« 青山三丁目のアジト »
中橋 (基明) さんのマントの裏は真っ赤でしたね。
元気のいい優しい人でした。
安藤さんは
『 おばさん、いつもお世話になります 』
と いつては、
私の好きなものをよく持ってきてくれました・・・
・
あの日はちょうど・・・そうです、
昭和八年十二月二十三日でした。
全国民の待ちに待った皇太子さまのご誕生になったときでした。
私は号砲の音をきくと、
すぐ二階に寝ていた磯部さんにそのことを知らせました。
磯部さんはガバッと起き上り
『 そうか 』
と ひとこといってそのまま井戸端に行き、
斎戒沐浴して
二階の床の間に向ってしばらくひれ伏しました。
私は磯部さんの芝居じみた奇矯な態度
――私の目にはそううつりました――
に驚きの目をみはって、
後ろに立ってあきれてじっとみていました。
いまでもはっきり覚えています
・
こんなこともありました。
西田さんがひょっこりやってきて
『 今度の日曜日、士官候補生が五、六名きますから、うんとご馳走してやって下さい。
私が金を出したことはいっさいいわんこと 』
と いって
お金をおいていったことが、ちょいちょいありました
士官候補生といえば
陸士四十五期生の明石寛二、市川芳男、鶴田靜三、黒田武文、
四十六期生の荒川嘉彰、次木一
らであったろう
・
村中さんは、小さなお方でした。
よく和服でおみえになっていたことを覚えています。
・
刑死されたこの人たちのお墓に、
どうしても、死ぬ前に一度お詣りしたいと思っていました
昭和四十三年四月
アジトの留守居役をしてくれていた
土屋敏さんの談である
西田税の家は、梁山泊の感があった。
この 西田梁山泊 ( 有志の巣窟 / 集りし處 )
が かえって革新運動にマイナスとなるおそれがある。
といった考慮から、
昭和八年春ごろ青山三丁目に一軒の家を借りた。
左翼流にいえばアジトである。
この家は翌年の 『十一月二十日事件』 が起るまで大いに利用したのであるが、
約一か年半の間のアジト的存在は、
この事件とともに閉鎖するのやむなきに至った。
大蔵栄一 著
二・二六事件への挽歌
高まりゆく鳴動 から