一體裁判官は何を基ソとして公判の訊問をするのだ。
吾々に對する豫審はズサン極まるものである、
特に余の豫審の如きは未だ要點を陳べてゐない 又 事實と相違せる點も多々ある。
此くの如き豫審調書を基ソとして公判を開くとは亂暴ではないか。
特ニ吾々が遺憾に考へてゐるのは、
吾等は三月一日發表(宮内省)によつて大命に抗し賊名をおびてゐる、
この賊名をおびたまゝでは公判庭で如何に名論雄弁に陳述した所で一切は空である。
ドロボウが仁義道徳をとく様なものだ、だから先づ國賊の汚名をとつてもらいたい、
國賊であるか否かを重點としてもう一度ヨク豫審でしらべてもらひたい、
この重大事件を裁くのに國賊であるか否か 義軍なりや否やの調べは全く豫審に於てせずに、
國賊なりとの斷定の下に、國賊即反徒 反亂罪と云ふ斷定のもとに公判を開くと云ふことは奇怪至極である。
斯の如き公判庭に於て 余は訊問に答へるわけにゆかぬ。
暗黒裁判
幕僚の謀略 3
磯部淺一の闘爭
『 余は初めからケンカのつもりで出た 』
目次
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1 奉勅命令について
如何なるイキサツがあるにせよ 下達すべきをしなかつたことだけは動かせぬことだ。
下達されざる勅命に抗するも何もない、吾人は断じて抗してゐない。
したがつて 三月一日の大命に抗し云云の免官理由は意味をなさぬ。
又二月廿九日飛行キによつて散布シタ國賊云々の宣傳文は不届キ至極である。
吾人は既に蹶起の主旨に於て義軍であり ( このことは大臣告示に於ても明かに認めている )
大臣告示戒嚴群編入によつて義軍なることは軍上層さえ認めてゐる。
勅命には抗してゐない、
だから決して賊軍などと云はる可き理由はない。
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・・・挿入・・・
「 奉勅命令ハ誰モ受領シアラズ 」 ・・・香田淸貞
「 山下奉文等、將に下達ノ時機切迫スト。一同ヲ集メ切腹セシメントス。
一同下達サルヽマデヤル覺悟、遂ニ下達サレズ、外部々隊包囲急ナリ 」 ・・・ 林八郎
「 奉勅命令ハ傳達サレアラズ 」 ・・・安藤輝三
いずれも奉勅命令は伝達されなかったと遺書している。
だが軍當局は彼らが奉勅命令にしたがわなかったとして逆賊とした。
「 軍幕僚竝ニ重臣ハ吾人ノ純眞純忠ヲ蹂躙シテ權謀術策ヲ以テ逆賊トナセリ 」 ・・・香田淸貞
「 當時大命ニ抗セリトノ理由ノモトニ即時、吾人ヲ免官トシテ逆徒トヨベルハ、
勅命ニ抗セザルコト明瞭ナル今日ニ於テ如何ニスルノカ 」 ・・・安藤輝三
忠誠心にこりかたまっていた彼らの悲憤、今日においてなお私たちの胸に迫るものがある。
彼らははたして「奉勅命令」そのものをどのように受けとったのであろうか。
「 奉勅命令ニ從ワナカツタトイウコトデ、私ドモノギョウ動を逆賊ノ行爲デアルノヨウニサレマシタコトハ、
事志ト全ク違イ忠魂ヲ抱イテ奮起シタ多數ノ同志ニ對シ寔ニ申シ譯ナイ次第デアリマス。
シカシ 私ドモハカツテ奉勅命令ニマデ逆オウトシタ意思ハ毛頭ナク
最後ハ奉勅命令ヲイタダイテ現位置ヲ撤退サセルトイウ戒嚴司令官ノ意圖デアルコトヲ知ツテ、
ソンナ事ニナラヌヨウニ、ソンナ奉勅命令ヲお下シニナラヌヨウニト、
色々折衝シタダケデアリマシテ、決シテ逆賊ニナツテマデ奉勅命令ニ逆ウヨウナ意思ハ毛頭アリマセンデシタ。
事實、今日ニ至ルマデイカナル奉勅命令ガ下サレタノカ、ソノ命令内容ニ關シテハ全然知ラナイノデアリマス」
・・・村中孝次調書
奉勅命令で撤退せしめられるという意圖を知って、これが下達されないように工作したというのである。
奉勅命令がでれば、万事休すである。これは絶対だからだ。
それ故に、逆賊になってまで奉勅命令に逆う意思は毛頭なかったと、首謀者村中は言うのである。
「 奉勅命令ハ命令系統カラハ全然聞イテオリマセン。
タダ、二十八日夜ニ歩三聯隊長ガ幸楽ニ來テクレマシテ、
奉勅命令ガ下ツタトイウコトノ話ハアリマシタカラ、ソノ後小藤部隊長ノ命令ヲ持ツテオリマシタガ、
何ノ命令モナク、周囲ノ部隊ガ攻撃シテ來マスノデ、ドウスルコトモ出來ズ、
山王ホテルニ立チコモッテオリマシタヨウナ次第デ、
奉勅命令ニ抗スルトイウヨウナ氣持ハ毛頭ナク、
マタ事實、小藤部隊ノ指揮ニ入ツテオリマシタノデ、
奉勅命令ニ從ワナカツタトイウコトハナイト信ジマス」 ・・・安藤輝三調書
・・・ 「 奉勅命令ハ伝達サレアラズ 」
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2 大臣告示に就いて
どこに一語でも説得の文句があるか。
吾々をよく云って居る所ばかりではないか、
參議官一同は恐クし、
各閣僚も今後ヒキョウの誠を致すと云ってゐるではないか。
吾々は明かに大臣によつて認められた。
而も吾々の要求した所の行動を認めるか否かと云ふ点については、
明かに行動を認めると云ふ印刷物が部隊の將校の方へ配布された。
・
所が大臣告示が変化した。
吾々が二十九日収容されると同時に変化し出した、
先づ最初に告示は陸軍として出したものではないと云ふことを云ひだした。
そして曰く、
あれは陸軍大臣個人として出したのだとつけ加へた。
そんな馬鹿な話があるか 大臣告示と銘打って出したものが 陸軍として出したものでないとか、
川島個人のものだとか云ふ理クツがどこにあるか、
豫審廷でサンザン同志によつて突込まれたあげくの果て、
弱って今度は大臣告示は軍事參議官の説得案だと云ひ出した。
どこ迄も逃げをはるのだ。
そんな馬鹿な話しがあるか、
あの文面のどこに説得の意があるか、
行動を認むとさへ記した印刷物を配布した位ひではないか、
行動を認める説得と云ふものがあるか、
吾人は放火殺人をしてゐるのだ、
その行動を認めると云ふのだ、
祖の行動を認めて尚どこを説得すると云ふのだ、
行動を認めると云ふことは全部を認めると云ふことではないか、
全部を認めたらどこにも説得の部分は残らぬではないか、
宮中に於て行動を認めると云ふ文句の行動を眞意に訂正したと云ふのだ、
ところが訂正しない前に香椎司令官は狂喜して電ワをしたと云ふ、
此処か面白い所だ、
即ち、最初はたしかに全參議官が行動を認めたので吾人はそれだけでいゝのだ、
あとで如何に訂正しようとそんな事は問題にならん、
吾人の放火、殺人、の行動を第一番に、最初に軍の長老が認めたのだ、
吾人の行動直後に於て認めたのだ、
第一印象は常に正しい、
軍の長老連の第一印象は吾人の行動を正義と認めた、それだけでいゝではないか、
軍事參議官が先頭第一にチュウチョせずに認めたと云ふ事實はもうどうにも動かせぬではないか、
3 戒嚴軍隊に編入されたること
二月廿七日 吾人は戒嚴軍隊に編入され
午前中早くも第一師戒命によつて 麹町警備隊となり 小藤大佐の指揮下に入った。
・・・命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戦時警備部隊トシテ警備ニ任ズ 」
戒嚴は 天皇の宣告されるものだ。
その軍隊に編入されたと云ふことは 御上が義軍の義擧を許された、
御認めになつたと云ふことだ、それは明伯だ。
・
吾人は奉勅命令に抗してはゐない
故に賊と云はゝる筈なし
吾人の行動精神は 蹶起直後 陸軍首脳部によつて認められ大臣告示を得た。
続いて戒嚴軍隊に編入されて戒嚴命令により警備に任じた、
以上の事を考へみたならは吾人が反軍でない事は明かである。
反亂罪にとはるゝ筈はないのだ。
然るに軍部は氣が狂ったのか、大臣告示は説得案と云ひ、
戒嚴軍隊に入れて警備命令を発し警備をさせた事は謀略だと云って
無二無三に吾々を反亂罪にかけてしまつた。
4 豫審について
豫審官は決して正しい調へをしようとしなかつた。
自分の考へてゐることに 余を引き入れて 豫審調書を作成しようとした態度がありありと見えた。
それで余はコレデハタマラヌと考へたので、
「 一體吾々は義軍であるか否か 即ち吾人の行爲は認められたか否かと云ふことを調査せずに
徒らに行動事實をしらべて何になるか。
吾人は反軍ではない反亂罪にとはるゝ道理はないのに、反亂罪の調査ばかりすると云ふのは以ての外だ 」
との意をのべたら豫審官は
「 君等の行爲は軍中央部に認められる以前に於て反亂だ 」
と 極く簡短に答へて シキリに行動事實だけを調べようとするのであつた。
[ 註 君等の行動ハ軍中央部ニ認メラルヽ前ニ於テ既ニ叛亂ダト云ケレドモ
ソレ程明瞭ナル反軍ニナゼアノ如き大臣告示ヲ出シタカ
又戒嚴軍ニ入レ警備ヲ命ジタカト云フコトハ公判ニ於テ陳述セリ ]・・・欄外記入
5 公判について
村、安、余、栗等はコソコソと公判の對策を打ち合せした。
流石に同志はえらい 皆期せずして一致していた。
1、奉勅命令の下達サレザルコトヲ主張スルコト
大命に抗シタルニ非ずと云ふことを第一に主張スルコト
2、大臣告示を受けたことを主張シ行動を認められたる旨を充分に陳ベルコト
3、戒嚴軍に編入し警備命令をうけて守備をした事を主張スルコト
要点は右の三条であった。
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・・・挿入・・・
「 いよいよ法廷に立ったときは、
すっかり達観して死を待って居るかの如く至極簡單に淡々と陳述する者もありますし、
せめて裁判官にでも昭和維新の理念をたたきこんでやろうとするかの如く熱烈に陳述する者もあり、
神がかり的にその信念を縷々と述べる者もありました。
又 多少行き過ぎを自認した發言をする者も二、三ありました。
非公開なのは彼等の心残りであったのでしょう。
・・中略 ・・
彼等は政財界、重臣の腐敗、幕僚ファッショを衝きます。
それを調べずして裁判は出来ないと主張します。
・・中略 ・・
私達も暗黙の裡に、彼等の指摘する情勢については憂を同じくするところもありましたが 」
・・当時、特設軍法会議の半士・間野俊夫 ( 陸士33期、当時陸軍歩兵大尉 )
「 私は判士の一番末席にいて あまり被告とやり合った事はないが、
被告から陸軍大臣告示や警備部隊編入のことを突かれると、判士は ぐっと詰る。
被告の言うことが眞実なのだ。
しかし、それを認めるとなると陸軍の上層部はみな叛乱罪か、叛乱に利す ということになり、
陸軍は大混乱になり、統制系統は崩壊の危機に立ち去る。
まあ、それを防ぐために必死になってやり合ったわけだ。
実際はあの時 上層部の二、三名が自決して責任をとっておれば 事態はもっと変ったであろうが、
無責任な将軍たちばかりだった。
この無責任な體質がついに陸軍をして大東亜戦争にまで暴走させてしまったのだ 」
・・当時、特設軍法会議の補助判士であった河辺忠三郎 談
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原因、動キ、思想、信念等は抜きにして事実シン理に入るのだ 暴も甚しい。
余は休ケイ時間に村兄に耳うちして
「 事實の陳述をやめて原因動キをのべる事を主とされよ、
而して 彼の公判即決主義を打破せよ 公判はユツクリと充分に陳述せざれば不可である。
裁判官の云ふとほりにするとヒドイ目にアフゾ
彼等は公判を短時日にやつて少数者の極刑主義をとるのだから吾人はソノ裏をかくを要する。
成る可く彼等のキキタガル行動事實の陳述をアトニして
原因、動キ、思想信念を永々とのべ公判日時のセン延をハカル事、
又 少數者の極刑主義をとるにちがひないから 吾人は多數を処刑セネハナラヌ様にスルコト
ソシテ遂ニハ手ガツケラレナイ程ニ拡ゲテユクコト
コレガ爲メニハドウシテモ先ヅ第一ニ日時ノ遷延をハカラネバイケナイ
ソシテ村兄は先頭第一の訊問ダカラ敵の情況ヲモ偵察シツヽ陳述シテホシイ、
尚同志教育ま必要モアルカラ成ル可くクワシク ユツクリと陳述シテホシイ
同志教育ト云フノハ國家内外の客観情勢を同志によく知らして腹ゴシラヘをさせるのだ 」
との 意をのべた。 村兄 余の意見をとり陳述をス。
・
余は村兄に維新の意義 革命の哲学を説けと云ひて次の意見を具申す。
「 維新とは大義を明かにすることだ。
日本的革命の哲学は皇権の奪取奉還である。
即ち兵馬大權が元老重臣軍閥等によつて侵されてゐるのを
大義にめざめたる文武の忠臣良ヒツが奪取奉還する事を維新と云ふのだ。
政治大權が政ト財バツによつて侵されたるを、
自覚國民 自主(民主)國民が奪取奉還することを維新と云ふのだ。
この点を説明してやらぬと裁官は全くワカラヌラシイ
特に 統帥權の干犯者を斬って皇權を奪取奉還せる義軍事件の中心精神を説かれよ、」 と
村兄余の意見をとり 堂々の論を吐く。
・
余は初めからケンカのつもりで出た。
年齢 出生地等型の如き訊問をおわりたるのち裁判官に質問と称して
「 一體裁判官は何を基ソとして公判の訊問をするのだ、
吾々に對する豫審はズサン極まるものである、
特に余の豫審の如きは未だ要点を陳べてゐない 又 事實と相違せる点も多々ある、
此くの如き豫審調書を基ソとして公判を開くとは乱暴ではないか、
特ニ吾々が遺憾に考へてゐるのは
吾等は三月一日発表(宮内省)によつて大命に抗し賊名をおびてゐる、
この賊名をおびたまゝでは公判庭で如何に名論雄弁に陳述した所で一切は空である、
ドロボウが仁義道徳をとく様なものだ、だから先づ國賊の汚名をとつてもらいたい、
國賊であるか否かを重点としてもう一度ヨク予審でしらべてもらひたい、
この重大事件を裁くのに國賊であるか否か 義軍なりや否やの調べは全く豫審に於てせずに
國賊なりとの斷定の下に、國賊即反徒 反乱罪と云ふ斷定のもとに公判を開くと云ふことは奇怪至極である
斯の如き公判庭に於て 余は訊問に答へるわけにゆかぬ 」
と 陳べた、
所が裁判官も一寸ヘドモドした様子であつたが
無礼なる藤井は
「 然らば公判を受けぬと云ふのか 受けぬならこちらで推理決定す 」 と 云ふ
コレヲキヽ 余は云ふ可きを知らない。
すべてが制圧的である。
彼等の規定の方針に従へようとして訊問をする、純然たる反徒としての取り調べ振りである。
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・・・挿入 ・・・
憲兵報告・公判狀況 3
午後四時二十五分再開ノ際、
村中ハ健康上ノ都合ニ依リ休憩ヲ申出デタル爲、
磯部淺一ノ訊問ニ移リタルガ、
磯部ハ潑剌タル元気ヲ以テ次ノ如ク檢察官ノ公訴事實ヲ反駁スルト共ニ、
裁判官ニ喰ツテカカリ、廷内ニ緊張ノ空気ヲ漂ハセタリ
(1) 檢察官ノ公訴事實ハ我々靑年將校ノ眞精神ヲ没却埋没シアリ。
即チ、我々蹶起ノ眞精神ハ全然公訴事實ニ現ハサレアラズ。
(2) 國憲ニ反抗セリトノ言葉ヲ使用シアルガ、我々ハ斷ジテ國憲ニ反抗シタルモノニアラズ。
國體破壊ノ元兇ヲ殪シタリトテ國憲反抗ト謂フベキニアラズ。
大臣官邸ニ宿營シタリトテ國憲反抗ニアラズ。
首相官邸ノ占據ヲ以テ國憲反抗トナスガ、國體破壊ノ元兇ヲ殪シテ其ノ儘其処ニ據リタリトテ、何ガ國憲反抗ナリヤ。
我々ハ國憲反抗ノ解釋ニ苦シムモノナリ。
(3) 奉勅命令ノ違反、之亦奉勅命令ノ發セラレタルコトヲ知ラザル者ニ違反ノ事實アル筈ナシ。
我々ハ決シテオ上ニ對シ奉リ 弓ヲ引ク者ニアラズ。
我々ヲ賊軍扱ニスルハ奇怪ナリ。
(4) 兵ハ將校ニダマサレテ出動シタリト云フモ、斷ジテダマシタル事實ナシ。
全ク志ヲ同ウスル者ノ團結ナルコトヲ斷言ス。
(5) 我々ガ小藤大佐ノ隷下ニ入リタルコト、續テ戒嚴部隊ニ編入セラレタルコトハ、 公訴事實ニ全然現ハサレアラズ。
以上五點ハ檢察官ノ公訴事實中承服出來ザル點ナリ。
茲ニ於テ判士長ニオ願ガアル。
斯カル公訴事實豫審ノ取調ヲ基礎トシテ取調ヲ受クレバ、反亂罪トシテ處斷セラルゝハ必然ナリ。
先ヅ 我々ガ義軍ナリヤ否ヤヲ明カニシテ、然ル後ニ取調ヲ進メラレ度シ。
ト 判士長ニ詰ヨリ、法務官ヲシテ答ヘシムトノ判士長ノ返答ニ依リ、 法務官トノ間ニ押問答アリ
結局、検察官ト裁判官トノ立場ノ異ルコトヲ諭サレテ承服ス
・・・ ・・ 第四回公判狀況 昭和11年5月4日
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6 求刑と判決
求刑
山本又、今泉を除き他は全部死刑
山本十五年、今泉七年
一同無言、
同志に話しかけられると、
何に 死はもとより平気だ
と云って 強ひて笑はんとするが その顔はゆがんでゐる。
こんな表情を余は生来始めて見た。
余も亦歪める笑をもらした、泣きたい様な怒りたい様な笑ひだ。
自分で自分の歪んだ表情、顔面の筋肉が不自然に動くのがわかつた、イヤナ気持ダ
無念ダ
シャクニサワル
が復讐のしようがない。
論告
は特に出タラ目ダ
民主革命を強行せんとしとあるに至っては一同慄然とした。
吾人の行動を民主革命と称するのだ。
國體を理解し得ない維新を解し得ぬ輩がよつて、たかつて吾人に泥をなすりつけるのだ。
世間では二、二六事件と呼んでいるが これは決して吾人のつけた事件名ではない。
又 吾人が満足している名称でもない。
五、一五とか二、二六とか云ふと何だか共産党の事件の様であるので 余は甚だしく二、二六の名称をいむものだ。
名称から享ける印象も決してばかにならぬから、余は豫審に於てもそれ以前の憲兵の取調べに於ても、
二、二六事件とは誰がつけたか知らぬが余等の用ひざる所なる旨を取調べ官に強調しておいた。
然らは余等は如何なる名称を欲するか と 云へは 義軍事件 と云ふ名称を欲する。
否 欲するではない、事件そのものが義軍の義挙なる故に義軍事件の名称が最もフサワシイのだ。
余は豫審公判に於ても常に義軍の名称を以て対した。
・・・二、二六事件等 変てコな名をつけた事は如何にも残念だ
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『 判決 』 (七月五日)
死刑十七名、
無期五名、
山本十年 今泉四年
斷然タル暴擧判決だ。
余は蹶起同志及全國同志に対してスマヌと云ふ気が強く差し込んで来て食事がとれなくなつた。
特に安ドに対しては誠にすまぬ。
余の一言によつて安は決心しあれだけの大部隊を出したのだ。
安は余に云へり
「 磯部 貴様の一言によつて聯隊を全部出したのだ 下士官、兵を可愛そうだと思ってくれ 」 と
余はこの言が耳朶にのこりてはなれない。
西田氏北先生にもすまぬ
他の同志すべてにすまぬ
余が余の観察のみを以てハヤリすぎた為めに
多くの同志をムザムザと殺さねはならなくなつたのは重々余の罪だと考へると 夜昼苦痛で居たゝまらなかつた。
余は只管に祈りを捧げた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入 ・・・
磯部の遺書の中に 「 特に航空兵大尉の態度最も悪し 」
と 攻撃されている河辺忠三郎は、言う。
「 当時私は間野さんと同じく大尉であったが、下志津の陸軍航空学校の教官をしていた。
元来私は軍人は政治にかかわるべきでないと信じていたから、 決起将校には同情的ではなかった。
軍の統帥をふみにじった怪しからん奴だと憤慨していた。
ところが 軍法法廷で、彼等の陳述を聞いているうちに しだいに彼等に同情するようになった。
國家の腐敗、混乱を見るに忍びず、自らの家庭や生命を犠牲にして國家を建て直そうという 純粋な精神に感動したのだ。
まあ 生命を捨ててかかっている連中は鞏いのだ。
気魄が違う。
中央の幕僚たちがなんとか責任を免れよう、 履歴に傷がついて出世の妨げにならんように
と保身に汲々たる連中とは、天地の開きがある。
やった行爲は誰がみても許せない事だが、蹶起する動機の純粋さに判士たちはみな感激した。
彼等は他日 ( 何十年か後には ) みな 神に祭られる人々だ。
銃殺でなく、昔の武士の切腹のように名誉ある死を賜るようにすべきではないかと説く人もいた。
賛成する人も多かったが、陸軍刑法の定めは動かすことはできん。
ついに銃殺に決まった 」
「 間野さんは 彼等の目は輝いて 『 後を頼む 』 と 言っているように、私は思えました、
と書いているが、 實際に死刑の判決をうけた被告が、無期の判決をうけた者の傍にかけよって
『 おめでとう 、おめでとう 』 と言って慰めていた。
無期の連中は しょんぼり うなだれていた事は はっきり覚えている。
死に遅れて すまない という気持があったのではあるまいか 」
・・・須山幸雄著 二・二六事件 青春群像から
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同志は實に偉大だ 特に若い同志に偉大な人物が多い
安田の如きは熱叫 軍の態度を攻撃した。
彼の最後の一言
「 軍は自ら墓穴を掘れり 」
は 昭和維新を語る後世の徒の銘記すべき名言と云はねばならぬ。
安田はサイトに第一彈をアビセ 渡邊をオソヒ 一人二敵をタホシタル勇豪の同志、
剣に於ける彼の勇は言論にも勇であつた。
余は 彼の言をきゝ 余の云ひたきことを全部云ひツクシテ呉れたるを深謝した。
全同志等シク 兵教育ニヨツテ國家改造の必要を痛感せるを陳べ、
ソノ兵下士の家庭を思ひ、
窮乏國民の家庭を思ひ、
國家の前途を憂ふるの情誠に痛切なるものあり、
流石専横の裁官も謹聴せざるを得ざる状況があつたのはイサヽカの喜びであつた。