あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和十年大晦日 『 志士達の宴 』

2018年01月10日 11時42分59秒 | 靑年將校運動


大岸が目をかけた男に中村義明という人がいる。
昭和三年の三・一五事件で検挙された共産党の闘志であったが、
獄中で転向し、遠藤友四郎の 「 天皇信仰 」 を読んで、国体の尊厳を自覚したと言っている。
昭和九年に 雑誌 「皇魂」 を発行し、主として陸海軍の軍人に配った。  リンク→
皇魂 1   皇魂 2 
原稿は主として大岸が執筆し、資金援助もしたらしい。

翌十年二月に東京に移り、
西田や大蔵の援助もうけて大々的な啓蒙活動をすることになった。
ところが ふとした機会で、津田英学塾出の才媛と知りあい、十月一日、めでたく結婚式をあげた。
それまでのいきさつは 大蔵の 「 二 ・二六事件への挽歌 」 に詳しく出ている。
  リンク→
中村義明 ロマンス実る 

その年の十二月三十一日、
中村義明の新婚早々の家に、
大岸をはじめ 林 ( 正義 )、伊東亀城 ( 五 ・一五事件の関係者 )
それに安藤、村中、磯部、澁川 ら、    ( ・・・三名 ?)
有志の面々が集まり、飲むほどに酔うほどにすっかり座が乱れて大宴会になった。

ふと  ただならぬ気配になってきた。
大きな声のやりとりが聞こえてくる、
一人はどうやら中村らしい、
新夫人の よし はこの時のありさまを こう書いている。
「 その論点が西やら東やらさっぱりわかりませず、さりとて平静ではいられず、
 襖に手をかけはしたものの、何かこだわりがあって、すっと開けることも出来ず、
全神経を部屋の気配に集中してのまま立ちすくんで居りました。するとその時、
「 ようし、斬る ! 」
「 斬れ ! 」
思わず、さっと襖を開けて部屋の中を見て、これは驚愕、声も出ずただ茫然と棒立ちになってしまいました。
どなたかが ( 多分澁川氏であったと記憶します ) 木刀を大上段に振り上げ、
あわや一討ちという瞬間だったのです。
あの木刀が力をこめて打ち降ろされれば、胸を張って正座している吾が背の君は、
悪くすれば 昭和十年十二月三十一日を一期として相果てるところだったのです。
斬る、斬れといっても木刀でのこと、大事はなかったとも考えられますが、
これは今にして思えることであって、
当時のあの方たちの真剣な思いは本当に命を賭けていたと思うのです。
木刀を振り上げた人の良識を信じたものか、そもありんと解釈したものか、
一座はシーンと静まり返って、誰一人止めだてする人もないのです。
この呼吸のつまりそうな数瞬、女房たる者全く生きた心地はありませんでした。
「 アハハハハハ ! 」
と、突然の笑い声、
「 どっちが正しいかは後世の史家がきめてくれるよ 」
の 声に一座の緊張は急にほぐれ、
木刀は事なく静かに降ろされ、正座の主も生命に別状なく、
吾が麹町の家も惨劇の家とならずに済んだ次第でした。
この時の氏神は、誰あろう大岸氏その人であったのです。
将にタイミングのよい一喝であったと言うべきでしょう 」
・・・・・追想・大岸頼好 中村よし 手記

国家の革新に生命を賭けた、その頃の有志たちの真剣な気魄と、
大岸の包容力に富んだ人柄を、心にくいまで浮彫りした一文である。
「 ぼくもうこの時は羅南に赴任していていなかったから、何とも言えないが、
木刀を振り上げたのは澁川でなく、磯部ではなかったろうか。
磯部なら酔うとよく刀をふりまわす癖があったからだ。
立川文庫流にたとえるなら、磯部はさしずめ塙団右衛門という所だろう、
とにかく直進する猛将型という点でよく似ていた。・・・・」
・・・・大蔵栄一
« 西田税
對馬勝雄  も この宴に居た »
西田税 ・ 金屏風への落書 
・・・・大蔵栄一
須山幸雄 著  二・二六事件・青春群像 から
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« 末松太平大尉もこの宴に居た »
この年の年末から年始にかけて私は東京に出た。
大晦日には中村義明の家で大岸大尉、澁川善助、伊藤亀城に会った。
中村義明に会ったのは、これがはじめてだった。
大阪時代から 『 皇魂 』 を 通じて知ってはいた。
『 皇魂 』 は 中村義明が主宰する月刊雑誌だったが、
大岸大尉がその大半の頁を埋めていたことは、聞かなくても、文章の癖でわかっていた。
中村義明は 元は有力な共産党員だったが、
この少し前から大岸大尉らの仲間にはいっていた異色る存在だった。

『 皇魂 』 には 「 皇室の御式微 」 という表現が目立った。
大内山の松の緑がいかに色あざやかにみえようとも、
民に生色なしとすれば、それは単なる虚飾としか目にうつらないというわけだった。
皇城にたちこめる瑞雲も、皇室と国民との間をさえぎる妖雲とかわるというわけだった。
民のかまどの衰えの上に、皇室の繁栄はありえない。
尊皇とは同時に民のかまどをにぎわすことである。
かつて、民のかまどのにぎわいのために、その障害となる最大拠点を打倒すべく、
皇城に牙をむけた共産党有力メンバーは一転して、
現実にみるものとはちがった。
宮垣の壊れ、殿屋の破れを瞼のうらにうつして、南朝の悲歌を昭和の代に詠うのだった。
しかり、『 皇魂 』 は 悲歌調だった。
しかし、そのなかから、一人も飢えこごゆれば顧ておのれを責めた、いにしえのひじりのきみの大御心を今に体して、
妖雲を打ち払う革新の情熱を噴騰させようとしたのである。
村中孝次の遺詠の一句
「 尊皇義軍一千兵  欲除奸害払妖雲 」 ・・< 註 1 >
が それである。

私が麹町元園町の中村義明の家にいったのは、夜もかなり更けたころだった。
もう皆は、たわいもなく酒に酔っていた。
それでも除夜の鐘の鳴るのを聞くと、澁川はすっくと立ちあがり、
青年たちと明治新宮に初詣でを約束してあるからといって出ていった。
残ったものは依然、狭い部屋で歌を歌ったり、悪たれをついたりして、惰性のように酒をくみかわしていた。
酔いの遅れた私は、この雰囲気に容易に溶けこめなかった。
どれほど時間がたったかわからなかったが、
意外に早く 澁川が帰ってきて、いただいてきた明治神宮のお札を皆にくばった。

夜の白々と明けそめたころ、私は澁川と中村義明の家を出て、西田税の家へ向かった。
酒いきれ、人いきいれのなかから出ただけに、睡眠不足ながら、元旦黎明れいめいの寒気がかえってさわやかに感じられた。
二・二六事件のあった昭和十一年の元旦はこうして明けた。

昨年の元旦は、相澤中佐、大岸大尉と一緒に、仙台の宿で迎えたのだった。
年越しのそばを相澤中佐と二人で、行きずりのそば屋で食べたとき、
相澤中佐は、
「 末松さんと一緒に年越しそばを食べるのだから、来年はいい年だぞ 」
と 目を細めてたのしそうにいったが、
その人はこのとき 未決の獄に、ひとり端坐して元旦を迎えていたことだろう。
末松太平 著
 私の昭和史 から
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< 註 1 >
尊皇義軍一千兵  欲除奸害拂妖雲
雪霏々降白旗揺  願神州從是維新
村中孝次の絶筆
・・・香田清貞大尉の奥さんの手料理のチキンライスはうまかった ・・参照


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