あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

上部工作 「 蹶起すれば軍を引摺り得る 」

2019年03月10日 09時47分54秒 | 首脳部 ・ 陸軍大臣官邸


彼等は軍を被帽して維新に進もうとした。
軍を抱いて軍を表面に押し立てて維新を期するものになる以上、
これが推進、あるいは牽引のため、
いわゆる 政治工作がいる。
この工作についても、つぎのように、いろいろと手を打っていた。
しかもそれらは、おおむねその通りに行われたのである。
一、上部工作
①  磯部の懇請によって森伝が動き、森を通じて清浦奎吾伯をして、宮中方面へ工作せしめること。
---事実、准元老の地位にあった清浦伯は二月二六日熱海より老軀をおして上京、参内している。
②  西田税を通じて小笠原長生子爵に働きかけ、宮中および海軍方面 ( 伏見宮、加藤寛治大将 )
に 工作すること。
---事実、小笠原長生子爵は加藤大将らと共に伏見軍令部総長の宮に、
海軍の協力などを具申している。
③  亀川哲也を通じて、真崎大将の出馬、鵜沢聡明を通じての西園寺公工作、
また、山本英輔海軍大将を通じて海軍首脳部への働きかけ。
---事実、亀川はその日払暁 真崎邸を訪ねて大将の出馬を要請し、
鵜沢聡明をして、この朝品川発興津に向わしめたが、元老不在のため、
熊谷執事に、速かに上京し時局収拾として後継首班に真崎大将を奏請せられたき旨の
進言を依頼せしめている。
また 山本大将もこれがために、しばしば海軍首脳部と会っている。
④  山口一太郎大尉をして、その岳父本庄侍従武官長を動かしめる宮中工作。
---事実、山口大尉は早朝急便を武官長邸に派し、青年将校蹶起の事実を告げ、
速やかなる参内を要請している。
二、軍部工作
①  栗原中尉を通じ斎藤瀏陸軍少将の出馬により川島陸相ほか軍首脳部への工作。
---事実、齋藤少将は、この日早朝 栗原の電話により首相官邸に赴き、
蹶起部隊を激励したあと、陸相官邸に至り、青年将校に代って大臣の決断を要請し、
その他 陸軍次官、戒厳司令官らに対しても、それぞれ工作している。
②  村中孝次 は 蹶起数日前、秦真次中将を訪ねて非常事態発生せばこれに善処せられたい旨
懇請している。
---事実、秦中将は二十七日午前偕行社に軍事参議官を訪ねて、維新断行を具申している。
③  満井佐吉中佐をして、軍部内支援態勢を確立せしめると共に、
軍上層部への強力な工作を行にわしめる。( 磯部、村中らの要請による )
---事実、満井中佐は、かねて、彼等の蹶起し際しては極力強力する旨の密約もあり、
事件発生と共に、幕僚群に対して維新への誘導、蹶起将校に代って軍上層部への意見具申
など昼夜不断の援助行為に出た。
④  山口大尉の直接強力、これによって軍部を維新に引きずること。
---事実、山口大尉は小藤大佐の副官役として、蹶起部隊のために縦横無尽の活躍を演じている。
⑤  皇道派の山下奉文少将、岡村寧次参謀本部第二部長、村上啓作軍事課長、
西村琢磨兵務課長、鈴木貞一大佐、小藤恵歩一聯隊長等の中堅幕僚を動かして、
軍部内維新態勢確立の工作。
---事実、これらの人々は、彼等のために、それぞれ努力をつづけている。
三、部外工作
①  齋藤少将をして明倫会総裁田中国重大将は、二七日首相官邸にいたり、
決起将校らを慰問激励し、また偕行社に軍事参議官を訪問し、
軍を挙げて維新に邁進すべき旨の意見具申を行っている。
②  西田税を中心として民間右翼勢力を糾合して、蹶起に呼応して維新運動の展開。
---事実、西田税は民間同志による大同団結により、決起軍に呼応し一挙に昭和維新を実現しようと、
杉田省吾、宮本誠三、佐藤正三、加藤春海らをして、「 昭和維新 」 を発行せしめ、
全国の同志を激発した。 リンク→ 
渋川善助 ・ 昭和維新情報 

彼等はすべてその計算に入れていたのである。
だから磯部は、
「 各同志の連絡協同と各部隊の統制ある行動に苦心した余は、
午前四時頃の状況を見て戦いは勝利だと確信した。
衛門を出る迄に弾圧の手が下らねば後はやれるというのが、私の判断であったからだ 」・・行動記 第十三 「 いよいよ始まった 」 
と 自信のほどを語っているとおり、
事が発起すれば必ず軍を引きずりうるというのが彼等の確乎たる判断であった。
したがって、彼等は決してなんのあてもなく起ち上ったものではなく、
彼等にしてみれば、絶対的に近い成算をもって事に臨んだということになる。
それはまさに必勝の確信であった。
だが、この必勝の確信も、蹶起瞬時にして惨敗した。
それは 天皇の意思に副わなかったからである。
天皇側近の奸臣として暗殺した重臣は天皇の信任厚き籠臣だった。
彼等はその忠誠心によって蹶起したが、
天皇によって叛徒と刻印されてしまったのである。
天皇の逆鱗に触れた蹶起、
それは天皇制のもと、天皇信仰に凝り固まっていた青年将校にとっては、

もはや、絶対のの失敗であった。
事のよしあし、完、不完の問題ではなかった。
この天皇の意思は、彼等の折角の苦心の諸工作をすっかり反古にしてしまった。
わずかに行われたのは対軍工作であったが、
これとて軍の抵抗に会ってどうにもならなかった。
磯部は同志にこう書き残している。
「 日本の二月革命は計画ズサンの為破れたのではない、
急進一部同志が焦り過ぎた為に破れたのでもない。
兵力が少数なる為でもなく、弾丸が不足のためでもない。
機運の熟成漸く蛤御門 ( 註、蛤御門の変 一八六四年七月 ) 
の時期にしか達してゐないのに、鳥羽、伏見を企図したが、
収穫は矢張り機の熟した程度にしか得られなかったと言ふ迄の事だ。
同志よ、蛤御門なら長藩の損失になるのみだ。
やらぬがいい等の愚論をするな。
維新の長藩を以て自任する現代の我が革命が、
蛤御門も長州征伐も経過する事なく直ちに、
鳥羽、伏見の成功をかち得やうとする事が、
余りにも虫のよすぎる註文であることを知って呉れよ 」
・・行動記  行動記 第十三 「 いよいよ始まった 」 

負惜みでなく 失敗後の実感であろう。

大谷敬二郎著
二・二六事件の謎  必勝の確信  から


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