧米ニ追随シテ屡々國威ヲ失墜セントス。
『 六合ヲ兼ネテ都ヲ開キハ紘ヲ掩イテ宇ト爲サン 』
 ト宣シ給エル建國ノ大詔モ、
『 萬里ノ波濤ヲ拓開シ四海ノ億兆ヲ安撫セン 』
 ト詔イシ維新ノ 御宸翰モ、
『 天下一人其所ヲ得ザルモノアラバ是朕ガ罪ナレバ 』
 ト仰セヒシモ、
『 罪シアラバ、我ヲ咎メヨ 天津神民ハ我身ノ生ミシ子ナレバ 』
 トノ 御製モ、殆ド形容詞視セラレタルカ。
殊ニ軍人ニハ、
『 汝等皆其職ヲ守リ朕ト一心ナリテ力ヲ國家ノ保護ニ盡サバ
 我國ノ蒼生ハ永ク太平ノ福ヲ受ケ我國ノ威烈ハ大ニ世界ノ光華トモナリヌベシ 』
 ト望マセ給ヒシモ、現に我國ノ蒼生ハ窮苦ニ喘ギ、我國ノ威烈ハ亜細亜ノ民ヲスラ怨嗟セシメツ ゝアリ。
是レ軍人亦宇内ノ大勢ニ鑑ミズ時世ノ進運ニ伴ハズ、
政治ノ云爲ニ拘泥シ、世論ノ是非ニ迷惑シ、報國盡忠ノ大義ヲ忽苟ニシアルガ故ニ他ナラズ。
斯ノ如キハ皆是レ畏クモ 至尊ノ御式微ナリ。
蒼生を困窮セシメテ何ゾ宝祚ノ御隆昌アランヤ。
内ニ奉戴ノ至誠ナキ外形ノミノ尊崇ハ斷ジテ忠節ニ非ズ。
君臣父子ノ如キ至情ヲ没却セル尊厳ハ實ニ是レ非常ノ危険ヲ胚胎セシメ奉ルモノナリ。
政治ノ腐敗、經濟ノ不均衡、文教ノ弛緩、外交ノ失敗、軍備ノ不整等其事ヨリモ、
斯ノ如キ情態ヲ危機ト覺ラザル、知リテ奮起セザルコソ、更ニ危險ナリ。
現ニ蘇・英・米・支・其他列國ガ、如何カシテ日本ノ方圖ヲ覆滅セント、孜々トシテ準備畫策ニ努メツ ゝアルトキ、
我國ガ現狀ノ趨く儘ニ推移センカ、建國ノ大理想モ國史ノ成跡モ忽チニシテ一空ニ歸シ去ルベシ。・・・以上、手記から
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第三回公判が終わった夜、
憲兵報告・公判狀況 2 『 村中孝次 』・・・ 第三回公判狀況    昭和11年5月2日    村中孝次  
・ 憲兵報告・公判狀況 3 『 村中孝次、對馬勝雄、澁川善助、磯部淺一 』 ・・・ 第四回公判狀況    昭和11年5月4日    村中孝次  對馬勝雄  澁川善助  

澁川は裁判長 ・各判士 ・検察官宛に
「 公判進行ニ關スル上申 」
と題する書面をしたため、これを提出している。
法務官が村中の陳述を制限したことに対する抗議文だが、
徒手空拳で国家権力と対峙させられている彼らの悲痛な叫びがほとばしっている。
次にその一部を掲げる。
『 公判進行ニ關スル上申 』
本軍法會議ガ特設セラレ、
公開ノ規定及ビ弁護人ノ規定ガ適用セラレヌコトニ相成リマシタル御精神ガ、
 本事件ノ最終日二月二十九日陸相官邸ニ於テ、
『 將校等ヲ自刃セシメヨ。若シ自刃ヲ肯ゼヌナラバ殺シテシマヘ 』
トノ御意見ガアツタ由デアリマスガ、
其ノ延長ニ他ナラヌノデアリマスナラバ、私共ハ何モ申上ゲルコトハアリマセン。」
「 本公判ニハ弁護人ガアリマセヌ。
 陳述ノ根據ヲ立證スベキ各種ノ資料ヲ整ヘルコトモ出來マセヌ。
ソレナノニ、被告ノ陳述ニ對シ、法務官殿ノ爲サレマシタ如ク
『 根拠ノ確タルモノハナイノダナ 』、
『 誰カラ聴イタカワカラヌノダナ 』
位ニ、殆ド萬人周知ノ事實ヲ、
恰モ架空ノ巷談孚説ノ如クニ片附ケラレマスコトハ、誠ニ遺憾に堪ヘマセヌ。


水上源一 『 昭和維新運動ノ捨石トナロウト決心シマシタ 』

2018年11月02日 05時34分54秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録


水上源一

水上は北海道瀬棚郡に生まれ、函館商船学校から日本大学専門部政治科を経て、
昭和九年三月同大学法学部政治学科を卒業し、弁理士を営んでいた。
もっとも、収入は月に二、三○円程度にしかならず、郷里の実兄の援助で生計を維持していたという。
事件当時二七歳の彼には、妻と一人の娘がいた。
水上は、学生時代に共産主義思想が跋扈していることに危機感を抱き、
政治 ・経済・社会問題の研究を始めたが、
やがて日本の資本主義経済機構に問題があるのではないかという認識を持つようになった。
革新運動に入った動機について、
彼は法廷で次のように述べている。

・・・・昭和五年ロンドン條約ニツイテハ、
 最初對英米日率最低七割デナケレバ國防ノ安全ハ期シ得ラレズト主張シ居リタルニ拘ワラズ、
ツイニ六割何分ニテ條約ヲ締結シタルガ、
コレニツイテモ米國政府特使キャッスルガ直接日本ニ乗リ込ミ來リテ誘惑シ、
結局當時ノ内大臣牧野伸顕ラハ同特使ヨリ多額ノ金員ノ提供ヲ受ケ、
ワガ全權ヲシテ譲歩セシメ、一方統帥權ヲ干犯シ、
以テカカル屈辱的條約ヲ締結スルニ至ツタノデアルトイウコトヲ聞キ、
更ニ、斯ノ國ヲ擧ゲテノ關心タル満洲事變勃發シ、
而モ出征兵士ノ家族中ニハ幾多悲惨ノ生活者アルノトキに當タリ、
財閥ハ國家國民ヲ思ワズドル買イニヨリ私ニ巨利ヲ博シタル如ク、
即チ、政党、重臣、財閥等特權階級ハ、何レモ彼等ノ私利私欲ノタメニハ、
天皇モ國家モ、國體モ國民モ全然顧ミナイトイウ有様ニシテ、
是等ハ既ニ國民ノ常識ト迄ナッテ居ルノデアリマス。
茲ニ於テ私ハ、彼等ノ爲メニ歪メラレタル國體ヲ何トカシテ匡サナケレバナラヌトノ氣持チヲ抱クニ至リマシタ。
是、私ガ昭和維新運動ヲナスニ至ツタ、抑々そもそもの動機デアリマス。
水上も当初は合法的な運動を考えていたという。
しかし、意見を発表してみても、少しも反応がない。
これではとてもだめだという気持ちになりかけていたところに、
昭和七年五月、海軍士官らによる犬養首相暗殺事件が起きた。
いわゆる五 ・一五事件である。
水上は言う
・・・・マツタクコレニ共鳴シ、
自分モ直接行動ニヨリ、所謂昭和維新運動ノ捨石トナロウト決心シマシタ。」

水上は、同年五月中央 ・早稲田 ・慶応などの学生に呼びかけて、
救国学生同盟を組織した。

その綱領は、
①  一君万民制の確立、
②  資本主義機構の改革
などであったが、彼の目的は、
真に維新運動の捨石となるべき人物を選び出すことにあったという。
参加者は四〇〇人にも達したが、
彼はその多くが自己の利益のために参加していることを知って失望し、
同年末にはこれを解散してしまった。
その後水上は、後述の救国埼玉挺身隊事件の関係者として検挙されたが、
釈放後の昭和九年二月には合法的政治団体の日本青年党を、
また同年一〇月には在郷軍人の有志を集めて関東郷軍同志会をそれぞれ結成した。
しかし、官憲の圧迫がひどく、活動らしい活動はほとんどできなかったという。
水上は、昭和八年五月宇垣朝鮮総督暗殺計画の関係者として、約一月間西神田警察署に留置された。
また、同年一一月の救国埼玉挺身隊事件
・・・郷里の熊谷市で同志を指導していた吉田豊隆が、同志とともに、
  昭和八年一一月四日川越市で開催される立憲政友会関東大会に来会する同党総裁鈴木喜三郎の暗殺を企てた事件で、大会前日に検挙された。
浦和地裁は、翌九年七月、吉田を懲役二年、他の六名を懲役いちねん六月から一年に処した。
宮本彦仙 『 社会思想の変遷と犯罪 』 ( 司法司法研究報告書集二〇輯一三号、1935年 )  354頁参照)
( ・・・リンク→ 救國埼玉挺身隊事件 )

では、二月余りもの間埼玉県内のあちこちの警察署に留置されたが、
最終的には嫌疑が晴れて釈放されている。
水上が栗原と知り合ったのは、
昭和七年一二月幹部候補生として歩兵第一聯隊に入隊した友人山内一郎 ( 日大生 ) の紹介による。
爾来水上と意気投合し、山内や、後に埼玉挺身隊事件を起した吉田豊隆 ( 拓大生 ) らの同志も加えて、
国家改造運動についてしばしば協議していた。
栗原が指導するこのグループは、昭和八年九月二二日夜半を期して戦車数台を含む軍隊を出動させ、
西園寺公望、牧野伸顕ら重臣 ・政党首脳 ・財界人らを襲撃する計画を立てていた。
これは西田税から察知され、厳しく叱責されて、暴発寸前で中止させられている。
実は、埼玉挺身隊事件は、この軍隊の出動中止に飽き足らない吉田らが企てた、
民間側同志のみによるテロ計画であった。
牧野らをなぜ奸賊と認めるのかという裁判官の質問に対して、水上は次のように答える。
私ハ、我ガ國體ヲ考エ、
陛下ノ大御心ハ國民全體ヲシテ均シク恵擇せしむベキモノト信ジテオリマス。

然ルニ現狀ハ、一方ニ大富者アリ、他方ニ貧者アリ、一様ニナッテオラヌノデアリマス。
是、何故カト申シマスニ、コレハ畢竟スルニ翼賛ノ方法惡シク、
且、大御心ヲ中途ニオイテ横取リスル牧野、齋藤ラノ
元老 ・重臣 ・財閥ソノ他ノ特權階級ガアルタメニ外ナラヌノデ、
此の點より観察し、是等の者は奸賊なりといい得ルト思イマス。

水上は、現在の心境を次のように述べる。
今回ノ事件ハ餘りニモ大キク、陛下ノ大御心ヲ悩マシ奉リ、
 國内ヲ一時ニモセヨ不安ノ思イヲサセタコトニツイテハ、誠ニ申譯ナイト思ッテイルモノデアリマス。
シカシナガラ、私ノ從來ヨリノ信念ニハ是ガ爲メ少シモ影響スルトコロナク、微動ダモシマセヌ。

( ワレワレガ ) 今日ノコノヨウナ境遇ニ立チ至ッタノハ、輔弼ノ責メニアル者ガ、
私ラ同志ノ本當ノ氣持チヲ陛下ニ奏上シ奉ラナカッタニヨルモノト思イマス。
元老、重臣ラハ陛下ト國民ノ間ニ介在シ、中斷シテ、
上聖明ヲ覆イ、下國民ヲ苦シマシムルノ一例證デアリマス。
身ハカカル輔弼者ノタメニ現在斯様ナ境地ニアリマスケレド、
コノ度決起シ、牧野ヲ襲撃シタ點ニツイテハ、コレガ殺害ノ目的ヲ遂ゲナカッタニセヨ、
維新運動史上何ラカノ役割ヲ果タシタモノト思ッテオリマス。
將來維新實現ノ實ガ見エナケレバ、如何ニ宏ナル牢獄ヲ次々ニ増築スルモ、
トウテイ私ラ同志ヲ収容シ盡クセナイデアロウ。
必ズヤ牢獄ハ内部ヨリ破壊サルルニ至ルモノナルコトヲ、信ジテ疑イマセヌ。

・・・二・二六事件湯河原班裁判研究  松本一郎   ・・・から
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二月二十六日ノ行動ニ就イテ述ベヨ
私ハ二月二十四日午後三時頃、
歩兵第一聯隊ノ栗原サンヲ久方振リデ訪問シタトキ、
「 明晩當直ダカラ 遊ヒビニ來イ 」 ト 云ハレマシタノデ、
同志綿引正三ト二人デ面會ニ行キマシタ処、
「 今日ヤルゾ 」 ト云ヒマシタカラ、
何時ダト問ヒ返スト 「 明朝四時ダ 」 ト答ヘシマシタ。

ソシテ、軍服ト着替ヘロト言ハレルニ侭ニ、
其ノ部屋ニアッタ軍曹肩章附着ノ軍服ト着替ヘ 編上靴、巻脚絆ヲ穿ケマシタ。 
内ニ同志ガ集ツテ來マスシ、輕機ヤ拳銃、彈薬等ガ運バレ、
私ハ日本刀ヲ持チ、

二十六日午前零時四十分頃、皆ト共ニ河野大尉ノ指揮ヲ受ケ、
牧野伸顕殺害ノタメ湯河原伊藤旅館別館ニ向ヒマシテ同家ヲ襲撃シマシタ。
襲撃時ニ於ケル状況ヲ述ベヨ
私達ハ隊長ヲ先頭ニ目的地タル牧野ノ宿舎ニ参リマシテ門前ニテ区署ヲ受ケ、
私ト綿引、宇治野ノ三名ハ、表カラト云ワレ、勝手口ノ板垣ノ横カラ侵入シ、表玄関入口ニ向ヒマシタ。
ソノ時、隊長ト同志ニ ( 宮田、黒田 )ハ 勝手口カラ入リマシタ。
私達ハ表玄関ニ行キ、私ハ日本刀ヲ、綿引ハ足デ硝子戸ヲ破壊シテ居リマスト、
中カラ銃聲ガ聞コエマスノデ 「 ヤッタナ 」 ト 思ヒ、
屋内カラ 「 畜生ヤリヤガッタナ 」 ト 言フ聲ガシタノデ、

敵ガ彼方ヘ集中シタト感ジ、ヤラレテハ大變ダト勝手口ニ向ハウトシタ時ハ、
共ニ來タ二人ハ其処ニハ居リマシタノデ、
ソレデ私モ直グ勝手口ヘ廻ッタトキ、隊長ガ中デ同志ニ助ケラレテ出テ來ルノヲ認メマシタ。
私ハ其ノ時 「 輕機来イ 」 ト 大聲ヲ發シマシタラ、輕機 ( 中島 ) ガ 降リテキテ勝手口カラ飛込ミマシタ。
ソコデ私ハ、屋内ヲ指示シ 「 敵ハ向フダカラ撃テ 」 ト 言ヒマシタガ 銃ノ故障カ彈丸ハ出マセンデシタ。
ソコデ私ハ輕機ガ使ヘナケレバ駄目ダト感ジ、
隊長ヲ探シマスト玄関前ノ所デ屈ンデイタノデ隊長ノ許ニ行キ、

「 火ヲツケマス 」 ト云ツテ、前ノ塀ヲ乗リ越ヘテ、
玄関脇ノ物干場ニ行キ干物ヲ下ロシテ火ヲ付ケントシタガ干物ガ湿ツテイテ駄目ナノデ・・・・( 以下略 )
襲撃ニ加担スルニ至レル動機ハ如何
私ガ日本大學ニ入校シマシタ當時、
校内ニ於テ、學生ガ共産主義ヲ云々シ、演説練習ニ共産党理論ヲ口説シ、

畏クモ皇室ノ尊嚴ヲ冒瀆スルガ如キ言辭ヤ私有財産制度ノ非認ヲ云々スルガ、
學生間ニ非常ナ拍手感動を與ヘテ居ルノデ、田舎出ノ私ニハ共産党トハ如何ナルモノガ分ラナカッタガ、 
皆ニ向ツテ日本ハ他國ト國體ヲ異ニシ 立派ナ國ノ筈ダトテ國體観ヲ述ベタガ弥次ラレテシマッタ様ナ狀態デ、
當時ハ各大學共左翼化シ來テイタ時代デアリマシタ。
ソレカラ私ハ共産党ノ理論ヲ研究シテ見タガ、私ノ國體観ガ正シイノダト信ジマシタ。 
然シ、コウシタ學生間ノ叫ビノ内ニ我國ノ何処カニ欠陥ガアルヨウニ感ジマシタ。
ソレカラ一度議會ノ傍聴ニ行ッタ際、神聖ナルベキ國会議場ガ、
マルデ政權爭奪ノ修羅場ノ如クデアルノデ、
コレハ立派ナ政治ガ行ハレナイト感ジマシタ。
ソレハ田中大將ノ張作霖爆死事件等議場ノ問題トスベキモノニ非ザルニ、政權爭奪ノ具ニ供シ、 
議会ニ於テ暴露スルガ如キハ徒ラニ國際關係ヲ惡化スルモノト思ヒ、政党に對スル不満を抱ハヨウニナリ、
又、續イテ起ツテ来タロンドン軍縮會議ニ於ケル政府特權階級ノ私利私欲ニ基ク屈辱的條約ニ締結
及ビ政党財閥ニヨル弗買ヒ、満州事變時ニ於ケル塩賈事件等
私利私欲ノタメニハ國家國民モ眼中ニナキ輩 ( 特權階級 ) ニ對スル不満ヲ一層感スルニ至リマシタ。  
ソレカラコノ儘テハイケナイ、何ントカセネバナラヌト考ヘタガ如何トモ出キマセンデシタ。
其処デ私ハ昭和七年五月十六日、自ラ主唱シテ學生間ニ愛國團體 救國學生同盟ヲ設立シ、
事務所ヲ千駄ヶ谷ニ置イテ合法的運動デ進ンデイマシタ。
當時ノ會員ハ日大、拓大、中大、早大、慶大等デ、約4百名アリマシタガ、之ハ、既ニ解散シ、
昭和九年二月十一日 日本青年党ヲ設立シ、同十年八月郷軍同志會ヲ設立致シマシタ。
コウシタ私ノ氣持ガ今回ノ事件ニ加担シタ主因トナツテ居リマス。
オ前ト栗原中尉トノ関係ハ如何
ソレハ昭和七年十二月友人ノ山内一郎ガ幹候トシテ歩一ノ十中隊ニ入隊シマシテ、
ソノ月ノ半頃 山内ニ面會ニ行キマシタ際 「 中隊ニ君ノヨウナ氣持ヲ持ッテイル將校ガ居ル、
會ッテ見タラドウカ 」 ト 言ワレタノデ、ソレデハト言ッテ將校室ニ行キ栗原サンニ會ッタノガ初メテデ、
其時オ互ヒニ信念ヲ語リ會ヒオオイニ共鳴スル処ガアリマシタノデ、爾來今日迄同志トシテ交際シテ居リマス。
今回ノ事変ニ対スル計画ニ参與シ非サルヤ如何
私ハ今回ノ事件ガ如何ニ計畫サレテイタカハ一向存ジマセン。唯實行ニ加ッタダケデアリマス。
指揮官河野大尉トハ面識アリシヤ如何
決行ノ夜 栗原サンニ紹介サレタノガ初メテデ、存ジマセンデシタ。
本件ニ就キ他ニ陳述スルコトハアリヤ
私ノ信念ハ尊王絶對デアリ 今回私達ノ採ッタ行爲に依ッテ皇運ノ益々隆昌ナルコトヲ希フモノデアリマス。
水上源一(自筆)拇印
右讀聞ケタル處相違ナキ旨申立ツルニ付署名拇印セシム
昭和十一年二月二十八日
三島憲兵分隊
陸軍司法警察官  陸軍憲兵曹長 山中梅吉 (印)